2005年08月

2005年08月29日

美術展へーアキノイサム展

 滋賀は水口の浄土宗の名刹大徳寺で、「アキノオサム 旅の絵巻物展」が開かれていた。

 アキノイサムとはどんな人なのか分からないままに、家人に連れられて出かける。

 大徳寺は家康ゆかりのお寺で、その関係で寺紋も「立て三つ葉葵」である。

 さて本堂横の大きな仏間一面に長大な巻物九巻ほどが拡げられてある。それにしても長い、20mはあろう

か。

 ここ30年来、ネパールに住み、カナダに住み、そしてインドやフィンランドに旅行し、それぞれの地で感

じた印象を、それこそ線描きで塗描きで、具象・抽象こき混ぜて、まことに各種各様、混沌の中の豊穣とい

うのだろうか。ただ以外とあっさりさらっとしている。楽しいものを見せてもらった。

 ところで、これを書くにあたって、アキノイサムとはどんなひとなのかと検索してみると、何と、アキノ

と仮名であったので分からなかったのだが、あの秋野不矩のお子さんーといってもう70歳になられるがーで

あったのだ。蛙の子は蛙である。しかしお母さんが偉大な画家であり、自身もその道に進んだとき、母親の

重圧はいかばかりのものであったろうか。それゆえか日本から離れ、ネパールやカナダに何年も住まわれた

のであろう。

 いま彼は、絵本画家として良く知られている。かって世界絵本原画展で金牌を得たという。国立民族学博

物館で行われたアフリカ展示のときの「西アフリカのお話」もよく知られている。

 作者もお寺にこられていた。白碩の顔の長い老人であった。

 この巻物、当然売り物ではないであろうし、常設の展示もされてないと思うと、これを見ることが出来た

のは、またとない機会に出逢ったということである。まことに有り難い。

 この展示会は、(財)滋賀県文化振興事業財団の主催である。ここは先に報告した「大道あや展」をも主

催している。非営利の組織として良い仕事をしていると思う。

yamaharasakura at 11:25|PermalinkComments(0)TrackBack(0)美術館 

2005年08月27日

美術館へー滋賀県立近代美術館

 滋賀県立近代美術館で、「黒田重太郎展」が開かれている。私は残念ながらこの‘黒田重太郎’のことを知ら

なかったのだが、鍋井克之や須田国太郎らとつながりの深い、関西画壇で活躍した人である。死後初めての

大きな回顧展ということで出かけることにした。

 やく140点の作品は、初期から晩期に至る生涯の代表作が集められている。滋賀の後、佐倉市立美術館で

も展覧される。

 さて黒田重太郎は、大津で生まれ、京都で洋画を学び、特に浅井忠を師と仰いだという。後、彼は後進の

指導にも熱心で、洋画研究所設立に関わり、また長く京都市立芸術大学で教鞭をとった。また絵を描くだけ

でなく、洋画の歴史やその技法、また関西画壇の発展など多くの著作を遺している。

 作品を見ていこう。初期の作品は師の影とともに初々しい香りが漂っている。近江に足を伸ばした風景画

がある。優れた写生力とともに、水彩の色がなお鮮やかに残り、保存状態がよい。中に「江州北舟木にて」と

いうのがあり、私の住む近江八幡の90年前の姿が描かれていた。

 第一回目の渡欧では、印象派やエコールドパリを学び、セザンヌ風の風景やヌードが遺されている。しか

し日本に帰ってくると、やはり日本の色が出てくる。その中でも「母子像」は出色と思う。これはひょっと

して‘聖母子’を念頭に置いて描かれたものかもしれない。

 二度目の渡欧では、当時流行のキュビズムを学ぶ。幾何学的に画面構成された風景・人物・ヌードが生ま

れている。

 しかししばらくすると、やはり重太郎独自の世界を求めての試行が続く。その中で、代表作とされる、夫

婦と男の子の三人を描いた「閑庭惜春」が生まれる。私にとっては、何か生々しい人物が飛び出してくるよ

うで、ちょとなじめない。それよりも私が注目するのは、静物画である。「高麗雉」での散りばめられた色

が心地よい。また果物や花も私はいいと思う。「朱卓の牡丹」が目につく。生々しいヌードに違和感を持つ

し、風景も描き過ぎのような気がする。

 大きな影響を遺した人にしては忘れられていた感があるが、これを機会に再評価されるのではなかろうか。

 
番外

 平常展ではおなじみ小倉遊亀コーナーと、滋賀にゆかりの画家たちの部屋が設けられてある。

 そこにはすごい作品が並んでいる。北野恒富、富田渓仙、山元春挙、幸野楳嶺、中村岳陵、前田青邨、

伊東深水、小林古径、橋本雅邦、沢宏靱、三橋節子の作品群である。

恒富では代表的な「鏡の前」「暖か」が、そして最も面白かったのは、渓仙の「列仙」である。仙人が巧ま

ざる筆致でユウユウと遊んでいる。漢文の跋文が一部わかったのが収穫。

ひょっとすると、特別展よりこの平常展のほうが刺激的かもしれない。

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2005年08月26日

美術館へー上方浮世絵館

 上方浮世絵館に行く。大阪難波の繁華街のど真ん中、法善寺のすぐ西の小さなビルにある。こんな所に美

術館があるのは驚きである。喧噪で猥雑な雰囲気のなかに、突然静かな空間が出現する。維持が大変だろう

と他人事ながら心配になる。

 さて上方浮世絵というのはあまり聞いたことはない。浮世絵といえば、春信から歌麿、写楽、北斎、広重

につながる江戸のものと思ってしまいがちであるが、どうもそうではないらしい。ちょっと考えれば、もと

もと上方は印刷文化の盛んな所であったのだ。ないはずはない。しかしあまり注目されなかったのだ。残念

ながら日本よりも外国で研究が始まったという。それが今なんとか生まれた地で見れるようになっている。

 上方浮世絵の大半は歌舞伎の役者絵である。ということは、上方での歌舞伎はかって大変盛んであったこ

とのあかしである。江戸時代からの歓楽街であったこの難波の地には、浪速五座ー弁天座、朝日座、中座、

角座、竹本座(浪速座)の大劇場があり、その他に浜芝居という小屋がたくさんあったという。さらにさか

のぼれば、初期中期の歌舞伎を支えた作者の近松門左衛門もこの地の人である。

 それが今、多くの娯楽が提供される中、上方歌舞伎の存在が小さくなっている。この狭い日本で、上方や

江戸と張りやってみても仕方がないが、関西での上演が減り、上方らしい演目、上方らしい演技がなくなり

つつある。中村鴈治郎の近松座の公演活動、片岡秀太郎の関西歌舞伎の後継者育成など行われているけれ

ど、なお存亡の危機の立っているといってもいいかもしれない。

 かって盛んであった頃の役者絵がこの浮世絵館で見ることが出来る。小さい美術館なので三十枚ほどの絵

が展示されるだけで、時期ごとに展示かえがなされるらしい。

 今回は、1820年代のものが中心である。最も多く取り上げられているのは、三世中村歌右衛門である。

我々は歌右衛門といえば江戸の役者と思ってしまうが、上方で活躍した人なのだ。もちろん江戸にも下って

いるが。

 片岡仁左衛門、嵐富三郎などなど、中村芝翫、中村翫雀、坂東三津五郎もいる。

 4階には、現代に復刻された役者絵(仁左衛門)が、その版木、刷りの道具ともども展示されている。

 残念ながら、歌舞伎の知識がないもので十分に鑑賞できなかった。

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2005年08月24日

美術展へー大丸ミュージアム京都

 京都の大丸百貨店のミュージアムで、オランダの絵本「ミッフィー」展が開かれている。今年が当初の出版か

ら50年目にあたるということで、作者ディック・ブルーナさんのアトリエをも再現した特別展である。

 いまブルーナさんの絵本は全世界で8500万部も翻訳出版されているという。どこにその魅力があるのだろうか。

 まずミッフィーの姿は、まことに単純明快である。◯と△とロで構成されている。色は最初4色であった

が、2色加わって6色になった。さらにその色も、色紙を切って貼り付けたもので、色の変化はない。これだ

けでは何か固い。そこでその輪郭線は少し凹凸のある紙に書かれ、それを少し拡大複写すると、その輪郭線

に軽く凹凸が出来る。それが何とも柔らかい優しい感触を生み出す。

 これ以上削りようのない姿形になり、動きもパターン化される。そのために、こちらから話しかけること

が出来る、想像力を働かせることが出来る、画面の中に入っていける。見る人の立場を限定しないため、ど

んな言葉でも読み込むことが出来る。世界中で読まれる所以であろう。

 ところで、映画や映像は具体的視覚イメージを提供する。それが製作者、監督のメッセージである。一方

文字は、読む人が自らそのイメージを紡ぎださねばならない。読む人によっていろんな読み方が出来る。

 ということは最初のミッフィが単純化されていくなかで、それはいってみれば文字化されていったといえ

なくもない。

 だからこの展覧会でミッフィの絵の成り立ちや、ポスターを見ているだけでは全く面白くない。これは絵

と文章をともに味わって、その世界に入り込まねばならないわけである。

 絵うんぬんでなく、えらく考えさせられた。

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2005年08月22日

美術館へー水口文化芸術会館

 大道あやという画家の展示会が、ここ滋賀で巡回中である.いまは、県立の水口文化芸術会館に来てい

る。

 そのチラシの絵を見て、何となく引かれるものがり、出かけてみることにした。

 入口に今回の展示の説明がしてある。大道あやという人がどんな人なのか。もう90歳を超えてなお存命な

のだが、なんとあの丸木位里の実の妹さんなのである。やはり無からは何も生まれないのかもしれない。た

だし彼女は、兄が大きな画家になったとはいえ、絵とはほとんど関係なく暮らしていたのである。

 それが波瀾万丈の生活のなかで、息子の大けが、夫の事故死に続けて遭い、生きる望みを失いかけたと

き、絵を描くことを進めてくれた人があり、絵筆をとることになる。このとき60歳。ただ彼女の母親も、晩

年に絵を描くことに親しんでいたという。

 絵を描き始めると、凝り性なのであろう、一気にその世界に入り込むことになる。もちろん、絵を描く訓

練は受けていないので、うまい絵ではない.まことに素朴な味わいのものである。1mを超える大きな画面

にも取り組んでいく。老後の手慰みというものではない、本当の画家になってしまったのである。

 初期の1770年頃のものはやはりなお稚拙さを遺しているやにみえるが、一瞬にして本格的な技術を身につ

ける。兄の位里里も認めることとなり、公募展に応募すると、1970年に女流展に、翌年には院展にも入選す

ることとなる。

 素朴で優しい絵が注目され、絵本の制作にも携わるようになる。「あたごの浦」、「けとばしやまのいば

りんぼ」「こえどまつり」などが作られた。この印税でヨーロッパ旅行にも出かけることができた。

 私の見る所、1980年頃(70歳過)の作品が一番充実しているようで、「軍鶏」「収穫」「海に咲く花」

など見応えがある。

 これらの展示作品はすべて本人所蔵のものである。絵を描くことと、これを売ることが別のことと考えら

れていたようにみえる。

 近年には、それまで自ら封印して来た原爆体験を画文にしてまとめたものが上梓された。現実を目の当た

りにした人の生々しい画面である.ただ爆心地の風景は薄暗い色で塗りたくってあり、描けなかったとい

う。

 以上なかなか見れない人・絵画に接することができた。

 なお彼女の一代記「へくそ花も花盛り」(福音館文庫ー¥850)が売られていたので購入.これには小さ

いながらも代表作品が載せられてある。


追記

 いま公立の美術館・博物館もその経営に苦労しているという。効率主義が闊歩しているなか、入場者の減

少で事業費人件費の削減が叫ばれ、新しい作品の購入もままならない。作品の修理費も寄付に頼らざるを得

ないところもある。しかしこれでもよいほうかもしれない。私立の公的補助を受けていない所では、休館す

るところもでているという。作品のなかには、貴重な人類の遺産ではあるが、人々の眉目を引かない地味な

ものも沢山あるはずである.これらが今見捨てられようとしている。

 今回の大道あやさんの作品も大きな美術館に入っているわけではない、下手をすると世間から埋もれてし

まうおそれがある。もう私の生きているうちに、これらの作品に再び巡り会うことはないかもしれない。

 文化を育て発展させていく為には、社会全体の大きな余裕がなければありえない。効率の全面に出る社会

が豊かな未来を育むとは考えられないのだが、如何。

yamaharasakura at 17:29|PermalinkComments(0)TrackBack(0)美術館 

2005年08月19日

美術館へー神戸市立小磯記念美術館

 神戸の小磯美術館で、イギリスの王立園芸協会(RHS)創立200周年記念として、500年の大系「植物画世

界の至宝展」が開かれている。

 廣田友重・八重子夫妻と私ども夫婦の4人で出かける。

 阪神電鉄魚崎駅から六甲ライナーでアイランド北口駅へ、その駅の隣が美術館である。

 まず展示室1で、この美術館の主たる小磯良平の絵を見る。初期から後期までの、油絵・デッサンで約40

点弱ある。彼は東京美術学校在学中に、帝国美術院展覧会で特等に入ったほどの才能に恵まれていた。そし

て型どうりヨーロッパ留学、古典から近代の絵を学んで帰る。

 さまざまな技法が試されているが、全体を通して感じることは「光」の画家であるということではない

か。淡い透明感のある光が横溢している。彼の使っていたアトリエが移築再現され観覧できるようになって

いるが、画室の一面の上部全体が窓になっており、そこから豊かな光が入るようになっている。これで光を

捉えていたのである。

 一方さまざまな西洋画家の影響が見られるようである。セザンヌ、キュビズム、さらにはデュフィーの軽

快さをも受け入れたのではないかとも思われる。

 第2・3室が今回の特別展会場である。先に東京藝術大学大学美術館であり、次には福岡会場がまってい

る。この特別展が小磯記念美術館で開かれたのは、小磯良平が一方で写生の名手で、武田薬品の社誌の表紙

のために十数年にわたって薬用植物の絵を提供して、植物画には浅からぬ因縁があるからである。

 さて西洋の植物画の源流も、東洋と同じく本草から出発したものである。西洋はさらにイスラム文化から

これを受け入れたのである。それが薬草を探すにも、その植物の正確な情報が知られねばならないというこ

とで、16C.には図鑑形式のものが登場している。その最初期の名高いレオンハルト・フックスが出ている。

この頃にはすでに、花・茎・葉だけでなく、根・子房や種子といった今日の学問的な植物画の要素が出揃っ

ている。

 そしてカウエンホールンのチュウリップの写生がくる。オランダでのチュウリップバブルの際中の絵で、

異常な投機の対象となったモザイク病に罹った花があり、悲しむべき証拠となっている。バブルはあっとい

う間にはじけ去った。しかし、チュウリップへの愛好は失われず、今日に続いている。

 18C.以降、大航海時代に入ってから世界中から集められた新奇な植物が、植物自体として研究や鑑賞の対

象として絵に定着されて楽しまれるようになる。

 そして人々との植物に対する関心の高まりは、絵の需要の増大を生み、手書きからたくさん複製できる石

版技術によって広く普及していく。植物画の確立である。

 やがてそれは、写真に取って代わられ、衰退を見ることになる。

 ところが、現代において、ボタニカルアートとして復活してくる。写真は一瞬を切り取ることは出来る、

しかしその本質をすべて表しているとは限らない。一瞬一瞬の積み重ねとしての姿を、高い技量で再現す

る。正確さと芸術性を兼ね備えた作品が誕生しているのである。

 特別出品として、小磯良平が描いた薬用植物画12点が出ていた(武田薬品工業蔵)。ボタニカルアートと

いう言葉が使われる以前の作品であるが、のびやかでゆったりしている。やはり日本画的要素を用いている

のか、線での輪郭とりがなされているのが多く、目になじむ。

 もう少し予備知識があれば、深く鑑賞できたのだが、ただ美しいだけではもったいない感が否めなかっ

た。

yamaharasakura at 11:17|PermalinkComments(0)TrackBack(0)美術館 

2005年08月18日

夜来風雨声

 日付の変わる少し前から、夕立となる。

 このところ天候の変化が大きく、日中の暑さは相変わらず厳しいのだが、時に夕立の通り雨がある。

 それが今日の深夜には、数年ぶりに貯めに貯めていたかのようなものすごい雷雨となる。ひとしきり稲妻

がとびかい、雷鳴が轟き、雷が落ちる。家全体が響くような音である。家人も寝ているどころでなく、様子

を見に起きてくる。いつもはぐっすり寝ている犬も不安げに立ってうろうろする。

 轟音とともに、一瞬電気が消える。停電も久し振り、と言ってすぐに回復.一昔前ならしばらくは真っ暗

な原始の世界たたずむことが出来たのだが、すぐに現代世界に引き戻されてしまう。

 しかし、あの光と音だけは如何とも仕様がない。荒々しい自然の力を見せつけてくれる。

 古代の人々にとって、天から降ってくる光は天の意志を示す刃であり、光はまた焼き尽くす火でもあっ

た。目に見えない天からやってくるものとして、この光を神としてあがめる。稲妻の象形文字は「申」で

「神」の初文である。

 この間、「夜来風雨声」の一節がふと浮かんだ。

yamaharasakura at 22:10|PermalinkComments(0)TrackBack(0)自然 

2005年08月15日

万年筆修理

 修理に出していた万年筆がドイツから帰って来た。

この万年筆はドイツモンブラン社の限定品ーアレクサンドル・デュマモデルである。かなり前からインクを

補充する際お尻の吸入部からインクが漏れていたのだが、このところあまりにもひどくなったので、遂に修

理に出した。限定品なので、ドイツでの修理になるという。戻って来たのは良かったが、修理費が一万円弱

かかったのだった。

 これが私にはどうにもモヤモヤの種になっている。もう買ってから9年も経つのだが、酷使したはずはな

い。何本もの万年筆を使い回ししているので、くたびれてはいない。なのに故障が起きた。

 同じモンブランでもう20年から使っているものがあるが、快調である。他のものも調子は良い。例のこれ

もドイツへ行って旅行してきたヘミングウェイモデルを除いてーいまは良好。

 インクの吸引装置は精密部品である。しかもこれはモンブランにとって生命線と言ってもいい場所であ

る。品質管理に力を入れているとは思うものの、こんな故障を起こしている。

 故障したということは、使い方が悪かったのか、それとも部品が不良であったのかどちらかであろう。私

としては普通に使っていたので、インク漏れは、使い過ぎての摩耗によるとは考えられない。

 にもかかわらず、保証の期間が過ぎてもいるということで修理費がこちら持ちになったのである。

 故障が事故につながる自動車などの場合、不都合があれば企業の責任でリコールがなされる。事故と関係

がない場合、不良部品による故障は、精度の確率範囲として、消費者が運が悪かったとして諦めねばならな

いものなのであろうか。

 明らかに、経年使用による変質ではなく、部材そのものによる不都合の場合、何年経っても保証の対象に

しなければおかしいと思うのだが。ただすべての商品にこの考え方を当てはめるとかなり混乱するし、

100%完全な商品作りも不可能であってみれば、一定年限で保証を切るというのもやむを得ないかもしれな

い。

 しかし世界のブランドであり、時には自動車よりも長く使われることを考えれば、部品不都合による故障

などはやはり無料で修理すべきであろうと思うのだが如何。

 それではなぜ修理費を払ったかということになるが、性来の喧嘩交渉ごとの不得手に加え、例のヘミング

ウェイモデルが私の責任で故障したにもかかわらず無料であったことと相殺する気持ちが働いたためであ

る。

 いま私の机の上には、5本いや6本の万年筆が置かれている.これで良い文章が書ければ言うことないの

だが、そうは問屋がおろさないのが情けない所である。続きを読む

yamaharasakura at 20:40|PermalinkComments(0)TrackBack(0)筆記具 

2005年08月14日

美術館へ ー大阪市立東洋陶磁美術館

 久し振りに中之島の東洋陶磁美術館をのぞく。

 ここは、住友グループが大阪市に寄贈した安宅コレクションを中核に、李秉昌コレクションその他が加わ

り、世界的な中国と朝鮮の陶磁器の美術館となっている。

 今は平常展である。

 最初の部屋では、粉青の扁壷十数個が迎えてくれる。形はいびつだが、おおらかであたたかく、線刻も稚

拙だが楽しい。

 次は高麗青磁である。本場中国にも引けを取らない整った形と良い色である。一般に朝鮮の陶磁は、中国

のように冷たいまでの形式美は少ないが、この高麗青磁は別である。よほど中国のものに肉薄せんと努力し

たのであろうか。青磁陽刻の「筍形水注」はいつ見てもうまいデザインと感心する。ただこれもひょっとす

ると、中国にそのお手本があったのかもしれない。

 続いて青磁の象嵌が並ぶ。これこそ朝鮮独特で、大変好まれたのであろう、今日でもたくさん作られてい

る。象嵌は描くのとは違って、細かい表現はあまりできない。

 つぎに粉青の数々が並ぶ。そして李朝の白磁である。なかでも、軽やかな筆さばきで野草の描かれたもの

や、辰砂で赤く蓮を描いた壷、鉄砂の素朴な絵は捨てがたい。

 中国陶磁の部屋に入る。唐代の若い女性の陶俑が回りながら出迎えてくれる。そして国宝「油滴天目」で

ある。うちそと全面に光る点が散らばり、金で縁取りがしてある。今日ではある程度油滴天目の再現が可能

になっているが、まだこれを超えるものはないだろう。歴史の重みをもたたえている。

 今回は「飛び青磁の壷」は出展されてはいない。

 宋白磁や燿州窯の鋭い彫は心地よい。

 次に元染付がくる。一面にコバルトブルーの絵が広がる。意外と細い線で描いてある。

そして明代の成化の官窯の作品は、冷たいまでも完成された形で、一分の隙もない。凛としてしてすゞやか

に置かれてある。この官窯の窯跡が発掘されているが、大量の破片が出土している。焼成後に厳しい検品が

行われ、優品のみ世に出されたといわれる。

 この美術館では清代の官窯の作品は見ない。収集者の意向が反映したものか。

 平常展ながら、たまに行くと違った作品に出逢える。やはり大した美術館ではある。



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2005年08月13日

博物館へー大阪歴史博物館

 大阪城のほとり大阪歴史博物館へ行く。「東アジア中世街道」という当時の物流の後を追った特別展であ

る。

 今回の目玉の一つは、韓国新安沖沈没船の引き揚げ品が来ていることである。中国の陶磁が日本に運ばれ

る途中嵐にあって、新安沖で遭難転覆したものらしい。日本での垂涎の的であった青磁の優品が来ている。

総量は何万点もあったらしいが、今回は十数点で意外に少ない。全貌を知ろうと思えば韓国光州市に行かね

ばならないか。面白い出品がある。陶磁器以外に舶載されていた胡椒が、腐りもせず原型を保って残ってい

たのだ。

 新安以外にも、韓国各地の沈没船に由来するもの、さらには日本の和歌山加太友ヶ島や鹿児島奄美大島の

沈没船からの物なども出ていた。

 そして中世鎌倉から室町期にかけての物流が多方面に示される。日本からは、漆器、扇、日本刀、金など

が、中国や東南アジアからは、陶磁器、絹(糸)、香辛料、香木、書画、書物がやって来た。

日本各地の貿易地や政治・経済の中心地であった所では、たいてい考古学の発掘品のなかに青磁や染付けの

破片がたくさん出てくる。さらに外国銭も大量に見つかる。日本では長く銭は作られなくなっていた。しか

し一部には中国銭の倣製品を作っていた遺跡も見つかっている。

 これらの舶載品は、危険を冒してもたらされるもので、しかも高級品も多く、かなり高価な物であったろ

うと想像される。これらの多くは今に伝わり、貴重な美術品としてなお鑑賞されている。それら上流階層が

愛玩したであろう壷・皿・瓶・鉢が並べられている。ただ珍しいことに重要文化財や重要美術品に指定され

た物は一件もなかった。しかし出光の出展に係る「青磁鳳凰耳瓶」はどっしりとした姿で、久保惣美術館の

国宝の耳付きの瓶「万声」に劣らないものと思うが如何。

 これら貴重な物の価値判断とかその取り扱いに付いて記された「君台観左右帳記」が出ていたが、そこに

写真展示として「義景亭御成之記録」が掲げてあった。これは朝倉義景が将軍義昭らを越前に迎えたおりの

記録である。その写っているところには、

       押板 一.御絵三幅 本尊 白衣観音 脇鶴猿猴 馬遠・牧溪筆

とある。義景が東山御物を手に入れて義昭のために飾ったのかもしれない。それが朝倉氏が滅んで大徳寺に

入ったか。

 私はこの牧溪の三幅対を何度か見たことがある。東京オリンピックを記念して、大阪市立美術館で大規模

な水墨画展が開かれた。その折に、徽宗・夏圭・馬遠などとともに出展されていて、二・三度足を運んだ覚

えがある。

 さて今回の展示の白眉は何と言っても、国宝の宋版の「史記・漢書・後漢書」である。刷りの早い物であ

ろう、文字がくっきり印字されている。文字そのものもゆったり堂々としている。私は影印縮刷版の百衲本

で持っているが、本物に初めて対面した。美しい。これを見ただけでも大満足である。

 今回の特別展は、国立歴史民俗博物館での企画展示を大阪に持って来たもので、歴史民俗博物館の所蔵品

が中心である。


 追記

 ここでの平常展の特集に「大阪町巡りー平野」が催されていた。私の生まれ故郷であって見たかったのだ

が、時間の関係で次回を期すことにした。


yamaharasakura at 01:52|PermalinkComments(0)TrackBack(0)博物館