彦根城博物館ー刀剣と刀装の名品京都国立近代美術館ー舞台芸術の世界

2007年06月11日

桜草栽培史−1

 私は『世界のプリムラ』で桜草の栽培史を担当したのだけれど、私の思い違いもあり、かつ歴史的経緯を

理解されない向きも多いので、この場を借りて時々その流れをたどってみたいと思う。

 桜草は日本その他に自生するけれど、なかなか注目されなかった花である。やはり文化の担い手である

人々の住むところでないと記録されもしない。いにしえの奈良の都の桜も、人間による山地の攪乱によって

人里近くに桜が増えたからにほかならない。

 桜草が記録に残るのは室町時代からである。その室町時代は鎌倉時代に続いて武士が政権を担当した。し

かし武士は権力を握った事とはうらはらに、文化的な教養のなさに気付くことになる。将軍足利家は武士で

ありながら貴族・公家となる。一方もともとの京の貴族は荘園も守護大名に奪われ、天皇制に寄生しつつ、

気位は高いが力はない立場となっていく。そのなかで彼らの武器となったのは前代以来の文化的な教養で

あった。学問、歌、雅楽、蹴鞠、故実、暦などを家学として専門化していく。武士は公家文化に憧れ、京の

貴族・公家・寺社と結びつきそれらを学ぶ。それはまた経済的にも彼ら公家衆を支えたのであろう。京の都

は政治的権力は持たないけれど、その求心力は失はず、さらに文化的、経済的な中心であり続けた。

 園芸というのは生活に余裕がないと生まれるものではない。貴族・公家はしたたかに豊かな生活を維持し

ていいたに違いない。公家屋敷の庭に花壇がしつらえられ、意図的に観賞用の花が集められ楽しまれた。そ

れは花木から草花に及ぶ。また日本だけでなく、中国からも牡丹や菊の新しい品種が輸入されたようであ

る。そのなかで地方からの珍しい花として桜草がもたらされたと考えられる。

 桜草は花壇での地植えであったのでそれほど手間もかからなかったであろうし、よく増えたと思われる。

                                       (山原 茂)
 

yamaharasakura at 23:48│Comments(0)TrackBack(0)桜草栽培史 

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