桜草栽培史

2007年07月07日

桜草栽培史−6ー江戸期文献

 江戸時代に入ると、桜草が少し知られるようになるとともに書物にも載るようになる。桜草が一番最初に

取り上げられたのは、日本で最初の総合園芸書といわれる次の書である。

  水野元勝の『花壇綱目』延宝九年(1681)

   “桜草 花薄色白黄あり 小輪 咲頃三月時分也 養土は肥土に砂を合せ用なり 肥気ある干粉少用て  

   宜し 分植は春秋時分宜し”
 (加藤亮太郎『日本桜草』より引用)

 この『花壇綱目』には寛文四年(1664)になった稿本がかってあり、それを大正十三年に白井光太郎が写

したものが残されている。そこでは

   “桜草 紫薄色白(ぬ)き白 春分植ル”とある。

 平成17年国会図書館では東京と大阪で特別展示会『描かれた動物・植物ー江戸時代の博物誌』が行われ

た。そのなかで、『花壇綱目』及び白井写本も公開された。その内容はインターネット上でも公開されてい

て、特に白井写本では桜草の個所が見られる。なおこの展示会の図録も出版されている(紀伊国屋書店取

扱)。 

 なお本文中に“ー花薄色白黄ありー”とあるが、“ー紫薄色白黄ありー”の誤りではないかと思うのだが、後日

の調査に俟ちたい。

  中村易齋の『頭書増補訓蒙図彙』元禄八年(1695)

 中村易齋の著した『訓蒙図彙』寛文六年(1666)は初心者向けに文物百般を絵で示したもので、これをも

とに江戸時代を通じて『訓蒙図彙物』がたくさん作られた。最初に出た『訓蒙図彙』には桜草は載っていな

い。30年後に出たこの増補版に出てくる。

   “桜草(さくらぐさ) 桜草ハ葉蕪青のことし 花白むらさき也”という説明とともに桜草・九輪草の

絵がある。

 この増補版は、東京学芸大学のホームページで、貴重書資料の追加分の項で公開されていて閲覧できる。

 私は『世界のプリムラ』の桜草栽培史の項で、『頭書増補訓蒙図彙』を1666年の刊として『花壇綱目』に

先だって桜草を載せた書物として紹介したが、これは先人の説を孫引きしたために起こした誤りで、ここに

訂正したい。            

                    ー続くー

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2007年07月04日

桜草栽培史−5

 ここに一つの屏風がある。三代家光の事蹟を描いた『江戸図屏風』(国立歴史民俗博物館蔵)である。こ

の左隻第一扇の上に、江戸城中の御花畑 があり、椿・撫子・菊・紫陽花・透し百合、そして桜草が見える。

 この屏風については、雑誌『サライ』の2000.12.7号で、「葵三代将軍の庭仕事」として紹介されてい

る。ただ私はこの雑誌を購入して、そこに桜草が取りげられている事を知りながら、つい失念してしまい、

先頃竹岡泰通氏より知らされて再確認した次第である。

 この『江戸図屏風』に描かれた桜草が、江戸の地における桜草栽培の嚆矢と考えられるのだが、この桜草

は一体どこからきたものなのであろうか。

 こんな話が伝わっている。現在の東京と埼玉の境の荒川の川原付近は将軍の鷹狩り場であった。この地に

出向いた秀忠が、この桜に似た可憐な花にいたく興味を示した。それを見た供の者が花好きの将軍を喜ばせ

ようと桜草を持ち帰ったという。これが江戸の地での栽培の始まりであると。

 しかし鷹狩りの季節に桜草が咲いているのであろうか。「鷹狩図屏風」を見ると、鷹狩りの場は里山で、

季節は田に切り株の見える初冬となっている。また宗達の「田耕し図屏風」では田耕しの頃に桜草が咲いて

いるわけで、農家の働いている時期に、田を荒らすかもしれない鷹狩りを行うものであろうか。先の「江戸

図屏風」でも、竹岡氏の調査によると、家光の行った鷹狩・猪狩・鳥狩・川狩の場面にも桜草の自生はみら

れないという。

 これは将軍の威光に仮託して権威付けをはかろうと創られた話に違いない。古い記録にはない。

 つまり江戸城の御花畑の桜草は、他の花木や草花と同じく上方からもたらされたと考えるのが妥当であろ

う。

                                       (山原 茂)

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2007年07月01日

桜草栽培史−4

 上方での桜草栽培が広まるにつれ、それは絵の分野でも採上げられるようになる。

   狩野光信の「四季花鳥図屏風」「花鳥図屏風」「花卉草花図襖」

が最も早い例であろう。春の草花の一つとして、菫・蒲公英・蕨・土筆などとともに桜草がでてくる。

   俵屋宗達の「田耕し図屏風」

牛を引いて田を耕す農夫と鴉、そして二群の桜草だけ、他の草花は見られない。

   伊年印の「四季草花図屏風」

宗達工房ではたくさんの草花図屏風が作られ、そのかなりに桜草も取り入れられている。現在十数点知られ

る。

   尾形光琳の「四季草花図巻」「四季草花図小屏風」など

前者では墨の滲みだしで桜草が描かれる。

 光琳の流れを汲む琳派では桜草が時にとり上げられた。なかでも中村芳中は扇面に桜草を初めて単独で描

いた作品を数点残している。

 江戸琳派の酒井抱一にも春の草花の一つとして出てくる。

 その他渡辺始興、田中訥言、鈴木其一、そして明治に入って神坂雪佳と続く。

 これらに出てくる桜草は色違いなどいくつか描き分けされているものもあるが、野生種ばかりである。

 以上、詳しくは浪華さくらそう会誌31号の「美術作品に見る桜草」を参照されたい。

                                        (山原 茂)

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2007年06月23日

桜草栽培史−3

 室町時代の公家の文化が裾野を拡げて行く。公家や権力者に仕える芸能者が文化を生んで行くことにな

る。そこで生け花の専門家も桜草を採上げる。

  「道閑花伝書」 永正三年(1506)ーの中に 桜草 の文字あり。

 茶の湯も堺の商人によって完成する事になる。ここでも桜草が茶花として使われる。

  「天王寺屋茶会記」

     天正十二年(1584)三月四日朝 因幡善浄坊休夢

        床二細口 桜草 生而圓盆

        風炉 高キウハ口の釜 小板 芋頭

        手水之間ニ 置

        床ニ船子絵 手水之間ニかけ

        花ヲイケ申候

 この資料は中村長次郎氏による紹介で、鈴鹿冬三著『さくらそう』(保育社)に載る。

 このように京・大坂・奈良で次第に桜草が知られるようになったのである。

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2007年06月18日

桜草栽培史−2

 前回桜草の栽培が室町時代より始まった事を述べた。この知見は大津在の竹岡泰通氏の調査によってい

る。それはすでに浪華さくらそう会誌32号・38号で詳述されている。特に32号の「室町時代のサクラソ

ウ」は必読の文献である。以下それをまとめておこう。

 1、大乗院寺社雑事記(尋尊大僧正の日記)

    文明10年(1478)3月日記末尾 「庭前草花」に

      二月 同 花桜 信乃桜 岩桜 庭桜 桜草 全躰

        ※大乗院は南都興福寺の子院 室町期隆盛を誇る。尋尊は公卿一条兼良の子で大乗院27代    

        門跡・興福寺別当ともなる。一条兼良は当代一流の学者・歌人。尋尊は公家文化の継承・ 

        体現者。

 2、山科家礼記(公卿山科家家司大沢久守の日記)

    延徳3年(1491)2月21日 晴

      武家(将軍足利義材)へ桜草、ほうとうけ(れんげそう)のたね御所望候間、進之也

    延徳3年(1491)3月16日 晴

      禁裏花参、御学文所棚心桜草・ヲモト葉、下ニ花心竹、いとすヽき・桜草・シャクワ葉ハリ也、  

      小御所押板カヘ、柱心ヤマフキ、下同葉共之

   
    延徳4年(1492)3月30日 晴

      今朝予 禁裏花ニ被召候也、参候、御学文所花棚上心キニ候水草、下さくら草・シヤクワノ葉 

      等也、下花心松・下ケマンケ・桜草・キンセン花色々、御申次唐橋殿、御酒ヲ被下候、忝畏入

      存候也


        ※大沢久守は山科家の番頭として山科家を支えたひと。立て花の名手として主人山科言国 

        とともに禁裏花御用をつとめていた。

 3、言国卿記(公卿山科言国の日記)

    明応2年(1493)4月3日 天晴

      夕方シタヽメニ退出畢、(中略)晩影番帰参、桜草御用之由間、予庭ノ三本持参、小御所御座 

      ノ間直ニ持参、即ウへサせラレ畢
 

        ※山科家は内蔵頭・御厨子所別当を世襲。食事や衣服の調進を掌った。

 4、実隆日記(公卿三条西実隆の日記)

    明応5年(1496)閏2月6日 晴

      早朝退出、桜草・庭桜等依(後土御門天皇の)仰掘進上之

        ※三条西実隆は歌・書さらに古典学の権威として知られた。

このように御所や公家の庭に花壇が設けられ、草花が植えられ楽しまれたのである。それはまた立花の材料

としても使われ公的な場所を飾ったのである。

                                          (山原 茂)

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2007年06月11日

桜草栽培史−1

 私は『世界のプリムラ』で桜草の栽培史を担当したのだけれど、私の思い違いもあり、かつ歴史的経緯を

理解されない向きも多いので、この場を借りて時々その流れをたどってみたいと思う。

 桜草は日本その他に自生するけれど、なかなか注目されなかった花である。やはり文化の担い手である

人々の住むところでないと記録されもしない。いにしえの奈良の都の桜も、人間による山地の攪乱によって

人里近くに桜が増えたからにほかならない。

 桜草が記録に残るのは室町時代からである。その室町時代は鎌倉時代に続いて武士が政権を担当した。し

かし武士は権力を握った事とはうらはらに、文化的な教養のなさに気付くことになる。将軍足利家は武士で

ありながら貴族・公家となる。一方もともとの京の貴族は荘園も守護大名に奪われ、天皇制に寄生しつつ、

気位は高いが力はない立場となっていく。そのなかで彼らの武器となったのは前代以来の文化的な教養で

あった。学問、歌、雅楽、蹴鞠、故実、暦などを家学として専門化していく。武士は公家文化に憧れ、京の

貴族・公家・寺社と結びつきそれらを学ぶ。それはまた経済的にも彼ら公家衆を支えたのであろう。京の都

は政治的権力は持たないけれど、その求心力は失はず、さらに文化的、経済的な中心であり続けた。

 園芸というのは生活に余裕がないと生まれるものではない。貴族・公家はしたたかに豊かな生活を維持し

ていいたに違いない。公家屋敷の庭に花壇がしつらえられ、意図的に観賞用の花が集められ楽しまれた。そ

れは花木から草花に及ぶ。また日本だけでなく、中国からも牡丹や菊の新しい品種が輸入されたようであ

る。そのなかで地方からの珍しい花として桜草がもたらされたと考えられる。

 桜草は花壇での地植えであったのでそれほど手間もかからなかったであろうし、よく増えたと思われる。

                                       (山原 茂)
 

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