#俳句 日記俳句を楽しむ会

 梅雨入り目前といわれながら、好天に恵まれた6月5日に句会が行われました。この日は5人と先生の参加でちょっと寂しくはありました。しかし、その分だけ参加者間の話し合いが活発だったようにも思われます。兼題は「蕗」、席題は「枇杷」でした。
 そこで、兼題の「蕗」ですが、この季語は基本的に植物として蕗を指しており食(べ)物の蕗とは区別されるべきであるということ、就中、加工された「伽羅蕗」を季語として用いる際には注意が必要ではないかという指摘がありました。確かに歳時記の中には夏の季語として「伽羅蕗」を挙げているもの(例えば角川版)があるけれど、議論が分かれているところだそうです。一方、「季語」は時代とともに生れたり変化もするものだから何が正解かは難しいところでもあるということでした。
 実は「伽羅蕗」を季語として用いたのは私で、二つの歳時記(角川版、大泉書店版)で「蕗」の項に「伽羅蕗」が掲載されていたので使いました。その際、改めて歳時記で確かめようと思ったのは「伽羅蕗」は一年中売られている食品でもあるからと夏の季語としては不安があったからです。ただ、両方の歳時記は季語として認めていたので、年中あるとはいえ、旬のこの時期に作るものなのだろうと一人合点しました。植物と食物、この時期に収穫される蕗(葺)と一年中食す伽羅蕗、考えてみると「季語」もなかなか手強いものです。
(進ノ介 記)

 

  

 公民館の窓を打つ台風の風雨に帰宅時の心配をしながらも、一旦句会になると席題からしっかりと俳句モードとなり、終わってみれば17時近くまでがっちりと充実した句会でした。

  兼題「蕗」:5句  席題「鉄線花」:4句  雑詠:25句

 連絡事項の一つに「自分の句集を出すことは良い刺激になるので検討を」とのアドバイスがありました。確かにこれまでの一区切りとして「作品を纏めてみる=見返してみる」は人生の証しの一つになりそうな・・・そんな気がします。

 「句意」と「詩情」の両方が必要!と。句意は何を言わんとしているかが伝わること、詩情は共感してほしい作者の思いや気持ちのこと、どちらが欠けても俳句ではない。多分、句意に力が入ると説明的と指摘され、詩情伝達に力が入ると言い過ぎていると指摘されるのだろうか。

この視点はいいだろうと思って提出すると、類句が多い、オリジナリティが欲しい、との指摘も多々言われる。やはりもっと多くの他の人の作品に触れ、経験を積まねば僅かでも新しみのある表現だ、と確信を持って言えない。 

新鮮味ある詩情を意図通りに伝えること、まだまだ「皆伝」にほど遠く「初伝」と言ったところか?(勝手に免許状を出すなと言われそうですが・・)

 PXL_20230520_001654052

記:栄泉

このページのトップヘ