「適正英語」(Proper English) というものは存在しない?(続々)

Mr. Kamm は「適正英語」(Proper English) というものは存在しない」という記事の中で、「人々は話し方によってあれこれ言われるべきではない」と主張しているが、私は「その主張は、話し手と聞き手との間に誤解が生じない限りにおいてはそれでよいだろうが、誤解に繋がりかねない場合はそうは行かない」と書いた(こちらこちら)。分かりやすい例を挙げよう。たとえば、Mr. Kamm が

Paul told Tony that he had bahaved badly at the party.

と言ったとする。その場合、Mr. Kamm が言いたいことが、.僉璽謄ーで行儀が悪かったのはPaul 、 パーティーで行儀が悪かったのはTony、そのどちらだったのか、聞いている側の私には分からない。Mr. Kamm の頭の中では後ろの he がどちらかは分かって言っているはずだ。したがって、こういう曖昧な言い方を「人々は話し方によってあれこれ言われるべきではない」という主張の中に含められてはコミュニケーションがうまく行かなくなってはなはだ困ることになる。
 
   それでは々垉靴悪かったと白状しているのがPaulとした場合、Paul がTonyの行儀の悪さを非難しているとした場合、それぞれの意味を表すには、上の英文をどう修正すればよいだろうか。いつものように、旧山岸ゼミ生諸君(および一般読者諸氏)への宿題としたい。

✖「一笑を付す」、⦿「一笑に付す」

ある人のブログ記事を読んでいたら、「キミは一笑を付すかもしれないが」という表現が出て来た。「一笑付す」? それを言うなら「一笑(いっしょう)に付す」でしょ?と思いながら、“一笑付す”でいつものようにGoogle検索に掛けてみた。結構な数の用例がヒットした。以下に5例だけ引用しておく。
*ハッ、と鼻で一笑を付すには十分な単語である。
*検索という名の何かと一笑を付すのも腹立たしい。
*導きだされた考えに一笑を付す。世も末だと思った。自分に末は、ないけれど。
*…の様に、一笑を付す布都の布都ましい行為(ややこしい)に付いてもこのタグが用いられる事もある。
*占い師や霊能者などに人の全てが分かるわけはないと一笑を付す低俗な話題であるが、それに関して見ていこう。
 このような言い方を覚えてしまったのは、どこかで「一笑 付す」(笑って問題にしない)という言い方を耳目にしたり、「一笑買う」(回りの人の笑いものになる)という言い方を耳目にしたりした結果、両者を混同したせいかも知れない(そうでないかも知れない)。いずれにせよ、いつも言うように、間違って覚えたものは、誰かからそれを指摘されたり、自分が普段から辞書を引いて自分の間違いに気づくような努力をしていたりしなければ、いつまでたっても気付かないままだ。

食べ物と「プリン体」のこと

n先日の血液検査の結果、「尿酸値」が高くなっているので参考までにということで「尿酸値が高い方の食生活のポイント」と題されたプリントをもらった。それには「《プリン体を摂り過ぎないこと」と注意書きがあって、具体的な食品名とプリン体含有量が示されていた。《プリン体》とは何かの詳細についてはこちらに譲るが、要するに.廛螢鸞里脇以の内臓、肉や魚などに多く含まれている、▲廛螢鸞里梁燭た事を続けていると、尿酸値が上がり、その結果、尿路結石・痛風発作・肥満体質に結び付きやすい、ということらしい。

 プリン体は1日400を超えないことが望ましいそうだが、鶏レバーが1回量80gでプリン体が250咫豚レバー80gで228咫牛レバー80gで176咾世ら、焼肉屋で1時間ほど焼肉を楽しめば、すぐにプリン体の摂り過ぎということになる。プリン体の多いものは鶏レバー、豚レバー、牛レバー、牛ハツ(80g /176mg )、鶏ササミ(80g/123mg)などだ。

 魚貝類ではサンマ(およびその干物)、スルメイカ、カツオ、大正エビ、ズワイガニ、マグロなどがプリン体を多く含み、逆にシラス干し、イクラ、ワカメ、ヒジキ、モズク、コンブ、アサリなどがプリン体が少ない鶏卵は50g食べてもプリン体は0gである。野菜類でプリン体が少ないもの長ネギ、オクラ、シイタケ(生)、ハクサイ、タマネギ、エダマメ、モヤシ、ブナシメジ、カリフラワー、ホウレンソウ、ダイズ、ナス、カボチャなどだ。ちなみに、牛乳は200gを摂取してもプリン体は0gである。チーズは20gの摂取でプリン体1gだ。なお、白米は80g(ご飯1杯分)で21咫玄米80g(ご飯1杯分)で30gだ。伝統的な日本食が日本人の体に適していることは、科学的にも証明できそうだ。

「適正英語」(Proper English) というものは存在しない?(続)

Mr. Kammが主張するのは、 「二重否定の使用は完全に文法にかなっている」、firstlyでも firstでもどちらでもよい」、「hopefullyを(従来の『希望を持って』の意味ではなく)『望むらくは』の意味で使ってもよい」、「they(彼らは)』を単数総称代名詞として使ってもよい」、また「(伝統的なbetween you and meではなく)between you and I と言ってもよい」などと言うものだ。

 たしかに、日本語でも二重否定が一般化した例はある。たとえば、昔(昭和39年、1964年)、松尾和子とマヒナスターズが大ヒットさせた「お座敷小唄」の文句に「富士の高嶺(たかね)に降る雪も、京都先斗町(ぽんとちょう)に降る雪も、雪に変わりないじゃ」とあるが、これは「雪に変わりあるじゃなし」とするのが論理的・文法的だが、誤用が一般化してしまったMr. Kammはこれを誤用とは認めず《強調語法》と言うだろう。【幸いと言うべきか、最近ではこの歌は歌われなくなっている。】

 だが、昨日も書いたように、Mr. Kamm が主張するような語法(とりわけ二重否定、between の後ろに代名詞の主格を用いた例)が少なからず混じる学位論文など、未修整のままでは、論文としては絶対に受け入れられないはずだし、またMr. Kamm自身も、自分が書く論文ではそういう語法は回避するはずだ。ちなみに、「『適正英語』(Proper English) というものは存在しない」と題したこの記事も標準英語で書かれている。 

 Noneという代名詞は、たとえばNone comes / None isのように単数形と解釈しようが、None come / None are のように複数形と解釈しようが、話者・書き手の想起する人数や集合体の在り方で、両方ともあり得る。同じことが、The committee is agreed. / The committee are agreed.のような対比にも言える。だが、Mr. Kamm の「人々は話し方によってあれこれ言われるべきではない。」という主張は、話し手と聞き手との間に誤解が生じない限りにおいてはそれでよいだろうが、誤解に繋がりかねない場合はそうは行かない。そういう例はいくらでも挙げることができる。とりわけイギリス人とアメリカ人の会話では、とんでもない誤解が生じる恐れ・可能性は拭えない。その例は枚挙にいとまがない。具体的には、私が訳偏した『えい・べい語考現学―どこがどう違う?』に譲るが、同じ英語でも変種 (varieties) によっては、「人々は話し方によってあれこれ言われるべきではない」などと主張することは出来なくなるのだ。やはり、話す相手(=聞き手)・場所・環境・内容などによっては「適正英語 (Proper English)を無視することは出来ない。

【付記1】
firstly, first の関係について言えば、前者は理由や論点などを述べる場合の第1項目を言う時に多く用いられるが、一般的にはfirst, second(ly), third(ly), ... last(ly)のほうが好まれ、特にアメリカ英語では-ly のない語形のほうが好まれる。Mr. Kammのようにfirstlyでも firstでもどちらでもよい」と断言するのは現実的ではない(そういう言い方をすることを彼は「知識をひけらかすペダンチックな人」とか「えせ学者」と非難するだろうが)。
【付記2】
they(彼らは)』を単数総称代名詞として使ってもよい」という指摘など、“古証文の今出し”の感がある。その点はOxford English Dict. をひもとけばよく分かる。

「適正英語」(Proper English) というものは存在しない?

日刊経済新聞のThe Wall Street Journal はかつて、英紙「ザ・タイムズ」の記者・コラムニストMr. Kamm (本名 Oliver Kamm) によるThere Is No Proper English’―Never mind the grammar scolds. If people say it, it's the right way to speakと題する記事を掲載した。日本語訳も出ている(こちら)。そのタイトルは「『適正英語』というものは存在しない」だ。だが、その主張は、「文法的なうんちくの根拠を過去の書籍に求める時代はとうに過ぎ去った」、「知識をひけらかすペダンチックな人によって提起される文法的な規則は、決して実際の文法規則ではない。それらの規則はせいぜいのところスタイル的な慣習にすぎない」というもので、その主張を正当化するために挙げている例はたとえば、次のようなものだ。 

二重否定の使用(ローリング・ストーンズの「I can’t get no satisfaction」)は完全に文法にかなっている。意味を強調する用法だ。われわれが「標準英語」でこのような形式の二重否定を使わないのは、単に慣習にすぎない。

firstly」と書くべきか、あるいは「first」と書くべきかについてなぜ思い悩むのか。どちらも正しいのだ。文全体を修飾する副詞として「hopefully(望むらくは)」を使っても良いし、「they(彼らは)」を単数総称代名詞として使っても良い。また「between you and I (あなたと私の間で)」と言ってもよい。えせ学者たちはこのような構文を禁止すべきだと主張するが、その主張は一般的な使用法という証拠によって支えられていないのだ。

もちろん、われわれが文法、スペリング、あるいは句読法で誤りを犯す可能性はある。しかし、誰もが、あるいは高い教育を受けた言語の使い手の大多数が、同時期に同じ過ちをする可能性はそれほどない。一般的な使用法であれば、それがその言語の在り方なのだ。

我々は長年にわたって抜きがたく誤った2つの信仰に束縛されてきた。第1に、非標準的な用語は「不適切な」英語であるという信仰。第2に、リテラシー(読み書き能力)は、分離不定詞(例えば「to boldly go (勇敢に進む。訳注=スタートレックの冒頭ナレーションで有名)」は禁止すべきだといった規則に立脚しているという信仰だ。 

人々は話し方によってあれこれ言われるべきではない。それに言語学上のばかげたでっち上げの迷信を頭にたたき込むべきではない。  

 執筆者 Mr. Kamm 
による主張は上記点にまとめられる。だが、よく見ればわかるように、また彼が言うとおり、語法の成否はその全てが「単に慣習にすぎない」ものだ。彼はまた、文法書・語法書を書いた人たちを「知識をひけらかすペダンチックな人」、「えせ学者」と軽蔑するが、私に言わせればそれは言い過ぎだ。第一、そういう「ペダンチックな人」や「えせ学者」と揶揄されるような人たちはもう1世紀も1世紀半も前に消滅しているはずだ。昨今の文法書・語法書では、まずまちがいなく、Mr. Kamm が挙げるような例は「文法的に間違い」と切り捨てられるのではなく、スタイル、スピーチレベルの問題として、それはそれなりにきちんと評価されているはずだ。「they(彼らは)」を単数総称代名詞として使うことも、広く受け入れられ始めてすでに久しい。
 したがって、今どき、「知識をひけらかすペダンチックな人」、「えせ学者」と軽蔑するほうこそ“時代錯誤”と憫笑されるだろう。それに、「言語学上のばかげたでっち上げの迷信」と極論するが、“でっち上げの迷信”のほとんどは“論理”や“論理的観点からの正しさ”を問題としており、その限りにおいて“ばかげた”ものでも“でっち上げた”ものでもない。Mr. Kamm が“反発”しているのは、伝統的な文法家彼の言葉を借りればペダンチックな人」や「えせ学者が、言葉遣いを“論理”で押し通そうとするその強引さに対してではないのか。


 Mr. Kamm が挙げるような例は全て、現代英語に存在するものとして認めるし、それらの用法を軽蔑することはない同じことは日本語にも言える━たとえば、伝統的な「押しも押されもせぬ」を最近では「押しも押されぬ」と言う人が多くなり、それも許容される語法になって来ている。だが、だからと言って、「『適正英語』というものは存在しない」とは思わない。いや、それは厳然として存在するMr.Fromm は「hopefully(望むらくは)」を使っても良い」と主張するが、その通りだ。だが、その主張が認められるのは、hopefully という副詞の伝統的な意味である「希望を持って、希望して」という意味と誤解されないだけの文脈が担保されていることが前提となる。つまり、「適正な文脈を持った英語」が必要なわけだ。

 すなわち、私が言う「適正英語」とは、Mr. Kamm が挙げるような語法例、「単なる慣習上の言語現象」の例というよりも、「適正に」使われなければ、意味が曖昧になったり、読み手・聞き手に誤解される恐れが十分に出て来るような場合だ。たとえば、I failed the exam. I don't know why I studied for it.のような例だ。これは話し方、書き方に注意しないと、I don't know why I studied for it.の部分に2つの意味解釈が可能になって、読み手、聞き手を誤解させてしまう恐れがある。I don't know why I studied for it.なら「何のために勉強したのか分からない」となるが、I don't know why, I studied for it.とポーズを置いて発音したり、書いたりすれば、「なぜ落ちたのか分からない。勉強したのに」という意味になるからだ。この曖昧性を回避するためには「適正な(proper)」な英語を話したり書いたりしなければならない。

 
あるいは、すでに述べたように not only but also における also の有無と意味との関係(こちら参照)、She told me this morning that she was leaving for London. のような文の場合に that を省略することで生じる意味の曖昧性(こちら参照)など、例を挙げればきりがない。話し手・書き手が自分が伝えようとする意味が聞き手・読み手に正確に伝わらないのであれば、つまり、自分の意図した意味とは異なった意味に解釈されれば、それはやはり文法的に、あるいは修辞(学)的に「proper適正)ではない」と言えるのだ。 そういう意味の曖昧性を回避するために我々は文法 (grammar)を学ぶのであり、「適正な英語(Proper Englishを身に着けようとするのだ。ただし、急いで付け加えるが、Mr. Kamm の「二重否定は文法に敵っていて正用法だ」という主張は、「その言葉づかいが日常的で普通のものとして受け入れている人々の社会の文法」という条件付きだ。その語法を回避あるいは忌避する人々や社会集団が存在することも否定できない事実だ。以上のことから、Mr.Kammの主張はきわめてミスリーディングなものだと言わざるを得ない。

 【付記】Mr. Kamm は英語母語話者のようだから分かるはずだが、たとえば、The plan was not approved, because of the absence of electricity and water in the vicinity.のような文の場合、because の前のコンマは必須のものだ。仮にこれがなければ意味はどう変化するか。そのことが意識されて書かれた英語を「適正な英語(Proper English)」と私は呼ぶ。
 「二重否定は立派な英語だ」、「分離不定詞も問題ない」などという
Mr. Kamm の主張は、したがって、私に言わせれば、英語母語話者たちが《生きている時代》、《所属する社会集団・階級》、《受けた教育程度》、《就いている職業》などによって異なるものであるから、「適正な英語(Proper English)というものは存在しない」という主張は一面的・表層的なものだということになる。
 ちなみに、Mr. Kammが言う「
 人々は話し方によってあれこれ言われるべきではない。」を実行して、二重否定やbetween you and I などが少なからず混じる学士論文・修士論文、ましてや博士論文が合格する確率は、未修整の場合には、100%のうち1%もないはずだMr. Kamm がその論文の主査であれば話は別だろうが。第一、Mr. Kammはこの記事を「適正な英語」(Proper English)で書いているではないか。結果的に、この記事は「記事としては面白いが、言語事実を正しく反映してはいない」としか言えないものだ。


【後刻記】こちらこちらで Mr. Kamm の上記記事内容が「馬鹿げている」と否定されている。

接続詞の that がある場合と無い場合(続)

一昨日、「She told me this morning that  she was leaving for London. のような文の場合、that は省略可能だろうか。that がある場合と無い場合とでは意味に違いが生じるだろうか。」という質問をした。解答できただろうか。この問題に関しては私は以下のように解答しておく。

that を省略した場合、this morning が、先行するtold に掛かるのか、後出の leaving に掛かるのか、不明瞭になる。これが、接続詞の that があることで、this morning は、先行するtold に掛かることが明確になる。つまり、意味の曖昧性を回避することができるのだ。

 She told me that  she would be leaving for London this morning. のような言い方も曖昧性が回避できてよいだろう。

【付記】The Wall Street Journal が2年ほど前 (March 16, 2015) に 、英紙「ザ・タイムズ」の記者・コラムニスト Mr.Kamm の There Is No ‘Proper English’(「『適正英語』というものは存在しない」)という記事を載せたが、それについては次回言及したい。

七夕の短冊に書かれた願い

散歩の途中、近所の某大型スーパーマーケットに立ち寄ったら、その入り口に七夕の葉竹が4、5本立ててあって、それに飾る短冊に願い事を書いてくれるように来店客に呼びかけていた。見ると、すでに多くの短冊がぶら下がっていた。興味を引かれて、近づいて見てみると、思わず微笑んでしまうような可愛いものから、かなり切実そうなもの、同情したくなるようなものまで、いろいろな願望が書いてあって、読んでいてとても楽しかった。誤字混じりのものもあったが、それはそれで面白かった。9枚ほど携帯電話で写して来たので紹介しよう。

 Keep your dreams in your heart so that every heartbeat may remind you convert them into reality.

t2t3t4t5t6t7t8t9t10

接続詞の that がある場合と無い場合

以前、「慣用句 not only 〜 but (also) のこと」と題した記事を書いた(こちらこちら)。そこで言及したように、日本人学習者は「not only 〜 but also の also は省略可能」と習い、英語の辞書にもそのような説明があるが、実際には、 also の有無によって意味解釈に違いが生じる場合があり得るのだ。  

 それで思い出したのだが、我が国の学校英語で必ず言及される「接続詞の that の省略」だ。たとえば、She told me this morning that  she was leaving for London. のような文の場合、that 省略可能だろうかthat がある場合と無い場合とでは意味に違いが生じるだろうか。not only 〜 but (also) の場合と同様、旧山岸ゼミ生(および一般読者諸氏)への宿題としておこう。

今月の定期検診に行って来た。

t先週5日(月)、「心臓超音波検査」と「心電図検査」(トレッドミル運動負荷)を受けるためにN病院に行って来た。トレッドミルを使っての検査はけっこうつらかった。残念ながら、医師が要求した [期待した] 運動の(たぶん)8割くらいしか達成できなかった。

 その検査結果を聞くために、また、いつもの血液検査と担当医の検診のために、今朝一番で、同病院へ行って来た。「心臓超音波検査」、「心電図検査」、「血液検査」の結果、特に大きな異常は認められないが、心臓の動きが昨年の手術後の検査の時よりもやや劣っているのが認められると診断された。年齢のせいで心臓が徐々に弱っているとも考えられるし、検査時に一時的 に観察された症状かも知れないので、次回、もう一度「心電図検査」と「一般撮影検査」を行ってみましょうということになった。
 
 今となっては、医師から何を言われても驚くこともないし、心配に思うこともない。願わくは命の終わりの日まで、我が国の英語辞書の改善・改良に少しでも貢献していたい、そう思うのみだ。あとは神ならぬ身では、私自身がどういう最期を迎えるのか、見当さえつかないが、出来るだけ我が子たちに面倒を掛けない終わり方をしたい、そう願っている。

   帰りに、私が入院していた病棟のナースセンターに立寄って、何人かの看護師さんたちと言葉を交わして来た。1年前の私のことをよく覚えていて下さったことが嬉しかった。そのあと、ラウンジでお茶を飲みながら、私の年代の男性患者のお一人と20分ばかり雑談をした。
 

形容詞 popular の意味の曖昧性

bpopularという形容詞は「ポピュラー(な)」として日本語に入っているから、小学生でも知っている語だ。だが、真面目な英語学習者にとっては、必ずしも平易な語ではない。なぜなら、時々、日本語に直そうとすると不明瞭な場合があるからだ。たとえば、popular novel という言い方。通例 は「大衆小説」、「通俗小説」と訳しているが、文脈によっては「人気のある小説」、「人気の出ている小説」という解釈も可能だ。したがって、たとえば、「この映画はイギリスのある没落貴族が書いた同名の人気小説 に基づいている」を英訳すれば This movie is based on the popular novel  of the same title written by a hard-up member of the British aristocracy. となる。逆に、そこにある the popular novel  を日本語にすれば、「大衆 [通俗] 小説」ともb2訳せる。「人気小説」=「大衆[通俗]小説」ではないからだ。書物の題名、たとえば Loren D. Estleman : Writing the Popular Novel や  J. M. S. Tompkins: The Popular Novel in England 1770-1800 などの the Popular Novel  は明らかに「大衆 [通俗] 小説」と訳せるものだ。

 popular English というような平易な言い方も、解釈は必ずしも平易ではない。文脈によってはこの popular plain, non-technical (平易な、専門知識を必要としない)という意味になるし、文脈によっては low colloquial, careless (卑俗な、ぞんざいな)という意味になる。どちらの意味で popular English と言っているかは文脈が決めてくれる。ちなみに popular definition という言い方も不明瞭だその理由は旧山岸ゼミ生諸君への宿題としておく

イギリスでの新聞戸別宅配制度のこと

イギリスの新聞のことを調べていたら、こちらの「イギリスの新聞一覧」に次のように書かれているのに出くわした。

日本と異なり戸別宅配制度はない為、駅の売店や小売店(エージェント)での販売が中心である。また再販売価格維持がない為、価格競争が起きることもある。1990年代にはタイムズが口火を切って、安売り合戦が行われた。

n 原則としては、その通りだ。だが、「戸別宅配制度はない」と断定して、したがって、「駅の売店や小売店(エージェント)での販売が中心である」と結論づけるのはミスリーディングだ。なぜなら、近所の販売店に依頼すれば、有料だが、自宅まで配達してくれるからだ無料で配達してくれるところがあるかどうかは未詳。昔、私がイギリスで生活した時には、毎日自宅まで配達してもらっていた。ただし、新聞代と配達代は配達員には手渡さなかった。店主の話では、やはり「安全上の観点から」ということだった。配達員が《ネコババ》するからというのか、それとも集金人が集金の帰り道で強盗に遭う危険性があるからというのかについては店主は明言をさけた。多分、その両方からだろう。

この日本語のおかしさが分かりますか。

先日、某国立大学医学部生の1人から、チャリティーコンサートを開催するので、私の英訳詞を使用させてほしいという内容のメールをもらった。その冒頭に「この度は、山岸先生が英訳された**の歌詞を、私がプロデュースする音楽ライブにてご利用させていただけないかと思い連絡いたしました。」という1文があった。昨今の日本人、とりわけ若い世代の人たちは尊敬語、丁寧語、謙譲語の使い分けが相当に苦手のようだ。わずかこの1文の中に、最低でも2個所の問題語法があるのだが、いつものように旧山岸ゼミ生(および一般読者諸氏)への宿題としよう。

 先ほども、BuzzFeed News のバックナンバーを見ていたら、4月22日発の次のような記事が私の目にとまった。
平成生まれはびっくり? 1950年の保健の教科書に載っていた“性”の話
「自分の生まれたときのようすを、父や母にうかがってみよう」
 文末には記者の氏名が記されているが、年齢は何歳だろう。たぶん、若い人だろう。この見出しの日本語、とりわけ2行目を読んで、正直なところ、かなり驚いた。これを「おかしい」とすぐに感じることの出来る、つまり語感の鋭い人はどのくらいいるだろう。旧山岸ゼミ生(および一般読者諸氏)には、是非とも各人の「語感テスト」を試みてほしい他人から「おかしい」と指摘されてからでは、本当の「語感テスト」にはならないのだが…。ちなみに、「1950年の保健の教科書」とは実業教科書株式会社発行の『私たちの健康』だ。

【追記】この記事を書いたあと、Yahoo News を見ていたら、某著名人のお連れ合いが「ここにきて、初めて口内炎がひどく、おすすめされた、カモミールティうがいを続けています」と書いておられることを知った。粗探しをしているつもりは毛頭ないが、この1文の中にも慣用法違反があるのだが、おわかりだろうか。

形容詞 contrary の強勢の置き場所のこと

Mother Gooseの中でよく知られた nursery rhyme の1つと言えば、Mary, Mary, Quite Contrary だろう。現代版では
Mary, Mary, quite contrary,
How does your garden grow?
With silver bells, and cockle shells,
And pretty maids all in a row.
のように歌われる。
 この歌はF. H. Burnett  (1849-1924) のThe Secret Garden(『秘密の花園』, 1911) のもとになった言われ、そこでの出だしは Mistress Mary, quite contrary となっている。

 私が興味を引かれるのは、そこに出て来る 「意地悪な、へそ曲がりな」の意味の contrary という形容詞だ。YouTube の動画(例、例)を聞けば分かるように、現代版ではその語の第一強勢は´con-にある。だが、この唄が出来たと思われる18世紀の頃(からThe Secret Garden が書かれ、読まれた頃)は第一強勢は-´raryにあった今でも、この意味の contrary は -´rary と発音されることが多いThe Secret Garden のその箇所が分かる動画がある(こちら)。contrary が2度出て来るが、強勢の置かれ方に注意して聞いていただきたい。

慣用句 not only 〜 but (also) のこと(続)

先月17日、旧山岸ゼミ生諸君(および一般読者諸氏)に対して、「Paul is not only  the brightest student in his class, but  the brightest student in the entire school.のような例文では『also はあってもなくてもよい』と言うよりも、『ないほうが普通』だ。なぜだろう?」という宿題を出した(こちら)。 

 それに対する解答をメールで送ってくれた旧ゼミ生が何人かいたが、(時間があったのだから当然と言えば当然だが)全員が正解を示した。それは、「not only A but also B だと、AとBの両方に同じ比重が掛かるのに対して、not only A but  B の場合は、比重はbutのあとの語句により大きく掛かる。したがって、『ポールはクラスで一番頭がよい生徒であるだけでなく、全校で一番頭がよい生徒だ』ということで、the entire school のほうにより大きな力点が置かれることになる」というものだ。つまり、この例のようにBのほうにより大きな比重や力点が置かれる場合は not only A but  B の構文のほうが好まれるというわけだ。したがって、「 not only 〜 but also の also は省略可能」とだけ説明するのは、場合によっては言語事実をゆがめることになるのだ。
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「7歳までは神のうち」の意味するところ

Yahooニュースを読んでいたら、「『7歳までは神のうち』 明治中期、農村で大人になれた子どもは10人中7人」という興味深い見出しに出くわした(こちら)。記事の著者には大阪学院大学経済学部・森田健司教授の名があがっている。明治時代中期 に撮られた「農村の子どもたち」の写真 に言及しながら、「乳幼児期の死亡率」と「7歳までは神のうち」の関係と意味とを解いておられる。要所を引用する(下線山岸)。
冒頭に示したのは、明治時代中期の農村で撮影された手彩色写真である。多くの子どもたちが、思い思いの表情で写っている。しかし、この子どもたちの中で、成人になるまで生きられたのは、どの程度だろうか。多めに見積もっても、10人中7人だろう。残酷な現実である。(中略)江戸時代中・後期における濃尾地方の調査では、一歳未満の乳幼児の死亡率は10パーセント台後半という結果が出ている(鬼頭宏『人口から読む日本の歴史』)。ほかの調査でも似たような数字となっており、江戸時代中・後期の農村においては、概ね2歳になるまでに2割の子が死亡していたと考えてよいだろう。
 7歳までは神のうち───かつての日本には、このような悲しい言葉があった。簡単に言えば「7歳まではいつ死んでもおかしくない」という意味である。女児の背中に括られていた赤子は、いつ神様の元に帰ってしまうかわからない「脆い存在」だった。(中略)
 農村から都市に奉公に出た男性たちは、相当な割合で、家庭を持つこともなく亡くなった。また、農村に暮らす多くの女性は、出産の際に身体に多大なダメージをこうむり、若くして死亡することも珍しくなかった。更には、乳幼児期で人生が終わっている赤子たちもたくさんいたのである

s1 森田氏によるこの記事を読むと、乳幼児の死亡率が高い原因は、当時の医療水準の低さが理由であったように読める。「7歳までは神のうち───かつての日本には、このような悲しい言葉があった。簡単に言えば『7歳まではいつ死んでもおかしくない』」と書いておられるからだ。この説明はこれで間違ってはいない。だが、この「7歳までは神のうち」という言葉私は「7つうちは神のうち」と覚えているには、昔は数え年の7歳までは《人間》の世界に属するものとは考えないという思想もあったのだ。したがって、貧しい家庭、とりわけ貧農家庭では、生まれた赤子を「神様にお返しする」と言って“殺す”こともあった。「桟俵(さんだわら)」と呼ばれる、米俵(こめだわら)の両端に当てる、藁(わら)で編んだ丸い蓋(ふた)に、生まれたばかりの赤子をくくり付けて、多くは川に流した。たとえば、秋田県の能代川の上流地方にそうした悲しい話が残っている。民俗学の祖・柳田国男は、東北地方の僻村のある家で改築しようと家を取り壊したところ、地殻臼(じがらうす)が置いてあっs2たところから、入れ物に2杯くらいの子供の骨が出て来たということを報告している。昔の人たちはそれを「赤子を殺した」とは捉えずに、「神にお返しした」と考えたのだ我が子に手を掛ける残酷な自分たちに無理矢理そう言い聞かせたのではないかとも思う。自宅の土間・地殻臼の下に埋めたということは───私の推測を交えて言えば───おそらく、今は貧しくてお前の面倒はみられないけど、いつかよい時季が来たら、またこのうちに生まれておいでというせめてもの親心からだったのではないかあるいは近隣に川や海がなかったからなのかも知れないが
 以上のようなことから、単純に、「7歳までは神のうち───簡単に言えば『7歳まではいつ死んでもおかしくない』という意味である」とは割り切れないことがわかるだろう。

昨年の今日、冠動脈バイパス手術を受けた(続)。

第1回、第2回の入院でつらかったことは少なからずあったが、その中で3つ、今でも私から消え去らない《激痛》と《羞恥》とがある。

bp2 1つ目(こちら参照)は、点滴静脈注射を受ける際に、看護師が行ってくれる、左手首あるいは右手首への注射針の留置作業で、私の血管の場所が探しにくかったことと、担当してくれた男性看護師の技術が“未熟”だった(?)こととから、注射針の留置に7回も失敗し、結局は特別の器具を持ち込んでようやく成功した。そのたびに私は激痛を味わった。シーツを血で真っ赤に染めたことは言うまでもない。女性看護師の1人からも同じ失敗と痛みとを経験させられた。彼女の場合は4回失敗し、5回目で成功した。
 
 2つ目は、書きにくいことだが、尿道カテーテルを挿入する時の激痛だ。この時の痛みは、それを経験した者でなくてはとうてい分からないだろうこちらに経験談が、こちらに挿入図が掲載されている。局部麻酔でもしてくれるのならよいが、麻酔は用いずにその作業を行うために、私が経験した痛みは形容 しずらい。これを抜く時の“違和感”も名状 しがたい。この作業を30代半ばあるいは後半と思われるK医師(女性)は、当然の医療行為として、淡々とこなされたわけだが、患者である私は“優しい”K医師が、その時ばかりは“鬼”にさえ思えた!

 3つ目は、これはさらに書きにくいことだが、手術後、ICUと一般病棟とで“便意”(特に大便)を催した時のことだ。小便は尿道に直接的に管を通しているので心配はなかったが、大便は看護師の世話にならざるを得なかった。ICUでは手術前から何も食べていなかったから、食事を摂るまでは何の心配もなかったが、食事を済ませたあとで便意を催した時には、正直なところ、大いに困った。「車椅子かウォーカーを使えば、トイレまで行けますから、連れて行って下さい」と懇願したが、トイレはICUの外にあって、衛生上の理由から患者を室外に連れ出すことは出来ないと、固く断られた。古稀を過ぎた男でも男には違いない。うら若き女性看護師の皆さんに老体の“汚物”の処理をしてもらうことは出来れば避けたかった。だが、私のそうした“羞恥心”は私の側だけが持っているもので、女性看護師のみなさんは自分たちの仕事、看護師の役目として、そういう作業に躊躇(ためら)いはなかった。
 
 同じことが、一般病棟に移り、病院食を口にするようになってからも起こった。私の世話をしてくださった看護師のSさんは、数十人いる女性看護師の中でも群を抜いた長身の美人で、年齢もまだ23、4だった(もっと若かったかも知れないし、もっと年取っていたかも知れないが)。「便意を催したので、トイレに連れて行っていただけますか。自力で行けますから」と懇願したが、「まだ担当の先生のbp1許可も出ていませんし、自力でトイレに行ける状態ではありませから」と許可はもらえなかった。「差し込み式の便器を使用して下さい」としっかりとした口調で言われ、その通りにせざるを得なかった。この時は私の人生の中で、もっとも“羞恥”を感じた瞬間だった。本当に恥ずかしかった入院中の“羞恥心”は捨てた方がよいのだが…。それだけに、私の“汚物”を処理し、私の下半身を清潔にして下さったS看護師に心から感謝した。涙が出るほどうれしかった。こういう思いを私と同様に、ほかの患者さんたちも感じるのではなかろうか。看護師の存在とその仕事は本当に尊い、患者にとってはありがたいものだと思う。私の妻も、病状が悪化してから、私に排便の始末をしてもらうことを、女性としてさぞや辛く、悲しく、情けなく思ったことだろう。

 以上の3点が、退院後、1年近くが経過した今も鮮明 に覚えている《激痛》であり《羞恥》である。それまで《当たり前だと思っていたこと》、つまり《健康に恵まれていること》がどれだか有り難いことか、金銭に代え難いものであるかということを嫌というほど味わった。

昨年の今日、冠動脈バイパス手術を受けた。

昨年の今日、N病院で冠動脈バイパス手術を受けた。手術に当たって下さったのは心臓血管外科医のI、K、N、C、Yの5名の医師で、その時の私の病名は「心筋梗塞」だった。
 第1回の入院は 5月6−20日の15 日間で、体内に溜まった大量の水を抜くことと、手術に向けての精密検査を行うことが目的だった。その時の担当医は循環器内科のK医師で、疾患名は「うっ血性心不全虚血性心疾患」だった。

o 第2回 は6月3日の入院、最終的な検査(血液検査、心電図検査、尿検査、一般撮影検査等)を行ない、上記したとおり、7日の手術となった。執刀医、麻酔医、内科医、看護師、総計14、5名の方々が私に関わってくださった。手術自体は全身麻酔が効いているので、患者である私 には、何がどう進んだのかは全く分からなかったが、息子のこちらでの報告 にあるように、朝の9時頃から18時過ぎまでかかった。手術自体 は約7時間、全体では約10時間弱とのこと。ICU(集中治療室)で目が覚めたのは手術から3日後のことだった。術後の感染症を防ぐために、そこには5日間いてから一般病棟に移った。入院は3週間で、退院日は23日だった。(ICUの看護師の皆さんの“プロ精神”には敬服あるのみだった。)

 この2回の入院で思ったこと。それは「生きているのではなく、生かされている」ということだった。このことを実感した。いや、痛感した。大学生だった時代(昭和38 [1963]−42 [1967]年)、大学院生だった時代(昭和42 [1967]−昭和47 [1972] 年)に私が同じ病気を患っていたなら、私 は間違いなく死んでいただろう。当時 はまだ我が国には冠動脈バイパス手術は一般的ではなo3かったはずだからだ。医学面のことはまったくの素人だが、こうした医学の進歩に貢献してくださった外科医の方々に、心から感謝したい。

 何度も書いたことだが、私の最愛の妻は膵臓癌で平成21[2009]年9月3日に亡くなった。膵臓癌が「癌の中の癌」、「沈黙の殺し屋」と言われ恐れられて、今のところまだ早期発見法、手術法などが確立されていない。それだけに、私のほうが医学の恩恵を多く受けられたということだ。

 第1回の手術のあと、私は《遺書》をしたため、遺された者たちが戸惑わないように身の回りの整理もした。したがって、第2回の手術で手術台に横たわった時、私は死を覚悟していた。一般病棟に移ってからは、何度も“不整脈”に苦しみ、そのたびに主治医の世話になったが、正直なところ、私の心は穏やかだった。死への恐怖も心配も何もなかった。その理由は簡単で、「生あるものは皆死ぬ」という当たり前のことを自覚できていたからだ。特に、妻を先に逝かせていからはその思いを強くしていた。古稀まで生きれば十分だ(あとは余禄だ)。

o2 しかし、優れた医師団のお陰で、私は命を長らえた。大量の輸血を受けたことも忘れられない。だから、余計、「生かされている」という思いを強くしている。朝、目が覚めて、《生存》を確認するたびに、私は私に「余禄の人生」を与えてくださった諸先生(とりわけ執刀主任のI 先生)・看護師・薬剤師・血液ドナーのみなさんに感謝する。そうした《生》をありがたく全(まっと)うさせていただこう。病院関係者を除けば、私が一番感謝しているのは、我が小家族の者たちだ。入院中はもちろんのこと、入院前後にも本当によくしてもらった。

【注記1】写真は YouTube および Wikipedia より拝借。
【注記2】昨年は上記のとおり、私が入院中だったので言及できなかったが、今から5年前の今日(6月7日)、我が同僚で学友の原口庄輔先生が亡くなった。時の経つのは早いもので、原口先生とお別れしてからもう5年という年月が経った。先生には、生前のご厚情・ご厚志・ご指導に対し、改めて心からの御礼を申し上げると共に、先生のご冥福をお祈りする。合掌。

seldom ever という表現

Wiktionary で seldom の項を見ていて、次の説明が載っているのに気付いた。

It is grammatically a negative word. It therefore collocates with ever rather than never. Compare he seldom ever plays tennis with he almost never plays tennis.

 これによるとseldomという副詞 はそれ自体が否定語だから、同じく否定語の never ではなく、ever と共起するということになる。説明文 には、he seldom ever plays tennisという用例が添えてある口語文では珍しくない語法だ
 だが、この説明 は、伝統文法的に言えば、seldom を hardly と取り違えた説明ではないかと思う。hardlyならeverを伴ってhardly everと言うことはごく普通だ。どうしても seldom を使いたいというのであれば、seldom, if ever のような書き方をすればよいrarely ever も rarely, if everと書きたい。したがって、he seldom ever plays tennis を伝統文法に従って書けば以下のようになる。
He seldom plays tennis.
He seldom, if ever, plays tennis.
He hardly ever  plays tennis.
 以下のような例文を拾うことは容易だが、私の目からは、これらも正用法とは認めがたい(ただし、「伝統文法的観点から言って」という意味でだ)。
*I seldom ever go to the doctor and always try home remedies first.
* We seldom ever go to Harrisburg because of the ripp-off parking and very shady people everywhere. 
【付記】ちなみに、同じWiktionary のhardly の項には In the sense "barely", it is grammatically a negative word. It therefore collocates with ever rather than never. という説明がある。

《法的責任》と《道義的責任》

俳優の橋爪功氏(75)の長男で、同じく俳優の橋爪遼容疑者(30)が覚醒剤取締法違反(所持)の疑いで2日に逮捕されたことは周知のとおり。それに関して、ビートたけし氏 (70) は、3日に出演したテレビ番組で「30だよ。大人なんだから親父に責任はないよ。」と発言したそうだ(出典こちらこちら)。報じられている詳細は次のとおり。
たけしは「30だよ。大人なんだから親父に責任ないよ。親父が有名人だからって、ずっとインタビューに答えないといけないのか、ってのもないし。悪いのはせがれで、バカなんだから。これほど芸能界が麻薬でワーワーワーワー言われてる時に…困ったもんだよ」と“2世タレント”の不祥事で、親が謝罪する風潮 にクギを刺した。
w たしかに、成人した息子や娘が何らかの犯罪に手を染めて、警察 に逮捕されたような場合、「大人なのだから、当人の責任だ。親父 [おふくろ] に関係ない。」と言える。だが、それはあくまでも《法的責任がない》という意味のはずであって、《道義的責任もない》という意味ではないはずだ。
 ビートたけし氏がどういう意味で「親父に責任はない!」と発言したのかは上の引用文からだけでは分からない。仮に「全ての責任は容疑者本人にある」という意味が含まれているとすれば、私はそれは違うと思う。
 それを押し通せば、たとえば、あらゆる形の犯罪(たとえば、殺人罪、死体遺棄罪、傷害罪、誘拐罪、強姦罪、凶器準備集合罪)に関与したことが立証されたような場合にも、容疑者・犯人の親は「大人である本人がやったことだ。私には無関係だ。」と言うことになり兼ねない。日本の文化では、現在でもまだそういう神経でいられる親はいないのではないか(将来ともにそういう神経が一般的にならないことを願う)。

 過日、性的暴行で逮捕された高畑裕太容疑者(24)の場合にも、母親である俳優の高畑淳子氏(62)は記者会見を開いて裕太容疑者に関して涙ながらに謝罪した。「そこまで平身低頭でやらなくても…」と感じるところもなくはなかったが、あれが日本の一般的な親の姿勢だろう。また、一般国民が容疑者の親に対して望む、あるいは期待する謝罪の一形式だろう。

 繰り返すが、私は今回の橋爪遼容疑者の場合、著名な親である橋爪功氏に《法的責任》はまったくないが、その養育に全面的に関わって成人を迎えさせた親としての《道義的責任》はあると思っている(ただし、橋爪功氏が息子の覚醒剤取締法違反・所持に何ら関与していないという前提だ)。《法的責任》と《道義的責任》とは区別すべき責任だ。昨今、この両者が混用されているように思えて仕方がない。

【後刻記】フリーアナウンサーの小倉智昭氏(70)も、「息子のために父親が自粛するなんてことはあっちゃいけない」と異論を唱えたそうだ(出典こちら)。要所を引用。

 小倉は5日放送のフジテレビ系「とくダネ!」で、「30歳にもなって覚醒剤で捕まった息子のために、父親が自粛するなんてことはあっちゃいけないと思うよ」と憤慨。「同じ芸能界で仕事をしているからかもわかりませんが、親が責任を感じて仕事を自粛しなければいけないって、それが当たり前のようになっているけど、僕は違うと思う」とコメントした。

「密会」に対する英語表現

暇にあかせて手元の電子辞書をいじっていた。その中には和英辞典の大型のものと中型のものと二種類搭載されている。たまたま「密会」という語を引いた。大和英のほうには「 a clandestine [secret] meeting; a rendezvous; a lover's tryst」とあり、中和英のほうには「a secret [clandestinemeeting とあった(共に用例は省略する)。

 「密会」という語に対して、国語辞典 (たとえば『デジタル大辞泉』)は「ひそかに会うこと。特に、男女が人目を忍んで会うこと」と定義している。しかし、現実的には、たとえば、「政治家たちの(赤坂での)密会」というように、必ずしも男女の《忍び合い》ばかりではなく、あくまでも「ひそかに会うこと」という意味で用いられることも多い。

s この中で rendezvous は単に、約束による会合[集合]、会合の約束などの意味があり、必ずしも「密会」とは直結しない。その意味を持たせるには、たとえば、 secret rendezvous とする必要がある。alover'stryst tryst は文語であり、恋人同士の「密会」に用いることができるが、おどけた響きを持つことが多いので要注意の語だ。clandestine meeting という場合の clandestine は違法行為・陰謀目的で集まることを言うことの多い形容詞でもあり、「発見される[見つけられる]ことを恐れる」という含みもあるから、特定の文脈がない場合には使いにくい。いろいろ考えると、secret meeting、(特に男女の場合は)secret rendezvous が一番無難な言い方だということになる。
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