日本人学習者が好む接続詞 so

日本人学生が書く英語を長年見て来たが、接続詞の so が好みのようだ。I studied hard, so  I got a good grade.(一生懸命勉強したのでよい成績を取った)、 I'll give you 5,000 yen, so  don't waste it.(5千円あげるから無駄遣いしたらだめよ)などのような英文をしばしば目にした。文法的には間違っていない。だが、英語としては、前者の場合は弱々しい感じがするし、後者の場合は少々しつこい感じがする。私なら、それぞれ I got a good grade because   I studied hard. / I'll give you 5000 yen  don't waste it.のように書く。そのほうが、力強いし、簡潔だ。残念ながら、日本の学校では英語の時間にdash ()の意味・用法をきちんと教えられる人はほとんどいないのではないか

「求人募集中」?という言い方

ある語学学校の求人欄に「ただ今、求人募集中!  」と書いてあった。「(わが校が)める募集中!」だと解釈できなくもないが、「求人」も「募集」も同じことを言っている。「求人中」、「求人欄」、「求人係」とか、「人材募集中」、「店員 [社員・職員 ] 募集中」とかの言い方なら馴染みがあるが、「求人募集中」という言い方は私には馴染みはあっても、個人的には回避したい語結合だ。たしかに、一般社会でしばしば用いられる言い方だが、やはり違和感を拭えない。以下に類例を5例だけ拾っておく。
Recruit 求人募集中
求人募集中の店舗検索
求人募集中!一緒にはたらきませんか?
タクシードライバー(乗務員)求人募集中
求人募集中♪沖縄の体験ダイビングショップで、一緒に楽しく働きませんか?

Kindle版「続・その日本語表現、マズいのですが ―ネットで拾った誤用法―」

続・日本語表現 表紙 jpg表題のとおり、前著の続編として「その日本語表現、マズいのですが―ネットで拾った誤用法―」をAmazon Kindle版として原稿を送り、受け入れてもらった。「知らぬが仏」という、ちょっと人をからかったような古言があるが、小著は、そういう、人の粗探(あらさが)しをして悦にいろうなどという気持ちで書いたものでは毛頭ない。昔風に言えば「老い先短い」人間のひとりとして、自分の来し方を振り返る時、まず母語としての日本語をきちんと使って来たかどうかという反省をしたいのと、私よりも(ずっと)若い人たちに、まずきちんとした母語を話したり書いたりしてほしいという願いから、具体的な間違いをインターネット上に求めて、それをまとめたものだ。
 間違った語法を使い続けていると、それがそれを使う人の株を一段も二段も下げてしまうことがある。逆に言えば、身だしなみ同様、使用言語にきちんとおしゃれが出来る人は、それだけ“わかる人”から高い評価を受ける。昨今の若い人たちの容貌はまことに美しい。だが、ひとたび口を開けば、こちらが“恐怖”を感じるほどひどい言葉を発する。本人たちはそのことに気づいていないはずだ。私の願いはただ、1つ、「言葉にもおしゃれをしてほしい」ということだ。

Kindle版「その日本語表現、マズいのですが ―ネットで拾った誤用法―」

日本語表現表紙表題にあるとおり、その日本語表現、マズいのですが―ネットで拾った誤用法―をAmazonのKindleストアに電子書籍の1点として送った。
 いつも言うことだが、自分の日本語(あるいは英語)の間違いは自分ではなかなか気づきににくいものだ。誰かから間違いだということを教えて貰わない限り、たいていはそのままになってしまう。そのことを知らずに、テレビ、YouTubeなどで“堂々と”それを口にしたり、インターネット上、ブログ上、あるいはホームページ上に記載したりしている人が少なくない。
 日本人だからきちんとした日本語を話したり書いたりしているというのは“幻想”だ。間違った日本語を書いたり話したりしている人たちの中には著名な政治家・大学教授・(各分野の)評論家・新聞[雑誌]記者、ジャーナリスト等々が混じる。同じことは英語母語話者にも言える。これまでに“あやしい英語力”の“ネイティヴ・スピーカー”に何度も出会った。そういう人たちが書いた書籍もある。このことは本ブログでもしばしば証拠を挙げて論じた。

  本ブログの読者諸氏、旧山岸ゼミ生諸君には、小著を用いて“自己採点”を試みてほしい。人前に出る時、外出する時、我々は“おしゃれ”をするが、書いた物が他人の目に触れる時には、使う言葉にも“おしゃれ”を心掛けてほしい。「言葉は心 [思想] が衣を着たもの」なのだから。
 
 私の自己研鑽は「日暮れて道遠し」ということろだ。永遠に瞑目
(めいもく)するその日まで、脳と“心臓”が正常に働く限り、勉強を続けようと思う。
明治の豪傑、英語の天才、斎藤秀三郎は生前、「天国に行ってからも英語丈は勉強するよ、人間が此世で成し遂げる事が出来る仕事って高の知れたものさ」と語っていたという。斎藤の足元にも及ばない浅学の私だが、斎藤と同様の実感だけは抱き続けている。

「愚妻」という言い方;「愚〜」が付く言い方

YouTubeで「刑事鬼貫八郎」シリーズのうちの「十六年目の殺人」を観ていたら、次のような台詞が出て来た。
野上恭子(評論家;高畠淳子):「刑事さん、奥様は?」
鬼貫刑事(大地康雄):「愚妻が一人います。」
野上:「そういう謙遜の仕方が日本人は得意だけど、聞いていてあまり気持ちのいい言葉じゃあないわね。愚妻なんて、奥様の前で言わないほうがいいわよ。」
鬼貫:「……」
16nen 「愚妻などと女性を見下したような言い方はやめるべきだ」、「愚か妻とはなにごとか」などと息巻く人々が多くなって久しい。どうも「」という文字に抵抗感があるようだ。「愚息(ぐそく)」を嫌がる人も少なくない。「超有名な国立大学を出た息子さんを指して“愚息”だなんて、嫌みたらしい言い方だ。」、「一流大学を出て、一流企業に勤めている弟さんを“愚弟”だなんて、嫌なお兄さんだ。」等々の言い方がなされたのを耳にしたこともある。

 「」という文字には、「頭の働きの鈍さ」、「馬鹿正直」、「馬鹿にすること;あなどること」と言った意味があるが、ここで問題としている「愚妻」、「愚息」、「愚弟(ぐてい)」はいずれも、自己に関することに冠する謙称であったり、自己の謙称であったりする。

 有名女子大卒であって、才色兼備であっても、「愚妻」とへりくだることは珍しいことではなかったし、海外駐在が長いエリートビジネスマンであっても、親(とりわけ父親)から見れば「愚息」なのだ。兄から見れば「愚弟」だ(弟から兄を見れば「愚兄(ぐけい)」)。他人の弟であれば、当人がどれほど“愚かな弟”であっても、当人を敬っ「賢弟(けんてい)」と言う(自分の弟の場合、いくら賢い弟であっても「賢弟」とは言わないのが決まりだ)。昔は、手紙などでは、自分よりも年下の男性に対しても「賢弟」と言った。

 つまり、自分の身内の側を低めること、相手側を高めること、これが日本(語)文化の特色として昔から存在してきた習慣だ。それが、とりわけ戦後になり、欧米人のものの考え方が日本人の間に知られるようになってからというもの、多くの日本人が、贈り物をする際に言う「つまらない物ですが」、他人に食事を出す際に言う「粗餐(そさん)を差し上げたい」などに対して、「つまらない物ならくれるなよ」、「粗末な食事を出すなんて失礼でしょ」などとおかしな解釈を平気でするようになった。「日本人がなぜそういう言語習慣を発達させたのか」ということを知ろうとする学習も教育も戦後の日本では“意識的に”行われて来なかった! もちろん、その背景には戦後の「日本人洗脳教育・認罪教育」という目論みがあってのことだ。

 上の動画で評論家の野上恭子が「愚妻なんて、奥様の前で言わないほうがいいわよ。」と鬼貫刑事をたしなめているが、これは私に言わせれば“言い過ぎ”だ。“余計なお世話”と言ってもよい。鬼貫刑事の妻・鬼貫良子(左時枝)が「愚妻」と呼ばれることを嫌悪しているのでないかぎり、あるいはそう言及されることに抵抗を感じているのでないかぎり、それは夫婦間の問題であり、他人がとやかく言う筋合いのものではない
 
settaku 今の若い人たちのほとんどは「愚妻」、「愚息」、「愚兄」、「愚弟」などと言った語の意味も用法も知らないであろうし、またそれは仕方のないことだ。言葉は時代や世の中の動きを映す鏡だから、人々が「」の付く言葉を使わないようになれば、それらは自然と消滅していくものだ。ただ、我が先人たちが大切にして来た「謙譲の美徳」、「謙称」といったものを現代の“物差し”で測って、その価値を決めようとするのはやめるべきだと私は思う。

【追記】たとえ“大豪邸”に住んでいても、他人に言う場合は「拙宅(せったく)」、「小宅(しょうたく)」と謙遜し、どれほど学問的に優れた内容の論文であっても、自分の書いた原稿に言及する場合は「拙稿(せっこう)」と言うのが社会人の常識だ。

AMAZONのキンドル電子書籍に10点アップした。

論語読みの論語知らず」、「(きょう)読みの経知らず」などという言葉がある。その意味を(深くは)知らずに、ただ読んだり唱えたりして分かったつもりでいるような場合に用いるものだ。これを我が国の多くの英語学習者に当てはめれば、「英語習いの英語知らず」ということになる。
 私の残りの人生も限られたものになって来たので、「英語の心」を出来るだけ文字にして書き残しておきたいと思うようになった。そこで慣れないパソコンいじりをして、Amazonの「電子書籍」の店である「キンドル・ストア」に出品するために、書式設定の勉強をしたり、表紙作成に大いに苦労をしたりしながら10点ほどの小著を作成した(こちら参照;黄色表紙の『まねてはいけない!マズい英語』だけは学研プラスから出版したもののキンドル版)。短いものは20頁前後か、40頁前後のものだが、100頁を超えるものも混じる。
 全てを素人の私が行なったものであるから、Amazonの要求する“形式”を整えたに過ぎないと考えていただきたいが、書かれている内容な私の血であり肉である。2020年の東京オリンピックに向けて、本物の「“おもてなし英語”の心」を学ぶための一助にしていただければ幸いである日本語の「(もてなし」と英語の hospitality とは本質的に異なるものなのだ)。


わが国の英語教育と英語辞書に思う…

m1近所の大型スーパーに入っている中規模の書店は毎春、新学期に各種の辞書を平積みで並べる。先日、そこに長年勤めている店員の一人に聞いたところ、ここ数年、辞書の売り上げは右肩下がりらしい。つまり、辞書の需要が減っているということだ。

 前に何度か書いたことがあるが、我が家から2キロほどしか離れていないところに、三角形を描くように県立高校が3校ある(こちら参照)。最近も、そこの生徒たちのうち、1年生 30人2年生 20人に、「英語の先生はあなたたちに新学期に英語の辞書およびその有用性を紹介したり、使い方を説明したりしますか」と聞いてみた。その結果、「詳しく説明してくれる」と答えた生徒は皆無、「少し [時々] 説明してくれる」と答えた生徒が 6人、「全然説明してくれない」と答えた生徒が残りの 44人だった。つまり、9割の生徒は英語の辞書の使い方を教わることはないということになる。「少し [時々] 説明してくれる」と答えた生徒たちの場合も、その精密度・適切度は怪しいものだと疑わざるを得ない
 3校、50人の生徒に共通していたことは、どの高校の場合も英語教師は生徒たちに某社の“英単語集”を1冊だけ持たせて“事足れり”としているらしいということだ。あとは教科書の末尾に付いている「単語リスト」で済ませているようだ。

 少なくとも私が調べた限りの高校や中学校【息子が卒業した中学校の1年生の生徒約10名、2年生の生徒約10名に高校生の場合と同じ質問をした】での“英語教育”は惨憺(さんたん)たる現状のようだ。

 続いて、「紙の辞書を持っている級友はいますか」という質問には、50人のうち 3だけが「はい」と答えた。「それでは電子辞書を持っていますか」という質問には 4が「はい」と答えた。

 私の推測では(また、いつも言うことだが)、英語の教師自身が辞書の威力も魅力も知らないままに英語教師になっている場合が少なくないようだ。そうでなければ、これほど惨憺たる現状に陥(おちい)るはずがないだろう。多くの中学・高校では「英語学習もどき」をやっているのではないかと疑わざるを得ない。
 ちなみに、「あなたの英語の先生は教室に英語の辞書(英和・和英・英英)を持って来たことがありますか」という質問に、全員が「ありません」、もしくは「見たことはありません」と答えた。また、「ふだん、英語の先生は教員室その他で英語の辞書を使っているようですか」という質問には全員が「見たことはありません」、もしくは「わかりません」と答えた。それを聞いて、私は正直なところ、“英語教員は本当に存在するのだろうか?という暗澹(あんたん)たる気持ちになった。

cb4 書店にうずたかく積まれた、あるいは書棚に多数並べられた英語検定、TOEIC等の問題集を見るたびに、私は、わが国の英語教育はどこかで進行方向を間違ったまま、またそれを修正する努力もしないままに遊弋(ゆうよく)して来たのではないかと思ってしまうのだ。

【付記】インターネット上の「Yahoo英語質問箱」に掲載される多数の質問のレベル・内容を検討してみても、上記したような私の疑問はふくらむばかりだ。

「スカートめくり」の原型(?)のこと

我が家の近くにある小学校の下校時のこと。小学3、4年生の男児一人が、同じく小学3、4年生の女児5、6人を小走りに追い抜きざま、女児の一人のスカートを、持っていたこうもり傘の先で、クルッとめくった。女児は「あっ、ナニすんの! スケベ―! 」と怒って言った。いわゆる「スカートめくり」の一種だ。最近はこういうことをやる男児が少なくなったので、「珍しい光景だ」と思った。

 昨今、「スカートめくり」は社会が認めない“セクハラ行為”の一種になったし、またそれは時代に適応した考え方だとも言えるが、こういう行為自体を《有無も言わさず忌避する》のは我が国の“遊びの文化”を問答無用で否定することに繋がるだろう。
 

kimono 昔(近いところでは大正時代まで)、日本の男児・女児が日常的に着物を着ていた時代、男児・女児の区別なく、着物の後ろ裾(すそ)を腹のあたりまでたくし上げて、集団で走り回り、そのうちの誰かが気を緩めたのを目ざとく見つけた者が、その後ろ裾をさらに上までめくって“尻”を露出させて笑うという“遊び”があった。【左の写真はこちらから拝借した】

 近代になると男児はズボンを履くようになったが、女児はスカートを履くようになり、したがって、「後ろ裾めくり」の“遊び”の対象が女児に向かったのは至極当然のことだといえよう。

 現代の「スカートめくり」を肯定するわけではない。なぜなら、それをされて喜ぶ女児はいないだろうから。だが、そういう男児がやりがちな行為は、昔から今に残る一種の“遊び”であり、あまり“目くじら”を立てて騒ぐほどのことではないと私などは思う。今日的には、「セクハラだ!」などと声高に叫ばなくとも、「人が嫌がることはしてはいけない」と教え諭(さと)す程度で好いだろう。


【参考】今日的「スカートめくり」に関するQ&Aがあちこち(たとえば)にある。

日本の童謡・唱歌の誤訳(7)―「紅葉(もみじ)」から

高野辰之作詞「紅葉(もみじ)」の誤訳を見てみよう。某氏はその1番を次のように訳している。
秋の夕日に 照る山紅葉
濃いも薄いも 数ある中で
松をいろどる 楓(かえで)や蔦(つた)
山のふもとの 裾模様(すそもよう)

Tinted autumn red leaves glow bright in the setting sun.
Among various kinds of very deep or light color;
Maple trees and ivies, making pine trees look better,
At the foot of the mountain is ‘the skirt design'.
 原詞には「秋の夕日に 照る山紅葉 / 濃いも薄いも 数ある中で」とあるのに、某氏の英訳の冒頭には Tinted autumn red leaves と“tinted”を使っている。この形容詞は「かすかな、または薄い色合いの」という意味だから、「薄い色の紅葉」に力点がある。
 また「松をいろどる 楓(かえで)や蔦(つた)」を Maple trees and ivies, making pine trees look betterと訳しているが、原詞が言っていることはあくまでも「松をいろどる」だ。「よりよく見せる」ということではない。
 最後の「山のふもとの 裾模様(すそもよう)」は「松をいろどる楓や蔦が山のふもとの裾模様になっている」と言っているのであって「スカートのデザイン」(‘the skirt design')だと言っているのではない。1番を私の原詞の理解によって英訳すれば次のようになる。

Sunset on the mountains, the fall trees aglow 
Brilliant shades of autumn ― crimson red, tan, yellow
Maple leaves and ivy adorning the tall pine trees 
Weave a beautiful pattern here at the foot of the mountains

日本の童謡・唱歌の誤訳(6)―「赤い靴」から

続いて、野口雨情の作詞で知られる「赤い靴」の誤訳を見てみよう。某氏はその1番を次のように訳している。
赤い靴はいてた女の子
異人さんにつれられて行っちゃつた

Red little shoes she used to wear, 
My dear little girl.
She was taken away by a foreigner one day.  
 この英訳を逆に日本語にして考えれば、少女は「以前はよく赤い靴を履いていた」という意味になり、「今はもう履いていない」ということを臭わせる。だが、原詞はそんなことは言っていない。原詞はあくまでも「赤い靴はいてた女の子」なのだ。それ以上でもそれ以下でもない。
 さらにそのあとの She was taken away by a foreigner one day. だと、その少女はある日「どこかの外国人に連れ去られた」としか読めない。まるで“人さらい”か“少女誘拐”のような感じさえする。私ならこの個所は次のように訳す。それが雨情の原詞から私が感じる《赤い靴の少女像》だ。

A pretty little girl with red shoes on has gone overseas 
By her side a blue-eyed man from overseas

 この歌に対する某氏の残りの英訳の問題点については省略する。日本人だから日本語が読めているとは限らないということをこれまで見て来た例は私たちによく教えている。

日本の童謡・唱歌の誤訳(5)―「月」から

作詞者・作曲者不明の童謡「月」の誤訳を見てみよう。某氏はその1番を次のように英訳している。

出た出た 月が
moon
まるいまるい まんまるい
盆のような 月が

Comes out, comes out, the full moon 
Really round, really round, perfectly round
Just like a tea tray, the full moon. 

moon2まるいまるい まんまるい」をReally round, really round, perfectly roundと訳していることのreally(じつに)と perfectly(完璧に)の意味のズレについては今は脇に置いておくとして、私が一番まずいと思うのは「盆のような月が」をJust like a tea tray, the full moon.のように「盆=tea tray=full moon」と考えている(らしい)点だ。
 某氏も「言われてみればそうだ」と納得してくれるだろうが、「」は何も円形のものばかりとは限らない。楕円形のものもあれば正方形長方形といったものも多い。したがって、原詞が言っている「」はあくまでも「丸い茶盆」だということを明示する必要がある。従って、私なら次のように訳す。

Came up, came up, the full moon 
Round, round, round as could be
The full moon as a round tea tray

日本の童謡・唱歌の誤訳(4)―「城ケ島の雨」から

北原白秋の手になる「城ケ島の雨」。この詞の冒頭を某氏は次のように英訳している。
雨はふるふる 城ケ島の磯に
利久鼠の 雨がふる
雨は真珠か 夜明けの霧か
それともわたしの 忍び泣き

It’s still been raining  / at  Jougashima beach.
Its color is  / greenish gray.
The rain looks like a pearl  / or like a mist at dawn.
Or maybe it’s my  / sobbing  tear

j 1行目の It’s still been raining のような言い方だと白秋は、降り続いている雨、まだやまない雨を眺めているように響く。だが、私はちょっと異なった解釈をする(後出の試訳参照)。それと「城ケ島の磯に」を at Jougashima beach と訳しているが、城ケ島は白秋の時代も現代も断崖や海蝕崖(かいしょくがい)が多く、 beach と呼称するのが適当な形状の場所があったとは思えないしかも前置詞に、狭い場所を連想させる at を使っているのも不自然だ。あえて“砂浜” (sandy beach ) を探すとすれば、「白秋・歌碑」(左写真)の立っている周辺の小規模な場所だけだろう。後年、城ケ島大橋の建設や、その周辺の埋め立てが行なわれたために、白秋が見た城ケ島の姿は大きく様変わりしたはずだから、当時の形状を正確に言うことは出来ないが、私は、城ケ島を形容するのに最も好ましい語は rocky shores だと思っている。【こちらの城ケ島の航空写真も参照】

 「雨は真珠か 夜明けの霧か」もThe rain looks like a pearl / or like a mist at dawn.  などとしているが、これは「雨は真珠に例えるべきものか、それとも夜明けの霧と称すべきか」と言っているはずだ。したがって、私なら以上のことを踏まえて、次のように訳したい。
The rain is falling, falling, over Jogashima's rocky shores
The greenish gray rain is falling softly without an end
Should I compare this shimmering rain to a pearl or the pre-dawn mist
Or to my own quiet tears?
 某氏のこれに続く英訳の問題点については省略する。

パソコンがウイルスに感染する時

virus私は英語圏の童謡 (Children's songs)・民謡(Folk songs) を取り扱ったサイトを頻繁に利用する。もう7、8年前のことだが、アメリカの民謡を集めたサイトを見つけたので、そのうちの目的の歌の題名を何気なくクリックした。即、ウイルスに感染してしまった。しかも、そのあと、Your computer is infected with a virus ―Call this number...だったと記憶するが、要するに、「あなたのパソコンはウイルスに冒されました。これを除去するには次の番号に電話を掛けてください」というメッセージが出た。「やられた!」と思った時はもう“手遅れ”だった。幸いなことに、息子がパソコンに詳しいので、息子の手を借りてソフトを導入することなくウイルス除去に成功した。その頃、私一人であれば、ひょっとするとそこに書かれている番号に電話を掛けて、勧められるままに対策ソフトを購入していたかも知れない。これはいわゆる「マッチポンプ」(自分で火をつけておいて、“消火してやるよ”と持ちかける悪質な行為)だと言えよう。法務省管轄支局の名を騙(かた)って詐欺を働く不埒者(ふらちもの)がいるように、パソコンの世界では Microsoft 社の名を騙ってanti-virus software(ウイルス対策ソフト)を売ろうとする連中もいる。

 先日来書いているように、世の中には本当に悪質な人間が多い。人が困ること、悲しむこと、悩むことなどを“カネ”にさえなれば、平気で行う。一般人の“警戒”には出来ることに限りがあるから、そういう悪質な連中の餌食になってしまう。教え子たちの話だと、“アダルト”の世界にはウイルス被害が多いそうだ。接近する一般人に“後ろめたさ”があれば、要求されるカネを支払ったり、ウイルス除去ソフトを購入したりするというのだ。

 私がその“餌食”になったのは、“健全”だと思って接近したサイトだったし、内容的にもそうだと思えたのだが、それ以来、その種のサイトでさえ、クリックするのが怖くなったことも事実だ。現在は、息子が強力なウイルス対策ソフトをインストールしてくれているから、一応安心できているが、“敵”もさるもの、絶え間なく“魔の爪”を磨いているようだ。お互い気を付けたいものだ。

迷惑メールは本当に“迷惑”だ

ご注文の品を本日発送致しました」、「ご注文の品をご確認ください」、「不在確認のご連絡」、「宅配便でお送り致しました」、「先日はありがとうございました」、「先日は楽しかったです」、「ご無沙汰しています」…これらはいずれも私のメールアドレスに送られて来た“迷惑メール”の件名の文句だ。心当たりのある人の中には、それを“開封”する人も少なからずいるのではないか。

 私は家族・友人・知人・同僚など、近しい者たちからのメールでなければ“迷惑メール”に直行するようにしているから、その種のメールを開くことはない。
virus ただし、一度だけ、大学院で教えたことのあるスリランカの女子院生の名で届いたメールを、馴染みのある名前だからということで開封して、即、ひどいウイルスに感染し、除去作業で大いに困ったことがある。こちらに馴染みのある名前を使われた場合には“魔手”に掛かりやすい。

 毎日、かなりの数の“迷惑メール”が届くが、結局は“振り込め詐欺”などと同じで、こちらが気を付ける以外に処方箋はないだろう。それでもその種の詐欺に引っかかったり、開封厳禁のメールを開封してしまったりするということは日常的にかなり頻繁に発生しているようだ。世の中には、人を困らせたり騙(だま)したりすることに何の罪悪感も抱かない輩が少なくない。お互い、そういう輩の“餌食”にならないように気を付けたいものだ。

法務省管轄支局を騙(かた)る詐欺手口

昨日、「消費料金に関する訴訟最終告知のお知らせ 訴訟管理番号(そ)***」と書かれたハガキが亡き妻宛てに届いた (ここでは番号だけは***に換えた。妻の死後、8年9か月も経ってこんなおかしなハガキが届いたことと、私の妻が“契約不履行”などという反倫理的・反社会的なことをするはずがないという確信とから、これは間違いなく“詐欺”の一種だろうと結論した。次のような文面のものだ。

この度、貴方の利用されておりました契約会社、もしくは運営会社側から契約不履行による民事訴訟として、訴状が提出されました事を改めてご通知致しますとともに、訴訟取り下げ最終期日を経て裁判を開始させていただきます。また、このままご連絡なき場合は、原告側の主張が全面的に受理されまして裁判所の許可を受けて執行官立会いのもと、現預金や有価証券及び、動産や不動産物の差し押さえを強制的に執行させて頂きます。
尚、訴訟取り下げなどのご相談につきましては当局にて承っておりますので、下記までお問い合わせ下さい。
この度は、民事訴訟に関するご連絡となりまして、個人情報の保護や守秘義務などが御座いますので、ご本人様からご連絡頂きます様お願致します。
                              ―
  訴訟取り下げ最終期日 平成30年5月30日

 取り下げ等のお問い合わせ相談窓口
  03−4218−7800
 受付営業時間(日、祝日は除く)
  平日 9:00〜20:00 /土曜日 11:00〜17:00

 法務省管轄支局 国民訴訟お客様管理センター
 〒100−8977 東京都千代田区霞が関1丁目1番10号

 ざっとこんなふうだが、差出人は「法務省管轄支局 国民訴訟お客様管理センター」となっており千代田区霞が関の所在地まで書いてある。だが、法務省のホームページにはこれが「詐欺」の手口だと明記してある。独立行政法人・国民生活センターの話だと、実害がかなり発生しているとのこと。

ishi 石川五右衛門が遺したと言われる名文句、「石川や 浜(はま)の真砂(まさご)は尽きるとも世に盗(ぬすびと)人の種(たね)は尽きまじ」 ではないが、いつの世にも悪人は“健在”だ。私はまだ用心深いほうだと思うが、この種の詐欺に (比較的容易に引っかかる人たちが増えているそうだ。こういう深刻な問題には、法務省・警察・消費者 [国民生活] センター等の適切な対応・啓発運動が必要だが、個人個人が高い問題意識を持って、自己防衛を図る以外に良策はないだろう。怪しいと感じることがあれば、被害者にならないように、地元の警察や国民生活センターなどに相談することだ。【付記】本ブログ読者諸氏もこうした悪質な詐欺師の餌食にならないようにくれぐれもご注意いただきたい。(五右衛門のイラストはWikipediaより拝借

加藤寛治衆院議員、野田聖子女性活躍担当相の発言に思う…

Yahooニュースに「<自民・加藤氏>『3人出産を』発言 『賛同、激励あった』という見出しで、「結婚式で新郎新婦に子供を3人以上産み育てるよう呼びかけていると発言し、その後撤回した自民党の加藤寛治衆院議員(72)=長崎2区=」に関する記事が出ていた(出典こちら)。「27日、長崎市で開かれた自民県連の定期大会で、『批判も甘んじて受けないといけないが、賛同と激励が多数寄せられたのも事実。けがの功名か貴重な意見を拝聴できた』などと述べた。」そうだ。

 「3人出産」云々は後述するとして、そこに出て来る「批判も甘んじて受けないといけないが」の「甘んじて」に関しては別途言及した(こちら)。「けがの功名か」という表現にも問題がある。なぜなら、「けがの功名」とは「失敗だと思っていたり、なにげなくやったりしたことが、思いがけなくよい結果になること」(『例解新国語辞典』)という意味だからだ。つまり、この場合の「けが」は“不注意”、“過失”という含みを大きく持った表現だ。ということは加藤氏は「子供を3人以上産み育てるよう呼びかけていると発言し」たことは、「その後撤回した」ことからも推測されるように、自分の“不注意”、自分の“過失”だったと認めたことになる。

 私に言わせれば、そういう“軟弱な持論”しか持ち合わせていないから、極めて当たり前だと思われる意見をちょっと非難されれば、すぐに撤回してしまうのだ。「人々に理解されないのなら」と、自説を曲げずに、進んで毒杯をあおって死んだギリシャ哲学の祖・ソクラテスに比するつもりなど毛頭ないが、政治家たるもの、もっと“信念”を“持論”とし、それを堅持してもらいたいものだ。

 加藤氏のこの意見に対して、野田聖子女性活躍担当相が、宮城・仙台市内で開催された日本産科婦人科学会の会合で、「物を作るわけじゃない」、「そういうことを言ったから子どもが増えるということでは決してない」と述べ、加藤氏を強く批判したそうだ(出典こちら)。
 
 野田氏のこの発言もあまりにも皮相(ひそう)的で浅薄(せんぱく)だ。加藤氏の発言は、何も全員の女性に、あるいは若い夫婦に向かって、義務として「子供を3人以上産み育てよ」と強制[強請]的に言ったわけではないし、医学的に、あるいは個々人の止むを得ない事情から子供を産み育てることの出来ない人たちにも「3人以上産み育てよ」と言ったわけでもない。

fam 明治37年 [1904年] 生まれの私の母は大正15年・昭和元年 [1926年] 生まれの長女を頭(かしら)に、昭和19年[1944年] 生まれの私まで、計8人を産み、全員を慈しみ、育てた。私の幼い頃は、大東亜戦争を挟んだ暗い時代で、たいていの日本人家庭同様、我が家も貧しかった。苦労の多かった母は、それでも平成3年 [1991年] 、87歳まで生きた。ちなみに、私のかつての同僚の一人は兄弟姉妹12人だった。近所に住んでいる私の知り合いは11人兄弟姉妹だ。そういう“多産”が求められる、またそれを“よし”とする時代だったことは事実だが、こういう多くの子供たちを世に送った女性の“活躍”を“活躍”と呼ばずに何と呼ぶのか。【イラストはこちらから借用】

 野田氏は女性活躍担当相だが、「女性の活躍」という意味を、「(家庭ではなく社会に出て働く女性たち」という意味でしか捉えていないのではないか。たしかに、かつての女性たちは家庭人であるのが普通であったし、今は時代が違う。だが、忘れてならないことは、「女性の活躍」とは、何も一般社会に出て、役所で、一般企業で、商店で、飲食店で、学校・幼稚園・保育園で働くことだけではない子供を産みたい、子供が産める、子育てが好きだという女性たちにはしっかりと数多く子供を産んでもらえばよい。それも立派な「女性の活躍」なのだ子育てを済ませて、再び一般社会で働きたいという女性たちにまた、好きな仕事場で好きな仕事をしてもらえばよい。それが可能な社会創りが大事なのだ

 女性を“犬”に例えて悪いが、我が家には5頭の柴犬がいた。今は3頭(♀♀♀)だけだが、5頭の時と同様で、それぞれが個性を持っている。うち1頭(♀はとにかく外に出ること、散歩を好む。特にクルマでのドライブが大好きで、息子が出すスピードに“酔いしれて”いる。クルマで釧路まで行って帰って来たこともある。別の1頭(♀)は“我が家”が大好きで、外に出たがらない。むりやり散歩に連れて行っても、何とかしてうちに戻ろうとする。うちでは“幸せそうな顔”をして眠っている。残りの1頭(♀)は、散歩に連れて行っても、とにかくのんびりとしていて、他の犬たちや私の歩調と合わない。だからその犬との散歩はいつもままならない。

 人間もこれと同じだ。女性の中にも、家庭で子育てをすることが好きな人、子育てがうまい人と、いろいろなタイプの人がいる。そういういろいろなタイプの人たちを念頭に置いて、加藤氏のような発言をして、いったいどこが悪いのか。何かと言えば、こういう発言に“ヒステリック”に反応する昨今の日本人ではない人々も混じるだろうがに私はいつも苦々しい思いを抱いている。
 「物を作るわけじゃない」、「そういうことを言ったから子どもが増えるということでは決してない」と力説する野田女性活躍担当相の発言は私の耳には“奇を衒(てら)った発言”のようにしか響かない。加藤氏は何も“子作り”を“物作り”に例えたものでもなければ、「そう言えば子どもが増える」と信じているわけでもないはずだ。あくまでも希望を述べたに過ぎないと私は思う。野田氏の発言は、これも昨今“はやり”の“揚げ足とり”に過ぎない。女性活躍担当相にはもっとおおらかな、大局的に物事を把握し理解する人を充ててほしいというのが私の希望だ
 
 繰り返すが、「活躍とは何も一般社会でだけ観察される人間の営みではない。遠い昔から、一般家庭内でも営まれて来た立派な行為なのだ。男性が女性に代わって家庭内で“活躍”してもよい(産児だけは不可能だが)。女性よりも料理・洗濯・家事・育児の得意な男性も少なくないはずだ。そういう場合、女性が男性に代わって外で“活躍”すればよい。もちろん両者が外で“活躍”してもよい。とにかく、“大臣”たる者は微視的に物事を捉えないことだ。

狛江市長の“セクハラ”問題に思う ― 伝統・慣習・風習の衰退…(続々々)

我が国には、昔、「雑魚寝ざこね」の風習があった。今でも「男女をとわず、おおぜいの人が同じへやに寝ること」(『例解新国語』)の意味で普通に使われるが、この語はもともと、豊作祈願が主目的で、若い男女が入り交じって神社などの定められた場所で寝ることだった。は「農耕・豊穣の神」の代理として、は作物に無くてはならない「水の神」の代理としてそこに参加した。“神の代理”とは言え、生身の人間であるから、当然、意気投合した男女が結ばれることも多い。そうした「雑魚寝」の場では男女は当然、お互いの体に触れ、あちこちを弄(まさぐ)りあう

 こういう風俗が普通に観察された我が国に、敗戦後、GHQ  【連合国軍最高司令官総司令部】主導による「日本人洗脳教育」が施され、為政者・学者(歴史学者・政治学者・社会学者等)・教育者・マスコミたちは欧米思想を喧伝した。そうした人々や組織は、それまでの我が国の文化・風俗・習慣を一段低いものとみなし、盛んに欧米の思想・文化のほうが優れているかのような言動を続けた。その“術策”にほとんどの国民は陥(おちい)ってしまった。その結果、何度も書いたように、何かと言えば「セクハラだ!」「パワハラだ!」と声高に叫ぶようになり、今日に至っている。

bon 我が国の踊り、たとえば“盆踊り”と、欧米のダンスを比較してみれば分かることだが、日本人は踊る時、他人の体に自分の手を触れることは(普通は)ない。農耕民族である日本人は一年中、田畑で働いて手(足)を汚しているから、「手 (足)は汚れたもの」と捉えていることの証拠だ。それに対して、欧米では相手の手を取ったり、相手の体に自分の体を接触させたりして踊るのが普通だ「私はあなたの敵ではない」という意思表示の異形だと考えられる。したがって、日本人が他人の手や体に触れるのは、宗教的・呪術的理由からでなければ、相手を自分の極めて身近な人間、愛する人間、気の置けない仲間と捉える時だ。これは上述したような「雑魚寝」の風習や前回言及した“肩を組む”行為にも繋がる。【盆踊りの画像はこちらから拝借;拡大可】

 戦後、いつの間にかそうした風俗・風習が存在したことも忘れられて、他人(とりわけ異性)の体に触ることが忌避され、“セクハラ行為”と見られるようになった。狛江市長・高橋都彦氏は、今回の訴えを起こした女性たちについて、「世代間の認識の違い」、「育った環境の違い」があったかも知れないという内容のことを言っておられるが、この点については高橋氏の言われるとおりだ。


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 《セクハラ・パワハラ絶対反対》を声高に叫ぶ人たちに、仮に高橋氏が、私の言うような民俗学的弁明をしたところで、おそらく“火に油”を注ぐことになるだけだろう。残念なことだが、それが、火山国、地震国、台風国である我が列島で培われた「熱しやすい」という国民的特徴なのだ(「冷めやすい」という特徴も併せ持つが)。したがって、これも残念なことだが、英語的意味での responsibility (一応「責任」と訳す)、accountability (一応「説明責任」と訳す)とが本当に理解でき、それを日常的に実行できる日本人はそう多くはないはずだ。口を開けば、「責任を取れ!」、「責任を取って辞任 [辞職] せよ!」と拙速に言う人たちにはおおよそ無理なことだ。
【上の写真は火山活動が活発化していた頃の神奈川県箱根の大涌谷の噴煙;“ガラスの森美術館”の庭園からの撮影;拡大可】

【付記】女性たちの訴えの中に「夜誘われることが多くて困っているという事案が含まれているようだが、このままだと、高橋市長が誰に対して、どんな言葉を使って、何を目的として、どこに、何度誘ったのかが分からない。考え方によれば、逆に高橋市長を貶(おとし)めることにもなりかねない訴え方だ。昨今の風潮では、女性たちが訴えている以上、それは正当なものだと即断されがちだ高橋市長ご自身もそう考えているのではないかと思わせるような曖昧な弁明をしておられる。もっと、冷静で客観的な証拠を提示すべきだ。
 “セクシュアル・ハラスメント”に関する私の結論は、「今日的には、異性・同性に拘わらず、相手が嫌がること、嫌だと意思表示をしたことをしてはならない」ということに尽きる。

狛江市長の“セクハラ”問題に思う ― 伝統・慣習・風習の衰退…(続々)

 
狛江市長・高橋都彦氏の記者会見の模様を動画でじっくりと見た。弁明はしっかりしている。だが、それを見ていて、「昨今のヒステリックな“セクハラ”、“パワハラ”禁止運動の犠牲者だな」という印象も持った。前もって言っておきたいが、私は伝統・慣習・風習といったものが時代と共に変容することは百も承知だ。ただ、昨今、“セクハラだ!”、“パワハラだ!”と声高に叫ぶ人たちに、もっと我が国の伝統・慣習・風習といったものに通じて、《寛容精神》を養ってほしいと願う。同じ盃やコップを使ってアルコール飲料を飲む習慣・風習が我が国には普通に存在することはすでに述べた。

 高橋氏に向けられている「セクハラ疑惑」の中には、「エレベーターでお尻を触られた」、「車内でを握られた」、「夜誘われることが多くて困っている」といった例も挙がっている。高橋氏は女性職員からのこうした一方的な訴えをそのまま受け入れ、「女性がセクハラだと感じたのなら、そうだと認めざるを得ない」というようなことを言っている( ここらあたりの氏の対応に“弱腰”を感じる。現代の風潮は今、脇に置いておくとして、女性の尻を触るという行為は、民俗史・風俗史的には、即、“セクハラ”と解釈すべきではないと私は思う

 我が国には「尻叩き」という風習があった( し、今でも国内のどこかの地方にはそういう風習が残っているかも知れない農耕民族で、集落共同体の中で生きて来た日本人にとって、労働の担い手として多くの子を生(な)してもらうために、嫁や若い娘の尻を平手や棒(“祝棒”と呼ぶ)で叩く。これは果実がたわわに実るようにという願いを込めて果樹を棒などで叩くことと軌を一にする
 地方によってもその実態は異なるが、我が国にはまた「尻つねり」という風習もあった。宗教行事を執り行う際に、眠らないようにするために、参詣堂に籠った男女が、お互いの尻をつねるのだ。

 ちなみに、つい最近まで、男性の行為の中に、女性の尻に触ったり撫でたりすることがあった。これも現代の感覚で捉えれば間違いなく“セクハラ行為”だが、こういう行為をする場合、男性はたいてい、「お〜、いい尻してるね!」とか「こりゃ、立派なお尻だ!」などと言いながら行なった。それは「立派な尻は多産の印し」と考えられていたからだ。つい最近まで、“嫁選び”の基準の1つに「尻の大きな女」というのがあった。これも“多産”と結びついた考え方だ。(繰り返すが、こういう考え方を是認しているのではなく、存在した事実に言及しているのだ。)

shiri 昨今、当人の意志に反して異性の肩を抱くと、即、“セクハラ罪”が適用されるが、日本人がなぜ肩に執着し肩を抱こうとするのか、現代の日本人は考えてみたことがあるだろうか? 今でもそうだと思うが、私も遠い昔、仲のよい友だちとは肩を組み合って登下校した。それは、が首とを繋ぐ“要所”だからだ。はもちろん人間の「」の宿り場所だし、は「生命力」の宿り場所だ。それを繋ぐ場所が「」だ。だから、そこを抱くということは、信頼する相手をそれだけ“大切”に思っている証拠なのだ。大学生や一般市民がスポーツ(とりわけ野球)の応援をする際に、横並びになってお互いが肩を組み合うのも同様の発想に基づくものだ。

 繰り返すが、こういう行為を現代でも全て許容すべきだと言っているのではない。ただ、ヒステリックに、声高に“セクハラだ!”、“パワハラだ!”と叫ぶ人たちに、もっと自国の民俗的伝統・慣習・風習と対する知識を持ってもらい、もっと“大らかな言動”を採ってもらいたいのだ。残念に思うことは、我が国の伝統・慣習・風習に通じていてしかるべき人たち、とりわけ学者・大学教授の中に、何かと言えば “セクハラだ!”、“パワハラだ!”と叫ぶ人たちが混じることだ。こういう人たちは、おそらく戦後の“日本人洗脳教育”の犠牲者だろうし、欧米思想を過剰に奉じている人たちなのだろう。

【右上の画像はご存じ「鬼平犯科帳」シリーズの1つ(何作目だったかは失念)で、密偵・相模の彦十(植木等)が、二階に自分を案内してくれる女中のお尻を「いい、お尻をしてるね」と言って触っているところ。】

【付記】狛江市長・高橋都彦氏に質問を浴びせる若い記者たちの“日本語表現”のひどいこと! 語法間違いもあれば、不遜で失礼極まりない言葉遣いもある。他人を批判する前に自分たちの言葉遣いの問題点に気づいてもらいたいものだ。いつも言うように、「言葉は思想が衣を着たもの」なのだ。

狛江市長の“セクハラ”問題に思う ― 伝統・慣習・風習の衰退…(続)

一昨日の記事で、狛江市の高橋市長が「(同じコップで飲む献杯・返杯は文化だと思っている」と弁明したことに私も同意していることを記したが、その例は日常的に数えきれないほどある。YouTubeで観ることの出来る古い映画を何本か通観するだけでもそういう場面を見つけ出すことができるだろう。たとえば、昭和29年 [1954年] に放映された五所平之助監督の映画「大阪の宿」にも出て来る。
 取引先の野呂(多々良純)が、自分が飲んでいたビールのコップを三田喬一(佐野周二)に手渡して飲むように勧める。三田はそれを受け取って仲居の女性からビールをついでもらう。次の画像が示すとおりだ。sakex
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また、石坂洋二郎原作で加山雄三主演映画「何処へ」(昭和41年[1966年])には、山茶花究がPTA会長の田崎潤に対して、「会長、お流れを1つ」と言って、田崎の盃で“お流れ”を乞う場面が出て来る(下の2葉の画面)。
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 高橋市長の「(同じコップで飲む献杯・返杯は文化だと思っている」という弁明は、したがって、擁護されてしかるべきなのだ。「セクハラだ!」、「パワハラだ!」(共に、好きになれない語だ)と声高に叫ぶ前に、先人たちが普通のこととして受け入れて来た伝統・習慣・風習といったものをもっと知る努力をしてほしいものだもちろん、伝統・慣習・風習が時代と共に“変容”することはよく承知している)。

息の呪力(じゅりょく)

coin2日映科学映画製作所が昭和51 [1976] 年に制作した映画に「朝やけの海」と題されたものがある。神奈川県三浦市三崎・相模湾あたりを舞台とした漁師の物語だ。その最初のあたりに、主人公(大和田獏)の母親(川上夏代)が、小学2、3年生の娘に朝方小遣いを手渡す場面がある。多分、50円玉か100円玉だろう。
  娘がそれを受け損ねて落としてしまい、転んで行かないようにと、とっさに片足でそれを踏んで拾い上げる(左上写真)。その時、母親は、「あら、あら、もっと大事にしてやって、おカネだから」と言って、その硬貨にプッと息を吹き掛ける (右下写真)。それは、地面に存在したかも知れない“悪霊”を退散させるためだと考えられる。昔の親は我が子に「おカネを大事にするように」教えた。もちろん、私の両親も私にそう教えた。

coin1 おそらく、今の若い人たちや子供たちがその場面を見れば、落とした硬貨に付いたかも知れない埃(ほこり)か汚れを吹き落としたと解釈するだろう。中には、そういうつもりで落とした物に息を吹き掛ける人もいるかも知れない。
 だが、民俗学的に見れば、それは正確ではない。昔の日本人は息には呪力(じゅりょく)があると信じた今でも、人を打とうとする所作をする時、拳(こぶし)に「ハー」と息を吹き掛けるし、子供が転んで膝頭や腕を擦りむいたような時に、「チチンプイプイ」などと言いながら、患部に息を吹き掛ける。
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 左の写真は同じ日映科学映画製作所が昭和32 [1957] 年に製作した記録映画「小さな芽ばえ」の中の1場面だが、小学3、4年生の女児が同じクラスの男児に喧嘩を仕掛ける場面がある。女児は顔をゆがめて握りこぶしに息を吹き掛けている。この女児の体には“日本人の文化的DNA”が脈打っているということだ(東京都世田谷区立松沢小学校を舞台した実録だ)。

 すでに分かっただろうが、これらはみな、息に秘められた呪力を発動するための行為だ。日本人が昔からして来たことには何らかの宗教的・民俗的理由があると考えて差し支えない。昨今、我が国の先人たちがこれまで当然と考え、大事にして来た宗教的・民俗的風習を忌避し、排除しようとする動きが国民(とりわけ若い世代)の間に見られることは嘆かわしいことだと思っている。
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