2006年04月

遷延(せんえん)は時の盗人(ぬすびと)

英語に Procrastinaton is the thief of time.(遷延は時の盗人)という諺がある。「何かをするのを延び延びにすることは時間の浪費であり、結局は何もせずに終わるものだ」ということである。英国の詩人Edward Young (1683-1765)がNight Thoughts (1742)の中で使った言葉が基になっている。Charles Dickens (1812-70)もDavid Copperfield (1850) の中で、Never do to-morrow what you can do to-day. Procrastination is the thief of time. (今日できることを明日行うべからず。遷延は時の盗人なり)のように言った。
 「覿面(てきめん)の今」(4月5日の記事参照)の大切さについては、洋の東西を問わず、多くの詩人・作家が自らの作品の中で言及している。
 Tomorrow never comes.(明日は決してやって来ない)/What may be done at any time is done at no time.(いつしてもよい事はいつになっても為されない)/One of these days is none of these days.(いずれそのうちは、いつになってもやって来ない)なども類似のことを言っている。
 ただし、これらの諺や名言が実感できる頃には、たいていの人はもう人生の残り部分のほうが少なくなっているかも知れない。Stop procrastinating!(遷延を止めよ!) 自らをそう戒める昨今である。

「拝受」の意味・用法

私のゼミの場合、英語を磨くと共に、母語である日本語も磨くということで、ゼミ専用掲示板では、できるだけ敬語・謙譲語・丁寧語などを用いて書くことを勧めている。ある日、学生の一人が、「(〜先生のご講義を)拝受致したい」と書いた。   
「拝受」
の「受」を「(授業を)受ける」の「受」の意味に、また、「拝」を「(授業を受け)させていただく」という意味に解釈して用いたものであろう。しかし、「授業を受けること」を「授業[講義]を拝受する」とは言わない。「拝受」「受け取ること」「引き受けること」という意味で、たとえば、「ご新著を拝受致しました」「このたび大命を拝受致しました」などと使う。最近の若者たちに馴染みのない語であろうが、社会に出れば、大いに有用な語となる(と思われる)だけに、きちんと使えるようにしておいてほしい。

宿はと問わばいかが答へむ

勅なれば いともかしこし 鶯の
     宿はと問わば いかが答へむ
                      紀内侍

平安時代中期、第62代・村上天皇の頃、御所清涼殿の前の梅の木が枯れてしまったことがある。天皇はそれに代わる名木を求めて方々を探させた。そのうち、西の京のとある家に名木の名にふさわしい紅梅を見つけた。その家の女主と交渉すると、一首の和歌を詠んで、それをその枝に結い付けたのちに、運ばuguisuせた。それには、「勅なれば いともかしこし 鶯の 宿はと問わば いかが答へむ」と書いてあった。素人読みをすれば、「勅命とあれば、それはまことに名誉なことでございますが、この枝を頼りに飛び来る鶯たちから《私どもの宿はどこに行ったのでしょうか》と尋ねられた時は何と答えてやればよいでしょうか」という意味になろうか。
 村上天皇はこれに大いに恥じ入って、その名木を女主のもとに返したと言われる。女主は紀貫之の娘・紀内侍(ないじ)であった。人々はその名木を「鶯宿梅(おうしゅくばい)と呼んで、内侍の優しさと歌の才を称えた。この梅が後に移植され、その“ひこばえ”として今日に伝わるのが、禅の名刹相国寺十三塔頭(金閣寺、銀閣寺等)の一つ林光院の梅だといわれる。
 前回の太田垣連月尼の詠んだ和歌同様、 自らが意図したかしなかったかは別として、結果的に、当人の深い教養や人間性が和歌の形をとって、相手に自らの理不尽さ・身勝手さなどを悟らせる効果を持ったことになる。まことにもって優れた和歌である。

同じ御国の人とおもへば

あだみかた かつもまくるも哀れなり
                     同じ御国の人とおもへば 

                     太田垣連月尼

鳥羽伏見の戦いで勝利を得て意気盛んな、薩長兵から成る官軍が、三条大橋を渡ろうとしていた時である。島津公と西郷隆盛の前に、一人の年老いた尼僧がゆっくりと歩み出て、一葉の短冊を差し出した。西郷はその尼僧に声をかけ、その素性を聞き、差し出された短冊を受け取った。西郷がそれを受け取り、見てみると、それには「あだみかた 勝つも負くるも哀れなり 同じ御国の人とおもへば」と書いてあった。これが西郷隆盛の心を打ち、江戸城の無血開城に大きな役割を果たしたと言われている。
 flag-nippon連月尼のflag-kankoku句になぞらえて日本・韓国の「竹島問題」を詠むなら、まさに、「日韓のいずれが かつも哀れなり 同じ亜細亜の国とおもへば」である。「人や経済、文化の交流がこんなに広がっている隣国同士なのに、《拿捕》とか《侵略》とか言う過激な言葉が飛び交うのはなんとも情けない」(朝日新聞、4月23日、社説)と私も思う。「侵略戦争で確保した占有地について権利を主張する人たちがいる」という、国家指導者である盧武鉉大統領が、韓国民の先頭に立って民族感情を煽るような印象を与える発言をなさることにも大いに残念な思いを抱く。竹島でも独島でもよいが、この島を日韓友好の架け橋・シンボルとして、永遠に両国の中間点に置くことはできないのだろうか

人生という書物

人生という書物に再版はない
            
読人不知
 
 
私はこれまで数多くの書物を世に問うて来た。学習用英語辞書も何点か混じる。それらには誤植もあった。誤記もあった。自分で気付いたものもあれば、他人から指摘されたものもある。そのたびに丁寧に訂正して来た。何度も恥じを掻いた。もちろん、訂正することのない書物を最初から刊行することが理想であるが、神ならぬ身の悲しさで、なかなかそうはいかない。それでも、著者・監修者としての社会的責任から、分かり次第、発行元からの了解があり次第、必ず訂正して来た。したがって、再版の時には、問題点は解決されていて、私としてもほっとする。
 ところが、1つだけ再版のできないものがある。それが「人生(という書物)」である。再版することができればどれほどよいであろうか。後悔したことや、望んでいたにも拘わらずに実現できなかったことなども、再版人生があれば、今度は後悔も失敗もなく送ることが出来るだろう。
 そんなことに気づいてから、私はますます「覿面(てきめん)の今」(4月5日分参照)の意味を実感し、毎日を真剣に生きている(つもりである)。
 アメリカの詩人Henry W. Longfellow (1807-82)も言っている。
Act, Act in the living Present!(覿面の今にあるは実践のみ
と。

1969年が一昔前?

一学生から借りて読んでいる本(2004年刊)の中に、「1969年という一昔前には…」と書かれた箇所があった。おやっと思った。「一昔」という語は「昔と感じられる過去の一区切り」という意味ではあるが、普通は「十年」を一区切りとしているはずである。つまり、私の感覚では、30年以上も昔のことを「一昔前には」と表現するのは不適当に感じられたのだ。英語のone generation(約30年)と混同されたものかと思う。

一事をこととせざれば

一事をこととせざれば 

     一智に達することなし 道元

 

辞書作りに関わり初めた頃から、常に座右の銘として来た言葉で、道元禅師のものである。 

 「一つの事柄に全力を集中して、それを完遂することができなければ、いっさいの真実を見極める智慧を持つことはできない」という意味に解釈している。
 「いっさいの真実を見極める智慧」など、いまもって持てないでいるが、はっきり言えることは、辞書作りという一事を通じて、“英語の世界”がかなり鮮明に見えるようになってきたことである。日本人が国際語(の1つ)としての英語とどう付き合っていけばよいかということもけっこうよく分かるようになった。“日本語の世界”も同時に見えるようになった。
 そんな自覚が持てるようになった今、気づいてみるともう還暦を1年以上も過ぎている。光陰矢の如しとはよく言ったものだ。残りのほうが少なくなった人生だが、「一智に達する」ための努力を続けたい。

反省の言葉もない?

外務省の一職員が、児童買春・児童ポルノ禁止法違反容疑で逮捕されたそうである(「朝日新聞」4月18日夕刊)。「自分の欲望に負けた。反省の言葉もない」と容疑を認めているという。
 「反省の言葉もない」? 容疑者本人がそう言ったのか、新聞記者が書いたのか分からないが、私はその一文を目にして、「おや?」と思った。たぶん本人は「深く反省しているが、その気持ちを十二分に表す言葉が見当たらない」と言いたかったのであろう。それなら、むしろ、「反省(しております)の一言です」「心から反省しています」「弁解の余地もありません」などのほうが、まさに反省の気持ちが伝わって来る。
 私などは、「反省の言葉もない」と言われると、「何某は謝罪も反省の言葉もないままに、死刑判決を受けた」「あれだけのことをしておきながら、(一言半句の)反省の言葉もない」「犯人からは反省の言葉もない」のような
文を連想する。すなわち、この言葉は、悪いことをした本人が言うよりも、被害者やその周辺の人々が言う場合が多いように思う。
 

女性検事正 年齢聞かないで

昨日の朝日新聞夕刊に表題の文句とその詳細が掲載されていた。それによると、高松地検の川野辺充子(かわのべみちこ)検事正が、地元での就任会見で生年月日などを尋ねた記者に対して、「女性の年齢を聞くんですか」と答え、公表を拒んだという。それに対して、杉浦法相は、「世間では女性に年齢を聞くことはタブーですよ」と「同情」したそうである。最高検検事から高松地検に移動する際に配られた資料にも年齢はなく、「プライバシーなこと」などと煙に巻いたらしい。さらに、「検事正の年齢は公益性が高い」という記者の指摘に、杉浦法相は「そう思います」と答え、「オープンでいいと思いますよ」と言いつつ、「女性の気持ちを理解してあげてください」とも答えたという。
 川野辺氏に次の質問をしたい。

 (1)あなたはなぜ、「“女性”の年齢を聞いてはいけない」と思われるのか。それが「世間の慣習である」と言うのであれば、その慣習はどのような歴史的・文化的背景があって出来たものかご存じか。歴史的・文化的にみてその慣習の成立は健全なものという確信・自信はおありか。
 男性になら年齢を聞いてもよいとお思いか。それを逆差別とは思われないか。法を司る世界の高位の人として、年齢に関しては性差別があってもよいとお考えか。
 5者の質問にあるとおり、公人たる検事正の場合、年齢は公益性が高いはずであるが、法を司る高位の人として、根拠の薄弱な慣習に拘泥してその公益性をないがしろにしてよいとお考えか。

 女性が嫌なものは男性も嫌なものであることが多いはずである。年齢もそうではないか。両性に関連して、「プライバシー」とか「世間の慣習」とかと言うのであれば、それはそれで納得できる。年齢に限り、「女性に聞くものではない」という考え方に、私は首肯できないものを感じる。

後日記:「コーチの気まぐれ研究日誌」(http://blog.so-net.ne.jp/swimcoach/2006-04-20;jsessionid=F6F929125A1C0A5BA31926D1717B9546)2006-04-20 分に、本記事への言及があることを知りました。

「あがり調子」?

昨日の午後、NHKテレビで長野マラソン(だったか何か)に参加する男女の練習風景を放映していた。その時、レポーターが、女性ランナーに、「(練習の)調子はいかがですか」と聞いた。その女性は、 「あがり調子です」と応えた。「“あがり調子”? それを言うなら“のぼり調子”じゃないのかな?」 それがその時の私の反応であった。意味はよく分かるが、私は「あがり調子」という言い方に馴染みがない。私の家族の者も同様であった。見たかぎりの国語辞典にもその言い方は収録されていない。
 いつものように、Google を使って簡単な検索にかけたところ、「のぼり調子」が圧倒的に多い結果が出たが、「あがり調子」も結構使われていることが分かった。言葉は変化するから、多くの人がその用法を認めていれば、それはすでに市民権を得た用法ということになる。しかし、個人的には、やはり「上り調子」「のぼり調子」と読みたい。

「いらっしゃいませ」に相当する英語表現

ホテルのフロント係で働くのが夢だという女子学生の一人からメールをもらった。それには次のようにあった(要点のみ)。

外国人のお客様に「いらっしゃいませ」という時はWelcome to...とかHello.と言えばよいのでしょうか。手元の電子辞書を見ると「いらっしゃい」のところに次のような表現が載っています(一部省略します)。

 welcome [しばしば副詞(句)を伴って] ようこそ
 walk up いらっしゃい(ショーなどへの呼びこみ)
 May [Can] I help you? 《店で》何にいたしましょうか、いらっしゃいませ。
 Roll up, roll up! 《見せ物などの呼びこみ》
 Hello!

この辞書の表現では、使えそうなのはwelcome, Hello!の2語だけですが、前者はWelcome to our hotel.として使えそうですし、後者も親しい感じで使えそうですが、もっとほかの言い方はないでしょうか。教えていただければ幸いです。

 これに対して、私は次のように答えた(要点のみ)。

 あなたの考えは正しいですよ。Welcome to ...には、たとえばHow may I help you?のように付け加えることも可能でしょう。フロントで客に挨拶する時は、Good morning [afternoon, evening], sir [madam].を第一声とすることも考えられますし、これも「いらっしゃいませ」に相当します。あなたの辞書にもこの基本的な用例が収録されているとよかったですね。

「日本の言語文化に関する外国人の疑問」

静岡大学教育学部教授・三浦孝氏から、三浦氏ほか著『ヒューマンな英語授業がしたい!―かかわる、つながるコミュニケーション活動をデザインする』(研究社)
のご恵贈に預かった。コミュニケーション活動の原理や手順が分かりやすく紹介してあり、新しいタイプの授業をデザインする際に大いに役立つ一書となろう。
 氏とはお会いしたことはないが、同書に、私のホームページにある「日本の言語文化に関する外国人の疑問」を利用した英作文指導を紹介しておられる(193〜6頁)ことのご報告とお礼であった。高校生も大いに興味を持ってくれたようで、外国人からの多くの疑問を纏めた私も嬉しい。
 「日本の言語文化に関する外国人の疑問」は専任校、非常勤校で取り扱ったが、学生諸君の評判はきわめてよかった。インターネット上でも100名近くの方たちが「お気に入り」に入れてくださり、回答作成に挑んでくださっている。ありがたいことだ(参照)。

年長者を「褒める」

最近の学生達が羨ましい。「センセーの辞書、読んで面白いって、友達が褒めてましたよ。」「センセー、何冊も本やら辞書やら書いてるんですね。すごいですね。」等々の褒め方が普通にできるからである。私が大学生の頃、大学教授を「褒める」など(少なくとも私には)考えられない行為であった。“不遜”であったと言ってよかろう。
 「褒める」という行為は、上位者から下位者への行為であったから、教授から「山岸君、最近、いい論文を書いたね。」「山岸君、なかなかいい仕事をしたようだね。」などと言っていただくことはあっても、「〜先生、最近、いい論文をお書きになりましたね。」「〜先生、なかなかいいお仕事をなさって(い)ますね。」などとはけっして言えなかった(最近の多くの若者は、「〜をお書きになりましたね」「〜をなさって(い)ますね」などという言い方さえできないであろうが)。
 それでは何と言っていたかといえば、私の場合、「先生が最近お出しになった〜で勉強させていただいたおります。」とか「先生のご近著を拝読(致)しております。」とかの言い方をしていたように思う。
 ある年配教授の著書を褒めた大学院生(私の友人)の一人が、同教授から「〜君に褒められるようじゃあ、私の本もまだ駄目だね。」と皮肉(?)を言われたことさえあった。

「センセー、頑張ってください。」

学生達と接していると、別れ際に、「センセー、頑張ってください。」と“激励”されることがよくある。正直に言えば、そう声を掛けられるたびに複雑な思いがする。「頑張るのはボクではなく、キミ(達)のほうでしょう。ボクは常に頑張っているよ。」 これが偽らざる私の“内なる声”である。
 私の年代の者であれば、激励は年長者から年少者へ、上位者から下位者へなど、上から下への行為であることを体験的に知っているだろうから、今日にいたっても私が学生達から「センセー、頑張ってください。」と言われて違和感を抱く気持ちも理解してもらえるのではないか(と思うのだが)。

樹を割りてみよ 花のありかを

sakuraとし毎に  
  
咲くや吉野の
  さくら花 
  
  樹を割りてみよ 
 
       
 花のありかを
             一休

一人の山伏が、仏法の在り処を詰問した時、一休和尚は「胸三寸に在り」と答えた。すると、その山伏は「然らば、拝見いたさう」と言って懐中から小刀を取り出して、和尚に詰め寄った。和尚は一首の和歌を以ってこれに答えた(高神覚昇『般若心経講義』より)。深みのある和歌である。
 
昨夕の朝日新聞「ニッポン人脈記」には、三重県松阪市にある本居宣長記念館前館長・高岡庸治氏(79)が、批評家の小林秀雄から聞き取ったという、桜に関する次の言葉が紹介してあった。これも味わいのある言葉だ。

芸術だなんて言っても桜を超えることはできまい。

桜の美しさは活字で表現出来るものではない。
     僕も前は活字にしようとしたが、もうやめた。

 
ちなみに、
同紙には、岡本かの子の次の句も紹介してあった。

さくらばな いのち一ぱいに 咲くからに 
                  生命(いのち)をかけて わが眺めたり。

 やはり、この季節、は文句なく美しい。

イカナゴの釘煮―小さな命をいただく

さきほど、神戸出身の学生Y君が、同君のお母上お手製の「イカナゴの釘煮」を、大学に土曜出校していた私のところにわざわざ届けてくれた。私の大好物で、ほかほかのご飯に載せて食べると食が進んで困るほどのものである。
教師をしていると、学生の親御さんから、こうした名品をいただくことがある。何よりも、その土地が育んだ名品を私にまで届けてくださるお気持ちが嬉しい。親御さんにしてみれば、「普段世話になっている我が子の先生に食べていただきたい」という思いを込めての贈り物であろうが、こうしたお手製のものは格別に心がこもっているように思う。
 物をもらったから、その学生をどうこうということはあり得ないが、その学生を慈しんで来られた親御さんのお人柄や、我が子への思いが感じられて、私も幸せな気分になることだけは否定できない。
 クリスマスや誕生日など、特定の折にしか贈り物をする習慣を持たない英語圏出身の同僚の一人が、かつて私に、それは“賄賂(bribe)”の一種ではないのかと聞いたことがあった。私はそんなものではなく、“お福分け(good-fortune sharing)”だと応えた。当人はそれに興味を持ち、今では折りあるごとに、私にお福分けをしてくれている。

廃用にしたい比喩用法の「切腹」

katana昨日、民主党幹部による「一兵卒」発言を採り上げたが、それに関連して、渡部恒三氏の「切腹」発言にも一言しておきたい。
 偽メール問題で一躍勇名を馳せた永田寿康・衆院議員に言及して、渡部氏は「永田君に会津の血があったら…」「腹を切る覚悟がいる。政治家は侍なんだから」などと「切腹」発言をなさった。もちろん、この場合の「切腹」「議員辞職」ということの比喩であることは明白であり、そのことは小学生にも理解できるであろう。
 しかし、私の耳には、どうもこの種の比喩が心地よく響かない。前時代的、換言すれば時代錯誤的ではないかという思いが強いのである。
 以前、私は、「クビにする」という日本語は廃語にしたらどうかと書いたことがある(本ブログ2005/05/15)。比喩としての「腹を切る」「切腹」「腹切り」も同様である。いかに美化しようとも、それは、権力者が考え出した人間性無視の行為である。それらの行為の陰に、どれほど多くの人々の嘆き・悲しみ・苦悩があったことか。森鴎外の『阿部一族』を一読するまでもなかろう。
 言語は人間の精神の在り方に大きな影響を与える。ましてや我が国は「言霊(ことだま)の国」である。政治家の言葉選びには格別な慎重さを望みたい。

民主党幹部と「一兵卒」発言

soldier一昨日だったか、テレビニュースを見ていたら、“音羽御殿”で催された花見のパーティーの席で(だと思うが)、管直人・民主党元代表が、民主党の行く末に関するレポーターの質問に対して、「一兵卒として頑張りたい」というようなことを言われた。問題は「一兵卒」という語である。 「兵卒」とは「最下級の軍人」の意味であるが、なぜこういう時代錯誤的な語を、それも民主党幹部ともあろうお人が安易にお使いになるのか、私には解せない。小沢一郎氏も「一兵卒として全力を尽くしたい」というようなことを言われたことがあるし、渡部恒三氏もお使いになったことがある。
 ちなみに、1998年前半から2002年後半までの毎日新聞の全記事を対象とする「毎日新聞コンコーダンサ」を利用して、「一兵卒」を検索してみると、13例が拾えるが、何とそのうち7例は全て民主党、それも管、小沢、渡辺三氏がお使いになったものである(残りの例は戦争関連か外国のものである)。
 日本国憲法第9条に「戦争放棄」を謳っているのは何のためなのだろう。「比喩的に使っている」では済まされない問題だと思うのだが。  

覿面の今

覿面の今「覿面」は「てきめん」と読む。いかにも難しい響きの語である。ところが、これが「効果てきめん」「天罰てきめん」と言う時の「てきめん」のことだと言えば、急に身近に感じられるだろう。ある物事の結果・報いなどが即座に表れることをいうが、「覿面の今」は、まさに我々の眼前にある「今」という一瞬一瞬のことである。過去は過ぎ去ったものであり、永遠に返っては来ない。未来は未知の時間帯であり、我々には定かなことは何もわからない。そうであったみれば、覿面の今を質高く、内容豊かに生きていくしかない。その繰り返しだけが、未来(の可能性)とも結び付いていくものと思う。

「春が来た」の英訳

日本人ならだれでも一度は聞いたり口ずさんだりしたことのある童謡の1つに、 「春が来た」がある。「春が来た 春が来た どこに来た…」というあれである。高野辰之作詞、岡野貞一作曲であるが、現在は著作権消滅曲(public domain)となっている。
  大学での授業の一環として、これを英訳し、歌えるようにしようと思っているのだが、いざ英語に直そうとすると、けっこういろいろな問題が生じて来る。まず、「春が来た」はSpring has come./ Spring has sprung./ Springtime has come./ Springtime has sprung.等のどれがいいのか。「どこに来た」は「春が来た 春が来た」と言っている人物が続けて言っているのか、それともそばで別人が聞いているのか。あるいは同一人物が自問自答しているのか、それが決まらないと、英訳も決まらない。
 日本語の歌詞は意味的にかなり曖昧なところがある。しかし、それを解決してからでないと、英語では主語が立たないし、動詞の活用も決まってこない。「山に来た 里に来た 野にも来た」の「山」「里」「野」は全て複数で表すのがよいのか、それとも「里」だけは自分(歌い手)の「里」だけを意図しているのかというような点も問題になる。
 いずれにせよ、その歌の原詞に、私なりの解釈を加えて英訳し、それを近日中には私のホームページ上に掲載する予定である。

2006年度入学式の朝

明海大学の2006年度入学式の朝を迎えた。昨日と打って変わった、気持ちの良い、まさに春らしい陽気である。ただし、個人的嗜好で言えば、大学所在地の環境が“モダン”過ぎて、少々さびしい感じもする。本音を吐けば、やはり“桜”の木が多くほしいところだ。これはたぶん、私が小学校に上がった頃から、大学院生になった頃まで、どの学校にも常に桜の木が多く植わっていたことによる、一種の“ノスタルジア”であろう。
 いずれにせよ、つい先日、卒業生を送り出したが、次いで新入生を迎える。まさに「行く川の流れは絶えずして…」である。長いこと教員生活を過ごして来たが、毎年、この日を迎えて、心新たにする。初心忘るべからず。今朝もこの言葉を繰り返している。
 入学生諸君、入学おめでとう。

後記:入学者数は特別聴講生80名を含めて、計1605名であった。
後記:昼ごろから突風が吹きだした。

 

 

今回もAmazing Graceのこと

cross一昨日の夜、あるテレビ番組が、ポンペ病という難病に苦しむアメリカの若い女性を取り上げて、彼女にまつわる詳細を放映していた。その番組の中でも、例のAmazing GraceをBGMに流していた。
 難病に苦しむ人、何の罪もなく苦境に立たされている人、本人の意思とは無関係に不幸な状況に置かれ苦しむ人などを取り扱うテレビ・ラジオ番組や、結婚披露宴など慶事の場合、この曲や歌詞はふさわしくないのではないかということは、これまで何度も書いてきた(例:2005/04/30; 2005/12/18; 2006/02/02)。
 関係者がその曲を選択したがる理由については、私にもわからないわけではない。しかし、それでも(当人がそれを望まないかぎり)その曲をBGMとして流すのは適当ではないように思う。同曲が生まれた背景や、同曲に込められた作者の思いに関しては、すでに諸所で書いてきたので、ここでは省略する。

違和感を禁じ得ない表現

先日、某有名歌手の父君が亡くなった。そのことを報じる某テレビ番組のテロップの文句が「〜(歌手名)父の死に号泣」となっていたので、「たぶんまた大袈裟な言い方だろう」と思いながら、好奇心に駆られてしばらく画面を観ていた。
 案の定、「涙ながらに」あるいは「ハンカチで目頭を押えながら」と表現したほうが適当な涙の流し方であった。私の理解する「号泣」とは、あの程度の泣き方ではない(私の知らない所を映した号泣場面があれば話は別である)。
 以前(昨年7月30日)、「石原都知事、激怒」というテロップに惹かれて、しばらく某テレビ番組を観ていたところ、同都知事が、記者の質問に、多少「語気荒く」応えているだけだったことがある。
 テレビを含めたメディアに働く人々は、もっと言葉を大切すべきだ。人間にだけ与えられた、人間の宝物をもっと正確に、慈しみながら用いるべきだ。

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