2006年05月

ある院生の死

修士課程2年次の院生(女性)の一人が急逝したことを、昨日、某教授を通じて知った。享年61歳というから、大学には50代後半になって入った人のようだ。私も学部、大学院と2年間教えた。先月8日(土)に行われた大学院新年度オリエンテーションの際、彼女から直接、彼女が癌に侵されていることを聞いた。「まだまだ勉強したいことが山ほどありますから、病気になど負けていられません」と言った彼女の言葉が印象的だった。あれからわずか7週間後の急逝であった。さぞや心残りであったろうと思う。彼女のご冥福を心からお祈りする。合掌。

母親に金を「恵んでやる」?!

先日、某テレビ局が、「金持ちになりたい若者」と「貧乏のままでもいい若者」にスポットを当てた番組を放映していた。その中で、「金持ちになりたい若者(男性)」が、「貧乏のままでもいい若者(女性)」から、金持ちになってどうするのかというような質問をされた時に、「自分の母親に金を“恵んでやれるから”」と答えていたのが印象的であった。もちろん、その青年と母親との人間関係や家庭環境など、私には分からない。しかし、「恵む」という日本語を、物心ついて以来、「気の毒な人を哀れんで金品を与える」の意味で用いて来た私としては、どうにも違和感を禁じ得ない用法であったことは否定できない。しかし、お金を“恵んでもらえる”母親は“恵まれた”分類の親かもしれない。

「勝ち組」[負け組」という言い方

最近、しばしば表題の言い方を見聞きする。正直なところ、どうにも好きになれない言い方である。一昨日も、某テレビ番組で、女性レポーターが、「長雨にほくそえむ“勝ち組”たちがいます。それがピザを配達する〜屋さんと傘を売る〜屋さんです」というような言い方をしていた。「ほくそえむ」という言い方にも抵抗を感じた。「ほくそえむ」とは「物事が自分の思い通りに行って、こっそり[ひそかに]笑う」ことであるが、負のイメージの濃い語のはずである。公共の電波を使って、人を「勝ち組」だの「負け組」だのと単純に二分化するのは考え物である。

「英語で《日本のこと》話そう」(続)

外国人に「日本人は個人よりも集団を重んじる傾向があります」とか「日本人は調和や協調性を大切にします」と説明するのはよいが、「なぜそういう傾向を持つ」のかという疑問にも答えることができなければ、真の回答にはならないであろう。さらなる疑問を呈される可能性がある。
 「社会を語るちょっとひと言」というところでは、「日本の大学は入るのは難しくて卒業するのは簡単です。It's hard to enter Japanese universities but easy to graduate.」という文例があるが、これなども、「なぜ?」(Why?)とさらに疑問を投げかけられる可能性もある。「実際には、有給休暇を取る人はそんなに多くいません。Actually, not many people take their paid holidays.」「60歳を過ぎても働き続けたいと思っている人はたくさんいます。Many people want to keep working after they turn sixty.」などのような答え方も同様に、「なぜ?」(Why?)と畳み掛けられる可能性がある。
 そんな「なぜ?」(Why?)にきちんと答えられる日本文化理解力[説明力]と英語力を持った日本人が一人でも多く出現することを期待する。

「英語で《日本のこと》話そう」

某氏責任編集になる表題の本が売れているようである。私も興味を引かれて一部買い求めた。「外国人に必ず聞かれる!」「“いまの日本”を語るリアルな表現の数々!」といった宣伝文句が表紙に添えられている。
 通読しての感想は、「(だから)なぜ?」と聞きたくなるものが多数あった。たとえば、「日本ってどんな国? 日本人ってどんな人?」というところでは、「日本人は個人よりも集団を重んじる傾向があります。Japanese people tend to have a group mentality rather than an individual outlook.」、「日本人は調和や協調性を大切にします。The Japanese pay serious attention to harmony and cooperativeness in the group.【日本人が相手の気持ちを考えて発言したり、行動したりする点は、逆の意味で《個》としての自覚がないということで、ネガティブに受け取られてしまうことがあります。】」と書かれている。このような説明も1つの回答にはなり得るが、大切なことは、「(だから)なぜ、日本人は個人よりも集団を重んじる傾向があるのか」「(だから)なぜ、日本人は調和や協調性を大切にするのか」「(それでは)どうすれば[どう説明すれば]ネガティブに受け取られないで済むのか」というような疑問にも答えられる英文や用例を添えるほうがいっそう大事だと思う。(続く)

「学生のマナー指導について」(依頼)

表記のような依頼が学長名で各教員のメールボックスに配布された。授業時間の一部を割いて、歩行喫煙・吸殻の投げ捨て・落書き・ゴミ・横列歩行・路上座り込み・路上駐車等々を止めるよう指導してほしいという依頼である。これらの問題は、どこの大学でも大なり小なり抱えているものだろう。こんなことをいちいち成人した(はずの)大学生に注意しなければならないこと自体情けないことであるが、それが現実である以上、懇切丁寧に「それがなぜいけないことなのか」を説明しなければならない。…そう言いながらも「気が重い」。
 

駐車監視員制度のこと

来月から、違法駐車取締りの民間委託制度が始まる。これまでは、警察官が、違法駐車を見つけた場合、車のタイヤと路面にチョークで印をつけて、一定の時間が過ぎたら違反と認定し法的処置を講じていた。
 これに対して、新道交法では違反車を見つけた場合、民間委託の監視員が、その場でカメラ撮影し、「放置車両と確認しました」というステッカーを貼り、その時点で違反が確定することになる。したがって、これまでのように、「しばらく様子を見よう」ということがなくなる。あちらでもこちらでも、「息苦しいこと」が増えていく。 

「あなたの心にそっと触れさせていただきます。」

 「イランカラプテ」(i-ram-karap-te)、アイヌ語で「こんにちは、おはよう、こんばんは」に相当する挨拶言葉で、意味は「あなたの心にそっと触れさせていただきます」だという。なんと素晴らしい表現だろう。
 先日亡くなった萱野茂さんの『萱野茂のアイヌ語辞典』(三省堂)に記されている。同書は、拾い読みするだけで、アイヌの人々の心に触れることができるような、そんな魅力的な辞典だ。
 挨拶表現と言えば、「ヤイト゚パレノ アラパ」 (yaitupare no arpa)もいい表現だ。「気をつけて行け(行く人に対して):強いて言えばさよならということになるが、さよならに相当する言葉はないと言ったほうがいいであろう」と記されている。
 「イタクラマッ」(itak-ramat)、これは「言葉の魂」という意味だそうだ。“和人”同様、言霊を信じていたことの証しと言えよう。「アイヌ イタク アナクネ ラマッコロ ワ コエト゚レンノ ケマ コロ ペコロ パラ  コロ ペコロ イタクラマ シネンネ アプカシ ペ ネ ルウエ ネ ワ」(人間の言葉というものは魂を持っていて、それとともに足があるように、口があるように、言葉の魂が歩くものなのだよ)。これも私が注意を引かれ、好きになった表現の1つだ。
 「カムイテッコツ(kamuy-tek-kot)、これは蒙古斑のことで、「カムイ」は「神」、「テク」は「手」、「コッ」は跡の意味だそうだ。蒙古斑のない子供は神が汚がって手をつけなかったので長生きしないという。
 ちなみに、「アイヌ」という語には「人間、人(神に対しての人間)」という意味がある。この点を知る人は少なくないであろう。上の例に出て来る「アイヌ イタ…」の「アイヌ」はその例であろう。
 アイヌ民族の魂がこの辞典に結実しているような気がする。そんな素晴らしい辞典をこの世に残して逝かれた萱野さんのご冥福を改めて心からお祈りする。
 (注記:「ト゚」は英語のtodayのtoに当たる由。) 

 カヤノサン、イヤイレイケレ (i-yay-rayke-re) (萱野さん、ありがとうございました。) アイヌ語になっているだろうか。

文語がわからない?!

過日、「故郷(ふるさと)」「浜辺の歌」などの英訳を公表したが、それを読んだ私のゼミに所属する女子学生の一人が、ゼミ生専用掲示板に、前者の歌の英訳に関してこんなことを書いていた(要所のみ引用)。

 お恥ずかしい話ですが、先生が「いつの日にか 帰らん」という歌詞を“I will return to where I used to have my home.”と英訳していらっしゃるのを拝読いたしまして、初めて正しい歌詞の意味を理解致しました。これまでは、「もう故郷には帰らない」という意味だと思っておりました。歌詞を正しく理解するという初歩的なことができておりませんでした。

 推量あるいは婉曲な断定を表す助動詞の「らん(←らむ)」の用法を理解できない若者が多くなった。“英語”を通じて“母語”の正しい意味を知るというのも、なんだが不思議な気じがするが、「教えられていなければ分からない」。 当たり前のことである。
 また、同じ女子学生が後者に関して次のような質問を寄せてくれた。

 『浜辺のうた』についてですが、今回、初めてこの歌を知りました。そこで、先生にお教えいただきたいことがございます。先生は「あした浜辺を さまよえば」という歌詞を“When I strolled along the early-morning shore”と訳しておられますが、なぜあしたを朝として英訳なさったのでしょうか。

 この場合も、「あした」を「明日」と理解するのを普通と考える若者たちにとっては、当然と言えば当然の疑問であろう。「あした」は夜が明けて明るくなった頃を指し、“暗い夜の終り”としての朝という意識が強い語である。「朝(あした)の露」という慣用句もある。「あさがた草葉にたまる露」のことで、比ゆ的に、「人生や人の命のはかなさ」をいう。ほかに、「“あした”に道を聞けば夕べに死すとも可なり」(朝、真実の人の道を聞き、これを体得し得たならば、その夕べに死んでも悔いはない)という孔子の言葉も思い出される。

本田美奈子が歌った「つばさ」(Wings)の英訳のこと

昨年暮(12月18日)、本ブログで、急性骨髄性白血病で、38歳の若さで急逝した女性歌手・本田美奈子(1967-2005)と “Amazing Grace” のことを書いた。その彼女が「つばさ」(Wings)という歌を歌っていたこと、また、インターネット上でその熱唱場面(2003年5月25日放送)が見られることを最近偶然知った(こちら)。ところが、その録画を見て、とても残念な気がした。
 その録画では、歌詞の英訳がテロップで流れるのであるが、最初(ナレーターによる解説の英語訳)から最後まで、質の悪い英語が並んでいた。検証用の引用として、何行かに言及すれば、第1行の「私つばさがあるの/太陽にきらめいて」には I have wings. / It shinings under the sun. が、数行あとの「わたし希望があるの/心からかがやいて」には I have a hope./ It sparkling from my heart. が、そのあとの「夜明けの色 夕日の色に/つばさを染めて 飛ぶの」には I dye a wing into a color of the daybreak and sun set, and I will flying.が、またそのあとの、「あなたにもある/つばさがある」には You have it too. / You have wings. が、それぞれ当てられていた。
 だれが英訳したのか知るすべを私は持たないが、きちんと英語を勉強した者なら、中学生にでも分かる文法的間違いの連続である。音楽関係者にも英語のよくできる人はいるであろうに…。
 インターネットの時代になり、世界に向けて瞬時に、あらゆる情報が発信できる時代になった。それだけに、質のよい日本の歌は、質のよい英語で広めたいものである。これでは作詞者・岩谷時子、“歌姫”本田美奈子も悲しむのではないか(作詞者自身による生前の英訳ではないと思うが)。

日本の歌4作品を英訳

「故郷(ふるさと)」、「春の小川」、「こいのぼり」、「浜辺の歌」の4作品の英訳作業がようやく終わった。本日中に、私のホームページに掲載する予定である。
 日本人の立場から、私流に訳してみたが、それでも“英語”として受け入れられるものでなければ何にもならない。ありがたいことに、同僚で、詩人のJesse Glass教授が各訳詞を読んでくださり、貴重なご意見をくださった。もちろん、全ての責任は私にある。いずれもメロディーに合わせて歌えるはずである。

「(春の小川は)さらさらいくよ」の訳し方

「春の小川」は英訳しにくいものの一つであることは5月11日の記事に書いた。「春の小川はさらさらいくよ」の“さらさら”はなんと言えばよいか? 私自身が関係した和英辞典では、「小川がさらさら流れている A brook is murmuring down. のように、murmur (down)を使って表した。これも使える。しかし、音の美しさという点では、もっと別のものがほしい。babbleのほうが響きがよい。そこで、1行目はSpring has come and the small stream flows babbling  between its banks.とすることにした。「春の小川」は the small stream in the spring とも言えるが、定冠詞のtheから始まるのでは、もう1つ歌いにくい。そこで Spring has come and...とした。また、小川には両岸があるので、その間を流れると発想して、between its banksとした。ここら辺りの状況説明がこれまた結構むずかしい。
 こんなふうにして、「春の小川」を訳しているが、英訳の難しさもさることながら、母語である日本語を的確に理解し、場面などをイメージ化できることが、正確な英訳に繋がることを再確認している。

「浜辺の歌」の英訳を考える。

日本人に長い間愛されてきた歌の1つに「浜辺のうた」(林古渓作詞、成田為三作曲)がある。これを英訳して歌ってみようと考えているが、原詞の意味解釈で一苦労している。
 「あしたhamabe浜辺を さまよえば/昔のことぞ しのばるる/風の音よ 雲のさまよ/寄する波も 貝の色も」が1番の歌詞であるが、英語では主語を立てなくてはならないので、主語はだれかと考える。 だれが「あした(=朝)浜辺を」さまようのか? 「昔のことぞしのばるる」という場合の「昔」とはいつごろのことか? 「風の音よ雲のさまよ」という時の終助詞「よ」はどんな気持ちで、だれに言っているのか? 「寄する波も貝の色も」という時の副助詞「も」はどんな気持ちで、だれに言っているのか? 考えるのだが 、どうもイメージが湧いてこない。
 2番は「ゆうべ浜辺を もとおれば/昔の人ぞ しのばるる/寄する波よ かえす波よ/月の色も 星のかげも」となっているが、この場合も、やはりだれが「ゆうべ(=夕方)浜辺を」もとおる(=巡る、回る)のか? 「昔の人」とはだれか? また、「昔」とはいつ頃の過去のことか? 「人」は恋人か、友人か? 後者なら単数か複数か? 「寄する波よかえす波よ」の終助詞「よ」、「月の色も星のかげも」の副助詞「も」については1番の場合と同じである。今の若い人たちには、「月のかげ」の「かげ」の意味もわからないであろう。「星にかげなどあるのか?」という疑問が生まれるかもしれない。
  この歌の詞は1913年(大正2年)に、曲は1918年(大正7年)にそれぞれ発表された。それから90年ほどが経過している。私自身、数え切れないほどこの曲を耳にし、歌詞を口にした。しかし、英訳の試みを念頭に置きながら、改めてその原詞を読み直してみると、作者の意図が完全には掴めない。ちなみに、私が担当する1クラスの大学生30名に聞いてみたが、この歌詞の意味が分かる者は一人もいなかった。「まるで外国語みたいです」と嘆息する学生も少なくない。全ての学生が「あした」を「明日」、「ゆうべ」を「昨夜」と理解していた。さもありなん。結局のところ、私流の解釈を施して、それを英訳してみようかと思っている。(この歌には、私が気づいているところでは、Greg Irwin氏とSusan Osborn氏の英訳があるが、日本人の私がその原詞から抱くイメージとはかなり違った解釈に基づいているようである。もちろん、両氏の英訳の質を云々する力量は私にはない。)

「足切り」という語

「一定の水準に達しないものを切り捨てること」(『学研現代新国語辞典』)を“足切り”ということはよく知られている。「入学試験で、点数を定めてそれ以下の受験生を落とす場合などにいう」(前掲書)ことが多い。一昨日行われた私の勤務校における教授会でもこの語が使用された。
 Google検索によれば、この語を「排除する」の意味で用いる人もいるようである。例:インターネットは世界中どこからでも、誰からでもみれるのが利点なのに、 見ようとする 人を足切りするような態度は不愉快。
 正直に言えば、私はこの表現が好きではない。何よりも連想がよくない。「首切り」(4月7日「廃用にしたい比喩用法の《切腹》」の記事を参照)同様、廃用にしたいものの1つだ。入学試験関連で用いられるということは、教育に携わる人々が用いることが多いわけである。そうであるからこそ、この語の使用に当たっては、“教育的配慮”が為されるべきだと思う(のだが)。

日本の歌を英訳する面白さ(続)

昨日、童謡「春の小川」を英訳する際に問題となる“小鮒(こぶな)”の話をしたが、“小鮒”は高野辰之作詞・岡野貞一作曲の「故郷(ふるさと)」にも登場する。「うさぎ追いしかの山/小鮒釣りし/かの川」の“小鮒”である。これもsmall crucian carpと書けるし、crucian carpの外形も日本の鮒に似ているが、英語圏の人々の間ではさほど一般的な語ではないようである。同僚のアメリカ人教授の話だと、むしろ“minnow”(オイカワ・ハヤ・ヤマベの類の小形の淡水魚)を使って表現するほうが分かりやすいらしい。私としては、したがって、日本語の“小鮒”を英訳する場合は、これをその相当語とするようにしている。
 「故郷」の2番は「いかにいます 父 母」で始まる。この「父 母」も英語では「母 父」の順にして、mother and fatherとするほうが、日本語どおりにfather and motherとするよりも英語的のようである。
 こんな作業をするのは、なかなか面白いものだ。近いうちに「故郷」の英訳を公表しようと考えている。

日本の歌を英訳する面白さ

ここのところ一人で面白がって、日本の歌(特に童謡)を英訳してはそれを口ずさんでいる。授業の一環として、受講生にも訳してもらう。ところが、これが易しいと思える時と、難しいと思える時とがある。
 たとえば、童謡「春が来た」の英訳は易しい。その英訳はこちらに紹介してある。ところが、同じ童謡でも現在取り組んでいる「春の小川」は英訳しにくいものの一つである。特に、そこに出て来る「エビやメダカや小鮒(こぶな)の群れに」の中の“メダカ”“小鮒”など、日本人(と言ってもある程度の年齢層の者)にとっては馴染みのある生き物でも、英語圏の人々にはそうではないというものが英訳しにくい。たしかに、和英辞典で“メダカ”を引くと“killifish”と出て来る。また、“鮒”を引くと“crucian carp”と出て来る。だからと言って、これらを用いた英訳が、英語の歌として、英語圏の人々にスムーズに理解してもらえるだろうか。その点、かなり疑わしい。“エビ”にしたところで、日本の小川にいる[いた?]ような淡水産の小さな“エビ”を“shrimp”で表してよいかという疑問も残る。
 何とか英語として通用する形で訳出し、近いうちにそれを公表しようと思っている。日本の言語文化を伝えられる和英辞典制作を目指す者の一人として、「隗より始めよ」を実践したいと思う。

東京裁判「知らぬ」7割に達す

4月15、16日、朝日新聞社が全国の有権者3千人を対象に面接方式で実施した世論調査によれば、戦後の占領下、米国などの連合軍が日本の戦争関係者を裁いた極東国際軍事裁判すなわち東京裁判の内容を知らない人が70%に上ることが判明した(朝日新聞、平成18年5月2日)。20代では90%がその事実を知らない。詳細に言えば、「裁判があったことを知っているが内容は知らない」53%、「裁判があったことも知らない」17%で、合わせて7割が「知らない」と答えている。「知らない」は当然予想されるごとく、若年層ほど高く、「あったことも知らない」は、30代と40代で20%、20代で37%に上った。
 また、東京裁判で裁かれた東条英機元首相らが、一般の戦死者と共に靖国神社にまつられていることについて、「抵抗を感じる」は31%で、「感じない」は63%。裁判の内容を「よく知っている」人では、「感じる」が50%で、「感じない」46%を多少上回るいっぽう、「裁判があったことも知らない」人では、「感じるが16%と少なく、「感じない」は75%を超えた。「感じない」は若年層ほど高く、20代と30代で70%を超えた。
 ちなみに、朝日新聞の上記記事では、終始「A級戦犯」という言い方を使用しているが、この言い方については本ブログの3月17日分で言及した。

著作権侵害に関すること(その後)

先日、2度、見知らぬ人のブログのコメント欄を利用して、その管理人氏に向けて要請文を書いたことを紹介した(5月1日分)。「上を向いて歩こう」の拙訳 I Look Up When I Walk Down を全文無断掲載したA氏と、「星影のワルツ」の拙訳Waltz on a Starlit Night を全文無断掲載したB氏が当事者であった。前者は30歳前後の男性のようであり、後者は音楽療法士になるのが夢という若い女性のようであった(ブログのプロフィールによる推測)。
 結論から言えば、A氏は、それが私の訳詞の無断掲載であったことを認め、そのことを自分のブログ上に明記することを約し、しかも私のHPへのリンクも行ってくれた。さらに、数日後、別途、私に丁寧な謝罪メールを2度くれた。いっぼう、B氏は、謝罪の一言もなく、ただファイルを削除したのみであった。ちょっとしたことだったが、これも人間性の違いなのかも知れない。

萱野茂氏の死を悼む

アイヌの英雄叙事詩ユーカラを紹介するなど、アイヌ文化の振興に数多くの功績を残し、アイヌ民族初の国会議員(参議院)となった萱野茂(かやの・しげる)氏が、6日急性肺炎で亡くなった。79歳であった。
 アイヌの民具・民話を収集し、二風谷(にぶたに)アイヌ文化資料館を開設し、アイヌ文化の保存継承に尽力したが、半世紀をかけて収集したアイヌの生活用具1121点はその後、国の重要有形民俗文化財に指定された。また、アイヌ語の散文詩をまとめた「ウエペケレ集大成」は昭和50年(1975年)に菊池寛賞を受けた。
 平成6年(1994年)には国会議員となり、その後アイヌ文化振興法の成立などに尽力した。二風谷ダム建設の話が出た時には、「アイヌの聖地が奪われる」と反対し、アイヌ民族を先住民族と認めない国を提訴、昭和52年(1997年)には札幌地裁判決で、「アイヌは先住民族」とする判決を受けた。国会でアイヌ語を交えて行った質問はよく知られている。アイヌ民族の誇りであった。その死を悼み、心からの哀悼の意を表する。

追記:平成13年(2001年)、氏はその労作「アイヌ民族における神送りの研究―沙流川流域を中心に」によって、総合研究大学院大学より博士号を授与された。

やっちゃうぞ!

ここのところテレビ番組の日本語に言及しているが、9年ほど前(正確には平成9年6月14日夕刻)のある番組のことを思い出した。フジテレビの某番組であった。その番組の中で、出番ではない場面で姿を現した女性アシスタントに向って、司会進行役を務めていた“超”有名人のB氏が、「ばかやろう、やっちゃうぞ!」と叫んだ。「ばかやろう」発言も問題だが、その後の言葉が何を意味するのか、誰にでも理解できるであろう。
 その発言に関係者の全員がただ笑うだけで、だれも何も言わなかった。番組終了後も、不適切発言などのコメントはなかった。
 もし私が、教室で、女子学生に向ってそのような発言をしたとしたら… 想像するだけでも恐ろしい。ところが、テレビでは、この種の発言が、とりわけ“有名”タレントによって為されることが時たまある。多くの人々は“有名”タレントの発言にはなぜか甘いようだ。嫌な思い出として、今でも鮮明に記憶に残っている。 

教えてもらえるうちが華

某テレビ番組に出演していた評論家O氏の日本語が私の注意を引いた。出演中に、「そういう人は風下にも置けない」(「風上」のつもりであろう)、「現在、その世界では押しも押されぬ」(「押しも押されもせぬ」のつもりであろう)、「的を得た発言」(「的を射た発言」のつもりであろう)などの気になる用法を連続して口にされたからである。最後の例は「的を射た」と「当を得た」の混用であろう。あら探しをしようとしてテレビ番組を観ているわけではないのだが、こうした用法はなぜか私の耳目に触れる。著名人になると他人はなかなか教えてくれないのが「言葉の誤用」である。教えてもらえるうちが華である。

立てたりするもんなんですか?

昨日はパーキンソン病とマイケル J.フォックスとを扱ったテレビ番組に言及したが、その番組では、同じ病気を患う日本人男性も紹介していた。その際、レポーターの男性が、腰を下していたベッドから立ち上がろうとするその男性に対して、「立てたりするもんなんですか?」と聞いた。なぜか違和感のある日本語であった。何かもっと別の言い方があったように思う(のだが)… 私なら直裁に、「立ち上がれますか?」と聞いたであろう。

アツイ/熱い/厚い?

「アツイ声援を送る」「アツイブームになる」「アツイ議論が展開する」「アツイ思いを抱く」…
 最初、テレビでこれらの表現を耳にした時、「アツイ」は「厚い」のことかと思った。しかし文脈が、それらが「熱い」であることを教えてくれた。最近、限定用法の「熱い」をアイではなく、アツイと発音する人が多くなったような気がする。特に、若い世代に観察される言語現象であるように思う。
 つい先日も、パーキンソン病を患うマイケル J.フォックスを取り扱ったTV番組で、ナレーターは、「マイケル・フォックスは暗い浴槽でアツイ湯に浸かって…」と発音した。まるで「厚い湯」と言っているような感じであった。専門家の教えを乞いたい。

お考え方?

先日、某テレビ番組が、戸塚ヨットスクールの戸塚宏氏を取り上げていた。その時のレポーター氏(男性)の日本語が面白かった。戸塚氏にインタービューして、「お考え方に何か変わりはありましたか?」 と言ったからである。“お考え方”? 馴染みのない言い方だ。「考え方に…」でよいところを、丁寧に言うつもりで、接頭辞の「お」を付けたから、かえっておかしな日本語になってしまった。

お祈りつつ?

いつだったか、テレビ朝日のある番組を観ていた時のことである。著名人の死去を伝えるレポーターが「ご冥福お祈りつつ…」と言った。「お祈りつつ」? 珍しい日本語であった。これはたぶん、「お祈り」「祈りつつ」との混交による誤用であろう。それを言うなら「ご冥福お祈りしつつ…」であろう。

著作権侵害に関すること

昨日、一昨日と、2度、見知らぬ人のブログのコメント欄を利用して、その管理人氏に向けて要請文を書いた。昨日は「上を向いて歩こう」の拙訳I Look Up When I Walk Downが、また一昨日は「星影のワルツ」の拙訳Waltz on a Starlit Nightが、そっくりそのまま(すなわち全文が)、訳者としての私および私のHPへの言及もリンクも無しに、無断掲載されていた事実を知ったためであった。拙訳は著作権者である作詞者と日本音楽著作権協会(JASRAC)の許諾を得て行われたものであり、したがってそれらは私の知的財産と呼べるものである。
 最近、インターネット上では、「ネチケット」や著作権者の権利
を守らない人々が極めて多くなった。これは何も日本人に限らない。私による「四季の歌」の英訳The Song of the Seasonsその他がアジアの某国でも許容範囲を逸脱した形で、そっくりそのまま引用掲載されている。今のところ、訳者である私の名が明記されているので、黙認しているだけである。
 この種の問題はますます多くなっていくであろうが、それに合わせて監視の目も厳しくならざるを得ないであろう。

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