2006年09月

若者たちと「なので」

最近の若者たちは「したがって」「そのような[以上の]ことから」「そんなわけ(なの)で」「そうした理由から」「それゆえに」などの意味で、しばしば「なので」を用いる。多分、「そんな[そのような]わけなので」の短縮形なのだろう。以下の例は、私が担当するゼミ生を中心に、私の本務校の英米語学科生が書いた文章からのものである。

◆文化に優劣はない。なのでどちらの方が良いと考えてはいけない。
◆これまで一度も外国に行ったことがない。なので英語国で英語を話したことがない。
◆私は将来、英語圏で仕事をしたいと思っている。なので英語が話せなくてはならない。
◆私個人の意見ですが、特修生が先に発表を行なうというのはあまりゼミ生の皆様のためにはならないように感じます。なので、ゼミ生と特修生、半々の人数で発表してはどうでしょうか。
◆11段落の“half a peck of nuts”についてですが、「量的には多くないけれど、リスにとっては大量だ」というご意見を読ませていただき、必ずしも“half a peck of nuts”を忠実に訳さなくても良いと思いました。なので、私も「自分たちがせっせと集めた木の実の上で、ティミーはすっかり目を回し、身動き一つしませんでした。」という訳出に賛成いたします。
◆英語が全くわからないお客様にとって、語学学校のシステムや現地での詳細など、必要な情報を知ることは出発までの準備や心構えとして全てにおいて大きく関わってきます。なので、通訳係として前もって、お客様にどのように対応していったらよいのか、また迷っているお客様にはどのようにアドバイスしたらよいか、などの具体的な接客のアドバイスをいただけていたらより良い接客ができたのではないかと思いました。

手元にある国語辞典のうち、数点を見ただけだが、この例を収録しているものはなかった。

偏向思想の根か?(無知と誤解)

日の丸・君が代問題に関する情報を得ようとネットサーフィンをしていたところ、次のような一文に出くわした。神奈川県某市の市長選に数度惜敗なさった方の“応援団”の一員が書かれたもののようだ。

意味不明で矛盾だらけの「君が代」をこの国の民衆はいつまで歌わされ続けるのか。明治時代に天皇を権力獲得の道具にしか考えていなかった伊藤博文ら時の権力者が、外国人の前で国歌の演奏が必要なことを知り、慌てて選んだに過ぎない歌である。その後、これからの支配者が天皇という存在であることを当時の民衆(天皇の存在すら知らなかった)に教え込む役割の方が大きかったが、戦後、天皇は神ではないと宣言したのだし、天皇自身も自分では絶対に歌わない「君が代」を子供たちには無理やり歌わせ、その意味も曖昧にして、何が教育なのか。
 最後に、日の丸・君が代強制の圧力に屈せず闘い抜いてきた教職員に心より敬意を表したい。

こういう文章をどれほど見てきただろう。「意味不明の矛盾だらけの《君が代》」とあるが、それは自分が「君が代」を正しく理解できないだけのことであり、不勉強を露呈しているに過ぎない私にはその意味はきわめて明瞭であり、“日本文化的に”ではあるが、きわめて論理的なものである

 「天皇自身も自分では絶対に歌わない」云々というに至っては抱腹絶倒ものである。God Save the Queen (神よ女王を護り給え;女王陛下万歳)はグレートブリテンおよび北アイルランド連合王国全体の“国歌”であるが、エリザベス女王ご自身が普通、このイギリス国歌を歌われるだろうか?! そんなことも理解できないのなら、君が代・天皇・教育問題を語るのはおやめなさいと言いたいところだ(が、言論の自由は保障されているので…)。こういう無知や誤解が偏向教育を生むのではないかと思う。

若者の日本語から消えた(?)「お陰さまで」

◆「何々さん、どう元気?」 「はい。」
◆「何々さん、どう元気?」 「はい、元気です。」
◆「何々君、どう、頑張ってる?」 「はい、頑張ってます。」
◆「何々さん、最近、調子はどう?」 「はい、いいです。」
◆「何々君、最近、調子はどう?」 「はい?」
◆「何々先生、お元気ですか?」 「はい。」

これはここ数ヶ月のうちに、私が専任校で学部生(約30名)、大学院生(7名)、若手教員(1名)と交わした対話例である。これが、私の学生時代(40数年前)で、教授からのお声掛けであれば、学生としての私はたぶん次のように応答したであろう。

◆「山岸君、どう元気?」 「はい、お陰さまで(元気にしております)。先生はいかがですか[いかがでいらっしゃいますか]。」
◆「山岸君、どう、頑張ってる?」 「はい、お陰さまで何とか頑張っています[おります]。先生はお元気でいらっしゃいましたか。」
◆「山岸君、最近、調子はどう?」 「はい、お陰さまで、何とか頑張っています[おります]。」
◆「山岸君、最近、調子はどう?」 「はい、お気遣いありがとうございます。じつは先月ちょっと入院しておりましたが、お陰さまでもうすっかりよくなりました。」

 冒頭の例だけで断定するわけにはいかないが、現代の若者の多くは、聞かれたことに「はい」「いいえ」で応えるだけか、「調子はどう?」という抽象的な質問の意図が理解しにくいようである。「はい?」といぶかしそうに聞いた学生の反応がそれを示している。現代の若者にとっては、 「お陰さまで」という日本語はすでに死語か、死語に近いものなのかも知れない。人々の価値観や生活様式の変化と共に、こうした美しい日本語が姿を消していくことを残念に思うのは私一人だろうか。
 そう言えば、10年以上も前(正確には平成6年11月18日夜)、フジテレビが「金曜テレビの星《爆笑! 平成のイチャモン100連発・所さんの世の中改造計画》 」という番組を放映したのを思い出した。そこでは、「心のこもらない、建前だけの言葉」の例として、「つまらない物ですが」と、この「お陰さまで」採り上げられていた。自分の夫の成功を「お陰さまで」と答礼した女性の頭を、聞いていた方が、「誰のお陰だよ!」と言って、“張り扇”で激しく叩いた。(「つまらない物ですが」の場合も、「つまらない物ならくれるなよ!」と言って、同様に相手の頭を“張り扇”で激しく叩いた。) 後味のきわめて悪い番組だった。
 言葉の意味や用法が時代と共に変化をしていくことはきわめて自然なことであるが、特定の言葉の伝統的意味・用法を“曲解”し、それを“笑い”の材料にするのは悲しいことだ。私には、「お陰さまで」という表現は、日本人の謙虚さをよく示す、世界の人々に誇れる美しいものだと思える。

後日付記(10月14日):湘南ケーブルネットワーク制作の「創業にチャレンジ―創業フォーラム in 湘南 講演会」で、“神奈川県一のアサリ屋”さんとして知られる(株)三徳(みつのり)の社長・高橋章氏は、これから創業しようという人々に向けて、「お陰さまで」と「感謝」の気持ちがなければ人は成功しないと力説なさった。私もそう思う。

「国歌」を「国家」とする変換ミス

東京地裁による「「日の丸・君が代 強制違憲」判決以来、インターネット上に「国歌」を「国家」と誤変換する例が多く見られる。もちろん単純な変換ミスである。以下にGoogle検索で一部の例を拾ってみる。

◆国旗・国家に対する起立や斉唱義務がないことの確認などを求めた訴訟に対する東京地裁難波孝一判事の判決へのリアクションである。
◆国旗掲揚・国家斉唱は憂慮すべきこと?
◆明仁天皇、国旗・国家は「強制にならないことが望ましい」
◆ [国旗・国家訴訟]「認識も論理もおかしな地裁判決」
◆国家の独立を示す機能性が国旗、国家にある、という。 これに関しては大きな疑問が ある。
◆国旗・国家が違憲?
◆国旗掲揚・国家斉唱は憂慮すべきこと?
東京地裁の判決で国旗に起立・国家斉唱をの強制は違憲と言う判決が出た。

こんな誤変換は、意外と気づかれないものなのかも知れない(気づかれていれば、当然、訂正されているだろうから)。

慣用句の(as) happy as a clamのこと

clam英語表現、特にアメリカ英語表現に(as) happy as a clam という慣用句がある。「 とても喜んで」とか「とても嬉しがって」という意味で、たとえば、She's (as) happy as a clam.(彼女はとても喜んで[嬉しがって]いる」のように使う。この句は文字通りには、「(二枚)貝のように喜んで[嬉しがって]」という意味であるが、その語源が面白い。
 周知のように、貝拾いは潮の引いた時間帯に行なう。人間にとっては“都合のよい時間帯”だが、拾われる貝の側からすれば、まさに“災難の時間帯”である。そこで、(as) happy as a clam at high tide [high water]満潮時の貝のように喜んで[嬉しがって])という慣用句が生まれ、次にat high tide [high water]が落ちて、現在の形に落ち着いたものである。

「日の丸・君が代 強制違憲」判決に思う

9月21日、東京地裁(難波孝一裁判長)は、入学式・卒業式で日の丸に向っての起立や君が代の斉唱を強要するのは違憲であるとする判決を下した(「朝日新聞」9月22日)。判決理由の中で、難波裁判長は、「教育の自主性を侵害するうえ、教職員に対し一方的な一定の理論や観念を生徒に教え込むことを強制するに等しく、教育基本法10条1項の《不当な支配》にあたり違法と解するのが相当」と言っている。
 裁判長に尋ねてみたい「自分の主義に反するからと言って、国旗・国歌として制定化されたものを目前にしながら、(歌わないのはよしとして[歌わない自由はあるとして])憮然と着席したままでいるのが、中立を重んずべき公教育の場で、“教師が生徒たちに示すべき態度でしょうか? そういう態度は、家庭で日の丸・君が代に敬意を表することを教えられて育った子供たちへの“逆差別”に繋がりませんか?」
 
もう1つ裁判長に尋ねてみたい。「強制されている[された]と感じている教師の中に、じつは結果的に自分たちも生徒たちに対して“偏向教育”を施している者が少なくないという現実をどう解釈しておられるでしょうか?」“偏向教育”に関連してこちらを参照)。
 実際には、少なからぬ教師たちが、生徒たちに「一定の観念を教え込んで」おり、「教育基本法10条1項の《不当な支配》にあたる違法行為」を行なっている。
 判決要旨にこうもある。

 「我が国で日の丸、君が代は明治時代以降、第2次大戦終了までの間、皇国思想や軍国主義思想の精神的支柱として用いられてきたことがあることは否定し難い事実で、国旗、国歌と規定された現在においても、なお国民の間で宗教的、政治的にみて価値中立的なものと認められるまでには至っていない。」

 この前半部分からは、難波裁判長の個人的歴史認識の在り様が読み取れる。「なお国民の間で宗教的、政治的にみて価値中立的なものと認められるまでには至っていない」という後半部分は“中立的客観性”を欠いている。ついでに言えば、「価値中立的なものと認められる」ことは当分の間ないだろう。なぜなら、“偏向教育”を施す教師の下で育った生徒たちが、しっかりとした中立的なものの見方学び得ているとは考えにくいからだ。
 その点では、朝日新聞の「天声人語」(9月22日)が、「入学式や卒業式でも、国旗や国歌が感動を呼び起こすことはあるだろう。しかし、起立や斉唱を強制することには無理がある。生徒や、式に立ち会うひとりひとりの心の中にはためくものを大切にしてゆきたい」と書いている点も、前記したような教育現場である限り、“奇麗事”に過ぎないように思える。「天声人語」氏には、「生徒や、式に立ち会うひとりひとりの心の中にはためくもの」の例を是非とも教えていただきたい。どのようなものが「心の中にはためくもの」なのか? 「生徒」「式に立ち会うひとりひとり」という包括的な言葉を使う以上、それは日の丸・君が代賛成・反対両派に納得のいくものでなくてはならないが、そのようなものをほんとうに例示し得るのか? 
 東京地裁による今回の判決は、問題の根本的解決には繋がらないというのが個人的見解である。この種の判決は、裁判官が変われば、くつがえる可能性も十分にあるし、東京都教育委員会が控訴する方針を打ち出しているのはそれを目指してのことだろう。
  難波孝一裁判長による今回の判決を「歴史に残る判決」と評価する人々もいるようだし、そはそれでよいのだが、正直なところ、私には疑義の多い、後味の悪い判決と感じられた。

微笑ましく、かつ今は懐かしい「名命」のこと。

前回、「骨が折れる」に関して、微笑ましく、今は懐かしいエピソードを紹介したが、それでまた思い出したことがある。昭和39年[1964年]の東京オリンピックの時だった。金メダルを獲得した某著名選手が、後日(だったと思うが)、第1子に恵まれたことをテレビで報告していた。ところが、テレビカメラに向って掲げた色紙に書かれていたのは「命名 〜」ではなく、「名命 〜」だった。平仮名で書けば「めいめい」であり、「命名」と正しく覚えておかなければ、「名命」と誤って覚えてもなかなか気づかないだろう。同氏はそのように誤って覚えたのだと思う。その後、自らの誤りに気づいただろうか。あるいは、誰かにそれを指摘されただろうか。これも微笑ましく、今は懐かしいエピソードである。

シェイクスピア作『恋のこっせつ損』?

◆先日、文学特講を担当する同僚の一人から興味深いことを聞いた。女子学生の一人が、W.シェイクスピアの喜劇『恋の骨折損(ほねおりぞん)』(Love's Labour's Lost) を「恋こっせつ」と読んだそうだ。「恋の骨折り損」のように表記してあれば、あるいは「ほねおり」と正しく読んだかも知れない…。
 翻訳本の中には、たとえば坪内逍遥のもののように、『恋の骨折損』と表記してあるものあり、同僚の授業ではその表記が示されたのであろう。シェイクスピアの作品に不案内な学生(現代学生の多くはそうかも知れない)には、「骨折」という文字は「ほねおり」としてより「こっせつ」として馴染みが深いものなのであろう。たしかに、「こっせつ」は損なことである…。
 「教えられなければ分からない。」「学ばなければ知らない。」 ここにもその例があった。

「ほねおり」で思い出したことがある。昭和57年[1982年]の春の園遊会だったと思うが、昭和天皇が、柔道界では世界的に著名な某氏に向って、「ずいぶん柔道で一生懸命やっているようだが、骨が折れるだろうね。」とお尋ねになった。それに対して、若かった同選手は、「はい。2年前に骨折したんですけど、今は体調も良くなりまして頑張っております」と答えた。微笑まく、かつ今は懐かしいエピソードである。

動物たちの願い

飼い主が飼えなくなった犬や猫の引き取りを有料化する自治体が増えているという(「朝日新聞」9月17日)。引き取りをしている全国105の都道府県や政令指定都市などについて朝日新聞が調べたところ、今年は10県市が加わり、半数を超す計53自治体が有料になる。引き取り・捕獲された犬猫の9割以上、年36万匹が殺処分されているという(「殺処分」、何と悲しい言葉だろう!)。安易な飼育放棄を減らすのが主な狙いらしいが、その効果は…。
 料金は、東京都の3,000円が最高で、いちばん多いのが28自治体の2,000円。千葉県は今年6月から、成犬・成猫が2,000円、子犬・子猫が400円の徴収を始めた。昨年(2005年)の犬・猫の殺処分数は14,900匹で、全国トップクラス。 未集計の北海道を除き、昨年度に全国で引き取り・捕獲された犬は約157,900匹で、なんと約130,900匹が殺処分された。猫の場合は、約226,400匹が引き取られ、ほとんどは殺処分されているという。
 4頭の柴犬たちを家族構成員として共に暮らす、犬好きの私としては、このような記事を目にするたびに胸が痛くなる。「飼い主が飼えなくなった」という辺りには、他人には測り知れない、それぞれの事情もあろう。しかし、いったん飼った以上、最後の最後まで、何としても面倒を見るのが、飼い主としての責任だと、私は思う。そのための方策は何通りも考えられる。
 極端だと非難されるかも知れないが、人間の子供を「育てられなくなった」「育てたくなくなった」からといって、3,000円(あるいは2,000円、400円)で、どこかに引き取ってもらおうとするだろうか。もっと直截な言い方をするなら、人間の子供を“殺処分”になどできるだろうか。「命」というものの捉え方の問題である(人間の子供の命もずいぶんと雑に扱われるご時世になりつつあるが…)。人間ならできない、動物ならできるというのは人間の「身勝手」であり「驕り」ではなかろうか。動物たちの願いが聞こえて来る。

「願い」

私は生きても
10年か15年です。
だから、あなたといっときでも
離れるのはとても辛いことなのです。
私を飼う前にそのことを忘れないで下さい。
罰(ばつ)だと言って私をどこかに閉じ込めたり、
もう飼えないなどと言って私を捨てたりしないで下さい。
あなたには仕事も、お友達も、楽しみもあります。
でも、私にはあなたしかいないのです。
あなただけが頼りなのです。
あなたがそばにいて
くれるだけで、
私は
どんなことにも
耐えられます。食べ物が不足しても
寝る所がなくてもいっこうに構いません。
気づいて下さい。あなたからどんな扱いを受けようとも、
私はけっして忘れないということを。私に手を上げたり、
私を捨てようとしたりする前に、思い出して下さい。
私にはあなたの手の骨を簡単に砕くことのできる
するどい牙(きば)があるということを。
でも、あなたを噛んだりしません。
あなたが大好きだから。
私が病に倒れた時や
あなたと
永遠に別れる時が来たら、
「私のいない所で死なせて」とか
「見るに忍びない」とか言わないで下さい。
そんな時どうか私のそばにいて下さい。それが
私にとって無上の幸せであり安心なのです。
どうか忘れないで下さい。私は
あなたが誰よりも誰よりも
大好きである
ことを。

植草教授と「マタイによる福音書」第5章

 植草教授使用になる“手鏡”や、“天地神明“ “神”といった言葉から、「マタイによる福音書」(Matthew) 第5章第30節と、同第34節に書かれていることを思い出した。第30節には次のようにある。

 「もしあなたの右の手が罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に落ち込まない方が、あなたにとって益がある。」(And if your right hand causes you to sin, cut it off and cast it from you; for it is more profitable for you that one of your members perish, than for your whole body to be cast into hell.)  

  また、第34節には、次のようにある。

 「わたしはあなた方に言う。いっさい誓ってはならない。天をさして誓うな。そこは神の御座(みざ)であるから。」(I say to you, do not swear at all: neither by heaven, for it is God's throne.)

 植草教授は「マタイによる福音書」第5章に触れたことはおありだろうか…。

「嫌疑の間におらず」;植草教授のこと

一昨年4月、JR品川駅で女子高生のスカートの中を手鏡で覗こうとした[ 覗いた?] として、東京都迷惑防止条例違反容疑で現行犯逮捕され、昨年3月に東京地裁で罰金50万円、手鏡没収の判決を受けていた、名古屋商科大大学院客員教授・元早稲田大学大学院教授の植草一秀氏(45)が、今度(9月13日)は、電車内で女子高生に痴漢行為をはたらいたとして逮捕された。調べでは、同氏は13日午後10時ごろ、京浜急行の品川−京急蒲田間の車内で、女子高生(17)のスカートの中に手を入れるなどして臀部を触った疑い。女子高生と乗客の男性に取り押さえられ、京急蒲田駅で蒲田署員に引き渡されたらしい。当時酒を飲んでいたので「覚えていない」と容疑を否認しているという。1998年にも、電車内での迷惑行為により逮捕され、罰金刑を受けているようだ。
 植草氏はかつて、“手鏡事件”は冤罪であると主張し、「自分は天地神明に誓って無実である」「命を賭けても無罪を訴えていく」「真実は必ず勝利する」「神が真実のために法廷外で闘えと命じた」などと言っていたように記憶する。今はいずれの文句も空しい。その言葉どおりであれば、今回の事件はけっして起きなかったであろう。
 氏はこれまで、「嫌疑の間におらず。瓜田に履を納れず、李下に冠を正さず」という言葉や「君子は未然に防ぐ」という言葉の意味を噛み締めることなどなかったようだ。同じ“鏡”に映すのなら、 「“人”を以って“鏡”と為せ」ばよかったものを…。そうすれば自分の行いの正邪得失を正しく知ることができたであろうに…。

【参考】植草氏自身によるこれまでの自己弁明
http://www.geocities.jp/yuutama_1/407comment.html
http://www.videonews.com/on-demand/201210/000315.php

「汗する人が報われるニッポンへ!」

私が住む横浜市の金沢区内を歩くと、街のあちこちで、「汗する人が報われるニッポンへ!」という文句を目にする。自民党神奈川1区(横浜市中区・磯子区・金沢区)支部長を務める衆議院議員・松本純氏のものだ。氏の言わんとするところは、「頑張れば正しく報われる社会」(同氏の公式ホームページにある文句)ということのようだ。したがって「汗する」とは、比喩としての“汗する”(=精を出す、よく働く)なのだという応えが返ってきそうである。しかし、「汗する」という日本語は、やはり、「(特に額に)汗をかく」状態を連想させる。
 はっきり言って、「汗する人が報われるニッポンへ!」という文句は、心情的には理解できるものの、“前時代的”なものという印象を拭えない。
社会的・経済的に成功している人、報われている人の中には、「(額に)汗する」となど全くなく、冷房のよく効いた部屋で、パソコンのキーボードのキーを打ったり、マウスをクリックするだけで、一瞬にして何百万、何千万という高額の利益を得る人もいる。あるいBayside Marinaは、また、同氏の地元にあるYokohama Bayside Marina(略称YBM;左写真)に係留してある多数の豪華クルーザーや豪華ヨットを目のあたりにし、多くの他の人々が「(額に)汗して働いている時間帯」にのんびりと船遊びをしているその所有者諸氏の姿を見ると、それら諸氏が「(額に)汗する人」であるようにはどうしても思えない。
 日本人が
「(額に)汗する人」を高く評価して来たのは、「汗水たらす」激しい農作業の成果(コメ)が、領主への貢納品として使われる歴史が長かったことと密接な関連があると思う。ちなみに、士制度は、益よりも益のほうを高く評価して来たことを示している。すなわち、「(額に)汗する」ことを尊び、商いに従事して財を成すことを卑しんで来た。“ヴェニスの商人”と聞けば、“悪徳”“けち”を連想する日本人が多いのも、この点と関係があろう(“ヴェニスの商人”にしてみれば“迷惑”な話だろう)。現在でも、「カネは汚いものだ」という意識を持っている日本人は多い。
 「汗する人が報われるニッポンへ!」という文句が、現代の若者たちにどれだけ訴える力を持つものか、当の松本氏にお尋ねしてみたい気がする。

V-signも向きによっては!?

中指と人差し指で形作ったV-sign が、手のひらを外[相手]に向けた場合には、平和の印・ピースサイン、あるいはアメリカなどでは勝利・必勝の印であることはたいていの日本人(英語学習者)が理解しているであろう。しかし、その向きを反対にした場合、すなわち手の甲を相手方に向けた場合(逆向きV-signには、イギリスなどではきわめて卑猥な意味が隠されていることを知る人はまだそう多くはないようである。アメリカなどでは、その意味では、中指1本を立てて手の甲を外[相手]に向けて示す。【下のイラfinger signスト参照;拙訳書『えい・べい考現学―どこがどう違う?』435頁より
 過日、ある大学のオープンキャンパスを紹介した写真を見る機会があった。その1枚に、そこを訪れた女子高生達がカメラに向ってV-sign をしているところを写したものがあった。今どきの若者らしく、上手にピースサインを出していた。問題は、一緒に写真に納まっていた、同大学の教授・某氏(英語担当)のV-signであった。それが独り、逆向き V-sign を出しておられたのだ。ご当人はそのイギリス系英語義をご存じなく、そうなさったのだと思う。
 幸いなことに、私が目にした写真は、
外部に出回らない、学内報に載せたものだということだった。私自身、知らないところで、似たようなおかしな身振り手振りをして、英語圏の人々に誤解を与えたり、笑われたりしているかも知れない。
 いずれにせよ、日本人(英語学習者)は、V-signの場合、平和・勝利などプラスイメージを持つものの使用に留めておくのが賢明である。中指1本を立てて手の甲を外[相手]に向けるサイン同様、手の甲を外[相手]に向けるV-sign、知識の一部として持っておくに留めるのが無難である。

「高見の見物」?

慣用句の「高の見物」「高の見物」と書く人が少なくない。Googleで検索すると、(本記事執筆時に)前者の用例が 121,000 件ヒットするのに対して、後者も69,400 件のヒットがある。「高を「高い所から見ること」と解釈した結果であろうか。しかし、これは「高でなくてはならない。なぜなら、この「み」は「深」「赤」「面白」「悲し」という時の「み」であって、形容詞や形容動詞を名詞にするための接尾語(和語)だからである。あえて漢字を当てれば、「見」よりも「味」であるかも知れない。見方によれば、「の見物」という表記法も面白のある表記法だ思う。

悲しい写真

掲示板作成に関する情報を得ようとあちこちのサイトを訪れていた時のことである。画像付き掲示板の見本をスクロールしていて、悲しい一連の写真に出合った。こちらがそうである。本年3月16日にも「一羽のカモメの死」と題した一文を書いた。こういう写真や現場に出くわすのは、犬・鳥などが好きな私としては本当に辛い。ただただ辛い。「起きて! … 飛んで! 起きないとダメ(だ)よ! 早く!」 そう叫んでいるようだ。胸が締め付けられるような、そんな気がする。合掌しかない。
 今から55年も前、私が小学2年生だった頃、可愛がっていたツグミが死んだ。悲しくてならなかった。「土の中、さぞや寒かろ、冷たかろ」 そんな幼稚な文句を書いた紙切れを、“亡き骸”を寝かせた木箱の中に入れて葬ったのを、還暦を過ぎたこの歳になっても忘れない。歳を重ねるごとに涙腺が緩んで来ていることを自覚する。 

「切捨て御免」という日本語

周知のように、江戸時代の武士階級には、彼らに対して無礼な振る舞いをした町人・農民などを有無も言わさず切り捨てても罰せられないという“特権”が与えられ、一般に「切捨て御免」と呼ばれた。
 先日、たまたま見ていた某テレビ局の番組に「おすぎのエンタメ切捨て御免」というコーナーが出て来た。正直なところ、私には違和感を禁じ得ない現代用法だった。ちなみに、「一刀両断」という言い方も出て来た(こちらは必ずしも“人間”が対象になってはいないが)。
 異見もあろうが、個人的には、こうした特権階級による行動が源になっている封建的日本語表現(特に「切捨て御免」)は好きになれない。
 既述した「クビにする」(2005/5/15)、「腹を切る」(2006/4/7)、「足切り」 20065/13)と同様に、この「切捨て御免」という言い方も廃用にしたいものだ。言語使用に鈍感になることを怖いことだと思いたい。 

「天下を取る」という慣用表現

昔(昭和35[1960]年)、石原裕次郎が主演した映画に「天下を取る」という題名のものがあった。植木等主演による喜劇(昭和47[1972]年)にも「泥棒大家族 天下を取る」というのがあった。これらはみな「ある特定の世界で他に並ぶもののない存在になる」という程度の使い方である。日常的にも、「ラーメン[音楽]業界で天下を取る」「専門分野で天下を取る」などのように使う。
 しかし、使う人が使えば、「一国全体[国家]を支配する権力」という意味になり、「実権を握って思うままに振る舞うという含みも出て来る。いや、むしろその意味のほうが本来的であろう。
 たとえば、今朝、フジテレビの「報道2001」を見ていた時の例を引こう。中曽根康弘元首相が、黒岩祐治キャスターから、次期首相と呼び声の高い安倍晋三官房長官と憲法改正との関連を聞かれて、「彼は、天下を取ったら…すると言っていましたよ」と応えた。
 この場合の“天下”は、明らかに「国家を支配する権力」の意味である。前時代的、封建的用法と言ってもよいであろう。かつて、水戸黄門の格好で、“昭和の水戸黄門”を自称し、“世直し改革”を訴えていた首相もいた。こういう人達の頭の中には、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康などに通じる
発想があるのかも知れない。
 しかし、現代の“天下”国民全てのものである。独り、首相のものではない。首相とは、国民全ての幸福の舵取りを任された人である。したがって、「実権を握って思うままに振る舞うという含みを持つ「天下を取る」という慣用表現には馴染まない存在であるし、また、そうであってはならない。言葉は人間の精神を支配する力を持ち、同時に、精神の在り様を教えてくれるものである。

竹谷年子さんのこと

先日、某テレビ局が、竹谷年子(たけや・としこ)さんを紹介していた。25歳のとき帝国ホテルに接客係として入社し、以後、国内外のVIPの接遇には不可欠の存在として、60年の長きにわたり、同ホテルに勤務なさった方である(平成9年8月29日87歳にて没)。「竹谷がいるから帝国ホテルに宿泊する」、「竹谷を私の担当に」という声が引きも切らない状態だったそうである。
 重光葵を初めとする多数の邦人VIPたちからも、エリザベス女王、サッチャー首相、ニクソン大統領、ヘレン・ケラー、マリリン・モンロー、ソフィア・ローレン、チャーリー・チャプリン等々の世界的VIPたちからも、“(日本的なる)得がたい存在”として愛されたという。
 ヘレン・ケラーは竹谷さんのことを“チェリー・ブロッサム”(サクラ)と呼び、マリリン・モンローは、「おきれいですね。」と言う竹谷さんに向って、「あなたの黒髪のほうがもっとおきれいですよ。」と言ったという。エリザベス女王も竹谷さんに感謝の気持ちを記念品として残して帰国されたそうである。
 立ち居振る舞い、言葉遣い、笑顔、それら全てが“日本的なる竹谷さん”に、帝国ホテルに逗留する人々が魅了され続けたのだ。「帝国ホテルの宝」と形容できるように思う。ほんとうに素晴らしい方だ。
 注記:テレビ番組を見ての記憶に頼った一文であるため、事実誤認があるかも知れない。

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[監修]山岸勝榮
 [執筆]関根紳太郎
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D.Graddol著・山岸勝榮訳
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