2010年08月

「鯛の浦」に行って来た。

UmihotaruTainoura1昨日は、その二日前の「反省」にも拘わらず、炎暑の中を千葉・小湊の「鯛の浦」に行って来た。別所で書いたように、生前、妻が歩いた場所を遅まきながら、私も歩いてみたいと思ったからだ(写真はクリックすると大きくなります)

 千葉・小湊と言えば、周知のように日蓮聖人(1222−1282)ゆかりの誕生寺のある所だ。朝7時半頃、息子と共にうちを出て、横浜駅で娘と合流し、東京湾アクアラインに向かった。途中、「海ほたるPA」で小休止し、木更津、鴨川を通って、鯛の浦へ。平日だったせいか、鯛の浦遊覧船にはほとんど待たずに乗れた。期待した鯛たちを見ることもできた。ほかに大型のカンパチ、メジナ、イサキ、アジなども群れていた。遊覧船を下りて、乗船場に隣接した展示館で鯛の浦に関する貴重な展示物を見たり、小湊土産を買ったりした。売店の中年の女性と話が合って、しばらく雑談をした。「最近はほかTainoura3にいTainoura2ろいろと楽しい遊び場ができたからでしょうか、鯛の浦や誕生寺に来てくれる若い人たちが少なくなりました。」と嘆いていた。

  船を下りてから、誕生寺に向かった。平成33年[2021年]には日蓮聖人降誕800年祭が予定されているようだ。聖人の遺徳が偲ばれる。宝物館で聖人の真筆、歴代の墨蹟、水戸光圀公等の遺墨、明治皇室よりの拝領品等に見入った。中に、聖人一代伝記画もあって、不敬ながら「紙芝居」を見ているように分かりやすかった。よく知られたエピソードだが、聖人は息を引き取ったばかりの母君(梅菊)のために至心を持って法華経を読誦し、その蘇生を可能にしたと言われる画もあって興味深かった。ちなみに、母君はその後、4年間の延寿をみたそうだ。

 宝物館を出て、金谷へ向かい、フェリー乗り場近くのレストランで海鮮料理を堪能した。昼Tanjoji食後、少し買い物Shoninをしてから、フェリー乗り場へと向かい、「かなや丸」への乗船手続きをした。特別客室を家族4人(亡き妻は常に同行)のために借り切った。金谷港から横須賀港まで、わずか35分の船旅だが、家族水入らずでその空間を使いたかったからだ。「女房孝行」らしいことを何もしてやれなかった「愚かなる夫」による懺悔行である。

 横須賀港で下船してから、横須賀美術館内のレストランで軽くティータイムを取った。ここからの東京湾の眺めはまた格別だ。そこでしばらくおしゃべりをしてから、横浜横須賀道路を利用して、帰宅の途についた。まだ、陽があるうちに帰宅できた。いつものように、留守にされた愛犬達の「歓待ぶり」は尋常なものではなかった。
 夜は小湊・金谷で買った海産物などをおかずに夕食をとった。今日も一日、子供たちにいたわられながらの小旅行であった。

はい、ごめんなさい…。

michi0今日も相変わらずの猛暑だったが、炎天下を無性に散歩したくなった。行きたいと思うと矢も盾もたまらなくなった。たぶん、昨年の今頃、命の尽きようとする妻がいたから、そのことを思い出して、妻と歩いた道を歩いてみたくなったのだと思う。

 午後1時頃うちを出た。途中、自動販売機で冷たい日本茶のペットボトルを1本買った。野口英世記念館近くの公園で一休みして、そこでゆっくりとそれを飲んだ。急に汗だくになった。またしばらく歩いてから、妻と必ず立ち寄った某喫茶店でもう一休みすることにした。店内は空いていた。携帯電話の待ち受け画面にしてある妻の写真をそっと店のテーブルの上に置いた。「ここに二人michi1で来たのは久しぶりだね。」 妻の写真に向かって私はそう呟いた。今度は冷たいコーヒーを飲み、小さな可愛いケーキを一つ食べた。妻が好きだったものだ。そこで万歩計を見ると、その店までで、すでに約11,000歩も歩いていた。

 そこから仕事中の息子に、メールで、「いつもの喫茶店で“お母さん”を思い出しながら一人でコーヒーを飲んでいます」と知らせた。すると、炎天下を散歩に出た私のことを気遣ってくれたからだと思うのだが、息子からすぐに返事があって、「仕事途中でもこれから迎えに行きますから、そこで待っていてください」と言って来た。正直に言うと、その猛暑の中を散歩に出たことを少々後悔していたから、息子の「助け舟」が有難かった。だからそれに「乗船」させてもらうことにした。michi2

 しばらくして息子の車が到着した。折角だからということで、ベイサイドマリーナで海を見てから、近くのレストランで、早めの夕食をとった。海を見ながらの食事はいつも食欲が増す。何よりも、「愛犬たち」に邪魔されないのがいい。

 「老いては子に従え」という言葉がある。自分ではまだそれに従うほど老いたとは思っていないのだが、妻のことがあってからというもの、我が子たちに何やかやと心配を掛けていることだけは間違いない。今回も結果的には息子の貴重な仕事時間を私が奪ったことになる。きっと妻が言っているだろう。「あなた、自分勝手に行動して、子供たちに心配を掛けたり、子供たちの大切な時間を奪ったりしてはいけませんよ。」 私の返事はただ一言。「はい、ごめんなさい…。

アニメ監督・今敏さんの死

roseアニメ監督の今敏(こん・さとし)さんが3日前に膵臓癌で亡くなった。そのことを私の息子から聞いた。今さんはまだ満46歳の若さだった。末期膵臓癌に罹っていることを知らされたのが去る5月18日だそうだから、宣告から死去までわずか3カ月余の短い時間しか残されていなかった。ここにさような」と題した今さんの遺書の全文が掲載されているが、この世を去り行く人の万感の思いが虚飾なく綴られている。医師から病名告知を受けた時の気持ちを書いた「妻と二人で聞いた。二人の腕だけでは受け止められないほど、唐突で理不尽な運命だった。」という言葉がそれを読む私の胸を突く。

 見舞いに訪れた、今さんのアニメ世界の「親御さん」であるマッドハウス丸山さんに今さんは言った。「すいません、こんな姿になってしまいました…」 その時の様子を今さんは次のように書いている。

丸山さんは何も言わず、顔を振り両手を握ってくれた。感謝の気持ちでいっぱいになった。怒涛のように、この人と仕事が出来たことへの感謝なんて言葉ではいえないほどの歓喜が押し寄せた。大袈裟な表現に聞こえるかもしれないが、そうとしか言いようがない。勝手かもしれないが一挙に赦された思いがした。

 今さんの「勝手かもしれないが一挙に赦された思いがした。」という言葉の意味がよく分かるような気がする。また、札幌から駆け付けたご両親に、自分が末期膵臓癌に冒されていることを告げた時、お母さんが寝たきりの今さんに向かって言ったそうだ。

「ごめんねぇ!丈夫に産んでやれなくて!」

 これこそ、生みの母の真実にして、この上なく切なく、苦しい胸の内から出た言葉だろう。今さんはご両親に向けて書いている。

ありがとう、お父さん、お母さん。二人の間の子供としてこの世に生を受けたことが何よりの幸せでした。数えきれないほどの思い出と感謝で胸がいっぱいになります。幸せそのものも大事だけれど、幸せを感じる力を育ててもらったことに感謝してもしきれません。本当にありがとうございました。

 「私、最後までちゃんと伴走するからね。」と言って、今さんが亡くなるまで介護を続けられたお連れ合いにはただただ頭が下がる。そのお連れ合いのことを今さんは次のように書いている。

怒濤のごとく押し寄せるあちらこちらからの要求や請求を交通整理し、亭主の介護を見よう見まねですぐに覚え、テキパキとこなす姿に私は感動を覚えた。「私の妻はすごいぞ」 今さらながら言うな?って。いやいや、今まで思っていた以上なんだと実感した次第だ。私が死んだ後も、きっと上手いこと今 敏を送り出してくれると信じている。思い起こせば、結婚以来「仕事仕事」の毎日で、自宅でゆっくり出来る時間が出来たと思えばガンだった、ではあんまりだ。けれど、仕事に没頭する人であること、そこに才能があることを間近にいてよく理解してくれていたね。私は幸せだったよ、本当に。生きることについても死を迎えるにあたっても、どれほど感謝してもしきれない。ありがとう。

 46歳、それは余りにも若過ぎる年齢だ。何歳まで生きてから死ねばよいというような基準などあろうはずはないが、46歳という年齢での旅立ちは早過ぎる。今さんのような才能豊かな人には、享年の倍(以上)も生きて、多くの素晴らしい作品を残してもらいたかった。

 ちなみに、今さんと私との間に接点は何もない。ただ、今さんの死因が膵臓癌であり、私の妻の死因も膵臓癌だったというだけのことだ。それも共に「末期」の…。だが、その共通点が今の私をして今さんの死を「他人事」と思わせないのだ…。

 「膵臓癌」(pancreatic cancer)… やはり恐ろしい病気だ。今さんのご冥福をお祈りする。合掌。

小沢一郎さんと「視線」

民主党の前幹事長・小沢一郎さんが党代表選に立候補するそうだ。その小沢さんについて前々から気になっていることがある。それは小沢さんが相手の目を見ないで話をすることが少なくないということだ(「多い」という印象さえ受ける)。今朝の某局のテレビニュースでもそうだった。記者たちから、出馬neverの方向で最終調整に入っている点を聞かれ、それに応える間じゅう、一度もきちんと記者たちに視線を向けなかった虚空を見つめたり、半眼で方向の定まらない見方をしたりしていた。

 確かに、我が国の文化では、「相手の目を見(つめ)ない」というのは普通のことだ。だが、それは“身分”の上下関係が明確な封建時代の名残りの1つだろう。「苦しゅうない、もそっと近こう寄れ」「苦しゅうない、表(おもて)を上げい」と言われても、言う側(主君)の目を直接見ることを避けたそんな時代の…。

 現代でもそうした傾向があることは否めないが、小沢さんは著名な政治家であり、政党代表候補者であるのだ。菅さんのあとを継いで首相になる可能性さえある。本人の習性なのだろうが、小沢さんの「アイコンタクト」(eye contact)の取り方では、国家代表としては世界の信用を勝ち得ないのではないか。もちろん、「相手の目を見る」と言っても程度問題だが…。

 ちなみに、英語でよく言われる言葉に、Never trust a person who can't look you in the eyes. (あなたの目を見られない人をけっして信用するな)というのがあるが、テレビ画面で小沢さんを見るたびに思い出すものだ。人ときちんと「アイコンタクト」を取ることは、政治家(諸氏)が常に心がけなければならないことだと思う。

【後刻記】その小沢さんが、「私はアメリカ人は好きだが、彼らには単細胞(simple-minded)なところがある」と言ったそうだ(こちら)。

昨日もちょっと出かけた。

rose昨日は息子のクルマで横浜ランドマークタワーに行った。タワー内の某所で娘と合流し、某店で昼食をとった。そこへは妻と二度行ったことがあった。昼食を済ませてから、妻が好きだったという某喫茶室に席を移し、食後のデザートと洒落込んだ。落ち着いた雰囲気の店で、私は白玉団子入りの氷あずきと最中を注文した。

 小一時間ほどそこに居て、そのあと、磯子の某家具店に行き、妻の祭壇用の敷物その他を買った。そろそろ妻の命日がやって来るので、それまでに祭壇を今まで以上に明るくしておいてやりたいと思ったからだ。いつも明るく陽気に振る舞う妻だったから、亡くなる前にも、「私が死んだら、祭壇はお花でいっぱいにして、明るくしてね。暗い感じのものは嫌よ。特に“抹香臭い”のは止めてね。」と言っていた。帰宅してから、汗だくになりながら、娘と祭壇の手直しをした。

 夕食は娘が用意してくれた。「母」の味をよく受け継いでいて、娘が作ってくれるものは私の好みの味だ。明るい家庭づくりに腐心してくれた妻の魂が悲しまないように、妻亡きあとも出来るだけ明るく楽しい食卓にするように努めているが、昨夕もそのようにした。小さな家族だが、笑いの絶えない家族であり続けたい。

高齢者と「万引き」

con万引きをしたとして逮捕・書類送検された高齢者が、何と20 年前約10倍に増えているそうだ(朝日新聞、昨夕)。警視庁生活安全総務課の発表によると、東京都内で万引き容疑で逮捕・書類送検された65歳以上の高齢者は、1989年266人で全体の3%、それから約10年間はほぼ横ばいだった。その後、増加傾向となり、2003年に初めて10%を超え、2007年には20%を上回った。昨年2009年3110人で、全体の21%を占めるに至ったそうだ。
 警視庁が昨年、万引き容疑で逮捕・書類送検された高齢者204人にアンケートしたところ、万引きをする心理的背景として、「孤独」を挙げた人が最多の24%、「特に理由なし」が9%、「生き甲斐がないこと」が8%だった。

 この問題に意見を求められた浜井浩一・龍谷大学法科大学院教授(犯罪学)は、「孤立した高齢者にとって、人や社会とかかわる手段が万引きしかない場合がある。犯罪に手を染める高齢者を地域社会全体で支えることが重要で、この取り組みを根付かせることが今後の課題になる。」と言っておられるが、その通りだろう。

 ここで言う高齢者は、「李下(りか)に冠(かんむり)を正さず、瓜田に履(くつ)を納(い)れず」の戒めを一度は教わった(はずの)親に育てられた(はずの)人たちだが、孤独感や孤立感はそうした道徳律を無力化するほどの脅威を彼らとその社会とにもたらしているようだ

 「人は己れ自身の価値あるか無きかに準じて、孤独すなわち己れ自身の社会を愛し、また、嫌うものなり」と言ったのは、かのショーペンハウアーだが、今また、彼のその言葉が重みを持つ。

怪しい英会話の本が多くなった…(続)

去る6月20日、本ブログにおいて「怪しい英会話の本が多くなった…」と題した一文を書いた。その時言及した本は、「あなたの英語はこんなに恐ろしい響きでネイティブに聞こえているのですよ」というような内容を書名にしたものだが、その一部にはおおよそ標準的とは言えない英語表現が「推薦形式」として挙げられているものだった。
 同じ著者(たち)が、「あなたのその英語表現は品がないですよ」というような内容を題名にした本を出している。その種の本を出すことに文句をつける筋合いはないのだが、そこに出て来る日本語(もちろん日本人が執筆したもの)に少々異を唱えたい。私の語感に従えば不自然な、あるいは馴染みの薄いものが多いからだ。次に5例だけ挙げてみる。

例1.Do you see what I mean? ご理解してしていただけたでしょうか。
例2.(ガソリンスタンドで) Can you check the oil for me?  オイルチェックをしていただいてもいいですか。
例3.(早口の人に)Do you mind speaking a little slower, please? もう少しゆっくり話していただいてもいいですか。
例4.(無礼な発言などに言及して)That was a bit much. ちょっといかがなものか。
例5.(興味を示して)That interests me greatly. それは大いにそそられますね。

 人によって感じ方に違いはあるだろうが、上に挙げた日本語はいずれも私の日常的用法にはないものだ。わたしなら、それぞれ次のように言う[訳す]だろう。

例1.ご理解いただけたでしょうか。/お分かりいただけたでしょうか。など
例2.オイルをチェックして貰えますか。/オイルチェックをお願いします。など
例3.もう少しゆっくり話していただけますか。/もう少しゆっくりお願いします。など
例4それはちょっとひどいですよ。/それは言い過ぎですよ。など
例5.それには大いに興味をそそられます(ね)。/それは非常に興味深いですね。など

 ネイティブスピーカーを味方に付けて、同じ日本人の英語の「不自然さ」を云々することは、それが英語的に正しいものである限り問題はないが、その際、英語に添えられる著者(たち)の日本語は「自然なもの」でなくてはならない…。

花に囲まれて…

fl-1昨日は私が勤務する大学のオープンキャンパスの日だった。私も英米語学科の相談デスクで高校生の「進学相談」にのった。楽しかった。高校生の若さを羨ましく思うと同時に、私自身にもそんな輝いた時代があったことを思い出し、多少感傷的になった。

 行事が終わる小一時間前、この春卒業した私のゼミ生諸君4名が来てくれた。久しぶりに私に会いたいと言ってくれたので、私の出校に諸君の予定を合わせてもらって再会が実現した。割り当てられた「仕事」が終わったところで、私の研究室に場所を移して、そこで1時間ほど掛けて諸君の近況を報告してもらったり、世間話をしたりした。こちらも本当に楽しかった。

 帰り際、卒業生たちが私の妻にと、美しい盛花を贈ってくれた。そろそろ妻の命日が近づくので諸君が気を使ってくれたようだ。その諸君より一足早く私の所を訪れた別の卒業生は私の腰痛のことを気遣って鎮痛消炎薬をたくさん持って来てくれた。

 「厳しい教師」だと言われながら、学生諸君からはこうして事あるごとに気遣って貰えるのは、たぶんその「厳しさ」が諸君の卒業後の日常に何らかの形で実際に役立っているからだろう。
 個人的には、育とは、学習者が教科書や参考書の内容をすっかり忘れたのちにも、その心の奥底に依然として残る「何か」を創り出す崇高な行為だと思っているので、それを実現すべく努力して来たが、こうして卒業生諸君が何やかやと私や私の亡き妻のことを気遣ってくれているところをみると、私の「厳しさ」もあながち間違ってはいなかったかなと思う…。

 帰宅してから、その盛花を妻の霊前に供えた。下手な私の「生け込み」のそばで、その盛花がひときわ美しく見えた。華道教授だった妻からすれば、私の「生け込み」はさぞや滅茶苦茶なものに思えるだろう…。それでも花に囲まれた遺影の妻の顔は嬉しそうだった…。

「再会」を「再開」と誤変換

山本周五郎の『青べか物語』をいろいろと調べている内に、ある人のホームページに行き着いた。そこに、一枚の写真が掲載されており、

30年ぶりに再開して当時を振り返る周五郎氏(左)と吉野長太郎(右)

と記されたキャプションがあった。「再開」が「再会」の誤変換であることは容易に理解できたのだが、いつもの癖で、「この種の誤変換は相当に一般的なものだろう」と思い、「久しぶりの再開」でGoogleに掛けてみた。ある、ある!! 5例だけ挙げる。

*久し振りの再開で、昔話しがたえませんでした(笑).
*そう思うと、なんだか久し振りの再開もちょっぴり嬉しく思えてきた。
*久し振りの再開を祝うような仲でもなく、取り敢えず部屋に上げる。
*久し振りの再開を心から喜んで待っていてくれた事に改めて感謝しました。
*マリオとの久し振りの再開。 話が弾み、望桜荘で時があっという間に過ぎ去った。

 この種の誤変換はちょっと注意を欠いた時などに犯しがちなものだが、学生たちの手書きの答案の中にも時々見かけるから、キーボードでの誤変換とばかりは言えないかも知れない…。

諸国から訪れる旅人よ ― パラオのこと

先日、某テレビ局のクイズ番組で、「日の丸とよく似た国旗を持っている国はどこでしょう」という問いがあった。答えはパラオ共和国である。スペインやドイツの植民地になったり、日本の委任統治領、アメリカの信託統治領となったりしながら、結果的には1994年にようやく独立している。白地に赤い日の丸が青地に黄金色の円(月)であることや、その丸の位置が中央からやや左(旗竿寄り)にずれているという違いはあるが、一見してよく似ている。一説には日の丸を模したものと言われるが、真偽のほどは不明。このデザインは公募だったそうだから、あるいは応募者の頭に日の丸のことがあったのかも知れない。

 パラオと言えば、委任統治時代に、同島守備に当たっていた1万人以上の日本兵が、70 数日にわたるアメリカ軍との攻防の末、玉砕した島だということをすぐに思い出す。当時、この島に投入されたアメリカ軍兵士の数は4万数千人と言われる。

 また、パラオから、アメリカ太平洋艦隊司令長官C.W.ニミッツが同島に散った日本兵のために残したと言われる言葉も思い出す。同島の碑文(下方の写真)には次の言葉が刻まれている。

諸国から訪れる旅人達よ
この島を守るために
日本軍人がいかに勇敢な愛国心をもって戦い
そして玉砕したかを伝えられよ 
米太平洋艦隊司令長官  C.W.ニミッツ

原文は

Tourists from every country
who visit this island should be told
how courageous and patriotic were the Japanese soldiers
who all died defending this island.
Pacific Fleet Commander in Chief (USA) C. W. Nimitz

だが、この碑文が本当にニミッツ提督が発した言葉を刻んだものかどうかは私には分からない。ニミッツ提督によるものかも知れないし、誰かによる後日の捏造かも知れない(個人的には前者だと思いたい。仮に事実だとすれば、敵軍司令官をして、かくも感動的な言葉を残さしめた日本兵たちの玉砕がいっそう痛ましいものに思われる。いずれにせよ、異国に散ったそうした日本兵を戦後の為政者を初めとする全ての日本人はどのように遇して来ただろうか。内心忸怩たる思いである。

 ちなみに、パラオは1994年10月1日にアメリカの統治を離れて独立した。翌年、独立1周年記念を盛大に催したが、が日本からの祝電はなかったという。時の日本国総理大臣は、かの村山富市氏。さもありなん…。(同国独立10周年の際には、時の総理大臣・小泉純一郎氏は祝電を打ったと聞くが、それが“常識”だろう。)

参考:パラオ共和国(Republic of Palau)

宮崎県の口蹄疫問題で思ったこと(続)

今日の朝刊(朝日新聞)に、「口蹄疫 代償と教訓」と題した記事が出ていた。そこにあった「データで振り返る4カ月」によると、7月22日現在のの「殺処分頭数」は68,266頭(県全体で約309,200頭だから県全体の約22%)、の「殺処分頭数」は220,034頭(県全体で約914,500頭だから県全体の約24%)、その他(ヤギ、ヒツジ、イノシシ、スイギュウなど)の「殺処分頭数」は343頭だそうだ。
 「埋却地」の面積は何と東京ドーム約30個分だという。機動隊員派遣数約23,000人、自衛隊員派遣数約18,720人、県外からの応援獣医師約25,000人、経済的損失約2,350億円という数字も挙がっている。
 部外者たる私がこの問題を云々するのは気が引けるが、前にも書いた(本年5月20日「宮崎県の口蹄疫問題で思ったこと…」)ことをここで繰り返したおきたい。

《人間様のご都合》に翻弄されて死んで行った動物たちの慰霊祭を盛大に執り行ってもらいたい。そうでなければ、動物たちは浮かばれない。

 今のところ、そうした催しを予定しているという話は聞かない。このままこの問題を終息させるとしたら、「殺処分」された動物たちが可哀想すぎる。宮崎県人が約30万人、ただ感染性の病気に罹ったというだけで「殺処分」されると想像してみてほしい人間に「殺処分」などという忌まわしい言葉は使うはずはないが。その想像力を持つことが出来るのは人間だけだし、今回の大量「殺処分」は、それが可能な人間が為したことだ。せめて、何の罪もないにも拘わらず「殺処分」された動物たちの冥福あるいは成仏を心から祈るぐらいのことはしてもらいたい。否、そうすべきではないか口蹄疫に罹らずとも、いずれ《屠殺》して人間様の腹に収まるのだから、という弁明も成り立つが、その場合でも定期的に慰霊祭ぐらいは執り行うのが当たり前だろう

 畜産農家の方たちの苦悩は尋常ではなかったろう。経済的損失も多大だったろう。「断腸の思いで《殺処分する》」という言葉も聞いた。だが、十分ではなかったにせよ、それなりの「補償」もあった[ある]はずだ。何よりも、畜産農家の方たちには「明日」があり、「再起の機会」もある。それに引き比べて、「殺処分」された罪なき動物たちには何の「補償」も「明日」も「再起の機会」も与えられなかった。与えられたのは「不本意なる死」「ある日突然の《殺処分》」だけだった。私たちが「いただきます」と言いながら食事をする限り、つまり生かされている限り生きとし生けるものへの感謝と哀惜とを持ち続け、感じ続けなければならないのではないか。それが「ほかの命をもらって生きている人間」の当然の務めではないか。

【付記】(1)私が知らないだけで、宮崎県内のどこかですでに動物慰霊祭が行われたのなら[あるいは、行われる予定なら]、それこそ望ましいことだ。(2)朝日新聞の記事の中にも、「慰霊祭」などの提案はない。記事中の「口蹄疫問題のこれから(予定)」によると、今月27日に「県が終息宣言」を発するそうだ。

宮崎県の口蹄疫問題で思ったこと(続・付記)

1点大事なことを書き忘れるところだった。宮崎県が所有する種牛49頭の内、2頭に口蹄疫の症状が見られたことを東国原知事が発表し、その事実を記者から教えられた際、赤松広隆・農林水産大臣(当時)は、次のような“信じがたい発言”をしている。こういうデリカシーを欠いた人物が我が国の農水相を務めていたのだ!

 だから早く殺せって言ってるのに…

  大臣はまた、「ここまで広がった以上は、そんなチマチマしたことをやったってしようがないから、まあ、そこまでやるかと言うところぐらいまで踏み込んでやりたいと思ってます。」と言った。「そんなチマチマしたこと」 これが罪もなく『殺処分』された約30万頭の牛・豚など、“命あるもの”たちに向けられた日本国農林水産大臣の言葉だったとは…。

菅直人・現首相のこと(続々)

dl昨日は「終戦[敗戦]記念日」だった。菅首相は全国戦没者追悼式で、「心ならずも戦場に倒れ、戦禍に遭われ、あるいは戦後、異郷の地に亡くなられた300万余の方々の無念を思うとき悲痛の思いが尽きることなく込み上げてきます。」と言った。偏屈な事を書くようだが、戦場に倒れた人たち全てを「心ならずも」と形容するのは、菅さんの個人的な思いであって、実際はもっと複雑であるはずだ。この点は、「“アジア”の人々に多大な苦痛と与えた」と、アジア諸国“全て”に謝罪するやり方に似ている(【追記】参照)。ただ、菅さんとしては、建て前としてはそのように言うしかないだろう。

 菅さんと言えば、内閣の閣僚全員が靖国神社への参拝を行なわなかった。これも予想されたことだ。不勉強な閣僚たちが多いようだから、菅さん主導の「参拝不履行組」に入らざるを得ないだろう。戦後の国会での正式決議の結果に学ぶことなくあるいはそれを故意に無視して、「A級戦犯」という表現を愛用し続けているのが菅内閣であり、我が国の一部の偏向したマスコミだ(今朝の朝日新聞でも「A級戦犯」が普通に使われている)。戦後65年、すなわち私が生きて来た社会はかなりの「偏向社会」だった。たぶんこれからは更に息苦しい社会になるだろう…。

【追記】菅さん(を初め閣僚諸氏)はおそらく昭和30年[1955年]に開催された「バンドン会議」(参加国29)の中身をきちんと勉強したことがないだろう。もしそれをきちんと勉強し、日本を除く28カ国の代表者たちが日本代表(高碕達之助)に向けた言動の実際を知っていたら、菅さんは言葉選びにもっと慎重にならざるを得ないだろう。困ったものだ。

不寛容な社会の不幸な子供たち?

毎年夏休み、午前6時半になると、近所の公園からはラジオ体操の音が聞こえていた。それが今年は聞こえてこない。確か、先月末頃には聞こえていたように思うのだが…。そんなことを思いながら、先日の朝、愛犬を連れて散歩をしていた。その公園の近くを通った時、町内会の掲示板に目が行って足をとめた。そこには、子供たちがラジオ体操をしている写真が掲載されており、そのそばにラジオ体操が行われる日程が書いてあった。それによれば、今年は夏休みを前期と後期とに分け、前期は7月(つまり先月)末の3日だけ、後期は8月(つまり今月)末の3日だけ行なわれることが記してあった。夏休みを通してラジオ体操が行われるのは、何とわずか6日である。

 それを見て、すぐに思ったのが、近所からの「苦情」だろうということだった。今朝、いつものように早朝の散歩に出かけた時、私の推測が当たっていたことを、その公園の近所に住む某氏から教えられた。やはり、近所から「早朝からラジオ体操の音がうるさくて寝ていられない」という苦情(それも多くは年配者たちからのもの)が寄せられたそうだ。

kids 近所の小学校に子供を通わせる某氏から聞いた話では、同小学校にも近所からの「苦情」が多く寄せられるそうだ。曰く、「朝礼の時のスピーカーがうるさい」、曰く、「プールで泳ぐ子供たちの声がうるさい」、曰く、「運動場で体操する子供たちの声がうるさい」、曰く、「運動会の音がうるさい」…

 昨今、日本人から失われて行っているもの。それは「忍耐力」と「寛容の精神」だろう。それらの欠如した”病的社会”で育つ子供たちが、精神的に十分に健康に育つとは思えない。学校、とりわけその運動場、水泳プール、体育館等での子供たち、遊園地、公園での子供たちはうるさいぐらいでよいのだ。教室内、電車・列車・飛行機、その他、公共性のある場所ではきちんと躾けられた子供たちがよい。要するに、TPOで自分自身が発する声・音を調整できる能力を持っていることが肝要なのだ。その能力の涵養は、その能力を十分に備えた大人たちの中でのみ実現される。

 私が小学生だった戦後の日本では、夏のラジオ体操は子供たちにとって毎朝の楽しみだった。出席簿を首から下げて、自分が通う小学校の校庭に集合し、体操を終えると、その出席簿にハンコを押して貰う。期間中、皆勤であろうと友だちと競い合ったものだ。幸い、私はほとんど毎夏、皆勤を続けた。そういう「持久力」がその後の私をどれだけ助けてくれたことだろう。子供の頃、培われたその「持久力」が、その後の私の「元気」「やる気」「根気」の三気を生み出してくれたのだと思う。

   ひと夏、わずか6日しかラジオ体操ができない子供たちが不憫でならない…。それにしても、ちょっと苦情を寄せられただけで、簡単に譲歩し、「人間を育てる」ための好機を逸してしまう別の大人集団の「腰砕け」には腹立たしさを覚える…。

Les enfants sont ce qu'on les feit. 
 (子供は大人が育てるように成る。) ― フランスの諺

菅直人・現首相のこと(続)

Hinomaru昨日、菅さんと日の丸(および君が代)に言及したが、民主党がこれまで日の丸(および君が代)に敬意を払わないで来た党であることは周知の事実である。かつて鹿児島県内で開かれた民主党の集会では、壇上の民主党党旗が切り刻まれた日の丸を使って作られていたことがある。それを質した麻生首相(当時)に対して、鳩山代表(当時)は「そんなことを、けしからんことをやった人間がいるとすれば、そのことに対して大変申し訳ないという思いをお伝えを申し上げておきたいと思います。」と応えている。「けしからんことやった人間がいるとすれば…」? 「そんなことをやった人間がいる」からこそ、そういう党旗が掲げられたのだ! 「そのことに対して大変申し訳ないという思いをお伝えを申し上げておきたいと思います。」 何と焦点ボケした日本語だろう! 誰に、何に対して「大変申し訳ない」と謝罪し、「…を申し上げたい」と言っているのか判然としない。

 当り前だろう。鳩山さん(今は菅さん)を筆頭に、民主党員には、日の丸に対して「不敬を働いた」という気持ちなどなかっただろうから。そういう不誠実な態度が、昨日紹介した菅さんの君が代・日の丸的態度から疑似君が代・日の丸的態度へと繋がって行くのだ。

 鳩山さん、菅さんはこういう「君が代」(野々村彩乃)もやはり嫌いだろうか? 私など、これを聴くと、ただただ感動する。その他、いろいろな人のいろいろな歌い方の「君が代」がある【桑田佳祐忌野清志郎Gackt平原綾香平井堅松山千春森川美穂Hanna秋川雅史大黒摩季】。いずれの場合も「素晴らしい」の一言だ。
 
 とにかく、国旗を切り刻むなど、到底許されることではない…。国旗に対するこのような「不敬な行為」が行われたことを不問に付してはならないのだ…。

 Let Whig and Tory stir their blood;
 There must be stormy weather;
  But for some true result of good,
  All parties work together.
                  ― A. Tenyson

 ホイッグ党、トーリー党 みなそれぞれに血を湧かす
 暴風の時もあらばあれ
 さはれ或る赤誠の福利のためには
 あらゆる党派一に合して行動す
                                      ― A. テニスン

菅直人・現首相のこと

fl安倍晋三・元首相は、菅直人・現首相のことを、「愚かで間抜けな人物」と評した(こちら参照)。たしかに、菅さんの最近の言動には矛盾と歴史認識不足と不勉強とが目立つ。

 たとえば、「広島原爆の日」の挨拶では、「唯一の戦争被爆国である我が国は、『核兵器のない世界』の実現に向けて先頭に立って行動する道義的責任を有している」と表明したかと思うと、記者会見では「核抑止力の必要性」を強調する。日の丸にも君が代にも大反対だったはずの人が、首相になった途端、「日の丸には敬意を表しているし、君が代も他の人たちと斉唱している」と言う(こちら参照)。米国・アーリントン墓地へ行って献花したかと思うと、靖国神社へは「A級戦犯が合祀されているからそこを訪れるつもりはない」と公言する(6月15日、自民党佐藤正久議員のよる参院代表質問への回答;こちら参照)。

 我が国の首相でありながら、昭和28年(1953年)8月3日開催の衆議院本会議において何が決議されたかも知らないのだ。知っていれば、「A級戦犯」などという言葉が口を突いて出るはずがない。ついでに言えば、サンフランシスコ講和条約第11条の手続きに基づき、関係11カ国の同意を得て、昭和31年(1956年)には「A級戦犯」は赦免されている。(もちろん、「A級戦犯」だけは今も“戦争犯罪人”だという強硬意見もあるにはある。) したがって、首相たる菅さんが「A級戦犯」と公言することは慎重であらねばならないのだ。【さらについでに言えば、菅さんは1951年(昭和26年)5月3日、アメリカ上院軍事外交共同委員会の席上、かのD.マッカーサーが日本に関してどんな発言をしたか、よく勉強しておくべきだ。「歴史に対して誠実に向き合いたいと思います。」と明言したのは菅さん自身なのだから。】 

 
菅さんの発言はまた、昭和40年[1965年]の「文化財及び文化協力に関する日本国と大韓民国との間の協定」を無視もしくは軽視しているとしか思えない。日韓併合条約の解釈の仕方にしたところで、それにはいろいろとあるにも拘わらず、過度に韓国寄りの発言になっており、かつての村山富市元首相の不快な公式発言を彷彿とさせる(菅さんにはこういう動画  もきちんと見てもらいたい)。菅さんの談話を過大評価する朝日新聞も偏向しているとしか思えない(本日朝刊)。

 菅さんはさらに、「日韓関係は良好」だと嬉々として言う。何を根拠にそう明言できるのだろう。巷で行われた、両国間の「好感度」調査一つをとってみても、事実はまるで異なるのに…。国家間問題で言うなら、「竹島問題」のいったいどこが「良好な関係」にあることを示す例なのだろう…【「竹島問題」に関しては、こちら  も参照】。

 菅さんを初め、今の内閣閣僚(とりわけ仙谷由人官房長官)に我が国の舵取りを任せておいては、遠からぬ将来、我が国は「祖国」ならぬ「粗国」になり、我が国民は「国民」ならぬ「哭民」になるのではないか。すでにそうなりつつあると言うほうが正確かも知れない。恐ろしいことだ…。(かと言って、従来の体質のままの自民党ではさらに心許無いが…。)

The character of a nation is not to be learned from its fine folks.―W. Scott
    (一国の国民性はその国の選良によって知るべからず。)

初島に行って来た。

Hatsushima1昨日は朝早く起きて、小雨の中をクルマで子供たちと伊豆半島東方沖に浮かぶ小島・初島(はつしま)に行って来た。
 初島は鎌倉時代には源実朝が歌に詠み、大正時代には与謝野晶子が『初島紀行』に、また戦後には林芙美子が『うず潮』にそれぞれ登場させた所だ(『うず潮』はその後、NHKの朝の連続テレビ小説としてドラマ化された)。周囲約4キロの小島で、人家その他の建物からは、多少、さびれた感じを受けるが、島自体は風光明媚だ。熱海から初島へは直行の船が出ていて、30分ほどで到着する。

 子供たちは病気が発覚したあとの妻[母]とそこへは行ったことがあったが、私は前記のような、同島に関する多少の知識があるだけで、自らが足を運んだことはなかった。本当は妻に同行しておくべきだったが、繁忙にかこつけてそれをしなかった。今はただただ悔やまれてならない。だから、妻が自分に残された「命の日」をいとおしみながら、子供たちと共に訪れた場所を、遅まきながら私も歩いて「追体験」をしたかったのだ。これからもずっと、そうするつもりだ。私を含め、家族の者は皆、常に妻[母]の遺髪や写真を肌身離さずに持っている。肉体は滅びても、妻[母]はどこに行くのも一緒だ。だから、昨日の「家族小旅行」をきっと喜んでくれたことだろう。

 島内にあるリゾートホテル「グランドエクシブ」で昼食をとったあと、相模湾を眺めながら、ゆっくりと船着き場まで歩いて戻った(同ホテル専用のマイクロバス便もある)。帰路の出船まで30分ほどあったから、サザエ、シッタカ(バテイラ)、Hatsushima2魚の干物など、何種類かの魚介類を買った。小雨が降ったり止んだりの一日だったが、そのお陰で、猛暑とはほとんど無縁の一日だった。帰宅してから、買って帰った魚介類を夕食として堪能した。

 新婚時代も、その後も、私は妻を旅行らしい旅行にも、買物らしい買い物にも連れて行ってやらなかった。それをしてくれたのは、いつも妻の両親(共に故人)だった。だからこそ、私は精一杯、しかも相当な量の、「仕事」ができた。「後悔先に立たず」だが、これから先、私はできるだけ時間を作って、妻が巡った場所を私自身も巡ってみるつもりだ。妻がどんな気持ちで、そこを歩いたのか、今となっては聞きただすことはできないが、ほんの少しでも妻の気持ちに近づきたいと願っている。

【参考】初島とは初島の歴史初島の伝説初島の文学     

「嬉しいです」という言い方

ゼミ生諸君がゼミ専用掲示板に書く日本語を見ていると、若者たちの「書き癖」が分かる。「…してくれたら嬉しいです」「…してもらえると嬉しいです」という言い方で文を終えるのもその1つだ。以下に実例の一部を列挙する。

*このことを理解してくれたら嬉しいです
*凸凹さんの考えを聞かせてくれたら嬉しいです
*わたしの考えを以下に書きます。目を通してもらえると嬉しいです
*日本語表現に関する考えを書きましたので、そちらに目を通してもらえると嬉しいです
*凹凸さんより指摘してもらった箇所を以下に訂正します。目を通してもらえると嬉しいです
*わたしはまだ自動車運転免許を取得していませんので、後期にお話を聞かせてくれたら嬉しいです
*寮が山奥にあるために、インターネットに繋がらない可能性があります。このことを理解してもらえると嬉しいです

 これは私の語法には存在しないものだ。いかにも「幼稚な言い方」稚拙な表現」に思える。だが、今の若者たちにとって、自分が望むことを他人がしてくれた場合、あるいはしてくれる場合、そのことが本当に「嬉しい」のだろう。だからその素直な気持ちを言葉にするのだろう。言葉(の用法)は時代と共に変化するから、今の若者たちが、何の違和感も抱かずにこの表現を用いるのであれば、それはそれで結構なことだ。そのうち、それが老若男女を問わず普通の用法になるかも知れない(あるいは、すでにそうなっているのかも知れない)…。

二俳優の訃報

white今朝の新聞にお二人の俳優さんの訃報が掲載されていた。お一人は女優の南美江さん(94歳)、もうお一人は男優の高津住男さん(74歳)。私の世代の人には顔なじみの俳優さんだろう。南さんは年齢的にはご長寿だったと思うが、高津さんは昨今の平均寿命からするとややお若い。お二人とも私の好きな俳優さんだったが、高津さんは特に好きだった。奥さんは同じ俳優の真屋順子さん(68歳)。やはり私が好きな女優さんだ。10年前に脳出血で倒れ、半身付随になった真屋さんを高津さんが献身的に介護しておられたのは有名だ。その姿をテレビ画面で見ていて、「もし私の妻に何かがあったら、私もこうしたい。」と密かに思っていたほどだ。南さんの死因は肺炎だったそうだが、高津さんのそれは肝臓癌だっそうだ。癌という字を見るのは今の私にはまことに辛い。大切なお連れ合いを亡くされて、真屋さんはさぞやお寂しいことだろう。どうしても他人事とは思えない。胸が詰まる。

 高津さんと言えば、「ケンちゃん」シリーズ(「なかよしケンちゃん」等)を思い出す。私の兄の一人に風貌がよく似ていたことも私が高津さんが好きな理由の1つだった。高津さんが出演するドラマはたいてい見た。
 私の世代の者が楽しませてもらった俳優や歌手が次々と亡くなって行く。生あるものの当たり前の姿だが、やはり人の死は寂しい。この世でどんなに有名であろうと、財産を持とうと、あの世とやらへ旅立つ時は、何も持たずに行かなければならない。それでもその人たちがこの世に残した思い出は何物にも代えがたい貴重なものとして、近親者は言うに及ばず、多くの人々の記憶に残る。かのアメリカ人詩人・エマーソンは言っている。「あなたがいてくれたお陰で心安らかにいられたという人が一人でもいれば、それも成功したということなのです。」と。そういう意味では、南さんも高津さんも、数多くのファンを持ち、数多くの人々に愛されたのだから、この世の「大成功者」ということになるだろう。お二人のご冥福を心からお祈りする。合掌。

付記:「徹子の部屋」での高津・真屋ご夫妻の言葉(→こちら

「甘い」父親のこと

fl今日も猛暑だ。とにかく暑い。横浜市内の某大学に務めている長女がオープンキャンパスのあとで「実家」に寄ると言う。私自身、辞書編纂の仕事で繁忙をきわめているのだが、「大学までお父さんが迎えに行ってやるよ。」とメールを打った。娘からは、「猛暑だから、そうしてくれると嬉しい!」という返事が来た。自分でも、「甘い父親だな。」と思う。そうは思うのだが、娘や息子のこととなるとついつい甘くなる。それはたぶん、別の所で書いたこともあるが、娘と息子は亡き妻が「身二つ」になったことの証しだからだろう。子供たちのふとした言動に、亡き妻を感じることがある。それが堪らなく、懐かしく、かつ嬉しい。

 昨年の今頃、妻は京都の某病院で形容しがたい悪寒と高熱とに襲われながら、人生最後の「闘い」をしていた。近いうちに永遠の別れが来るだろうと思いつつも、「そんなことはない。妻はきっと癌からの生還者になれる。」と自分に無理に言い聞かせながら、暑い夏の日を送っていた。

 娘を迎えに行くまでの時間、多少はうちをきれいにしておかなくてはと思いつつ、結局は何もできなかった。それでも妻の霊前の胡蝶蘭、バラなど、供花には水を与えたり、水を取り換えたりした。もう11カ月以上、欠かしたことのない日常的行為だ。これから先も私が生きている限り決して欠かすことはないだろう。

 遺影の妻の顔が美しい。観音様のようだ。いや、きっと生身(しょうじん)の観音様だったのだ。蛇蝎のごとき私という男を、それでも多少は世の中の役に立つだろうと哀れに思ってくださった観音様が私と共に40年を過ごして下さったのだろう。そうに違いない。そんなことを思いながら、しばらくの間、妻と話をした。「タタ(私のこと)も大変ね。私の苦労が少しは分かった? これからずっとこんな状態が続くのよ。身体に気をつけて、頑張ってね。」 そんなことを言っているように思えた。胸が詰まった。

 もう少ししたら、車で娘を迎えに行こう。もしかしたら、観音様との「ハーフ」かも知れないから…。

 The lucky man has a daughter for his first born.
                       幸福者はかしらに娘を持つ。― 諺

【注記】生身(しょうじん)」とは、「仏・菩薩がこの世の人を救うために人間となってこの世に現われた姿」の意。

観音崎は美しい(続)

fer観音崎と言えば、走水(はしりみず)がすぐに思い出される。走水という名称は、海流の激しいことに由来するようだ。海上ではそれを実感できる。関東地方の海釣りの好きな人なら、たぶん「走水の特大アジ」を連想するだろうが、それほど第一級のアジ漁場でもある。

 走水と言えば、また、走水神社を思い出す。ここには日本武尊(やまとたけるのみこと)とその妻・弟橘姫(おとたちばなひめ)の二柱が祀られている。観音崎から船で上総(千葉県)に渡ろうとした日本武尊一行だったが、暴風雨に阻まれた。それを見兼ねて、同行していた弟橘姫が海中に身を投じ、海神の怒りを鎮めたと言われる。現在の千葉県・木更津の地名は、日本武尊が最愛の妻を詠った「君去らず…」に由来すると言われるし、同じく千葉県の袖ヶ浦の地名は弟橘姫が着ていた衣服のが流れ着いたことに由来すると言われる。ちなみに、木更津市内の吾妻神社はその袖を納めるために建立されたものだそうだ。墨田区の吾嬬(あづま)神社、品川区の寄木(よりき)神など、弟橘姫の入水にまつわる物を祀った神社は少なくない。

 時代の移り変わりと共に、そうした古い、しかも神話的な話は、人々の記憶から薄れて行きがちだが、我が国の歴史の一部として、長く後世に語り伝えていく価値はあるだろう。昨日は、そんなことを思いながら観音崎に行って来た。途中、馬堀(まぼり)海岸車で通過した時にも、地名馬堀」の起源を思い出し、多少感傷的になった。兎にも角にも、観音崎は美しい。

観音崎は美しい

lighthouse海から見る観音崎は美しい。1957年(昭和32年)に松竹が制作・公開した映画「喜びも悲しみも幾年月」(木下恵介監督)に、新婚早々の燈台守・有沢四郎(佐田啓二)と妻・有沢きよ子(高峰秀子)の最初の赴任地灯台として登場するのはここにある観音埼灯台だ(灯台の名称としては「埼」の字)。私の世代の者なら誰もが、若山彰が歌って大ヒットした同名主題歌を一度や二度は耳にしたことがあるだろう。映画、主題歌共に名作だった。ちなみに、円谷英二監督の怪獣映画「ゴジラ」で、ゴジラが日本に上陸した場所がこの観音崎だ(昔、たたら浜に巨大なゴジラ滑り台goあった;左下の写真に写っている「ゴジラ」は観音崎自然博物館に展示されている小形のもの)。また、一説には、ガリヴァー旅行記で、ガリヴァーが入港した日本の岬はここだという。

 いずれにせよ、その観音崎周辺の海は優れた漁場であり、漁船、遊漁船、フィッシングボートなどが、マルイカ・マダイ・タチウオ・アジ・シロギス・サバ等々の釣果を求めて行き交う。釣り好きな私も自由な時間が出来れば、この周辺に出かけるのだが、釣果は今一つ思わしくない…。それでも海上から観音埼灯台(写真では左側先端付近;中央の大きな建物は東京湾海上交通センター)、観音崎海水浴場(写真右隅)、横須賀美術館(写真では見えないが右手)などを眺めるのは「命の洗濯」になってよい。もちろん、海風も爽快だ…。

One-Day Seminarと教員免許状更新講習のこと

一昨lecture日は、我が英米語学科でOne-Day Seminarを開催した。私はと言えば、参加者である高校3年生30名弱を対象に「英語文化理解の基礎」ということで40分間の短い講義を行った。参加者はそのあと、別の講師による「通訳の基本」を学び、昼食後は、港区内のJapan Times社にバス移動し、そこで英字新聞が出来る過程を見学したり、専門家の話を聞いたりした。若い人たちと昼食を共にするのは、本当に楽しい。
 
 また、昨日と今日の二日間は、教員免許状更新講習の講師を務めて来た。周知のごとく、平成19年6月に教育職員免許法が改正され、平成21年4月から教員免許更新制が導入された。昨年は私は講師を免除されたが、今年は2日間、4コマ分の講習を行なうことになった。講習名は「英語と英語文化と英語辞書―より充実した英語教育のために」というものだった。

 ほとんどの受講者は東京、千葉の高等学校、中学校の英語の先生だったが、中にはわざわざ新潟から私の講習を受けに来てくださった方もあった。皆さん、とても熱心で、講師を務めた私も楽しい時間が過ごせた。今回の講習が受講者の今後の教室授業に役立つことを祈りながら、精一杯努めた2日間だったが、講習後の試験が終わり、退室しようとする私を受講生の皆さんが拍手で送ってくださったのが、何よりも嬉しかった。

 次は今月21日(土)に予定されているオープンキャンパスに駆り出される予定だが、それ以外の日は全て辞書編纂に費やされるので、夏休みらしい夏休みはないことになる…。

昨年の今朝、妻は京都に向かった…

fl1昨年の今朝、妻は息子の車で京都の某病院に向かった。癌の転移と思われる腰部激痛と歩行困難の症状が表れてから約2カ月、最後の癌治療としてのANK(Amplified Natural Killer)自己リンパ球免疫療法を受けるためだ。癌患者の体内にある元気なリンパ球を取り出し、その中にあるNK細胞を活性化・増殖し、それを当人の体内に戻すというものだが、今から思えば「時すでに遅し」だった。これを1クール、12回受ける。たいていの患者は毎回激しい悪寒を覚え、そのあと40度近い高熱を発する。妻も例外ではなかった。だが、妻はその悪寒にも発熱にも耐えた。生への執着がそうさせたのだと思う。そして、結果的には8回目の点滴注射を終えたところで力尽きた。本当に立派だった。

「行って来ま〜す。タタ(私の事)も元気でね。」
「うん、ありがとう。必ず元気になって帰っておいで。見舞いにも行くからね。」
「は〜い、元気になって帰ってきま〜す!」 


 妻とそんな会話をした。ただただ妻が愛おしかった。入院してから2週間ほどして、私のメールに妻からの返事が来なくなった。

「もう、文字を打つことができません。ごめんなさい。」

 それが最後のメールになった。妻に関する医学情報を全て収集してくれた息子が京都にマンスリーマンションを借りて、そこで仕事をしながら、妻に付きっきりになってくれた。本当にありがたかった。結婚後東京に住んでいる娘も仕事の合間を縫って、京都にホテル住まいをしてくれた。やはり本当にありがたかった。
 家族の者として、各人が各人の立場で、妻あるいは母のために精一杯、できる限りのことをした。しかし、ANK自己リンパ球免疫療法も、私たちの切なる願いも叶えられることはなかった。

 妻が亡くなってから早いもので11カ月が過ぎた。しかし、時はまだ私たちの心の痛みを何も癒してくれてはいない。毎週火曜日、必ずひと抱えの花を買って、それを妻の霊前に供える。そのたびに、悔恨と哀惜の念に襲われ、譬えようもないほどの喪失感・寂寥感に苛まれる。妻が京都に向かったあの日から、私の人生観、死生観はかなり変化した。

  やがて死ぬ 気色は見えず 蝉の声 ― 芭蕉

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