2013年09月

北原白秋の「砂山」を英訳した。

j2今日のゼミ授業では、ゼミ生諸君に先週から課題にしてあった、北原白秋の「砂山」に取り組んだ。白秋はこの詞を、佐渡ヶ島を一望できる寄居浜に出向いて、荒涼とした物淋しい光景から着想を得て書き上げたと言われる。いつものように、ゼミ生諸君にとっては、詞の冒頭から難しいようだった。「海は荒海」の「荒海」をどう表現するか、「すずめ啼け啼け」の「すずめ」は単数か複数か、「啼く」はどう表現するか、「みんな呼べ呼べ」の「呼ぶ」に適当な語は等々、全面的に苦労の跡の見える英訳をしてくれた。私の英訳はこちらに紹介しておいた。
 次回は、同じく北原白秋の詞で知られる「ゆりかごのうた」を取り扱う。「ゆりかごのうたを カナリヤが歌うよ ねんねこ ねんねこ ねんねこよ」と歌う、日本人なら誰でも知っている、まことに美しい童謡だ。単純素朴な日本語から成る歌だが、果たして、ゼミ生諸君にとってはどうだろう…。

【付記】こちらには神崎ゆう子が歌う、またこちらには夏川りみが歌う「ゆりかごのうた」の動画がある。

英語の bonfire と人間・動物の“骨”

bいつだったか、非常勤校の講師室で、日本人英語講師の一人とイギリス人英語講師の一人が、祭りの時などに寺院の境内などで見かける大きなたき火、すなわち“bonfire”のことを話していた。私はそばで新聞を読んでいたから、嫌でも二人の話が聞こえて来た。日本人の講師が、確か、“What does "bon-” mean?"(“bon-”ってどういう意味ですか)と訊いた。するとそのイギリス人講師が、"It means good. It comes from the French word bon, which means good."だったかのような答え方をした。
 確かに、その通りだ。1755年発行の例のジョンソン博士(Dr Johnson)編の英語大辞典にはそれがフランス語の bon (=good) に由来すると書いてある。そしてその語源説を信じる人も多い。たぶん、そのイギリス人もジョンソン博士の辞書の説を採ったのだろう。だが、実際は違うこの場合の bon- は、「」の意味の bone に由来するものだ。人間の骨であったり、動物の骨であったりしたが、前者の場合で私が思い出すのが、Henry8世が自分の意に従わない聖職者たちを焼き殺した時の“bonefire (=a fire of bones)"だ。
  ちなみに、イギリスでは11月5日の夜を“Bonfire Night”と称して、1605年に英国議事堂を爆破して James 1世と議員とを殺害しようとして失敗したGuy Fawkes (1570−1606)の人形を燃やす風習がある。
 ジョンソン博士のように、フランス語の bon- に由来するというふうに捉えるのが、現代の「大かがり火」の語源としては面白いが、「事実は小説よりも奇なり」という言葉に似て、実際には、大いに残酷な語源なのだ。

結婚、妊娠、女性傷つける質問?

f一昨日の朝日新聞の「声」欄に、「結婚、妊娠、女性傷つける質問」と題して、小学校の女性教員(33)の投書が掲載されていた。以下の通り。

 いつもは底抜けに明るい彼女の目に、うっすらと涙が浮かんだのを私は見逃さなかった。大学時代の友人である。「一人っ子なのに、まだ結婚していなくて親に本当に申し訳ない」。彼女はそう言っていた。「結婚はまだ?」 いったいどれほど、興味本位で無神経な言葉が彼女を傷つけてきたことだろう。私は悲しくなった。それと同じぐらいに多く、私たちの世代に投げかけられる言葉は「子どもはまだ?」だ。彼女とは別の女性から、肉体的にも金銭的にも壮絶な不妊治療の話を聞いたことがある。私は決して、その言葉を言うまいと心に決めた。
 婚活にも不妊治療にも無縁だった人には、その一言で傷つく女性がいることが分からないかもしれない。けれど、分からないですませていいのだろうか。そのひと言が時にナイフのように鋭く女性の心を傷つけることを、一人でも多くの人に気付いてもらいたい。


b こういう考え方が一般的になって、いったいどのくらい経つだろう。「結婚はまだ?」、「子どもはまだ?」、いつごろからか、こういう質問は“失礼”で、“女性の心”を傷付けるものになり下がってしまった。ほかに、「どうして結婚しないの?」、「なぜ独身なの?」などの質問も同様に、現代女性には“タブー”とされている。 
 確かに、現代的にはその種の質問は“プライバシー”の侵害と考えられるようになっている。だが、我が国の長い民俗学的歴史の中では、その種の質問は、普通は、現代のようには捉えられなかった。それは、「つまらないものですが…」という伝統的挨拶に対して、「つまらないものならくれるなよ」と無粋に、文字通りにその意味を解釈したり、「何もございませんが…」という、同じく伝統的な挨拶に、「こんなにご馳走を出しておいて、何が“何もございませんが”だよ。嘘つきめ」と反応したりするのと同じで、“現代人”に多い反応だ。もちろん、言葉づかい、表現方法にもよるが、それらの質問は、昔は決して“プライバシー”を侵害するためのものではなかった。それでは、昔は、それらの言葉使いの背景には、話者のどのような意図、あるいは“含み”があったのか、日本人はなぜそういう表現を考え出したのか。いつものように私のゼミ生・特修生への宿題としておく。一般読者の方にも考えてみていただきたい。その答えを持っている人なら、上掲のような“無粋”で“ヒステリックな”な反応はしないだろう。

「という人」という言い方

昨日の朝日新聞朝刊の「論壇時評―オピニオン」欄に、明治学院大学教授で作家の高橋源一郎氏(顔写真こちら)が、「甘えているわけじゃない」と題して、働く女性と子育てに関して次のように書いていた。

(前略) 曽野綾子という人が週刊誌で「出産したら女性は会社をお辞めなさい」という旨の発言をして、物議を醸した。曽野さんは「産休」のような「女性をめぐる制度」は会社にとって「迷惑千万」だと否定していた。そして、そういう制度を利用する女性は「自分本位で、自分の行動がどれほど他者に迷惑をかけているのかに気がつかない人」だというのだ。(後略)

 私が“引っかかった”のは最初の「曽野綾子という人が」の「という人」という言い方だ。何だ、取って付けたような、このわざとがましい言い方は! 私はこういう表現を見ると、すぐに“カチン!”と来る天邪鬼だから、この時も他人事ながら非常に不愉快に思った。いやしくも自分が大学教授であり“作家”であるなら、同じ“作家”である曽野綾子さん(顔写真こちら)の名を知らないはずがないではないか。仮に、本当に知らないというのであれば、それはすでに自分が本物の“作家”ではないことを暴露している。そう断言してもよいほど曽野綾子さんは昔からの著名人だ。
 はっきり言ってしまえば、高橋氏は「という人」という日本語を曽野さんに対して故意に使用しているのだ。つまり、曽野さんを突き放した形で、「どこかの“誰か”さんが」というような、一種の軽侮をもってこの表現を選んだのだ。少なくとも私にはそういうふうに響いた。まことに嫌な、低レベルの記事だった。

ネイティヴ・スピーカーとは言うけれど…「like to+動詞の原形 and -ing」の構文

米国のオレゴン州に本部を置く某NPO・国際援助協会のホームページを見ていたら、ある子供に言及して、He likes to play soccer, and playing with kids in his neighborhood.と紹介していた。「彼はサッカーが好きで、近所の子供たちと遊ぶのが好きだ。」と訳せる。この「like [love] to+動詞の原形 and -ing」の構文を英語を母語とする人たちの書く英文の中でしばしば見かける。ほかに、無数の例文が見つかる。5例だけ挙げておく。


※I love to go overseas and meeting new people.
※She likes to listen to music and reading the latest novels.
※He likes to watch sports center and playing basketball with his friends.
※He likes to hear gospels and playing sports including football, basketball, volleyball, and tennis.
※Being an immigrant, she likes to help immigrants with language and adjusting to the Canadian community.

 英語を母語とする人たちの英語にケチを付けるようだが、英文としてはあまり上等とは言えない。なぜなら、その構文の構成法に一貫性がないからだ。たとえば、最初のHe likes to play soccer, and playing with kids in his neighborhood.を例に採れば、私なら He likes to play soccer, and to play with kids in his neighborhood.と書くだろう。それのほうが英文としての構成法に一貫性があって、英文自体に流れがあるからだ。ほかの5例を書き直せば、以下のようになる。


※I love to go overseas and to meet new people.
※She likes to listen to music and to read the latest novels.
※He likes to watch sports center and to play basketball with his friends.
※He likes to hear gospels and to play sports including football, basketball, volleyball, and tennis.
※Being an immigrant, she likes to help immigrants with language and to adjust to the Canadian community.

「ヘイトスピーチ」のこと

昨日の朝日新聞「天声人語」欄に、次のような文章があった。

 在日の人たちに向けられるヘイトスピーチ(憎悪表現)がリベラルな考えに相反することは明らかだろう。あの敵意と排外主義はおよそ人々の自由の尊重から遠い。▶もう憎しみをあおるのはやめよう。そんなデモがおととい、行われた。「差別撤廃 東京大行進」である。むき出しの民族蔑視に反対する約1200人が新宿の街を歩いた。(中略) 自分とは異質な存在を受け入れ、尊ぶ。寛容こそ、リベラルの核心のひとつだろう。日本は単一民族社会でもなければ一億一心の国でもない。(以下略)

 また、今朝の同紙の「社説」には「反差別デモ ふつうの感覚を大切に」と題して、次のようにあった。

 3連休の中日の東京・新宿周辺。在日韓国・朝鮮人らを罵倒する街頭行動が繰り広げられてきた新大久保などで、差別撤廃を求めるデモ行進があった。特定の人種や民族への憎悪をあおりたてる差別表現は「ヘイトスピーチ」と呼ばれる。(中略) 日本は人種差別撤廃条約に加盟しており、条約はヘイトスピーチを禁じる法整備を求める。そのため、日本でも立法を急ぐべきだとの指摘が出る一方で、表現の自由が脅かされることを懸念して慎重論も根強い。(中略) 韓国では、ヘイトスピーチは日本社会の右翼化の象徴と受け止められている。しかし多くの日本人は、隣国とむやみにことを構えたいとは思っていないはずだ。在日コリアンを排除しようなどという考えは、一般の市民感覚からかけ離れている。ただ、気になる動きが続く。先週末、「日韓交流おまつり」の開会式に安倍首相の妻の昭恵さんが出席し、フェイスブックに投稿したところ、首相夫人としての行動を疑問視するような批判が相次いだ。開会式ではビビンバが混ぜ合わされ、鏡割りが披露されただけ。市民中心の交流会だった。昭恵さんは「いろいろなご意見がおありだと思いますが、お隣の国ですので、仲良くして行きたい」とだけ書き加えた。もちろん好意的な意見や「いいね!」も多く寄せられている。冷え切った政治の関係が、市民同士の感情に影響し始め、ふつうだったことが、ふつうでなくなりつつある。隣人とのいがみ合いが絶えないほど居心地の悪いものはない。ふつうの感覚を大切にしたい。

  本ブログで何度も書いて来たことだが、こういう“まことしやか”な文章を読まされるたびに、「よく言うよ!」と反発したくなる。この記事を書いた記者たちには、こういう状況を生み出した“張本人”の一人が、自分たちだということが全く分かっていないらしい。安倍首相夫人の「お隣の国ですので」という言葉や「隣人とのいがみ合いが絶えないほど居心地の悪いものはない」という言葉に、私など“嘘くささ”を感じる。地理的に隣国・隣人だからという考え方は、正されるべき事柄が正されないままであれば、また、捏造された歴史的“事実”が明らかにされないままであれば、まるで意味がないし、新大久保で行われているようなヘイトスピーチが止むことはない。「在日コリアンを排除しようなどという考えは、一般の市民感覚からかけ離れている」と言うが、「一般の市民感覚」のほうが問題を抱えていることを、新大久保でヘイトスピーチを行っている人たちは教えてくれているのだ。いわゆる「在日特権」(その説明の1例→こちら)に対する彼らの不平不満、いわゆる「従軍慰安婦」問題の捏造性の問題、そうした事柄を明確に解決しない限り、朝日新聞がいくら上記のようなことを書いても、“目覚めてしまった”インターネット時代の人たちのヘイトスピーチを抑えることは出来ない。それを抑えるには朝日新聞を筆頭に、我が国のマスコミの全てが大東亜戦争以降の是々非々を論じて、日本人に真実の姿を見せればよい、ただそれだけのことだ。朝日新聞は、「ふつうだったことが、ふつうでなくなりつつある」と書くが、それは“”が真だ。つまり、「ふつうでなかったことをふつうとして捉えさせられてきた」のが戦後の日本人だ。そしてその“加害者”の一人が間違いなく朝日新聞なのだ。その事実に気づいてか気づかないでか、戦後、何の反省もなく“まことしやか”ことを“天声”などと不遜な名称を付して国民に“ご託宣”を垂れているのが同紙なのだ。今のままでは、インターネットがある限り、ヘイトスピーチが終わることはない。

【付記】こちらも参照→「ヘイトスピーチ 韓国」【青山繁晴】が「韓国に未来はない! 」

「翻訳不可能」って?

ある書評を読んでいたら、その中に、「翻訳不可能と言われた〜を完訳」という言葉を見つけた。この「翻訳不可能と言われた〜を完訳」という言い方を時々見かけるが、天邪鬼の私はそのたびに、頬の筋肉が緩む。「翻訳不可能と言われた〜を完訳」したのなら、それは実際には「不可能」なものではなかったのだし、それまで、その完訳を試みた訳者たちの語学力・表現力が足りなかっただけの話だ。その語学力の中には、もちろん、対象言語と自国語との言語的・文化的相違をよく理解できなかったことを含む。また、その作品の背景となっている社会・歴史などに通じていなかったことも大いに関係する。「翻訳不可能と言われた〜」という言い方で表現したいことは、要するにきわめて理解・訳出に大きな困難が感じられたということだろう。もっとも、意地悪な私に言わせれば、「理解・訳出に大きな困難を感じるようなら、翻訳などに取り組むな」と言いたいのだ。誤訳満載の翻訳本を買わされ、読まされる側の人間はまことに不幸だから。最近も社会言語学に関するそうした翻訳本に出合った。訳者は複数人いるが、書きにくいことだが、誤訳満載の専門書だ。そう言えば、A.ビアスの『悪魔の辞典』の翻訳も誤訳だらけだった本ブログのカテゴリーの「誤訳であるわけ」を参照

 外国語で書かれたもので「翻訳不可能」などというものは存在するようで存在しないのだ。言語・文化などの違いにより、翻訳する際に絶対的対応語・表現が存在せず、したがって近似値的語句・表現を求めなければならないことはしばしばあるが、最終的には翻訳可能なのだ。私の同僚だった言語学者・原口庄輔氏(故人)は、その著『ことばの文化』(こびあん書房、1982)の中で、私の言いたいことを次のように簡潔に述べてくれている。

 翻訳不可能論を唱える人は、完全主義者か翻訳ということの本質を見失っている人であると言ってよい。また、翻訳不可能論は、翻訳に際して、原文と訳文との間に残される種々の「ずれ」に気をとられるためにでくるのである、ということもできるかもしれない。しかし、要するに、翻訳とは、原文に盛られているものの近似値を別の言語で表す、ということにあるのである。したがって、いわば近似値が得られれば、翻訳の目的は達成されるのであるから、いわゆる「翻訳不可能論」なるものは、実は成り立たないということになるのである。(343頁)

北原白秋の「城ケ島の雨」を英訳した。

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今日は秋分の日で、本来なら公休日だが、我が大学では、授業日数を捻出するために、平常授業を行った。私は2コマの授業があった。午前中はゼミ授業で、先日から受講生に宿題として出しておいた北原白秋の「城ケ島の雨」の英訳を取り扱った。全員、頑張ってくれたようだが、何しろ、白秋の日本語の意味が解りにくかったようで、その英訳にも苦心の跡がよく見られた。
 最初の「雨はふるふる」は、雨が“今”降っている状態を言っているのか、それともまだ降ってはいないのか、「利休鼠(りきゅうねずみ)」の色を表す英語は何が適当か、「雨は真珠か 夜明の霧か それともわたしの 忍び泣き」とはどういう意味か、「通り矢とおりやのはな」の「はな」とはどういう意味で、どう英訳すればよいのか、「濡れて帆あげた」とはどういう状況か、「ぬしの舟」の「ぬし」とは誰のことか、「ええ」とはどういう意味か、「」に当たる英語は何か、「唄は船頭さんの 心意気」の「心意気」はどんな英語で言い表せばよいか、「日は薄曇る」とはどういう意味か等々、ほとんど最初から最後まで、日本語の意味解釈に苦労したようだ。私の英訳はこちらに披露してある。

 次週は同じ北原白秋の「砂山」が課題だ。「海は荒海 向こうは佐渡よ すずめ鳴け鳴け もう日が暮れたみんな呼べ呼べ お星様出たぞ」という、日本人なら一度は聞いたことのある童謡だ。作曲は中山晋平だ。

今日は私の69歳の誕生日だ。

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今日で満69歳になった。生物学的年齢でいけば間違いなく“高齢者”だと言えるのだが、精神的には、自分は未だ40〜50代だと勝手に思っている。つまり、毎年書くように、40数年間、若い人たちに囲まれて来たせいか、私には自分が“年寄り”になっているという自覚があまりないのだ。実際、その頃と同じ位の勢力で仕事をこなすことができる。徹夜も昔ほどではないが、週に2、3度は平気だ。持病の椎間板ヘルニアと高血圧とを除けば、寝込んだり入院したりすることは今のところない。書きたいことを書いているから、時にどこかの匿名者から“老害”となじられることはあるもののたとえばこちら;livedoor/ yamakatsueiとは本ブログのURLだから、私のこちらの記事に文句を付けているのだと思う、自分ではまだそういう“侮蔑(ぶべつ)語”は不要だと思っているから、気分はいたって爽快だ。文句があれば、堂々と実名で願いたいものだ。それのほうが“論駁”が出来てよいし、第一、匿名で他人を誹謗中傷するのは“卑劣”な行為だ。 
  
    最近気になるのは、退職後のことだ。辞書の仕事は健康が許す限り続けるつもりだが、できれば5 頭の柴犬たちと、どこか海の近くで過ごしたいと思っている。生まれ育ったのが、山口県宇部市・小野田市の海の近くだったから、死ぬのも海の近くがいい。願わくは、私の好きな三浦半島のどこか、潮騒の聞こえる場所に“終(つい)の棲家(すみか)”を見つけ、そこで5頭の犬たちの死を順次看取ったあと、私自身、海を見つめながら最期を迎えたい。これが私の願いだ。それにはそれなりの準備が必要だ。そう思うからか、最近では三浦半島のあちこちの不動産物件が気になり始めた。貧乏学者ができることには限りがあるが、何とか自分の面倒は自分でみたいと思っている。妻を先立たせたことは返す返すも残念だが、これも妻と私の定めだと諦めて、残された私の人生を精一杯輝かしいものにしたいと思う。


 英語の辞書に関しては、為すべき仕事は未だ山ほどあると思っている。和英辞典、英和辞典、そのいずれを取ってみても、問題は山積だ。尊敬する斎藤秀三郎ではないが、「人間が此世で成し遂げる事が出来る仕事って高の知れたもの」だから、山積したその問題の一角を私の能力と体力と精魂の限りを尽くして切り崩したい。

Old age is the repose of life; the rest that precedes the rest that remains.―Robert Collyer      
         老年は人生の休息なり、永続する休息に先立つ休息なり―R.コリアー

【付記】俳優で、新コロンボシリーズのコロンボの声優として知られた石田太郎さんが急死なさった(出典こちら)。私と同じ69歳だった。フジテレビのドラマ「木曜劇場 独身貴族」の収録中に倒れ、神奈川県内の病院に搬送されたが、そのまま亡くなったそうだ。お父さんの石田茂樹さん同様、いい俳優だった(共に浄土真宗の僧侶でもあった)。合掌。

see the color of your money という慣用句

前期末試験が終了した日、辞書好きのH君が私の研究室を訪れた。持っている電子辞書に搭載されている『英和活用大辞典』(研究社)に次のような例があるけれども、英文とそれに添えられた訳文との関係がよく分からないという。見ると次のようになっていた。

Don't let them see the color of your money until you have the goods in hand.《口語》商品を確かに手にするまでは、こちらに支払能力があることを相手にさとられるな。

 同君は、Don't let them see the color of your money …の箇所のsee the color of your money がどうして「支払能力がある」になるのかという点が分からないと言った。この句は特に Let's see the color of your money.(文字通りには「あなたのおカネの色を確かめましょう」)の形で出て来ることが多い(例→こちら)。「おカネの色を確かめる」とは、まだ紙幣が一般的でなかった時代(多分18世紀初頭)に、gold (→red money)、silver (→white money)と、硬貨の色でおカネの種類に言及した時代の名残りだ。したがって、「おカネの色を確かめましょう」が「金貨で支払えるか、銀貨で支払うかを確かめましょう」ということになって、最終的に「支払い能力の程度を確かめる」という意味になったのだ。 同君にはそんなことを説明した。たいていの英和辞典、英英辞典には収録されている慣用句だと思う。ちなみに、最初はギャンブル関連の世界で用いられたとする説があるが、詳細は不明。

相手への尊敬語と自分側の謙遜語

先日、私が住む地区の町内会の役員の某氏と立ち話をしていた時、ちょっとした質問をされた。「ところで、他人の娘さんの婿さんを手紙などで丁寧に言うには何と言ったらいいでしょう? 奥さんなら令室とか御令室でしょう? その類いの丁寧語のことですけど。」 「そうですね、“お婿(むこ)様”という人もいるようですが、丁寧度を上げれば、“令婿”(れいせい)とか“御令婿”(ごれいせい)という語がありますね。御令婿は丁寧過ぎるかも知れませんが…」と私は答えた。「“れいせい”の“せい”って、どういう漢字を書くんですか? 」、「“おむこさん”の“むこ”ですよ。」、「ああ、そうですか。それは勉強になりました。

 そんな話をしてから帰宅し、ちょっと「令婿」の周辺の語について考えてみた。まず、「」とは「令名(れいめい)」の場合のように、「立派な、良い」という意味があるが、「令室」、「令婿」の場合のように、相手の親族に対する敬称を作るのに用いる接頭辞でもある。私が思い出せる語には、たとえば、

令尊(れいそん)」(相手の父;尊父)
令堂(れいどう)」(相手の母;母堂)
令閨(れいけい)」(相手の妻;「令室、「令夫人」とも言う
令妻」(れいさい)」(相手の妻;「令室」、「令夫人」とも言う)
令兄(れいけい)」(相手の兄)
令弟(れいてい)」(相手の弟)
令姉(れいし)」(相手の姉)
令妹(れいまい)」(相手の妹)
令息(れいそく)」(相手の息子)
令郎(れいろう)」(相手の息子)
令嗣(れいし)」(相手の息子)
令嬢(れいじょう)」(相手の娘)
令媛(れいえん)」(相手の娘)
令甥(れいせい)」(相手の甥)
令孫(れいそん)」(相手の孫)
令伯(れいはく)」(相手のおじ・おば)
令叔れいしゅく)」(相手のおじ・おば)
令姪(れいてつ)」(相手のおい・めい)
 

などがある。いずれの語にも接頭辞の「」を付ければ丁寧度が上がる。ちなみに、自分の身内を謙遜して言う接頭辞は「(しょう)〜」「(ぐ)」がある。たとえば、

小姑(しょうこ) 」(夫・妻の姉妹;非日常的な語)(「こじゅうと(め)」と読めば一般語)
小舅(しょうきゅう)」(夫・妻の兄弟;非日常的な語)「こじゅうと」と読めば一般語)
小妹(しょうまい)」(自分の妹;非日常的な語;自分自身をへりくだって呼ぶこともある;私は自分の姉を小姉(しょうし)とは呼ばない)
小弟(しょうてい)」(自分の弟;非日常的な語;兄に対して弟が自分を謙遜して使うこともある;もとは俗語だったが、自分を謙遜してこう呼ぶ事もある)
愚父(ぐふ)」(自分の父;最近では“”という字を嫌う人も多く「」が好まれる)
愚母(ぐぼ)」(自分の母;最近では“”という字を嫌う人も多く「」が好まれる)
愚兄(ぐけい)」(自分の兄;最近では“”という字を嫌う人も多く「」が好まれる)
愚弟(ぐてい)」(自分の弟;最近では“”という字を嫌う人も多く「」が好まれる)
愚姉(ぐし)」(自分の姉;あまり用いない;最近では“”という字を嫌う人も多く「」が好まれる)
愚妹(ぐまい)」(自分の妹;最近では“”という字を嫌う人も多く「」が好まれる)

などのように用いる。なお、自分を指して「小生(しょうせい)」ということがあるが、男性用語であり、自分と同等か自分以下の立場の者に対して用い、自分より年長の者には用いない語だから要注意だ。

 昨今の若い人たちがこうした語を使うとはまず思えないが、大いに改まった手紙・挨拶状などには今でも少なからず出て来るので、“認知語彙”の一部として、一応知っておいて損はないだろう。

【付記】自分が就いている官職を「小職(しょうしょく)と呼んだり、自分の写真や肖像画のことを「小照(しょうしょう)と呼んだりするのも謙遜語の例だ。

「地震大国」を英語で言うと?

日本は地震大国だ」を訳した英作文のクラスの受講生約30名のうち、約半数の諸君の解答に a great earthquake powerとかa earthquake large countryとかa large earthquake countryがあった。earthquake powerを強いて訳せば「地震の威力[エネルギー]」になるし、large countryは「面積が広い国、大きな国」になって、「地震大国」という日本語には当たらない。a great earthquake powerとかa earthquake large countryとかa large earthquake countryは、そのいずれも日本語の直訳だが、そうした誤答を書いた責任のほとんどは彼らが所持している電子辞書搭載の和英辞典にあるとみている。たとえば、手元にある電子辞書搭載の某社が出している和英辞典「大国」を見ると、power, superpower, large country などが並んでいて、収録されている用例も「世界の経済大国 a world [the world's] economic power」のようなものだ。
 英語では、たとえば、Japan is a highly seismic country.のように、 a highly seismic countryのように表現すれだよい(seismicは「地震の」)。 Japan is a country of frequent earthquakes.のようにa country of frequent earthquakesを用いてもよい。「大国」まではいかないが、Japan is an earthquake-prone country.のように表現してもいいだろう(-proneは「…しがちな」の意の合成語)。

「大役をやり終えた」という表現

いつものようにYahoo ニュースを見ていたら、「滝川クリステル 五輪決定に『よかったね』とカレからの祝福」という記事に目が行った。読み進めるうちに、「大役をやり終えたいま、やはり気になるのはスポーツ紙でも“年内結婚へ”と大きく報じられた恋人・小澤征悦(39)との仲」という1文が目に止まった(出典こちら)。と同時に、「大役をやり終えた」という表現が気になった。“やり終える…” 最近では、無節操にこういう言葉を使う新聞・雑誌記者が多くなっているようだが、天邪鬼たる私は、そういう“直截(ちょくせつ)的な言い方”に抵抗を覚える。考え過ぎだと言われればそれまでだが、私が新聞・雑誌記者なら、そういう“連想の悪い”言い方はせずに、滝川クリステルという“美人”とその“大役”とに敬意を表して、次のように言うカッコ内の「終え」は言わないだろう

1)大役を果たし終え…。
2)大役を務め終え…。
3)大役を演じ終え…。

 たった1語だが、それによって、対象となっている人間のイメージが異なって来ることだけは間違いない。

influenzaと「星」の影響

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「インフルエンザ」を英語では"influenza”ということは中学生でも知っている。もとはイタリア語のinfuluenzaで、文字通りには「影響」の意味。したがって、「影響」の意味のinfluenceとは同語源。さらにさかのぼればラテン語で「流れ込む」が原義。昔、占星術が盛んだった頃、流行病は「」の“影響”だと考えられていたところから出た語。もう少し具体的に言えば、星からエーテル状の流体が発散し、それが人間の性格・運命・健康に「影響」を与えると考えられたことの名残りだ。ちなみに、influenceには、「知らず知らずに及ぼされたり、感じさせられたりするような力」という含みがあるのが普通だ。

カマキリとmantisの語源

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先日、愛犬と散歩をしていて、草むらの中で1匹のカマキリを見つけた。「カマキリ」とは、「カマ(鎌)で切る」から「カマキリ」となったという説と、「カマ(鎌)を持つキリギリス」に由来するという説とがあるようだ。「カマキリ」のことを英語ではmantis(複数形はmantisesまたはmantes)と言うが、この英語は「預言者」の意味のギリシャ語mantisに由来する語。前肢を広げたかっこうが、祈りの姿を連想させるところから出たようだ。

Tokyo 2020 Candidate Cityの"candidate"(候補者)と“色”

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Tokyo 2020 Candidate City
という英語表記が、東京が2020年のオリンピック開催地に決定するまでの招致ロゴであったことは周知のとおり(こちらを参照)だが、その"candidate"(候補者)という語から特定の色を連想するという人は、英語圏人を含めて、どれくらいいるだろうか。おそらく、英語の語源学(etymology)に通暁した一部の人を除いて、まずいないだろう。答えは“白”だ。これは、この語が「白衣(white toga)の人」の意味のcandidatus というラテン語に由来するからだ。古代ローマでは、特定の役職に立候補する人は、その意思表示として“白衣”を身に着けた。立候補している状態を candidacy というが、この語源も同様の色を感じさせる。

 ちなみに、シェイクスピアの『タイタス・アンドロニカス』(Titus Andronicus; 第1幕第1場)に、This palliament of white and spotless hue; / And name thee in election for the empire, / With these our late-deceased emperor's sons: / Be candidatus then, and put it on, / And help to set a head on headless Rome.(一点のしみもないこの純白の衣を贈り、亡き先帝のご子息に並ぶ帝位継承者の候補に指名します。どうかこの純白の衣をまとい、頭をなくしたローマに頭を据える手伝いをしていただきたい;松岡和子訳)と出て来る。

みのもんた氏の「花も花なれ 人も人なれ」

自分の次男が他人のキャッシュカードを使ってATMから現金を引き下ろそうとして逮捕されたみのもんた氏に関して、こちらの記事には次のようにあった。

 「みのもんた」としての現在の心境を問われると、1分間ほど考えた末に、「判断を間違えるとね…」とポツリ。この発言は次男逮捕後の自身の対応についてを指すと思われ、さらに、細川ガラシャの辞世の句『花も花なれ人も人なれ』を読み上げ、「その言葉はなるほどな、と思います」と話した。 ガラシャの句は“花も人も散る時を心得てこそ、その花(人)本来の美しさを後の世に残すことができる”という意味合い。『潔く散る=(報道番組からの)降板』を示唆したとも受け取れる発言。今回の報道を受け、そんな辞世の句が頭をよぎったことを明かした。


 この記事を読んだ時、正直なところ、少々違和感を覚えた。周知のごとく、細川ガラシャは37歳の時、石田三成に人質に取られることを拒絶して、家老の小笠原秀清に部屋の外から槍で自分の胸を突かせて死んだ自死の仕方には異説あり。自殺を赦されないキリスト教徒としての苦渋の決断だったようだ。その時に、辞世の句として詠んだのが、「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」だった。上掲のように、「“花も人も散る時を心得てこそ、その花(人)本来の美しさを後の世に残すことができる”という意味合い」だが、みのもんた氏が、その句を引用したのに私が違和感を抱いたのは、この句が、“死”を真正面から受け止めた人の“最期の言葉”であるということがその理由だ。氏が、これを機会にテレビ界・芸能界から永遠に引退するというのであれば、まさに“潔い”ことだと思われるし、一応の“納得”もできるが、仮に、“世間の口”が静かになった頃に、またまたテレビ界・芸能界に復帰するつもりがあって引用したのなら、それは細川ガラシャに対して失礼だと思う。つまり、正直に言えば、この句を「潔く散る=(報道番組からの)降板」程度の事柄に使うのは軽薄だと思うのだ。「…を示唆したとも受け取れる発言」とあるところから推測がつくように、みのもんた氏の真意は分からない。今後の氏の去就を気にしてみよう。それによって、みのもんたという“有名人”の真価がよく判るだろうから…。

 【付記】先日、「積年の信用、一瞬時にて失墜す」という記事を書いた(→こちら)。

「身に沁みて」「見に沁みて」

たまたまある人のブログ記事を読んでいたら、「に沁みて」と書くべきところを「に沁みて」と書いた例が出てきた。単なる変換ミスだろうと思ったが、あるいは「に沁みる」を「に沁みる」だと覚えてしまった人なのかも知れないに沁みて」では意味を成さないが…。そこで“見に沁みて”でGoogle検索してみたところ、何と約 425,000 件のヒット数が出た。どうも、単なる変換ミスとばかりは言えないようだ。そのうちの5例だけを引いておく。

※僕はネットビジネスやってはじめてこの事が見に沁みてわかりました。
※その場に間に合えなかったことに、ただ会社の更衣室でどうしようもない無力感を見に沁みて感じていました。
※香港は実に電車アクセスが良いかを見に沁みてわかる、どうして、日本の地下鉄が難しいのかもわかると思う。
※家という高額な買い物をされるお客様のデリケートな心理に、もっともっと敏感にならなくてはと見に沁みて思った今回のS様邸訪問でした
※生意気な私は 「ハッ、先生ったら綺麗ごと言っちゃってさ。やってらんないよ」 なあんて思ってたんだけど、その言葉の大切さを、最近見に沁みて感じるんですよ。

積年の信用、一瞬時にて失墜す。

みのもんた氏の次男で日本テレビ社員・御法川 雄斗(みのりかわ・ゆうと)(31)が、港区新橋のコンビニエンスストアのATMで他人のキャッシュカードを使って、現金を引き出そうとした疑いで、警視庁に逮捕されたという(出典こちら)。そのキャッシュカードは、御法川が現金を引き出そうとしたコンビニから40メートル離れた路上で、酒に酔って寝込んでいた男性会社員のものだったそうだ。親が著名人である場合にはこうしてとりわけ大きく報道されるが、それだけ社会的関心は高いということだ。
 それにしても、いったいどうしたことか? 分別を弁えているはずの、31歳という大の大人が、酔っ払いの持ち物であるキャッシュカードを盗み、それを使って現金を引き出そうとするとは? 自分の一瞬の不心得が、長年かけて培った父親の輝かしい名誉を一瞬にして失墜させるだろうとは思わなかったのだろうか。みのもんた氏は、昨年の5月だったか、お連れ合いを亡くされたばかりだが、傷心いまだ癒えずと言ったところに我が子のこのような不始末だ。さぞかし心痛も激しいだろう。
 「李下に冠を整さず、瓜田に履を納れず」と言うが、疑わしい挙動を避けて当然の年齢になっておりながら、こうした不道徳・不法行為をするような精神性・人間性をこの青年はいつかどこかで培ったのだろう。人間、信用を得るには長年かかるが、いったん得たその信用を失うには、それこそ一瞬の時さえあればよい。

Only that which is honestly got is gain. ― English Proverb.
         正直に得たものでなければ真の所得ではない―英語の諺

電子辞書搭載和英辞典の罪―「半時間 = half」


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前期末の試験で出した平易な和文英訳の中に、「その仕事は半時間ほどで終わった」というのがあった。辞書使用可だったが、解答の中に、The work ended in half.という書き方をしたものが30人中、5人ほどあった。動詞を finished にしたものも半数近くいた。「半時間」をどうして half とだけ書いたのかという点だが、おそらく諸君が持っていた電子辞書の“悪影響”だということは、私の長年の経験からすぐに推測できた。試験のあとで受講生の3、4名の諸君に、そのことについて尋ねてみた。すると、やはり、私の推測どおり、全員が電子辞書に搭載されたX社の和英辞典の「」というところを引いて、そこにあった「半時間 [名][U] half 」という訳語をそのまま使ったと答えた左の写真はA君が持っていたY社の電子辞書の「半」の項を写したもの。また、「終わる」を引いたら、最初にendが出てきて、それに共起する前置詞としてinが添えてあったから、全体としてThe work ended in half.という書き方をしたと答えた者もいた。こういう“悪い答”を導き出させるのが、“一覧性”を欠いた電子辞書であることが少なくないが、電子辞書に全面的に頼らざるを得ない、英語力のないのが現在の大半の大学生だ。我が国における中学校から高校までの英語教育に様々な問題があることを日常的にしみじみと感じている。ちなみに、「半時間(で)」をイギリス英語では (in) half an hour と言い、アメリカ英語では(in) a half hourと言うことが多い。いずれにせよ、「半時間」をX社の和英辞典が書いている half だけで済ませることは普通はない。いつまでもX社のこの和英辞典を電子辞書に搭載している電子機器会社のY社もまた大きな罪作りをしているのだ。

後期第1回授業で取り扱う「日本の歌」“城ケ島の雨”

来たる23日(月)は秋分の日に当たり、全国的に祝日だが、私が勤務する大学では、授業日を捻出するために、その日を平常授業日としている。当日はゼミ授業があるので、いつものように受講生を対象とした課題曲をゼミ専用掲示板に掲載した。かの北原白秋の「城ケ島の雨」だ下の写真は城ケ島にあるその石碑。現代の若者には外国語のように響く日本語かも知れないが、まことに美しい詩(うた)だ。私は1年に何度も城ケ島に行くので、そのたびに 梁瀬貞作曲のこの詩を口ずさむ。受講生諸君は英訳には相当に苦労するはずだ。一般の読者諸氏も英訳を試みられたい。

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「城ヶ島の雨」(YouTubeはこちら
作詞:北原白秋  作曲:梁田貞

雨は降る降る 城ヶ島の磯に
利休鼠(りきゅうねずみ)の 雨が降る
           
雨は真珠か 夜明の霧か
       
それとも私の 忍び泣き
 

舟は行く行く 通り矢のはなを 
濡れて帆あげた 主(ぬし)の舟
  
     

ええ 舟は櫓(ろ)でやる      

    櫓は唄でやる                 
 唄は船頭さんの 心意気
   

   

   雨は降る降る ひは薄曇る
     
 舟は行く行く 帆がかすむ

23-2

裁判員制度について

本年度の裁判員制度の参加、選任に関して通知を受け取った私のゼミ生の1人ST君、先日、その選任手続きのためにわざわざ霞ヶ関の地方裁判所に出向き、その挙句、選考されることはなかった。その選考方法・手順に不満を感じた同君に、私は本ブログに転載させてもらうことを条件に、ちょっとした意見を書いてもらった。以下の通りだ。同君に最初に通知を送った裁判所には是非一読してもらいたい。

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以下にわたくしが今回の件で思ったこと、感じたことを、うまくまとめられたか不安ですが掲載致します。もしブログにご掲載いただけましたら、この上ない喜びでございます。

平成25年度の裁判員制度候補者の一人として、確か1月末ごろに私宛に通知が来た。抽選で選ばれたとのことだ。原則は辞退不可であり、それ相応の理由がない限り、辞退は出来ない。私はまだ大学生であり、辞退する理由も見当たらないため、その後の連絡を待った。一応、候補としての通知だったため、選任などの諸手続きに関しては再度抽選を行い、選ばれた際には選任手続きに参加してもらうとのことだ。結果として、某月、抽選の結果私はその選任手続きに参加することとなった。私宛にその通知が来た際には、辞退の有無などいくつかの質問票が入っており、必要事項など回答をして裁判所へ郵送し、当日を待った。まだ成人して間もない私にとって、裁判員としての義務や責務などといった不安はあったものの、今後の私の人生にとっては有益なものになるのではないかと思い、ここまで来たのなら参加しようと決意をした。選任手続きの当日は非公開ということもあり、詳細は法律のもと明かせないが、散々たるものであったと私は思う。その場に赴いた際に、社会人や、老人、主婦などの多くの人数が見られた。皆それぞれの仕事ややることがあるだろうが、その時間を割いて参加したのだ。
当日は通知が来た時のより詳しい説明を行った。ここでも、辞退の有無に関しての項目があった。また、HPに掲載されているように、裁判員として選出されるのは6名、補助裁判員としてはその半分以下ということであった。当日はその選出枠の数倍の人数がいた。どう選出されるのかだが、これも、“抽選”とのことだ。ここで話は変わるが、この選任手続きに参加するだけで、交通費、日当が支給される(必要な人には宿泊費も支給される)。そしてこの支給されるお金だが、どこから出資されるか。のちに書くが、考えてもらいたい。
この場に赴き、私は選任の仕方に疑問が沸いた。面談など一切行わず、ただ抽選を行い、選出された人はその後に具体的な話をするとの流れだった。私のように、参加の意志を持った人もいただろうし、嫌々来た人もいただろう。時間短縮、公平さを問えば確かに抽選というやり方が良いかもしれないが、わざわざ足を運んで来た結果が、たった1時間程度の、通知で記載すれば十分であろう情報と、まるで宝くじ売り場でスクラッチをするような抽選のあり方だ。私は何のために心の準備までしてここに来たのだろうと唖然とした。日本における裁判員制度というのも、おそらく諸外国影響で導入したのだろうが、我が国は治安も良く、こういった制度を行う必要がないと思う。選任をするのならば、若い世代の人を選ぶべきだ。そのほうが、社会に出て犯罪に手を染めた際に、“こうなるよ”と良い勉強にもなる。また、日当や交通費の支払いも、我々国民が国へ支払った税金から出ていることを忘れてはならない。ただ足を運んで話を聞いて終わっただけの人へ出すというのならば、お金の無駄使いである。本当に不自由な思いをしている生活保護者や年金生活をしている人へ配給するべきではないのか。これではまるで、御足労頂いた方へ、今回のことは黙っておいてくださいと賄賂を渡すようなものである。
今回私が思ったことは、以前に裁判員制度によって通知が来た人も感じることがあるだろう。こういった制度があり、人が人を裁く以上、選任手続きもしっかりと行って欲しいと私は思う。これでは時間の、お金の無駄である。上記のことを読んでくださった方や、裁判に関連した仕事をしている人には、是非考えて頂きたいと思います。

平成25年9月8日 ST

2020年オリンピック開催地―東京に決定!





2020 [平成 32] 年 オリンピック 開催地
olympic
  東京に決定! おめでとうございます!

  

関係代名詞の which と that

o2一昨日、日帰りで行って来た沖縄のことをいろいろ調べていたら、We have opened call center which helps foreign visitors’trip. という英文に出くわした(こちら)。もちろん、これで立派に意味は通じるが、また、この英文で問題なしと判定する英語母語話者は少なくないだろうが、関係代名詞の含みとしては which よりも that のほうが良いと私は思う。which だと、それ以下に選択的な語句が並んでいるか、“付け足しのコメント”が続くように感じられるからだ。これが that なら、それ以後の説明語句が限定的で、まさに外国人旅行者の便利のためにできたコールセンターということが特定されるから英語として好ましいように思う。

 このことはまた、こちらのオバマ米国大統領夫人のMichelle Obama さんに言及した説明文(こちら) Michelle Obama talks at the child care center which helps children exercise before and after school and teach them about healthy eating through the use of a garden.の中の which にも言えるだろう。この場合も文体的には that のほうが helps 以後の限定説明があるために適語だと言えよう。これが今のままなら、あくまでも軽くコメントをしているというふうに感じられる。

 ちなみに、英語の語法を取り扱っている掲示板(こちら)に、ヴェトナム人が The plane which leaves at 7 a.m is taking me to Hanoi.という英文を書いたことに対し、アメリカ人が In the U.S., we say "The plane that leaves ..."  You cannot say, however, "The plane that leaves at 7 a.m is taking me to Hanoi" because it implies that the plane has not yet departed and therefore cannot be taking you (present tense) anywhere.と回答しているが、そこでも関係代名詞はthatであることを教えてくれている。

日帰りで沖縄へ

o3昨日は日帰りで沖縄に行って来た。長男が海辺のホテル(Southern Beach Hotel & Resort Okinawa)で小さな結婚式を挙げるから、それに父として列席するためだ。朝11時05分羽田発の飛行機で那覇空港へ行き、そのままタクシーを拾って同ホテルへ。式は午後2時半からだったが、新郎新婦は予行演習・写真撮影等で多忙だったようだ。家族と友人たちだけの小さな結婚式だったが、言葉では語り尽くせないほど感動的ないい式だった。もちろん、亡き妻の遺影も一緒だった。妻が生きていたら、さぞ喜んでくれたことだろう。人生とはままならないものだ。何から何まで二人が準備してくれて、私は父としてただそこへ出席すれば良かっただけだった。o1
 式終了後も二人は浜辺で慶良間諸島を背景にカメラマンに記念写真を撮ってもらっていた。そのあと、列席者で楽しい食事会をした。新婦が亡き妻この世で会うことのなかった、新婦にとっての“義母”のネームプレートまで用意してくれていた。その心遣いがことのほか嬉しかった。ホテルの従業員が立派な写真立てを用意してくれたので、妻の遺影をそれに立てて、私の右前に飾った。

 いろいろな人の結婚式・披露宴に多数、出席したが、私はやはり息子夫婦のこうした小さいが、本当に喜んでくれる人たちだけの式がいちばんいいと思った。しがらみだらけの結婚式や披露宴
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にも何度も出席したが、そういう式は招待する側も、される側も“お義理”でやっているだけだから、精神的・肉

体的に疲れるだけだ。

 慶良間諸島側に夕日が沈むころ、息子のレンタカーで那覇空港まで送ってもらい、午後9時05分発の羽田行きの飛行機に乗った。羽田には11時半頃到着し、駐車してあった車で帰宅。自宅に着いたのが午前零時半頃だった。この歳になると日帰りの旅行は体に響く。それでも日帰りをした一番の理由は5頭の柴犬たちがいるためだ。うちで生まれた犬たちが2頭いるが、ペットホテルとやらに預けてもこの2頭は人見知りするのでうちに置いたまま出掛けたのだ。食事も与えられずに私の帰りをひたすら待っている5頭のことを思うと、いてもたってもいられないというのが犬好きの私のホンネだ。

 新婦のご両親を初め、列席して下さった方たちは、みな、ゆっくりと沖縄旅行を楽しまれるようだった。うらやましいが、仕方がない。長女はロンドンで挙式したが、私は仕事の関係で出席してやれなかった。今でも娘には済まないと思っている。いずれにせよ、これで父としての務めを果たせたと言えるだろう。息子の晴れ姿を見ながら、「あんなに小さかった息子が、こんなに素晴らしい女性と結婚してくれて」と思うと、私の脳裏には、妻との楽しかった40数年前の思い出が蘇えって来て、胸が熱くなった。二人の前途に幸多かれと祈る。

白々しいご託宣―ただただ祝福されるべき純白の命

今朝の朝日新聞・天声人語に“立派なこと”が書いてあった。漱石門下の森田草平が「庶子と私生児」という時評の中で、「自らはまるで関知しない事のために、七歳の児童の上に加えられた、この国家的差別待遇が、将来に向かっていかなる禍根を蔵するか」と言っているが、その1文を引きながら、今回最高裁が出した婚外子の法定相続分を、結婚した夫婦の子の半分と定めて来た民法の考え方を違法と判断したことを喝采している記事だ。その結びに曰く、

 
人の死に様はそれぞれに違うけれども、生まれてくるときは誰も同じだ。何が
良いも悪いもなく、ただただ祝福されるべき純白の命である。時代遅れのレッ
テルを貼ってはいけない。


 朝日新聞の「天声(人語)」であるから、一種の“ご託宣”だが、こういう“白々しいご託宣”を読まされるたびに、「よく言うよ!」と反発したくなる。「生まれてくるときは誰も同じだ。何が良いも悪いもなく、ただただ祝福されるべき純白の命である。時代遅れのレッテルを貼ってはいけない。」と本気で書いているのなら、朝日新聞が私のような戦後育ちの「何が良いも悪いもなく、ただただ祝福されるべき純白の命」に“認罪意識”や“自虐史観”を持たせた責任はどう取るのか!? 朝日新聞を初め、戦後の多くのマスメディアはこぞって「祝福されるべき純白の命」に対して、「お前たちは中国(=支那)様、韓国様、北朝鮮様に未来永劫、悔いても悔いても悔い切れないほどの、詫びても詫びても詫び切れないほどの罪業を背負って生まれて来たのだ。」と言わんばかりの反日的印象操作=《日本は戦争犯罪・侵略国家》というレッテル貼りをして来たではないか!? 現在でもそうだ。その証拠は本ブログのあちこちで示した。また、インターネット上には類似の記事はふんだんに存在する。

 「何が良いも悪いもなく、ただただ祝福されるべき純白の命である」と真顔で書いているなら、それは大いに違うのではないか?と言いたい。先の大東亜戦争で敗戦し、その責めを負って死刑になった多くの軍人たちの戦争責任のために、無辜の存在であるべき我々戦後派が、どうしてかくもおぞましい“認罪意識”“自虐史観!に苛(さいな)まれなければならないのか!? そういうことの責任の大きな部分を朝日新聞は戦後ずっと負っているのではないか。朝日新聞ほかのメディアにいつも“嘘っぽさ”を感じる理由を問い詰めて行けば、いつも彼らが為した戦後の誤謬に満ちた報道に行き当たる。たまたま朝日新聞を読んだだけだが、この思いはほかの反日新聞・雑誌・テレビ番組にも言える。もちろん、左翼・反日政治家、大学教授、日教組なども同じ穴のむじなだ。

「御訳する」という日本語

ゼミ生諸君の書く日本語を見ていると、接頭辞の「おんご、ぎょ、み」さえ付ければ、丁寧語が出来上がると思っているらしい例にぶつかる。たとえば、次にみる「御訳する」という表現がそうだ。

※山岸先生が御訳したこの文は、わたくしのような未熟者でも文頭から理解していくことが出来ました。
※山岸先生が御訳したように読む人が如何に理解し易く英作文することが大切であることを学びました。
※今回も山岸先生が御訳した「証城寺の狸囃子」とGreg Irwin氏が訳した「証城寺の狸囃子」を分析し、このようにゼミ生が拝見できるように掲載くださり、誠にありがとうございます。
※山岸先生が御訳したものを音読してみますと、大塚さんが仰っているように、文末のwhat they hear as they likeの部分がテンポよく弾む感じがして、とても気持ちが良い文であると思いました。
※「いずれにせよ」の英訳をする際、私が英訳しました"In either case"の他に"In any case", "either way"などの候補があり、どれを用いようか悩んでおりました。先生が御訳しました "anyway"と訳すには全く至らず、語彙力の乏しさを実感しました。

 私の訳文に敬意を表してくれるのは嬉しいのだが、こうした語法を目にして、書いた諸君には悪いが失笑してしまった。憫笑したと言ったほうが正確だ。「御訳した」「御訳しました」の「御訳」を「おんやく」と読んでいるのか、「おやく」と読んでいるのか、それとも「ぎょやく」と読んでいるのか、はたまた「ごやく」と読んでいるのかそれでは“誤訳”にしか響かないが…、その点はまだ確かめていない。ひょっとすると「みやく」と読んでいるとかまさか! いずれにせよ、こうした日本語を書いたゼミ生諸君には、宿題にしておくので、どう言い換えればよいか、もう少し考えてもらいたい。

古屋拉致問題相、稲田行革相、新藤総務相が「小粒」か!

集団的自衛権」をキーワードにあちこちネットサーフィンしていたら、「山田厚史の『世界かわら版」と題された記事に出くわした。そこには「集団的自衛権は憲法改正の露払いが、『日本を取り戻す』は時代錯誤」と題した記事があった。曰く、


8月15日、靖国神社に参拝したのは「小粒の閣僚」だけだった。首相は玉ぐし奉納にとどめ、春の例大祭では国会議員を引き連れて参拝した副首相の姿もなかった。国際世論の反発に気遣いながら、小粒でも閣僚の参拝で意地を見せ、どこか悔しさがにじんだ今年の靖国神社。参議院選挙で大勝しながら、地金をむき出すことは思いとどまった安倍首相だが、満たされぬ思いが噴出する先は集団的自衛権。解釈改憲を先行させ、憲法改正につなげようとしている。

挫折の記憶

    政権を投げ出す屈辱を味わった安倍首相にとって集団的自衛権は挫折の記憶を深く刻んだ案件である。第一次安倍内閣の2007年、憲法解釈を変えて集団的自衛権に道を開こうと有識者懇談会(安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会)を立ち上げた。翌年、懇談会は期待通りの結論を出したが、時すでに遅し。政権は崩壊寸前、憲法解釈の変更に手をつけることはできなかった。
  後任の福田康夫は安倍の置き土産に冷ややかだった。懇談会の結論は棚上げされ、集団的自衛権は、見果てぬ夢に終わった。再登板した安倍は早速、有識者懇談会を復活させた。座長は以前と同じ柳井俊二元駐米大使。有識者の集まりといっても政権が選んだ右派の論客が目立つ。福田元首相が封印した報告書の埃をはらって、今様にリメークするのがお仕事だ。(以下省略)

 記事はまだ続くのだが、正直なところ、ここまで読むのが精いっぱいだった。何だ、この「人を小馬鹿にしたような書きぶり」は? 山田厚史なる御仁を知らなかった。「おそらく朝日新聞の記者だろう。」 そう思いながら、その記事の近くにあったプロフィールを見て納得した。やはり元・朝日新聞編集委員だった本人のプロフィールには「反骨のジャーナリスト」とある!
 「ここまで読むのが精いっぱいだった。」 私がそう表現した理由は、最初の「小粒の閣僚」と、「小粒でも閣僚の参拝で意地を見せ、どこか悔しさがにじんだ今年の靖国神社」と、文末の今様にリメークするのがお仕事だという3か所の日本語表現のせいだ。安倍内閣嫌いの朝日新聞系列の人間の書きそうなことだが、これはひどい! 靖国神社に参拝したのは、古屋圭司拉致問題相稲田朋美行革相、新藤義孝総務相などのはずだが、この閣僚を「小粒」と呼んだのなら、まことに許しがたいことだ! それなら、そういう人選をした安倍首相は「小粒の親分」ということになる! それはまた、安倍晋三という政治家を首相にいただくように1票、1票を投じた国民一人一人に対する侮辱だ! 山田氏はそのことに気付いて言っているのか! 民主的な手段で、立派に首相として選ばれた、我が国の代表者・安倍晋三氏が“この人たちを”と選んだ閣僚を「小粒」とは不遜極まる! 

 「政権を投げ出す屈辱を味わった安倍首相」という表現にも、安倍首相への嫌悪感が滲み出ている。安倍首相は“潰瘍性大腸炎”という難病指定の病気に侵され、涙を呑んで首相の座を下りたのが真相ではないのか。そうであるなら、そして山田氏に“武士の情け”があるなら、こんな冷たい、いやらし日本語は使わないはずだ。末尾の「今様にリメークするのがお仕事だ」の「お仕事」という表現にも無性に腹が立った。「仕事」に「」の接頭辞を付けて、安倍氏の仕事を茶化したつもりなのだろう。
 ここまで書いて来たが、怒りの虫が次第に頭をもたげて来るようだから、このくらいでやめておく。「安倍の葬式はうちで出す」と言ったのも朝日新聞の人間(若宮啓文・元主筆)だ。戦後の我が国をさまざまな面で貶めて来た朝日新聞の真骨頂をこういう記事にも見る。偶然知った山田厚史という御仁の記事(の一部)だが、きわめて後味の悪い、不愉快な記事だと思った。

【付記】反骨」とは、「権威・権力・時代風潮などに逆らう気骨」(『デジタル大辞林』)ということだが、この御仁は「反骨」と言うよりも、単なる「反日」にしか思えない。民主的に国民によって選ばれた自民党国会議員がさらに選んだ総裁→首相は、国民が選んだことと同じだ。その人を“小馬鹿”にするような御仁が「反骨のジャーナリスト」とは、まさに傍ら痛い…。
【後刻記】「安倍晋三、山田厚史」をキーワードにいろいろネットサーフィンを試みると、この山田厚史という御仁がなぜ安倍晋三首相およびその閣僚に好意的発言をしないのか分かってくる。あるサイトに、「ちなみにこれを書いているのは山田厚史と言いまして、以前から安倍さんの悪口ばかり言うので有名なヤツ。」という1文があった。傑作だ…。

今日は妻の命日だ。

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 明日ありと 
              思う 心の 
                          あだ桜sayo-f1
                            夜半(やわ)に嵐の 
                                        吹かぬものかは


 親鸞上人はわずか九歳 (治承5[1181]年)で出家したと言われる。得度(とくど)を授ける師・慈円上人が、日暮れたので式を明日に延ばそうと言われたところ、親鸞はこの歌を詠まれ、人生の無常観を表されたと伝えられる。
   私はこの歌を小学校の4、5年生の頃だったか、親鸞上人に帰依していた私の母から教わった。大学教師になってからは、人生の無常観を文学的に表現したものとして、折に触れて、学生諸君に紹介してきた。「今咲いている桜も、夜のうちに吹く無常な風の力で、翌朝にはすっかり散っているかも知れない。だから、今日という日を大事に、精一杯咲きなさい」とか何とか、分け知り顔で…。だが、そういうr2立派なことを口では言いながら、私はその歌の意味するところを実感できていたわけではなかった。それが全身全霊で実感出来たのは、私がこの世でいちばん大切だと思って来た女性、つまり我が妻を先に逝かせることになってからだ。

 今日はその最愛の妻の4年目の命日だ。今からちょうど4年前の平成21 [2009] 年9月3日午前1時20分、妻は京都・山科の某病院において、62歳という、現代女性の平均寿命からすれば、比較的短い生涯を終えた。それからの私はまさに「塗炭(とたん)の苦しみ」を味わったと言っても過言ではない。最近はもう気取りも何もない身だから言うが、本当に辛かった。苦しかった。3年半もの間、結局は妻の遺品を整理することも出来なかった。親鸞上人の言われたとおりだった。若い頃は、「歳を取ったら、女房孝行をしよう」、「定年退職をしたら、妻と世界旅行に出掛けよう」、「結婚40周年記念の時には大きなルビーの指輪を買ってやろう」などと約束した。その時はそれを本気で言った。妻も、「楽しみに待ってるわ」と応えてくれた。だが、そのどれも実現しないままに永訣してしまった。これを後悔と言わずに何と呼ぶだろう。
ko2
 朝目覚めてから、夜、床に就くまで、妻のことを想わない日は一日としてなかった。初めてのデートの日のこと、シェイクスピアの『ハムレット』を共に読んだ日のこと、結婚を申し込んだ日のこと、結婚を岳母に反対されたこと、乏しいアルバイト料の中から婚約指輪を買って江ノ島で二人だけの“婚約式”を挙げたこと、それでも何とか結婚にこぎつけたこと、楽しかった南紀への新婚旅行のこと、千葉県・谷津遊園近くの新築アパートの1室を借りての新婚時代のこと、東京・東中野の新築マンションに転居したこと、長女が生まれた時のこと、長男が生まれた時のこと、イギリスでの楽しい留学生活を家族皆で送ったたこと、子供たちがロンドンの小学校に通い長女が学年の英語リーディング部門で成績最優秀に選ばれた日のこと、帰国後、子どたちを某私立校に入れたこと、“おじいちゃん””おばあちゃん”に親子共々可愛がってもらったこと、自宅を新築できたこと、自分が編集主幹となった和英辞典・英和辞典を4点も作ったこと、長女が結婚したこと、妻の作品が並んだ華道展や書道展を見に某デパートに行ったこと、妻が末期膵臓癌を宣告されたこと等々、喜びと悲しみと、あまりにも多くの想い出がいつもよみがえった。

 それにしても私という身勝手な男は、身勝手な割には幸福な男だった。我が子たちもそのことをよく私に言う。「お父さんはお母さんのような女性に出会えて、結婚出来て、本当に幸せだったね」と。その点は、私自身が一番よく知っている。その妻がいなくなってから丸4年が経ったけれども、あまりにも大きな喪失感だけは今もって消え去ることはない。それでも、私は妻との約40年間を私の人生の宝としてこれからも生きていくだろう。どれだけの人生が残されているかは分からない。だが、妻が生きられなかった人生の分を私が代わりに生きてやろうと思っている。

 
 「お母さんのような女性が出て来るまでは僕は結婚しないよ」と言っては私を不安にさせていた息子が、私の教え子だった女性と結婚した。卒業後は、某航空会社のcabin attendantとして活躍していたのだが、息子と結婚すると言ってくれて、さっさとその職を辞しててしまった。まことに潔い女性だ。私が狡知(こうち)を巡らせて二人を娶(めあわ)せたものではない。全くの偶然だ。おそらくそれが二人の“運命”だったのだろう。「ひょっとしてこれで“絶家”を免れるかも…」という期待も出て来た…。妻もきっと二人の結婚を喜んでくれていることだろう。その“若夫婦”は近所に住み、ほとんど毎日のように、私のために食事を作っては息子と共に私のところに届けてくれる。ありがたいものだ。料理もきわめて美味しい。

 朝な夕な、妻のいないことで寂しい思いはあるが、妻の魂魄はいつも私たちと共にあると信じて生活している。今年もまた、美しい胡蝶蘭や薔薇で妻の霊前を飾ってやることが出来た。さらに、出版関係の旧知の人たちや教え子からも立派な胡蝶蘭が届いた。
妻もきっと喜んでくれていることだろう。

皇族方への昨今のメディアの日本語表現に思う。

高円宮久子殿下が2020年夏季五輪の開催地を決定する国際オリンピック委員会(IOC)総会にご出席なさるそうだ。そのことを報じた今朝の朝日新聞の記事を見て、いつもながら“うんざり”させられた。曰く、

2020年夏季五輪の開催地を決定する国際オリンピック委員会(IOC)総会に高円宮久子さまが出席することになった。(中略) 五輪招致には政治的な側面もあり、宮内庁は久子さまはIOC委員と懇談しレセプションには出るが、「総会には出席しない。招致活動とは一線を画している」と強調していた

 戦後、我が国のメディア(とりわけ“自虐史観”にまみれた大手新聞・雑誌・テレビなど)は、皇室・皇族関連に対して尊敬の念を表すことを徹底的に拒否して来ている。天皇・皇后両陛下(朝日新聞は「天皇ご夫妻」!)に対してもそうなのだから、皇太子・同妃殿下以下の皇族方に対する日本語表現には私の耳目には耐えられないものが選ばれても何ら不思議はない。上記の赤字箇所などにその点を強く感じる。いったいなぜ、平仮名の「さま」を選ぶのか? 我々庶民が日常的に相手に手紙を出すような場合、あるいは何らかの書き物の中で、たとえば、「大和武尊さま」とか「卑弥呼さま」とかと書くことがあり得るか? 女性が意図的に“柔らかさ”や“優しさ”を相手に伝えようとして平仮名を用いることは考えられることだ。だが、現代日本語では、常識的には漢字の「」を使うのではないか(場合や相手によっては「」の字を充てる)。
 
 それと、「さま」と言っておいて、それに「する」など「出る」だの、敬意も何も示さない一般動詞を結び付けて何も感じない朝日新聞記者の“言語感覚”が理解できない。そこらあたりの三流のスーパーマーケットかコンビニが、「さまたくさん来るように」、「さま気に入るように」などと言っているのと同類の安っぽい響きがある。それなら、いっそのこと「さま」など止めて、「さん」にすべきだ。それなら「さんする」、「さん出る」という関係にも納得が行く。
 今さらこんなことを私が言ったところで、反日色の濃い我が国のメディアが、そういう愚かさを止めるとは思えないが、私のこの憤懣に関しては一言しておく。

【後日記】9月4日、朝日新聞は社説でも上記の問題を採り上げて批判をしていた。

「強盗」と「予告」

今朝の朝日新聞「声」欄に、埼玉県議の佐藤征治郎氏(74歳)の投書が掲載されていた。「自衛権問題 強盗の例えは変」と題して、次のようにあった(下線山岸)。

内閣法制局新長官の小松一郎氏が集団的自衛権について「隣家に強盗が入って殺されそうだが、パトカーがすぐに来ないかもしれないので隣人を守る」と例示したというインタビュー(8月27日朝刊)を読み、私は、かつて非武装中立が議論されたときの「鍵かけ論」を思い出した。当時、自衛隊を容認する人たちは「どこの家でも強盗に入られないために鍵をかけるではないか」と、反対する人たちを非難した。その論法と酷似している。百歩譲って小松氏の理屈が正しいとしても、普通、強盗とは、なんら関わりのない家を予告もなしに突然襲うものである。宣戦布告が国際規範とされている戦争を強盗に例えるのはそもそも適切ではない。突発的といわれる武力衝突にしても、事前に兆候があり、事由がある。(以下略)

 佐藤氏のこの投書を読めば、おそらく大抵の読者は「なるほど」と思うだろう。だが、同氏の意見を「正確」なものと認めるのには大いに抵抗を感じる。下線を施した「普通、強盗とは、なんら関わりのない家を予告もなしに突然襲うものである」という個所に引っ掛かりを覚えるからだ。確かに、氏は言葉のアヤとして「普通」という副詞を冠しているが、「強盗とは、なんら関わりのない家を予告もなしに突然襲うものである」と“断言”している。だが、b本当にそうか? よく考えてみよう。悪人が「強盗に入るのに、予告をする」場合はいくらでもあるではないか。たとえば、インターネット上で、「強盗 予告」をキーワードに適当な文を検索してみるとよい。そうした文を次に5例だけ挙げておこう。

1)ツイッターで銀行強盗予告してるんだけどありなの?
2)同署によると、10日午前0時25分ごろ、京都府警の「メール110番」に「今から山口でコンビニ盗する」などと名前を書いたメールが届いた。
3)『目明しポリ吉』(めあかしポリきち)は『ぼくら』1967年11月号、『COM』1969年1月号に「目明しポリ吉 予告強盗の巻」として掲載された永井豪のデビュー作となった日本の漫画作品。
4)福島市のショッピングセンターに強盗予告 被害はなし(福島13/08/29) ;29日も多くの買い物客でにぎわいを見せた、福島市のショッピングセンター。しかし8月17日、1本の電話が、その環境を一変させた。男からの電話は「これから強盗に行く」という、「強盗の予告」だった。
5)拝啓 貴行におかれましては、時下、ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。一面識もない小生から突然このような書状を差し上げることは、非礼とは存じますが、当方にもやむを得ない事情があることをご賢察いただきお許し願いたいと思います。
 さて、用向きの件は他でもございません。当方、かねてより経済的に困窮いたしながらも何とか糊口をしのいでまいりましたが、ことここにいたっていよいよ情勢は厳しく万策尽き果てた次第でございます。つきましては、きたる月日に貴行に伺い、銀行強盗を決行する決意を固めた次第でございます。甚だご迷惑とは存じますが、当方の事情もご理解の上、善処をお願い致します。敬具

「朝鮮人虐殺を忘れない」?

関東大震災が起こって(大正12[1923]年9月1日)、今日でちょうど90年の歳月が流れたことになる。表題の「朝鮮人虐殺を忘れない」は昨夕の朝日新聞に掲載されていた記事の題名だ。“虐殺”の実態調査に取り組んで来た市民団体「ほうせんか」の西崎雅夫氏(53)が、東京・荒川のほとりに朝鮮人犠牲者を悼む碑を建て、守り続けているという記事だ。西崎氏が、朝鮮人“虐殺”の実態調査に初めて参加したのは、大学生の頃だそうだ。地元で小学校教諭らと一緒に目撃者の証言を聞いたと言う。それによれば、「河原に10人ぐらい並べ軍隊が機関銃で撃ち殺した」「橋の下で自警団が日本刀や竹やりで殺した」らしい。その周辺では100人ほどが殺され、河川敷に埋められたと言う。しかし、これはあくまでも“被害者による証言”であり、その信憑性となると話は別問題だ。
 
 私の父は大震災の翌年1月に近衛師団に入団するために東京に来て、大震災の跡のすさまじさを自分の目で確かめたと言っていた(こちら参照)。だが、“朝鮮人虐殺”でしばしば言われる、妊娠中の朝鮮人女性の腹を裂いて胎児をひっぱり出しただの、女性器に物を突っ込んだだのと言う残虐な行為に関しては、「それは朝鮮人の捏造だと思うね」と常々言っていた。父によれば、「日本人はそういう猟奇的な女性の殺し方は普通はしない」のだそうだ。私もそう思ったし、今もそう思っている。

 この朝鮮人“虐殺”については、90年も前の事であり、信頼すべき情報源が少ないことや、朝鮮人によるその後の“捏造”が多々交るために、私のような民間人が真実・真相を探ろうとすると、突然、さまざまな困難にぶつかることになる。たとえば、明治時代に起きた吉原大火災の際の吉原遊女犠牲者の写真を、関東大震災における朝鮮人虐殺時の写真として公開した例が有名だが、「関東大震災の朝鮮人虐殺について」と題されたこちらの記事を読んだりすると、関東大震災当時の朝鮮人“殺害”を証拠立てる写真と呼ばれるものが、じつは“捏造”や“誤情報”にまみれていることが詳細に分かり、愕然・唖然とする(借用した左上の動画も参照。写真は関東大震災とは無関係のものの流用だし、説明も出鱈目なのだ。当時の日本人女性の服装の実際に無知であるため(現代で言う“パンティー”などは履いていないのが普通)、日本人女性の死体を「下着まではがして朝鮮人女性を凌辱する日本人」などと噴飯物の説明と共に載せるという出鱈目ぶりだ。そういう誤情報を朝鮮人写真家・研究者などは堂々と利用している。そうかと思うと、「関東大震災・朝鮮人虐殺は『正当防衛』ではない」と題した、“虐殺”を肯定するような書きぶりの記事もある(こちら)。

 朝鮮人“殺害”の実態について、調査すればするほど、“捏造”と“誤情報”に行き当たる。したがって、私のような専門違いの人間がこれ以上とやかく言うことに抵抗を感じる。だが、これはたとえ90年経とうと100年経とうと、日本国家の力で正式に調査し、一通りの公式見解を出すべきではないだろうか。支那・韓国による“南京大虐殺”“従軍慰安婦”のような捏造史に現代の日本人が無用に“認罪意識”を持たないためにも、また日本国としての正式な責任の範囲を明確にするためにも、国家は総力を挙げて、大東亜戦争の事実や、関東大震災の“朝鮮人虐殺”の実態を明らかにすべきだと思う。是々非々で事を進め、誤った“自虐史観”に苦しめられないようにすべきだ。

【付記】次の記事・動画は必読・必見のものだ。
1)関東大震災の朝鮮人虐殺について
2)関東大震災朝鮮人虐殺はほんとうにあったのか
3)関東大震災・朝鮮人虐殺は「正当防衛」ではない
4)韓国チョンさん関東大震災虐殺証拠写真で赤っ恥・産経
5)【社説】日本は歪曲し、韓国は知らない「関東大虐殺」(朝鮮日報の立場)
6)韓国・関東大震災吉原女郎の遺体を虐殺された朝鮮人写真発見とまた嘘
7)工藤美代子著『関東大震災―朝鮮人虐殺の真実』(2009、産経新聞出版)(必読書)
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