2014年09月

唱歌「夏は来ぬ」を英訳した。

saotome唱歌「夏は来ぬ」を英訳した(私による英訳はこちら。1番に出て来る「卯の花」はウツギの花の別称だが、それに相当する deutzia は英語圏の日常には馴染みのない語だ。もちろん、“事実”を優先させれば deutzia をそのまま使用するのも1つのやり方ではある。だが、英語圏の人々には、「ウツギ」属の中でも日常性の高い語である「アジサイ」(hydrangea) で代用させるほうが好いと考えたので、hydrangea を用いた。3番に出て来る「おこたり諫(いさ)むる」という箇所の「おこたり」を日本人学習者のほとんど全ては“laziness”を充てるだろうが、英語ではそのようなマイナス語句を避けて“remind you always to keep busy ”とプラス表現を用いるのが普通だ。ここらあたりが分かるようであれば、英語学習も上級の上級だ。また、4番に出て来る「水鶏( くいな )」はwater rail と言うが、我が国ではヒクイナを指すことが多い。したがって、ここではヒクイナに当たる英語のruddy-breasted crake を使用した。この語に馴染みがないという外国人にはreddish water bird  (赤っぽい水鳥)と説明すればよいだろう。日本の唱歌・童謡の英訳は、日本人英語学習者が日英語の言語的・文化的差異を学ぶのに最高の作業だと思う。

「挑戦」という語と御嶽山

k長野県と岐阜県の県境にある御嶽山(標高3067m)が一昨日の27日に噴火した。死傷者が出た。亡くなった方々には心からのお悔やみを申し上げると共に、負傷なさった方々の一日も早い回復をお祈りする。

 1つだけ書いておきたい。28日の朝日新聞「天声人語」欄にあった「標高3千メートルを超える山にしては挑戦しやすいとされてきた」という一文の“挑戦”という語だ。人間とは大自然に向かってなんという傲慢なる言葉を用いるのだろうか。軽い気持ちで用いているらしいことは推測できるが、今回の噴火を含め(あるいは東北大地震・大津波を含めてもよい)、大自然がほんの少しだけ当然の営みをしただけでも人間の“挑戦”の軽薄さ・安易さを教えられる。

 私は山よりも海のほうが好きで、小さな釣り船を所有しているが、ひとたび大海原に出たら、決して“挑戦”などという言葉は口にしないし、そんな語を思い浮かべることもない。快晴の中で釣りをしていたはずが、天候が急変し激しい風雨にさらされるということがあるからだ。ひとたび海が荒れ始めれば、その時は、まさに“死”を覚悟しなければならない。人間は大海原の“ご機嫌”のよい時に少しだけ海上で遊ばせて頂き、その幸(さち)を少しだけ分けて頂くというのが本当ではないか。

 かの斎藤茂吉は山形県の湯殿山について詠っている。「ちはやぶる 神 いたまいて み湯の湧く 湯殿の山を 語ることなし」と。これは人間に湯殿山での“慎み”を要求するものだ。類似の慎みは御嶽山にも言えるはずだ。

 今回亡くなった方々を冒涜するつもりなどさらさらない。だが、“挑戦”(=戦いを挑む)であるのなら“敗北”は覚悟しなくてはならないし、マッキンリー山で消息を絶った登山家・植村直己さん(1941−1984)のように、その“敗北”にはいつも“死”が背中合わせで付きまとっていることを覚悟せねばならない。御嶽山もマッキンリー山も人間の“挑戦”など意にも解さないのだ。それが大自然だ。昔の人たちは大自然を恐れ敬った。だから、“挑戦”などという語は決して使わなかった。

「…ればと思います」という表現(またまたまた)

…ればと思います」という表現に対する私個人の“違和感”についてはこれまでにも何度も言及した(こちらこちらこちらこちら)。本年7月31日に「英語教育の在り方に関する有識者会議」(6月18日開催)の議事録に基づいて、「…ればと思います」が数多く使われている事実を指摘したが、その同じ会議の7月25日開催分を見てみた(こちら)。それによれば、「…ればと思います」という言い方は総計33! 中でも文科省の某氏は、1回の発言約11400字の中で、21回もこの「…ればと思います」を用いている。ご当人の口癖になっているのだろう。興味深いのは総計33回のうちのほとんどは文科省の役人の用法だということだ。以下にそのうちの10例だけを挙げる。【  】内は《私ならこう明言する》という例だ

 1.それでは、審議に入る前に、文部科学省の人事異動がございましたので、御挨拶をお願いできればと思います。 【御挨拶をお願い致します】
 2.それでは、配付資料の御確認をお願いできればと思います【…の御確認をお願い致します】
 3.過不足ございましたら、事務局までお知らせいただければと思います【…までお知らせください】
 4.これに、前回の小委員会の御意見をまとめさせていただいておりますので、適宜御参照いただければと思います【適宜御参照ください】
 5.それぞれ、現状と課題、主なポイントだけ御説明させていただきまして、特に今後の改善の方向性の例について御紹介をさせていただければと思います【御紹介をさせていただきます; 御紹介致します】
 6.こちらの資料で、資料が別途のつづりになって恐縮でございますけれども、後ろのページの方で、27ページを御覧いただければと思いますが、英語教育強化地域拠点事業の概要を付けさせていただいております。 【御覧いただければおわかりでしょうが;御覧いただければおわかりだと思いますが】
 7.続けて、中学校と高等学校ございますけれども、こちらにつきましては、丸の下二つを御覧いただければと思います【御覧ください御覧いただければ幸いです】
 8.後ほど御議論の参考にしていただければと思います【参考になさってください】
 9.(2)以降が指導体制の改善の方向ということで、こちらについては、先ほどイメージ図を御説明させていただきましたので、省略させていただければと思います【省略させていただきます】
10.22ページの最後の丸辺り以降に、今後の、特に新しい動きといたしましては、小学校高学年における指導体制の在り方ということで、幾つかポイントを挙げて、例示を挙げておりますけれども、後ほど御議論いただければと思います【後ほど御議論ください 後ほど御議論いただければ幸いです】

 議事録の冒頭から10例だけを列挙したが、私にとってはそれらを含めて、33例全てが不要の用法だ。言質を取られるのを避けたり、丁寧・上品に言っているように思わせたりするための用法かも知れないが、この種の公的委員会の関係者諸氏には《もっと明確に、断定的に言って欲しい》というのが私の偽らざる感想だ。読者諸氏はどのようにお感じだろう…。

【後刻記】weblio英和和英」にご意見を伺えればと思いますの用例があって(→こちら)、その日本語をわざわざ9義に分けて用例を添えているが、私の目にはその語義分けは大いに“こじつけ”的に映る。

唱歌「夏は来ぬ」(作詞:佐々木信綱、作曲:小山作之助)を英訳する。

夏が去った今頃「夏は来ぬ」を取り上げるのも芸のない話だが、英訳し忘れていた歌だったのを思い出した。2,3日掛けて訳してみよう。読者諸氏もお試しあれ…。

「夏は来ぬ」
作詞:佐々木信綱  作曲:小山作之助 u

1.
(う)の花の、匂う垣根に   
時鳥(ほととぎす)、早も来鳴きて
忍音(しのびね)もらす、夏は来ぬ

2.
さみだれの、そそぐ山田に 
早乙女(さおとめ)が、裳裾(もすそ)ぬらして  t
玉苗(たまなえ)植うる、夏は来ぬ

3.
(たちばな)の、薫るのきばの
窓近く、蛍飛びかい
おこたり諌(いさ)むる、夏は来ぬ  

4.h
(おうち)ちる、川べの宿の 
(かど)遠く、水鶏(くいな)声して
夕月すずしき、夏は来ぬ


5.
五月(さつき)やみ、蛍飛びかい
水鶏鳴き、卯の花咲きて
早苗(さなえ)植えわたす、夏は来ぬ 

同僚を名字で呼ぶほうが民主的か…

ちょっとした知り合いの大学教授某氏は、教員同士が「〜先生」と呼ぶことを嫌っている。自分よりもだいぶ年長の同僚でも「〜さん」と“さん付け”で呼ぶそう呼ばれる年長者の気持ちがどんなものかは知らない。メールでも同じだ。その理由を確認したことはないが、たぶん、ご当人にとっては「〜先生」というのは自分が直接教わった立場の人への敬称だと思っているのかも知れないたぶんそうだろう。同僚はその条件の下にはない間柄だ。ある時、メーリングリストで、「〜さん」と呼び掛けられた60代半ばの女性教授が、「“名字”プラス“さん”で呼び掛けられるって、何だか変な感じですね」とホンネ(?)を漏らしたことがある。だが、このホンネのほうが私は日本的、伝統的なものではないかと思っている。そして多くの日本人は日常的にはそのほうを好むだろう。

 女性教授が「何だか変な感じですね」と言ったのは、どこから来る感覚だったのだろう。推測するに、「名は実体を表し、本人の魂そのもの」という、我が国古来の考え方に影響されたものではないか。昔は、名は神格(=人格)の一部と考えられ、それを他人に知られるということは自分の魂が威力・神秘を失ったり、相手に呪詛を行なわせる直接原因になったりすると考えられたから、自分の名を安易に明かさなかった。たとえ相手と対等の関係であっても、直接、その名で呼ぶことは“無礼”であり“ぶしつけ”であると考えられ、職名や渾名(あだな)で呼んだりした。特に女性の名は秘して他人に知られないようにするのが伝統だったから、そういう伝統の名残りが「何だか変な感じですね」という反応に至ったのではないかと思う。

 いずれにせよ、「〜さん」と名字で呼ぶのが民主的だという考え方は、戦後に強くなったものだと思う。ここらあたりのことをよくご存じの方のご教示を仰ぎたい。

【追記】『万葉集』冒頭に雄略天皇が、春の野で若菜を摘んでいる乙女に「家告(の)らせ 名告らさね」と言って求婚しているが、乙女は顔を赤らめるだけで何も答えない。これはこの時代には女性が男性に自分の名や住まいを告げることは男性からの求婚を受け入れる意思があることを意味することを教えている。すなわち、この時代、女性の本名を知っているのは親や近親者だけで、それは女性の名が持つ霊力・生命力を失わないようにするための知恵だったのだ。
【後日記1】「〜先生」嫌いの上掲某氏が後日、別のところで、自分とは師弟関係にない某教授のことを「〜先生との対談」と書いて“先生”という敬称を用いた。日本の“進歩派”にはよくあることだ…。
【後日記2】
ここに「【西岡力 VS 前田朗】慰安婦問題徹底議論!クマラスワミ報告で事実をあえて言わず誤解を広めた「前田朗」氏の詭弁!」と題した1本の動画がある。内容はその題名が示すとおりだが、その中の26:40からの4秒間に興味深い言語現象が聞かれる。東京基督教大学教授・西岡力氏が、東京造形大学教授・前田朗氏に対して、「先ほどのあなたの、あっごめんなさい、前田先生の定義では…」と「あなた」を「先生」と言い換えている。西岡氏は1956年生まれ、前田氏は1655年と、その差わずか1歳だ。この言い換えが意味することは何か? 「あなた」という二人称代名詞は両氏の人間関係程度では使われないということをよく示している。

「差別用語」と称するものの取扱い方(続々)

もう1つだけ、「ダッチワイフ」の解説にも失笑を禁じえなかった(下線は山岸)。曰く、

ダッチとはオランダ人のことです。このダッチワイフというものの使われ方を考えると、これはオランダ人に対する侮蔑としか考えられません。しかし、オランダを含め、ヨーロッパ圏の国々は、世界の富を集中し搾取する「強者」ですから、多少の侮蔑は許されるので、使用しても問題ないと考えます

 「オランダを含め、ヨーロッパ圏の国々は、世界の富を集中し搾取する『強者』ですから、多少の侮蔑は許されるので、使用しても問題ないと考えます。」 この辺りは、滅茶苦茶な論理で、差別用語を語る人の考え方としては完全に“地金(じがね)”が出てしまっている。このサイトの主は上掲の語句に“文句”を付ける時、その成り立ちや時代を無視して、現代的・個人的観点からのみその“差別性”を云々しているが、それなら上掲の語句同様に、この「ダッチワイフ」も公平に批判すべきだ。それを「世界の富を集中し搾取する「強者」で すから、多少の侮蔑は許されるので、使用しても問題ないと考えますでは論理に一貫性を欠くし、“未来志向”ではない。

 結論的に言えば、この手の「差別用語禁止」サイトを読む場合、読み手は大いなる注意と知識とを必要とするということだ。インターネット時代、だれでもこの種のサイトを用意することができる。だが、その情報・記事は“玉石混交”、もっと俗っぽい言い方をすれば“ミソとクソとが一緒の状態”だ。しかも、一般人はこの手の記事に妙に“感心”したり“納得”したりしてしまう傾向があるから始末が悪い…。

【追記】日韓」「日中」に関しては、同サイトの主は、「なぜ、日本の『日』を先に表記するのでしょう。あくまでも日本が上であ るという、思い上がりの表れと言えましょう我々日本人が過去に犯した罪の重さを考えるのであれば、『韓日』『中日』と表記するのがせめてものの誠意であ るといえましょう」と、“特亜国”の人々が“随喜の涙ずいきのなみだ”を流しそうなことを書いている。慶應義塾大学と早稲田大学の野球の試合を、慶應大側から言えば、「慶早戦」となり、早稲田側から言えば「早慶戦」となるのが常識的だろう。慶大生が「早慶戦」と呼ぶとしたら、それは母校慶應に対する“嫌悪感”か、自己[自校]主張することを知らない単なる“無智”か、あるいは救いがたい“変わり者”かだろう…。

「差別用語」と称するものの取扱い方(続)

昨日の質問に対する私自身の考えを以下に示しておく。

 ●最初の「デブ」と「体重のある人」では意味するところがズレるし、「恰幅のいい人」では両者が意味する人物のイメージはまるで異なる。「恰幅のいい人」をアメリカ人に例を採れば、私はたとえばケンタッキーフライドチキンの創業者カーネル・サンダースを思い出すが、彼を単なる“デブ”だとは思わない。日本人俳優・山村聰(故人)にも“恰幅の良さ”を感じる。また、私にとっての“ぽっちゃりしている人」を日本人女性に求めれば、たとえば藤原紀香がそうだが、彼女を単なる“デブ”だとは思わない…。それに、このサイト主の考え方を推し進めて行けば、たとえば、「おれ [わたし]、ここのところ食べ過ぎが続いて、少しデブになっちゃった」と言いたい人の“表現の自由”さえ奪うことにもなる…。これを「体重のある人になっちゃった」では笑いの“ネタ”にしかならない。
 ●「馬鹿、あほ」を「頭がよくない人」だと言うが、これも言い過ぎだ。第一、病気で死に逝く最愛の妻に向かってその夫が「馬鹿! 俺よりも先に死ぬな!と言うのに、「頭がよくないひと!…と言ったのではまさに“噴飯物”ではないか! あるいは、「そんな馬鹿な! ちゃんと契約書は取り交わしたんだぞ!」などの場合も“馬鹿”でないと具合が悪い…。「馬鹿、あほ」という語は、時宜を得ればこれが大事だが日常的には必須語なのだ。「絶対に使用すべきではりません」とは単なる“言葉狩り”でしかない。
 ●さらに、「」は「漢字の構成に差別意識が現れています。結婚した女性は家に入るものと決めてかかる差別表現です」と言うが、「」は昔の慣習で「他家にとついでいく女性」と言う時に用いた語であって、最初から“女性を見下す差別表現”として生まれたものではない。それに、日本には「嫁」という文字は、昔、結婚の儀式が“嫁”の家で行われたことの名残りだと言う説もある。いずれにせよ、《「」という“漢字”を“よめ”という平仮名表記にすべし》という主張なら話は別だ…。なぜなら、日本語の“よめという語の語源に関しては複数の説あるが、いずれも素晴らしいものだからだ。同サイトの主が“日本人”なら、是非とも日本語の“よめ”の語源に興味を持ってもらいたい。    
  ●「」の“解説”にも誤解がある。この「」という字は、「」の“略字”として用いられたこともあるが原義は共に「体のしなやかな[やわらかい]女ということ(つくり)の「」は“発音”だけを表わし、「にょ) 」と同じ仲間の字。「“若い女性”でなければ『良くない』と暗に言っている」というのは誤解であり“言い掛かり”だ。上記の「」の場合と同じで、あまり漢字にムキにならないで、日本語の「むすめ」の語源に興味を持ってもらいたいものだ。「息子」の「むすこ」同様、我々の祖先、すなわち昔の日本人の語感の素晴らしさに感嘆するだろう…。
  ●「男女」を「女男」と呼称すべきだ…にいたっては、“ジョーダン”でしょう?と笑ってしまった女男」をシャレて言ったつもり…。そんなことを言うのなら、英語圏の男性が“Ladies and gentlemen!”と女性を先に言われることに異を唱えなければならなくなるではないか! だが、いくらこの語順が“Ladies first.”の風習と関係があるなどと説明されても、女性優先という“逆差別”になるだけだ。それよりも何よりも“Gentlemen and ladies!” を口で何度も唱えてみてもらいたい。「女男じょだん」が音声的に落ち着かないのと同様の感じを抱くのではないか…。

 (続く)

「差別用語」と称するものの取扱い方

未だに日常的に使われる差別用語について」と題したサイトに出くわした。制作者に関するプロフィールなどの記載はない。「身体に関する差別用語」、「女性に対する差別用語」、「外国人に対する差別用語」と分けて論じているのだが、記載内容に多くの誤解・偏見が見られる。そのうちの5例を下に列挙してみよう日本語の表記間違い「すべきではりません」はそのままにした


●デブ―「体重のある人」に対する侮蔑的差別的表現です。絶対に使用すべきではりません。「恰幅のいい人」「ぽっちゃりしている人」などと表現するのが好ましいでしょう。
●馬鹿、あほ―「頭がよくない人」に対する侮蔑的差別的表現です。絶対に使用すべきではりません。
●嫁―言葉よりも、その言葉の漢字の構成が問題です。「女」という時と「家」 という字を合わせて「嫁」とする漢字の構成に差別意識が現れています。結婚した女性は家に入るものと決めてかかる差別表現です。
●娘―言葉よりも、その言葉の漢字の構成が問題です。「良い女」と書いて娘で あり、娘、つまり“若い女性”でなければ「良くない」と暗に言っているわけです。女性に若さしか求めない男の差別意識がよく分かる言葉です。
●男女―これは順番が「男」が前で、「女」が後であることに問題があり、この言 葉自体に男女差別の意識が現れていると考えられます。ここはやはり「女男」と呼称するべきでしょう。女性が虐げられ、差別されている現状では、せめて呼び 方だけは「女男」と呼ぶことで、つりあいを取るべきであると考えます。


 このような記述を一読して、サイト主には悪いが“憫笑(びんしょう)”を禁じ得なかった。だが、それ以上に、こういう“問題だらけの情報”をインターネット上に流すことの危険性を思った。ご当人は“大真面目”でこうした語を“差別語”だから絶対に使うなと言っているようだが、“漢字”とそれに当てられた“日本語音”との関係、“言葉の役割”というものがよく理解出来ていないようだ。(続く)
 

「矩を踰えず」の年齢になった…

bf孔子は74歳まで生きた人だが、周知のごとく、数え年70歳の時に、「七十にして、心の欲するところに従えども、矩(のり)を踰(こ)えず」と言った。「七十歳になってからは、自分の欲するままに言動しても、決して軌道をはずれることはなくなった」という意味だ。言ってみれば、「修養の極致」だ。孔子の残したこの言葉から「従心」(じゅうしん=70歳)という言い方も出来た。
   杜甫はまた、数え年の70歳のことを「古稀」(古来稀なり)と表現したが、私は今日で満70歳になった。孔子の「従心」の境地にはほど遠く、相も変わらず“天邪鬼” “へそ曲がり”を続けている。「内心忸怩(じくじ)」などと洒落るつもりにもなれない“俗人”だ。

  それでも、大過(たいか)なく40数年にわたり教壇に立って来た。どのくらいの数の学生を教えたか、じっくりと考えてみたこともないが、この間の誇りとも言うべきことは、長い教壇生活で一度として学生による“吊し上げ”を経験したことがないこと、また、5点満点の“授業評価”“教員評価”で4.5を下ったことがないことだ。特に、若い頃は限りなく5点に近いことが何度もあった。孫のような年齢の現在の学生たちとは価値観も美意識もかなり違っているが、それでも4.5を下ったことはない。評価が5点満点で4点を下ったら大学教員を辞めようと心に決めていたのだが、幸いにしてそれだけは避けて来られた。

  英語関連の研究書、一般書、雑誌には書きたいだけ書かせてもらった。英和辞典、和英辞典も4点、その編集主幹として編集に携わらせてもらった。お世話になった出版社・雑誌社・新聞社等は数多い。

 しばしば言及するように、長い人生の中での痛恨の極みと形容すべきことと言えば、約40年間を共に生活した最愛の妻との永訣だった。妻がこの世を去ってから丸5年が経過したが、b4私の寂寥感・喪失感は今もって消えない。孔子は「四十にして惑わず」と言ったが、私などは現在の歳になっても惑いばかりの日々を過ごしている。 昔の人は言った。「日暮れて道遠し」と。私自身もそれを実感する。あとどのくらいこの世にとどまっていられるかは、神ならぬ身の知るよしもない。だが、いつこの世を去ってもよいように、必要な“断捨離”だけは今後とも実行しようと思っている。最近では、「ゼロになって死にたい」と強く願うようになっているし…。大学の教壇に立っていられるのも残り半年余りになった。

  と、ここまで書いて大学に行ったら、昨年度のゼミ生諸君が私の誕生日を祝って豪華な胡蝶蘭ほかを贈ってくれた上の写真。期待していなかっただけに嬉しかった本年度のゼミ生は入ゼミ条件を厳しくしたために応募者ゼロということになった。また、夕方までには何人もの旧ゼミ生からの“祝電”ももらった。
 帰宅したら、我が愛犬たちが私を祝ってくれた。みなを代表したのは写真に写っているパールで、「お父さん」というカードを首に下げて持って来てくれた。

I wish…と I hope…の使い分け

I wish… I hope…の使い分けが理解できていない英語学習者が多い。たとえば、私が数年前に担当した英作文クラス約20名の受講生諸君に「試験に合格できますように」を英訳して貰った時のことだが、四分の三の諸君はI wish I could pass the exam(ination).と訳した。残りの諸君はI hope I('ll) pass the exam(ination.)と訳した(I hope I can pass...のような訳し方をした諸君は皆無だった)。I wish I could …とすれば、その英語が言っていることはI can't pass it but I wish I could...受かるといいなあということだ。文脈によっては、「試験に合格できますように」という日本語がそういう含みを持つこともあるだろうが、それは常識的には「合格したい」ということの別表現のはずだ。だから、I hope…が望ましい英語となる。このI wish…I hope…の使い分けが実感として理解できていない人は英語教師にも少なくないように思う。

「私が言うのも変ですが」 って変じゃない?

k先日、我が教授会で、議長の某教授道教の研究者として著名が、学術図書出版助成金を獲得なさったご自身に関連して、次のように仰った。

これは私が対象ですから、本人の私からご報告するのも変な話ですが…。


 この言い方に“ケチ”を付けようというのではない。そうではなく、我々日本人はどうして、「本人の私からご報告するのも変な話ですが」と前置きをするのかということを言いたいのだ。考えてみれば、少しも「変な話」ではない。むしろ“お目出度い”ことだ。だが、“常識を心得た成人した日本人”なら、こういう言い方で自分自身の慶事に言及するのが当然だと思うだろう。

 こういう言い方をする背景には、「私の慶事に私以外の誰かが言及してくれるのは仕方がないが、私の慶事に私自身が言及するのは、いかにも自画自賛をするようで心苦しい」という気持ちが存在するからだと思う。「易経」に類似の心理状態を表現する言葉を求めれば、「勞謙、君子有終、吉労謙(ろうけん)す、君子終わりあり、吉なりというところだろう。つまり、「骨を折って働いても謙遜してそれを誇らない。それが君子の徳であり、長く地位を保って終わりを全うし、幸せを得る道だ」ということになる。同じ「易経」に「謙亨謙は享(とお)という言葉もある。「謙遜の徳を持っていれば、どこへ行っても万事がよく行われる」ということだ。ここでもやはり「謙遜」であることを説いている。四書五経を中心に儒学の影響の強かった我が国だ。その国に生きる人々の言葉の中に、こうした変な話という表現が今もって顔をのぞかせるのは少しも変な話ではないのだ。

「練習中のご協力に感謝します」―“ご協力”って?(続々)

kyoushuujo練習生が乗るクルマのリアウィンドーの文句と、道路工事中であることを示す看板の日本語について、私のゼミ生だった一人はゼミ専用掲示板に次のように書いた。

一昨日山岸教授がブログにお書きになりました『「練習中のご協力に感謝します」‐“ご協力”って?』を拝読しました。遅くなりましたが、わたくしの考えをお書き申し上げます。
 
教習車の場合であれば、リアウィンドーに記すには少々長いかもしれませんが、「ご不便をかけておりますことをご理解ください」などとすることができます。工事の場合も同様な文句が適切かと思います。ただし、後者の場合は、工事をしていることで“不便”になることは常識的に理解できることから、わざわざこのような文句を書く必要は無く、「ご迷惑をお掛けしております」のみでも十分だとわたくしは考えます。

 上記の通り、「ご不便をかけておりますことをご理解ください」、「ご迷惑をお掛けしております」の2例が示されているが、私の回答は《必要最小限の言葉以外は何も書かないのが一番》ということになる前者の「ご理解ください」という言い方は他人に“理解”を無理強いしているようで好ましくない。練習中のクルマであれば、また、道路工事中であることは見れば分かることだ。だから、前者については「練習中」だけで十分だ。どうしてもと言うのであれば、たとえば「急ブレーキ [急発進] 注意」あたりなら書いてあってもよいだろう。また後者についても「(ガス[水道管電線]工事中」とするだけで十分だ。段差などの危険性があれば、「段差あり」、「足元注意」、頭上に対する注意喚起を必要とするなら「頭上注意」、ペンキがまだ乾き切っていないというのであれば「ペンキ塗り立て」等、要するに、危険内容を簡潔に書くだけでよい視覚障害者に関してはまた別の配慮が必要なことは言うに及ばない

 クルマの運転練習中は誰もが未熟なのだし、たとえ私がそのクルマの背後につこうと、“もかつては練習者だったのだ初心者マークを付けているクルマの背後についた場合もそうだ。つまりクルマを運転している全ての人がかつては“自分”も練習者だったわけだし、初心者だったわけだ。高齢者マークが貼ってある場合は、それを見て“明日は我が身”と捉えればよい。だから配慮や思いやりを求められるのは練習者や高齢運転者ではなくて、むしろその周辺を走る普通のクルマ運転者なのだ

 工事中の看板にしても同じだ。自宅を新築する時、自分のごく近所でガス管・水道管・電線等の工事が行なわれる時、周辺の人々はそれを社会的営みの当然のこととして受け入れるだけの寛容さが必要だ。クルマの練習者には、「私もそうでした。落ち着いて頑張ってください。」というような鷹揚(おうよう)な気持ちで接したい。工事関係者には「ご苦労さま」という一言を掛けて労(ねぎら)いたい。そういう、自分の来し方、行く末を見た結果としの“思いやり”こそが社会を潤いのあるものにしてくれるのだと私は思う。

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【後刻記】我が大学院の院生Hさんが次のような意見を寄せてくれた。

山岸先生のブログに書かれている「ご協力」についての私の意見は以下です:
確かに実際に他人と一緒に何かの目的の為に行動はしていませんが、"協力"されている本人の行動を理解し、妨害しない、という点ですでにそれは相手が目的を達するのに力を合わせ、努力する一種なのではないでしょうか?ですので、私は特にそれについて違和感はありません。
実際に何か具体的に行動して何か行ったのではないかもしれません、でもそういった心遣いも「支え」の一つ、「協力」の一つだと思います。
「ご協力お願いします」と書くのは、そういった「心」を書き出すものであって、最新のブログ記事に書かれたように、必要な部分だけ書き出すのは確かにわかりやすいかもしれませんが、温もりが大幅に減ってしまいます。それは少し寂しいことではありませんか?
以上です。よろしくお願いします。

  
Hさんのような意見があることは、私は「百も承知」している“天邪鬼”を自称する所以。それを承知の上で書いている。確かに、そういう解釈も成り立つ。だが、私に言わせれば“、問題提起に使ってあるような“協力”という語の使い方は、練習車が周囲の“無関係”の人たちに《協力を無理強い》しているように思えるのだ。「相手が目的を達するのに力を合わせ、努力する一種」という点に共通性を感じる。また、「実際に何か具体的に行動して何か行ったのではないかもしれません、でもそういった心遣いも『支え』の一つ、『協力』の一つだと思います。」という点だが、私にはそれは“甘え”の1つの姿だとしか映らない。「温もりが大幅に減ってしまいます。それは少し寂しいことではありませんか?」ともあるが、“無関係”の人たちを巻き込んだ“甘え”に裏打ちされた“温もり”は本当の“温もり”ではないと思うからだ。周囲の無関係の人々が、どうして「寂しい」と感じられなければならないのだろう…。とにかく、一方的に“協力”や“理解”を求め、それの“受け入れ”を当然と考える考え方に私は馴染めない。そんなことから、私の回答は上記のように、《必要最小限の言葉以外は何も書かないのが一番》ということになるのだ。そういう書き方がしてあったら、私のような“天邪鬼”の付け入るスキは無くなる…。

【後刻記への付記】今回のような「協力」という語の用い方を見るたびに、私には、昨今の若者たちが、自分に関連して周囲の人々に「今後とも温かい目で見守ってやってください」、「寛大な心で受け止めていただきたい」などと“甘えた言葉”“甘ったれた言葉”と言ってもよいを平気で口や文字にする傾向を有することが思い出される。そんな言葉は“本人”が口や文字にしたら“おかしい”のだ。

童謡「ずいずいずっころばし」を英訳した。

先日、某出版社のアメリカ支局から依頼された童謡「ずいずいずっころばし」の英訳が出来上がった(こちらに掲載)。これで、私による「さくらさくら」「村祭」「雪」「ほたるこい」「ずいずいずっころばし」の5点の英訳が来春発行予定の日本語教本に収録されることになった。同支局の責任者(アメリカ人)も私の英訳をたいそう気に入ってくださり、英訳者としては喜んでいる。

「練習中のご協力に感謝します」―“ご協力”って?(続)

k3k3協力」と言う語を国語辞典で見てみると、「同じ目的のために他と力を合わせること」(『学研現代新国語』)、「力を合わせて物事に当たること」(『三省堂新明解国語』)などとある。「同じ目的のために」、「力を合わせて」という点がこの語の大事な点だ。だが、昨日の例のように、そのいずれの点も考慮する必要のない場合に用いている例が少なくない。街路・道路上を歩いていても、この「協力」という語が頻繁に目に入って来る。左の2枚の看板も同様に、我々が日常的によく見かけるものだ。だが、“天邪鬼”の私にとっては、これらは“形式的”なものか、「協力の“無理強い”をするものかにしか思えない。

 確かに、自宅がある町での、あるいは最寄駅に通じる道路でのガス管・水道管・電線等の工事は公共性の高いものだ。だが、別にその町内の住民たちや、その道路を利用する人々全員が「同じ目的のために」、「力を合わせて」やるようなことではない。
 この看板が、個人の新築住宅のための工事現場に設置されていることも多い。だが、「協力をお願いいたします」と、一方的に言われると、「どうして協力しなきゃあいけないの?」と反発心も起こって来る。「御協力をお願いいたします」という、一方的で、場合によっては“高圧的な”表現は、こういう看板にはそぐわないというのが“天邪鬼”たる私の意見だ。その点をよく理解出来ている人たちが作った看板には、まず間違いなく「協力」という、誤解や反発を招きがちな語は用いられていないはずだ。それではどういう書き方をするのが人々の誤解や反発を招かないだろうか。こういうことをよく考え、それを実行に移せる人たち、とりわけ若い年齢層の人たちが少なくなったような気がする…。昨日の例と併せて読者諸氏への宿題としておこう。

私のような“天邪鬼”に向けられたのかも知れない二つの言葉。
 ●Little troubles are great to little people.―Old English Proverb
   (小心者には小事も大事に映る―英語の古諺)
 ●Contentions for trifles can get but a trifling victory.―Sir P. Sidney
   (小事に争う者は僅かの勝利を得るに過ぎず―P.シドニー卿)

「練習中のご協力に感謝します」―“ご協力”って?

c1私のクルマの前を某自動車教習所の教習車が走っていた。赤信号で停車した時に、その後部ガラスに書かれていた文句が私のいつもの“天邪鬼”を目覚めさせた。それには「練習中のご協力に感謝します」という文字が貼られていた。「ご協力”って、別に何も“協力”しちゃあいませんがね…。だって、“協力”って、読んで字の如しで、《同じ目的のために他人と力を合わせて努力すること》って意味でしょ?別に《同じ目的》を持ってるわけでもないし、あなた方の教習所から何かを頼まれたわけでもないから、“ご協力”って言われてもねェ…。」 と言った具合だ。

 日本中時には国外でもいたるところで我が“天邪鬼”が頭を擡(もた)げるので、“高齢者ボケ”の予防薬にはなるかと思っている。まあ、私のやっていることを“老害”だと非難する人もいるが…私への非難は“実名”でいただけると有り難い。弁明・反論が可能だから…

 真面目な話、我々は日常的に言葉の伝統とその意味とをよく考えずに使っていることが少なくない。日常的に意思疎通に支障が出たり、誤解が生じたりするのはそれが一大理由だ。もちろん、常に言うように、語句の意味やその使い方は時代と共に変化する(注記参照)。だが、いい加減な使い方をする人たちが多くなったことがその変化の理由・原因だというのはいただけない。ここで扱った協力”の不用意な使用例は日本中いたる所で私の耳目に触れるが、個人的には全く好きになれない類いのものだ。さて、こういう場合は、何と表記すれば好いだろう? 読者諸氏への宿題とさせていただこう。

【注記】今日の夕飯に肉じゃが [ハンバーグ] 作りに挑戦しようかな」、(回転寿司屋で)今度はアナゴに挑戦してみようかな」のような場合の“挑戦”という語は深刻度が薄れた1例で、個人的には好きになれない語法だ。“挑戦”という語は、「困難な物事や新しい記録などに立ち向かうこと」という意味で、たとえば、「世界チャンピオンに挑戦する」のような、深刻度の高いものに使うのが普通だと思うもちろんこの語法に違和感を覚えない人にとって、肉じゃが [ハンバーグ] 作りやアナゴ寿司は自分が今までに試みたことのない困難なことだから、と説明するかも知れないが…

朝日新聞の“大罪”

asa朝日新聞の最近の“醜態ぶり”と言ったらない。吉田清治という「職業的詐話師」(秦郁彦氏の造語)に関連して自分たちの記事を書いたことを撤回したかと思ったら、今度は池上彰氏の連載をいったん中止していながら、すぐにそれを取り下げ、そのことを謝った。また、東京電力福島第一原発元所長・吉田昌郎氏(1955 - 2013)の聴取結果書(吉田調書)に関する「過剰な表現を撤回」し、一応謝った。ところがまたぞろ、同社が抗議書を送っていた産経新聞社とジャーナリストの門田隆将氏に対し、抗議を撤回し謝ったかと思ったら、2012年6月に掲載した任天堂(京都市)の岩田聡社長に関する記事について、実際には同社のホームページから発言内容を引用したにも拘わらず、直接インタビューしたかのような体裁で記載していたとして、14日付朝刊で謝った。

 それぞれの対応は当然のことだ。だが、朝日新聞が心底から自らの“大罪”を詫びなければならないのは先の大戦で散華した無数の日本軍人・兵士に対してであり、戦後に生きた日本国民全てに対してだ。さらにまた、誤報・捏造記事を信じた世界中の人々に対してだ。
 いつも書くように、朝日新聞の本多勝一元記者、同社・松井やより元記者、同社・上村隆元記者ほかは日本軍人・兵士を“鬼畜”扱いし、その余栄(よえい)さえも汚れた土足で踏みにじり、戦後の日本国民に対して“認罪意識”を植え付け、深く広く汚辱にまみれさせた。また、そのために世界の国々に我が国を徹底的に貶める口実を作り、とりわけと“特亜3国”には“ゆすりたかり”の格好の口実を与えた。これは紛れのない事実であり、日本国がこれまでにこうむった冤罪・汚名・汚辱・不名誉等は「記事は間違いでした。撤回して、謝ります。」程度で済ませられるはずがない。個人的にも、半世紀以上も朝日新聞を購読し、その記事内容を信じて来た者の一人として、朝日新聞の反日的[売国的]記事・誤報・捏造記事は許し難い。

 今、日本中で朝日新聞に対する批判的言動が熱を帯びて来ている。当たり前だろう。今のままなら朝日新聞は日本のメディアから消えて行くべきだ。もちろん、他の反日的メディアほか、媚中派・媚韓派政治家・大学教授等々も同様だ。自国を建設的・創造的に批判するのでなく、“為になさん反日的[売国的]言動”のみに執着する輩は同じく消えてゆくべきだ。某雑誌はその特集記事の題名を「朝日の慰安婦報道を叱る」としているが、「叱る」などという穏やかな表現で済ませられるものではない! 朝日新聞は戦死者、国民全てに対して、単に「あやま」のではなく、公式に「詫びる」べきだ。そのあとで英語で世界に向けて、自分たちの“大罪”を告知すべきだ。

【付記1】朝日新聞を糺(ただ)す国民会議
        「朝日新聞解体! 山手線一周マラソンラリー
         ● 以下は必見!
        「朝日、巧妙で悪質な会見…慰安婦問題の温存図る―拓大客員教授・藤岡信勝氏
       「1/3【討論!】大捏造メディア・朝日新聞を糾す! [桜H26/9/13]
         「2/3【討論!】大捏造メディア・朝日新聞を糾す! [桜H26/9/13]
        「3/3【討論!】大捏造メディア・朝日新聞を糾す! [桜H26/9/13]
              「【民間防衛】9.12 拉致被害者奪還!捏造朝日新聞、読まない!買わない!緊急国民行動[桜H26/9/15] 」
             「【草莽崛起】9.20 朝日新聞解体! 山手線一周マラソンラリー[桜H26/9/22]」 
              「朝日新聞の犯罪によって苦しめられている在米日本人を救え! 朝日新聞へのデモを含め全力で行こう!
             「【水間政憲】南京大虐殺陥落!本多勝一、写真捏造を認める![桜H26/9/18]」 
              「【朝日追撃】9.21 朝日新聞を許さないデモ!in銀座[桜H26/9/24]
            「【日いづる国より】西川京子、朝日新聞と歴史認識と事なかれ主義の総括を[桜H26/9/26]」 

●個人の例で言えば、こういう例(「女優・楠城華子 “冤罪”に苦しむ人々の声を聞き流す希薄な当事者意識」)もある。朝日新聞はこれにどう責任を取るのか。「朝日が誤報を30年以上も放置したことで、私の恋は破れ、日本人は残虐な行為をして、しかもそれを認めない国民だという不名誉な烙印を押された。損なわれた国益の大きさは計り知れない。朝日はその過ちを償うため、現役の社員にも多大な負担がかかることだろう。戦時中、実際につらい思いをされた方の話でさえ疑われるかもしれない。」という彼女の声は深刻だ。

【付記2】今朝の朝日新聞の「声」の欄に、57歳の男性からの投書があって、それには「誤報の取り消しが遅すぎるうえ、紙面でも社長会見でも謝罪の言葉はあっても、言い訳ばかりで、心から謝っているようには思えないのです」という一文が見られたが、朝日新聞は一応「謝る」ことはしているように思える。だが、「詫びる」ことはしていないのだ。「謝る」と「詫びる」とでは、少なくとも私の語感ではかなりの違いがある。「詫びる」には“重大な過失の許しを乞う”という含みがあるが、「謝る」にはそれがなく、日常的で軽い感じのする語だ。それは「謝る」という日本語が「誤る」の転義であるだけだからだ。したがって、朝日新聞は意識的に「詫びる」ことをしていないとしか思えない。

 朝日新聞を糺(ただ)す国民会議」に参考登録を→こちらから

willとbe going toの使い分け

willbe going toの使い分けの出来ない学習者が多い。たとえば、「来週、カナダへ発ちます」を英訳してもらうと、学生の多くはI'll [I will] leave for Canada next week.と訳す。だが、英語では、この場合のような「すでに決まっていること」や「前々から意思」を表す場合にはI'm going to leave for...とかI'm [I'll be] leaving for...とか言う。
 I'll [I will]...は「やる気の有無やその場で初めて決めた意思などを伝える」場合に用いる。たとえば、“That's a pretty bad cut. You'd better have a doctor look at it.”(相当ひどい傷だね。医者に診てもらったほうがいいよ)という提案に対しては“OK. I'll go to the hospital tomorrow.”が適当であって、ここでI'm going to go...と答えれば、言われる前から「行くつもりにしている」という意味になってしまう。

「〜たりなんかします [しません] か」という表現

昨日、昼食をとりながら、テレビの某旅番組を見ていたら、若い女性レポーター(タレント?)が次のような表現を連続して用いた。

●〜はお好きだったりしますか
●このあたりに名物なんかあったりしますか
●あなたのお昼ごはんを見せてもらえたりなんかしますか


 こういう言い方が悪いというつもりはない。ただ、かなりの違和感を覚えることだけは否定できない。昨今の人たちは、本当によくこの「〜たり(なんか)しますか」、「〜たり(なんか)しませんか」を使う。つい先日も新浦安駅近くを歩いていたら、20代前半の若者から、「このあたりに銀行なんかあったりしますか」と声を掛けられて驚いた。どうして、“素直に”このあたりに銀行はありますか[あるでしょうか ∕ ありませんか]と訊かないのだろうかと思ったと言っても当人は“素直に”訊いているつもりなのだろうが。これでは、尋ねているのが銀行なのか、コンビニのATMでもよいのかがはっきりしないだけでなく、意地悪く言えば、「銀行“なんか”があると、何かまずい事でも起きますか」と訊きたくなるのだ。私なら上掲の3例は次のように言う。

●〜はお好きですか;〜はお好きでいらっしゃいますか。
●このあたりに名物(といわれるもの)はありますか[〜はございますか];このあたりの名物(といわれるもの)は何 [どんなもの] でしょうか
●あなたのお昼ご飯を見せていただけませんか[いただけますか];お昼ご飯を
拝見できます[拝見して(も)よろしいです]か。

 次は、インターネット上に見られる文例の一部。
※動画をキャッシュして持ち運んで見れたりなんかしますか
※今現在進行中のリミックスがラップトップにあったりなんかしますか
※今日は冬至だけど、あなたは風呂に柚子を入れたりなんかしますか?
※今日は樹里ちゃんの誕生日です!お祝いしたりなんかしますか(//∇//)?
※実はオリキャラを愛してやまない人に100の質問第3弾も作って欲しいと願っていたりなんかしますか?(笑)

【付記】私による記事「『上がらせてもらえたりなんかしますかねえ』という言い方」も参照。

「極悪非道」、 「悪辣非道」、 「悪劣非道」、「劣悪非道」

fこの上なく悪い言行”のことを「極悪非道ごくあくひどう」と言う。“あくどい”ことを強調するのであれば、「悪辣非道あくらつひどう」と言ってもよいだろう私には前者が普通。面白いことに、これらの混同・混合だと思われる言い方をする人がいる。「悪劣非道あくれつひどう」、「劣悪非道れつあくひどう」だ。だが、私の耳目には両者とも不自然であり、私自身はこれまでに一度も使用したことはない。慣用的でないという単純な理由からだ。ネット上からその例を拾って来よう。

※許すまじ悪劣非道の馬鹿餓鬼
※インタビュー・・・なんて悪劣非道な行為だ!
※あの悪劣非道な会社で期間工してんのか奴.
※中には いい人間もいると思うのだが、悪劣非道な国家は無理無理
※雛ちゃんがキョトンとした顔で言った。 「そう、あの悪劣非道集団の幹部ゴキブリ男を倒す方法だよ」

劣悪非道の黒蛇提督
●『蟹工船』の下層にもっと劣悪非道な収奪
●もらい事故でわかった保険会社の劣悪非道な実態
劣悪非道で人が苦しむ姿を見るのが最高の楽しみとしている。
劣悪非道な犯罪や、甚大な震災被害のストレスでPTSDになった国民をバカにした話

私の英訳が日本語教本に?…(続)

昨日言及した某大手出版社アメリカ支社の話だと、現在作成中の日本語の教本には、日本の童謡を5曲採用予定らしい。その内の4曲の英訳を私のホームページで見つけたのが、私への昨日の問い合わせになったそうだ。ただし、その後のメールでは、5曲目は「ずいずいずっころばし」だそうで、願わくは同じ訳者(=私)のものが使えれば幸いだと言って来た。現在私は多忙だが、今月中には何とかしましょうと返事をした。ところが、この歌はよく考えると、その意味がよく分からないし、歌っている内容に関しても諸説紛々のようだ。しかし、そういう難しいものに挑戦するのは“やりがい”がある。何とか頑張ってみようと思う。読者諸氏もちろん我がゼミに所属していた諸君)もチャレンジしてみられたい…。

ずいずいずっころばし
ごまみそずい
茶壺(ちゃつぼ)に追(お)われて
とっぴんしゃん
(ぬ)けたら、どんどこしょ
(たわら)のねずみが
(こめ)(く)ってちゅう
ちゅうちゅうちゅう
おっとさんが呼(よ)んでも
おっかさんが呼んでも
(い)きっこなしよ
井戸(いど)のまわりで
お茶碗(ちゃわん)(か)いたのだぁれ

私の英訳が日本語教本に?…

昨日、我が国の某大手出版社のアメリカ支社編集部(アメリカ人)からメールを貰った。近々、日本語学習のための教本を作成するので、その中に、「さくらさくら」、「村祭」、「」、「ほたるこい」の4曲の英訳を使用したいので許可してもらえないかという問い合わせだった。それに対し、私は「私が訳者であることを明記してくれさえすれば、それらを無料で使用してくれて構わない」と答えた。出来上がった時には当たり前の事だが私にその教本を贈呈してくれるという。私は自分のホームページ上に140曲の英訳を公開しているが、どうして特に上記の4曲を選んだのだろう。折をみて訊いてみたいと思っている。

「あげる」の用法に対する私の抵抗感―朝日新聞の語法

p「花 [植木・庭木] に水をあげる」、「イヌ [ネコ・ハト] にエサをあげる」など、人間以外のものに「あげる」を用いることに対する私の抵抗感についてはこれまでにも何度も書いた(例)。私のその抵抗感は、「あげる」は本来、「与える」「やる」を、その相手を敬っていう語だからという伝統的・慣用的用法を教えられ、物心ついた頃からそれを実践して来たという個人的理由による。だから、他人がそれを用いているのを苦々しく思うことはあるが、語法は時代と共に変わるものだから(「赤信号、みんなで渡れば怖くないということで致し方ないとも思っている。それでもその語法を新聞など、書き言葉に見るとやはり私の抵抗感はまたぞろ頭をもたげる。今朝の朝日新聞の昭和天皇の「実録公表」に関する記事にも同じ抵抗感を抱いた。元編集委員・岩井克己という署名がある。以下のごとし。

(前略) 2000年に香淳皇后が亡くなると身辺から見つかったが、「亡き天皇のお忘れ物」として皇后とともに陵に埋められたとされる。(中略) 幼少期、引き離された両親にあてた何通もの手紙、めったに会えない大正天皇に気づいてもらえず、馬車に「おもうさま」と何度も叫ぶ記述は切ない。巣をつくってあげた白ハトをネコにさらわれ、「敵(かたき)をとると2日間探し回った。解剖したカエルに「正一位蛙大明神」の位を与え丁寧に土に埋めた。(後略)

 上掲の「巣をつくってあげた白ハト」だが、ここだけこういう言い方をするのは変だ。朝日新聞(のみならずほとんど全てのマスメディア)は皇室に対しては徹底的に“尊敬語”を廃した記事を書いているし、また、“尊敬語”を用いた記事など書こうとしても書けないだろうが、とにかくこの「巣をつくってあげた白ハト」という表現法は憫笑物だ。「巣をつくってやった白ハト」では“無礼”だとでも思ってこうしたのかも知れないが、尊敬語を使わないのなら、たとえば「巣まで用意した白ハト」のように言えば、文章全体のバランスもよくなる。

 ちなみに、「2000年に香淳皇后が亡くなると」という箇所だが、ここで「香淳皇后」を使うのは厳密に言えば間違いだ。なぜなら、「香淳(こうじゅん)皇后」とは良子(ながこ)皇太后の崩御に伴う“追号”だからだ。したがってまた、「皇后とともに陵に埋められた」の箇所の「皇后」も厳密には「皇太后」であるべきだ。岩井氏の言いたいことは理解できるが、新聞記事としては低質な書き方だ最近の朝日新聞記者が書いた記事には日本語の語法間違いや稚拙な表現がきわめて多い。困ったものだ…朝日新聞の落日―その足音が遠ざかる…

「彼女=恋人)」とgirlfriend; 「彼氏=恋人」とboyfriend

昨日言及した英作文クラスで、「悪いけど今日は彼女 [彼氏]と デートの約束があるんだ」を英訳してもらったことがある。ほとんどの受講生はI'm sorry, but I have a date with my girlfriend [boyfriend] today.と訳した。もちろん、英語としてはこれで好い。
 girlfriend, boyfriend の“古さ”については昨日言及したとおりだが、残念ながら、この日本語自体が“日本的”だと言うことに気付いている諸君はいなかった。これが英語を母語とする人々(たとえばアメリカ人)であれば、「彼女 [彼氏] 」と言う箇所は、たとえばSue, Lucy [Paul, Tony]など、具体名を言うはずだからだ。

「ボーイ [ガール] フレンド」と boyfriend, girlfriend

英作文クラスで「彼女にボーイフレンドが出来たらしい」を英訳してもらったら、約20名の受講生の全てが「ボーイフレンド」をそのまま“boyfriend”と訳した。全体の英語はIt looks like she found [had] a boyfriend.という書き方をした諸君が一番多かった。文末にrecently, these daysなどの副詞を添えた者もいた。
 だが、boyfriend (girlfriendも)という語は昨今では流行遅れ(out-of-date)の語になりつつあるようだ。英語母語話者の中には、「今この語を使うと、何だか1960年代、あるいはそれ以前の男女関係を言っているように響く」と言う人も少なくないだろう。そういう人で、日本語の理解出来る人に上の日本文を英訳してもらうと、Apparently, she is seeing somedoby [some guy] these days.のように表現する。したがって、現代の若者向きの表現だと言えるはずだ。
 ちなみに、「恋人」に相当する“lover”という語もboyfriendgirlfriend同様、古風になりつつある、あるいはすでに古風な語だ。
 

朝日新聞の落日―その足音が遠ざかる…

2日前の朝日新聞が掲載した「週刊新潮」誌の広告(左下写真;2葉に分けたを見て、私は「オヤッ?」と思った。白丸(〇)を付した箇所が2か所あったからだ。2文字ずつ2か所だ。私はこれを「週刊新潮」誌自身がそうした形式で朝日新聞の広告に掲載したとばかり思った。ところが、左の動画を見て驚いた! 何と、白丸を利用して伏字にしたのは朝日新聞と言うではないか! 「売国」という文字と、「誤報」という文字だそうだ。“天下の朝日”とまで言われた朝日新聞が何と“姑息”なことをするのか! “天声人語”の“天声”が聞いてあきれる!

  本ブログのカテゴリー「日本近・現代」で何度も書いたように、同紙は自分たちでは大層“ご立派なこと”を書くくせに、自分たちに不都合なことは、たとえそれが他社のものであっても勝手に伏字にするなど、驚きで開いた口が塞がらない! 「売国」も「誤報」も的を射た表現だ。そうでないとDSC08677言うのなら、何も恐れることはない。

 第一、朝日新聞の総責任者たる木村 伊量(きむら ただかず)氏は同紙の誤報に関連して、日本国民に対して正式に謝罪すべきであるにも拘わらず、いまだそれを行っていない(どころか、開き直ってさえいる)。

 左上の動画が言う如く、こういう体質の朝日新聞に対しては、(反日的・売国的日本人を除き)全ての日本人が集団訴訟・不買を含めた積極的行動を取る時期だ。まさに日本人の真価が問われている。

 
 同紙の誤報あるいは捏造記事がいったい我が国益をどれだけ大きく損ね、我が国民の安寧と平和と学校教育にどれだけ甚大DSC08678な被害を与えたか?! いわゆる“南京大虐殺事件”と“従軍慰安婦”に関して、我が国民の心に拭いきれないほどの汚辱を与えておきながら、その総責任者が国民に対して謝罪しないというこの体質をこのままにしておいてよいはずがない。

 ちなみに、上記の「週刊新潮」誌には、百田尚樹氏が「私と日本人を貶めてきた『朝日新聞』に告ぐ! 『歴史』というリングの上で『真実』の拳を受けよ!」という記事を、また櫻井よしこ氏が「朝日が支えた『河野談話』を潰せ」という記事を書いておられて、興味深そうだ。朝日新聞の落日―その足音が遠ざかる…。

【追記】今朝の朝日新聞「社説」には、またぞろ「ヘイト規制 議論の土壌は大丈夫か」と題した記事が出ていた。いつも書くように、同紙には「ヘイトスピーチ」の何が真の問題なのか、何をどう解決すれば好いのかがまるで分かっていない。「『誇りある日本国民として恥ずかしい』『日本人としてやめなければならない』という物言いには違和感を覚える。差別を受け、恐怖を感じている被害者への視点が抜け落ちていないか」などと“まことしやかなこと”を書いているが、“恐怖を感じている被害者”が実は“加害者”かも…という「視点が抜け落ちていないか」。それよりも何よりも、朝日新聞は自分たちが戦後為して来た誤報・捏造記事によって、結果的に日本国民を“戦争加害者”に仕立て上げた大罪に対する「視点が抜け落ちていないか」。

【付記】【草莽崛起】9.20朝日新聞解体!山手線一周マラソンラリー[桜H26/9/4]
     【草莽崛起】慰安婦報道を許すな、9.6 朝日新聞抗議デモ[桜H26/9/8]
          【水島総】朝日新聞に対する集団訴訟提訴へ![桜H26/9/9]
【後刻記】東京裁判の不当性(03:30〜06:50辺り)と朝日新聞の矜持の欠落(09:50〜09:40辺り)については【ヤルタ・ポツダム体制】日本の敵と東京裁判史観[H26/8/28】を参照。また、「東京裁判:ブレイクニー弁護人の弁論」を参照。

「ご苦労さま」の英訳

「(館内を)巡回してきました。異状ありません。」「ご苦労さま。」を英訳した英作文クラスの受講生約20名の約半数は「ご苦労さま」に対する英訳を"Thanks [Thank you] for your trouble."とし、残りの約半数の諸君は"Thanks [Thank you (very much)]."とした。諸君が持っていた電子辞書の「ご苦労」の項に「ご苦労さま」を両者の英訳を掲載していることがその理由のようだった。
 だが、前者のfor your trouble は、何か特別な願い事 (favor) を叶えてもらったような場合に用いる改まったもので、この場合には大袈裟で不適切だ。英語では単に"Good.”と応えるだけで十分だ。ちなみに、前半の英訳は"I've finished my round. Everything's OK."となる。

今日は妻の命日だ。

f3imagex奈良時代の貴族で歌人の大伴家持は「夢の逢ひは 苦しかりけり おどろきて かき探れども 手にも触れねば」と詠んだ。今風に言えば、「夢の中での逢瀬とはなんと苦しく辛いものだろう。目覚めて愛しいあなたのいる辺りを手探りしてもその手にさえ触れることができないのだから」ということになろう。

 妻が亡くなってから今日で丸5年が経った。時の流れはほんとうに早いものだ。その間、私は大伴家持によるその一首に詠まれている悲しみを嫌と言うほど味わった。医者から妻の余命が半年から1年と宣告された時、妻本人は言うに及ばずだが、私たち家族の者が受けた衝撃は言葉では言い尽くせない。皆が茫然自失だった。


 それから妻が亡くなるまでの期間はあっという間だった。我が子たちの献身的な世話があって、妻は海外旅行を含め、さまざまなところに観光旅行に行った。残された一刻一刻を大切に生きた。何度も書いたことだf8が、私は私にとって妻という存在がこれほどまでに大きく貴重だったということを、妻を永遠に失うまでしっかりとは気づかなかった。妻が私のそばにいてくれて、食事・洗濯・接客を含め、それこそありとあらゆる面倒を見てくれていたことを“当たり前”のこととして毎日を送っていたからだ。

 妻が亡くなってから3年間はほとんど何も手が着かなかった。下着やimage靴下・足袋など、妻が肌に着けていたものを除けば、妻の持ち物の多くを処分できなかった。4年目に入った頃から、多少“思い切り”が良くなった。それでも、今もって処分できないでいる物も少なくない。それがあることで、妻との楽しかった想い出がいつもよみがえって来るからだ。《男の未練》というものだろう。

 私自身、妻が生前に子どもたちと行った場所に行ってみた。箱根ガラスの森美術館箱根ラリック美術館そこに展示してある“オリエント急行初島伊豆河津町桜祭り等々。本当は妻が生きている時に私f4が一緒をしてやればよかったのだと反省ばかりした。だが、我が子たちが同行してくれていなければ、独り旅などまず味気なかっただろう。


 あれから丸
5年。独りでいることにもだいぶ慣れた。それでも、夜の寂寥感・孤独感は言葉では言い表せない。これからいったい何年間、この思いを抱いて生きて行くのだろう。「大学を退職したら、あちこち旅行しようね」と言っていたことが果たせないままになった。これが抗しがたい私の運命なのだろう。色即是空、それを実感する…。

He that lacks time to mourn, lacks time to mend.― Sir Henry Taylor
   (哀悼の暇を有たざる者は悔恨の暇も有たず―サー・ヘンリー・テイラー)

【付記】今もって妻の命日に、妻が好きだった胡蝶蘭を供えて下さる出版社とその社員の方々、それに私の教え子たち、私はその方々に心の底から謝辞を述べたい。本当にありがとうございます。

「寛容」「不寛容」の議論では“ヘイトスピーチ”は消滅しない!

今朝の朝日新聞の「天声人語」には、同紙には珍しくいいことが書いてあった。以下の如し。

寛容という言葉は、他者を受け入れること、意見の違いを認めること、と辞書にある。そうありたいと願うが、人はしばしば排他的になる。ここに一つの難問が生まれる。不寛容に対しても、人は寛容であるべきなのか。(中略) いまの日本社会における不寛容といえば、在日外国人に対するヘイトスピーチだろう。人種差別を先導する憎悪表現である。国連の人種差別撤廃委員会は先月末、これを法律で規制するよう日本政府に勧告した▶政府はこれまで、表現の自由を理由に法規制には慎重だった。不寛容にも寛容で臨む態度と一応はみえた。勧告にどう対応するか。あろうことか自民党からは、ヘイトスピーチの規制と併せ、国会周辺でのデモや街宣の規制も議論するという話も出た。▶どさくさにまぎれて、市民の正当な言論、表現活動をも抑え込もうという発想ならとんでもない。そんな不寛容はかえって、市民の声をさらに高めることにしかならないのではないか。

 その通りだ。政府がたぶん舛添要一東京都知事、有田芳生参議院議員等の“反日的圧力”も手伝ってこれを法規制しようとしているのだとすれば、それは「かえって、市民の声をさらに高めることにしかならない」。だが、私は、これまでに何度も書いたように、この問題は「寛容」「不寛容を問題にしていくら議論しても解決はあり得ない。上には「在日外国人に対するヘイトスピーチ」と、“在日外国人”と呼称しているが、その点は明確にすべきだ。ヘイトスピーチと直結する“在特会”が言及しているのは一般外国人ではない。在特会は明確に「在日韓国・朝鮮人が所有しているとされる『在日特権』を無くし、普通の外国人と同等の待遇に戻すことを綱領として設立された団体である」と規定して行動している(Wikipedia「在日特権を許さない市民の会」)。だから、ヘイトスピーチを止めさせるには「寛容」「不寛容」などという抽象的な言葉は不要だ。在特会が主張し、また戦後の日本と日本人が“不可触”として来た「在日韓国・朝鮮人が所有しているとされる『在日特権』」の実態を調査し、その“不公平”“不公正”を正せば好いのだ。それだけのことだ。現代のこういう“いびつな”日本を創り出したことに朝日新聞を筆頭に反日的・売国的メディアの力が与(あず)かったことは否定できない。その意味で、朝日新聞が上記のような「天声人語」を書いても説得力はゼロなのだ(“天声人語”、嫌な命名だ!。 
  
 「“視野狭窄”の為政者たち―“ヘイトスピーチ”のこと」でも書いたことだが、法規制をしたところで、ヘイトスピーチの形態・形状が変わるだけで、問題の核心部分にある“ヘイト”(憎悪)は何も変わらないのだ。我が国の為政者を初め、日本国民はそのことをよく考えるべきだ。 

 『書経』だったかにあるではないか、「怨み豈(あに)明らかなるに在(あ)らんや。見えざるを是(こ)れ図(はか)」と。つまり、「他人の怨みは表に出て来るようなものばかりではない。むしろ見えざるところに積み重なっている。だからその見えざるところをよく注意せよ」ということだ。“ヘイトスピーチ”のみを押さえつけようとしても、何にも解決しないということにも繋がる考え方だ。舛添要一東京都知事、有田芳生参議院議員等、我が国の“ヘイトスピーチ規制擁護派”の政治家たちは、考え方が甘過ぎる…

四十にして猩如覆泙鼻砲Α鼻酋技佞良塢聞

よくもこれだけ次々と学校教師の不品行と言うか不行状というか、反社会的な行為が暴かれるものだ! 昨日、静岡県の清水町清水中学校では、40歳になる男性教諭・鈴木貴之容疑者が、勤務先の中学校の女子トイレで女子生徒を盗撮したとして、児童買春・ポルノ禁止法違反(盗撮による児童ポルノ製造)の疑いで逮捕されたそうだ(出典こちら)。40歳と言えば「不惑の年」、すなわち孔子が「自分の人生に悟りが開け、あれこれ迷わない」と断じた年齢だ。その年齢にもなった、しかも “教育者”の一人が、勤務先の学校の女子生徒を、あろうことか、女子トイレで盗撮するとは! ちなみに、国家公務員の中にも同類が少なくないようだ(詳細はこちらを参照)。

 教師の不品行・不行状についてはこちらこちらこちらこちらこちらなどでも書いた…。成ってはいけない人間が教師に成っているのだ…。

 

「将来、何をするつもり?」の英訳

i学生諸君約20名に表題にある「将来、何をするつもり?」を英訳してもらって、一番多かった答えはWhat are you going to do in the future?だった。日本語に沿った英訳だ。もちろん、これも通じる英語だが、英語を母語とする人たちなら、日常的には、in the futureを用いて表現するよりも、What are you going to do when you graduate from college [high school ]?大学[高校]を卒業したら〜?のように、具体的に言うほうを好むだろう。
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