2017年06月

小林麻央さんと「みたまうつしの儀」のこと

歌舞伎俳優・市川海老蔵 さんは、お連れ合い・小林麻央さんが亡くなったことを公表した際、「昨日夜に妻、麻央が旅立ちました」、「『愛している』と、彼女がその一言をいって本当にそれでそのまま旅立ちました」と、「旅立つ」という言い方を何度かなさった。日本人は昔から、こういう言い方をして故人と永訣したことを周囲に伝える。

 海老蔵 さんが使っておられた「旅立ちました」という慣用句は、たぶん、「亡くなった」という単純な意味であったのではないかと思う。なぜなら、海老蔵さんは「御霊遷し(みたまうつし)の儀」(遷霊祭)を執り行われたからだ。「御霊遷しの儀」とは、神道の通夜の儀礼だ。故人の魂を「御霊代(みたましろ)」(たとえば、故人の名を記した白木の札)に遷しとどめるためのもので、この儀礼を執り行った瞬間から故人の魂は遺体を離れ御霊代に遷り、神となるとされているものだ。したがって、その儀式が執り行われるまでは魂は「(独りで)旅立つ」ことはない。 つまり、故人の御霊は死後すぐに遠い幽冥(かくりよ)の神の御許(みもと)に「旅立つ」のではなく、五十日祭(仏教では通例四十九日)までは喪家(そうけ)に留まり、やがて産土(うぶすな)の神の導きにより幽冥の神の御許に向かうとされているのだ。

 今、「海老蔵 さんが使われた『旅立ちました』という慣用句は、たぶん、『亡くなった』という単純な意味であったのではないかと思う」と書いたが、そう考えなければ、神道における葬儀の式次第と故人の御霊との間に齟齬(そご)が生じるのだ。

b 神道では、故人の御霊は後姿を見せながら家族・親族と別れるのではなく、この世で愛したそうした人々を愛おしく思いつつ、後ずさりしながら去って行くと言われている。麻央さんはお二人のお子さんがまだお小さいから、きっと母として、いつまでもいつまでも、未練断ち難く、お二人のご多幸を祈りつつ、手を振っておられることだろう。また、海老蔵さんの妻として、これまた断ち切れぬ想いを抱きながら、後ずさりしつつ、海老蔵さんに別れを告げておられることだろう。そしてご家族・ご親族の皆さんにも…。こののち50年経過すると、麻央さんはご家族・ご親族の守護神、すなわち「祖霊(それい)」となられる。

【注記】こちらに海老蔵さん、麻央さん、お子さんたちの写真が数多く掲載されている。

短気は損気

短気は損気(たんき は そんき)」と、昔の人はうまいことを言った。「短気は 身を滅ぼす 腹切り刀」という“ぶっそうな”慣用句もある。「短気は自分の損に繋がったり、我が身を滅ぼしたりする」ということだちなみに、『広辞苑』は「短気は損気」を「短気を起こすと損をする」と説明している
pu 最近話題になっている例を採れば、秘書への暴言・暴力行為を報じられて、自民党に離党届を提出した豊田真由子衆院議員(42)がそれだ。報道されているところでは、元秘書が豊田氏の支持者たちに出す郵便物の宛て名を間違えたことに豊田氏が激怒したためらしい。だが、我が身の危険を感じた秘書がICレコードに豊田氏の暴言(と暴力を推測させる物音)を録音したことから、それが公表されるやいなや豊田氏の議員としての運命は暗転した(例:こちらこちらこちら)。「自分の支持者に出す郵便物の宛て名を間違えられれば誰だって腹が立つ」と豊田氏に同情を寄せる人もいるが、録音された豊田氏の信じがたい罵声(と暴行の物音)を聞く限り、常識的な《立腹》の域をはるかに超えている。その言動を判断材料とする限り、国会議員の資格はないと言える。有権者・支持者たちの多くも豊田氏の言動に失望・落胆したはずだ。その余りの凄さに衝撃を受けた人たちも少なくなかっただろう。「短気は損気」、間違いのない教訓だ。そう言えば、「(わざわ)いは口より出(い)」という言葉もあった。自戒しなければならない。

小林麻央さんが亡くなった。

f1歌舞伎俳優の市川海老蔵さん(39)のお連れ合いで、乳癌で闘病中だった小林麻央さん(34)が昨夜、都内のご自宅で亡くなったそうだ(出典例こちら)。麻央さんはご自分のブログに病状その他を書いておられ、書くことで元気になれると仰っていた。乳癌と診断されたのは平成26年6月だそうで、その後、入退院を繰り返されたようだ。一姫二太郎のお子さんたちがまだ5歳と4歳と言われているから、お子さんたちのことが“母”としての麻央さんの一番の心残りではないか。
 美しく華やかな現代的な感じの女性だった。この若さで人生を終えなくてはならないことが定めだったとは言え、ご親族の方々のお嘆きは想像を絶するものがある。

 私の妻は膵臓癌のほかに、小林さんと同じ乳癌も患って、持ち前の美しさ、ふくよかさとは無縁の姿になって独りで逝ってしまったから、海老蔵さんの今のお気持ちも、お子さんたちの大きな落胆と寂しさも分かるつもりだ。乳癌を含めた、人に悲しみを与えるこうした病気に対する効果的な治療法が、遠からぬ将来、発見あるいは開発されることを心から願っている。麻央さんのご冥福をお祈りすると共に、ご遺族の皆様に、ファンの一人として、心からのお悔やみを申し上げる。合掌。

【後刻記】麻央さんが海老蔵さんに掛けた最期の言葉が「愛してる」だったそうだ。お二人の信頼関係と愛情の濃密さとがよく分かる言葉だが、また切なくもある。

「適正英語」(Proper English) というものは存在しない?(続々)

Mr. Kamm は「適正英語」(Proper English) というものは存在しない」という記事の中で、「人々は話し方によってあれこれ言われるべきではない」と主張しているが、私は「その主張は、話し手と聞き手との間に誤解が生じない限りにおいてはそれでよいだろうが、誤解に繋がりかねない場合はそうは行かない」と書いた(こちらこちら)。分かりやすい例を挙げよう。たとえば、Mr. Kamm が

Paul told Tony that he had bahaved badly at the party.

と言ったとする。その場合、Mr. Kamm が言いたいことが、.僉璽謄ーで行儀が悪かったのはPaul 、 パーティーで行儀が悪かったのはTony、そのどちらだったのか、聞いている側の私には分からない。Mr. Kamm の頭の中では後ろの he がどちらかは分かって言っているはずだ。したがって、こういう曖昧な言い方を「人々は話し方によってあれこれ言われるべきではない」という主張の中に含められてはコミュニケーションがうまく行かなくなってはなはだ困ることになる。
 
   それでは々垉靴悪かったと白状しているのがPaulとした場合、Paul がTonyの行儀の悪さを非難しているとした場合、それぞれの意味を表すには、上の英文をどう修正すればよいだろうか。いつものように、旧山岸ゼミ生諸君(および一般読者諸氏)への宿題としたい。

食べ物と「プリン体」のこと

n先日の血液検査の結果、「尿酸値」が高くなっているので参考までにということで「尿酸値が高い方の食生活のポイント」と題されたプリントをもらった。それには「《プリン体を摂り過ぎないこと」と注意書きがあって、具体的な食品名とプリン体含有量が示されていた。《プリン体》とは何かの詳細についてはこちらに譲るが、要するに.廛螢鸞里脇以の内臓、肉や魚などに多く含まれている、▲廛螢鸞里梁燭た事を続けていると、尿酸値が上がり、その結果、尿路結石・痛風発作・肥満体質に結び付きやすい、ということらしい。

 プリン体は1日400を超えないことが望ましいそうだが、鶏レバーが1回量80gでプリン体が250咫豚レバー80gで228咫牛レバー80gで176咾世ら、焼肉屋で1時間ほど焼肉を楽しめば、すぐにプリン体の摂り過ぎということになる。プリン体の多いものは鶏レバー、豚レバー、牛レバー、牛ハツ(80g /176mg )、鶏ササミ(80g/123mg)などだ。

 魚貝類ではサンマ(およびその干物)、スルメイカ、カツオ、大正エビ、ズワイガニ、マグロなどがプリン体を多く含み、逆にシラス干し、イクラ、ワカメ、ヒジキ、モズク、コンブ、アサリなどがプリン体が少ない鶏卵は50g食べてもプリン体は0gである。野菜類でプリン体が少ないもの長ネギ、オクラ、シイタケ(生)、ハクサイ、タマネギ、エダマメ、モヤシ、ブナシメジ、カリフラワー、ホウレンソウ、ダイズ、ナス、カボチャなどだ。ちなみに、牛乳は200gを摂取してもプリン体は0gである。チーズは20gの摂取でプリン体1gだ。なお、白米は80g(ご飯1杯分)で21咫玄米80g(ご飯1杯分)で30gだ。伝統的な日本食が日本人の体に適していることは、科学的にも証明できそうだ。

「適正英語」(Proper English) というものは存在しない?(続)

Mr. Kammが主張するのは、 「二重否定の使用は完全に文法にかなっている」、firstlyでも firstでもどちらでもよい」、「hopefullyを(従来の『希望を持って』の意味ではなく)『望むらくは』の意味で使ってもよい」、「they(彼らは)』を単数総称代名詞として使ってもよい」、また「(伝統的なbetween you and meではなく)between you and I と言ってもよい」などと言うものだ。

 たしかに、日本語でも二重否定が一般化した例はある。たとえば、昔(昭和39年、1964年)、松尾和子とマヒナスターズが大ヒットさせた「お座敷小唄」の文句に「富士の高嶺(たかね)に降る雪も、京都先斗町(ぽんとちょう)に降る雪も、雪に変わりないじゃ」とあるが、これは「雪に変わりあるじゃなし」とするのが論理的・文法的だが、誤用が一般化してしまったMr. Kammはこれを誤用とは認めず《強調語法》と言うだろう。【幸いと言うべきか、最近ではこの歌は歌われなくなっている。】

 だが、昨日も書いたように、Mr. Kamm が主張するような語法(とりわけ二重否定、between の後ろに代名詞の主格を用いた例)が少なからず混じる学位論文など、未修整のままでは、論文としては絶対に受け入れられないはずだし、またMr. Kamm自身も、自分が書く論文ではそういう語法は回避するはずだ。ちなみに、「『適正英語』(Proper English) というものは存在しない」と題したこの記事も標準英語で書かれている。 

 Noneという代名詞は、たとえばNone comes / None isのように単数形と解釈しようが、None come / None are のように複数形と解釈しようが、話者・書き手の想起する人数や集合体の在り方で、両方ともあり得る。同じことが、The committee is agreed. / The committee are agreed.のような対比にも言える。だが、Mr. Kamm の「人々は話し方によってあれこれ言われるべきではない。」という主張は、話し手と聞き手との間に誤解が生じない限りにおいてはそれでよいだろうが、誤解に繋がりかねない場合はそうは行かない。そういう例はいくらでも挙げることができる。とりわけイギリス人とアメリカ人の会話では、とんでもない誤解が生じる恐れ・可能性は拭えない。その例は枚挙にいとまがない。具体的には、私が訳偏した『えい・べい語考現学―どこがどう違う?』に譲るが、同じ英語でも変種 (varieties) によっては、「人々は話し方によってあれこれ言われるべきではない」などと主張することは出来なくなるのだ。やはり、話す相手(=聞き手)・場所・環境・内容などによっては「適正英語 (Proper English)を無視することは出来ない。

【付記1】
firstly, first の関係について言えば、前者は理由や論点などを述べる場合の第1項目を言う時に多く用いられるが、一般的にはfirst, second(ly), third(ly), ... last(ly)のほうが好まれ、特にアメリカ英語では-ly のない語形のほうが好まれる。Mr. Kammのようにfirstlyでも firstでもどちらでもよい」と断言するのは現実的ではない(そういう言い方をすることを彼は「知識をひけらかすペダンチックな人」とか「えせ学者」と非難するだろうが)。
【付記2】
they(彼らは)』を単数総称代名詞として使ってもよい」という指摘など、“古証文の今出し”の感がある。その点はOxford English Dict. をひもとけばよく分かる。

「適正英語」(Proper English) というものは存在しない?

日刊経済新聞のThe Wall Street Journal はかつて、英紙「ザ・タイムズ」の記者・コラムニストMr. Kamm (本名 Oliver Kamm) によるThere Is No Proper English’―Never mind the grammar scolds. If people say it, it's the right way to speakと題する記事を掲載した。日本語訳も出ている(こちら)。そのタイトルは「『適正英語』というものは存在しない」だ。だが、その主張は、「文法的なうんちくの根拠を過去の書籍に求める時代はとうに過ぎ去った」、「知識をひけらかすペダンチックな人によって提起される文法的な規則は、決して実際の文法規則ではない。それらの規則はせいぜいのところスタイル的な慣習にすぎない」というもので、その主張を正当化するために挙げている例はたとえば、次のようなものだ。 

二重否定の使用(ローリング・ストーンズの「I can’t get no satisfaction」)は完全に文法にかなっている。意味を強調する用法だ。われわれが「標準英語」でこのような形式の二重否定を使わないのは、単に慣習にすぎない。

firstly」と書くべきか、あるいは「first」と書くべきかについてなぜ思い悩むのか。どちらも正しいのだ。文全体を修飾する副詞として「hopefully(望むらくは)」を使っても良いし、「they(彼らは)」を単数総称代名詞として使っても良い。また「between you and I (あなたと私の間で)」と言ってもよい。えせ学者たちはこのような構文を禁止すべきだと主張するが、その主張は一般的な使用法という証拠によって支えられていないのだ。

もちろん、われわれが文法、スペリング、あるいは句読法で誤りを犯す可能性はある。しかし、誰もが、あるいは高い教育を受けた言語の使い手の大多数が、同時期に同じ過ちをする可能性はそれほどない。一般的な使用法であれば、それがその言語の在り方なのだ。

我々は長年にわたって抜きがたく誤った2つの信仰に束縛されてきた。第1に、非標準的な用語は「不適切な」英語であるという信仰。第2に、リテラシー(読み書き能力)は、分離不定詞(例えば「to boldly go (勇敢に進む。訳注=スタートレックの冒頭ナレーションで有名)」は禁止すべきだといった規則に立脚しているという信仰だ。 

人々は話し方によってあれこれ言われるべきではない。それに言語学上のばかげたでっち上げの迷信を頭にたたき込むべきではない。  

 執筆者 Mr. Kamm 
による主張は上記点にまとめられる。だが、よく見ればわかるように、また彼が言うとおり、語法の成否はその全てが「単に慣習にすぎない」ものだ。彼はまた、文法書・語法書を書いた人たちを「知識をひけらかすペダンチックな人」、「えせ学者」と軽蔑するが、私に言わせればそれは言い過ぎだ。第一、そういう「ペダンチックな人」や「えせ学者」と揶揄されるような人たちはもう1世紀も1世紀半も前に消滅しているはずだ。昨今の文法書・語法書では、まずまちがいなく、Mr. Kamm が挙げるような例は「文法的に間違い」と切り捨てられるのではなく、スタイル、スピーチレベルの問題として、それはそれなりにきちんと評価されているはずだ。「they(彼らは)」を単数総称代名詞として使うことも、広く受け入れられ始めてすでに久しい。
 したがって、今どき、「知識をひけらかすペダンチックな人」、「えせ学者」と軽蔑するほうこそ“時代錯誤”と憫笑されるだろう。それに、「言語学上のばかげたでっち上げの迷信」と極論するが、“でっち上げの迷信”のほとんどは“論理”や“論理的観点からの正しさ”を問題としており、その限りにおいて“ばかげた”ものでも“でっち上げた”ものでもない。Mr. Kamm が“反発”しているのは、伝統的な文法家彼の言葉を借りればペダンチックな人」や「えせ学者が、言葉遣いを“論理”で押し通そうとするその強引さに対してではないのか。


 Mr. Kamm が挙げるような例は全て、現代英語に存在するものとして認めるし、それらの用法を軽蔑することはない同じことは日本語にも言える━たとえば、伝統的な「押しも押されもせぬ」を最近では「押しも押されぬ」と言う人が多くなり、それも許容される語法になって来ている。だが、だからと言って、「『適正英語』というものは存在しない」とは思わない。いや、それは厳然として存在するMr.Fromm は「hopefully(望むらくは)」を使っても良い」と主張するが、その通りだ。だが、その主張が認められるのは、hopefully という副詞の伝統的な意味である「希望を持って、希望して」という意味と誤解されないだけの文脈が担保されていることが前提となる。つまり、「適正な文脈を持った英語」が必要なわけだ。

 すなわち、私が言う「適正英語」とは、Mr. Kamm が挙げるような語法例、「単なる慣習上の言語現象」の例というよりも、「適正に」使われなければ、意味が曖昧になったり、読み手・聞き手に誤解される恐れが十分に出て来るような場合だ。たとえば、I failed the exam. I don't know why I studied for it.のような例だ。これは話し方、書き方に注意しないと、I don't know why I studied for it.の部分に2つの意味解釈が可能になって、読み手、聞き手を誤解させてしまう恐れがある。I don't know why I studied for it.なら「何のために勉強したのか分からない」となるが、I don't know why, I studied for it.とポーズを置いて発音したり、書いたりすれば、「なぜ落ちたのか分からない。勉強したのに」という意味になるからだ。この曖昧性を回避するためには「適正な(proper)」な英語を話したり書いたりしなければならない。

 
あるいは、すでに述べたように not only but also における also の有無と意味との関係(こちら参照)、She told me this morning that she was leaving for London. のような文の場合に that を省略することで生じる意味の曖昧性(こちら参照)など、例を挙げればきりがない。話し手・書き手が自分が伝えようとする意味が聞き手・読み手に正確に伝わらないのであれば、つまり、自分の意図した意味とは異なった意味に解釈されれば、それはやはり文法的に、あるいは修辞(学)的に「proper適正)ではない」と言えるのだ。 そういう意味の曖昧性を回避するために我々は文法 (grammar)を学ぶのであり、「適正な英語(Proper Englishを身に着けようとするのだ。ただし、急いで付け加えるが、Mr. Kamm の「二重否定は文法に敵っていて正用法だ」という主張は、「その言葉づかいが日常的で普通のものとして受け入れている人々の社会の文法」という条件付きだ。その語法を回避あるいは忌避する人々や社会集団が存在することも否定できない事実だ。以上のことから、Mr.Kammの主張はきわめてミスリーディングなものだと言わざるを得ない。

 【付記】Mr. Kamm は英語母語話者のようだから分かるはずだが、たとえば、The plan was not approved, because of the absence of electricity and water in the vicinity.のような文の場合、because の前のコンマは必須のものだ。仮にこれがなければ意味はどう変化するか。そのことが意識されて書かれた英語を「適正な英語(Proper English)」と私は呼ぶ。
 「二重否定は立派な英語だ」、「分離不定詞も問題ない」などという
Mr. Kamm の主張は、したがって、私に言わせれば、英語母語話者たちが《生きている時代》、《所属する社会集団・階級》、《受けた教育程度》、《就いている職業》などによって異なるものであるから、「適正な英語(Proper English)というものは存在しない」という主張は一面的・表層的なものだということになる。
 ちなみに、Mr. Kammが言う「
 人々は話し方によってあれこれ言われるべきではない。」を実行して、二重否定やbetween you and I などが少なからず混じる学士論文・修士論文、ましてや博士論文が合格する確率は、未修整の場合には、100%のうち1%もないはずだMr. Kamm がその論文の主査であれば話は別だろうが。第一、Mr. Kammはこの記事を「適正な英語」(Proper English)で書いているではないか。結果的に、この記事は「記事としては面白いが、言語事実を正しく反映してはいない」としか言えないものだ。


【後刻記】こちらこちらで Mr. Kamm の上記記事内容が「馬鹿げている」と否定されている。

七夕の短冊に書かれた願い

散歩の途中、近所の某大型スーパーマーケットに立ち寄ったら、その入り口に七夕の葉竹が4、5本立ててあって、それに飾る短冊に願い事を書いてくれるように来店客に呼びかけていた。見ると、すでに多くの短冊がぶら下がっていた。興味を引かれて、近づいて見てみると、思わず微笑んでしまうような可愛いものから、かなり切実そうなもの、同情したくなるようなものまで、いろいろな願望が書いてあって、読んでいてとても楽しかった。誤字混じりのものもあったが、それはそれで面白かった。9枚ほど携帯電話で写して来たので紹介しよう。

 Keep your dreams in your heart so that every heartbeat may remind you convert them into reality.

t2t3t4t5t6t7t8t9t10

今月の定期検診に行って来た。

t先週5日(月)、「心臓超音波検査」と「心電図検査」(トレッドミル運動負荷)を受けるためにN病院に行って来た。トレッドミルを使っての検査はけっこうつらかった。残念ながら、医師が要求した [期待した] 運動の(たぶん)8割くらいしか達成できなかった。

 その検査結果を聞くために、また、いつもの血液検査と担当医の検診のために、今朝一番で、同病院へ行って来た。「心臓超音波検査」、「心電図検査」、「血液検査」の結果、特に大きな異常は認められないが、心臓の動きが昨年の手術後の検査の時よりもやや劣っているのが認められると診断された。年齢のせいで心臓が徐々に弱っているとも考えられるし、検査時に一時的 に観察された症状かも知れないので、次回、もう一度「心電図検査」と「一般撮影検査」を行ってみましょうということになった。
 
 今となっては、医師から何を言われても驚くこともないし、心配に思うこともない。願わくは命の終わりの日まで、我が国の英語辞書の改善・改良に少しでも貢献していたい、そう思うのみだ。あとは神ならぬ身では、私自身がどういう最期を迎えるのか、見当さえつかないが、出来るだけ我が子たちに面倒を掛けない終わり方をしたい、そう願っている。

   帰りに、私が入院していた病棟のナースセンターに立寄って、何人かの看護師さんたちと言葉を交わして来た。1年前の私のことをよく覚えていて下さったことが嬉しかった。そのあと、ラウンジでお茶を飲みながら、私の年代の男性患者のお一人と20分ばかり雑談をした。
 

形容詞 popular の意味の曖昧性

bpopularという形容詞は「ポピュラー(な)」として日本語に入っているから、小学生でも知っている語だ。だが、真面目な英語学習者にとっては、必ずしも平易な語ではない。なぜなら、時々、日本語に直そうとすると不明瞭な場合があるからだ。たとえば、popular novel という言い方。通例 は「大衆小説」、「通俗小説」と訳しているが、文脈によっては「人気のある小説」、「人気の出ている小説」という解釈も可能だ。したがって、たとえば、「この映画はイギリスのある没落貴族が書いた同名の人気小説 に基づいている」を英訳すれば This movie is based on the popular novel  of the same title written by a hard-up member of the British aristocracy. となる。逆に、そこにある the popular novel  を日本語にすれば、「大衆 [通俗] 小説」ともb2訳せる。「人気小説」=「大衆[通俗]小説」ではないからだ。書物の題名、たとえば Loren D. Estleman : Writing the Popular Novel や  J. M. S. Tompkins: The Popular Novel in England 1770-1800 などの the Popular Novel  は明らかに「大衆 [通俗] 小説」と訳せるものだ。

 popular English というような平易な言い方も、解釈は必ずしも平易ではない。文脈によってはこの popular plain, non-technical (平易な、専門知識を必要としない)という意味になるし、文脈によっては low colloquial, careless (卑俗な、ぞんざいな)という意味になる。どちらの意味で popular English と言っているかは文脈が決めてくれる。ちなみに popular definition という言い方も不明瞭だその理由は旧山岸ゼミ生諸君への宿題としておく

イギリスでの新聞戸別宅配制度のこと

イギリスの新聞のことを調べていたら、こちらの「イギリスの新聞一覧」に次のように書かれているのに出くわした。

日本と異なり戸別宅配制度はない為、駅の売店や小売店(エージェント)での販売が中心である。また再販売価格維持がない為、価格競争が起きることもある。1990年代にはタイムズが口火を切って、安売り合戦が行われた。

n 原則としては、その通りだ。だが、「戸別宅配制度はない」と断定して、したがって、「駅の売店や小売店(エージェント)での販売が中心である」と結論づけるのはミスリーディングだ。なぜなら、近所の販売店に依頼すれば、有料だが、自宅まで配達してくれるからだ無料で配達してくれるところがあるかどうかは未詳。昔、私がイギリスで生活した時には、毎日自宅まで配達してもらっていた。ただし、新聞代と配達代は配達員には手渡さなかった。店主の話では、やはり「安全上の観点から」ということだった。配達員が《ネコババ》するからというのか、それとも集金人が集金の帰り道で強盗に遭う危険性があるからというのかについては店主は明言をさけた。多分、その両方からだろう。

昨年の今日、冠動脈バイパス手術を受けた(続)。

第1回、第2回の入院でつらかったことは少なからずあったが、その中で3つ、今でも私から消え去らない《激痛》と《羞恥》とがある。

bp2 1つ目(こちら参照)は、点滴静脈注射を受ける際に、看護師が行ってくれる、左手首あるいは右手首への注射針の留置作業で、私の血管の場所が探しにくかったことと、担当してくれた男性看護師の技術が“未熟”だった(?)こととから、注射針の留置に7回も失敗し、結局は特別の器具を持ち込んでようやく成功した。そのたびに私は激痛を味わった。シーツを血で真っ赤に染めたことは言うまでもない。女性看護師の1人からも同じ失敗と痛みとを経験させられた。彼女の場合は4回失敗し、5回目で成功した。
 
 2つ目は、書きにくいことだが、尿道カテーテルを挿入する時の激痛だ。この時の痛みは、それを経験した者でなくてはとうてい分からないだろうこちらに経験談が、こちらに挿入図が掲載されている。局部麻酔でもしてくれるのならよいが、麻酔は用いずにその作業を行うために、私が経験した痛みは形容 しずらい。これを抜く時の“違和感”も名状 しがたい。この作業を30代半ばあるいは後半と思われるK医師(女性)は、当然の医療行為として、淡々とこなされたわけだが、患者である私は“優しい”K医師が、その時ばかりは“鬼”にさえ思えた!

 3つ目は、これはさらに書きにくいことだが、手術後、ICUと一般病棟とで“便意”(特に大便)を催した時のことだ。小便は尿道に直接的に管を通しているので心配はなかったが、大便は看護師の世話にならざるを得なかった。ICUでは手術前から何も食べていなかったから、食事を摂るまでは何の心配もなかったが、食事を済ませたあとで便意を催した時には、正直なところ、大いに困った。「車椅子かウォーカーを使えば、トイレまで行けますから、連れて行って下さい」と懇願したが、トイレはICUの外にあって、衛生上の理由から患者を室外に連れ出すことは出来ないと、固く断られた。古稀を過ぎた男でも男には違いない。うら若き女性看護師の皆さんに老体の“汚物”の処理をしてもらうことは出来れば避けたかった。だが、私のそうした“羞恥心”は私の側だけが持っているもので、女性看護師のみなさんは自分たちの仕事、看護師の役目として、そういう作業に躊躇(ためら)いはなかった。
 
 同じことが、一般病棟に移り、病院食を口にするようになってからも起こった。私の世話をしてくださった看護師のSさんは、数十人いる女性看護師の中でも群を抜いた長身の美人で、年齢もまだ23、4だった(もっと若かったかも知れないし、もっと年取っていたかも知れないが)。「便意を催したので、トイレに連れて行っていただけますか。自力で行けますから」と懇願したが、「まだ担当の先生のbp1許可も出ていませんし、自力でトイレに行ける状態ではありませから」と許可はもらえなかった。「差し込み式の便器を使用して下さい」としっかりとした口調で言われ、その通りにせざるを得なかった。この時は私の人生の中で、もっとも“羞恥”を感じた瞬間だった。本当に恥ずかしかった入院中の“羞恥心”は捨てた方がよいのだが…。それだけに、私の“汚物”を処理し、私の下半身を清潔にして下さったS看護師に心から感謝した。涙が出るほどうれしかった。こういう思いを私と同様に、ほかの患者さんたちも感じるのではなかろうか。看護師の存在とその仕事は本当に尊い、患者にとってはありがたいものだと思う。私の妻も、病状が悪化してから、私に排便の始末をしてもらうことを、女性としてさぞや辛く、悲しく、情けなく思ったことだろう。

 以上の3点が、退院後、1年近くが経過した今も鮮明 に覚えている《激痛》であり《羞恥》である。それまで《当たり前だと思っていたこと》、つまり《健康に恵まれていること》がどれだか有り難いことか、金銭に代え難いものであるかということを嫌というほど味わった。

昨年の今日、冠動脈バイパス手術を受けた。

昨年の今日、N病院で冠動脈バイパス手術を受けた。手術に当たって下さったのは心臓血管外科医のI、K、N、C、Yの5名の医師で、その時の私の病名は「心筋梗塞」だった。
 第1回の入院は 5月6−20日の15 日間で、体内に溜まった大量の水を抜くことと、手術に向けての精密検査を行うことが目的だった。その時の担当医は循環器内科のK医師で、疾患名は「うっ血性心不全虚血性心疾患」だった。

o 第2回 は6月3日の入院、最終的な検査(血液検査、心電図検査、尿検査、一般撮影検査等)を行ない、上記したとおり、7日の手術となった。執刀医、麻酔医、内科医、看護師、総計14、5名の方々が私に関わってくださった。手術自体は全身麻酔が効いているので、患者である私 には、何がどう進んだのかは全く分からなかったが、息子のこちらでの報告 にあるように、朝の9時頃から18時過ぎまでかかった。手術自体 は約7時間、全体では約10時間弱とのこと。ICU(集中治療室)で目が覚めたのは手術から3日後のことだった。術後の感染症を防ぐために、そこには5日間いてから一般病棟に移った。入院は3週間で、退院日は23日だった。(ICUの看護師の皆さんの“プロ精神”には敬服あるのみだった。)

 この2回の入院で思ったこと。それは「生きているのではなく、生かされている」ということだった。このことを実感した。いや、痛感した。大学生だった時代(昭和38 [1963]−42 [1967]年)、大学院生だった時代(昭和42 [1967]−昭和47 [1972] 年)に私が同じ病気を患っていたなら、私 は間違いなく死んでいただろう。当時 はまだ我が国には冠動脈バイパス手術は一般的ではなo3かったはずだからだ。医学面のことはまったくの素人だが、こうした医学の進歩に貢献してくださった外科医の方々に、心から感謝したい。

 何度も書いたことだが、私の最愛の妻は膵臓癌で平成21[2009]年9月3日に亡くなった。膵臓癌が「癌の中の癌」、「沈黙の殺し屋」と言われ恐れられて、今のところまだ早期発見法、手術法などが確立されていない。それだけに、私のほうが医学の恩恵を多く受けられたということだ。

 第1回の手術のあと、私は《遺書》をしたため、遺された者たちが戸惑わないように身の回りの整理もした。したがって、第2回の手術で手術台に横たわった時、私は死を覚悟していた。一般病棟に移ってからは、何度も“不整脈”に苦しみ、そのたびに主治医の世話になったが、正直なところ、私の心は穏やかだった。死への恐怖も心配も何もなかった。その理由は簡単で、「生あるものは皆死ぬ」という当たり前のことを自覚できていたからだ。特に、妻を先に逝かせていからはその思いを強くしていた。古稀まで生きれば十分だ(あとは余禄だ)。

o2 しかし、優れた医師団のお陰で、私は命を長らえた。大量の輸血を受けたことも忘れられない。だから、余計、「生かされている」という思いを強くしている。朝、目が覚めて、《生存》を確認するたびに、私は私に「余禄の人生」を与えてくださった諸先生(とりわけ執刀主任のI 先生)・看護師・薬剤師・血液ドナーのみなさんに感謝する。そうした《生》をありがたく全(まっと)うさせていただこう。病院関係者を除けば、私が一番感謝しているのは、我が小家族の者たちだ。入院中はもちろんのこと、入院前後にも本当によくしてもらった。

【注記1】写真は YouTube および Wikipedia より拝借。
【注記2】昨年は上記のとおり、私が入院中だったので言及できなかったが、今から5年前の今日(6月7日)、我が同僚で学友の原口庄輔先生が亡くなった。時の経つのは早いもので、原口先生とお別れしてからもう5年という年月が経った。先生には、生前のご厚情・ご厚志・ご指導に対し、改めて心からの御礼を申し上げると共に、先生のご冥福をお祈りする。合掌。

《法的責任》と《道義的責任》

俳優の橋爪功氏(75)の長男で、同じく俳優の橋爪遼容疑者(30)が覚醒剤取締法違反(所持)の疑いで2日に逮捕されたことは周知のとおり。それに関して、ビートたけし氏 (70) は、3日に出演したテレビ番組で「30だよ。大人なんだから親父に責任はないよ。」と発言したそうだ(出典こちらこちら)。報じられている詳細は次のとおり。
たけしは「30だよ。大人なんだから親父に責任ないよ。親父が有名人だからって、ずっとインタビューに答えないといけないのか、ってのもないし。悪いのはせがれで、バカなんだから。これほど芸能界が麻薬でワーワーワーワー言われてる時に…困ったもんだよ」と“2世タレント”の不祥事で、親が謝罪する風潮 にクギを刺した。
w たしかに、成人した息子や娘が何らかの犯罪に手を染めて、警察 に逮捕されたような場合、「大人なのだから、当人の責任だ。親父 [おふくろ] に関係ない。」と言える。だが、それはあくまでも《法的責任がない》という意味のはずであって、《道義的責任もない》という意味ではないはずだ。
 ビートたけし氏がどういう意味で「親父に責任はない!」と発言したのかは上の引用文からだけでは分からない。仮に「全ての責任は容疑者本人にある」という意味が含まれているとすれば、私はそれは違うと思う。
 それを押し通せば、たとえば、あらゆる形の犯罪(たとえば、殺人罪、死体遺棄罪、傷害罪、誘拐罪、強姦罪、凶器準備集合罪)に関与したことが立証されたような場合にも、容疑者・犯人の親は「大人である本人がやったことだ。私には無関係だ。」と言うことになり兼ねない。日本の文化では、現在でもまだそういう神経でいられる親はいないのではないか(将来ともにそういう神経が一般的にならないことを願う)。

 過日、性的暴行で逮捕された高畑裕太容疑者(24)の場合にも、母親である俳優の高畑淳子氏(62)は記者会見を開いて裕太容疑者に関して涙ながらに謝罪した。「そこまで平身低頭でやらなくても…」と感じるところもなくはなかったが、あれが日本の一般的な親の姿勢だろう。また、一般国民が容疑者の親に対して望む、あるいは期待する謝罪の一形式だろう。

 繰り返すが、私は今回の橋爪遼容疑者の場合、著名な親である橋爪功氏に《法的責任》はまったくないが、その養育に全面的に関わって成人を迎えさせた親としての《道義的責任》はあると思っている(ただし、橋爪功氏が息子の覚醒剤取締法違反・所持に何ら関与していないという前提だ)。《法的責任》と《道義的責任》とは区別すべき責任だ。昨今、この両者が混用されているように思えて仕方がない。

【後刻記】フリーアナウンサーの小倉智昭氏(70)も、「息子のために父親が自粛するなんてことはあっちゃいけない」と異論を唱えたそうだ(出典こちら)。要所を引用。

 小倉は5日放送のフジテレビ系「とくダネ!」で、「30歳にもなって覚醒剤で捕まった息子のために、父親が自粛するなんてことはあっちゃいけないと思うよ」と憤慨。「同じ芸能界で仕事をしているからかもわかりませんが、親が責任を感じて仕事を自粛しなければいけないって、それが当たり前のようになっているけど、僕は違うと思う」とコメントした。

「a panacea for 〜」の用法

インターネット上には "a panacea for cancer" " a panacea for asthma" "a panacea for toothache"などと
いった言い方の英語を見ることがある。そしてそのような言い方はごく普通の言い方になっている。
 おそらく、英語を母語とする人たちの中にも気付いていない人が多いのではないかと思うが、panacea とは「万能薬」(a cure for all ailments) ということだから、"a panacea for cancer [asthma / toothache]" のような、単一種の病気に言及する言い方は好ましい用法とは言えないだろう。この語を使うとすれば、"a  panacea for all diseases" のような言い方が適切だ。たとえば、次のような使用法だ。

Is there a panacea for all diseases. Yes, there is. What is it? If we observe nature we can realize the truth 
that animals that live in natural environment do not fall ...
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