本ブログのアクセス解析によると、読者がよく訪れる記事の1つに2015年01月26日付けの「びっこを引く』を差別表現とすること」がある。そのアクセス解析の結果を見ていて、「びっこ」という言い方で思い出したことがある。

b 私が小学校に上がった頃(昭和26年[1951年])の思い出だ。私は山口県宇部市で生まれ、小学校に上がる数か月前に小野田市(現・山陽小野田市)に引っ越した。そこでの生活が始まって間もなく、友だちになった周囲の子供たちが「びっこさん」と呼んでいる“おばさん”がいることを知った(お連れ合いは戦死したとも聞いた)。「びっこさん」は50歳前後で独り暮らしをしている女性だった。その名のとおり「びっこ」だった。たしか、左足が右足よりも目立つほどに短かった。だが、周辺の子供たちに"圧倒的な人気”があった。学校の行き帰りに、「びっこさん」のうちの前を通る子供たちは必ず「びっこさん、おはよー!」、「びっこさん、行って来ま〜す!」と声を掛けて行った。それに対して「びっこさん」は必ず、「おはよー! 行ってらっしゃ〜い!」と応えた。

 だれが「びっこ」という言葉を《差別語》だと断定したのかは知らない。だが、私に言わせれば、その人(たち)の心の奥底にこそ《差別意識》が渦巻いているのだ。だから、「臭いものにはフタ」ということになる。また、「差別だ! 差別だ!」と大声を上げ、騒ぎ立てることが《カネ》に繋がることを鋭い嗅覚で見つけた一部の人間たちが、その後《差別》を金儲けの道具にしたと思われる。世間が「差別だ」、「差別語だ」と騒げば騒ぐほど対象になっている人たちは自意識を持たざるを得なくなる。

 「びっこさん」自身が「びっこさん」と呼ばれることに、本当のところどう感じていたかは知らない。だが、推測を交えて言えば、そう呼ばれることを「びっこさん」は少しも嫌がっていなかった。むしろ周囲の子供たちがそう呼んで近づいて来てくれることを喜んでいた。その証拠に、「びっこさん」のうちは、戦後のものの無い時代に、「びっこさんのうちに行けばお菓子(駄菓子だが)がもらえる」ことも手伝って、いつも子供たちのたまり場になっていた。私たち子供も、「びっこさん」本人も、《びっこ》という語が《差別語》だなどと思ってはいなかった。なによりも、「びっこさん」本人が
自分のことを(「おばさん」と自称するのと同じように)「びっこさん」と呼んでいた事実がある。

 以前、何度か書いたことだが、この世に存在して悪い言葉などというものはない。言葉は必要があって生まれて来るものだ。大事なことはその言葉をいつ、だれが、どういう文脈で、どんな心持ちで、誰に対して使うかということだ。「教授」という肩書でさえ、軽蔑しようという気持ちがあれば、たとえば、「まあまあ、ご立派な教授さんでいらっしゃること」、「Fランク大学の教授はさすがに違いますねえ…」などとなる。この世に存在する言葉で、また、《差別語》にならないものはないのだ。

 私は中学2年を終えた時点で東京に出たから、「びっこさん」のその後については何も知らない。だが、たぶん、周囲の子供たち、大人たちから敬愛されながらその後の日々を送ったであろうことは推測に難くない。「びっこさん」、「びっこさん」、あれから60数年が経過した今、そうつぶやいても、少しも侮辱的に響かない。むしろ、「びっこさん」が懐かしく思い出され、胸が熱くなる。
 (そう言えば、「びっこさん」は子供たちのために、当時大人気の『冒険王』、『少年クラブ』、『少年画報』など、何点かの漫画雑誌を買ってくれていた。どのうちも貧しかった時代だ。そんな雑誌が買える経済的余裕のあるうちはむしろ少数派だったから、子供たちはそのことを喜び、「びっこさん」のうちに足繁く通っては、むさぼるようにそれを読み、楽しんだ。私自身、それらの雑誌で、小学校1、2年次に、難しい漢字を多く学んだ。例:雷電爲右衞門、谷風梶之助、赤胴鈴之助、等々

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【付記】
びっこ」は差別語だから「足の悪い人、足の不自由な人」と言えなどというのは噴飯物でしかない。私は昨年の心臓バイパス手術の際、左足の血管を30センチほど切り取って、それを心臓に転用するための手術を受け、そのために、しばらく「びっこを引いて」歩いたが、その事実を知らない人たちは私を「足の悪い人、足の不自由な人」と形容したのだろうか。私に言わせれば、これも滑稽だ。「足の悪い人、足の不自由な人」を使って差別表現を作文することなどいとも簡単だ。たとえば、次のような差別表現を作文することができる。

(例1)「足の悪い人は得だよな、身障者で割引があるんだから… 俺もなりたいよ…」
(例2)「足の不自由な人はみんなの同情が集まっていいねえ、道路もトイレも配慮して作ってもらえるんだから」

 この2例の
足の悪い人、足の不自由な人」と、私の頭の中にある「びっこ」の概念とはかなり大きく異なるのだが…  「めくら」は差別語だから、「目が不自由な人と呼べ」と言われたら、私も「めくら」と同じことになってしまう。私は「目が不自由」だから長年眼鏡を掛けて来たのだから(これなども噴飯物だ)。

 大事なことは、「びっこさん」に示した周囲の子供たちの信頼・友愛・敬意だ。その信頼や友愛や敬意がなければ、全ての言葉は差別語になり得るのだ。