日本の名句・名言

やがて死ぬ 気色は見えず 蝉の声 (続)

生きとし生けるものの命を大切にしている割には、お父さんは海釣りで魚たちをたくさん殺してるね。」と息子にからかわれたことがある。そのとおりだ。道端にいる蟻(あり)や蚯蚓(みみず)や鳥などにも心を配る私が、こと海釣りとなると《熱くなる》のは事実だ。

 だが、釣り上げた魚たちを炎天下の堤防に放置して干乾しにするようなことはない。これは《外道(げどう)》(=目的外の魚)を釣り上げた釣り人たちの中にtしばしば見られる行為だ。半農半漁で生きて来た多くの日本人の《文化的DNA》の中には、山や畑で獲れたもの、海や川で獲れたものを食べて生きて来たという歴史的事実が存在している。野菜や果物、魚介類を全く口にせずに生きて来た日本人はいない。魚はそうした人間たちに大自然から贈られたものだと思い、釣り上げた魚たちは全て料理をして、感謝の気持ちと共に美味しくいただく。炎天下の堤防に放置して干乾しにするぐらいなら、上手に釣り針をはずして、その魚たちを海に返してやったほうがよい。
 
  そんな《理屈》をこねながら、相変わらず釣り好きなのだが、大切なことは《命》をいただくことへの《感謝の気持ち》だろう。それがなければ、人間だけが《傲慢な生き物》になってしまう。

【付記1】心臓バイパス手術を受けてからは、まだ釣りに行くだけの健康を回復していない。早く海釣りに行きたいものだ。
【付記2】「荘子」(内篇 逍遥遊)に「蟪蛄(けいこ)は春秋(しゅんじゅう)を知らず」(蝉は夏だけの短い寿命で春も秋も知らない;人生も同じく短い)という言葉があるのを思い出した。

やがて死ぬ 気色は見えず 蝉の声 

やがて死ぬ 気色(けしき)は見えず 蝉の声 ― 芭蕉 
  c私の散歩道で、あれほどうるさく鳴いていた蝉たちの声が、いつの間にか聞こえなくなった。きっと皆、その命を全(まっと)うしたのだ。成虫になって1か月(俗説では1週間)も生きることのない短命な蝉たちは、自分たちが、短命であることを知らずに、全身の力を振り絞って、大きな声で鳴く。愛(いと)しくもあり、切なくもある。

 幼い頃、私は、何も思わずに、蝉たちを捕って遊んだ。蜻蛉(とんぼ)の尻の先を1センチほど切って、そこにマッチ棒を突き刺して、空に放つという《残酷》なこともした。マッチ棒の代わりに線香を突き刺すこともあった。蛇を捕まえては、その皮を剥(は)いで、それを乾かして小銭入れや財布に入れたこともある現代では「非科学的だ」と笑う人が多くなったが、昔は、蛇の皮を小銭入れや財布に入れておくと《カネ》が貯まると信じられていた。いつの頃からか、そんなことが全く出来なくなった。これは人間以外の全ての生き物に対しても同様だ。
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 散歩の途中、樹の、人間が手を伸ばせば届く程度のところにとまって(鳴いて)いる蝉を見つければ、必ず「もっと高いところに行きなさい。」と声を掛けて、手にしたステッキの端でちょっとその尻を押してやる。そうされた蝉たちは、たいていは樹のもっと高いところに飛んで行く。命を全うせずに人間(の子供たち)に捕獲されたくないからそうするのだ。

 蟻たちが働いている姿を見ると、踏みつけないようにしている。サンドイッチでも持っていれば、米粒大にして撒いてやる。散歩の道すがら、蚯蚓(みみず)を見つければ、水気のある場所にいればそれでよいが、そうでなければ彼らを安全な場所に移してやる。

 鳩や雀たちが遊んでいれば、やはり「ご飯、食べられてる?」と声を掛ける。釣り人たちがいる川辺や海辺で鳥たちを見かけると、「人間が残して行った釣り針に引っ掛かってはダメだからね。」と言ってやる。そうした行為は全て、仏陀の「一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ。」という祈りに少しでも忠実でありたいという願いからだ。

 我が家の4頭の愛犬たちに対しても同様だ。マロンはもうこの世にはいないが、残った愛犬たちへの家族の想いは篤(あつ)い。特に、老衰が目立ってきた15歳のハッピーに対しては、その名のとおり《ハッピー》な余生を送らせるために、皆が毎日、心をこめて世話をしている。

 不思議なものだ。幼い頃、若い頃にはまるで感じなかったことをこの歳になってしみじみと感じるようになった。そこが、芭蕉翁が詠った蝉と人間である私の大きな違いだろう。

【付記】弘法大師(空海)は、「三世(さんぜ)の観を作(な)すといえども また常に自性(じしょう)を見るには及ばず」と言われた。これは、「過去・現在・未来を瞑想し、観察して、現在の生き方を洞察することは仏教の大切な修行だが、それよりも大切なことは自分自身を見つめ直し、自分に本来的に備わっている仏性を見出すことである」という意味だと思うが、凡夫の私は、大師の境地に少しなりとも近づきたいと願って、事ある毎にこれを唱えている。

好いた水仙、好かれた柳…―忘れられていく名句

suisen4年生のA君とBさんはいつも一緒だ。私にも覚えがあるが、若い時には好きな異性といつも一緒にいたいものだ。ほほえましい。先日、教室棟のラウンジで缶ジュースか何かを飲みながらおしゃべりをしていた二人に、いつも仲がいいね。好いた水仙、好かれた柳って古い言葉があるけど、君たち、知ってる?と訊いた。二人は、知りません。どういう意味ですか?と言った。今、もうこの言葉の意味を知る若い人は、4、50代を含めて、ほとんどいないだろう。明治生まれの私の母はこの言葉が好きだった。これは相思相愛の男女の仲を水仙と柳にたとえたもので、一種の言葉遊びだ。もちろん、水仙が男性で、柳が女性だ。

 知らないと言えば、某大学院の院生諸君(女性3名)と雑談をしていた時だ。“美人”ばかりだったから、いずれがアヤメ(菖蒲)かカキツバタ(杜若)というところだねと私が言うと、その中の一人が、先生、それどういう意味ですか?と訊いて来た。ほかの2名も聞いたことがない文句だと言った。アヤメもカキツバタも我が国に自生する多年草で、両者共、美しく、しかもよく似ていて、素人目には区別がつけがたい。そこから、いずれも優れていて選択に迷うとか甲乙つけがたいというような時、とりわけ“美女”に関連して言う慣用句だ。
 その院生諸君に理解できなかったもう1つの文句は男やもめにウジ(蛆)が湧くだった。これは、院生の一人が、先生、奥様を亡くされてからの生活はいかがですか?と訊いたことに対して私が答えた文句なのだが、院生諸君にはその意味が理解できなかった。この文句には普通は女やもめに花が咲くという文句が添えられる。私が言いたかったのは、《男が連れ合いを亡くすと無精で汚い生活になる》と言われるが、私もそういう生活を送っているということだ。(「女やもめ…」なら、逆に、「身ぎれいにしていて、周囲の男たちにちやほやされる」という意味になる。)

 私の家庭では父も母もこういう文句を日常的によく口にした。そのせいか、私にとって、こうした文句は大いに馴染みがあるものなのだ。日常生活の中の“言語芸術”が消滅したり貧弱になったりすることをまことに残念に思う…。

竹久夢二の「宵待草」を英訳した。

先日、課題としてゼミ特修生諸君に出した竹久夢二の詩歌「宵待草」を英訳した。こちらにそれを掲載しておいた。

やまと歌は人の心をたねとして…

古今和歌集の序に「やまとうたは 人の心をたねとして よろづのことのはとぞ なれりける」と出て来る。「和歌は人の心を種としていろいろなことばとなったのだ」ということだが、まことに味わいのある言葉だ。特に、「人の心をたねとして」というところがよい。
 私の岳母(故人)は古今和歌集万葉集といった古典にきわめて明るい人だった。家庭の主婦でありながらとは言っても、もとを正せば、某藩の城代家老の末裔だ)、万葉集の勉強のために、東京の新宿で催された犬養孝教授の連続講座に、数年間、毎週出かけていた。教授は明日香村の名誉村民であり、孫娘(つまり私の娘)に明日香と命名したのも、教授を尊敬していた岳母の進言による。我が亡妻もその母の影響を受けて、まことに古典通だった。古典に関する限り、私など岳母や亡妻の足元にも及ばなかった。

  周知のように、万葉集は我が国に現存する最古の和歌集であり、さまざまな階級の人たちの詠んだ歌を集めたもので、4500首以上も収録されている。時代的には7世紀後半から8世紀後半にかけて編纂されたようだ。信憑性には疑わしい点も残るが、一説には、万葉集とは「(よろづ)の言のめたもの」が語源という。

 宮廷に関する歌、旅先で詠んだ歌、自然や四季をめでた歌、特に男女がお互いの消息を問い交わす相聞歌(そうもんか)人の死にまつわる挽歌等々が、短歌(5、7、5、7、7の5句)、長歌(5、7を続け、最後に5、7、7で結ぶ)などの形式で見事に詠われている。まさに、「人の心をたねとして」成ったものばかりだ。

 今まで読んだ歌の中では、私は「笹の葉は み山もさやに さやげども 我は妹思ふ 別れ来ぬれば」、「佐伯山 卯の花持ちし 愛しきが 手をし取りてば 花は散るとも」などが好きだ。
 古典に詳しいわけではないが、こうした和歌を口ずさむと、「やっぱり日本人だなあ」という気持ちになるから不思議だ。 

【付記】日本文化の水準の高さ・素晴らしさをすぎやまこういち氏と水島総氏が語り合っている(こちら)。貴重な動画だ。

富 士 山 ―石川 丈山作

                      

                                   Fuji

                                       富 士 山
                                             石川 丈山  (1583-1672)
            
                         仙客来遊雲外巓  神龍栖老洞中淵
       
                 雪如紈素煙如柄  白扇倒懸東海天



                                                      

また常に自性(じしょう)を見るには及ばず

9eae8c80.gif三世(さんぜ)の観を作(な)すといえども 
             また常に自性(じしょう)を見るには及ばず。

これは弘法大師(空海)のお言葉である。過去・現在・未来を瞑想し、観察して、現在の生き方を洞察することは仏教の大切な修行だが、それよりも大切なことは自分自身を見つめ直し、自分に本来的に備わっている仏性を見出すことである。おおよそそんな意味だと思う。凡夫たる私にはこの歳になっても成し難いことであるが、大師が、「自性を見る人は常に仏を見る人である」と教え諭してくださっていることだけはよく分かる。日暮れて道なお遠し…

オリンピック選手と名言

古い本を整理していたら、その中の1冊から1枚の紙切れが落ちた。それには、

世界一になるために 世界一の努力をしただけだ。 田口信教

と書いてあった。田口信教(たぐち・のぶたか)とは、1972年、ミュンヘンオリンピックにおいて、100m平泳ぎで優勝した田口信教選手のことだと記憶する。多分、テレビ番組か、何かで同選手が言ったのを私がメモしておいたものだろう。名言だ。

 オリンピックに参加した選手で、名言を残した人は数多い。中でも私が好きなのは、私が学生の頃の東京オリンピック(1964年)で金メダルを獲得した、マラソンランナーのアベベ・ビキラ(Abebe Bikila)が残した言葉だ(日本人ではないが)。彼は、

強敵は一緒に走るランナーではなく、私自身だった。そして私はその戦いに勝った。

と言った。まさに、「自分の最大の敵は自分自身だ」(Your greatest enemy is yourself.)ということだろう。

 時代を反映した悲愴感の漂う名言もある。かの前畑秀子(まえはた・ひでこ)が残した、

負ければ死んでお詫びをするつもりでした。

など、その例だろう。1932年、ロスアンゼルス大会で、オーストラリアのデニスに破れて二位になった前畑は、4年後の1936年にベルリン大会で優勝するまで、毎日2万メートルを泳いで雪辱を期したと言われる。

 名言と言われるものは、作ろうとして出来るものではなく、何かを為す過程で、あるいは何かを為し得た時に自然に出て来るものだろう。

花は散りて根にあれば

winter garden花は散りて根にあれば 又来ん春も頼みあり
                                                      ―謡曲 「苅萱」

冬枯れしたような庭の木々を見るたびに思い出す名文句だ。今、枯れたように見える桜木も、来る春を期して静かに、確かに息づいている。“いのち”の不思議だ。

  一休禅師の「とし毎に  咲くや吉野の さくら花 樹を割りてみよ 花のありかを」の句や、イギリスのロマン派詩人P. B. Shelley作 “Ode to the West Wind ”(「西風の賦」)の末尾に出て来る If Winter comes, can Sprinig be far behind? (「冬来たりなば、春遠からじ」に通じるものがある。

門松はめいどのたびの一里塚

門松は めいどのたびの 一里塚 
        馬かごもなく とまりやもなし
                                              一休

頓知で知られた“一休さん”、すなわち臨済宗の高僧・一休宗純 (1394-1481) の残された言葉である。意訳すれば、「正月の門松を立てるたびに人間は死へと近づいて行く。乗り物なければ泊まる宿もない死出の旅路の始まりなのだ」ということになろう。正月が来るたびに思い出す名句であり、私が“覿面(てきめん)の今”を大事にするもとになったものである。

人 問はゞ 露と答へよ 合点か

問はゞ 露と答へよ 合点か 

          … 一茶

 「人がもし人生の意義を問うならば、それは露のごとき果敢(はか)なきものと答えよ。合点(がってん;分かった)か。」ということ。かの一茶が残した名文句である。この文句を思い出すたびに、「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」と詠んでこの世を去った豊臣秀吉がなぜか連想される。

春をのみ待つらん人に

花をのみ待つらん人に 山里の
    雪間(ゆきま)の草の春を見せばや
                       ― 藤原家隆

昨日の利休の歌と共に思い出されるのが、鎌倉時代初期の公卿で歌人であった藤原家隆(1158-1237)の上の歌である。これは『南方録
』の中で、千利休の「わび」の心を表す歌として紹介されている。「開花ばかり待つ人に、山里の残雪の間から顔を出す若草の春を見せてやりたいものだ」という意味らしい。「」という語は「(若芽が)張る」に掛けたもののようだ。これを「わび」の心を表す歌と見做したということは、利休が「わび」を冬の終わりから春の初めにあるものと考えていたと解釈できる。いずれにせよ、素人の私には詳細にはわからないが、素人なりに「素晴らしい」と感じられる一首である。
 

その道に入らんと思ふ心こそ

その道に入らんと思ふ心こそ
     我身ながらの師匠なりけれ
                ― 千 利休

利休百首sadoの劈頭(へきとう)に出てくる歌である。茶道には暗い私であるが、学問を志した40年以上も昔、大学院生の頃に出合い、それ以来、常に念頭に置いてきたものだ。何事においても、その道を学ぼうとする者は、まず、志を立てなければならない。志を立て、精進を誓えば、その時点で自分自身の心の中にすでに立派な師匠ができている。そんな意味だと理解して、大切にしてきた歌である。
 私のように、辞書学 (lexicography) という概念さえ一般化していなかった時代に辞書に興味をもった者にとって、この歌ほど私を勇気づけ、自信を持たせてくれたものはない。もちろん、我流に陥らないように、周囲の人々の教えを乞わねばならないことも多かった。そういう場合には、同じく利休の次の歌が私を導いてくれた。


はぢを捨て人に物とひ習ふべし
        是ぞ上手の基なりける
                ― 千 利休

 この歌を見聞きするたびに、「はいっときの恥、聞かぬは一生の恥」という言葉を思い出す。今の歳になっても、知らないことが多過ぎる。「我以外、皆師」という言葉の意味もよく理解できる。
 先週の土曜日に大学院のオリエンテーションを行い、私も自分に課せられた務めを果たしたが、院生諸君に接しながら、千利休の上掲2首を思い出していた。

筆に跡を留めざりけり

(いい)すてし (その)言葉(ことのは)
        外(ほか)なれば
筆に跡を留めざりけり

                                      ― 道元禅師

 

昨日、私が勤務する大学で、4年生の卒業論文発表会があった。発表者各人が「言葉の重要性」について熱く語っていた。それを聞きながら思い出したのが、道元禅師の上の歌である。

 禅宗の基本的立場を示した「不立文字(ふりゅうもんじ)を詠ったものである。「真理は私たちが口にするその言葉の奥にあるものだからzazen、書かれた文字にそのあとを留めることはない」という意味だと思う。換言すれば、「悟りは言葉によって書き示すことはできないから、言葉や文字に囚われてはならない」ということになろう。英語文化の「初めに言葉ありき」とは別の考え方だ。

 「不立文字」からすぐに思い出されるのが、同じく禅宗の「教外別伝(きょうげべつでん)という言葉だ。「悟りとは言葉や文字で表せるものでなく、心から心へと直接伝えられるものだ」という意味だと理解している。

露命を無常に風に任することなかれ。

今年はいつもの年よりも多くの“喪中”の葉書が届いた。恩師はもちろんどなたもご存命ではないが、一昨年、昨年、今年と何人もの先輩が亡くなった。まさに色即是空である。
 曹洞宗で重んじられている経の1つに「修証義」があるが、その中に次のような一節がある。

 生死(しょうじ)の中に善生最勝(ぜんしょうさいしょう)の生(しょう)なるべし。最勝の善身(ぜんしん)をいたずらにして露命を無常に風に任(まか)することなかれ。無常憑(たの)み難し。

 これを我流で理解すれば、「現在の我々に与えられている生死の中に、善い生を求め、最高の生を心がけるべきだ。最も優れ、善良なる身となることをおろそかにしてはならない。はかない命を無常の風に任せてはならない。」という意味かと思う。

 同経には、「(しょう)を明(あき)らめ、死を明らむるは、仏家(ぶっけ)一大事の因縁なり。」という1文がある。この場合の「明らめる」は「諦める」の原義のはずである。現代的には、「諦める」とは「(意のままにならないことを仕方がないと)断念する」という意味であるが、仏教的には、「真実を明らかにする」という意味であったはずだ。色即是空であることを明らかにすることは「諦観(ていかん) 」に直結する。
 正直なところ、私自身、「生死のなかに善生最勝の生」を心がけて来たとは言い難いのだが、色即是空の真実だけはよく分かる年齢になった。「露命を無常に風に任する」ことのないように、この秋には、『アンカーコズミカ英和辞典』 (学習研究社)を世に送った。

勝るを羨まざれ、劣るを卑しまざれ

勝るを羨(うらや)まざれ、
             劣るを卑(いや)しまざれ

ふと、こんな言葉を思い出した。他人と自分とを比較して、自分よりも勝れていれば、それを羨み、自分よりも劣っていれば、それを侮(あなど)ることのないように、常に自分の“本分”を尽くせという意味だろう。実行の大いに難しいことだが、そうありたいと願っている。

花は哀惜に散り

sakuramatsuri花は哀惜に散り
    草は棄嫌に生う 
        ― 道元禅師

惜しい惜しいと思っているうちに、私の周辺では、桜が散った。反対に、嫌だな、嫌だなと思っているのに、庭の雑草は生い茂ってゆく。道元禅師による、上の名句も、そんなことを詠ったものである。人間世界もそれに似て、惜しみて余りある花のごとき人々は去り、残忍なことや不愉快なことは日常続発する。嗚呼!

 

 

花いっとき、人ひと盛り

sakura花いっとき、人ひと盛り       

いつどこで覚えたのか忘れてしまったが、私の好きな言葉だ。ついこの前、満開だった我が家の近所の桜はすでに散った。人の華やかな時期もほんのいっときのことだ。一世を風靡した故・植木等氏は、自分に仕事が来なくなった頃、多忙の日々が続く、かつての付き人だった小松政夫氏に、「俺ももうひと花咲かせたい」と言ったことがあるそうだ(通院中の某医院で読んだ某誌より)。人生の無常を思わざるを得ない。



生死に罔(くら)し

生まれ生まれ生まれ生まれて
   生(しょう)の始めに罔(くら)く、
         死に死に死に死んで
                死の終わりに罔し
                                                                      ― 空海(弘法大師)

われわれ人間は数え切れないほどの生・死を繰り返しているが、生きるとはどんなことか、死ぬとはどんなことか、本当の意味はまるで分からずにいる。そんな意味だと思う。還暦を過ぎてなお悩み多き私など、大師のこの言葉にいつも慰められ、救われている。

心身脱落

shinshin表題の「心身脱落」は「身も心も一切の束縛から解放されて絶対的な自由を獲得すること」(『広辞苑』)であり、鎌倉初期の禅僧・道元の言葉である。私のような凡夫が自我を捨て去り、仏になり切ることなどできない。それだけは確かである。しかし、それに限りなく憧れることもまた事実である。名句の1つと言えよう。
 左の色紙は、私の大学・大学院時代の恩師で、S.T.コールリッジ研究の大家・桂田利吉博士(故人)が、私に下さったものである。先生は「禅の宗教性と生の哲学と場所的論理を開拓」(前掲書)した哲学者・西田幾太郎を尊敬しておられたが、ご自身が深く禅の研究をなさっておられた。
 この語について、ひろさちや氏は『仏教と日本人』(徳間文庫)で次のように書いておられる。

 自分でなく仏が坐禅するのが「心身脱落」だ(中略)。心身を完全に脱落することなく、そこに少しでも自我が残っていれば、“禅”をするそのことが自我を利する行為(“自利”)になってしまうだろう。それでは小乗の仏教である。そんな“禅”では、道元禅師にとって大事な「衆生済度」が吹っ飛んでしまう…。だから、道元禅師が“禅”に踏み切るためには、どうしても「心身脱落」が必要であった。そういうふうに言えないか…。(56-7頁) 

学人の第一の用心

daruma学人の第一の用心は まず我見を離るべし
                ―道元『正法眼蔵随問記』

「学問の道を志す者が一番注意しなければならないことは、自分の考え方・見方が絶対だと思わないことである」という意味だと思う。私のような凡夫は、とかく自分の物の見方・自説に固執しがちである。できるだけそうならないように努めるために、折りあるごとにこの名句を反芻している。

地獄は一定すみかぞかし。

いずれの行(ぎょう)もおよびがたき身なれば、
     
とても地獄は一定(いちじょう)すみかぞかし。

『歎異抄』に出てくる親鸞聖人の言葉である。「どんな善行も為すことができない私だから、私の住処は地獄こそが相応しいはずだ」という意味かと思う。聖人の言葉を引き合いに出すのもおこがましいが、罪業多き我が身が地獄行きであろうことはほぼ間違いない。それゆえに、善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」と言われた聖人の“絶対他力”をひたすら信じて何とかここまで生きて来たし、今後も同様に生きて行こうと思っている。

虚仮不実の我が身にて

浄土真宗に帰すれども、
 
真実の心はありがたし。
   
虚仮不実(こけふじつ)の我が身にて、
            清浄の心もさらになし。
親鸞

昨日に続いて、親鸞聖人の言葉である。「私は阿弥陀仏を信仰しているが、その心には真実など微塵もない。嘘偽りの我が身であり、清らかな心など全くない」と解釈すべきものであろう。蛇蝎(だかつ)巣食う我が身にとって、きわめて無礼な話だと思うが、聖人の言葉は大きな慰めになる。

悪性さらにやめがたし

悪性さらにやめがたし。

  こころは蛇蝎(だかつ)のごとくなり。

                親鸞

 

昨日の教授会で、私は或る人の或る発言に対して、年甲斐もなく声を荒げて同僚諸氏の顰蹙を買った。還暦を過ぎてなお、人間が出来ていないことの証拠である。そういう自分の未熟さを“正当化”する時に思い出すのが、親鸞聖人のこの言葉だ。
 「私の
ような性悪人間はほかにはいないであろう。私の心の中には、人が恐れ嫌う蛇蝎(ヘビ・サソリ)のような魔性が潜んでいるようだ」という意味だと理解している。
 聖人のような修行を積まれた方でさえも、こういうことを言っておられるのだ。まして、私のような不徳の人間なら、その蛇蝎の数はさらに多い、そんなふうに思っては自分自身を“慰撫”している。まことに無礼な話だ。
 それでも七夕には、「思い来し恋を尽くさむ文月の 七日のよひは 
吾も悲しも 読人不知」(万葉集)というような古人の歌を思い出す風流の持ち合わせは幸いにしてある。

「親の恩…」

親の恩 歯が抜けてから 噛みしめる 読人不知

 誰の句であろうか。うまいことを言ったものだ。たしかに、昨今、「親の恩」などという言葉はあまり聞かれなくなった。しかし、今日の自分の存在は親、そのまた親、そのまた親というように、多くの人々との縁によって可能になったものだ。そう思えば、親とはやはりありがたい(「親」の名に値しないような人たちのことがしばしば新聞・テレビなどの話題となってはいるが…)。
 「歯が抜けてから噛みしめる」 私などこの言葉どおり、“歯抜け
”になってしまった。そして、今は亡き親を懐かしみ、有難く思い、且つ、子の親としての自分の存在と来し方を省みる日々である。

今更に何を語らん

今更に何を語らん言もなし諸行無常の法の深きは

                    

「七里ガ浜哀歌」(三角錫子作詞、インガルス作曲)と言えば、明治43年1月23日、逗子開成中学校の生徒など12名がボートで遭難した七里ガ浜の悲劇を歌った歌である。「真白き富士の根とも言う。上に引用した歌は、一時に4人のご子息を失った徳田正蔵氏が鎌倉材木座の長勝寺(日蓮宗)の「四霊之碑」の裏面に刻んだものである。父親としての正蔵氏の悲しみには筆舌に尽くしがたいものがあったと推測される。末のお子さんはいまだ小学生(逗子小学校)であったという。冒頭の歌を、悲しみの底で詠まれた諦観の名歌、と言っては不謹慎であろうか。葉山から江ノ島辺りをドライブするたびに、この悲劇的遭難を思い出し、徳田氏の深い悲しみを想う。合掌。

 

参考:逗子開成中学校・高等学校

「真白き富士の根(連載)」

 

 

浜までは…

浜までは海女も蓑きる時雨かな 瓢水

 大学1、2年のころ、高神覚昇著『般若心経講義』(角川書店)を通じて知った、江戸中期の俳諧師・滝野瓢水(ひょうすい)の句である。一人の雲水(うんすい)が、瓢水の高風を慕って、彼の茅屋(あばらや)を訪れた時、瓢水は折悪しく、風邪薬を取りに外出していた。雲水は、「瓢水は生命の惜しくない人間だと聞いていたが、案外の人だった」と言い捨てて、そのまま帰って行った。帰宅した瓢水は、その話を聞き、「まだそんなに遠くは行くまい、どうかこれを渡してくだされ」と言って人に1枚の短冊を手渡した。その短冊に書かれていたのが、この一句である。
 「やがては濡れる海女さえも、浜までは時雨を厭うて蓑をきる」と言う意味である。雲水は我が身の浅薄を後悔し、再び瓢水を訪れて一晩中語り明かしたという。
 大学生だった私は、この句に強く惹かれた。「やがて死ぬ身の人間も、あの世とやらの入り口までは、“蓑”をきる必要があるのか、そうであるなら、その場合の“蓑”とはどのようなもの[何]か」、そう考えるようになった。結局は「覿面(てきめん)の今」(4月5日分の記事参照)を生き抜くしかないと思った。

「独り居る」こと

客に接するは独り処るが如く

        独り処るは客に接するが如し 釈宗演

 

34歳の若さで、鎌倉円覚寺管長となった臨済宗禅僧・釈宗演(1859-1919)の名言である。

 人はだれでも、自分ひとりでいる時は、心身共にゆったりとして、くつろいで過ごす。そのような気持ちで客をもてなそう。また、客と一緒の時は自分も自然と心が改まり、身支度も相手に失礼のないように整える。そのように、ひとりでいる時も、気を張って過ごしたいものである。そういう意味らしい。難しいことだが、そんな「自然体」でいられたらどれほどよいだろう。

夜半に嵐のふかぬものかは

あすありと 思ふこころの あだ桜 

       夜半(やは)に嵐の ふかぬものかは 親鸞

 

親鸞がわずか9歳で、すでに人生のはかなさを実感し、悟りの境地に達していたであろうことを示す、名句中の名句である。
 平安末期、治承5年(1181年)、幼い親鸞は、京都東山の青蓮院(天台宗比叡山延暦寺の京都五ヶ室門跡の一つ)に、第三世門主・慈円大僧正をたずね、出家を願い出た。しかし、慈円はその幼さゆえに、時を待つように諭す。その時、親鸞が反歌として詠んだのがこの句といわれる。

 人生は、明日がある、明日があると思っていると、その心があだとなって、満開の桜が夜の嵐で散ってしまうように、はかなく過ぎ去って行くものです。

 
その心を「我が心」とした慈円は、親鸞の出家を許し、得度させたと言われる。

 時代も、個人差もあるであろうが、今で言えば、小学3、4年生の子供である。それが人生のはかなさを知り、自らの行く道を仏道に求めたことを思えば、私など、感動に胸が高鳴る。
 還暦を過ぎてなお、迷いの多き毎日に、悟りの門口にさえ立てないでいる私などには、過去にも、現在にも、とうてい詠めない句であるが、行き先のほうが短くなった人生であるから、親鸞聖人のこの名句を改めて心に強く刻みつけて
毎日を生きて行きたい。

  
付記1:青蓮院は慈円の時代にもっとも栄えたと言われる。また慈円は歴史哲学書「愚管抄」の著者としても著名。

 付記2:私に親鸞聖人のこの名句を教えたのは、今は亡き私の母(明治37年生まれ)である。尋常小学校しか出ていなかったが、親鸞聖人に深く帰依し、浄土真宗に関わる経のほとんど全てを諳(そら)んじていた。お陰で、私は物心ついた頃から「門前の小僧、習わぬ経を読む」ことができた。 

なお行く先は山路なりけり

越えなばと 思ひし峰に 来てみれば
          
 なお行く先は
山路なりけり 読人不知

 
ずいぶYamamichiん昔、日めくりカレンダーか何かで覚えた句だが、誰のものか調べないまま今日に至っている。いずれにせよ、いい句だと思って来た。私が分け入った学問の世界、とりわけ辞書編纂の世界も同様である。非力であることも手伝って、努めれば努めるほど、峰は高く、深く、長くなる。
 「この道より 我を生かす道なし この道を歩く」と言ったのは、たしか武者小路実篤だったと思うが、私の場合、「この道より 我を生かす道なし」というほどの堅い覚悟で始めたわけではない。しかし、それなりの決意で
始めた以上、あとに続く若い人たちの英語学習の道が少しでも楽になればという思いで「英語辞書道(みち)」を開拓してきた。そして多分これからも、精魂の続く限り、その山路を歩いて行くことであろう。

宿はと問わばいかが答へむ

勅なれば いともかしこし 鶯の
     宿はと問わば いかが答へむ
                      紀内侍

平安時代中期、第62代・村上天皇の頃、御所清涼殿の前の梅の木が枯れてしまったことがある。天皇はそれに代わる名木を求めて方々を探させた。そのうち、西の京のとある家に名木の名にふさわしい紅梅を見つけた。その家の女主と交渉すると、一首の和歌を詠んで、それをその枝に結い付けたのちに、運ばuguisuせた。それには、「勅なれば いともかしこし 鶯の 宿はと問わば いかが答へむ」と書いてあった。素人読みをすれば、「勅命とあれば、それはまことに名誉なことでございますが、この枝を頼りに飛び来る鶯たちから《私どもの宿はどこに行ったのでしょうか》と尋ねられた時は何と答えてやればよいでしょうか」という意味になろうか。
 村上天皇はこれに大いに恥じ入って、その名木を女主のもとに返したと言われる。女主は紀貫之の娘・紀内侍(ないじ)であった。人々はその名木を「鶯宿梅(おうしゅくばい)と呼んで、内侍の優しさと歌の才を称えた。この梅が後に移植され、その“ひこばえ”として今日に伝わるのが、禅の名刹相国寺十三塔頭(金閣寺、銀閣寺等)の一つ林光院の梅だといわれる。
 前回の太田垣連月尼の詠んだ和歌同様、 自らが意図したかしなかったかは別として、結果的に、当人の深い教養や人間性が和歌の形をとって、相手に自らの理不尽さ・身勝手さなどを悟らせる効果を持ったことになる。まことにもって優れた和歌である。

同じ御国の人とおもへば

あだみかた かつもまくるも哀れなり
                     同じ御国の人とおもへば 

                     太田垣連月尼

鳥羽伏見の戦いで勝利を得て意気盛んな、薩長兵から成る官軍が、三条大橋を渡ろうとしていた時である。島津公と西郷隆盛の前に、一人の年老いた尼僧がゆっくりと歩み出て、一葉の短冊を差し出した。西郷はその尼僧に声をかけ、その素性を聞き、差し出された短冊を受け取った。西郷がそれを受け取り、見てみると、それには「あだみかた 勝つも負くるも哀れなり 同じ御国の人とおもへば」と書いてあった。これが西郷隆盛の心を打ち、江戸城の無血開城に大きな役割を果たしたと言われている。
 flag-nippon連月尼のflag-kankoku句になぞらえて日本・韓国の「竹島問題」を詠むなら、まさに、「日韓のいずれが かつも哀れなり 同じ亜細亜の国とおもへば」である。「人や経済、文化の交流がこんなに広がっている隣国同士なのに、《拿捕》とか《侵略》とか言う過激な言葉が飛び交うのはなんとも情けない」(朝日新聞、4月23日、社説)と私も思う。「侵略戦争で確保した占有地について権利を主張する人たちがいる」という、国家指導者である盧武鉉大統領が、韓国民の先頭に立って民族感情を煽るような印象を与える発言をなさることにも大いに残念な思いを抱く。竹島でも独島でもよいが、この島を日韓友好の架け橋・シンボルとして、永遠に両国の中間点に置くことはできないのだろうか

人生という書物

人生という書物に再版はない
            
読人不知
 
 
私はこれまで数多くの書物を世に問うて来た。学習用英語辞書も何点か混じる。それらには誤植もあった。誤記もあった。自分で気付いたものもあれば、他人から指摘されたものもある。そのたびに丁寧に訂正して来た。何度も恥じを掻いた。もちろん、訂正することのない書物を最初から刊行することが理想であるが、神ならぬ身の悲しさで、なかなかそうはいかない。それでも、著者・監修者としての社会的責任から、分かり次第、発行元からの了解があり次第、必ず訂正して来た。したがって、再版の時には、問題点は解決されていて、私としてもほっとする。
 ところが、1つだけ再版のできないものがある。それが「人生(という書物)」である。再版することができればどれほどよいであろうか。後悔したことや、望んでいたにも拘わらずに実現できなかったことなども、再版人生があれば、今度は後悔も失敗もなく送ることが出来るだろう。
 そんなことに気づいてから、私はますます「覿面(てきめん)の今」(4月5日分参照)の意味を実感し、毎日を真剣に生きている(つもりである)。
 アメリカの詩人Henry W. Longfellow (1807-82)も言っている。
Act, Act in the living Present!(覿面の今にあるは実践のみ
と。

一事をこととせざれば

一事をこととせざれば 

     一智に達することなし 道元

 

辞書作りに関わり初めた頃から、常に座右の銘として来た言葉で、道元禅師のものである。 

 「一つの事柄に全力を集中して、それを完遂することができなければ、いっさいの真実を見極める智慧を持つことはできない」という意味に解釈している。
 「いっさいの真実を見極める智慧」など、いまもって持てないでいるが、はっきり言えることは、辞書作りという一事を通じて、“英語の世界”がかなり鮮明に見えるようになってきたことである。日本人が国際語(の1つ)としての英語とどう付き合っていけばよいかということもけっこうよく分かるようになった。“日本語の世界”も同時に見えるようになった。
 そんな自覚が持てるようになった今、気づいてみるともう還暦を1年以上も過ぎている。光陰矢の如しとはよく言ったものだ。残りのほうが少なくなった人生だが、「一智に達する」ための努力を続けたい。

樹を割りてみよ 花のありかを

sakuraとし毎に  
  
咲くや吉野の
  さくら花 
  
  樹を割りてみよ 
 
       
 花のありかを
             一休

一人の山伏が、仏法の在り処を詰問した時、一休和尚は「胸三寸に在り」と答えた。すると、その山伏は「然らば、拝見いたさう」と言って懐中から小刀を取り出して、和尚に詰め寄った。和尚は一首の和歌を以ってこれに答えた(高神覚昇『般若心経講義』より)。深みのある和歌である。
 
昨夕の朝日新聞「ニッポン人脈記」には、三重県松阪市にある本居宣長記念館前館長・高岡庸治氏(79)が、批評家の小林秀雄から聞き取ったという、桜に関する次の言葉が紹介してあった。これも味わいのある言葉だ。

芸術だなんて言っても桜を超えることはできまい。

桜の美しさは活字で表現出来るものではない。
     僕も前は活字にしようとしたが、もうやめた。

 
ちなみに、
同紙には、岡本かの子の次の句も紹介してあった。

さくらばな いのち一ぱいに 咲くからに 
                  生命(いのち)をかけて わが眺めたり。

 やはり、この季節、は文句なく美しい。
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