日本語ノート(表現・成句)

「左回り」、「左巻き」などのこと

s1今どきの若い人たちにそんなことを言えば一笑に付されるかも知れないが、明治生まれの私の父母は共に、左回りの階段、とりわけ螺旋(らせん)階段を嫌った。その影響を受けて、嫌いこそしないが、私も左回りの(螺旋)階段に、多少、抵抗を感じる。
 s2父母の実家は代々農業を営んでいたために、縄を綯(な)うことはごく日常的な作業だった。その作業は普通は右綯(みぎない)だが、凶事の場合に使う縄を綯う時には左綯(ひだりない)だった。死人が出て埋葬地に納める場合には、寺や墓地などで左回りに3度回ってから埋葬した。そんなわけで、昔の人たちにとって、左回りは回避すべき行為だった(地方によって異なるかも知れないので、全国的に当てはまることかどうかは定かではない)。
 左回りを忌避する習慣は、おそらく、左が神格者の位置する場所であり、普通人が立ったり、回ったりしてはならない場所だと考え、そちらに立つことを戒(いまし)めた結果、生み出されたものだろう。【画像はこちらから拝借】

「引き出物」今昔

hki大東亜戦争(第二次世界大戦)が始まる4年前、美濃部達吉の天皇機関説事件のあった昭和10[1935]年に作られた映画「人生のお荷物」(五所平之助監督)をYouTubeで観ていたら、初老のサラリーマン・福島省三 (斎藤達雄)の三女の結婚披露宴のあとの模様が映し出された。来客は手に手に大きな「引き出物」の折り箱を携えている。
 今でも「引き出物」という言葉は生きており、客にそれを持たせる披露宴も少なくない。だが、歴史的にいう「引き出物」とは大きく性格を異にしている(一番古い「引き出物」の意味は、贈答のために庭に引き出された馬)。まず、現代の日本人が普通に理解している「引き出物」は次のようなものだろう(出典こちら)。ただし、歴史的観点から言えば、下線部(山岸)は少々ミスリーディングだ。
「失敗しない、結婚式引出物の選び方【引出物セットの実例つき】
結婚式のおもてなしのひとつ!引出物について
 結婚式で、ゲストへのギフトである引出物。結婚式に出席してくれたゲストへの“感謝のしるし”として、料理と同じくらい大切なおもてなしのひとつです。カタログギフトや食器、タオルなどの“引出物”に、バームクーヘンや紅白饅頭などの“引菓子”のほか、鰹節や昆布などの“縁起物”を組み合わせて贈るのが一般的。
 そもそも結婚式の引出物とは、ゲストからいただくお祝い(ご祝儀)のお礼として、両家から渡す記念品のこと。その記念品とあわせて贈る引菓子は、もともと披露宴の料理の一部をお土産として持ち帰っていたことから始まったもので、結婚式に出席してくれたゲストの家族に喜んでもらうためのお土産です
 さらに縁起物は、引出物と引菓子の品数が2品だと縁起が悪いことから、3品目として登場したもの。意外にもその歴史は浅く、縁起を祝うための役割があります。
 だが、歴史的には、この説明は「引き出物」の一番大切な点を述べていない。現代では、食品衛生の観点から、食中毒など不測の事態を考慮に入れて、食べ物を(折り箱に詰めて)自宅に持ち帰ることは避けられるが、日本人の宴会では「引き出物」の中に、調理された食品が入っていることは当たり前のことだった(もちろん夏季など、物が腐り易い時季は料理法に特別な注意が必要だったが)。なぜなら、「引き出物」(「食べ物」の部分)の意味は、次のようなものだったからだ。

本日はご参列下さりまことにありがとうございました。ご帰宅になられましたら、どうぞご家族の皆様にも本日の私共の喜びをお分かち下さり、これをご縁に新郎新婦共々ども宜しくお引き回し下さい。

oribako このような思いと共に食べ物を供するのは、我が国に古くから「共食(きょうしょく)文化」があったからだ。時代劇では(そして今でも一部の人間集団の間では)「一宿一飯の恩義」という言葉が聞かれるが、発想は同じだ。すなわち、1つの竈(かまど)の火(=荒神)を使って作ったものを共食することによって、親子・きょうだいになったと仮想したのだ。したがって、「引き出物」をもらい、それを食べた(客の)家族は、また、新郎新婦(およびその親族)と“精神的血縁関係”を結んだことになるのだ。残念ながら、戦後の日本から「共食文化」はほとんど影を潜めてしまっている。残念なことだ。【画像2葉は「人生のお荷物」より拝借】

「お世話様です」という挨拶表現

お世話様です。」 この挨拶表現をメールの冒頭に用いる人がいる。最近も、二度、それで書かれたメールをもらった。私のことをよく知る、私よりも年齢的にだいぶ若い英語教師からだ。だが、私なら、私よりも年配の人に対してはそういう言い方はしない。「いつもお世話になっております」と書く。もちろん、「お世話様です」という表現を“恩師”に対して用いるなどもってのほかだもっとも、私の旧師はすでに物故者だが。「お世話様です」は、普段、本当に世話になっている年長者に対して用いるには“敬意”が不足する表現だからだ。
 「お世話様です」を使う場合を考えてみれば、たとえば、次のような場面が思い浮かぶ。
例1:
A:(ピンポーン)「宅配便で〜す[ユーパックのお届けで〜す]。」 
B:「は〜い、お世話様で〜す)。」
例2:
A:(商店で)「ご注文の品が昨日届きました。ただいまお持ち(致)します。」
B:(客)「(それは)お世話様でした)。」
 つまり、上の2例の場合、「お世話様です)」イコール「ご苦労様です)」(例1)、「(どうも)ありがとう;(そうですか)よろしく」(例2)の意味だと思ってよい。つまり、「(いつもお世話になっております」と言うべき時に、それの代用として「お世話様です)」とは言わないほうがよいということだ。
 年長者から年少者、上位者から下位者という流れの中で、後者の言動を慰労するような言葉としてなら構わないが、文頭に紹介したような例の場合は好ましくない使用法だと思ったほうが無難だ

「相撲をとる」とはどういう意味か(続)

kappa8月3日 、「『相撲をとる』」とはどういう意味か」と題した一文を書いたが、これに対する私見を述べておこう。「相撲」とは「抵抗する、戦う」という意味の「すまう」に由来する語であって、農耕民族としての日本人が古くから、農業に欠かせない“”を確保するために、水神(すいじん)の眷属(けんぞく)である“河童(かっぱ)”と人間とが戦うのだ。人間が河童に負けてしまえば、農作業に不可欠な水を確保することができなくなるから、常に人間が河童に勝つという想定で相撲が行われた。その時、河童の霊力を奪い取らなければならない。これが、「取る=抵抗力を奪う」ということの発生した理由だと考えられる。相撲はその後、人間たちが自分たちの“力”を示し、疾病(しっぺい)、災厄(さいやく)などから逃れるために盛んに行われるようになり、今日の相撲に繋がった。相撲が神事だと言われる所以(ゆえん)だ。したがって、歴史的・発生的観点から言えば、相撲界に農耕民族ではない外国人が混じるなど、あり得ないことなのだ。【画像はこちらから拝借】

「晴れ着」の定義(続)

1週間前(8月7日)に、次のような「晴れ着」の定義を2国語辞典から引き、その問題点を指摘してほしいという宿題を出しておいたが、どうなっただろうか。
●表立った場面で着る晴れやかな衣服。晴れ衣装。よそゆき。
●入学式・成人式など、表立った場所に出る時に着る衣服。晴れ衣装。よそゆき。

 この定義を全面的に否定するつもりはない。現代日本語では、そのような理解の仕方が普通になっていることを同国語辞典が反映しているからだ。だが、歴史的に見た場合、「晴れ着」と「よそゆき」とは別物だ。
 まず、前者はその名のとおり、「“晴れ”の日の着物」をいう。ただ、国語辞典が「入学式・成人式など」と副助詞の「など」を付けて曖昧にしているが、「“晴れ”の日の着物」は、神事・祝事などの際の着衣、正式訪問着を含み、袂(たもと)があり、羽織・袴を着用する。それに対して、「よそゆき」は、昨今(さっこん)漢字交じりに書けば「余所行き」となるが、本来は「装着(よそいぎ)」と表記すべきものであり、普段着の中でいちばん上等な着衣をいった。「自らを装うための着衣」のことである。したがって、上掲の2国語辞典の定義は今時(いまどき)のそれではあるが、歴史的には不十分なものだということになる。

「顔に紅葉(もみじ)を散らす」という慣用句

sekimen顔に紅葉(もみじ)を散らす」という慣用句がある。昨今は使うことがなくなったが、私はこの慣用句が好きだ。文字通り、「顔がパッとあかくなること」をいう。ういういしい乙女を連想させるものだが、この句が非日常的になったのは、そういう言い方で形容できるような“乙女”が希少価値的存在になったことが主な理由だと思われる。死語にするには惜しい慣用句だと思う(のだが)。
 【上のイラストはこちらから借用】

「晴れ着」の定義

私の手元にある電子辞書には2点の国語辞典が搭載されている。その「晴れ着」の項はそれぞれ次のように定義されている。

●表立った場面で着る晴れやかな衣服。晴れ衣装。よそゆき。

●入学式・成人式など、表立った場所に出る時に着る衣服。晴れ衣装。よそゆき。

 さて、この定義を見て、その“問題点”に気付く人はどのくらいいるだろう。“語感”の鋭い人なら“何か”を感じ取ると思うのだが…。宿題としておくので、旧山岸ゼミ生諸君(および一般読者諸氏)はその問題点を指摘してほしい。

「存じ上げる」、「存じ上げない」の語法

ご飯を残すロゼの猛抗議がとにかくスゴイ!!!」(こちら)と題された動画を見ていたら、ネコの立場からの“発言”として、「残り物には福があるという言葉を存じ上げないのでしょうか」と書かれたテロップが出てきた。
 昨今、この誤用法を話し言葉や書き言葉の中に挿入する人たちが非常に多くなったように思う政治家・官僚などにもその使用者が混じる。ネコの言葉であっても「残り物には福があるという言葉を知らないのでしょうか」とか「余り物には福があるという(昔ながらの)諺に馴染みがないのでしょうか」と言うのが普通だ。ネコが飼い主に“敬意”を示していると仮定して、ネコの言葉を言い表せば、「(私のご主人は)残り物には福があるという言葉をご存じないのでしょうか」となる可能性はあるが、その場合も「ご存じない」であって、「存じ上げない」ではない。

存じ上げない」、「存じ上げる」という言い方は次のような用いる。
A: あなたは柳田先生をご存じですか。
B: いいえ、(残念ながら)存じ上げません。/ (残念ながら) 
  存じ上げておりません。★この場合、丁寧度は下がるが「存じません」でもよい。

A: あなたは柳田先生をご存じですか。
B: いいえ、(残念ながら)まだ、存じ上げる機会に恵まれておりません。

「青二才」の語源の話

たまたま魚の「ボラ」のことを調べていたら、日本語倶楽部著『赤っ恥な日本語づかい500連発』に出くわした。そこに次のようにあった。
×青二歳→青二才
 正しくは「青二才(あおにさい)」と書き、年が若くて経験に乏しい年少の男を、生意気なやつという気持ちでさす言葉である。謙遜の場合にも使う。「青」は未熟という意味。「二才」は、ボラなどの稚魚を「二才魚」というのにたとえたものと言われ、そこから転じて、未熟な年少の男の意となった。「青二才のくせにいちいち口出しをするな」「わたしのような青二才が出過ぎたまねをして恐縮です」などと使う。
 この記述の中の「『二才』は、ボラなどの稚魚を『二才魚』というのにたとえたものといわれ」という部分には首肯(しゅこう)できない。「二才」は《若者》を意味する「ニセ」(「ニセ―」とも)または「ニイセ」が音変化を起こし、「二才」という文字がこれに当てられたと考えるほうが説得力がある。今でも鹿児島県など(九州南部地域)では「ヨカニセ」(=美男子、“イケメン”)と言うはずだが、その「ニセ」のことだ。【ちなみに、「美女」は“ヨカオゴジョ」;なお「ニセオナゴ」という語もあるが、この場合の“ニセ”も“”という意味ではなく、《結婚していない女》のこと】

「相撲をとる」とはどういう意味か

sumouなぜそう呼ぶのか、どうしてそういう言い方をするのか、言葉に興味を持っていると、よくそう思うことがある。「相撲をとる」という言い方もそうだ。「相撲(すもう)」とは何か。なぜそう呼ぶのか。「とる」とはどういう意味か。なぜそう言うのか。あまりにも日常的な表現になっているために、普通人はだれもその語源についての疑問を持たない。本ブログの読者の中には、熱心な言語研究者がいると思うので、そういう読者に対して、宿題にしておきたい。「相撲をとる」とはどういう意味だろうか。なぜそういう言い方をするのだろうか。

「生業(なりわい)」という語

生活していくための仕事」のことを「生業(なりわい)」と呼ぶ。若い世代にとってはすでに“死語”かも知れない。『広辞苑』はこれに「仝濤鬚生(な)るように務める業。農作。生産の業。また、その作物」の歴史的意義を一番にあげている。「生活していくための仕事」という現代的意味は、△箸靴董△修譴紡海韻討い襦

 もう少し、歴史的視点を考慮して言えば、「なり」とはものを植える間隔を決める時に使う小さな竿のことだ。「なり」はまた、「形を整える[作る]」という意味であり、現在でも「なり」、「貧相ななり(をしている)」などという言い方に観察される。「わい」(古い表記は「はひ」)は「(にぎ)わい」、「咲きわい」の「わい」で、「繁栄する」、「広がる」という意味だ。したがって、「なりわい」という語は、本来は、田畑・山林など、生活の糧を得る場所に“土地”がなければ、これを用いることもなかった。したがって、「我が家は代々農業を“生業”としてやって来ました」という言い方は自然だが、「漫画本やDVDなどの買取を“生業”にしている」という言い方は、本来的な用法ではないと言えるのだ。

「教育熱と恋愛感情」の区別もつかない「万死に値する」大学教授?

早稲田大学は昨日付けで、女子学生に対する“セクハラ発言”などで同大文学学術院文化構想学部文芸・ジャーナリズム論系教授・渡部直己氏(66)を解任したそうだ。還暦をとうに過ぎた、著名大学の著名教授がこんな“恥ずかしいこと”で解任されるとは…。
 調査委員会で認定した事実関係は以下の通りだそうだ【Yahooニュース:7/27(金) 18:39配信】。
 〈1〉本人や周囲の学生が気づくほど、足元を見つめる 
 〈2〉外見について『かわいい』と告げる
 〈3〉頻繁に2人きりで食事に行き、自分が箸をつけた料理を食べさせる。食べているものを取る
 〈4〉指で肩や背中を押す、頭を触るなどの接触行為
 〈5〉私用の買い物を頼む
 〈6〉『卒業したら女として扱ってやる』、『俺の女にしてやる』と発言
 〈7〉ほかの学生がいる教室で授業中に雨でぬれた服を着替えるよう指示し、本人に『裸だったらどうしようか』と告げる
 〈8〉ほかの学生に対するセクハラ行為や業務上知り得た個人情報をほかの学生の前で発言
 早稲田大学は以上の事実から「本学教員としての適格性を欠き、改善は期待できない」と判断し、解任したのだそうだ。詳細はもちろん私には分からないが、上記8つの理由のうち、特に「〈2〉外見について『かわいい』と告げる」と「〈5〉私用の買い物を頼む」の2点については、私には異論がある(あるいは、解せない)。言い方や発言場所なども関係するだろうが、女子学生を「かわいい」だとか「キュート」だとか「美人」だとか評価し、それを言葉に出すことは、日常的に決して珍しいことではないと思うからだ。また、「〈5〉私用の買い物を頼む」についても、買い物の内容によっては、女子学生に依頼することはあり得るはずだ。ほかの項目については、現場を見ていないので何とも言えないが、少なくとも〈2〉と〈5〉を解任理由に含めることに大きな違和感を抱く(もちろん、上掲に示された日本語から判断するかぎりにおいてだが)。

 Asahi Digitalの記事によれば、同氏は取材に対し、「教育熱と恋愛感情をときどき間違えてしまう。相手の気持ちを考えられなかったことは、教育者として万死に値する。本当に申し訳ない」と話したそうだ。だが、「教育熱と恋愛感情をときどき間違えてしまう」という弁解など、同氏の人間的未成熟さ・幼稚さを感じさせるだけだし、「教育者として万死に値する」などという大仰(おおぎょう)な言い方(あるいは、むなしい言い方)をしている点にも、“教育者”としての同氏の不誠実さを感じるだけだ。「万死に値する」という重大な言葉の意味を本当に理解しているなら、安易にそれを口にすることは出来ないだろう。

「腹が立つ」の「立つ」とはどういうことか?(続)

表題に関する答えは出ただろうか。私が推測するところでは、昔日(せきじつ)の日本人にとって、“怒り”は“こみ上げる”ものであって、下腹から胸にかけて、熱く“立ち上(のぼ)る”感情のように捉えられるものだった“虹が立つ”とか“燃え立つ”と言う時の“立つ”とも関連性があるだろう。そういう心的状態を「腹が立つ」と表現したのではないか。そんなふうに考えている。専門家のご教示を得たい。

「腹が立つ」の「立つ」とはどういうことか?

r1我が家の郵便ポストに時々、某実践倫理団体の会報が入れられる購読しているわけではない。先日入れられた号の「朝の誓い」という頁に五つの誓いが書いてあって、その4つ目に「今日一日 腹を立てず 不足の思いをいたしません」とあった。
 我々が毎日のように用いるこの「腹を立てる」(あるいは「腹が立つ」)は、なぜそういう言い方をするのだろう。考えてみたことのある人はどのくらいいるだろう。「立つ」の反対語は、「座る」だし、場合によっては「横になる」だ。いったい、どうして「腹が立つ」と言うのだろう。いつものように、旧山岸ゼミ生(及び一般読者諸氏)への宿題としておくので考えてみてほしい。

「方(かた)」と「重傷」のこと

Yahooニュースを見ていたら、「夏バテ防止『ニンニク』食べ過ぎには要注意」と題された面白そうな記事が掲載されているのが目についた。署名入りの記事で執筆者の顔写真まで掲載されているので、少々恐縮するが、公の場に掲載されたものだから、ちょっと言及させていただく。冒頭の数行は次のように書かれている。

ラーメンに生のニンニク(Allium sativum L.)をてんこ盛りで入れ過ぎ、救急搬送されたがSNSで話題になっている。ニンニクが身体にいいのは広く知られているが、食べ過ぎると重傷化する危険さえあるようだ。

  ここまで読んだだけで、いつもの“天邪鬼”が頭をもたげた。「救急搬送された方」という個所の「方(かた)」という丁寧語を用いているからだ。別に、その人と特別な人間関係にあって、その人を敬わなければならないというような文脈でもないし、その人と距離を置かなければならない間柄でもないようだ。私なら「ひと」を使う。
 もう1例、「食べ過ぎると重傷化する」の「重傷」という語だ。この語は視覚的にも理解できるはずだが、「程度の大きな傷」、「重傷」という意味だ。ここで言われていることは、ニンニクの食べ過ぎは「症状の重い結果に結び付く」ということだから、「重症化」と表記すべきものだ。
 認知症を遠ざけるには、言葉に敏感であろうと努める、こうした日常的注意が有効のような気がする…。

並列[並立]助詞のこと

国税庁のホームページを見ていたら、「業務の都合により1年未満で帰国したり、海外勤務が1年以上となった場合の居住者・非居住者の判定」という文言が出て来た。慣用的に言えば、「たり」という助詞を用いた場合、「帰国したり」、「〜1年以上となったりした場合の…」のように、後ろも動作の並行あるいは継起を示す助詞を用いる必要がある。“並列助詞”または“並立助詞”と呼ばれる現象だ。ところが、ネット上には、この不十分な用法で書かれた文が蔓延している。以下に5例だけ挙げておく。公的機関・有名企業などの書いた文章も交じっている。⇒以下は私による訂正だ。

●海外から購入したり海外へ発送するには 
  ⇒海外から購入したり海外へ発送したりするには
●散歩をしたりのんびりと過ごしています 
  ⇒散歩(を)したりのんびり(と)過ごしたりしています
●国民健康保険に加入したり、やめる場合の保険料は 
  ⇒国民健康保険に加入したり、(それを)やめたりする場合の保険料は
●ステップメールを変更したり追加したら登録済みのお客様へはどのように配信されますか? 
  ⇒ステップメールを変更したり追加したりしたら登録済みのお客様へはどのように配信されますか? 
●2018年7月1日から韓国のアシアナ航空の国際線で、機内食が提供できなかったり、機内食を積み込むために出発時間が大幅に遅れる異例の事態が続いている。
  ⇒2018年7月1日から韓国のアシアナ航空の国際線で、機内食が提供できなかったり、機内食を積み込むために出発時間が大幅に遅れたりする異例の事態が続いている。 

 次に2例だけ、正用法の例を挙げておく。
◎署名スタイルを変更したり独自の署名を作成したりするには
◎Word や PowerPoint のファイルを grep したり diff したりする

「ケバい」という俗語形容詞のこと

女性、とりわけ若い女性の派手な厚化粧に言及した俗語に「ケバい」という形容詞があることは周知のとおり。「けばけばしい」が短縮して出来た語とされる。この語で連想される画像を探すとこちらにあるようなものがヒットする。だが、「化粧」の起源を考えれば、どれもたいして「ケバい」とは感じられない。

 「化粧」は古くは「けわい;けはい」といい、神に仕える女性(処女)が、俗世の普通の“おんな”であることを隠すために、わざと派手な厚化粧をしたのだ。眉・目蓋・目元・唇・耳たぼ・頬など、顔のすべてを派手に厚く化粧した

 したがって、ほとんどの一般女性は現代のような「化粧をする」というような感覚を持たなかった。それが時代の推移とともに、遊芸に関わる人々を中心に、化粧をするという行為が一般化するようになったのだ。「化粧」という語がそのような経過を辿っていることが分かると、今われわれが「ケバい」いう俗語で差し示そうとしている若い女性たちの化粧がさほど「ケバい」ものではないということも分かるだろう。うがった見方をすれば、現代のケバい」女性たちも”神”に近い存在だと言えなくもない…

「約束を破る」の英訳

pきみは約束を破ったことはありますか。」を学生に訳してもらうと、ほとんどの学生は Have you ever broken your promise [word]? とする。もちろん英語としては正しい。ところが、英語には Do you always do what you say? という言い方もあり、アメリカ人の同僚の一人など、むしろ前者よりもこちらの方がより“英語的”だと言った。文字通りには「きみはいつも自分が言うことを実行しますか」という意味だ。

 日本人にはあまり嬉しくない文句 Remember Pearl Harbor. も、戦争(やPearl Harbor)を知らない現代の大学生に「パールハーバーを忘れるな」という“日本語”の英訳として求めようとすると、多くの日本人学生はそうは書かず、Don't forget (about) Pearl Harbor. と書く。

「でばな」、「出花」、「出鼻、出端」のこと

いれたばかりの、香りのよいお茶」のことを「出花(でばな)」と言うが、これを「出鼻、出端(でばな)」(ものごとをはじめようとしたその時)と混同して表記間違いをしている例を見かけることがある。以下に5例だけ引用しておく。「出花」は今でも「鬼も十八、番茶も出花(どんな娘でも十八ぐらいの年頃になると美しく見える)という慣用表現として使われることがある。
*週刊プレイボーイの表紙内田理央じゃないすかあ 欅坂46はあんな事があったから出花をくじかれた感は否めない.
*新しい門出の第一歩でもある引っ越しでトラブルが起こってしまうと、何だか出花をくじかれた感じで嫌ですよね。
*・・・っと、しょっぱなから出花をくじかれた第2話でしたが、この話で よぴ子が注目したのはどうしてそうはりきってるの?ケンちゃん?でした。
*全て体調と相談しながらでないと出来ないわたしが、大きな目標立てて、根回しもほぼ終って、これからだって時に、出花をくじかれたような気分。
*前回、GEBのセーブデータの紐付けの特殊性によって、出花をくじかれた私でございますが、やっと今回、ゴッドイーター2の製品版を始動することが出来ます。

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「馳走」、「ご馳走」の語源

m2馳走」、その丁寧語としての「ご馳走」は「馳走」と書かれることから、国語辞典では「食事などを出すなどして相手をもてなすこと。また、そのための料理 ➤その用意のために走り回る意から。ふつう『御(ご)馳走』の形で使う」(『明鏡国語辞典』)のように定義・解説されるのが普通だ。
 「馳走」の語源に関してはこれも説得力があるが、「御馳走」に関しては私は別の見方をしている。農業・漁業などでの疲れ仕事のあとに出す[運んで来る]料理を「午餉(ごちょう、ごしょonigiriう)」と呼ぶが、その「午餉」の転化で「ごちそう」が生まれたと考えるのだ。「ごちょうする」から「ごちそうする」が生まれたもので、今では俗っぽい言い方になったが、「ゴチになる」という表現の「ゴチ」もこの「午餉」に関係があるだろう。「馳走」という語が最初にあって、それに接頭辞の「御」が付き、「御馳走」という語が生まれたという説も説得力があるが、両語は別々に存在したのではないだろうかというのが私の推測だ。もう1つ、自信に欠けるので、国語・語源学に詳しい方からのご教示をお待ちする。

「タンマ」(=ちょっと待って)の語源

悪性リンパ腫で亡くなった某大手企業の某代表取締役会長(昭和10年生まれ、平成20年没)の闘病記を読んでいたら、次のような一文が出て来た。
医師から新しい提案があった。胸には鎖骨の上部あたりから太い静脈が1本流れている。それを中央静脈という。その静脈の途中に孔を開け、プラスティックのキャップを埋め込む手術をするというのである。(中略) 手術中、不謹慎にも私は尿意をもよおした。医者に「あと何分で終わるんだ?」と聞いたら「30分」と言う。私は「タンマ」と言った。彼は「タンマ」の意味が通じない。20代の若者では「死語」なのだろう。(以下略)
 言語を研究して来た私には、「タンマ」という語が20代の若い医師に通じなかったという事実が興味深かった。この「タンマ」の語源について、『デジタル大辞泉』は次のょうに書いている。

子供が遊戯中に、一時中断を要求したり合図したりする時の語。「待った」の「ま」と「た」を逆にしたものからとも、「タイム」の音変化からともいう。

 前者の語源説については信憑性がありそうだが、私はそれに与(くみ)しない。また、後者は甚だ怪しい。(大人ならまだしも)“子供たち”が、わざわざ“英語”の time という語を利用しなければならない状況や理由が思い浮かばないからだ。
time 片仮名で「タンマ」と書くから、なんとなく“英語っぽく”思えるが、私はこの語は「躊躇(ちゅうちょ)する、猶予(ゆうよ)する」の古語「たんま」から出たものだと思っている。
 あるいは、山から伐り出した材木を川に流して運ぶ際に、途中で一時、一か所に貯木すること、あるいは1本だけが流れずにどこかに引っ掛かることを「たんば」と呼ぶが、その「たんば」と関係があるかも知れない。【左の画像はこちらから拝借】

 私に人生の残り時間が十分にあったならば、調べてみたいこと、明らかにしてみたいことが山ほどある。だが、現在は辞書編纂作業だけで手一杯だから、この「タンマ」の語源については、若い人たちに頑張ってもらって、調べてみてもらいたい。

「求人募集中」?という言い方

ある語学学校の求人欄に「ただ今、求人募集中!  」と書いてあった。「(わが校が)める募集中!」だと解釈できなくもないが、「求人」も「募集」も同じことを言っている。「求人中」、「求人欄」、「求人係」とか、「人材募集中」、「店員 [社員・職員 ] 募集中」とかの言い方なら馴染みがあるが、「求人募集中」という言い方は私には馴染みはあっても、個人的には回避したい語結合だ。たしかに、一般社会でしばしば用いられる言い方だが、やはり違和感を拭えない。以下に類例を5例だけ拾っておく。
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「考え物」は“考え物”(続)

一昨日の宿題(らしきもの)だが、読者諸氏には、その“考え物”の意図が読み解けただろうか。

問い:「謙信も雪の降る日はうずくまり」
答え:「越後縮み」

問い:「旧暦の十月中旬暮れ早し」
答え:「檜紅葉樫」

CHI まず前者だが、謙信とはもちろん、戦国時代の越後の武将・上杉謙信のこと。その謙信と越後縮み(=越後の有名な縮み織り)とに掛けて「越後の謙信も雪の寒さには縮(ちぢ)んでしまう」としゃれたもの【右の画像はこちらから拝借】。
 後者の場合、「旧暦の十月中旬暮れ早し」はその通りの意味で、この頃の日暮れは早いということ。それに「檜紅葉樫」と書いて応えたものだが、読み方が分からなければ、これのどこに面白さがあるかが分からない。これは「(ひ)紅葉(もみじ)(かし)」と読む。すなわち「日も短し」という意味だ。

 日本人は昔から短歌(和歌の一体)、俳句(俳諧連歌の発句が独立)、川柳など、知的な言葉遊びを楽しんで来たが、私はそれらと共に、この類いの言葉遊びが好きだ。
 興味を覚えたという読者諸氏へのもう1つの難題(?)。次の“考え物”はどういう意図を持ったものだろう。

問い:「藪蚊をば吸はれぬ内に打ち殺し」
答え:「志摩加賀周防駿河美濃尾張」

「考え物」は“考え物”

cr考え物」と言えば、周知のごとく、日常的には、「十分に考えてから決定すべき事柄」(「その株を買うのは ― だ」)のような意味で用いる。私の手元にある電子辞書の1つに搭載されている『明鏡国語辞典』には、そのように「考え物」が定義されている。それに対して、同じ電子辞書に搭載されている『デジタル大辞泉』でこの語を見ると、もう1つの定義が収録されている。それは、「相手が考え込むような問いをこしらえ、その答えを当てさせる遊び。判じ物」というものだ。現代的には後者の意味で用いることはないだろうし、若い世代の人たちには馴染みのない定義だろう。具体例をあげてみよう。

問い:「謙信も雪の降る日はうずくまり」
答え:「越後縮み」

問い:「旧暦の十月中旬暮れ早し」
答え:「檜紅葉樫」

 さて、この2例の問いと答えがどうして「考え物」になっているか、「考え」てみてほしい。第1例はさほど難しくはないのではないか。第2例はかなり難しいはずだ。

「差別語」と「言い換え」のこと

s差別語」なるものと、その「言い換え」なるものとを見ていると、どう考えても“噴飯物”だとしか思えないものが混じる。たとえば、「不治(ふじ、ふち)の病」は差別語だから「難病」と言い換えよという。「連れ子」は「◯☓さんのこども」と言い換えよと宣(のたま)う。滅茶苦茶だ。
 厳密に言えば、「不治の病」が「難病」と言い換えられるわけがない。前者は明らかにその病気が“不治”であることを言っているし、たとえば「昔は肺結核 [先天性胆道閉鎖症] は不治の病だと思われていた」などという、歴史的事実に言及するような場合には必須の語だ。これを「昔は肺結核 [先天性胆道閉鎖症] は難病だと思われていた」と言い換えれば、ニュアンスが異なることになる。また、「難病」という日本語には“改善”、“治癒”の可能性が秘められている。たとえば、「パーキンソン病」は完治は困難だが、治療技術はかなり進歩しており、「パーキンソン病」即、「不治の病」とは決めつけられない。むしろ、研究が進み、完治する未来も期待されている。

 「連れ子」は「◯☓さんのこども」と言い換えるほうが賢明だという指摘には、最初私は“冗談”だろうと思ったほどだ。これでは「山岸さんちのこども」と言えば、みな「連れ子」ということになってしまう。

clover むかし、女性歌手・ちあきなおみが歌った「四つのお願い」が放送自粛となったことがあった。「四つ」という語が、かつて四つ足動物の解体処理を生業(なりわい)としていた人たちを暗に指す差別語だから、使ってはならないということだった。これでは、「ひとつ、ふたつ、みつ [みっつ]、よつ [よっつ]…」とは数えられなくなるし、東京都新宿区“”谷の地名も使えなくなる。ちなみに、「四つ辻」も「十字路」と言い換えることが望ましいそうだ。「辻」という日本語が持つ民俗語としての意味も歴史もまるで無視されている。「四つ葉のクローバー」は何と言いかえればよいのか。
 
 言葉をこのように窮屈に捉える人たちは、昔、午前と午後にあった「四つ」という時間帯までも"差別語だ!”と叫ぶつもりだろうか。

 こういうことを書き出せばキリがない。「差別語」の中には、確かに消滅したほうがよいものも少なくない。だが、“ヒステリックな言葉狩り”は人間の自由な発想や表現の力を委縮させ、人々の口を閉じさせ、彼らを臆病にしてしまう

「おつきあい断層」という呼称に思う…

267人が亡くなった一連の熊本地震が発生してから、まもなく2年を迎える。震度7を観測した同県の益城町(ましきまち)は私の岳父の出身地(御舟町;みふねまち)の隣り町であり、私にとって心理的にはいつも身近な場所だ。(また、同時刻に地震が発生した大分県は私の岳母の出身地だ。)

 2度目の震度7の地震では、主な活断層以外に、200以上の未知の断層がずれ動いていたことがその後の調査で判明したという。熊本県益城町の畑には本震の痕跡がはっきりと残り、「布田川(ふたがわ)断層帯」と呼ばれる全国でも有数の活断層がずれ動いて発生したことを教えている。ただし、地震の際にずれ動いたのは、このように目に見える大きな断層ばかりではなく、活断層が動くと、いっしょに動く、「自分で地震を起こす力の無い」断層が数多く存在するらしい。

 そういう断層を国土地理院地理地殻活動研究センターの藤原智総括研究官は「おつきあい断層」と呼称しておられた(こちら参照)。マスコミは何の異議も差し挟まなかったようだが、私にはこの呼称はいかにも“軽薄”なものに思えて仕方がなかった。「おつきあい」の「」は丁寧語を作るための接頭辞だが、267人もの熊本県人が亡くなった不幸な地震に関連して、どうしてこのような“(けいけい)”な呼称を与えねばならぬのか。

 専門的なことは私には分からない。「追随型」「追従型」「(受動連鎖型」「随伴型」「副次的」「受動的」「共鳴的」「同調的」などの形容詞の中に代替語はないのか? いずれも意味がずれるのか? 人々の、深く、大きな悲しみに関連して、それを軽々なものに感じさせたり、茶化しているのかと思わせるような表現を使ったりするのは避けるべきではないかと私は思う。もちろん、命名者に悪意がないことだけはよく分かる…。私の考え過ぎだろうか。
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【付記】こちらに熊本地震に関する多くの画像がある。これを見ても「おつきあい断層」などと呼称することの“軽薄さ”が分かるはずだ。
【後刻記】高齢化社会・高齢者増加問題を取り扱ったテレビ番組YouTube動画になっているに「老いるショック」と題したものがあるが、これなども、「オイルショック」(oil shock, oil crisis)に引っ掛けた名称のように思えて、あまり感心できない。「老いる」ことが「ショック」であるという関係性がまるで理解できない。

「GT-R」は「海外では『神』扱い?」

GTRYahooニュースを見ていて、日産スカイライン「GT-R」を取り扱った記事に「海外では『神』扱い? 日産スカイライン『GT-R』が海外で大人気の理由」と題したものがあるのに気づいた(こちら)。  
 「『神』扱い」、《》という語をかくも安易に用いるところなど、いかにも“八百万の神々”の国・日本の記者だ。同記事を最後まで読むと、「『GT-R』がアメリカで神格化された理由はなぜなのでしょう。」というように《神格化》という表現が使われている。だが、表題にある『神』扱い」という語法はキリスト教・ユダヤ教・イスラム教といった一神教の国々では普通はあり得ないものだ。「私以外の神を持ってはならない」という (God) からの厳命を無視して、乗用車の「GT-R」を神扱いすることなど“言語道断”と言ってもよい。もしあり得るとすれば「神格化」されたものとしての存在だ。

  それで思い出したのだが、1994年5月1日、イタリアで開かれたサンマリノ・グランプリ決勝において、トップを走行中、コンクリート壁に激突して非業の最期を遂げたF1レーサー、アイルトン・セナ (Ayrton Senna) のことを我が国のテレビ局 (フジテレビ・ニュース Japan)はテロップで「天才は神様になった」と報じた。当時のキャスター・安藤優子氏はこれには何のコメントもしなかった [出来なかったというのが正確だろう]
 だが、セナ選手はいつも聖書を携帯したと言われるほどの敬虔なカトリック教徒(ローマ・カトリック)であり、彼がいかなる“天才”であっても、「」になることなどあり得ないのだ。当人も「」に成る [成れる]といった“不敬”なことなど、露ほども思っていないはずだ。ちなみに、レースの行われたイタリアもセナ選手の出身国・ブラジルと同じく、人口のほとんどはカトリック教徒(ローマ・カトリック)だ。

 多神教に慣れ、「野球の神様」、「サッカーの神様」、「受験の神様」、「パチンコの神様」、「ラーメン作りの神様」、「貧乏神」、「疫病(やくびょう)」、「捨てる神・拾う神」等々、何でも「神(様)」にしてしまう“寛容なる”我が国では許されても、一神教の国々の物事に言及する際には安易に「神(様)になる」と「神(様)扱いする」などという言い方はすべきでないのだ。
【画像はこちらから拝借しました】

唱歌「あさがお」、「池の鯉」の英訳を試みる。

明治末期から昭和10年代半ばあたりの学童たちが歌った唱歌の1つに「あさがお」がある。「池の鯉」も時代的にはかぶさる唱歌のはずだ。単純明快な子供の言葉で作詞されたものだが、“歌える英訳”となるとけっして容易ではないだろう。いつものように、旧山岸ゼミ生諸君(および一般読者諸氏)にも“チャレンジ”してほしい。

****************
「あさがお」
作詞者・作曲者不詳

まい朝 まい朝                 
咲く あさがおは                  
おととい きのうと                 
だんだん ふえて                 
けさは しろ四つ むらさき五つ  

大きな つぼみは                 
あす 咲く花か                    
小さな つぼみは                  
あさって さくか                    
早く さけさけ しぼりや赤も   
****************

「池の鯉」
作詞者・作曲者不詳

出て来い 出て来い 池の鯉
底の松藻(まつも)のしげった中で
手のなる音を聞いたら来い
聞いたら来い

出て来い 出て来い 池の鯉
岸の柳のしだれた陰へ
投げた焼麩(やきふ)が見えたら来い
見えたら来い
****************

唱歌「うちの子ねこ」を英訳した。

唱歌「うちの子ねこ」(作詞・作曲者不明)を英訳した。旧山岸ゼミ生(および一般読者諸氏)は、「すそにからまり / たもとにすがる」、「まりとじゃれては / えんからおちる」あたりをどんな英語で表しただろう。私の英訳はこちら

1.
うちの子ねこは
かわいい子ねこ
くびのこすずを
ちりちりならし
すそにからまり
たもとにすがる

2.
うちの子ねこは
かわいい子ねこ
くびのこすずを
ちりちりならし
まりとじゃれては
えんからおちる

縄跳び遊び唄「郵便(屋)さん」を英訳した。

縄跳び遊び唄「郵便(屋)さん」を英訳した。旧山岸ゼミ生諸君(および一般読者諸氏)は「郵便さん おーはいり / こんにちは / ジャンケンポン / 負ァけたお方は  / 出てちょうだい」の「おーはいり 」、「出てちょうだい」はどんな英語になっただろう。私の英訳はこちら

童謡「とんび」を英訳した。

童謡「とんび」を英訳した(こちら)。可愛い、清潔な童謡だと思う。これの英訳に“チャレンジ”した旧ゼミ生諸君(および一般読者諸氏)の英訳はどんなものだろう。
****************
1.
とべ とべ とんび 空高く
なけ なけ とんび 青空に
ピンヨロー ピンヨロー
ピンヨロー ピンヨロー
楽しげに 輪をかいて

2.
とぶ とぶ とんび 空高く
なく なく とんび 青空に
ピンヨロー ピンヨロー
ピンヨロー ピンヨロー
楽しげに 輪をかいて
****************

唱歌「うちの子ねこ」の英訳を試みる。

唱歌の1つに「うちの子ねこ」と題されたものがある。私が生まれるずっと前、昭和7年4月発行の『新訂尋常小学唱歌(2)』に収録されている。唱歌の性質上、その作詞者も作曲者も分からない。文句は次の通りだ。子ねこの可愛らしさを彷彿とさせる。いつものように旧山岸ゼミ生(および一般読者諸氏)に是非とも“チャレンジ”してほしい。各連最後の2行が訳しにくいだろう。

**********************
1.
うちの子ねこは
かわいい子ねこ
くびのこすずを
ちりちりならし
すそにからまり
たもとにすがる

2.
うちの子ねこは
かわいい子ねこ
くびのこすずを
ちりちりならし
まりとじゃれては
えんからおちる
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縄跳び遊び唄「郵便(屋]さん」の英訳を試みる。

nawatobi地方によってその文句に少なからぬ違いがあるが、遊び方自体はほとんど変わらないはずだ。二人の子供が4、5メートルの細い縄(綱)の両端を持って、大きく回し、そばに並んだ子供たちが順次その中に入って向かい合ってジャンケンをし、負けたら出て行き、また別の子が入って来て、同じことをするという遊びだ。最近では見かけなくなったが、私が子供の頃は、ごく日常的な遊びだった(ただし、“男の子”の多くはこれを“女の子”の遊びだと認識していたようだ)。そう難しい表現は出て来ないが、いつものように旧山岸ゼミ生諸君(および一般読者諸氏)には是非ともこの唄の英訳に“チャレンジ”してみてほしい。「おーはいり」、「出てちょうだい」、「負ァけたお方は 出てちょうだい」何と言えばよいだろう? いつも書くとおり、「歌える」ように英訳することが大事だ。

****************
郵便(屋)さん おーはいり
こんにちは ジャン ケン ポイ
負ァけたお方は 出てちょうだい

お嬢様 おーはいり
こんにちは ジャン ケン ポイ
負ァけたお方は 出てちょうだい

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【画像はこちらから拝借しました】

「リンゴ追分」を英訳した。

美空ひばりが15歳の時に歌って、戦後最大のヒットとなり、最終的には130万枚の売り上げを記録した歌「リンゴ追分(作詞:小沢不二夫、作曲・編曲:米山正夫)」を英訳した(こちら参照)。映画にもなった。この歌を、これだけ抒情的に巧みに歌える少女は、美空ひばりを置いて他にいなかっただろう。やはり天才としか形容できない。

童謡「ないしょ話」の英訳を試みる。

童謡「とんび」の英訳と並行して童謡「ないしょ話」(結城よしを作詞・山口保治作曲)の英訳も試みようと思う。かわいい歌だが、母親を“母ちゃん”という呼び掛けていることに“抵抗”を感じて(“下品”だと感じて、“母さん”と換言して歌う人たちが多かったようだ。少なくとも“中流以上”の家庭では一般的な呼び掛け語ではなかった。かく言う私もこれまで常に後者母さんで歌って来た。

****************
ないしょ ないしょ
ないしょの話は アノネのネ
ニコニコニッコリ ネ 母ちゃん
お耳へこっそり アノネのネ
坊やのお願い 聞いてよネ

ないしょ ないしょ
ないしょのお願ひ アノネのネ
あしたの日曜 ネ 母ちゃん
ほんとにいいでしょ アノネのネ
坊やのお願い 聞いてよネ

****************
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