膵臓癌で逝った妻のこと

今日はネロ(とマロン)の14歳の誕生日だ。

74e76bd3-s.jpg今日は我が家の愛犬ネロの14歳の誕生日だ。平成15 [2003]年の今日、マロン(昨年3月死亡;写真向かって右)と姉妹として生まれた。ネロは生まれた時から“二重まぶた”で本当に可愛かった。女優の加賀まりこさんには悪いが、ネロの幼い時、その可愛さと、キリッとした顔立ちとがどこか似ていた。歌手の奥村チヨさんにも似ていた(“親バカ”の典型だろうが、私の正直な気持ちだ)。
 
 前にも書いたことだが、ネロは獣医と爪切りと“風呂”が大嫌いだ。毎春、狂犬病予防接種、フィラリア予防接種等で獣医に連れて行くのに苦労する。散歩も好きではない(行かないという意味ではない)。まさに“ヒッキ―”の部類だ。だが、とにかく可愛い。私のそばにいつも居てくれて、眠るときは私の隣に眠る。マロンが生きていた頃は、マロンも一緒に寝ていた。

nero 人間の年齢に換算すると、柴犬の14歳は人間の72歳から78歳の間ぐらいだそうだ。私と同じくらいか私よりも年長だ。

 “風呂”が大嫌いだと書いたが、ネロは ╍ ╍ほかの愛犬たちもそうだが╍ ╍定期的に“美容院”に行っている(《泥パック》までやってもらっている!)。私は半年に1回、高齢者割引で2, 160円で散髪してもらう程度なのだが、我が家の愛犬たちは1か月から2か月に一度は美容院に“送り迎え付き”で行って来る。1回の料金は1頭、6,000円超だ。私は1年間で散髪代が4,320円だから、それから見ると我が家の愛犬たちはずいぶん“贅沢”だ。だが、キレイになって帰ってくるととても嬉しそうだから、私はそのための“出費”はさほど気にならない。

 飼った以上は最後の最後まで面倒を見てやるのが飼い主の責任だと思うので、痴呆症の兆候が強度になって来て、夜鳴き・昼鳴きを続ける最年長者のハッピーを含めて、私は出来るだけのことをしてやりたいと思っている。
 ネロ、14歳の誕生日、おめでとう。今晩はごちそうを食べようね。

定期検診に行って来た。

今日、いつもの病院に定期検診に行って来た。血液検査の結果が出るまで約1時間待つのだが、昨今はその程度の時間で患者に関する様々な情報を得ることが出来る。私の場合は、「血糖」から始まってBNP(脳性ナトリウム利尿ペプチド)まで、丁度30項目が検査の結果で分かる。その中で、私が一番気にしているのは、抗凝固薬・ワーファリン(Warfarin)を使用している関係で、血液の凝固因子に関する指標の一つであるPT ( prothrombin time; プロトロンビン時間)がどういう数値を示すかだ。もっとも、この数値は服用するワーファリンの量によって医師が調整するから、私のようにかなりの量を服用している場合、低く出た数値だけを見て喜ぶわけにはいかない。
 中性脂肪、尿酸、白血球・赤血球、血小板、コレステロール等々の値も出て来るので、自分の現在の健康状態を一応よく知ることができる。今日の結果では、さほど問題となる数値は出なかった。ただ、いつものように血糖値はやや高かった。肝機能に異常があるかどうかを知るためにはALT値を知る必要があるのだが、この4月にはかなり悪かった肝機能の数値が今日の検査では平常数値に戻っていた。これも服用している薬のお陰だろう。
 だが、10種類ほどの薬を服用して保っている健康だから、いつなんどき、何が起きるかは、神ならぬ身では知る由もない。もちろん、いつも書くように、私は死を「怖いこと」だとは思っていないので、いつ瞑目(めいもく)しても構わないのだが、出来れば「病まずにコロッと逝きたい」と願っている。そのためには、定期検診を欠かさずに受けて、自分の健康を管理・コントロールしながら、少しずつ「枯れて行く」のがよいだろう。帰宅途中、いつもの薬局に寄って多くの薬を調合してもらった。
 

 

73歳の誕生日を迎えることが出来た。

k1今日、73回目の誕生日を迎えた。「迎えた」というよりも「迎えさせていただいた」と言うほうが正確だ。昨年の心臓バイパス手術以来、私は自分が「生かされている」ことを以前よりも強く感じるようになったからだ。73歳は、私が敬愛した岳父(亡妻の父)が亡くなった時の年齢でもある。岳父は私が入院していた、同じ病院の、同じ病棟で、平成7 [1995] 年の1月16日に亡くなった。世の中にこんな人がいるのかと思えるほど素晴らしい人だった。《第二の父》として終生尊敬した。

 昭和19 [1944] 年9月22日、私は母が満41歳の時に、8人きょうだいの末っ子として山口県宇部市に生まれた。敗戦色が濃くなった頃だった。物心がついたのはそれから3年ほどあとのことだ。自賛になるが、私はかなり物覚えがよい(ほうだ)。その後のことは、何かのきっかけがあれば、今でもだいたい思い出せる。たとえば、去る7月、九州北部を襲った豪雨で、私は4歳の頃に経験した大型台風のことを思い出した。近所の海の堤防が決壊する恐れがあるということで、山の上に位置していた小学校の体育館に、兄の一人に負ぶわれて豪雨の中を家族と共に避難したが、その時、1頭の牛が近所の中規模の川の濁流に飲まれ、流されながら、悲しそうな大きな鳴き声を上げていた記憶が今も消え去らない。

 小学校に上がった頃からのことになると、もっと鮮明に記憶している。1年生になった頃(昭和26  [1951] 年)、全員が運動場に出て、頭からDDT(あとでそれが劇薬の一種だと知った)を撒かれて《ノミ・シラミ駆除》をされた時の強烈な思い出は今でも昨日のようによみがえる。だから、一部の政治家たちが、国会質問で、わずか2、3年前のことに言及されて、「記憶にありません」と返答と言うよりも問題の核心から逃避しようとしているのを見ていると、「その程度の記憶力で政治家になっているのですか」と皮肉の1つも言いたくなる。
 
w 何度か書いたことだが、私が英語学習を始めた頃(昭和32 [1957] 年4月)、私の住む町にも、周辺の町にも、英語母語話者は一人もいなかった。だから、母が私の誕生日に東京の某社が出版していた英語会話教本と付録のレコードを買ってくれた時には、本当に嬉しかった。毎日、毎日、それこそレコードが擦り切れるほど聞いて、その全てを暗記した。もちろん、発音もそのレコードで聞くアメリカ人のものを真似るように努力した。周辺に英語母語話者を見つけることが容易な現代、また、英語学習のためにインターネットやスマホなど、便利な機器をふんだんに、頻繁に使える現代、そういった良き時代に巡り合わせている今の学習者たちは本当に幸せだ。

 中学校1、2年は山口県小野田市(現・山陽小野田市)で過ごし、中学3年次 (昭和34 [1959] 4月)に東京・品川区の長姉(ちょうし; 私と 18 歳の歳の差があった)を頼って上京した。急行列車で品川駅まで18時間近くも掛かった。今上天皇・皇后のご成婚数週間前のことだった。東京タワーは前年暮れに竣工していた。東京では(山口県の中学校にはなかった)創設後間もない英語部に所属した。教科としての英語担当で、クラブ顧問のM先生は、それまで米軍基地で仕事をしておられた方で、流暢なアメリカ英語を話された校舎外ではいつもベレー帽を着用しておられたが、足長の長身で、今で言えばまさに「イケメン」の方だった)。時には、英語の勉強のためだということで、14、5名の部員たちをアメリカやイギリスの映画を観に連れて行ってくださった。先生は私を可愛がって下さった上、クラブの部長に据えて下さり、夏休みはよく私たちに特訓をして下さった。今日の私があるのはM先生のお陰だと思っている。

 高校生になってからは英語部(25人ほどの部員がいた)に所属し、何度も英語弁論大会・暗唱大会に参加した。英語劇では“The Pied Piper of Hemelin”(ハーメルンの笛吹男)の笛吹男になった。その台詞は今でもだいたい覚えている。部室には、当時珍しかったカナダ製の立派なタイプライター(ROYAL DELUX) が設置されていた。もちろん、速く正確に文字を打つ練習を毎日のように行なった。楽しかった大学生になってからは、アルバイトをして、1台目はBROTHERのものを、2台目はイタリアのOLIVETTIのものを購入した;その後、《ワープロ》の時代に入り、《パソコン》に移るまで、TOSHIBA製品を3台使った
 また、東京都立川市にあった米軍基地、その他、英語を話さなければならない環境の中に身を置く努力をして、そこでアルバイトをしながらアメリカ口語 (Spoken American English) に慣れた。そこで得たアルバイト料を、目黒区にあった日本通訳養成所 (JITS = Japan Interpreter Testing Society) 夜間部の授業料に充てた(昼間はもちろん高校通学)。

T-f6 大学・大学院では英語学・言語学を専攻し、とりわけ前島儀一郎先生からご指導をいただいた。古期英語 (特に英文学最古の叙事詩Beowulf )、中期英語(特にGeoffrey Chaucer: The Canterbury Tales )も、またラテン語で書かれた Thomas More (1478 - 1535) の Utopia も先生のご指導を受けながら何とか読了した(当時の私にはじつに難解だった!)。前島先生からは、その後、ドイツの著名な英語学者Gustav Kirchnerが著したDie syntaktischen Eigentumlichkeiten des Amerikanischen Englisch (全2巻;1970-72) の全訳を手伝ってほしいというご要望があり、ドイツ語から日本語への訳出作業のお手伝いをした。同書はのちに『アメリカ語法事典』(1983, 大修館書店)として結実し、今でも入手できる。

 英国では英語学の泰斗R. Quirk*先生(のちのロンドン大学副総長、英国学士院長、Sir Randolph  Quirk)、音声学の泰斗A.C. Gimson先生、応用言語学・英語教育学の泰斗 P.  Strevens先生、ほか数多くの世界的権威から直接のご指導を受けることが出来た。【*ロンドン大学の場合、総長 (Chancellor)は王族から選ばれ、1981年からはAnne王女がその任に就いておられるので、実質的には副総長 (Vice Chancellor) が総長;Anne王女以前はthe Queen Motherが就任しておられた。】
 大学卒業前に、アメリカ・ミシガン州に本社のある貿易会社(商社)の面接試験(約40分間;そのうち約20分は電話を使ってのやりとり)を受けたことがある。試験場はたしか立川基地内だった。その時に聞かれた以下の3つの質問には驚いた。日本の会社の面接では当時はまだ一般的ではなかった質問だったからだ。

(1) What makes you different from everyone else around you?(あなたは周囲の人たちとどう違いますか)
(2) How will you add value to our company? (あなたはうちの会社にどんな貢献ができますか)
(3) How much money do you want?(給料はどのくらい欲しいですか)

 
ありがたいことに、面接試験には無事合格できたが、数日後の大学院入試の発表もあり、そちらにも合格したので、貿易会社のほうは丁寧にお断わりした。

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 私自身の想い出を書き出せば、それこそ1冊の本を書かなければならなくなるのでこれくらいにしておくが、東京に出て以来、約60年間の長い年月が、気のせいか足早に流れて行ったようにも思う。その間に、いつも書くように、私は亡き妻に出会い、愛し合い、小さな家族を持ち、一生懸命にg生きて来た。余禄になったこれからの人生、ほんとうにいつまで生きられるか分からないが、瞑目(めいもく)するその日まで、私は私の《天職》である「英語の辞書作り」を続けて行きたいと思っている。
 この歳になっても、若い人たちに「勝る」とまでは言わないが、少なくとも「劣らない」とはいつも思っている。このブログ記事や私のホームページに掲載した大量の記事や論文を読んでもらえれば、そのことは分かってもらえるはずだ。

 亡き妻がこの世にいないことが何よりも切なく、かつ寂しいことだが、こうして命を長らえさせてくださっている、私の心臓バイパス手術の執刀医I先生のご恩を忘れないためにも、残りの人生を一生懸命に、大切に、生きて行きたいと思っている。来年もまた今日の日を迎えることができるだろうか。

Be still prepared for death:
            and death or life shall thereby be the sweeter.
                                                                ―W. Shakespeare
静かに死に備えよ、
            然らば死も生もそれによってさらに甘美ならむ。
                                                                ―W.シェイクスピア

【付記】今もって、亡き妻の命日と私の誕生日に胡蝶蘭を贈ってくれる旧山岸ゼミ生諸君がいる。皆それぞれの生活があるにも拘わらず、私たちのことを忘れないでいてくれている。「教師冥利に尽きる」とはこのことだ。

あれから8年が経った ― 妻の命日に

bench1平成21 [2009] 年の今日、午前1時20分、妻は息を引き取った。あれから丸 8 年が経過した。長い年月のようでもあり、つい昨日のことのようでもある。その後の私は毎日を「自分の人生最後の日」(the last day of my life)だと思いながら大切 に生きて来た。現役の教授の時 には、大学での授業・学生指導・公務 に全力を尽くしたが、退職後は、日英語研究・辞書編纂の仕事のことを除けば、 私の頭の中 には、四六時中、妻のことしかなかった。起きては妻との楽しかった日々を思い、散歩に出ては妻と歩いた道々を辿った左写真のベンチでは、散歩の途中、いつも妻と休憩した。また、眠っては妻の夢を 見た。

 17世紀イングランドの詩人George Herbert (1593- 1633)が遺したOutlandish Proverbs という諺集に収録されている有名な諺に Death keeps no calendar.死に暦日(れきじつ)なし)というのがあり、死arx1はいつ誰に訪れるかは分からないということを教えているが、 私はそのことを妻(と愛犬のマロン)がこの世を去った時に痛感した。
  
   この世で最も愛する人を亡くした経験を持つ人だけが、私の心の奥底まで本当に理解してくれるだろう。同じ経験がなければ、人を慰めよう としても、どうしても言葉だけのもの、表層的なものになりがちだ。そのことを、イギリスの詩人で政治家だった Sir Philip Sidney  (1554 - 1586) が 古い諺にして残している。All is but lip-wisdom that wants experience.経験がないのは口先だけの知恵)と。もちろん、人間は 他人の気持ちを慮(おもんぱか)ることはできる。だが、 Sidneyのその言葉は真実でもある。  

 妻が旅立ってから、再婚を勧めてくれた友人もいれば、散歩の途中で知り合った女性たちで私をお茶に誘ってくれた人もいる。それはありがたいことだが、私の心は妻以外の女性のことを考える余裕も欲flp1求もない。願わくは、生まれ変わったら、また妻にプロポーズをしようと 思っているから、この世での《浮気》はご法度と自分に言い聞かせている。古めかしい言い方だが、それが《男の純情》だとも思っている。
 妻に先立たれたことは痛恨の極みだが、見方を変えれば、妻をこれほど愛していたことを実感できたのは、妻が先立ったからだと言えなくも ない。今でも妻が生きていたら、私は妻の存在も、私や家族の者たちへの愛情も世話も、何もかも《当たり前》だと捉えていただろう。 どこかのコマーシャルではないが、「おーい、お茶!」と言えば、お茶が運ばれて来た。空腹になった頃には、「あなた〜、お食事の支度が できましたr12xよ〜」と声を掛けてくれた。論文や著書が出来上がると一番喜んでくれたのは妻だった。「あなた、良かったですね。」 その一言が 聞きたくて私は人の倍も三杯も働いた。
 
 すでに何度も言及したように、昨年の初夏には心筋梗塞を患い、心臓バイパス手術を受けて、九死に一生を得た。「これで私の人生も 終わりだろうな。」と思いつつ、手術台に上り、9 時間近くの手術のあと、集中治療室 (ICU) で3日後に覚醒した。まだ、妻のところには行けなかったらしい。そう思いながら、上記したとおり、私は毎日を「自分の人生最後の日」だと思いながら大切 に生きている。例年通り、妻には妻が好きだった胡蝶蘭を供えた。
 I WAS ALWAYS THE BEST ME WHEN I WAS WITH YOU.
        I MISS YOU SO MUCH.
       YOUR HUSBAND AND GREATEST ADMIRER, KATSUEI.
【付記】あれから8年も経つのに、妻の命日には、今もって供花として豪華な胡蝶蘭を贈り届けてくれる出版社と教え子たちに心から感謝している。誰よりも妻の魂魄が喜んでくれていることだろう。たぶん、かつて書いた「私が胡蝶蘭にこだわるわけ」を読んでもらった結果だと思う。ありがたいことだ。

定期検診に行って来た。

kl2午前中にいつもの病院へ定期検診に行って来た。今朝は心電図検査と一般撮影検査(胸部レントゲン撮影)だった。その結果を待って主治医の検診を受けたのだが、幸いなことに、その二つの検査では、これといった異状は見つからなかったようだただし、「心臓超音波検査」を実施しなかったためか、精密なことは断言されなかった。私としては一安心だが、次回に予定されている血液検査が気になる。血液検査では、本当に様々なことが判明する。素人にはただただ驚くばかりの医学(血液学)の発達だ。
 
 病院に行き、廊下の椅子に座って、検査の順番を待っていると、「健康であること」の有り難さをしみじみと感じる。目の前をストレッチャーや車椅子で診察室・検査室・手術室に向かう人、弱々しそうな、杖を頼りに、おぼつかない足取りで、ゆっくりゆっくり歩いている人、身内や看護師に腕を抱えられながら歩いている人、それこそさまざまな病人・患者の姿を見かける。

 帰り際、駅構内の展示コーナーに美しい百合の花が活けてあるのに気付いた。亡き妻と同じ流派だなと思いながら、それを活けた人の名を見ると、亡き妻から直接聞いたものだったか、亡き妻が持っていた名簿に収録されていたものだったか、私にも見覚えのある人(女性)のものだった。なぜか、懐かしい人の名を見たような気がして、携帯カメラで一枚その写真を撮って来た。華道の成果は見る者の心を和ませ、潤わせ、豊かにしてくれる。暑い真夏の太陽の下を汗を掻きながら帰宅した(去年の今頃は、杖無しでは歩けなかった)。

今月の定期検診に行って来た。

t先週5日(月)、「心臓超音波検査」と「心電図検査」(トレッドミル運動負荷)を受けるためにN病院に行って来た。トレッドミルを使っての検査はけっこうつらかった。残念ながら、医師が要求した [期待した] 運動の(たぶん)8割くらいしか達成できなかった。

 その検査結果を聞くために、また、いつもの血液検査と担当医の検診のために、今朝一番で、同病院へ行って来た。「心臓超音波検査」、「心電図検査」、「血液検査」の結果、特に大きな異常は認められないが、心臓の動きが昨年の手術後の検査の時よりもやや劣っているのが認められると診断された。年齢のせいで心臓が徐々に弱っているとも考えられるし、検査時に一時的 に観察された症状かも知れないので、次回、もう一度「心電図検査」と「一般撮影検査」を行ってみましょうということになった。
 
 今となっては、医師から何を言われても驚くこともないし、心配に思うこともない。願わくは命の終わりの日まで、我が国の英語辞書の改善・改良に少しでも貢献していたい、そう思うのみだ。あとは神ならぬ身では、私自身がどういう最期を迎えるのか、見当さえつかないが、出来るだけ我が子たちに面倒を掛けない終わり方をしたい、そう願っている。

   帰りに、私が入院していた病棟のナースセンターに立寄って、何人かの看護師さんたちと言葉を交わして来た。1年前の私のことをよく覚えていて下さったことが嬉しかった。そのあと、ラウンジでお茶を飲みながら、私の年代の男性患者のお一人と20分ばかり雑談をした。
 

《終活》のこと―この世との別れの日まで(続)

y3私は昭和39年(1964年)5月、つまり東京オリンピックの年(オリンピックは同年10月)に自動車運転免許証を取った。貧乏学生だった私にとって、ドライブだのクルマ遊びだのは無縁のことで、あくまでも自動車運転免許証があることでアルバイト料が上がることが期待されたからという理由による取得だった。当時は大型自動二輪も運転できる免許証だったから、法規変更後はそれを持っていることでオートバイ好きの学生諸君からはずいぶんと羨ましがられた。したがって、もう53年間もその自動車運転免許証を持っていることになる。命に係わる大きな事故もなく今日に至ったことは幸いだ。今の免許証は2年後の平成31年(2019年)の誕生日で失効する。
 小型船舶操縦免許証 はそれよりもずっと新しく、取得したのは平成15年(2003年)2月で、一度だけ免許証の更新講習を受けた。有効期限 は来年の2月だ。

 自動車運転免許証 は、その有効期限が来たら、所轄署に行って、 自主返納手続きをして来るつもりだ。愛車を手放したこともあるが、何よりも加齢 に伴う身体機能や認知機能の低下によって運転に不安を感じる年齢になったから、自損事故はもちろんのこと、他人を巻き込んだ大きな交通事故を起こさないためにも免許証の自主返納は為すべきだと思っている。そうして運転経歴証明書の交付を受けるつもりだ。小型船舶操縦免許証 にはそういった制度はないので、更新講習 に行かなければよい。

 自分でも不思議なほど冷静に「《終活》のこと―この世との別れの日まで」のことを考えられるようs6xになった。昨日書いた「諦観」の境地と言うところだろう。若い頃は、正直なところ、「死ぬこと」が怖かった。「今死んだら妻子はどうなるだろう。仕事はどうなるだろう。」、「死んだあとの私の魂はどうなるのだろう、どこに行くのだろう。」などと寝床で考え始めると、目も頭も冴えて眠れなかった。だが、妻を初め、ほとんどの愛する者たちがこの世から去り、私の二人の子供たちもそれぞれ連れ合いを持った頃から、私の「死への恐怖」はまるでなくなった。死を「当たり前のこと」と捉えられるようになったのだ。昨年5月、6月の二度の入院の際にも、「死への恐怖」はまったくなかった。願わくは、「病まずにコロッと」死にたい。「苦しまずにコロッと」と言い換えてもよい。そういう死 に方だけが私の切なる願いだ。

白露の 淋しき味を 忘るゝな ― 芭蕉

《終活》のこと―この世との別れの日まで

y2平成27年(2015年)3月末日を以って、40年数年務めた大学教員を退職したのを機 に、私はいわゆる《断捨離》を始めた。以前書いたように(こちら)、約13,000点あった洋書(約7,000点)・和書(約6,000点)の内、今後も必要だと思われるもの各種データベースだけを残して処分した。《マニア垂涎(すいぜん)の逸品》と称しても過言ではない書物が何点かあったが、それらは新進気鋭の学者・某氏への贈り物とした。世界中の英語・言語学者・辞書編纂家等とやり取りした手紙の類も一緒に撮った写真も処分した。

 昨年の5、6月、思いがけずに罹った心筋梗塞が原因で心臓バイパス手術を受けるために二度入院したが、そのことが私の《断捨離》にいっそうの拍車をかけた。明海大学まで十数年間、私の足となって快適に走ってくれた、愛車 Porsche 911 Carrera も手放した。一度の故障もなく、「さすがにポルシェ!」と私をうならせた。趣味である釣りのために、同じく十数年前に購入し、横浜ベイサイドマリーナ (Yokohama Bayside Marina) に係留していた我が愛艇 Nissan Wingfisher-23EXII も手放した。偶然だが、後者の買い主の奥さんは高校生の頃、私が編纂した英和辞典を使ってくださったそうで、船名の Super Anchor は記念にそのまま使ってくださるそうだ。光栄だ。

 これもすでに書いたように(こちら)、私は「ゼロになって死にたい!」と本気で思っている。ささやかだが私がこの世で成し遂げたことは、結婚までは我が父母兄姉の、結婚してからは我が妻と妻の両親のお陰があずかって大いに力があった。だが、多くの身近な人たちの死を見て来て再確認できたことは、この世を去る時には何ひとつあの世へは持って行けないという当たり前のことだ。

 私の生涯の仕事、天職だと思っている英語辞書作り最近は、英語の文化的背景探りとその成果の収録に必要な書籍・データベース等は、まだ私の脳と四肢が健全に働くうちは残して使いたいと思っているが、それさえも心臓の病気との兼ね合いもあるから私の死を看取ってくれることになっている家族の者たちに大きな面倒をかけないように整理だけはしておこうと思っている。
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 運がよく、何とか心臓がこのまま正常にでもないのだが機能してくれれば、あと4、5年、ひょっとすると7、8年間は生きられるかも知れないが、いつ瞑目(めいもく)してもよいように、家族の者たちにしてもらいたいことを書き出したり、ファイルしたりしている。人間というものは《腹を決めれば》心が落ち着くものだ。最近になって、ようやく「諦観」(ていかん)の境地に達しつつあることを実感するようになった。

散りぬれば  あとは  あくたに  なる花を
                                     思ひしらずも  まどふ蝶かな ― 古今集


【付記】地元の横浜市立大学医学部地域看護学教室が主催している「前向き終活講座」では、受講対象者の年齢を40歳以上としていたが、確かに、その年齢の頃から自分の終焉(しゅうえん)を 視野に入れた日常生活を送る方が後顧の憂いがなくてよいだろう。

今日は妻の70歳の誕生日だ。

sam昭和22年2月19日、妻・小夜子は熊本県でこの世に生を受けた。それから62年7か月の人生を送り、私たち家族のもとから永遠にその姿を消した左の写真は通院中の某医大病院前の妻。だが、その魂魄(こんぱく )はこの世にとどまり、いつも私たちのそばにあると信じている。だから、いつも書くように、私は妻に対しては「死してなお、生けるが如く」接する。

 今日はその妻の満70歳の誕生日だ数え年を使う昔風な考え方では、《古希》は既に済んでいるが…。生きていれば盛大なお祝いをしてやれるのにと思うと残念で仕方がない。女性の平均寿命からすれば62年7か月は比較的《早世》だが、それを運命づけられていたのだから、それもまた仕方がない。
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 近所の人たち、とりわけ交流のあった主婦のみなさんが、今もって妻を懐かしみ、折あるごとに妻を褒めてくださる。私の愛犬たちが世話になっている獣医師のY先生もまた、妻の死を惜しみ、あれこれと妻を懐古してくださる。さらに、華道・書道等でご一緒くださった方々も同様だ。ありがたいことだ。
 妻を亡くしてしみじみと感じること、それは私という愚物(ぐぶつ)が 一人前の学者・辞書家として通用するようになったのは全て妻の功(こう)だということ。言葉では到底言い尽くせないほどのお陰を被(こうむ)った。

 英文学の恩師で、妻と私の仲人を務めてくださった桂田利吉先生が何度か言われた。「山岸、お前は果報者だぞ」と。先生は妻と私の人となりをよく見抜いておられて、そう仰ったのだと思う。言語学・英語学の前島儀一郎先生は、「あなたの奥さんの声は稀に見る美しい声ですね」と仰り、妻の声をもったいなくも“迦陵頻伽(かりょうびんが)”と形容してくださった(こちら参照)。また、いつも私を鼓舞してくださった郡司利男先生は私のイギリス留学の際の送別会で、「山岸君にはもったいない、美しいfl1奥さんだね」と仰った。私が褒めていただくよりもずっと光栄なお言葉だった当時の私には褒めていただけるようなところは何も無かったが

 妻が逝ってから7年5か月が経つのに、妻への私の想いはまるで褪(あ)せない 。今でもよく妻の夢を見る。初めて知り合った頃の写真、交際中の写真、貧しかったが楽しかった新婚の頃の写真、子供たちに恵まれて充実した生活を送っていた頃の写真、どの写真にも想い出が詰まっていて、それらを見ながら、不覚の涙を流す。今日は、妻が好きだった、相模湾が一望できる某レストランで、妻の誕生日を祝って食事をしたいと思っている。

Amor ch'a nullo amato amar perdona.―Dante
   (愛は愛せらるゝ者に愛を吝(おし)まず―ダンテ )

初夢、松の内、サビキ釣り

今年の初夢は亡き妻の夢だった。「あなた、ちゃんとご飯を食べてますか?」 妻は開口一番、私にそう言った。亡くなる前の痩身(そうしん)の妻だった。「うん、何とか毎日食べてるよ。でも独りの時はやっぱり寂しいし、何を食べても味気ないね。」 私はそう応えた。
 妻が居なくなって、もう7年4か月も経つのに、私の空虚な心は妻を火葬に付した頃のままだ。まず間違いなく、残りの人生をこの心情のままで過ごすのだろう。もちろん、私はそれを仕方がないことだと思っている。

 『春秋左氏伝』に「事死如生礼也」と出て来るが、これが私の妻に接する時の信条だ。「死者に仕える時も生者に仕えるようにするのが礼儀である。」という意味だが、私が常々言う「死してなお、生けるが如く」の発想のもとになった教えだ。魯迅もどこかで、「死者が生きている者の心の中に埋葬されぬならそれこそ本当に死んでしまう。」と言っていたはずだ。
 また、『易経』には「従一而終也」と出て来る。これは、「婦人は一人に従いてその生を終わるべきものなり」という意味だが、私は「婦人」を私に置き換えて、妻への節操を守る覚悟で今日に至っている。

忘れんと思ふ心こそ、忘れぬよりも思ひなれ―謡曲・綾皷・天皷      
一樹の下に住みて、同じ流を渡るも、この世一つの事ならず―平治物語巻三 

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正月は元日から1週間、毎日、我が《愛艇》に通い、昼間はそこで過ごした。マリーナ内では釣り、特に投げ釣りとルアー使用は禁止されており、そういう釣り人がいると監視カメラがそれをキャッチしてマリーナ内に禁止放送が流れるが、自艇の縁(へり)に垂直に垂らすサビキだけは“大目”に見てくれているようで、マリーナ従業員・警備員の咎(とが)めはなく、禁止のための放送も流れない。心臓手術をしてからの私は一人で東京湾に出ることに危険性を感じるし、ニトログリセリンを常時手放せない状態だから、自艇でそのサビキ釣りだけを楽しんでいる。それでも結構な魚種が釣れる。海タナゴs5、メバル、カサゴ、ソイ、キス、アナゴ、ウナギ、ボラ、ヒラメ、アジ、コチ、ヒコイワシ、エイ(これが一番重くて厄介な存在)などがサビキに掛かる。最近は大きな海タナゴがよく釣れる。この魚を好まない釣り人が少なくないが、私はこれを刺身にして青ジソドレッシングをかけて食べるのが好きだ。先日は二夜大きなアナゴを釣った。かば焼きにして食べたが、じつに美味かった。残念だったのは2日続けて、3、4万円もするリールを竿ごと海中に持って行かれてしまったことだ。まず間違いなく、大型のボラの仕業だろう(それからは竿に紐をつけるようになった;専門的には《尻手ロープ[ベルト]と呼ぶ)。息子からはだいぶ油を搾(しぼ)られた。

 毎日通う私に一羽のウミネコがなつくようになった。羽の色から推測して幼鳥と成鳥の間ぐらいだろう。最初は隣の船のオーニング(こちら参照)にいたが、その後、私の竿先(上写真)に来るようになり、今では我が《愛艇》のスクリューエンジンの上にやって来て、そこで私が与える魚肉を待つようになった(右写真)。可愛いものだ。

Die natur ist die beste  Lehrmeisterin.―Ein Deutsche Sprichwort
    (自然は最良の教師である―ドイツの諺) 

72歳の誕生日を迎えることが出来た。

car5今日は私の72歳の誕生日だ。今回の誕生日を迎えられたのはひとえに恩賜財団N病院の循環器内科のK先生と心臓血管・呼吸器外科主任部長の I 先生を初めとする、何人もの医師・看護師の皆さんのお陰だ。ICUで手術3日後に朦朧(もうろう)とだが意識が戻った時、皆さんが神々(こうごう)しく見えた。、また私の体の異常に気付き、救急で入院のための手続きをとってくれた私の長男夫婦にも改めて礼を言いたい。特に、息子の機転・実行力がなければ私は今頃死んでいたか、死に瀕していたはずだ。当時の私の心臓と血管の巡りはそれほど悪かった。

 ところで、日本人が一般家庭で誕生日を祝うという習慣は、とりわけ戦後、欧米(特に米国)の影響で広まったものと思うが、私の小学生時代にはすでにそういう考え方が広まりつつあったように記憶する。ちなみに、昭和32(1957)年、私が中学1年生だった頃その頃、山口県小野田市に居住、クラスの友人たちとお互いのうちで産まれて初めて《誕生日会》なるものを催し始めた。

 それ以前の日本人は、日本人が正月にいっせいに歳を取ったから、各人の誕生日を祝うという感覚はなかったあったとすれば、西洋の影響を受けた《上流階級》の日本人だけだっただろう。我が家両親はもともと新潟県出身では大晦日の晩を《歳取りの晩》と称して、搗(つ)いた餅を中心にご馳走を作って皆で食べ、皆で1つ歳を重ねた。身内以外の者を呼ぶことはなかったから、客は全て断った。一度、兄の一人が近所の友人を夕方に連れて来たことがあるが、父は兄をたしなめて直ぐにその友人に帰ってもらったことがある。ちなみに、家は内側からきちんと鍵を掛けた。これはおそらく「歳が逃げて行かない」ようにという考え方に影響された行為だろう。
 明治36(1903)年生まれの父は昭和60(1985)年に、明治37(1904)年生まれの母は平成3(1991)年に、それぞれ亡くなっているから、二人とも80歳を超えて生きたことになる。ひょっとすると、私はあと8、9年は生きて父母の歳近くに達することができるかも知れない。だが、若くして死んだ兄も数人いるから、神ならぬ身に、これだけはわからない。

  徒然草に言う。「命長ければ恥おほし」と。だが、70歳を超えた頃から、私は荘子の「吾が生や涯(かぎ)りあり、而(しこう)して知や涯りなし。」という言葉を噛み締めるようにccなった。私はこれを「人間の知識欲望には限りはないが、命には限りがあるから、心して養生せよ」というふうに解釈して、とりわけ手術後は《養生第一》に毎日を送っている。また、同じ荘子の教えが胸を突く。「我を佚(いつ)するに老を以ってし、我を息(そく)するに死を以ってす。」(天の神は、我々に楽しみを与えるために老境をもたらし、我々を休ませるために死をもたらす。) 現在はまさに天が「我を佚する時」だと思うから、せっかく助かった命と共に毎日を大切に生きようと思う。天が「我を息する時」まで…。

【付記】 72歳と言えば、ノーベル文学賞受賞者だった作家の川端康成さんが逗子マリーナマンションの1室でガス自殺をしたのがその年齢だった。また、ピアニストとして著名だった中村紘子さんも72歳で亡くなっている。漫画家の赤塚不二夫さんも同じく72歳がその没年だ。

【後刻記】今日は嬉しいことが重なった。私が法政大学専任講師になって初めてクラス担任になった時の学生T君から誕生日祝いが贈られてきた。すでに62歳になっているそうだ。そして、私の明海大学の最後のゼミ生諸君からも誕生日を祝ってもらった。「終わり良ければすべて良し」という言葉があるが、私の場合、最初も最後も良かった。教師冥利に尽きるとはこのことだろう。皆がいつまでも健康と多幸に恵まれますように。

【後日記】イギリスの著名なロック歌手ミック・ジャガーは何と、72歳で8人目の子供を授かったというから《脱帽》だ(詳細こちら)。

あれから7年が経った ― 妻の命日に

sayoko平成21[2009]年9月3日(木)午前1時20分、これまでに何度も書いたように、妻は京都・山科(やましな)の某病院において、62歳7カ月という、現代女性の平均寿命からすれば比較的若い年齢でこの世を去った。あの日、正直なところ、私は天を恨み、地を呪った。《母》を失った我が子たちのほうがよほど冷静だった。
 
 あれから7年が経つ。だが、私にとってこの7年間は、日数にして2555日という時が経過しただけで、精神的にはあまり変わっていない。「あまり」と書いたのは、妻が私の目の前から永遠に姿を消したという事実を最初の何年間かは認められなかったのだが、今ではその点をはっきりと認められるようになっているからだ。大学生だった頃の妻の姿(左写真)、妻の優しい声と微笑み、妻との充実した日常生活、精一杯の子育て、家族で生活した英国ロンドン、等々、その想い出は今も何も変わっていない。生き生きと私の脳裏に刻まれていて、少しも薄らぐことがない。妻の夢もよく見る。 
 
 最初の3、4年間は本当に辛かった。私を悩ませたのは、膵臓癌で余命いくばくもないことを医師に宣告されてから、実際にこの世を去るまでの間、妻はどのような心理状態だったのだろうかということだった。妻の気持ちに多少なりとも寄り添えたと感じたのは、この5月と6月に私が心筋梗塞を患い、心臓バイパス手術を受けるために入院した際だった。病院のベッドで夜ごと不整脈が続き、苦しむ中、万一の場合を考えて、私は死を覚悟し、我が子たちに向けて遺書を書いた。その時に、「死を覚悟するとはこのような心理状態になることなのか」と思った。だが、私としては、この世での勤めは精一杯やったつもりだし、愛する妻のもとに行けるのだから…と考えて、死ぬことを少しも怖いとは思わなかった。
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 その最初の3、4年間、幼な子が迷い子になり、切なく母を探し求めるように、私は年甲斐もなく毎日のように妻を求めた。だから、その間中、妻の持ち物はほとんど何も処分できないでいた。不覚の涙を流すこともしばしばだった。40年間も共に寝起きをした仲だから、妻の早過ぎる死はどうしても受け入れがたかったのだ。作家・城山三郎氏の『そうか、もう君はいないのか』(新潮社)を読むと、氏も私と同じ精神状態を体験なさったようだが、書名が氏の辛いお気持ちをよく表しているように思う。 

 これまで何度も書いたように、今日、私が在るのは全て妻のお陰だ。その意味で、学者として、英語辞書編纂家として、ほとんどの仕事を成し遂げた頃に妻との永訣があったことがせめてもの救いだった。これが、もし、私が30代、40代の頃の出来事だったとしたら、と想像するだけで恐ろしくなる。私はおそらく何も手に着かず、仕事らしい仕事をする元気も意欲も失せてしまっていただろう。精神的廃人になっていたかも知れない。もちろん、私は「貞女、二夫に見(まみ)えず」の逆で、再婚は決してしなかっただろう。それは妻の死後も変わらなかったし、今後もそうだ。私にとって、妻の存在はそれほど大きかった。
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 これも繰り返して書いたことだが、私にとって、妻は女性として、妻として、母として、社会人として、全く文句の付けようのない素晴らしい存在だった。私のこの鋭敏なる耳目をもってしても、妻の日本語に文句を付けたくなるようなことは一度としてなかったから、私が和英辞典を作る時には、本当に役に立った。今思ってもありがたかった。 

 この7年間、妻に対しては反省ばかりの年月だった。もっと話を聞いてやればよかった、もっと折りを見てあちこち旅行に連れて行ってやればよかった、もっと頻繁に買い物に付き合っておけばよかった、もっと妻の立場に立ってものを考えればよかった、もっと外食をする機会を持てばよかった、もっと妻の趣味嗜好を知る努力をすればよかった、等々、今となってはまさに「後悔先に立たず」だ。胸を張って誇れるところなど殆どない、まことに身勝手な、恥じ多き夫だった。 

 いつも言うように、私は人間の肉体が滅びても、魂魄(こんぱく)までもi2滅びるとは思っていない。人間の死後、魂魄も共に滅びるという科学的証明など為されたことがない以上、魂魄は人間の死後も我々の周辺に存在すると考えても不自然ではないだろう。だから、私は「死してなお、生きているがごとく」に振る舞いたいのだ。

  昔人(せきじん)は言った。「逢うことを喜ぶなかれ。これ別るゝ始めなればなり。」と。だが、私はやはり、この世で妻に出会えたことを、何ものにも代えがたい、ありがたいことだと思う。若き日、妻と出会い、妻を愛し、家庭を持ち、子供たちに恵まれ、楽しい日常生活が送れたことは、私にとって人生の《至宝》とも称すべきものだった。妻をこの世に送ってくれた、今は亡き岳父・岳母には心の底から感謝している。妻の没後7年目の今日、改めて妻への思慕を強く深くした。合掌

【付記1】7年も経つのに、妻の命日を忘れずに、いつも供花をして下さる出版関係者、私のかつてのゼミ生諸君、親類縁者、本当にありがたい。亡き妻もさぞや喜んでくれていることだろう。

【付記2】昼には、妻が好きだった湘南佐島の某レストランに行こうと思っている。何よりも《抹香臭さ》を嫌った妻だったから、相模湾を眺めながら、明るいレストランで《共に》食事をすることを好むだろう。

今日は妻の69歳の誕生日だ。

tulip1妻がいなくなってから妻の誕生日を祝うのは今回で6回目だ。いつも書くように、妻に対しては、生きていた時と同じように接するように心がけている。だから誕生日も同様に祝う。もう独り身の生活には慣れてしまった。だが、平成21年[2009年]9月3日以来、それこそ1日たりとも妻のことを忘れたことはない。片時も忘れなかったかと問われれば、多少心が痛むが、妻のことを思い出さない日はなかった。これもくどいほど書いて来たことだが、私は自分の人生を振り返って、本当に幸せな男だったと思う。もうここらあたりでいいだろうということで、妻は私のもとを去って行ったのかも知れない。「(あなたと結婚したのは)ボランティア、ボランティア」と笑いながら繰り返すのが妻の口癖だったから、多分その「f1ボランティア」の仕事も終わったのだろう。
 
 元自民党衆院議員のMK氏(35)が地元・京都で某女性タレント(34)を伏見区の自宅に招き入れて不倫に及んだことは周知のとおり。妻で同じく自民党のKE衆院議員(37)の妊娠中の出来事だったという。こういう男性は私とは考え方が対極にある人物だと言っていい。はっきり言って、最初から女性を《遊び相手》としか見ていないのではないかと疑うに十分な言動をしている。

 妻の誕生日にMK氏に言及することは芳しいことf2ではないが、男として妻への愛情の示し方の相違を示すには好例だと思う。自分の子供を、それこそ《命がけ》で産んでくれる女性への尊敬と感謝の気持ちがいくばくかでもあれば、妻以外の女性を場所もあろうに自宅に連れ込むなどということはあり得ないはずだ。《イクメン》を政策に掲げ、「妻を支えるいい夫でありたい」などと嘯(うそぶ)いていた《衆院議員》だったが、今では単なる《ゲス不倫男》と揶揄・嘲笑されている。

 いずれにせよ、今日は我が最愛の妻の69歳の誕生日だ。61歳の若さで心ならずも私に先立ったが、その妻を想い出しながら、妻の好きだった某所で昼の食事をしようと思う。

あれから6年が経った―妻の命日に

fl1今から6年前の今日も木曜日だった。正確には、平成21[2009]年9月3日木曜日だ。午前1時20分、京都・山科の某病院において、妻は息子に看取られながら62年の生涯を終えた。 あれから丸6年、仏式で言えば今日は妻の《7回忌》になるが、妻の遺言により法要などはいっさい執り行わない。
 私はその6年間、一日たりとも妻のことを忘れたことはなかった。 本ブログの記事として、その後の私の胸中や心情はあらかた書いたつもりだった。だが、書いても書いても書き切れないほどの思い出が、月日の経過と共に蘇(よみがえ)ってくる。
 最初の1、2年間はとりわけ苦しかった。授業中、悲しい顔を学生・院生諸君に見せるのは還暦を過ぎた《教育のプロ》としては恥ずかしいから、精一杯感情を抑えて、よい授業ができるように努めた。だが、授業が終わって研究室に戻り、そこに飾ってある笑顔の妻の写真を見るとS1、恥ずかしながら涙があふれて来てどうしようもなかった。
 食事はほとんどいつも砂を噛む”ようなものだった。当然のこと、体重はどんどん落ちていった。10数キロは痩せただろう。
 そんな、どうしようもない自分の気持ちを何とか抑えることができたのは、正直なところW. シェイクスピアのお陰だ。『ロミオとジュリエット』(Romeo and Juliet)の3幕5場で、ジュリエットの母であるキャピュレット夫人(Lady Capulet)が言っている。

「悲しむのは愛情の深いことを証明するけれど、あんまり悲しむのは、いつでも知恵の足りない証拠ですよ。」
(Some grief shows much of love, But much of grief shows still some want of wit.)

 その通りだと思った。だが、同じシェイクスピアが『ヘンリー6世』第3部(Henry Part3;2.1)では次のようにも言っている。

「泣くと悲しみの深さが軽くなる。」
(To weep is to make less the depth of grief.)

 この6年間、私はこの2つの文句の間を行きつ戻りつしながらやって来た。告白すれば、同じ『ヘンリー6世』第3部(4.3)に出てくるエドワード王の
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「運命の課するものを人間は忍ばねばならぬ。」
(What fates impose, that men must needs abide.)

という言葉も私の自制心を正常に保ってくれた。シェイクスピアという人は、いったい、どれほど深く、広く人間というものを観察した人なのだろう。私たちの日常生活でぶつかる喜怒哀楽に関しては、まず間違いなく全て、何らかの言及をしている。汲めど尽きせぬ知識と情報と《救い》の宝庫である。昔、わが英文学の師・桂田利吉先生のご指導の下にS.T. コールリッジのBiographia Literaria (『文学評伝』)の訳出をお手伝いをした際、コールリッジが、「千万の心を持つシェイクスピア」(Our myriad-minded Shakespeare)と言っているのに出くわしたことがあったが、まさにその通りだと思う。ちなみに、私はシェイクスピア学者ではないが、その全作品を読み、芝居は昔、ロンドンでそのほとんどを鑑賞した。

 ちょど4年が過ぎた頃から、私の心構えに変化が生じ始めた。私の教え子だったcar5女性と、全くの偶然から息子が出会い、愛し合い、結婚をしてくれたからだ。おそらく二人は運命の赤い糸で結ばれていたのだろう。妻の意志が働いたのかも知れない。長年Cathay PasificのCAを務めていたにもかかわらず、さっさとその職場を辞めて息子のところに来てくれた。
 私には息子が、私の教え子、それも私のゼミ生、しかも私が「こういう子を息子の嫁にしたいものだ」と思っていた女性と出会ってくれたことが、奇跡のように思えて、無性に嬉しかった。そんな気持ちが私を前向きにしてくれ、残りの人生を明るく生きていこうと思うようになった。
 
 著名な作家・城山三郎さん、国立がんセンター名誉総長・垣添忠生さん、その他多くの著名人も、私と同じように、お連れ合いを癌で亡くされ、苦しい毎日を送って来られた。垣添さんはご自身が著名な癌専門医でありながら、「もう生きていてもしようがないな。」とまで思い詰められたそうだ。評論家・江藤淳さんのように、お連れ合いを亡くされたあと、実際に、自らの命を絶った方もいる。ご本人は遺書に「脳梗塞の発作に遭いし以来の江藤淳は、形骸に過ぎず、自ら処決して形骸を断ずる所以なり。」と書いておられたが、察するにお連れ合いをS2亡くされたあとの江藤氏はもう生きる希望も気力もなくされていたに違いない江藤ご夫妻は、私たち夫婦と同じで、大学生時代から相思相愛の仲だったと聞いている。みなさんの気持ちが痛いほどよくわかる。私も同じ苦しみ、悲しみ、喪失感を味わい、そういった感情に打ちのめされ続けたからだ。

 だが、もうあれから6年経った。だから、未来ある若い人たちの足手まといにならないように、残された人生を前向きに積極的に生きて行こうと思っている。それでも確かなことが1つ。私が生きている限り、私は妻のことは1日たりとも忘れないだろう。
妻は私の人生そのものであったし、最高の友であり相棒であり私の理解者であったし、闇の中の一条の光であったし、未来に向けての大きな希望と夢とであったし、絶望の中の確かな救いであったし、忘れたくとも忘れられない存在だったから…。

ついにゆく 道とは かねて 知りながら きのうきょうとは 思わざりしを―伊勢物語

【後刻記】この一文を書いたあと、午前中に、出版社、親戚、教え子たちから次々と供華(くげ) が寄せられた。妻のことをいつまでも忘れないでくださっていることに、私は心の底からありがたいと思っている。人間、忘れ去られることがきっと一番寂しいことではないかと思う。

「名誉教授」の称号をいただいた。

thinkウェールズ生まれの英国の詩人George Herbert (1593 – 1633) はJacula Prudentum (『賢者の毒舌』、1633)の中で、Hell is full of good meanings and wishings.(地獄には善なる意図と願いが満ちている)と書いている。これはその後に出来た、よく知られたHell is paved with good intentions.(地獄は善意が敷き詰められている)という諺の源になったものではないかと思う。両者共、言っていることは「人は善行を心がけながら悪行で地獄に落ちる」いう意味だ。W. Shakespeareの All's Well That Ends Well (「終わりよければ全てよし」)に通じる考え方だ。

  じつは今日、明海大学で行なわれた「名誉教授称号記授与式」に行って来た。“正教授”(full professor)の職だけでも法政大学で3年間専任講師は4年間、助教授は9年間、明海大学で(浦安キャンパス開校以来)27年間、計30年間の長きにわたって大過なく勤め上げたのだから、当然と言えば当然だが、「称号を授与しよう」という大学側の声や決定がなければ実現しないものだから、ありがたくいただいて来た。他に3名の人たちが名誉教授になった。

 上で紹介した2つの諺を引用した理由は、たとえこうして「名誉教授」(emeritus professor / professor emeritus) の称号をいただいても、同じ英語学を研究分野に持つ菅山謙正氏の例のように(こちら参照))、その後の“不名誉”によって剥奪され得るものだからだ。厳しく自戒しなければならないと思っての引用だ。この朗報を最初に報告したのはもちろん今は亡き妻だ。長年月にわたる妻の無償の支えがなければ約半世紀にわたる大学教員生活はあり得なかった。

A hundred years cannot repair a moment's loss of honour.―English Proverb
  名誉は一瞬間に失はれ百年なほ之を回復し能はず―英語の諺

平成27[2015]年4月1日早朝、気分は爽快だ。

image今日から4月だ。昨日一杯で、明海大学・同大学院での仕事を公式に全て終えた。何度も書いたように大過なく半世紀の長い教師生活を終えることが出来た。これからは残された時間を辞書編纂・改訂作業にだけ費やすことができる。 
 
 長年の習性とは面白いものだ。最後の会議(大学院連絡・調整会議)の終了時に、委員長が「次回の会議は…」と、その日時を言った時、私はそれを書き留めようと手帳をめくっていた。それからすぐに、「ああ、そうだった。私は今月一杯で退職する身だから、もう次回のことを気にかける必要はなかったんだ」と思い、一人苦笑した。  

 近所の桜の樹4、50本が今満開だ。「私に命を少し分けてちょうだい…」 そう言いながら1本の桜の樹に抱きついていた生前の妻の姿を思い出す。歩んで来た自分自身の過去に何の未練もないが、妻にだけは大きく未練が残る。妻がこれほど大きく深く私の人生と私の心とを支配し続けるとは、正直なところ思わなかった。言葉ではとうてい言い尽くせないほど有難い存在だった。そしてそんな稀有な女性をこの世に送り、私に出会わせてくれた岳父と岳母には今も心の底から感謝している。 平成27[2015]年4月1日早朝、気分は爽快だ。

【付記】昨日で“教授”職を終えたので、近日中に、本ブログの名称を変更する予定だ。

明海大学・同大学院教授を退任しました。(続)

enoshima昨日から今日未明にかけて、多くの卒業生諸君から退職祝いのメールをもらった。数年前、博士号を取得して帰国した台湾のCさんからも立派な日本語の祝辞をもらった。積み切れないと思えたほどの多くの花をクルマに積み込んで帰宅したのだが、帰宅するまでの1時間数十分間、花の香りの立ち込めた車内で私は良き学生諸君、院生諸君に恵まれて本当に幸せだったなあ、と年甲斐もなく、感傷に浸った。

 帰宅して、夕方の食卓に付いたら、息子の妻(つまりかつての私の教え子・ゼミ生)が、退職祝いの席を用意し、ご馳走を揃えてくれていた。しかも美しい花束まで用意して…。乾杯の時の息子からの「お父さん、長い間、ご苦労さまでした」という一言が身に沁みて嬉しかった。
  
 だが、そんな中にあって、ホンネというか、正直に私の心の内を言えば、退職の日の今日、妻が生きていてくれたらどんなに幸せだっただろう。もちろん周囲の身内の言葉が嬉しくないはずはない。だが、妻の声こそ何物にも換えられない、g私にとっては最高・最上の宝物なのだ。霊前の妻の写真はいつもの笑顔で私を見つめている。「今日で大学・大学院教授を終えたよ。長かったけれど、楽しく、充実した毎日だったよ。新婚生活ならぬ“貧困生活”を始めたあの頃が懐かしいね…」 妻の遺影にそんな言葉をかけながら妻に感謝した。

 新婚生活を始めたのは昭和44[1969]年12月21日、千葉県習志野市谷津(かつて谷津遊園があった)の小さな新築アパートからだった。風呂は20分ほど歩いた所にある公衆浴場を使った。「出るよ」という合図に当時流行っていた歌を口笛で吹いて女湯の妻に知らせた。だが、実際にはいつも妻をその入り口で待たせた。帰り道に1山100円のミカンを買って帰り、二人でコタツで暖を取りながら、それを食べた。まさに、その4年後に流行ったかぐや姫の「神田川」の歌の内容そのままの生活だった。
 金銭的には豊かだった妻の実家だが、貧乏大学院生と結婚した妻は愚痴一つ言わずに私に付き合ってくれた。感謝してもし切れない。その妻のことを思うと私はいつも胸が一杯になり涙がこぼれる。この世ではもう二度と会えないかと思うと辛いが、あとしばらくすれば妻の所に行けると思えば、むしろその日が待ち遠しい。

【付記】左上の写真は私が大学4年生を終えて卒業式の日を待っている頃、妻は大学2年生を終えた頃、右上の写真は私が大学院修士課程の2年生になった頃で、妻は大学4年生になった頃。私は前島儀一郎先生のもとで英語学・言語学研究に、妻は桂田利吉先生のもとで卒業論文の「シェイクスピアの作品にみる童話性」の作成に、それぞれ余念がなかった。二人で過ごす時間は本当に貴重だった。ただただ懐かしい。この頃までには、私は大学院図書館に所蔵されていた英語学・言語学関係の書物はほとんど読んでいた。

明海大学・同大学院教授を退任しました。

K&S2本日、明海大学学位記授与式を終えた時点で、明海大学・同大学院教授を退任しました。

 本当に長い教員生活でした。修士課程時代の中学校非常勤講師2年間、博士課程時代の高等学校非常勤講師3年間を加えれば、私の教員生活は50年間(半世紀)にわたります。そのほとんどを大学で一般英語(講読・時事英語・英作文)、英語文法論、英語形態論、英米語比較論、英語史(古代英語から現代英語まで)、対照言語学(日英語、日独語、独英語)、比較言語学、英語翻訳論(理論と実践)を、また途中からは大学院で辞書研究特論(理論と実践)、言語機能特講、レキシコン研究特論、言語文化論を担当して来ました。

 日本全国が大学・学園紛争に荒れた時代 (昭和45 [1070] 年に結婚し、法政大IMG_3976 (2)学非常勤講師となり、その2年後、博士後期課程修了と共に法政大学の専任講師となりましたが、それ以来、多くの素晴らしい学生諸君・同僚諸氏と出会えて幸せでした。時代が時代でしたから、教師として、悲しい、辛い思い出も数々ありますが、そういうものは出来るだけ忘れるようにしていますが、実際にはなかなか忘れられません
 
 ささやかな誇りは、この半世紀の間、一度として、学生による「教員評価」の100点満点(10項目各10点、計100点;公式には各項目5点、計50点満点)で90点を下がることがなかったことです。80点を下がることがあれば、大学教員を辞めようと決意して臨んだ若き日から古希の年齢に至るまで、90点以上を保つことは正直なところ大変でした。とりわけ、社会状況の変化や日本人の価値観の多様化が明瞭になり、学生諸君との年齢差が大きくなるに連れて、教壇に立つことの難しさを実感することが増えました。私の持つ価値観や美意識が私の子供、否、孫と言ってもよい年齢の学生諸君のそれと衝突しかけたこともありました。

  私はこの長い教員・研究者生活を通じて、常に「迷ったら原点に返る」ように努めて来ました。詳しくはこちらをお読みいただきたいのですが、田部重治(たなべじゅうじ)先生、前島儀一郎先生ほか多くの先生方のご指導とご推挽(すいばん)をいただいたことを終生の喜びと誇りとに思い、上記のような決意をして半世紀をやって来ました。

 先月(2月)ze中旬、大学教授としての最後の年度の授業評価の結果が郵送されて来ました。それについては、こちらの「教員生活最後の授業評価」に書きました。有難いことに、最初の目標学生による授業評価では、100点満点で80点をくだらないことは維持できたということになります。その点が一番安心したところです。私との縁を結んでくださった全ての方々に感謝します。これをもっていよいよ大学・大学院教授としての“幕引き”とします。明日からは、残された人生 …… 願わくは、あと10年間…… を別の形で、精一杯活用し、最終的には“無”になって、この世を去りたいと思っています。最後に、若い頃から、約40年間、私を支え続けてくれた今は亡き妻・小夜子(左上写真)の霊に、またわが子たち、その連れ合いたちに衷心より感謝します。

 なお、大学教員になってからの仕事はざっと次のようなものです(書評・囲み記事は省略)。
1.辞書編纂編集主幹として英和辞典2点
         ●『スーパー・アンカー英和辞典』、
         ●『アンカーコズミカ英和辞典』)、
         編集主幹として和英辞典2点
         ●『ニューアンカー和英辞典』、
         ●『スーパー・アンカー和英辞典』)
         ほかに辞書ソフトを4点。
2.著書43点、うち単著27点(編纂辞書4点を除きます)、
         未刊行物10点(主にアメリカ口語英語、幼児英語学習関連)
3.専門論文・記事(英語雑誌・新聞連載を含む)1,042点
         (単純に言えば、1,042ヶ月間 = 86.8年間、毎月1回どこかの英語雑誌・新聞等に寄稿;
          実際には大学教員になってからの43年間、毎月2回の論文・記事を書いたという計算
          になります。)
4.講演・公開講座103回
5.日本の童謡・唱歌の英訳:140曲(内100曲は譜割り済み)
6.その他、莫大な量の記事を自分のホームページ(山岸勝榮英語辞書・教育研究)、および本
  ブログに書きました。

【付記】今朝大学に行くと、庶務課から、「先生にお花が届いています」と声を掛けられました。取りに行ってみると、卒業生の諸君からでした。庶務課から台車を借りて、それに載せて研究室まで運びました。学位記授与式が修了して研究室に戻って一休みしていたら、昨年度のゼミ生諸君がまたまた美しい胡蝶蘭を持って来てくれました。「教師冥利に尽きる」とはこのことでしょう。左右に写真をかかげておきました。きわめて厳しい教師でしたが、それに付いて来てくれた優秀な学生諸君です。最後に、庶務課に電話を掛けて、整理の済んだ研究室を点検してもらい、27年間使用して来た研究室の鍵を返しました。

今日は妻の68歳の誕生日だ。

rr3早いもので、妻が逝ってからもう5年5ヶ月が過ぎた。今日2月19日は、妻が生きていれば68回目の誕生日だ。いつも書くように、妻のことを一日たりとも忘れたことがない。いや、正直に言えば、いっときたりとも忘れたことがない。朝起きて、夜寝るまで、それこそ四六時中妻のことをfl2考えている。もうそれが習い性になったと形容しても好い。それは、たぶん、妻の遺灰が私の部屋にあるからだろう。墓を作って、その中に収めてしまえば、恒例のお彼岸など、年に何回かの墓参りだけということになる恐れがある。妻には生前、私の死後、子供たちに私の遺灰と混ぜ合わせて、それから墓を作ってもらうなり、散骨してもらうなりするからねと言ってあり、妻もそのことを了承した。あなたは海が好きだから、海に散骨して欲しいって言ってらしたけど、私は泳げないから海は嫌よ。湖が見える美しい山か丘にして…、笑いながら、そう言っていた亡くなる前の痩(や)せこけた、それでいて気shige1品に満ちた妻の顔が思い出される。そして、琵琶湖が臨める京都の某火葬場で62年という、比較的短い一生を終えた。
  この5年5ヶ月の間、妻の好きだった胡蝶蘭を一日として欠かしたことはない。いつも美しく豪華な対の胡蝶蘭を供えては、妻に語りかけている。妻は“抹香臭さ”を嫌ったから、同じ御香でもラベンダー、チョコレート、バラなど、できるだけ“派手なもの”を選んでは毎日5〜6回は焚くようにしている。

 この世でもう二度と会えないかと思うと、時々、胸が締め付けられるほど切なくなる。古稀を過ぎた身でありflsx0ながら、その姿は、幼い日、母に逸(はぐ)れて泣きじゃくっていた自分のそれと重なってしまう。このような切ない想いは、私のように、この世で一番大切な連れ合いを失くした者でなければ分からないだろう。逆に言えば、おそらく私と同じような思いをしている男性諸氏がたくさんおられるだろう。

 残された私がすべきことは何か。妻を想い、その冥福を祈り、妻の忘れ形見であるわが子たちや、その連れ合いたちの将来を想い、幸せになることを手助けし、今後とも出来るだけ迷惑にならないように、元気で前向きに生きて行くことだろう。遠からぬ将来、私も妻のもとに行けるが、今からその日が楽しみでならない。愛する妻が、敬愛し続けた岳父・岳母が、私自身の懐かしい両親や兄姉たちがいるところへ行くのだから、楽しみでないはずがなかろう。その日が来るまで、こちらで妻の誕生日を祝い、妻との想い出に浸りながら楽しく暮らすとしよう。今夜は妻を想って食事をしよう。

今日は私たちの結婚45周年記念日だ。

semif妻が生きていれば今日、二人で結婚45周年記念s2日を迎えられた。結婚以来、私は一度としてこの日を忘れたことがない。昭和44 [1969] 年12月21日の結婚式は私にとって最高の慶事だったからだ。私の人生は、妻と共にあった約40年間がもっとも輝いていた。今、二人の来し方を振り返ると、ただただ胸が熱くなる。

 いつも書くように、貧乏大学院生だった私のところに嫁いで来てくれてからというもの、私は自分勝手にただひたすら英語学・言語学関連の書物を買い込んだ。神田神保町の古書店は言うに及ばず、東京都内、近隣諸県の古書店のほとんどを訪れた。とりわけ、“希覯本”(きこうぼん)と呼ばれる、貴重で高価な本を何点も買って、家計に大きな影響を与えた。気が付いてみれば約13,000点もの書物があった。おそらく家が数軒建つほどのカネを使ったのではないか(別のところでも書いたが、そのほとんどは、いわゆる“断捨離”に倣って、妻の死後、処分した)。それにも拘わらず、妻は文句一つ、愚痴一つ言わずに、いつも私を支えてくれた。子育ても完璧にこなしてくれた。妻として、母として、女として、私は妻ほどの女性を知らない。そんな妻に対して、私はほとんど何も夫らしいことをしてやらなかった。私のような“欠陥人間”が今でも生きているのに、何の罪もない妻のほうが早世してしまった。私の一番大切にしていた(はずs1の)ものが私から思いのほか早く奪われたということは、それは私が受けるべき“天罰”だったのだろう。あの世で、あるいは生まれ変わって、もう一度妻に出会いたいと思うが、妻はまず間違いなく阿弥陀如来の極楽浄土に行っているだろうし、私の行く先は、おそらく地獄だろうから、二度と会えない確率のほうが圧倒的に高い。現世での行状を思えば、それも致し方のないことだ。

 結婚披露宴に参列し、新婚旅行に出かける私たちを東京駅まで見送りに来てくださった私たちの先輩・友人の半数近くはすでにこの世にない。まことに諸行無常としか言いようがない。もちろん、私の恩師のどなたも現世にはおられない。もう少ししたら、いよいよ私の番がやって来る。

 昨年度のゼミ生諸君4名(今年度の登録者は無)が、私たちの結婚記念日を祝って美しい胡蝶蘭を贈ってくれた。その日を覚えていてくれたことが何よりも嬉しかった。妻もきっとそれを喜んでいてくれることだろう。あと何回、この日をこの世で迎えることができるだろうか…。

蔵書の整理―約10,000冊を処分した

勝榮1こちらに書いたように、私の蔵書の点数は約13,000点だ(和書約6,000点、洋書約7,000点)。金銭的には、家が2軒建つほど使ったのではないか。昨日までにそのうちの約10,000点を処分した。勤務校の図書館で私の蔵書を引き取ってくれれば、それが一番好いのだが、大学側は教員の蔵書を引き取らないという方針だ。その理由はと言えば、どうも、「それほど膨大な書籍を置く場所がない。退職教員の蔵書を全て引き取っていたら大学図書館は“パンク”してしまう」ということのようだ。現在はデジタルの時代だから、紙媒体のものは不要ということでもあるようだ。確かにそうだとも思うので、きわめて貴重な書籍を含めて10,000点を希望する古書店に二束三文で引き取ってもらったり、学生に無料で分け与えたり、古紙として近所の子供会に寄付したりなどした。シュレッダーに掛けた書籍も多い。おかげで2台あったシュレッダーのうち1台は購入1年半後に完全に動かなくなった。

 以前、「ゼロになって死にたい」で書いたように、最後に残すものは、私がこの世で生み出した著作物だけにしたいと思っている。が、最近、それさえも全て処分しても好いと思うようになった。ちなみに、我が子に言わせれば、デジタル化して残せばスペース的にも好いそうだなるほど…

 約半世紀の間、あれほど熱を込め、食事代を減らしてでも買い込んだ貴重な書籍にまったく未練がなくなった。そう思えるようになった一番の理由は、これも何度か書いたように、妻との永訣だ。妻はこの世にあった時、あれほど情熱的に集めた品物(華道関係、書道関係、鎌倉彫関係、衣類関係等々)を全てこの世に残して逝った。大切にしていた装身具、とりわけ宝石類さえもあとに残して逝った。その現実を見た時、私は自分があれほど執着していたものに何の未練も感じなくなってしまった。“ボケ”なければの話だが、私がこの世を去る日までに辞書の仕事で必要な書籍は約1,000点だとみている。それだけはしばらく手元に置いておき、いよいよと言う時が来たら、家族の者に頼んで全て処分してもらうつもりだ。したがって、残り約2,000点もこれから処分するつもりだ。「ゼロになって死ぬ」ために…。

今日は妻の命日だ。

f3imagex奈良時代の貴族で歌人の大伴家持は「夢の逢ひは 苦しかりけり おどろきて かき探れども 手にも触れねば」と詠んだ。今風に言えば、「夢の中での逢瀬とはなんと苦しく辛いものだろう。目覚めて愛しいあなたのいる辺りを手探りしてもその手にさえ触れることができないのだから」ということになろう。

 妻が亡くなってから今日で丸5年が経った。時の流れはほんとうに早いものだ。その間、私は大伴家持によるその一首に詠まれている悲しみを嫌と言うほど味わった。医者から妻の余命が半年から1年と宣告された時、妻本人は言うに及ばずだが、私たち家族の者が受けた衝撃は言葉では言い尽くせない。皆が茫然自失だった。


 それから妻が亡くなるまでの期間はあっという間だった。我が子たちの献身的な世話があって、妻は海外旅行を含め、さまざまなところに観光旅行に行った。残された一刻一刻を大切に生きた。何度も書いたことだf8が、私は私にとって妻という存在がこれほどまでに大きく貴重だったということを、妻を永遠に失うまでしっかりとは気づかなかった。妻が私のそばにいてくれて、食事・洗濯・接客を含め、それこそありとあらゆる面倒を見てくれていたことを“当たり前”のこととして毎日を送っていたからだ。

 妻が亡くなってから3年間はほとんど何も手が着かなかった。下着やimage靴下・足袋など、妻が肌に着けていたものを除けば、妻の持ち物の多くを処分できなかった。4年目に入った頃から、多少“思い切り”が良くなった。それでも、今もって処分できないでいる物も少なくない。それがあることで、妻との楽しかった想い出がいつもよみがえって来るからだ。《男の未練》というものだろう。

 私自身、妻が生前に子どもたちと行った場所に行ってみた。箱根ガラスの森美術館箱根ラリック美術館そこに展示してある“オリエント急行初島伊豆河津町桜祭り等々。本当は妻が生きている時に私f4が一緒をしてやればよかったのだと反省ばかりした。だが、我が子たちが同行してくれていなければ、独り旅などまず味気なかっただろう。


 あれから丸
5年。独りでいることにもだいぶ慣れた。それでも、夜の寂寥感・孤独感は言葉では言い表せない。これからいったい何年間、この思いを抱いて生きて行くのだろう。「大学を退職したら、あちこち旅行しようね」と言っていたことが果たせないままになった。これが抗しがたい私の運命なのだろう。色即是空、それを実感する…。

He that lacks time to mourn, lacks time to mend.― Sir Henry Taylor
   (哀悼の暇を有たざる者は悔恨の暇も有たず―サー・ヘンリー・テイラー)

【付記】今もって妻の命日に、妻が好きだった胡蝶蘭を供えて下さる出版社とその社員の方々、それに私の教え子たち、私はその方々に心の底から謝辞を述べたい。本当にありがとうございます。

「ゼロになって死にたい」!

b今朝の朝日新聞の新刊雑誌広告のところに「週刊現代」誌のものが載っていた。何気なく目を通すと、「無死(ゼロ)のすすめ」という文字が私の注意を引いた。「『ゼロになって死にたい人が増えています」、「静かにいなくなる準備」、「葬式はしない、墓は作らない、それでいい、70すぎたらカネ』『』『思い出を捨てよう」という言葉が並ぶ。
 昨今見聞きするメディアの表現では上記のものはなかなかよく出来ている。特に、「静かにいなくなる準備」、「70すぎたらカネ』『』『思い出を捨てよう」、この個所がいい。若い頃はそんなことなど考えもしなかった。三度の食事を一度にし、あるいは時に食事を抜いてまで、カネを貯め、その全てを“勉強”“研究”に注(つ)ぎ込んだ。結婚してからも同様だった。そのために妻に対する夫としての務めは最低の状態だった。しかも、妻を62歳の若さで失ってしまった。その頃から、私の人生観はすっかり変わってしまった。妻は自分の愛用品を全てこの世に残して、独り逝った。1本40万円もする注射を10本も、12本も用意してやっても、何の効も奏さなかった。カネの無益ぶりを痛いほど味わった。「葬式無用。弔問供物辞すること。生者は死者の為に煩わさるべからず」を遺言として逝った、「男はつらいよ」の“たこ社長”こと太宰久雄氏の生き方を私の妻も倣(なら)って逝ったこちらを参照;の言葉は大正・昭和期の洋画家・梅原龍三郎が初めて言ったもののようだ。私もそれに倣おうと心に決めている。だから、還暦の際の記念論集だの、古稀記念パーティーだのと言った、まさにあとに残る人々の貴重な時間やカネや労力を私のために費やしてもらうことを極力避けて来たし、これからも同様だ。したがって、来年3月に退職する際にも、極力その伝で行こうと心に決めている。
 
 13,000点もあった蔵書の三分の二以上はすでに整理した(こちらを参照)。今後もさらに整理するつもりだ。最後に残るのは、私がこの世で生み出した著作物だけになるはずだ。これだけはこの世に残しておいてもらいたいと願っている。その意味では完全な「ゼロ」ではないが、それに近くはあるだろう。“断捨離”の実行可能な部分は積極的に実行している(こちらを参照)。職場において「老兵は消え去るのみ」であり、残りの人生は「ゼロに近づくのみ」である


 

5月2日という悲しみの日

IMG_06745月2日という日を私は一生忘れない。生涯で最悪の日だったからだ。平成20 [2008] 年の今日、妻は某大学付属病院に検査入院し、そこで末期膵臓癌(あとで乳癌併発と判明)を告知され、余命半年から、治療をして約1年の命と宣告された。その日から、まさに妻と私たち家族の恐怖と不安と苦悩の日々が始まった。もとを正せば、近所のT医院のT医師の糖尿病との“誤診”から全てが始まった。T医師はそのための治療を妻に対して施した。それが少しの快復も見られないところから、自らの診断に疑いを持ち、某大学付属病院への紹介となったのだ。

 だが、妻はもちろんのこと、私たちもT医師を訴えることはしなかった。余命半年と宣告された人間に、誤診をした医師を相手に訴訟を起こす時間的余裕などなかったからだ。運が悪かったとしかいいようがない。「人を恨めば穴二つ」とも言うし…。

 それからのことは本カテゴリー(「膵臓癌で逝った妻のこと」)に詳しく書いた。妻が亡くなってからちょうど4年8か月が過ぎた。「光陰矢の如し」とはよく言ったものだ。だが、時の経過は夫たる私の喪失感、寂寥感をほんの少ししか埋めてくれなかった。朝な夕なに私の脳裏に浮かぶのは妻の顔だ。今もって妻の夢をよく見る。正直に言えば、妻亡きあとの毎日の生活には何の興味も沸かない。子供たちや愛犬たちが居てくれなければ、また、辞書家としてのさらに言えば、大学・大学院教授としての残りわずかな社会的責任がなければ、もうこの世に何の未練もない。そう思えるほど妻の存在は大きかったし、尊いものだった。そんな思いの日々が始まったのが平成20 [2008] 年の今日、5月2日だった。
【写真は亡くなる半年前に鎌倉宮(大塔宮)で撮ったもの; この写真を見る度に至らぬ夫であった我が身を責める】

Love can neither be bought nor sold; its only price is love.―Old Saying
   愛は売買するを得ず。その値はただ愛なり―古言

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【後刻記】
大学院生のO.K.君が次の文章を寄せてくれたので、同君の了解を得て、下に転載する。
山岸勝榮教授
 ブログを通じまして奥様のお写真を拝見いたしました。奥様のお写真は山岸教授のホームページの「自分史」のところで拝見したことはございます。本日のお写真には、明るいピンクをお召しになった奥様が映っていらっしゃいますね。明るいお色がお好きだったのでしょうか。山岸教授のブログ、お話から、奥様は落ち着いた色がお好きなのではないかと想像しておりましたものですから、少々驚きました。しかし、ピンクのダウンジャケットもセーターもとても似合っていらっしゃいます。
 人はこの世に生を享けたときから“死”に向かっているわけですが、命の“期日”を知らないからこそ、毎日の生活を穏やかに過ごせるのではないかとわたくしは考えております。もし、命の“期日”を自分の家族や自分が告げられたらと思うと、その恐怖は想像を絶するものだと思います。山岸教授とご家族の皆様がどれほどお辛い日々をお過ごしになったかと思いますと、いたたまれない気持ちになります。
 “誤診”をした医師をお訴えにならなかったという事実は、山岸教授が何よりもご家族の皆様とのお時間を最優先なさったということだと思います。家族とはこのようにあるべきだということを学んだ思いでおります。
  5月2日
    O.K.

桜と山と海―自然の美しさと荘厳さ

saku1xx2か月ほど前に、息子が通販で購入してくれたミニ盆栽の桜染井吉野が、つい数日前から見事に花を開かせ始めた。息をのむほどに美しい。創造主はよくもこれだけの美しい命をこの世へ送って下さったものだ。感謝の思いを禁じ得ない。科学が発達した現代でも、人間はこの桜の命を作り出すことはできない。昨夜はこの桜を見ながら、独り酒をいただいた。宋の蘇軾(そしょく)の文句ではないが「春宵一刻直千金」(しゅんしょういっこくあたいせんきん)の気分だった。
 桜と言えば、先日(3月4日)、息子たちと河津桜(静岡県賀茂郡河津町)を見に行って来た。ちょうど河津桜まつりの最中で大変な混みようだった。祭りも後半に入っていたせいか、すでに一部の樹は花びらを散らしていたが、あの独特の色合いが見る人たちを驚嘆させていたようだ。外国人客も多かった。ただ、個人的趣味で言えば、私は河津桜の色は少々濃過ぎてもっと言うなら毒々し過ぎて、あまり好きではない。やはり、染井吉野を初めとする淡いというか、ほのかなと言うか、咲き始めは淡紅色で満開になるに連れて白色に近づく類いの桜花がいい。西行法師がよく和歌に詠まれたのは大和の吉野山のものだったと思うが、日本を代表する桜と言えば、吉野山に源を持つ染井吉野だろう。
 
 先日、その河津桜を見る前に、大室山(おおむろやま)のリフトに乗って、頂上から四方の山並みを眺めた。富士山がまことに美しかった大室山に登った場合、こうして富士山のことを褒めるのはタブーなのだが、やはりその美しさを賞讃しないわけには行かなかった;褒めてはいけない理由に関してはこちらの「富士山は男性か女性か」を参照。大室山から、門脇灯台城ケ崎つり橋へと足を延ばし、自然の美しさと荘厳さとを肌で感じて来た。
 あまり興味のない桜の色だが、一度は河津桜を見ておきたいと思った理由はOhmuroyamax、今は亡き妻が華道の友人たちと一緒に行った場所だったからだ。妻が愛(め)で、楽しんだ桜並木とはどんな所だろう。そう思ったからだ。正直なところ桜よりも、河津川沿いのウナギ屋で食べた昼食のウナ丼の美味さのほうが印象的だった。いただいたウナギの命を含めて、万物の命の尊さをただただありがたく思った1日だった。
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【付記】上記の記事を書くついでにとあちこちのホームページやブログを見ていたら、“桜”の語源について次のように書いている一文に出合った(こちら)。

サクラの名称は、「咲く」に複数をあらわす「ら」を
付け加えたとする一説があります。
国内に600種ほどのさくらの品種があるようです。
短い開花ですが、毎年桜を観たいものです。


 この語源説はあくまでもその1つに過ぎない。それ()を含めて、私がすぐに思い出せる語源説には次のようなものがある。

〆の霊たる木花開那姫命(コノハナサクヤヒメ)に由来し、サクヤの転
▲汽ムラガル(咲き群がる)の約
咲くと花曇りとなるところから、サキクモルの義
ぅ汽(咲く)に接尾辞ラ(等)が付いたもの
ゥ気魯汽ミ(田神)のサで穀霊の義。クラは田神の慿(よ)りつく所の義の「クラ」(座)。


 実際には、この倍の数字の語源説があるようだが、私はその中で上のイ寮發好きだ。要するに、桜は「穀霊の慿りつく神座」ということだ。農耕民族と称してもよい日本人にはいちばん似合った語源説のような気がする。

今日は妻の67歳の誕生日だ。

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 今日は亡き妻の67歳の誕生日だ。妻と別れてから、もう5回目の妻の誕生日を祝う。あれから4年5か月以上が経つのに、私の喪失感、寂寥(せきりょう)感は大きくは減じていない。“独身生活”には多少は慣れたけれども、別れてから今日までの長い年月、妻のことを想わない日は一日としてなかった。朝も昼も夜も妻のことが頭から離れたことはない。妻と“会話”をしない日は一日としてない。

 今日までの4年5か月間、妻が好んだ胡蝶蘭の対(つい)を妻の霊前から絶やしたことはない。いつも言うように、遅すぎる“思いやり”あるいは“優しさ”かも知れない。だが、その花を妻の遺影の左右に供えるたびに、私は少しだけ、ほんの少しだけ“後ろめたさ”から解放される。昨日、新鮮で豪華な胡蝶蘭1対を備えた時もそうだった。

 我が子たちは二人とも立派な社会人になってくれた。妻もそれを見て亡くなったから、以って瞑すべしというところだろう。だが、息子の嫁に私の大学の教え子が来てくれたということは知らないままに亡くなったから、その点f3が残念だが、ひょっとするとすでにそのことをよく知っていて、あの世とやらで喜んでくれているかも知れない。願わくは、妻の血を引いた孫を見ることが出来ればこんなに嬉しいことはないのだが、これだけは私が望んで即、実現するというものではないから、如何ともし難い…。

 妻が居なくなってから私が実感したことは、妻という女性がどれだけ偉大な存在であったからということだ。私がやって来たことのほとんど全てのエネルギー源は妻だったことに、妻を先立たせてから気付いた。妻が生きている時には、妻が私にしてくれることを当然のことのように受け取っていたから、日々の生活の中で、私は妻に対して言葉や態度で感謝を表すということをあまりしなかった。今さら、何を言おうとも、何をしようとも、全てが手遅れなのだが、妻との輝いた思い出の日々を大切にしながら、私に残されたこれからの毎日を生きて行こうと思っている。小夜子、67歳の誕生日、おめでとう。

The sweetest joy, the wildest woe is love. ― Pearl Bailey
   最もたのしい喜び、最も残忍なる悲しみは恋である―P. ベイリー

ダイヤモンドとガラス―亡き妻を想う

sイギリスの古い諺の1つに、A diamond daughter turns to glass as a wife.というのがある。「娘として金剛石(ダイアモンド)でも妻としてはガラスになる」ということだ。また、 A man's best fortune or his worst is his wife.というのもある。「妻は男子にとって最大の幸運か最大の悪運である」ということだ。

 この2つの諺は私の亡き妻には全く当たらない。今から半世紀近く前、腰まで伸びた黒髪の少女だった妻は、生まれついてのダイヤモンド(金剛石)だと思えた。私と付き合い、結婚して私の妻となり、長女・長男を産んでその母となり、子育てをし、趣味(華道・書道・茶道・鎌倉彫等)を楽しみ、病を得て1年4か月後にこの世を去るまで、常にダイヤモンド(金剛石)だったと思う。ダイヤモンド(金剛石)よりも価値のある宝石が存在するのかどうかは知らない。だが、私は妻をこの世でもっとも価値のある宝石以上に尊敬して来た。

 妻が亡くなってから数か月経った頃だ。同僚のH氏が、「山岸さん、奥さんを亡くしてからずっと寂しそうだけど、再婚したら?」と言ってくれた。もちろん、それが“善意”に基づく発言であることはよく分かった。だが、そういう“提案”は私には“無用なもの”であると同時に“腹立たしいもの”なのだ。私の恩師、K先生もO先生も長年のお連れ合いを亡くされ、しばらくしてから、共に再婚なさった。共に70歳を過ぎておられた。もう何十年も昔のことだが、正直なところ、私はそれが“許しがたいこと”あるいは、亡きお連れ合いへの“背信行為”のように思えた。そのために、しばらくの間、両先生への尊敬の念が薄れてしまったことがある。時が経ち、人にはそれぞれの思いや感情や生活上の都合があると思い直せるようになったが、私は妻を生涯、たった一人の女性と決めているから、今後も決して再婚はしない。

 昭憲皇太后の御歌に「金剛石」というよく知られた御歌がある。「金剛石も磨かずば」で始まるあの御歌だ。たしかに普通のひとは「磨かれなければ」輝きを生むことはない。だが、私は、亡き妻はこの世に磨き抜かれたダイヤモンド(金剛石)として生まれた来た女性だと思う。穏やかで、しなやかで、たおやかで、控え目で、やさしくて、気品があって、美しくて、知的で、貞操固く…と女性に与えられるほとんど全ての形容詞や副詞を生まれながらに持ち合わせた人だったと思う。

 前にも書いたことがあるが、鋭敏なる耳目を持った天邪鬼のこの私が、妻に関しては、知り合ってから亡くなるまでの40数年間、ただの一度もその日本語用法に“ケチ”をつけることができなかった。完璧と言ってよかった。むしろ私のほうが教えられることが多かった。それは岳母の“育ち”や教育のお陰だとも言えるだろう。だが、人間が持って生まれた資質というものは、教えて身に付けられるものではない。

 そういう最高の女性と40数年間を共に出来たということは、私は男性としては最高の幸せ者だったと言わなくてはならない。今日2月19日、妻の67歳の誕生日に、改めて妻への思慕と感謝の念を言葉にしてここに記録しておきたい。

今日は私たちの結婚44周年記念日だ。

hana昭和44[1969]年の今日、妻と私は結婚式を挙げた。44周年ということになる。千代田区の九段会館で、恩師・桂田利吉先生(文学博士;S.T. Coleridge研究の大家)ご夫妻のお仲人によって挙式した。今にして思えば、私は舞い上がっていたようだ。若く美しく、限りなく優しい女性を妻に迎えることが出来たからだ。私の家系も決して人に恥ずべきものではなかったが、妻の家系に比べれば、消え入りたくなるようなものだった。その二人の結婚を許してくれた岳父・岳母(共に故人)には、今も深く感謝している。 結婚後、約40年間をその妻と共に過ごした。貧乏学者だった私に妻は愚痴一つ言わずに着いて来てくれ、いつも私を支えてくれた。子供も二人残してくれた。
 いつも書くように、今日の私があるのは全て妻のお陰だった。御仏(みほとけ)が私のために妻と言う菩薩のような女性をこの世に送って下さったのだと思う。妻として、母として、本当によくしてもらった。だが、まだまだこれからという時に末期膵臓癌という不治の病に倒れ、私よりも先にあの世とやらへ旅立った。平成21[2009]年9月3日午前1時20分のことだった。 
 あれからもう4年3か月にもなる。しかし、これもいつも書くことだが、肉体を持った妻はもういb2ないが、その魂魄はいつも私や私たちの子供のそばにいると信じている。常に言うように、「死してなお、生きた日の如く接すべし」だ。だから、妻の誕生日も、今日のように結婚記念日も祝う。これは私が生きてこの世に在る限り、必ず実行する。残された私の人生を、次の世でもう一度結婚してもらえるように、より良い生き方をして過ごすつもりだ。私はもう少しこの世にとどまって、辞書の仕事を続けたり、我が子たちの生活ぶりを見たりしてみたいと思っている。それさえ済めば、いとしい妻や懐かしい人々のもとに安心して旅立てる。幼い日、恐ろしい、怖いと思い続けた死だが、今はその恐怖心は微塵もない。

 The man who does not know when to die, does not know how to live.―J. Ruskin        
      死すべき時を知らざる人は生くべき時を知らず―J.ラスキン

今日は妻の命日だ。

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 明日ありと 
              思う 心の 
                          あだ桜sayo-f1
                            夜半(やわ)に嵐の 
                                        吹かぬものかは


 親鸞上人はわずか九歳 (治承5[1181]年)で出家したと言われる。得度(とくど)を授ける師・慈円上人が、日暮れたので式を明日に延ばそうと言われたところ、親鸞はこの歌を詠まれ、人生の無常観を表されたと伝えられる。
   私はこの歌を小学校の4、5年生の頃だったか、親鸞上人に帰依していた私の母から教わった。大学教師になってからは、人生の無常観を文学的に表現したものとして、折に触れて、学生諸君に紹介してきた。「今咲いている桜も、夜のうちに吹く無常な風の力で、翌朝にはすっかり散っているかも知れない。だから、今日という日を大事に、精一杯咲きなさい」とか何とか、分け知り顔で…。だが、そういうr2立派なことを口では言いながら、私はその歌の意味するところを実感できていたわけではなかった。それが全身全霊で実感出来たのは、私がこの世でいちばん大切だと思って来た女性、つまり我が妻を先に逝かせることになってからだ。

 今日はその最愛の妻の4年目の命日だ。今からちょうど4年前の平成21 [2009] 年9月3日午前1時20分、妻は京都・山科の某病院において、62歳という、現代女性の平均寿命からすれば、比較的短い生涯を終えた。それからの私はまさに「塗炭(とたん)の苦しみ」を味わったと言っても過言ではない。最近はもう気取りも何もない身だから言うが、本当に辛かった。苦しかった。3年半もの間、結局は妻の遺品を整理することも出来なかった。親鸞上人の言われたとおりだった。若い頃は、「歳を取ったら、女房孝行をしよう」、「定年退職をしたら、妻と世界旅行に出掛けよう」、「結婚40周年記念の時には大きなルビーの指輪を買ってやろう」などと約束した。その時はそれを本気で言った。妻も、「楽しみに待ってるわ」と応えてくれた。だが、そのどれも実現しないままに永訣してしまった。これを後悔と言わずに何と呼ぶだろう。
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 朝目覚めてから、夜、床に就くまで、妻のことを想わない日は一日としてなかった。初めてのデートの日のこと、シェイクスピアの『ハムレット』を共に読んだ日のこと、結婚を申し込んだ日のこと、結婚を岳母に反対されたこと、乏しいアルバイト料の中から婚約指輪を買って江ノ島で二人だけの“婚約式”を挙げたこと、それでも何とか結婚にこぎつけたこと、楽しかった南紀への新婚旅行のこと、千葉県・谷津遊園近くの新築アパートの1室を借りての新婚時代のこと、東京・東中野の新築マンションに転居したこと、長女が生まれた時のこと、長男が生まれた時のこと、イギリスでの楽しい留学生活を家族皆で送ったたこと、子供たちがロンドンの小学校に通い長女が学年の英語リーディング部門で成績最優秀に選ばれた日のこと、帰国後、子どたちを某私立校に入れたこと、“おじいちゃん””おばあちゃん”に親子共々可愛がってもらったこと、自宅を新築できたこと、自分が編集主幹となった和英辞典・英和辞典を4点も作ったこと、長女が結婚したこと、妻の作品が並んだ華道展や書道展を見に某デパートに行ったこと、妻が末期膵臓癌を宣告されたこと等々、喜びと悲しみと、あまりにも多くの想い出がいつもよみがえった。

 それにしても私という身勝手な男は、身勝手な割には幸福な男だった。我が子たちもそのことをよく私に言う。「お父さんはお母さんのような女性に出会えて、結婚出来て、本当に幸せだったね」と。その点は、私自身が一番よく知っている。その妻がいなくなってから丸4年が経ったけれども、あまりにも大きな喪失感だけは今もって消え去ることはない。それでも、私は妻との約40年間を私の人生の宝としてこれからも生きていくだろう。どれだけの人生が残されているかは分からない。だが、妻が生きられなかった人生の分を私が代わりに生きてやろうと思っている。

 
 「お母さんのような女性が出て来るまでは僕は結婚しないよ」と言っては私を不安にさせていた息子が、私の教え子だった女性と結婚した。卒業後は、某航空会社のcabin attendantとして活躍していたのだが、息子と結婚すると言ってくれて、さっさとその職を辞しててしまった。まことに潔い女性だ。私が狡知(こうち)を巡らせて二人を娶(めあわ)せたものではない。全くの偶然だ。おそらくそれが二人の“運命”だったのだろう。「ひょっとしてこれで“絶家”を免れるかも…」という期待も出て来た…。妻もきっと二人の結婚を喜んでくれていることだろう。その“若夫婦”は近所に住み、ほとんど毎日のように、私のために食事を作っては息子と共に私のところに届けてくれる。ありがたいものだ。料理もきわめて美味しい。

 朝な夕な、妻のいないことで寂しい思いはあるが、妻の魂魄はいつも私たちと共にあると信じて生活している。今年もまた、美しい胡蝶蘭や薔薇で妻の霊前を飾ってやることが出来た。さらに、出版関係の旧知の人たちや教え子からも立派な胡蝶蘭が届いた。
妻もきっと喜んでくれていることだろう。

亡き妻と迦陵頻伽(かりょうびんが)のこと。

msx今朝、妻の夢を見た。新婚時代の妻が台所で童謡か何かを歌っていた。美しい声だった。たったそれだけだったが、私は目覚めて、とても嬉しかった。それと同時に、「美しい声」で思い出したことがあった。
 昭和46 [1971]年の春頃だっただろう。英語学・言語学分野での恩師・前島儀一郎先生から研究のことで拙宅にお電話をいただいた。最初、電話に新妻が出た。私が電話口に出ると、先生は「今の方は小夜子さんでしたね。」とお尋ねになった。妻も私と同様、先生の教え子であり、結婚披露宴へのご列席とお祝いの品をいただいていた。だが、電話での会話は初めてだった。
 その先生がそのあとすぐに、「あなたは迦陵頻伽(かりょうびんが)”という言葉を知っていますか。」と私にお尋ねになった。「はい、言葉としては、信心深い母を通じて耳にしたことはありますが、詳しい意味までは存じません。」とお応えした。「あなたの奥さんの声を聞いて、最初に思い出した言葉ですよ。顔は女性の顔で、きわめて美しい声で法を説くと信じられている極楽浄土に棲む想像上の鳥のことです。その美声は“仏の声”と形容されていますよ。私は音声学も学びましたから、他人の発する音声にとても興味があります。その点で、あなたの奥さんの声は稀に見る美しい声ですね。」 先生は妻の声をそうお褒めくださった。
 お褒め下さったのが、英語学・言語学の泰斗・前島儀一郎先生でいらしただけに、妻も私もこの上なく光栄に思った。と同時に、私は心底では、“さもありなん”と思った。本来、妻は私ごときがさつな男と結ばれるような女性ではなかった。元をただせば、妻の母方は某藩の城代家老を務めた血筋こちら参照であったし、父方も鎌倉武士の流れを汲む(名字も“鎌倉”だが)家柄だった。私との結婚を反対するはずだ。岳母は、「山岸さんと別れるなら、世界旅行をさせてあげる。」とまで言って、私と妻とが結ばれることに反対した当時は世界旅行など、庶民には夢のまた夢の時代だった。私のことで岳父とかなり激しい言葉のやり取りがあったと、後日、妻から聞いた。だが、いざ結婚してみると、そのあとの私たち二人への細やかな心遣いと愛情とは、今、想い出しても、ただただ胸が熱くなるほどのものだった。

 人間には持って生まれた“品性”、“品格”というものがある。この歳になるまで生きて来て、そのことをしみじみと感じる。その点では、前にも書いたことがあるが、私の妻は“上品(じょうぼん)の上”と形容してよい女性だった。この点は妻を知る人たちのだれもが口を揃えて賛意を表してくれた。
 天邪鬼、へそ曲がりの私が耳を澄まし、目を皿のようにして注意してみたが、およそ40年の結婚生活で、妻はとうとうただの一度も“日本語の用法上の間違い”を犯さなかった。そういう女性を私は妻以外に誰1人として知らない。妻と岳母の二人の女性を通じて、私は《育ち》というものの“恐ろしさ”を嫌と言うほど思い知らされた。だから私はもう一度その妻に会いたいと心の底から願っている。もう一度会えるなら、現世と同じく、結婚を申し込みたい。同時に、現世で出来なかったこと、しなかったこと、後悔したことの汚名を返上したい。
 4年前の今頃、妻は京都・山科(やましな)の某病院でこの世での最後の3週間を過ごしていた。来月の3日で、妻の没後丸4年になる。歳月人を待たずだ。

 静かに思へば 万(よろづ)に 過ぎにし方の 恋しさのみぞ せむ方なき ― 徒然草・二九段

【付記】妻の影響だろうか、血筋だろうか、長女は音声学で博士号を取得した(平成19 [2007]年3月)。
【後刻記】昼過ぎ、長女からメールが来た。「今、テレビが見られる環境にありますか? 『徹子の部屋』に出ている人がおばあちゃんに似てるの。」と書いてあった。お茶を飲みながらテレビでHistory Channelを観ていたので、早速チャンネルをテレビ朝日に変えた妻亡きあと、日本の民間テレビを観ることはほとんどない。私はすぐに返事した。「この女性三條美紀さん(画像)と言って、お父さんより上の年代で知らない人はいないほど有名な女優さんです。若い時はそれはそれは美しい女優さんでした。娘さんも元女優さんで、あなたが小さい頃にやっていたテレビ番組の『スチュワーデス物語/アテンション・プリーズ』で主役の1人を務めていた紀比呂子(きの・ひろこ)さんです。不思議だね。今日のお父さんのブログ記事におばあちゃんのことを書いたばかりです。お母さんの夢を見たのです。あなたのことも最後のところに一行だけ触れておきました。そんな日に三條美紀さんのことを教えてくれてありがとう。立派なおばあちゃんだっだね。」 娘からの返事は「あら、あまりに似ていたから、びっくりしちゃった。おばあちゃんは美人でしたからね。」だった。私はまた書いた。「本当に美人だったね。満鉄秘書時代だったか、関口宏さんのお父さんの佐野周二さんからデートを申し込まれたほどの美人だったからね。」(この話は岳母から直接聞いた話だ。)

四日続けて妻の夢を見た。

m四日続けて妻の夢を見た。第一日は、癌を告知されたあとの痩身の妻、第二日は結婚して間もない頃の若く、美しく、溌剌とした妻(岳父・岳母も現れた)、第三日は子育てに忙しい妻、今朝見た四度目は、講演のために関西地方に出掛けた私が、“公衆電話”を使って、自宅にいる妻のところにこれから帰るからねと伝え、それに気を付けてねと応えている妻の夢だった。最初の夢の中で、私は病床の妻の頭を撫でていた。どの日の夢でも私は妻と言葉を交わした。

 妻亡きあとの私の毎日は、妻への朝の挨拶に始まり、夜の挨拶に終わる。大学教授として、辞書編纂家として、力の限りを尽くしてやって来た。それが出来たのは、もちろん私自身の努力もあったとは思うが、ほかならぬ妻のお陰だった。

 毎日必ず妻の霊前に座る。そうしない日はない。私にとって妻は余りにも大きな存在だった。妻の前に女はなく、妻のあとに女はない、そういう思いだった。私にとって、妻が全てであったし、余生も同様だ。

 妻と過ごした約40年の日々は本当に楽しかった。充実していて幸せだっfl3た。もちろん、自分勝手を通してきた我儘な夫としての反省は深く大きい。二人の子供たちも、それぞれ立派に独立して、私のもとを飛び立って行った。私がかつてそうしたように。そして私は一人になった。もちろん我が子・我が孫同然の柴犬たちが5頭も私のそばにいるが、人間は私一人になった。だが、以前ほど寂しくはない。私のそばにはいつも妻の魂魄がいてくれると思うようにしているからだろう。

 私がこの世を去る日まで、そう長い年月は掛からないだろう。それまではこの世にあって教育や辞書編纂の仕事に従事するつもりだ。妻のことを想い出すたびに、私は自分の胸に熱いものがこみ上げてくるのを感じる。

妻の洋服を処分した。

l時の経つのは早いもので、妻が亡くなってからもう丸3年9か月が過ぎた。長年連れ添った相手を失った人、とりわけ私のように妻に先立たれた男性には分かってもらえるだろうが、永訣の日から最初の1、2年間はまるで“ふぬけ”になってしまっていた。周囲の人たちの目には、私という男は相当に“異様に”映ったに違いない。体重も食欲も大きく落ちた。しかし、《時の経過》とはまことに有り難いもので、その苦しさ・悲しさ・寂しさから人を救ってくれる。私もその“恩恵”に少なからずあずかっている。

 

 先日、妻の種々の洋服を300着ほど処分した。Gucci, Ferragamo, Loewe, Lanvin, Chloé, Valentino, Hermés, Saint Laurent, Hanae Mori 等の高級ブランド名としてよく知ってはいたが、私にはまったく興味のない会社の洋服が大量に洋服ダンスや大型化粧箱から出て来た。タグ付きの未着用の洋服も10着ほど出て来た。だが、私にとっては、そういったものよりも、新婚旅行、長女・長男の入学式・卒業式等の際に着用していた見覚えのあるもの、日常生活でしばしば目にしたもの、癌を宣告されたあと通院時に着用していたもののほうが懐かしかった。それらを整理しながら、手を止め、感傷に浸ることが何度もあった。

 

 どうしても手放したくない洋服が14、5着ほど残ったが、ほかのものはすべて廃棄処分にした。誰か知り合いに貰ってもらうことや、古着屋に買い取ってもらうことも出来ただろうが、私としては妻との永訣同様、妻の洋服等とも永遠の別れをしたかったから、そうした処理に未練はまったく残らなかった。


 先日書いたように、妻が履いていた靴・下駄・草履も全て処分した。和服や宝石類は我が娘に残しておいても着用してもらえる可能性があるが、洋服・履物はサイズや好みや流行などの点でそうはいかないだろう。

  最近ようやく「妻は本当にこの世から消えて行き、もう二度と会えないのだ」ということを実感し始めたと言いつつ、心のどこかでは、まだその帰宅を待っている未練な自分がいる。今、しみじみと思うこと、それは私が本当に素晴らしい女性と40年近くを共に過ごしていたということ。何物にも替えがたい尊い時間を過ごさせて貰ったことを亡き妻に心から感謝している。合掌。

【付記】私も残りの人生のほうが短い歳になった。最近、私にいつ何があっても、我が子たちを困惑させないように、また、迷惑をかけないようにと思うことしきりだ。だから、全てにおいて身辺整理をしなければならないと思い始めた。どんなに貴重な物・事であっても、あの世へは何一つも持って行けないのだから…。

母の日に 

m3今日は「母の日」だ。 母のいない「母の日」はこれで4度目だが、子供たちはいつものように母への感謝の気持ちを表してくれた。私は朝早く、夫として妻の霊前で二人だけの大切な時間を過ごした左の花束は娘夫婦からの贈り物。妻が大好きだった胡蝶蘭も新しいものに取り替え、霊前の左右を少しばかり華やかにした。
 ドイツの古い諺に Danken kostet nichts und gefällt Gott und Menschen wolh.(謝辞を述べるに費は要らぬ、しかも神をも人をも悦ばす)というのがあるが、妻が亡くなった日から私の頭から離れないものだ。
 
Love can hope where reason would despair.―
George Lyttleton
              愛は理性が絶望すべきところに希望し能ふ―G.リットルトン 

妻の履物を処分した。

x昨日、亡妻が愛用した靴・下駄・草履をようやく全て処分することに決め、透明のビニール袋に箱のまま詰めた。和服の愛用者であった妻の老舗の下駄・草履、洋服にも気を使っていた妻の靴、どれもこれも“高級”なものばかりだった。そういうことには無頓着だった私でも聞いたことのあるものばかりだった。靴はグッチ、フェラガモ、ルイヴィトン等々、全て箱入りで、まだ妻が一度も履いたことのないものも数十足あった。結局、下駄・草履、各20足、靴50足ちかくあった。
 妻が去ってから3年半、私にはそれらを処分する“勇気”がなく、“決断”がつかなかった。妻が愛用したものだから、私のそばに置いておきたかったのだ。だが、もう妻がそれらを履くことは二度とない。置いておいても未練が残るだけだ。置いておいて、子供たちに処分させようかとも思ったが、それもまた子供たちには迷惑な話だろう。そんなことをいろいろ考えているうちに3年半が経過した。
 今朝、それらを全て一般ゴミとして処分した。箱に書かれたブランド名に興味を引かれたゴミ収集人や通行人が持って行ってくれてもいいし、そのまま焼却処分にしてくれてもいい。

 今朝、大学に来て、そのことを購買部のパートの女性店員(主婦2名)に話したら、目を丸くして驚かれた。たぶん、ブランド名と未使用のものを処分したことに対する驚きだっただろう。今、私の心には「諦観(ていかん)」への想いが強くなっている。平たく言えば、「あきらめ」だ。色即是空である。妻も私の行動を許してくれるだろう。

【付記】上の写真に写っているシンビジウムは、妻が亡くなる前に鉢植えにしたもの。これといった世話もしていないのに、今でも美しく咲いてくれる。けなげだ。

城ケ島公園に行って来た。

m1昨日、城ケ島公園に水仙を見に行こうということになり、息子と車で行って来た。いつものように横浜横須賀道路を使って、最初に宮川湾近くにある“まるよし食堂”で昼食をとった。民宿を兼ねた、小さな食堂だが、けっこう有名で、しばしばテレビ映画などの撮影が行われている。そのためだろう、店内には、「太陽にほえろ」の出演者たち、「まいうー」で知られる石塚英彦、ジミー大西、TBSアナウンサーの安住紳一郎ほかの著名人たちの色紙が数多く飾ってある(写真をクリックすると拡大する)。私は、この食堂に来ると、いつも“はばのり定食”を頼む。このはばのりが言葉ではうまく言い表せないほど美味しい。

 そこで小一時間ほど食事をしてから、城ケ島公園に向かった。水仙の花盛りはやや過ぎていたようだが、公園内にはまだその甘い香りが立ち込めていた。頂上から望む相模湾は波もなく、穏やかに見えた。いつか妻と散策した頂上付近を、想い出と共に、息子とのんびりと歩いた。m2 
 公園内には様々な植物が植えてあるが、それらを観賞しながら、息子と歩くのは、心豊かな感じがする。捨て猫か野良猫は分からないが、猫たちの数がやけに多い。おそらく、人間どもの身勝手によって置き去りにされた猫たちも少なくないだろう。近寄ると警戒心を露わにする。人間を信用していないようだ。さもありなん。

 そこをあとにして、公園のすぐ下にあるいつもの乾物屋さん・Y商店へ向かう。いつものように車を止めさせてもらってから、店内でお茶をいただき、某ホテルの風呂に入りに行く。Y商店で半額券を貰って行くので、入浴料はごく安くなる。タオルもホテルで借りる。

 小1時間ほど入浴を楽しみ、そこを出て、出入り口に設置してある自動指圧器で2、30分体をもみほぐしてから、ホテルをあとにした。いつものようにY商店に戻り、干物をあれこれ買い、お茶をいただいてから帰途に就く。“看板娘”は相変わらず元気に私たちを迎え、送ってくれる。お上さんも相変わらずの好人物で、妻の霊前にと言って、なにやかや私たちに持たせてくれる。本当の身内以上によくしてくれる。ありがたいことだ。午後2時過ぎに帰宅した。
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