このごろ街中を歩いていると、
ふとした事でボランティアしていた時の事を思い出したりする。
これが意外な事がきっかけになる。
●水圧シャワーで掃除している人を見かける。
ボランティア活動にて、水圧シャワーで天井についた泥を落としていたので
やんわりと思い出した。
●コンビニに入る。
活動時に毎日通っていた同じ系列のコンビニと
店内の大きさとか、全てのレイアウトが同じだったので
ふと思い出した。
●土嚢(どのう)袋を見かける。
街中で、土嚢袋が山積みになっていて、瓦礫を土嚢袋に詰めた事を
はっ!と思い出した。
●解体中の家を見かける。
解体中の家は、見渡す限り瓦礫の山が存在していた風景を
強烈に思い出した。
でも、こんなのね。
たいした事無い。
というかどうでもいい。
問題なのは
津波で怖い思いをした子供が
津波の映像をふとテレビorネットで見かけてしまった時に
どんな心境になるか。
心のケアというのが
より重要だなと強く思いました。
ふとした事でボランティアしていた時の事を思い出したりする。
これが意外な事がきっかけになる。
●水圧シャワーで掃除している人を見かける。
ボランティア活動にて、水圧シャワーで天井についた泥を落としていたので
やんわりと思い出した。
●コンビニに入る。
活動時に毎日通っていた同じ系列のコンビニと
店内の大きさとか、全てのレイアウトが同じだったので
ふと思い出した。
●土嚢(どのう)袋を見かける。
街中で、土嚢袋が山積みになっていて、瓦礫を土嚢袋に詰めた事を
はっ!と思い出した。
●解体中の家を見かける。
解体中の家は、見渡す限り瓦礫の山が存在していた風景を
強烈に思い出した。
でも、こんなのね。
たいした事無い。
というかどうでもいい。
問題なのは
津波で怖い思いをした子供が
津波の映像をふとテレビorネットで見かけてしまった時に
どんな心境になるか。
心のケアというのが
より重要だなと強く思いました。
今月から三ヶ月間
毎週金曜日の夜だけですが
学校へ行ってきます。
このようなすばらしい動画を作れるのはイイ!
毎週金曜日の夜だけですが
学校へ行ってきます。
このようなすばらしい動画を作れるのはイイ!
2010/6/4〜10まで都民ボランティア11期として行ってきました。
行く前はブログに書くつもりは無かったんですが
1回目と2回目とでは印象が違ったので記録を残したいと思います。
(1回目の記事はこちら 震災から2ヵ月後のボランティア報告)
写真を撮りたかったけれども、以前と同様に都民ボランティアの方針で、写真は一切禁止。
ぐっと我慢してました。
被災地の状況を伝えるのには写真が一番有効だと思うのだけれども。。。
ちなみに
震災時と三ヶ月を比較したサイトです。
Japan tsunami and earthquake: Pictures of recovery 3 months later
ここで
都民ボランティアについての動画をご覧下さい。
都民ボランティア 第1陣63人が宮城に向け出発
東京都 個人ボランティアを被災地へ派遣
この都民ボランティア
始まった当初は応募者が殺到したそうですが
最近は少なくなっているそうです。
もし、参加されたい方は
ボラ市民ウェブをチェックしてみて下さい。
もうすぐ15期の募集が始まると思います。
ちなみに17期で終了予定だそうです。
2011/6/4
作業内容(1日目):移動
東京から出発してバスで8時間かけて移動。
総勢約80名で1班4〜5人
一関組(約60名)と大島組(約20名)に分かれて活動
自分は一関組でした。
大島の環境は大変と色々と話を聞きましたが
自分が直接体験した事ではないので、ここでは書けないです。
m(_ _)m
この日は移動だけで終了。
同じ班の人で5人中にボランティア経験者が3人いまして
自分を含めてリピーターが多いのを感じました。
2011/6/5
作業内容(2日目):陸前高田の個人宅にて
約一ヶ月ぶりに陸前高田に来ましたが
あんまり変わっていないかなという印象でした。
瓦礫の山から草が生えていたのが、なんともアンバランスな光景でした。
さてさて
作業内容は陸前高田VC(VC:ボランティアセンターの略)で割り振られます。
他の班と2班合同で個人宅での作業
作業としては
●津波で使えなくなった電化製品、畳、布団をすぐ近くの空き地に移動
●家の中の家具を移動
畳を運ぶ時に、一部が腐っていて
持ち上げると、崩れてしまい運ぶのが一苦労しました。
家電を運ぶ時に、二人一組で
50インチもあろうかという大型テレビを持ち上げる時に
すぐ近くに家のご主人がいらしたのですが
他のボランティアの人が、ふと口にした言葉が
「液晶テレビもったいないですねぇ〜」
「・・・」
ご主人は無言でした。
ってご主人はどう思っただろう?
個人的には言わない方が良かったのに・・・と思いました。
あと、家具を運び、仏壇を戻した時に
「三ヶ月ぶりに戻ったぁ〜。長かったなぁ〜。」
という家の人の言葉が印象的でした。
この個人宅での作業は午前中で終了
午後からは別の家に移動。
ボランティアの作業も最優先されてきた
家の瓦礫撤去から
畑の瓦礫撤去へとシフトしているみたいで
初めて畑の瓦礫撤去をしました。
この場所では午前中から別チーム5人が作業していて
それに10人が加わるという形。
そこで偶然の再会!
以前、都民ボランティア7期で一緒に活動していた人と遭遇しました。
今回は友人と一緒に個人的に来ているそうで、凄いなぁと関心。。。
畑の瓦礫撤去は今までの個人宅の瓦礫撤去とは内容というか色々と変わりまして
•面積が広い。
•泥に足が取られて、移動するのが多少つらい。
•色々な物が散乱していて、中には魚の死体などにおいのきつい物がある。
畑の瓦礫の中で飛び抜けて大きいのが
鉄筋の支柱が知恵の輪みたいに絡み合ってて
これがなかなかの強敵でした。
というか
バールでどんなに頑張っても解体出来ず。
「これは人の力では解体出来ないよねぇ〜」
って雰囲気になった時に
新たなボランティア団体30人ぐらいが参加してくれまして、
これが外国人チーム!で体つきが違うんですよねぇ。
さっきの鉄筋の知恵の輪も
いとも簡単に解いてくれて撤去終了。
「俺ら日本人って一体・・・」って軽く落ち込みました。
○| ̄|_
2011/6/6
作業内容(3日目):個人宅にて瓦礫撤去
この日も瓦礫撤去。
80歳?90歳?のおばあちゃんが依頼主で
作業の途中でいなくなり困っていたんですが
すぐそばの山から降りてきてビックリしました。
話を聞くと
「20分かけて山を登ったキャンプ場にある風呂に入ってきたの。
一週間に一度しかないから大変なのよ。」
と言っておられました。
まだまだ被災地は大変な状況のようです。
ここでの作業は一日では終える事が出来ずに
「また来て下さいね。」
と言われた時には嬉しかったです。
2011/6/7
作業内容(4日目):陸前高田にて個人宅にて瓦礫撤去と草刈り
残念ながら昨日のお宅とは別の場所に派遣されまして
家の脇道に積まれた壁の瓦礫の山を土のう袋にひたすら詰める作業。
ただひたすら土のう袋に詰めました。
400袋では足りず
追加で何枚追加したかな?
忘れました。
このお宅にはおじいちゃんがいまして
「チリ津波も経験したけど、ここまで酷くなかった」
と言っておられました。
作業を終えて、帰る途中で道を間違えまして
一度も通った事が無い一本松の所へ
【地震】枯れ始めた「奇跡の一本松」に保全作業(11/05/28)
この付近は今までとは雰囲気がまた
ガラっと変わっていまして
今までは2、3メートル程度の瓦礫の山がいたる所にあったんですが
瓦礫の山が大きい、高さはビルの4階ぐらい。
(上のYouTubeの0:20付近で右後ろにうっすら2つほど写ってます。)
最初に受けた印象は
ナウシカの王蟲(オウム)みたいでした。
目玉とかはもちろん無いんですが
ものすごい大きさに唖然としてました。
2011/6/8
作業内容(5日目):大島にて個人宅にてテント設営と荷物運び
この日は活動場所が変わりまして大島へ。
気仙沼からフェリーに乗って大島まで20分程度で到着するのですが
漁港には
なんともいえない【におい】+ハエがたくさん。
大島に到着したら
船が二隻ほど「どーん」と陸地に打ち上げられてて
衝撃的な風景でした。
そしてハエが大量にいました。
きっと人生で経験した中では最もハエの量が多かったかと
ここで初めて大島組と一緒に活動するんですが、ドイツ人の女性。Nちゃん。
日本語ぺらぺら。
瓦礫撤去などをしていると
「男の人〜。重いものあるから手伝って〜。」
とよく言うのですが
「男の人だって力無い人いるしさ〜。女の人だって力ある人がいるんだから
そういうのは良くない!」とNちゃんが言ってました。
ま、確かにそうだよなぁ。と
そうそう話がずれるんですが
ボランティアに来る外国人の方々って
風呂上がりにノートパソコン開いて何かやってたり
VCで待っている間にAmazonのKindleを取り出して何か見てたりと
ITを使ってるイメージが植え付けられました。
そして本当に感謝。
あの人たちかっこいいわ。
2011/6/9
作業内容(6日目):旅館の壁についた泥を拭く。
活動場所は気仙沼の漁港から近い旅館
別のボランティアが既に作業を終えていて
一通りはキレイになっていました。
津波で一階が被害にあったそうで
天井やら壁に泥が付着してて、その拭き取り作業
もちろん天井には届かないので
脚立に乗って天井を吹いてました。
作業を終えて、帰る時に宿のご主人に
「色々な方々にボランティアに来て頂いて、おかげさまで、宿がキレイになって・・・
生きる気力が湧きました。どうもありがとうございます。」
とお辞儀を深々とされて、
(´;ω;`) ブワッ
と泣きそうになりました。
2011/6/10
作業内容(7日目):移動+打ち上げ
宿の掃除などを終えて
バスで8時間かけて東京へ
都庁で解散!
ボランティア仲間で打ち上げとなった訳ですが
80人中、30人弱、集まりまして
金曜日の夜って事もあり、居酒屋が空いているか不安でしたが
運良く見つけました。
自分が・・・
居酒屋の場所を見つけたので
自動的に、幹事決定!
幹事は慣れているけれども
30人の半分以上は顔と名前が一致しない。。。
でも、まぁなんとかなるかと軽い気持ちでやってました。
居酒屋に入って
最初の挨拶では
ビールが早く飲みたかったので
「え〜。一週間ボランティア活動お疲れ様でしたー。乾杯!」
と手短かに言って一週間ぶりのビールをグビっと頂きました。
大島組は
「生の食材だ〜♩」
「食べる時にハエがいない〜♩」
って・・・どんな過酷な生活してたんだか
頭が下がります。
隣の部屋で飲んでたサラリーマン風のおじさんが
「いやぁねぇ。私の実家が東北なんだよ。あんたら偉いわぁ。」
とか言って下さって
さっきの挨拶の声が大きかったのと、全員の荷物が大きいので
ボランティアに行ってきた帰りだと分かったようです。
最初は断っていましたが、断りきれる雰囲気ではなく
一部料金を奢って頂いてしまいました。
m( _ _ )m
この飲み会で、実は高校の同級生がいた事が判明!
高校の時の緑ジャージを見かけたんですが
まさかね〜。ビックリしました。
リンク集
都民ボランティアとして気仙沼・陸前高田で活動してきた。
被災地支援都民ボランティア・参加メンバーの声
行く前はブログに書くつもりは無かったんですが
1回目と2回目とでは印象が違ったので記録を残したいと思います。
(1回目の記事はこちら 震災から2ヵ月後のボランティア報告)
写真を撮りたかったけれども、以前と同様に都民ボランティアの方針で、写真は一切禁止。
ぐっと我慢してました。
被災地の状況を伝えるのには写真が一番有効だと思うのだけれども。。。
ちなみに
震災時と三ヶ月を比較したサイトです。
Japan tsunami and earthquake: Pictures of recovery 3 months later
ここで
都民ボランティアについての動画をご覧下さい。
都民ボランティア 第1陣63人が宮城に向け出発
東京都 個人ボランティアを被災地へ派遣
この都民ボランティア
始まった当初は応募者が殺到したそうですが
最近は少なくなっているそうです。
もし、参加されたい方は
ボラ市民ウェブをチェックしてみて下さい。
もうすぐ15期の募集が始まると思います。
ちなみに17期で終了予定だそうです。
2011/6/4
作業内容(1日目):移動
東京から出発してバスで8時間かけて移動。
総勢約80名で1班4〜5人
一関組(約60名)と大島組(約20名)に分かれて活動
自分は一関組でした。
大島の環境は大変と色々と話を聞きましたが
自分が直接体験した事ではないので、ここでは書けないです。
m(_ _)m
この日は移動だけで終了。
同じ班の人で5人中にボランティア経験者が3人いまして
自分を含めてリピーターが多いのを感じました。
2011/6/5
作業内容(2日目):陸前高田の個人宅にて
約一ヶ月ぶりに陸前高田に来ましたが
あんまり変わっていないかなという印象でした。
瓦礫の山から草が生えていたのが、なんともアンバランスな光景でした。
さてさて
作業内容は陸前高田VC(VC:ボランティアセンターの略)で割り振られます。
他の班と2班合同で個人宅での作業
作業としては
●津波で使えなくなった電化製品、畳、布団をすぐ近くの空き地に移動
●家の中の家具を移動
畳を運ぶ時に、一部が腐っていて
持ち上げると、崩れてしまい運ぶのが一苦労しました。
家電を運ぶ時に、二人一組で
50インチもあろうかという大型テレビを持ち上げる時に
すぐ近くに家のご主人がいらしたのですが
他のボランティアの人が、ふと口にした言葉が
「液晶テレビもったいないですねぇ〜」
「・・・」
ご主人は無言でした。
ってご主人はどう思っただろう?
個人的には言わない方が良かったのに・・・と思いました。
あと、家具を運び、仏壇を戻した時に
「三ヶ月ぶりに戻ったぁ〜。長かったなぁ〜。」
という家の人の言葉が印象的でした。
この個人宅での作業は午前中で終了
午後からは別の家に移動。
ボランティアの作業も最優先されてきた
家の瓦礫撤去から
畑の瓦礫撤去へとシフトしているみたいで
初めて畑の瓦礫撤去をしました。
この場所では午前中から別チーム5人が作業していて
それに10人が加わるという形。
そこで偶然の再会!
以前、都民ボランティア7期で一緒に活動していた人と遭遇しました。
今回は友人と一緒に個人的に来ているそうで、凄いなぁと関心。。。
畑の瓦礫撤去は今までの個人宅の瓦礫撤去とは内容というか色々と変わりまして
•面積が広い。
•泥に足が取られて、移動するのが多少つらい。
•色々な物が散乱していて、中には魚の死体などにおいのきつい物がある。
畑の瓦礫の中で飛び抜けて大きいのが
鉄筋の支柱が知恵の輪みたいに絡み合ってて
これがなかなかの強敵でした。
というか
バールでどんなに頑張っても解体出来ず。
「これは人の力では解体出来ないよねぇ〜」
って雰囲気になった時に
新たなボランティア団体30人ぐらいが参加してくれまして、
これが外国人チーム!で体つきが違うんですよねぇ。
さっきの鉄筋の知恵の輪も
いとも簡単に解いてくれて撤去終了。
「俺ら日本人って一体・・・」って軽く落ち込みました。
○| ̄|_
2011/6/6
作業内容(3日目):個人宅にて瓦礫撤去
この日も瓦礫撤去。
80歳?90歳?のおばあちゃんが依頼主で
作業の途中でいなくなり困っていたんですが
すぐそばの山から降りてきてビックリしました。
話を聞くと
「20分かけて山を登ったキャンプ場にある風呂に入ってきたの。
一週間に一度しかないから大変なのよ。」
と言っておられました。
まだまだ被災地は大変な状況のようです。
ここでの作業は一日では終える事が出来ずに
「また来て下さいね。」
と言われた時には嬉しかったです。
2011/6/7
作業内容(4日目):陸前高田にて個人宅にて瓦礫撤去と草刈り
残念ながら昨日のお宅とは別の場所に派遣されまして
家の脇道に積まれた壁の瓦礫の山を土のう袋にひたすら詰める作業。
ただひたすら土のう袋に詰めました。
400袋では足りず
追加で何枚追加したかな?
忘れました。
このお宅にはおじいちゃんがいまして
「チリ津波も経験したけど、ここまで酷くなかった」
と言っておられました。
作業を終えて、帰る途中で道を間違えまして
一度も通った事が無い一本松の所へ
【地震】枯れ始めた「奇跡の一本松」に保全作業(11/05/28)
この付近は今までとは雰囲気がまた
ガラっと変わっていまして
今までは2、3メートル程度の瓦礫の山がいたる所にあったんですが
瓦礫の山が大きい、高さはビルの4階ぐらい。
(上のYouTubeの0:20付近で右後ろにうっすら2つほど写ってます。)
最初に受けた印象は
ナウシカの王蟲(オウム)みたいでした。
目玉とかはもちろん無いんですが
ものすごい大きさに唖然としてました。
2011/6/8
作業内容(5日目):大島にて個人宅にてテント設営と荷物運び
この日は活動場所が変わりまして大島へ。
気仙沼からフェリーに乗って大島まで20分程度で到着するのですが
漁港には
なんともいえない【におい】+ハエがたくさん。
大島に到着したら
船が二隻ほど「どーん」と陸地に打ち上げられてて
衝撃的な風景でした。
そしてハエが大量にいました。
きっと人生で経験した中では最もハエの量が多かったかと
ここで初めて大島組と一緒に活動するんですが、ドイツ人の女性。Nちゃん。
日本語ぺらぺら。
瓦礫撤去などをしていると
「男の人〜。重いものあるから手伝って〜。」
とよく言うのですが
「男の人だって力無い人いるしさ〜。女の人だって力ある人がいるんだから
そういうのは良くない!」とNちゃんが言ってました。
ま、確かにそうだよなぁ。と
そうそう話がずれるんですが
ボランティアに来る外国人の方々って
風呂上がりにノートパソコン開いて何かやってたり
VCで待っている間にAmazonのKindleを取り出して何か見てたりと
ITを使ってるイメージが植え付けられました。
そして本当に感謝。
あの人たちかっこいいわ。
2011/6/9
作業内容(6日目):旅館の壁についた泥を拭く。
活動場所は気仙沼の漁港から近い旅館
別のボランティアが既に作業を終えていて
一通りはキレイになっていました。
津波で一階が被害にあったそうで
天井やら壁に泥が付着してて、その拭き取り作業
もちろん天井には届かないので
脚立に乗って天井を吹いてました。
作業を終えて、帰る時に宿のご主人に
「色々な方々にボランティアに来て頂いて、おかげさまで、宿がキレイになって・・・
生きる気力が湧きました。どうもありがとうございます。」
とお辞儀を深々とされて、
(´;ω;`) ブワッ
と泣きそうになりました。
2011/6/10
作業内容(7日目):移動+打ち上げ
宿の掃除などを終えて
バスで8時間かけて東京へ
都庁で解散!
ボランティア仲間で打ち上げとなった訳ですが
80人中、30人弱、集まりまして
金曜日の夜って事もあり、居酒屋が空いているか不安でしたが
運良く見つけました。
自分が・・・
居酒屋の場所を見つけたので
自動的に、幹事決定!
幹事は慣れているけれども
30人の半分以上は顔と名前が一致しない。。。
でも、まぁなんとかなるかと軽い気持ちでやってました。
居酒屋に入って
最初の挨拶では
ビールが早く飲みたかったので
「え〜。一週間ボランティア活動お疲れ様でしたー。乾杯!」
と手短かに言って一週間ぶりのビールをグビっと頂きました。
大島組は
「生の食材だ〜♩」
「食べる時にハエがいない〜♩」
って・・・どんな過酷な生活してたんだか
頭が下がります。
隣の部屋で飲んでたサラリーマン風のおじさんが
「いやぁねぇ。私の実家が東北なんだよ。あんたら偉いわぁ。」
とか言って下さって
さっきの挨拶の声が大きかったのと、全員の荷物が大きいので
ボランティアに行ってきた帰りだと分かったようです。
最初は断っていましたが、断りきれる雰囲気ではなく
一部料金を奢って頂いてしまいました。
m( _ _ )m
この飲み会で、実は高校の同級生がいた事が判明!
高校の時の緑ジャージを見かけたんですが
まさかね〜。ビックリしました。
リンク集
都民ボランティアとして気仙沼・陸前高田で活動してきた。
被災地支援都民ボランティア・参加メンバーの声
5.11〜17まで気仙沼、陸前高田を中心にボランティア活動をしてきました。
実際の被災地の2ヵ月後を皆さんに知って欲しくて
自分が実際に行ってきた体験をブログに残す事にしました。
ボランティアと言っても個人で全てを揃えて参加というわけではなく
東京ボランティア・市民活動センター
のボランティア活動の第七期として参加しました。
道具から交通手段、そして宿泊先まで準備してくれるので
非常に有難かったです。
最低限の経費はボランティア保険の1400円と
現地での最低限の食料や銭湯代(約2000円/1日)程度でしょうか。
第七期の一関チームは80名15グループ(正確な数は違います。)で活動。
グループごとに様々な活動をしました。
瓦礫の撤去やヘドロの掃き出しだけではなく
他のグループは
・炊き出し
・救援物資の仕分け
・足湯サービス
などの活動をしました。
この文章で瓦礫の山とかという表現が沢山出てきます。
でも、現地の人にとっては瓦礫の山ではなくて
生まれ育った故郷なんですよ。
でも、それ以外の言葉が見つからなくて・・・
機嫌を悪くする方がいたらすみません。
あと
参加したボランティア協会のルールとして
被災地での写真は一切は撮っていません。
写真はこのサイトを見てもらえるといいかも
Japan Earthquake: Two Months Later / In Focus
5/11(水)
作業内容(1日目):移動
東京から一関市へバスで移動。
移動でほぼ終了。
一関が近づくにつれて
高速道路ですら、所々亀裂があって
東京とは違う感じでした。
そして宿について銭湯やらメシを食べて
ミーティングなどしてました。
さ〜て寝ようかなと寝袋に入ったら
さっそく初日の夜から余震に襲われました。
関東のゆっくり、ながい地震とはタイプが違って
短く、突然来る小刻みな地震にちょっとビビりました。
あとこの日の夜に分かった事ですが
同じ部屋の方々の夜が賑やかで賑やかで
イビキを筆頭に歯ぎしり、叫び声。
いろんな人がいるなぁ。
寝ている時に叫ぶ人ってのは初めてだった。
5/12〜13(木.金)
作業内容(2,3日目):漁港に隣接する民家の瓦礫撤去。
車が斜めに突き刺さってたり
ガソリンスタンドの屋根の上に家の屋根があったり
え?どうゆうこと?と目を疑う光景がいくつもありました。
高台の木の枝をよく見ると色々な物が引っかかってる。
目の前に広がってる穏やかな海が
あの高さまで津波でかけあがった痕跡が残ってた。
それが現実なんだろうけれども、想像が出来ない。
Youtubeでいくつもの津波の映像を見たけれども
それはきっと実際の津波の恐ろしさの半分も伝え切れてないんじゃないかと
思った。
家と海の距離が近い。
家の前に道路があって、その道路を挟んで海。
地盤沈下した影響なのはわかるんだけど、普通あり得ない光景。
撤去作業については
木材とそれ以外の瓦礫に分別はされていて
担当は木材の撤去。
高さ2メートルの木材の山を撤去するのに10人いても
2,3時間かかる。
本当に重労働。
怪我防止の為、カッパを着ての作業なので汗びっしょり。
天気が曇りだったので本当に助かった。
木材には釘が刺さっている事が多い。
気をつけないと作業着などが切れ目が入る。
実際切れ目が入った人は沢山いた。
地面に目をやると
津波で打ち上げられた貝殻よりガラスが多かった。
瓦礫の中に家族の写真などが沢山あって
開始1時間もしないのに見つかる。
慎重に作業しないといけないと思った。
漁港近くの民家は土台しか残っていなくて
住民の方と接する事はありませんでした。
そんな場所でも
ウグイスが「ホーホケキョ」って鳴いてて
高台に咲いてる桜の花びらが浜風に乗って
あたり一面に舞ってた。
5/14(土)
作業内容(4日目):陸前高田で個人宅のヘドロと瓦礫の撤去
辺り一面、瓦礫の山が続く景色。
先日、あれほど苦労した瓦礫の山が
見渡す限り延々といくつも数えられない・・・
このボランティア活動で陸前高田の風景が一番心に残った。
そんな風景を目にして作業休憩中の
同じチームの人達の会話
「いい街だったでしょうねぇ」Aさん
「今でもいい街ですよ。」Bさん
「そうですよね、すみません。」Aさん
って会話がありました。
Aさんが良いとか悪いって事じゃなくて
ちょっと心に残った会話なので、ここにも残します。
ここでの作業でも写真や身分証明書などが見つかりました。
家の人に見せると、写真の殆どがご近所の方の写真だそうで
作業した家はちょっと周辺と比べて高い場所にあり
津波が片方からではなく両方から迫って来たと言ってました。
帰り際に
家の人に何度も頭をさげられて
帽子を取って最後まで見送ってくれました。
なんだか泣きそうになった。
ボランティア活動中には
都民ボランティアという緑のビブスを着用して活動するんですけど
車に乗っている人も自衛隊の人にも
道を通りすぎる人、殆どの人にお辞儀をされました。
お辞儀するのってなんかいいなぁと思いました。
あと他のグループですが
陸前高田で
自衛隊がご遺体を運ぶところを見たそうです。
二ヶ月過ぎてもまだ、このような状況です。
避難所にいる方だってまだまだ沢山います。
そういえば仮設住宅をあまり見てないんですよね。
気仙沼で一箇所だけ。
まだ仮設住宅は少ないようです。
5/15(日)
作業内容(5日目):気仙沼で地域の文化センターの瓦礫撤去と泥のかき出し。
男性七人、女性五人と地元のおじいちゃん二、三人。
合計15人ぐらいで一階の瓦礫の撤去。
作業時間は9:30〜12:00、13:00〜15:00。
(作業活動30分、休憩10分)
お昼の休憩時間に近所の人から
おにぎりとグレープフルーツとリポビタンDの差し入れが
非常に有難かった。
ここでちょっと番外編
このお昼の休憩時間にカラスが沢山いたんですが
同じグループの人が
「カラスの鳴き声って【ふかわ〜】って聞こえますよ。」
というのを聞いてから
カラスの鳴き声が【ふかわ〜】にしか聞こえなくて
面白かったです。
今度、よく聞いてみて下さい。
さてさて
午後の作業が終わって最後に現地の人が
「写真撮りましょう。」
と言ってくださって集合写真を撮りました。
そして最後に
『色々と本当にありがとうございます。復興に向けて頑張ります。』
と地元の人が挨拶。
【頑張ります。】という言葉。
今までの人生の中で
【頑張ります。】って言葉を沢山聞いてきたけど、
本当に重い言葉だった。
5/16(月)
作業内容(6日目):テント設営
被災地とは直接は関係ないけれども、救援物資の設置場所となるテントの設営。
運動会の本部ぐらいの大きさのテントをたくさん設営するものかと
思っていたら、とんでもなく大きいテントを設営する
WFP 国際世界食料計画
のテントで、大きさはテニスコート3面ぐらいなのかな。
専門的な所は大工さんが
素人でも出来るところは大工さんの指示を仰ぎながら
やってました。
この動画の10:15付近を見て頂けると作業内容がわかります。
テント設営が終わって
救援物資の毛布の運搬をやって、この日は終了。
救援物資保管先となっていた体育館の
天井は所々、天井が抜け落ちていて
「地震が来たら逃げてねー」って言われました。
この日で全ボランティア活動終了
タバコ吸わないんですけど、仲の良かった方々と喫煙所で話した事
・ボランティア活動は一年じゃ終わらない。
長い長い活動が必要になる。
・これから夏を迎えるにあたってボランティア活動は過酷になる。
・(あとはここでは書けない話が多数)
5/17(火)
作業内容(7日目):掃除と移動
最後に部屋と宿の掃除をして、グループごとに活動報告をしたのですが
他のグループで記憶に残った話を
個人宅で神棚を片付ける時に
「神棚どこにしまいますか?」ボランティア
「神様はいないから捨てていいよ。」現地の人
と言われた。
返す言葉が見つからなかった。
一週間孤立していた場所では
情報が遮断されていたので世界が終わったのかと
心配ではなく絶望に近い感で覆われていた。
救援物資が届いた時には
救援物資が届いた事ではなくて
世界が終わっていない事を喜びあった。
気仙沼の近くにある大島で活動したグループは
フェリーで移動してしてボランティア活動を行いました。
フェリーでは喪服の人が多数、いらしたそうです。
最後に個人的な意見なんですが
安易に被災地に向かって「頑張れ!」って言うのは
どうなんだろ?と思いました。
「頑張れ!」って言われて
「よし!頑張るぞ!」って人もいるだろうけど
「これ以上何を頑張ればいいんだよ。」と思う人もいるんですよ。
「頑張らないで、是非頼って下さい。」
という言葉の方がいいのかなと思いました。
あとこれはボランティア参加した人達が共通に感じた事だと思うのですが
東北の人達は優しいというか優しすぎる。そして我慢強い。
3.11から二ヶ月過ぎて、そして三ヶ月を迎えるにあたって
被災者の方々の心境って変わると思うんですよね。
どう変化していくのか注目していきたいと思います。
報道番組では原発とか節電などの情報が報道の中心になると思うのですが
是非、被災地が現状どうなっているのかを気にして下さい。
参考リンク
住宅の復旧を手助け/都民ボランティア6期団長・根本利彦さん
だいあろ〜ぐ:東京彩人記 被災地支援 都民ボランティア団長・武藤香織さん
togetter:都民ボランティア(2期)感想まとめ
実際の被災地の2ヵ月後を皆さんに知って欲しくて
自分が実際に行ってきた体験をブログに残す事にしました。
ボランティアと言っても個人で全てを揃えて参加というわけではなく
東京ボランティア・市民活動センター
のボランティア活動の第七期として参加しました。
道具から交通手段、そして宿泊先まで準備してくれるので
非常に有難かったです。
最低限の経費はボランティア保険の1400円と
現地での最低限の食料や銭湯代(約2000円/1日)程度でしょうか。
第七期の一関チームは80名15グループ(正確な数は違います。)で活動。
グループごとに様々な活動をしました。
瓦礫の撤去やヘドロの掃き出しだけではなく
他のグループは
・炊き出し
・救援物資の仕分け
・足湯サービス
などの活動をしました。
この文章で瓦礫の山とかという表現が沢山出てきます。
でも、現地の人にとっては瓦礫の山ではなくて
生まれ育った故郷なんですよ。
でも、それ以外の言葉が見つからなくて・・・
機嫌を悪くする方がいたらすみません。
あと
参加したボランティア協会のルールとして
被災地での写真は一切は撮っていません。
写真はこのサイトを見てもらえるといいかも
Japan Earthquake: Two Months Later / In Focus
5/11(水)
作業内容(1日目):移動
東京から一関市へバスで移動。
移動でほぼ終了。
一関が近づくにつれて
高速道路ですら、所々亀裂があって
東京とは違う感じでした。
そして宿について銭湯やらメシを食べて
ミーティングなどしてました。
さ〜て寝ようかなと寝袋に入ったら
さっそく初日の夜から余震に襲われました。
関東のゆっくり、ながい地震とはタイプが違って
短く、突然来る小刻みな地震にちょっとビビりました。
あとこの日の夜に分かった事ですが
同じ部屋の方々の夜が賑やかで賑やかで
イビキを筆頭に歯ぎしり、叫び声。
いろんな人がいるなぁ。
寝ている時に叫ぶ人ってのは初めてだった。
5/12〜13(木.金)
作業内容(2,3日目):漁港に隣接する民家の瓦礫撤去。
車が斜めに突き刺さってたり
ガソリンスタンドの屋根の上に家の屋根があったり
え?どうゆうこと?と目を疑う光景がいくつもありました。
高台の木の枝をよく見ると色々な物が引っかかってる。
目の前に広がってる穏やかな海が
あの高さまで津波でかけあがった痕跡が残ってた。
それが現実なんだろうけれども、想像が出来ない。
Youtubeでいくつもの津波の映像を見たけれども
それはきっと実際の津波の恐ろしさの半分も伝え切れてないんじゃないかと
思った。
家と海の距離が近い。
家の前に道路があって、その道路を挟んで海。
地盤沈下した影響なのはわかるんだけど、普通あり得ない光景。
撤去作業については
木材とそれ以外の瓦礫に分別はされていて
担当は木材の撤去。
高さ2メートルの木材の山を撤去するのに10人いても
2,3時間かかる。
本当に重労働。
怪我防止の為、カッパを着ての作業なので汗びっしょり。
天気が曇りだったので本当に助かった。
木材には釘が刺さっている事が多い。
気をつけないと作業着などが切れ目が入る。
実際切れ目が入った人は沢山いた。
地面に目をやると
津波で打ち上げられた貝殻よりガラスが多かった。
瓦礫の中に家族の写真などが沢山あって
開始1時間もしないのに見つかる。
慎重に作業しないといけないと思った。
漁港近くの民家は土台しか残っていなくて
住民の方と接する事はありませんでした。
そんな場所でも
ウグイスが「ホーホケキョ」って鳴いてて
高台に咲いてる桜の花びらが浜風に乗って
あたり一面に舞ってた。
5/14(土)
作業内容(4日目):陸前高田で個人宅のヘドロと瓦礫の撤去
辺り一面、瓦礫の山が続く景色。
先日、あれほど苦労した瓦礫の山が
見渡す限り延々といくつも数えられない・・・
このボランティア活動で陸前高田の風景が一番心に残った。
そんな風景を目にして作業休憩中の
同じチームの人達の会話
「いい街だったでしょうねぇ」Aさん
「今でもいい街ですよ。」Bさん
「そうですよね、すみません。」Aさん
って会話がありました。
Aさんが良いとか悪いって事じゃなくて
ちょっと心に残った会話なので、ここにも残します。
ここでの作業でも写真や身分証明書などが見つかりました。
家の人に見せると、写真の殆どがご近所の方の写真だそうで
作業した家はちょっと周辺と比べて高い場所にあり
津波が片方からではなく両方から迫って来たと言ってました。
帰り際に
家の人に何度も頭をさげられて
帽子を取って最後まで見送ってくれました。
なんだか泣きそうになった。
ボランティア活動中には
都民ボランティアという緑のビブスを着用して活動するんですけど
車に乗っている人も自衛隊の人にも
道を通りすぎる人、殆どの人にお辞儀をされました。
お辞儀するのってなんかいいなぁと思いました。
あと他のグループですが
陸前高田で
自衛隊がご遺体を運ぶところを見たそうです。
二ヶ月過ぎてもまだ、このような状況です。
避難所にいる方だってまだまだ沢山います。
そういえば仮設住宅をあまり見てないんですよね。
気仙沼で一箇所だけ。
まだ仮設住宅は少ないようです。
5/15(日)
作業内容(5日目):気仙沼で地域の文化センターの瓦礫撤去と泥のかき出し。
男性七人、女性五人と地元のおじいちゃん二、三人。
合計15人ぐらいで一階の瓦礫の撤去。
作業時間は9:30〜12:00、13:00〜15:00。
(作業活動30分、休憩10分)
お昼の休憩時間に近所の人から
おにぎりとグレープフルーツとリポビタンDの差し入れが
非常に有難かった。
ここでちょっと番外編
このお昼の休憩時間にカラスが沢山いたんですが
同じグループの人が
「カラスの鳴き声って【ふかわ〜】って聞こえますよ。」
というのを聞いてから
カラスの鳴き声が【ふかわ〜】にしか聞こえなくて
面白かったです。
今度、よく聞いてみて下さい。
さてさて
午後の作業が終わって最後に現地の人が
「写真撮りましょう。」
と言ってくださって集合写真を撮りました。
そして最後に
『色々と本当にありがとうございます。復興に向けて頑張ります。』
と地元の人が挨拶。
【頑張ります。】という言葉。
今までの人生の中で
【頑張ります。】って言葉を沢山聞いてきたけど、
本当に重い言葉だった。
5/16(月)
作業内容(6日目):テント設営
被災地とは直接は関係ないけれども、救援物資の設置場所となるテントの設営。
運動会の本部ぐらいの大きさのテントをたくさん設営するものかと
思っていたら、とんでもなく大きいテントを設営する
WFP 国際世界食料計画
のテントで、大きさはテニスコート3面ぐらいなのかな。
専門的な所は大工さんが
素人でも出来るところは大工さんの指示を仰ぎながら
やってました。
この動画の10:15付近を見て頂けると作業内容がわかります。
テント設営が終わって
救援物資の毛布の運搬をやって、この日は終了。
救援物資保管先となっていた体育館の
天井は所々、天井が抜け落ちていて
「地震が来たら逃げてねー」って言われました。
この日で全ボランティア活動終了
タバコ吸わないんですけど、仲の良かった方々と喫煙所で話した事
・ボランティア活動は一年じゃ終わらない。
長い長い活動が必要になる。
・これから夏を迎えるにあたってボランティア活動は過酷になる。
・(あとはここでは書けない話が多数)
5/17(火)
作業内容(7日目):掃除と移動
最後に部屋と宿の掃除をして、グループごとに活動報告をしたのですが
他のグループで記憶に残った話を
個人宅で神棚を片付ける時に
「神棚どこにしまいますか?」ボランティア
「神様はいないから捨てていいよ。」現地の人
と言われた。
返す言葉が見つからなかった。
一週間孤立していた場所では
情報が遮断されていたので世界が終わったのかと
心配ではなく絶望に近い感で覆われていた。
救援物資が届いた時には
救援物資が届いた事ではなくて
世界が終わっていない事を喜びあった。
気仙沼の近くにある大島で活動したグループは
フェリーで移動してしてボランティア活動を行いました。
フェリーでは喪服の人が多数、いらしたそうです。
最後に個人的な意見なんですが
安易に被災地に向かって「頑張れ!」って言うのは
どうなんだろ?と思いました。
「頑張れ!」って言われて
「よし!頑張るぞ!」って人もいるだろうけど
「これ以上何を頑張ればいいんだよ。」と思う人もいるんですよ。
「頑張らないで、是非頼って下さい。」
という言葉の方がいいのかなと思いました。
あとこれはボランティア参加した人達が共通に感じた事だと思うのですが
東北の人達は優しいというか優しすぎる。そして我慢強い。
3.11から二ヶ月過ぎて、そして三ヶ月を迎えるにあたって
被災者の方々の心境って変わると思うんですよね。
どう変化していくのか注目していきたいと思います。
報道番組では原発とか節電などの情報が報道の中心になると思うのですが
是非、被災地が現状どうなっているのかを気にして下さい。
参考リンク
住宅の復旧を手助け/都民ボランティア6期団長・根本利彦さん
だいあろ〜ぐ:東京彩人記 被災地支援 都民ボランティア団長・武藤香織さん
togetter:都民ボランティア(2期)感想まとめ
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