久しぶりの更新(毎回言ってる)


今日は映画の考察を。


考察する映画は「トイ・ストーリー4」。

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友達曰く,今回のトイ・ストーリー
4は,巷で色々と物議を巻き起こしているらしい。



今回の考察の視点はシンプルです。

トイ・ストーリー4の解釈にアイドル論の観点から挑んでみます。

「え、アイドル論??」と思ったそこのあなた。

いたって真面目ですよ。



アイドルは観客やファンを楽しませてくれる存在です。

おもちゃはどうでしょう?

おもちゃは子供を楽しませてくれる存在です。ファンと子供という違いはあれど、誰かを楽しませてくれる存在という点で共通しています。


とはいうものの、アイドル論と聞いた時点で拒否反応を示す人もいるかもしれないのも承知の上なので,この時点で気分を悪くされた方はサイトを閉じることをおすすめします。(ネタバレも含むので,嫌な方もここで閉じてください。)


 


本題に入ります。

この映画で議論になるのはラストの描写。

古くからのファンにはそれが納得いかないのです。



ラストでは,ウッディがバズたちの元には戻らず,訳あって野良で生活していたボー・ピークと一緒に過ごしていくことを選ぶびます。

ここに違和感があるのです。

バズとウッディが離れ離れになるということ,あれだけ子供の遊び相手でいることにこだわっていたウッディがボニーの元を離れたこと,一見「あれ?」と思う描写であることは確かです。


この点が特に1から3とは大きく話が違う,という感想につながってきます。

しかし、一旦落ち着いて考えてみましょう。


3から4でウッディ達の持ち主が,アンディからボニーに変わりました。

ここで,アイドルに置き換えて考えてみます。

アンディやボニーを秋元康やつんくのようなプロデュー,ウッディ達はお抱えのアイドルとしてみましょう。(アンディやボニーはプロデューサーでありながら,楽しむファン側でもあります。自分でプロデュースしながら,自分で楽しんでいるのです。)

と考えてみると,日によってアンディやボニーの遊ぶおもちゃが違うのは,AKBグループや乃木坂46(+欅坂46)に見るような選抜方式に似ているし,子どものなかでお気に入りのおもちゃがあることについては,センターというポジションがあることや、欅坂46の平手友梨奈がセンターに重用されることに似ています。あるいは、ファンの視点から例えるなら,推しという文化に似ていると言えるでしょう。


また,ウッディ達の持ち主がアンディからボニーに変わったことは,モーニング娘。のプロデューサーがつんくから秋元康に変わったぐらいの違いなわけです(実際にはありえないかもですが)。

もし現実でそんなことが起きれば、つんくと秋元康でセンターに選んだり選抜したりするメンバーが違ってくるはずです。


つんくから秋元康に移ったと考えると,例えやすいのでこの方向で例えを続けてみます。

ボニーはアンディとは違い、ウッディをセンターからはずしました。そして選抜からもはずします。

それだけでなく,新人(フォーキー)を起用(工作)しました

古参のメンバーたちは,突然の新人加入に動揺します。

異例の新人加入やメンバーの動揺については欅坂46の長濱ねるの加入の一件を想起できるでしょう。


しかし,ボニーにとって特別な存在であるフォーキーは,ボニーの思いとは裏腹に自分というものを理解できていません。

この点についても,幼くしてアイドルの世界に入った子達の中に、多くの葛藤や不安があったり、学業との両立が迫られたりする状況など、まだ自分というものが確立していない状態と似ているように思います。

しかし、そんな幼く不安いっぱいの新人に手を差し伸べる存在が現れます。

そう、大ベテランのウッディです。
 

ここで手を差し伸べることができるのは,ウッディ以外にはいません。

なぜなら,バズや他のおもちゃたちは,新プロデューサーになって,選抜やセンターを初めて経験したばかりで、まだ自分自身のことで精一杯だからです(あくまでも例えの話)。


つまり,ウッディは,自分が子供達を楽しませる存在から,新人育成に回ったと捉えることができるのです。

これはジャニーズのタッキーに例えることが出来るでしょうか。


1から34では大きく話が違う,むしろ全く別の作品になっている,という指摘がありますが、そもそも,3のラストで,所有者がウッディからボニーに移った時点で,ウッディ編は終わり,4はボニーとの新たな形のトイ・ストーリーが始まることを意味していたと言えるのではないでしょうか。




さらにSMAPにも例えることができます。

SMAPはいつまでもあの5人でSMAPだと信じていました。

しかし,解散は突然訪れました。
今回のウッディとバズのように。
 

ファンが悲しんでいるニュースが多く流れました。人気のバラエティ番組も終わってしまいました。あの5人のやり取りを見られないことを悲しみました。


しかし,一番悩んだのは当の本人たちのはずです。そして,どんな判断になろうと,選ぶ権利は本人たちにあると思うのです。


そう考えれば,今回,ウッディがバズではなくボーとともに生きることを選択したことに対してはとやかくは言えないのではないか、と思うのです。

製作陣や脚本家を責めるのではなく,なんでウッディはバズと離れ離れになることを選んだのかを考えることの方が有意義ではないだろうか、と思ったのです。



【補足:今回,バズがやたら内なる声に従っている件に関しての解釈】

この件に関しては,ラストの件の次ぐらいに気になる点なので,この件に関しても私なりの解釈を書きたいと思います。

先程からアイドルに例えていますが,この件もその延長で考えられます。

今まで絶対的エースでセンターであったウッディがセンターから外され,バズ含め他のおもちゃ達は,アンディのとき以上に遊んでもらえて嬉しい反面,今まで道標となっていたウッディがいないことで不安も大きくなっています(のはずです)。

そんな中,ウッディは新規加入したフォーキーの世話役に回ってしまい,バズ達の中にはウッディは何を考えているんだ?という思いさえ出てきてしまいました。

そんな状況でバズは,ウッディも助けなきゃいけないけど,残ったみんなのことも統率をとって守らなきゃいけない,板挟みの状況になっていたと言えます。

ここで23のことを思い出してみると,2では「さらわれたウッディを助ける」,3では「ウッディと力を合わせて幼稚園から抜け出す」という共通の目的がバズや他のおもちゃ達にはありました。

4ではどうでしょう。ウッディの行動に対し,理解できていないおもちゃも多くいました。それに対しバズも半信半疑のままで,「こうしよう!」となかなか指揮をとることができません。しかし,親友のウッディを助けたい。いろんなことに悩まなくてはいけなくなってしまいました。

そんな,今まで経験したことのない事態に対し,拠り所としたのが,ウッディの言った「内なる声に従う」だったのではないでしょうか。
バズにとって「藁にもすがる思い」の「藁」はボイスボックスの声だったということです。






いかがだったでしょうか。

もしかしたら猛反発を食らって,このブログが炎上してしまうのではないかと不安です。。。
 


ダッキー&バニーが大好きです!

もし5が作られるのであれば,是非観にいきたい。そう思っています。

最後まで読んでいただきありがとうございました。