山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期

ここブログでは新書を10点満点で採点しています。

小川幸司・成田龍一編『世界史の考え方』(岩波新書) 8点

 「シリーズ 歴史総合を学ぶ」の第1巻。今年度から始まった高校の「歴史総合」を見据えて、「歴史総合」の議論にも大きな影響を与えてきた著者2人が、岸本美緒、長谷川貴彦・貴堂嘉之・永原陽子・臼杵陽をゲストに迎えて、歴史に関する本を読みながら近現代を中心とした世界史と歴史学について考えるという構成になります。
 章ごとに3冊の本がとり上げられており、それを著者2人+ゲストが紹介しながら、時代の特徴や歴史学の展開を語っていく形で、刺激的な議論がなされています。
 ただ、前半については文句がなしですが、後半の本のセレクションについては個人的には大いに問題があるように感じます。

第一章 近世から近代への移行
とり上げられている本:大塚久雄『社会科学の方法』、川北稔『砂糖の世界史』、岸本美緒『東アジアの「近世」』
ゲスト:岸本美緒

 まずは戦後を代表する知識人でもある大塚久雄の著作がとり上げられています。大塚は日本の「近代」が不十分なものであったとの反省のもと、イギリスの「近代」を生み出した人々の精神に迫ろうとしています。
 大塚は「ロビンソン・クルーソー」というわかりやすい類型をとり上げながら、近代を生み出した人々のエートスを分析したわけですが、「合理性」や生産の局面を強調する議論には批判もあります。
 また、大塚の時代は海外に行くことは難しく、欧米の二次文献にあたって理論を組み立てていましたが、その後、日本の研究者も海外で一次文献にあたるようになり、大塚の研究が参照されることは少なくなりますが、歴史教育の分野ではまだ大塚の枠組みの影響は強いと言います。

 一転して、川北稔『砂糖の世界史』は砂糖という商品に注目して国の枠を超えた歴史を描こうとするもので、産業革命を生み出したものはイギリスの小経営のエートスなどではなく、カリブの奴隷を使った砂糖のプランテーションがイギリス本国にもたらした富こそがその原動力だったという主張をしています。
 『砂糖の世界史』は世界システム論に依拠しているわけですが、同時に消費の局面にも目を配っているのが特徴と言えます。

 これら2冊の紹介が終わってから岸本美緒が登場するわけですが、まずは「近世」という「近代」の前の時代を表す概念が検討されています。
 岸本はあえて「近世」という時代区分の内容的指標については論じておらず、16〜18世紀にかけてアジアに登場した銀というモノの流れを軸にした新たな世界といった意味合いでこの言葉を使っています。
 世界システム論のような中心−周辺の図式ではなく、銀、さらには生糸やニンジンといった商品でつながりながら、東アジアに中国・朝鮮・日本といったそれぞれに特徴のある社会が成立したことを論じていくのです。
 単線的な発展論ではない歴史の姿が打ち出された議論と言えるでしょう。


第二章 近代の構造・近代の展開
とり上げられている本:遅塚忠躬『フランス革命』、長谷川貴彦『産業革命』、良知力『向う岸からの世界史』
ゲスト:長谷川貴彦

 遅塚忠躬(ちづかただみ)『フランス革命』は「歴史における劇薬」との副題があるように、フランス革命の理想と悲惨さを表裏一体のものとして描いた本になります。
 ここでは、フランス革命における犠牲の大きさと三谷博が『日本史のなかの「普遍」』で指摘する明治維新の死者の少なさを比較したり、革命主体の決断に焦点を合わせる遅塚忠躬『フランス革命』と革命を生み出した諸要因の相互作用に注目した柴田三千雄『フランス革命はなぜおこったか』を対比させたりしながら、「近代」という時代に対するフランス革命の意味を探っています。

 一方、同じ「革命」という名がついていながらドラマ性がないのが産業革命です。ここでは『産業革命』の著者の長谷川貴彦をゲストに迎えて議論が行われています。
 産業革命については実はGNPの伸びなどは大したことがなかったという指摘もありますが、労働力の移動や都市化、労働時間の増加、栄養状態の悪化などさまざまな変化がありましたし、何よりも「有機物依存経済」から「鉱物依存経済」への大きな転換があったと言います。これによって土地の有限性という足枷が外れたのです。

 長谷川によれば、市場経済と共同体の解体を説明するときに、内部から市場が発展し共同体が解体するという内的要因を重視する説明と、外部から市場経済が浸透して共同体が解体するという外的要因を重視する説明がありますが、この両者をうまく結びつけようとしたのが自分の狙いだと言います。
 そして、イギリスでは長期的で緩慢な動きだった工業化が、他国に輸出されると、まさに「革命」というほどに激烈な変化を引き起こしたと言います。

 3冊目の良知力(らちちから)『向う岸からの世界史』は1848年の革命を扱った本になります。
 本書は1848年の革命において「プロレタリアート」と呼ばれた人々の内実を明らかにしようとした本になります。ウィーンにおける「プロレタリアート」はボヘミアの農村から仕事を求めて市壁の外側の区域に流れついたスラヴ系の住民であり、3月革命ではこの「プロレタリアート」が革命側に身を投じ、一方でハンガリーからの解放を願うクロアチア人の赤マント部隊が鎮圧側に回りました。
 マルクスはクロアチア人を買収された「ルンペン・プロレタリアート」だと批判しましたが、良知は「支配者VS被支配者」では分析できない、その地域の特殊性や「民族」の問題を見ていこうとします。
 また「向う岸」という言葉には、西欧中心の世界史に対する、「東」の存在といったものも込められています。
 
第三章 帝国主義の展開
とり上げられている本:江口朴郎『帝国主義と民族』、橋川文三『黄禍物語』、貴堂嘉之『移民国家アメリカの歴史』
ゲスト:貴堂嘉之

 江口朴郎は「戦後歴史学」の旗手とも言われた人物で、『帝国主義と民族』はマルクス主義の立場に立ちつつも資本主義と帝国主義の関係性や民衆の主体性、民衆とナショナリズムの関わりなどを分析したものだと言います。本書の紹介だけだとややわかりにくいですね。
 
 『黄禍物語』の著者の橋川文三は、丸山真男のもとで政治思想史を学んだ人物ですが、現在では文学論などのほうが有名かもしれません。『黄禍物語』の中で、橋川は黄禍論に対して黄禍の主体として反発した中国と白人に意識を重ね合わせた日本を対比する形で論じ、近代日本がヨーロッパ人の人種主義を受け入れてしまったことを指摘しています。
 ただし、本書の編者の小川は、この本は「人種主義を白人社会の遺伝子であるかのように描いて」(162p)しまっており、「叙述の仕方がとても散漫」(164p)と批判的に述べています。

 ゲストの貴堂嘉之は『黄禍物語』に触れ、アメリカの人種主義が南北戦争における奴隷解放後に顕在化し、人種平等を求める政治がアジア系への移民排斥運動によって瓦解することに注目すべきだと言います。
 『移民国家アメリカの歴史』のタイトルにある「移民国家」は建国当初からのアメリカの変わらぬ姿だと思いがちですが、この本では「奴隷国家」だったアメリカが南北戦争を経て「移民国家」になっていった過程を描き出しています。
 奴隷は解放されるわけですが、「黒人」は二級市民としての扱いを受け、さらにアジア系も帰化の可能性を否定されて市民権から排除されていきます。さまざまな民族を受け入れてきたアメリカですが、そこでは「白人性」というものが中心に据えられることになったのです。
 「移民国家」というキャッチフレーズの中で隠蔽されたものを暴き出す試みとも言えるでしょう。

第四章 二〇世紀と二つの世界大戦
とり上げられている本:丸山真男『日本の思想』、荒井信一『空爆の歴史』、内海愛子『朝鮮人BC級戦犯の記録』
ゲスト:永原陽子

 まずは丸山真男『日本の思想』ですが、個人的にはこのセレクトは大いに不満で本書の最大の欠点だと思います。
 『日本の思想』自体は優れた日本社会論であり日本人論だと思いますが、歴史の本ではないですし、丸山の語り口には魅力があるものの、実証的なところもありません。『日本の思想』を戦後を考える上での「史料」として扱うことは可能だと思いますが、そういったとり上げ方がされているわけでもありません。結果として「二〇世紀と二つの世界大戦」というタイトルの章でありながら、ロシア革命も第一次世界大戦も世界恐慌もほとんどとり上げられずに終わっています。

 一方、荒井信一『空爆の歴史』は未読ですが、タイトルから想像される以上にスケール感のある本。空爆という戦術について、第二次世界大戦だけではなく、1911年のイタリア・トルコ戦争から始まりベトナム戦争に至るまでの20世紀の戦争を俯瞰する形で論じています。
 残虐な戦術いうものは大規模な戦争とともに生まれたと考えられがちですが、空爆がイタリア・トルコ戦争におけるイタリア軍のリビアに対する空爆から始まったように、対植民地戦争でこそ残虐な戦術がとられてきた面もあります。空爆というものは文明/野蛮という非対称な認識のもとに行われてきました。
 日本の重慶爆撃、アメリカによる日本への爆撃、ベトナム戦争での爆撃、いずれも敵を「劣位」な集団だとする人種主義が見え隠れしているのです。

 つづいて内海愛子『朝鮮人BC級戦犯の記録』ですが、この本は日本軍の軍属して捕虜の管理などにあたり、そのことが理由で戦後になった戦犯として処罰された朝鮮人を追っています(処罰された中には台湾人も多い)。
 戦争犯罪においても加害者と被害者という立場があるわけですが、朝鮮人BC級戦犯は捕虜を虐待した「加害者」であると同時に、日本の植民地支配による「被害者」とも言える存在です。
 しかも、講和条約の発効時に日本政府が彼らの日本国籍を剥奪したことによって、日本人であれば受けられた補償などからも排除されました。まさに戦争と植民地支配の負の影響を理不尽な形で受けたと言えます。
 
 ゲストの永原陽子も指摘していることですが、『空爆の歴史』と『朝鮮人BC級戦犯の記録』は、戦争責任を問いつつ、さらにそれを超えて植民地支配の責任についても問う内容になっています。植民地支配と現在の問題のつながりを考えていくような議論がなされています。

第五章 現代世界と私たち
とり上げられている本:中村政則『戦後史』、臼杵陽『イスラエル』、峯陽一『2100年の世界地図 アフラシアの時代』
ゲスト:臼杵陽

 中村政則『戦後史』は戦後60年の2005年に出版された本で、「戦前」を克服するものとしての「戦後」を自らの体感に重ね合わせるように論じています。ただし、戦前と戦後をまったく別のものとして描くのではなく、「日本の戦後史の源流・原型は1920年代に始まり戦時動員体制の中で形成された」(294p)という「貫戦史」という視点を打ち出しています。
 ただし、本書の持つナショナルな枠組み(例えば「下から湧き上がる日本人のエネルギー」を成功要因にあげている点など)に対して、小川はやや批判的です。
 
 同じ1つの国の歴史に注目しながら「ナショナル」の難しさを教えてくれるのが臼杵陽『イスラエル』です。
 イスラエルと言えば「ユダヤ人」の国ですが、「ユダヤ人」は民族なのか、それともユダヤ教の信者を指すのか、という問題がありますし、ユダヤ人・教徒にもスペイン系で地中海沿岸地域を中心に離散したラディーノ語を話す「スファラディーム」、ドイツ系(のちに東欧・ロシアに移住)でイディッシュ語を話す「アシュケナジーム」、さらにイスラエル建国後にアラブ諸国やイスラーム世界からきた「ミズラヒーム」がいます。
 そして、イスラエルにはアラブ人(パレスチナ人)も住んでいます。

 イスラエルはシオニズムの考えのもとで建国されますが、60年代頃からホロコーストがイスラエル統合のシンボルになっていきます。しかし、このホロコーストをシンボル化するということが、さまざまな問題を引き起こしていると、ゲストの臼杵陽も考えています。

 3冊目が峯陽一『2100年の世界地図 アフラシアの時代』ですが、以前このブログで紹介したときにも書いたように、個人的にこの本についてはあまり評価していません。
 欧米列強によって植民地支配された「アジア+アフリカ=アフラシア」という枠組みは、植民地主義を批判してきた本書の論調からは魅力的なものかもしれませんが、「反西洋」で一つのまとまりを構想するというのは往年の「アジア主義」のようですし、健全ではないと思います。
 歴史を学んだ上で未来を構想したいというのはわかりますが、ここは禁欲すべきでしょう。

 いくつか文句もつけましたが、全体を通して非常に密度の濃い議論がなされており、別に「歴史総合」に関わらない人にとっても非常に刺激的で面白い本になっていると思います。
 近現代をたどりながら、歴史学がどのように変化・発展してきたのかということがわかりますし、その歴史学がさまざまな枠組みを揺さぶっていることもわかると思います。
 「歴史」に対する入門書と「歴史学」に対する入門書を兼ね備えた内容になっていると言えるでしょう。


濱本真輔『日本の国会議員』(中公新書) 9点

 国民の代表でありながら、多くの人がその姿に納得しているとは思えない日本の国会議員。そんな日本の国会議員の姿にデータを使って多角的に迫ったのが本書になります。
 中公新書には林芳正・津村啓介『国会議員の仕事』という現職の国会議員がその活動について綴った本もありますが、本書はあくまでも外側から、どのような人物が国会議員になり、どんな選挙活動を行い、国会ではどのような仕事をし、政党の中でどのようにはたらき、カネをどのように集め、使っているかということを分析した本になります。
 過去と現在、日本と海外、与党と野党といった具合に、さまざまな比較がなされているのが本書の特徴で、この比較によって、問題のポイントや解決していくべき課題といったものも見えてきます。
 国会議員ついて知るだけではなく、日本の現在の政治を考える上でも非常に有益な本だと言えるでしょう。

 目次は以下の通り。
第1章 誰が政治家になるのか
第2章 当選に向けた活動とは
第3章 立法過程への参画ー議員の仕事
第4章 不安定な議員ー政党制の問題
第5章 政治資金ー政治家とカネの問題
終章 政治改革後の国会議員とは

 「投票したい人がいない」ということはよく言われることですが、では「立候補したい人」はどれだけいるかというと、2020年のウェブ調査で国会議員に「非常になりたい」「ややなりたい」と答えた人は男性で計28.9%、女性で計9.4%、一方で「絶対になりたくない」は男性で34.0%、女性で59.4%、なりたいかどうかは男女差が大きく、また拒否感も大きい仕事だということがわかります(5p1−1参照)。
 政党が候補者を公募したり、政治家志望者に向けた塾などを開くと3000名前後の数は集まるので、政治家になりたいと考える一定数の人間がいることはわかります。

 ただし、立候補にはさまざまなハードルがあります。日本の衆議院25歳、参議院30歳という被選挙権の年齢は高いほうですし、衆議院の小選挙区に出馬するための供託金300万円というのは国際的に見てもかなり高額です。
 
 政党が立てる候補者に関しては、公明党や共産党のように内部からの選抜が中心のケースもありますし、民主党のように公募を積極的に行った政党もあります。
 自民党は、以前は派閥が候補者の発掘や公認を行い、当選したあとの追加公認といったこともさかんに行われていましたが、選挙制度改革以降は公募も取り入れるようになりました。
 
 実際に国会議員になった人を見ると、平均年齢は衆議院議員が55歳、参議院議員が58歳と年齢は高めです。女性の割合は衆議院の当選者で10%前後、参議院の当選者で20%台前半となっており、その比率は低いと言わざるを得ません。
 1947〜2014年までの衆議院選挙の当選者の前職を見ると地方議員、官僚、秘書の順番になっており(24p1−7参照)、自民党の当選者を見てもこの順番は同じですが、民主党・民進党では秘書、地方議員、経営者、公明党では地方議員、メディア、弁護士、共産党では地方議員、労組、教育の順番になっています(26p1−8参照)。

 自民党に絞ってみてみると1955〜76年までは官僚出身が多く100名を超えるほどでしたが、2012年以降は55名前後です。一方、増えているのは地方議員と秘書で、秘書は世襲候補が多く、2000年代になると秘書出身の7割が世襲です。
 
 日本の世襲議員は1955年以降に増え始め、80年以降は25〜30%ほどになっています。これは多くの国が10%以下であるのに比べると高い数字になります(33p1−13参照)。
 55年以降に世襲が増えたのは選挙において個人後援会の組織力が重要になったからで、この後援会を引き継ぐために世襲が行われるようになりました。

 女性議員の少なさについては、クオータ制が導入されていないこと、選挙制度が小選挙区に重点を置いた制度であること(衆議院より参議院のほうが女性の割合は高い)、固定的な性別役割分業意識があることが要因としてあげられています。
 
 こうした機会の不平等に対して、本書では非選挙権の年齢と供託金の引き下げ、政党交付金と組み合わせることで政党に自発的なクオータ制をとらせること、公募制の強化、一定の年齢や当選回数になった現職議員への新人チャレンジの機会をつくることなどを提言しています。

 では、現在の政治家は当選のためにどのような活動を行っているのでしょうか?
 まず、日本の選挙は戸別訪問の禁止をはじめとして非常に制限が多く、選挙運動期間も短いため(かつては30日あって衆議院の選挙運動期間は94年に12日まで短縮された)、選挙期間以外の活動が重要になります。

 ですから、普段からとにかく一軒一軒の家を訪ね、街頭で演説し、ミニ集会を開くといったことが重要になります。地方であれば戸別訪問やミニ集会、都市部であれば街頭での活動に力点が置かれます。
 活動資金については、政治改革以降、党から活動資金が提供されるようになりましたが、それでも足りないケースが多く、候補者自身の資金や借入金に頼ることになります。
 当選後も次の選挙に向けた活動は必要で、「金帰火来」と言うように週末のたびに選挙区入りする議員も多いです。最近は自民党の当選4回以上の議員でも選挙区入りする頻度が高くなっており(59p2−1参照)、地元の活動を重視する傾向がうかがえます。

 日本では政治家の多くが個人後援会を持っています。政策的な理由というよりは政治家個人とのつながりでつくられる団体であり、そのために政治家は新年会やバスツアー、国会見学など、さまざまな手を使って、後援会を維持・活性化させようとしてきました。

 国会議員はさまざまな陳情も受けます。2016年の調査によると自民党の議員は民進党の議員よりも陳情を受ける頻度が高く、特に地元の公共事業に関する陳情では大きな差があります(65p2−2参照)。
 ただし、陳情自体は以前よりも減っており、また、地方議員とのつながりや、後援会への加入者なども減っており、地域における有権者とのつながりは弱まっていると言えます。

 国会議員は公費で秘書を雇うことができ、現在は政策担当秘書を含めて3名が公費で雇用できます。政策担当秘書は政策スタッフとして期待されており、資格試験もありますが、公設秘書を一定期間やれば資格が取れるため、必ずしも政策スタッフとして働いているわけではありません。
 この他にも私設秘書がいます。2002年の調査では衆参平均で5.7人、2012年の衆院の調査では平均7.0人の秘書を雇用しており、公設秘書が3名だということを考えると2〜4名ほどの私設秘書がいるということになります。政党別では2012年の調査で自民が8.6名に対して民主党6.6名、共産党4.0名などとなっています(71p2−4参照)。

 日本では有権者の政治参加が低調です。2018年の調査では政党・団体の一員として活動した人は1.1%、デモに参加した人は0.6%、最も高い署名活動への参加でも10.7%。政党・団体の新聞や雑誌の購読も73年には11.0%ありましたが、18年は2.9%です(78p2−6参照)。
 日本では経済団体や農業団体などの生産者団体の活動がさかんですが、それに参加する人も減りつつあり、団体そのものへの参加も減りつつあります。
 
 こうした中で、1980年代までは「地元の利益のために力をつくす人」を重視していた有権者は、90年第以降は「国全体の政治について考える人」を重視するようになっています。また、候補者の特性として重視されるものも「手腕のある人」から「見識のある人」にシフトしつつあると言います。
 「候補者重視」と「政党重視」の選択では、それまで拮抗していたものが2000年以降になると「政党重視」が優位に推移しています(83p2−8参照)。
 議員自身の認識していている当選の原動力でも、2016年の調査では自民党議員で所属政党がトップ、ついで後援会となっています(時期的なものもあって民主党議員は所属政党の順位は低く、個人的な関係者がトップ(86p2−10参照)。
 
 小選挙区比例代表並立制の導入以降、政党本位の選挙になりつつありますが、政党組織はそれほど拡充されていません。
 そのために議員は当選のためにかなりの運動をする必要があり、また、議員は当選のために党首の交代を求めたり、造反や離党をするようになっています。本来ならば、個人後援会が政党の地方組織に変わっていくことが望ましいのかもしれませんが、地方議員の選挙が中選挙区制が中心だということもあって、地方議員の政党化は進んでいません。

 こうして当選した議員は国会内でどのような活動を行っているのでしょうか?
 政党では朝からさまざまな会議が開かれています。特に自民党では政策調査会の下に部会というものがあり、重要な役割を果たしています。
 この部会でまず法案が審議され、関係者の合意形成が図られるとともに政府との調整も行われます。そして、部会→政務調査会→総務会の順に審議が進み、総務会の決定により党議拘束がかかります。

 このように政府が提出する法案の事前審議に多くの与党議員が関わるというのは日本独自のものです。イギリスでは政府提出法案の内容は少数の与党幹部にのみ知らされますし、議員がかかわるのはあくまでも議会に提出されてからという国が多いです。また、党議拘束の強さと多さも日本は突出しています。
 この背景には、日本では国会の議事運営に内閣が関われないこと、参議院の権限が強く自律性も高いこと、与党議員の意見の多様性と議員の自律性の高さといったことがあると言われています。
 
 与党内で事前に綿密な審議がなされ党議拘束がかかるとなれば、おのずから国会での審議は形骸化します。
 民主党政権は当初事前審査制を採用せず、党議拘束にも消極的でした。しかし、野田政権になると事前審査制が復活し、党議拘束もかかるようになります。個人の力で選挙を勝ち抜く風潮の強い風潮のもとで、「イギリスのようなバックベンチャ(平議員)のありようは、日本には合わない」(玄葉光一郎の発言(119p))のです。

 議員立法に関しては成立率が低いですが、これは議院内閣制の国では共通の現象であり、議員立法の提出数は90年代以降増加傾向にあります。野党の提案は成立しないことが多いですが、党のアピールや議員への教育効果、党内での能力のアピールなど、さまざまなプラスの効果もあります。

 部会には人気の部会とそうでないものがあります。自民党では国土交通部会、経済産業部会、農林部会などに参加者が多い一方で、法務部会の参加者は少ないです(127p3−5参照)。また、中選挙区時代とは違って外交部会にも人が集まるようになっています。

 138p3−8には「政策決定で影響力があるのは誰か」ということを国会議員に尋ねたグラフが載っていますが、これによると政調部門の影響力が下がり、首相官邸の影響力が高まっていることが見て取れます。例えば、公共事業分野で影響力を持つのは87年の段階では政調部門51.1%、首相官邸5.3%でしたが、16年になると政調部門19.1%、首相官邸33.6%です。
 いわゆる族議員の影響力も弱まっていると見ていいでしょう。

 国会での審議を取り仕切るのは国会対策委員会になります。ここで法案の重要度を仕分けし、審議の日程などを決めていくわけです。
 日本では国会の会期が短く、しかも会期不継続の原則というものがあるため審議日程が重要です。野党には法案の修正をめざすか、日程的に追い込んで阻止するかという戦略があるわけですが、内閣が審議に関われない中で法案の修正は難しく、どうしても日程闘争の色合いが濃くなります。
 また、いつでも解散ができるということで、野党も常に対決色を出す必要に迫られているとも言えます。

 国会の審議は質疑が中心ですが、与党議員が官僚から多くの情報を得ているのに対して野党議員は官僚からの情報が得にくく、情報公開の不十分さもあって野党は質疑のために情報収集に苦労することになります。
 質問主意書も活用されていますが、これについては官僚に過大な負担を強いているとの指摘もあります。ただし、本書によれば国際比較では日本のあり方が特に大きな負担を敷いているわけではないとしています。

 国会における日程闘争は、質問主意書の提出の遅れの原因ともなっており、これが官僚たちに大きな負担を強いているとの問題もあります。
 会期の長期化と会期不継続の原則の見直しを行い、内閣の国会審議に関する関与を強めるとともに、少数者調査権を拡充し、野党に情報収集などの手段を与えていくべきだというのが本書が示す処方箋になります。

 先に述べたように選挙における政党の存在感は高まっていますが、その政党が必ずしも安定していないのが現在の日本です。
 政党の対立軸としては、まず右と左のイデオロギーが考えられます。海外では国家への社会経済への関与を軸として「右」「左」の対立軸が構成されることが多いですが、日本では長年、憲法や安全保障を軸にして保守と革新・リベラルという対立が構成されてきました。
 80年第以降に自民党が新自由主義的な傾向を強めると、それを軸にした対立も浮上していくることになりますが、それでも憲法と安全保障の軸は影響力を残しています。そして、この憲法と安全保障は、野党を分断するくさびの争点ともなっています。

 個々の議員の立ち位置を見ると、大まかなまとまりはあるものの(2014年の調査で自民はイデオロギーは右で現状維持志向、民主は中道で改革志向、維新は右で改革志向など(174p4−1参照))、ばらつきも大きく、特に自民と民主の議員はかなり分散しています。

 こうした中で候補者は、公約を尊重しつつも自らの意見を主張するとした割合が7〜8割で政党の公約がやや軽く扱われていることがわかります(180p4−4参照)。
 党議拘束についての考えでは政党ごとにばらつきが見られ、なるべく党議拘束をかけるのが望ましいと考える議員の割合は、2012年の調査で共産党(100%)>自民党(67.3%)>民主党(36.9%)などとなっています(184p4−6参照)。

 自らの意見を通すために議員は造反することがありますし、さらに離党することもあります。1990年代以降、日本では政党の離合集散が繰り返されてきました。
 小選挙区ではまとまらないと勝てないので1つにまとまろうとする動きが起こりますが、一方で比例代表の部分や参議院もあるので、そこでは遠心力がはたらきます。さらに政党助成法によって資金問題が軽減されたこともあって、勢いがなくなった政党もその資金で存続します。
 こうしたこともあって自民の対抗軸となった保守系改革勢力を中心に合流と分裂が続いているのです。

 最後は政治資金の問題です。政党助成金以外にも国会議員はさまざまなお金を集めています。
 政治資金を一番集めているのは自民党の議員ですが、2009年頃までは平均7500万円ほどを集めていたものの、それ以降は5500万円前後にまで減っています。一方、民主党系は平均3500万円ほどです(213p5−2参照)。
 衆議院議員は参議院議員の1.5〜2倍ほどの資金を集めており、衆議院の小選挙区選出議員は特に多くの資金を集めています。

 政治資金は政党も集めています。2017〜19年の平均を見ると、自民党は政党交付金を中心に団体寄付を集めています。立憲民主党も政党交付金中心ですが、借入金の割合も24.4%あります。公明党や共産党は事業収入の割合が高く、共産党は政党交付金を受け取っていません(218p5−4参照)。
 90年代の政治改革以降、企業や団体からの政治献金は減少傾向ですが、個人献金も伸びていません(220p5−5参照)。
 政治資金については日本はそれなりに規制の厳しい国ではありますが、会計が一本化されておらず、公開の範囲が狭いといった問題があります。

 このように本書は日本の国会議員の姿を多面的に分析しています。ある程度は知っていたことも多いですが、このように多角的に、しかも国際比較などを交えながら論じてくれると改めて見えてくるものも多いと思います。
 漠然と日本の国会議員について嘆く前に、本書を読んで具体的にどこが嘆くべきところなのかを考えることで、日本の政治ついての議論が実りのあるものになってくるのではないでしょうか。

須田努『幕末社会』(岩波新書) 9点

 出た当初はスルーしていたのですが、いくつか面白そうな感想を目にして読んでみたら、これは面白いですね。幕末において幕藩体制がいかに緩んでいたか、開国からはじまる社会変動がどのようなものであったのかということが庶民の目線から描かれています。
 とり上げられている事例は関東・東北・甲信などの東日本のものが多く、京都と西国雄藩中心に描かれることが多い幕末の歴史について、東国の様子を知ることができるのも興味深いところです。
 天狗党や渋沢成一郎のつくった振武軍など、去年の大河ドラマの「青天を衝け」と重なっている部分も多く、去年出版されていれば大河ドラマのよき副読本となったでしょう。また、新選組についての記述もありますし、土方歳三の義兄の佐藤彦五郎の活動もかなり詳細に追っています。新選組好きも面白く読めると思います。

 「民衆史」というと、以前はどうしても「政治権力vs民衆」的な図式を描くものが多かったですが、本書は民衆の「衆」としての力に着目しつつも、さまざまな意志を持った「個人」を描き、それを幕末の社会情勢とリンクさせているところが面白いです。

 目次は以下の通り。
序章 武威と仁政という政治理念
第一章 天保期の社会揺らぐ仁政
第二章 弘化から安政期の社会失墜する武威
第三章 万延から文久期の社会 尊王攘夷運動の全盛
第四章 元治から慶応期の社会 内戦と分断の時代

 まず、著者は「仁政と武威」という江戸時代の理念に着目します。
 秀吉の朝鮮侵略や鄭成功の物語などから、江戸時代には日本は「武威の国」であるという認識が広まっていました。また、武士は武力を独占しつつ百姓らに仁政を施し、その代わりに百姓らは年貢を納めるという「仁政」の考えも広がります。
 百姓一揆においても百姓たちが暴力を行使することはほとんどなく、幕藩領主の仁政を引き出すための訴願として百姓一揆という方法がとられたのです(著者が調べた百姓一揆1430件のうち武器を携行・使用した事例はわずか14件で、そのうち13件は19世紀になってから(5p))。

 江戸時代の前半は新田開発が進み人口も増えますが、享保期になると限界に達し、新たに百姓が分家をつくることは難しくなります。
 天明期になると田沼意次が株仲間の公認を行いますが、これは商売への新規参入が難しくなることでもあります。結果的に、百姓でも長男以外の男性は、「厄介」になるか、都市で奉公人、日傭稼、棒手振になるしかなく、若者たちは閉塞感を強めていくのです。

 こうした「仁政と武威」が崩れ始めるのが、徳川斉昭が「内憂外患」という言葉で表した天保期です。
 文政7(1824)年、イギリス捕鯨船員が水戸藩領常陸大津浜に上陸します。これを受けて水戸藩の会沢正志斎は「新論」を執筆します。正志斎は「富国強兵」という言葉を使い、軍事力の立て直しを訴えました(もとは古代中国の言葉だが、天子の「徳」を重視する中国では使われなくなっていった)。

 一方、在地社会も動揺します。天明期に関東で生糸や絹織物の生産が盛んになり、それに伴って貨幣経済が広がりますが、その一方で農村から労働力が街道や宿場などに流出し、農村の荒廃も進みました。
 そうした中で博徒や無宿や渡世人などが目立つようになります。これに対して幕府は関東取締出役を設置するわけですが、関東取締出役の定員は当初8人にすぎませんでした。
 幕府は農村の風俗統制などによって治安の回復を図ろうとしますが、そこでは若者組の在方歌舞伎や相撲興行などが禁止の対象とされました。これらの興行を仕切っていたのが博徒であり、そこには独自のネットワークもあったからです。

 一方、関東取締出役については現地に不案内であったために、「道案内」と呼ばれる地域の有力者を雇うのですが、博徒に詳しい人物が求められたために、博徒そのものや無宿などが就任すケースもあり、関東取締出役と博徒の癒着が問題になりました。

 前にも述べたように、この時期になると百姓でも長男以外は将来の見通しが立たなくなり、若者たちが村から逃げ(これを「不斗出」という)、宿場や河岸に滞留するようになります。
 「不斗出」者が犯罪を犯して捕まった場合は入牢その他の費用は村の負担となるため、村は彼らを宗門人別帳から抹消し、関係を絶ちました。こうして彼らは無宿となります。
 宿場や河岸の有力者は無宿を人足として雇用し、さらに賭場を開くことで彼らに支払った賃金を回収していきました。
 こうして博徒の活動も活発になり、国定忠治のような有名な博徒も生まれます。

 博徒の活動は関東で目立ちましたが、これは幕府が江戸防衛の観点から関東地方に大藩を設置せずに中小の譜代藩領と旗本・寺社領が入り組むような形にしたからで、それによって犯罪の取り締まりが難しかったからです。
 また、何者にも負けまいとする気概や秩序からの逸脱を良しとする関東人の気質も大きかったいいます(この気質が剣術の流行にもつながる)。
 
 天保期になると一揆も変質してきます。
 天保7(1836)年、甲州騒動と呼ばれる山梨県全域に広がる打ちこわしが起こっています。この打ちこわしは、飢饉にも関わらず甲州の米が江戸に廻米されていたことに怒った百姓らが穀物を買い占めていた米商人らの居宅を襲ったことから始まっています。
 当初は一揆の作法に則っていた打ちこわしでしたが、次第に飢えてない国中の人々が参加し、米穀商以外の質屋などの有徳人を打ちこわし、盗みまでもはたらくようになります。騒動に参加した人々は「赤き色物」を好んで身に着け、幕藩領主や村々は彼らを「悪党」と呼びました。
 そして、鉄砲などによって騒動勢を殺害・撃退する村も出てきます。捕縛された騒動勢は500人んにもおよび、そのほとんどは20代以下の若者だったといいます。

 一方、同じ頃に発生した三方領知替え反対一揆は、藩の転封をめぐって庄内藩で起きた一揆でしたが、こちらは江戸や水戸藩・仙台藩への愁訴を中心とした「一揆の作法」に則ったものでした。
 この愁訴は庄内藩の暗黙の後押しもあって成功し、三方領知替えは撤回されるわけですが、領主の「仁政」という建前は保持されたものの、幕府の「武威」は大きく傷つく結果となりました。

 そして、この幕府の武威の失墜を決定的にしたのが、ペリーの来航から桜田門外の変にいたる一連の出来事です。
 この流れの中で水戸学から「尊皇攘夷」と「国体」という言葉が生まれます。現在からみると保守的で国粋主義的な言葉という印象ですが、当時としては革新的な思想でした。
 「国体」は会沢正志斎が「新論」の中で使った言葉ですが、正志斎は欧米列強に対向するには武威だけではなく新たなアイデンティティが必要だと考え、天皇家を中心とした宗教的儀礼の中にそれを求めました。これは日本の独自性を打ち出す議論でしたが、同時に徳川将軍家を相対化するものでした。

 「新論」を読み解くには高度な知識が必要であり、吉田松陰も当初はその内容を理解していなかったといいますが、その存在が「聖典」のようになり、国体の考えは全国に広がっていきます。
 海外渡航を試みて失敗し入牢した松蔭は、改めて日本史を学び、国体論を内面化していきます。そして、この松蔭の影響を受けた長州藩の弟子たちが尊皇攘夷を行動原理として政治を揺り動かしていくことになります。
 
 異国人が日本にやってきた弘化〜安政期は地震が頻発した時代でもありました。弘化4(1847)年には7年に1度の善光寺開帳のさなかで起こった善光寺地震や、安政2(1855)年の江戸大地震をはじめとして多くの大地震が起きています。
 この地震は多くの犠牲者を出しましたが、貧富の差なく平等に襲いかかるというのも自身の特徴です。この時期の地震に関する錦絵では「世直し鯰」を描いたものもあり、「地震が社会的格差を”ならした”」(104p)と見た庶民もいたようです。

 一方、安政5(1858)年にアメリカの軍艦から日本の長崎に上陸したコレラは、衛生状態の悪い都市貧困層を襲いました。こちらは地震とは違って、その被害は不平等だったと言えます。

 さらに本書ではこの時期に百姓身分の中から登場した「強か者」に注目しています。
 盛岡藩(南部藩)では江戸時代を通じて150件もの百姓一揆が発生しています(隣の仙台藩は数件)。この背景には、蝦夷地警備の実績が評価されて表高がそれまでの2倍の20万石に引き上げられたこと(その分、百姓の負担も増えた)、天明期以降、御家騒動などがつづいたことなどがあります。
 
 嘉永6(1853)年の三閉伊通の百姓一揆は、藩政の紊乱に耐えかねた百姓たちが仙台藩への逃散・強訴をはかるという前代未聞のものでした。百姓たちは自分たちを仙台藩の百姓にしてほしい、無理ならば仙台藩が三閉伊通を幕領にするように幕府に推挙してほしいと主張したのです。
 仙台藩はこの願いを受け入れるわけにいきませんでしたが、このことは幕府の知るところとなり、盛岡藩は処分を受けました。一方、百姓たちに処罰者は出ませんでした。

 これだけでもインパクトのある話ですが、この一揆のリーダーの1人だった三浦命助は、地域社会とうまくいかなくなったこともあって出奔し、京に上って献金により二条家の家来になります。そして一揆から4年後に武士の身なりで大小を帯び「二条殿御用」の目印を立てて村に帰ってきます。二条家の家来という立場で三閉伊通の幕領化を成し遂げようとしたのです。
 結局、命助は盛岡藩に捕らえられて牢死しますが、型破りな個人の行動と言えるでしょう。

 和宮降嫁→坂下門外の変のころになると、尊皇攘夷は在地社会にも広がり、「異人斬り」といったことが暴力行為も起こってきます。
 坂下門外の変の実行犯に影響を与えた大橋訥庵は、高杉晋作に言わせれば「愚ニ堪カね」(136p)という人物なのですが、そうした者の影響を受けて老中襲撃が行われています。

 和宮降嫁と引き換えに「破約攘夷」を約束した幕府が追い詰められ、攘夷運動が幕府への批判につながっていきます。
 本書では長州藩や薩摩藩の動きも追っていますが、やはり興味深いのでは在地社会の動きです。

 島崎藤村の『夜明け前』の舞台となった木曽谷・伊那谷の地域では平田国学が広がっていました。もともとこの地域は幕領と飯田藩領などが点在する地域であり、木曽谷は遠く離れた尾張藩の領地でもあったため、統一的な当地は不可能でした。さらに材木業や製糸業がさかんだったこともあって、現金収入があり、また、独自のネットワークも発展していました。
 この地域でも幕末になると遊興にあけくれる若者たちが問題になりましたが、そこで在地社会の秩序を守るために受容されたのが平田国学でした。幕藩領主の存在感の薄いこの地で、一君万民的な考えを持つ平田国学は在地社会の安寧をもたらすものと捉えられたのです。

 本書でとり上げられている竹村(松尾)多勢子(松尾多勢子の名で知られているが松尾は嫁ぎ先の名字で実家の竹村を名乗っていた)は、平田国学に入門し、思いもよらないような行動力を見せた人です。
 多勢子は伊那谷に生まれ、伴野村の庄屋に嫁ぎ、7人の子どもを育て上げます。文久2(1862)年、50歳になった多勢子は京都へと旅立ちます。多勢子は中村半次郎(桐野利秋)をはじめとする志士たちと交流し、平田国学のネットワークを利用して公卿の大原重徳にも会っています。
 多勢子は老婆であるということで幕府の探索から逃れ、長州藩などの尊王攘夷派に朝廷内部の情報を伝えました。

 一方、尊王攘夷運動に染まらなかったものの、時代の変化に対応しようとした地域指導者もいます。土方歳三の義兄にあたる佐藤彦五郎もその1人です。
 佐藤彦五郎は代々日野宿の名主をつとめる名家に生まれ、治安の悪化に対応しようとしました。まずは自らが天然理心流に入門するとともに自宅を改造して道場を設け、そこで近藤勇・土方・沖田総司らの試衛館の中心メンバーが多摩の門人に直接稽古をつけました。彦五郎は道場を開くことで、個人の暴力を事故の統制下に入れたとも言えます。

 ご存知のように試衛館のメンバーは上洛し新選組を結成していくのですが、彦五郎はその後もその後も試衛館のメンバーと書翰のやり取りを重ねました。
 さらに幕府の代官・江川英武が多摩地域で農兵の取り立てを行うと、彦五郎は日野宿農兵銃隊の隊長に就任しました。この農兵銃隊は最新のゲベール銃で武装しており、のちの武州世直し騒動で活躍します。

 文久3(1863)年の八月十八日の政変によって京都から尊皇攘夷派が追放されますが、関東では翌年に横浜鎖港を実現するために天狗党が筑波山で挙兵します。もともとは水戸藩の内紛が生んだ天狗党でしたが、これが関東を内戦状態に巻き込んでいきます。
 天狗党は各地で金銭の強要や殺人・放火・強奪などを行うとともに、下妻、水戸城下、那珂湊などの各地で幕府の追討軍と戦います。那珂湊の戦いに破れた天狗党は横浜鎖港をあきらめて京都に向かうことを決めますが、北関東を横断した天狗党は在地社会の恐怖となりました。
 
 天狗党は上州から信州に入り、和田峠で諏訪藩らを打ち破って伊那谷に入ります。ここでは平田国学者らが活躍し、天狗党に軍資金3000両を提供して乱暴狼藉を回避するとともに、尾張藩の領地を迂回するルートを案内しています。一方、先述の多勢子は天狗党に会おうとはしませんでした。岩倉具視に傾倒していた彼女にとって天狗党は時代遅れの存在だったのかもしれません。
 実際、頼りにしていた一橋慶喜にも見放された天狗党は悲劇的な最期を遂げることになります。

 慶応2(1866)年には再び関東で騒乱が起きますが、これは尊皇攘夷とは関係なく物価高騰から起こった打ちこわしである武州世直し騒動でした。 
 飯能町の米穀商への打ちこわしから始まったこの騒動は、打ちこわしを起こした農民はおとなしく帰村したものの、さまざまな人が集まって広域化していきます。有徳人や横浜貿易で利益を得ていた「浜商人」を襲撃し、秩父や上州、多摩地域にまで広がっていきました。
 
 そして、多摩ではこれを佐藤彦五郎らが率いる農兵銃隊が迎え撃ちます。騒動勢を「暴民」とみなし、ゲベール銃での一斉射撃のあとに剣槍隊で追撃したとのことで、もはや、する側も迎え撃つ側もできるだけ暴力を行使しないという一揆の作法などは吹き飛んでいます。
 上州でも小栗忠順が農兵の取り立てを企図しますが、農民たちは反発し、小栗が罷免されたあとは小栗のいた東善寺に幕府の軍資金があるという噂が流れ、東善寺が襲撃されています。

 関東は幕府崩壊後も戦場になりました。
 佐藤彦五郎は江戸に戻った土方から情報を得て、横浜で新式の「元込筒」(スナイドル銃か)を20挺購入し戦いに備えましたが、近藤勇の率いる甲陽鎮撫隊と合流しようとしましたが、甲陽鎮撫隊が潰走したために、彦五郎は新政府の追求を逃れるために身を隠しました。

 この他、幕府の抗戦派の古屋作左衛門率いる古屋隊と新政府軍が栃木県の足利市の梁田で新政府軍と激突した梁田戦争、彰義隊から分かれた渋沢成一郎率いる振武軍が飯能で新政府軍と戦った飯能戦争(この戦いで渋沢栄一の養子の渋沢平九郎が戦死)などが起こっています。
 
 東北での戦いに関しては、本書は庄内藩の戦いを中心にとり上げています。庄内藩の戦いでは「鬼玄蕃」と呼ばれた酒井吉之丞の戦いが有名ですが、同時に注目すべきは2000人を超える農兵・町兵が志願したことです。三方領知替え反対一揆でも見られたように、幕領にはなかった領主と領民の一体感がこの地にはあったということなのでしょう。

 このように本書は幕末の在地社会のさまざまな動きを切り取っています。ここにはとり上げられなかったエピソードもたくさんありますし、また、ここでは書きませんでしたが幕末の政局の基本的な動きもきちんと追っています。
 幕府にとどめを刺したのが薩摩や長州だとしても、それ以前に幕府を支えてきたものは失われつつありました。本書を読むと、幕末において在地社会において既存の秩序が失われ、そこに新しい個人が登場しつつあったことがわかります。そして、彼らが幕藩体制を大きく揺り動かしていたのです。非常に刺激的な本だと思います。

上野友子・武石恵美子『女性自衛官』(光文社新書) 6点

 数ある職場の中でも自衛隊は「男社会」のイメージが強いと思いますが、そんな中で活躍する女性の幹部自衛官にスポットライトを当て、その働き方やキャリア形成を分析した本になります。
 著者の1人の上野友子は自衛隊の事務官で大学院に社会人学生として入学しこのテーマに取り組んでいます、もう1人の著者の武石恵美子はその指導教官でキャリアデザインなどを専門としている人物になります。

 本書の面白さは何といっても現場で実際に活躍している女性自衛官の声を集めているところで、男性中心社会の中での働き心地や、男性の部下への接し方、子育てとの両立など、女性自衛官が直面するさまざまな問題と、それをどう乗り越えているのかが見えてきます。
 また、そうした女性自衛官の働き方を通じて、自衛隊という組織の特殊性が見えてくるととこも本書の興味深いあところだと思います。
 ただ、女性自衛官の「声」は集まっているのだけど、それが誰のものなのかはまったくわからないように書いてあるので、そこにいる「人」の姿は見えにくいです。
 個人的に、Aさん、Bさんといった仮名や、30代、40代といった大まかな年齢が書いてあるともっと見えてくるものがあったようにも思えます。

 目次は以下の通り。
プロローグ
第1章 自衛隊、自衛官とは
第2章 なぜ自衛官の道を選んだのか
第3章 アイデンティティの源泉
第4章 自衛隊組織の特徴と女性自衛官のキャリア
第5章 幹部自衛官のキャリア
第6章 女性自衛官の壁
第7章 女性自衛官の仕事と子育て
第8章 自分らしいキャリア

 本書でインタビューしている自衛官はすべて「幹部候補生課程」を経て幹部になった女性自衛官であり、30代が6名、40代以上が14名です。パートナーも自衛官である割合は8割と高くなっています。
 防衛省には自衛官である「制服組」と事務官である「背広組」がいますが、本書でとり上げているのはすべて「制服組」になります。

 著者は自衛隊の特徴として次の4つをあげています。まずは武器を使用する戦闘組織である点、次に明確なヒエラルキーのある階級組織だという点、3つ目は常に出動できるようにしている即応態勢組織である点、4つ目が基本的な活動が自衛隊の中のみで完結する自己完結型組織であるという点です。

 自衛官の入口には「士」として活躍し「曹」を目指すコースとリーダーとして組織を率いる「幹部」を目指すコースがあります。
 幹部候補生は、防衛大学校、防衛大学校、航空学生、または一般大学から目指すコースがあり、本書がとり上げる女性自衛官もこうしたルートで幹部候補生になっています。

 幹部候補生になると陸・海・空自衛隊の各幹部候補生学校の教育課程で技能形成が行われ、ここを卒業すると3尉として任官します。
 その後、自身の職種や職域に応じた任務に就くために全国で勤務し、必要に応じて自身の職種や職域に応じた課程で学びながら、幹部としての資質を向上させていきます。
 こうした組織のため、中途で人材を獲得することは難しく幹部は基本的に生え抜き中心になります。また、2〜3年毎に異動があるのも特徴と言えます。

 こうした中で女性自衛官の数は2021年3月末時点で1万8529人で全自衛官に占める割合は約7.9%となっています。防衛省・自衛隊でも女性活躍に動き出しており、2030年までに全自衛官に占める女性の割合を12%以上にするという目標のもと毎年度の採用者の女性の割合を17%以上にすることを掲げています(41-42p)。

 第2章からは実際に女性自衛官の声を紹介しながら議論を進めていますが、まず、最初にとり上げられているんがその志望動機です。
 幹部自衛官の場合、防衛大学校から上がってくるケースが多いわけですが、その場合、防衛大学校に進学した時点でほぼ進路を決めていると言えます。
 国際関係論を学びたかったから、好奇心からといったケースもありますし、父が自衛官だったなど、身近に自衛官がいたというケースもあります。
 また、女性であっても「自立」したいので自衛官を選んだ、人に役立つ仕事をしたかった。実際に災害に見舞われたときに助けに来てくれた自衛隊を見て、などさまざまなものがあります。

 自衛隊が「男社会」であることをどう思っていたかということも聞いていますが、これについては本書のインタビュー対象が現役自衛官であり、辞めた人には聞いていないこともあって、多くの人が「気にならなかった」と答えています。
 ただし、女性自衛官の中途退職率は約3.3%と低く(64p)、合わない人の多くが辞めているというわけではなさそうです。

 第3章は「アイデンティティの源泉」と題されていますが、ここではキャリアの「自律」の問題が中心にとり上げられています。
 自衛隊は基本的に上の命令を遂行する組織であり、そこに「自律」が入る余地はないようにも思えますが、まず前提としてあるのが「国を守る」という任務への誇りです。
 また、「女性自衛官」ということで周囲からは「かっこいい」という印象を持たれることも多く、それが自らを律するという形での自律につながっています。

 ただし、「重要なことは、集団行動がとれることですね。集団行動が苦手な人には、厳しい仕事だと思います」(77p)、「みんな本心は恥ずかしく言わない部分はあると思うのですが、愛国心という部分があって、少なくとも何かあったら自分のことよりも任務を優先してやろうという気持ちがないと続かないと思います」(79p)といった言葉があるように、滅私奉公的な部分も必要だと言えるでしょう。

 一口に自衛隊と言っても、その自衛隊の名で担う任務はさまざまです。91pの図表7に詳しく載っていますが、陸上自衛隊でも、「普通科」「機甲科」「高射特科」といった戦闘を担うような職種の他にも、「通信科」「輸送科」「会計科」「化学科」「音楽科」などのさまざまな職種があります。
 そうした組織の特徴を見ながら、女性自衛官のキャリアについて見ているのが第4章です。

 以前の自衛隊では女性が入れる職種は限られていました。
 1952年の保安庁の時代から女性の採用は始まりましたが、看護師の資格を持った女性のみの採用でした。看護職以外の職域での採用が始まったのが陸上自衛隊が67年、海上自衛隊と航空自衛隊は74年です。
 それでも、①直接戦闘をする職域、②戦闘部隊を直接支援する職域、③肉体的負荷の大きい職域、の3つには女性自衛官を配置しないことになっており、女性の自衛隊の中でのキャリアは非常に限定されたものでした。

 しかし、93年以降、多くの職域が開放されるようになり、2018年に海自の潜水艦への配置が開放されたことで、特殊武器(化学)といった防護隊と坑道中隊という特殊な職域を除いて、すべての職域が開放されました(98p図表8参照)。

 ただ、多くの職域が開放されたということは異動や転勤が増えるということでもあります。
 これについて「多すぎる」と感じている人もいるようですが、「自衛隊の素晴らしいところは、世の中に存在する仕事の全てがこの組織にあるのではないかと思える点です」(103p)と述べる人がいるように、頻繁な異動をポジティブにとらえている人もいます。

 キャリア形成についても、男女の差はないと言う人がいる一方で、「男性に比べて上から叱られない」といった男性上司の「遠慮」を問題視する声もあります。
 また、「ロールモデル」という考え方も広まっていますが、女性自衛官が今まで少なかった、職域が非常に多いということもあって、女性自衛官の中では「ロールモデル」という考え方はあまり響いていないようです。

 第5章では幹部自衛官としてのキャリアの問題が語られています。
 まず、任務において基本的に男女の差はつけるできではないと考えている人が多いようです。男女ともクリアーすべき一定の基準はあるとの考えです。

 そして、自衛隊において女性が活躍しやすい面があるとしたら、その理由の1つは、以下で指摘されているように、自衛隊が階級社会である点です。

 階級があるから指示や命令をしやすい面もあるし、上から言われたら、基本的にはそれに従わなければいけないというのが体に染み付いています。そういうものですよね。自衛隊は指揮命令で動いている組織なので(126p)

 幹部自衛官としての仕事のやりがいについて考えてみると、女性だから男性だからということではなく、階級に応じて仕事が与えられると思います。例えば「1佐」としてあなたに命じているのです、というのが通じる社会なのです。だからやりやすいところもあるだろうなと思ってます(129p)

 このように自衛隊には、男性/女性以前に階級というものがあり、それが彼女たちを活躍しやすくしている面があります。
 ただし、男性指揮官が大声を出したり、部下を叱ったりすることは日常的でも、女性指揮官がそれをやると「心配されたりヒステリックって言われることもあるので、そういうことがしづらいのですよね」(140p)と漏らす人もいます。

 また、指揮官というものは最終的には1人で決断しなければならない孤独なものであり、そこにやりがいと辛さの両面を感じているようです。

 第6章は「女性自衛官の壁」となっています。
 「真に戦うだけであれば、戦闘というものは男性という性の方が向いているのかなと思うのです」「女性隊員の割合が増えた場合、女性一人では重さ、速さといった面でクリアできない部分もあり」(153p)といった声があるように、体力的な面などである程度は男性中心で仕方がないという意見がありますし、育児などで時間に制約のある女性隊員が増えると問題も出てくるという認識もあります。

 また、女性が少ない職場なので、どうしても一人の女性が女性全体を代表する「トークン」として見られがちな面もあり、そこに問題を感じている人もいます。
 また、「あなたのお子さんは小学生で、あなたはお母さんなんだから、我々男性陣と違って、ご家庭を優先してください。でも仕事もちゃんとやってもらいます」(159p)という上司からすると配慮した言葉であっても、言われた女性には違和感が残ったという話もあります。

 一方、自衛隊の中に基地対策や基地広報、管制官などの「女性向き」の仕事があると感じている人もいますし、統率という点でも女性の方がうまくできるのではないかと感じている人もいます。
 災害派遣でも被災者の恐怖心を和らげるという点では女性であることが利点になるともいいますし、災害派遣にしろ海外派遣でも非支援者の半分は女性であり、女性でなければつかめないニーズというものもあるのです。

 体力の壁というものに関しては、徐々に体力をつければ大丈夫、行軍訓練では脱落者も出ていたけど男性も同じように脱落していた、といった声もありますし、実際に任務についてみるとそれほど体力が必要な局面はないとの声もありました。

 第7章は子育てとの両立の問題がとり上げられています。
 自衛隊の特徴の1つが即応性で、不測の事態に24時間対応する必要があります。「私は、子どもに『何かあったらママもパパもいなくなるから』と言っています」(191p)とあるように、いざとなったら子どもを置いて駆けつけねばならないこともあるのです。
 
 子どもが小さいときには離職が頭をよぎったという人もいますし、子どもが不登校になっていたのにしばらく気づかなかったという人もいますが、上司などのサポートや仕事への使命感や責任感で乗り切っている人が多いようです。
 また、引っ越したらとりあえず子どもを預かってくれそうな人を探す、泊まりができる保育園を探すなど、いざというときのためにさまざまな手配をしている人もいます。

 ただし、自衛隊は異動が多く、最初に述べたように本書がとり上げる女性の幹部自衛官のパートナーの8割が自衛官ということで、夫が単身赴任というケースは多いそうです。
 子どものいる女性に関してはそれほど無理な異動は組まれないとのことですが、ワンオペ育児になることも多く、親などを頼ったり、職場で積極的に事情を話すことなどで乗り切っているそうです。
 「仕事と育児の両立については、とにかく一生懸命すること、だけかな」(220p)といった声もあり、「さすが自衛官」と思わせるものもありますが、仕事と子育ての両立に関しては大変な面も多いようです。

 このように本書は、女性自衛官のキャリアに焦点を合わせながら、同時に自衛隊という組織の特殊性もわかるような内容になっています。 
 特に「階級社会」だからそこ女性が働きやすいという指摘や、自衛隊内の職種の多様性が女性自衛官の活躍の場を生み出している状況は興味深いものでした。
 
 ただ、最初にも書いたように、誰のものかまったく情報がないままに発言が紹介されるので、どうしても「都合よく編集しているのではないか?」という疑問も浮かびます。
 「Aさん」「Bさん」などの仮名をつけたり、おおよその年齢を示したほうが、例えば、自衛隊への志望動機とその後の働き方の関係性とか、年代による仕事のやりやすさ/やりにくさの違いなどが見えてきてより興味深いものになったのではないかと思われます。


青木健太『タリバン台頭』(岩波新書) 8点

 2021年8月、アフガニスタンの首都・カーブルがターリバーンによってあっという間に陥落させられた出来事は、そこから逃げ出そうとする人々の映像と相まって衝撃的なものでした。
 2001年の9.11テロ後にアメリカの攻撃によって政権を追われたターリバーンが、まさか20年後にこのような形で政権に復帰しようとは、当時からは想像できなかったことです。

 本書は、90年代半ばに「世直し運動」として活動を始めたターリバーンが政権を掌握し、その後アメリカの攻撃によって政権を失ってからいかにして復活してきたかを追っていますが、そこで明らかになるのはターリバーンの「すごさ」というよりも、それまでのアフガニスタンの状況の「ひどさ」です。
 そして、「イスラーム原理主義」の組織として扱われがちなターリバーンの内実について、アフガニスタンの風土に根ざした部分も取り出し、ターリバーンの多面的な特徴を描き出しています。
 
 ターリバーンについては断片的に知っていることも多かったですが、それをコンパクトにまとめた上で、アフガニスタンの近現代史の中に位置づけていることが本書の特徴です。
 「去年の出来事は何だったのか?」と疑問を感じている人にとっては、その疑問に応えてくれる本であり、秩序が一度崩壊した世界でもう一度秩序を打ち立てることの難しさを教えてくれる本でもあります。
 なお、タイトルの表記は「タリバン」ですが、本文中はできるだけ言語の発音に近づけるために「ターリバーン」表記になっています。

 目次は以下の通り。
序章 政権崩壊
第一章 「失われた二〇年」(二〇〇一~二〇二一年)
第二章 ターリバーン出現の背景(一九九四~二〇〇一年)
第三章 伝統的な部族社会アフガニスタン(一七四七~一九九四年)
第四章 ターリバーン支配下の統治
第五章 周辺国に与える影響
第六章 「テロの温床」化への懸念
終章 内発的な国の発展とは

 ターリバーンの劇的な復活は、国際社会が主導したアフガニスタンの国造りの劇的な失敗の裏返しでもあります。
 9.11後の2001年10月7日にアメリカはターリバーン政権に対する空爆を開始し、12月には戦後復興のロードマップを定めたボン合意でハーミド・カルザイが暫定政権の首班に選出されました。
 カルザイはアフガニスタンで最大の民族であるパシュトゥーン人の有力部族の御曹司でした。アフガニスタン人による内輪の投票では王制時代に法相を務めたウズベク人のサッタール・スィーラト博士が多くの支持を得ていましたが、アメリカとパキスタンがパシュトゥーン人のカルザイを推したと言われています。


 アフガニスタンでは国民の多くが王制の復活を求めていましたが(元国王のザーヒル国王は存命だった)、これはアメリカのハリールザード大統領特使の動きもあって阻止されます(ハリールザードはアフガニスタン国籍も持つ人物でアメリカの対アフガン政策に深く関わり、2009年の大統領選挙では出馬も噂された)。
 王制を復活させていれば、ここまで急速なターリバーンの台頭を許さなかった気もしますが、当時の国際社会のムードとしても王制の復活は難しかったかもしれません。

 政治家としては軽量級だったカルザイは、ムジャーヒディーン勢力に利権を分配することによって国内の統治を進めることにします。タジク人のイスマーイール・ハーン野戦指揮官を水・エネルギー相に、ウズベク人のアブドゥルラシード・ドゥーストム将軍を国防次官というように各軍閥のリーダーにポストを配分しました。
 しかし、これは汚職を生みます。アフガニスタンには復興のために巨額の援助金が流れ込みましたが、政府高官から援助団体に至るまで汚職がはびこり、警察なども予算は出ているが実際の警察官はいないといった状態でした。

 民主主義に関しても、2014年の大統領選では、第一回の投票でマスード司令官の側近だったアブドゥッラー元外相が45%の票を獲得して第1位になるも、決選投票では世界銀行でエコノミストも務めたガニー元財相が1回目の得票率31.56%から逆転するといった不透明な結果となり、最終投票結果も発表されないなど、不十分な状態が続きます。
 2019年の大統領選では投票率が18.8%にすぎず、ターリバーンのテロの脅威もあったとはいえ、もはや国民の声が反映されているとは言い難い状況でした。

 アメリカの対アフガン政策も、オバマ政権下ではアフガニスタンの治安回復に重点が置かれましたが、トランプ政権になるとターリバーンとディールする方向に舵を切り、ハリールザードを特使に任命して2020年2月にドーハ合意に署名しますが、アメリカ軍の撤退が決まったことがターリバーンを勢いづけ、共和国政府にとどめを刺すことになります。

 一方、ターリバーンは①外国軍の放逐、②イスラーム的統治の実現という2つの目標を掲げ、民衆の支持を集めていきます。外国軍による誤爆や外国人とアフガニスタン人の文化的な摩擦、政府の腐敗などがターリバーンを後押ししました。
 2021年4月になるとターリバーンは農村部から大攻勢をかけ、占領地域を広げます。このころになると元軍閥と治安部隊の間で投降や逃亡が相次ぎ、ついにはカーブルの陥落となるのです。

 ここまでが現状を説明した第一章で、第ニ章以降ではターリバーンが生まれ台頭した背景を見てきます。
 1973年、それなりに安定を保っていたザーヒル国王の治世はザーヒル国王の従兄弟のダーウードによる無血クーデタによって終わります。
 このダーウードがイスラーム主義者の宗教集団を弾圧し、さらに共産主義者の粛清も始めます。これに対して78年に共産主義者の人民民主党の青年将校らが軍事クーデタを起こしてダーウードの一族を皆殺しにし、共産主義者のタラキーを首班とするアフガニスタン民主共和国が成立します。
 79年にはソ連がアフガニスタンに侵攻。ソ連と共産主義政府対これに抵抗するムジャーヒディーン勢力の戦闘が始まるのです。

 このあたりの歴史的経緯を知ってい人は多いかと思いますが、本書を読んで驚くのはこの時期に行われていたことの残虐さで、共産主義政府の秘密警察は高貴な女性たちを夫の目の前で拷問にかけ、政治犯らを生き埋めにし、一方、ムジャーヒディーン勢力も暴行や略奪や誘拐を繰り返し、男色が盛んなカンダハール州では道行く少年を誘拐して強姦することもあったそうです。
 92年にペシャワール合意に基づいて、ムジャーヒディーン各派の連立政権が誕生しますが、治安は回復しないままでした。

 こうした中で起こった1994年春の武装蜂起がターリバーンの起源だと言われています。カンダハールの軍閥司令官が10代の少女2人を誘拐したとの噂が流れ、ムッラー・ウマルに率いられたターリブ(神学生)が野営地を襲撃して、軍閥司令官を処刑しました。
 その後も、ターリバーンは悪事をはたらく軍閥司令官の成敗を行うようになり、しだいに「世直し運動」のような形で広がっていくことになります。

 1995年になるとターリバーンは勢力を急速に拡大させてカーブルに迫り、96年9月にカーブルに入城しています。
 98年にはドゥーストム将軍の支配するマザーリシャリーフを陥落させ、マスード司令官が支配するパンジシール渓谷以外の領土を支配することになりました。

 ターリバーンの思想の源流はデーオバンド派というイスラームの改革運動にあるといいます。テーオバンド派はパキスタンにネットワークを持っており、パキスタン軍部もそれまで支持していたへクマティヤール首相派が劣勢になると、ターリバーンを支援するようになりました。
 パキスタンでは1977年に軍事クーデタによってズィア・ウル・ハック政権が誕生すると、ハッド刑と呼ばれる身体刑が復活するなど急進的なイスラーム政策が進みますが、ターリバーンもこうしたパキスタンの動きの影響を受けていると考えられます。
 パキスタンはインドに対抗するために隣国に兵站供給地を確保する「戦略的縦深」の観点からアフガニスタンを重視しており、ターリバーンを支援することによってこれを成し遂げようとしたのです。

 第三章ではターリバーンを生んだアフガニスタンの文化的な特徴を見ていきます。
 アフガニスタンは多民族国家であり、最大民族はアーリア系のパシュトゥーン人で人口のおよそ40%、ついでイラン系のハザラ人、モンゴル系のハザーラ人、テュルク系のウズベク人、トルクメン人などがいます。
 遊牧を営む農畜産業を営む人々が多く、よそ者への警戒心を強く持つ一方で、客人に対しては丁重にもてなすという文化をはぐくんできました。
 
 農村社会では伝統的な自己統治機構が重要な役割を果たしており、その統治は成文化されない慣習に基づく部分が大きいものでした。
 パシュトゥーン人の農村社会では、「パシュトゥーン・ワリー」と呼ばれる成文化されていない行動規範があり、勇気や、客人に対する歓待、復讐などがあります。
 また、「女性の尊厳(ナームース)」というものもありますが、パシュトゥーン人の社会では他人の妻や娘に関心を示すのは女性のナームースを傷つける行為とされています。例えば、「奥さんのご機嫌はいかがですか?」と尋ねることもナームースを侵害し、その男性の名誉を傷つけるものとなるのです。
 このようにターリバーンの統治は、パシュトゥーン人の農村社会にあってはけっして突飛なものではなく、慣習に基づいたものでもあるのです。

 そのため、1919年にイギリスからの独立を果たしたアヌーマッラー国王の近代化政策や、共産主義政権の社会改革も大きな抵抗にあいました。結果として、カーブルなどの都市では近代化が進んだものの、農村部の慣習は変わりませんでした。

 第4章ではターリバーンの統治について分析していますが、ターリバーンの特徴はその複合性にあるといいます。
 ターリバーンは民族を超越した宗教的要素を持ちつつも、パシュトゥーン民族の社会に根ざしたものも色濃く持っています。

 カーブル陥落後にターリバーンの政治方針が示されましたが、筆頭に来ているのが「イスラーム的統治の実現」です。これが何を指すのかはっきりしない面もありますが、ハッド刑の導入などが含まれています。
 また、恩赦も掲げていますが、ターリバーンの戦闘員がイスラーム共和国の治安部隊要員や少数民族など処刑しているとの報道もあり、この方針を末端でが守っている様子はうかがえません。少数民族に関しては強制移住が行われているとの話もあります。

 注目を集めているのは女性政策ですが、女子教育の制限はシャリーアに基づいたものではありません。しかし、戦い続けてきた長年の男性社会の中で女性を排除したり軽視することが共有されており、内部からの反発と国際社会という外部からの圧力のなかで、とりあえずは前者が優先されている状況です。

 第5章では周辺国に与える影響が分析されています。
 まず、今回のカーブル陥落を引き起こしたのはアメリカ軍の撤退の決定ですが、これはトランプ大統領の個性といったもので説明できるものではなく、ここしばらく続いているアメリカの中東からの撤退の流れの中に位置づけられます。ですから、アメリカで政権交代が起きてもアフガニスタンに派兵するようなことは考えにくいでしょう(実際、バイデンになっても撤退は遂行された)。
 
 アメリカに代わって影響力を持つことが指摘されているのが中国です。中国はアフガニスタンと国境を接しており、国内のウイグル族の独立運動を抑え込むためにもアフガニスタンは重要です。
 資源開発などについても投資を行っていますが、アフガニスタンの「難しさ」については中国も承知していることであり、慎重に動くことも予想されます。
 また、ロシアもこの地域のイスラーム過激派には神経を尖らせており、またケシの流通を防ぐ目的でもターリバーンと協力関係を続けると考えられます。

 パキスタンにとってはターリバーンの復活は「勝利」と言っていいものです。ただし、パキスタンは国内のパキスタン・ターリバーン運動(TTP)とは対立関係にあります。
 イランはターリバーンと複雑な関係で、イラン人外交官殺害事件などもあって関係は悪化しましたが、この地域からのアメリカ軍の駆逐という目標は共有しています。また、イスラーム的統治についても宗派は違えど共通しています。
 また、ウズベキスタンはターリバーンと関係を続ける方針ですが、タジキスタンはアフガニスタン国内のタジク人の問題もあってやや敵対的です。
 さらに、カタールやトルコなどもターリバーンに一定の影響力とチャンネルを持とうとしています。

 懸念されているのがターリバーン支配下のアフガニスタンが「テロの温床」になることです。第6章ではこの問題を検討しています。
 ターリバーンはアル=カーイダ(AQ)のビン・ラーディンらを匿っていたとの理由でアメリカから攻撃されたわけですが、ターリバーンが追放された後、AQとの間で関係の再構築が行われたとされています。
 例えば、それまでアフガニスタンでは行われなかった自爆攻撃が用いられるようになったのは、これはイラクからの影響で、AQも関わっていると見られます。
 AQは現在もアフガニスタンで活動していますが、ただし、AQの勢い自体はかつてに比べて低下しています。

 一方、ISの流れをくむイスラーム国ホラーサーン州(ISKP)とターリバーンは敵対関係にあります。
 「ホラーサーン」とはイランとアフガニスタやトルクメニスタンの一部を地域一帯を示す呼称ですが、もとはパキスタンにいた部隊がパキスタン軍に追い出される形でアフガニスタンに進出したのです。
 ターリバーンとISKPの間で戦闘員が行き来しているとの話もありますが、指導者レベルでは対立しており、ISKPはターリバーンに対する攻撃を続けています。
 2021年8月26日にカーブル国際空港付近で起きた自爆攻撃はISKPによるもので、ISKPという共通の敵に対してターリバーンとアメリカが協調するということも考えられます。実際、アメリカがISKPを叩こうと思えばターリバーンの協力は不可欠です。
 こうしたテロ対策の必要性から、各国がアフガニスタンでの大使館再開などに動く可能性は十分にあります。

 終章では、中村哲や緒方貞子の取り組みなどを紹介しながら、アフガニスタンの「発展」というものを考えています。
 ターリバーンの成功は、国際社会が取り組んできたアフガン復興の失敗でもあります。今後はアフガニスタンの「内発的な発展」をより重視しなければならないというのが著者の考えです。
 そこでヒントとなるのがアフガニスタンの農村を復興させるために現地の人々と用水路をつくった中村哲医師や、人間の安全保障を目指した緒方貞子の取り組みです。一足飛びの近代化ではなく、地道な支援が求められていると言えるでしょう。

 このように本書はコンパクトな構成ながら、ターリバーンの実態や、諸外国の立ち位置、ターリバーンとその他のテロ組織の関係などがわかる内容になっており、今後の国際社会の動きを理解するうえでも役立つものになっています。
 そして何よりも、日本に住んでいると理解し難い「ターリバーンの復活」という現象を、アフガニスタンの社会のあり方から説き起こして理解させてくれる本です。


重田園江『ホモ・エコノミクス』(ちくま新書) 6点

 なぜ経済的な成功が手放しで賞賛されるようになったのか?
 本書はこの問いから始まります。アリストテレスは「貨殖」を批判しましたし、キリスト教でも富は警戒されていました。多くの宗教において貧者への施しが求められ、必要以上の蓄財は悪いものでした。
 ところが、現代の社会では大金持ちは尊敬を集め、生き方の手本にもなったりしています。

 著者はこの背景に人間観の転換があったと考えています。経済学が生み出した自己の利益を最大化することを目的としている「ホモ・エコノミクス」なるモデルが、いつの間にか実際の人間に重ね合わされ、そして一種の規範性を持つようになったというのです。
 本書は、この「ホモ・エコノミクス」がいかに誕生し、それが経済学と共にいかに広まっていったかを思想史的に辿った本になります。
 経済学がいかに生まれ、いかに数学を取り入れていったかということを、それぞれの思想家や経済学者のプロフィールなども交えながら語っていくさまは面白いです。
 ただ、後半の議論の運び方にはやや一面的な部分もあると感じました。

 目次は以下の通り。
第1部 富と徳
第2部 ホモ・エコノミクスの経済学
第3部 ホモ・エコノミクスの席捲

 基本的には清貧をよしとしたキリスト教ですが、中世になると利子や商売をどのように位置づけるかが問題となります。
 13世紀末以降、徴利禁止令の徹底によって姿を消したキリスト教徒の金貸しに代わってユダヤ人の金貸しが連れてこられ、のちには強欲の権化として差別されるようになります。
 しかし、15世紀になると「モンテ・ディ・ピエタ」と呼ばれる公的な金貸し(質屋)が登場し、教会も積極的にその設立を呼びかけるようになります。建前としては貧民の救済のためなのですが、喜捨や施しではなくあくまでも貸付でした。

 こうした中で、だんだんと貧者を問題視するような言説も生まれてくるわけですが、著者はここでメルヴィン・ラーナーの「公正世界仮説」というものを紹介しています。
 これは人は窮地に立たされた人や一方的な暴力の犠牲者に対して、その人にも何か落ち度があったのではないかと考えて自分を安心させるというものです。世の中の理不尽さから目を逸らすために被害者にその責任の一部を転嫁するというのです。
 こうした考えをもとに「悪い貧民」というカテゴリーが生まれてきたとも考えられます。
 
 ヨーロッパにおいて「富と徳」をめぐる問題を投じたのがマンデヴィルです。『蜂の寓話』(1714年)で有名ですが、マンデヴィルは人々の私益の追求が全体の利益になるということを、かなりエグい形で示しました。
 スコットランドのハチスンはこれに反論していますが、それは商売などにも一定の節度を求めるもので、徳と富の両立が目指されています。
 このハチスンの後継者がヒュームやスミスですが、ヒュームになると徳と富が必ずしも対立的には捉えられなくなります。

 ヒュームは、快楽を与えてくれる心の性質を「有徳」、苦痛を生み出すものを「悪徳」とし、有用性、あるいは効用、有利さ、利益といったものを徳の基準としました。
 ただし、それは自分の主観的快苦だけではありません。「共感」という働きによって他者の快苦もその判断に含まれ、それが道徳やルールの源泉になるのです。
 また、ヒュームは古代スパルタを持ち出して商業を抑圧する社会を批判し、商業の発展や都市化が「洗練」をもたらし、人々を穏和で冷静な存在にしてほどほどの平和な社会を生み出すとしました。
 ただし、この「洗練」と、例えばゾンバルトの指摘する「奢侈」や「見せびらかし消費」を分ける線をひくのは難しいもので、ある意味で奢侈に向けた欲求の道を開いたとも言えます。

 こうしたヒュームの考えに対して、意外にもアダム・スミスは少し違った考えを持っていたと言います。
 アダム・スミスは人々が富を目指す理由として、金持ちや権力者は見ているだけで快をもたらす存在だからだと言います。一瞬、よくわからないような考えに見えますが、セレブやストロングマンを好む人々のことを考えれば納得いくでしょう。
 スミスはこうした傾向が人々が権力者や金持ちに擦り寄る傾向をもたらし、道徳の退廃を招くと考えます。
 スミスは下層階級や中産層にとっては富の追求のための行為が堅実さや節度といった徳をもたらすと考えましたが、富裕層の段階では財産の追及と徳の追求は両立し難いと考えていたのです。

 富と徳を結びつけた有名な人物としてアメリカの100ドル札にもなっているベンジャミン・フランクリンがいます。
 フランクリンは「節制・沈黙・規律・決断・節約・勤勉・誠実・正義・中庸・清潔・平静・純潔・謙譲」という13の徳を掲げ、チェックシートをつくってそれを守れたかどうかを毎日書き留めたといいます。そして、フランクリンの中ではこれらの徳と富(成功)が分かち難く結びついているのです。
 ちなみに勤勉の権化のようなフランクリンですが、『自伝』の中の「時間表」を見ると、仕事は午前3時間、午後3時間の計6時間で(97p)、現代から見るとのんびりした日課です。

 このように18世紀になると「徳」と「富」の一体化が進むわけですが、「ホモ・エコノミクス」の誕生は、経済学の発展と経済学への数学の導入が大きなきっかけとなったといいます。第2部ではこの動きを追っています。

 経済学の歴史においては、「理論派」と「歴史学派」の対立がありました。イギリスではリカードウに対して歴史学派が反発する形で論争が起こりましたが、ドイツでは逆に歴史学派の重鎮シュモラーに対する理論派のメンガーの挑戦という形で論争が行われています。
 理論派は演繹的な理論によって経済学を科学として確立することを重視しましたが、歴史学派は帰納的な方法論を重視ししました。

 こうした中で、J・S・ミルは、人間の多面性を認める一方で、演繹的な方法論を支持し、富を所有しようと欲して合理的に行動する人間のある側面を分析する学問として「政治経済学」という分野を打ち立てようとしました。「ホモ・エコノミクス」の原型になります。
 
 オーストリア出身のメンガーも『社会科学、とりわけ政治経済学の方法に関する研究』の中で、「ホモ・エコノミクス」に対する歴史学派の批判に応えています。
 メンガーによれば、完全に合理的で経済的な利得動機だけで行動する人間があり得ないのは当然だが、それは化学における「純物質」や物理学における摩擦のない世界と同じで、ある種の理念系だというのです。

 メンガーは主著の『国民経済学原理』の改訂に力を注ぎますが、生前に完成させることはできませんでした。メンガーは現実の複雑さを理論に取り入れようと悪戦苦闘しましたが、同じオーストリアのハイエクらが受け継いだのは『国民経済学原理』の第一版でした。 
 著者はこのあたりの流れについて「理論の前提として人間がホモ・エコノミクスであると仮定しよう→人間は事実としてホモ・エコノミクスだ→人間はホモ・エコノミクスとしてふるまうべきだ」(133p)という「仮定」→「事実」→「規範」という拡張があったと批判しています(ちなみにハイエクに関しては、自由市場経済を擁護するために自身の理論が新自由主義の風潮の中で雑に利用されることを黙認してきたとみている)。

 メンガーは限界効用逓減の法則という、財から得る効用はだんだんと減っていくという考え(本書では、りんごは一口目はおいしいが、だんだん飽きてきてこってりとした家系ラーメンが食べたくなると説明されているが、普通の人にとっては家系ラーメンとりんごが逆では?)を経済学に導入し、「限界革命」を担った人物の1人としても知られています。
 この「限界革命」の立役者としては他にジェヴォンズとワルラスがいます。

 ジェヴォンズは、当初は自然科学を専攻し、一度職についてから経済学に目覚めたといいます。
 人々の行動を効用から捉えようとする考えはベンサムにもありましたが、それぞれの個人の間の効用をどう比較するかが課題となっていました。
 この効用に対して、ジェヴォンズはだんだんと効用が減っていくという性質に注目し、この動きを曲線として描き、それを微分して得られる接戦の傾きを効用として捉えようとしました。
 複数に人間の間の効用は直接比較できませんが、市場では交換が行われており、この効用をもとにして、これ以上の交換が行われない均衡点が求められます。この均衡点が「てこの原理」における釣り合いに重ねられるのです。

 レオン・ワルラスの父のオーギュスト・ワルラスも経済学者であり、オーギュストは数学者のクールノーと出会って経済現象を数学で記述するというアイディアに賛意を示しています。
 息子もこの考えを受け継ぐわけですが、レオン・ワルラスは父から土地国有化論というアイディアも受け継いでおり、それが原因でフランスの学会でポストを得られなかったとも言われています。
 ワルラスはローザンヌの力学教授であったアントワーヌ・ピカールの助けなども得ながら、経済学に数学を導入し、一般均衡の考えにたどり着きました。
 ワルラスもジェヴォンズと同じように、二者にとって最も効用が大きくなり受給がバランスする点というものが方程式によって示されますが、これは効率的であるだけでなく、誰も他者に比べて損していないという点で公平でもあります。

 このように経済学に力学の考えが取り入れられたことによって、「富と徳は両立するのか?」「商業の発展が新しい道徳をもたらすか?」といった問いは背後に退きました。
 また、市場の均衡と財の配分が重視され、その背後にあるはずの人間の欲望といったものは分析の対象から外れていきます。そして、市場の「外部」に関しても忘れられていくことになったのです。

 第3部ではこうして「科学」の装いをまとった経済学がどのようにその範囲を広げ、さまざまな影響を与えたかが批判的に検討されています。
 前半では「シカゴ学派第二世代」と呼ばれる人々がとり上げられていますが、本書で「シカゴ学派第二世代」の代表とされているのはゲイリー・ベッカーとセオドア・シュルツになります。

 まずベッカーですが、ベッカーは差別や犯罪といった分野に経済学の考えを持ち込んだことで知られています。
 ベッカーは、差別は経済的な損失を発生させるが、差別をする人間はそれをわかっていやっている。つまり、差別に対する好み(taste)を有していると考え、差別にまつわる非合理さをコストに換算して分析しようとしました。

 バッカーは犯罪に関しても、犯罪によって社会が被る損失と犯罪を取り締まるために社会が必要とする負担の均衡という形で考え、犯罪に対する対策を考えました。
 ベッカーは「ある人が「犯罪者」になるのは、他の人と基本的な動機が異なるからではなく、犯罪の費用と便益が異なるからである」(215p)と述べていますが、まさにさまざまな社会現象を「ホモ・エコノミクス」の観点から分析していると言えるでしょう。

 ベッカーの広めた概念として重要なのが「人的資本」です(シカゴ学派に人的資本論を導入したのはミンサーだと言われる)。
 これは今まで時間単位で測られるのみだった労働力の内実を説明しようとするもので、投資によって増えると考えられています。人は消費をするか、自らの人的資本の価値を上げるために投資するかという、企業と同じような選択を行っているというのです。
 人的資本は教育への投資などを考える場合には便利な考えですが、これによって教育もその「収益」が問われることになります。著者は日本の近年の大学改革の背景にもこうした流れの中にあると見ています。

 さらに著者はシュルツの農業経済学と「緑の革命」も批判的にとり上げます。
 シュルツは途上国の農民が貧しいのは無気力や新しい方法への無関心などではなく、これ以上の追加投資や労働を行っても精算がさほど増えない「慣習的農業」における均衡状態にいるからです。
 ここから抜け出すには「近代的農業」への脱皮が必要だとシュルツは言いますが、こうしたシュルツの考えを歓迎したのが、「緑の革命」を推進しようとしていた人々です。
 「緑の革命」では高収量品種の導入や化学肥料の投入によって農業の生産性を引き上げる試みがなされましたが、シュルツの考えがその理論的背景となりました。
 「緑の革命」は世界の食糧事情を改善したとして評価されていますが、種子や肥料を買う必要があるといった問題点もあります。著者はさらに遺伝子組み換え作物なども一連の流れと捉えてこれを批判するわけですが、ここはやや勇み足のような気もします。

 第3部の後半では、政治学への経済学の進出がとり上げられています。ゲーム理論、アローの社会的選択理論、「行動主義革命」などに簡単に触れた上で、ダウンズとブキャナンについて重点的に検討しています。

 ダウンズは『民主制の経済理論』で政治のおける投票行動に市場の考えを持ち込みました。
 有権者は投票において、投票所に足を運ぶコストや候補者を選ぶ情報コストを負担します。このコストと実現される政策からもたらされる便益によって投票行動は決まってくるというのです。
 政党も有権者と同じく、選挙の勝利を目指して「合理的」に行動します。二大政党の場合であれば、有権者が一番多くいるボリュームゾーンを狙って両党の政策は似通ってくると、ホテリングの店舗立地の理論を使って分析しました(もっともダウンズはイデオロギー的な分裂によって項はならないケースも想定している)。

 ブキャナンはタロックとともに『公共選択の理論』を書いていますが、政治社会のすべての争いを個人の選択の問題に還元して読み解こうとしたことが特徴になります。
 さまざまな問題に対して、それぞれの個人はまずは自発的な調整を試みますが、市場への参加が多くの人に利益をもたらすように、政治への参加も利益をもたらします。公共心や他者を思いやる心などがなくても政治は機能するのです。
 ブキャナンは『公共選択の理論』の「日本語版序文」で自分たちの考えをロールズになぞらえていますが、自らの利益を考える個人が憲法のような基本的なルールを生み出すさまをブキャナンらは描き出しています。

 著者は、こうした「ホモ・エコノミクス」を下敷きにした政治理論が「政治嫌い」を増やしているのではないかと、コリン・ヘイの議論を援用しながら述べています。
 政治アクターも自己の利益のために動いているわけであり、エリートたちも公共心などのためではなく自己利益のために政治を利用していると考えられるからです。
 そして、エリートも自己利益のことしか考えていないのならば、わざわざ税金を集めて甘い汁を吸わせるよりも市場に任せたほうがよいでしょう。こうして新自由主義による「脱政治化」の動きが支持されるのです。

 このように著者は「ホモ・エコノミクス」という人間像と、それを使った経済学の政治などの他分野への侵略を問題にしているわけですが、これはやや一面的にも思えます。
 経済学が他分野に手を伸ばしてきたという面もありますが、同時に社会問題を解決しようとした政治が経済学的な知を求めた面もあるでしょう。アーレントのように「政治に社会問題の解決を求めてはいけない」という考え方もできますが、経済成長や年金の支給などが政治の重要問題となっている現代において、あまり現実的とはいえないでしょう。
 ジェイン・ジェイコブズは『市場の倫理 統治の倫理』で、「道徳体型には市場の倫理と統治の倫理という2つのものがあって、それが混ぜ合わせると腐敗が起きる」といったことを主張しましたが、本書もこうした二面性に着目したほうが説得力が出るではないかと思いました。


中島隆博『中国哲学史』(中公新書) 7点

「哲学」というと、どうしても西洋のものということになり、中国や日本のものは「思想」という形で括られることが多いですが、本書は、あえて「哲学」という言葉を使い、西洋哲学や仏教との比較や対話も試みながら、中国哲学の歴史を描きだしてます。
 中国の思想を紹介する本は数多くありますが、基本的には諸子百家を中心にそれぞれの違いなどを論じたものが多いです。そうした中で、本書は、中国内の関係(例えば孔子と老子)だけではなく、中国の外から来た思想との関係(例えば儒教と仏教、キリスト教)を見ていくことで、より立体的な中国哲学の姿を構築しています。
 
 索引なども入れれば360pを超える本で、内容的にも難しい部分を含んでいるのですが、今までにないスケールで中国の思想を語ってくれている本であり、中国社会を理解していく上でも興味深い論点を含んだ本だと思います。

 目次は以下の通り。
はじめに――中国哲学史を書くとはどういうことか
第1章 中国哲学史の起源
第2章 孔子――異様な異邦人
第3章 正しさとは何か
第4章 孟子、荀子、荘子――変化の哲学
第5章 礼とは何か
第6章 『老子』『韓非子』『淮南子』――政治哲学とユートピア
第7章 董仲舒、王充――帝国の哲学
第8章 王弼、郭象――無の形而上学
第9章 仏教との対決――パラダイムシフト1
第10章 『詩経』から『文心雕龍』へ――文の哲学
第11章 韓愈――ミメーシスと歴史性
第12章 朱熹と朱子学――新儒教の挑戦
第13章 陽明学――誰もが聖人になる
第14章 キリスト教との対決――パラダイムシフト2
第15章 西洋は中国をどう見たのか1――一七~一九世紀
第16章 戴震――考証学の時代
第17章 西洋近代との対決――パラダイムシフト3
第18章 胡適と近代中国哲学の成立――啓蒙と宗教
第19章 現代新儒家の挑戦――儒教と西洋哲学の融合へ
第20章 西洋は中国をどう見たのか2――二〇世紀
第21章 普遍論争――二一世紀
おわりに

 目次を見てもらえばわかるように、論点は多岐に渡っていますので、ここでは個人的に気になった部分を中心に紹介していきます。

 本書の記述は孔子から始まりますが、その思想の核心は「仁」だといいます。
 フランスの中国学者のアンヌ・チャンは仁について「孔子の斬新で大いなる概念であって、人間に賭けるという思いが結晶化したものだ」(51p)と述べています。
 日本では「仁」というと「仁政」と結びつきやすいですが、孔子は「広く民に恩恵を施して、万人に必要なものを与えること」は「もはや仁とは言えず、きっと聖であろう」と述べています(51p)。仁とは人間的な関係に基づくものなのです。

 ただし、孔子をヒューマニズムと結びつけることに著者は慎重です。孔子の教えには宗教的な超越性への志向もありますし、仁も「礼」という形式に沿って示されます。
 その礼についてですが、孔子は形骸化した礼であっても守るべきだとしている一方で、時代の変化の中で礼が形骸化することも認めています。

 孔子は政治を司るとしたら「名を正す」(「正名」)と言っています。「政は正である」(60p)と言うように、政治の目的は正しい秩序の実現として捉えられています。
 これは守旧的な考えにも見えますが、一方で力が正義だいう考えを認めないことでもあります。
 
 この「正名」の考えを哲学的に突き詰めたのが荀子で、「名には固有の意味がない。約束をして命名し、その約束が定着し慣習となったらそれをその名の意味という」(67p)と述べ、名が流動的であることを示唆しています。
 そして、王は旧名にそって新しい名前をつけることで、民を統率できるとしています。

 この荀子が性悪説をとったのに対して性善説をとったのが孟子です。
 『孟子』の中に、王が犠牲に捧げられる牛を見て憐れに思い、羊に替えさせたという話が出てきます。人々は牛がもったいないから羊に替えた、つまり王はケチだと考えましたが、孟子はこの王の判断を誉めました。犠牲になる牛を見て、憐れだと思った心(惻隠の心)こそが仁の始まりだからです。私たちの心にはこうした憐れみの心が備わっており、それを伸ばすことで正しい存在になっていくのです。
 それとともに孟子は礼を失った王を討伐することも認めています。一種の正戦を認める考えで、著者は「礼を民主主義やその他のイデオロギーに置き換えてみれば、今日の世界でも十分に通用してしまう」(93p)と述べています。

 孟子にしろ荀子にしろ人々を「教化」(啓蒙)することについては共通していましたが、荘子にはこうした考えはなく、すべての変化を受け入れるという徹底的に受動的な姿勢となります。
 荘子は「死者も、はじめに生を求めたことを後悔しているのではないだろうか」(83p)と言いますが、著者はこれを単なる運命論とはとらずに、この世界の可能性を想像するラディカルさを秘めていると考えます。

 一般的には老子→荘子という流れで認識されていますが、テキストの成立では『老子』は『荘子』よりも後のものだと言います。
 『老子』のポイントとしては生成論がとり上げられることが多いですが、著者は『老子』のポイントを「水の政治哲学」と見ています。老子は「天下で水より柔弱なものはない。しかし、堅く強いものを攻めるのに水に勝るものはない」(106p)とし、王のあり方にも水の動きを投影しました。
 『老子』において理想とされる国は「小国寡民」であり、他の共同体との交わりがない世界です。これはユートピアですが、同時に他者が消されたディストピアとも言えます。

 一般的に道家と法家は対照的な思想と考えられていますが、『韓非子』の中には『老子』を解釈したテキストがあります。アンヌ・チャンによれば「自然の秩序と人間の秩序の連続性」という点では『老子』と韓非の考えは共通しており、その上で韓非は「人間の秩序の求めに応じて、天の秩序を裁断した」(111p)のです。

 漢帝国は武帝期の途中から「天」を持ち出して、その正統性を打ち立てようとしますが、このときに活躍したのが董仲舒でした。
 董仲舒は「人を作るのは天である」とし、「人が人であるのは天に本づく」としました(123p)。そして、「天が民のために王を立てる」と考えます。天によって皇帝の権力を基礎づけているわけですが、これは同時に天によって皇帝権に制約がかけられることでもあるのです。董仲舒は天は天災などによってその意思を示すと考えました。
 一方で王充は天災は自然現象であり、天は自然であり、無為であるという道家の考えを引き継ぎつつ、天と人を媒介する聖賢という特別な人間を想定しました。

 後漢崩壊後になると、玄学という道家・道教的な思想が生まれます。後漢末の桓帝の治世において、宦官に反対する士人たちがだなつされる事件が起こります。この後、士人たちは政治から身をひいて「清談」に耽るようになるのですが、そこで生まれてきたのが玄学です。

 その代表的な人物の一人である王弼は、無を万物の根源とする形而上学を唱え、無為の中でそれぞれがあるべき場所にある一へと集約された世界を理想としました。「自然」を理想とする本質主義とも言えます。
 西晋の時代の郭象は、無が何かを生じさせることを否定した上で、「では、何かを生じさせるのは誰なのか。独りでに、自ずから生じただけである」(145p)と述べ、自然のままにすべてが自足するような世界を理想としました。

 こうした中国の思想状況の中で外来思想としてやってきたのが仏教です。
 六朝期には儒学者の范縝と仏教徒の間で「神滅不滅論争」が行われています。これは仏教徒が「形(身体)」が滅んでも「神(精神)」は滅びないと身体と精神の二元論を主張したのに対して、范縝が形が滅べば神も滅ぶと一元論を主張したものです。
 范縝によれば、刀がないのに鋭さだけが残っていることがないように、形と神は不可分だというものでした。

 しかし、この議論だと形と神が一対一で対応している必要があります。沈約は范縝に議論に従うならば、死体も物質である以上、そこに何らかの「死神」を想定する必要が出てくるのではないかと述べています。
 また、仏教は仏になるという形で救済を示しましたが、范縝はあくまでも現世にこだわり、そこですべてのものがあるべき姿になることで救われるという本質主義を主張しています。

 南北朝から隋・唐の時代、儒教は仏教に押され気味でしたが、その儒教を独自性を回復させようとしたのが唐の韓愈です。
 韓愈はブッダを夷狄とし、先王の道を説きました。悪に溢れた人間の世界に、聖人が秩序を与え道を教えました。これが先王の道です。しかし、この聖人の道は堯から舜、そして代々の王〜孔子と伝えられましたが、孟子のところで断たれている状況です。
 この道が失われた状況において、韓愈は天と鬼神に頼み、さらに「古」を参照しながら、それを模倣するのではなく自己発出する「古文」を生み出そうとします。新しい言葉によって古き伝統を取り戻そうという試みです。

 この韓愈の挑戦を引き継ぐ形で、仏教に匹敵する内面の形而上学を確立したのが朱熹になります。
 朱熹は、身体的、仏式的な気と、天の理を共有する性からあらゆるものは説明できると考えました。性は本来、性善的なものですが、気としての身体や、欲望が偏った私から悪が生じます。
 この悪を制する道として、朱熹は礼の他に、その悪を自己欺瞞として定義し、誠意によって乗り越える道を示しました。自分の内面に向き合って悪を乗り越えるという禅に似たやり方を朱熹は採用したのです。
 この自己啓蒙は困難なものですが、朱熹は「物の地に至り、地を極めたること」である「格物致知」がこれを助けると考えました。また、君主が自己啓蒙を行うことによって民もまた自発的に自己啓蒙を行うと考えました。ただし、これは君主は慎むべきだという朱熹の別の主張とは矛盾します。
 一方、明末清初の王船山は、君子の閉ざされた自意識こそが自己欺瞞を可能にし、巨悪をなすという理論を展開しています。

 朱熹の打ち立てた朱子学は元の時代に科挙の中心となり、明の科挙においては朱子学の解釈のみが採用されるようになりました。そうした中で登場したのが王陽明であり、陽明学になります。
 朱子学と陽明学は対立的に論じられますが、著者はむしろその徹底と見ています。王陽明は朱熹が格物致知においてこだわった外部性を消去し、内部性に徹したのです。

 陽明学は独我論とも思われていますが、他者の心を想定していることから著者は「弱い独我論」だと考えています。王陽明によれば「天地万物と人はもともと一体」(204p)であり、この一体を支えるのが「良知」という知です。
 良知には「自ら知る」という自己反省的な構造があり、善であれ悪であれ意において作動したその時に、人は良知によってそれを知ります。つまり小人も善悪を自ら知ることとなります。
 ここから「満街これ聖人」(207p)という、すべての人が君子であり成人であるという考えが生まれてきます。

 この陽明学は、「独りよがりの信」に陥ることをどのように避けるかで、王学左派と王学右派に分裂しますが、王学右派の流れを汲む東林派は公共空間についての思考を深めました。繆昌期(びゅうしょうき)は是非の判断について民衆に求めました。民衆は「天下のことに携わっていないからこそ、その態度は衡平であり、見方は明晰であって、まっすぐに胸の中に満ち、喉に迫り、口を衝いて出て、天下の是非を確定するに至る」(212p)というのです。
 ただし、同時に繆昌期はその公論はあくまでも士大夫によって代理される必要があると考えていました。

 明末になるとキリスト教が中国にやってきます。イエズス会のマテオ・リッチは仏教の殺生戒や輪廻転生をめぐって仏教徒と論争を行なっています。このとき、仏教側が孟子の牛を見た王の憐れみの心を持ち出しているのは興味深いところです。

 一方、中国についての情報はヨーロッパの思想にも影響を与えました。ライプニッツは朱子学に神に基づかない世界観を見ようとしましたし、中国は聖書よりも古い「古代」として注目を浴びました。
 ディドロは中国が神なしで秩序ある世界を構築したと読める議論をした一方、「東洋の精神は、静かで、怠惰で、本質的な必要に閉じこもっていて、自分たちが打ち立てたいと思うものにとどまっていて、新しさに欠けている」(241p)とも述べています。
 これは19〜20世紀の中国イメージに通じるものであり、ヘーゲルも中国は変化がなく「世界史の外にある」(244p)と書いています。
 
 清の乾隆帝は『四庫全書』の編纂を命じました。こうした中で考証学が発展しますが、考証学の泰斗が戴震です。
 耐震は宋儒は「理に固執して権がない」(252p)と言いましたが、これは朱子学のような大きな理にこだわるのではなく、判断力である「権」を重視するということです。著者はこうした戴震の議論をヒュームと重ねています。

 19世紀、中国の前に再び西洋が登場しますが、中国の思想にもインパクトを与えたのがダーウィンの進化論です。
 厳復は、西洋のさまざまな思想書を翻訳するとともにスペンサーの社会進化論を紹介しましたが、「進化」を「天演」と訳し、中国の天の考えに引きつけて考えようとしました。

 日清戦争に敗北すると、康有為や梁啓超などが近代化を進めようとします。康有為は自らの考えるユートピアと孔子の理想を重ねましたが、梁啓超になると儒教的な伝統を批判して、民衆が「国民」になることを訴えています。
 
 ナショナリズムが盛んになる中で、プラグマティズムをもとにして新たな中国哲学を確立しようとしたのが胡適です。
 胡適はジョン・デューイに学びましたが、デューイが歴史的な因果関係を否定しそのプロセスに注目しましたのに対して、胡適はむしろ祖先とその子孫のつながりを重視します。
 そのせいもあるのか、最初は儒教に否定的だった胡適ですが、のちに孔子をメシアと捉え儒教を新宗教として描き出そうとします。胡適は自分の思想の「短所は浅くてわかりやすいことだ」と述べていますが、儒教をキリスト教に読み替えるような形も「浅い」啓蒙の一つのスタイルと言えるかもしれません。

 20世紀後半になると「新儒家」と呼ばれる運動が起こります。
 新儒家のスローガンとして「内聖外王」というものがあります。これはまず自らの内において「成聖」を目指すというもので、仏教の考えも取り入れながら聖人の道を目指すものです。そして、同時に経世済民のための「外王」の道をそこにいかに接続するかということが課題になります。

 こうした中で牟宋三(ぼうそうさん)は、外王を「新外王」としての民主主義に置き換えるという道を示しました。牟宋三は共産党の弾圧から逃れるため、1949年に台湾に渡っていますが、昔からの「内聖」と「外王」を直接結びつけるのではなく、自己否定を通じて新たな「外王」に至ろうとしました。
 一方、唐君毅は普遍的な理によって、「内聖」と民主主義をつなげようとしました。

 1980年代になると、大陸でも儒学の復興の動きが顕著になります。
 共産党を儒化して「儒士共同体」とし、マルクス・レーニン主義を「孔孟の道」に代える儒教国教化を唱えた康暁光のような人物もいますし、現在の中国社会を支えるものとして儒教に注目が集まっています。
 また、「天下」や「王道」といった中国的な普遍を語る言説も活発になっています。ただし、ここで持ち出される「天下」はどうしても復古的な響きのある言葉で、「中華の復興」に過ぎないのではないかという声もあります。
 第21章での議論を見ると、「「アジア」の共通点として「西洋ではない」こと以外の普遍的な何かがあるのか?」という問いが中国でもあるようです。

 このように非常に内容に詰まった本ですが、これでも言語や詩に関わる部分などはばっさりと落とした紹介です。
 なんとなく、諸子百家+朱子学+陽明学で終わってしまいがちな中国思想に関する知識ですが、本書ではこれを「哲学」として捉え、そのダイナミックな動きを歴史の中に追っています。「歴史の外」にあった中国哲学を「歴史」に取り込もうとした野心作だと言えるでしょう。


菅原琢『データ分析読解の技術』(中公新書ラクレ) 8点

 『世論の曲解』(光文社新書)で政治をめぐる世論調査や分析に鋭い批判を行なった著者によるデータ分析の入門書。
 ただし、例えば伊藤公一朗『データ分析の力』(光文社新書)が因果推論のさまざまな手法を紹介し、データ分析のツールを教える本だったのに対して、本書は世に出回っているデータ分析の問題点を指摘し、その読み解き方を教えるものとなります。
 その点では、本書はメディア・リテラシーの本でもあり、少し古い本になりますが谷岡一郎『「社会調査」のウソ』(文春新書)と同じ系譜にある本とも言えます。

 近年ではデータが重視される中で、マスメディアやネットにもさまざまなデータ分析が溢れていますが、これらの中には明らかにおかしいものもあれば、一見すると鋭いようでいて実は何かがおかしいものもあります。
 本書はそうした玉石混交のデータの洪水の中で、玉と石を見分ける手がかりを教えてくれます。まさに今の世の中に必要な本だと言えるでしょう。

 目次は以下の通り。
はじめに 怪しいデータ分析への処方箋
第1章 データ分析読解の基本、因果関係
第2章 怪しさを感じ取る糸口、議論と数字のズレ
第3章 結果論は分析ではない
第4章 データが歪めば結果も歪む
第5章 「分析したつもり」の落とし穴
第6章 幻の因果関係を生み出す交絡因子
第7章 散布図に潜む罠
第8章 偽の相関、逆の因果と叫べば勝ちではない

 第1章では因果関係を押さえることがとり上げられていますが、ここでまず陥りやすいのが原因を1つに求めてしまうことです。
 「原因→結果」という図式で考えると、原因と結果が一対一で対応しているように思えてしまいますが、現実ではさまざまな要因が組み合わさっています。

 本章では「ニュースにおいて交通事故が頻繁にとり上げられるようになったのはなぜか?」という問いが置かれています。
 「交通事故が珍しくなった」「ニュース番組の時間が長くなった」などの原因が浮かぶかもしれませんが、他にも「ハンディカメラやドライブレコーダーの普及で画がつくりやすくなった」「道路網の整備で画になりやすい事故が増えた」など、言われれば原因はいろいろと列挙できます。
 物事の原因を考えていく上で、しっくりくる原因が見つかったらといってそこで分析を止めるのではなく、そこからさらに思考を進めていくことが必要なのです。
 ですから、因果関係というよりは因果構造という言葉で捉えた方が適切だと言います。

 第2章では議論と数字のずれに焦点があわされています。
 本章でとり上げられているのは、秋田県の自殺率の高さなどに触れた記事で、「秋田県は人口10万人当たりの美容院の数が全国で1位。そのことからわかるのは、見栄っ張りでほかの地域よりも恥を感じやすい県民性だということです」(61p)というネット記事の一節です。
 「美容院の数が多い」=「見栄っ張り」というロジックには首をひねる人もいるかもしれませんが、「秋田美人」という言葉もある通り、「秋田県民は他県民よりもおしゃれ」くらいの理解をする人は多いと思います。

 ただし、「10万人当たりの美容院の数」の数の1位が秋田県、2位以下が徳島県、鳥取県、山形県とつづき、ワーストが神奈川県、千葉県、埼玉県、愛知県、東京都だということを知ると(62p表1参照)、この「10万人当たりの美容院の数」という数字に疑いを持つはずです。
 「これは「見栄っ張り」云々などではなくて、都市部と農村部の違いで、都市部だと数字が低く出ているのではないか?」と感じた人も多いでしょうが、本書はそこからさらになぜそのような数字が出てくるかのかということも解説しています。基本的に都市部の美容院の方が1つの店舗にいる美容師の数が多く、商圏も広いのです。

 こういったデータについては最大と最小を観察することで、その性格が見えてくるといいます。自分でデータ分析をするときは全体を見ることが必要ですが、例えば、今回の例では神奈川がワーストだとわかれば、「神奈川県民は見栄を張らない??」となるわけです。

 第3章では「苦しい」データ分析の誤りを具体的に指摘してく術が示されています。
 とり上げられている記事では、男性の未婚に関して地域によって「男余り」にばらつきがあり、20〜30代の「男余り」率は1位茨城県、2位栃木県・福島県、3位群馬県と北関東に集中していると指摘し、その原因は不明としています。

 「男余り」率というと「北関東の男性は魅力がないのか?」などと思っていますが、この「男余り」率なるものは「男性率」という単純なデータと強く相関しています(96p図1参照)。男が多いので未婚の男も多いのです。
 では、なぜ男が多いのか? 「男余り」率の第1位となった茨城県の市町村別のデータを見ると、男性率が高いのは1位が鹿嶋市で2位が日立市です。両市とも製造業が強い場所であり北関東は製造業が盛んなので「男余り」率が高いのです。

 先ほどあげた記事の著者(荒川和久)の後の記事ではこのことを指摘しており、別の記事では「生産工程従事者」や「運搬・清掃・包装等従事者」の未婚が多いことをあげ、「ガテン系」や「肉体労働系」は結婚しにくいということを示唆しています。
 
 しかし、これも誤解です。「生産工程従事者」や「運搬・清掃・包装等従事者」はそもそも男性が多いですし、各職種の年齢構成が若ければ未婚率も高く出ます。「生産工程従事者」の20〜30代の割合は比較的高く、結婚できないというよりも、結婚していない若い人が多いとも解釈できるのです。
 実際、製造業に従事する若者の未婚率は他の産業や職種に比べて高いわけではありません。

 「でも、製造業がさかんな北関東の未婚率は高いのでは?」と思った人もいるでしょうが、北関東の未婚の男性のすべてが製造業に従事しているわけではありません。余っている男性は、他の産業に従事している人かもしれないのです。

 また、「男余り」率なる指標は未婚率とは微妙に違った現れ方をするものであり、そもそも指標としてどうなのかという問題もあります。
 最後に指摘されていますが、男性の未婚率の強い影響を与えているのは正規か非正規かであり、「運搬・清掃・包装等従事者」で未婚が多いのはこれら職種で非正規の割合が高いからです。

 愛4章では「データの取り方」の問題が検討されています。
 大ヒットした『鬼滅の刃』、映画の『無限列車編』の公開に合わせて2020年10月26日発売号の『週刊少年ジャンプ』でキャラクターの人気投票が行われましたが、そこで禰豆子が11位と低い順位にとどまったことが話題となりました(1位は善逸、以下、義勇、無一郎、炭治郎)。
 それを受けて、禰豆子が不人気の理由がいろいろと考察されましたが、著者はここで忘れがちになるのが調査のタイミングだと言います。

 この人気投票の投票券は、2020年2月10日発売の『週刊少年ジャンプ』と単行本の19巻についていました。投票券の数はジャンプ本誌に1枚、単行本に2枚です。
 単行本は発売一月で200万部ほど売れており、投票の割合は単行本の投票券の方が多かったと考えられます。19巻は無限城での戦いが描かれている巻で童磨や黒死牟との戦いが中心になります。つまり禰豆子がほとんど活躍していない時期を描いた巻でした。
 一方、結果発表は連載が終了したあとだったので、禰豆子の存在感の薄さが意外に思えるわけです。

 選挙における出口調査をもとに「若い人は自民支持」的な結論を導き出すのも問題があります。出口調査を受けた人は選挙に投票に行った人であり、若者全体ではありません。若者の投票率の低さを考えれば、若い人ほど有権者全体の中で自民党に投票した人が少ないとも言えるのです。

 本章では、「神戸の病院に外来に訪れた患者に血液検査をしたところ約3%に新型コロナウイルスに感染したことを示す抗体があった。神戸市全体の性別や年齢の分布に合わせて計算すると、約2.7%にあたる約4万1000人に感染歴があったことになる」という研究とそれにもとづいた記事がとり上げられています。

 「病院に来る人ということで高齢者が多いのでは?」と思うかもしれませんが、このあたりについてはきちんと補正していあります。
 しかし、「病院に来る人」には体に不調の人が多いはずというデータは補正できていないとして(さすがに発熱外来の患者は除外してあるものの)、「補正できるデータ」と「補正できないデータ」について考察しています。
 ここの分析はかなり込み入っているので詳しくは本書をあたってください。

 第5章では「「分析したつもり」の落とし穴」と題し、データを分析したつもりでも空振りに終わってしまっているケースを指摘しています。
 最初にとり上げられているケースは「17年度の秋田県への移住者は177世帯314人で、過去最高だった16年度の137世帯293人を上回った」という記事です。
 数字だけをさらっと見ると「そうなのか」で終わるかもしれませんが、秋田県の人口が100万弱であることを知っていれば、あるいは都道府県のサイズ感を知っている人ならば、「少なすぎるのでは?」と思うでしょう。

 実はこの数字は、NPO秋田移住定住総合支援センターに登録して県外から移り住んだ人数なのです。ですから、ここには秋田の大学に進学した人や転勤で来た人などは入っていません。
 「移住者」と書くと単純にその地に引っ越してきた人全てを指すと考えてしまいますが、この数字は「登録移住者」という特殊な数字です。
 この登録移住者が移住者全体を反映するものであればこの数字にも意味がありますが、おそらくはそうではないでしょう。「地方創生」の一環として行われている政策ですので、年々知名度は上がっているはずであり、登録する人は年とともに増えている可能性があると考えられるからです。

 鳥取県も「移住者」は増えていますが、これも移住相談会などのイベント、各自治体や在京・在阪の窓口を通じて接触した「相談者」に限定した数字で、鳥取県の人口減少は止まっていません。
 結局、これらの数字は「地方創生」という旗印のもとに進められた政策のアリバイのためにつくられたようなものなのです。

 この章ではもう1つ、中選挙区制下の選挙において自民党で時点で落選した議員は次の選挙で強いうという「次点バネ」がとり上げられています。ここは著者の得意とする分野なので、ぜひ本書を読んでほしいのですが、ここでもデータの歪みに気づくことの重要性が指摘されています。

 1960〜90年の衆議院選挙において次点で落選した候補の次の選挙での当選確率は77.7%と最下位当選者の79.6%に迫っています(184p表2参照)。
 ただし、ここで抜け落ちているのが次点で負けて次に立候補しなかった、あるいは、自民党の公認を得られなかった候補者の存在です。次の選挙に自民党の公認でチャレンジした次点落選の候補者は、ある程度有望な候補者であり、その分、当選確率が押し上げられていると考えられるのです。

 さらに次点落選候補が当選するケースは80年、86年という自民党が大勝した選挙でよく観察されます。そして、これらの選挙の前の選挙(79年と83年)は自民党の候補者が数多く落選した選挙です。
 つまり、大敗→多くの落選者(次点落選も多い)から大勝→多くの当選者(前回次点で落選した候補者も当選)という選挙全体の流れにも影響を受けています。
 前回落選した政治家が数多く復活当選を果たすと、そこに何か理由やストーリーを読み込みたくなりますが、「平均への回帰」で説明できたりするのです。

 第6章は交絡因子について。ある2つのデータの相関関係に別の要因が絡んでいるケースです。
 例えば、男性の所得と頭髪の薄さが相関しているとして(髪が薄いほど所得が高い)、ここに年齢という要素が絡んでいることを想像することは容易だと思います。一般的に年齢に伴って所得が上がることが多いからです。この場合の年齢を交絡因子と言います。

 ここでは仕事の有無と再犯率についての記事がとり上げられています。保護観察を終えた人を調査したところ、「再犯率は仕事に就いている人が約7%、無職は約30%に上った」(223p)というのです。
 さらっと読めば納得してしまうような因果関係(「仕事の有無」→「再犯率」)ですが、ここにも交絡因子が隠れている可能性はあります。

 まず、出所者が就職できるかできないかは出所者の年齢に左右されそうです。若者は就職がしやすく、高齢者は就職が決まりにくいでしょう。そして、高齢者ほど今までの生き方を変えにくいかもしれません。 
 他にも、もともとも規範意識や素行、犯罪欲といったものが影響している可能性もあります。「素行が悪い→面接で断られ、再犯」、「そもそも出所後も犯罪をしたいと思っている→就職活動をしない」という関係も考えられるからです。

 こうした交絡因子を見つけるコツとして、「2つの因果構造を考える」(このケースだと就職率が何に影響するかを考える)、「逆方向の因果関係で捉えてみる」(このケースだと再犯しそうかどうかが就職率に影響を与えるという関係)、「逆算して考える」(このケースだと想定される因果関係(「仕事の有無」→「再犯率」)をないものとして考える)の3つをあげています。

 第7章は「散布図に潜む罠」と題して、散布図を見ながら偽の相関関係を見破る術を教えてくれています。
 まず、偽の相関関係が出現しやすいパターンが時系列のデータです。例えば、日本の高齢化率と東京の年平均気温を時系列で並べるときれいに相関しますが(241p図1参照)、これは高齢化率も年平均気温も年々上昇傾向にあるというだけです。

 2つ目のパターンが地域別集計データです。ここでは2013年の参院選の共産党の候補者において、リツート数が多かった候補の得票数が多かったという記事がとり上げられています。「ネットをうまく使った候補者が当選した」という筋書きです。
 246p図2の散布図を見ると確かにリツイート数と得票数には相関関係があるのですが、参院選の選挙区は都道府県単位であり、有権者数も定数は都道府県によって違います。
 各都道府県に大体同じくらいの割合で共産党支持者がいると仮定すれば、共産党の得票数は都市部で多く、地方で少なくなるでしょう。また、フォロワー数も支持者が候補者をフォローすると考えれば、都市部の候補者で多く、地方では少なくなるでしょう。
 そして、共産党が議席獲得のチャンスがあるとして力を入れるのも都市部の選挙区です。

 こうした要因から、都市部では得票数も多いし、フォロワー数も多いでのリツイート数も多くなると推定されます。
 日本の都道府県は人口のばらつきが非常に大きいために、都道府県別データなどは間違った相関を生み出しやすいのです。
 ちなみに本章の後半では、共産党の比例候補の立て方などを考慮に入れてより踏み込んだ分析も行っています。

 第8章は「偽の相関、逆の因果と叫べば勝ちではない」と題されています。
 「新聞を読むと国語の成績がよくなる」と聞けば、ちょっと頭の回る人であれば「それは家が金持ちだと新聞も購読するし、成績もいいということだろう」、「新聞を読むから成績がよくなるのではなく、成績がいいから新聞が読めるので因果関係が逆ではないのか」と考える人もいると思います。実際、著者が架空の「論破」記事を書いています。

 もちろん、親の所得と子どもの成績は相関しているのですが、親の所得は子どもの通塾などさまざまな経路で成績に関わっていると考えられます。親の所得→読書経験→新聞購読→成績上昇という経路も考えられはします。
 また、「成績がよい→新聞購読」という関係があるとしても「新聞購読→成績がよい」という因果関係がないとは言えないのです。

 このように本書はデータ分析におけるさまざまな陥穽を指摘しています。扱っている分析事例にはやや難しく感じるものもあるかもしれませんが、かなり丁寧にステップを踏んで問題点を指摘してくれているので、統計などに親しんでいない人にも問題点がわかるようになっています。
 エビデンスの必要性が叫ばれていますが、同時にその「エビデンス」が本当にエビデンスなのかを見抜く眼も必要になります。本書はそういった眼を鍛えてくれる本です。


筒井清輝『人権と国家』(岩波新書) 7点

 副題は「理念の力と国際政治の現実」。「国際政治」とあるように、本書が取り扱うのは国際政治における「人権」が中心になります。
 近年、中国の新疆ウイグル自治区での人権侵害が問題となり、新疆ウイグル自治区でつくられたコットンを利用する企業が批判されたり、ミャンマーのクーデタでも「人権」をキーワードに批判が行われたり、人権侵害を告発する声は高まっています。
 一方、新疆ウイグル自治区の問題でも、アメリカのグアンタナモ収容所でも、告発が行われたからといって有効な制裁が行われるわけではないという問題もあります。
 
 本書は、こうした国際社会における「人権」に関して、その歴史を辿りつつ、いかなる役割を果たしたのか? その限界はどこにあるのか? といった問題を論じたものになります。
 国際社会における人権というと、何か偽善的な印象を持っている人もいるかもしれませんが、本書を読むと、それがタテマエであっても人権が果たしてきた役割というのがあったこともわかると思います。

 目次は以下の通り。
第1章 普遍的人権のルーツ(18世紀から20世紀半ばまで)――普遍性原理の発展史
第2章 国家の計算違い(1940年代から1980年代まで)――内政干渉肯定の原理の確立
第3章 国際人権の実効性(1990年代以降)――理念と現実の距離
第4章 国際人権と日本の歩み――人権運動と人権外交

 まず、本書は人権のルーツから説き起こしています。
 人権のルーツというと、ホッブズやロックの提唱した自然権に求められることが多いですが、本書ではそれとともに、他者への共感というポイントを重視しています。
 ホッブズやロックの社会契約論では、国家がその構成員の自然権を保護するという形になり、その社会集団の外側にいる人々の権利についてまでは保護しようとしません。
 ヨーロッパで発展した主権国家体制は内政不干渉の原則を持っており、自国以外の人々の権利についてはとりあえず不問に付されていました。

 こうした壁を乗り越えていくことになったのが他集団の人々への共感です。
 リン・ハントは『人権を創造する』の中で、啓蒙主義時代に流行した書簡体小説が読者と登場人物の一体化を促して、それが階級や性別を超えた共感を可能にしたという議論を行いましたが、こうした共感は普遍的な人権が広がっていく一つのきっかけとなりました。

 18世紀後半からは奴隷貿易廃止運動が盛り上がります。イギリスではクエーカー教徒などを中心にして運動が繰り広げられ、1807年には奴隷貿易廃止法が制定されました。
 イギリスが奴隷貿易廃止という理念にコミットし多国籍の奴隷船も取り締まったことから、漸進的に奴隷貿易は廃止されていくことになります。

 労働運動も国際的な人権意識を高めることにつながりました。労働運動は国を超えた労働者の団結を訴え、共産主義や社会主義の広がりを恐れた国々は1919年に国際労働機関(ILO)をつくりました。このILOが多くの法的拘束力を持つ条約を採択していくことになります。
 19世紀には、戦争の悲惨さを受けて赤十字が設立され、ギリシャやブルガリアの独立運動ではオスマン帝国の残虐な行為に非難が集まり英仏露などが介入しました。フランスでのドレフュス事件も国際的な人権問題として注目された例と言えます。

 しかし、こうした共感も植民地の人々や違う人種にはなかなか届きませんでした。民族自決権の考えは広がりましたが、これも基本的にはヨーロッパのみに当てはまる原則でした。
 第一次世界大戦後につくられた国際連盟の国際連盟規約には「人権」という文字は一度も登場せず、普遍的な人権という考えはまだ国際政治で重要な位置を占めることはありませんでした。

 1930年代になると人々の共感を集める手段として写真が登場します。貧困や人権侵害の被害者の写真が人々の共感を呼び起こしました。
 こうした中で起こった第二次世界大戦では、連合軍は自由と人権を守ることを掲げて戦いました。また、大戦終結近くになって知られるようになったホロコーストの悲惨さは、国家主権を超えた人権保護の重要性を人々に認識させました。
 こうした中で生まれた国際連合憲章では、人権が明記され、普遍的な人権を守ることが恒久平和につながるという認識が打ち出されることになります。
 1946年には国連人権委員会が設立され、48年には世界人権宣言が採択されました。普遍的人権の重要性は国際社会でも認識されるようになったのです。

 世界人権宣言が採択されたといっても内政不干渉の原則は強力でした。また、国連人権委員会にアメリカ代表として参加していたエレノア・ローズベルトのもとには、世界人権宣言を法的拘束力をもたない宣言にとどめるべきべしとの指令も届いていました。
 一方、一歩踏み込んだのが世界人権宣言の前日に採択されたジェノサイド条約です。この条約はホロコーストのような民族や人種の抹殺行為を禁止するもので、参加国に対してジェノサイド防止のための行動を求めています。

 また、この時期に国連で国際的な人権問題としてとり上げられたのが南アフリカのアパルトヘイトです。1946年にインドが南アに住みインド人が差別的な扱いを受けていることを非難する決議を提案し、これが総会で可決されます。その後も、南アは締め出しやボイコットを受け、国際社会で孤立していくこととなりました。
 60年代にアフリカの国々が独立していくと、民族自決権などを求める動きも強まり、1966年の国際人権規約では民族自決権が盛り込まれます。さらに65年には人種差別撤廃条約が採択され、76年にはアパルトヘイト撤廃条約が採択されるなど、人種差別を許さないという風潮が強まります。

 国際人権規約に関しては、ソ連と東欧諸国が推す経済権や社会権がA規約に、アメリカなどの西側諸国が推す政治権・市民権がB規約としてまとまり、1976年に必要な国の数の批准を得て発効しました。
 国際人権規約のB規約には2つの選択議定書があり、第一選択議定書では個人が直接、規約人権委員会に通報できるようにもなっています(第二選択議定書では死刑の廃止を盛り込んでいる)。

 70年代以降、国連は女性差別撤廃条約、拷問等禁止条約、子どもの権利条約、移住労働者権利条約、障害者権利条約、強制失踪防止条約と、監視機関付きの人権条約を生み出してきました。
 監視機関では締約国からの報告書が審査され、各国の代表に対して突っ込んだ質問がなされます。さらにこれらの審査は一定の期間をおいて定期的になされ、締約国に対するプレッシャーとなります。
 これらの活動には限界もありますが、内政への干渉を前提とした仕組みになっており、内政不干渉の原則から一歩踏み込んだものとなっています。

 こうした人権に関する条約は冷戦のもとでは所詮タテマエのように扱われることもありました。国際人権規約はアフリカ・アジア・ラテンアメリカ・東欧など、必ずしも人権や民主主義を重視していないと思われる国で先行して批准んされましたが、これはこうした国々が独裁者や政府の一存で批准できたからです。
 こうした国々は外からの批判に対して、人権条約に入っていることでその批判を受け流そうとした面もあるのですが、冷戦後に人権監視のシステムが機能するようになったからといって今さら抜けるわけにもいきません。
 著者は、このように独裁国家などが人権に付き合わざるを得なくなった状況を「空虚な約束のパラドックス」(84p)と名付けています。

 また、冷戦期にはソ連がアメリカにおける人種差別を批判し、アメリカはソ連の批判を封じるためにも国内の人種問題に取り組まざるを得なくなりました。

 現在も活躍している人権NGOがつくられたのも冷戦下になります。アムネスティー・インターナショナルは1961年にポルトガルの軍政下で学生は「自由に乾杯」と言っただけで逮捕された記事を読んだ弁護士のピーター・べネンソンによってつくられました。77年にはノーベル平和賞を受賞しています。
 ヒューマン・ライツ・ウォッチは78年のヘルシンキ合意の履行を確認するためにつくられたヘルシンキ・ウォッチをもとに、アメリカやアジア、アフリカなど各地のウォッチがつくられ、それが統合されて88年にヒューマン・ライツ・ウォッチとなっています。

 冷戦が終結し90年代に入ると、国連に対する期待も高まってくるわけですが、国連はその期待に十分に応えられたわけではありませんでした。
 89年の天安門事件に関連して、国連人権委員会では中国を非難する決議が何度か出されましたがいずれも否決され、しだいに経済制裁も緩んでいきます。
 ユーゴスラビア紛争においても、国連はスレブレニツァの虐殺などを止めることができませんでした。しかし、93年に国連安全保障理事会の決議によって旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷が設置されるなど、戦争犯罪やジェノサイドのなどの人権侵害を行った個人を処罰する仕組みをつくりました。

 ルワンダのジェノサイドに関しても国連の行動は遅れました。虐殺がほぼ収束してから、ルワンダ国際戦犯法廷が設置されましたが、虐殺の抑止という点からは遅かったと言えます。
 一方、東ティモール独立をめぐる混乱に対しては、オーストラリアがこの問題にコミットし、安保理の決議を取り付けて自軍を派遣したことから、大規模な暴力行為を防ぐことに成功しています。

 2001年の9.11テロはアフガニスタンやイラクでの戦争へとつながっていきますが、その中でグアンタナモ収容所やイラクのアブグレイブ刑務所などでのアメリカによる人権侵害が問題となりました。この中で水責めや感覚遮断といった体に傷を残さない拷問が「強化された尋問技術」(124p)として正当化されました。
 オバマ大統領によってこの「強化された尋問技術」の正当化は取り下げられましたが、グアンタナモ収容所の閉鎖はできませんでした。

 2002年には国際刑事裁判所が発足します。大規模な人権侵害の加害者個人を罰するための常設的な組織になります。
 ただし、この国際刑事裁判所のつくる規約であるローマ規約は、アメリカ・ロシア・中国といった常任理事国は批准していません(アメリカはクリントン政権が署名するも批准に至らず)。
 2016年にグルジアのケースがとり上げられるまで、アフリカ諸国の案件ばかりだったことから反アフリカ差別があるとの声もあがりましたが、その後はフィリピンやベネズエラ、パレスチナなどの案件もとり上げられています。

 このような大きな動き以外でも人権擁護の取り組みはなされています。
 欧州では欧州人権裁判所が加盟国の最高裁を超えるような権限で影響力を発揮しており、また、国際機関の出資条件や国際貿易協定に人権条項が盛り込まれることも多く、人権問題に取り組むインセンティブを与えています。

 著者は、国際人権の影響力は人々の人権に対する考えを変えることにあるといいます。普遍的な人権が国際社会で認識されることによって、国内の状況をおかしいと気付かせ、変化のために立ち上がる力を生み出すというのです。

 ただし、規範の外から押し付けのようなかたちになってしまってうまくいかないケースもあります。女性機の一部を切除するフィーメル・ジェニタル・ミューティレーション(FGM)に対する撤廃運動は、アフリカでは新帝国主義と批判され、必ずしもうまくいきませんでした。現地の文化を否定するのではなく、内部からその変化を促すような姿勢が必要だといいます。

 また、企業が人権問題に直面するようになったのも近年の特徴です。ナイキが直面したスウェットショップの問題や大企業のサプライチェーンにおける劣悪な労働条件や児童労働など、企業が批判の矢面に立たされることも多くなっています。
 当初は企業は関係を否定したりすることが多かったですが、国家が次第に人権に真剣に取り組まざるを得なくなったのと同じように、企業も次第に人権問題に率先して取り組むようになりつつあります。

 最後の第4章では、日本と人権の関わりについて触れられています。
 日本では明治期に啓蒙思想とともに人権の考えが輸入され、大正デモクラシー期には労働運動、女性解放運動、被差別部落の解放運動が盛んになりました。
 また、第一次世界大戦後のパリ講和会議では人種平等原則を提案しますが、アメリカやイギリス、オーストラリアなどの反対によって実現しませんでした。この挫折はアジア主義を勢いづけ、欧米からの干渉を排除する姿勢にもつながっていきました。

 1979年に日本は国際人権規約を批准し、監視機関からの監視も受けることになります。日本が継続的に批判を受けたのは、代用監獄や死刑制度なの司法問題、難民認定や移民制度、人身取引、女性差別、国内人権機構の設立の問題などです。
 
 国際的な人権意識の高まりが国内問題に大きな影響を与えた例として、本書ではアイヌの問題と、在日コリアンの指紋押捺拒否運動がとり上げられています。
 アイヌに関しては、1946年に北海道アイヌ協会が誕生しますが、政府の支援の受け皿的な存在で積極的な主張はありませんでした。しかし、70年代からの海外のマイノリティのとの交流や、86年の中曽根首相の「単一民族国家」発言などをきっかけに、積極的に国際的な場での主張を始めます。
 これを受けて、政府は91年の規約人権委員会への報告書でアイヌをマイノリティーとして認め、08年にはアイヌを先住民族だと認める国会決議がなされます。。
 
 指紋押捺拒否も80年に韓宗碩(ハンジョンソク)が最初に行いましたが、拒否に踏み切った理由として79年に日本が国際人権規約を批准したことをあげています。こうした流れの中で、他の在日コリアンの中からも指紋押捺拒否が始まり、韓国政府や各地のコリアン・コミュニティーと連携しながら運動を進め、93年に在日コリアンに対する指紋押捺は全廃されました。

 歴史認識問題でも、近年では歴史的な正当性といった形ではなく、人権問題として認識される傾向が高まっています。慰安婦問題などは、まさにこうした人権問題として扱われるようになった代表例と言えるでしょう。

 今までの日本は、他国の人権侵害に対する追及で厳しい態度をとってきませんでした。欧米とは一線を画する対話路線をとることが多かったと言えます。
 しかし、第2次安倍政権が価値観外交を唱えるなど、日本の外交においても価値観にコミットする姿勢が強まっています。日本版のマグニツキー法(人権侵害に関与した政府関係者の個人資産を凍結したりする法)の制定など、さまざまな課題が浮上しており、人権を意識した外交や政治がより必要になってきていると言えます。

 このように本書は国際人権の歩みを見ていくことで、「人権なんてタテマエ」といった見方を丁寧に批判していくような内容になっています。
 もちろん米中ロのような大国に人権を守らせる手段というのはなかなかないわけですが、広い目で見れば人権に対する意識の高まりや、人権を守ろうとする国家や人々の行動が、世界を少しずつ変えているというのは事実でしょう。
 
 ただ、本書では「日本ももっと「人権力」を持つべきだ」という主張していますが、ロシアのウクライナ侵攻で人権をめぐって究極的な選択が突きつけられている状況を考えると、「人権力」というネーミングは個人的にはやや軽く思えてしまいます(あくまでもネーミングの問題なのですが)。


鈴木穰『厚労省』(新潮新書) 6点

 昨年、中公新書から青木栄一『文部科学省』が出版されましたが、今度は新潮新書から『厚労省』が出ました。『文部科学省』が政治学者によるものでアカデミックな路線だったのに対して、こちらは東京新聞・中日新聞の論説委員によるもので、今までの取材の経験を活かしたジャーナリスティックな路線になります。
 厚生労働省は、国家予算の1/3近くを使い、3万人を超える職員が働く巨大官庁です。その仕事は多岐にわたり、さらに国民生活に密接に関わっているだけに非常に重要です。しかし、一方でそれが故に不祥事や機能不全が目立ってしまうという面もあるでしょう。
 本書はそんな厚労省の全体像をスケッチするとともに、各種審議会のあり方なのにも触れ、外野からは受け身に見える厚労省の政策決定過程がよくわかるようになっています。
 何か斬新な視点が打ち出されているわけではありませんが、厚労省の全体像を把握するにはちょうどよい本ではないでしょうか。

 目次は以下の通り。
第1章 歴史は繰り返す
第2章 使うカネも組織も巨大
第3章 政策はどう決まる
第4章 史上最長政権と厚労省
第5章 なくならない不祥事
第6章 人生を支える社会保障制度

 厚生省が設立されたのは盧溝橋事件の翌年となる1938年です。陸軍は当時の若者の体力の低下と結核の蔓延に危機感を持っており、戦争遂行と兵士の確保のためにも国民の健康を守るための期間が必要だと考えられたのです(このあたりの経緯は高岡裕之『総力戦体制と「福祉国家」』に詳しい)。
 当初は「社会保健省」「保健社会省」といった名称が考えられますが、「社会」が「社会主義」を連想させるという意見が枢密院から出て、中国の古典の「書経」にある「厚生」という言葉が使われることとなりました。また、母胎となったのは内務省です。

 また、戦時体制における生産力増強の必要もあって厚生省に労働局が置かれ、これが戦後の1947年に労働省として独立することになります。
 そして、2001年の省庁再編で再び厚生省と労働省が統合されて厚生労働省となったのです。

 2021年度の一般会計の歳出は106兆6097億円、そのうち社会保障費は35兆8421億円と割合にして33.6%を占めるわけですが、さらに保険料などから投入される社会保障の給付費の合計は20年度の予算で126兆8000億円で、一般会計の予算規模を超えています。
 厚労省が関わるお金というのはこれほど巨額のものなのです。

 ただし、年金や医療分野はすでに使い道が決まっているお金で、厚労省が自由に使えるお金は少ないです。以前は厚労省の官僚が新たな政策を考え予算を使えるのは水道事業くらいだと言われたそうですが、今は国が行う水道事業の割合は小さくなっています。
 また、特別会計として、年金特別会計71兆2855億円、労働保険特別会計(雇用保険と労災保険を管理)4兆9202億円(いずれも21年度予算)を管理しています。

 厚労省の管轄する分野は広く、国民の生活にも関わることが多いために、厚労相の国会での答弁回数は他の大臣よりも頭抜けて多くなっています。2018年の国会で、大臣、副大臣、政務官、政府参考人の合計答弁数は厚労省が8327回で断トツのトップです(2位は国交省の4280回(36p))。
 そのため国会のあるときには分野ごとの課長が毎朝5時に集まり、8時45分まで大臣レクを行います。終わらないときは昼休みもつづくそうです。
 レクをするためには国会に入る入館証が必要ですが、厚労省ではこの不足にも悩まされているそうです。

 厚労省には13の局があり、大きく厚生系と労働系に分かれます。
 厚生系は、保険局(医療保険)、医政局(医療提供体制の確保)、健康局(ガンや難病、感染症などへの対策など)、医薬・生活衛生局(医薬品のチェック、食品衛生、理容・美容店・公衆浴場などの管理)、年金局(年金)、老健局(介護保険)、社会・援護局(生活保護、障害者福祉、戦傷病者や戦没者遺族の援護政策)になります。
 労働系は労働基準局(労働基準法を所管、労災保険、最低賃金など)、職業安定局(ハローワーク)、雇用環境・均等局(女性や非正規の待遇改善、ワーク・ライフ・バランスなど)、子ども家庭局(保育所整備、虐待防止など)になります。
 これに省全体の政策調整、白書の作成、中長期の政策立案などを行う政策統括官、公的な職業訓練や技能検定の実施、能力開発などを行う人材開発統括官という部局があり、全部で13局の構成となっています。

 また、厚労省の組織の特徴としては事務次官の他に厚生労働審議官と医務技監という次官級のポジションがあるところです。厚生労働審議官については厚生系の人材が事務次官になると、旧労働系の次官候補はこのポジションに就くことが多いそうです。

 各省庁別の一般職の職員数だと、厚労相は3万1518人で、国税庁、法務省、国土交通省についで第4位になります。約4000人が中央の霞が関におり、それ以外は地方の厚生局や労働局、検疫所、ハンセン病療養所などにいます。
 他の省庁と同じく厚労省もキャリアとノンキャリアから構成されています。出世していくのはキャリアが中心ですが、数年で異動を続けるキャリアに比べて、ノンキャリは1つの職場にとどまることが多く、年金などの複雑な制度に関してはノンキャリアの知識が必要になります。

 2020年7月時点で女性職員の割合は28.5%、管理職の課室長相当職では9.1%となっています。女性の働き方を支える政策を担う厚労省ですが、官庁の中でのこの数字は中位になります。
 ただし、旧労働省時代には松原亘子が、2013年には冤罪事件に巻き込まれた村木厚子が事務次官になっています。

 「ブラックな職場」として知られるようになった霞が関ですが、特に厚労省は長時間労働がひどく、霞が関の本省では月80時間以上100時間未満の超過勤務が1ヶ月以上続いた職員は1279人、月100時間以上が1ヶ月以上続いた職員が555人と、約4000人のうち半数近くが過重労働となっています。
 しかも、上記にあてはまる職員の半数近くは4〜5ヶ月にわたって超過勤務が続いていたといいます(72p)。
 忙しさの原因は、人手不足、不祥事などへの対応、国会対応といったもので、特に国会対応の負担を訴える職員が多いそうです。

 厚労省の他の官庁との違いの1つに専門職の多さがあります。医師や歯科医師の資格を持つ医系技官、看護師資格のある看護系技官、薬剤師資格や化学・生物分野の専門知識を持つ薬系技官、獣医師の資格を持つ獣医系技官もいます。
 これらの技官の多くは通常の試験とは違うルートで採用されており、医系技官だと現場経験をつんだ人物を採用しており、勤務時間外の診療業務も認められています。ちなみに64年の東京オリンピックのときに都知事だった東龍太郎や新型コロナウイルス感染症対策分科会長の尾身茂が医系技官の出身です。

 ただし、近年はこの技官の確保が難しくなっています。特に医系技官は民間に対してどうしても収入面で見劣りします。2017年に新設された医務技監は医系技官を処遇するためのポストと言えるでしょう。
 
 他に厚労省の中の独自の職種としてあるのが、労働基準監督官と麻薬取締官です。どちらも逮捕・送検ができる司法警察職員になります。
 そのため労働基準監督署には取調室もあります。また、違反企業への立ち入り調査も可能で、2015年に電通で高橋まつりさんが過労自死した際には、東京労働局と三田労働基準監督署が電通の本社と支社に一斉に立ち入り調査に入りました。現在、労働基準監督官は3000人ほどいます。
 麻薬取締官は、近年では芸能人の逮捕なども行っています。そのために尾行や張り込みなども行います。2020年度で人員は295人です。
 
 ここでまで厚労省の組織についてですが、第3章では厚労省の政策決定過程が述べられています。
 厚労省の扱う分野は国民生活に直結し利害関係者も多いために、審議会に諮問してそこでの合意形成を通じて練り上げられるものが多いです。
 年金でも医療でも、多くは審議会にかけられた上で法案として国会に提出されるのです。

 例えば、年金は社会保障審議会の年金部会で審議されます。こうした審議会に注目が集まるのは大きな改正などがあるときですし、多くは厚労省の意向を受けた上で審議がなされるのですが、ガチンコの議論がなされるのが中央社会保険医療協議会(中医協)です。
 中医協は診療報酬の配分を決めるのですが、これは医師の報酬や、健康保険組合の財政に直結します。そこで公益委員の他に、報酬を払う側の健康保険組合連合会などと、報酬を受け取る側の日本医師会、日本歯科医師会、日本薬剤師会などが激しい議論を行うのです。
 ただし、2004年に中医協の委員が日本歯科医師会幹部から贈賄を受けた事件を受けて、診療報酬の改定率は内閣が決め、中医協がその中で診療報酬を決める形になりました。

 労働系の審議会も基本的には労使が対立するケースが多いです。労使間の問題は経営側、労働側、公益側の「三者構成」がルールとなっており、近年では「高度プロフェッショナル制度」をめぐって労使が対立しました。安倍政権は労働側を懐柔するために、残業時間の上限規制を抱き合わせの形にして法案提出を了承させています。
 しかし、2013年に設置された「一般用医薬品のインターネット販売等の新たなルールに関する検討会」では。慎重派の医療側と推進派のネット販売会社が真っ向から対立し、結論が先送りされました。

 2013年の生活保護基準部会では、保護費約90億円の減額を提示したものの、政府からの圧力を受けた厚労省が減額幅を580億円に拡大して、部会の意向が無視されるといったことも起こっています。
 2021年の感染症部会では、新型コロナウイルス対策の強化のために、入院等を拒んだ感染者に刑事罰を科す改正案が諮問されて「おおむね了承」となりましたが、出席した18名のうち罰則に賛成したのは3名だけで、8名が反対あるいは懸念を表明していた事例もありました。ちなみにこの改正案は国会審議の中で刑事罰から行政罰に変更されています。

 法案提出のための大きな関門が与党の了承です。特に社会保障の負担を増やす政策は選挙を控えた政治家には嫌われます。また、自民党にはいわゆる「族議員」もいて、ときには彼らも厄介な存在です。
 自民党の部会では、ときにわざと外に聞こえるような大きな声で法案への批判や持論をぶつける議員がいます。これは廊下の外で待機している記者たちに聞こえるようにするためだといいます。

 予算増を伴う政策では財務省が大きな壁となります。社会保障費はそもそもの額が巨額であり、これを抑制することは財務省の重要事項です。そのため、予算を査定する主計官は他の省庁が1人なのに対して厚労省担当は2人います。医療・介護担当の第1担当と、年金・労働担当の第2担当です。
 2012年度の診療報酬の改訂では、小宮山厚労相と安住財務相の間で+0.004%という数字で決着しましたが、厚労省はプラス改定を勝ち取る一方で、小数点二桁より下は四捨五入するというルールを持つ財務省からすると据え置きを勝ち取ったという形です。

 厚労省が政策を進めていく手段としては法改正意外にも、政令、省令・施行規則、通知・事務連絡といったものがあります。
 特に通知・事務連絡は省庁の裁量で出さるので小回りがききます。新型コロナウイルス対策では介護業者にさまざまな事務連絡を出し、それがうまくいった面もありますが、現場からはその量の多さに悲鳴も出たそうです。

 第4章では安倍政権下における厚労省について語られています。
 安倍政権の看板政策は「女性活躍」「一億総活躍社会」「働き方改革」「幼児教育・保育無償化」など厚労省の管轄する分野が多く、しかも「3年子ども抱っこし放題」「介護離職ゼロ」などのキーワードが打ち上げられるケースも多く、厚労省は既存の政策といかに接続するかということに苦労しました。
 一方で、「幼児教育・保育無償化」や「働き方改革」といった政策は官邸主導だからこそ進んだ政策でもあり、「働き方改革」では経産省出身の新原浩郎らがその推進力となりました。

 第5章では厚労省の不祥事がまとめられています(このあたりの構成が新潮新書っぽいか)。
 まず、とり上げられているのが薬害エイズ問題で、その反省から原因が必ずしも確定していなくても規制を行っていく「予防原則」へと切り替えていったといいます。
 01年のBSEにおける動物性飼料を与えられた国産牛の出荷停止や、96年のO157による集団食中毒事件で、「かいわれ大根が疑われる」と公表したのがその例です。O157のケースでは業者から訴訟を起こされて厚労省が敗訴しましたが、

 また、脳死をめぐる議論でその議論が公開されなかったことが混乱を生んだとの反省や、薬害エイズの問題もあり、その後は情報公開に積極的になっています。
 96年には事務次官だった岡光序治が、特別養護老人ホームを運営する会社からゴルフ場会員権や乗用車などの提供を受けたとして収賄罪で逮捕される事件も起きました。
 00年代になって大きな問題となったのが社会保険庁の不祥事です。年金記録の業務外閲覧、収賄、加入者本人が知らないところでの免除承認手続き、ヤミ専従、赤字を積み上げたグリーンピア事業、「消えた年金記録」など、次々と不祥事が明らかになり、ときには政権を揺るがしました。
 最近では統計をめぐる不祥事が問題となりましたが、この問題については、検証をする委員長を外郭団体の理事長に任せた検証作業のお粗末さも指摘されています。

 第5章は社会保障制度のおさらいという感じで、ある程度知識がある人には知っていることが多いでしょうが、年金、医療、介護、少子化対策、労働政策のそれぞれの課題を簡単に知るにはいいでしょう。

 このような形で厚労省という巨大官庁を紹介した本ですが、個人的には組織と政策決定過程を扱った前半が面白かったですね。記者が書くものだと、どうしても自分の取材経験を中心に書いてしまいがちですが、本書は比較的客観的な視点から厚労省を捉えることができていると思います。
 不祥事の構造的な要因にまで深く踏み込んであると、より面白い本になったのではないかと思いますが、厚労省の性格や全体像を知るには役に立つ本です。


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