山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期

ここブログでは新書を10点満点で採点しています。

峯陽一『2100年の世界地図』(岩波新書) 5点

 サブタイトルは「アフラシアの時代」。「アフラシア」とはアフリカとアジアを合わせた造語で(この言葉自体はトインビーが用いている)、2100年にアジアとアフリカに住む人々がそれぞれ全世界の約4割となり合わせて8割になることを見据えながら、2100年の世界を展望した本になります。
 大まかに分けると、前半は2100年の未来予測にあてられており、後半は「アフラシアの時代」にふさわしい理念を探る試みとなっています。
 冒頭のカラー口絵をはじめとして前半の予測の部分は興味深いと思います。ただし、後半の理念の部分では「反西洋」が核となってしまっていて、「「アフラシア」といっても「アジア主義」の変形に過ぎないのでは?」という感想を持ってしまいました。

 目次は以下の通り。
第1部 2100年の世界地図
 第1章 22世紀に向かう人口変化
 第2章 定常状態への軟着陸
 第3章 新たな経済圏と水平移民
第2部 後にいる者が先になる
 第4章 ユーラシアの接続性
 第5章 大陸と海のフロンティア
 第6章 二つのシナリオ
第3部 アフラシアの時代
 第7章 汎地域主義の萌芽
 第8章 イスラーム
 第9章 「南」のコミュニケーション
終章 共同体を想像する

 21世紀の終わりの2100年、世界人口は112億人程度になると予想されています。
 そして、驚くべきはアフリカにおける人口増加です。ヨーロッパの人口が減少し、アジアでも2050年あたりをピークに人口は減少しますが、アフリカは21世紀を増え続け、2001年の約8億4千万人から2100年には約46億7千万人となり、約47億8千万人のアジアに肉薄します(9p図1−1、表1−1参照)。
 国別で見ても、ナイジェリア、コンゴ民主共和国、タンザニアといった国々で人口が大きく増加し、特にナイジェリアは2100年には人口は約8億人に達し、インドネシアやアメリカを上回り世界第3位の人口になると予測されています。
 また、2100年には世界で高齢化が進み世界の高齢者人口の割合は35.5%になると予測されていますが、アフリカの高齢者人口の割合は14.6%であり(19p)、深刻な高齢化に直面しない唯一の地域となります。
 
 他の予測と違って人口予測はある程度長期の状態を予測できます。これは急に出生率が急上昇したり急降下したりしないこと、例えば20年後において20歳以上の人は現時点ですでに存在していることなどから導かれます。もちろん、地球規模の天災やパンデミックなどによって人口が大きく減る可能性はありますが、現在の人口やトレンドからある程度の予測が可能です。
 基本的に世界の出生率は低下傾向にあります。アフリカは高い出生率を誇っていますが。、それでも1960年代の6.72をピークに2010−15年には4.72まで低下しており(34p)、今後もこのトレンドは継続すると考えられます。
 アフリカの出生率も22世紀はじめには2.0代に落ち着くと見られており、世界人口も落ち着いてくると予想されているのです。

 22世紀はじめに世界人口が落ち着くとしても、心配なのはそれだけの人口をまかなえる食糧があるのかということです。ご存知のようにマルサスは悲観的な見方をしていましたが、実際には食糧生産は人口以上の伸びを見せており、現在のところ破局とはなっていません。
 ただし、温暖化が進めば熱帯地域で農業生産が打撃を受けると考えられており(口絵14参照)、問題になる可能性があります。

 人口動態に大きな影響を与える可能性があるのが移民です。移民というとアフリカやアジア、ラテンアメリカからヨーロッパやアメリカを目指す移民が思い浮かびますが、実際に多いのは地域内の移民であり、特にアジア内の移民が多くなっています(58p図3−2参照)。
 また、近年では中国からアフリカへと向かい人の動きも目立ちますが、将来的には出生率の高いアフリカから少子高齢化の進むアジアへの移民が進むかもしれません。

 ここまでが第1部、以降の第2部と第3部が「理念編」というべき部分になります。
 第4章では、フランクの『リオリエント』、ポメランツの『大分岐』、アリギの『北京のアダム・スミス』を用いながら、18世紀までは必ずしも西洋の優位が確立していたわけではないことを示し、ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』の決定論的な見方を批判してます。
 ただし、例えば著者は「ダイアモンドの議論には、近年の西洋中心主義の自己批判、あるいは「アジアの再興」といった議論の流れに対して、周到に挑戦する側面があり、その意味で溜飲を下げた読者も世界には多かったのではないだろうか」(83p)と書きますが、本当にそうなのでしょうか?
 著者の議論には「反西洋主義」のバイアスがかかっているようにも思えます。

 第5章ではルソーの『社会契約論』における野生人の話から、移動する人と多文化共生を構想しています。
 多文化主義は9.11テロ以降やや旗色が悪い状況ですが、著者は東京の下町などに見られるさまざまな国籍の人の「よそよそしい共存」という状態に期待を寄せています。EUとは違い、ASEANやAUでは加盟国の内政にそれほど干渉しません。そういった形の共存が可能ではないかというのです。
 
 第6章では今後のアフリカとアジアについて分裂と収斂という2つのシナリオを提示しています。
 まず、分裂のシナリオですが、これはアジアが経済成長する一方で、そのアジアがアフリカの資源を収奪するようなシナリオです。アフリカに対する投機的な投資は地下資源だけではなく、農産物などにも及んでおり、状況をますます悪化させる可能性があります。
 一方、アフリカで人口が増加し人口密度もアジア並みに高まってくる中で、労働成約型の製造業が発展するシナリオも考えられます。これにはアジア諸国がアフリカの人的資源の育成などに力を貸すことが必要です。

 第7章は「汎地域主義の萌芽」として、バンドン会議や汎アジア主義、汎アフリカ主義の思想を振り返っています。
 汎アジア主義としてはタゴール、岡倉覚三(天心)、孫文らが、汎アフリカ主義としてはフランス領マルチニックの詩人エメ・セゼール、タンザニアのニエレレ大統領、アパルトヘイトに反対し30歳で獄死した南アフリカのスティーヴ・ビコの言葉が紹介されています。
 いずれにも西洋流の考えや資本主義に対する道徳的な批判があります。もちろん、植民地支配の歴史などを考えるとこれらの批判は正当なのですが、こうした西洋批判の上に新しい何かが生まれるのかといえば、個人的には疑問です。

 第8章はイスラームについて。もしもアフリカとアジアが結びつく要素があるとすればこれでしょう。北アフリカから中央アジアに広がる一帯はもちろんのこと、イスラームはサブサハラ地域にも東南アジアにも広がっています。特に2050年のムスリム人口の予測を見ると(155p図8−2参照)、サブサハラ地域のムスリム人口は大きく伸び、その存在感も大きくなっています。
 イスラームは「不寛容」だというイメージがあるかもしれませんが、イスラームはアフリカの土着の教えも容認しながら勢力を広げています。そうしたこともあって「アフリカでは宗教を軸とする紛争がまれ」(162p)です。
 
 第9章では「「南」のコミュニケーション」と題して、アジアとアフリカのコミュニケーションを言語面から考察しています。
 著者は「交通の言語」、「理知の言語」、「情愛の言語」という3つの言語を想定しています。他者同士の意思疎通を行う「交通の言語」や学術研究などに使う「理知の言語」においては英語が強く、またいくつかの言語にその可能性がありますが、母語は「情愛の言語」として残るだろうとしています。

 こうした考察を経た上で、著者は終章で次のように述べています。

 アフラシアは、外にも内にも敵をつくらない温和な共同体になれるだろうか。アフリカとアジアに生きる人々を情念によって結びつける根拠があるとしたら、それは歴史的な他者との関係、すなわち西ヨーロッパという異空間の政治権力によって植民地支配を受けた歴史的経験だけである。この広大な空間を束ねる共通の属性は、他には存在しない。エチオピアやリベリア、タイや日本のように、植民地支配を免れた国々もあったが、面として地域を見ると、これらの国々も列強が支配を狙う対象だった。歴史的に日本は、列強の侵略に対する一種の過剰反応として、自ら帝国に化けてしまった。植民地的な関係が繰り返されてはならない。大国が中小国の自由を奪うことがあってはならいない。アフラシアは、「義」による想像の共同体である。(187p)

 個人的にはこの「反西洋」を軸とした連帯は健全なものとは思えませんし、植民地支配の経験をキーにするのであれば、やはり日本はアフラシアから外れるのではないでしょうか。
 いくら地理的なくくりは同じだとはいえ、日本にとって西アジアは遠い存在ですし、アフリカはなおさらです。まさに彼らは「他者」になります。もちろん、「他者」同士の連帯は可能ですが、そこで下手に「反西洋」の理念を持ち出しても、戦前のアジア主義がうまくいかなかったように、アフラシアもうまくいかないのではないでしょうか。
 個人的にアフラシアをまとめる可能性がある理念はイスラームしかないように思えますが、そうなれば、そのアフラシアからおそらく日本や中国などは外れることになるでしょう。

 最初に述べたように、前半の将来予測の部分は面白いと思いますが、後半の理念編の部分には大きな問題があるように思えます。20世紀半ばまでつづいた植民地支配はアフリカやアジアに大きな傷をもたらしたことは確かですが、その傷をテコにした共同体に未来があるとは思えないのです。


布留川正博『奴隷船の世界史』(岩波新書) 7点

 アフリカから1000万人以上の人が連れ去られたとされる奴隷貿易。その奴隷貿易について主に奴隷船にスポットを当てながらその全体像を明らかにしようとした本になります。
 わざわざタイトルに「奴隷船」と付けているので、奴隷船をめぐる細かい情報が紹介されているのかと思いますが、奴隷船がメインにとり上げられているのは第2章のみで、奴隷貿易の始まりから奴隷貿易と奴隷制の廃止に至る過程をバランスよく記述しています。特に奴隷貿易の廃止運動については、その運動をになった人々や運動の過程をかなり詳しくとり上げています。
 
 目次は以下の通り。
第1章 近代世界と奴隷貿易
第2章 奴隷船を動かした者たち
第3章 奴隷貿易廃止への道
第4章 長き道のり―奴隷制廃止から現代へ

 近代以前にも奴隷貿易は存在しました。中世の地中海貿易においてヴェネツィアやジェノヴァの商人はレコンキスタの過程で獲得されたムスリム奴隷を扱っていました。さらにヴェネツィアがコンスタンティノープルを占領すると黒海沿岸からも奴隷が調達され、イスラームのマムルーク軍(イスラーム世界における奴隷身分出身の者で構成された軍)へと送られたりしました。
 大航海時代が始まると、ポルトガルがアフリカで奴隷を獲得し、奴隷貿易に乗り出します。狙いは黄金海岸の金で、金を得るために黄金海岸に奴隷が運ばれました。また、多くの奴隷がポルトガルやスペインにも運ばれています。

 この後、いよいよ大西洋の奴隷貿易が始まるのですが、以前からいったいどれくらいの奴隷が新大陸に運ばれていったのかということは大きな問題でした。
 この問題に挑戦したのがフィリップ・D・カーティンです。彼はさまざまな史料を使い、新大陸に生きて上陸した奴隷(途中で死んだ者は含まない)を、およそ950万人ほどと推計しました(22p表2参照)。
 その後、D・エルティスとD・リチャードソンによる研究で約1070万人という数値が出されました。さらに、大西洋奴隷貿易データベース(TSTD1とTSTD2)が作成され、奴隷貿易1回ごとのデータが集積されました。
 それによるとアフリカから送り出された奴隷は1250万人ほどで(32−33p表6参照)、先程の上陸した奴隷の推計数1070万人と比較すると、航海途中での死亡率は14.5%ほどになります。また奴隷を送り出した数が最も多いのは西中央アフリカで、受け入れ先として最も多かったのはブラジルでした(34p図1−3参照)。

 新大陸で奴隷を必要としたのはスペイン人です。彼らは新大陸の農園や鉱山の労働力として先住民を使っていましたが、ヨーロッパ人が持ち込んださまざまな伝染病と過酷な労働によって先住民な激減します。
 そこでアフリカから奴隷が輸入されることとなったのですが、スペイン人は奴隷貿易自体にはあまりありませんでした。大西洋の奴隷貿易はスペイン王室から「アシエント」という請負契約を交わした外国人商人によって行われることになります。
 当初、このアシエントを獲得したのはポルトガル商人でしたが、17世紀後半以降は、ジェノヴァ商人、オランダ商人、フランスのギニア会社などが獲得し、1713年にアシエント権はユトレヒト条約によってイギリスの手に渡ります。そして、イギリスが大西洋奴隷貿易の中心となっていくのです。

 第2章は奴隷船とその関係者に焦点を合わせています。
 奴隷がびっしりと描かれている奴隷船の図を世界史の教科書や資料集などで見たことがある人もいるでしょう。それは奴隷船ブルックス号の構造図であり、奴隷廃止運動のときに奴隷貿易の非人道性をアピールするものとしてさかんに用いられました。この船は1781年にリヴァプールで建造された船で、この図がつくられるまで実際に4回の奴隷貿易に従事していました。
 奴隷船の大きさは多くは100〜200トンで、それほど大きなものではなく、「移動する監獄」「浮かぶ牢獄」と言われました(64p)。大西洋横断の2ヶ月ほどの間、奴隷たちは1日16時間ほど身動きできずに寝かされて、1日に1回、病気にならないように甲板上でダンスを踊らされました。
 奴隷船には他の船には見られないバリカド(バリケード)と呼ばれる仕切りがあり、これによって男性奴隷と女性奴隷を分け、奴隷叛乱が起きたときにも使われました。また、奴隷船には手枷、足枷、首輪、鞭などの拘束具なども詰め込まれていました。

 奴隷として船に乗せられたアフリカ人はどこから来たのかというと、その多くはアフリカ人の手によってヨーロッパの奴隷商人に引き渡されています。18世紀にベニン湾岸で勢力をもっていたダホメ王国では、奴隷狩りが毎年の王の恒例の行事となっており、そこで得た奴隷がヨーロッパの奴隷商人に売却されました。その過程では、当然殺された者もいると考えられ、奴隷船の船長だったジョン・ニュートンは「売却されるために留保された捕虜は殺された者よりは少ない、と私は思う」(72p)との言葉を残しています。
 奴隷船では奴隷叛乱もたびたび起きましたが(特にガンビア人は奴隷になるのを嫌う危険な存在だったとのこと(79p))、手枷足枷を外して自由になり、乗組員との戦闘に勝って、なおかつ船を自分たちの思う通りに動かすという3つのハードルをクリアーすることは難しく、多くの叛乱は失敗し首謀者が見せしめのために責め苦を負わされました。

 奴隷船には船長と水夫たちがいました。先程紹介したジョン・ニュートンは奴隷船の船長でもあり、また「アメージング・グレース」の作詞者としても知られています(奴隷貿易から足を洗って牧師になった)。このジョン・ニュートンの残した記録を見ると、水夫たちの質の低さ、奴隷の調達の難しさ、そして奴隷叛乱の計画や嵐などのトラブルが合ったことがわかります。
 水夫たちの多くは無知な若者がほとんどで、多くは借金の返済のために奴隷船に乗り込まざる得なくなった者たちでした。また、ベンガル人やアフリカ人の水夫たちもいました。
 水夫たちは排泄物の処理や夜間の奴隷の監視など、大変な仕事を押し付けられていましたが、さらに悲惨なのは船長たちが帰国する船に水夫を乗せたがらなかったことでした。船長たちは目的地が近づくとわざと水夫に対して罰を加えたりして現地で船を降りるように仕向けることもあったそうです。1786−87年にリヴァプールから出航した奴隷船の乗組員3170人のうち、帰還したのはたった45%でした(95p)。
 
 一方、奴隷商人たちは奴隷貿易によって大きな富を得ました。本書には18世紀に奴隷貿易を行ったウィリアム・ダベンポートという人物の取引が紹介されていますが(98p表9参照)、ビーズや真鍮、鉄器などを載せて出航したホーク号は、ビアフラ湾で奴隷を獲得しジャマイカで売りさばくことで、同時に行われた象牙の取引を含めて100%を超える利潤を生み出しています。
 また、当時の船はフランス船を拿捕する権利を与えられており、これも利益をもたらしましたが、逆にフランス船に拿捕されて大きな損失を被ることもありました。そのせいもあって多くの船は何人かの商人の共同出資によって運行されました。
 このようにして富を得た商人たちは土地を買い集め地主となり、子弟をケンブリッジやオックスフォードなどに送り出しました。

 第3章は奴隷貿易の廃止運動を詳しくとり上げています。
 奴隷貿易と奴隷制に対する反対運動は1769年に起きたサマーセット事件から始まります。北米で奴隷として購入されたサマーセットがロンドンで逃亡したことをきっかけに、イングランドで奴隷は認められるか? という問題が沸き起こりました。裁判で奴隷制の禁止は明言されなかったものの、サマーセットが釈放されたこともあって、奴隷制は認められないとする風潮が高まりました。
 さらに1781年にゾング号事件が起こります。これは奴隷船ゾング号で伝染病が発生し、さらなる感染を恐れた船長が奴隷たちを海に投げ込んだというもので(病死ならば船主の損失だが事故死なら保険会社の損失になる)、この事件の裁判をきっかけに奴隷貿易の残酷さが世に知られるようになりました。

 こうした事件を受けてイギリスではアボリショニズム(奴隷制廃止運動)が起こります。1787年にロンドン・アボリション・コミュニティー(ロンドン委員会)がつくられ、まずは奴隷貿易の廃止を目指すことが決まりました。
 この運動を担ったのがクウェイカー教徒です。クウェイカーが17世紀にイギリスで生まれたプロテスタントの一派で、「他人が我々にしてくれることを期待するのと同じことを、他人にしてあげなさい」(121p)という人道主義のもと、奴隷貿易廃止運動を担っていくことになるのです。

 その中で特に大きな役割を果たしたのはウィリアム・ウィルバーフォースです。若くして下院議員となった彼には宗教家として身を立てたいという想いもあったとのことですが、先程名前をあげたジョン・ニュートンの説得もあって奴隷貿易廃止運動の先頭に立ちます。
 ロンドン委員会を中心に奴隷貿易反対の制限キャンペーンが展開されます。この活動にはウェッジウッド社の創設者でもあるジョサイア・ウェッジウッドも関わっており、彼は奴隷貿易廃止のためのメダリオンなどを作成し、運動の大衆化に尽力しました。
 1791年、ウィルバーフォースは奴隷貿易廃止法案を動議にかけ、4時間を超える演説を行いますが、法案は否決されました。

 一度は挫折した奴隷貿易廃止運動ですが、フランスの「黒人友の会」(コンドルセが会長で会員にシエイエスやラファイエットがいた)と連携し、国内では砂糖不買運動をはじめます。この運動では「毎週五ポンド[重量]の砂糖を使う家庭は、21ヶ月その使用をやめれば、アフリカ人奴隷1人の「殺人」を防ぐことができる」(136p)と訴えましたが、この訴えは大きな反響を呼び、ロンドンでは2万5000人がこの運動に参加したといいます。また、この運動をきっかけに奴隷貿易廃止運動が女性の間にも広がりました。
 1792年、ウィルバーフォースは再び奴隷貿易廃止法案を下院に提出します。これに対してヘンリー・ダンダスが奴隷貿易の漸進的廃止を求める法案を出し、下院ではこの法案が可決されます。しかし、上院がこの法案を退け、奴隷貿易廃止運動はしばらく停滞します。

 再び奴隷制廃止運動に火をつけたのが1791年のハイチの奴隷叛乱でした。フランスの植民地のハイチでは3万人ほどの白人に対して43万人以上の奴隷がいる状況でしたが、フランス革命と呼応するように奴隷の蜂起が起こったのです。紆余曲折を経て、1804年に黒人共和国であるハイチが誕生します。
 このハイチ革命をきっかけに再びイギリスの奴隷貿易廃止運動も活性化し、1805年にはウィルバーフォースらによって旧オランダ領ギアナ向けの奴隷輸出が禁止され、1807年に、上院では首相のウィリアム・グレンヴィル、そして下院ではウィルバーフォースの活躍もあって、ついに奴隷貿易廃止法案が可決されたのです。
 
 しかし、奴隷貿易の廃止がイギリスの植民地拡大につながった面もあります。イギリスは奴隷船を拿捕して奴隷を解放しましたが、この解放の地であったシエラ・レオネはイギリスの植民地となっていきます。さらに在英黒人をシエラ・レオネに入植させる計画や、ジャマイカの逃亡奴隷であるマルーンがシエラ・レオネに連れてこられたりします。
 また、イギリス政府の圧力もあって、オランダ、フランス、ポルトガルといった国々も奴隷貿易の廃止に踏み切っていきます。ブラジルでは奴隷に対する需要が強く、なかなか奴隷貿易がなくなりませんでしたが、イギリス海軍のブラジルの領海内でも奴隷船を拿捕するという強硬策もあって、1850年に奴隷貿易は終焉します。
 また、アメリカではアミスタッド号事件の裁判が行われ(奴隷船での奴隷叛乱ををめぐる事件、スピルバーグが映画化した)、弁護団に加わったジョン・クインシー・アダムズの活躍もあって奴隷たちは解放されると同時に、奴隷制反対の世論が強まりました。

 こうして奴隷貿易は19世紀中頃までに廃止されたものの、奴隷制そのものの廃止に関してはさらに時間がかかりました。第4章ではその長き道のりをたどっています。
 1823年にイギリスの植民地のガイアナで奴隷叛乱が起きましたが、植民地当局によって鎮圧され首謀者は死刑や鞭打ち刑に処せられました。さらに、このときに牧師のジョン・スミスも牧師補が首謀者だったことから死刑に処せられたのですが、これがイギリス本国に伝わると奴隷制廃止の機運が高まります。特にこの運動には女性が多く参加し、漸進的な奴隷制廃止ではなく即時の奴隷廃止を訴えました。
 さらに1831年にジャマイカで奴隷叛乱が起こり、その背景にプランターの奴隷に対する残虐な行為があったことが明らかになると、議会改革の流れにも乗って、1833年に奴隷制廃止法が成立します。さらに奴隷と境遇の近い年季奉公人についても廃止が進んでいきます。

 この流れの中、カリブ海地域では1848年までに奴隷制がほぼ廃止されますが、アメリカでは綿花の栽培の拡大に伴って奴隷が必要とされたことから、奴隷制の廃止は南北戦争まで持ち越されましたし、ブラジルでもコーヒー生産のために奴隷が用いられ、奴隷制の廃止は1888年まで持ち越されました。
 奴隷廃止後、その代わりにプランテーションなどで働いたのがインドや中国から連れてこられた年季契約労働者です。彼らは奴隷ではありませんでしたが、その扱いは奴隷に近く、中国からキューバへの移民船の1847〜60年の死亡率は約15%で、奴隷船の死亡率よりも高いものでした(218p)。
 さらに本書は「奴隷制は終わっていない」と書きます。ケビン・ベイルズの2016年の著作『環境破壊と現代奴隷制』によると、世界に存在する奴隷の数は4580万人であり、南アジア地域の債務奴隷を中心に数多くの奴隷的な人々がいるといいます。タイの売春宿やブラジルの炭焼き場、アフリカの児童労働など、現在も奴隷的境遇で働く人は多く、この問題は終わったわけではないのです。

 以上のように、本書は奴隷船だけではなく奴隷制度全般について扱った本となっています。「奴隷船」に期待した人にとっては物足りない面もあるかもしれませんが、奴隷貿易を考える上で入門書的な位置づけとなる本に仕上がっていると思います。特に奴隷貿易や奴隷制の廃止運動に関しては勉強になりました。
 特にイギリスの奴隷貿易廃止運動、奴隷制廃止運動で世論が重要な役割を果たしたことと、現代でもまだ奴隷的境遇の人がいるという事実は重要なことではないでしょうか。

 

中野等『太閤検地』(中公新書) 7点

 日本史において中世と近世を分かつのが織豊政権であり、特に秀吉の行った太閤検地と刀狩に代表される兵農分離政策が大きな意義をもったと考えられています。
 教科書的な知識だと、太閤検地は統一的な尺度を用いて行われ、また枡も京枡に統一され、土地の収穫量が石高で表されるようになった。戦国大名の行った検地の多くが申告制の指出検地であったのに対し、太閤検地は実際に計測された丈量検地であった、さらに検地帳に耕作者が記入されたことによって中世以来の複雑な土地所有の関係が整理され一地一作人の原則が確立した、といったところでしょうか。
 では、この太閤検地は実際にはどのように進められ、どのような影響をもたらしたのか、これが本書の内容となります。本書を読むと太閤検地が長期にわたって試行錯誤を繰り返しながら行われたことがわかりますし、検地と大名の転封が相まって日本独自の近世封建社会が成立していったことが見えてきます。

 目次は以下の通り。
序章 太閤検地と日本近世社会
第1章 織田政権下の羽柴領検地
第2章 「政権」としての基盤整備
第3章 国内統一と検地
第4章 大名領検地の諸相
第5章 「御前帳」「郡図」の調製
第6章 政権下の「在所」と「唐入り」
第7章 文禄検地の諸相
第8章 政権末期の慶長検地
終章 太閤検地の歴史的意義

 まず、本書では「太閤検地」を「豊臣政権期に秀吉あるいは政権中枢が何らかの関与をして実施した土地調査」(5p)として、議論を進めています。 
 秀吉の検地に先行するのが織田信長により検地です。ただし、尾張では検知が行われた形跡がなく、主に新たに服属させた地方で検知が行われています。1577年(天正五年)の越前での検地では、村人すべてを立ち会いで村の領域を確定させ、指出に依拠しつつ場合によっては検地奉行が実検・丈量を行うなど、支配単位たる「村」とそこから取れる年貢である「村高」を確定させる作業が行われています。
 1580年(天正八年)には秀吉によって播磨と但馬の検地が行われており、この検地に基づいて黒田孝高や加藤清正に知行が与えられています。

 その後、いくつかの検地が行われますが、その性格が少し変わってきたと考えられるのは賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を滅ぼしたあとにおこなれた越前での検地からです。増田長盛や伊藤秀盛のもとでかなり厳しい検地が行われたようで、寺領などの没収もあったようです。
 また、このときに「検地の水帳」に記載された者が当該の耕地を「あいさばく」との原則が定められた地域もあり(28p)、土地の権利関係がある程度整理されていったこともうかがわれます。
 ただし、丹羽長秀や前田利家といった僚将・盟友の収める地域に関しては、それぞれ独自の検地が行われたようで、統一的な検地が行われてはいませんでした。

 秀吉の行う検地に対して、1585年(天正13年)の近江では大規模な逃散が起きるなど、在地社会の抵抗も根強くありましたが、この年に秀吉が関白に叙任されると、秀吉の立場は他の諸大名と隔絶したものとなります。
 同年、丹羽長秀が没すると嫡子の長重が越前から若狭に転封となり、越前には堀秀政らが入ります。このころから大名の転封が相次ぎます。このあたりの事情について著者は次のように述べています。

 ここで確認しておくべきは、秀吉自身はいうまでもなく、それを支えた家人たちの多くが土豪や在地の地侍、あるいはさらに下層の出身だったことであり、換言すれば彼らには確固として護るべき父祖伝来の地などもなかったという事実である。こうした存在の家臣たちにとって領地替え・所領替えといった措置も容易に受容しうるものだったと判断される」(47-48p)
 
 さらに所領が石高という数値で示されることになったことが、その賞罰を明確にしました。また、検地によって「打出」と呼ばれる石高の増加が発生することが多いですが、その打出の分を没収するということも行われました(領主にとって石高は変わらないが領地の面積は減る)。

 1587年(天正15年)秀吉は「国郡の境目にあり様については、双方の見解を充分に聞いて決定を下す」(56p)との方針に従わなかった島津氏を討ち、九州を平定します。さらに同年には丹波の検地を行い、公家たちの知行を丹波にまとめていきました。
 さらに佐々成政に与えた肥後で国人一揆が起こると、秀吉はこれを鎮圧させるとともに肥後の検地を行って各郡の石高を確定させ、小西行長と加藤清正に与えました。この肥後国人一揆は刀狩令や海賊停止令を出すきっかけになったとも言われています。

 1589年(天正17年)、東国平定をにらんで美濃一国の検地が行われます。この検地では300歩を基準面積とすること、京枡を用いて計量すること、地種・等級別で想定収量を設定するなど、統一的な基準で行われています。ただし、名請人(耕作者)に関する規定はありません。
 1590年(天正18年)、北条氏が降伏し、伊達氏をはじめとする東北の大名が服属すると、秀吉は奥羽の検地を命じています。このとき秀吉は浅野長吉に対して、検地を受け入れない者は「撫で切り」しても構わないとの書状を出しています。新たな服属地に対する検地は非常に重要なものだったのです。ただし、この奥羽の検知では石高ではなく貫高が用いられるんど、現地の習慣に対する一定の配慮も見られます。
 
 このころになると各大名領でもさかんに検地が行われるようになります。安房の里見氏の例のように秀吉配下の増田長盛が派遣されて行われるようなケースもありましたし、毛利領のように基本的に「私検地」ともいうべき豊臣政権が関わらない検地もありました。
 
 こうした諸大名の検地を踏まえ、秀吉は「御前帳(ごぜんちょう)」と「一郡ごとの絵図」の調製と提出を諸大名に命じます。この「御前帳」は全国統一の基準で調整され、禁中に献納されました。
 島津領のように検地ができず指出の収納量から逆算して石高を算出するようなケースもありましたが、この御前帳の作成を通じて。、京枡の使用がさらに広まり、「郷」という名前が「村」に変わってくるなど、さまざまなものの標準化が進みます。また、私検地の結果であってもそれが御前帳に調整され、禁中に献納されたことで、それは公的な性格を帯びてきます。

 こうした中で、室町時代以来の在地社会のまとまりである「在所」のあり方も変化していきます。秀吉は1590年(天正18年)に在所から「侍」や「浪人」を追い払うように命じています。また、この侍や浪人が商人や職人になった場合でも同様に追い払うように求めています。
 いわゆる「兵農分離」の政策のようにみえますが、著者は塚本学が指摘する「士農分離」という考えが重要だと指摘しています。兵は相変わらず農民からも徴収されましたが、それを率いる武士と兵卒の差がはっきりとしてきたのです。

 1592年(天正20年)、秀吉は朝鮮へ軍勢を差し向けます。九州を中心とする西国の大名が動員されましたが、ここで大名が動員すべき軍勢の数は御前帳に書かれた石高が基になっています。
 さらに「人掃い」が実施されます。これは先程の浪人停止の政策が全国に敷衍したもので、在所の奉公人、百姓を把握しようとするものでした。
 さらに侵略した朝鮮半島でも指出を実施するなど、収納量と人口の把握に努めています。187−188pに書き出された朝鮮半島各道の石高を見る限り、きちんとした調査が行われたわけではないようですが、朝鮮半島の地も石高で表示し、その石高に応じて各大名に知行を与えようとしていたのです。

 文禄の役が一段落したあとも、改易された大友吉統(義統)の領地をはじめとして各地で検地は行われます。このころになると検地のやり方もかなり統一的になり、それとともに打出が生じています。この打出を配下への加増に回すなどして、豊臣政権、そして各大名は支配力を強めていくのです。
 1592年(天正20年)に行われた島津領の検地は石田三成の主導で実施され、36万石の打出に成功します。そして、改めて島津家中の者に配分されるとともに、豊臣氏の蔵入地、石田三成の知行も設定されています(216pの表参照)。島津氏の家中への支配力が強まるとともに、豊臣氏の島津氏への支配力も強まる仕組みでした。
 他にも佐竹領などで同じような検地と豊臣氏の蔵入地の設置などがなされています。

 1598年(慶長3年)に上杉景勝が越後から会津へと転封になると、玉突き的に大名の転封が行われます。越前や加賀でも大名の転封が行われ、越前と南加賀で大規模な検知が行われました。賤ヶ岳の戦い後の越前検地では1反=360歩だったのですが、今回は1反=300歩となるなど、より標準化された方法で行われ、検地後には豊臣家蔵入地が大きく増加しました。しかし、この検地が終わった直後に秀吉が没したことから、これが最後の「太閤検地」となりました。

 終章では先行研究の検討などを行いながら、改めて太閤検地の意義が分析されています。
 まず、よく言われる「一地一作人の原則」により、土地の権利関係が確定したとの考えですが、必ずしも耕作者の登録は徹底されておらず、むしろ村請制が確立する契機となりました。「すなわち、太閤検地は必ずしも農民の土地保有権や経営権の確保などを目論んだものではなく、「村」の立ち上げと「村請制」の始動を期したものと考えるべき」(258p)なのです。
 
 秀吉が関白にまでなると、天皇の権威のもとでの国土の掌握といった性格が強くなり、ときに国郡の境目の確定が重視されるようになります。当時の争いの多くが境目をめぐるものだったからです。
 また、領地が石高という数字で表されるようになったこと、「人掃い」によって武士とそれ以外の者の違いが明確になったことなどによって、大名の転封が容易になりました。結果として、「豊臣政権の末期にいたると、戦国以来の故地にいたのは中国の毛利氏と九州・奥羽などの遠隔地の諸大名に限られてくる」(263p)のです。そのうえで著者は本書を次のように結んでいます。

 むしろ、故地にあり続けた毛利氏などが例外なのであり、原理的にすべての「国土」は天皇あるいは秀吉の手に帰し、以後江戸時代を通じて大名・給人は在地性を否定された「鉢植え」の領主として存在することになる。こうした世界史的にも稀有な「封建制度」を可能にし、それを根本で支えたのが一連の太閤検地と称される政策であった。(263p)
 
 秀吉が主導した、またはその時期に各大名が行った検地について時系列的に多数取り上げているために、やや検地そのものについての大きな流れは捉えにくい面もあるのですが、時系列で論じることによって、上述のような戦国時代の中世的な封建制度が近世的な封建制度へと変化していく様子は見えてくるのではないかと思います。
 太閤検地という政策を知る上ではもちろん、兵農分離や近世の村落といったことを考えていく上でも重要なことを教えてくれる本になっていると言えるでしょう。


梶谷懐・高口康太『幸福な監視国家・中国』(NHK出版新書) 9点

 キャッシュレス社会にシェアエコノミーに信用スコアと、ものすごい勢いでハイテクが普及しつつある中国。その姿はこれからのテクノロジー社会を予見させるようでありつつ、同時に多数の監視カメラや政府によるネット検閲などもあって近未来のディストピアを予見させるようでもあります。
 そんな中国社会をどのように考えればよいのか? という問いに向き合ったのがこの本です。『なぜ、習近平は激怒したのか』(祥伝社新書)、『現代中国経営者列伝』(星海社新書)などの著作があるジャーナリストの高口康太が、誤解も多い現在の中国のテクノロジー社会の状況を紹介し、『「卵と壁」の現代中国論』『日本と中国、「脱近代」の誘惑』『中国経済講義』(中公新書)などの著作がある経済学者の梶谷懐が、功利主義や市民的公共性といった概念を使って中国社会をいかに考えるべきなのかということを分析しています。

 まず現在の中国の監視社会の状況を把握する事ができる本ですし、中国で進行していることが中国という特殊な政治体制にのみ当てはまるものではなく、日本をはじめとする他の国々でもあり得るものだということを明らかにしています。さらに終章でとり上げられている新疆ウイグル自治区ではそのあり方が一線を越えてしまっており、非常に考えされられる内容です。
 中国に興味がある人だけではなく、広く情報社会論に興味がある人(例えばローレンス・レッシグや東浩紀の情報社会論などを面白く読んだ人)にもお薦めできます。

 目次は以下の通り。なお、第1章と第5〜7章を主に梶谷懐が、第2〜4章を主に高口康太が執筆しています。
第1章 中国はユートピアか、ディストピアか
第2章 中国IT企業はいかにデータを支配したか
第3章 中国に出現した「お行儀のいい社会」
第4章 民主化の熱はなぜ消えたのか
第5章 現代中国における「公」と「私」
第6章 幸福な監視国家のゆくえ
第7章 道具的合理性が暴走するとき

 中国では多数の監視カメラが設置され、交通違反者の顔が大スクリーンでさらされるといったシステムがあり、さらには個人を格付けするようなスコアも開発されています。まさにジョージ・オーウェルの『一九八四年』の世界のようですが、実はこのイメージは的確ではないといいます。
 実は個人を格付けする信用スコアは民間企業がやっていることで、政府が一元的に管理しているわけではありません。その他のテクノロジーに関しても利便性の追求のもとで生まれているものが多く、どちらかというとオルダ・ハクスリーの『すばらしい新世界』に近いイメージなのです。

 世界を席巻しているGAFA(Google、Amazon、Facebook、Apple)ですが、中国市場には食い込めていません。もちろん、これには中国の「Great Firewall」とも呼ばれる一種のネット鎖国のようなシステムの存在が大きいですが、第2章ではそれ以外の要因も指摘されています。
 例えば、アリババがAmazonに勝てたのは、「誰から買うか」を重視した「人軸のEC」の仕組みがあったといいます。粗悪品も流通する中国では信頼できる人や店舗を見つけることが重要なのです。
 このEC(電子商取引)の拡大を支えたのがモバイル決済です。現在はこれがネット以外の場所でも使われるようになっていますが、このモバイル決済では、誰がいつ、どこで、どのようにお金を使ったがわかります。そして、このデータはGoogleやFacebookでも収集することが難しいデータです。こうしてアリババやテンセントといった中国のIT企業はデータの面でアメリカのIT企業に対して優位に立つことができたのです。
 また、ウーバーなどに代表されるギグエコノミー(超短期の仕事で1回毎に報酬を受け取るスタイル)でも、中国はもともとそういった生活を送っていた人が多かったこともあって先行しています。そして、ここでもさまざまなデータが収集されていると考えられるのです。

 こうしたことを踏まえて第3章では中国の監視社会と信用スコアなどの実態が語られています。
 中国では行政の電子化が進み、煩雑だった行政手続きはアプリで行えるようになりました。さらに国中に設置された監視カメラは顔認証テクノロジーなどが強化され、中国社会の治安を向上させました。一時期の中国では一人っ子政策の影響もあり、子どもの誘拐が多発していましたが(身代金目的ではないので戻ってこないケースが多い)、監視カメラシステムによって未解決事件は激減しました。さらに殺人事件なども減っていおり、監視カメラは人々に安心をもたらしているとも言えるのです。

 そうした中で日本からも注目を浴びているのが「社会信用システム」です。日本の報道だと中国が国家としてこうしたシステムを構築しているように捉えているものもありますが、実態は少し違います。
 まず、登場したのは金融分野における信用スコアです。お金を貸すには相手が信用できる人物なのかを知る必要があり、例えば日本のサラ金でもお金を借りた情報を共有していました(『ナニワ金融道』に出てきたやつ)。中国ではクレジットヒストリーをもたない人が大量にいたために、彼らの信用度を図るものとしてネットショッピングやモバイル決済の履歴、さらには学歴やネットの人間関係などが利用され、それがスコアという形で点数化されるようになります。
 そして、こうしたものが金融以外の分野にも使われ始めており、その代表がアリババの「芝麻信用」とテンセントの「謄訊征信」です。

 一方で、個人情報を「懲戒」の仕組みとして利用しようというのが「失信被執行人リスト」です。中国では近年さまざまなブラックリストが作成され、2014年にはそれが連結され、一括して検索できるシステムの構築が始まりました。この中で法の執行に従わなかった者などを載せているのが「失信被執行人リスト」です。そして、この賠償金を支払わないなどしてこのリストに載った者には高速鉄道に乗れないなどのペナルティがあるのです。

 さらに中国では地方自治体が独自の信用スコアを導入しようとする動きもあります。個人の道徳をスコア化して人々を望ましい方向へと誘導しようというのです。
 例えば、山東省威海市栄成市では「お墓参りで紙銭を燃やしたり爆竹を鳴らしたりすればマイナス20点」「派手すぎる結婚式はマイナス10点」「栄成市を飛び越えて上級自治体に陳情したらマイナス10点」(96-97p)などと定められており、農民たちの生活習慣や行動を改めようという意図がうかがえます。
 ただし、現時点で有効に稼働している自治体は少なく、あくまでも「紙の上のディストピア」(98p)に留まっているのが現状のようです。しかし、これが単なる「ディストピア」ではなく、リチャード・セイラーとキャス・サンスティーンが主張するリバタリアン・パターナリズムの「ナッジ」の仕組みと近いものであることも押さえておく必要があるでしょう。

 こうしたシステムはネットの普及と重なる形で進化しています。このネットの普及は、一時期中国の民主化をもたらすのではないかと期待されましたが、現在のところその予想は外れたと言っていいでしょう。
 2009年に微博(中国版Twitter)がリリースされ、デモや騒擾事件の様子がまたたく間に拡散されました。2011年の烏坎(うかん)事件では地方政府に対する農民の抗議運動が微博で中継され、それが海外メディアにもとり上げられ、地方政府が譲歩を余儀なくされました。この時期、中国では地方政府の非法をネットなどを使って上級政府に訴えるというやり方が多発します。水戸黄門を待望するような形ではありますが、庶民が声を上げる動きが起こったのです。

 ところが、2012年に習近平が国家主席になると状況は一変します。習近平は「反腐敗キャンペーン」によって共産党の大物を逮捕するとともに、有名ブロガーや人権派弁護士などを次々と逮捕し、世論を萎縮させます。さらにネットの監視員や世論誘導員を増員し、検閲を強化したのです。
 しかもこの検閲は巧妙になっており、単に発言を削除するのではなく、検索されない、リツートできないなど本人も気づかないような形で行われていることもあります。さらにネットの書き込みにも信用スコアを導入しようという動きもあります。一定の点数を下回るとフォローされたりリツイートされなくなるなどの仕組みを通じて自己検閲をさせようというものです。しかも「祖国を熱愛することを栄光とし、祖国に害を与えることを恥とする」といった定型文を書き込むとポイントの回復が早くなるなど(134p)、いかにも共産党っぽい仕組みもあります。
 こうした中で、ネットにおける社会問題に関する書き込みは減少していき、ネットの話題はエンタメ情報などへと移っているのです。

 第5章からは理論的な考察に入っていきます。西洋社会において「市民社会」は、法の下で平等である個人の政治参加と、経済における私的利益の追求が重なる形で発展してきましたが、中国では「公」が正しく「私」は悪であるする儒教的な伝統が根強くあり、国家も市民社会も「天理」に従うことによって正当性を得られるのだという考えがあります。
 こうした中で、市民たちが自ら従うべき規範を定めていく法の支配は確立されにくく、高い徳を持った者による正義の支配ともいうべきものが求められがちなのです。
 中国の右派と左派は日本とは違い、右派がリベラリスト、左派がナショナリストとなります。左派が要求するのは経済的な平等であり、「経済面における「平等化」の要求は、国家権力を制限するのではなく、むしろパターナリズムを容認し、強化させるほうに働きがちです。」(165p)
 ここに市民生活に対する政府の介入を受け入れる余地がありますし、市民社会による政府の「監視」といった働きも期待しにくいです。

 第6章では、功利主義やカーネマンの「心の二重過程論」を手がかりに、監視社会がある意味で「理にかなったもの」であることを示しつつ、分析を進めていきます。
 功利主義は帰結を重視します。ですから、場合によっては自由を制限することも正当化されます。例えば、車に乗るとついあおり運転をしてしまう人間がいるならば、先回りしてその人間には車を貸さない、運転をさせないといったふうにしたほうが、周囲にとってもその人にとってもいいことかもしれません。自由を制限することで「幸福」は増加するのです。
 また、カーネマンは人間の脳内には直観的に判断を下す「システム1」と意識的な判断を下す「システム2」があると想定しています。「システム2」はかなりの注意力を必要とするものであり、人々は多くの場合、直観的に「システム1」に従い、ときに間違います。
 しかし、将来はAIがこの「システム2」の代わりをしてくれるかもしれません。AIによる示唆や判断は人々が間違いを犯す可能性を低下させてくれるでしょう。

 この「心の二重過程論」に関連する議論としてスタノヴィッチの「道具的合理性とメタ的合理性」という考えがあります。「道具的合理性」は目的を達成するために発揮されるもので、「メタ合理性」とは、そもそも目的の正しさなどを問うものです。
 著者はこの考えを用いて、市民社会では市民が議会やNGOなどの「メタ的合理性」を担うシステムをつくり、それが「道具的合理性」を発揮する企業などを規制・監視するという仕組みを考えています。一般の人は「システム1」に従って直観的に生きていますが、議会などを通じて「道具的合理性」の正しさを問うことができるというわけです。
 ところがビッグデータなどの解析によって、巨大IT企業が「システム1」に従って生きる人々からデータを吸い上げて、人々に快適な生活を提供する「アルゴリズム的公共性」(186p)とも言うべきものが生まれようとしています。
 そして、著者はこの「アルゴリズム的公共性」が中国の「天理」と親和的だと考えています。データによって「可視化された人民の意志」(201p)もとに、腐敗を正しつつ、市民の不満の芽を摘み取るような政治が行われる可能性もあるからです。
 そして、これは中国だけの問題ではありません。「市民的公共性」が弱いとされる日本をはじめとするアジア諸国では、この「アルゴリズム的公共性」が肥大化していく可能性が十分にあるのです。

 最後の第7章では新疆ウイグル自治区の状況が語られています。2009年にウルムチで起きた暴動を機に中国政府はウイグル族の民族主義的な動きを「対テロ闘争」として抑え込んでいます。
 新疆ウイグル自治区には「再教育キャンプ」と呼ばれる収容所がつくられ、テロの疑いをかけられた者だけでなく、ビジネスマンや大学教授までも収容され、共産党や習近平への忠誠を誓う言葉を毎日唱えさせられた上に、「職業訓練」という名で単純労働に従事させられているのです。
 さらに地方政府の役人がテュルク系住民の家庭に滞在したり、住民のスマホにスパイウェアのインストールを義務付けるということも行っています。さらに住民からのDNAの採取、話し声や歩き方などの生体情報の収集も行われており、まさにディストピアが出現しているのです。

 では、こうした監視社会にどう対峙すればいいのか?
 第3章では、大屋雄裕の議論が紹介されています。大屋は考えられる将来像として、私企業のアーキテクチャによって個人の行動が制限され政府によるコントロールが及ばなくなる「新しい中世の自由主義」、一部のエリートや彼らに選ばれた公権力がデータを集中的に管理する「総督府功利主義のリベラリズム」、市民もエリートも政府もお互いがお互いを監視し合う「ハイパー・パノプティコン」の3つを提示しています。
 しかし、中国のような権威主義体制では「ハイパー・パノプティコン」は機能しがたいでしょう。そんな中で、著者は王力雄の『セレモニー』という小説を紹介しながら、独裁者にもテクノロジーが見渡せなくなり、ある種の相互監視が生まれるような可能性を示唆しています。

 このように本書は中国の実情を紹介するだけではなく、日本、そして全世界がこれから直面する問題を示しています。
 日本でも導入当初こそ監視カメラは気持ち悪く思われましたが、数々の事件解決に寄与する中で、犯罪防止のために監視カメラを設置しようという考えは当たり前になっています。交通違反者をモニターに大写しにすることには抵抗を覚えても、あおり運転の車を自動的に割り出して、免許の点数を差し引くようなシステムなどがあれば歓迎する日本人も多いでしょう。本書を読むと、中国が「異なる世界」ではなく「地続きの世界」であることがわかります。欧米のような市民的公共性が弱い日本では監視テクノロジーに対するブレーキも弱いかもしれません(ただし、個人的には日本人の一般的な他者に対する不信、政府に対する不信がブレーキになると思う。羅芝賢『番号を創る権力』で指摘されているように日本での総背番号制は何度も挫折しており、特に政府によるビッグデータの把握は相当遅れるのでは)。
 最初にも述べたように、中国に興味がある人だけでなく、これからの情報社会を考える上でも広く読まれるべき本でしょう。

 

白戸圭一『アフリカを見る アフリカから見る』(ちくま新書) 7点

 新聞記者としてアフリカに駐在し、現在は大学教授となっている著者が、Webメディアの「朝日新聞GLOBE+」に書いたエッセイなどを中心に構成された本。巻末には『平和構築入門』、『ほんとうの憲法』(ともにちくま新書)などで知られる篠田英朗との長めの対談も掲載されています。
 アフリカの現状を紹介しているエッセイも多いですが、それとともにポイントとなっているのが、タイトルにもある「アフリカから見る」という部分で、アフリカから国際情勢などを読み解くことによって、現在の日本が置かれている立場などがわかるようになっています。

 目次は以下の通り。
1 アフリカを見る アフリカから見る
 第1章 発展するアフリカ
 第2章 アフリカはどこへ行くのか
 第3章 世界政治/経済の舞台として
 第4章 アフリカから見える日本
2 アフリカに潜む日本の国益とチャンス(篠田英朗との対談)

 21世紀になり、資源価格の上昇もあってアフリカ経済は発展しました。今後の経済成長に関しては不透明な面もありますが、人口の増加などにより今後アフリカの国々のプレゼンスが大きくなってくることは確実です。2100年には人口上位10カ国のうち5カ国がサブサハラのアフリカ(ナイジェリア、コンゴ民主共和国、タンザニア、エチオピア、ウガンダ)になるという予想となっており、2100年には人類の3人に1人はサブサハラの住民になるというのです。
 一方、アフリカの農業の生産性は低く、アフリカ全体の1ヘクタールあたりの穀物生産量は約1.6トンと、日本や中国の約6トンに比べると大きく見劣ります。
 このようにアフリカには問題とともにビジネスチャンスもありますが、アフリカにおける日本の存在感は薄いです。アメリカのロサンゼルスの日本総領事館の管轄下だけで約9万6000人の日本人がいるといいますが、アフリカ54カ国にいる日本人の合計は7591人にすぎないのです(20p)。

 本書では発展するアフリカ諸国の例としてエチオピアを紹介し(2016年、エチオピアのGDPはナイジェリア、南アフリカ、アンゴラに次ぐ第4位になった。ただし2017年に通貨切り下げがありケニアに抜き返された)、また、近年アフリカへの投資を積極的に行っている中国のプレゼンスについて触れています。
 日本では比較的中国の進出によるマイナス要素が伝わりがちですが(「雇用や資源を奪っている」など)、現地の人びとの中国に対する印象は悪くなく、不満があるのは「安いが壊れやすい中国製品」についてです。日本で広がっている話の裏には「「中国はアフリカで嫌われていてほしい」という日本人の願望」(98p)があるのではないかと著者は見ています。

 一方の日本は、アフリカへの投資に及び腰です。例えば、エボラ出血熱が西アフリカで流行すると、日本ではアフリカ大陸全体への渡航を自粛する動きが起こりました。西アフリカと南アやエチオピアは5000キロ近く離れており、ネパールで感染症が流行した時に日本への渡航を自粛するのと同じようなものです(39−40p)。
 また、日本では「インフラも金融機関もないアフリカでどんなビジネスができるのか?」という声も根強くありますが、固定電話や銀行はなくても、携帯電話やモバイルマネーサービスがそれを代替しつつあります(120−124p)。アフリカにはアフリカなりのビジネスチャンスがあるのです。

 ただし、やはりまだアフリカは多くの問題も抱えています。第2章の「アフリカはどこへ行くのか」では、そうした問題がとり上げられてます。
 まずは著者がミャンマーに行ったときの経験が語られていますが、著者は畦があり稲が直線的に並んでいる(正条植え)ミャンマーの水田を見て感銘を受けたといいます。日本では当たり前ですが、アフリカでは畦もなく正条植えもされていないことが一般的なのです。ただ、だからこそまだまだ食糧増産の余地があるとも言えます。

 また、政治の不安定性も大きな問題です。ここではコートジボワールとケニアがとり上げられています。
 コートジボワールは60年の独立から80年にかけて高い経済成長率を誇りましたが、大統領の座を巡る対立の中でナショナリズムが台頭し、それが社会を不安定化させます。もともとこの地域の国境はフランスが勝手に決めたものですが、コートジボワール生まれを意味する「イボワリアン」というグループの優越を主張するものが現れ、それが内戦につながりました。
 ケニアでは2007年の大統領選のあと、結果に不満を持つ集団による暴力行為が行われました。その担い手は角材や斧などで武装した一般市民であり、武装勢力などではありません。ルワンダでもそうでしたが、アフリカでは一般市民が集団的な暴力の担い手となることが多いです。もともと集団になると「集団極性化」といって行動がエスカレートすることが多いのですが、警察力の弱さがこうした行動にブレーキを掛けられない要因ともなっています。

 さらに第4章では南アフリカで頻発する外国人への襲撃をとり上げています。暴力の担い手は黒人ですが、ターゲットは白人やアジア系ではなく、モザンビークやジンバブエなどからやってきた外国人労働者です。
 雇用側にとって、権利意識が強い南アの黒人よりも外国人労働者のほうが使い勝手の良い存在であり、そのために南アの黒人の失業率は高く、その不満が外国人労働者へと向けられているのです。このあたりは今後日本が直面するかもしれない問題でもあります。

 では、こうしたアフリカに日本が関わるべき理由は何でしょうか?
 1つは国連中心の外交を行おうとした場合にアフリカが決定的に重要だからです。2004〜05年にかけて国連の安保理改革が叫ばれ、常任理事国入りを目指す日本・ドイツ・インド・ブラジルのG4が熱心に活動を行いました。
 このときに鍵を握ったのがアフリカの動向です。日本はアフリカから2カ国の常任理事国を出すという案、ただし日本をはじめとする新しい常任理事国は拒否権をしばらく凍結するという内容でアフリカ諸国の取りまとめをはかります。AU(アフリカ連合)の議長であったナイジェリアのオバサンジョ大統領に働きかけ、2005年のAU首脳会議でアフリカを一本化しようとします。
 しかし、ここで猛烈な反対を行って会議をひっくり返したのがジンバブエのムガベ大統領でした。そして、その裏には中国の働きかけがあったといいます(会議の9日前にムガベ大統領は中国を訪問し経済協力文書に署名している)。
 
 また、PKOなどの活動に関わろうとするのであれば、アフリカに関わらざるを得ない状況です。最後の対談で篠田英朗も指摘していますが、「21世紀になってからできたPKOオペレーションはほほぼ全てアフリカ」(195p)であり、日本がPKOによる国際貢献を行おうとすれば、その舞台はアフリカにしかないのです。
 しかし、日本の自衛隊は南スーダンから撤退してしまいました。南スーダンはアフリカの中で特に危険なオペレーションというわけではなく、中央アフリカやマリでの活動に比べれば、その危険性は小さいにも関わらずです(201p)。
 著者は、90年代後半以降、ルワンダの虐殺事件などを受けてPKOの性格が変わってきているにも関わらず、日本が四半世紀前に決めたPKOの「参加5原則」に固執していることが問題だと言います。「日本の国連PKOへの参加は、派遣されている自衛隊員の練度や規律の正しさでは世界最高水準にあるものの、制度設計の点では国連の基準からも世界の紛争の現実からも遠くかけ離れている」(154p)のです。

 この問題は篠田英朗との対談で、北岡伸一の言う「右の鎖国」と「左の鎖国」の問題に絡めてとり上げられています。「右の鎖国」とは、「日本すごい!」といって日本に閉じこもる右派であり、「左の鎖国」とは憲法9条を金科玉条としてPKOなどの危険な任務に反対する左派のことです。この2つの「鎖国」的態度のもと、PKOなどに関する議論が進まず、結果的には平和構築などで日本は存在感を示すことができていないというのが二人の見立てになります。
 こうした考えに反論がある人もいるでしょうが、比較的現場に近い人の考えとして読み応えのある対談となっていると思います。

 この他にも、アフリカから見ると北朝鮮は意外に孤立していなということをレポートした第3章の「北朝鮮は本当に孤立しているのか?」、日本の「英語公用語論」に疑問を呈した第3章のコラム「英語礼賛は何をもたらすのか」が面白かったです。
 北朝鮮は日本の報道を見ていると「世界の孤児」のようにも見えますが、コンゴ共和国には2012年まで北朝鮮が建設した武器工場があり、ウガンダは北朝鮮との間でウガンダの警察官を北朝鮮が訓練をする取り決めを結んでいました。2014年に国連で採択された北朝鮮の人権状況を非難する決議でもアフリカ54カ国の半分以上の29カ国が反対・棄権・欠席に回っており、少なくともアフリカには北朝鮮に対する厳しい包囲網のようなもはないのです。
 
 また、英語に関しては、著者は企業が英語を重視することや英語教育の充実には賛成だとしながら、英語公用語化には反対だと言います。アフリカ諸国では英語やフランス語が公用語になっており、高等教育を受けた人は流暢な英語やフランス語を話しますが、地方に行くと現地語しか通じない地域も多いです。こうなると国民は2つの層に分断されていきます。
 
 もともと存在した現地諸語に英語を公用語として加えた言語環境は、英語を操る少数の知識層・富裕層・権力者層と、英語を解さず社会の意思決定過程から疎外された圧倒的多数の人々との格差を広げる方向に作用することはあっても、その逆ではなかったのである。(130p)

 もともとがWeb媒体のエッセイということもあって、一つ一つのトピックに関する掘り下げはそれほど深くはないですが、そのトピックの着眼点に関しては非常に面白いと思います。
 タイトルからすると「アフリカを見る」という点に関してはもう少し掘り下げてほしいという点もあるのですが、「アフリカから見る」という点に関しては非常に面白くオリジナリティのある内容になっているのではないかと思います。アフリカだけでなく、広く国際政治や国際協力について興味のある人におすすめできる内容と言えるでしょう。


大木毅『独ソ戦』(岩波新書) 9点

 第二次世界大戦の帰趨を決めたのは、日米の太平洋での戦いでもノルマンディー上陸作戦でもなく独ソ戦であったことは多くの人が認識していることだと思います。
 だからこそ、独ソ戦に関してはよく「歴史のif」が語られます。例えば、小説ではありますがスティーヴ・エリクソンの『黒い時計の旅』では、ヒトラーが対ソ戦を決断しないことでナチ・ドイツがヨーロッパを制圧している世界が描かれていましたし、作戦面に関しても、「ドイツが冬季の作戦にもっと慎重だったら…」とか「ヒトラーが作戦に介入しなければ…」といったような事が言われ、「第二次世界大戦においてドイツの勝った世界」という想像を刺激されるのです。
 ところが、この本を読むと、ドイツにとって対ソ戦はヒトラーのきまぐれではなく必然であることがわかりますし、ドイツ敗北の理由も、ヒトラーの介入や冬の厳しさといった部分ではなく、もっと根本的なところにあることが見えてきます。
 また、著者は防衛研究所講師や陸上自衛隊幹部学校講師なども務めた人物で軍事面の記述は当然ながら充実しているわけですが、248ページというテーマにしてはコンパクトな紙幅のなかに、軍事面にとどまらない独ソ戦の側面を盛り込んでおり、非常に読み応えのある内容となっています。

 目次は以下の通り。
第一章 偽りの握手から激突へ
第二章 敗北に向かう勝利
第三章 絶滅戦争
第四章 潮流の逆転
第五章 理性なき絶対戦争

 1941年5月、スターリンのもとには日本にいたゾルゲをはじめとしてさまざまなルートからドイツの侵攻が近いという情報が寄せられていましたが、スターリンはイギリスが独ソの仲を裂こうとしている謀略だと考え、ドイツに対する備えを固めませんでした。また、1937年から始まった大粛清によって軍の将校たちの多くが処刑されており、ソ連軍の弱体化は隠しようがない状況でした。
 一方、ヒトラーは1940年の後半に徐々に対ソ戦の決意を固めていったと考えられています。もともと東欧からロシアにかけてドイツの「生存圏」を確保すべきだと考えていたヒトラーは、英本土制圧の行き詰まりもあり、ソ連を屈服させることでイギリスの抗戦意思をくじこうとしたのです。
 1940年の12月18日にヒトラーから対ソ戦実行の指令が下りますが、国防軍もハルダー陸軍参謀総長のもとルーマニアの油田を確保するために対ソ戦の覚悟を固めていました。

 ヒトラーはソ連を一撃で屈服させる作戦を望みましたが、陸軍が立案した作戦もかなり楽観的なものでした。陸軍のマルクス・プランではソ連侵攻作戦は「全部で9ないし17週で完遂されるとみていた」(25p)のです。
 最終的に北方軍集団、中央軍集団、南方軍集団の3つの軍集団による「バルバロッサ」作戦が決まりますが、ヒトラーだけでなく国防軍もソ連軍を過小評価しており、非常に甘い見立てとなっていました。

 第2章は「敗北に向かう勝利」と題されていますが、この部分は読みどころの一つだと思います。
 ドイツは緒戦で圧倒的な勝利を収め、中央軍集団は開戦1週間でソ連領内400キロの地点にまで進撃しています。ヒトラーだけでなく、ハルダーも「ロシア戦役は二週間のうちに勝利した」(38p)と豪語しました。
 一方、ソ連は無謀な反撃によってかえって傷口を広げていきました。指揮官の能力、兵站、通信などに劣っていたソ連軍にはドイツに反撃する力はなく、ドイツ中央軍と対峙したソ連西正面軍は62万5000の兵力のうち、20日も経たないうちに41万以上の戦死者、戦傷者、捕虜を出したのです。

 このドイツの快進撃を可能にしたは作戦は「電撃戦」という言葉で知られています。ただし、「電撃戦」という言葉はのちに使われるようになった言葉で軍事用語ではありません。第一次世界大戦中に完成された「浸透戦術」の考えをもとに、戦車や航空機を用いて大規模に行ったのでが「電撃戦」と呼ばれる作戦様態です。
 突進部隊によって相手の通信・補給能力を寸断し、後続部隊が弱体化した敵を殲滅するこの作戦はフランスにおいて大きな戦果をあげました。
 しかし、ロシアでは思うようにはいきませんでした。ロシア軍は補給路を絶たれてもしぶとく抵抗しましたし、「電撃戦」を可能にする道路状況も非常に劣悪で進軍のスピードは鈍っていきました。

 6月下旬のミンスク包囲戦ではドイツは33万人余のソ連軍捕虜を得ますが、戦闘能力を持った部隊の脱出を許し、無視できない損害を得ました。頼みの装甲部隊に関しても、稼働できない戦車が増え、その攻撃力と機動力はダメージを受けていました。
 7月のスモレンスクの戦いでも、ドイツ軍は個々の戦いで勝利を収めスモレンスクを占領するわけですが、ソ連主力の包囲殲滅に失敗し、大きな損害を被りました。オーストラリアの研究者デイヴィッド・ストーエルは「ドイツが「バルバロッサ」作戦に失敗したのは、大戦闘で惨敗したことによるものでもなければ、ソ連軍の善戦ゆえというわけでもない。彼らは、戦争に勝つ能力を失うことによって失敗したのである」(59p)と述べています。ストーエルによれば、41年8月の時点で「ドイツはもう対ソ戦の敗北を運命づけられていた」(61p)のです。

 このように当初のプランが揺らぐなか、ドイツではヒトラーと国防軍の間で考えの違いが表面化します。国防軍がモスクワの早期攻略を主張したのに対して、ヒトラーはコーカサスの油田地域への進撃やレニングラードの孤立化などを主張したのです。
 モスクワ進撃を主張する国防軍の移行を押し切って、ヒトラーはキエフでのソ連軍の包囲殲滅を目指します。このキエフ会戦の戦果は飛び抜けたものでソ連の4個軍を壊滅させましたが、ハルダーを始めとする国防軍のメンバーは、戦後になってこれは時間の浪費だったと主張しています。これによってモスクワへの進撃が遅れ、ドイツはモスクワ攻略に失敗したというのです。
 ただし、近年の研究によれば補給などの問題により当時のドイツ軍にモスクワへの迅速な進撃は不可能であり、また、モスクワを攻略がソ連に致命的なダメージを与えたのかというと、それも確かではありません。
 そして、ちょうどモスクワ攻略が失敗に終わった頃、日本の真珠湾攻撃とともにドイツはアメリカに対して宣戦布告を行います。

 第3章では個々の戦闘から一旦離れて、独ソ戦の性格が検討されています。独ソ戦には「通常戦争」「世界観戦争」「収奪戦争」という3つの性格があり、徐々に「通常戦争」の面が後景へと退き、「世界観戦争」「収奪戦争」の色彩が濃くなっていくのです。
 ヒトラーの構想によれば、まずはヨーロッパ大陸においてソ連を打倒して東方植民地帝国をつくり、その上で世界の覇権をかけてアメリカ(+イギリス)との戦争が行われることになっていました。つまり、独ソ戦はヒトラーの「プログラム」を実現するためには不可欠なものだったのです。

 一方、独ソ戦は経済面から必要とされました。ヒトラーは第一次世界大戦において国民に負担をかけた結果、革命が起こって敗北したという「1918年のトラウマ」の影響からか、軍備拡張とともに国民の生活水準の維持を求めました。 
 しかし、この政策により資源も労働力も不足してきます。こうした事態に対しては、軍拡の抑制、または日本でも行われた厳し経済統制と国民の勤労動員の強化という方策が考えられますが、ドイツが選んだのは「他国の併合による資源や外貨の獲得、占領した国の住民の強制労働により、ドイツ国民に負担をかけないかたちで軍拡経済を維持」(88p)するというやり方でした。戦争は内政面からも要請されていたのです。
 ドイツの食料供給の責任者であったヘルベルト・バッケは「戦争三年目に、国防軍全体がロシアからの食料によって養われるようになった場合にのみ、本大戦は継続し得る」(95p)と述べています。

 このようにドイツの戦争目的の一つが収奪であったことから占領地域では厳しい収奪が行われたわけですが、さらに東部戦争ではナチのイデオロギーが前面に出た「世界観戦争」=「絶滅戦争」となったことから、占領は過酷、さらには不合理なものとなっていきます。
 ラインハルト・ハイドリヒのもとに「出動部隊(アインザッツグルッペ)」が編成され、占領地域でユダヤ人の虐殺を行っていきました。この出動部隊の行動は国防軍によっても支援されており、国防軍も無関係だったわけではありません。
 さらにソ連兵の捕虜に関しても、各部隊の政治委員は殺害の対象とされ、ユダヤ人将校も殺されていきました。その他のソ連兵に関しても「世界観」に基づいて過酷な取り扱いがなされ、570万のソ連兵捕虜のうち300万名が死亡したといわれています。
 さらに東方での占領地域の拡大は、ユダヤ人を大量に抱え込むことにもつながりました。マダガスカルなどへのユダヤ人追放政策が挫折すると、各地に絶滅収容所が建設されていきました。

 こうしたドイツの動きに対して、スターリンは対独戦を「大祖国戦争」と名付け、ナショナリズムを利用することで戦争を勝ち抜こうとしました。
 また、ドイツがソ連の残存部隊を掃討するために住民を人質にしたり、ソ連兵をその場で射殺したりしたことが、パルチザン運動に火をつけました。こうした憎しみとナショナリズムの高揚はドイツ兵の捕虜への虐待を生み、多くのドイツ兵捕虜が命を落とすことになります。

 第4章で描かれるのがスターリングラードの興亡を中心とした戦局の転換です。
 41年12月〜42年1月にかけてのソ連軍の連続攻勢に対して、ヒトラーは現在地を死守せよとの命令を出し、退却を禁じました。国防軍の幹部はこれに反発しますが、ヒトラーは彼らを次々と解任し、ヒトラー自らが陸軍総司令官の地位に就きます。ソ連の攻勢は準備不足により失敗しますが、ヒトラーは死守命令のおかげだと考え、作戦への介入をさらに強めます。
 42年の春、ヒトラーはモスクワ攻略を訴える国防軍の意見を退けて、コーカサスの石油を狙う作戦を推し進めます。
 
 こうして立案された「青号」作戦は、黒海沿岸沿いに進軍しコーカサスを狙う作戦でしたが、ここが突出するとその側面が狙われやすくなります(133pの地図参照)。そこで、ドン川流域のソ連軍を殲滅し、スターリングラードを火砲の射程圏内に収め、ソ連軍の水運を絶つ作戦が立案されました。
 一方のスターリンは、ドイツの目標はモスクワであると決め込んでおり、42年6月28日に始まった「青号」作戦は奇襲の形となり、緒戦はドイツが勝利を収めます。

 この勝利の報を聞いたヒトラーは軍を2つに分け、コーカサス占領とスターリングラードへの進撃の2つの目標を設定します。しかも、スターリングラードは無力化するだけでなく占領するものとされました。
 8月、ドイツ軍はコーカサスのマイコープ油田を占領しますが、設備は徹底的に破壊されており、油田が再稼働したのは戦後の1947年になってからでした。ヒトラーはA軍集団司令官のリスト元帥を解任すると、自らその地位に就き、さらにハルダー陸軍参謀総長も解任します。
 一方、スターリングラードに向かった部隊はソ連の頑強な抵抗にあい、市街戦へと突入していきます。9月にはスターリングラードの80%を占領しますが、ヒトラーは完全占領にこだわります。ドイツはスターリングラード攻略のために戦力を集中しますが、その両翼は非常にもろくなっていました。

 11月19日、ソ連軍の反撃が始まります。ソ連軍はスターリングラード攻略にあたっていたドイツの第6軍の包囲殲滅を目指しますが、この作戦は他の地域での攻勢とも連携したもので、連続的なものでした。本書ではこうしたソ連の行動を「作戦術」という用語で説明しています。
 作戦術とは戦略と戦術の間にあって、「戦線方面に「作戦」、あるいは「戦役」を、相互に連関するように配していく」(153p)もので、ソ連の軍人たちが研究していた用兵思想でした。
 第6軍が包囲されると、ヒトラーは救援のためにマンシュタイン元帥を派遣します。マンシュタインの救援部隊は第6軍に近づきますが、ヒトラーが現地の死守を命じていたこともあり、内側から包囲を突破することはできませんでした。1月31日、第6軍が降伏します。
 
 その後、マンシュタインの反撃と泥濘期の到来によって一時期戦線は膠着します。その後、ドイツは新型戦車などを投入して「城塞」作戦を行います、局地的にドイツ有利に進んだ戦いでしたが、43年7月10日に連合軍がシチリア島に上陸したという知らせを聞いたヒトラーは作戦の中止を決断します。
 その後は、物量で勝るソ連軍がドイツ軍を圧迫し続けました。ヒトラーは変わらず死守命令にこだわりましたが、この命令はいたずらに損害を増やしただけでした。
 9月14日、ついにドイツ軍の南方軍集団の退却が始まります。マンシュタインは撤退を指揮するとともに徹底的な「焦土作戦」を行い、人びとや家畜も根こそぎ連れ去りました。その後もマンシュタインは部隊を撤退させつつ戦力を温存しようとしましたが、占領地域の維持にこだわったヒトラーと対立し、44年3月31日にマンシュタインは解任されます。これより以前、日本やイタリアが独ソの講和を望みますが、「世界観戦争」を戦っているヒトラーに講和の考えはありませんでした。

 一方、戦後を睨んでスターリンはドイツに対する攻勢を強めます。44年6月22日、ソ連軍による大規模な攻勢である「バグラチオン」作戦が行われ、ドイツの中央軍集団が大敗し、ソ連軍はワルシャワに迫ります。
 もはやドイツの敗北は明らかでしたが、ヒトラーは「世界観戦争」を戦い抜くつもりでしたし、収奪によって豊かな生活を享受していた国民からも戦争を止める動きは起こりませんでした。
 45年1月にドイツ本土侵攻作戦が始まると、4月26日にはソ連軍はベルリンに突入します。そしてヒトラーが4月30日に自殺し、5月2日にドイツは降伏するのです。
 こうした中、ソ連軍はドイツの各地で略奪や暴行を繰り返し、ドイツ人の集団自決も起こりました。また、東欧のドイツ系住民は追放され、その中でも多くの犠牲者が出ました。

 このように本書は、最近の研究によって明らかになった独ソ戦の戦闘の実態を明らかにしつつ、「通常戦争」「収奪戦争」「世界観戦争」という3つの性格の重なりとして独ソ戦全体の姿を描き出しています。「質のドイツ軍」VS「量のソ連軍」といった形で理解されがちな独ソ戦のイメージを塗り替えつつ、独ソ戦で行われた蛮行の背景を説明することにも成功しています。
 もちろん、ここには書かれていないことも数多くありますが、巻末の文献解題も充実しており、独ソ戦を理解するための最初の1冊としても良い本ですし、第二次世界大戦を考える上でも非常に有益な本だと思います。

 

小熊英二『日本社会のしくみ』(講談社現代新書) 8点

 この本の刊行が予告されたときは「小熊英二が「日本社会のしくみ」などという間口の広すぎる本を書いたら一体何ページになるんだ?」などと思いましたが(実際の本は601pでした)、実際に手にとって見てみたら、「日本的雇用の形成と展開」とも題すべき、かなり焦点を絞った本でした。
 ただ、それでも読む前は「濱口桂一郎の一連の仕事をまとめた感じか?」と思いましたし、序章を読んだときには「筒井淳也『仕事と家族』(中公新書)と同じく「濱口桂一郎+エスピン−アンデルセンか?」とも思ったのですが、読み進めていくうちに、まさに総合的な形で「日本的雇用の形成と展開」を描き出そうとする野心作であることがわかりました。

 もちろん、濱口桂一郎『日本の雇用と中高年』(ちくま新書)、『若者と労働』(中公新書ラクレ)などの一連の仕事や、菅山真次『「就社」社会の誕生』、ドーア『イギリスの工場・日本の工場』、アベグレン『日本の経営』、本田雪『若者と仕事』、金子良事『日本の賃金を歴史から考える』、神林龍『正規の世界・非正規の世界』といった元ネタはあるわけで、この本に何か抜群のオリジナリティがあるわけではないのですが、とにかく目配せの広さが尋常ではなく、「日本的雇用」についてある程度知っているつもりの人でもいろいろな発見があると思います。
 さらに「日本的雇用」への官僚制の影響を明らかにするために、清水唯一朗の『近代日本の官僚』をはじめとする一連の仕事や大森彌や稲継裕昭などの仕事も引いていたり、高度成長期の日本の農業の変化について斉藤淳『自民党長期政権の政治経済学』を引いてくるなど、「日本的雇用」という企業の制度と外部のシステムの噛み合わせを意識しながら叙述がなされており、その部分からも新たな発見があると思います。
 
 目次は以下の通り。
第1章 日本社会の「3つの生き方」
第2章 日本の働き方、世界の働き方
第3章 歴史のはたらき
第4章 「日本型雇用」の起源
第5章 慣行の形成
第6章 民主化と「社員の平等」
第7章 高度成長と「学歴」
第8章 「一億総中流」から「新たな二重構造」へ
終章 「社会のしくみ」と「正義」のありか

 まず、この本では日本社会における暮らしのあり方を「大企業型」、「地元型」、「残余型」の3つに分類しています。「大企業型」は大企業や官庁に雇われ、「正社員・終身雇用」の人生を送る人とその家族。「地元型」は地元から離れずに農業、自営業、地方公務員、地場産業、建設業などに就く人々とその家族。「残余型」は「大企業型」のような安定した雇用に就いているわけではないが地元にも足場がないタイプそその家族です。
 それぞれどのくらいの比率で存在するかを測定するのは難しいですが、著者は様々な統計や研究から、「大企業型」が26%、「地元型」が36%、「残余型」が38%と推測しています。
 収入が高いのは「大企業型」ですが、「地元型」は家の相続や地域のネットワークの存在によって、ある程度の経済格差を補うことができます。しかし、「残余型」にはそうした地域の支えはないため、「残余型」の増大は経済格差の顕在化につながります。

 ここから「大企業型」が減少し、非正規雇用の増大とともに「残余型」が増えていることを問題にするのかと思いますが、著者が指摘するのは「大企業型」の意外な安定性です。神林龍『正規の世界・非正規の世界』でも指摘されていたように、正社員の数はあまり減っておらず、非正規雇用の増大は自営業者と家族従業員の減少によって支えられているのです。
 この正社員の安定性というのは実は新卒市場からも見て取れます。90年代後半〜00年代にかけて「就職氷河期」とよばれる時期が出現しましたが、90年代の大卒就職者数はほぼ35万人で安定しています。90年代の就職率の低迷は、企業が採用を絞ったというよりも、むしろこの時期に「団塊ジュニア世代」という世代人口の多い世代が就職することになったという要因が大きいのです(高卒の就職者数は明らかに減っている)。

 実はこのことは政府も予測しており、1985年の経済企画庁の報告書には、「59年[1984年]の就職者数に比べて11%増の採用を12年間続けなければ、新卒者を吸収できない」、「結局のところ、内部労働市場に参入できない団塊二世たちのかなりの部分がアルバイト等外部労働市場での労働を余儀なくされるのではないだろうか」(58p)と述べています。もちろん、実際には不況がこれに追い打ちをかけるわけですが、人口動態的に就職難は予測されていたのです。

 著者は日本社会の基本単位として「カイシャ(職域)」と「ムラ(地域)」という2つのものをあげており、それぞれ「カイシャ」に帰属意識を持つのが「大企業型」、「ムラ」に帰属意識を持つのが「地元型」であり、「残余型」はそういった帰属意識を持てないタイプになります。
 「ムラ」はともかく「カイシャ」に強い帰属意識を持つというのが日本社会の1つの特徴で、日本とイギリスの工場を調査したドーアは、イギリスのEE社のブラッドフォード工場の鋳造工に、どんな仕事をしているか尋ねたら、おそらく鋳造工→ブラッドフォード→EE社の順に答えるだろうが、日立市の日立製作所の従業員に尋ねれば、日立の社員→工場の名前→鋳造工の順に答えるだろうと述べています(87p)。 
 こうした強い帰属意識をもたせる大企業の雇用慣行が日本社会の一定の部分を形作っているのです。

 一方、欧米の企業は日本とは違った構造になっています。欧米の企業は一般的に上級職員(アメリカでは「エグゼンプト」、フランスでは「カードル」)、下級職員、現場労働者の三層構造になっています。
 上級職員は大卒またはMBAなどを所得しており猛烈に働きます。下級職員は専門学校や2年制のカレッジ、近年では4大を卒業しており、命じられた定型的な職務を行っています。現場労働者は近年では高卒が多く、日給や週給で働いています。
 欧米との比較ではこの層の違いに留意することが必要で、例えば、「欧米の企業は成果主義で競争が厳しい」といった話は上級職員のみに当てはまります。
 日本では実際に給与の格差などもあるために、大企業か中小企業かというのは重要な問題ですが、欧米で問題となるのは職務の違いによる給与の違いです。

 欧米の企業では給与は職務に応じて支払われます。会計、生産管理などの職務ごとに賃金の相場があり、給与はそれに基づいて決まります。また、下級職員の採用は課ごとに行われ、例えば会計係ならば経理課長が採用を行い、人事部はそれを追認するだけという形になります。上級職員の採用には幹部が関わりますが、下級職員は現場の労働者はあくまでも特定の仕事をこなすための存在であり、その仕事がなくなれば解雇されることも多いです。

 また、欧米では「成果給」が一般的という印象もありますが、例えば、2005年のGMの現場では「工場で働く我々はみんな時給26.16ドルだ」(113p)とのことですし、大企業のエグゼンプト層でも査定結果はA〜Eの5段階のうち、95%がBかCだったという調査結果もあります。契約の時に業績目標を設定することはありますが、上司の評価などの恣意的な要素で給与が左右されると訴訟に発展する恐れもあるため、査定ではあまり差がつかないのです。
 ですから、高給を狙うにはそれなりの職務に就く必要があり、そのためには学歴が必要です。なお、ここでの学歴は日本のように「○○大卒」ではなく、修士や博士といった学位のことです。例えば、大学職員でも課長になるには最低でも修士が必要で、その上に行くには博士が必要といった具合に、学位によって組織のどのポジションまでつけるのかが決まってくるのです。

 このように職務が明確な欧米では個室での執務が多いですが、日本では大部屋が一般的です。この大部屋主義は日本の官僚制の1つの特徴でもあります。まず職務があってそこに人が充てられる欧米とは違い、日本ではまず職員がいて、そこに仕事が割り振られていくのです。
 また、職務とは関係なしに新卒の一括採用が行われるため、定期的な人事異動が必要になってきます。こうなると、職務によって給与を決めることはますます難しくなります。例えば、経理から営業に移ったら給与が減ってしまったというようなことがあれば困るからです。
 
 そして、多くの社員は一定の年数を務めると管理職となります。これは「「経理のプロ」といった職務契約をしているわけではないのだから、「部長」や「課長」につける以外に、従業員にアイデンティティを与える方法がない」(140p)からでもあります。
 このように「社内のがんばり」が評価される日本企業において不利になるのは、出産や育児などで時間に自由が効かない女性です。また、企業が学位を評価しないために大学院への進学率などは低迷しており、日本は他国に比べて「低学歴化」しています。

 ここまでが第2章までの要約で、ここから先は、こうした日本的な雇用慣行が生まれてきた歴史を探ることになります。
 まずは欧米の社会を探っていくのですが、最初にとり上げられているのがドイツです。ドイツは職種が重要視される社会です。ドイツでは職業訓練法に基づく職業訓練と資格があり、労働組合も職種別の組合が一般的です。この背景にはギルドの歴史などもあるのですが、基本的には近代になって起こった運動の影響だとされています。
 ドイツでは、例えば雑誌編集者も賃金協約によって賃金水準が決まっており、職歴ごとに最低限の賃金水準が決まっています(173p図3−1参照)。賃金だけでなく、人事異動に関しても組合の了承が必要であることが一般的です。また、フランスでは上級職員(カードル)も独自の全国労働組合をもっています。
 ヨーロッパでは職能別の組織が強い求心力を持ち、労働や社会保障のあり方を規定していきました。

 アメリカでは「職務(Job)」という概念が発達しました。アメリカではドイツのような職種別の組合は発展しませんでしたが、現場を仕切る職長による不公正に対処する中で「同一労働同一賃金」が目指されていくことになります。そして、この「同一労働同一賃金」を実施するためには職務の標準化が必要となったのです。
 この動きはテイラーの主張した科学的管理法にも呼応するもので、第一次世界大戦時と、第二次世界大戦時に労働需要が逼迫する中で進展してきます。ただし、この過程でアメリカでは「職務保有権(ジョブ・テニュア)」と呼ばれるものが定着していきます。これは労働者が一度その職務に雇われたら職長や雇用主の気まぐれで解雇されない権利であり、これによってアメリカの労働者が長期勤続するようなっていきます。テイラーは効率の上がらない従業員は解雇されるべきと考えていましたが、「実際に実現したのは、一つの職務に平等の賃金を保障することであり、労働者にその職務を保障すること」(186p)でした。

 さらに先述したような訴訟の問題もあり、アメリカでは「やる気」「態度」のような曖昧な基準で従業員を査定することは難しい状況となりました。また、労働組合もこうした査定に反対したことから、「職務をこなしていれば差別されない」(192p)という形の「平等」が目指されたのです。
 こうした差別に対する感度が、学位の重視へとつながります。学位は明確な基準となりますし、また専門職団体と大学院が結びつくことで、職業に必要な教育プログラムが明確化されていきました。この専門職と大学の結びつきはヨーロッパの国々でも見られます。

 第4章では、いよいよ日本的雇用の期限に迫っています。アベグレンは1955〜56年に日本で調査を行い『日本の経営』という本を出しましたが、この本の中では、いわゆる職務の無限定性や、終身雇用(アベグレンの使った言葉は「終生のコミットメント」)が指摘されている一方、日本の大手製造業では大卒(東大、京大、一橋、早稲田、慶応)の上級職員と、高卒、中卒の現場労働者の三層構造となってることも指摘されています。
 高度成長前のこの時点では他国と同じような三層構造はあったのですが、この構造が職務ではなく学歴で決まっていたのが日本的な特徴となります。

 日本の近代的な工場は官営、あるいは官営をモデルとして始まりました。ほとんどが未知の分野であり職種別の組合などがない明治期の日本において、一つの秩序として持ち込まれたのは官を模範とする学歴に応じた三層構造でした。
 この官における三層構造は現在にも受け継がれており、それぞれキャリア、ノンキャリア、地方職員(非正規職員も含む)となります。戦前はそれぞれ高等官(親任官・勅任官・奏任官)、判任官、等外(雇・傭人・嘱託など)となっており、奏任官の賃金はいわゆる年功賃金に近いものとなっていました(229p図4−3参照)。当時の給与は官が圧倒的に高く、この官の給与体系は民間にも影響があったと考えられます。
 また彼らは「国家に対し「終生のコミットメント」を誓う代わりに、終身保障を約束された人々」(235p)でもありました。さらに彼らの俸給は職務ではなく官等で決まりました。例えば、軍の少将は作戦立案をする場合も艦長となる場合もありましたが、俸給を決めるのは基本的には少将という身分です。

 こうした官の秩序は民間にも持ち込まれます。241pに三菱の俸給表が紹介されていますが、俸給は職務ではなく「役名」と「等級」によって決まっています。ドーアは「日立の組織形態は決してイギリスと無縁のものではなく、イギリスの軍隊や官庁の型とよく似ている」(244−245p)と述べていますが、日本では民間企業の組織形態が官や軍隊をモデルに構築されていったのです。
 ただし、戦前までは現場労働者は「社員」とはみなされておらず、親方が請負制で人を集める方法が取られており、「官庁の「等外」と同じく、秩序外の存在」(258p)でした。職工は日給制で、明文化された昇給規定もなく、彼らの処遇は職長や職員の気まぐれに左右されていました。職員と職工では門や食堂や便所も別で、この違いは「身分」の違いのようなものでした。そして、この「身分」の違いをもたらしたのが学歴だったのです。
 
 第5章ではこの官のシステムが民間に広がっていく様子が描かれています。
 まず、明治初期は圧倒的に高等教育を受けた人材が不足していました。省庁は帝国大学の卒業生を確保した上で、彼らに文官高等試験を受けさせるようになります。これが「事実上の新卒一括採用の始まり」(285p)でした。さらに、2年で部署を異動しながら昇進するというしくみも定着していき、この慣行は戦後になっても続きます。また、大部屋主義も戦前から戦後へと引き継がれました。
 また、軍における「人物評価」を総合的に行う「考科(海軍は考課)」や、同じく軍において一定年齢で退役させる制度(退役する年齢は階級ごとに違う)の「停年」のしくみも民間の雇用慣行に影響を与えました。「停年」は海軍火薬製造所の職工規定から広まっていったとされています。
 また、「社員」という呼称にも官からの影響があるといいます。「社員」とは基本的に出資者を意味する言葉でしたが、1890年に政府が出した役人に対して使い込み防止のために一定の身元保証金を預けることを義務付けた決まりが民間にも波及し、この慣行が職員を「社員」と呼ぶようになった起源ではないかといわれています。
 
 官庁から始まった新卒一括採用は1900年前後から民間企業にも広まります。民間企業は一般的な能力や「人物」のスクリーニング機能を大学に求め、大学教授などの紹介によって採用が行われていきます。1918年の大学令発令前後から高等教育の卒業時期も3月に統一されるようになり、4月1日入社の原型もできあがっていきました。 
 一方、大学令によって大学が増加し卒業生が増加すると、大学の成績や紹介によるスクリーニング機能が落ちます。そこで、各社は「人物」を重視して面接などを行うようになり、大学側も就職課を設置して学生の就職活動を支援するようになります。
 しかし、1920年代から30年代初頭にかけて大卒就職率は悪化します。29年には「大学は出たけれど」という映画がつくられますが、これは増えすぎた大卒者に求人が追いつかないことから生まれた減少でした(もちろん不況の影響もありますが)。そして、この数としてはわずかな大卒失業者が問題とされたのは、彼らが自由労働者の中に入り込み社会主義を思想を吹き込むことが懸念されたためでした。
 また、女性従業員の採用も進みましたが、1938年の三井銀行では正規職員の待遇に準じて採用された女性事務員の定年は22歳であり、年功賃金のもとで安く使える労働者として若い女性が求められたことがうかがえます。
 
 こうした官から民への影響はドイツなどにも見られますが、ドイツの官僚制が「専門的訓練と分業・明確な権限・文書主義」(333p)という特徴を持っていたこともあり、日本とは違い民間における職務の明確化と細分化を推し進めました。
 一部では自社で人材育成を行う動きも見られましたが、企業横断的な職種別組織の力は強く、これが近代的な資格制度を生み出していくことになります。さらに三層構造の中間に位置する下級職員も独自の労働運動を組織し、労働者とは違う社会保険を求め、労働運動に対抗するために政府もこれを支持していくことになるのです。このあたりも日本とは違った展開でした。

 日本における「社員の平等」の道が開かれたのが総力戦体制から戦後にかけての時期でした。この時期の変化を描くのが第6章です。
 まず、戦争による軍需景気は労働者不足をもたらし、各社は労働者の待遇改善に動かざるを得なくなりました。日立や王子製紙では「職工」という名称が「工員」に改められ、一部では日給制に代わって月給制が採用されました。また、インフレによる金融資産の目減りや、「贅沢は敵だ」といったスローガンなどを背景に、ナショナリズムに基づいた平等思想が高まりました。このナショナリズムに基づいた平等思想は戦後になっても引き継がれていきます。

 日本の労働慣行の形成の上で一つのポイントとなるのが企業別労働組合ですが、これはヨーロッパのような職種別の労働組合の伝統がなかったことと、戦時中に配給が企業経由などで行われたことにより企業が一種の生活共同体となっていたことが背景にあったと考えられます。
 こうした中で組合は企業内の平等、職員と工員の差別の撤廃を要求していきます。この要求は戦後の混乱の中で困窮していた職員にも理解され、工員も「社員」と呼ばれるようになっていきます。「日本の労働者にとっての「戦後民主主義」は、全員を「社員」、すなわち大卒幹部職員と同等に待遇せよという要求として現れたといえる」(363p)のです。

 こうした中で生み出されたのが生活給の考えです。1946年に電力産業の労組である電産協が打ち出した電産型賃金では、労働者の年齢と扶養家族で賃金の約7割が決まります。この能力ではなく必要に応じて決まる賃金という考え方は、当時のインフレと生活苦の中で受け入れられました。さらにこの背景には戦時中に政府が「「年齢、勤続年数ニ応ズル基本給制度」を確立して「勤労者ノ生活ノ恒常性」を確保することを掲げていた」(365p)こともあります。
 そして、この年齢を重視する賃金体系は戦前の官の年功型の賃金体系に近いものでした。さらに多くの人々が軍隊経験をもったことで人物に対する「考課(考科)」も民間企業へと持ち込まれていきます。

 ただし、この時点では賃金において勤続年数はそれほど重視されず、基本となったのは年齢を扶養家族でした。また、戦前からの三層構造もそう簡単には崩れませんでした。49年にドッジ・ラインによるデフレ不況が到来すると、各社は従業員を大きく削減し、戦前の旧構造を復活させようとしました。
 また、労働者側も旧来の資格制度の復活を望んだということもあり、現場労働者も含めた資格等級制度が広がっていきます。同時に、従業員削減で労組と対立し疲弊した経営側は、組合と協調する道を選び、解雇の慎重になり、定期昇給制度を設けました。そして、「能力」を勤続年数で代替する動きも起きてきます。労組は、一方で「同一労働同一賃金」も目標としましたが、まずは家計の維持を優先し、勤続年数という指標を受け入れていきます。

 しかし、大企業内での社員間の格差が是正されていくと、今度は大企業と中小企業の格差が問題視されるようになります。さらに社会保障制度もこれを追認・強化するような形で整備されていきました。1959年にできた国民年金は当初は全国民を対象とする形で構想されましたが、結局は戦中にできた小企業を除く雇用労働者を対象とする厚生年金の残余をカバーする形で制度が出来上がります。国民健康保険も市町村が運営する形で整備され、社会保障においても「カイシャ」と「ムラ(地域)」が基本単位とされたのです。

 一方で、占領国であるアメリカの職務給を取り入れようという動きも起こります。経営側にとって職務給は中高年の賃金を抑制できる有効な手段でしたが、職務が企業ごとにばらばらだったこと、社会保所為が貧弱な中で中高年の生活が難しくなることなどを理由に組合は反対します。
 こうした理由は政府にも認識されており、1963年に政府の経済審議会が出した『経済発展における人的能力の課題と対策』では、横断的労働市場の形成や技能資格の充実などとともに、公営住宅の整備、児童手当の創設、第三者機関による職務分析とその標準化などが謳われていましたが、結局、この路線が採られることはありませんでした。
 
 第7章では高度成長と高学歴化の中で三層構造が崩れていく過程が描かれています。
 日本の三層構造は学歴によって分かれており、賃金は学歴と年齢で決まっていました。こうした中で高学歴化が進むと、たとえ職務が同じでも賃金コストが上がってしまいます。
 戦後、アメリカの教育制度を大きく受け入れた日本では、高校進学率が急上昇し、大学の大衆化も進みます。1950年代後半〜60年代前半の段階では、企業は工員の採用に関しては中卒にこだわっていました。その結果、中小企業は高卒を雇わざるを得ないような状況もあったそうです。
 わざわざ地方に出向いて中卒の採用活動を行う大企業もありましたが、これは年齢で賃金が決まる構造では18歳の高卒よりも15歳の中卒のほうがコストが抑えられるからです。

  これを受けて文部省は1960年に公立校では新設の60%程度、私立では新設の35%程度を工業過程とし、農業課程や商業課程も増設する方針を打ち出します。これは前述の横断的労働市場や職務給の導入を見据えた方針でしたが、これは世間からの批判を浴びます。子どもたちの進学を抑制するような政策は許しがたいものに写ったのです。多くの人びとにとって戦前の差別的構造を乗り越えるためのものが「学歴」であり、政府や財界の考えは受け入れられませんでした。
 こうした中で、企業も新規高卒者を作業員として採用するようになり、それとともに学校紹介による就職が一般化しました。戦後になると現場の作業員も簡単には解雇できなくなり、一定の「人物」を保証するしくみが必要とされたからです。

 一方、大学進学者も急増し、いわゆるマンモス私大がその受け皿となります。しかし、こうした大卒者に見合った職を社会が用意することはできず、一部の大卒者は販売員など今まで高卒者がしていた仕事に流れていきます。また、年功制をとる組織では管理職の過剰感が出てきます。民間企業では課長代理や課長補佐といったポストがつくられ、官庁でも部長・次長・参事官・審議官といったポストがつくられていきます。
 日本の企業の特徴として「遅い選抜」があり、これが社員間の競争意識を高めたともいわれますが、企業がこうした効果を狙ったものか、単に大卒職員が増えたためにそうなったのかはよくわかっていません。
 
 こうした中でついに三層構造が崩れていきます。そして能力のグレードが学歴に一本化されていくのです。今までは現場労働者と職員の間には待遇の差がありましたが、これを同じ学歴であれば職員でも工員でも同じ処遇にしていくという考えが広まっていくのです。例えば、八幡製鉄の労組は66年に「社員制度の一元化」と「初任給を学歴別にまとめ、定期昇給の適用を全社員同一テーブルにする」(466p)ことを要求しています。
 この三層構造の崩壊とともに導入が広がったのが職能資格制度です。「職能」の語源は「職務遂行能力」の略だといわれていますが、次第にこれに「人物」を加味したものとなっていきます。この「職能資格制度とは、どんな職務に配置されても適応できる潜在能力によって、社内の等級を与える制度」(469)で、この「等級」が「資格」と呼ばれることになります。以前はこうした等級は職員のみに与えられていましたが、これが工員にも適用されていきます。
 ただし、三層構造が崩壊する中で、あくまでも戦前からの臨時雇い的に扱われたのが女性でした。

 この職能制度は経営側にとってはある程度「能力」で査定できるという点で裁量を広げるものでしたし、管理職の過剰に対しても対応できるものでした。「軍隊でいえば、艦長のポストには限りがあるが、大佐に昇進させることはできる」(479p)のです。
 ここからもわかるように職能資格制度は軍隊の制度に近いものがあり、大企業の人事担当者もそれに自覚的でした。

 しかし、「すべての社員の平等」は高度成長の中でこそある程度実現できましたが、石油危機後は行き詰まりを見せはじめます。大企業の雇用者数は1974年の926万人をピークに減少し、大企業は景気変動に対して、期間工や準社員を活用することで対応していくことになります。
 高校を卒業しても高度成長期のようには就職できなくなり、人々はさらに上の学歴を目指します。ところが、76年から私大の設立と定員が抑制されるようになり、受験競争が加熱していきます。雑誌に高校別の大学合格ランキングなどが掲載されるようになったのもこの時期です。
 そして、数学が得意でどの科目もこなすのが「国立理系」その残余が「国立文系」「私立理系」を選び、さらにその残余が「私立文系」を選ぶというようなコース分けも進みます。さらにその残余となったのが本来ならば就きたい職業への積極的選択であった職業科です。
 ただし、この時期は自民党が農業や自営業を保護する政策をとったこともあって、いわゆる「一億総中流」と呼ばれる社会が出現します。
 
 ただし、企業側では今までのような人事管理が行き詰まりを見せていました。管理職が過剰になり重荷となってきたのです。日本企業が選抜の目安とした「能力」は非常に曖昧なものであり、結局は学歴と勤続年数に応じて処遇せざるを得ませんでした。 
 そこで企業がとった対応が「「社員の平等」の外部を作り出すこと」(524p)でした。具体的には出向、非正規雇用、女性です。出向はポスト不足に対応するものであり、81年になると「非正規従業員」ということばが雑誌に登場します。そして、85年に男女雇用機会均等法が制定されたものの、やはり女性は若い時期(賃金が上がらない時期)に辞めることが期待されていました。
 政府もこうした動きを認識していましたが、「現在の低賃金層の主力をなす女子パートタイマー、高齢者、定職につかない若年層の三つのグループは、それぞれ夫の所得、年金、親の所得という核になる所得を持っており、大部分は働かなくとも生活に困らない」(531p)という認識で大きな問題とは考えられていませんでした。

 また、86年に大学の定員抑制措置が緩和されたこともあり、90年代には進学率が上昇します。同時に高卒求人は減少し、成績下位の普通科高校では30〜40%の卒業生が進学も就職もしないというような状況が出現します。
 こうした状況の中で経団連は95年に『新時代の「日本的経営」』という報告書を発表し、従業員を「長期蓄積能力活用型」「高度専門能力活用型」「雇用柔軟型」の3つに分ける「雇用ポートフォリオ」を打ち出しますが、これは日本型雇用を変えずに、それをコアな部分だけに限定する方法でした。この時期に財界はさまざまな改革案を打ち出しますが、それは60年代にあった社会保障や福祉制度を含んだ改革ではありませんでした。
 また、90年代以降、導入が進んだ成果主義も、職務の曖昧さや、最初から賃金抑制が狙いだったことなどの原因で多くの場合はうまくいかずに終わっています。

 終章では、これまで積み重ねてきた議論をもとに今後の展望がなされています。
 雇用主の気まぐれで賃金や仕事内容が決まり、自由な解雇を行えるような19世紀的な「野蛮な自由労働市場」に対し、各国はそれぞれ運動の中でそうした経営側の横暴を制限してきました。ドイツでは「職種のメンバーシップ」、アメリカでは「制度化された自由労働市場」が成立したのに対して、日本で成立したのが「企業のメンバーシップ」です。
 こうした雇用レジーム(「しくみ」)は、「歴史的過程を経て築かれた合意であり、慣習の束」(569p)であるため、変えることは簡単ではありません。しかし、新しい合意を結ぶことは可能であり、慣習も時代とともに変化します。

 最後に著者は、スーパーで働く勤続10年のシングルマザーが「なぜ入ったばかりの高校生と時給がほとんど変わらないのか?」と相談してきたというエピソードが紹介されています。これに対してA「賃金が同じなのはおかしい、年齢や家族構成を考えるべき」と答えるか、B「同一労働同一賃金が原則で、彼女がキャリアアップできるような社会をつくるべき」と答えるか、C「労使関係ではなく、児童手当などの社会保障政策で解決すべき」という3つの回答例が紹介されています。
 戦後の日本が選んだ答えはAでした。アメリカならばBです。著者はCを推しつつも、その答えを読者に委ねています。

 というわけで、普通の新書の約2倍のページ数がある本書の要約はいつものほぼ2倍の分量となりました。やや繰り返しの部分もあり、もう少し削れなくはないと思いますが、600ページというボリュームに見合っただけどの内容と、細部の魅力を持った本だと思います。
 日本社会を規定する「日本的雇用」というものを考える際、濱口桂一郎の『新しい労働社会』(岩波新書)(本書はなぜか参考文献にあがっていない)を読むが一番良いだろうと思っていますが、これらの本は法律面からアプローチが強く、ページ数は膨大でも、時代の動きなどを感じさせるエピソードが豊富に紹介されている本書のほうが読みやすいと感じる人もいると思います。
 日本的雇用の問題についての議論をあまり知らなかった人にとっては、その見取り図と展望を与えてくれる本ですし、議論を知っている人にも日本的雇用形成の歴史を改めて教えてくれる本となっています。


山口慎太郎『「家族の幸せ」の経済学』(光文社新書) 7点

 ここ最近、保育園の問題などで積極的な発言を行っている経済学者による初の著書。タイトルからもわかるように保育園問題に限らず、結婚や離婚、赤ちゃんの出生、育休など、家族にまつわる幅広い問題を経済学的視点から分析しています。
 それぞれのトピックについて近年の経済学における興味深い研究(その中には著者によるものも含まれる)をわかりやすく紹介していいくスタイルで、子育てなどに対する多くの人の「思い込み」をデータによって覆していきます。
 終了してしまいましたが、Eテレの「オイコノミア」がまだやっていれば番組にぴったりな内容と構成で、間違いなくオファーが来ていたのではないかと思います。もう少し突っ込んだ分析を期待する人もいるでしょうが、学問的な部分を犠牲にせずに、読んで面白くためになるというこの手の新書に期待されるものをしっかりと満たした内容になっていると思います。

 目次は以下の通り。
第1章――結婚の経済学
第2章――赤ちゃんの経済学
第3章――育休の経済学
第4章――イクメンの経済学
第5章――保育園の経済学
第6章――離婚の経済学

 第1章は結婚についてです。「人はなぜ結婚するのか?」、「どこで出会うのか?」、「なぜ似た者同士のカップルが多いのか?」という3つのテーマが分析されています。
 まずは「人はなぜ結婚するのか?」ですが、ご存知のように近年日本では50歳時における未婚率が男女とも上がり続けています。1950年にわずか1.5%だった50歳時の未婚率は、2010年には男性で20.1%、女性で10.6%になりました(28pの図表1−1参照)。
 2015年の第15回出生動向基本調査では、男性の8割、女性の9割が相手に重視するものとして「人柄」をあげており、よい「人柄」の人が男女とも不足しているのではないか? とも思われますが、こうした調査では建前が選ばれる傾向もあるため、著者は海外のマッチングサイトのデータなどをもとに男女がそれぞれ相手に求めているものを探っています。

 マッチングサイトのデータを見ると、容姿はやはり重視されており、収入も重視されますが、女性の方が相手の収入を重視する傾向があります。男女とも自分に近い人を求めるのが一般的なものの、女性は弾性により学歴を求め、男性は学歴のある女性を避けるような傾向も見られます。ある意味、当たり前の結果が確認できたと言えます。

 著者は結婚による経済的メリットとして「費用の節約」、「分業の利益」、「リスクの分かち合い」、そして「子どもを持つこと」の4つをあげています。
 このうち「子どもを持つこと」は喜びがあるものの費用も伴うもので、特に高学歴でキャリアのある女性にとってその機会費用は大きいです。また、夫婦が同じように稼いでいるならば夫=仕事、妻=家事のような「分業の利益」も低下します。著者はこの2つが未婚率上昇の大きな要因ではないかと考えています。

 つづいては「出会い場」の問題。日本ではお見合いが減少しており、その代わりに職場での出会いが増え、全体の3割ほどを占めています。デンマークの調査では異性が多い職場で働いていても、特に結婚率が上がるわけではないですが、離婚率は上がるそうです。
 また、アメリカでは約2割のカップルがマッチングサイトで出会っており、ブロードバンドの普及期にはブロードバンドの普及が若い白人の結婚率を押し上げたこともあったとのことです。

 最後に「似た者同士」の問題ですが、これは万国共通のもので、やはり似た者同士は職場や活動範囲なども似ており、出会いやすいという面があるのでしょう。
 では、マッチングサイトではどうかというと、やはりその傾向がありますが、オフラインほど同質性は強くないようです。例えば、韓国のマッチングサイトの場合、年齢や学歴などは同質性が強くなりますが、地域や職業に関してはオフラインよりも多様性が見られるそうです。

 第2章のテーマは赤ちゃん。出生時の赤ちゃんの体重、帝王切開の影響、母乳育児の効果についてとり上げています。
 日本は低出生体重児(2500g未満)の出産が多い国で、OECD加盟国でデータのある国の中では下から2番目になっています(71p図表2−1参照)。この低出生体重児の増加は世界的なトレンドです。この要因として妊娠中にお母さんが働いていると低出生体重児の割合が高くなる傾向があることが明らかになっています。また、かつては生きられなかった未熟児が生存可能になったという要因もあり、必ずしも悪いことというわけではありません。
 ただし、家庭環境と言った要因を取り除いても、「出生体重が重いほど、出生時の健康状態は良く、生後1年間の生存率も高」く、「出生体重が10パーセント増えると、20歳時点でのIQは0.06高く、高校卒業率は1パーセント上がり、所得も1パーセント増えるそうです」(80−81p)。

 次が帝王切開についてです。日本では帝王切開で生まれる赤ちゃんが増えています。もちろん、必要な場合もあるでしょうが、病院が儲かるから帝王切開が選択されている可能性もあり、また帝王切開のほうが楽だという情報が広まっているからという要因も考えられます。
 しかし、帝王切開で生まれてくる子どもは、「肺や呼吸器の機能に問題を抱えたり、免疫発達に問題が生じ、アレルギーや喘息を患いやすくなったりする」(87p)とのことです。ただし、著者は必要性がある場合はためらうべきではないとも述べています。

 最後は母乳育児について。「赤ちゃんには母乳が一番」という考えがありますが、これは間違っているわけではありませんが、実際の効果以上のものが喧伝されたりもしています。
 ベラルーシで行われた無作為に行われた母乳促進プログラムの結果から、母乳で育てられた子供は生後1年の感染性胃腸炎とアトピー性湿疹にかかる割合が減ったそうです。しかし、11歳や16歳といった地点での追跡では、例えば肥満を抑えたり、16歳時点でのアトピー性湿疹や喘息を減らす効果はないそうです。
 ただし、6歳半の時点では知能テスト・先生の評価ともに母乳で育った子どものほうが高いです。ところが、この効果は16歳時には消えてしまっており、母乳育児の効果は生後1年の健康状態にのみはっきりと影響していると言えるようです。

 第3章は育休について。ここでは母親の育休について、それが母親の働きやすさにどの程度影響を与えているのかということと、子どもにどんな影響を与えているのかということが分析されています。
 まず、日本の育休制度ですが58週という期間はOECDの中では平均的で、月給の62%の支給額がOECDの中でややよい方です。これに対してアメリカは期間が12週で、支給額はゼロ! アメリカのお母さんは大変ですね(116−117pの図表参照)。ただし、アメリカでもIT企業などでは独自の育休制度を設けて、人材のつなぎとめを図っているようです。
 
 育休の期間に関してですが、ドイツなどの分析を見ると、1年以内の短期の育休制度は出産数年後のお母さんの就業にマイナスならないが、3年の育休制度は就業にわずかにマイナスという結果が出ているそうです。
 また、子どもへの影響ですが、ドイツではお母さんと一緒に過ごした期間の長さは子どもの将来の進学状況・労働所得などにほぼ影響を与えていないということです。子どもと一緒に過ごすのはお母さんでも訓練を受けた保育士でも変わらないというのが多くの調査から得られている知見です(保育士の質が低ければ母親が育てたほうが子どもの将来の所得が上がるとの分析もある)。
 ここではさらに著者による日本で育休を延長した場合のシミュレーションが紹介されていますが、育休を延長しても追加的な効果はなく、その給付金を保育園の整備に充てるべきだろうとの述べています。

 第4章は父親の育休について。日本でも父親の育休取得率が2017年に過去最高を更新しましたが、その数字はわずか5.14%(143p図表4−1参照)。まだまだ取得する人は少数派です。一方、北欧の国々では70〜80%の男性が育休を取得しており大きな差があります。 
 ただし、日本の男性向け育休制度は期間、給付金とも世界ではレベルの高い方で(147p図表4−3参照)、ユニセフの報告書では41カ国中1位となっているそうです。

 実はノルウェーなどでも男性の育休の導入直後はこれほどの利用はありませんでした。ところが、分析によるとこの育休は伝染するようで、同じ職場の人や兄弟が取得をすると周囲の育休取得割合が11〜15パーセントポイント増加したそうです。やはり、北欧でも周囲から白い目で見られるかも…、昇進の機会を逃すかも…、という不安はあったようですが、実際に取得した人の行動が徐々にそういった不安を消していったのです。

 育休取得の影響ですが、ノルウェーに関する分析ではお父さんの所得を2%ほど押し下げるとされています。ただし、お父さんの育休取得は16歳時の子どもの偏差値を1ほど上げるとされています。実は「イクメン」の効果は長続きしないとの分析まるのですが、子どもにとって何らかの良い影響がある可能性もあります。また、カナダのケベック州のケースでは育休取得がお父さんの家事・育児への参加時間を増やしたといいます。
 夫婦仲にについてはアイスランドとスウェーデンで対照的な結果が出ています。アイスランドではお父さんの育休取得によって離婚率が下がりましたが、スウェーデンでは逆に上がりました。なぜ、こうなったのかというメカニズムについては現在のところまだよくわかってはいません。

 第5章は保育園について。ここは著者みずからの論文からの分析も紹介されており、興味深い内容となっています。
 まずは保育園が子どもに与える影響です。この分野の先駆的な研究はなんと言ってもジェームズ・ヘックマンのもので、1962〜67年にアメリカで行われた「ペリー就学前プロジェクト」を追跡することで知能に対する効果は長続きしないものの、非認知能力あるいは社会的情緒能力を呼ばれるものを高める効果は持続し、40歳になった時の所得を引き上げ、犯罪を減らす効果があったことを確かめました。このプロジェクトはかなり費用のかかるものでしたが、犯罪の減少などを考慮に入れると非常に高い収益率を示しており、幼児教育に社会が投資することの利点を説いたものともなっています。

 じゃあ、日本でもこれを大々的にやるべきかというとそこは微妙なところもあって、「ペリー就学前プロジェクト」は恵まれない家庭向けのもので、日本全体でやってもそこまでは効果がないだろうと思われます。また、週1回の家庭訪問なども含まれており、全国レベルで展開するには相当な人材が必要なのです。
 
 この「ペリー就学前プロジェクト」もそうですが、保育園も恵まれない家庭の子どもの発達を改善すると考えられています(裕福な家庭が多く専業主婦の多いイタリアのボローニャでは大規模な保育プロジェクトの導入によって子どもに悪影響があったとの報告もある)。
 では、日本ではどうかというと、著者らの分析によると、保育園通いが子どもの言語発達を促し、子どもの多動性や攻撃性や改善するとしています。そして、この効果は母親が4大卒の家庭よりも高卒未満の過程でより顕著に現れています(208p図表5−3参照)。
 この背景には母親が高卒未満の家庭は経済的な余裕や本人の生まれ育った環境などから、子どもへのしつけの質が低くなっていることがあります(206p図表5−2参照)。これが子どもの多動性や攻撃性を生んでいると考えられるのですが、実はさらに子どもの保育園通いには高卒未満の母親のしつけを改善させ、ストレスを減らし、幸福度を引き上げる効果もあります(210p図表5−4参照)。
 4大卒の母親を見るとこうした効果はほとんどないのですが、母親が高卒未満の家庭に対しては保育園通いが子どものみならず、母親へも好影響を与えていることがわかります。
 ですから、無償化より、まずは待機児童の解消だというのが著者の主張です(また、正規雇用の女性の子どもを優先的に入れる仕組みも少し手直しする必要があるのかもしれません。高卒未満の母親の多くは正規雇用ではないでしょうから)。

 最後の第6章は離婚について。「結婚した3組に1組は離婚する」と言われますが、実はこの数字は注意が必要です。この数字は結婚件数÷離婚件数で出てくるのですが、少子化の影響で結婚の件数が減っている中、この式は今のカップルが離婚する確率を示すものとはなっていないのです。

 離婚に関しては、各国で離婚の条件が緩和されたこともあり、基本的には増加傾向にあります。では、離婚がしやすくなったことは何をもたらしたのでしょうか?
 アメリカについての分析では離婚がしやすくなったことでDVが減り(夫→妻だけでなく妻→夫も減少)、女性の自殺が大きく減ったことが報告されています。
 一方、離婚法改革の子どもに対する影響では、子どもの大学進学率を低下させ、所得も引き下げ、大人になってからの自殺率も引き上げたという分析があります。
 
 また、最後に共同親権についても分析していますが、この共同親権の導入によって、アメリカではお母さんが子供の養育費を受け取る確率が9%以上上がり、男性の自殺率が9%減少し、音尾から妻への暴力が2.7%減少したそうです。親権については色々と難しい問題もありますが、とりあえずデータの上では共同親権は悪くないようです。

 以上のように、本書は家族に関するさまざまなトピックをデータを用いて明らかにしています。また、地域の違いにも目を配りながら論文などを紹介している点も良い点で、安易な「アメリカはこうだから日本はこうすべき」といった議論になっていない点も好感が持てます。
 個人的には著者みずからの研究がある育休と保育園に絞って、もっと深堀りしても面白かったのではないかという気もしますが、色々なトピックに触れることができ、新書としては多くの人の興味を引く作りになっているのではないかと思います。
 最初にも述べましたが「オイコノミア」が好きだった人は間違いなく楽しめると思います。

松岡亮二『教育格差』(ちくま新書) 8点

 タイトルの通り、日本における教育格差を論じた本。以下にあげる目次を見るとみると、第2章以降、「幼児教育」、「小学校」、「中学校」、「高校」という章立てになっていますが、本書では、どの段階にあっても親の学歴や地域の所得や階層に基づいた格差があることを確認しています。
 これがもう粘着的といってもいいほど徹底的で、いかなる段階においても親の学歴が子どもの学力なり生活習慣なり将来設計に影響を与えているということを、何度も何度もデータを使って明らかにしています。
 自分は比較的データを読むことに飽きないたちなので問題なく読めましたが、もうちょっと簡潔に書いてくれと思う人もいるかも知れません。しかも、325個の注と21pにわたる参考文献一覧がついており、形式は新書であっても専門書に近い内容になっています。

 そういった点で、やや無味乾燥な本だと感じる人もいるかもしれませんが、その印象は第7章の「わたしたちはどのような社会を生きたいのか」でガラッと変わると思います。この部分では非常に熱のある議論がなされており、今までのデータの積み重ねも生きてきます。自らの経験に基づいた「私の考える理想の教育論」がはびこる教育論議に対してなんとかして一石を投じたいという著者の思いがわかりますし、「私の考える理想の教育論」ではダメだということが読者に伝わってきます。
 今後の日本の教育を考える上で重要な仕事だと思いますし、気楽に読めるものではないものの、4000円くらいの専門書の内容が税抜き1000円の新書に収まっているということを考えると、手軽に手に取れる本で、これは素晴らしいことだと思います。

 目次は以下の通り。
第1章 終わらない教育格差
第2章 幼児教育――目に見えにくい格差のはじまり
第3章 小学校――不十分な格差縮小機能
第4章 中学校――「選抜」前夜の教育格差
第5章 高校――間接的に「生まれ」で選別する制度
第6章 凡庸な教育格差社会――国際比較で浮かび上がる日本の特徴
第7章 わたしたちはどのような社会を生きたいのか

 まず、第1章ではSSM(「社会階層と社会移動に関する全国調査)を使って、日本の教育格差(親の学歴と子の学歴の関連の強弱)を確認しています。世代を経るごとに大卒の割合は増えていますが、どの世代を見ても親が大卒であるほど子も大卒である確率が高いです(34−35pの図表を参照)。
 また、近年は「子どもの貧困」が問題とされていますが、当然ながら貧困状態の子どもは昔からいて、貧困家庭の子が大卒になる確率は低いです(41p表1−4。ただし、子ども時代の世帯収入を直接確認できるデータはないので、家庭にあった家電製品などから類推している)。
 さらに、出身地域でも格差はあります。三大都市圏(東京・大阪・名古屋)と非三大都市圏、大都市と市部・群部を比較すると、やはり大卒の割合は三大都市圏と大都市で高くなっています(44−45pの図表参照。ただし、2015年調査時点の40代は三大都市圏と大都市での大卒割合の落ち込みがある。理由はおそらく大都市圏の大学の定員抑制策)。
 加えて、親が大卒であれば、子どもに大学進学を望む確率が高いですし、大卒が多い地域に住んでいれば、自然と大学を目指すようになります。さらに大都市部とそれ以外では塾などの教育サービスの供給量も違います。

 もちろん、生まれですべてが決まるわけではありません。不利な状況を克服して大学に進学した人もいます。
 ただし、受験に不利な高校から上位大学に入った人は、もともとの階層が高いことが研究によって明らかになっています。実は日本では敗者復活ができる層もかぎられているのかもしれないのです。
 こうしたことから本書ではSES(Socioeconomic Status=社会経済的地位)という表現を使い、この代理指標として親の学歴を使って分析を行っていきます。このSESは幼児教育から高校までのどの段階でも大きな影響力を示しているのです。

 第2章は幼児教育をとり上げています。近年、アメリカでの研究を中心に幼児教育の重要性が指摘されています。幼児教育は格差を縮小するための1つの鍵と考えられているのですが、この時期に早くもSESによる格差が見られます。
 中流家庭以上の親は、子供の生活に意図的な介入を行っており、習い事やテレビ視聴の制限など「日常生活の構造化」を図り、さらに「大人との議論・交渉を奨励」し、子どもに便宜を図るために「学校との交渉」を行います。
 一方、労働者階級や貧困階級の親は、「放っておいても子供は育つ」という考えで子育てをしており、子どもの生活は大人によって組織化されていませんし、子どもへは簡潔な命令口調で指示を出しています。さらに学校との交渉にも消極的であり、学校のことは専門家である教員に任さればいいと考えています。

 こうした態度は子どもが小さい頃から現れており、中流以上の家庭のほうが、子どもの生活・食事・おやつなどに気を使っています(92−93pの図表参照)。こうしたこともあり、5.5歳時における「落ち着いて話を聞くこと」「ひとつのことに集中すること」「がまんすること」といった行動はいずれも両親大卒>片親大卒>両親非大卒の順でできる割合が高いです。
 また、幼稚園と保育園を比較すると幼稚園のほうがSESが高く、SESの高い層がより学校教育に親和的な幼稚園に通っています(このあたりは近年の都市部における高学歴層の共働きの増加で変わってくるのかどうか興味深いところ)。
 習い事についても高SESの家庭のほうが熱心な一方で(100pの表参照)、テレビの視聴時間は高SES層が短いですし、ゲーム時間がゼロという子どもも高SES層に多いです。幼児教育においては、公的な介入が少ない分、親の考え方や行動によって子どもは大きな影響を受けるのです。

 第3章は小学校です。日本の小学校は同質性が強く、格差を縮小させる役割が期待されています。しかし、必ずしもそうではないというのが本書の分析です。
 小学校入学の時点ですでに両親大卒・片親大卒・両親非大卒で差があるのですが、この差は小4になっても残っています。例えば、小4で算数の偏差値が60以上の子どもの割合は両親非大卒では4%ですが、両親大卒では26%です(119pの表参照)。
 また、子どもに対する期待も違っており、両親大卒の家庭では親の82%が子どもに大学進学を期待していますが、両親非大卒では39%にすぎません。その影響か、子どもも小4の時点で両親大卒の家庭では47%が大学進学を希望していますが、両親非大卒の家庭では29%となっています。
 幼児のときと同じく習い事の差も残ったままですし(ただし小5・6になると塾に行くせいか両親大卒の子どもの習い事参加率が減る(126p表3−10参照)、通塾率にも差があります。そのせいもあって学習時間の差も小学校高学年になると大きく開いてきます(130pの図表参照)。さらに幼児のときとな同じく高SES家庭のほうがテレビの視聴時間が短く、親が学校の行事などに積極的に関わっています。

 さらに見逃せないのが学校間の格差です。小学校には地域からさまざまな子どもが集まりますが、そもそもその地域に一定の同質性があるケースが多く、親の学歴には大きなばらつきがあります。そして、それが学校の平均学力に大きな影響を与えているのです(144pの図表参照)。
 先程述べたように、両親の学歴によって子どもに期待する学歴は変わってきます。つまり、学歴の高い子どもの集まる小学校では大学進学が「ふつう」になり、通塾が「ふつう」になります(両親の学歴と小4の通塾率はきれいに相関する(150p図3−9参照))。周りと同じように学校生活を過ごしていても、学校SES(両親大卒割合)によって大きな差が生まれてくるのです。

 第4章は中学校です。学校には「能力」によって子どもを適切な進路に振り向ける機能がありますが、日本で最初にその役割を果たすのが中学校です。
 ところが、今までの議論からもわかるように、この「能力」のかなりの部分は家庭環境とそれが影響する今までの学校生活によって中学入学の段階で形作られています。もちろん、低SES層の子の学力も向上しますが、高SES層の子の学力も向上するので、その差は縮小しません。165pの図4−1では家庭の蔵書数と学力の推移が示されていますが、小6の時の学力差は中3になっても維持されています。
 小学校の時と同じく、SESによってやはり通塾率にも差がありますし、その影響もあって勉強時間数にも差が出てきます。

 中学では高SES層が私立に抜けますが、それでも学校間の格差は根強く存在します。ある市の中3のデータを使うと、両親大卒割合と学校平均学力の相関係数は0.76で、これは両親大卒割合が学校平均学力のばらつきの58%を説明することになります(184−185p)。当然ながら、こうした格差は進学希望にも影響を与えます。
 これは通塾率などにも現れており、同じ市の公立校であっても通塾割合は47〜92%と大きな差があります。両親大卒割合の低い学校は、学習時間が短い一方で、テレビ、ゲーム、携帯電話などのメディア消費時間は長く(191p表4−18)、小学校と同じく、その「ふつう」は学校によって異なります。特に大都市では高SES層が私立へと抜けるため、「ふつう」の平均は小学校よりも下がっている可能性もあるのです。

 第5章は高校を扱っていますが、日本では高校で垂直的なランキング構造が出現します。主に学力によって生徒の行く高校が決まりますし、その高校の位置というのは地域社会などにも周知されています。今までの小中でも学校間のSES格差がありましたが、高校ではSESごとに生徒の隔離が行われているような状況なのです。というわけで学校の偏差値とSESはきれいに相関しています(204pの図参照)。

 そして、当然のように高偏差値、つまり高SESの学校では大学進学希望者が多く、塾や予備校に通う率も高く、学習時間も長いです。また、アルバイトなども低SESの高校では当たり前である一方、高SESの学校ではそれほど多くはありません。各学校では「校風」、「文化」ということが言われますが、それはたんに似たようなSESを背景にもつ生徒が集まっているからかもしれないのです。
 さらに、学校間の格差は教員の態度にも影響を与えていると考えられます。高SES校にいる教員ほど、生徒に期待し、生徒の学業成績を重視し、学校に誇りを持っているとみられます(校長のアンケートを通してのもの。223pの表参照)。
 高校の学力や雰囲気といったものも「生まれ」によって規定されている部分が多いのです。

 第6章では、今までの知見をもとにして国際比較を行っています。どこの国でも生まれ(SES)と学歴、そしてその後の収入には相関関係があり、「「生まれ」によって学歴達成格差のある緩やかな身分社会」(235p)となっています。
 PISAの結果などを見ると、日本の子どもの学力は高いです。子どもの数などを考えると国際的に「傑出」しているとも言えます(239p)。
 ただし、それは子どもの同質性などに支えられているものかもしれず、必ずしも日本の教育の優秀さを示すものではありません。実際、SESによる学力格差という点から見ると、日本はOECD平均とほぼ変わらず、教育の力によって低SES層の子どもの学力を引き上げているわけではないのです。
 例えば、低SES(下位25%)に生まれながら高い学力(上位25%)を獲得した子どもの割合は11.6%でOECD平均の11.3%とほとんど変わりません。ただ、11.6%でも数で言えば3万5千人ほどになり(調査時点の1学年の生徒数が約120万)、逆境を克服した人はそれなりに観察できます(241−242p)。

 日本の個人間のSES格差はOECD加盟国の中で小さい方ですが、学校間の格差はOECD平均とほぼ同じです。これは高校段階の制度的な分離政策によって学校間の格差を拡大させているからだと考えられます。また、こうした制度が授業以外でまったく勉強しない15歳の生徒の割合を押し上げているとも考えられます(OECD加盟国の中で一番高い(248p)。また、第5章に出てきた生徒の学業成績を重視している教員の割合が低いのもこの影響だと考えられます(249p)。
 
 最後の第7章が提言になりますが、今まで比較的淡々としていた語り口はここで一気にヒートアップします。
 まず、著者が主張するのが「価値・目標・機能の自覚化」です。近代社会の基本理念には「平等」と「自由」がありますが、教育改革においてもこれを意識すべきだといいます。
 教育改革では漠然とその利点が語られていますが、例えば習熟度別クラスは「効率的」であり、より「優秀さ」を追求するもので、「差異化」を志向しています。「自由」を重視するのであれば、これで良いですが、もし「平等」を重視するのであれば、これは「生まれ」による格差を固定化する政策としては批判されるべきかもしれません。
 自由な自己選択というのは文句のつけにくい考えですが、子どもの進学希望でさえもある程度「生まれ」で決まっている現実からすると、手放しで「良い」とも言えないのです。
 ここから著者は、近年文科省が行っているSSH(スーパー・サイエンス・ハイスクール)などにも疑問を呈しています。これらの指定校はいずれも高偏差値校で、恵まれた層に追加的に予算を与える政策になってしまっているからです。

 次に著者が主張するのが「「同じ扱い」だけでは格差を縮小できない現実」を認識することです。
 日本では歴史的に教育の場で「平等」が重視されてきましたが、それはあくまでも「同じ扱い」のことであって、不利な子どもに特別な扱いをすることが組織的に進められてきたとは言えません。
 しかし、今までも見てきたように「生まれ」の格差は強固であり、みんなに同じ教育を施してもその差が埋まるわけではありません。アメリカでは低SESの子どもへの特別プログラムなどが用意されていますが、日本でもそうしたプログラムが導入されるべきなのかもしれません。

 3番目の主張は、「教育制度の選抜機能」をきちんと認識することです。「選抜」に否定的なニュアンスを感じる人もいるかもしてれませんが、大学の定員、会社の採用人数などに限りがあるのであれば、「選抜」を行わざるを得ません。「目の前の子供を笑顔にすることはできても、それは目に見えないどこかの誰かの涙と落胆を引き起こす行為」(271p)となっているかもしれないのです。

 最後の主張は「データを用いて現状と向き合う」で、本書で一番言いたいことなのかもしれません。
 例えば、「ゆとり教育」は受験競争や詰め込み教育を批判する形で導入されましたが、1990年代のデータでは中3で毎日2時間以上勉強している生徒は20%に満たなかったといいます。70年代から学習時間は減りつつあり、受験競争や詰め込み教育というものは立法・行政・メディアなどの教育政策に携わる人たちの経験や実感にすぎなかったかもしれないのです(275−276p)。結果として、SESによる学習時間の差は拡大し、高SES層は私立中学などへ流出しました。
 他にも東京の都立高校の学校群制度、高校の個性化・多様化政策も、良かれと思って行われた政策なのでしょうが、その結果、SESによる格差を拡大させたことは否めません。
 やり直しの効かない教育という分野では、データを丁寧に見た上での議論が求められるのです。こうしたことを踏まえて著者は次のように述べています。

 「多様な価値観・個性」の「多様」は何を意味するのだろう。「学校の勉強が好きではない」のも「多様な価値観・個性」として、「ありのまま」許容するのだろうか。SESによって異なる時間を過ごし(第2・3章)、大学進学期待、通塾、努力、行動などなど様々な点で蓄積量が異なるので(第4章)、学習での成功体験を積み重ねることができなかった中学生の「勉強したくない」という意思を尊重すれば、実質的に高い確率で「生まれ」によって子供を「選抜」することになる。しかも本人の意思を尊重するのであれば、それは自分で学歴獲得競争から降りることを意味する。(283p)

 著者の指摘は事実ではありますが、では、どこまで将来の収入に深く関係する学歴獲得に生徒を向かわせるのかというかは難しい問題で、著者もすべての生徒の生活に介入して構造化するようなやり方を良しとしているわけではありません。
 その上で「大切なのは、あらゆる実践・政策・制度の「よい側面」だけを見て「正しさ」に酔うのではなく、相反する価値・目標・機能の中で葛藤し、総体として「みんな」の可能性の喪失を最小化することなのだ」(287p)と述べています。
 そして、分析可能なデータを収集することと、教職課程で「教育格差」を必修化することを提案しています。

 このように何か鮮やかな解決策を提示している本ではありませんが、しつこいほどにデータを並べることで日本の教育格差の根深さを描き出すことに成功していると思います。手軽には消化できない内容かもしれませんが、今後の日本の教育政策を考えていく上で、基本となる1冊となっているのではないかと思います。


三春充希『武器としての世論調査』(ちくま新書) 6点

 Twitter上で内閣支持率や選挙の分析などを行う「みらい選挙プロジェクト」を運営している人物が、世論調査の見方やデータで見えてくる日本の政治や選挙の姿を示した本。
 冒頭の口絵の内閣支持率や各党の支持率の市町村別データや、新聞の世論調査や情勢取材の読み方など非常に興味深い部分も多いです。ただし、著者は理系の人物で政治学のトレーニングを受けているわけではありませんし、やや関連する研究を消化しきれていない感はあります。個人的には、面白さとちょっと引っかかる点が同居している本だと思います。

 目次は以下の通り。
I 世論調査
 第一章 世論調査の勘違い
 第二章 世論調査を総合して見えてくるもの
 第三章 政策への賛否を読む
 第四章 世論調査の限界
II データでとらえる日本の姿
 第五章 地域が持つ特色
 第六章 時代に生きる人々
III 選挙と世論
 第七章 政治参加の一つとしての選挙
 第八章 選挙はどのように世論を反映するのか
 第九章 情勢報道の読み方

 まずはカラー口絵ですが、ここの与党列島と野党列島の地図は一見の価値ありです。現在の自民党は安倍晋三、麻生太郎の総理、副総理、二階俊博、二階俊博、加藤勝信の党三役と、有力者の多くが西日本の選挙区から選出されているのですが(東日本だと菅義偉、河野太郎、茂木敏充あたり)、この口絵をみると、それも納得という感じで現与党の支持が西日本に偏っていることが見て取れます。また、野党が分裂していることが与党の強さの要因であることもわかるでしょう(野党トータルの得票率がリードしている選挙区はかなりの数になる)。

 第一部で取り上げられているのは世論調査です。世論調査に関しては、「昼間に電話で調査しても引っかかるのは主婦と老人だけであり、本当の世論を反映していない」との批判が根強くありますが、ここではそうした誤解を丁寧に解いています。
 また、1000人程度のサンプルでも内閣支持率などを見るには十分な理由もやさしく解説しています。

 ただし各社の発表する内閣支持率にはかなりのズレがあります。支持率に10ポイント近い差がつくこともあるのです。
 これは調査がいい加減だからではなく、聞き方に違いがあるからです。2択で「支持するか/しないか」を聞いている朝日新聞のような社もあれば、「いえない/わからない」に対して、「お気持ちに近いのはどちらですか」と重ね聞きする日経新聞のような社もあります。さらに「非常に支持できる」、「ある程度支持できる」を合計して支持率を出しているJNNのようなやり方もあります。朝日のやり方に比べると、日経やJNNのやり方では内閣支持率は高めに出ます(332−34p)。
 本書ではこうした差をならすために、各社の内閣支持率を補正し、それをグラフにしています(42pの図1−11)。

 内閣支持率以上にばらつきが大きいのが政党の支持率です。例えば、2013〜18年の自民党の支持率の平均をとっても25.68%の時事通信社から、45.38%のANNまで20ポイント近い差があります(47−48p)。
 このばらつきは政党名を読み上げるか否か、電話か面接かといった調査方法によって生まれると考えられます。時事通信社は個別面接方式をとっていますが、この方式では基本的に政党支持率が低く出ます。
 また、野党の第一党には「選挙ブースト」と呼ばれる選挙の前後に支持率が高くなる傾向が見られ(無党派が減る)、一方、与党の第一党には普段、選挙の得票率以上の支持率を示すという「第一党効果」があると考えらています。
 
 政策に関する世論調査では、さらにばらつきが大きくなります。これは質問文によって賛否が大きく動くからです。例えば、共謀罪への賛否でも質問文に「人権侵害の懸念がある」といった一文を入れるかどうかで賛否は大きく変わるのです。ただし、政策に関する周知が進むとばらつきは収束していく傾向にあります(66pの図1−17の共謀罪のケースなどを参照)。
 
 第2部は「データでとらえる日本の姿」と題し、口絵の与党列島と野党列島の説明をはじめ、さまざまな地域の特徴などを明らかにしようとしています。
 ここで使われるのは衆議院総選挙の比例代表の市町村別の得票率です。ここで著者は「投票数が5000万を超える、日本最大の世論調査としての衆院選比例代表の結果を用いて、地域ごとの特性を考えていくことにします」(88p)と述べていますが、かなり戦略性のある選挙と世論調査を重ねてしまうのはどうかと思います。この後の部分では指摘されているのですが、自民の議員が選挙協力の見返りとして呼びかけている「比例は公明」で動いていると考えられている票の数は100万票近いと見られており(中北浩爾『自公政権とは何か』第7章を参照)、注意が必要です。

 実は西日本で強いのは自民党だけではなく、公明党もそうです。大阪や兵庫いった地域で公明党が複数の小選挙区の議席を獲得しているのは知られていますが、口絵5の得票率を見ると、都市部と西日本で強いことがわかります。
 著者はこれに1996年にNHKが行った都道府県別の宗教信仰率の地図(口絵12)を重ね、古代からの歴史の中で西日本のほうが地縁・血縁が強くなっており、それが創価学会の選挙運動の効果を上げているのではないかと見ていますが、この因果関係は何とも言えないですね。自民の地盤が西日本でしっかりとしているからこそ、「比例は公明」の呼びかけが効いている、といった関係も想定できそうです。

 また、公明党に関しては、西日本の所得の低い地域でより多くの支持を集めている様子もうかがえます(114pの図2−13参照)。さらにこの所得との関係は西日本の幸福実現党の得票率にも見られるそうです(115p図2−15参照、ただし幸福実現党レベルの泡沫政党の市町村別の得票率というのが何かを言える根拠になるのかは少し疑問なのですが)。
 他にも地域の違いを分析した第5章では、新党大地を使って小選挙区と比例代表の連動効果を分析した部分が面白いですね。2012年の衆院総選挙の得票率と新党大地の小選挙区への候補者の擁立の有無を示した131pの図2−18と2−20を見ると、小選挙区で候補を擁立した地域で新党大地の比例の得票率が伸びていることがわかります。
  
 第6章では世代の違いについてとり上げています。
 まず、興味深いのは2014年にNHKが行った「戦後70年に関する意識調査」の各年代別の「日本の社会に大きな影響を与えた出来事」です。3つ選ばせる形式で、各年代とも東日本大震災が最上位に来ていいるのですが、次に来るのは20・30・40・50代はバブル経済とその崩壊で、一方、60・70・80代は高度経済成長です(70・80代は高度経済成長と東京オリンピックがほぼ重なっている。147p図2-28参照)。
 
 次に若者の自民党支持を巡る問題です。2017年の衆議院総選挙の出口調査を見ると、18・19歳と20代で比例で自民にいれた割合がそれぞれ46%、47%と他の年代よりも高くなっています(155p図2-34参照)。ここから「今の若者は右傾化、保守化している」といったことが言われますが、通常の世論調査の政党支持率では自民の支持率は年齢が上がるに連れ高くなっています。
 しかし、これは若者に多い「支持政党なし」層が棄権したということで説明が付きます。もともと若者の間での自民に対する支持率が高いわけではないが、若者の多くが棄権する中で自民の支持者は投票に行くので、出口調査において自民の得票率が高くなるのです(このあたりのからくりは遠藤晶久/ウィリー・ジョウ『イデオロギーと日本政治』第8章が詳しい)。

 投票率に関しては1990年あたりを境に大きな低下が見られます。この時期に選挙制度が中選挙区制から小選挙区比例代表並立制に変わったという要因もあるでしょうが、それ以上に大きいと考えられるのが無党派層の増加です。
 無党派層は1990年から95年にかけて劇的に増加していますが(162p図2-41参照、ただし本書も指摘しているようにこの図の元になっている調査では94年に選択肢の変更がある)、この背景には社会党支持の低下、自民党批判の高まり、新党への幻滅といった要因があると考えられます。
 本書では、特にソ連の崩壊と左右イデオロギーの退潮に注目しており、これを投票率低落の1つのきっかけとみています。
 
 第3部は選挙と世論と題し、民主主義における選挙の位置づけ、現在の選挙の問題点、選挙の情勢報道の見方などが紹介されています。
 政治参加についてや選挙制度の解説については他でも読める内容ですが(最初にも触れた野党共闘が成立した場合のシミュレーションなども行われている)、最後の選挙の情勢報道の見方の部分は面白いですね。

 公職選挙法では選挙についての人気投票の結果や経過の公表を禁じているため、候補者の支持率や予想得票の発表などはできません。ただし、マスコミはそれぞれ選挙についての調査を行っており、そこでの言葉遣いや名前順などでどの候補が有力かを推測することができます。
 例えば、かなりの確率で勝ちそうであれば、「独走」、「盤石」、「大きく引き離す」などの表現が使われ、形成有利であれば、「安定」、「優勢」、「先行」、「一歩抜け出す」、「やや先行」、「わずかに先行」といった表現が使われ、今並べた順でどのくらい有利かがわかります(「安定」と「先行」なら「安定」が上)。形勢不利の場合は、「猛追」、「追う」、『巻き返しを目指す」といった具合で、同じく並べた順に当選圏に近く、「遅れをとる」、「浸透せず」といった表現は敗色濃厚で、さらに支持が低いとそもそも名前がとり上げられません(218p表3-6参照)。
 また、「激戦」、「競る」といった表現でも名前が先に上がった候補のほうが有力である傾向があるそうです。
 さらに新聞ごとの違いもあり、飯田良明氏の研究によると、当選確実を予測する表現を最も使うのが産経新聞であり、最も慎重なのが読売新聞とのことです(225p)。つまり、読売が「優勢」を伝えれば、それはかなりのリードと見ていいのかもしれません。

 このように世論調査と選挙に関してなかなか面白いことを教えてくれる本です。現在の政治状況もよりクリアーに見えてくると思いますし、世論調査や情勢報道を読み解いた部分などはメディアリテラシーの教材としても使えるかもしれません。
 ただ、そこそこ政治学の本を読んできた身からすると、もうちょっと先行研究を読み込んでから単著に取り組んでも良かったのではないかとも感じました。「比例は公明」の問題にしろ、地域政党の問題にしろ、イデオロギーの問題にしろ、政治学の世界ではいろいろな研究が積み上がっていると思うのです。あと、参考文献が明示されているのはいいのですが、論文が著者・タイトル・発表年だけで紹介されていると非常に探しにくいのではないかと思います。
 ただ、いろいろな知的好奇心を刺激される本であることは間違いないと思うので、とりあえず本屋で手にとって口絵の部分だけでも見てみるといいと思います。

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