山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期

ここブログでは新書を10点満点で採点しています。

筒井淳也『結婚と家族のこれから』(光文社新書) 7点

 去年刊行された『仕事と家族』(中公新書)で、少子化をもたらしている日本の仕事と家族の問題点を幅広く分析した著者が、「家族の現在」についてまとめた本。
 前半はややぼやけている部分もあるのですが、後半では非常に鋭い問題提起がなされていると思います。

 第一章は「家族はどこからきたか」。
 「男女がともに相手を好きになり、合意の上で親密な仲になる。関係がうまくいかなければ、別れる。好きな相手ができたら、女性でも積極的に男性に求愛する」、「男女ともに財産の所有権を持つ」と聞けば、戦後以降の「新しい家族」のことだなと思う人が多いでしょうし、「男性は外で働き、女性は家庭で家事や育児をする」と聞けば、昭和までよく見られた「古い家族」だと思う人が多いでしょう。

 しかし、古代の日本では男女の関係は比較的「緩く」、いわゆる「家」制度的なものは確立していませんでした。そこには、現代の北欧社会に通じるような、「結婚」を重視しない関係性があったのです。
 ところが、次第に「家」や「血のつながり」を重視する考えが浸透してくるようになり、「姦通」なども厳しく罰せられるようになります。そして明治になると、家長が財産を独占し、家族のメンバーに大きな権力を振るうようになります。男性優位の家族が出来上がっていくのです。

 このように、この第一章では「古い家族」というのがもっと長いスパンで見れば「古くない」というように家族の形が相対化されているのですが、やや疑問が残りました。古代のようなはるか昔の社会の「現代性」のようなものを指摘することは、あまり意味がないと思うのです(例えば縄文時代の「平等」と現代の「平等」は比べられないと思う)。
 35p以下に、近世社会における農村の「夜這い」や商家の婿取りに触れている部分があるので、そうしたエピソードで十分だったのではないでしょうか。

 第二章の「家族はいまどこにいるのか」では、第二次世界大戦後に進んだ家族の変化を追っています。
 産業革命後、工場などで働き賃金をもらう労働者が増えてきます。当初は、工場で働く女性も大勢いましたが、男性労働者の賃金が上がってくると、家庭と「仕事の場」が切り離されたこともあって、「男は仕事、女は家庭」という規範が強まってきました。
 この動きは欧米では1950~60年代、日本では1970年代にピークを迎えます。日本では、戦後も農家や自営業の家庭が多かったので、専業主婦家庭の浸透はやや遅れたのです(61-63p)。

 また、戦後の日本の特徴として「見合い婚から恋愛婚へ」という流れがあります。
 67pのグラフを見ると、60年代後半を境にきれいに恋愛婚が見合い婚を逆転していますが、著者はそう単純には分析できないといいます。見合い婚の中には、出会いは親がセッティングするけど決定するのは当人というパターンもありますし、逆に恋愛婚の中にも出会いは自分たちでしたけど、結婚には親の同意が必要だったというパターンもあるからです。 
 そして、著者は、現在の日本において娘の結婚の方により親の同意が必要とされる現象に注目し、そこに男女の経済格差の問題を見ています。

 第三章は、「「家事分担」はもう古い?」。
 共稼ぎ世帯が増えるに連れて、「家事分担」が叫ばれるようになっていますが、実証研究によると日本では一日の平均の妻の労働時間が夫のそれと比べて1時間長くなると、一週間あたりの家事の頻度が0.05~0.08回ほど縮まるそうです(102p)。これを見る限り、いまだに夫婦間の家事負担には圧倒的な不公平があるといえるでしょう。

 ただし、同じ程度に家事負担が妻に偏っている夫婦でも、家事分担がより平等な国とそうでない国を比べてみると、平等な国のほうが妻の不満が出やすいという研究もあり(107p)、日本のように女性に家事分担が偏っている国では不満が出にくいという現状もあります。
 こうした「不公平」に対して、フェミニズム政治学者のスーザン・オーキンなどは「正義の不徹底」だと批判していますが(109p)、「私的領域」と考えられている家事の世界に政府が介入すべきかどうかということはなかなか難しい問題です。

 第四章は、「「男女平等家族」がもたらすもの」。ここからがこの本の面白いところといえるでしょう。
 近年、先進国では夫婦共働きの家族が増えており、先進国に限れば共働きカップルのほうが出生率も高いという傾向も出ています(147ー149p)。
 ここから共働きのカップルを支援する正当性といったものも出てくるのですが、著者はここにいくつかの「落とし穴」があるといいます。

 1つ目は育児などのケア労働がより貧しい人に振りかかるという問題です。育児への公的支援が貧弱なアメリカなどでは、育児に「ナニー」と呼ばれるベビーシッターが当たることが多いのですが、多くのナニーは貧しい階層の人間であり、自分の子どもの世話をせずに金持ちの子どもの世話をしているという現実があります。階層社会が共働きを可能にしている面もあるわけです。
 
 2つ目はアメリカの社会学者ホックシールドが唱える「過程と仕事の世界の逆転」とも言うべき現象(161p)。
 共働きカップルは家事や育児を二人で行っていくことが必要で、家庭のマネジメントが重要になってきますが、それが「安らげる家庭」というものを壊しているというのです。

 3つ目は共働きが格差をもたらすという問題。これは橘木俊詔・迫田さやか『夫婦格差社会』(中公新書)でもとり上げられていた問題で、以前は「夫の収入が高ければ専業主婦が多くなり、夫の収入が低ければ妻の有業率が高まる」という「ダグラス・有沢の法則」がはたらいていたが、今は豊かな男女が共働きによってさらに豊かになるという現象が起きています。
 豊かな人と貧しい人がランダムに結婚するような社会ならば問題は少ないかもしれませんが、現実の社会は豊かな人は豊かな人と結婚するという同類婚の傾向が強いです。
 また、課税に関しても共働き世帯が増えてくると、個人単位で課税するか世帯単位で課税するかという問題も出てきます。著者はいくつかの課税スタイルを分析し、共働きを促進し、出生率を上げ、世帯格差を縮めるという3つの目標を実現する方式はなかなかないということです(191p)。

 第五章は「「家族」のみらいのかたち」。
 家族にはセーフティネットとしての機能がありますが、あまりにそれが重視されるようになると、今度は家族が「リスク」になりかねません。そして、それが「家族からの逃避」を生み出す可能性もあります。
 著者は「家族がなくても生活できる社会」を目指すことで、逆に家族が形成しやすくなるとしています。

 また、最後にカップルにおける親密性と不倫などを許さない排他性の問題、さらに第三章でも触れられていた「私的領域における公正さ」の問題を分析しています。
 ややまとまりを欠いた分析になっていると思うのですが、特定の人を「特別扱い」しないリベラリズムと「特別扱い」が基本となる家族の緊張関係というものは、今後ますますクローズアップされてくるのではないでしょうか。

 このように多面的なアプローチから「現代の家族」に迫っています。前作の『仕事と家族』が少子化問題へのアプローチということで一貫していたのに比べると、いろんなアプローチが混在していて、やや議論をつかみにくいところもあるかもしれません。
 ただ、それは現在の家族が直面している「難しさ」の反映でもあり、この本はその「難しさ」について教えてくれる本です。

結婚と家族のこれから 共働き社会の限界 (光文社新書)
筒井 淳也
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西山隆行『移民大国アメリカ』(ちくま新書) 9点

 先日のイギリスのEU離脱の国民投票においても「移民問題」が焦点となりましたし、移民や難民の問題はヨーロッパを大きく揺さぶっています。そして、「移民の国」であるはずのアメリカでも、メキシコとの国境に「万里の長城」を築いて不法移民を一掃すると主張するドナルド・トランプが下馬評を覆して共和党の大統領候補となってしまいました。
 こうした現象を「ポピュリズム」と切って捨ててしまうのは簡単ですが、やはりこの「トランプ現象」というのは立ち止まって考えるべきものでしょう。

 そんな「トランプ現象」を考える上で、非常に有益な知見を与えてくれるのがこの本。
 アメリカの移民をめぐる政策の変遷や、アメリカの教育制度や社会保障制度、そして犯罪と移民の関わりを読み解くことで、「トランプ現象」の背景が見えてくる構成になっています。 
 さらに、2007年6月に連邦議会下院で決議された「従軍慰安婦問題についての対日謝罪要求決議」で注目された、「エスニック・ロビイング」などもとり上げ、アメリカ政治に対して移民が与える影響についても分析しています。
 「トランプ現象」だけでなく、アメリア社会を読み解く上でも役に立つ本と言えるでしょう。

 目次は以下の通り。
第1章 アメリカ移民略史
第2章 移民政策
第3章 移民の社会統合―教育・福祉・犯罪
第4章 エスニック・ロビイング
第5章 移民大国アメリカが示唆する日本の未来

 第1章では、アメリカの移民の歴史が語られています。
 アメリカは「移民の国」ですが、移民のめぐる問題は常にくすぶり続けていました。
 1790年台には、フランスやアイルランドからの移民へはフランス革命の急進的な思想の影響を受けているとの不信感が表明されましたし(27p)、1850年代にはアイルランド系移民への反発から反カトリックの「ノウ・ナッシング」と呼ばれる秘密結社が勢力を増大させました(30p)。

 その後、中国系移民への反発などから、1890年の国勢調査による外国生まれの人を基準として母国籍を同じくする人に移民枠を割り当てる1924年移民法が成立(34p)。さらに、1965年移民法ではこの割当が撤廃され、移民に関して高技能者とすでにアメリカに居住している人の近親者を優先することとしました(40p)。
 この結果、増大したのが中南米系の移民です。彼らは近親者の呼び寄せや、アメリカ生まれの子どもにアメリカ国籍を与えるという制度を利用して、その数を増やしていきました。

 ここから中南米系の移民が政治的な問題となってくるのですが、中南米系の移民に対する民主・共和両党の態度は複雑でした。
 中南米系の票がほしい民主党の政治家は移民に友好的ですが、労働組合に支持されている民主党の政治家は、賃金下落の恐れなどから移民に敵対的な立場を取ります。一方の共和党も企業経営者に近い政治家は移民を歓迎しますが、移民に対する不安を持つ地域から選出された政治家は移民の増加に反対します(43p)。
 このような中で、受け入れるにしろ規制するにしろなかなか思い切った対策を打ち出しにくいのが、今のアメリカの政治の状況なのです。

 この中南米系の移民の増加はアメリカの政治にも大きな影響を与えています。この移民の増加と最近のアメリカの政治情勢を読み解いたのが第2章です。
 1960年に総人口の85%を占めていた白人(中南米系を除く)の割合は2011年には63%にまで低下しています。一方、中南米系は17%にまで増加しました(50-51p)。
 こうした中、中南米系を含むマイノリティは民主党を支持し、白人は共和党を支持するという傾向が強まっています。
 しかし、一方で中南米系はつねに民主党を支持するわけではなく、レーガンやブッシュ(子)は大統領選挙で中南米系の3~4割の票を獲得しており、中南米系を攻略できるかが共和党の候補の勝利への鍵となります(52-53p)。

 そこで、今回の大統領選挙でもマルコ・ルビオとテッド・クルーズが注目されたわけです。両名ともキューバ系の移民の子で、その政治的な立ち位置は随分と違いますが、中南米系の支持が期待できる人物です。
 特にルビオは、2013年に提出された不法移民への合法的地位付与と国境管理強化の両立を図る法案の上院通過に尽力した人物でもあり、中南米系の支持を得られる可能性の高い候補でした(69-70p)。

 ところが、共和党の予備選挙は「白人のバックラッシュ」とも呼ばれる現象によってドナルド・トランプの勝利に終わります。
 80年代以降、黒人の福祉受給者への反発などからブルーカラーの白人が支持政党を民主党から共和党にシフトさせつつあるのですが、そうした支持層がトランプの移民批判を支持したのです。
 移民問題を取り上げればとり上げるほどし支持を増やすトランプに対して、他の候補もトランプに乗っかる形で移民問題をとり上げるようになり、いつの間にか移民対策が最重要課題となっていたのです。
 これは中南米系の票を獲得して大統領選挙に勝利しようと考えていた共和党主流派にとっては痛い展開ですが、結局、トランプが押し切ってしまいました。

 ここまででも薄めの新書1冊分くらいの内容はあると思いますが、さらに第3章では、教育・福祉・犯罪と移民の関係を探っていきます。著者の専攻は社会福祉政策や犯罪政策であり、この第3章が本書の肝といえるかもしれません。
 
 まず、連邦制を取るアメリカでは、移民政策を決めるのは連邦政府である一方、移民に対する教育や福祉など社会統合に関しては州政府が担うことになります。
 州政府から見ると、連邦政府が移民を規制しないせいで自分たちに負担が押し付けられていると感じることになります。このため、州レベルでは「移民に対して厳しい政策」が打ち出されるケースが出てきます。

 教育の分野では、アメリカは中央の統制が緩く、教科書検定制度はありませんし、「国語」の授業もありません。その教育内容は学校区のレベルで決まることが多いのです(101p)。このため、中南米系の移民が多い地区では2か国語教育やスペイン語による教育が行われるケースもあります。
 この状況を憂慮したのがサミュエル・ハンチントンで、彼は中南米系の移民がアメリカ的価値観やアメリカへの忠誠を持とうとしないとして、それがアメリカの国家としての基盤を掘り崩すと考えました(99ー100p)。
 また、こうした状況への反発として、アリゾナ州では2010年に「特定のエスニック集団のために設計された、あるいは、エスニック的一体感を重視する可能性のある授業を、州内の公立学校で実施してはならないと定めた法律」が制定されました(89p)。

 福祉については、「アメリカの寛大な社会福祉政策が貧困な移民を引き寄せている」(109p)との指摘があります。
 著者は年金、公的扶助、医療保険の各分野について、アメリカの制度を説明しつつ、いずれも移民を引き寄せる要因にはなり難いと結論づけています(そもそも、アメリカ合衆国憲法には生存権の規定がない(115p))。
 しかし、「アメリカの公的扶助政策の縮減は、公的扶助受給者は身体的にも精神的にも労働可能であるにもかかわらず怠惰で労働していない人が多い、しかも、その大半は黒人に違いないという、二重の誤解に基づいて進行した」(114p)とも言われており、この「福祉へのタダ乗り批判」には根強い支持があります。実際、オバマ大統領の打ち出した「オバマケア」も不法移民に提供されるとして批判されました。

  次に犯罪ですが、中南米系の男性の収監者数の割合は白人男性を大きく上回っています(126p)。このデータを見ると、「移民は危険」となりますし、それを利用する保守派の政治家も多いのですが、このデータにはからくりがあります。
 中南米系の収監者の半分近くは移民法関連で収監されており、移民が犯罪を起こしているというよりは、不法移民が厳しく取り締まられるようになった影響で収監者数が増えているのです。
 また、アメリカでは民間の刑務所も増えており、移民法関連の収監に特化した民間刑務所も登場しています。そのような民間刑務所が移民取り締まりの強化を求める動きもあるそうです(133p)。

 第4章はエスニック・ロビイングについて。
 多くの人はユダヤ・ロビーという言葉を聞いたことがあるのではないでしょうか。ユダヤ人が豊富な資金力を持って政府にロビイングするために、イスラエルを批判するような政策が通らないという話です。
 アメリカにはさまざまな国からの移民がいて、またアメリカという国の影響力も大きいです。そこで、特定のエスニック集団が自分たちの民族や母国のためにロビイング活動をするのです。

 例えば、アルメニア系はこのロビイングを積極的に行っており、2007年にはトルコによりアルメニア人の虐殺をジェノサイドと認めるように求める決議が下院の外交委員会で採択されました。
 この決議はトルコの反発を呼びましたが、アメリカでは時の国益と反するようなこのような決議がしばしば行われます。アメリカではエリートが外交を独占する伝統がなく、選挙区の事情などから国益とはまた違ったロジックで議会が動くことが多いのです。 
 この本では従軍慰安婦についての決議に関してもアルメニア系のロビイングとの絡みが指摘されています(142-147p)。

 また、ユダヤ系、キューバ系、メキシコ系のロビイングについても分析しており、これらが一種のトランスナショナル・ポリティクスの様相を示していることも指摘しています。
 さらに、アジア系のロビイングについても近年の日系から中国系へのパワーの変遷を紹介しています。予算の縮小にともなって日系の存在感は薄れており、その一方で中国系は潤沢な予算で存在感を示しています。ただ、中国は中国系のアメリカ人のコミュニティの動員には成功していない面もあります。

 第5章は、今後の日本への示唆などについて。技能実習生の問題や社会統合の問題などが簡単に触れられています。

 このように非常に内容が盛りだくさんの本です。トランプ現象の背景が読み解けるとともに、アメリカの教育・福祉・犯罪と移民の問題の関わりを知ることができ、さらにエスニック・ロビイングを通じて、国境を超えた政治活動についての知見を得ることができる。これだけの内容をコンパクトにまとめた新書というのはなかなかないと思います。
 今年の秋の大統領選挙を前に、多くの人に薦めたい本ですね。 

移民大国アメリカ (ちくま新書)
西山 隆行
4480068996

松沢裕作『自由民権運動』(岩波新書) 9点

 民衆が自由と民主主義を求めた運動、政変に敗れた板垣退助、後藤象二郎、大隈重信といった人物が再び政治的影響力を取り戻すために始めた運動、のちの大陸進出につながるナショナリズムをつくり上げていった運動など、自由民権運動についてはさまざまな見方、評価があります。
 そうした中で、この本は自由民権運動を近世社会から近代社会の移行期に、その新しい社会を自らで創りだそうとした運動として捉えています。
 このように書くとかなり格調高く聞こえますが、実際、この本で紹介されるいくつかのビジョンは時代錯誤であり、ご都合主義なものです。そうした、駄目な部分も含めてとり上げることで、自由民権運動に新しい光を当てた本と言えるでしょう。
  
 著者は『町村合併から生まれた日本近代』(非常に面白い本で、おすすめです)で、町村の再編によって、いかに近世社会から近代社会への移行が行われたかということを明らかにした松沢裕作。
 今作でも、近世から近代への移行期に生きた人々の姿を、さまざまなエピソードや史料から明らかにしようとしています。

 目次は以下の通り。
第1章 戊辰戦後デモクラシー
第2章 建白と結社
第3章 「私立国会」への道
第4章 与えられた舞台
第5章 暴力のゆくえ
終章 自由民権運動の終焉

 まず、著者は日本における「デモクラシー」が戦争の後に盛り上がったことに注目します。
 大正デモクラシーは日露戦争の後に起こりましたし、戦後民主主義も十五年戦争の後に起こりました。そして、戊辰戦争の後に起こったのが、この自由民権運動だというのです。

 自由民権運動の指導者というと、板垣にしろ大隈にしろ薩長の藩閥に敗れた「敗者」というイメージが強いですが、著者が光を当てるのはむしろ戊辰戦争の「勝者」としての立場です。
 この本では板垣退助と河野広中という二人の自由民権運動家を詳しくとり上げていますが、この二人は戊辰戦争の「勝者」になります。河野広中については福島出身ということで旧幕府側の人間と思う人もいるかもしれませんが、河野は奥羽越列藩同盟に参加していた三春藩を新政府側に恭順させるために努力した人物です(4ー8p)。
 しかし、板垣。そして特に河野は戊辰戦争に対する自らの貢献(というか貢献の自負)に見合った処遇を受けることは出来ませんでした。それが彼らを自由民権運動に結びつけることになります。

 河野広中は三春の魚問屋に生まれた人物で、近世社会であれば彼が政治的な発言権を持つことはありえません。
 著者は、近世の身分制を上下のヒエラルキーというよりは、人間がいくつかの「袋」にまとめられ、その積み重ねによって社会が出来上がっているようなものだといいます。
 武士は藩に所属し、百姓は村に所属しており、それぞれが袋のような形で中にいる人々を保護し、統制しているのが近世社会なのです(24ー26p)。
 しかし、明治維新によってこの「袋」は破れます。また、江戸時代の末期になると博徒や日用と呼ばれる日雇い労働者など、「袋」からはみ出すような存在も生まれていました。
 幕末の洋式軍隊では、このような博徒や日用が歩兵として集められました。西洋式の軍隊とそれまでの武士のやり方では、軍隊編成の根本が違い、こうした人々を集めざるを得なかったのです(17ー23p)。

 1874年、民撰議院設立建白書が提出されたことによって自由民権運動はスタートを切りますが、この建白書に対して二つの批判が寄せられました。
 一つは「有司専制」を批判していながら、主要な提出メンバーも少し前まで「有司」ではなかったのか? という批判、もう一つは民撰議院の設立は長期的な目標であって、今の日本では時期尚早であるという加藤弘之の批判です。
 ここで注目すべきなのは民撰議院設立そのものには誰も反対していない点です。民撰議院は誰もが同意する「錦の御旗」であり、それは「権力から追われたものが、ふたたび権力に「わりこむ」ための道具という側面をもっていた」(46p)のです。

 この後、自由民権運動推進のために各地で結社がつくられます。この結社は自由民権運動を進めるとともに、近世社会の「袋」を補完するようなものでもありました。
 板垣らが立ち上げた土佐の立志舎はよく知られた結社ですが、活動の大きな柱として困窮した士族への援助があり、県庁と癒着しながら「袋」を失った士族を保護しようとしました。
 立志社に関しては、西安戦争の際、西郷と呼応して武力蜂起をしようとしたと言われてますが、西南戦争で西郷は敗北。立志社の権力に「わりこむ」動きは挫折することになります。

 権力に「わりこむ」運動に挫折した人々は、今度は愛国社を中心に自分たちの力で身分社会にかわる新しい秩序を創ろうとします。
 このように書くと非常に立派なビジョンですが、この愛国社に集まった各地の結社はその性格も様々で、まさに「同床異夢」という言葉がピッタリとくるようなものでした(この結社がシーダ・スコッチポルが『失われた民主主義』で描いたようなアメリカの会員に保険を提供するようなものに育っていけば日本の社会も少し違うものになっていたのかもしれません)。

 頭山満らがいた福岡の向陽社(後の玄洋社)は、筑前国すべての人々を組織しようとした結社で、町村→郡→筑前国の積み上げによってつくられた一種の民会組織を目指していました(77ー79p)。
 越前の天真社は、地租改正不服運動を背景にして、村単位の参加を求めて結社をつくろうとしました一方、福沢諭吉が中心となった交詢社では、知識の交換や交流に主眼が置かれていました(80ー86p)。

 愛知県の愛国交親社は、戊辰戦争に参加した博徒など中心とした結社で、「撃剣会」の興行を行い、さらに「愛国交親社に加入されば二人扶持の俸禄が支給され、さらに腕力のあるものには帯刀が許される」「入社すれば兵役を免れる」「税金が免除される」といった文句で勧誘活動を行っていたそうです(92ー96p)。
 これは「自由民権」でもなんでもなく、要するに「愛国交親社に入れば武士になれますよ」ということです。
 著者はこれを「参加=解放」型の幻想と名付けています(96p)。結社に参加することで、社会的な上昇を果たすことできるという幻想が共有され、その時のイメージとして、誰もが知っている「武士」という身分が利用されたのです。
 
 このような人々の雑多な夢を取り込みながら、自由民権運動は展開していくことになります。
 1881年の明治十四年の政変によって国会の開設が決まったあとも、立憲改進党がすでにあった府県会での活動に熱心であったのに対して、自由党は既存の秩序である府県会には否定的でした。
 この本では1882年に起きた福島事件がそのような観点から分析されています。この事件で逮捕された河野広中は、県令・三島通庸の暴政に苦しめられている農民と連帯して戦ったわけではなく、県会でひたすら三島と対立し続け、その反政府的な動きがもとで逮捕されたのでした(146ー163p)。
 
 この福島事件を皮切りに、激化事件と呼ばれる自由党の関係した暴力事件が起きていくのですが、その背景には「暴力に訴えてでも新しい秩序を自分たちの手で創出する」(190p)という自由党の思想の中核にあるものがありました。
 その新しい秩序というものは現状否定以外の共通点を持つものとは言いがたいものでした。
 この本でとり上げられている秋田事件(秋田立志会のメンバーが資金調達のために強盗を行った事件)を起こした秋田立志会は、先ほど出てきた愛国交親社と同じように「参加すれば永世禄が支給される」「徴兵制を廃止し、立志会のメンバーが軍事力の担い手となる」といった謳い文句で勧誘を行っていましたし(172ー177p)、愛国交親社のメンバーも強盗事件を起こして逮捕されています(186p)。
 
 この現状否定路線は、自由党が解散し、激化事件の中でももっとも大規模なものとなった秩父事件が軍隊によって鎮圧されたことによって終りを迎えます。そして、著者はこの2つの出来事が起こった1884年をもって自由民権運動は終わったとしています(204p)。
 自分たちの手で新しい社会を創り上げる運動は挫折し、政府によってつくられた憲法や帝国議会という舞台の上で新しい政治がスタートすることになるのです。

 大隈重信の動きや松方デフレの影響などについては、この本ではあまり触れられていません。ですから、自由民権運動のすべてを描いた本だとは言えないと思います。
 しかし、近世社会から近代社会の移行という点に注目しながら、自由民権運動を語り直してみせたこの本は、歴史の理解に新しい視点を提供してくれるものですし、何よりも面白いです。また、コンパクトにまとまった本でありながら、「文献解題」もついており、今後、自由民権運動を考えていく上での「最初の一冊」となっていくのではないでしょうか。

自由民権運動――〈デモクラシー〉の夢と挫折 (岩波新書)
松沢 裕作
400431609X

角岡伸彦『ふしぎな部落問題』(ちくま新書) 8点

 自分は現在、東京で社会科の教員をしているのですが、教えるときにいつも難しさを感じるのが部落差別の問題です。
 今の東京の中学生や高校生だと部落差別についてまず知らないですし、「結婚や就職などで差別があったりする」と言ってもなかなかピンとこない様子です。結局、「江戸時代には「えた」、「ひにん」と呼ばれていて」といった歴史的な経緯を中心に話すのですが、いつも部落差別を知らない生徒に部落差別の存在を教えることに引っ掛かりを感じていました。

 そうした部落差別を語ることの難しさを、部落出身のライターである著者が解きほぐしてくれたのがこの本。
 部落差別をなくすための取り組みの相反する方向性を明らかにしつつ、橋下市長の出自をめぐる『週刊朝日』の問題や、映画「にくのひと」の上映をめぐる問題、さらに部落での新しい動きなどをとり上げることによって、今なお続く差別や、解消のための方向性を探ろうとしています。

 目次は以下の通り。
第1章 被差別部落一五〇年史
第2章 メディアと出自―『週刊朝日』問題から見えてきたもの
第3章 映画「にくのひと」は、なぜ上映されなかったのか
第4章 被差別部落の未来

 著者は「はじめに」の部分で、基本的に、あらゆる反差別運動は非差別当事者を残したまま、差別をなくすことを目指している、と言っています。障害者差別に反対する障害者は「障害者でなくなること」を目指しているわけではなく、「障害者のままで暮らせること」を目指しているわけです。
 しかし、部落解放運動に関しては「部落民のままで暮らすこと」と「部落民でなくなること」の間を揺れ動いてきました。
 このことについて著者は次のように述べています。
 部落解放運動は、部落民としての開放を志向しながら、「どこ」と「だれ」を暴く差別に対して抗議運動を続けてきた。しかしそれは出自を隠蔽することにもつながる営為であった。部落民としての解放を目指しながら、部落民からの解放の道を歩まざるを得なかった。
 差別をなくす過程で、部落を残すのか、それともなくすのかという課題を、私たちは整理できていないのである。現在起きているさまざまな問題は、この部落解放運動が抱える根本的矛盾から派生している、と私は考える。(9p)

 第1章では、全国水平社から始まる部落解放運動の歴史が振り返られています。
 水平社宣言のなかでは、「吾々がエタである事を誇り得る時が来たのだ」(26p)と、「部落民のままでの解放」が宣言されていますが、実際、すべての部落民が「部落民のままでの解放」を望んだわけではありませんでした。

 また、全国水平社の創立大会の参加者から「(宣言では)自らは、特殊部落民、エタといっていて、自分たち以外の人がこう呼ぶことはけしからん、というのは、どうも納得がいかない」との声も出たそうで(31p)、呼称の問題はこの後もずっと付きまとうことになります。
 著者は「あってはならない存在を固定化するという矛盾を、部落解放運動は当初から内包していたのである」(32p)と言います。

 その後も部落の暮らしは改善されず、1960年に発足した同和対策審議会の答申を受け、1969年に同和対策事業特別措置法が施行されることになります。
 しかし、この同和対策事業は、「どこ」と「だれ」を明らかにしなければしなければ前に進まないものでした。そして、33年間で15兆円が投じられた事業によって部落の環境は大きく改善されましたが、結果的に部落(同和地区)を残存させることにもなりました(44ー45p)。

 このように書いていくと、やはり「部落民でなくなること」(部落を解消していく)を目指していけばよかったのではないかと感じる人もいるかもしれませんが、差別というものはそう簡単なものではありません。
 
 この本の第4章には、大阪の箕面市の北芝という場所で、新しい部落の形を模索する人達の姿が紹介されてます。
 同和対策事業特別措置法の功罪や、それを乗りこえて新しい街づくりを進める人々の姿は非常に興味深いのですが、その個々人のエピソードの中に部落問題の根強さが顔を出しています。

 例えば、1950年代半ば生まれで新しい街づくりを始めた世代の人々は、部落出身でありながら、部落差別の話を聞いて、「この世の中に、そんな差別なんかあるかい」と答えたそうです(188p)。
 しかし、交際だ結婚だとなると差別にぶち当たります。当事者が「部落民でなくなっても」、周囲がそれにこだわるのです。21世紀になった今でも、こうした差別に直面する若者は少なくありません。

 そして、部落に対する「外からのこだわり」を露呈させたのが、この本の第2章で取り上げられている橋下市長をめぐる『週刊朝日』の記事の問題でした。
 ノンフィクション作家の佐野眞一によるこの記事では、橋下氏の父親が部落出身者であることが指摘した上で、その出自と橋下氏の性格や本性を結びつけるような記述がなされていました。
 この連載は橋下氏からの抗議もあり、すぐに打ち切られることになりましたが、この記事自体も部落に対する差別意識があってこそ成り立つような記事でした。

 著者は、こうした橋下氏の出自を「暴く」記事が『週刊朝日』以前にもいくつかあったことを指摘し、その誤りについても書いています(橋下氏は大阪市の同和地区に引っ越して暮らしていたと報じられているが、そこは同和地区の隣接地区であって同和地区ではない、など)。
 橋下氏の主張や政策への批判があるのは当然ですし、人間的に好きになれないといった感情を持つ人もいるかもしれませんが、それが今なお「出自」や「血脈」と重ねられてしまう。そういった社会意識が、少なくともマスコミには生きているのです。

 また、部落問題がこじれているのは、部落解放運動を進める側の閉鎖性や定まらないスタンスにも原因があります。それを明らかにしているのが第3章の映画「にくのひと」の上映中止をめぐる問題です。
 2007年、ある大学生が食肉センターを取材したドキュメンタリー映画を撮影し、部落解放運動の研修会やアムネスティ映画祭で好評を博し、田原総一朗ノンフィクション賞の佳作を受賞しましたが、結局、一般上映されることはありませんでした。
 食肉センターのある地元の部落解放同盟の支部から「待った」がかかったからです。

 支部が問題にしたのは、「エッタ」という言葉が使われているシーンと、地名や食肉センターの住所が明記されているシーン。
 食肉センターの住所を表示するのは、どこが部落であるのか知らせているのと同じだという主張なのですが(143p)、これに対し、食肉センターの責任者で撮影を許可した中尾氏は「”寝た子を起こすな”という考え方と一緒や」(145p)と批判しています。
 解放同盟の中でも、「部落民のままで暮らすこと」と「部落民でなくなること」の両立し得ない二兎を追うような態度が見られるのです。
 こうした状況で、「触らぬ神にはたたりなし」と遠ざけられているのが現在の部落問題ではないでしょうか。

 この状況に風穴を開けるものとして紹介されているのが、先ほどの部分でも少し触れた、第4章の北芝という地区を紹介した部分です。
 部落であること隠すのではなく、また一方的に援助を受けるわけではなく地域として自立していこうとする姿は非常に興味深いものです。
 
 橋下市長は「いわゆる被差別部落の問題をひとつひとつ解決していこうと思えば、役割を終えたものはできる限りなくし、普通の地域にしていくのが僕の手法」と述べたそうですが(276p)、著者は「そう簡単に歴史が風化するわけではない」(277p)と言います。また、ネットの普及は「風化」を許さなくなっています。
 「出自」や「血」といった全近代的な感覚ではなく、「歴史を背負った地域」という見方で部落問題を考えていくことが必要なのでしょう。

 なお、この本の持つ問題意識については、梶谷懐氏のブログでより広い視野からとり上げられています。一読をおすすめします。

ふしぎな部落問題 (ちくま新書)
角岡 伸彦
4480068961

菅野完『日本会議の研究』(扶桑社新書) 6点

 話題の書。とりあえずの全体の感想としては、著者の熱い思い入れが伝わってくる本ですけど、その「思い入れ」が「思い込み」に転化してしまっている部分もあるな、というものです。
 ただ、著者が切り込んでいかなければ、「日本会議」という組織についてきちんと検討しようとする機運も高まらなかったわけで、そうした意味で貴重な仕事と言えるでしょう。

 Amazonのページにある本書の紹介文は以下の通り。
「右傾化」の淵源はどこなのか?
「日本会議」とは何なのか?

市民運動が嘲笑の対象にさえなった80年代以降の日本で、めげずに、愚直に、地道に、
そして極めて民主的な、市民運動の王道を歩んできた「一群の人々」がいた。

彼らは地道な運動を通し、「日本会議」をフロント団体として政権に影響を与えるまでに至った。
そして今、彼らの運動が結実し、日本の民主主義は殺されんとしている。――

安倍政権を支える「日本会議」の真の姿とは? 中核にはどのような思想があるのか?
膨大な資料と関係者への取材により明らかになる「日本の保守圧力団体」の真の姿。

 2014年の衆議院選挙後に成立した第三次安倍内閣は、閣僚19人のうち16人が「日本会議国会議員懇談会」に所属していました。もっとも、「神道議連」は19人中18人(公明党の太田昭宏国交大臣以外全員)、「靖国議連」は19人中16人なので、日本会議だけが突出しているわけではないのですが、神道議連や靖国議連と違ってどんな団体なのかがよくわからないのが日本会議の特徴といえるでしょう。

 まず、この本を読むと日本会議と宗教団体の関係が見えてきます。
 この本の31pに載っている日本会議の役員の表を見ると、神社本庁から靖国神社、明治神宮、比叡山延暦寺、黒住教、霊友会、崇教真光など、さまざまな宗教団体の関係者が名を連ねています。
 
 また、この本の第4章では、日本会議が主導する「美しい日本の憲法をつくる国民の会」が主催した2015年の11月10日の「今こそ憲法改正を! 武道館一万人大会」の模様がレポートされていますが、そこでは「崇教真光から3000人」など、宗教団体を通じての動員が行われていました(123ー128p)。
 宗教団体という確実に票や動員を計算できる団体とのつながりが日本会議の強みの一つなのです。さらに政治家とすると、根強い批判のある新興宗教に直接支援を受けるよりも、日本会議というワンクッションが入ったほうが付き合いやすいという面もあるのかもしれません。

 このさまざまな宗教団体を通じて動員を図るという日本会議の手法が確立したのが、1977年に始まった「元号法制化運動」でした。
 日本会議の前身は「日本を守る会」と「日本を守る国民会議」であり(39p)、特に「日本を守る会」は「元号法制化運動」の中心となって元号法制化を成功させました。
 このときに使われたのが、地方会議での意見書採択運動や各地でのデモ、シンポジウムの開催といった手法であり、この手法が現在の日本会議の運動にも生かされています。

 では、この日本会議や前身の「日本を守る会」をつくったのはどのような人々なのか? 著者はそれを「生長の家」の関係者だとします。
 「生長の家」は、1930年に谷口雅春によって設立された宗教団体で、現在はエコロジー路線をとり政治とは距離をおいているものの、かつては反共意識に基づく右派的な教義を説く団体でもありました(42p)。

 「生長の家」は、学生運動がさかんだった60年代後半に「生長の家学生会全国総連合」(生学連)を結成。左翼的な学生組織に対抗しようとしました。
 そんな「生長の家」が主導した学生運動の輝かしい成果が、左翼学生が選挙し授業が中断していた長崎大学の「正常化」でした(44p)。
 この運動の中心となったのが椛島有三であり、彼こそが現在の日本会議の事務総長になります。

 この「生長の家」の関係者には、一時期「参院の法王」とよばれた村上正邦、安倍首相のブレーンの一人とも言われる日本政策研究センター所長の伊藤哲夫、平和安全法制において合憲の立場をとった憲法学者の百地章、「親学」を提唱する高橋史朗、安倍首相の補佐官を務める参議院議員の衛藤晟一などがいるされています。
 村上正邦は別としても、残りの人物はいずれも安倍首相と近い距離にあり、安倍首相の靖国神社参拝に米国政府が「失望」を表明したことに対し「我々の方が失望した」と発言した衛藤晟一を見ればわかるように、「復古的」とも言える価値観を主張する人々でもあります。

 著者はこうした一群の人々の存在を指摘した上で、さらにこれらの一群の人々を束ねるキーパーソンとして安東巖という人物の名前をあげています。
 安東巖は、椛島有三とともに長崎大学の「正常化」を成し遂げ、その後、「生長の家学生会全国総連合」(生学連)の書記長となりました。この生学連の委員長にはのちに一水会を結成し有名となる鈴木邦男が就任しましたが、安東の謀略によって失脚したそうです(278-283p)。
 この本は、この安東のカリスマ性についていくつかエピソードを紹介し、安東こそが中心人物であると結論づけています。

 ただ、安東巖がいくらカリスマ性に満ちた人物であったとしても、それが現在の日本会議に大きな影響を与えているとは結論付けられないのではないかと思います。
 例えば、この本には「いまだに、樺島さん伊藤さん百地さん高橋さんは、毎月、安東巖さんの家でミーティングしているはずです。少なくとも、元号が平成に変わる頃までは、毎月、安東さんの家に集まっていた」という関係者の証言を載せています(292p)。しかし、「元号が平成に変わる頃」とは四半世紀も前のことであり、現在の日本会議との関係をこの証言で裏付けるのは厳しいと思います。
 この本に書かれている安東巖の影響力というのは、あくまでも可能性の話でしかないと思います。

 また、2015年の12月に最高裁が「女性の再婚禁止期間」については違憲判決を、「夫婦同姓義務」については合憲判決を出しましたが、著者はその裏に「夫婦別姓阻止」を掲げる日本会議の存在を見ています。
 「最高裁の判断にまで、日本会議の影響を考えるのはいささか陰謀論めいてはいる」(93p)と断ってはいますが、やはりこの部分は陰謀論でしょう。最高裁の判断はある程度予想通りのものだったはずです。

 このように著者の「思い込み」が目立ってしまっている部分もあるのですが、日本会議が陳情や署名活動、デモなどの民主的な手法を地道に積み重ねながら影響力を増してきたという指摘は重要なものだと思います。政治には組織力や持続力が必要であり、日本会議に対抗すべきリベラル勢力にはそれが欠けていたと考えられるからです。
 政治に興味がある人は目を通しておいたほうがよい本だと思います。

日本会議の研究 (扶桑社新書)
菅野 完
4594074766

八代尚宏『シルバー民主主義』(中公新書) 6点

 有権者の中心が高齢者になることで、高齢者が政治に大きな影響力を持つようになるというシルバー民主主義。高齢化が急速に進む日本では、まさにシルバー民主主義となりつつあると言われていますが、そのシルバー民主主義のもとでの社会保障や税制、雇用などの問題を論じたのがこの本です。
 シルバー民主主義の実態を解明するというよりも、シルバー民主主義という現実を受け入れた上で、いかにしてその弊害をなくしていくかということを論じた本になります。

 190ページほどの紙幅でさまざまな問題が論じられているので、個々の問題を深く分析しているわけではないですが、著者がかなりはっきりとした新自由主義者であるため、新自由主義の考え方をコンパクトに知ることができる本として面白いかもしれません。

 いわゆる「リベラル」陣営からは何かを批判するときの枕詞のように「新自由主義」という言葉が使われていますが、実は「リベラル」と「新自由主義」にも共通点はあって、例えば、この本の60p以下では選択的夫婦別姓制度や同性婚を、個人の選択を国が規制すべきではないという理由から支持しています。
 
 では、どこが違うのか?
 その辺りもこの本を読んでいくとわかると思います。

 まず、民主主義に対する以下の捉え方があります。
 納税者が団結することで、政府の持続的な歳出増加を通じた際限なき税負担の増加を防ぐことが、納税者民主主義の根幹にある。これに対して、高齢化の進展により税や社会保険料で賄われる社会保障給付の受益者層が持続的に増加し、政治力を高めるシルバー民主主義は、この納税者民主主義の基本原則を脅かす。(19p)

 これが新自由主義から見たシルバー民主主義の弊害です。勤労世代は「低負担低福祉か、高負担高福祉か」という選択を責任をもって選ばざるをえないのですが(高福祉を望めば高い税金を払わざるをえない)、高齢者は負担を現役世代に回すことで、「低負担高福祉」を望むことができるのです。

 その上で、著者は高齢者間の格差に目を向けます。
 大企業と中小企業の間で賃金格差のある日本では、特に勤続年数が増えるに連れて賃金に差がつきがちです。また、退職金にも差がありますし、現在の実質的に賦課方式となっている年金制度のもとでは、高所得者ほど現役世代から多くの所得移転を受け取っているともいえます(41-43p)。
 日本では世代間での所得移転が中心に考えられていますが、世代内、つまり高齢者間での所得の再分配が必要なのです。

 確かに高齢者の貧困問題は重要ですが、著者はそれ以上に子供の貧困が問題だとして、介護保険の子育て版としての「育児保険」を提唱しています。この「育児保険」を使って保育サービスの分野にも介護分野と同じような民間事業者の参入を促すべきだとしています(44-48p)。

 そして、この本で中心的に論じられているのが高齢化社会における社会保障制度の改革です。
 著者は現在のままでは財政は破綻すると見ており、また、年金における積立不足も深刻な問題だといいます。 
 年金財政の問題について、著者は支給年齢の引き上げを推しています。
 保険料の引き上げは現役世代の負担になりますし、給付額の削減についても現在のマクロスライド方式では低年金者に大きな負担になります(104p)。
 一方、支給年齢の引き上げは他国と比較して合理的だといいます。各国の支給開始年齢と平均寿命の差は10年程度ですが、日本は15年を超えています。支給年齢を70歳に引き上げることによって、他国と同じ程度の給付期間に抑えるべきだというのです。

 税制については、年金所得への課税を強化するとともに配偶者控除の廃止を訴えています。
 さらに消費税を社会保障目的消費税、あるいは年金目的消費税とすることで社会保障財源を確保し、税制を簡素化することを狙っています。消費税の逆進性については、低所得者向けの社会保障を充実させることで緩和可能だという立場です。
 また、相続税などの資産課税の強化も提唱しています。

 医療分野では混合診療の解禁という、いかにも新自由主義者らしい政策を主張するとともに、家庭医(ホームドクター)制度による過剰診療の抑制を主張しています。

 著者の専門ともいうべき雇用の分野では、年齢差別の禁止とそれによる定年制の廃止が主張されています。
 ただし、定年制がなくなった場合、今までのような年功賃金は維持できません。同一労働同一賃金へとシフトしていかざるをえないとしています。

 このように新自由主義の立場から一貫した主張がなされています。年金に関しては税方式を主張しつつも、積立方式への以降を主張している部分もあって著者の考える全体像がいまいち見えてこないのですが、その他の分野については明快だと思います。

 肝心のシルバー民主主義への対処としては、実情をきちんと説明する、高齢者の利他的な動機に期待する(孫のお年玉を取り上げるような年寄りはいないだろう(187ー188p))といったことがあげられています。
 この部分についてはやや物足りなくもあるのですが、高齢化社会に対する新自由主義の立場からの処方箋をざっと見ることができる便利な本だと思います。


シルバー民主主義 - 高齢者優遇をどう克服するか (中公新書)
八代 尚宏
4121023749

稲葉振一郎『不平等との闘い』(文春新書) 8点

 サブタイトルは「ルソーからピケティまで」。ピケティの名前が入っているということで、ピケティの解説本のようなものを期待する人もいるかもしれませんが、内容は「ピケティにたどりつくまで」といったもので、経済学のどのような文脈の中からピケティの研究が出てきたかということを明らかにしようとした本です。

 ご存知のようにピケティは、資本主義社会において「r(利子率)>g(成長率)」が一般的であり、格差が広がりつつあることを実証的な研究から明らかにしました。
 このピケティの研究から、全世界的に格差への関心が高まったわけですが、そうした人間の不平等について考えた思想家にルソーがいます。ルソーは私有財産制の始まりこそが、人類の不幸の大きな原因と考えていました。

 と、ここまで書くと、「なるほど、著者はルソーに立ち返ることで格差の問題を根源から考え直そうとしているのだな」と思う人もいるかもしれませんが(ある意味でそれをやろうとしたのが重田園江の『社会契約論』(ちくま新書))、この本はそうしたある意味でわかりやすい企みとも違います。

 この本は徹底的に経済学の文脈を追いながら、格差という問題が初期の経済学によっていかに捉えられ、いかに忘れられ、いかに問題として浮上してきたかを論じた本です。
 
 私有財産制度こそが不平等と公共の不幸の原因にほかならないと考えたルソーに対して、アダム・スミスは私有財産制の確立によって経済が発展し、それによって貧しい人の生活も改善されると説きました。
 つまり平等が大事だといっても、「みんなで貧しくなる」のでは意味がないと考えたのです。
 このスミスとルソーの間に、「成長か格差是正か」「成長と不平等緩和のトレードオフ」というべき議論の原型ができあがっているのですが(24p)、経済学はこの問題を単純に繰り返し論じてきたわけではありません。

 スミスやリカードウといった古典派経済学者の間では、資本家、地主、労働者という階級は固定的で、その階級の間を移動することはほとんど考えられていませんでした。
 スミスは、労働者の賃金が上がると労働者が子どもを増やすことで労働者人口が増加、それによって労働力の供給が増え賃金が下落するというメカニズムを考えており(32-33p)、労働者は基本的に低い所得しか得ることができまません。

 この不平等の問題に正面から取り組んだのがマルクスでした。
 マルクスは資本家が労働者を搾取していることが不平等の原因であり、また、技術革新によって常に生み出される失業者が労働者の賃金上昇を阻むと考えました。

 一方、19世紀後半から20世紀はじめにかけて成立した新古典派経済学では、階級のちがいといったものは後景に退き、市場における最適な生産、最適な消費といったものが分析の基本に据えられるようになります。
 特にアルフレッド・マーシャルは「人的資本」という概念を導入し、労働者も職業訓練などの投資によって賃金などが決まってくると考えました。
 労働者も日々の生活に追われるだけではなく、自らの「人的資本」に投資をする資本家としての側面があるというのです。

 さらに金融市場が整備されると、資本家と労働者を区別することの意味がますます薄れていきます。
 株式市場の発展によって、誰でも株主になれる社会が到来しますが、これはつまり「誰もが資本家になりうる」社会でもあります。
 格差の問題は、資本家と労働者の間の格差から、大企業と中小企業の間の格差に問題にシフトしていき、また正規雇用とパートタイマー、本工と期間工といった格差も浮上しました。

 そんな中、1950年代になると再びマクロ経済学成長論において、不平等や成長と分配の関係についての関心が復活します。著者はこれを「不平等ルネサンス」と名づけています。
 この関心のきっかけとなったのがクズネッツの提唱したクズネッツ曲線です。これは農業主体の経済から産業化が進むとそれに伴い格差は広がるが、一定以上産業化が進展すれば再び格差は縮小に向かうというものです。
 これは日本の現実にも当てはまるため飲み込みやすい考えだと思います。江戸時代が終わり日本の産業化が始まるとそれに伴い格差は広がったが、高度成長期になるとその格差は縮小に向かい、一億総中流社会が実現したというのが日本経済のわかりやすいストーリーであり、これはクズネッツ曲線をなぞるような過程になっています。

 しかし、1990年代になるとクズネッツ曲線の予測を外れる事態、つまり、先進国内で格差が拡大する傾向が観測されるようになるのです。
 そして、今までの新古典派経済学では、「自由な市場経済が存在しているところでは、人々の間における富や知識、能力の分配がどうであろうが、それらは最大限活用されるであろう」と考えられていましたが、「分配パターンが市場における生産と資本蓄積・経済成長に対して影響を与えることがある」(147p)と意識されるようになっていくのです。

 このあと、この本では実際に経済成長と格差に関するモデルを構築し、それがどのような帰結を生むのかを見ています。
 なかなか要約しにくい部分であるので、ここでは詳しい内容は紹介しませんが、非常に経済学的な議論がなされているので、経済学者がどんなふうに物事を見ているのかを理解する上でも参考になる部分だと思います。
 また、その中で資本市場の重要性を指摘しつつも、人的資本を向上させるための教育ローンの分野に関しては情報の非対称性などからどうしても利子率が高くなりがちであり限界があると分析しています。

 ここでいよいよピケティが登場します。
 といっても登場するのは248pある本書の205pからであり、あくまでもピケティが今までの経済学者のどういった問題意識を受け継いで、どこが違うのか?というエッセンスの抽出のみを行っています。
 ピケティは人的資本よりも物的資本に注目し、その物的資本が生み出す格差に焦点を当てました。
 さらにクズネッツ曲線についても、それが背後にしっかりとした理論を持ったようなものではなく、2度の大戦やそれとともに進行した福祉国家的な政策によってもたらされたものだと分析しています。

 また、著者はピケティがインフレーションにプラスの効果を認めているとします。別にピケティはアベノミクスのような同時代の政策を念頭に置いているわけではありませんが、インフレーションが格差に与える影響というのは確認しておくべきものでしょう。

 このようにこの本は決して「ピケティ入門」のようなものではありませんし、単純に「不平等の歴史」を求めるのであれば、「貧困」の発見や社会政策の歴史などに紙幅をとった本のほうが良いのかもしれません。
 けれでも、「不平等を経済学がいかに捉えてきたのか」という観点のもとにまとめられたこの本は、そうした入門書とは違った読み応えがあり、独自の視点から構成された「経済学史」としても楽しめる本だと思います。

不平等との闘い ルソーからピケティまで (文春新書)
稲葉 振一郎
4166610783

牧原出『「安倍一強」の謎』(朝日新書) 6点

 NHKブックスから出た『権力移行』で、安定した政権移行のあり方や改革を行う上での官僚組織の使い方を論じた著者が、高い支持率を維持し続ける安倍政権の「一強」の謎に迫った本。
 政権移行のあり方については『権力移行』に引き続き、説得力のある議論がなされていると思いますが、「安倍一強」の謎ときについては、ややもやもやしたものも残るかもしれません。

 目次は以下の通り。
序章 国民の信頼は一瞬にして失われる
第1章 政権交代で何が変わったか?
第2章 菅義偉官房長官仕様の「官邸」
第3章 安保法制という混迷の政策転換
第4章 政権の性格を変えた2014年総選挙
第5章 安倍首相の言葉と野党党首の言葉
終章 野党が政権を奪い返す条件

 国会内での安倍首相のややムキになった答弁やヤジ、あるいは安保法制の進め方、甘利大臣をはじめとする閣僚の不祥事、そして今回の消費税延期を打ち出すまでの過程などを見ていると、第二次安倍政権は「盤石」との印象は受けません。
 実際、第一次安倍政権は、閣僚の不祥事や安倍首相本人のブレなどによってわずか一年で崩壊しました。
 しかし、安倍政権の支持率は「盤石」と言っていいものですし、自民党の中からも安倍首相を脅かすような存在は出てきていません。

 この安倍政権の「強さ」は、民主党の「弱さ」の裏返しと考えられることが多いですが、著者はそれだけではなく、自民党が民主党に負けて下野したことによって、よりまとまりをもった強い集団に生まれ変わった可能性を強調します。
 安倍政権が強いというよりは、政権交代を経て、自民党が強くなったのです。一方、民進党(民主党)はまだ再生の途上であるというのが著者の見立てです。

 また、安倍政権の強さの秘密としてたびたびとり上げられるのが、一連の改革によって強化された官邸と、それを率いる菅官房長官の存在です。
 橋本内閣による省庁再編によって内閣府にさまざまな機能が集まるようになり、それを上手く使って長期政権を築いたのが小泉首相です。しかし、その後の政権はその機能を使いこなすことが出来ず短命に終わっていました。

 そんな中、安倍政権では菅官房長官のもと、内閣人事局を設置し各省の幹部人事を握るとともに、国家安全保障局を設置し、外交や安全保障にも大きな影響力を持つことになりました。
 ただ、著者は一方で内閣官房・内閣府の業務の整理も進んでいることに注意を向けます。官邸に集められた官僚と少数の閣僚によって重要事項を進めていくのが安倍政権の特徴なのです。

 そしてその官邸の中心にいるのが菅官房長官です。
 まず、著者は「菅の特徴は人事への関心である」(86p)と述べ、日銀総裁や内閣法制局長など、人事から政策変更を狙う菅の動きに注目しています。また、アルジェリアでの邦人人質事件を機に官房長官に情報が一元化される体制ができあがり、同時に官僚の掌握も進んだとしています。
 菅官房長官の人事への影響力は内閣人事局の設置によってさらに高まっています。

 著者が官邸のキーパーソンとしてあげるもう一人が国家安全保障局の谷内正太郎局長です。
 アメリカのNSCをモデルとして新設された国家安全保障会議の事務局が国家安全保障局で、その初代局長が谷内正太郎になります。
 この国家安全保障局はウクライナ情勢の対応などでその役割を果たしたと言われていますが(112p)、安倍首相からの信頼があり、各省に睨みをきかせられる存在となると、谷内局長の代わりとなる人物はなかなかいないそうです。

 このように「盤石」かに見える官邸ですが、属人的な力に頼っている部分もあり、70歳を超えた谷内局長の後任人事は一つのポイントになるかもしれません。

 このあと、第3章では安保法制をめぐる国会論戦や安倍政権の対応を追っているのですが、ここは「安倍一強」の謎という話の本筋からは少しずれてしまっているかもしれません。
 安保法制の議論がここまでこじれた背景として、著者は反対派が憲法学者を中心に弁護士などの法曹関係者を含め分厚い論陣を張ったのに対して、賛成派は国際政治学者などが中心で、その言論が外部に広がっていかなかったことをあげています。
 このあたりの分析は興味深いのですが、「安倍一強」の謎からは外れた話です。

 さらに第4章以降では、2014年の解散総選挙の意味を探るとともに、民進党(民主党)が政権を狙える存在になるために必要なことを述べています。
 後半を読むと、著者が「安倍一強」を健全なものだとは思ってなく、政権交代が可能な野党の存在こそが今の日本政治には必要であるという認識を持っていることがわかります。
 政権を失った自民党が野党ぐらしを通じて強くなったように、今度は民進党が強くなる番なのです。

 という形できれいにまとめているのですが、「安倍一強」の謎という点からいうと、論じていない部分がまだまだあるのではないかと思います。
 特に個人的には、TPP交渉において甘利経済担当大臣に交渉を一元化し、自民党内からの反対の声をほとんどシャットアウトした手腕に、安倍政権の「強さ」を感じたりするのですが、TPP交渉についての言及はほぼ無いです。
 全体的に、安倍政権の自民党内に対する「強さ」への言及は少なく、そこは少し物足りなく感じました。

 ただ、第二次安倍政権のこれまでを振り返ることができますし、その中でいくつか新しい論点も提示されています。「安倍一強」の謎を考える出発点になる本と言えるでしょう。

「安倍一強」の謎 (朝日新書)
牧原 出
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深町隆・山口義正『内部告発の時代』(平凡社新書) 7点

 著者の一人の山口義正は月刊誌『FACTA』でオリンパスの不透明な買収案件を暴いたジャーナリスト。名前を耳にしたことのある人もいるかもしれません。
 一方、深町隆という名前は聞いたことがないでしょう。この人物こそ、オリンパスの内部告発を行った人物であり、著者紹介によると未だにオリンパスの現役社員だそうです。
 というわけで当然ながらこの「深町隆」は仮名なのです、当時の様子やその後の状況などが冷静な筆致で書かれていて読ませます。

 本の構成として、第1部が山口義正による近年における内部告発の盛り上がりについてのまとめで、第2部が深町隆の手記となっています。やはり目玉はこの第2部になると思います。

 第1部は「内部告発をめぐる現在」というタイトルで、内部告発をした個人、その難しさ、内部告発で不正が暴かれたあとの企業の様子など、著者の山口義正が取材してきたこと、取材した上で感じたことなどがまとめられています。

 西東京市の知的障害者施設で日常的に暴行が行われていることを告発した看護師の女性の例や、運輸業界の闇カルテルを告発した所、29歳から定年の60歳まで研修所での草むしりなどの雑務しか与えられず退職を迫る脅しなどを受けた串岡弘昭の例が紹介され、いかに個人に大きな負担を負わせ、また解決までに時間がかかるものであるかが示されます。

 ただ、もう一方で示されるのは、そうした内部告発を行った人たちの持つ「強さ」です。串岡さんは自らを動かした力を「怒りです。」と述べていますが(55p)、こうした怒りや周囲から追い詰められていく中で固まっていく使命感のようなものが内部告発という孤独な行為を支えているのです。

 このように内部告発は告発者に孤独を強いるものなのですが、一方で、大企業となると一人内部告発者が出れば、内部告発者が群がり出るというのもひとつの特徴のようです。
 オリンパスにしろ東芝にしろ、一度内部告発が世にでると、次々と内部告発の情報が雑誌社などに持ち込まれるそうです。

 また、第1部の後半では、どうしたら内部告発がうまくいくかということを著者の経験も踏まえて書いています。勇気を持って内部告発を行っても、情報をどこに持っていくか、どのような形で持っていくかということが重要なのです。

 第2部は「オリンパス事件の真相」、著者の深町氏がいかにオリンパスの不正に気づき、どのように内部告発にまでもっていったのかということが語られています。
 著者の深町隆は一社員とのことですが、オリンパスの幹部だけではなく、監査法人や外部委員会を務めた弁護士、メーンバンクの人間まで、かなり幅広い範囲にわたってその責任を鋭く追求しており、自身の動きを順を追って書くだけではなく、オリンパス事件の構図を俯瞰的に描き出しています。

 オリンパスが行っていたのはいわゆる「飛ばし」というもので、バブル時代から行っていて財テクの含み損を表面化させないための不正な取引でした。
 含み損を抱えた金融商品を一時的に誰かに買ってもらうことで決算を乗り切り、なんとか市況の回復を待つという考えでしたが、市況は回復せず、オリンパスは96年末には800億円ほどの含み損を抱えていたといいます(157p)。

 2000年に企業が保有する金融商品に時価会計が導入されることになり、その前年、オリンパスの次期社長と目されていた藤井謙治取締役が最終処理を迫ったとのことですが、その提案入れられず藤井氏は辞任。2001年に社長になった菊川剛は、山田秀雄専務、森久志経営企画本部長とともにより巧妙な「飛ばし」を行っていくこといなるのです。

 もちろん、これらの「飛ばし」が一般の社員に明かされることはありませんでした。
 著者がおかしいと感じたのは2007年9月の中間決算だったといいます。決算における「その他関係会社有価証券」が07年3月期の160億円強から9月期末にはゼロになっており、不自然さを感じたといいます。「飛ばし」に使っている投資ファンドが連結決算に組み込まれそうになったので、それを精算したのです(162-164p)。

 一方、リーマンショック前のこの時期のオリンパスは絶好調でした。その勢いに乗ってオリンパスは英国の医療機器メーカー・ジャイラスの買収に乗り出すのですが、2100億円という買収価格は著者にとって明らかに割高と感じさせるものでした(174ー175p)。
 そして2008年3月の決算でオリンパスは過去最高の営業利益を計上しますが、著者はその時の取締役会資料にあった売り上げ数億円規模の会社の買収に600億円近くを投資する動きを知り、「あまりに高い買収価格、しかも相手は不明だ。取締役の特別背任に問われかねない案件だ」(165p)と直感したそうです。

 こうしたオリンパスの不透明な取引に対して、当時オリンパスの監査法人であったあずさ監査法人は減損処理を求め、オリンパスは分析機事業を売却してこれを乗り切りますが、菊川社長はあずさ監査法人を解任し、新日本監査法人に切り替えます。
 こうした不正な取引を重ねた挙句、2010年の3月期の決算でオリンパスはなんとか「飛ばし」の解消に成功するのです。

 こうした無理を隠ぺいするためにオリンパス社内では厳しい監視体制が取られ、役員の居室に盗聴器が仕掛けられているという噂もあったほどです(216p)。
 そんな中、著者の深町隆はこの本のもう一人の著者である山口義正に連絡を取り、その告発が『FACATA』にとり上げられることになります。
 さらに菊川社長の後任に据えられたイギリス人のウッドフォード社長がその記事を元に社内で調査をしようとした所、突如解任され、そこからオリンパスの問題が大いにマスコミを騒がせることになります。
 そして、オリンパスは上場廃止の瀬戸際まで行き、菊川前社長(元会長)、森前副社長らは逮捕され、有罪判決を受けることになるのです。

 このようにオリンパス事件は一件落着したようにも見えますが、著者の深町隆は、オリンパスの不正を調査した第三者委員会によって「腐った中心部」の一部が温存されてしまったことや、関与した社員への処分の甘さを問題視しています。
 さらに、メインバンクの担当者の責任を言及するなど(しかも当時の具体的な役職をあげて追求している)、関係者が読んだら背筋が寒くなるような内容になっています。

 第1部でオリンパス事件の経緯を時系列的に紹介してくれると第2部の内容がもっとわかりやすかったと思いますが(それは山口義正の別の著作で書かれているらしい)、第2部は当事者ならではの緊迫感に満ちており、ミステリー小説を読むような感覚があります。
 企業や組織を考えていく上で貴重な1冊といえるでしょう。

内部告発の時代 (平凡社新書)
深町 隆 山口 義正
4582858139

薬師寺克行『公明党』(中公新書) 7点

 サブタイトルは「創価学会と50年の軌跡」。長年、朝日新聞の政治記者などを務めた著者が、その歴史をたどることで外部からは見えにくい公明党の実態に迫った本です。
 目新しい分析がなされているわけではありませんが、さまざまな資料や関係者へのインタビューなどを駆使することで、過大評価でも過小評価でもない公明党の姿に迫ることができていると思います。

 目次は以下の通り。
序章 五〇年目の苦悶
第1章 嫌われた新興宗教―敗戦~一九五〇年代
第2章 結党―創価学会の政界進出
第3章 言論出版妨害事件―一九七〇年という転機
第4章 中国への熱い思いと日米安保体制
第5章 共産党、そして自民党への接近―権力を追い求めて
第6章 非自民連立政権、新進党の失敗―一九八九~九七年
第7章 現代の宗教戦争―公明党・創価学会への陰湿な追及
第8章 自自公から自公連立政権―一九九七~九九年
第9章 タカ派の台頭、後退する主張―自公連立の変容
第10章 特殊な「選挙協力」連立政権―二〇〇九年~
終章 内部構造と未来―変質する基盤、創価学会との距離

 創価学会は、1930年に牧口常三郎が結成した日蓮正宗の信者の団体「創価教育学会」に始まりますが1946年に創価学会に改称)、教団として巨大化し、政界にも打って出たのは1951年に戸田城聖が2代目の会長となってからでした。
 戸田は「折伏大行進」と言われる大規模な布教活動を進めるとともに、1955年の統一地方選挙に候補者を擁立して53人を当選させ、翌56年の参議院選挙では3人を当選させました(40p)。

 1957年には池田大作が公職選挙法で逮捕され(証拠不十分で無罪)、1958年には戸田城聖が急逝しますが、3代目会長の池田大作のもとで組織はさらに拡大、1964年には参議院で15議席、1000人以上の地方議会議員を擁する組織に拡大します(29p)。
 そして1964年には、形式的には創価学会から政治部門が切り離される形で公明党が結成されたのです。

 政治の世界に進出した頃の創価学会は、戸田のもと、日蓮正宗の教えを人々に広く伝える「広宣流布」を行い、国の許可を得て建立される戒壇である「国立戒壇」の完成を目指していました(41p)。
 今から見るとどう考えても政教分離の原則からアウトになる主張ですが、結成当時の公明党は、この他にも、結党大会で仏法を政治の世界に反映させる「王仏冥合」を理念として掲げるなど、宗教色の強い政党でした。

 また、結党当初は国会対策費問題に切り込み、沖縄の米軍基地問題に関する調査を行い国会でとり上げるなど、「野党らしい野党」でした。
 この姿勢が変化するのが、1969年末から表面化した「言論出版妨害事件」です。これは共産党が、「公明党が明治大の教授の藤原弘達教授の『創価学会を斬る』の出版を妨害している」と告発した事件で、『赤旗』では「公明党の竹入委員長が自民党の田中角栄幹事長に出版差し止めの協力を働きかけている」と報じられました。

 この事件で、公明党は野党各党から国会で激しく追求されることになります。一方、自民党は公明党バッシングから距離をおき、公明党を助けます。当時、公明党の書記長だった矢野絢也は「それからは角栄さんにも頭の上がらんことといったらなかったですな」と回想しています(67p)。
 この事件をきっかけに、創価学会と公明党の「政教分離」が進み、公明党の執行部は自民とつながりを持つようになっていくのです。

 この後、公明党は日中国交正常化において大きな役割を果たしますが、田中角栄が失脚し、革新陣営が勢いづくと公明党はそのスタンスをくるくると変化させていきます。
 1975年には作家の松本清張の仲介によって、創価学会の池田大作と共産党の宮本顕治が会談し、いわゆる「創共協定」と呼ばれるものが結ばれます。「双方間の誹謗中傷は行わないこと」などを定めたものでしたが(96p)、今まで敵対していた現場の反発は強く、短期間で空文化してしまいます。
 一方、1979年の自民党の「四十日抗争」のときは、大平首相から連立の誘いを受けるなど、自民党から秋波を送られたこともありました。

 公明党というと創価学会会長池田大作のもとで一糸乱れず、といった印象があるかもしれませんが、この本を読むと1970年代から1980年代後半にかけては竹入委員長、矢野書記長というコンビのカラーが強かったことがわかります。
 ところが、1986年に竹入委員長が引退すると、跡をついた矢野委員長は金銭スキャンダルで1989年に失脚。委員長に石田幸四郎、書記長に市川雄一というコンビで、政界再編の流れに突入していくことになります。

 御存知の通り、公明党の市川と小沢一郎とのコンビで細川連立政権崩壊後の新進党結成の流れを主導していきます。
 多くの地方議員や職員を抱える公明党にとって党の消滅ということは受け入れがたいことでしたが、市川は衆議院議員と参議院議員の一部を「分党」させ、新進党に参加します。
 ところが、1995年の参院選で新進党が集票力を示すと、自民党は執拗な「学会攻撃」を始めます。これに対し、小沢一郎は政務会長の市川と国会運営委員長の神崎武法を更迭して、攻撃をかわそうとしますが、これが小沢一郎と公明党の間に大きな亀裂を生むことになります。
 結局、1997年に新進党は解党。この新進党の結成と解答は、現在の公明党にとってもあまり触れたくない過去となっています(146p)。

 公明党と喧嘩別れしてしまった小沢一郎とちがって、公明党をうまく取り込んだのが自民党でした。
 1995年には地下鉄サリン事件を受けて、宗教法人法の改正が問題となりますが、その隠れた狙いは自民党による創価学会への牽制でした。自民党は池田大作の国会への参考人招致を要求するなど創価学会への攻撃を強め、それに屈する形で創価学会は自民党への接近を始めます。
 新進党が解党すると、自民は機関紙の『自由新報』に創価学会に対する謝罪記事を掲載し(166ー167p)、自公連立へと動いていくことになるのです。

 この創価学会(公明党)の防衛的な姿勢は、この本を読むと随所に感じるところです。創価学会が政界進出を始めたころ、特に力を入れていたのが東京都議会議員選挙でしたが、それは当時の宗教法人法に基づいて、創価学会を認証する自治体が東京都だったからだといいます(45ー47p)。
 「組織防衛」が創価学会(公明党)の大きな行動原理なのです。

 この後、タカ派の清和会が主流となった自民党との連立に苦心する公明党の様子などが描かれているのですが、このあたりは近年のニュースを追っていれば特に目新しい発見のようなものはないと思います。
 ただ、著者が自公連立政権の特徴として「連立政権を一時的なものではなく永続的なものと位置づけていること、政権運営だけでなく国政選挙での全面的な選挙協力が成立していること」(231p)をあげているのは重要な事でしょう。
 小選挙区比例代表並立制という選挙制度で生き抜くために、自民は公明を公明は自民を必要としており、しかしなおかつ、公明党のその出自から自民と公明はひとつの政党にはなれないというところが奇妙な安定を生み出しているのだと思います。

 また、終章の公明党の候補者選考システムを紹介した部分も興味深いです。公明党では「出たい人より出したい人」という原則のもと、推薦などによって候補者が選ばれます。
 特に総選挙の候補者となるような人物は、党幹部から一本釣りが多いようで、突然、代表や幹事長から電話がかかってきて候補者となうケースが紹介されています。

 このように基本的に公明党の今までの歴史をたどりつつ、終章で現在の公明党の内部構造と将来について分析する構成になっています。
 終章の分析の「小選挙区比例代表並立制は、公明党にとってメリットがほとんどない制度だ」(253p)という分析には少し引っかかるのですが(議員数はともかく、中選挙区制の時よりも政治に対する影響力は明らかに増しているはず)、全体的に公明党や創価学会の外部の人間が知りたい公明党の歴史が手際よくまとめられている本だと思います。

公明党 - 創価学会と50年の軌跡 (中公新書)
薬師寺 克行
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