山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期

ここブログでは新書を10点満点で採点しています。

岡本隆司『中国の論理』(中公新書) 7点

 『李鴻章』『袁世凱』(ともに岩波新書)、『近代中国史』(ちくま新書)、『日中関係史』(PHP新書)などでお馴染みの著者が、外からよくわからない「中国の論理」を過去の歴史から紐解こうとした本。「論理」ということから、主に思想面から中国の歴史を読み解き、今に通じる中国の行動様式を探ろうとしています。
 思想面からの中国史へのアプローチということで、前回紹介した壇上寛『天下と天朝の中国史』(岩波新書)とかぶるところもありますが、こちらのほうがもっとざっくりとしていて、また、『天下と天朝の中国史』では記述の薄かった近代中国史の部分を埋めるような形になっています。

 目次は以下の通り。
1 史学
2 社会と政治
3 世界観と世界秩序
4 近代の到来
5 「革命」の世紀
むすび―現代の日中関係

 「1 史学」では、儒教と儒教によって位置づけられた歴史の関係が説明されています。
 中国の歴史書は、基本的に王朝を単位として書かれ、なおかつ皇帝やその他の人物を「評価」するものとして存在しているのです。
 中国の歴史書の上には儒教の経典があり、歴史書は常に経典を参照する形で書かれています。また、紀伝体という評伝的なスタイルで書かれることが多かったため、中国の歴史書はますます歴史上の人物への「評価」という性格を強めたのです。

 「2 社会と政治」では、エリートの「士」と非エリートの「庶」について説明されています。
 春秋戦国時代から漢代にかけて、中国は身分をあまり問わない実力主義の社会となりますが、社会が安定するにつれ「貴族」が力を持つようになります。「上品に寒門なく、下品に勢族なし」と言われたように(66p)、生まれによって「士」と「庶」が分裂する社会となったのです。
 この流れを変えたのが、隋唐でとり入れられた科挙でした。この官僚を選抜する制度は、宋の時代になると全面的に行われるようになり、旧来の貴族は姿を消していくことになります。
 しかし、桁違いの暗記能力が求められる科挙に備えられる能力・財力などをもった人は限られていました。一族をあげて科挙の合格を目指す動きが出てくる一方で、科挙に合格した士大夫のもとに身を寄せ、その特権に預かろうという人も出てきました(83p)。「庶」にも「士」への道を開いた科挙でしたが、「士」と「庶」の隔たりは埋まらなかったのです。
 また、明清の時代となると、地域に根を張る「士」も現れ、彼らは郷紳と呼ばれました。

 「3 世界観と世界秩序」では、いわゆる華夷秩序についての説明がされています。
 このあたりは壇上寛『天下と天朝の中国史』での記述とかぶるのでここでは紹介しませんが、歴史的に中国と周辺国の関係は基本的に上下関係であったが、18世紀後半にやってきた西洋諸国とは「互市」という主権国家同士の対等な関係を結ばざるを得なかったというところがポイントになるでしょう。

 「4 近代の到来」では、アヘン戦争やアロー戦争に敗北した中国がいかにセイヨウブンメイと自らの文明の折り合いをつけようとしたのかが語られています。
 いわゆる「中体西用」という、中国の原理でもって西洋の技術を取り入れるといったことが唱えられるのですが、この本質は附会(こじつけ)だと著者は言います(140ー142p)。
 日清戦争での敗北後、清朝でも近代化の必要性が叫ばれ、「変法運動」が起こります。その中心にいたのは康有為でしたが、彼は改革を目指すと同時に、孔子が創始した儒教の真意に立ち戻ることを唱え、儒教をキリスト教に見立てる「孔教」という宗教を広めようともしました(149ー151p)。康有為は結局、経典から離れることはできなかったのです。

 それに対して、康有為の片腕として活躍した梁啓超は変法運動失敗後に亡命した日本で、新たな思考を手に入れます。
 梁啓超は自伝に「東京に一年間住み、少し日本語が読めるようになったことで、思想が一変した」と書いています(163p)。彼は、「進化」、「主義」、「国家」、「革命」といった和製漢語に出会うことで(「国家」「革命」は古くからある言葉だが意味付けが違う)新しい思考言語を獲得し、ジャーナリストとして活躍することになります。「中国」という概念を提唱したのも梁啓超になります。

 こうして新しい言葉や思考を獲得した中国は「革命の世紀」へと突入します。
 1911年に辛亥革命が起こって清朝が倒れますが、梁啓超がもたらした言葉や思考が社会を動かし始めたのは1920年代になってからだといいます(180p)。そこから、国民党や共産党が生まれ、国民的な統一を目指していくことになります。
 また、日本の侵略に対する抗日運動は総力戦となり、「士」と「庶」の乖離を縮めることになりました。
 さらに、内戦に勝ち残った毛沢東の共産党は中国社会の構成を大きく変えました。さらにこの本では文化大革命も、中国の「士」と「庶」の二元構造を打破するための「革命」として、20世紀の中国の歩みを二元構造を打ち破って中国国民というものを生み出すための「革命」の歴史として捉えています。
 そして、最後に習近平政権による汚職摘発政策などに触れ、「士」と「庶」の二元構造はまだ温存されており、「革命」は終わってないようである(205p)と結んでいます。

 このように、1~3までの部分はややざっくりとしすぎている感もあるのですが、4と5の近現代史の部分は読み応えがあります。最初にも述べたように、この部分は『天下と天朝の中国史』ではあまり掘り下げられていない部分なので、補完しあっているとも言えるでしょう。
 中国史を思想や社会構造の面だけから説明しようとしているため、もちろん取りこぼしている部分もあると思いますが、中国の歴史や中国の社会について、一つの見取り図を与えてくれる本と言えるでしょう。


中国の論理 - 歴史から解き明かす (中公新書)
岡本 隆司
4121023927

檀上寛『天下と天朝の中国史』(岩波新書) 7点

 私たちは「中国」や「中国史」といった言葉を使いますが、そこで指し示される「中国」という範囲は時代によって移り変わっています。チベットや新疆が「中国」い含まれるようになったのは清代になってからですし、過去には外モンゴルや朝鮮半島が「中国」に含まれていた時代もありました。
 この可変的な「中国」あるいは「中華」というものを、「天下」という概念で読み解こうとしたのがこの本。「天下」という概念で読み解いた中国史であると同時に、現代中国の行動原理を探る本にもなっています。

 目次は以下の通り。
第一章 溥天の下、王土に非ざる莫し―春秋・戦国時代
第二章 天朝体制の仕組み―秦・漢
第三章 北の天下、南の天下―漢・魏晋南北朝1
第四章 天下と天下秩序―漢・魏晋南北朝2
第五章 中国の大天下と倭国の小天下―南朝・隋・唐
第六章 東アジアの天下システム―唐
第七章 天朝の行方―五代十国・宋・遼・金
第八章 天下一家の完成―元
第九章 天下一家から華夷一家へ―明
第十章 華夷変態と中外一家―清
第十一章 中華民族の大家庭―近・現代


 目次を見るだけで「天下」という言葉が頻出していますが、この「天下」というのは厄介な言葉でもあります。
 例えば、日本史においても織田信長の「天下布武」の「天下」とはどの範囲を指すのかということが問題になったりするように、その意味するところは曖昧です。
 中国においても「天子(皇帝)の統治する空間」が天下であって、「天下は天子の徳に応じて自在に伸縮し、明確な境域というものが存在しない」(3p)のです。

 基本的に狭義の天下は秦の中国統一によって統治がなされた中華を、広義の天下は中華+夷狄のすむ周辺地域を指します。
 しかし、この中華というのも時代とともにその範囲を広げてきた言葉でした。中華は「中夏」とも書き、中国最古の王朝とされる夏王朝からきています。また、周の時代は周の直轄地を「夏」と呼んだそうです(6p)。
 当初、秦や楚は夷狄とされ、「夏」には入りませんでしたが、秦の始皇帝が諸国を統一すると、その範囲が「中国」、「中華」などと言われるようになります。

 始皇帝によって中華の範囲はある程度定まりましたが、漢の時代に国教となる儒教にとって、この皇帝による統治はその思想の中で想定されているものではなく(始皇帝は法家思想)、その正当化が問題になりました。
 結局、蛮夷に対しては天子として振る舞い、国内の臣民には皇帝として振る舞うという形になっていくのですが、それでも有徳の天子と世襲による皇帝の間に矛盾は残りました(26ー31p)。

 矛盾を抱えつつもある程度安定感をもっていたこの支配体制が大きく動揺するのが魏晋南北朝の時代です。
 中華と夷狄の区別には、「1,民族の違い(漢族か否か)」、「2,地域の違い(中心か外縁か)」、「3,文化の違い(礼・義の有無)」の3つが想定されます(42p)。
 当初は、「1」と「2」が基準となっていましたが、普が力を失い、五胡と呼ばれる異民族が華北を支配するようになると、「2」の区別は通用しなくなります。そして、五胡は自分たちの支配を正当化するために「3」の区別を持ち出すようになるのです。
 この「3」を掲げて五胡の漢化(中国化)を押し進めたのが、前秦の苻堅であり、北魏の孝文帝でした。彼らは中華の礼・義を身につけることによって、その支配を正当化したのです。

 前にも触れたように、このように中華は分裂しますが、中国の皇帝は蛮夷に対しては天子として振る舞い、国内の臣民には皇帝として振る舞いした。そして、これに対応して国内では官僚制の身分秩序がつくられ、位的に対しては爵位が与えられました。
 この辺りの議論は実際に第4章を読んで欲しいのですが、後漢が与えた金印に刻まれた「漢倭奴国王」の読み方や、倭の五王についての議論は興味深いです。

 やがて中国の周辺では、中国中心の「大天下」に対応する「小天下」が生まれていくことになります。
 遣隋使に自ら「天子」と称する国書をもたせた倭国はその代表例ですが(著者は倭の五王の最後の人物にあたる武の上表文にその萌芽を見ている(93ー95p)、朝鮮やベトナムでも、中国に朝貢しつつ、自らを中心として周囲を夷狄とみなす「小天下」が運用されていくことになります。

 魏晋南北朝以来の混乱をおさめ、かつてない広さの天下を統治したのが唐でした。
 胡族と漢族が融合したと言っていい唐帝国は、中華を統一するとともに、東突厥や契丹、さらには西突厥を羈縻州として支配します。唐は中華−羈縻州−夷狄という三層の天下をつくりあげたのです。
 また、唐は、強大な軍事力をほこった吐蕃とは舅と婿、復活した突厥とは父子、ウイグルとは兄弟の関係を結び、天下一家という家族のたとえによって、これらの勢力を包摂しようとしました(119-123p)。

 しかし、この夷狄との間の疑似家族関係は、唐の滅亡後は逆転します。北方では契丹族の遼が誕生し、この契丹の援助を受けた後晋は、燕雲十六州を割譲するとともに遼の太宗を父とし、後晋の皇帝を子とする関係を結びます(138-140p)。
 その後に中国を統一した宋は、1004年に遼との間に「澶淵の盟」を結びます。この取り決めは宋を兄、遼を弟とするものの、宋が毎年絹20万匹、銀10万両を与えるもので(144-145p)、基本的に対等な国同士の取り決めとして結ばれたものでした。
 さらに、1126年、宋は北方に台頭した女真族の金に攻撃され、太上皇帝や皇帝が連れ去れられるという事態が起こります。靖康の変です。
 これによって宋は一旦滅亡し、江南で成立した南宋は金との間に、宋が金の臣下となり、金が宋の皇帝を冊封するという「紹興の和議」が結ばれます。ついに中国の皇帝が他国の臣下となったのです。

 この南北の分断を終わらせたのは、中国の王朝ではなく、金が夷狄としたモンゴルでした。
 金を攻略したモンゴルは、クビライの時代に南宋も征服し中国の統一を成し遂げます。しかも、モンゴルは「中国の統一」というレベルにとどまらず、ユーラシア大陸を股にかけた大帝国を出現させました。いわば「広義の天下」を統一してみせたのです。
 また、クビライは国号を「大元」としますが、これも今まで地名や爵邑の名前からとられた王朝名とは異質なものでした(181p)。特定の民族や地域にこだわらない抽象的な名前が選択されたのです。

 この元のつくり上げた天下は、のちの民・清にも影響を与えました。
 明は自らの正当性を証明するために、元に劣らない威光の広がりが期待されました。著者は永楽帝の積極的な対外政策をこうした面から分析しています。
 永楽帝は、鄭和の大艦隊を東南アジア〜インド〜アフリカに派遣し、内陸ではモンゴルとオイラトを服属させました。彼はクビライをも凌ぐ朝貢国を集めたのです(特にクビライが敗れた日本からの朝貢は永楽帝を喜ばせたとある(214ー215p))。
 
 しかし、明はモンゴルや倭寇、そして秀吉による「唐入り」などによって衰えていくことになります。
 明に代わって中国を統一したのは夷狄である女真族の清でした。異民族である清は、「満漢一家」、さらには「中外一家」という言葉を使って漢族と満族、さらにはその他の異民族を包摂しようとします。
 清の領土は乾隆帝のときに最大となり、乾隆帝は中国本土では皇帝、満州やモンゴルの地ではハン、チベットでは仏教の転輪聖王、新疆のウイグルにはイスラームの保護者として振る舞いました(242ー243p)。皇帝の徳こそが広大な領土を統合する鍵だったのです。

 19世紀半ばになると清の支配をほころびを見せ、19世紀末になると中国でも「国民国家」を求める声が出てきます。辛亥革命が起こり清朝は倒れ、日中戦争と国共内戦を経て中華人民共和国が誕生します。
 清と中華人民共和国はその成り立ちも統治機構もまったくちがったものですが、著者は現在の中国の民族政策の基本にある「中華民族の大家庭」は、清の「中外一家」の焼き直しであるといいます(272p)。
 著者は、中国のアメリカとの間で太平洋を分割して勢力圏を設定しようとする姿勢などをとり上げ、「中国の一つひとつの行動を見ると、中華帝国の解釈した方が分かりやすい事象の存在するのも事実である」(280p)と述べます。歴史の中で培われてきた「天下観」はいまだに色濃く残っているのです。

 最後の現代中国についての部分についてはやや急ぎ足で、はたしてかつての中華帝国と現在の中国がどれだけ共通しているかという疑問は残りますが、「天下」という概念をキーにして中国の通史を描き出すさまは面白いですし、日本や朝鮮への言及も勉強になります。
 新書にしてはかなり密度の濃い本だと思いますが、それだけ読み応えのある本に仕上がっています。

天下と天朝の中国史 (岩波新書)
檀上 寛
4004316154

高木久史『通貨の日本史』(中公新書) 8点

 タイトルを見て、日本史にそれなりに詳しい人なら、富本銭、皇朝十二銭、宋銭の輸入、為替の登場、撰銭令、荻原重秀の貨幣改鋳、幕末の金貨流出、日本銀行の成立、金解禁などこの本で出てきそうなトピックはある程度予想できるでしょう。
 実際、これら主要トピックをしっかりと押さえ、教科書よりも深い解説を行っています。そして、それだけではなく北海道や沖縄、近代日本の植民地の通貨事情など、普段読む日本史の本ではなかなか触れられることのない部分にまで目を配っているのがこの本の特徴です。

 目次は以下の通り。
第1章 銭の登場―古代~中世
第2章 三貨制度の形成―戦国~江戸前期
第3章 江戸の財政再建と通貨政策―江戸中期~後期
第4章 円の時代へ―幕末維新~現代

 日本最初の貨幣というと、少し前に歴史を習った人は708年の和同開珎、最近習った人は天武朝の富本銭が頭に浮かぶと思いますが、天智朝のころには朝鮮半島から輸入されたと考えられる無文銀銭が使用されたそうです。
 その後、富本銭や和同開珎がつくられるわけですが、これらの貨幣は都の造営の物資の購入や働いた人への労賃の支払いに使われたと考えられていたと考えられています。
 そして、これらの貨幣の重要な特徴は、どうやら「国会支払手段の機能しか想定せず、交換手段を庶民に供給するという発想がなかった可能性がある」(11p)点にあります。
 和同開珎というと、貯めた人に官位を与える蓄銭叙位令があったことを覚えている人もいるでしょう。この蓄銭叙位令、普通に考えれば貨幣の流通を阻害するもので、和同開珎の普及を後押しする政策としては的はずれに思えます。しかし、朝廷は和同開珎を庶民の交換手段とはみなしておらず、支払に使ったら税や蓄銭叙位令によって回収し、また支払に使用しようと考えていたらしいのです。

 この後、いわゆる皇朝十二銭が発行されることになりますが、朝廷は新しい銭に旧貨の10倍の価値を与え、発行益を得ようとしました。しかし、銭の市価は朝廷の決めたレートとは乖離していき、再び発行益を得ようと新しい銭をつくることが繰り返されます。
 そして、10世紀になると、都の造営のような大事業がなくなり、国内の銅の生産が落ち原料が確保しにくくなったこともあって、銭の発行は停止されます。また、売官のシステムが整備されたことによって、銭を発行しなくても事業が行えるようになったという面もあるようです(24-25p)。

 中世になると、中国から銭が輸入されるようになり、割符(さいふ)、祠堂銭預状など、今の紙幣に近いはたらきをするものも登場します。
 銭に関しては12〜13世紀にかけて中国からの3つの波がありました。
 1つ目は南宋からのもので、日本で平清盛が貿易に積極的だったこと、南宋では金との戦いのために紙幣が発行され銭への需要が落ちたことなどが要因となりました。また、この本では銭として使うのではなく青銅の材料として銭が輸入されたという説も紹介されています(30ー31p)。

 2つ目は13世紀前半、金で銭の使用が禁止され紙幣のみを使うようにという命令が出されると、金で使われなくなった銭が日本の流入します。
 これによって日本では銭の流通が増え、今まで銭に対して否定的だった朝廷も銭での納税などを認めるようになってきます。
 3つ目は元からのもので、元も銭使用禁止の紙幣専用政策をとったため、不必要になった銭が日本に流れ込みました。このころ、ユーラシアの国際決済通貨は銀貨となるのですが、日本ではそこであぶれた銭を使いました。「中世の日本はユーラシアの通貨秩序の辺境だった」(38p)のです。

 このように中世において銭の需要は確実に増えていきましたが、後醍醐天皇による銭と紙幣の発行計画はあったものの、結局、銭はつくられずに終わりました。
 著者は、なぜ室町幕府が銭を発行しなかったのか?という問いに、国防費がそれほど必要ではなく、地方支配も配下の武士に任せていたためと述べています(47p)。
 中世から近世にかけて、銭はまず民間で必要とされ、その使用実態を権力側が追認してくような形で法令などが出されました。撰銭令なども、基本的には銭不足への対応という面が大きいです(52ー54p)。

 戦国時代になると金・銀の生産量が増えます。また、銅の生産も活発になり、16世紀前半には中国に銭を輸出した時期もあったそうです(64p)。
 そして、この時期に金貨・銀貨・銭という江戸時代にも受け継がれる三貨制度が出来上がっていくことになります。
 この本では信長や秀吉の通貨政策も紹介していますが、民間の動きを追認しつつ、次第に通貨に対する党勢を強めていく様子が窺えます。
 また、この本の特徴としてさまざまな貨幣の原寸大の写真が載っているのですが、86pに載っているどこで切ってもいいようにいたるところに刻印が押されている博多御公用銀の写真は面白ですね。

 江戸時代になると、この三貨制度が確立することになります。
 特に、日本の年号が入った「寛永通宝」は幕末まで製造されつづけましたし、日本年号の意匠は「中国の銭秩序からの離脱を明確に主張するもの」(100p)でした。
 また、この寛永通宝は中国や東南アジアにも輸出されたようで、この本ではそういった意外な事実も紹介しています(109ー111p)。

 ただ、この三貨制度というのは実は非常に複雑なものでした。それぞれの交換比率は基本的に市価によるものであり、今の外国為替市場のように銭高・銭安といった市場の動きがあったのです。
 この複雑さについて、著者は次のように説明しています。

 銭相場に対する利害は江戸の住人の中でも違いがある。前提として江戸は、衣食住に関する日常の消費物資の多くを上方から移入していた。金遣い圏である江戸の問屋商人は、上方から銀貨建ての商品を仕入れ、江戸で銭を対価に売るので、金貨高・銀貨安・銭安を好む。武士は給与を米で受け取り、米を金貨に交換し、金貨を銭に両替し、銭で商品を買うので、米高・金貨高・銭安を好む。庶民は所得を銭で得るので、金貨高・銭安を嫌う。一方、銭高は銭の購買力を増やすが、銭高の背景にある銭不足は、庶民に多い零細自営業者や日雇い労働者の所得の機会をそもそも減らす。質屋通いなどで毎日をしのぐ借金暮らしの庶民にとっては、負債の実質額が大きくなる点でも望ましくない。(122p)

 このような中、五代将軍・綱吉のもとで活躍した勘定奉行の荻原重秀は、金貨・銀貨の質を下げて発行益を狙うとともに、銭の製造を増やして銭安を狙いました。武士にとって銭安が利益になったからです。

 この荻原重秀の路線は新井白石によって否定されますが、8代将軍の吉宗は試行錯誤の結果、米高にするには金貨・銀貨の質を下げて通貨供給量を増やすほかないとの意見に説得され、政策転換に踏み切ります。
 吉宗亡き後に幕政を担った田沼意次に関しては明和二朱銀が有名ですが、四文黄銅銭という今までの額面の4倍の銭を発行しています。これも通貨発行益と銭安への誘導が狙いでした(141ー144p)。
 また、この本では家斉の時代に経済政策を担った水野忠成(ただあきら)の政策が、庶民経済が発展する契機になったと肯定的に紹介されています(150ー153p)。

 この江戸時代の記述に関しては、琉球でも寛永通宝が使われたが、清から使者が来た時は無文銭が使われ、寛永通宝の使用が隠されたというエピソードも興味深いです(162p)。

 日本の通貨の近代は、通商条約の締結後に起きた金貨の流出からはじまります。この本を読むと、幕府も馬鹿ではなくそれなりにしたたかな対応をとっているのですが、この後の政治的混乱は貨幣制度の混乱ももたらしました。
 贋金の製造も盛んになり、維新の立役者である薩摩藩でも贋金の製造は続きました。大久保利通は薩摩藩に「藩の利害より国家全体の利害を優先すべきである。製造を停止せよ」と求めたそうです(180p)。
 
 この後、明治国家は新貨条例によって円・銭・厘を単位とする通貨制度を整え、1897年には金本位制に移行します。銀本位制から金本位制への移行は、銀本位制の中国の通貨秩序からの離脱も意味しました(208p)。
 また、この本で朝鮮や台湾、さらには南樺太や南洋諸島の通貨制度にまで言及しています。

 戦争の時代となると、問題となったのは貨幣の材料です。銅や錫は軍事用に使われ、満州で調達できたアルミニウム製の貨幣が登場します。しかし、アルミニウムも飛行機の製造に必要となると、1944年にはアルミニウム貨も回収の対象となり、マレー半島でだぶついていた錫が使われるようになります。さらには陶製の貨幣の発行も計画されましたが、終戦により発行されずに終わっています(221ー224p)。

 そして、この本は戦後のインフレとそれに対応した通貨の発行や占領下の沖縄の通貨事情に触れ、その長い通貨の歴史を記述し終えます。
 ここまでの紹介でこの本が非常に豊富なエピソードを紹介していることがわかったと思いますし、また、それが経済学的な視点からも分析されていることがわかると思います。
 さらに藩札など、ここでは紹介しきれなかった部分も多く残っています。それほどページ数がある本ではありませんが、想像以上のことを教えてくれる本です。


通貨の日本史 - 無文銀銭、富本銭から電子マネーまで (中公新書)
高木 久史
4121023897

一ノ瀬俊也『戦艦武蔵』(中公新書) 6点

 『皇軍兵士の日常生活』 (講談社現代新書)、『日本軍と日本兵 米軍報告書は語る』 (講談社現代新書)など、軍隊や戦争についての興味深い著作を発表してきた著者が、2015年に沈没した姿が発見された戦艦武蔵とその語られ方について分析した本。
 武蔵が建造され、沈没するまでを描いた前半部分は今までの著者の本同様に面白いのですが、戦後の武蔵の語られ方を分析した後半部分はやや疑問に感じる部分もありました。

 目次は以下の通り。
序 章 武蔵とは何か
第一章 戦艦武蔵の建造
第二章 武蔵沈没
第三章 戦後の武蔵物語とその特徴
第四章 語り出す武蔵乗組員たち
終 章 二〇一五年の武蔵

 まず、この本は戦艦武蔵が美少女として擬人化されている近年の現象をとり上げ、兵器や戦争が「ファンタジー」として消費されているのではないか?と問いかけます。
 太平洋戦争の直接的な記憶は薄れ、武蔵も「ファンタジー」として消費されるものの一つなのです。

 しかし、著者は当時の人にとっても武蔵は「ファンタジー」の要素を帯びていたといいます。
 戦前の日本海軍は、予算獲得の理由などから、日本よりも遥かに国力のあるアメリカを仮想敵国としており、そのアメリカを日本海海戦のような艦隊決戦で破るという「ファンタジー」を広く共有していたのです。
 
 そして、そのために建造されたのが大和と武蔵でした。アメリカの戦艦はパナマ運河を通れる大きさという制限のもとにつくられていますが、日本がそれを上回る戦艦をつくれば大きな優位になると考えられたのです。
 また、アメリカの戦艦が搭載していない46センチ砲によってアメリカ側の射程外から攻撃するというアウトレンジ戦法のためにも大和型の戦艦は必要とされました。
 しかし、主砲の巨大化による発射速度の低下を心配する声もありましたし、速力の不足を指摘する声もありました(33-37p)。また、大和型の存在を世界に知らせて抑止力とするのか、それとも秘密兵器として秘匿するのかということについても意見は割れていました(29-31p)。
 
 実際に太平洋戦争が始まると、日本海軍は飛行機を使った攻撃で真珠湾での奇襲に成功し、マレー沖ではイギリスの戦艦プリンス・オブ・ウェールズを撃沈します。戦艦に対する飛行機の優位が実証されたのです。
 この時、武蔵はまだ未完で、海軍大臣の嶋田繁太郎は建造中止の考えも持っていたようですが、結局、建造は継続されました(60-61p)。
 1942年の6月上旬から武蔵の試運転が行われましたが、艤装員の千早少佐は武蔵の動きを見て、「こいつは生きている」と感動を覚えたそうです。著者は、この表現を見ても「戦争中の人々にとっても戦争や武蔵は「ファンタジー」だった」(64p)としています。

 このような威容を誇った武蔵ですが、レイテ沖海戦においてあっさりと沈みます。
 しかも、作戦中に敵機の攻撃を受け、艦隊から落伍してそののちに沈没したというもので、「特攻」という派手な舞台が用意された上で沈没した大和とは大きな違いがあります。
 この本では決して派手とはいえない武蔵の最期を、できるだけ克明に書こうとしています。その大きさゆえに退避行動を取りにくいという欠点(大和の森下艦長が的確な指示で魚雷を避けたという話には疑問符をつけている)、武蔵とともに沈んだ猪口敏平艦長の遺書に対する分析、救助されながらルソン島防衛のために配置された乗組員のその後など、著者らしい目配りがなされています。

 後半は、戦後、武蔵がいかに語られたかについて。
 まずは、「大艦巨砲主義」批判がいかに登場し、いかに受容されていったのか。そして、それに反論する形で登場した「大和型戦艦こそ技術立国日本の基盤をつくった」という言説などがその時代背景とともに紹介されています。

 さらに吉田満「軍艦大和」、佐藤太郎「軍艦武蔵」という2つの小説が紹介されています。吉田満の「軍艦大和」はのちに『戦艦大和ノ最期』と改題されて出版され、今なお読み継がれている小説です。
 一方、佐藤の「軍艦武蔵」を読んだ人は少ないでしょう。著者によると、「軍艦武蔵」は山本五十六を「正義の殿様」、武蔵の副長の加藤憲吉を「悪代官」とする勧善懲悪的な通俗時代物のようだといいます(153ー154p)。
 佐藤は武蔵野乗組員だった元海軍下士官で、士官への恨みつらみが物語の基調になっているといいます。「佐藤は海軍に対する恨みつらみ愚痴に終始するばかり」で、「小説として感動できない」というのです(161p)。

 この佐藤の「軍艦武蔵」を否定し書かれたのが吉村昭の『戦艦武蔵』でした。
 吉村は一部の軍人に戦争の責任を負わせる風潮に異議を申し立て、戦争を遂行した日本人の「巨大なエネルギー」を描こうとしました(174ー175p)。
 このため、吉村の『戦艦武蔵』では建造時のエピソードが集められ、その他でも徹底して「事実」にこだわって書かれました。それでも、元乗組員から事実関係の誤りを指摘されるなど(184ー186p)、「事実」にこだわる難しさ指摘されています。

 また、この本では武蔵の元乗組員・渡辺清の作品や映画監督の手塚正己の長編ドキュメンタリー映画『軍艦武蔵』とノンフィクションの『軍艦武蔵』についても言及しています。
 渡辺の作品の特徴は天皇の戦争責任の追及で、武蔵の「主砲をさかさまに向けてやりたい」といったことも述べています(190p)。彼は亡くなるまで天皇の戦争責任にこだわりました。
 手塚は元乗組員に話を聞くなどして、徹底的に「真実」にこだわりました。手塚は武蔵の物語への意味付けを排除することで、そこに「真実」が浮かび上がると考えたのです。

 著者はこれらの作品を紹介しつつ、いずれにも「ケチ」をつけます。「ケチ」という表現は不適切かもしれませんが、例えば、渡辺が奥崎謙三が昭和天皇にパチンコ玉を打った事件に衝撃を受けつつ何もしなかったことを受けて、「これは、一見ラジカルな反天皇論における、ある種の曖昧さ、不徹底さを示すとはいえないか」(192p)と指摘しています。
 しかし、個人的には他人にパチンコ玉を打つという犯罪行為をしなかったことが、その人の思想の曖昧さや不徹底さを示すとは思えません。

 また、手塚の作品に関しても、「真実」だけを提示して意味付けを回避する姿勢を「事実への逃避」と批判的にコメントしています(253p)。
 確かに歴史に単純な「事実」はないという著者の主張は正しいと思いますし、「真実」を追い求めているつもりでもその時代のものの見方にとらわれていることがあるというのはそのとおりだと思います。
 しかし、意味付けを排して「事実」や「真実」をできるだけ純粋な形で取り出そうとする姿勢までを批判するようでは、「歴史学」の意義の一つをそぎ落としてしまうことになるのではないでしょうか。

 「天皇の戦争責任も含めてあの戦争が起きたなぜ起きたのかという切実な問いを手放すべきではない」という著者の主張は理解できるのですが、それにこだわりすぎると、著者の次回作は天皇の戦争責任の有無にまで踏み込み十五年戦争をトータルで論じるような巨大な著作にならざるをえないように思えますし、それはあまり生産的ではないのではないかと考えます。

戦艦武蔵 - 忘れられた巨艦の航跡 (中公新書)
一ノ瀬 俊也
4121023870

岡田一郎『革新自治体』(中公新書) 8点

 著者は『日本社会党―その組織と衰亡の歴史』という本を書いている政治学者で、今まで中央の政治を研究してきた人になります。そのため、革新自治体について国の政治(主に社会党の動き)とリンクさせるような書き方になっており、「革新自治体とは何だったのか?」ということを知りたい人にとっては、やや遠回りをしているように感じるかもしれません。
 実際、「革新自治体が何をしたのか?」といった部分についての記述はそれほど厚くなく、革新自治体の功罪を細かく分析するような内容にはなっていません。
 しかし、この本は「革新自治体のブームがありながら、なぜ「革新」は衰退したのか?」という疑問を明らかにしてくれます。美濃部都政は、非現実的な「バラマキ福祉」によって崩壊したのではなく、むしろ社会党や共産党の指導部の不手際によって崩壊していったのです。

 目次は以下の通り。
第1章 地方自治制度の変遷と革新政党
第2章 社会党の自治体政策と高度経済成長
第3章 「革新自治体の時代」の始まり
第4章 戦後政治体制の動揺と革新自治体
第5章 保革相乗りの時代へ
終章 革新自治体をめぐる考察

 まず、第1章は地方自治制度の戦前から戦後への変化と、野党が多党化していく流れについて触れてます。

 第2章では、「革新自治体の時代」以前に登場した革新系の首長のことと、社会党が地方での市民運動の盛り上がりにいかに対応しようとしたかということ、そして高度成長に伴う公害問題の浮上について書かれています。
 1950年から7期28年にわたって京都府知事を務めた蜷川虎三、北海道池田町の町長として財政再建に取り組み、「十勝ワイン」のブランドをつくり上げた丸谷金保がとり上げられているのですが、両名とも「革新」という枠を超えた政治家であったことがわかります。

 そうした地方の動きに対して、社会党の中央では江田三郎が、「自治体改革」を提唱していた政治学者の松下圭一と手を組み、党内改革を目指しますが、結局うまくいかずに松下圭一は社会党から距離を置くようになります。
 このように社会党は地方の動きをうまく組織化することは出来なかったのですが、60年代後半以降の公害問題の深刻化は、公害反対運動を通じて「革新」陣営に追い風を与えることになります。

 第3章では、いよいよ「革新自治体の時代」をとり上げます。
 この「革新自治体の時代」がいつから始まったかというと、横浜市長に飛鳥田一雄が、大阪市長に中馬馨が、北九州市長に吉田法晴が選出された1963年がそのはじまりとされることが多いです。
 しかし、この本では功刀(くぬぎ)俊洋の議論を引きながら、この説は飛鳥田やそのブレーンとなった松下圭一らがつくったものだとしています(功刀はこの説を「飛鳥田神話」として厳しく批判している(63p))。

 では、「革新自治体の時代」はいつ始まったのか?
 著者は功刀の説を受け入れ、1967年の東京都知事選挙における美濃部亮吉の当選がそのはじまりだとしています。
 憲法学者美濃部達吉の長男でもあり、NHK教育テレビで「やさしい経済教室」を担当していた美濃部は野党側の候補者としてうってつけのように思えますが、実は社会党が最初に担ごうとしたのは江田三郎でした。
 しかし、江田は都知事選への立候補の要請を、「飛鳥田君みたいに、地方首長では、党に対してブランクをつくる」、「自分が勝てば、政府・自民党は、北海道庁のように、東京庁(仮称)をつくり、知事の権限を制約することは明瞭である」などの、今から見ると「偉そうな」理由をつけて断っています(78ー79p)。
 その後、総評議長の太田薫などの名前があがったあと、美濃部に白羽の矢が立ったのです。

 この67年の選挙では公明党が独自候補を立てたこともあって美濃部が勝利(この前回の選挙と同じく公明党が自民の推す松下正寿を支持していれば松下の勝利だった(83p))、特に美濃部は若い人や主婦に支持を得ました。
 
 この本を読むと、美濃部にしろ飛鳥田にしろ、その初期の施策は実行力を感じさせるものであり、また時代の流れに乗ったものであったことがわかります。
 革新自治体の首長というと、「反対派に配慮して実行力がない」、「財政赤字を垂れ流す」といったイメージがあるかもしれませんが、美濃部も飛鳥田も保守陣営とのパイプも保ちながら思い切った施策を行っており、財政面でも美濃部都政に関しては高度成長の波に乗った潤沢な都税収入がありましたし、飛鳥田に関しては16年間の任期中に財政赤字となったのは2年間だけでした(72p)(京都府の蜷川知事も退任時には財政を黒字にしている(163p)。

 しかし、著者が「美濃部をもっとも苦しめたのは、与党の一員でありながら、都議会をまとめる能力もなく、ただ足を引っ張るばかりの社会党であった」(93p)と書くように、革新政党は、この「革新自治体の時代」という流れを上手く利用できませんでした。
 当時、勢いがあったのは共産党でしたが、このころの共産党への支持は今と違って浮動層の支持が多く、その基盤は弱いものでした。一方、社会党の党勢は上向かず、公明党や民野党と組むのか、共産党と共闘するのかという路線対立が続いていました。
 革新自治体における社共の共闘を重視すれば、国政での社公民路線が進まないというジレンマに陥っていたのです(108p)。

 1974年の京都府知事選挙では蜷川府政を支えた社共の共闘が崩れます。多選の弊害が目立ってきた蜷川に対して、社会党京都府本部委員長で参議院議員の大橋和孝が挑んだのです。
 社会党の中央は大橋の動きを認めず除名処分としますが、社公民路線を目指す社会党江田派の議員は大橋を支持しました。江田派の議員は江田に対して府知事選で大橋を勝利させ、その余勢で党を割り、公民両党との新党結成に向かうべきだと進言しましたが、結局、江田派動かず、僅差で蜷川が勝利します(128ー131p)。
 1977年3月、党内対立から江田は社会党を一人で離党し、5月に急死します。この後、公明党や民社党は社会党との連携をあきらめ、むしろ自民党に接近していくことになります。
   
 1977年の釧路市長選挙で、民社党は社会党の推す山口哲夫市長に対抗馬を立て、公明党の支持も得て山口を破ります。さらに1978年の京都府知事選挙では、社会党・公明党・民社党が推した山田芳治が大敗。自民党が京都府知事の座を奪還します。
 地方の首長選挙は徐々に「保革相乗り」へと変わっていったのです。

 一方、革新首長たちは住民同士の対立に苦しむことになります。「対企業」、「対国」といった問題では、住民の期待に答えていた革新首長でしたが、「住民対住民」の対立となると「住民の意見を重視する」という彼らの手法は行き詰まりました。
 この本では、飛鳥田市政における「横浜新貨物線の問題」や(73-74p)、美濃部都政における「東京ゴミ戦争」(123-127p)がとり上げられています(この本を読むと、この問題で美濃部は意外に巧妙に立ちまわっている)。

 特に美濃部に関しては、「橋の哲学」と呼ばれる演説の一部が美濃部批判に使われました。
 これは美濃部が都議会の演説で「橋の建設がそこに住む多くの人々の合意を得られないならば、橋は建設されないほうが良い」と言ったというものなのですが、当初の草稿にあった「そこに住むすべての人々の合意を得られないならば」という表現が流布していしまい、革新自治体の実行力に疑問をもたせるものとなりました(120-123p)。

 さらに石油危機後の景気低迷の影響もあって美濃部都政の財政は危機的状況に陥ります。美濃部が狙った固定資産税の引き上げは自治省から地方税法違反だとされ、1978年の1月には時の福田首相に地方債の起債を認めるように直訴します。財政問題において美濃部は完全に躓いたのです。そして、このイメージが「革新自治体」のイメージを規定していくことになります。

 1979年の都知事選挙で革新陣営の推した太田薫は自民党の推す鈴木俊一に敗北。大阪府知事選挙では、共産党憎しから大阪府の社会党組織は、憲法否定発言をしたり、太平洋戦争を「聖戦」と呼んだ元自治官僚の岸昌(さかえ)を支持。岸は当選したものの、社会党は影響力を失っていきます(167-168p)。
 こうして「革新自治体の時代」は終焉したのです。

 このように、この本の特徴は「革新自治体」の動きと、社会党を中心とした野党陣営の動きをリンクさせながら分析しているところに特徴があるといえるでしょう。
 この本を読むと社会党の「迷走」ぶりが目につくのですが、その姿は「共産党を含めた野党共闘路線」か「保守層の取り込み」かで党内がまとまらない民進党と重なります。地方組織が弱いという点も社会党と民進党は共通していますし、この本は一種の「日本野党論」としても読めると思います。
 
 最後に、「あとがき」に本書を父に捧げたいとしているのですが、その父が過激派に襲撃されて命を落とした機動隊の分隊長だったということが書いてあり、驚かされました。

革新自治体 - 熱狂と挫折に何を学ぶか (中公新書)
岡田 一郎
4121023854

西川賢『ビル・クリントン』(中公新書) 7点

 ご存知、アメリカ大統領ビル・クリントンの評伝。クリントンの半生と大統領としての業績を辿りつつ、イデオロギー的な分極傾向が続くアメリカ政治の中で、クリントンがそれにいかに対処したかということが描かれています。
 クリントンの半生も面白いですし、クリントン政権を通して語られる「歴史」としての90年代にも興味深いものがあります(141pで触れられている、ロシアが民主化を進める代わりにアメリカがロシアに経済的な援助を行うことを約束した94年の「モスクワ宣言」などは現在のプーチン=オバマの関係からは考えられないですね)。また、当然ながらヒラリー・クリントンについても言及があり、大統領の座に近づいているヒラリー・クリントンの生い立ちや政治的スタンスを垣間見ることができます。

 ビル・クリントンの生い立ちはかなり複雑で、自ら「アダルトチルドレン」だと告白したことを覚えている人もいるかもしれません。
 クリントンの実の父親はクリントンが生まれる前に亡くなっており、母が再婚したことにより継父のもとで育つことになります。しかし、この継父はアルコール依存症であり、家族を虐待することもあったようです。
 
 そんな中でも学生時代のクリントンは精力的に活動しており、アーカンソー州の地元の高校では「どこに行ってもビル・クリントンの姿を見た」(8p)というほどだったそうです。
 クリントンは当初ミュージシャンや医者になることを考えていたようですが、1963年に夏期キャンプでケネディ大統領と会ったことから政治家になることを決意。この本の10pにはケネディ大統領と握手するクリントンの姿を写した写真が載っています。

 その後ジョージタウン大学に進学し、ローズ奨学金の奨学生としてイギリスに渡ります。徴兵もうまくすり抜け、イェール大学のロー・スクールへと進みました。
 このロー・スクールでクリントンはヒラリーと出会っています。ヒラリーはクリントンの第一印象を「毛穴からほとばしるようなバイタリティがあった」(19-20p)と評しており、2人は付き合うようになります。

 74年、クリントンは連邦下院議員選挙に立候補しますがあえなく落選。翌75年にヒラリーと正式に結婚しています。
 その後、クリントンは州政治でキャリアを積む道を選び、76年、州の司法長官に当選します。さらに78年には32歳の若さでアーカンソー州の知事に当選、当時の州知事のなかでは最も若い知事でした。
 80年の再選には失敗しますが、得意の弁舌を活かして82年の選挙で返り咲くと92年までアーカンソー州の知事を務めました。

 80年代後半になると、クリントンはレーガン政権下で劣勢に立たされていた民主党の将来を担う人材として期待されるようになります。
 30年代から60年代にかけて、民主党は南部の白人・黒人、労働者、インテリなど幅広い支持を得て黄金時代を築きましたが、60年代にジョンソン大統領が公民権法が制定すると、南部の白人は共和党へと支持を変え、民主党の勢いも低迷していきます。
 80年代の大統領選では民主党は1勝も出来ず、その立て直しが求められていたのです。
 そんな中で、クリントンはいわゆる「ニュー・デモクラット」の一員でした。彼らは「マイノリティの党、犯罪者に甘い、増税容認」といった民主党のイメージを書き換えるべく、より中道的な理念を掲げようとしました。

 クリントンは1992年の大統領選挙に挑戦するわけですが、冷戦を終わらせ湾岸戦争に勝利した現職のブッシュの支持率は91年の2月の時点で90%近くあり(46p)、民主党の大物は早々にブッシュへの挑戦を諦めていました。
 そこにあえて出馬したのがクリントンです。しかし、過去の女性スキャンダルなどもあって序盤は苦戦し、アイオワでもニュー・ハンプシャーでも首位を獲得できずに終わります。「大統領選に勝つにはアイオワかニュー・ハンプシャーのどちらかで勝利する必要がある」というのがアメリカ大統領選の一つのセオリーなのですが、クリントンはこれに失敗するのです。
 ところが、クリントンは撤退せずに粘り強く戦い、南部で勝利を得ると、ヒラリーの失言なども乗り越えてニューヨークやカリフォリニアで勝利。ついに民主党の大統領候補となります。

 本選では、自分の得意な経済問題を中心に掲げ、ブッシュが得意な外交・安全保障問題について正面から論戦をすることは避けました。
 また、この92年の大統領選挙では「第三の候補」として大富豪のロス・ペローが登場します。このロス・ペローがブッシュから票を奪い、クリントンの当選をアシストした、との見方がありますが、この本では、ペローはむしろクリントンから票を奪ったという研究が紹介されています(79-80p)。
 大統領選とともに行われた上院・下院選でも民主党は勝利。民主党の「統一政府」が実現し、クリントンは安定した基盤を確保しました。

 しかし、クリントン政権の第一期は迷走が目立ちました。
 クリントンは財政再建を掲げていましたが、その方法や規模をめぐって、経済チームのベンツェン財務長官やルービン国家経済会議議長と民主党のリベラル派が対立します。
 ヒラリーを特別委員会の議長に据えて国民皆保険の導入を図りますが、これに共和党が徹底抗戦、さらに民主党リベラル派からも「共和党寄り」の案だとの批判が起き、クリントンは挫折します(105-109p)。
 外交・安全保障においても、対中政策はうまくいかず、日本との経済摩擦を抱え、ソマリアでは米兵が殺される事件が起こります(映画『ブラックホーク・ダウン』で描かれた事件)。

 この後、国防長官(アスピン→ペリー)と大統領首席補佐官(マクラーティ→パネッタ)を交代させる人事を行い、体制を立て直し、ユーゴ内戦ではデイトン合意を成立させ、NAFTAの批准にも成功します。
 しかし、94年の中間選挙では、ギングリッチに指導された共和党の前に敗北。民主党は上下両院で過半数を失います。

 こうして見ていくと、「よくクリントンは再選できたな」、と思うのですが、逆境においてしぶといのがクリントンの特徴です。
 クリントンは選挙に勝つために「ヒトラーとマザー・テレサに同じ日に助言できる男」(152p)とも言われたディック・モリスを起用。民主・共和両党の主張のちょうど中観点に大統領の政治的スタンスを置く「三角測量」と呼ばれる選挙戦術(154p)で巻き返しを図ります。

 勢いにのるギングリッチは95年の議会で予算をめぐってクリントンと全面対決をする道を選びます。
 クリントンはある程度共和党に譲りつつも、大事な部分では絶対に譲歩せずに政府機能停止も受け入れます。この共和党との議会をめぐる戦いでクリントンは勝利、ギングリッチの路線は行き詰まります。

 そして、この長期戦は共和党の大統領候補であったボブ・ドールの選挙活動を遅らせます。さらにクリントン陣営は「ドール=ギングリッチを打ち負かせ」という選挙広告を大量投入、ギングリッチの不人気をドールに結びつける作戦に出ます(172p)。
 また、当時順調だったアメリカの経済状態もクリントンの追い風となり、クリントンは再選を決めます。結果的にギングリッチがドールの足を引っ張ったとも言えるわけですが、この辺りが中央の統制が弱いアメリカの政党の弱点と言えるかもしれません。

 再選を果たしたクリントンの第二期政権は第一期よりも順調で、堅実な経済の情勢のもと99年には財政黒字を計上するなど、財政再建を果たしました。
 一方、外交に関してはパレスチナ和平の交渉をまとめきれず、オサマ・ビン=ラディンを取り逃がしました。また、日本との関係に関しては日米安保の再定義を成し遂げるものの、アジア通貨危機における日本のAMF(アジア通貨基金)構想をめぐってぎくしゃくするなど、日本政府内部で「民主党政権は日本に批判的で中国寄り」という印象を刷り込むことになります(196p)。

 そして何といってもクリントン政権の第二期を騒がせたのはスキャンダルと弾劾裁判です。
 詳しくは本書にあたって欲しいのですが、この本を読むと独立検察官のケネス・スターが非常に「党派的」だったこともわかりますし、クリントンの脇の甘さというのもわかります。

 このようなスキャンダルの印象が強いクリントンですが、終章で著者はその優れた部分としてそのエネルギッシュさや記憶力の良さをあげています。特に記憶力については抜群で、一度会った人物は忘れなかったそうです(イメージは全然違いますが田中角栄もそういう人物)。
 
 最後に著者は、オバマ政権はクリントンの中道政権に対する「民主党左派の反動」という顔を持ち、オバマ政権のもとでアメリカのイデオロギー的分断と等は対立が深まったとしています(246ー247p)。
 個人的には、ここはちょっとわからない所で、オバマ大統領はそんなに「左派的」には見えないんですよね。むしろ、「黒人」であるオバマ大統領に対して共和党が必要以上にその「左派色」を強調しているだけにも見えるのですが、どうなんでしょう?
 また、クリントン政権の路線を引き継ごうとしたゴアが負けた理由についても触れて欲しかったです。

 ただ、クリントン本人に関しては非常にバランスよく書かれていると思いますし、最初に述べたようにヒラリー・クリントンへの言及も興味深いです(ヒラリーは64年の大統領選挙で共和党のゴールドウォーターを熱心に支持していた、など)。
 今年秋の大統領選挙を考える上でも非常に役立つ本だと思います。


ビル・クリントン - 停滞するアメリカをいかに建て直したか (中公新書)
西川 賢
4121023838

細谷雄一『安保論争』(ちくま新書) 6点

 国際政治学や外交史を専門とし、『国際秩序』(中公新書)などの著作で知られる著者が、昨年夏に大きく盛り上がった安保論争について自らの論考をまとめたもの。
 新聞や雑誌、ウェブメディなどに書いた記事を元にしているため、重複している部分もありますが、安保法制に賛成の立場から一貫した議論がなされています。

 目次は以下の通り。
1 平和はいかにして可能か
2 歴史から安全保障を学ぶ
3 われわれはどのような世界を生きているのか―現代の安全保障環境
4 日本の平和主義はどうあるべきか―安保法制を考える

 まず、著者は1992年の国連平和維持活動協力法の時の騒ぎを引き合いに出し、当時は「違憲だ」「平和主義を破壊する」と懸念されたが、25年近く経ってどうだったか? と問いかけます。
 さらに安保法製の審議において、反対する陣営から「平和を守れ!」との声が上がりましたが、彼らがウクライナ問題やイスラーム国の問題に対して、それを解決するための主張をしているのか? と疑問を呈します。

 また、10本の法改正と1本の新法制定からなる複雑な安保法制に「戦争法」とレッテルを貼ることについても著者は批判的です。
 このようなレッテル貼りや感情的な反発は建設的な議論を生みません。著者は憲法前文の「自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」という部分を引用し、国際平和のために日本が何ができるかを考えるべきだと主張します。

 軍縮が進めば平和になると考える人もいますが、著者は歴史を振りかえると「力の真空」こそが平和を壊すと主張します。
 19世紀後半にはオスマン帝国の衰退がバルカン半島での「力の真空」を生み出し第一次世界大戦へと繋がりましたし、第一次世界大戦後はオーストリア=ハンガリー帝国の解体が中欧と東欧での「力の真空」を生み、それをヒトラーのナチスドイツが埋めようとしました。
 また、アジアでは日本が第二次世界大戦での敗北によってその勢力を大きく後退させたことが朝鮮戦争などをもたらしました。現在では、90年代前半にアメリカ軍がフィリピンから撤退したことが、南シナ海における中国の海洋進出をもたらしています。

 中立が平和をもたらすとも限りません。ベルギーは第一次世界大戦においても第二次世界大戦後においても中立を宣言していましたが、ドイツに侵攻されました。
 そこでベルギーは第二次世界大戦後に自ら指導力を発揮して1948年のブリュッセル条約によって「西欧同盟」を形成し、さらにNATOへも参加しました(105-106p)。同盟の「力」によって平和を確保しようとしたのです。

 近年、日本をめぐる安全保障環境も以前とは変わってきています。
 アメリカのアジア太平洋地域における存在感は以前ほどのものではなく、経済成長とともに中国の存在感が増しています。さらにこの地域の不安定要因としては北朝鮮の存在もあります。
 日本としてはうまく外交を進める必要があるのですが、著者は「外交手段と軍事手段の二つを巧みに組み合わせてはじめて、「対話と交渉」もまた十分な効果を発揮する」(151p)としています。

 「違憲」との批判がつきまとった安保法制でしたが、そもそも集団的自衛権の行使に関して全面禁止という内閣法制局の見解が確立したのは1981年になってからでした。
 1950年代末から60年代にかけて、内閣法制局は集団的自衛権に関して部分的には容認するような態度をとっていましたが(170~174p)、ベトナム戦争への派兵などへの警戒が高まる中で、政局的な理由によって集団的自衛権の公使は違憲という見解がつくられていったのです(174~181p)。
 この後、内閣法制局は「過去の答弁を変更できない」と考えるようになっていくのですが(183p)、この硬直した考えには民主党政権も否定的で、内閣が憲法解釈を変更していくべきだと考えていました(184-186p)。

 この本は最後の部分で安保法制の中身について解説しています(そのため安保法制の中身について知りたい人はこの本の巻末にある別の文献を読んだほうがいいでしょう)。
 注目したいのは、著者が「今回の安保関連法案での最大の変更点は~国際平和協力活動と後方支援活動の拡充である」(228p)と述べている点です。
 「集団的自衛権」ばかりがとり上げられていますが、非国連統括型のPKO活動に参加の道を開き、「安全確保業務」、「駆けつけ警護」が可能になったのは著者の指摘するように大きな変更点です。
 ここがあまりクローズアップされなかったのは、たしかに著者の言うようにマスコミや反対派がレッテル貼りに終始したからだと言えるかもしれません。

 安保法制によって「アメリカの行う戦争に巻き込まれる」と危惧する人も多いですが、著者は日本が国連の安保理において必ずしも対米追従一辺倒ではないことを指摘し、さらに現在のハイテクを使って戦争においてアメリカは必ずしも同盟国に戦闘参加を求めていないことをアフガニスタン攻撃などを例に上げながら説明しています。

 このように傾聴すべき考えも多いですし、同意する点もある本なのですが、同時に「これでは反対派を説得することは出来ない」とも思いました。

 まず、著者は「戦争法」といったレッテル貼りを強く批判していて、それはそのとおりだと思うのですが、著者も認めるように安保法制の全体像は非常に複雑であり、それを一括して内閣が提出してくる以上、反対派は全体をまとめて論じるしかありません。今回、議論が深まらなかったのは反対派の感情的な態度だけではなく、政府の法案提出の方法にもあります。

 また、「反対派はウクライナやイスラーム国の問題をどう考えるのだ?」という批判については、「では、安保法制が成立すればウクライナの問題やイスラーム国の問題が解決するのか?」という反論が可能でしょう。
 世界平和を目指す考えは重要ですが、正直、ウクライナ問題やイスラーム国の問題は日本政府ではどうにもできない問題ではないでしょうか。

 この他にも、「国連での安保理決議への対応だけで対米追従の実態が測れるのか?」などといった疑問もありますが、最大の問題点は著者が反対派の感情論に反発するあまり、それに感情的に反発してしまっている点でしょう。
 「反対派」にまとめて反論するのではなく、反対派の論客の意見に反論していくべきだったと思います(その意味で、『本当の戦争の話をしよう』の伊勢崎賢治氏あたりと著者が対談したら面白いと思う)。

 ここからは私見になりますが、反対派、特に高齢者の中にある反発の核心は「エゴイズム」や「思考停止」ではなく、「政府への不信」なんだと思います。
 前回紹介した栗原俊雄『戦後補償問題』に見られるように、政府は先の大戦で被害を受けた民間人を切り捨てるような対応を取りました。また、日系の移民などに対しても政府は冷淡な対応をとってきています。
 こうした政府の態度が生み出した「結局、政府は一般人を犠牲にするのだ」という人々の「政府への不信」が、日本の安全保障問題の議論の余地を狭めているのではないでしょうか。
 
安保論争 (ちくま新書)
細谷 雄一
4480069046

栗原俊雄『戦後補償裁判』(NHK出版新書) 7点

 サブタイトルは「民間人たちの終わらない「戦争」」。毎日新聞の記者であり、『シベリア抑留』(岩波新書)、『特攻』(中公新書)など、先の大戦に関する著作を意欲的に発表している著者が、戦後、黙殺され続けてきた空襲などの民間人戦争被害者の「戦い」についてまとめた本。 
 日本の戦後処理というと、アジア諸国に向けたものが頭に浮かびますが、この本を読むと日本国内向けの戦後処理もまだまだ終わっていないということがわかると思います。

 目次は以下の通り。
第一章 「一億総懺悔論」の誕生と拡大
第二章 大空襲被害者への戦後「未」補償
第三章 シベリア抑留と「受忍論」
第四章 「元日本人兵士」たちの闘い
第五章 置き去りにされた戦没者遺骨
第六章 立法府の「不作為」
第七章 終わらない戦後補償問題

 まず、この本がとり上げるのは戦後すぐに出てきた「一億総懺悔論」とそこから出てくる戦争被害への「受忍論」です。
 「一億総懺悔論」は敗戦直後に東久邇宮首相によって唱えられたもので、戦争の責任を国民全体が背負うべきだというものでした。そして、同じようなロジックとして戦争被害への補償裁判で必ずと言ってもいいほど出てくる「受忍論」があります。
 「戦争でみんなひどい目にあったのだから、みんなが我慢すべきだ」というものです。

 戦時中の政府は「戦時災害保護法」によって民間の戦争被害者に補償や援護を与えようとしていましたが(18ー19p)、戦後になるとこの法律は廃止され、生活保護などの枠組みの中で支援が図られることになりました。
 しかし、「受忍論」が幅を利かせる一方で、1952年には「戦傷病者戦没者遺族等援護法」(援護法)が制定され、1953年には軍人恩給が復活します(21p)。さらにこの援護の対象は準軍属にも拡大され、遺族に対する年金なども充実していくます。

 これに対して、空襲などで被害にあった民間人は何ら補償のないままに放って置かれることになります。
 海外からの引揚者や被爆者に関しては、団体からの強い要求もあり60年代後半に補償が行われます。政府からすると、これらは補償対象の範囲が比較的明確であり(それでも被爆者の対象に関してはその後も裁判でたびたび争われた)、財源の想定も可能なものでした。
 
 一方で、対象者が多く、犠牲者数すらはっきりしない空襲の被害者などへの補償に関しては、政府はずっと及び腰であり、政府の懇談会などでも「寝た子を起こすな」、「パンドラの箱」といった言葉で語られていました(50ー67p)。
 また、被害者やその遺族から起こされた訴訟も、先程述べた「受忍論」によって退けられていったのです。

 この本では、空襲の被災者やシベリア抑留者、朝鮮半島や台湾出身の軍属などを取材しながら、この「受忍論」の不合理を訴えています。
 例えば、政府は軍人・軍属に対しては国の使用者責任があたっとの立場から補償を行っていますが、当時は民間人も国家の統制を強く受けていました。民間人も防空法などによって消化活動の義務を負わされており、勝手に逃げることは難しかったのです。
 シベリア抑留に関しては、南方の捕虜たちが政府から労働賃金を受け取っていたにもかかわらず、シベリア抑留者に関しては労働証明書がないなどの理由からそれが受け取れないということがありました。
 さらに朝鮮半島や台湾出身者は、1952年に一方的に日本国籍を抹消され、国籍ゆえに日本国籍の保有者のような補償を受けることが出来ませんでした。

 このような理不尽さを、著者は裁判を起こした人々に寄り添いながら指摘していきます。そして、いつまでたっても「受忍論」にとどまり続ける司法に怒りを示すのです。

 第五章では遺骨の問題もとり上げています。海外にはいまだにおよそ113万人分の遺骨が眠っていると言われています。もちろん、このすべてを収容することは現実的ではないかもしれませんが、著者は今まで政府がこの問題に熱心に取り組んでこなかったことを批判しています。

 しかし、これらの問題には前進もみられます。90年代以降、超党派でこうした問題に取り組む動きがあり、2000年には旧植民地出身の元日本軍人・軍属とその遺族に一時金を支給する法律が成立し、2010年にはシベリア特措法が成立しています。
 特にシベリア特措法に関しては、民主党への政権交代などの背景や、何よりも当事者たちの粘り強い動きが詳しく綴られています。
 
 ただ、空襲での被害者は救済されていませんし、沖縄戦の民間被害者への補償も不十分なものです。戦後71年が経ち、戦争被害者が高齢化し、亡くなる人が増えていく中でも、積み残した問題は大きいのです。

 この本を読むと、日本の戦後処理において不十分だったのは、アジア諸国向けの「外への謝罪」だけでなく、国民への「内への謝罪」についてもそうだったことがわかります。
 安全保障を巡る議論において、日本ではなかなか政府が国民から「信用されない」現状があると思うのですが、その根っこの一つはおそらく、この国内における戦後補償の問題にあるのでしょう。
  

戦後補償裁判―民間人たちの終わらない「戦争」 (NHK出版新書 489)
栗原 俊雄
4140884894

岩瀬昇『原油暴落の謎を解く』(文春新書) 7点

 ここ四半世紀ほどの経済において、その影響力の大きさと、理解不能なまでの乱高下を見せてきた原油価格。平野克己『経済大陸アフリカ』(中公新書)でとり上げられていた赤道ギニアのように、ほぼ原油価格の上昇という理由だけによって驚くべき経済発展を示した国もありましたし、2001年に1バレル25.93ドルだったWTI原油の価格は2008年には1バレル100ドルを突破し、08年7月11日に1バレル147.27ドルという史上最高値をマークしましたが、最近は1バレル40ドル前後をさまよっています。
 そんな原油価格の動きを、過去の暴落やシェール革命を中心とする現在の状況から探ろうとした本。著者は長年、商社で石油開発に携わってきた人物で、外からは見えにくい業界の動きをわかりやすく解説しています。

 目次は以下の通り。
第一章 原油大暴落の真相
第二章 今回が初めてではない
第三章 石油価格は誰が決めているか
第四章 石油の時代は終わるのか?
第五章 原油価格はどうなる?                               

 現在の原油価格の低迷に関しては、「サウジとイランの断交でOPECが減産で協調する目がなくなった」、「中国経済の減速」、「OPECがシェールオイル潰しのためにあえてやっている」、「制裁解除によるイランの国際市場への復帰」、「投機筋のしわざ」など、さまざまな原因があげられています。
 第1章では、これらの要因が検討されています。これを読むと、OPECがシェールオイル潰しのためにあえてやっている」、「投機筋のしわざ」以外はそれなりに根拠があるようですが(シェール潰しに関しては意図的なものではなく今までの石油開発とシェール開発の違いが大きい)、いろいろと想定外の事態が重なって現在の価格になっているのが現状のようです。

 そもそも、原油は昔からジェットコースターのように激しい価格変動を繰り返してきた商品であり、第2章のタイトルにもなっているように原油価格の暴落は今回が初めてではありません。
 石油の本格的な生産が始まった19世紀半ばから、原油価格は乱高下を繰り返していますし、1986年には1バレル30ドル以上で取引されていたものが半年で10ドルを割り込んだこともありました(81p)。
 
 こうした原油価格の動きには、「在来型」の石油開発の特性が絡んでいます。
 「在来型」の石油開発は、プロジェクトの開始から実際の石油の生産まで何年もかかるものであり、市況が悪化したから生産を取りやめるというわけにはいきません。
 さらに、「「在来型」の生産油田というものは、たとえば販売が不調だからといって生産を中断すると、貯留層内のガス圧が下がって回収率が悪化したり、最悪の場合は生産再開ができなくなることがある」(35p)そうです。
 普通の商品では生産者は価格によって供給を変動させますが、原油の場合はそれがなかなかできないのです。

 ですから、多くの産油国は価格にかかわらず生産能力をほぼフルに活用しているような状態です。
 ただし、そんな中で余剰生産能力を抱えているのがサウジアラビアと、経済制裁によって原油の輸出が思うようにできなかったイランです。
 特にポイントとなるのはいざとなれば供給を増やせるサウジアラビアの動きで、実際、1986年の原油価格の暴落は生産割り当てを守らない他のOPEC諸国に対して、ついにサウジアラビアの堪忍袋の緒が切れたことが原因でした(88ー94p)。
 今回の暴落でも、価格の低下にかかわらずサウジが減産をしていないということがその背景にあります。

 しかし、現在の原油価格の動向はサウジアラビアをはじめとするOPECの動きだけで決まるものではありません。近年のアメリカにおける「シェール革命」は、原油価格の動向にも大きな影響を与えていると考えられます。

 シェールは開発から生産までの期間が短く、また、抗井あたりの生産期間も短いです。つまり、より市況を反映した生産が可能になるわけです。
 さらに掘削を行いながらも、最後の水圧破砕などの仕上げの作業を延期することも可能で、価格の回復を待ってから本格的な生産を始めることもできます。
 つまり、「非在来型」とも呼ばれるシェール・オイルは、「在来型」と違い、市況によって供給を変動させることが可能なのです。

 この本の第四章では、BPの調査部門のトップであるスペンサー・デールの講演が紹介されています。
 それによると、今までの石油市場については、1・いつか枯渇する資源だ、2・需要量も供給量も、価格が変化してもすぐには変化しない、3・東から西へ流れる(中東から欧米へ)、4・OPECが市場を安定化させている、という4つの常識があったといいます。
 ところが、シェール革命によってこの4つの常識は書き換えられました。これからの常識は、1・枯渇しそうにない、2・需要、供給ともに価格変動に敏感になる、3・西から東に流れるようになる、4・OPECは一時的、短期的な変化への市場安定化能力は維持するが、変化が構造的なものかどうかを判断することが重要だ、の4つになります(168ー173p)。

 この中の「東から西へ」から「西から東へ」という変化は非常に重要なものかもしれません。アメリカのシェール革命が順調に進めば、アメリカは2030年代にも石油が自給できるようになります。さらに輸出能力まで持つようになれば、アメリカ(西)から経済成長が見込まれるアジア(東)へと石油が流れるようになる事態も考えられます。
 デールは、「この流れの変化に伴い、資金の流れも「東から西へ」と変り、中国の経常黒字と米国の経常赤字の両立という、「いわゆる世界のアンバランス(so-called global imbalances)」も変化するだろう」(201p)と考えています。
 
 このように短期的な原油価格の動きの話だけでなく、石油業界の動きや長期的な展望も語られているのがこの本の魅力といえるでしょう。
 やや本筋から離れたエピソードが挿入されることで話の流れが悪くなるところがありますが、そのエピソードの中にはなかなか興味深いものもあります(ドバイの成功の秘訣(152ー157p)や住友商事の巨額損失形状のからくり(182ー189p)など)。
 ただ、長期(ここ30年ほど)のWTIの価格の推移のグラフがあったほうが良かったですね。
 最後に、著者は原油価格は2017年頃から回復に向かうのではないかと見ています。この見立ての是非については本書を読んで考えてみてください。

原油暴落の謎を解く (文春新書)
岩瀬 昇
4166610805

宇野重規『保守主義とは何か』(中公新書) 7点

 『〈私〉時代のデモクラシー』(岩波新書)など、政治思想史の研究をもとに現代の政治についても分析を行っている著者が、近年、その存在感を増しつつある「保守主義」についてその来歴と現在について語った本。
 さすがに思想史的な部分のまとめ方はうまく、コンパクトに保守主義の歴史を知ることが出来る本に仕上がっています。

 目次は以下の通り。
序章 変質する保守主義―進歩主義の衰退のなかで
第1章 フランス革命と闘う
第2章 社会主義と闘う
第3章 「大きな政府」と闘う
第4章 日本の保守主義
終章 二一世紀の保守主義

 まずは、保守主義といえば必ず名前のあがるバークがとり上げられています。近代的な保守主義の始まりはバークのフランス革命への批判に求められることが多いです。
 しかし、バークは「頑迷な守旧主義者」という人物ではありませんでした。バークはアメリカの独立を容認し、アイルランドでは差別されていたカトリックの権利擁護に努めました。フランス革命においても、「多くの人は、バークがフランス革命を支持すると予想した」(9p)のです。
 
 ところが、その予想を裏切ってバークはフランス革命を痛烈に批判します。一貫して自由を擁護したバークでしたが、同じ自由を掲げながらも、歴史と断絶する姿勢を示すフランス革命には強い警戒感を示しました。そして、意図的に過去との繋がりを守っていこうとしたのです。
 ここに、進歩主義へのカウンターとして保守主義は生まれました。

 第2章はT・S・エリオット、ハイエク、オークショットについて。
 T・S・エリオットに関しては、詩人または文芸評論家として知られていると思いますが、この本では保守主義の重要人物としてとり上げられています。 
 エリオットは、文化を個人だけでなく階級や集団によって担われるものだとして、それは「一つの統一性のある生き方」(73p)だとしました。
 そして、この文化を伝達する経路として家族をもっとも重要なものだと考えました(73p)。
 
 ハイエクはよく保守主義者に引用される経済学者ですが、この本の小見出しに「ハイエクは保守主義者か」(79p)とあるように、本人は保守主義者であることを否定し、自らは自由主義者だと規定していました。
 ハイエクが否定したのは、社会主義やナチス・ドイツに見られるような集産主義、設計主義といったものであり、社会を合理的に管理できると考える理性の思いあがりでした。
 
 オークショットはイギリスの政治学者。彼は保守主義と王政や宗教を切り離し、政治スタイルとしての保守主義を打ち出しました。
 オークショットによれば、「統治とは、何かより良い社会を追い求めるものではない。統治の本質はむしろ、多様な企てや利害をもって生きる人々の衝突を回避することにある」(99p)のです。
 さらにオークショットは、相手を打ち負かしたり結論を出すことを目的としない「会話」こそが重要であるとしました。

 このようにイギリスの保守主義者(ハイエクはオーストリア出身。ただイギリスへのシンパシーを隠さなかった)は自由主義者でもあり、急激な変化や合理性に頼った改革が、むしろ自由を損なうという共通の認識をもっていたことがわかります。

 ところが、第3章に登場するアメリカの保守主義者たちは少し様子が違います。
 まず、リチャード・ウィーヴァー、ラッセル・カークというあまり名の知られていない人物がとり上げられているのですが、ウィーヴァーはキリスト教色の強い「南部農本主義の末裔」(115p)とも言うべき存在で、カークも典型的な保守主義とキリスト教的伝統、所有権の重要性の主張など、さまざまな要素が入り混じった思想家でした。

 また、第3章では保守主義の潮流の一つとしてリバタリアニズムがとり上げられ、フリードマンとノージックの議論が紹介されています。
 フリードマンやノージックの著作を読んだ人は、彼らの考えを「保守主義」だとは思わないと思いますし、著者も彼らを「保守主義者」として紹介しているわけではありません。
 しかし、アメリカの保守主義の特徴として、「大きな政府への抵抗」や「(反エリート主義としての)反知性主義」があり、そういった点からは、リバタリアニズムと保守主義は手を結ぶことができるのです。

 ブッシュ政権でイラク戦争を主導したとされるネオコン(新保守主義)も、もともとはトロツキストであった人が多く、イラク戦争に見られるような介入主義的な姿勢は、いわゆるイギリス流の「保守主義」とは違ったものです。
 
 このようにキリスト教の伝統を守ろうとする宗教主義や、市場主義、さらに国際政治上のリアリズムなど、さまざまな要素が混在しているのが、アメリカの保守主義の特徴であることが見えてきます。
 このイギリスの保守主義とアメリカの保守主義の違いというものは、この本が教えてくれる重要なポイントだと思います。

 第4章は日本の保守主義について、丸山眞男や福田恆存の議論を紹介し、敗戦や明治維新によって歴史が断絶している日本での保守主義の難しさを指摘しつつ、伊藤博文や陸奥宗光、原敬などに見られる漸進的な改革スタイルに日本の保守主義のあり方を見ています。
 ただ、伊藤〜原のラインを「保守主義」とすると、では。山県〜桂のラインは何なんだ?という疑問も湧いてきますし、紙幅の関係もあってそれほど説得力のある議論がされているわけではないと思います。
 
 この本を読むと、バーク以来の正統な「保守主義」というものがわかるとともに、現在の
「保守主義」にはかなり雑多な要素が流れ込んでいいることがわかると思います。
 しかし、雑多な中身であっても現在の政治において世界的に「保守主義」が力を持っていることは確かであって、そうした政治状況を考える上で役に立つ本となっています。

保守主義とは何か - 反フランス革命から現代日本まで (中公新書)
宇野 重規
4121023781
記事検索
月別アーカイブ
★★プロフィール★★
名前:山下ゆ
通勤途中に新書を読んでいる社会科の教員です。
新書以外のことは
「西東京日記 IN はてな」で。
メールはblueautomobile*gmail.com(*を@にしてください)
タグクラウド
  • ライブドアブログ