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岩崎周一『ハプスブルク帝国』(講談社現代新書) 9点

 ハプスブルク帝国(本文では「ハプスブルク君主国」と表記)1000年の歴史を440ページ超のボリュームで描いた野心的な書物。中世から現代という時代の長さ、ドイツ(オーストリア)だけでなくハンガリーやチェコ、スペインという地理的な広がりをきちんと射程に収め、なおかつそれぞれの時代の社会や文化にも触れながら1000年の歴史が描かれています。
 これだけ長い時代と扱うとなると、岡本隆司『近代中国史』(ちくま新書)のように固有名詞をバッサリと落として叙述を進めるというのも一つの手ですが、ハプスブルクを扱った本でそれをすれば読者の期待を裏切ることになります。この本は、カール5世、フェリーペ2世、ルードルフ2世、マリア・テレジア、エリーザベトといったハプスブルク家の有名人についてもその人柄がしっかりと書かれており、これだけ多くの要素をバランスよく盛り込む著者の能力には素直に脱帽です。

 目次は以下の通り。
はじめに
第一章 勃興
第二章 オーストリアの地で
第三章 「さらに彼方へ」
第四章 「ドナウ君主国」の生成
第五章 主権国家体制の下で
第六章 「何事も人民のために、何事も人民によらず」
第七章 秩序と自由
第八章 「みな一致して」
第九章 ハプスブルク神話
あとがき

 ハプスブルク家というとオーストリアを思い浮かべるかもしれませんが、そのはじまりはスイスのハビヒツブルク城にあるといいます。スイスの中央部から北西部に勢力を広げたハプスブルク家は、13世紀以降アルプスを南北に貫く交通が発展するとそれとともにさらに発展していきます。
 そして1273年に当主のルードルフ4世がルードルフ1世としてドイツ国王に選出されたことがハビヒツブルク家をさらに広い舞台へと押し出しました。

 当時のドイツ王国はフランク王国が分裂した東フランク王国を原型としたもので、この東フランク王国の第3代国王オットー1世がローマ教皇から戴冠され、皇帝に即位したことから神聖ローマ帝国として知られる国家となりました。
 しかし、11世紀以降、王朝の断絶などもあって、国内の諸侯の選挙によって国王が決定されるようになります。
 従来、この時代は混乱の時代と考えられていきましたが、最近の研究では社会はある程度安定し経済活動も活発だったことが明らかになっています(19-20p)。

 また、ルードルフの選出に関しても諸侯が強力な王の出現を望まなかったためとの説明がなされてきましたが、国王選挙のライバルであったフランス王フィリップ3世やチェコ王オタカルに対抗するためにその手腕を見込まれたためではないかと著者は考えています(22p)。
 そして、ルードルフがオタカルを破ったことをきっかけに、ハビヒツブルク家はオーストリアへと勢力を伸ばしていくことになるのです。

 当時、国や領邦の統治において君主と民衆の間にある在地有力者の動向は重要であり、君主がその支配領域を広げるためには、そうした諸身分の支持を得ることが必要不可欠でした。
 諸身分には王を廃する力もあり、ハプスブルク家も14世紀初めにアルブレヒト1世がチェコの王位を得たもののそれを維持することはできませんでした(47ー48p)。
 こうした君主と諸身分の合議による政治が一般化していく中で議会が誕生します。特に中世において租税の徴収は緊急時に一回かぎりという条件で認められるものだったため、戦争など莫大な経費が必要なものに関しては議会の同意が不可欠だったのです(49ー50p)。
 多くの地域を支配するようになったハプスブルク家の君主には各地の諸身分との協調が求められました。

  15世紀末から16世紀はじめにかけて、生涯に27の戦争を戦ってハプスブルク君主国を拡大させ、「最後の騎士」と呼ばれたのがマクシミリアン1世でした。カール5世の祖父にあたる人物ですが、この本を読むとマクシミリアン1世がハプスブルク君主国拡大のキーパーソンであることがわかります。

 マクシミリアン1世はイタリアの支配をめぐってフランスとイタリア戦争を戦いますが、この戦争は莫大な戦費が必要なものでした。
 そこでマクシミリアン1世は諸身分の要求に応じて帝国改革を行い、帝国管区の導入や帝国議会制度の整備などが行われます。マクシミリアン1世はこれらの改革について、「自分は「王の中の王」であってフランス王のような「奴隷の王」ではないと誇らしげに語る一方、スペイン王の「無制限の権力」を羨望し、支配するに刃物がいる「ドイツの野獣ども」に嫌悪を示すといった具合に、複雑な心情をのぞかせ」(78p)たといいます。

 マクシミリアン1世はイタリア戦争を通じてスペインとの関係を深め、マクシミリアンの息子と娘がそれぞれスペインの王子・王女と結婚するという二重の婚姻関係を結びます。さらに中東欧の雄・ヤギェウォ家との間にも孫達の二重結婚を行います。
 ここにハプスブルク君主国がスペイン、さらにチェコやハンガリーへと広がっていく素地がつくられたのです。
 ただし、ハプスブルク帝国は結婚によって領土の拡大を図ったという説は端的に言って誤りで、あくまでも相手方の王統の断絶という偶然によるものだと著者は述べています(82-83p)。

 そしてカール5世が登場します。神聖ローマ皇帝とスペイン王をかねたこの人物は世界史の教科書などでもおなじみですが、92-93pに載っているカール5世のすさまじく長い肩書はこの時代の特徴を表しています。
 ハプスブルク君主国とは、それぞれ独自の法や制度を持つ諸国や諸邦が同じ君主をいただく形の同君連合国家であり、「帝国」というイメージとはちがった存在だったのです。
 現在の歴史学では、近世ヨーロッパの諸国家を「複合(君主政)国家」といい、「礫岩<のようなさまざまな要素の寄せ集めの>国家」と呼ぶ研究者もいます(94-95p)。

 このような複雑なしくみを温存しながら巨大化した帝国の統治にカール5世は奔走します。フランスやオスマン帝国と戦い、内ではルターによる宗教改革に対処し、落ち着く暇がありませんでした。
 カール5世はカトリック信仰に基づくキリスト教世界の統一を目指しましたが、アウクスブルクの宗教会議でルター派の信仰が認められたことによって、その計画は挫折。体調不良もあって1555年に退位します。
 そして、スペイン王を長男のフェリーペ(2世)が、神聖ローマ皇帝を弟のフェルディナント(1世)が継承することが決まり、ここにハプスブルク家はスペイン系とオーストリア系に分裂することになるのです。

 フェリーペ2世は「書類王」とも呼ばれたほど内向的で勤勉な性格で、ポルトガルを併合し、全世界を股にかけた巨大な支配領域をつくりあげました。しかし、カトリックにこだわったフェリーペ2世はネーデルランドやイギリスと対立し、その戦費の負担は財政破綻をもたらします。
 植民地からの富はあったものの、「複合(君主政)国家」スペインには統一的な財政のシステムはなく、必要に応じて徴税や借金で資金を調達するというずさんな財政に頼っていました。フェリーペ2世が没した1589年、支払利息の総額は収入の2/3を占めたといいます(119-120p)。
 こうした中、この本ではフェリーペ2世が日本からの天正遣欧少年使節を非常に愛想よく迎えたというエピソードが紹介されています(107p)。 

 一方、神聖ローマ皇帝となったフェルディナント1世は、ヤギェウォ家のラヨシュ2世がオスマン帝国との戦いで戦死すると、ハンガリー王、チェコ王の座を狙います。
 この動きには現地の諸身分の抵抗がありましたが、フェルディナント1世はチェコでは「再カトリック化」を手控えることで、ハンガリーでは貴族間の対立を利用することで着々と地盤を固めていきます。
 結局、ハンガリーは反ハプスブルクの勢力がオスマン帝国を頼ったことで第一次ウィーン包囲が起こり、ハンガリーの大部分はオスマン帝国が支配することになりましたが、北部からクロアチアにかけてはハプスブルク家の支配領となりました。

 その後、プラハに宮殿を構え、ブリューゲルのコレクションを行いアルチンボルドに肖像画を描かせるなど芸術を愛好したルードルフ2世などが登場しますが、ハプスブルク君主国内ではカトリックとプロテスタンタの対立が強まっていきました。
 そして「再カトリック化」を強行しようとしたフェルディナント2世のもとで三十年戦争が勃発するのです。

 この三十年戦争の講和条約であるウェストファリア条約を「神聖ローマ帝国の死亡診断書」とみる考えもありましたが、現在では「皇帝絶対主義」は否定されたものの、神聖ローマ帝国の「複合(君主政)国家」としての内実がより深まった(164p)という見方が主流なようです。

 三十年戦争後、ハプスブルクの力はゆるやかに低下していったように思われがちですが、そうではありません。
 1683年の第二次ウィーン包囲の危機を脱すると、1697年のゼンタの会戦でオスマン帝国に大勝し、1699年のカルロヴィッツ条約でハンガリーの大半を獲得します。
 この時期、ハプスブルク君主国はプリンツ・オイゲンという優れた指揮官を得て、数々の対外戦争に勝利しました。また、これらの戦争を財政的に支えることにも成功しました。
 近世のヨーロッパにおいて、王権が戦争を原動力として行財政を整備し強国化していくという「財政軍事国家」への転換が起こりますが、ハプスブルク君主国もそれに成功したと言えるのです(194ー195p)。

 しかし、その改革は農村には及びませんでした。この時期に領主の権力はむしろ強化され、特にチェコやハンガリーでは農奴制が(再)確立されたといいます(208p)。
 このような中で、女帝としてハプスブルク君主国を継いだのがマリア・テレジアでした。
 マリア・テレジアは父のカール6世が亡くなるとすぐさまオーストリア継承戦争に巻き込まれ、プロイセンのフリードリヒ2世の挑戦を受けます。
 マリア・テレジアはこの機に独立に動くかと思われたハンガリーの支持を取り付けて苦境を脱し、その後、さまざまな改革を進めてハプスブルク君主国を引っ張っていきます。また、長年の宿敵のフランスと手を結ぶ、いわゆる「外交革命」を成し遂げ、娘のマリ・アントワネットをのちのルイ16世と結婚させます。

 マリア・テレジアとその子のヨーゼフ2世はともに「啓蒙専制君主」として知られていますが、この本では、マリア・テレジアを本質的には保守的でありながら「人情の機微と関係諸勢力との合意形成を重んじつつ、さまざまな意見を柔軟に採り入れるボトムアップ型の統治を行った」(230p)と評価するのに対して、ヨーゼフ2世については「自らの正しさと能力を過信し」、「独善的で冷笑的、そしてひとたび反感を抱いたものには過度に攻撃的になる」(235p)と、その人格面を否定的に捉えています。
 第6章のタイトル「何事も人民のために、何事も人民によらず」とはこのヨーゼフ2世の政治スタイルを表していますが、ヨーゼフ2世の跡を継いだ弟のレーオポルド2世をのぞくと、これがハプスブルク家の統治のスタイルとなっていくのです。

 フランス革命とナポレオン戦争はハプスブルク君主国を大きく変容させました。アウステルリッツの戦いの敗北後、ドイツの中部・南部の中小諸邦はライン同盟に加わり神聖ローマ帝国は解体されます。
 そして、その後の事態の収集にあたったのがウィーン会議の中心人物でもあった宰相のメッテルニヒでした。この会議で成立したウィーン体制は従来、「反動」として低い評価が与えられてきましたが、近年では一種の集団安全保障体制が形成され、1世紀近くヨーロッパに平和をもたらしたものとして評価されています(細谷雄一『国際秩序』(中公新書)でも高い評価が与えられていた)。

 しかし、ヨーロッパにおけるナショナリズムの高まりはハプスブルク君主国内を揺るがしていきます。特に領内にさまざまな民族を抱えるハプスブルク君主国にとってナショナリズムは厄介なものでした。
 1848年の革命の炎はハプスブルク君主国内にも及び、三月革命でメッテルニヒは失脚し、ハンガリーやチェコでもハプスブルクの支配から離反する動きが起こります。
 ハンガリーやチェコの独立の動きを抑えたハプスブルク君主国ではドイツナショナリズムが前面に押し出され、ドイツ語教育が推進されました。新たな皇帝フランツ・ヨーゼフとバイエルン公女エリーザベトとの結婚もこの流れとは無縁ではありませんでした。
 一方、農村での生活状況は改善せず、南北アメリカへの移民が増えていきました。20世紀の最初の10年間にアメリカ合衆国が受け入れた移民897万6千人のうちハプスブルク君主国出身者は214万6千人にのぼったといいます(290p)。

 ドイツナショナリズム路線は普墺戦争の敗北によって挫折。ハンガリーの自治を大幅に認める形で「オーストリア=ハンガリー二重君主国」が成立します。しかし、人口のおよそ半数を占めるスラヴ系の諸民族はこの動きに関与できませんでした。
 この後、オーストリア帝国では自由主義的な流れが強まりますが、「政府は、「八つの民族、七つの領邦、二〇の議会組織、二七の政党、二つの複雑な世界観、ハンガリーとの込み入った関係、八・五度の緯度と経度におよぶ文化的相違」(ウラディミール・ベック)への対応に絶えず苦慮」(323p)することになります。
 チェコからの「三重帝国への要求」、急進的ナショナリズム政党の台頭、さらに皇太子ルードルフの変死といった出来事に悩まされることになるのです。

 しかし、急進的なナショナリズムが広く社会に浸透したかというとそういうわけではありません。この本では、中欧において多言語を習得させるために異なる言語を話す人に子どもを預ける習慣(「交換保育」)の存在や、グスタフ・マーラーがハンガリー語のオペラの上演を行おうとしたところ不評で挫折したことなどを指摘し(333ー334p)、人びとは「ナショナリズムに染め上げられていた訳ではなかったのだ」(336p)と述べています。

 一方、ハプスブルク政府は君主の存在を前面に押し出した「公定ナショナリズム」を進め、いたるところにフランツ・ヨーゼフの肖像画が飾られました(336ー338p)。
 だからこそ、1914年6月のサライェヴォ事件でフランツ・フェルディナントが暗殺された衝撃も大きかったといえるのかもしれません。
 セルビアへの膺懲と威信回復、そして政情刷新のためにハプスブルク政府は開戦へと動き出しますが、それはハプスブルク君主国崩壊の引き金を引くことになりました。

 ここで本書が終わってもいいところではありますが、さらにこの本ではその後のハプスブルク家、特に最後の皇帝カール1世の子で2011年に98歳でその障害を閉じたオットーについて詳しく触れています。
 オットーはベルリンの壁崩壊のきっけとなった「汎ヨーロッパ・ピクニック計画」を後援し、「ハプスブルク神話」の形成に一役買った人物です。特に第2次世界大戦後に社会主義化した中東欧の国々ではハプスブルク君主国を再評価する動きがあり、EUの先駆けと考える人もいます。
 しかし、著者はオットーの問題のある言動などを取り上げつつ、「最後に、ハプスブルク君主国に対する今日の再考・再評価の動きに行き過ぎがみられることに、注意を喚起しておきたい」と述べています。

 長々と本書の内容について述べてきましたが、これでもハプスブルク君主国の文化的側面や日本とのかかわりなどの部分はバッサリと落として紹介しています。
 400ページ超えの新書というと怖気づく人もいるかもしれませんが、内容的によく400ページで収まったなという感じで、著者の叙述の手際の良さは際立っています。また、来日したフランツ・フェルディナントやミュシャの「挙国一致宝くじ」のポスターなど、写真や図版も豊富です。読み応え満点の新書といえるでしょう。

ハプスブルク帝国 (講談社現代新書)
岩崎 周一
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大竹文雄『競争社会の歩き方』(中公新書) 8点

 『経済学的思考のセンス』、『競争と公平感』(いずれも中公新書)などの著作でおなじみというよりも、最近はEテレの「オイコノミア」でおなじみといったほうがよい大竹文雄による経済学的な読み物。
 先にあげた2冊と同じく社会問題などを経済学の切り口で分析しながら、最新の行動経済学の知見などを紹介しています。
 「オイコノミア」を見ている人は、他の経済学者の先生に比べて大竹先生はネタが豊富だと感じているかもしれませんが、それは本書でも遺憾なく発揮されています。「オイコノミア」でコンビを組んでいる又吉直樹の『花火』や西加奈子『サラバ!』の書評や司馬遼太郎についての講演なども組み込まれており、タイトルにもある「競争」とキーワードを中心にしてさまざまなネタが楽しめると思います。

 目次は以下の通り。
プロローグ 競争で強みを見つける
第1章 身近にある価格戦略
第2章 落語と小説の経済学
第3章 感情と経済
第4章 競争社会で生きてゆく
第5章 格差社会の真実
エピローグ イノベーションは、若者の特権か

 第1章の冒頭で紹介されているのはチケットの転売問題です。
 去年の8月に有名アーティストが新聞でチケット転売に反対する意見広告を出したことを覚えているひとも多いと思います。数千円のチケットが数万円、場合によっては10万円以上に高騰するようなケースもあり、「本当にチケットが欲しい人に行き渡らない」、「アーティストとファンの関係を壊す」、「アーティストに利益が還元されない」といった理由で転売に対して批判が高まっていました。

 これに対して、伝統的な経済学は、熱心なファンかどうかはチケットに払える金額で測ることができるし、そもそも超過需要があるのだからアーティスト側はもっとチケットの価格を上げるべきである、と考えるでしょう。
 あくまでも価格メカニズムによって問題は解決されると考えるのです。

 しかし、この考えについてはさまざまな異議があがると思います。
 ファンの熱意を測れるのはチケットに出せる金額だけではなく、例えばケンカやチキンレースでも測れるかもしれませんし(純粋に「強い気持ち」だけを測るならば命を懸けるチキンレースが一番良いかも)、チケットの価格を高くすれば学生などの若いファンがコンサート会場から締め出されることになりアーティストの人気は持続しにくくなるかもしれません(現在であれば嵐のコンサートなどはチケット1枚5万円でも埋まると思いますが客席の風景はずいぶん変わるでしょう)。

 「だから経済学なんて非現実的なんだ」と言いたくなるところですが、この本ではその先の経済学を紹介しています。
 プリンストン大学教授のアラン・クルーガーの分析では、チケットの価格を引き上げないのは、まず、それが新規顧客獲得戦略であり、超過需要をつくりだすことで人気を維持する戦略であるというものです。また、行動経済学の知見から一度保有したものは価値を高く見積もるという人間のバイアスをとり上げ、転売市場で必要以上に価格が高くなってしまう可能性を指摘し、さらにチケットの安さは一種の「贈与」あり、それがファンの忠誠心をあげるという考えを紹介しています。

 そして、解決策としてコンサートのチケットの一定枚数をオークションに出し、定価以上の価格がついた分については慈善団体に寄付するというアイディアを披露しています。これならばどうしても行きたいファンはオークションで買えばいいわけですし、アーティストも強欲だとの批判を免れることができます。
 現在の経済学が、実際の人間の行動に寄り添った分析を行っていることがわかると思います。

 この他、第1章では、「他店よりも高ければ値下げします」との広告が価格を下げないという暗黙の共謀であることや、くまモンの戦略を検討しています。
 
 第2章では、落語の「千両みかん」から「私的価値」と「共通価値」の違いを説明したり、司馬遼太郎の作品や又吉直樹の『火花』から「競争」の重要性を指摘しています。

 第3章で扱われるのは人間の感情の問題です。
 例えば、「怒り」の感情はなかなか自分でもコントロールできないもので厄介です。研究によると、怒っている人はよりリスクを取りやすくなり、問題の責任が他人にあると感じるようになるといいます(68p)。
 怒っていると、単純に握力の強さを競うようなゲームではより力が発揮できますが、メンタルなゲームでは成績が悪くなります。また、他人との協力行動をとらなくなるとのことです(72p)。

 このようなことを聞くと「経済学というよりもほとんど心理学ではないか」と思う人もいるかと思いますが、2002年に心理学者のダニエル・カーネマンがノーベル経済学賞を受賞したからもわかるように(カーネマンの研究については『ファスト&スロー』を参照)、行動経済学や実験経済学と行った分野では急速に心理学との融合が進んでいます。
 「経済学者が「怒り」について研究して何になるんだ?」と思う人もいるかと思いますが、リスクというのは経済学における非常に重要な概念であり、リスクに対する態度が感情で大きく変わるとすれば、経済学は人々の感情も考慮に入れる必要があります。

 第4章では、そうした人間の感情やバイアスについての研究が政策などにいかに活かされる可能性があるかということが述べられています。
 例えば、たんに節電を呼びかけるだけではなく、その家庭と電力やガスの消費が似た家庭の消費量を示して省エネについて助言したところ、2%以上電力消費が減少したとの実験がありますし、インフルエンザのワクチン接種についても、たんに日時を知らせるだけでなく手帳に日時を書き込ませると接種率が上がるそうです(120-121p)。
 人間のバイアスを利用したちょっとした介入が人々の行動を大きく変えることもあるのです。

 第4章の最後でとり上げられている児童扶養手当の「まとめ支給」の問題などは、行動経済学の知見が人々の暮らしを改善させることができるわかりやすい例だと思います(現在の4ヶ月に1度のまとめ支給では無駄遣いしやすいし、借金にも頼ってしまいがちで貧しい家庭のためにならない)。

 また、経済においては見知らぬ他者に対する一般的な信頼や、他人に親切にされたらそのお返しをすべきだという正の互恵性が重要です。それが高い社会や組織では協力が進み発展する可能性が高まります。
 では、こうした傾向をどうやって育てていけばいいのか?その答えの一つが教育になります。
 この本では板書中心とグループ学習中心の教育を比較してグループ学習中心の国のほうが一般的信頼が高まるとしています(ただし、成績に関してはどちらかに偏るよりも両方の組み合わせが重要(141-142p))。
 
 さらに徒競走で順位をつけない小学校で教育を受けた人ほど、「利他性が低く、強力に否定的で、互恵的ではないが、やられたらやり返すという価値観を持つ傾向が高い」という著者らの研究が紹介されています。
 学校側としては互恵性を育てるために、あえて競争で明確な順位をつけないようにしているのでしょうからこの結果は衝撃的です。

 著者は教育学者の苅谷剛彦の議論を引きながら、こうした教育が個人の能力差を生まれながらの素質の差ではなく努力の結果であるという価値観を生みがちで、それが「競争に負ける=怠けている」という価値観を生んでいるのではないかと類推しています。
 もう少し精密なデータや分析を見てみたいところではありますが、日本の教育と社会の現状を考えるとある程度納得できるものではないでしょうか。

 最後の第5章では著者が以前から何度か書いている格差の問題がとり上げられています。
 格差というとセンセーショナルに報道されることが多いですが、この本で紹介されている日本のトップ10%の所得が580万円でトップ1%の所得が1270万円と聞くと、また違った風景が見えてくるのではないでしょうか(日本の経済が停滞していることも実感する)。
 もちろん、格差への対策は必要で著者も否定してはいませんが、日本はアメリカのように一部の金持ちが富を独占しているというような社会ではないのです。

 このようにさまざまな興味深いトピックをとり上げながら最新の行動経済学の知見などをわかりやすいかたちで紹介しているのがこの本です。
 ここで紹介されているすべての知見に納得したわけではありませんが(個人主義の国ほど豊かになるというゴロニチェンコの研究の紹介(152-154p)などは疑問も残る)、経済学のという日常の眺めとはちょっと違った視点からの切り口が生きており、社会問題やライフスタイルを見直してみるひとつのきっかけとなるでしょう。


競争社会の歩き方 - 自分の「強み」を見つけるには (中公新書)
大竹 文雄
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井上亮『天皇の戦争宝庫』(ちくま新書) 6点

 副題は「知られざる皇居の靖国「御府」」。皇居内にある「御府(ぎょふ)」と呼ばれる施設の実態に迫った本になります。
 戦前の記憶がない多くの人にとって「御府」と言われても何のことかわからないと思います。それなりに天皇についての本を読んできた自分も字面を見たことがある程度のものでした。
 この御府とは近代以降、日本が戦争で獲得した戦利品や戦没者の写真や名簿を納めた施設で、振天府(日清戦争)、懐遠府(北清事変)、建安府(日露戦争)、惇明府(第一次世界大戦・シベリア出兵)、顕忠府(済南・満州・上海事変、日中・太平洋戦争)という5つの施設がつくられました。
 これらの施設は戦後になって封印され、顧みられることもなくなりましたが、建物自体はまだ皇居内に残っているといいます。
 そんな御府の謎に、元日経新聞の皇室担当記者だった著者が迫ったのがこの本です。

 目次は以下の通り。
序章 存在が隠されている皇居の一角
第1章 「朕が子孫、臣民に知らしむべし」―戦勝の記念と皇恩
第2章 輝ける明治の戦果―国民教育の施設へ
第3章 開放と崇敬の衰退―大正期の遠い戦争
第4章 靖国神社との直結―昭和の「十八年戦争」
第5章 封印された過去―歴史の宝庫として残った戦後

 明治維新から近代国家建設の道を歩みはじめた日本でしたが、そのターニングポイントとなったのが日清戦争とその勝利でした。この戦争の勝利に国民は熱狂し、「国民国家」における「国民」としてのまとまりが成立していく契機になります。
 また、この戦争ではさまざまな戦利品が大陸から日本へ運ばれました。このうち皇室に献上された戦利品を飾り、同時に戦没者の顕彰を行う施設としてつくられたのが振天府になります。

 振天府には、銃器をはじめ清国の勲章、青龍刀類、満州兵の古槍、城門扉、軍艦「定遠」の断片など、さまざまなものが飾られていたそうです。この様子はこの本に引用されてる宮内庁宮内公文書館蔵の写真からもわかりますが(28-29p)、さまざまなものが所狭しと並べられていたようです。

 この振天府に関しては明治天皇がその造営に積極的に関わったとの史料があり、「設計より、名称、意匠、図案の類に至る迄御親ら(おんみずから)の御工夫と御指示」(27p)というのはつくってあると思いますが、「今回の戦役には多数の戦病死者を出せり。彼らは実に国家の為めに能く務めたるものなり。彼らの写真を取寄せよ」(31p)との発言もあったそうで、戦利品だけでなく戦死者の名簿や写真を収めようとしたのは明治天皇の発案のようです。

 この他、室内に入り切らないものとして北洋艦隊提督の丁汝昌の庭石、金州城の鎧門、威海衛にあった長さ22mの旗竿などもあり(鎧門と旗竿は42-43pい写真あり)、「見せる工夫」がなされていたそうです。
 
 ただし、公式記録の『明治天皇実録』によると明治天皇が見たのは一度きりですし、その他の者の見学も皇族や高官、軍の将校に限られていました(44-45p)。
 その後、新聞記者などへの公開も行われ、1907年には当時の文部大臣の牧野伸顕の発案で師範学校の職員や生徒への公開も行われます(59p)。教育効果を狙ってのものでした。

 日清戦争後、日本は北清事変と日露戦争を戦いますが、これらの戦役においても懐遠府(北清事変)、建安府(日露戦争)がつくられました。
 ところが、明治天皇は懐遠府を一度も見ていないというのです(69p)。さらに建安府の記述も『明治天皇実録』にはほとんど登場しません。しかも、どうやら建安府は懐遠府の建物を使用したもので、その時点で懐遠府の収蔵品は他にしまわれたらしいのです(78p)。

 そして、明治天皇はこの建安府も訪れることがなかったといいます(109p)。戦争の規模が大きくなったぶん、戦利品や戦没者の写真の数も多く、渤海国の歴史的資料である「鴻臚井碑(こうろせいひ)」と呼ばれる記念品(旅順にあったものを持ってきた)などもあるのですが、明治天皇の建安府に対する態度は冷めていました。
 明治天皇が日清戦争について「今回の戦争は朕素より不本意なり」と述べたとされていますが(111p)、この傾向は北清事変、日露戦争とさらに強まっていたことが窺えます。
 この本は基本的にはジャーナリストの著作で、研究者の本や論文は参照されていないのですが、このあたりは現在の明治天皇研究に触れながら展開してくれたら面白かったと思います。

 大正時代になると、拝観の対象者が、陸海軍生徒や在郷軍人会の准士官以上の者、法曹関係者や愛国婦人会の職員などにも広がり、大規模な御府の見学が始まります。
 ただし、そのぶん観覧者のマナーも低下したようで、当時の侍従武官の日記からそのことが窺えます。
 また、第一次世界大戦とシベリア出兵に際して惇明府もつくられましたが、あまり戦利品は多くなく、青島のドイツ総督官邸内にあったカレンダーなどの戦利品とはいえないようなものもあるそうです(134p)。

 この大正時代の御府に関して注目すべき点は、大正天皇が靖国神社への行幸の代わりに御府を訪れていたのではないかと考えられる点です。
 大正天皇が展覧の記録を調べると靖国神社の例大祭の時期と重なっている事が多いです。これは健康状態が優れず靖国神社の重要な祭事に毎回行幸できなかった大正天皇ならではの行為かもしれませんが、御府が「皇居の靖国」としての機能を持ちはじめたとも見ることができます(140ー142p)。

 昭和になると御府はますます「皇居の靖国」的な性格を強めます。
 満州事変がはじまると、検討されつつもこれまで実現していなかった戦没者遺族の御府の見学も開始されます。御府は「戦利品倉庫よりも慰霊・顕彰施設としての性格を強めていく」(168p)のです。1934年には靖国神社の春の臨時大祭に合わせて2日間で1500人以上の遺族が御府を拝観しています(175p)。

 済南・満州・上海事変を機につくられた顕忠府を1938年に見学した小川勇という人物は次のような感想を残しています。
「苟しくも殉国した者に対しては其霊は神として靖国神社へ合祀せらるゝのみならず、一々生前の写真を一室に保存し随時陛下親しく玉歩を其室に御運び遊されて、写真の傍に附記してある説明と引合はせて其者の勲功を嘉み給ふと云ふ真に勿体ない事実を拝聞し、此でこそ吾々日本国民は国に殉ぜんとする際、必ず天皇陛下万歳を絶叫して死ぬ事が出来るわけであると痛感した」(194ー195p)

 このように御府の拝観はイデオロギーの強化の場として機能しましたが、日中戦争の開始以降は死者の数の多さもあって、写真の収集や新たな施設の建設が難しくなります(結局、日中戦争や太平洋戦争のものは顕忠府の増築で対応する方針が決まった)。
 1943年には約2万人が拝観したといいますが(197p)、もはや新たな御府を建設する時勢ではなくなっていたのです。

 戦争が終わると、御府は封印されます。戦利品は略奪品となり、御府のような施設は天皇制の維持にとって不都合なものとなったのです。
 戦没者の名簿や写真も現在それがどこにあるのかわからない状態ですし、宮内庁は基本的に御府エリアへの立ち入りを禁止しています。90年代に皇室担当記者にオフレコで建物のみが公開されたことはあったようですが(著者は見ていない)、一種の「タブー」となっている状況です。

 このようにほぼ封印されている御府について、さまざまな手を尽くして事実を掘り起こした点にこの本の価値があります。
 途中にも書いたように、もう少し歴史学の研究などとリンクさせていれば面白かったと思う点もありますし、歴史の記述に関してはやや雑な部分も見受けられるのですが(21カ条要求について「これがイギリスの不信を招き、日英同盟破棄の原因となる」(125p)と断言調で書いている部分とか)、ほとんど手が付けられていなかった領域を切り拓く貴重な仕事だと思います。


天皇の戦争宝庫: 知られざる皇居の靖国「御府」 (ちくま新書1271)
井上 亮
4480069755

石井哲也『ゲノム編集を問う』(岩波新書) 7点

 最近、耳にするようになった「ゲノム編集」という言葉。新しい技術なのですが、以前から行われている「遺伝子組み換え」とどう違うのかよくわからない人も多いでしょう。
 そんな「ゲノム編集」について、その技術を説明しつつ、農業分野と医療分野における実態と可能性、そしてこの技術が引き起こす倫理的問題を解説した本になります。
 農業分野と医療分野の2本立てで話を進めているのが特徴で、この分野に関してほぼ素人の自分としては、求めれられる技術の精度や引き起こされる倫理的問題の違いなどがわかって面白かったです。

 目次は以下の通り。
第1章 ゲノム編集とはなにか?
第2章 品種改良とゲノム編集
第3章 ゲノム編集で病気を治療する
第4章 ヒトの生殖とゲノム編集
第5章 ゲノム編集の時代を考える

 これまで行われきた遺伝子組み換えという技術は、用意した遺伝子をあらかじめ切断しておいた「運び屋」(ベクター)役のDNA(プラスミド)に連結させ、それを大腸菌の中で増殖させ、増やしたプラスミドを細胞の中に導入するというものです(11p)。
 この技術は画期的なものでしたが、効率は良くなく、また、ゲノムの特定部分を狙ってそこに遺伝子を導入しようとしても狙い通りの結果を得ることは難しいものでした。

 一方、ゲノム編集は「制限酵素などを細胞内に導入し、それらが細胞内で直接、DNAを精密操作する仕組み」(13p)です。
 詳しくは本書を読んでほしいのですが、狙った部分をハサミを使って切るとり、そこに遺伝子を導入するというイメージです。特に2010年代になって実用化されたクリスパー・キャス9というツールによって、安価にできるようになり、現在、世界中の研究室にゲノム編集の技術が広まっています。

 では、このゲノム編集によってどんなことが可能になるのか?第2章では農業分野についての応用が紹介されています。
 大昔から人類は自分たちのとって都合のよい突然変異が起きた品種を選び、それを育てるという品種改良を重ねてきました。20世紀になると、化学物質や放射線などをつかって人為的に突然変異を起こし、品種改良を行ってきました。
 
 さらに1990年代以降は遺伝子組み換え食品の登場します。除草剤への耐性や害虫への抵抗性を持つダイズやトウモロコシやワタなどが開発され、栽培されています。
 そしてゲノム編集の技術を使って、タイ米のように香る日本米や除草剤への耐性を持つジャガイモなどが生み出されました。この技術は家畜にも応用され、筋肉を抑制する遺伝子を破壊し筋肉が肥大化したウシ、ウィルスへの抵抗を持つブタ、角が成長しないウシなどがつくられています(37,38pの表)。

 ちなみに筋肉が肥大化したウシ(Belgian Blue Bull)とはこんな感じ。
 
 

 こうした技術が開発される一方で、こうした技術への懸念が根強いのも確かです。
 遺伝子組み換え作物の栽培は各国で進んでいますが、日本では「承認されても、栽培されない」状況が続いています。
 ただ、輸入に関しては行われていますし、表示に関しても上位4番目以降の原料か、全重量の5%未満であれば「意図せぬ混入」として表示義務がない制度になっています(50p)。こうしたこともあってなかなか不信感が払拭されないのが日本の現状です。

 遺伝子組み換え作物は登場から20年近くが経っていますが、食品としての安全性に関しては「科学的には問題ない」というのが通説になりつつあります。害虫に対する毒素を持つ作物などについては不安に思う人もいるでしょうが、人間が食べても毒素にならないことが科学的に示されています(57-58p)。
 一方、環境への影響については自生や交雑が起きているのは確かであり、生態系への影響については、まだ予断を許さないといった状況のようです。

 ゲノム編集に関しては、遺伝子組み換えよりも自然に起こる突然変異に近いものである一方、改変が小さいぶん追跡が容易でなく、隔離した栽培が可能なのかが問題になります。

 また、家畜となるとまた別の倫理的な問題が起きてきます。家畜は畜舎で飼うので管理は容易ですが、筋肉が肥大化したウシ、ウィルスへの抵抗を持つブタに抵抗感を持つ人は多いと思います。特に筋肉が肥大化したウシは難産になり帝王切開になることが多く、舌の肥大で呼吸困難になりやすく、体重が重いため脚を痛めやすいといった特徴があります(76-77p)。こうした存在に抵抗を覚える人は多いでしょう。
 角が成長しないウシに関しては、角が生えてこないように焼きごてをあてる必要がなくなるので「人道的」といえるかもしれませんが、そもそも人間の都合で角を奪うべきではないという意見もありそうです。

 第3章ではゲノム編集を使った医療について検討されています。
 先天性の遺伝子疾患によって病気になったり、継続的な薬の投入が必要な人々は数多く存在します。もしも、人間の遺伝子を自由に編集できるのであれば、こうした人々にとっては大きな福音となるでしょう。
 今までの遺伝子治療では狙った場所に組み込むことは困難でしたが、ゲノム編集の技術を使えば狙った場所に遺伝子を組み込むことができます。

 しかし、体内に吸収され分解・排泄される薬と違って遺伝子治療の影響は長期に渡って起こりますし、手術などに比べるとそのミスなどはわかりにくくなっています。
 ですから、承認される遺伝子治療は少なく、「今日まで、世界で少なくとも2409の遺伝子治療の臨床試験が進められてきたが、販売が承認された遺伝子治療製剤はたった7つにすぎない」(98p)そうです。

 こうした遺伝子治療の停滞の背景には過去に起きた事件があります。
 1999年のゲルシンガー事件では、遺伝子治療の臨床試験を受けた高校生のジェシ・ゲルシンガーが4日後に死亡していますし、同じ1999年にフランスでは子どもに対してなされた遺伝子治療で治療後しばらくしてガンが発生する事件が起きています。フランスのケースでは6年経ってからガンを発症している事例もあり、遺伝子治療の副作用の難しさを示すものとなっています。

 ゲノム編集については、2014年にアメリカでエイズの治療試験が行われており、とりあえずは効果が出ていると報告されているようです。
 ただし、狙い以外の遺伝子を変えてしまってはいないかというオフターゲット変異については調べられていないということですし、追跡期間も1年ほどで、まだ副作用がないとは言い切れない状況です(107-108p)。

 こうしたゲノム編集を使った治療法はまだ臨床段階ですが、著者は近年の研究動向などから「最初の承認国は中国になるかもしれない」(119p)と予想しています。中国の医療評価基準について、著者は疑問を呈していますが、だからこそ中国が一番乗りになる可能性も高いのです。
 また、著者は遺伝子治療のコストの問題もとり上げています。従来の遺伝子治療では数千万円から1億円を超えるような価格設定がなされています。これらが大々的に行われるようになれば国民皆保険の仕組みは破綻してしまうように思えますが、先天性の難病が対象であれば、患者数は少なく、またその後の投薬コストなども節約できるかもしれません。一概に高いとは言い切れないでしょう(著者は消費税を欧州並みの20%にする覚悟はあるか?みたいな話をしているけど(125p)、ここはもう少しきちんとしたコスト計算をしてほしいところ)。

 第4章では生殖医療におけるゲノム編集の可能性と倫理的な問題がとり上げられています。
 ゲノム編集が自由自在にできるようになれば、それこそ「デザイナーベビー」と呼ばれる理想的な遺伝子を持った子どもを作り出せそうですが、目の色に関する遺伝子だけでも少なくとも16あり(170p)、そのすべてを狙ったとおりに改変するのはまだ難しい段階のようです。
  
 さらにやはり成功確率の問題もあるようで、この本の前半に、ゲノム編集のZFNによってヒトES細胞にすでに導入された遺伝子を除去し元の状態に修復する効率は0.24%で従来の遺伝子組み換え技術の0.0001%に比べて2400倍も効率が上昇したということが書かれています(17p)。
 これは植物の種子などを対象に行うには十分な効率かもしれませんが、人間の受精卵を対象にするとなるとはるかに高い効率が必要になるでしょう。

 他にもこの本では生殖医療にゲノム編集を用いる倫理面の問題について書かれていますが、これに関しては従来の遺伝子組み換えの時の話とそんなに変わらない印象で、それほど新鮮な議論はないように感じました。

 はじめにも述べたように、この分野についてはほぼ素人なので誤解している部分などもあるかもしれませんが、勉強になった本でした。
 特に農業分野と医療や生殖といった人間への応用を並列的に論じたことで、求められる技術た倫理の違いが見えるようになっている点は良かったと思います。


ゲノム編集を問う――作物からヒトまで (岩波新書)
石井 哲也
4004316693

亀田俊和『観応の擾乱』(中公新書) 7点

 異例の大ヒットとなった呉座勇一『応仁の乱』につづき中公新書から刊行されたテーマは観応の擾乱。攻守が目まぐるしく入れ替わり、これまたわかりにくい足利尊氏・直義兄弟の対立です。
 ただし、『応仁の乱』の二匹目のドジョウ狙いというわけではなく、企画は『応仁の乱』の刊行以前から進んでいたようです。著者は『南朝の真実』などの南北朝期についての著作を精力的に発表している亀田俊和で、テーマ、著者とも時宜を得たものといえるでしょう。

 基本的には観応の擾乱の発生から終息までを追う記述になっていますが、同時に佐藤進一が『南北朝の動乱』で打ち出した「定説」にチャレンジする内容になっています。
 目次は以下の通り。
第1章 初期室町幕府の体制
第2章 観応の擾乱への道
第3章 観応の擾乱第一幕
第4章 束の間の平和
第5章 観応の擾乱第二幕
第6章 新体制の胎動
終章 観応の擾乱とは何だったのか?

 観応の擾乱の一連の流れは次のようなものです。
 四条畷の戦いで楠木正行に勝利した足利家の執事の高師直が直義によって解任させられる。
 師直が主君の足利尊氏邸を包囲し、逆に足利直義を引退に追い込む。
 その1年あまり後に、直義が南朝と手を結び、直義側に多くの武将が集まり、尊氏側は敗北。師直が殺される。
 その5ヶ月後に直義は失脚し、北陸から関東へと没落し、尊氏側が勝利する。
 その後、尊氏の実子で直義の養子となっていた直冬が京都に攻め上り一時京都を占領するが、尊氏に敗れる。

 このようにダイナミックに展開する観応の擾乱ですが、そこには「なぜ、室町幕府の成立までは非常に仲の良かった尊氏・直義兄弟が対立したのか?」、「なぜ、ここまで極端に攻守が入れ替わるのか?」という謎があります。

 このうち、前者の謎に対して佐藤進一の「定説」は次のような説明を与えています。
 当時の幕府の政治は尊氏と直義の二頭政治であり、政務を担った直義は基本的に鎌倉幕府的秩序を維持・尊重しようとした人物であり、東国の地頭層に支持される傾向があった。また、寺社領なども保護した。
 一方、高師直は既存の権威を軽んじ武士の権益を拡大させようとした人物であり、機内の新興武士層や地頭御家人の庶子、足利一門の家格の低い譜代層などに支持された。
 この「真面目な秩序の擁護者・直義」と「破天荒な婆沙羅大名の師直」の対立に、「よくわからない尊氏」(佐藤進一は尊氏は躁鬱病だったのではないかとしている)が絡んで巻き起こったのが、この観応の擾乱というわけです。

 こうした「通説」に対して、著者はいくつかの異議を唱えています。
 まずは、尊氏と直義の二頭政治ですが、著者は直義の権限が圧倒的に大きかったと見ています。
 直義は所領安堵、所務沙汰裁許(荘園などを巡る訴訟の判決)、武士たちを動員するための軍勢催促、武士が希望する官職を北朝に推挙する官途推挙状の発行など、広範な権限を行使していました。
 一方、尊氏が行使したのは軍功をあげた武士に褒美として所領を給付する恩賞充行(おんしょうあておこない)と、守護の任命権くらいなものでした。
 この時期の最高指導者は直義と見てよいというのが著者の見解です。

 観応の擾乱のもう一人の主役である高師直に関しては、著者は師直は尊氏の執事というだけでなく直義のもとでも執事としての役割を務めており、また執事施行状とよばれる文書を発給していました。これは恩賞充行の実施を守護に命じる文書で、所領の獲得は基本的に自助努力であった鎌倉幕府には見られなかったタイプの文書になります(21p)。
 こうした権限を持つ、師直と直義の対立が幕府の安定(北朝方の優勢)とともに次第に顕在化したというのが多くの見方ですが、著者は四条畷の戦いまではそこまで大きな対立はなかったのではないかと考えています。

 四条畷の戦いで難敵・楠木正行を打ち破り南朝の拠点の吉野まで攻め入った高師直・師泰兄弟の権威は上がります(このときに高師直がさまざまな悪行をなしたと伝えられていますが著者は懐疑的です)。
 そして、尊氏の実子でありながらなぜか異常なまでに尊氏から冷遇され直義の猶子となっていた直冬の処遇問題なども持ち上がり(師直は義詮を後継者にするために同じく直冬を冷遇したと考えられる)、幕府内部の不協和音が高まっていくのです。

 四条畷の戦いの翌年の1349年、直義は師直の暗殺をはかり(失敗)、師直を執事から解任します。師直の排除に動いたのです。
 しかし、2月もしないうちに師直は大軍を率いて将軍邸を包囲。直義が引退して、関東にいた義詮を上京させて直義の地位につけることが決まります。師直の巻き返しが成功し、直義は出家。ここに義詮とそれを支える師直という支配体制が出来上がったかに見えたのです。

 ところが、ここから二転三転するのが観応の擾乱のややこしいところです。
 まずは、九州に落ち延びた直冬が勢力を拡大し九州を席巻します。そこで尊氏が直冬を討つために遠征することを決意するのですが思うように軍勢は集まらず、そのタイミングで直義は京都を脱出、畠山国清が直義側につくなど呼応する武将もあらわれます。さらに直義は南朝に降伏し、南朝と手を組むという大胆な策をとることによって京都を占領するのです。

 打出浜の戦いで尊氏軍は直義軍に敗北し、高師直・師泰兄弟は出家ということになりましたが、その後、師直・師泰兄弟をはじめとする一族の多くが直義方によって殺されました。高師直の天下はあっという間に崩壊し、再び直義が返り咲くのです。

 こうしたダイナミックな動きを見ていると、確かに「旧来秩序の維持者・直義」VS「新興武士の代表・師直」という図式には苦しい面もあるかもしれません。著者は終章で、直義についた新興武士の石塔頼房や、尊氏を支持した関東の武士の存在などをあげながら、「両派の政策志向や支持基盤が明確に異なっているのであれば、これほど頻繁には武士たちの離合集散は起こらないと考える」(221ー222p)と述べていますが、これはその通りでしょう。
 この点で著者の通説に対する批判は成功していると思います。

 さらに著者は直義→師直→直義、さらにこの後の直義の没落の原因を恩賞充行の停滞に見ています。
 まず直義の政務が伝統的でスピード感に欠けたことが武士たちの直義への不満を生み師直への期待につながった。ところが、師直も恩賞充行に熱心ではなく再び武士たちの不満が高まる。そこで武士たちは相次いで直義方につくが、その後の直義の政務も消極的で、結局は一番スピーディーに恩賞をばらまいた尊氏のもとに武士が集まる。こんな構図です。

 また、著者は所領をめぐる争いには、訴人(原告)と論人(被告)の双方の主張を聞いて判断を下す「理非糾明」と訴人の訴えだけで判断を下す「一方的裁許」があることを指摘し(6ー7p)、観応の擾乱の進展の中で次第に「理非糾明」が減り、「一方的裁許」が増えていったことにも注意を向けています。
 なんとなく「理非糾明」のほうが公正な印象はあるかもしれませんが、「理非糾明」は時間がかかります。迅速に結論が出る「一方的裁許」のほうが当時の武士が求めたものなのです。

 このようにこの本では観応の擾乱における情勢のめまぐるしい変化に一つの分かりやすい説明を与えることに成功しています。
 ただ、やはり何だかよくわからないのは師直から実権を奪ったあとの直義の消極性と、敗北し直義と講和を結んだ後に急にやる気を出す尊氏のこと。
 直義はひとりでに没落していきますし、尊氏は南朝と講話して直義を追って関東へ下り直義を降伏させます(このときに直義は死去)。
 さらに南朝側と決裂した尊氏は武蔵野合戦で南朝方を破り、直冬が京都を占領すると、今日に攻め上って直冬の軍を打ち破ります。
 著者は最終的に「両者の勝敗を分けた最大の原因は、きわめて単純であるが結局は気概の差だったのである」(230p)と述べていますが、両者とも幕府成立までは「気概」を見せている場面があるだけに、この浮き沈みの激しさは何なんだ?と思います。

 あと、ややこの本で記述が薄いと思うのが直冬についてのこと。著者は尊氏・師直派と直義派の対立の大きな要因を直冬への処遇に求めていますが、そうであればもう少し直冬の人となりについての記述があると分かりやすいのではないかと思いました。
 史料的な制約もあるのかもしれませんが、直冬がどんな人物であったのかということについてはあまり書かれていません。

 とはいえ、「尊氏躁鬱病説」に頼りたくなるほどダイナミックに情勢が変転する観応の擾乱に一つの説得力のある説明を与える本に仕上がっているのは確かであり、観応の擾乱だけでなく、室町時代の政治について見通しを与えてくれる内容になっています。


観応の擾乱 - 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い (中公新書)
亀田 俊和
4121024435

吉原祥子『人口減少社会の土地問題』(中公新書) 7点

 東日本大震災における用地確保の際や、都市部の空き家問題などで注目されるようになった土地の「所有者不明化」問題。国土交通省が行ったサンプル調査によれば全国の私有地の約2割がすでに所有者の把握が難しい状態だといいます(iv p)。
 この問題に関して、「実態はどうなっているのか?」、「なぜこのような状況が生まれてしまったのか?」ということをできるだけ包括的に論じようとしたのがこの本。
 200ページ弱の本で、なにかこの問題に対する特効薬が打ち出されているわけではないですが、今まで散発的に論じられていた問題が、自治体へのアンケートなどをもとに専門家によってまとめられており、問題に取り組むための出発点となる本となっています。

 目次は以下の通り。
第1章 「誰の土地かわからない」―なぜいま土地問題なのか
第2章 日本全土への拡大―全国888自治体の調査は何を語るか
第3章 なぜ「所有者不明化」が起きるのか
第4章 解決の糸口はあるのか―人口減少時代の土地のあり方

 最近ニュースにもなっている空き家問題、更地よりも建物がたっていたほうが税制上有利であるといった要因もありますが、そもそも誰のものかわからない住宅が放置されているケースもあります。
 一般的に土地の所有者が死亡すると、子らが相続の登記を行い、土地の所有者が書き換わることになりますが、この登記は義務ではありません。また、売買や抵当権の設定などをしなければ名義の変更をおこなわなくても特に不便ではないことも多いので、登記を行わない人も多いです。
 さらに少子化が進んでいる現在、そもそも相続すべき人がいない土地も数多く存在します。こうした土地も登記が行われないままになっていきます。

 一方、登記が行われなくても所有権が消滅するわけではありません。この本の12~13pでは、県道の用地取得の際に判明した三代登記が行われなかった土地の相続人一覧の一分が掲載されていますが、その相続人は150人近くにものぼるそうです。
 当然、このような作業には膨大な手間と費用が必要であり、よほどの必要性がない限り行われません。しかし、東日本大震災では、高台の用地取得や福島第一原発周辺の中間貯蔵施設のためにこれらの作業が必要となり、多くの時間がそのために費やされました。
 とりあえず不便がないからといって放置していい問題ではないのです。

 このような所有者不明の土地は農地や森林にも数多く存在し、森林では所有している森林の場所がわからないという問題も発生しています。
 特に資産価値の低い農地や森林では登記のコストがその価値と釣り合わないこともあって、未登記の状態はこれからもさらに進んでいくと考えられます。著者らの資産によると個人保有の森林の約25%が登記コストが資産価値を上回ってしまう可能性があるとのことです(29p)。

 日本の土地の基本情報は、不動産登記簿のほか、固定資産課税台帳、国土利用計画法に基づく売買届、農地台帳など目的別にバラバラに管理されています。
 また固定資産税は徴収の主体が市町村であり、これらの土地情報を国家レベルで統一的に把握しようとする動きはなかなか起きなかったのです。

 しかし、現場ではさまざまな不都合が起こっています。この本の第2章では固定資産税の課税に注目して、各自治体に調査を行っています。
 これによると回答のあった888の自治体の約63%で問題が発生しており(54-56p)、多くの自治体で死んだ人に課税がなされる「死亡者課税」や、課税ができないために税の徴収をあきらめる「課税保留」がおこなわれている実態が見えてきます。
 相続人からは土地の寄付などの申し出もありますが、多くの自治体で公的利用が見込める場合以外は寄付を断っており、また、相続放棄された土地は最終的に国に帰属するとなっているものの制度面からこれもうまく機能していません。

 そもそも日本では地籍の調査も不十分であり、2016年度末時点での進捗率は52%、残りを今のペースで行っていくと官僚までにはあと120年かかるそうです(96p)。
 地籍調査には手間と費用が必要であり、六本木ヒルズの開発には4年、岩手県大槌町の高台移転に際しても4年の月日が地籍の調査に費やされました。
  
 また、先に不動産登記が行われないケースが多いと書きましたが、これは日本の法制度が「対抗要件」という考えをとっているためです。これは「第三者の権利に対抗するためには登記が必要」という考えで、登記をしないと権利の変動が成立しないという「成立要件」とは異なります。ちなみに日本の「対抗要件」の考えはフランスの影響を受けてつくられており、ドイツでは「成立要件」の考えがとられています(108-111p)。

 それでも戦前までは地租の徴収のために国が土地台帳を整備していたことから国による統一的な把握がなされていましたが、戦後に固定資産税が導入され、1960年に土地台帳が廃止され登記簿に一元化されると、国による関与はなくなったのです(113-116p)。

 同時に押さえなければならないのが日本における土地の所有権の「強さ」です。
 まず、日本の土地は農地を除くと売買制限がありません。売り手と買い手の同意があれば、水源地や重要施設の隣接地であっても自由に売買できるのです。
 また、土地の利用に関してもその規制は緩いです。農地の違反転用も相次いでいますし、都市部でも市街化区域や市街化調整区域の指定は一部に留まるなど、多くの場合、所有者が自由に開発することができます。
 一方、ドイツでは土地を適切に利用する義務を負担することが決められていますし、イギリスでは「原則として、全国土は国王に属する、という理論上の前提がある」そうです。アメリカやフランスは所有権が強いものの、自治体などによる収用権や敷地の分割規制などがかけられたりしています(123-126p)。

 ところが、日本では土地は有利な資産であるという「土地神話」もあって、こうした「強い」所有権を抑制しようとする試みは行われていきませんでした。
 本間義人氏は「わが国の戦後土地政策がまったく機能しないできたのは、できるだけこの土地所有権に触れないままで済まされる施策のみ重点的に行なってきたからであった」(128p)と述べています。

 日本の法制度のお手本となったフランスでは(所有権が比較的強く、登記が「対抗要件」)、所有者不明の問題が起きているかというと答えは否だそうです。
 フランスでは公証人(ノテールと呼ばれる)が法的手続きをワンストップで行うようになっており、公証人と相続人が常に接触を持つことから、登記の漏れが起こりにくくなっているのです(132-134p)。

 最後の第4章では解決の糸口が探られています。最初にも述べたように、この問題に特効薬はないというのが著者の立場ですが、いくつかの緩和策が提示されています。
 まずは相続登記ですが、これを義務化することは難しく、現在の手続きの簡便化や登記手続きの際に行われる登録免許税の見直しなどが対策としてあげられています。
 
 また、「所有者不明地」の再利用の検討も必要にあります。2013年の法改正によって農地に関しては、公告などの一定の手続きを経て農地中間管理機構係受けることができるしくみが整備されました。また、森林に関しても2016年の森林法改正で共有者の一部が不明であっても伐採・造林が進められるようになりました。

 他にも重要なのが行き場のない土地の受け皿づくりです。
 現在、国は土地の寄付の受付を抑制しており、手放そうにも行き場のない土地が増えています(154-155p)。
 アメリカでは政府主体の非営利組織であるランドバンクがつくられていますし、戦争によって多くの「所有者不明地」が生まれた沖縄では沖縄県や市町村がそうした土地の管理を行っています。
 やはり国などの公的セクターが動くことが必要でしょう。

 土地情報の集約も必要です。ここでは台帳間の連携の強化やマイナンバーの登録などが対策としてあげられ、次のようにまとめられています。 
 土地が持つ公共性からすれば、その所有や利用についての情報は公共の情報といえる。大きな課題ではあるが、所有者情報の中核である不動産登記制度について、私権を保護するためだけでなく、国土管理の土台という観点からも、そのあり方を再考することが必要なのである。(172p)

 とりあえず打ち出されている改革は小さなものが多いですが、この問題は「土地所有権をいかに考えるべきか?」という非常に大きな問題に行き着くものです。
 この本はそうした大きな問題への展望も秘めており、まさに日本の今後の土地問題の「出発点」となる本と言えます。


人口減少時代の土地問題 - 「所有者不明化」と相続、空き家、制度のゆくえ (中公新書)
吉原 祥子
412102446X

筒井清忠編『昭和史講義3』(ちくま新書) 6点

 副題は「リーダーを通して見る戦争への道」、大正末期から終戦に変えて日本を率いたリーダーたちの評伝を集めています。
 とり上げられている人物と執筆者は以下の通り。
第1講 加藤高明(奈良岡聰智)
第2講 若槻礼次郎(今津敏晃)
第3講 田中義一(小山俊樹)
第4講 幣原喜重郎(西田敏宏)
第5講 浜口雄幸(井上敬介)
第6講 犬養 毅(五百旗頭薫)
第7講 岡田啓介(村井良太)
第8講 広田弘毅(渡邉公太)
第9講 宇垣一成(髙杉洋平)
第10講 近衛文麿(庄司潤一郎)
第11講 米内光政(畑野勇)
第12講 松岡洋右(森山優)
第13講 東条英機(戸部良一)
第14講 鈴木貫太郎(波多野澄雄)
第15講 重光 葵(武田知己)

 これを見るとかなり魅力的な書き手が執筆していることがわかると思います。
 ただ、300ページほどの本に15人は流石に多く、1人あたりのページ数は15~20ページほど。これだとなかなか人物を深く掘り下げることはできず、表面的な紹介にとどまってしまっているものも多いです。

 特にある程度キャリアのある政党政治家について書こうとした場合、このページの制約はかなり厳しいです。
 例えば、第6講の犬養毅(五百旗頭薫)は、犬養の複雑な政治キャリアを彼の基本思想を参照しながら読み解こうとした意欲作ですが、さすがに20ページ弱ではいかんともしがたい感じです。
 また期待していた奈良岡聰智による加藤高明も、加藤のイギリス政治モデルへの志向などを紹介していて興味深い部分もありますが、基本的には表面的な事跡をなぞったところで紙幅は尽きてしまっています。

 そんな中で、前半で面白く読めたのが第5講の浜口雄幸(井上敬介)。ここでは、民政党の浜口内閣が官僚出身の井上準之助、幣原喜重郎と党人派で「選挙の神様」と呼ばれた安達謙蔵の寄り合い所帯であり、その間の調整は官僚出身でありながら衆議院に議席をもつ浜口にしかできなかったことが示されています。
 ロンドン海軍軍縮条約の問題により浜口は狙撃され重傷を負います。ここで党内に諮らずに盟友の伊沢多喜男(民政党員ではない)らが、幣原を首相代理にしたことが安達らの反発を呼び、それが浜口の国会への強行出席、そしてその無理がたたって浜口の死をもたらしてしまいました。閣内調整ができる人物が浜口しかいなかったことがもたらした悲劇と言えるでしょう。

 一方、後半の人物に関しては「戦争へと向かう時代にいかに関わったか?」というかたちでテーマが絞りやすかったと思われることもあり、比較的面白いパートが多いと思います。

 第9講の宇垣一成(髙杉洋平)では、「宇垣軍縮」が参謀本部の発案であること、参謀本部とのすり合わせがうまくかずに「第2次宇垣軍縮」に失敗したことを示しながら、この「宇垣軍縮」(第1次)の成功が宇垣の声望を高めつつ、陸軍から必要以上に警戒される要素となったことを示しています。

 第11講の米内光政(畑野勇)では、「海軍兵学校の卒業時の席次が平凡だった米内がなぜ海相になれたのか?」、「盧溝橋事件において、なぜ途中で強硬姿勢に転換したのか?」、「何もしていないようにみえる首相在任時に何をしようとしていたのか?」といった疑問を検討しています。
 「なぜ海相になれたのか?」という疑問については十分に答えているとは言い難いのですが、他の2つに関しては米内が昭和天皇の意向を忖度しながら行動していたのではないかとの説得力のある説明を行っています。

 第12講の松岡洋右(森山優)は、同じ筆者の『日米開戦と情報戦』(講談社現代新書)を読んでいると新鮮味はないかもしれませんが、あまりにエキセントリックで「狂人だったのではないか?」とも思わせる第2次近衛内閣の外相としての松岡の行動を、彼なりに計算のあったことだったと読み解いており面白いと思います。

 また、第13講 東条英機(戸部良一)と第14講 鈴木貫太郎(波多野澄雄)は書き手の上手さを感じさせる内容に仕上がっています。
 東条に関しては、独裁者としての資質に欠く東条が首相に陸相、参謀総長と次々に責任を背負い込みながら、それを天皇への依存によって乗り切ろうとしていた様が描かれていて興味深いです。東条は閣議を宮中で開くことを願うなど、「天皇親政」を志向していました。

 鈴木貫太郎の第14講では、天皇に聖断を求めた鈴木の行動が、戦前の宮中における牧野内大臣や侍従長だった鈴木の考えとつながっていることがわかるようになっています。
 
 このように面白い部分もありますが、やはり全体としては一つの人物ごとの記述が短すぎます。
 とり上げる人物を10人ほどに絞り、1人あたり30ページほどを確保すれば、より興味深く読めたのではないかと思います。
 ただ、各講には文献案内もついており、この本からさらに深く学ぶための道が示されている点はいいですね。

昭和史講義3: リーダーを通して見る戦争への道 (ちくま新書 1266)
筒井 清忠
4480069771

小野寺史郎『中国ナショナリズム』(中公新書) 7点

 2005年に起きた反日デモ、あるいは韓国のTHAAD配備に対する韓国企業に対するボイコットなど、現在の中国共産党指導部は国民のナショナリズムを煽っているようにも見えます。また、習近平の掲げる「中国の夢」なる標語もそれを裏付けているようにも思えます。
 一方で、中国のナショナリズムはすべて政府がコントロールしているものかというとそんなことはなく、ときに政府が懸命にナショナリズムを押さえつけているような場面も見受けられます。

 そんな中国のナショナリズムについて、日清戦争以降の中国近現代史に沿いながら、その特徴と変化を分析してみせたのがこの本。
 「上からの公定ナショナリズム」か「下からの民衆ナショナリズム」か、「民族主義」とも訳されるナショナリズムだが中国ナショナリズムの想定する民族は何なのか?といった点に着目しながら中国のナショナリズムを読み解いています。

 目次は以下の通り。
序章 伝統中国の世界観
第1章 中国ナショナリズムの起源―一八九五~一九一一
第2章 模索する中華民国―一九一二~一九二四
第3章 反帝国主義の時代―一九二五~一九四五
第4章 東西冷戦と社会主義の時代―一九四五~一九七一
第5章 現代の世界と中国―一九七二~~二〇一六
終章 「大国」中国のゆくえ

 もともと皇帝の治める「中華」と、その徳を慕って朝貢する国々、その外の「夷狄」や「化外」というかたちで世界を捉える中華思想はナショナリズムとは縁遠いものでした。
 特に清は満州族によってつくられた王朝であり、その皇帝は中国では皇帝として、モンゴルにはハーンとして、チベットには仏教の保護者として君臨するなど、多民族の上に立つ支配者でした。

 ところが、日清戦争で日本に敗北すると、清も西洋や日本のような国家にならなければならないという考えが強まってきます。
 康有為らの戊戌の変法はあっけなく終わってしまいますが、このころから「守るべき中国」というものが意識されるようになり、民衆の中からも義和団の乱に見られるような排外的なナショナリズムが立ち上がってきます。
 また、戊戌の変法失敗後に日本に亡命した梁啓超は、活発な言論活動を行い、大きな影響を与えました。

 「われわれが最も慙愧におもうのは、我が国に国名がないことである」と梁啓超は書いていますが(27p)、当時の中国には王朝はあっても、それらを超えて一つの国家を差示す言葉がない状況で(結局、「中国」という呼び名が定着する)、この「国家」「国民」観念の希薄さが中国の抱える問題だと認識されました。
 一方で、清の領土は「瓜分」という言葉に示されるように、列強によって削り取られていきます。
 この危機感のなか、例えば梁啓超は孔子の生まれた年を基準とする暦を提案しますし(33p)、中国最初の帝王とされる黄帝ブームが起きたりしました。

 また、この時期に成立した中国ナショナリズムの特徴として、「集会や組織の結成、新聞や雑誌を通じた宣伝、外国製品不買運動といった様式」(39p)や、「烈士記念」や「国恥記念」といったものがあります。
 「国恥記念」は日本の三国干渉に対する「記念会」をモデルにしたもので、自国の屈辱を思い将来の雪辱を期すというものです。この「国恥記念」の考えはこの後の中国で重要な役割を果たしました。

 しかし、中国のナショナリズムというものを考える時に問題となるのが、ナショナリズムにおける「民族」をどのように考えるかです。
 梁啓超らは現行の清朝の枠組みの中で「満漢不分」を主張しましたが、それに対して「漢族」中心のナショナリズムを唱え、清朝の打倒を目指しました。
 もし、漢人=「中国人」としての国家をつくる場合、満州人やモンゴル人、チベット人、回民(トルコ系ムスリム)などはどうなるのかという問題があります。しかし、「清末の革命派の多くが、故地(満州のこと)や藩部から遠く離れた南方出身の漢人だった」(57p)ことによってこの問題は明確に意識されませんでした。
 この後、革命派は梁啓超との論争などを通じて、次第に「清国内の他のエスニック集団を「同化」することで、現行の版図を維持しつつ漢人の単一民族国家を目指すという方向に転じ」(60p)ていきます。

 1911年に辛亥革命が起き中華民国が成立すると、大総統に孫文が選出されます。孫文は漢・満・蒙・回・蔵の五族の協力をうたい、いわゆる「五族協和」の理念を打ち出しましたが、私的な講演では「種族同化を実行する」と言っていましたし、また「五族協和」というスローガンが流行したのもその曖昧さのゆえでした(69ー71p)。

 中華民国では「上からの近代化」が行われましたが、それが民衆を「抑圧」することにもつながりました。著者は「天皇という存在を介して近代的な諸価値を巧妙に(かつ選択的に)「創られた伝統」に組み込んでいった明治日本との違い」(77p)を指摘しています。
 また、国語統一問題も持ち上がり、陳独秀からは漢字を廃止しローマ字で記述する案などが出ています(79ー83p)。

 1914年に日本が二十一カ条要求を行うと、中国のナショナリズムは激しく燃え上がります。義和団事件以来しばらく列強の進出はおさまっていましたが、その小康状態を日本は打ち壊したのです。
 これ以後、「国恥記念日」といえば要求を受諾した5月9日のことになりましたし、対日感情のターニングポイントともなりました。
 さらに1919年のパリ講和会議で二十一カ条要求の取り消しが認められないことがわかると五・四運動が起こります。著者はこの運動の影響として「政治がナショナリズムに基づく要求を実現できない場合、暴力含む社会の直接行動でそれを行う、そしてその行動は既存の法律に反しても正当化されるという観念が広まったこと」(92p)をあげています。

 袁世凱との政争に敗れた孫文は1919年に中国国民党を組織します。1924年には「連ソ容共」を掲げて共産党と連携し、ソ連の支援も受けてその勢力を拡大させていきます。
 1925年の3月に孫文は死去し、国民党は蒋介石・汪兆銘らの集団指導体制に移行しますが、その矢先に起こったのが五・三〇運動でした。
 五・三〇運動は日系の紡績工場の労働争議において中国人労働者が死亡した事件から始まりましたが、イギリス中心の上海租界警察がデモ隊に発泡したこともあって、大規模な外国製品不買運動などが展開されます。
 この五・三〇運動では、今までの「上からのナショナリズム」が批判され、「下からのナショナリズム」が中心となったのが一つのポイントです。

 1926年、蒋介石による北伐が開始されます。国民革命軍や共産党は亡くなった孫文を使った宣伝作戦を展開し、ナショナリズムを煽りながらその勢力を広げていきます。
 この孫文の利用はこの後もさかんに行われますが、特に135pに載っている孫文の遺体を運んだ特別列車の写真はすごいですね。「どこの独裁者だ?」という感じです。

 この北伐のさなかに済南事件が起きますが、これは中国ナショナリズムの主要敵をイギリスから日本へと変えさせることになります。
 中国の国家統一・利権回収の一番の障害は日本だと認識されるようになり、実際それは1931年の満州事変で現実となります。
 
 そんな中で蒋介石は「下からのナショナリズム」を抑圧しつつ、「上からのナショナリズム」によって近代国家建設を進めようとします。「国恥記念日」のデモは国民意識を高めましたが、同時に体制を揺るがす可能性があるものでもあったのです。
 一方で、「上からのナショナリズム」によって漢人の居住地域以外への支配が強まると、チベット、新疆、内モンゴルなどで衝突や自治運動が起こってきます(136p)。

 また、国民政府は近代化を目指して陰暦を廃止し陽暦の使用を強制したり、「上からのナショナリズム」の一貫として、朝鮮や琉球、インドシナ半島やマレー半島など一度でも中国王朝の版図となったり朝貢したことのある地域を示した「国恥図」を作成し、「失地」を印象づけました(現在問題になっている南シナ海の「九段線」はこの地図の「十一段線」から2本の線を消したもの(142ー145p))。

 こうした国民政府の政策は、基本的にその後の共産党に引き継がれていると言ってもいいでしょう。インターナショナリズムを掲げていた中国共産党でしたが、1935年から当面の敵であるファシズムの打倒を第一の目標とし、ナショナリズムとも親和的な姿勢をとり始めます。
 毛沢東は「愛国主義と国際主義は矛盾しない」と主張し(159p)、また、陰暦の使用も認めるなど国民政府よりも民衆に寄り添う姿勢を見せました。

 日中戦争が集結すると、国共内戦が起こり、経済混乱などで国民の支持を失った国民政府は共産党に敗れます。これは国民党への不満とともに「中国の統一や発展というナショナリズムに基づく要求を、共産党の方がよりよく達成できるという期待によるもの」(171-172p)でした。
 成立した中華人民共和国は朝鮮戦争の危機においても「愛国」イデオロギーによってそれを乗り越えようとし、「上からのナショナリズム」は強まりました。

 さらに中華人民共和国では、「国民」と「人民」が区別され、「国民」よりも社会主義的な階級概念に基づいた「人民」が重視されました。そして、誰が「人民」で誰が「人民の敵」であるかは非常に曖昧であり(180p)、これが反右派闘争でも文化大革命でも利用されました。
 また、少数民族に対しては国家の多民族生を前提としたソ連をモデルとした政策がとられたものの、連邦制は採用されませんでした(187p)。

 第5章では現在の中国のナショナリズムが分析されていますが、ここでは日本との歴史認識問題や南シナ海の領土問題などで吹き上がるナショナリズム、チベットや新疆などでのエスニック・ナショナリズムの噴出、天安門事件や劉暁波氏の問題などででてくる反西洋的なナショナリズムなどがとり上げられており、中国のナショナリズムがかなり複雑な様相を見せていることがわかります。
 さらに台湾の「ひまわり学生運動」や香港の「雨傘運動」といった、中国本土からは容認できないようなナショナリズムの動きもあり、「中国ナショナリズム」といってももはや一口では説明できない状況なのです。

 著者は最後に、中国は西洋的な「国民国家」を目指しつつも、同時に西洋がつくったそうした枠組みへの拭いがたい不信感があるとし、「国民国家「中国」を単位として西洋のやり方を批判するという行為自体が、一種の逃れがたいジレンマをはらんでいるとも言える」(238p)と述べています。

 長いまとめになってしまいましたが、それだけ中国のナショナリズムはさまざまな側面と問題をはらんでいるということです。そして、本書はその中国のナショナリズムの多面性を中国近現代史の中からうまくすくい出しています。
 読みやすい本ではないかもしれませんが、中国の歴史や、現在の中国との接し方、あるいは中国の将来を考えていく上で有益な本だと思います。

中国ナショナリズム - 民族と愛国の近現代史 (中公新書)
小野寺 史郎
4121024370

赤江達也『矢内原忠雄』(岩波新書) 8点

 矢内原忠雄は東京帝国大学で「植民政策学」を講じた社会科学者であり、内村鑑三の影響を受けた無教会主義のキリスト教徒であり、矢内原事件で大学を追われた人物であり、戦後は東大の総長となった戦後民主主義を象徴する人物ともなりました。
 このような経歴を見ていくと、矢内原は時代の圧力に逆らった平和主義者であり、良心的知識人であった、とまとめたくなりますが、矢内原にはそうした「良心的知識人」の枠には収まりきらない宗教的なパッションがあります。それを含めて矢内原の生涯と思想を改めて検討してみせたのがこの本です。

 矢内原は晩年に次のように記しています。
 私が各地で平和や民主主義や教育について一般講演をするとき、聴衆の間から、「矢内原さんの話はよいが、終わりのところになってキリスト教のことを言われる。あれがなければもっとよいのに」、という批評があるそうである。(225p)
 矢内原本人は、日本におけるキリスト教への理解のなさを嘆いてこのような文章を書いたのでしょうが、この本を読むと、矢内原の多くの人から受け入れられた部分と、受け入れられなかった「あれ」の部分というのが見えてくると思います。

 目次は以下の通り。
第1章 無教会キリスト者の誕生―一九一〇年代
第2章 植民政策学者の理想―一九二〇~三七年
第3章 東京帝大教授の伝道―一九三〇年代の危機と召命
第4章 戦争の時代と非戦の預言者―一九三七~四五年
第5章 キリスト教知識人の戦後啓蒙―一九四五~六一年

 目次を見ても分かるように、この本は矢内原の評伝であり、その誕生から死までが描かれているわけですが、中心となるのはやはり矢内原のキリスト教思想になります。

 矢内原は1893年に現在の愛媛県今治市に生まれています。父はこの地方で最初の西洋医であり、その子の忠雄も幼い頃からその秀才ぶりを発揮し、わずか5歳で尋常小学校に通い始めています。
 その後、神戸中学校に進み、1910年には第一高等学校に入学しています。まさにエリートと言っていいでしょう。
 矢内原の同級生には芥川龍之介、菊池寛、久米正雄ら、1つ上には近衛文麿、2つ上には河合栄治郎、田中耕太郎らがいます(12p)。また、当時の校長は新渡戸稲造でした。

 この一高時代に矢内原に決定的な影響を与えたのが内村鑑三です。友人の三谷隆信の影響もあってキリスト教に強い関心を持つようになった矢内原は、内村鑑三の聖書研究会に入会し、さらに内村門下の帝大生や一高生の集まりである柏会にも入会します。
 この本では1912年に内村の娘が亡くなった際の内村の振る舞いに、矢内原が「抵抗する事のできない権威」を感じたということが紹介されています。自分の娘の告別式において「この式はルツ子の結婚式であります」「天国に嫁入れさするのであります」と述べた内村の行動は字として読むとエキセントリックにしか思えませんが、何か得も言われぬ迫力があったのでしょう(19-20p)。

 1913年、矢内原は東京帝国大学法科大学政治学科に進学します。その後、朝鮮で働くことを模索したりしましたが、結局は1917年に住友に就職し、別子銅山で働きました。
 1920年、矢内原は大学からの誘いを受けて東京帝国大学経済学部助教授に就任します。経済学部は前年に法科大学から分離したばかりの新設学部で、新渡戸稲造の植民政策講座の後任として矢内原は採用されました。
 その後、矢内原は2年余りの欧米留学い出発し、ロンドンやベルリンなどで過ごしたあと、1923年から講義を担当します。

 植民政策とは移民などによる植民活動や植民地統治に関する学問で、矢内原はこれを経済学、社会学、政治学を横断する独立した学問として確立しようとしました(58p)。
 矢内原は英帝国モデルを高く評価しています。英帝国には植民地が自主国民へと発展していくプロセスや、統治関係が互恵的関係に発展していくプロセスがあり(65p)、日本と朝鮮や台湾の関係においても現地に議会を設置する自治主義を模索していました。
 また、中国に対しては中国ナショナリズムを評価する立場から、南京政府と平和的な関係を築くべきだと主張しています(80p)。
 ただ、小林英夫『<満洲>の歴史』(講談社現代新書)でとり上げられている「満洲農業移民不可能論」は紹介されていませんし、社会科学者としての矢内原については記述はやや弱いと思います。

 一方、キリスト教者としての矢内原に関する記述は充実しています。
 1930年に内村鑑三が亡くなり、その遺志に従って聖書研究会は解散されます。内村鑑三の無教会主義は組織などを残さないものでしたが、その「預言者」としての立ち位置のようなものが矢内原へと引き継がれていくのです。

 内村は「日本的キリスト教」という言葉を使い、「日本」という国家単位で「罪」や「迫害」などを考えたところに一つの特徴がありますが(104-106p)、矢内原もこの「日本」という単位にこだわりました。
 矢内原は天皇を信奉してもいるのですが、その天皇と国民がキリスト教の<絶対神>を信仰することが必要だというのです(109-111p)。

 矢内原は二・二六事件に衝撃を受け、ある種の終末的な考えを深めていきます。
 そして日中戦争が勃発した1937年にはいわゆる矢内原事件によって大学を追われることになります。『中央公論』に掲載しようとした「国家の理想」という論文と、「神の国」という講演がとり上げられ、特に「神の国」の中の「一先づ此の国を葬つてください」という表現が問題視されました。
 この矢内原事件については将基面貴巳『言論抑圧』(中公新書)という優れた研究もありますが、本書を読むと、矢内原の「預言者」的な振る舞いが引き起こした事件という印象も強くなります。

 大学を追われたあとも矢内原の言論活動・伝道活動はつづきました。『嘉信』という雑誌を創刊し、「自由ヶ丘集会」と呼ばれる集会を開くなど、警察などによる監視がつづく中でも矢内原の活動は衰えませんでした。
 
 しかし、このころの矢内原の言説には奇妙な点もあります。この本ではそのあたりが深く掘り下げられています。
 矢内原は内村の考えを引き継ぎ、日本でこそ「神の国」が実現すると考えていたのですが、日中戦争によってその希望は失われつつあるといいます。矢内原は日中双方に戦争を止めるように呼びかけるのですが、そこには中国に対して「降参」を呼びかけているようにみえる箇所もあります(152p)。
  
 矢内原の議論の特徴として「個人の悔い改めが日本国民の救いへと飛躍するところ」(154p)があります。「悔い改め」というのはキリスト教で重視されている概念ですが、その個人的行為が日本の運命のようなものに結びつくのです。そして、それを媒介するものとして天皇が想定されているということを考えると、矢内原が「リベラリスト」のようなカテゴリーにはあてはまらない人物であるということが見えてくると思います。
 
 また、矢内原は「非戦」を訴えましたが、実際の戦争への抵抗といった考えは希薄です。戦争は一種の耐えるべき受難と捉えられています。 
 矢内原は、植民地朝鮮の人びとに対して植民本国である日本への「服従」を求め、日本に侵略されている中国の国民に対しては「降参」を勧める。そして、日本の青年には死を受け入れる姿勢を説いている。そこの共通しているのは、目の前の苦難は神から与えられた試練であり、それを受容することこそが信仰的な態度だという考えである。(176p)

 矢内原にとって、終戦は日本国民がキリスト教を受け入れ、日本において「神の国」が実現されることに近づいたことを意味していました。
 特にこの時期、天皇がキリスト教に改宗することにかなり期待していたようで、45年12月の公演では「陛下よどうぞ聖書をお学び下さい」と呼びかけていますし(187p)、昭和天皇の「人間宣言」については「之れ日本の救の基礎なり、出発なり」と日記の欄外に記してています(189p)。さらに49年11月には昭和天皇に対して「新渡戸稲造について」というテーマで進講を行っています。

 しかし、50年頃になると天皇がキリスト教に改宗する望みが消えていき、矢内原は戦後の日本や天皇に失望していくことになります。  
 一方で、大学に復帰した矢内原は南原繁学長のもとで要職を務め、1951年には東京大学の総長となります。学生運動への対応などに苦慮することもありましたが、総長就任もあって『嘉信』の読者は増え、無教会キリスト者の数も増えていきます。
 ただし、冒頭にも引用したようにキリスト教へのアレルギーというのも根強く、「公共的知識人としての矢内原への期待と、矢内原自身が抱いている「預言者」としての自覚や使命感との間のズレがあらわれ」(226p)ることになるのです。

 このようにこの本は、矢内原の生涯を追いつつ、矢内原自身の思想と世間からのイメージの「ズレ」を丁寧に描き出しています。
 戦争の時代の「狂気」に対抗するにはそれに負けない「良識」が必要だと考えられていますが、時代に逆らった矢内原を支えたものは「良識」だけではなく、やや非合理的とも言える「信仰」でもあったのです。
 さらにここから近代日本におけるキリスト教の位置づけや、キリスト教の信仰そのものについても考えさせる、重厚な内容の本だといえるでしょう。

矢内原忠雄――戦争と知識人の使命 (岩波新書)
赤江 達也
4004316650

マーク・マゾワー『バルカン』(中公新書) 7点

 20世紀のヨーロッパ史について幅広く論じた『暗黒の大陸』をはじめ、『国連と帝国』、『国際協調の先駆者たち』といった著作で知られる歴史学者マーク・マゾワーの本が中公新書から登場。
 この『バルカン』の原著は17年前の2000年に書かれた本で、もともと近代ギリシャ史を研究していたマゾワーがユーゴスラビア内戦を受けて書いた本になります。

 「バルカン」と言えば、まず思い浮かぶのは「バルカンの火薬庫」といった言葉や、実際にその火薬庫が破裂したサラエボ事件であり、その「バルカンの火薬庫」のイメージが再び蘇り強化されたのが1990年代に起きたユーゴスラビア内戦でした。
 キリスト教徒とイスラム教徒の対立やクロアチア人とセルビア人の対立、スレブレニツァの虐殺に見られるような蛮行、さらに背景として14世紀のオスマン帝国とセルビア王国の激突である「コソヴォの戦い」が持ち出されたこの内戦は、「バルカン」という場所に「血塗られ呪われた歴史」というイメージを植え付けるのに十分なものでした。

 そんな、「バルカン」の「血塗られ呪われた歴史」というイメージを解体しようとしたのがこの本です。
 著者はこの地域の近現代史をたどり、さまざまなエピソードを紹介することで、複合的な視点から「バルカン」という地域を描き直そうとしています。
 必ずしも通史のかたちにはなっていませんし、ある程度の歴史的事実が頭に入っていないと話を追うことが難しい部分もあると思いますが、固まってしまった歴史像を解体していく著者の筆の運びにはさすがのものがあります。

 目次は以下の通り。
プロローグ バルカンという呼称
第1章 国土と住民
第2章 ネイション以前
第3章 東方問題
第4章 国民国家の建設
エピローグ 暴力について

 まずは、「バルカン」という呼称ですが、これはもともと「バルカン山脈」を指すために用いられたもので、この地域を指すような言葉ではありませんでした。
 オスマン帝国がこの地域を支配していた時は「ルメリ」(「ローマ人の」といった意味)、「ヨーロッパ・トルコ」などと呼ばれていましたが、オスマン帝国の体調とともにそれらの呼び方はしっくりこなくなり、19世紀後半から20世紀初めには「バルカン」という呼称が一気に広がります。

 バルカン地域の発展が遅れた理由としてその地理的な条件があります。
 第1章に「使えない河川、敷けない鉄道」という小見出しがありますが(38p)、山が多いこの地域では、河川は急流で曲がりくねっており水運が発達しませんでした。また、山が多いということは当然ながら鉄道の敷設も難しいということであります。
 そのためオスマン帝国を除けば、この地域を広範囲に支配するような政治権力はあらわれませんでした。そして、山賊や海賊が跋扈することとなったのです。

 一般的にオスマン帝国の支配はこの地域に暗黒時代をもたらしたように考えられていますが、著者は「オスマン帝国の支配は、おそらく農民にとっては恩恵だった」(54p)といいます。
 この地域は地主による厳しい支配が続いていましたが、一部の地域を除いてオスマン帝国はこの地主の支配を緩め、農民たちは「プロイセンやハンガリーやロシアの農奴には与えられなかった移動の自由を得た」(55p)のです。

 また、バルカンにはオスマン帝国の支配のもとでさまざまな民族が暮らしていましたが、彼らには「民族」というアイデンティティは希薄で、まずは自分たちを「キリスト教徒」、「イスラム教徒」といった宗教的なカテゴリーで把握していました。
 「バルカン諸国の歴史は、たいてい先に述べたような愛国的ナショナリストの子孫たちが書いたものなので、彼らが啓発しようとしていた農民のためらいがちな、どっちつかずの声が記録に残っていることはめったにない」(88p)のですが、この本では自分たちを「~人」と考えることにピンとこない農民たちの声を紹介しています。

 オスマン帝国の支配のもとでイスラム教への改宗が進んだ地域もありましたし、また改宗してオスマン帝国内部で出世したスラヴ系の人物もいましたが、バルカンではアナトリアのようなイスラム化は進みませんでした。
 その背景には「キリスト教徒のほうが高い税金を払っていたので、集団で改宗されたら、帝国の税収が減ってしまう」(100p)ということもあったようです。
 
 正教会はオスマン帝国の支配体制に組み込まれて繁栄し、イスラム教の風習と混ざりあうような事態も進行しました。
 イスラム教では結婚の仮契約が可能で離婚も容易だったため、一部の地域では一定の金額を払って一時的な結婚関係を結ぶことが行われましたし(119-120p)、不幸な結婚に追い込まれた女性はイスラム教に改宗することで、夫が改宗しなければ結婚関係を解消することができました(121-122p)。

 18世紀後半になると、「オスマン帝国が衰退したとはいえ、バルカンのキリスト教徒はまだ弱すぎ、外国の支援がなければ自由を獲得することはできな」(151p)いという状況になります。
 この時期には各地のイスラム教徒のエリート層がスルタンから独立しはじめ、無政府的な状況が各地で生まれます。
 
 そんな中、列強の後押しを受けて1830年にギリシャが独立します。ただし、「ルーマニア」や「ブルガリア」といった概念は一部の知識人しか持っていませんでしたし、「アルバニア」や「マケドニア」といった概念はないも同然でした(165p)。
 しかし、列強のパワーゲームの中で実際にルーマニアやブルガリアといった国家が生まれオスマン帝国の支配から独立していきます。さらに、列強のパワーゲームの中で引かれた国境線の外には、「未回収」の同胞や領土が存在しており、バルカン諸国を領土拡張の使命へと駆り立てました(174p)。

 この領土拡張の使命とオーストリア、ロシア両国の思惑が不幸なかたちで重なり第一次世界大戦へと至ります。
 「両国とも、現地の協力者を必要としたため、バルカンの混乱した政治に引きずり込まれた。しかも、そうした協力者を扱うときの判断力に欠け、協力者の軍事力や外交力を過小評価することが多かったために、事態を改善させることもできなかった」(191p)のです。

 第一次世界大戦が終わると、「民族」という単位がこの地域の国境を区切るものとなります。
 そのために、集団殺戮や強制的な改宗が行われ、また多数の難民が出ました。当時のセルビアの情勢を示すための言葉として「人種戦争」や「組織的な絶滅政策」といった、のちのナチスを思い起こさせる言葉が使われています(206-207p)。
 さらにギリシャとトルコの間では強制的な「住民交換」も行なわれ、この地域で民族的・宗教的な「純化」が進みました。

 第二次世界大戦は各国の民族構成を再び揺り動かしました。1930年に約85万人いたユダヤ人は5万人以下に減り、数十万のドイツ系の人々がバルカンを追われ、ギリシャ北部からはスラヴ人とアルバニア人が逃げ出し、コソヴォからはセルビア人が逃げました(217-218p)。
     
 戦後の土地改革が行われたことによって多くの農民が経済的な恩恵を受けましたが、農民政党の政治力は弱く、国の抱える問題に対する政治的な解決策も持ち合わせていませんでした(222p)。
 結局、この地域はギリシャを除いて共産主義化されていくことになります。共産主義国家では急速な工業化が進められ、高い経済成長を示しましたが、80年代になるとそのスタイルは行き詰まり、東欧革命の波とともに共産主義国家は転覆されていきます。
 そしてユーゴスラビアでは、再びナショナリズムが盛り上がり、内戦へと突入していくのです。

 こうしたバルカンの歴史を受けて、エピローグの「暴力について」の中で著者は次のように述べています。
 コソヴォとセルビアに対するNATOの介入は、人間が関与していないかのように見える遠隔操作技術を利用して、今や軍事作戦が敵味方ともに最小限の死傷者と流血ですむことを欧米の大衆に納得させようとした。おそらくこのようにして、戦争そのものからも、かつての社会的暴力と同じように、人間的側面の排除が進行中なのだろう。バルカンの暴力を原始的で非近代的なものだと見なすことは、欧米がバルカンの暴力から望ましい距離を置くための
方法のひとつになった。(259-260p)

 この部分からもわかるように、この本にはユーゴ内戦とそれに対する欧米の「バルカン観」を受けて書かれた本であり、通史として読もうとするとややわかりにくいところもあります。また、少なくとも高校の世界史B程度の知識がないと内容を追うのが難しい部分もあると思います。
 ただ、エピソードを重ねながら重層的に描き出された歴史は面白く、読み応えは十分です(『暗黒の大陸』の読み応えはもっともっとすごいですが)。

バルカン―「ヨーロッパの火薬庫」の歴史 (中公新書)
マーク・マゾワー
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