山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期

ここブログでは新書を10点満点で採点しています。

鹿子生浩輝『マキァヴェッリ: 『君主論』をよむ』(岩波新書) 6点

 君主は愛されるよりも恐れられねばならず、時には悪徳を行使すべきだと主張して、政治を道徳から切り離すことで近代的な政治理論の先駆けとなったとされるのがマキァヴェッリであり、そうしたことを主張しているのが彼の『君主論』であると考えられています。
 こうした理解に対して異を唱え、当時の政治情勢からマキァヴェッリの『君主論』に込められた意図を読み解こうとしたのがこの本です。当時のフィレンツェを中心としたイタリアの政治情勢とマキァヴェッリの生涯を重ねることで、『君主論』の中に書かれている言葉や主張がいかなる背景をもとになされたものであるかを明らかにしようとしています。
 読解は丁寧であり、「なるほど」と思う部分も多く勉強になりますが、後述するようにこの本には一つ大きな欠点があるようにも思えます。

 目次は以下の通り。
第1章 書記官マキァヴェッリ
第2章 新君主の助言者
第3章 善と悪の勧め
第4章 フィレンツェの「君主」
第5章 フィレンツェの自由
第6章 イタリアの自由
おわりに―ルネサンスの思想家マキァヴェッリ

 マキァヴェッリは1469年、イタリアのフィレンツェで生まれています。マキァヴェッリが生まれた当初のフィレンツェはメディチ家の支配する共和制の都市国家であり、メディチ家が他の有力な市民と協調する形で政治が進められていました。
 ところが、フランス王シャルル8世のイタリア侵攻によってこの体制は崩壊し、修道士サヴォナローラが政治の主導権を握りました。サヴォナローラは大評議会を設立して多くの市民を政治に参加させるとともに、奢侈の禁止や貧困対策などを進めました。しかし、最終的にサヴォナローラは教皇から破門され、1498年に失脚して火あぶりにかけられることになります。

 この直後にフィレンツェの第二書記局の長に任命されたのがマキァヴェッリでした。さらにマキァヴェッリは戦争10人委員会にも任命され、ピサの奪還作戦にも関わることになります。
 ここでマキァヴェッリは傭兵部隊が無規律になっていることを目の当たりにし、傭兵や外国の軍隊がいかに頼りにならないかという印象を持ったと考えられます。
 一方、当時のイタリアで急速に勢力を拡大させたのがチェーザレ・ボルジアでした。フィレンツェにとってボルジアは敵であり、マキァヴェッリもそれに対処するためにボルジアのもとへと派遣されますが、ご存知のようにマキァヴェッリはこのボルジアに君主の一つの理想の姿を見出すことになります。

 しかし、このボルジアも父の教皇アレクサンデル6世が亡くなると影響力を失います。
 マキァヴェッリはフィレンツェで新たに執政長官となったピエロ・ソデリーニのもとで市民軍の創設に力を尽くし、その市民軍の力によってピサの攻略に成功しますが、スペイン軍の攻勢の前にソデリーニが失脚すると、メディチ家の復活とともにマキァヴェッリは失職することとなります。マキァヴェッリは田舎へと隠遁し、そこで『君主論』の執筆を始めます。これはメディチ家に自らの名前を売るための「いわば就職論文」(40p)でした。

 『君主論』は、「君主の鏡」論とも呼ばれる君主のあるべき姿を示した伝統的なジャンルの書物を意識して書かれています。この「君主の鏡」論で有名なのはキケロのもので、キケロは君主は恐れられるよりも愛されるべきで、キツネの欺瞞(実際には道徳的ではないのに道徳的に見せる偽善的行為)は特に非難されるべきだと考えていました。さらにペトラルカも同じような主張をしています(44-45p)。
 しかし、マキァヴェッリはこれらの主張をひっくり返します。マキァヴェッリによれば、「君主は、気前が良いよりもけちでならなければならない」、「君主は、憐れみ深いよりも残酷でなければならない」、「君主は、愛されるよりも恐れられねばならない」、「君主は、信義、つまり約束を破ってもかまわない」(48-49p)というわけなのです。

 しかし、著者はこれらの主張が一種の例外状況を想定したものであることに注意を向けます。『君主論』は最初は、ジュリアーノ・デ・メディチ、後にロレンツォ・デ・メディチに献呈するために書かれました。このことを頭に入れながら読み解くべきなのです。

 まず、マキァヴェッリは国家を共和国と君主国に分け、さらに君主国を世襲君主国と新君主国に分けています。新君主国とは世襲君主が新たな国家を獲得した場合と国家を持たない人物が新たに国家を獲得した場合を指しており、『君主論』では主にこの新君主国を想定して議論が進められています。
 こうした新君主国では、臣民が君主に自発的に従う状況ではなく、多くの場合、君主は暴力で権力を不当に奪った人物ということになります。いわば支配の正当性を持たない状況なのです。

 君主が新しく国家を獲得するのには、自らの力量(ヴィルトゥ=ここでは軍事力)で獲得したケースと幸運によって獲得したケースがあります。幸運による獲得とは、金銭や権力を持つ人物からの権力の譲渡によって国家を得た場合であり、チェーザレ・ボルジアもこれに当たります(父のアレクサンデル6世の力によるもの)。
 
 このような分類を行い、特に幸運によって地位を獲得した新君主に焦点を合わせるのは、メディチ家のジュリアーノとロレンツォがまさにこのような立場に立っていたからです。
 ジュリアーノは兄である教皇レオ10世の力によってロマーニャの国家を獲得すると想定されましたし、また、ロレンツォはウルビーノを獲得し、さらにフィレンツェの統治を任されることになります。1516年の3月にジュリアーノが早逝したことにより、マキァヴェッリは献呈の相手をロレンツォに変更したと考えられますが、いずれにせよ二人は幸運によってその地位を獲得した新君主でした。

 マキァヴェッリがまず新君主に進めるのが自前の軍事力の構築です。傭兵は戦争を引き延ばすことが自らの利益になるでの熱心に戦いませんし、傭兵隊長が無能であれば負け、有能であれば権力を簒奪される可能性があります。また、外国の軍隊に依存すれば外国の君主に従属せざるを得なくなります。
 さらに悪徳も必要だといいます。通常は徳(美徳)や卓越性を示すヴィルトゥですが、『君主論』ではこのヴィルトゥが非道徳的な資質を伴うものとして用いられています。「とりわけ新君主は、新しい国家が危険で溢れているため、残酷という評判を避けることはできない」(90p)のです。

 しかし、この君主に対する見方がマキァヴェッリにしか見られない特異なものかというとそうではありません。
 マキァヴェッリも世襲君主に関しては暴力や悪徳を勧めていませんし、今まで君主に徳を求めてきた思想家はそのほとんどが世襲君主を対象としています。また、例えば中世のアエギディウスは「君主が簒奪者であるならば、「自然な君主」とは異なる形で振る舞わなければならない」(93p)と述べており、「実のところ、『君主論』でのいくつかの助言は、テクストを注意深く読むならば、かなり常識的な内容」(95p)なのです。
 そして、新君主も権力簒奪後の移行期間を経た後は、悪徳を行使することなく臣民との信頼関係を築くべきだとしています。

 マキァヴェッリが『君主論』の第7章までの議論で念頭に置いているのはロマーニャ地方の教皇領の都市だと考えられます。そして、フィレンツェに関しては共和国について扱った『ディスコルシ』で論じられているとされています。
 ところが、著者によると第8章と第9章ではフィレンツェに的を絞る形で議論を展開してるといいます。マキァヴェッリは第8章で全面的にヴィルトゥにもフォルトゥナ(幸運)にもよらないタイプの君主の類型を持ち出し、さらにヴィルトゥに関しても、それまでの悪徳ではなく、徳を表すような使い方もしているのです。
 
 この議論の揺れについて、著者はこの『君主論』の献呈先がジュリアーノからロレンツォに変わったことが関係していると考えます。ロレンツォはフィレンツェの統治者の1人であり、そのためにフィレンツェを念頭に置いた議論が書き加えられたと考えられるのです。
 第9章で分析されている「市民的君主国」は、フィレンツェにおけるメディチ家の立場と重なるもので、ある程度市民たちの好意によっている君主について分析されています(一方、第8章では非道の君主が分析されている)。
 そして市民的君主国の新君主は、貴族ではなく民衆を支持基盤にすべきだといいます。貴族は君主と対等だと思っており、うまく扱うことはこんなんですが、民衆の願いは、たんに抑圧されないことにすぎないからです。
 そして、市民的君主国の君主は絶対主義的な君主を目指すのではなく、「市民的」体制を維持すべきだとしています。これはメディチ家に対する期待でもあり、「マキァヴェッリがメディチ家に期待している統治は、フィレンツェに限れば、「市民的」体制」(147p)なのです。

 第5章と第6章ではマキァヴェッリが共和国について論じた『ディスコルシ』も取り上げながら、フィレンツェとイタリアをマキァヴェッリがどう見ていたかということが分析されています。
 まず、『ディスコルシ』は『君主論』の後に執筆されたものではなく、『君主論』が出来上がった時期には、『ディスコルシ』の少なくない部分がすでに書かれていたと考えられます。
 『ディスコルシ』はローマ人がいかに自由を維持して国家を発展させたかということが一つのテーマとなっていますが、マキァヴェッリがローマを論じた1つの理由が、ローマが市民を武装させて市民軍をつくったことにあると考えられます。自前の軍事力の必要性を訴えてきたマキァヴェッリにとってローマは一つのお手本なのです(自前の軍事力といってもマキァヴェッリは常備軍には否定的であくまでも戦時における市民の武装を説いている(161−162p))。

 マキァヴェッリは究極的にはフィレンツェによるイタリア統一を夢見ており、そのためにローマについて論じていますが、フィレンツェが実現可能な目的としてはトスカーナでの覇権獲得を考えていました。
 内政においても平等が存在するフィレンツェでは君主政は適さないとして、ローマをモデルとして市民参加の道を勧めています。
 さらに宗教に関しても、「キリスト教の教義は、マキァヴェッリの構想する共和国では無益」(183p)だとし、古代ローマのような宗教の利用を説いています。マキァヴェッリによれば、「キリスト教は、服従的な人々を称えて」おり、キリスト教の「来世思考は、現世での重要な事柄、すなわち、自由への愛着や名誉・栄光への渇望を弱めている」(184−185p)のです。マキァヴェッリはキリスト教を否定したわけではありませんが、「来世での救済というキリスト教の中心的教義を放棄している」(186p)のです。

 『君主論』の最終章でマキァヴェッリは「イタリアの解放」に触れていますが、著者は「統一」ではなく「解放」であることに注意を向けます。マキァヴェッリはイタリアの都市国家が完全に統一されるとは考えておらず、ある国に他の国が従うような「複合国家」(204p)を想定しているにすぎません。
 そんな中でマキァヴェッリが期待を寄せていると考えられるのがメディチ諸国の連合です。メディチ家は当時、教皇の座と教会国家、フィレンツェなどを抑えており、これらのメディチ諸国の協調は容易なはずです。
 しかし、この望みは神聖ローマ皇帝カール5世(226pに「皇帝カール一世」との表記があるけど、これは誤記か誤植?)の侵攻とローマ劫略の前に潰えます。その後、マキァヴェッリは再びフィレンツェの書記官の座を狙いますが、落選し亡くなりました。

 このようにマキァヴェッリの思想を当時の政治情勢とともに読み解いており、マキァヴェッリが『君主論』を構想したときの状況がよくわかるようになっています。『君主論』を読み解く上で有益な本と言えるでしょう。

 ただし、最初にも述べたようにこの本には不満もあります。マキァヴェッリの主張が当時のイタリアの政治情勢に埋め込まれたものだということはわかりましたし、マキァヴェッリの「悪徳」の勧めも完全にオリジナルなものではなく、過去の思想家によって似たようなことが主張されていたこともわかりました。
 そうなると残った謎は「なぜ『君主論』が「古典」になったのか?」という点です。そもそも、マキァヴェッリの主張が時代や当時の政治情勢に大きく制約されたものであり、オリジナリティもないものであれば、今マキァヴェッリを読む必要はないのではないか? とも思えるのです。
 もちろん、思想家や著作の本来の姿を明らかにするということは非常に重要ですが、同時に入門書であれば、その価値も明らかにしてほしいと思うのです(この部分については「あとがき」で補足しようとはしているのですが、やはり足りないと思います)。
 全体的に丁寧に論じられている本ですが、ここに物足りなさを感じました。
 

山本章子『日米地位協定』(中公新書) 7点

 なかなか解決の道筋が見えてこない沖縄の基地問題ですが、沖縄の基地問題には、沖縄に在日米軍基地の多くが集中しており、米軍や基地に所属する米兵の起こす事故や事件があるという問題とともに、そうした事件や事故が超法規的に処理されてしまう問題があります。
 例えば、本書の冒頭で紹介されている2004年の沖縄国際大学に米軍ヘリが墜落した事件は、大学に軍用ヘリが墜落するという事故のインパクトとともに、事故現場を米軍が封鎖し警察すらも立ち入らせなかったということが、沖縄の基地問題のもう一つの側面を伝えるものとなりました。
 こうした超法規的な措置を可能にしているのが日米地位協定です。本書は、その歴史を紐解きながら、国際比較などを通じて「なぜ1960年の安保改定以来、この日米地位協定の改定がなされなかったのか?」という理由を探っています。「思いやり予算」の膨張の経緯などもとり上げており、日米地位協定にとどまらず、日米安保体制全体を考える上でも有益な本になっています。

 目次は以下の通り。
第1章 占領から日米安保体制へ―駐軍協定
第2章 60年安保改定と日米地位協定締結―非公表の合意議事録
第3章 ヴェトナム戦争下の米軍問題―続発する墜落事故、騒音訴訟
第4章 沖縄返還と膨大な米軍基地―密室のなかの五・一五メモ
第5章 「思いやり予算」の膨張―「援助」の拡大解釈
第6章 冷戦以後の独伊の地位協定―国内法適用を求めて
第7章 沖縄基地問題への注目―度重なる事件、政府の迷走
終章 日米地位協定のゆくえ―改定の条件とは

 ご存知のように、日米安全保障条約はサンフランシスコ平和条約と同時に締結されましたが、この条約をめぐってはできるだけ占領軍がそのまま駐留するというイメージを払拭したい日本側と、できるだけ占領軍時代と同じ権利を確保した米軍部の間で考えに大きな隔たりがあり、そこに米国の国務省が入ってさまざまな調整が行われました。
 こうした中で生まれたのが日米行政協定(のちの日米地位協定)です。日米安保条約は米軍の日本駐留の権利だけを明記した全5条のものですが、この日米行政協定は全29条からなっており、安保条約の実質的内容を規定するものでした。

 そしてこの協定には、駐留軍の規模や場所、期限についての定めがないこと、米軍基地の運輸費、役務費などを合わせて1億5500万ドルを日本が負担するなど、さまざまな問題点がありました。
 講和条約発効とともに、接収されていた土地や家屋が変換されることが期待されていましたが、講和条約発効後にも米軍基地の拡張が行われ、石川県の内灘や東京の砂川では大きな反対運動が巻き起こることとなるのです。

 また、日本人に日米行政協定の問題点を認識させたのが1957年に起きたジラード事件です。これは群馬県の相馬が原演習場でウィリアム・ジラード三等特技兵が薬莢拾いをしていた日本人女性を打ち殺した事件で、日本の世論は大きく反発しました。
 米兵やその関係者が犯した犯罪についての裁判権は、日米行政協定の争点の一つで、最終的に日本側に一次裁判権が認められる米軍関係者の犯罪について、日本が「実質的に重要な」事件を除いて裁判権を講師しないという方針を「口頭」で表明する形で決着が図られました(23−24p)。
 ジラード事件に関して、日本は重要な事件とみなして一次裁判権の行使を求めますが、米国でも米国が裁判権を持つべきだとする世論が高まり、結局「日本がジラード事件の裁判権を行使する代わり、可能なかぎり刑が軽くなる容疑で起訴するという密約」(33p)が結ばれ、ジラードは傷害致死で起訴され、懲役3年執行猶予4年の判決を受けます。

 こうした事件が起こる中で、日米安保改定に動いたのが岸信介です。
 1957年に訪米した岸は米軍の削減を求め、これにより米陸軍の戦闘兵力と海兵隊の本土からの撤退が実現します。さらに米軍基地の返還も進み、1953年から60年にかけて、本土の米軍兵力と基地面積はおよそ1/4となりました(38p)。
 さらに岸は日米安保条約の改定へと動きますが、交渉の長期化を恐れた外務省は日米行政協定の改定は考えていませんでした。ところが、自民党の反岸派が日米行政協定の改定がなければ安保改定を支持しないとの立場を示したことや(この背景には安保改定を手柄に外相の藤山愛一郎が自民党の総裁になることを阻止したかったことなどがある(49−50p))、砂川事件の一審の伊達判決で日米行政協定は違憲との判断が示されたこと、外務省が日米行政協定の改定を考え始めたことなどから、日米行政協定の全面改定が浮上します。

 しかし、「第24条(緊急事態の協議)」、「第25条(分担金条項)」の削除といった部分は合意できたものの、「第3条(基地の管理権)」は占領の残滓を払拭したい日本側と、基地の周辺でもある程度の行動の自由を求める米側の意見の対立は埋まりませんでした。
 結局、「外務省は、国会審議にかける日米行政協定とは別に、非公表の合意議事録を同時に作成することを条件に、日本側の要望を受け入れるように米国側を説得」(58p)します。米軍の地位と特権は非公表の議事録によって温存されることとなったのです。
 新日米安保条約は激しい反対運動を巻き起こし、国会でも論戦が行われましたが、日米地位協定と名前を変えた日米行政協定に関しては民主社会党がその問題点を指摘した程度でした。

 ヴェトナム戦争が本格化すると、米軍基地に対する反対運動も高まってきます。
 基地の縮小の流れに逆らって強化・拡張された神奈川県の厚木基地では騒音被害が深刻化し、64年には町田の商店街にジェット機が墜落する事故が起き4人が死亡するなど、事故も絶えませんでした。
 こうした米軍機による騒音や事故はいまだに起こっていますが、これは日米地位協定の第5条第2項が米軍機が「施設及び区域に出入し、これらのものの間を移動」(76p)する自由を認めているからです。この規定をもとに日本と極東の安全に寄与する訓練を個別に認めているというのが日本政府の立場であり、自衛隊の訓練空域が法律で定められていないのと同じく、米軍の訓練空域も規定されていないとしています。

 68年には原子力潜水艦ソードフィッシュの放射能漏れ疑惑や九州大学への米軍偵察機の墜落事故などが起こり、70年の安保条約の期限を前に日本の世論を沈静化すべく、米軍基地を整理統合する「ジョンソン・マケイン計画」が合意されます。
 さらにニクソン政権による国防予算削減の検討の中で、横須賀基地や厚木基地の返還も決まります。ところが、その後に佐藤栄作首相が横須賀返還によって第7艦隊の兵力が削減されることに反対し、自衛隊も横須賀基地の管理が困難なことを理由に返還に反対しました。厚木基地は自衛隊に移管されることとなりましたが、日米地位協定の第2条第4項bを根拠に日本政府は自衛隊基地を米軍が利用することを認めており、厚木基地の運用状況は大きくは変わりませんでした。

 本土では50年代後半から米軍基地は縮小していきましたが、沖縄では50年代を通じて基地が拡大し、60年代前半には本土を上回る規模となります。関東地方にある米空軍基地を横田基地に集約する「関東計画」が進むと、1974年末には本土の基地は97平方kmにまで縮小されますが、同時期の沖縄には266平方kmの基地がありました。

 沖縄返還にあたっては、日本からは「核抜き・本土並み」という方針が掲げられ、核兵器の撤去と日米安保条約と日米地位協定の適用が求められましたが、沖縄中どこでも基地として使用できると考えていた米軍部はこれに抵抗しました。
 この根強い抵抗の前に、外務省は整理縮小を求める対象を那覇周辺の施設に絞り込み、返還協定の調印へとこぎつけます。結局、沖縄の本土復帰に伴って変換された基地は全体の15%の約50平方kmにとどまりました。 
 さらに沖縄返還時に非公表の「五・一五メモ」が取り交わされました。このメモでは在沖米軍には返還前と変わらない基地の使用が認められ、県道の封鎖、飛行場以外の基地の上空でも訓練が可能になっていました。こうした重要なことが沖縄県や県民に知らされれないままに決まったのです(その後、78年に一部公表され、97年に全面公開に近い形で公開された)。
 その後の米軍基地の整理縮小も、多額の移転費用を要求する米側と財政状況が悪化した日本政府の間で折り合えず、あまり進展がないままになります。

 第5章では「思いやり予算」がとり上げられています。
 「思いやり予算」とは駐留経費のうち、日米地位協定に規定のない日本側の負担のことを指します。
 それまでも、沖縄返還にともなって一部の米軍の経費が日本側の負担となっていましたが、1976年以降、米側は公然と日本に基地の労務費の負担を求めてきました。これに対して外務省は地位協定に規定されていない負担に難色を示しますが、防衛庁はこれを受け入れる姿勢を示します。さらに、沖縄の基地労働者の大量解雇が問題になったこともあり、日本政府内でも労務費の一部負担を受け入れるべきだとの声が高まっていくのです。
 78年3月に在沖米軍が牧港補給地区の移転に伴い、このままでは800人の基地労働者を解雇せざるを得ないとカーター政権が通告していくると、当時の金丸信防衛庁長官がアメリカに飛び、「「思いやりをもって」基地労働者の退職金の一部を新たに負担する考えを述べ、解雇する基地労働者の数の縮小を要請」(125p)しました。

 ここから「思いやり予算」は膨張します。米の財政赤字や日米貿易摩擦を背景に、日本側の労務費の負担は100%負担にまで膨れ上がり、地位協定の取り決めを無視する形で拡大していったのです。
 さらに1990年にイラクがクウェートに侵攻し湾岸危機が勃発すると光熱費の負担も決まり、訓練移転費なども負担するようになっていきました。
 さらに96年以降は「思いやり予算」の他に、「沖縄に関する特別行動委員会(SACO)」の最終報告書に書かれた普天間をはじめとする基地の移転や騒音対策などの費用(SACO関連費)、在日米軍再編協議(04〜06年)で決まった海兵隊の一部国外移転費用、空母艦載機の厚木から岩国への移転にかかる費用(米軍再編関係費)が計上されるようになり、これがかなりの額になっています(136pの5−2参照)。
 
 第6章は冷戦終結後に地位協定の改定が行われたドイツとイタリアの事例を見ながら、なぜ日本では改定が行われなかったのかを探ります。
 1990年に東西統一を果たしたドイツでは、ただちに自国内に駐留するNATO加盟国に対して地位協定の見直しを要請しました。西ドイツに駐留していたNATO軍には占領軍の既得権益が残されていましたが、ドイツは統一を機にこれらの改定を求めたのです。
 ちょうどNATO、そしてドイツの旧ユーゴ地域への域外派兵などが問題となっていたこともあって、この地位協定の改定交渉は比較的順調に進みます。ドイツが域外派兵に踏み出す代わりに、基地の外部での訓練がドイツ政府の同意なしにできなくなり、ドイツの法の適用範囲も広がりました。一方で、裁判管轄権に関しては抜本的な改定は実現しませんでした。
 イタリアも、冷戦下においてNATOの域外派兵に関して自国の基地を使わせない方針をとっていたことが一つの要因となってこの時期に新たな取り決めが結ばれています。

 著者は、日本にも地位協定改定の交渉に乗り出すチャンスが2度あったといいます。90年のイラクのクウェート侵攻から湾岸戦争についての時期と、93年の北朝鮮の核危機から96年の安保「再定義」の時期です。
 まず、湾岸危機のときに米からの自衛隊派遣要請に応じる引き換えに地位協定の改定を持ちかけるチャンスが有ったといいます。また、93年の北朝鮮の核危機では日本の対米支援のあり方が問題となり、それが安保の再定義へとつながっていくわけですが、そこでも朝鮮有事への協力と引き換えに地位協定の改定をはかるというチャンスが有りましたが、そうした声は出てきませんでした。

 ところが、95年に起きた沖縄での女子小学生暴行事件をきっかけに沖縄から地位協定の改定を求める声が上がります。この事件では県民集会で大きな怒りが示されるとともに、日米地位協定の見直しが要求されました。
 外務省は地位協定の改定が基地撤去論に発展することを恐れ、改定には消極的でした。フィリピン議会が基地協定の期限延長を拒否した結果、92年に米軍が基地を放棄した事例が頭にあったと思われます。また、当時は日米貿易摩擦により日米関係が悪化していた時期でもありました。

 外務省は地位協定の運用改善で自体の沈静化を図ろうとしましたが、沖縄の太田知事が代理署名の拒否を行うなど、沖縄の怒りは収まりませんでした。
 そこで動いたのが防衛庁です。沖縄の雰囲気を敏感に感じ取っていた防衛庁は沖縄の基地の整理・縮小へと動き、米のナイ国防次官補を通じて、沖縄特別行動委員会(SACO)の設立にこぎつけます。
 しかし、このSACOの目玉となったのは普天間返還であり、日米地位協定の見直しではありませんでした。著者は「SACOの目的は、日米安保や日米地位協定の不平等制が沖縄で露呈したことへの対応ではなく、沖縄の怒りや国内の日米安保・日米地位協定批判をガス抜きし、日米安保再定義を軌道に乗せるために障害を取り除くことにあった」(174p)と総括しています。

 その後、太田知事を選挙で破った稲嶺知事も2000年に日米地位協定の改定案を日本政府と米国駐日大使館に提出しますが、米側は稲嶺知事の勝利によって自体は沈静化したと考えており、改定の動きにはつながりませんでした。
 冒頭で紹介した04年の沖縄国際大学米軍ヘリ墜落事故でも、その対応策は普天間移設の加速や在沖海兵隊のグアムへの一部移転という形で行われ、地位協定の改定が議題になることはありませんでした。
 
 終章で著者は米軍がなぜ日米合意を守らないかという問題と、改定の可能性を探っています。
 まず、合意が守られない問題(例えば、沖縄国際大学米軍ヘリ墜落事故の後、学校の上空を避けることが約束されたが2017年には保育園と小学校に部品が落下)については、大使館と米政府の人事に問題があると見ています。
 地位協定を扱う部署の人員は少なく、また異動も多く、引き継ぎがしっかりとなされていません。さらにトランプ政権では国務省の人員が削減され、交渉すらままならない状況です。
 他にも米軍が海外展開をする上で裁判の管轄権は他国でも譲ってこなかったこと、国内法を米軍に適用としたときに、今の日本の法律で果たして在日米軍の活動をカバーできるのかという問題もあります。

 このように現時点での改定はなかなか難しいと著者は見ていますが、地位協定自体の改定は難しくても、60年の安保改定のときに取り交わされた合意議事録の撤廃ならば可能であり、これによって地位協定の抱える問題の多くが解決するだろうと見ています。
 合意議事録は一種の密約であり正統性をもっておらず、また、協定の条文を変えるのに比べれば何度は低いと著者は考えるのです。

 日米地位協定については今までの報道などで概略をしていいるつもりでいましたが、密約であった合意議事録が地位協定の性格を大きく規定している点などは初めて知ったことで非常に勉強になりました。地位協定の交渉過程、「思いやり予算」の制度化と膨張の過程についても丁寧に追っており、勉強になります。
 ただ、交渉過程を追っている分、何が合意されたのかという点についてはわかりにくい部分もあります(60年成立の日米地位協定については巻末に全文が載っているので問題ないのですが、日米行政協定の合意事項についてはややわかりにくい)。
 それでも、日米地位協定の問題点を認識しつつ現実的な解決策を探る著者の姿勢は良いと思いますし、日本の安全保障や沖縄の問題を考える上で有益な本であることは間違いないです。


中北浩爾『自公政権とは何か』(ちくま新書) 8点

 自民の「一強」状態が続いている昨今の政治ですが、選挙結果などを詳しくみると、公明党の協力があってこその自民「一強」であることも見えてきます。一方、民主党政権の民主党・社民党・国民新党の組み合わせはあっという間に崩壊し、安保法制反対などで盛り上がった野党共闘の動きも、結局はしっかりとした形にはなっていません。

 ここ25年間のうち、単独政権は第二次橋本政権の末期から小渕政権の途中の7ヶ月ほどで、連立政権が常態化しています。しかも、選挙制度改革によって中選挙区が小選挙区比例代表並立制となり、二大政党制を生み出しやすいメカニズムが整えられたにもかかわらずです。
 そして、この数々の連立政権の中で唯一安定的な枠組みとなってるのが自公の組み合わせです。政策距離で言えば、自民と公明よりも自民と民主(やその後継政党)のほうが近いように思われますが、それでも自公の枠組みは崩れません。こうした謎を追うのが本書の内容となります。

 自公政権ができる前の連立や民主党政権に関する分析や政局への注目も多く、そのぶんページ数は多くなっていますが、政治ドラマが好きな人であれば、そうした部分を含めて楽しめると思いますし、そうした政治ドラマは抜きにしても現在の日本の政治を考える上で重要な視点を得ることができると思います。
 著者は『自民党―「一強」の実像』(中公新書)を書いていますが、相補う本と言えるでしょう。

 目次は以下の通り。
はじめに もはや単独政権の時代ではない
第1章 神話としての二党制
第2章 連立の政治学
第3章 非自民連立から自社さへ
第4章 自公政権の形成と発展
第5章 なぜ民主党政権は行きづまったのか
第6章 自公政権の政策決定とポスト配分
第7章 自民・公明両党の選挙協力
おわりに 野党共闘と政権交代を考える

 まず第1章では「神話としての二党制」と題して、「二党制」を目指した日本の選挙制度改革が、結局は二党制を生み出し得なかったことが指摘されています。
 80年代後半から90年代前半にかけての政治スキャンダルは、政権交代が可能な選挙制度の導入へと政治家や世論を動かし、イギリスの二党制が改革のモデルとして選ばれました。
 純粋な小選挙区制を理想とする小沢一郎らと、生き残りをはかる中小政党の駆け引きなどの末、最終的に小選挙区比例代表並立制が導入されます。小選挙区300、比例代表200と小選挙区が中心で、しかも小選挙区の候補が比例に重複立候補できる制度もあり、比例代表が小選挙区に従属するような制度でした。

 このため、日本の政治も二党制へと収斂するかと思われました。しかし、2009年の民主党の圧勝劇をピークに日本の政治は二党制から離れていきます。野党の多党化が進み、自民党の「一強」とも言える状況が出現し、25年たって再び中選挙区制のもとでの「一強多弱」が戻ってきたような状況になっているのです。
 ただし、以前と違うのは「一強」である自民も、公明党との連立を続けている点です。衆参両院で過半数をとっても自民は公明と連立を続けているのです。
 さらにこの章では、イギリスとの比較を通じて、比較的力の強い参議院があること、野党勢力(民主党系)に確固たる地盤がないことなど、日本の政治の特徴のいくつかを指摘してます。

 第2章では政治学における連立政権をめぐる理論が紹介されています。
 最初に紹介されているのが「最小勝利連合」の考えです。議会では過半数をとることが大事であり、必要以上に大きな勢力となれば配分される閣僚ポストの数は減ります。ですから、過大な規模にならないような最小勝利連合が追求されるというのがこの理論です。
 一方、政党間の政策距離を重視する考えもあります。たとえ最小勝利連合になるといっても自民と共産が連立することが考えにくいように、やはり政党間の政策の違いは大きなポイントとなるのです。これによって過大な規模の連立などもある程度成立できます。

 以上の2つの理論は、選挙が終わった後の連立の組み方についてのものですが、連立は現在の自公政権のように選挙協力を行い、選挙を超えて持続することもあります。
 特にこの選挙前から連立を組むスタイルについて、ソナ・ゴールダーはそれを「選挙前連合」として分析されました。この「選挙前連合」が形成されやすいのは、選挙制度は非比例的なときで(小選挙区が非比例的な選挙の代表例)、政党はスケール・メリットを求めてまとまっていくのです。
 自公政権という「選挙前連合」が定着したのも、小選挙区比例代表並立制が導入されて以降のことです。

 93年以降の日本の連立政権をみると、衆議院の最小勝利連合となっているケースは少なく、多くが過大規模となっています。一方、参議院に注目すると最小勝利連合になっている事が多く、「参議院こそ多数派形成の主戦場という印象すら」(102p)あります。
 また、日本の国会制度が委員会制度をとっているとも過大規模連合を生み出す要因だといいます。スムーズな国会運営を行うためには、全ての委員会で委員長と野党と同数の委員を確保する安定多数を目指す必要があるからです。

 第3章では、細川・羽田政権の非自民連立と自社さ連立政権が分析されています。政局的な部分も面白いですが、ここでは連立というポイントに絞ってまとめます。
 細川連立政権は八党派からなる連立政権で意思決定に難しさを抱えていました。政策決定は政府・与党の二元体制で行われ、主導権を握ったのは与党の代表者会議でした。
 ここでは小沢一郎と公明党の市川雄一のいわゆる「一・一ライン」が活躍するわけでしが、この「一・一ライン」を苛立たせたのが、党内の「一任」を取り付けられずにすぐに持ち帰って協議する社会党のやり方でした。多数決などは行われませんでしたが、調整が困難なときは細川首相への「一任」という形で突破が図られました。
 この細川首相への「一任」でウルグアイ・ラウンドにおけるコメの部分開放などが決まりますが、社会党の不満はたまっていき連立は解消されることになります。

 一方、その後に成立した自社さ政権では、互いが歩み寄ると同時に、ボトムアップとコンセンサスによる政策調整を密に行いました。
 党首会談の定例化とともに、与党の意思決定の会議において、おおむね自民3、社会2、さきがけ1という比率が守られ、自民党が過半数を握ってしまわないようにしました。さらに政策決定をボトムアップで行うことで、政策のズレを埋めていきました。
 しかし、問題となったのが選挙協力です。95年の参院選はその試金石でしたが、89年の参院選が自民惨敗、社会党大勝だったこともあり、候補者調整は難航します。結局、自民が復調する一方で社会党は惨敗します。さらに96年の衆議院総選挙でも候補者調整はうまくいかずに社会党は惨敗、社会党とさきがけは閣外協力に転じるのです。
 閣外協力となった後も政策決定のプロセスに関わりますが、社会党とさきがけのマンパワー不足からその手続きは簡素化されました。そして、98年には参院選を見据えて閣外協力の関係が解消されます。

 第4章は自公政権の成立について。参議院で過半数を失った自民党は苦しい国会運営を強いられ、連立を模索します。そこでねらいを定めたのが公明党でした。しかし、反自民を掲げてきた公明党がすんなりと自民と組むことは難しく、ワンクッションを置くためにまずは自由党との連立がなされ、ついて公明党がこれに加わり、自自公の連立が成立します。
 しかし、この枠組は短期間で崩壊します。自自公の政策距離は自社さに比べれば近いものでしたが、自由党の小沢一郎がトップダウンでの政策決定を小渕首相に求めたのに対して、自民党の組織内にはそれを受け入れる素地がありませんでした。さらに自民党と自由党の候補者調整が停滞したこともあり、小沢一郎は小渕首相に合流か連立離脱かを突きつけ、結局連立は解消されることとなるのです。

 候補者調整に関しては、2000年の衆院選における自民と公明の間の調整もそれほどうまくいきませんでした。公明党は自民と競合した選挙区で全敗し、議席を公示前から11議席も減らしました。自民の中でもYKKを中心の公明党の連立に疑問を抱く勢力は根強く、2001年にはそのYKKの1人である小泉純一郎が首相となりました。
 ところが、この小泉政権のもとで自公の枠組みは安定します。政策決定に関しては、自民党が官邸を占める一方で、公明党が与党の立場からそこにブレーキをかけるやり方に落ち着くとともに、選挙協力が深化していきます。
 2001年の参院選では小泉ブームによる自民の圧勝劇の裏で、公明党も比例区で過去最高の得票を得ました。これは自民との選挙協力があってのものです。さらに03年の衆院選では小選挙区では自公の完全な棲み分けが行われ、自民の候補が「比例は公明」と呼びかけることも一般的になってきました。この03年の総選挙で、公明の支持があってこそ勝利することができたという認識が自民党の代議士の中にも広がり、自公は選挙協力の枠組みとして安定していくのです。

 第5章では民主党政権の行き詰まりが分析されています。自自公連立を解消した小沢一郎率いる自由党は民主党と合流し、その小沢一郎のもとで社民党や国民新党との選挙協力も進みます。社民党の地方組織や、郵政民営化に反対する議員の集まりである国民新党の持つ全国特定郵便局長会の票は、政権を目指す民主党にとって価値のあるものだったからです。
 2009年の衆議院選挙で民主党は圧勝し、民主党と社民党、国民新党による連立政権が誕生します。民主・社民・国民新の選挙協力も比較的うまくいき、安定した枠組みが生まれたかにも思われました。
 
 しかし、この連立は政策決定の枠組みから崩れていきます。民主党は政策決定の一元化を唱えており、与党の事前審査制を廃止して、政府による一元的な政策決定を目指しました。
 ところが、この政策決定の仕組は少数政党にとっては不利です。社民党と国民新党の閣僚はそれぞれ1人で、政府では圧倒的多数を民主党議員が占めることになりました。社民党の福島瑞穂、国民新党の亀井静香という党首が入閣したとはいえ、両党の発言力は限られたのです。社民党は民主党の幹事長であった小沢一郎を通じて調整を行おうとしましたが、小沢の腰が重かったこともあり、普天間基地の移設問題をきっかけに社民党が連立を離脱します。
 民主党は自社さ政権のような政策決定に関する丁寧な調整を行うことができず、崩壊したのです。

 一方、下野した公明党では一時小選挙区からの撤退が検討され、当初は自民党から距離を取り民主党政権に対して是々非々でのぞむ姿勢も見せました。
 それでも自公の枠組みは崩れませんでした。国会対応では国対委員長を務める大島理森と漆原良夫のラインがつながっていましたし、2010年の参院選でも選挙協力がなされました。両党の選挙協力は双方にメリットをもたらすものであり、すっかり定着していたのです。
 そして、2012年の衆議院選挙で自公は再び政権に返り咲きます。

 第6章では自公政権の政策決定とポスト配分が分析されています。
 まず、政策距離からいうと自民と公明は決して近くはなく、むしろ自民と民主(民進)のほうが近いくらいです(261pのグラフ6−①を参照)。連立を組みにあたっては、基本的に政策距離が近いほうがうまくいきますが、政策距離が離れていることが、連立政権の政策の幅をもたらすこともあります。
 政策決定に関しては、衆院選や新首相の誕生後に結ばれる両党の連立合意が基本としてあり、その合意の上でさまざまな調整が行われています。近年では内閣提出法に関しては官僚が両党の間の調整を行っているそうです。
 第二次以降の安倍政権では官邸主導の流れが強まっていますが、公明党は官邸には議員を送り込んでいません。公明党はあくまでも政府・与党の二元体制のもとで与党の立場から政策に関与しています。

 ポストに関しても公明党は議席の割に過小となっています。1999年以来、公明党が獲得してきた閣僚ポストは常に1で、閣僚に占める割合は5%ほどですが、議席では11〜15%ほどを占めており、2か3の閣僚ポストを獲得してもおかしくはないのです。一方、副大臣や政務官に関しては議席数に見合った水準となっています。
 近年、公明党は国土交通相のポストを獲得し続けていますが、これについて公明党の幹部は次のように述べています。

 国交相は土地や住宅から鉄道・道路・港湾までカバーしていて、地元の党員・支持者の要望に応えやすい。予算額も大きく、選挙を考えると離したくない。「福祉の党」という観点から言えば、厚労相もいいけど、現在では国民に我慢してもらう役回りになっている。経産相や環境相は、原発を扱わなくてはならないので、手を出しにくい。法相では誰も喜ばない。国交相のポストは一つであっても、十分なメリットがある。(281p)

 この発言からは、「権力を獲得したい」というよりは「リスクを負いたくない」という公明党の姿が見えてきます。このような公明党の姿勢は大臣になりたい議員を多く抱える自民党にとっては都合の良いものでしょう。

 イデオロギー的にも公明党との距離が遠い第二次安倍政権の誕生は、公明党にも難しい局面をもたらしましたが、集団的自衛権の問題でも消費税の軽減税率でも公明党は自らの主張をある程度反映させることに成功しています。
 こうした調整が可能な背景として、著者は両党の間の人脈と体質をあげて、漆原良夫の「政策からみれば、公明党は民主党と近い。けれども、体質は自民党と似ている。政治は理屈じゃなくて、情だからね。」(298p)という言葉を紹介しています。

 第7章は自公の選挙協力が分析されています。自公の枠組みを強固にしている最も大きな要因がこの選挙協力だと考えられます。
 現在、衆議院の小選挙区では自公の完全な棲み分けがなされており、自民の公認候補のほとんど(2017年で96%)を公明党が推薦しています。参議院でも候補者調整がなされており、四人区と三人区では公明党が候補者を出す場合には自民は候補を1人に絞っています。
 また、この章で興味深いのは小選挙区選出の公明党の議員が自公連立をつないでいるという指摘です。小選挙区では公明党の議員といえどもドブ板選挙に徹する必要があります。小選挙区で勝ち抜くには自民の基盤である地元の自治会や老人会などにも食い込まねばならず、小選挙区選出議員にとって自民の連携は必須です。公明党の議員の中でも自公連立に対する温度差はあり、著者は「衆議院本会議でIR推進法案が自主投票とされた際、小選挙区選出議員に賛成が多かったことは、潜在的な亀裂の存在を垣間見せた」(324p)と指摘しています。

 具体的な選挙協力の効果については、比例で公明党に投票した有権者の6割、あるいは8割が小選挙区の自民党の候補者に投票したとして推計を行っています。2017年の総選挙で自民は小選挙区で215議席を獲得しましたが、このうち6割の歩留まりで計算した場合は44議席、8割の歩留まりで計算した場合62議席が公明党の協力によって落選を免れたと考えられます。このように公明党の票の存在は大きく、たとえ自民が衆参で単独過半数を獲得したとしても、この協力関係はそう簡単には解消できないのです。
 一方の公明党にとっても、先程述べたように小選挙区の勝利に自民の協力は不可欠ですし、比例においても自民から流れてくる票で100〜150万票の上積みがあると考えられます。
 このように自公の票は相互補完の関係にあり、この関係が国政選挙での5連勝の大きな要因なのです。

 では、この自公の組み合わせが盤石かというと、絶対的な得票数では自公とも伸び悩んでいます。特に公明党に関しては2017年の総選挙で比例票が25年ぶりに700万票割れとなりました。
 また、自公の協力関係が崩れているのが東京と大阪です。それぞれ都民ファーストの会、おおさか維新の会が自民の議席を大きく崩したのが特徴で、この勢いに公明が従う形になっています(ちなみに公明党のこうした姿勢に疑問を感じる人は薬師寺克行『公明党』(中公新書)を読むと公明党の「組織防衛」的な姿勢の理由がわかると思います)。

 「おわりに」では、野党共闘の可能性が簡単に考察されていますが、やはり難しいのは共産党の存在です。強固な組織票がある点は公明党と共通していますが、やはり各党には拒否感があり、すんなりと連立を組める相手ではありません。また、確固たる地盤がないというのも現在の野党の弱みです。

 このようにこの本はたんに自公政権の歴史を追うだけではなく、それを政治学的な理論で裏づけ、さらに自公以外の連立も視野に入れた上で分析を進めています。そして、ここ25年の政治が連立の時代であったことを考えると、ここ四半世紀の日本政治を読み解く本ともなっています。
 少し欲張った構成にはなっていますが、近年の政治の動きを読み解く上でも、今後の政治を占う上でも、非常に参考になる本だと思います。


岡本隆司『腐敗と格差の中国史』(NHK出版新書) 7点

 タイトルからはB級っぽさが漂いますが、そこは『李鴻章』『袁世凱』(ともに岩波新書)、『近代中国史』『世界史序説』(ともにちくま新書)、『中国の論理』(中公新書)、『日中関係史』(PHP新書)などの読み応えのある新書を送り出してきた著者で、中国の腐敗と格差の根源を歴史とそれが生み出した社会構造の中に探ろうとしています。
 内容的には『中国の論理』の第2章と第5章と重なっていはいますが、著者の専門とも言える清朝の時代の記述は面白いですし、中国の官僚機構の特質を掴むこともできます。

 目次は以下の通り。
1 格差―士と庶はいかに分かれたか
2 権力―群雄割拠から唐宋変革へ
3 腐敗―歪みはどこから来たのか
4 改革―雍正帝と養廉銀
5 根源―中国革命とは何だったか

 第1章でとり上げられるのは中国における格差の源流です。
 中国は世界最古とも言える官僚制国家であり、それは秦の始皇帝の時代に始まっています。とは言っても、中央集権はすでに戦国時代の各国の中で始まっており、著者は「たまたまその一つの節目に、始皇帝がいたにすぎない」(25p)と述べています。
 中国ではこのようにして身分・階級に格差の少ないフラットな社会が出現します。そこで導入されたのが官僚制であり、具体的制度としては郡県制が用いられました。郡県のうち、実態があるのは県で、地方支配の末端をになうものとして存在し続けました。
 県は周の時代の「邑」を基盤としたもので、そこにはコミュニテイぃをとりまとめる「三老」、「父老」といった存在がいましたし、戦国時代には「遊侠」と呼ばれるヤクザ的な存在が顔を利かせていました。
 漢の政権はこうした社会に対して儒教によって安定した秩序をつくり出そうとしました。そして官僚制度においても在地の人間を取り込むことによって地域の自治と噛み合うようになっていきます。

 一方、儒教の重視は教育の重視、そして家柄の重視ももたらしました。礼儀といった挙措は家族や一族の中で培われるからです。
 こうして名家や門閥が形成されていきます。「三国志」の袁紹、袁術で有名な袁氏など、貴族と呼ばれる一族が生まれることになるのです。三国分立時に始まった九品官人法はこの動きを助長しました。九品官人法自体は個人を評価する仕組みでしたが、初任官のランクは家柄によって決まるようになり、それに伴って高位の官職を名門が独占することになるのです。
 この貴族制は南北朝時代の南朝で完成の域に達し、エリートの「士」と一般庶民の「庶」がはっきりと分かれる社会ができあがっていきました。

 一方、北朝では賢才を試験によって選抜するという科挙の制度が導入され、その北朝から出た隋や唐が中国を統一します。しかし、唐の文宗皇帝が娘を一流貴族に嫁がせようとして謝絶されたことがあるように、名門貴族の力はなかなか衰えませんでした。
 
 ようやく変化が訪れるのは10世紀を中心とした「唐宋変革」の時期になります。
 この時期に中国の政治は貴族制から君主独裁制へ転換します。すべての官僚は科挙によって選抜されることになり、エリートにとって自らの地位の源泉は天子(皇帝)と科挙ということになります。そして「士大夫」と呼ばれるエリート層が形成されたのです。
 科挙によって一般庶民がエリートになる道がひらけたわけですが、「士」と「庶」の区分が亡くなったわけではありません。「試験という一見、合理的かつ平等な条件であればこそ、格差・差別の裏づけはいっそう社会的に受け容れられ、鞏固になった」(56p)わけなのです。
 このように中国では世襲に基づく「士」と「庶」の区分は消滅しましたが、こうした二元的な社会のあり方は変わらず、そうした社会の中で官僚制が発展しました。

 第2章では、その官僚の権力が歴史の中でいかに変化したかが概観されています。
 漢の時代の官僚の典型が皇帝の権力を背景に厳しく法を適用する法家的な酷吏です。漢の時代は儒教が優勢となりますが、統治のスタイルは変わらなかったのです。
 しかし、強大な権力を十分に行使するには皇帝個人の体力や気力、識見が必要であり、それがない場合には外戚などが権力を握りました。後漢から唐の時代までは、貴族たちと皇帝が主導権闘いを繰り広げ、皇帝が秘書的な役職をつくって権力を集中させると、時とともにその役職も貴族によって占められるようになり、さらに秘書的な役職がつくられるということが繰り返されました。
 
 こうした権力闘争を終わらせたのが「唐宋変革」なのですが、著者は特に後周の世宗、その右腕的存在で宋を建国した趙匡胤、宋を安定させた弟の趙匡義の3人に注目します(宮崎市定はそれぞれを信長・秀吉・家康になぞらえている(81p))。
 唐代の律令に基づいた画一的な行政・統治が破綻した後に、彼らがつくったのは君主独裁制は、在地の特殊性を認めながら可能な限り一元的な政治を行おうとしたものです。単純なトップダウンだけでなく、ボトムアップを取り入れながら効率的な統治を求めた結果、生まれたものだと言えます。
 例えば、人民を個別に把握して労役に従事させるしくみに代わって、貨幣による納税が取り入れられ、そのために貨幣がつくられました。

 「官吏」という言葉がありますが、中国ではこの「官」と「吏」は「唐宋変革」のころを境に異なるものとして把握されるようになっていきます。「官」は中央政府が任命し派遣する正式な官僚、「吏」は「胥吏(しょり)」などと呼ばれる臨時的に執務する人員を指すようになります。
 君主独裁制において官僚は中央から派遣され、数年で移動していきます。しかし、短期間で任地の特性を把握して統治を行うのは困難です。そこで、欠かせなかったのが胥吏の存在です。
 在地の行政を行うにあたって、できるだけ地元の人間が労力を出し合い、課税を避けるというのが中国社会の伝統であり、そのためにボランティアの形で行政に携わる人間がいました。
 ところが、唐宋変革によって事務仕事が増えるとこのボランティアは専業化し、胥吏となります。ただし、あくまでも臨時のボランティアであり、報酬はありませんでした。
 中央から派遣された形式的な「官」と、実際に事務を行う報酬のない胥吏。中国の行政の末端ではいびつな構造ができあがったのです。
 王安石はこの胥吏に給与を与え、正規の官員になれるルートも設けるなど、社会の一元化に取り組みましたが、最終的に王安石の新法は葬り去られています。

 第3章では、そうした官僚制度がいかにして腐敗を生み出したかが語られています。
 ここでは時代が飛んで清代の中国の制度が分析されています。清の地方行政組織は「省」−「道」−「府・州」−「県」の四段階でしたが、例えば、省には省内の税収財政をつかさどる付政使と司法刑罰をつかさどる按察使の上にそれを監督する総督・巡撫が置かれており、実際には四段階以上の複雑な構造になっていました。不正などをなくすために監督官庁が次々と設置されたからです。

 一方、末端の行政組織が県の衙門です。衙門にいた正規の役人は知事(知県)、次官、秘書官、教官くらいで、他に知事の家人、幕友という私的なブレーンなどがいました。知事の執務はこのような私的な縁故者の協力で成り立っていました。
 その下で実際に政務を行ったのが胥吏たちです。県の部署の多くは胥吏のみで構成されており、17世紀あたりの中国の人口が1億くらいだった時期だと、普通の県では300人ほど、大きな県では1000人ほどの胥吏がいたといいます(114p)。さらに肉体労働に従事する衙役と呼ばれる人々も胥吏以上に多くいました。そして、これらの胥吏や衙役は臨時のボランティア的な存在だったのです。

 胥吏は引退するにあたって自分の後継者を推薦するのが慣例でしたが、これによって胥吏は一種の世襲、あるいは権利株のようなものになり、高値で売買されました。
 自らの俸給すらないのになぜ胥吏の株が高値で売買され、子どもや一族にその地位を継がせたがったかというと、当然ながら別の旨味があったからです。それが「陋規(ろうき)」と呼ばれた賄賂・手数料です。
 この胥吏のとる賄賂は、すでに宋の時代に司馬光が問題にしていましたが、特に抜本的な改革が図られることもなく(王安石の改革は失敗した)、清代までつづきます。本来ならば、正規の官員がこれを取り締まるべきでしょうが、転勤を繰り返す彼らが実際の政務や地域の実情に通じた胥吏たちを厳しく指導することは難しいものでした。
 中国には「官に封建無く、吏に封建有り」という言葉がありますが、ここでいう封建とは地位・職務の世襲を意味しています。中国の政治は、「君主独裁・トップダウン的な官僚政治の外貌をとりながら、実質は「封建」・ボトムアップ的な胥吏政治」(127p)だったのです。

 第4章は、こうした構造にメスを入れた雍正帝の改革が中心になります。
 中国では古来、歳入・歳出ともできるだけ少なくして税負担を軽くするチープ・ガバメントが理想とされていました。減税こそが善政だったのです。
 そのせいもあって、実地の地方行政の経費支出は実質上認められていませんでした。衙門の維持費や人件費、事業費は政府財政に組み込まれていなかったのです。しかし、この費用はどこからか調達する必要があり、それが「陋規」を生み出すことになります。
 清代の税金は銀で納められていましたが、政府に納めるときはこれを鋳直すために、その目減り分が上乗せされて徴収されていました。これを「火耗(かこう)」などと言いましたが、このて火耗がそのまま陋規となりました。

 これに対して雍正帝は、個別に地方官を通じて財政整理や増税を行う一方で、火耗やその他の陋規を一定限度認めた上で、これに歯止めをかけさせました。そして、不十分な俸給しかもらえない官員には「養廉銀(ようれんぎん)」と呼ばれる手当を支給し、腐敗を防ごうとしたのです。この養廉銀は大きな成果をあげ、雍正帝の時代には綱紀が正されたといいます。
 しかし、養廉銀は官員のみに支給されるものであり、胥吏には支給されませんでした。胥吏たちはやはり陋規をとらなければ生きてはいけなかったのです。
 雍正帝が亡くなり乾隆帝が即位すると、派手好きな乾隆帝のもとで綱紀は再び緩みはじめます。乾隆帝時代のインフレと好況のもとで、養廉銀では官員はその生活を賄いきれなくなり再び陋規が復活します。

 第5章では中国革命が扱われています。
 乾隆帝の時代は中国の人口が大きく増加した時代でもありました。県が統治しなければならない住民の数も増えていきますが。
 こうした中で統治の一端を担ったのが科挙に合格しながら官職につかずに地元で暮らす「郷紳(きょうしん)」と呼ばれる人々でした。彼らが地域のコミュニティをとりまとめることで、貧弱な行政機関を補ったのです。孫文は「租税をおさめること以外、人民は政府となんの関係もなかった」(174p)と述べましたが、中国では「官」と「民」が分離した社会ができあがっていったのです。
 一方で、陋規のほうは直接的な賄賂から誕生日プレゼントのようなものへと形を変えて拡大していきました。「官」になることは蓄財のための手段でもありました。

 こうした状況の中でおこった中国革命の中で、孫文は三民主義を唱えます。三民とは民族・民権・民生を指しますが、列強による分割の危機にあって当時の中国において圧倒的に優先されたのは民族主義でした。まずは異民族の清王朝を倒すことが優先され、社会の改革は進まなかったのです。
 孫文は中国国民党をつくり、共産党と連携します。第一目標は反帝国主義・民族主義でしたが、民生主義が社会主義と結びつくことで、国民革命軍の北伐は順調に進みます。
 しかし、この動きも蒋介石の反共クーデタによってストップします。代わりに国民政府に影響力を持ったのは浙江財閥であり、「土豪劣紳」と呼ばれた地方の大地主でした。「士」と「庶」の分裂は形を変えて残り、中国社会の一元化はならなかったのです。

 その後の動きに関しては、「むすびに」で簡単に触れられています。
 日本の侵略が本格化した1930・40年代は「日本帝国主義という敵対者の出現と存在を通じて、戦時体制を構築するなか、上下の一体化・社会の一元化を模索していた時代でも」(213p)ありました。
 その後の、中華人民共和国の成立と計画経済の実施について、著者は社会主義化であるとともに「嶮しい国際情勢に応じた戦時統制とみるべき」(215p)だとしています。
 文化大革命に関しては、著者はそこに社会の一元化を目指す動きを見ていますが、その後の改革開放移行は再び二元的な社会に戻ったと見ています。このあたりはもう少し著者の分析を詳しく知りたいところですね。

 以上のような内容で、現在の中国の格差や腐敗について知りたい人には向かない内容ですが、中国社会のあり方というものを知りたい人にとっては面白い内容になっていると思います。この本には歴史の中から見えてくる社会の姿が描かれています。
 最初にも述べたように『中国の論理』(中公新書)と重なっている部分はありますが、中国史に対する理解を深めたいのであれば、両方読んでおくのもよいでしょう。

鎌田雄一郎『ゲーム理論入門の入門』(岩波新書) 7点

 坂井豊貴『ミクロ経済学入門の入門』、田中久稔『経済数学入門の入門』につづく岩波新書の経済学「入門の入門」シリーズの第3弾はゲーム理論。近年の経済学、さらには社会科学全般において重要な役割を果たしているゲーム理論を初歩から解説しています。実際、坂井豊貴『ミクロ経済学入門の入門』でもかなりゲーム理論を取り入れる形で経済現象が説明されていました。
 そんなゲーム理論について数式を使わず、そして利得表もほとんど使わずに、面白くわかりやすい例(一部の世代向きかもしれませんが)をまじえて解説したのがこの本です。

 目次は以下の通り。
第1章 ゲーム理論とは―戦略的思考の理論
第2章 ナッシュ均衡―相手の動きを読め!
第3章 複数均衡の問題―どのナッシュ均衡?!
第4章 非存在の問題―ナッシュ均衡がない?!
第5章 完全情報ゲームと後ろ向き帰納法―将来のことから考える
第6章 不完全情報ゲームと完全ベイジアン均衡、そして前向き帰納法―過去について考える

 第1章はイントロという感じで、世の中にあるさまざまな意思決定について触れられています。意思決定にはルーレットで赤か黒に賭けるかというような相手の意思決定を考慮に入れないものもあれば、じゃんけんのように相手の意思決定を読むことが重要なものもあります。ゲーム理論が重要になってくるのは後者の意思決定です。

 第2章ではナッシュ均衡が扱われています。フォン・ノイマンの話とかをしないでいきなりナッシュ均衡の話をしているところは本書の特徴の一つと言えるかもしれません。
 この本ではナッシュ均衡を「戦略的状況での行動=相手が何をするかに対するベストな反応」という式で表される状況と説明しています(16p)。
 そして、すぐに囚人のジレンマの説明に移ります。このあたりの展開は非常にスピーディで、うすくてわかりやすい本ながらもゲーム理論についてある程度先にまで進みたいという著者の姿勢がうかがえます。
 さらに、互いの選好に関して、利得表を使わずに(1個だけ登場)、図2−3(37p)に見られるような独特な図をつかって直観的に理解させようとそている所も一つの特徴でしょう。

 また、ゲーム理論についてくる仮定について、確かに現実的とは言えないかもしれないけれども基本を理解するのが重要なのだとしつつ、最後の罰金ゲームで人間がそこまで厳密に考えていないことを指摘している点は良いと思います。
 クラス全員に紙を配って0〜100までの数を書いてもらい、その平均値に0.7を掛けた数に最も近い数を書いた学生が勝ちというゲームをした場合、全員0と書くのがナッシュ均衡となります(詳しくは本書41−45pを参照)。でも、現実には全員が0と書くことはなく、著者によればゲーム理論家を集めてもそうはならないかも、とのことです。

 第3章は複数均衡の問題です。エスカレーターでは東京では右側あけ、大阪では左側あけが一般的です。もちろん、公式には両側に乗ることが正しいのでしょうが、一種の均衡が成立しており、簡単に変わる気配はありません。ここでポイントとなるのはどちらか一方をあけるならそれが右側でも左側でも構わないが、一度均衡ができるとそれに従ったほうが良いという点です。
 この本では恋人が携帯電話のキャリアを選ぶゲーム(ラブジェネ・ゲーム)が例にあげられています。二人の選ぶ形態はドコモでもAUでもいいわけですが(なぜかソフトバンクは事前に排除されている)、二人が共通のキャリアを選んだほうが何かと便利なわけです。
 こうした人々が協調して同じ行動を取れば利得が得られるケースというのは日常の多くで存在します。

 第4章はナッシュ均衡が存在しないケースがとり上げられています。例えば、じゃんけんには一見するとナッシュ均衡は存在しません。じゃんけんの最善手は相手の手によって変化するからです(なお、本書では説明にマリコ様(篠田麻里子)が何度も登場し、著者のこだわりを感じさせる)。
 ここで確率が導入されます。相手の手の予測に確率を割り振ることによってナッシュ均衡を求めるのです。じゃんけんの場合はグー・チョキ・パーそれぞれを33.3%の確率で出すことがナッシュ均衡となります。
 ナッシュ均衡を生み出したジョン・ナッシュは「有限人の意思決定者がいて、取れる手数が各人有限個なときは、ナッシュ均衡が必ず存在する」(75p)ということを証明しており、サッカーのPKにもナッシュ均衡は存在するのです。

 第5章は「完全情報ゲームと後ろ向き帰納法」という難しそうなタイトルですが、ここではラーメン店の出店戦略を例に上げて、後ろ向き帰納法が説明されています。
 今、一風堂(やや値段高めのラーメン店)が独占している市場に博多天神(値段が安めのラーメン店)が出店を検討しているとします。博多天神が出店しなければ一風堂が利潤を独占し、博多天神が出店した場合は、一風堂が高値をキープすれば双方黒字、一風堂が対抗して値下げをすれば双方が赤字になります。
 このときに博多天神が出店するかどうかを判断するのに有用なのが後ろ向き帰納法の考えです。これは一番最後の結果から考えるやり方で、上記の例では、博多天神が出店すれば一風堂は高値をキープしたほうが得するので、一風堂は高値をキープすると考えられる。だから、博多天神は出店したほうが良いといった形で推論が行われます。
 
 これは非常に単純な例で、わざわざ後ろ向き帰納法を使う必要はないと考えるかもしれませんが、この章ではさらにじゃんがらというラーメン店を加え、複数の市場を対象にしたより複雑なケースも紹介しています。ここまでくると後ろ向き帰納法とそれを図解したゲームの木が威力を発揮することがわかると思います。
 さらにここからコミットメントやトランプ大統領の政治スタイルの話まで発展していきます。

 第6章では、意思決定の時点でそれまでの意思決定が状況がわからない不完全情報ゲームを取り扱い、完全ベイジアン均衡の考えと前向き帰納法の考えを解説しています。
 前半では画家とセンスのない金持ちの取引、後半ではあおい(宮崎)と准一(岡田)のデートを例として分析が進められています。

 画家とセンスのない金持ちの取引は、画家は自分で描くこともできるし弟子に描かせることもできる、一方金持ちは画家本人が描いたか弟子が描いたのかを見破る力はないが、画家本人の書いた絵を買えればセンスがいい人間とみなされて今後大きな利益を得るが、弟子の絵を買えばセンスのない人間とみなされて大きな損失を被るというものです。この例を使って完全ベイジアン均衡が解説されています
 個人的にはこの本の中でもっともピンとこない例で、例えば、金持ちは長期的な利得を問題にしているのに、画家は弟子に自分の名前で下手な絵を描かせる長期的リスクを考慮に入れないのか? といった余計な考えが頭をよぎってしまうこともあって(もちろん仮定に沿って考えることが重要だということは本書でも指摘されていますし理解できるのですが、現実と接点のない例は直観的に理解しにくい)、完全ベイジアン均衡は他の概念のようにはすっきりと理解できませんでした。

 逆にあおいと准一の例はわかりやすいです。あおいが准一の誘いを告白を受け入れる気持ちでOKするか、告白を断る気持ちでOKするか、そもそも断るかを決め、それに対して准一告白するかしないかを決める、という設定です。
 比較的ありそうな設定ですし、お互いの脳内の読み合いもわかりやすいと思います。詳しくは本書を見てほしいのですが、前向き帰納法の概念は直観的にわかるのではないでしょうか。

 以上が大まかな本書の内容です。他の「入門の入門」シリーズと同じように本書も「おわりに」を含めて164pと非常にコンパクトです。第6章に関してももう少しボリュームがあったほうがわかりやすいようにも思えましたが、この本はあくまでも入り口ということなのでしょう。
 ちなみにサポートページに練習問題が載っているのですが、これはけっこう難しいものが多いですね。本書の知識で解けるとのことですが、チューター的な人がいないと解いていくのは難しいのではないでしょうか。
 ただし、本書に関してはチューターなどがいなくても多くの人が読み通して、だいたいの内容に関して理解することができるものとなっています。まさに「入門の入門」として機能する本に仕上がっています。

 

曽我謙悟『日本の地方政府』(中公新書) 9点

 日本の地方政府(地方自治体)について、その制度と国や地域社会の関係などから明らかにしようとした本になります。
 このような政治制度やその実態を明らかにしようとする本だと、事例(地方自治をめぐるさまざまなトピック)や歴史(地方自治の起源、地方分権改革がもたらした変化など)を中心に論じるのがオーソドックスなやり方だと思いますが、この本ではデータと制度、さらにその制度から予想される帰結とそこからのズレを中心に論述を進めていきます。
 この書き方は著者の『現代日本の官僚制』と同じで(もちろん、あそこまで思い切ってはいませんが)少し面食らう人もいるかも知れませんが、抽象的な言葉で漠然と枠組みを作って(例えば、「日本の地方政府の特徴は「分離」と「融合」である」みたいな書き方)終わりというのではなく、具体的な制度に基づいて論じられており、基本的には明解な内容だと思います。

 そして、特筆すべきはその議論の密度です。具体的な事例をかなりバッサリと落としていることもあって、250pほどの紙幅の中で日本の地方政府をめぐる問題を包括的に論じています。
 その議論の密度は非常に高く、今までの地方自治体に関するイメージを覆すものも多いです。また、積極的な改革を提言する本ではありませんが、分析の中で浮き上がってきた問題点の把握を通じて、今後の日本の地方制度を考えていく方向性を教えてくれる内容にもなっています。

 目次は以下の通り。
序章 地方政府の姿―都道府県・市町村とは
第1章 首長と議会―地方政治の構造
第2章 行政と住民―変貌し続ける公共サービス
第3章 地域社会と経済―流動的な住民の共通利益
第4章 地方政府間の関係―進む集約化、緊密な連携
第5章 中央政府との関係―国家との新たな接続とは
終章 日本の地方政府はどこに向かうか

 まずは「地方政府」という言葉ですが、地方自治体や地方公共団体に比べて一般的に流通している言葉とは言えません(政治学の世界だと砂原庸介『地方政府の民主主義』のように比較的使われている言葉ではありますが)。
 しかし、著者は地方自治体や地方公共団体では行政機構というニュアンスが強いが、実際には選挙があり立法活動も行われていることから、地方政府として捉えることが正確だと考えています。
 ただし、地方政府といっても都道府県と市町村があり、その規模はまちまちです。また、同じ市でも一般の市と指定都市、中核市では持っている権限が違いますし、東京都の特別区も独自の存在です。そうしたことが序章で確認されています。

 第1章では地方政治の構造が分析されていますが、一番のポイントは地方政府が二元代表制をとっていることです。
 国政では国会議員が首相を選ぶ構造になっており、国民→議員→首相という委任の構造がはっきりしていますが、日本の地方制度では議員と首長を別の選挙で選ぶという大統領制に近い形をとっています。
 ただし、不信任決議が可能である点などは大統領制とは異なっています。この議会による不信任が取り入れられた背景には、戦後、自らの関与により首長を解任できる制度を残したい内務省の思惑があったといいます(不信任が決議されたとき首長は内務大臣に議会の解散を請求できることになっていた(25−26p))。
 また、首長に議案の提出権がある点もアメリカの大統領制とは違っています。これは戦前の首長の権限の強さが存続したと言えます。

 つづいて地方制度における政党の問題です。
 まず、政党制と首長制度は親和的ではありません。当該自治体全域から幅広い支持を集める必要のある首長にとって特定の政党に属していることは支持を広げる足かせになりかねません。一頭優位性や二大政党制が確立している国ならともかく、多党制のもとでは首長の政党色が薄いほうが望ましいのです。
 そこで、日本で増えているのが相乗り候補と無党派候補です。相乗りでは元中央官僚などが複数の政党から支持を受けて選挙戦を戦います。一方、そうした馴れ合いを嫌って無党派を掲げる候補もいます。そして、その一部は首長になった後に自前の政党をつくったりもします(例:大阪維新の会、都民ファーストの会など)。
 90年代の地方分権改革以降、首長の魅力は高まっており、国会議員が首長に転身するケースも多く見られます。それに伴って首長をめぐる政治的競争は高まっています。

 地方では首長だけでなく議会においても政党化が進んでいるとは言えません。これは選挙制度に起因しています。
 都道府県議会においては小選挙区と大選挙区が混在しており、都道府県によって実質的に競い合う政党の数(有効政党数)は異なっています。また、市町村議会は基本的に大選挙区制であり、新規参入が容易なために候補者は政党に所属しよう、あるいは政党でまとまろうとするインセンティブをあまり持ちません。結果として議会においては明確な多数派が形成されず、十分な意思決定が行われないことも多いです。

 第2章では「行政と住民」と題して公共サービスが分析されています。
 まず最初のアプローチは人事から始まります。「人事は組織を形作る」(58p)からです。
 霞が関と比べると地方政府の昇進は平等主義的で、中央省庁におけるキャリアとノンキャリアのような大きな違いはありません。また、中央のキャリアのようにごく一部を除いて定年前に他組織に転出するといった慣行もなく、昇進は筆記試験などが用いられます。
 また、スペシャリストの育成を志向するかジェネラリストを育成を志向するかは明確ではないといいます。福祉の職員は一般職と切り離されていませんし、かといって地方政府は所管する業務が幅広いためにジェネラリストを育成するのも困難です。

 地方政府のトップは首長ですが、美濃部亮吉が都知事就任に際して「落下傘で降りるような気持ち」(63p)と言ったように、首長が政治任用できる職は副知事や副市長だけになります。そこで非公式なブレーンを使う首長も多いのです。
 日本の地方政府では予算に対する制約が強いので予算を通じたトップマネジメントを行うことも難しいです。また、人事に関しても官房部門が人事を集中管理しているわけではないので難しくなっています。
 そこで首長はある程度長期の計画を作ってマネジメントを行おうとしますが、全体的には組織統制はゆるいと言えます。

 近年、NPM(ニュー・パブリック・マネジメント)が導入され行政の効率化を追求する動きが出てきており、さらにNPOとの協業、PFIや指定管理者制度など、地方行政に民間の活力を導入しようという動きが活発になっています。
 この背景には財政難や地方自治体の人手不足があるわけですが、一方で条例を通じて新たな政策形成をはかる政策法務が注目されています。著者は、現在の日本の地方政府では、人事、予算、評価、企画・計画、法務とマネジメント部門が乱立する傾向にあると見ています。

 地方政府には住民の直接請求のしくみがあります。直接民主制の要素を取り入れたものとして理解されているこの制度ですが、著者は住民投票以外は間接民主史を前提としたものであるとし、「これらを直接民主制の制度、あるいは直接民主制的な制度と称するのは、適切ではないだろう」(77p)と述べています。
 特に、近年注目を集めているのが条例に基づいて行う住民投票です。新潟県巻町の原発建設をめぐる住民投票などが有名ですが、著者はその意義と問題点の双方を認めつつ、今後も試行錯誤がつづくだろうとみています。

 第3章は地方政府と地域経済の関わりを分析しています。
 現代社会の特徴の一つは人の移動が自由なことです。生まれた市町村にずっと留まる人ばかりでなく、進学や就職などため、あるいは子育てのために転居する人もいるでしょう。
 さらに、自宅と勤務先の市町村が別という人も多いと思います。そのため東京の都市部では夜間人口に比べて昼間人口が多くなっています。昼間人口の多い自治体では住民ではない人のために行政サービスを提供する必要があり、その原資が問題となります。
 これが大都市の問題を生み出すわけですが、日本では東京の23区を除くとこうした資源配分の調整を行う大都市制度が存在しません。指定市(政令指定都市)の制度はありますが、税源の移譲などがあるわけではないのです(後述するようにこれを解決しようとしたのが大阪都構想)。

 地方政府の政策に対して「足による投票」という考え方があります。先程述べた「子育てのための転居」などのように、より充実した子育て支援を行っている自治体に転居するといったことです。
 諸外国では、貧しい人への福祉を充実させると貧しい人が集まってきてしまうという問題も報告されていますが、日本ではこれはそれほど深刻な問題になっていません。ただし、企業は「足による投票」を行っており、地方政府はこれを考慮して事業税を決めています。
 「足による投票」があるということは良い政策を行えば人を呼び込めるということでもありますが、日本では地方政府を判断する基準として人口という要素が強すぎるのではないかというのが著者の見方です。
 人口が基準となるので、地方政府の政策は開発と福祉に偏ります。本来ならば住宅建設を規制すべきところでも開発が行われていますし、また、福祉に関しては、保育をはじめとして、サービス提供の責任を地方政府が持ちつつ、サービスの供給は民間業者に委託しているケースも多く、実際の需要に応えられていない面があります。

 第4章でとり上げられているのは地方政府間の関係です。 
 日本の地方政府は都道府県と市町村の二層制となっています。都道府県は1890年以来、その県境は変わっていませんが、市町村に関しては何度も再編成が行われています。これは、地方政府の役割の増大や人々の移動の活発化によって市町村の規模が過小になったからです。こうした問題に対して、より上位の政府が権限を吸い上げたり、地方政府同士の連携によって解決することも可能ですが、日本で主に用いられたのは市町村合併でした。
 明治の大合併、昭和の大合併、平成の大合併という政府主導の3回の合併によって、1888年に7万1314あった市町村の数は、2018年10月には1718にまで減少しています。
 一番最近に行われたのが平成の大合併ですが、この背景には合併によって財政支出の削減を目指すという行政的要因と、都市部の有権者に改革をアピールするための政治的要因があったとされています。副次的な効果としては市町村議会議員の大幅な減少があげられます。1996年に誕生した民主党はその成長過程が平成の大合併と重なったため、思うように地方議員を増やせず、国会議員中心の政党となりました(172p)。

 逆に合併などが起きていないのが都道府県です。2000年代になると、市町村への権限委譲や公共事業の削減によって都道府県の財政規模は縮小していますが(149p図4−1参照)、公務員数では教員と警察を抱える都道府県が上回っています。
 しかし、福祉など近年その役割が拡大してきた分野に関しては基本的に市町村が担っています。そして、これが都道府県の数が安定している理由の一つだといいます。新たな行政需要に応えるために合併する必要がないからです。また、政党の組織などが都道府県単位となっているもの都道府県の数が変化しない一つの要因です。

 大都市に関しては、戦前から権限や財源を求める動きがあり、1947年の地方自治法では特別市に都道府県の権限と財源を与える特別市の制度が書き込まれましたが、当該市を含む都道府県全体の住民投票で過半数の賛成を必要とするとされたこともあって、特別市への移行は行われませんでした。結局、1956年に都道府県の権限を一部移譲する指定市制度が導入されています。
 こうした中で大阪維新の会が大都市の問題を解決するために提案したのが大阪都構想でした。大都市問題をどれほど解決できるかは不透明ですが、今までにはなかった画期的な動きと言えます。

 この章の最後では、日本の地方政府が密接な「相互参照」(他の自治体が行った政策を取り入れる)を行っていることが指摘されています。視察や担当者会議などによって横並び的な政策が展開されているのです。

 第5章は国との関係です。戦前は内務省が府県に知事だけでなく幹部も送り込み、府県は内務省の出先機関といった具合でした。これが戦後になると形の上では対等な関係となります。
 ところが、機関委任事務をはじめとして国が地方を統制する制度は残りました。この制度には補助金も含まれますが、これらの仕組みは補助金の分配に関わりたい自民党の議員や地方政治家にも支持されて維持されました。
 また、地方の便益と負担のズレを調整する制度として地方交付税が用いられました。地方交付税制度では、交付金の総額がまず決定され、それが人口や地理的条件などに応じて分配されています。これは自治省・総務省にとっては毎年のように大蔵省・財務省と総額について折衝しなくて済む仕組みでしたし、大蔵省・財務省にとっても地方からのボトムアップによって財政移転を行う方式よりはましでした。
 地方にとってはある意味で公平な制度でしたが、これと引き換えに歳入の自治を失いました。地方税の税率や地方債の発行に強い統制がかかることになったのです。
 また、都市部と農村の格差に関しては、地方交付税による再分配だけでなく、国土計画による策定、工場三法などの都市部に対する規制、公共事業や農業に対する補助金などで手当されました。
 
 しかし、この仕組みは90年代から行われた3つの改革によって変化していきます。
 まずは90年代の第一次地方分権改革です。ここでは機関委任事務が廃止され、各省の関与が弱まり市町村の仕事は増大しました。また、首長の権力も強化されています。
 次に00年代に行われた三位一体の改革です。地方税、地方交付税、国庫支出金(補助金)の3つについて改革が行われました。この背景には地方交付税を減らしたい財務省、小選挙区になって昔よりは補助金にこだわらなくなった議員の変化などがあるといいます。
 3つ目は2006年の安倍政権から現在に至るまで断続的に続けられている第二次地方分権改革です。いろいろな議題が上がり、一部の規制改革は進んでいますが、主たる推進力が見当たらないために停滞しています。
 著者は、こうした改革の中でも地域間再分配の大きな見直しは進まなかったとしています。小泉政権は都市の利益を志向した政権でしたが、例えば、東京の富を再分配する仕組みを大きく見直すようなことはしませんでした。

 終章において著者は、地方の選挙制度、人口への過度のこだわり、歳入の自治の確保といったことを課題としてあげています。
 特に地方の選挙制度に関しては、それが地方における政党政治の不在に繋がり、さらに組織における専門性の欠落と相まって、「日本の政府には政官関係がなかったといっても過言ではない」(240p)という状況を生み出したと考えています。こうした複合的な問題を解きほぐして解決策を探ることが求められているのです。

 長いまとめになってしまいましたが、全体的に密度が濃くてまとめきれないタイプの本ですね。おそらく、著者の頭の中にある、個々の制度間のつながりを一度読んですべて把握するのは至難の業だと思いますが、おそらく、地方をめぐるさまざまな問題やニュースなどを見たときに、この本に立ち返れば、「こういう背景なのか」、「こことつながっていたのか」とわかるのではないかと思います。
 もちろん、読んで面白い本なのですが、同時に手元に長く置いておきたい本でもありますね。

 

松尾秀哉『ヨーロッパ現代史』(ちくま新書) 7点

 先日、君塚直隆『ヨーロッパ近代史』を出したちくま新書が、今度は第二次世界大戦以後のヨーロッパの歴史を描いた『ヨーロッパ現代史』を出してきました。著者は政治学者ですが『物語 ベルギーの歴史』において、非常にユニークな切り口でベルギーの歴史をまとめてみせた人物です。
 さすがに新書にヨーロッパの第二次世界大戦以後の歴史をまとめるというは至難の業で、この本も本文だけで360p超に膨れ上がっており、それでも言及できていない出来事や地域も多いです。ただ、イギリス、フランス、ドイツ、ソ連の各国史を10年刻みでたどりつつ、各年代で特徴的な動きを見せた地域をとり上げるというオーソドックスな構成でありながら、読み進めていくと著者独自の味方が浮かび上がってくるような内容です。
 全体の要約はほぼ不可能な本なので、以下、個人的に特徴的だと思った点を3つあげた上で、各章の簡単なまとめを書いていきたいと思います。
 目次は次の通りです。
序章 「和解の時代」から「大国の時代」へ
第1章 戦後和解と冷戦の時代(一九四五年~一九五〇年代)
第2章 繁栄から叛乱の時代へ(一九六〇年代)
第3章 石油危機と低成長の時代(一九七〇年代)
第4章 新自由主義の時代(一九八〇年代)
第5章 冷戦後の世界(一九九〇年代)
第6章 グローバル化の時代(二〇〇〇年代)
終章 現代のヨーロッパ

 まず、独自性の第一点目はイギリス、フランス、ドイツと並んでソ連をとり上げている点でしょう。最初にオーソドックスな構成と書きましたが、ソ連(ロシア)に関しては、そもそもヨーロッパの中核ではないという見方もできますし、紙幅が限られている中で、ヨーロッパにとっては「環境」として扱うことも十分に考えられます。
 ところが、この本ではソ連(ロシア)の内政についても丁寧に追っています。例えば、第3章ではブレジネフ時代のソ連についての再評価などにも触れており、ソ連国内の政治的な変遷がわかるようになっています。
 このソ連史をしっかりと書くことによって、東欧の情勢が見えやすくなる効果があり、結果としてページを節約することにもつながっているのかもしれません。

 独自性の二点目は、68年にそれほど重点を置かずに、その後の新自由主義の勝利に力点を置いている点です。
 もちろんフランスにおける68年5月の学生叛乱にも触れていますが、その扱いはそれほど大きくはありません。ヨーロッパの戦後史を描こうとした場合、68年を一番の転換点だと考えて記述するやり方もあると思いますが(ここを境にフェミニズムや環境保護運動が政治の分野に進出し価値観が塗り替えられた、といった具合に)、本書はそのような構成にはなっていません。
 
 むしろ、本書で強調されるのは80年代以降の新自由主義の覇権です。イギリスのブレア政権やドイツのシュレーダー政権で注目された左派政党による「第三の道」についても、「本書では、これを新自由主義が主流になるなかで左派が変容した姿と捉える」(249p)としていますし、終章でも「社会主義圏の崩壊に伴い、社会民主主義勢力ですら「第三の道」と称してそれに乗り、市場競争以外の選択肢が私たちにはなくなってしまった」(361p)と書いています。この選択肢の喪失が、ポピュリズム政党の伸長をもたらしてるというのが著者の見立てでもあります。
 もちろん、著者は新自由主義に賛成しているわけではありません。80年代を描いた第4章でオランダのワークシェアリングについてとり上げているのはその現れかもしれません。

 三点目は制度への注目です。例えば、第1章ではフランスの第五共和制の半大統領性について比較的詳しく説明してありますし、第6章ではプーチン率いる統一ロシアの強さを2001年に制定された政党法から説明しています。この法律では政党は連邦構成主体の半数以上に地方支部を持ち1万人以上の党員によって構成されなければならないとしており、少数政党や地域政党の進出をブロックしているのです。
 さらに近年のポピュリズム政党の台頭については、ヨーロッパの多くの国が比例代表制を採用しており、連立政権になりやすいことが、ポピュリズム政党の存在感を高め、連立交渉を密室の合意として避難する余地を与えていることなどを、その背景としてあげています(ただし、こういった制度を否定しているわけではない)。
 また、各国のリーダーについては簡単にその出自に触れて政治的な背景を紹介するように努めていますが、文化面の記述は弱いですね。章の間に挟まれたコラムで文化に言及していますが、それほど効果的ではないと思います。

 あと、それほどEU統合の歴史にページを割いていないというのも特徴の一つでしょう。

 第1章では1945〜50年代が扱われています。この時代は冷戦の成立を中心として叙述されることが多いですが、本書では福祉国家の成立に力点が置かれています。第二次世界大戦はヨーロッパに大きな被害を与えましたが、その回復、あるいは和解として目指されたのが福祉国家の建設です。
 1951年の総選挙で政権に返り咲いたチャーチルが労働党政権がつくった福祉制度を継承したように、この時代は左派右派問わずに福祉国家の建設がある程度合意されていた時代でした。
 この章では各国史以外にハンガリー事件をとり上げ、ドイツやソ連といった大国に翻弄される中東欧諸国の状況を印象づけています。

 第2章は1960年代について。先程述べたように本書では68年はそれほど重視されていないのですが、やはり60年代は大きな変化が起きた時代です。
 経済成長に陰りが見え始め福祉国家は行き詰まりを見せますが、イギリスではウィルソンが死刑の廃止、中絶、同性愛の合法化を行うなど「寛容な社会」の建設が進み、一方、西ドイツではCDU/CSUとSPDの大連立の中で非常事態法が成立するなど、社会のあり方は大きく変化していきました。
 各国史以外の部分では北欧の福祉国家の歩みが触れられており、時代を超えて近年の福祉ショーヴィズムと呼ばれる排外主義の動きもとり上げています。

 第3章は1970年について。いよいよ経済的な行き詰まりが明らかになってきますが、ここで奇妙な安定を見せたのがソ連です。西欧諸国の行き詰まりの要因が石油危機によるものだということを考えると、産油国のソ連の経済が安定するのも納得なのですが、ブレジネフはこうした経済的な追い風を背景に、党内の序列や慣例を重視する政策を進めました。これは腐敗などを生み出しましたが、スターリン、フルシチョフと粛清が絶えなかったソ連の政治を安定させる知恵だとも言えます。しかし、幹部がそのまま残り続けたため、80年代になると有力幹部は相次いでなくなっていくことになります。また、アフガニスタン侵攻は大きな足かせとなりました。
 各国史以外の部分ではスペインがとり上げられています。スペインでは独裁者のフランコが死んだ後、大きな混乱もなく民主主義が定着していきました。

 第4章は1980年代について。この時代の主人公はやはりサッチャーということになるでしょう。もちろんサッチャーの政策は諸手を挙げて支持されたわけではありません。1983年の総選挙では左派が主導する労働党が「国有化」「EC脱退」「核軍縮」といった時代からずれた公約を掲げたことが保守党の勝利に繋がりましたし、サッチャーの人気を押し上げたのはフォークランド紛争でした。
 一方、経済政策に失敗しながら、なんだかんだと長期間に渡って大統領の座にとどまったミッテランも面白い存在です。長期政権を維持した西ドイツのコールも、それほど人気のある人物ではありませんでしたが、ドイツ統一に対して迅速に対応し、急速な統一に反対したSPDを破って長期政権を築きました。
 各国史以外では先程述べたようにオランダのワークシェアリングがとり上げられています。

 第5章は1990年代。この時代はいわゆる「第三の道」が模索された時代ですが、これも先程述べたように、著者はこれを新自由主義の枠内での改革と見ています(ブレア・ブラウン政権については次章で詳述)。ただし、社会に変化をもたらした改革もあり、ドイツのシュレーダー政権については国籍法の改正を最大の成果の一つと見ています。
 各国史以外では東欧革命を扱っています。ポーランド、ハンガリー、チェコスロバキアといった国々の「革命」を簡単に紹介しつつ、ユーゴスラビアとチェチェンで起きた民族・宗教対立について触れているところが特徴と言えるでしょう。

 第6章は2000年代について。この時代はブレア、サルコジといった「強いリーダー」が求められた時代ですが、その中でも真打ちはプーチンと言えるのかもしれません。プーチンはチェチェン紛争への対応などで支持を集め、ウクライナ紛争ではクリミア半島を強引に分離させるという今までの国際秩序を揺るがす行動を起こしました。本書では「和解の時代」から「大国の時代へ」というのが一つの流れになっているのですが、この「大国の時代」を代表する人物がプーチンと言えるでしょう。
 一方で、この時代にヨーロッパのリーダーとなったドイツのメルケルがいわゆる「強いリーダー」とは違ったスタイルを持つ政治家だということは興味深いと思います。
 各国史以外の部分ではユーロ危機とギリシャ危機をとり上げています。
 
 終章では現在のヨーロッパが抱える問題を概観しています。各地での分離独立運動、難民危機、テロ、イギリスのEU離脱など、ヨーロッパはさまざまな問題を抱えています。
 著者の見立ては、第二次世界大戦後にその傷を回復するために行われた「和解の政治」が失われ、新自由主義のもとで競争一辺倒の社会になり、それに代わる選択肢を既成政党が打ち出せないことが現在の問題の根っこにあるというものです。

 この本の特徴はざっとこんなところです。もちろん、それぞれの時代の各国史は丁寧に書かれており、イタリアが抜けているという問題はありますが、基本的な戦後のヨーロッパ史を押さえることはできると思います。
 とは言っても、知識がゼロの人向けというよりはある程度知識がある人が、ヨーロッパ史の流れやお互いの国同士の影響、あるいは主要国の中にある違いを整理するのに役立つ本になるかと思います。
 最初にも書いたように、一見すると特徴のない本のように見えながら、読み進めていくと著者のこだわりが見えてくる本であり、自分の頭の中にある図式と照らし合わせながら読むと面白いと思います。

室井康成『事大主義』(中公新書) 6点

 事大主義とは時流や大勢に身を任せる考えで、日本人の国民性を表すものとして使われるとともに、韓国・北朝鮮の民族性や沖縄の県民性などを表すものとしても使われてきました。基本的に否定的な意味で使われることが多い言葉ですが、その歴史は浅く、明治期に福沢諭吉がつくった言葉だと考えられます。
 この本は、この事大主義という言葉が、なぜ広まり、なぜ否定的な意味を帯びていったのか、そして日本のみならず朝鮮半島でも使われるようになったのはなぜかということを解き明かしていく内容になっています。そして、同時に東アジアの言説空間の一部をあぶり出すような面白い内容となっています。

 目次は以下の通り。
序章 「事大主義」という見方
第1章 「国民」の誕生と他者表象
第2章 反転する「事大主義」―他者喪失によるベクトルの内向
第3章 沖縄「事大主義」言説を追う―「島国」をめぐる認識の相克
第4章 戦後日本の超克対象として―「事大主義」イメージの再生
第5章 朝鮮半島への「輸出」―南北対立の中の事大主義言説
終章 “鏡”としての近現代東アジア

 「事大主義」の「事大」とは『孟子』の中にある「惟智者為能以小事大」(=小国がとるべき道はただ一つ。大国に仕えることである。それが智者のなすことである)からきています(11−12p)。
 「智者のなすこと」ということからもわかるように、孟子にとって事大は悪いことではありません。性善説に立つ孟子の考えでは大国は仁の観点から小国を保護すべきであり、小国が大国を頼むことは何ら恥じることではないです。

 もともとは中国国内において小国が大国に仕えることが事大でしたが、漢帝国が成立し、周囲の国を従えるようになると、この関係は中国と周辺国の間で結ばれました。中国の冊封体制下に入った朝鮮や琉球では、さまざまな思惑を抱えながらも中国という大国に仕える形となりました。

 この「事大」に「主義」という言葉をつけて「事大主義」という言葉を生み出したのは福沢諭吉だと考えられます。この言葉は『時事新報』の1884年12月15日号にの甲申政変を論じた記事の中で「事大の主義」という形で初めて登場したとされています。『時事新報』の論説は無署名で、福沢のほか中上川彦次郎と渡辺治の3人が分担執筆していたので、福沢が書いたという確証はないのですが、福沢は若い頃に『孟子』に親しんでおり、著者は福沢が書いた可能性が高いと見ています。
 福沢は甲申政変を起こした金玉均とも面識があり、金のことを物心両面で支持していました。しかし、金の起こした清国軍の介入もあってクーデターは失敗に終わります。福沢からすると、朝鮮の近代化の動きは清に従っていたほうがいいという「事大」の考えの前に挫折したのです。

 福沢には朝鮮人全体に対する偏見のようなものはなかったと考えられますが、この「事大主義」という言葉は朝鮮人の民族的な特徴を表すものとして侮蔑的に用いられるようになっていきます。
 特に日本が日清・日露戦争に勝利し自信を深めると、「日に事(つか)へんか露に事へんか、事大主義を以て唯一の外交政略とせる韓廷も之が選択に苦しみ、面白き国際間の迷子となれり」(42p、引用部分は松宮春一郎『最近の韓国』より)などと書かれるようになり、事大主義は朝鮮のもつ欠点として認識されるようになっていくのです。

 ところが、日露戦争集結からしばらくするとこの事大主義という言葉は日本に対しても向けられるようになります。明治維新以来の欧化一辺倒の傾向に対して、これは「事大主義」であり、克服すべきであるという主張が見られるようになるのです。日露戦争の勝利による自尊心の高まりがこうした言説の背景にはあります。
 また、著者は1910年の韓国併合によって、韓国・朝鮮が喪失したことも大きいといいます。「論難の対象としての「他者」が喪失してしまえば、その矛先が自ずと「自己」へと向かうのは自然のなりゆき」(49p)というわけです。
 一方、桐生悠々のように事大主義はすべての国や人々に共通する法則のようなものだと主張する人物もいました。 

 日本人の特徴に事大主義があると考えた人物の一人が柳田国男です。柳田は島国である日本において、海を渡って移り住む人々は常に内陸部に先に住んでいた人々の意向に従わざるを得ず、ここに事大主義的な発想が育まれたとみています。
 このように、柳田の考えは過去の日本人の生き方から事大主義という特徴を把握しようとするものでしたが、日本人の主体性のなさを事大主義という言葉で批判しようという言説も多く見られます。例えば、中野正剛は1921年に「日本人は最初支那人をブン擲ることを、上海に於て英国の先輩から学んだ。例の事大主義で無批判に此の悪習慣を受け入れた。若し日本人の胸中に自主的信念があつたら、支那人の為に此英人の悪習慣を憤つたであらう」(69p)と書いており、また、外交における対英米協調主義を批判する文脈などでも用いられました。

 また、この時期は大正デモクラシーと重なっており、普通選挙の導入の是非を巡って行われた議論でも、この日本人の事大主義が問題になりました。柳田国男も普選導入論者でありながら、この点には危惧を示しています。
 そんな中で、日本人の事大思想の打破を目的として政治教育の重要性を訴え、青年団運動を組織したのが元内務省官僚の田澤義鋪(よしはる)でした。この運動には柳田も共感を示し、さまざまなイベントに協力しています。柳田の民俗学の背景には、こうした日本人の事大主義の打破というものもあったのです。
 さらに著者は与謝野晶子の発言などに触れ、「やはり事大主義の打破は、大正デモクラシーの重要なキーワードといえるのではないか」(85p)と述べています。
 ただ、ここでは触れられてはいませんが、大正デモクラシー最大の思想家ともいえる吉野作造の「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」は、大勢順応主義的、つまり事大主義的な部分もあり、このまとめは少し引っかかります。

 第3章でとり上げられているのは沖縄です。沖縄の県民性としてしばしば否定的な意味合いで事大主義という言葉が用いられますが、この源流は「沖縄学の父」ともいわれる伊波普猷(いはふゆう)にあるとされます。
 伊波は柳田国男と交流があり、柳田と同時並行的に沖縄の研究を進めました。柳田は八重山諸島の研究をする中で、沖縄本島に協力した人たちを「事大派」と呼び、そこに日本との共通性を見ました。柳田の高弟の折口信夫をまた、沖縄と日本の共通性の一つとして事大主義を見出しています。

 伊波は琉球王国が清と薩摩藩への両属を続ける中で独立自営の精神が減退したと考えています。伊波によればこの状況は琉球処分によって打破され、事大主義は過去のものとなったはずですが、伊波以降、沖縄の県民性を示すものとして事大主義という言葉が使われるようになっていきます。
 同時に本土にも沖縄を事大主義というフィルターをかけて見る視線がありました。軍ははその事大思想から沖縄の人々はいざとなったら信用出来ない考え、その克服のために義勇兵を組織しました。しかし、このことは沖縄戦での犠牲をかえって大きくしたとも言えます。

 第4章では戦後の日本における事大主義の言説がとり上げられています。戦前、戸坂潤や山川菊栄など一部の論者はファシズム的な傾向を事大主義という言葉を使って批判していましたが、本格的に事大主義という言葉によって日本人を批判的に検討する言説が現れるのは戦後になってからになります。
 例えば、教育基本法の制定の中心となった文部大臣の田中耕太郎は「単に政治的のみならず思想的、又文化的にも、事大主義が日本の社会の一つの特徴であった」(121p)と述べていますし、国会の審議でも戦争の原因として事大主義が指摘されたりしました。
 柳田も戦後になると、改めて事大主義の打破と「真の民主政治」の実現を訴えており、50年代なると、大手マスコミに対する事大主義に警鐘を鳴らしています。

 一方、戦後の沖縄では、特に本土復帰後の沖縄では、伊波の言説は否定的に見られるようになり、事大主義も自虐的な表象だと考えられるようになっていきます。
 しかし、知事となる大田昌秀が、1990年に刊行された著書で伊波の「沖縄人の最大欠点」は事大主義だという考えを再びとり上げ、特に沖縄の政界における問題として事大主義をとり上げるなど、政府からの補助金を得るために基地を受け入れる態度を「事大主義」と批判する言説が見られるようになります。本土ではあまり聞かれなくなった事大主義という言葉は沖縄では生き続けたのです。

 第5章では戦後の韓国・北朝鮮における事大主義がとり上げられています。終戦とともに日本による植民地支配は終わりましたが、事大主義という言葉は消えませんでした。
 特にクーデターによって実験を握った朴正熙が「事大主義の打破」を唱えたことから、事大主義は韓国人が乗り越えるべきものとして前面に押し出されました。
 一方、北朝鮮の金日成は朴正熙をアメリカに隷属する事大主義として攻撃し、対概念として「主体(チュチェ)思想」が生み出されました。北朝鮮は韓国を「事大主義」として、自らは「反・事大主義」をその正統性の根拠としたのです。
 
 朴正熙は農村の伝統的な民俗を否定し、経済成長を目指します。そして、事大主義は政敵を攻撃するキーワードとして使われるようになります。1971年の大統領選では対抗馬の金大中がアメリカ・日本・中国・ソ連との連携を訴えると、これを国防を他国に任せる事大主義だと言って批判しました。さらに金泳三が野党党首として期待を集めると、これを外国(アメリカ)に通じる事大主義者だとして批判します。しかし、民衆への弾圧を指示した朴正熙は79年に部下によって暗殺されます。

 その後、日本では事大主義という言葉はあまり用いられなくなってきますが、山本七平の「空気」を事大主義の言い換えと考えれば、今の「空気を読む」日本人は事大主義が問題になった事大と変わっていないのかもしれません。
 ただし、国民性なるものが存在するのかという疑問はあります。これに対して、著者は事大主義はある意味で普遍的なものであり、「事大主義言説とは、それらの東アジアの国と地域が、近現代という時空間において、相互を”鏡”とすることで描いてきた自画像の系譜であったといえるのではなかろうか」(192−193p)と述べています。

 このように事大主義という言葉の歴史をたどることで、日本・韓国・北朝鮮、沖縄の自らと他者の表象のされ方を描き出しています。
 著者も最後に言うように、ある意味で事大主義とは普遍主義的なあり方であり、多くの人々が事大主義的に生きていると言えます。ただし、これがある地域全体を批判するときに使われ、また自民族を批判するときにも使われるのが東アジアの特徴と言えるのかもしれません。
 この問題に関して終章でとり上げられているのですが、事大主義が人間社会に普遍的な現象なのか、それとも乗り越えるべきものなのか、ややブレがあるような気がします(「事大主義普遍主義が、正しい見方であったというべきあろう」(192p)、「訓練により自己を確立するか、それとも事大主義の安きに流れるか」(195p)と、両方肯定している部分がある)。

 それでもこの本でとり上げられているさまざまな言説は非常に興味深いですし、現在の沖縄県政に対する批判が2010年以降の日本の言説空間での対韓イメージと重なっているという指摘(88p)など、鋭い部分もあります。
 最後の結論には少しもやもやした部分も残るのですが、日本の自己像、日本と韓国・北朝鮮、日本と沖縄などの関係を考える上でも有益な本だと思います。


原武史『平成の終焉』(岩波新書) 7点

 副題は「退位と天皇・皇后」。『大正天皇』、『昭和天皇』(岩波新書)などの著作を送り出してきた著者が、まもなく退位する天皇と皇后の「平成流」のスタイルを批判的に分析するとともに、今後の皇室の将来を占った本になります。
 かなり賛否が分かれる本なのではないかと思います。かなり独自の裏読み的な考察が展開されており、牽強付会としか言えない部分もありますが、天皇・皇后が多くの国民から人格的にこの上なく立派だと思われている中で、現在の象徴天皇制に対する批判的な視座を獲得するためには、これくらい強引な読みが必要なのかもしれません。特に美智子皇后の国民の中に入り込み、寄り添ってくスタイルがミクロ化した「国体」を生み出したのではないかという指摘は重要だと思います。

 目次は以下の通り。
序論 天皇明仁の退位
第1章 「おことば」を読み解く
第2章 「平成」の胚胎―過去編1
第3章 「平成」の完成―過去編2
第4章 ポスト平成の行方―未来編
 
 まず、第1章では2016年8月8日に出された「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」が詳細に分析されています。天皇明仁の口から直接国民に退位の意向が示されたメッセージです。
 著者が注目するのはその中の「私はこれまで天皇の務めとして、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えてきましたが、同時に事にあたっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えてきました」という部分です。
 著者は「国民の安寧と幸せを祈ること」を宮中祭祀、「人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うこと」を行幸と捉えています。

 「国民の安寧と幸せを祈ること」を宮中祭祀に限定するのはやや強引かとも思うのですが、天皇明仁と皇后美智子は先代の昭和天皇・香淳皇后に比べて、明らかに熱心に宮中祭祀の行事に出席しています。
 行幸に関しても、天皇明仁は皇太子時代から熱心に各地を訪ねており、また、皇后美智子も皇太子妃時代からほとんどの行動をともにしており、2人は皇太子(妃)時代から日本全国の都道府県を三巡しています。

 また、おことばの中には摂政を否定した部分も含まれ、最後は「国民の理解が得られることを、切に願っています」と締めくくっています。
 この最後の部分について、著者は「終戦の詔勅」の「爾臣民其レ克ク朕か意ヲ体セヨ」に通じるものがあるとしています。

  このおことばに対して著者は6つの問題点をあげていますが、そのうち重要なのは、問題点1「権力主体となる天皇」と問題点2「象徴の定義」でしょう。
 日本国憲法では天皇は権力主体となることを禁じられていますが、今回の退位では天皇がイニシアティブをとる形で特例法が制定されました。もちろん、歴代の内閣が天皇の意思を受け止めきれなかったゆえの止むに止まれぬ選択だったという見方もできるでしょうが、やはり問題もはらみます。
 また、天皇がおことばの中で重要な仕事として述べた宮中祭祀と行幸は憲法に規定された国事行為ではありません。ところが、おことばの中ではこの2つが非常に重視されており、天皇自らが象徴の役割を再定義したとも言えるような形になっています。

 このおことばで示された「平成流」ともう言うべき象徴天皇のスタイルがいかにして出来上がってきたかをたどったのが第2章と第3章です。
 まず、第2章では皇太子・皇太子妃時代の地方への行啓がとり上げられています。
 1958年の婚約発表とともに起こったミッチーブームは、63年の皇太子妃の流産をきっかけに沈静化していったという見方がなされますが、著者は地方紙の記事などをもとに地方では皇太子夫妻への高い関心が続いていたことを指摘しています(72年に訪れた鹿児島県徳之島では島民37000人のうち36500人が沿道で出迎えたとのこと(75p))。
 特に皇太子妃への女性からの人気は圧倒的で、皇太子妃の乗る左側の沿道が混雑したそうです。

 皇太子夫妻の行啓先は、国立公園大会、国体(夏季と冬季)、全国高校総体、全国障害者スポーツ大会、全国育樹祭など、各都道府県が持ち回りで開催するものが多いのですが、このとき同時に役場や福祉施設などその地域のさまざまな施設に足を運んでおり、沖縄では戦跡もまわりました。

 当初の行啓では、昭和天皇の行幸と同じく「お立ち台」が設定されていることが多く、皇太子夫妻もこのお立ち台に立って人々からの歓迎を受けましたが、しだいにこのスタイルはなくなっていきます。代わりに皇太子夫妻が行ったのが地域の人々との懇談でした。
 基本的に当り障りのないことしか尋ねなかった昭和天皇に対して、皇太子夫妻、特に皇太子妃は地元の若者に対してかなり突っ込んだことを尋ねています。例えば、62年に訪れた宮崎県では、自分よりも若い20代の女性に対して「農村の主婦は家計簿を持っていますか」(93p)と尋ねるなど、「声なき声」(94p)をすくい上げるようなやり取りをしています。
 さらに63年の山口県では「農村に女性をオヨメにやりたくないとか、行きたくないという話をききますが、どういうわけでそうなるのか調査したものがありますか」(96p)と質問するなど、地方の問題を積極的にとり上げようとしています。
 著者はこうした懇談会が一種のタウンミーティングのようなものだったと考えています。もちろん皇太子夫妻は政治家ではありませんが、地域の問題をメディアに乗せる役割を皇太子夫妻が果たしたのです。
 ただし、70年代後半になるとテーブルを囲んだ懇談会は少なくなり、タウンミーティング的な機能は失われていきます。

 また、2人が積極的に訪れたのが福祉施設でした。戦前までは福祉施設などを訪れたり保護したりするのは女性皇族の仕事とされてきましたが、幼い頃からカトリックの教義に触れてきた皇太子妃に感化される形で皇太子も熱心に福祉施設を訪れるようになっていきます。
 肢体不自由児の療護施設などでは夫妻がともに膝を付き言葉をかけることもあり、いわゆる「平成流」の一人ひとりに目線を合わせて語りかけるスタイルは、こうした中ですでに行われていたのです。
 さらに広島、長崎、沖縄といった戦争の記憶が濃厚に残る場所にも積極的に足を運んでいます。75年に沖縄のひめゆりの塔を訪れたときには新左翼系の過激派に火炎瓶を投げつけられましたが、皇太子は「それをあるがままのものとして受け止めるべきだと思う」と述べた上で、「気落ちとしては、また行ってみたい」と発言しています(123p)。

 天皇として即位したあとも積極的に行幸啓は続けらました。特に被災地と激戦地への訪問は天皇の強い意志が反映されたものでした。
 一方、人々との交流に重点を置く「平成流」に対しては、右派からの反発もありました。天皇の権威化を求める動きとして80年代から提灯奉迎が復活し、天皇の即位、在位10年、在位20年を祝う「国民祝典」が開かれました。
 
 そして、こうした中で起こったのが皇后へのバッシングです。宮内庁に勤務すると称する匿名の人物の文章を皮切りに皇后の力が強くなりすぎているという批判が起こったのです。
 この一連の騒動の中で皇后は失声症となり一部の行幸啓への同行が取りやめとなりますが、しばらくすると行幸啓に復帰し、地方の人々との対話の中で回復していくことになります。
 91年の雲仙普賢岳の大火砕流、93年の北海道南西沖地震、95年の阪神淡路大震災と大きな災害が起こるたびに天皇と皇后は被災地への訪問を続けました。被災者の前にひざまずくスタイルに反発する人々もいましたが(江藤淳は阪神淡路大震災のときの振る舞いに触れ、「国民の気持ちをあれこれ忖度されることすら要らない」(150p)と書いている)、しだいに「平成流」として定着していきます。

 天皇が退位の意向を公にしたのは2010年7月22日の参与会議だと言われています。皇后も含め出席者全員が反対する中でも天皇は考えを変えなかったとのことですが、国民がそのことを知ることはありませんでした。
 そうした中で天皇の存在感を示したのが、2011年3月11日に発生した東日本大震災でした。3月16日には天皇自らがカメラの前でおことばを述べるとともに、前原子力委員会委員長代理や警察庁長官、外務次官や防衛大臣、統合幕僚長を御所に呼び、説明を受けています。 
 さらに7週連続で被災地への行幸啓を行うなど、精力的に活動しました。こうしたこともあって、NHKの「日本人の意識調査」における天皇に「尊敬の念を持っている」との回答は2008年の25%から13年には34%へと増加しています(169p)。
 もちろん、これには日本社会の「保守化」という要因も考えられますが、天皇・皇后は2018年の「明治一五〇年記念式典」に欠席し、13年には皇后が五日市憲法草案に言及するなど、そうした傾向とは距離を取る姿勢を度々示しています。

 このように戦前のような天皇制とは違ったかたちの天皇制を模索した天皇明仁と皇后美智子ですが、積極的な行幸啓は各地に数多くの行幸啓記念碑を出現させました。こうした状況について著者は「明治から昭和初期までのような学校教育を通じたイデオロギーがなくても、一対一で面会する機会を増やせば増やすほど、前述のようなミクロ化した「国体」が、より多くの人々の内面に確立され」(178p)た、と述べています。
 また、東日本大震災直後にさまざまな人を読んで説明を求めたことは、官邸とは別に司令センターを作るようなものだという批判もあります(167p)。天皇明仁と皇后美智子はまた違った形の権力をつくり上げているという批判もできるのです。

 第4章ではポスト平成の行方がとり上げられていますが、まず指摘されているのが、上皇、天皇、さら男系男子のいる秋篠宮家という三重権威化が起こる可能性です。その分、皇室は不安定になる恐れがあります。
 また、皇太子徳仁も登山を通して行き交う人々との交流を深めているとはいえ、皇太子妃雅子は2003年から引きこもり気味であり、皇太子妃の肉声はもう15年以上も聞こえていません。天皇昭仁と皇后美智子が行ったような全国津々浦々をまわる行幸啓は難しいでしょう。

 一方、精力的に全国をまわっているのが秋篠宮夫妻です。夫妻は宮中祭祀への出席にも熱心で、著者は「平成のときよりは秋篠宮夫妻の存在感が増し、新天皇と新皇后とは対照的に、天皇昭仁と皇后美智子の忠実な後継者として浮上してくることは否定できません」(210p)と述べています。
 著者の見立ては、新天皇と新皇后は「平成流」を受け継ぐことは難しいが、新皇后が元外務省のキャリアであり、新天皇が「水」の問題をはじめとする国際的な環境問題に関心を持っていることを考えると、「国民国家」の枠を超える新しい天皇像を示す可能性もある。一方、「平成流」は次の代の秋篠宮夫妻に受け継がれるのでは、というものです。
  
 全体的にバランスの良い本ではありませんし、「世界的に見ても日本の男女平等度ランキングが低く、政界や企業、大学などで女性がなかなか進出できず、若い女性の専業主婦願望が高まっている理由の一つに、皇后美智子がモデルとしての役割を果たしているとは言えないでしょうか」(190p)など、さすがに強引すぎるのではないかという部分もあるのですが、このタイミングで出る問題提起の本としては面白いと思います。
 巻末に掲げられている行啓、行幸啓先一覧の表や地図などからもわかるように、著者のこだわりが強い本であり、そこに乗っていけるかで評価はやや割れるでしょう。個人的には引っかかる部分もありつつ、全体的には面白く読むことが出来ました。
 

佐藤卓己『流言のメディア史』(岩波新書) 7点

 2016年のアメリカ大統領選挙をきっかけに「フェイク・ニュース」という言葉が広まりましたが、このフェイク・ニュースは必ずしもインターネットやSNSとともに誕生したものではありません。
 マーク・トウェインは「真実が靴の紐を結ばぬうちに、虚偽のニュースは世界を一周していしまふ」(6p)との言葉を残しているそうですが、マーク・トウェインが亡くなったのは1910年、つまり20世紀初めにはフェイク・ニュースは世界にばらまかれていたのです。
 この本はそんなメディアと流言の関係を20世紀前半からたどった本になります。著者は『言論統制』(中公新書)や『八月十五日の神話』(ちくま新書)、『ファシスト的公共性』などで知られる佐藤卓己で、2013~15年年にかけて『季刊 考える人』に連載されたものが元になっています。つまり、フェイクニュースという言葉が世に広まる前い書かれたものなのですが、このあたりはさすがの先見性です。
 連載ものということもあって各章は基本的に独立しており、面白さも章によってややばらつきがあります。

 目次は以下の通り。
第1章 メディア・パニック神話―「火星人来襲」から始まった?
第2章 活字的理性の限界―関東大震災と災害デモクラシー
第3章 怪文書の効果論―「キャッスル事件」の呪縛
第4章 擬史の民主主義―二・二六事件の流言蜚語と太古秘史
第5章 言論統制の民意―造言飛語と防諜戦
第6章 記憶紙の誤報―「歴史のメディア化」に抗して
第7章 戦後の半体制メディア―情報闇市の「真相」
第8章 汚染情報のフレーミング―「原子マグロ」の風評被害
第9章 情報過剰社会の歴史改変―「ヒトラー神話」の戦後史から

 まず、第1章はメディアが起こしたパニックの代表例としてとり上げられるオーソン・ウェルズのラジオドラマ『宇宙戦争』がとり上げられています。
 メディアの言説が大衆に直接影響を与えるという弾丸効果を示す例として、また、フィクションとノンフィクションの境界が溶けていくメディア社会の到来を象徴するものとして、この火星人の襲来でパニックになった人々は度々語られてきたわけですが、この章で示されるのは、「火星人襲来というフェイクニュースに踊らされた人々」がいたのではなく、「火星人襲来でパニックになった人々というフェイクニュース」を報じた新聞の存在です。
 J・プーレー&M・ソコロウ「『火星からの侵入』の検証-H・キャリントル、P・ラザースフェルド、歪んで記憶された古典の成立」によれば、そもそも人々がパニックに陥った事実がなかったというのです。

 この出来事について頻繁に引用されるのは、放送翌日1938年10月31日のニューヨーク・タイムズの「ラジオ聴取者のパニック-戦争劇を真実と取る」との見出しがついた第一面の記事で、その後この事件についての報道が続きますが、有名な「猟銃で火星人を待ち受けるグローバーズ・ミルの農場主」という写真(32p図1-1)はヤラセであることがわかっていますし、それ以外も裏付けの取れない「事件」が多いです。ただし、各社が報じたこともあって新聞社や警察には問い合わせの電話が殺到しました。ネット検索のない当時、情報を確認する手段は電話だったのです。

 このラジオドラマの聴取率は2%程度に過ぎず、多くの人はラジオからではなく新聞などの報道によってこの出来事を知りました。そして報道の中でパニックが起こったという事後的な記憶がつくられていきました。
 ちょうどこの頃は新聞業界が広告収入をラジオに奪われてダメージを受けていたときであり、このニュースはラジオに比べて新聞のほうが信頼できるというキャンペーンに利用されます。
 一方、CBSやオーソン・ウェルズにとってもこの事件によってその名が知られたという面があり、無理に否定すべきものでもありませんでした。こうして「神話」は定着していったのです。

 第2章は関東大震災における「朝鮮人来襲」のデマを検討しています。
 関東大震災で新聞の発行も途絶えるなか、人々はパニックに陥りが、朝鮮人に対する虐殺が起きたという見方があります。一方、噂を煽った当局によって虐殺が発生したのだという見方もあります。警察の流した「不逞鮮人」のデマが本来善良な人々を虐殺へと駆り立てたというのです。
 ここで著者が注意を向けるのが、震災によって東京の主要新聞社は新聞の発行が不可能になり、東京近郊ではメディアによる情報が断絶していた点です。一方、周囲の地域では政府から掲載しないように指示が出たにもかかわらず、「鮮人大暴動 食料不足を口実に盛んに掠奪」(九月三日付『河北新報』)(69p)といった記事が出ます。
 こうした記事のいくつかは内務省などの無線傍受などをもとに書かれています。しかし、傍受内容をそのまま記事にすれば問題となるために、新聞社の主観が入ったまとめとして法事らっれており、そこで「朝鮮人来襲」のイメージをつくり上げていったのです。
 ただし、この章では虐殺の実態についてはほぼ触れていないので、そうした「流言」がどのような影響を与えたのかということはわかりません。

 第3章はキャッスル事件をとり上げていますが、この章は面白いです。
 キャッスル事件は、ロンドン海軍軍縮会議において海軍が主張する「対英米七割」を支持していた新聞が政府の妥協案受け入れとともに論調を変えたのは、駐日アメリカ大使のキャッスルによる買収工作があったからだというデマ報道です。
 現在ではほとんどの人が知らない事件ですが、当時の人々に大きな影響を与え、また、日米戦争末期に山岡荘八が連載していた「御盾」という実録小説でも「アメリカの大使キヤツスル又、わが輿論の激化を覆滅せんとしていしきりに暗躍を繰返し」(81p)と書かれたように、長きにわたって語られ続けた事件でした。

 1920年代後半から30年代前半にかけては数々の疑獄事件が世間を騒がせましたが、そうした中で暗躍していたのは右翼団体でした。この本ではこの時期に右翼運動について、伊藤隆の「上層の復古主義者に食い入って資金を調達し、大義名分を掲げて政界の「不敬」「不正」問題をとらえて「怪文書」を作り「降参料」をとり、それらをもって子分を養成し、運動資金とするというメカニズムである」(86p)とのまとめを紹介しています。
 ただしキャッスル事件で標的となったのは政界ではなく新聞社でした。

 キャッスル事件は、まずは雑誌『日本及日本人』、新聞の『日本』など国粋主義的なメディアでとり上げられ、二流以下の新聞にさかんにとり上げらました。
 攻撃された主要新聞は裁判によってこれを否定しようとしますが、右翼新聞は公判報道の名を借りて個人攻撃を繰り返しました。裁判は主要新聞の勝訴に終わりますが、判決が出たのは3年後で、その間も噂だけは拡散するような状況でした(この糾弾キャンペーンから多くを学んだのが滝川事件や天皇機関説事件で告発の急先鋒を演じた蓑田胸喜(97p))。
 このキャッスル事件は新聞社にとってはトラウマとなり、その後の政府の外交方針への批判を難しくさせました。そして著者はこの事件の教訓を次のようにまとめています。
 キャッスル事件のむずかしさは、流言を広める側も否定する側も、双方がメディア・リテラシーの鉄則、「情報を鵜呑みにするな」と訴えていることである。メディア不信を煽る流言に対して、情報の批判的受容を訴えるメディア・リテラシー必ずしも有効ではない。(102p)

  第4章は二・二六事件とその周辺で唱えられたトンデモ偽史をめぐる問題です。
 『流言蜚語』の著者として知られる清水幾太郎は、論文「デマの社会性」ノ中で、「新聞が独自の機能を失って官報化すればするほど、その空隙を埋めるものとして流言蜚語又デマが蔓って来るのである」(106p)と述べていますが、新聞が独自の機能を失った場面の一つが二・二六事件でした。

 二・二六事件の蹶起部隊は要人を暗殺するとともに、新聞社も押さえにかかり、「蹶起趣意書」の掲載を要求しました。掲載は内務省警保局と憲兵隊からの要求によって阻止されましたが、こうした混乱もあって事件の全体像を報じることができたのは『大阪毎日新聞』の号外だけでした。
 このときに情報を発信し続けたのがラジオです。政府は新聞に記事が掲載されないなかでラジオを使って情報をコントロールしようとしました。「二・二六事件は新聞に対するラジオ放送の「政治的」優位を確立し、やがて新聞のラジオ化、すなわち広報媒体化をもたらすこと」(116p)になります。

 さらにこの章では、この時期に出てきた「天皇家はヘブライ族だ」という日猶同祖論などのトンデモな偽史を紹介しています。支離滅裂な内容なのですが、こうした太古秘史はこの時期にある種の知識人の間で熱心に論じられています。

 第5章では、戦時下の流言がとり上げられています。政府が発表するいかがわしい情報を「大本営発表」と呼ぶことがあることからもわかるように、戦時下の新聞には多くの誤報や捏造された記事が掲載されました。このことをもって「国民は騙されていた」とする見方もありますが、著者は国民の間にもそれなりに大本営発表を疑う姿勢はあり、一方的に騙されたわけではないだろうといいます。
 この章では、司法省の思想特別研究員・西ケ谷徹検事の分析などを紹介しつつ、戦時下の流言について分析しています。西ヶ谷は「行き過ぎたる報道の統制、行き過ぎたる言論の圧迫は更に造言飛語の発生に適当なる地盤を作るのみである」(144p)と述べていますが、戦時下の日本政府は統制と圧迫に頼った情報戦略をとったために、流言がおさまることはありませんでした。

 第6章では、朝日新聞の従軍慰安婦をめぐる誤報から、新聞の誤報という問題に切り込んでいます。
 第5章の冒頭の小見出しが「ニュース紙からメモリー紙へ」となっているように、近年の新聞の役割の一つが歴史を記録し後世へと残すことです。例えば、歴史学の本でもしばしば新聞が出典としてあげられています。
 しかし、現場の記者がそうした意識を持って仕事をしているかというと、必ずしもそうではありません。特ダネのためなら多少の正確性は犠牲になっていいと考える記者もいるでしょうし、場合によっては事実をでっち上げる記者もいます。
 この章では、朝日新聞社のエダ・チアノ(ムッソリーニの長女)への架空インタビューや鴻上尚史『不死身の特攻兵』でとり上げられた佐々木友次伍長の「二重の戦死報道」、八月十五日の「玉音写真」のやらせ問題などがとり上げられています。特にエダ・チアノの架空インタビューをでっち上げた記者の渡辺紳一郎の話は面白いくもひどい話で、当時の新聞というものを改めて考えさせられます。
 こうした新聞の誤報問題について、著者は新聞に誤報があるのは仕方がないとしつつ、誤報欄の常設を提言しています。

 第7章のタイトルには「半体制」という変わった言葉が使われています。これは戦後のメディアが、戦前の旧体制を否定する反体制でありながら、占領軍の統制下にあった体制メディアであったことを指す造語です。
 この章ではGHQの民間情報教育局(CIE)が手がけたラジオ放送《眞相はかうだ》シリーズとカストリ雑誌『眞相』を中心にとり上げています。
 《眞相はかうだ》は戦争の真実を明らかにするという番組でしたが、大本営発表を流していたラジオが戦争の真実を語るというスタイルは人々の反発を生みました。
 一方、雑誌『眞相』は、天皇家のタブーに切り込むスタイルで人気を博し、特集版第二集『ヒロヒトくんを解剖する』は10万分を売り切りましたが、「ヒロヒトを父に持つ男 ー 天皇家の大秘密」というガセネタを報道したことで失速し休刊に、追い込まれます。「真相」という言葉は「メディアの流言」というように認識されていくようになるのです。

 第8章は「風評被害」という言葉がいかに成立したかをビキニ事件(第五福竜丸事件)を中心に追っています。
 実は「風評被害」という言葉が使われたの比較的新しく、世間一般で使われるようになったのは1997年「ナホトカ号原油流出事故」、99年「所沢ダイオキシン報道」、99年「東海村JCO臨界事故」のあたりからです。
 しかし、読売新聞の「ヨミダス歴史館」でビキニ事件に「風評被害」のタグをつけているように風評被害の元型となった事件でもあります。
 
 1954年3月16日に『読売新聞』の朝刊が「邦人漁夫、ビキニ原爆実験に遭遇」とスクープを飛ばすと、日本テレビが午後の野球中継の中で、第五福竜丸の水揚げしたマグロが都内の魚屋に出回ったとのアナウンスが流れ、マグロをめぐる大きな混乱が起こります(実は出回ったのは大阪で都内には出回っておらず、このアナウンスは誤報)。
 魚の買い控えが拡大し、いわゆる「放射能パニック」が起こるのですが、著者は主婦たちはパニックに陥ったのではなく、「主観的には自らが置かれた状況下で最適と考える行動を「合理的に」選択していただけではないだろうか」(235p)と疑問を呈しています。

 また、著者はこの第五福竜丸についての集中的な報道がもたらした歪みについても触れています。第五福竜丸の入院患者にはアメリカから慰謝料から一人あたり平均220万円が分配されましたが、これは当時の一般的な死亡事故の弔慰金20万円よりもはるかに高額で、入院患者の留守宅にはいやがらせの手紙も舞い込みました。
 第五福竜丸以外にも同じ海域で被曝した汚染漁船は683隻にも及んだとされていますが、この第五福竜丸をめぐる風評が「同じ海域で被曝した人々に沈黙を強いたのではないか」(245)と考えられます。ビキニ事件は第五福竜丸も問題に矮小化されましたが、それは「「風評被害」という強迫フレームによって可能になったといえるだろう」(247p)と著者は結んでいます。

 第9章は和服を着たヒトラーのフェイク写真などを紹介しつつ、「絶対悪」として安易にヒトラーが持ちだされることの影響を分析しています。例えば、津久井やまゆり園を襲撃した植松被告は「ヒトラーの思想が2週間前に降りてきた」(274p)と発言しているそうですし、ヒトラーはある種のシンボルとなっています。
 ドイツでは『わが闘争』を膨大な注釈で埋め尽くした批判版が出版されましたが、クロード・ケテルは「『わが闘争』の一語一語を批判して、注だらけにするやり方は、言葉のあらゆる意味で貧相な本文にかえって高い価値を生じさせるのではないだろうか」(275p)と述べています。ヒトラー神話はそれを批判する側がつくっている面もあるのです。

 最後の部分で、著者は「現代のメディア・リテラシーの本質とは、あいまいな情報に耐える力である」(286p)と述べています。 
 この著者の結論は鋭いと思いますし、第1章、第3章、第8章は文句なしに面白いのですが、その他の章についてはやや詰め込みすぎている面もあります。周辺情報の深堀りは著者の魅力の一つなのですが、1つの章の中でいくつもの深堀りを行っているために、議論が追いにくい部分もあります。
 ただ、著者ならでは鋭い切り込みは随所に見られますし、面白いネタが詰まっている本であることは確かです。


記事検索
月別アーカイブ
★★プロフィール★★
名前:山下ゆ
通勤途中に新書を読んでいる社会科の教員です。
新書以外のことは
「西東京日記 IN はてな」で。
メールはblueautomobile*gmail.com(*を@にしてください)
タグクラウド
  • ライブドアブログ