山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期

ここブログでは新書を10点満点で採点しています。

松山恵『都市空間の明治維新』(ちくま新書) 7点

 明治維新によって将軍や諸大名が江戸を去り、代わりに天皇と新政府の役人がやってきて江戸は東京となります。その中で大名屋敷の跡地が新政府の施設に転用されていったり(東大は加賀前田家の藩邸の跡地につくられたなど)、人口減少や混乱が起こったことなどは多くに人が知っているでしょう。
 ただ、同時にこの変化は連続的なもので、新政府による江戸の大改造のようなものはなかったという認識だと思います。

 それに対して、この本は新政府による都市改造の意図に注目しながら、江戸から東京になるときに何が変わっていったのかということを明らかにしようとしています。
 昨年出た横山百合子『江戸東京の明治維新』(岩波新書)では、江戸に暮らす市井に人々が、どのように明治維新の変化に直面したかということが、個々人に焦点を当てるミクロ的な視点で描かれていましたが、この本はもう少しマクロ的な町単位の変化を追うことで、江戸における維新のインパクトを浮かび上がらせようとしています。
 内容的にはやや詰め込みすぎている感もなくはないですが、興味深い内容が詰まった本になっています。

 目次は以下の通り。
第1部 首都、そして帝都へ
第1章 首都の祖型―「郭内」と「郭外」
第2章 明治初年の煉瓦街計画
第3章 皇大神宮遙拝殿―宗教的権威の取り込み
第2部 「郭外」再編
第4章 貧富による動員と排除
第5章 桑茶令とは何だったのか
第6章 謎の新地主をめぐって
第3部 日常の生活空間へ
第7章 旧幕臣屋敷の争奪
第8章 広場から新開町へ

 まず、江戸という都市は江戸城の外堀の内側である「郭内」とその外側の「郭外」に分かれていました。この「郭内」と「郭外」の線引は新政府によって何度か引き直さますが、明治2年の5月にその範囲は確定します(40p図1-1参照)。この明治2年とは明治天皇が東京へと移った年であり(遷都が宣言されたわけではなかったが、天皇が京都に戻ることはもうなかった)、東京が「首都」となった年でもあります。
 天皇の政治的儀式の場は江戸の上の西丸に移されましたが、政府機関は江戸城の中には入り切らずに江戸城近くに庁舎を構えることになります。
 さらに京都の公家たちも続々と移住してきます。天皇のいなくなった京都にいても仕方がないので、「郭内」の番町・飯田町・駿河台・小川町といった場所に屋敷を構えるようになるのです(59p図1-8参照)。

 では、なぜこのような庁舎の移転や公家の移住が可能だったかというと、新政府がこの地域にあった大量の武家地を没収していたからです。江戸時代の大名は江戸に複数の藩邸を持っていましたが、新政府はその藩邸の数を制限していき、最終的には「郭外」に1つのみの私邸を認めることで、それ以外の藩邸とその土地を没収していったのです。
 1873年の地租改正によって土地の所有権が確定していくと政府といえどもさすがに土地を没収することは難しくなりますが、明治初年の段階では政府はかなりのフリーハンドを持って江戸を改造できたのです。

 これを踏まえて第2章でとり上げられるのが銀座の煉瓦街です。文明開化の象徴とも言えるこの煉瓦街は教科書にも載っていてよく知られていますが、この本によると煉瓦街の計画は文明開化のショーウィンドウ以上のものがあったといいます。
 煉瓦街の計画は、1872年(明治5年)の銀座や築地一帯を焼いた大火の復興計画として始まっています。大蔵省と東京府が実務を分担する形で計画が立てられましたが、当初の構想では消失地域を皮切りに皇居を中心とした広範囲の都市改造が目論まれていました。これに呼応するかのように明治5年4月4日の町触では東京府全域に対する事実上の新築停止が宣言されています(75p)。

 この計画に大蔵省の側から深く関わったのが井上馨と渋沢栄一ですが、これには当時アメリカに行っていた岩倉使節団が遭遇した、シカゴ大火とその復興事業が影響しているといいます。シカゴは内外からの募金などを集めて復興を成し遂げようとしたのですが、井上らは日本でもこれが可能だと考えたのです。
 ところが、募金が思うように集まらなかったことや工事費用に想定以上に金額が必要であることが判明したこともあって計画は縮小を余儀なくされます。

 それでも、井上や渋沢らは「貸家会社」というスキームで煉瓦街を建設しようとします。政府から資金援助を受けた貸家会社が煉瓦家屋を建設し、借家人の家賃からそれを返済していくことが考えられたのです。
 当初は地主の意向を無視して煉瓦街の建設を進めましたが、空き家の問題や地主からの苦情によって煉瓦街の建設は行き詰まります。そして、地租改正が迫ってくると、地主を無視するわけにもいかなくなり、煉瓦街の建設は打ち切られるのです。

 第3章では現在の日比谷公園の隣接地につくられた皇大神宮遥拝殿(現在の東京大神宮の前身)がとり上げられています。伊勢神宮の狙いなどいくつか興味深い部分もありますが、詳しい内容についてはここでは割愛します。

 第4章と第5章でとり上げられているのが桑茶令です。桑茶令は人がいなくなり荒廃した武家屋敷を桑畑や茶畑に変えることで殖産興業への道を開こうとしたもので、提唱者の当時の東京府知事・大木喬任が自ら「大失敗」と振り返るように(150p)、明治初年の混乱を象徴するものとして扱われることが多いです。
 ところが、著者は当時のこの政策の意図を探ることで、これが東京の都市改造の一環であったことを示そうとしています。

 桑茶令のターゲットとなったのは「郭外」の武家地なのですが、同時にこの時期には零落する場末の町人地を中心部近くに移転させようとする政策も行われました。例えば、元鮫川橋北町が神田へ、小石川の町が芝へ、下谷が神田平河町へいった具合に多くの「郭外」の町が「郭内」に隣接する地域に移ってきています(162ー163pの表4−1、図4−1参照)。
 しかも、このときの対象となったのは地主や地借などの富裕層のみで借家人は対象外とされました。つまり、「富民」だけを「郭内」付近に移動させることで新しい首都を再編しようとしたのです(「富民」が去った元鮫川橋北町のあたりは後に明治東京の三大貧民窟の1つである四谷鮫川橋になる)。

 取り残された「貧民」はどうなるのか? 新政府は下総に開墾地を設けたり、麹町・三田・高輪の3箇所に「救育所」を設け授産事業を試みますが、その「貧民」の収容先の1つが、「郭外」の武家屋敷に作れた桑畑や茶畑だったと考えられるのです。
 
 ただし、貧民に土地を渡したり貸与したりすれば桑や茶の栽培ができるというものでもありません。それには生産技術を教える人や資本の投下が必要になります。
 第5章では白山界隈に焦点を当て、そこに出現した桑茶畑と、その所有者の牧啓次郎という人物を探っています。牧は生糸の生産地帯である信州須坂の出身で、この地域の呉服商と関係がある人物だと考えられます。おそらく牧は当時の役人の誰かと何らかのつながりがあり、この事業を任されたのでしょう。
 ただし、この界隈の土地は比較的低湿で桑茶畑には向かなかったようで、明治10年代の半ばには水田に転用されています(松方デフレによる繭の価格の暴落の影響も考えられる)。

 第6章では、現在の田町駅近くにあった三田の薩摩藩邸の跡地の変遷と、そこを所有することとなった福島嘉兵衛という謎の人物の来歴が探られています。
 この場所には、まず東京府が「救育所」を設置し、「貧民」の収容・授産施設としますが、2年余りで閉鎖され、その土地は福島嘉兵衛のものとなります。この福島は、人夫供給を請け負う「六組飛脚屋仲間」の一員で、幕末期には活動の拠点を大坂に移していました。そして、鳥羽伏見の戦いでは薩摩藩の弾薬や兵糧の輸送などを請け負ったのです。
 こうして新政府にコネを得た福島は、閉鎖された救育所で行き場のなかった者や無戸籍の者などを引き受け、下肥汲取の権利を得るとともに下水浚の仕事や物品製造などを行わせていました。救育所の土地の獲得はこうした利権の一環だったと考えられます。
 しかし、福島のやり方は反発を生み、またロシア皇太子の来訪に備えて明治6年に上野に養育院ができると、救育所の土地は福島の手を離れ、三田育種場となっていきます。

 第7章では、下谷の和泉橋通り(御徒町通り)の変遷を追うことで、武家地が町人たちによって侵食されていく様子が浮かび上がってきます。
 維新後、新政府に仕えるようになった旧幕臣たちが、屋敷地の交換や拝領などを願い出たことは横山百合子『江戸東京の明治維新』でもとり上げられていましたが、下谷和泉橋通りは多くの旧幕臣が拝領を願い出た人気スポットでした。
 なぜ、ここが人気だったかというと明治元年の時点ですでに空き家になった武家屋敷などに商店が開かれていたからです。町人たちは家来の住まいである表長屋を改造して小さな商店を開きました(231pの図7−1、図7−2の写真を見るとその様子がわかる)。つまり、この地域では表長屋などを貸し出すことで副収入が期待できたのです。

 さらにこの和泉橋通りの人気の秘密は江戸時代の「広場」に近かったということにもありました。江戸時代の「広場」というものはきちんとしたものではなく、広い通りや橋のたもとなどに露店や興行小屋が立ち並んだもので、幕府は橋の維持管理費などを負担させる代わりにこれらの盛り場の存在を許していました。

 ところが新政府はこうした公道上の店を許しませんでした。私有地を公有地の区別をつけることが新政府の方針だったからです。
 そこで人びとはどうしたかというと、地租負担に耐えかねて大名が手放した屋敷地を道路を作って分割し、新たな町である新開町をつくっていきました。そして、広場で営業していた露店や興行小屋は、その屋敷地内へと移転していったのです。
 屋敷地を手放さずに、土地経営に乗り出す旧大名もいました。福山藩の阿部家は東京帝国大学の近隣に屋敷地を持っていましたが、ここの大部分を住宅地をして貸し出し、成功しています。また、こうした屋敷地は旧藩の社会関係資本の維持拡大にもつながっていきました。

 このようになかなか中身の詰まった本であることがわかると思います。個人的には第4章意向が面白かったので、第3章あたりを削って後半の章の記述を充実させたほうがよかったようにも思えますが、前半の章でもいろいろな発見があり、読む人の関心に応じて楽しめる内容になっていると思います。
 横山百合子『江戸東京の明治維新』と呼応するような内容になっているので、『江戸東京の明治維新』が面白かった人にはお薦めできますし、この本を読んで面白かった人は『江戸東京の明治維新』も読んでみるとよいのではないでしょうか。


市川裕『ユダヤ人とユダヤ教』(岩波新書) 8点

 タイトルのユダヤ人とユダヤ教について知らない人はいないでしょう。ユダヤ教に関しては「キリスト教のもととなった宗教」、ユダヤ人に関しては「ホロコーストで犠牲になった」、「ロスチャイルド家などの金融資本」といったイメージがまず浮かぶのではないでしょうか。
 しかし、そのイメージがユダヤ人とユダヤ教についての見る目を曇らせている部分もあると気づかせてくれるのがこの本。例えば、ユダヤ教というとどうしてもキリスト教徒の関連で考えてしまいますが、むしろイスラムと近い体系であることがこの本を読むとわかります。
 著者はヘブライ大学でも学び、長きに渡ってユダヤ教やユダヤ思想を研究してきた人物で、歴史、信仰、学問、社会の4つの側面からユダヤ人とユダヤ教について迫っています。
 190ページほどの本で懇切丁寧というわけではありませんが、ユダヤ人とユダヤ教に関する新しい視点を提供してくれる本です。

 目次は以下の通り。
序章 ユダヤ人とは誰か
第1章 歴史から見る
第2章 信仰から見る
第3章 学問から見る
第4章 社会から見る

 まず、ユダヤ人といっても一概にその範囲を確定させることは難しいです。イスラエルでは「ユダヤ人の母親から生まれた子、もしくはユダヤ教への改宗者」(5p)をユダヤ人として定義していますが、建国以来、誰がユダヤ人なのかをめぐって議論になったこともあるそうです。

 この背景にはユダヤ人の複雑な歴史があるのですが、この本ではイエスの出現の頃からユダヤ人の歴史を説き起こしています。
 イエスが出現した紀元前後はユダヤ人がローマ帝国との戦争に破れた時期であり、ローマでローマ法が整備され、カラカラ帝が帝国内のすべての自由人にローマの市民権を付与した時代でもありました。
 そんな中で、ユダヤ人の社会には数々の賢者が現れ、「ミシュナ」と呼ばれるユダヤ固有の法が成立し、ユダヤ教は明確な宗教法の体系を持つようになっていきました。

 イスラムの勢力が中東一帯を支配するようになると、ユダヤ人はその中で繁栄を享受し、学問を発展させていきました。このイスラム社会の中でのユダヤ社会の繁栄について著者は次のように述べています。
 イスラム社会がイスラム法(シャリーア)を施行する社会であることはよく知られているものの、なぜそういう社会が生まれたのか、その要因はまだ解明されていない。ただし、シャリーアの体制は、じつはユダヤ教のハラハー(いわゆるユダヤ啓示法。ヘブライ語で「道」「歩み」を意味する)の体制と酷似している。その歴史的な因果関係は不明だが、ユダヤ教が同様の啓示法体系をもつイスラム世界で繁栄を享受したことには、しかるべき理由があると思われる。(18p)

 このイスラム世界で移動の自由が確保できたことはユダヤ人の通商活動をさかんにさせました。ユダヤ人は中東から北アフリカ、スペインへと活躍の場を広げ、さらに一部をアルプスを越えてライン川流域の都市を根拠地として交易や金融業を行うこととなりました。
 しかし11世紀から13世紀にかけてカトリックが全盛期を迎えるとユダヤ人の追放が行われるようになり、西欧や中欧のユダヤ人たちは東欧のポーランドなどに移動して「アシュケナージ」と呼ばれるようになります。
 さらに、レコンキスタによってイベリア半島からイスラム勢力が追放されると、ユダヤ人たちはオスマン帝国下のバルカン半島やイタリアのヴェネツィアなどに移っていきました。
 また、ユダヤ人の中にはキリスト教に改宗する者も現れ、彼らは「コンヴェルソ」(「マラーノはその蔑称」)と呼ばれました。彼らの中にはオランダに逃れ再改宗する者もおり、アムステルダムを中心にユダヤ社会を築きました。
 一方、アシュケナージたちはポーランドで自治を与えられ、ケヒラーと呼ばれる共同体がつくられました。

 フランス革命によってユダヤ人は市民権を付与され、「信仰の自由を享受しつつ、モーセの律法を信じるフランス市民」(39p)となりました。ユダヤの教えは宗教の1つとして捉えられるようになっていきます。
 しかし、ユダヤ人の苦難が終わったわけではありませんでした。1881年のロシア皇帝アレクサンドル2世の暗殺事件をきっかけにおこったユダヤ人への暴力(ポグロム)はパレスチナへの移住を志す者やアメリカへ渡る多くの者を生み出しました。
 さらにご存知のようにナチスによるホロコースト(この言い方を嫌って「ショアー」と呼ぶ人もいる(46ー47p)があり、世俗主義のユダヤ人国家・イスラエルの誕生がありました。

 次に信仰です。日本では「ユダヤ教」と言うとキリスト教と同じような「宗教」だと考えますが、ユダヤ系の学者の中には「ユダヤ教は宗教ではない」(54p)と言う人もいるそうです。
 ユダヤ教の世界では「宗教」から切り離された世俗の領域は存在しません。著者は西暦70年の第二神殿崩壊後の「ラビ・ユダイズム」(ラビ・ユダヤ教)において成立した「ミシュナ」(口伝律法集)を「持ち運びのできる国家」(59p)という言葉で説明しています。ミシュナは神と人との関係だけでなく、家族法、日常生活のルールまで含んでおり、このミシュナとラビによって、どこでもユダヤ人の共同体(国家)は営まれることができるのです。

 「ラビ・ユダヤ教徒に従うユダヤ人にとって、主なる神である唯一神を信じることは当然であって、求められるのは神の教えに従った行動である」(65p)と書かれているように、ユダヤ人たちはモーセの律法とその解釈を行うラビに従って生活することとなります。
 例えば、「あなたは、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、主なるあなたの神を愛しなさい」(『申命記』6章5節)という言葉があります。ここでの「力」とは財力ですが、全財産をなげうって神に尽くすべきかというとラビの解釈は少し違います。すべての財産を放棄してしまっては他人に命を預けることになるので、財産の二割以上を放棄してはならないというのです。これがラビの教えです。(69-70p)

 ユダヤ暦は太陰太陽暦であり、一年の農耕生活のサイクルに、出エジプトの歴史的体験が組み込まれています。ユダヤ暦の中で暮らしていくと自然とユダヤの歴史を追体験できるようになっているのです。
 ユダヤ共同体は中世イスラム世界の中で都市的な共同体となり、農耕からは離れていきますが、この暦やその中に定められた贖罪日などがユダヤの生活サイクルを規定していきました。

 しかし、フランス革命後の市民権獲得は、これらの共同生活をどうするのかという問題も引き起こしました。市民権を得た代わりに世俗の法と戒律との折り合いをつけなければならなくなったのです。
 この折り合いにおいて、改革派、新正統派、保守派という複数の宗派が出現することとなりました。
 また、「ユダヤ」というアイデンティティを宗教ではなく、民族に求める者も現れました。これがパレスチナへの入植運動を後押ししていくことになります。
 さらにあくまでもユダヤの共同体を守ろうとする超正統派と呼ばれるグループもあります。彼らは集住し、ハラハーの啓示法体系をできるだけ厳格に実施しようとする人々です。

 ユダヤの教えは固定的なものではなく、ラビたちの解釈の中で発展してきました。ですから、ユダヤ教の歴史は学問の歴史でもあります。
 ユダヤ教が最も重視してきた学問は「タルムード」(トーラーの学習)であり、特にバビロニア・タルムードが重要な書物とされました。
 このタルムードの学問を支えたのがイェシヴァと呼ばれる学塾であり、また、印刷術が生まれるとバビロニア・タルムードの出版も行われます。98pにそのテキストの一例が載っていますが、中央にミシュナと過去のラビたちの議論と解釈、左右にはその後に行われた註解、さらにその外側に注釈が並ぶという複雑な組版となっており、ユダヤの学問が解釈や議論の積み重ねによって成り立っていることがわかります。
 
 ギリシア哲学は形而上的思索を突き詰めていきましたが、ユダヤ教では、神の領域や死後の世界、天地創造、終末論などに思いを巡らすことを否定します。「人間としてこの世に生まれてきたからには、果たすべき行いを為すべきであるのに、答えの出ない領域にばかり関心を抱く者は、あたかもこの世に生まれてこない方がよかったのだ」(112p)と考えるのです。
 その後マイモニデスやカバラー(ユダヤ神秘主義)において形而上的な思索が展開されることはありましたが、散発的なものにとどまりました。

 現在のユダヤ教の礎を作ったとも言われるのが19世紀リトアニアにおけるタルムード学の再生です。ラビ・エリヤ・ベン・シュモローとその弟子ラビ・ハイームは、そのイェシヴァにおいて、タルムードのテキストそのものに向き合うとともに、世俗の学問も取り入れて、その後の東欧におけるタルムード・アカデミアのスタイルを作り上げました。
 このリトアニアで生まれたタルムード学の大きな影響を受けているのが、エリ・ヴィーゼルとエマニュエル・レヴィナスです。

 ユダヤ人は商業・金融の民として知られていますが、ユダヤ人がこの分野で知られるようになるのはイスラム世界の拡大とともにです。ユダヤ教でも同胞間での利子取得は禁止されています。聖書にそのように書かれているからです。
 ユダヤ人はユダヤ人と非ユダヤ人を区別することでこの「同胞」の縛りを超えていくわけですが、それだけではなくラビたちは債権者と債務者が共同で事業を行うという方式によって同胞間での利子取得も正当化しました(140-141p)。
 こうした解釈と、都市民としてのユダヤ人のあり方、ユダヤ人同士のネットワークなどがユダヤ人を金融の民としていきました。
 また、ユダヤ人には貧しさは本人の責任ではないという教えがある一方で、富裕さを戒めるような直接的な教えも見当たりません。喜捨においても、単純に貧者に何かをあげるよりも仕事を紹介したり仕事のパートナーとすることが良いものとされるところなどもユダヤの教えの特徴と言えるかもしれません。

 近代になるとユダヤ社会には2つのメシア論が生まれました。世界市民主義に理想を見出す普遍的メシア論と、民族主義を押し出す個別主義的メシア論です。このうち後者はイスラエルの建設へとつながります。
 現在、ユダヤ人が多く暮らすのはイスラエルとアメリカですが、それぞれの社会で世俗派と超正統派が二極化するような傾向があります。特にイスラエルでは超正統派が宗教的教えを立法化して矯正していこうという動きを見せており、世俗派との対立が強まっています。
 著者はこうしたイスラエルにおけるユダヤ社会の硬直化した動きと、パレスチナ問題に対して、「伝統の偶像化を排除せよ」(167p)というユダヤ教の言葉を投げかけています。
 
 このように190pほどの本でありながら、さまざまなことを教えてくれる内容になっています。最初にも述べたように、もう少し紙幅を取ったほうがわかりやすい部分もあるとは思いますが、重要なエッセンスが凝縮されている文章です。
 その道の第一人者が自らの研究テーマのエッセンスを一般の人に伝えるのが古典的な新書のイメージだとするならば、まさにそのイメージにあてはまる本です。

坂井豊貴『暗号通貨VS.国家』(SB新書) 7点

 『多数決を疑う』『ミクロ経済学入門の入門』(いずれも岩波新書)、『マーケットデザイン』(ちくま新書)など、読み応えのある新書を送り出してきた著者が、今回テーマとするのはビットコインをはじめとする暗号通貨。
 まず、最初に断っておきますが、自分は30歳頃までクレジットカードも持たず、現在もネット以外ではほぼ使わないバリバリの現金派で、ビットコインをはじめとする暗号通貨を使いたい、欲しいと思ったことは一度もありませんし、この布教の書を読んだあともそれは変わりません。
 ただし、この本自体は面白い。著者がどんなところを面白がっているかということがその熱い文体とともにわかりますし、暗号通貨に使われている仕組みにも興味深いものがあります。自分もこの本を読んで初めてわかったことがいくつかありました。
 著者の本を読むたびに、すごく明晰でわかりやすいと思いつつ、どこかで自分の価値観や人間観と決定的に違うなということを感じるのですが、この本もそうです。ただ、だからこそ自分のこだわりのようなものが見えてきて面白かったです。

 目次は以下の通り
1章 神はビットコインを創成し、やがて姿を消した
2章 そもそもATMは魔法の箱なのだ
3章 ブロックチェーンの生態系には、人間も機械も黄金もある
4章 暗号通貨の社会はめちゃくちゃ人間くさい
5章 超絶的な自動販売機イーサリアム
6章 正社員は減ってないし、会社は無くならないし、電子化はそう進んでいない

 第1章のタイトルの「神」には「サトシ」とフリガナが振ってあります。ビットコインは「サトシ・ナカモト」と名乗る人物によって考案され、このビットコインのアイディアがその他の暗号通貨が生み出していきました。しかし、サトシ・ナカモトは一度も姿を現さないままにビットコインのコミュニティを去っており、その正体は謎です。

 では、この暗号通貨にはどんな意義があるのでしょうか?
 サトシ・ナカモトは論文の概要部分で「ある者から別の者へのオンライン支払いを、いかなる金融機関をも経由せずに可能とするのは、純粋にピア・トゥ・ピアな電子現金のひとつの姿だろう」(39p)と述べています。つまり、電子現金(暗号通貨)は金融機関を経由せずにネット上での現金のやり取りを可能にするのです。
 これは簡単なように見えますが、情報のコピーが容易なネット上では、何か工夫をしなければダブルスペンディン(二重支払い)が簡単にできてしまいます。電子現金の情報をコピーしてAの支払いにもBの支払いにもそれを利用するのです。

 この二重支払いの防止と匿名性の確保は難しく、この本の73~79pにかけてデヴィッド・ショーンが考案した方法が紹介されていますが、これは非常に面倒なものです。
 この二重支払いの防止と匿名性の確保によりスマートな形で成功したのがビットコインと言えます。ポール・ボルカーは「過去20年間のうち金融機関が発明した有益なものは、せいぜいATMくらいだ」(58p)と言ったそうですが、暗号通貨はこのATMや仲介する金融機関を不要にするものです。

 ただ、送金や支払いを手軽に行いたいだけならば、中国のアリペイに代表されるような電子マネーサービスでもいいような気がします。
 これに対して著者は、この仕組は個人に対する情報収集と結びついており、究極的には自由を脅かすものになると考えています。電子マネーは便利ですが、「だがその便利さに、自由と天秤にかけるような価値があるのだろうか」(34p)と言うのです。

 一方、暗号通貨は通貨を国家の管理から解放することにつながります。暗号通貨は国家を必要としませんし、通貨を国家の独占から解放することはハイエクやフリードマンも唱えていました。
 さらにこの本では、ビットコインが主流になれば国家は通貨の増発によって戦費を調達することが難しくなり、戦争の抑止になるという議論も紹介しています(51-52p)。また、所得税の徴収も難しくなり、金融緩和の効果も減退するでしょう。

 ビットコインの生態系には取引をするユーザー、取引を記録するマイナー(採掘者)、記録の正しさをチェックして台帳を管理するノードの三者が中心にいて、その他にコア開発者やビットコインと法定通貨(円やドル)をつなぐ取引所があったりします。
 この仕組の中で、一般人にはよくわからないのがマイナーの仕事とそのインセンティブです。
 ビットコインの送金要請がなされると、マイナーと呼ばれる人たちがそれを記録します。マイナーはいくつかの取引をまとめてブロックに入れ、それを過去のブロックに接続します。このブロックの連鎖をブロックチェーンと呼び、ビットコインの送金記録はすべてブロックチェーンという一続きの台帳に記録されています。これによって二重支払いを防ぐのです。

 では、ブロックはどうやって接続されるのかというと、著者はすごく複雑な数独、「メガ数独」のようなものだといいます。
 マイナーは複数いるのですが、このメガ数独を最初に解き、ブロックの接続に成功した者がビットコインのシステムからブロック報酬と送金要請に添えられた手数料を獲得します。現在、ブロック報酬は12.5ビットコインで1ビットコインが50万円だとすると625万円となります。最近、このマイニングで消費される電力などが問題となっていますが、現在はこのマイニングが一つの産業となっているのです。
 そして、このメガ数独を解く作業が大変だからこそ、ブロックチェーンは改竄が非常に困難なのです(ブロックチェーンの一部を書き換えるには後続するブロックチェーンを一気に書き換える必要があり、そこまでのマイニングパワーを得るのは難しい)。

 ビットコインのブロック報酬は21万ブロックごとに半減するように設計されています。このままでいくと2140年にはブロック報酬はゼロになり、マイニングは成り立たなくかもしれません。また、このときにビットコインの総発行量は2100万ビットコインに達し、これが発行量の上限になります。つまり、現実の通貨のように政府の大量発行によって通貨の価値が破壊されるようなことはないのです。

 厄介なことにブロックチェーンはときに枝分かれします。Aというマイナーが目が数独を解いてブロックを接続させたにもかかわらず、Bが同じメガ数独を解いてブロックを接続しようとする、あるいはほぼ同時にメガ数独を解くということが起こりうるからです。
 この場合、より長いブロックチェーンが正統とされます。ですから、Aというマイナーがメガ数独を解いたにもかかわらずBが新たなブロックを接続させても、Aのブロックには次のブロックが接続されている可能性が高いので、結果的にBの行為は無駄に終わってしまうのです。

 実はこのブロックチェーンの枝分かれ問題は、著者が『多数決を疑う』でとり上げた多数決の問題と関わっています。ブロックチェーンの正統性に関しては、より多くの労力が投入されている方が正統な台帳という考えに基づいて設計されているのです。
 ですから、一人のマイナーが51%以上のハッシュパワーを持っている場合、この仕組はうまく働きません。51%以上のハッシュパワーを持つマイナーは他のマイナーの行動に関係なく、自分の力だけでブロックを伸ばしていくことが可能だからです。隠れた独裁者のような存在がいればビットコインの仕組みはうまく働かないのです。

 ビットコインはよく考えられた仕組みであると同時に、さまざまな問題も抱えています。例えば、現在のビットコインでは1秒間に3~4件の取引しか処理できません。
 そこで取引量を拡大させたビットコインXTやビットコインキャッシュが登場しています。
 さらにこの本では、一定の条件が整うと自動的に取引が実行される(代金回収の心配などをせずに取引ができる)イーサリアムという仕組みや、そこで使われているイーサという基軸通貨のことなどを説明しています。

 普通の本ならばここで終わりにして「これからは暗号通貨の時代だ!」みたいに締めてもいいのでしょうが、この本では最後に実は世の中はそんなに変わっていないという「正社員は減ってないし、会社は無くならないし、電子化はそう進んでいない」という章を設けています。
 内容的にはタイトルに書いてあることをデータに基づいて示しているのですが、この章の存在は貴重だと思います。このような新しい技術について書かれた本の多くが「新しい技術で社会も変わる、だから今までの常識は通用しない」みたいに煽ってくるのに対して、この本は新しい技術を称揚しつつも、社会がそんなに簡単に変わらないことも指摘しています。
 AIの問題についても、「AI時代に必要なのはクリエイティビティ!」といったことを言うのではなく、労働組合と団体交渉の大切さを指摘するなど、近代の良き遺産を継承していこうという姿勢があります。

 このように面白かったですし、ブロックチェーンやマイニングのしくみなどは勉強になりました。ただ、読み終えたあともビットコインへの根源的な疑問は残っています。
 一番大きな問題だと思ったのは、2140年にビットコインの総量が上限に達するというところです。もし、そのころにビットコインがメジャーな通貨になっていて、なおかつ経済が発展しているならばデフレ圧力がかかることになります。つまり、20世紀の前半の金本位制のように、どこかでそれは維持することが不可能になるのではないでしょうか?
 国家の通貨増発による通貨価値の毀損を防ぎたいという立場から金本位制の復活が主張されることがありますが、ビットコインとは金本位制復活論の変奏に過ぎないのではないのかというのが個人的な感触です。
 暗号通貨はあくまでもネットや国際取引で国際取引において補助的に使われる形で落ち着いていくのではないでしょうか(ただ、それでもこの本は読む価値があると思います)。
 

元木泰雄『源頼朝』(中公新書) 8点

 日本の歴史に大きな足跡を残しながら、意外とメインでとり上げている一般書が少ない源頼朝。その源頼朝に関して、近年の研究の成果などを折り込みながら、その生涯をたどった評伝になります。
 どうしても『平家物語』の印象が強い頼朝ですが、この本を読むと今までのイメージのいくつかが覆されると思います。近年、鎌倉時代についても研究が進んでいたことは断片的には知っていたので、個人的に「そろそろ源頼朝の新書が出るべきではないか」と思っていたのですが期待以上の発見がありました(ちなみに次は北条泰時の新書を期待したい)。ただし、文章はやや硬めです。

 目次は以下の通り。
頼朝の登場―河内源氏の盛衰
流刑地の日々―頼朝挙兵の前提
挙兵の成功―流人の奇跡
義仲との対立―源氏嫡流をめぐって
頼朝軍の上洛―京・畿内の制圧
平氏追討―義経と範頼
義経挙兵と公武交渉―国地頭と廟堂改革
義経の滅亡と奥州合戦―唯一の官軍
頼朝上洛と後白河の死去―朝の大将軍
頼朝の晩年―権力の継承と「失政」

 頼朝の事績にすべてふれながらまとめていくとかなりの分量になってしまうので、ここでは今までのイメージを書き換えている部分を中心にポイントをしぼって紹介していきます。

 平治の乱について
 まず、保元の乱の恩賞が少なかったために頼朝の父の義朝が不満を持ったという説ですが、これについて河内源氏で初めて内昇殿を許され、左馬頭という本来は四位の者が任じられる官職についてたので、これは破格の待遇だったといいいます。
 平治の乱は藤原信頼と義朝が中心となって起こりますが、従来、信頼に関しては基本的には無能で後白河の男色相手だから出世したという話があります。しかし、著者は信頼が武蔵守を務め、その関係で東国武士を動員できたこと、平清盛や奥州藤原氏の秀衡と姻戚関係を結んでいたこと、関白藤原基実を妹婿に迎え摂関家の武的基盤となっていたことなどをあげ、信頼を「武門の統合者」(21p)と評しています。
 
 頼朝を支えた勢力について
 頼朝の挙兵が成功した背景として、義家以来、東国において河内源氏が大きなブランドなっていたことがあげられますが、代々河内源氏の乳母を出した山内首藤氏の山内首藤経俊は頼朝の乳母子でありながら石橋山で頼朝を攻撃しましたし、河内源氏と関わりの深い波多野氏の波多野義常も挙兵に協力せずに滅亡しています。頼義や義家の打ち立てた河内源氏のブランドが頼朝の挙兵を支えたというわけではないのです。
 一方、頼朝を支援者の中心となったのが頼朝の乳母の一人の比企尼です。彼女の女婿には安達盛長、河越重頼、伊東祐清といった人物がいますが、彼らはのちに頼朝を支える重要人物になっていきます。
 また、伊豆の知行国主は源頼政であり、在庁官人であった北条時政が頼朝を保護した理由として頼政の存在があげられるといいます。

 以仁王の乱の失敗から頼朝の挙兵へ
 治承三年の政変によって後白河院政を停止させた清盛は、院や院の近臣のもっていた知行国を奪い、平氏の一門や関係者に与えました。これとともに平氏の家人がそれらの国に進出していきます。
 坂東では相模と上総で受領が交代しますが、これとともに大庭景親や伊藤忠清といった平氏の家人が坂東に進出し、在庁官人であった三浦氏や上総介広常らと軋轢が生じました。
 さらに以仁王の乱で頼政が敗死すると、伊豆の知行国主も頼政から平時忠へと交代します。頼朝の挙兵には以仁王の令旨だけではなく、こうした状況があったのです。
 
 石橋山での敗戦からの巻き返し
 伊豆の知行国主・頼政の敗死によって頼朝は追い詰められ挙兵へと至ります。しかし、目代の平兼隆を討つことには成功するものの、三浦氏などの頼朝を支持する一族と合流できないままに石橋山で大庭景親の軍勢に敗れます。
 ただし、頼朝が房総半島に逃れると千葉常胤や上総介広常らが加わり頼朝の軍勢は膨れ上がりました。なお、広常に関しては当初明確な態度を示さず、場合によっては頼朝を殺す「二心」を抱いていた『吾妻鏡』には書かれていますが、広常は上総で平家の家人の伊藤忠清の圧迫を受けており、平氏方になる可能性はなかったと著者は見ています。

 富士川の合戦と義経への態度
 富士川の合戦にいたる前に、駿河の目代や平氏方の家人が武田信義以下の甲斐源氏に討たれました。甲斐源氏はこの後も頼朝から独立した勢力として動きます。
 これに対し、平氏は頼朝や甲斐源氏を討伐するために軍を差し向けます。平氏の作戦はまずは勇猛・忠実だが少数の「家人」が敵を攻撃し、その後、強制的に挑発された「かり武者」が残敵を殲滅するというものでしたが(65p)、平氏の「かり武者」中心の軍勢が東国に着く前に波多野義常や大庭景親、伊東祐親といった平氏の有力家人はすでに頼朝軍の前に敗れていたのです。結果、寄せ集めの軍勢の士気は下がる一方で、戦う前に勝負は決まっていました。
 このとき、頼朝は義経と初めて出会うわけですが、当初、頼朝は義経を猶子として扱ったといいます。義経は弟というだけではなく、藤原秀衡の支援を受けて頼朝のもとに参じたと考えられ、頼朝を喜ばせました。
 また、富士川の合戦後、頼朝は新恩給与と本領安堵を行い、さらに佐竹氏を攻撃した後にも新恩給与を行うなど、東国武士の掌握に務めました。

 義経と義仲の立場
 1181年になると、平氏が巻き返しますが、この年の閏2月に清盛が亡くなり、後白河の院政が復活します。戦線は膠着状態に陥りますが、ここで頼朝は後白河に敵対する意思がないことを示すとともに和平提案を行っています。平氏はこれを受け入れませんでしたが、これは後白河と公家に頼朝という存在を認識させる一つのきっかけとなりました。
 一方、平氏は清盛の跡を継いだ宗盛が藤原秀衡を陸奥守に就任させることで、奥州藤原氏を味方に引き込もうとしました。これに対して、頼朝は秀衡を呪い殺すための調伏まで行ったそうですが(93p)、これとともに義経の立場は悪化していきました。
 1183年、倶利伽羅峠の戦いで圧勝した義仲が京に入り、平氏は都落ちします。一躍時の人となった義仲ですが、京での認知度は低く、院や貴族からは頼朝の代官と認識される程度でした。また、義仲が北陸宮の践祚を要求したことや義仲軍の乱暴狼藉もあって、後白河は義仲を見限ります。
 それとともに頼朝の価値は上昇し、1183年の十月宣旨によって頼朝は東国の支配権を獲得し、義仲とともに頼朝は官軍に位置づけられます。

 頼朝軍の上洛
 1183年12月、上総介広常が梶原景時によって殺害される事件が起こっています。これは広常が上洛を望まずに東国での独立を求めたことが原因とも考えられていますが、同時に挙兵時において最大の兵力を持っていた広常の軍の再編にもつながりました。
 1184年の1月になると源範頼の軍が上洛し、義仲は滅亡します。そして、2月には一の谷の合戦で平氏の軍を打ち破りました。義経の活躍に関しては、鵯越を行ったのは摂津源氏の多田行綱である可能性が高いが、一の谷の関門を攻略した義経の功績もそれなりに大きなものだったと述べています。

 その後の義経
 一の谷の活躍で頼朝から警戒された義経が平氏追討の軍から外されたという解釈もありますが、義経が動かなかったのは兵糧不足と1184年7月に起きた伊賀・伊勢平氏の蜂起のためだとしています。この反乱は抑えこむことが出来たものの、伊藤忠清が逃亡し、京はしばらくその影に怯えることになります。
 範頼が山陽道を押さえたものの、平氏の水軍には手出しができずに膠着状態が続きますが、85年の2月に義経が屋島に出撃し、これを落とすと、3月には壇ノ浦の合戦で平氏を滅亡させます。
 この功績によって義経は伊予守・院御厩司となります。これは頼朝の推挙であり、伊予守は播磨守と並ぶ受領の最高峰なので妥当な昇進なのですが、院御厩司は在京武力の第一人者が就任する役職であり、頼朝の意向であったかどうかはわからないとみています。
 また、梶原景時の「讒言」に関しては、その裏に西国武士中心で行われた義経の戦いに対する東国武士の憤懣があったとみています。
 
 最終的な決裂
 近年の研究では「腰越状」は創作と見られており、決裂はもう少しあとの伊予守に任官しながら検非違使に留任したあたりにあると著者は見ています。受領は遥任が可能で、鎌倉在住が可能ですが、検非違使はそうはいきません。義経を手元に置きたい後白河がこの異例の人事を行い、義経がその後白河のもとで独自の勢力を築こうとしたことが決裂の要因であるというのです。そして、父義朝を弔うための勝長寿院の落慶供養に義経が来なかったことが決定打となり、義経は後白河に迫って頼朝追討宣旨を受けるのです。

 鎌倉幕府の成立年について
 近年、鎌倉幕府の成立を頼朝が征夷大将軍に就任した1192年ではなく、守護・地頭が設置された1185年とする説が唱えられています(他にもさまざまな説がある)。義経が武士の動員に失敗し都落ちすると、頼朝の代官として北条時政が上洛します。そして、時政が守護と地頭の設置を要求し、これが鎌倉幕府成立の画期となったというのです。
 しかし、荘園・公領単位の地頭は前年から設置されていますし、大犯三カ条を基本職掌とする守護が登場するのは1192年以降であり、ここで設置されたのは「国地頭」だと考えられるといいます。この国地頭は段別五升の兵糧米を徴収できるとともに国内の武士の動員権を有する強大な存在で、軍政官的な存在でした。
 時政が五畿内以下七カ国の国地頭となったほか、梶原景時が播磨・美作、土肥実平が備前・備中・備後など、義経追討の体制を固めますが、国地頭の強引な支配は反発を呼び、設置から半年ほどで国地頭は廃止されていきます。
 では、鎌倉幕府の成立はいつだと捉えればいいのか? 著者は大犯三カ条を基本職掌とする守護が登場する1192年をもって「鎌倉幕府は名実ともに成立した」(242p)とみています。大犯三カ条をもった守護の出現により、代理の警備は御家人に一元化され、「国家的武力の大半を幕府が独占」(242p)することになったからです。

 奥州合戦の意義
 義経が奥州藤原氏の庇護下に入ると頼朝は秀衡への圧迫を強めます。1187年に秀衡が死去すると、奥州藤原氏は内紛によって結束力を失い、泰衡は頼朝の圧力に屈する形で義経を殺害します。
 後白河は頼朝の軍事行動を抑えようとしますが、頼朝は大庭景能の献策を受けて奥州征伐へと向かいます。たとえ、朝廷から恩賞として官位がもらえなくても、敵方の所領を没収することによる新恩給与が可能だったからです。
 この奥州合戦によって頼朝は唯一の官軍となり、頼朝の地位は盤石なものとなりました。

 上洛と頼朝の官職
 1190年、頼朝は上洛し右近衛大将になり、1192年には再び上洛し、ご存知のように征夷大将軍となります。右近衛大将はすぐに辞任しますが、これは不満があったため
ではなく、鎌倉に下向しなければならず、儀式の故実も知らない頼朝がその職にとどまれなかったからだと考えられます。
 征夷大将軍の任官の背景にも、京都以外に居住しても就任可能で、二位以上の公卿にふさわしい官職ということで、不吉な先例のない征夷大将軍が選ばれたと考えられます。

 大姫入内工作
 1195年、頼朝は東大寺大仏殿落慶供養のために上洛しますが、このときは百日以上にわたって京にとどまりました。この理由の1つが大姫の入内工作です。
 大姫は許嫁であった義仲の子・義高を殺されて以降「気鬱」となっていました。大姫の入内工作を不遇な娘に対する親心とする見方もありますが、頼朝は大姫の死後には妹の三幡(さんまん)の入内工作も進めており、朝廷の掌握がその目的だったと考えられます。
 しかし、大姫も三幡も入内前に亡くなってしまったことから、この計画は頓挫するのです(三幡の入内工作は頼朝の死後にも行われたが、三幡は14歳で夭折した)。
 この入内工作の部分では、頼朝と九条兼実の関係などにも触れられており、そこも興味深いです。

 このようにこの本は、今まで流布してきた頼朝に関する「物語」を近年の研究や史料を通じて再検討したものになります。頼朝に関しては、どうしても義経らと対比されて、その冷酷非情な「性格」が前面に出てきてしまうことが多いですが、そうした「性格」を脇に置き、まずは「事績」をたどることで、頼朝という人物を明らかにしようとした本といえるでしょう。
 断片的には知っていたことも多いのですが、近年の研究の成果がまとまって提示させており、非常に勉強になりました。

石原俊『硫黄島』(中公新書) 9点

 沖縄に関して、よく「日本で唯一地上戦が行われた」と言われます。もちろん、少し考えてみればこの本の舞台となる硫黄島も内地なのでこの表現は誤りなのですが、硫黄島の場合はそこに住民がいなかった印象があるので、スルーされてしまうのでしょう。
 しかし、硫黄島にも住民はいましたし、そこに社会がありました。硫黄島の戦いを扱ったクリント・イーストウッドの『硫黄島からの手紙』にも栗林忠道が「島民は速やかに本土に戻すことにしましょう」と言うシーンがあります(著者はこの言及を評価しつつも「戻す」という表現を問題視している(98-99p))。硫黄島に住民がいなかったという印象は、戦後、住民が帰島を許されずに軍事基地化したことから、いつの間にか出来上がったものなのかもしれません。

 この本は、戦前の硫黄島社会を再現しつつ、実は住民の一部も巻き込まれていた地上戦、戦後の「難民化」、そして硫黄島への帰島が政府によって封じられていくまでを、元島民の証言や史料から描き出しています。
 今まで歴史の盲点となっていた部分に光を当てた貴重な仕事であり、非常に読み応えがあります。平岡昭利『アホウドリを追った日本人』(岩波新書)が面白かった人には前半部分を中心に面白く読めるでしょうし、戦後補償の問題などに興味がある人には後半の内容は必読と言うべきものでしょう。

 目次は以下の通り。
はじめに―そこに社会があった
第1章 発見・領有・入植―一六世紀~一九三〇年頃
第2章 プランテーション社会の諸相―一九三〇年頃~四四年
第3章 強制疎開と軍務動員―一九四四年
第4章 地上戦と島民たち―一九四五年
第5章 米軍占領と故郷喪失―一九四五~六八年
第6章 施政権返還と自衛隊基地化―一九六八年~現在
終章 硫黄島、戦後零年

 記録に残る限り、硫黄島、北硫黄島、南硫黄島は1543年にスペイン人により「発見」されています。硫黄島は硫黄を意味するSulpher(サルファー)と名付けられました。さらに1779年にはジェームズ・クックが率いていた船団がこの島の近くを通っています。
 ただし、北硫黄島に関しては紀元前1世紀~紀元後1世紀頃にマリアナ諸島からやってきた人々が定住したあとも見つかっているそうです。
 一方、小笠原群島は1670年に日本人の漂流者によって「発見」されました。その後、幕府は現地調査を実施しましたが、硫黄列島には到達しませんでした。

 幕府は開国後の1862年に小笠原の領有事業に着手しますが、1830年から小笠原には定住者がしました。ハワイのオアフ島から、捕鯨船との交易などを当て込んで25人ほどが移住していたのです。
 このころの小笠原には漂流者や海賊などさまざまな人が集まっていましたが、1785年に明治政府が官吏団が派遣され、彼らを「帰化人」という形で日本臣民に編入していきます。
 
 硫黄島に入植が始まったのは、1888年からになります。漁業や硫黄の採掘を目的に父島の船大工・田中栄治郎らが東京府に硫黄島の「拝借願」が提出され、開発が始まります。
 当初はアホウドリの撲殺も行われましたが、すぐに個体数が減少し、また硫黄の採掘にも限界が見え始めたことから、産業の主力は農業へと移っていきます。硫黄島は温暖で、地熱もあり、また硝酸カリウム成分が豊富だったことから植物の生育が良好だったのです。
 1910年に久保田宗三郎によってサトウキビ栽培と製糖が開始され、砂糖価格の暴落があった1920年代後半以降はコカやレモングラス、デリスなどの栽培が行われました。
 コカはコカインの原料であり、日本の製薬会社に買い取られ、そこでコカインへと精製されインドなどの闇市場へと流れていったそうです。

 こうしたこともあって入植者は増えていき、1910年に52世帯246人だった硫黄島の人口は1925年には196世帯1144人まで増えています(21pの表を参照)。
 入植者の多くは伊豆諸島(特に八丈島)や父島、母島出身者でした。当初、硫黄島への定期便は2ヶ月に1度であり、北硫黄島に関しては周辺海域の波が高く、4ヶ月近く本土や他島との連絡が絶たれることもありました。

 硫黄列島は得意なプランテーション社会であり、島民の多くは小作人でした。同じくサトウキビのプランテーションがつくられた大東諸島のシステムが硫黄島にも移植され、小作人は会社から指定された作物をつくらなくてはいけないだけでなく、島外からやってくる生活必需品を会社経由で購入せねばならず、しかも、報酬は会社の指定店舗でしか使用できない金券で支給されていたそうです(1932年には独自金券を流通さた容疑で関係者が摘発されている(40p))。
 さらに「警察官駐在署の管理運営までもが、拓殖会社によって担われて」(41p)おり、治外法権的な空間となっていました。

 このような条件下で、当然ながら小作人たちは搾取されていました。砂糖やコカの取引価格すら知らされず、多くの小作人は会社に対して借金を抱えており、満足に医者にかかれなかったも多かったといいます。
 ただし、食料事情は悪くなかったようです。硫黄島では野菜の自主栽培や家畜の飼育、漁業などによって自給が可能であり、「島では贅沢しましたよ」(54p)と回顧する元島民もいます(これについては著者も159pで指摘するように戦後の厳しい生活との対比で、島での生活を「美化」している側面もないとは言い切れない)。
 また、北硫黄島ではコカの栽培は行われず、次第に漁業の比重が高まっていきました。

 1920年、日本は父島に要塞の建設を開始します。小笠原群島や硫黄列島は1922年に締結されたワシントン海軍軍縮条約で軍事施設の拡充が禁止されますが、日本は条約発行前に要塞化を行ったのです。
 1930年代になると日本は国際的な孤立を深めていきますが、そうした中で父島や硫黄島に飛行場が整備されていきます。
 
 1941年に始まった太平洋戦争は当初日本の優位に進みますが、しだいに米軍が反攻に転じ、44年7月にはサイパンを攻略します。これによって日本本土はB29の航続距離圏内に入るわけですが、爆弾を搭載しての距離としてはギリギリであり、1200mの滑走路がある硫黄島が不時着のための場所としてクローズアップされました。
 一方、父島に関しては要塞化されており、また飛行場の滑走路の距離も短いことから、米軍は攻略を回避します。

 44年5月、硫黄島の守備隊として第109師団が編成され、栗林忠道中将が師団長となります。栗林は今まで日本軍が行っていた水際迎撃作戦を捨て、硫黄島の天然の洞窟などを利用して壕を整備し、ゲリラ戦を行う作戦を立て、地下トンネルの整備が急ピッチで進められました。
 44年6月に米軍空母による硫黄島への大規模な空襲が実施されると、栗林は民間人の引揚を求め、硫黄島の住民の多くが強制疎開の対象となります。ただし15歳から69歳の男性の多くは軍務に動員され、強制疎開のあとも160人が残留し、このうち103人が地上戦に動員されることとなりました(79p)。

 しかし、実はこれ以外にも硫黄島に留まるように言われた人々がいました。それが「偽徴用」問題と言われるものです。
 硫黄島産業株式会社の役員が、軍に残っているコカインの乾燥作業をやりたいと申し出て、22人の島民に対して軍に徴用されたと嘘を付き、島に残したのです。この作業が終わると役員は島を去り、最終的に16人が取り残され、その後軍に徴用されました。そして、彼らのうち11人はその後の地上戦で死亡しています。
 また、北硫黄島の住民も強制疎開の対象となり、島を去りました。

 硫黄島の戦いは激戦となりました。栗林の「合理的」な作戦によって日本軍は予想以上の善戦をしたという評価が一般的でしょう。
 ただし、この栗林の戦いは軍部の本土決戦派のプロパガンダに利用されることとなりましたし、上陸直後から米軍は強力な妨害電波によって日本軍の通信を遮断し、それによって栗林の命令を無視して無謀な攻撃命令を出す将校も多かったようです。
 生き残った兵士は硫黄島の壕の中は「人間の耐久試験」(104p)だったと表現しており、自決する者も相次ぎました。
 この章では、徴用されて生き残った人へのインタビューなども組み込みながら「住民を巻き込んだ硫黄島の地上戦」を描き出そうとしています。

 終戦後の1946年1月、アメリカの決定によって小笠原群島、硫黄列島ですべての民間人の帰還・移住が禁止されます。10月には父島において1876年の日本併合以前から小笠原群島に居住していた先住民の子孫とその家族に限って居住が認められることとなります。
 一方、居住者のまったくいない硫黄島には、米空軍と沿岸警備隊の秘密補給基地が建設されていきます。1951年のサンフランシスコ平和条約でも小笠原群島や硫黄列島の施政権は返還されず、硫黄列島民は「事実上の「難民」状態」(129p)となりました。

 こうした「難民」状態が長期化する中で元島民たちの生活は困窮していきました。小笠原諸島民と硫黄列島民の生活状況は、1944年の強制疎開から53年までの間に大きく悪化し、「生活苦のための異常死亡者」が147人もいました(134p)。
 この状況に対し、島民たちは帰島運動・補償運動を起こします。54年には自由党議員・福田篤泰の尽力により衆議院外務委員会で公聴会が開かれました。ここでは島民への公的扶助を東京都の小笠原支庁長が独断で断っていた事実などが明らかになりました。
 この公聴会をきっかけに補償の動きが起こり、日本政府からの見舞金や米国政府からの補償が実現します。ただし、この配分方法をめぐって島民の間で対立が起こりました。
 小笠原群島や硫黄列島では本土のような農地改革が行われておらず、大土地所有が温存されていました。そこで地主と小作人の間で補償金をどう配分するかが問題となったのです。この配分は5:5で決着することとなりますが、島民の間に大きな亀裂を残しました。

 硫黄列島民の中には栃木県那須町の御用地の払い下げを受け入植した人もいましたが、硫黄島とは似ても似つかぬ寒冷な気候で、多くの人は農業を断念せざるを得ませんでした。結局、定着できたのは酪農に転換した一部の世帯だけです。
 著者は元島民などの証言を紹介しながら、「多くの日本国民(帝国時代の本土住民)には、敗戦直後の一時期を除けば、「戦前」よりも「戦後」が相対的に「豊かな」生活だったという自意識がある。(中略)これに対して、硫黄列島民の自己認識においては、「戦前」よりも「戦後」が苦難の経験として回想されがちだ」(158ー159p)と述べています。

 1967年、小笠原群島と硫黄列島の施政権が日本に返還されます。元硫黄列島民の間でも帰還の期待が高まりますが、70年に佐藤内閣が決定した小笠原諸島復興計画では「帰島および復興計画の対象は、当面父島および母島」と定められました。硫黄列島に関しては、不発弾処理と火山活動の安全性の確認を理由に対象から外されてしまったのです。
 その後も帰島へ向けた動きは進展せず、84年には小笠原諸島振興審議会のもとに設けられた硫黄島問題小委員会が、火山活動が活発であること、コカが栽培禁止になっていること、漁業施設の建設が難しいことなどをあげ、「硫黄島において、健康で文化的な最低限度の生活を営むことが可能な地域社会形成のための整備は、極めて困難であるといわざるを得ない」(178p)と結論づけています。火山活動は戦前からあったにもかかわらずです。

 もちろん帰島に向けた環境整備のコストの問題もあるのでしょうが、この結論の裏にある要因の1つが硫黄島の軍事基地化です、70年代から自衛隊の対潜哨戒機の訓練がしばしば行われるようになり、81年には大村襄治防衛庁長官が硫黄島を訪問し、基地の整備を進めると発言しました。そして、84年には航空自衛隊の硫黄島基地隊が新設されています。また、米軍の大規模演習もたびたびおこなわれています。
 さらに88年に、厚木基地の艦載機の陸上離着陸訓練(FCLP)のうちの夜間離着陸訓練(NLP)が暫定的に硫黄島に移されると、その後、四半世紀以上硫黄島でのFCLPがつづきます。騒音などの問題で反対運動が巻き起こるFCLPを行う場所として住民のいない硫黄島は好都合なのです。

 最後に、著者も参加した硫黄島への訪問事業がとり上げられていますが、現在、元島民やその子孫が硫黄島に行くことのできる機会は年1、2回です。元島民は高齢化し、帰島の目処も立たないままに時間だけが過ぎているのが現状なのです。

 このように、この本は元島民へのインタビューなども用いながら、今まで知られていなかった戦前の硫黄列島の社会を再現し、硫黄島の戦いの実態を掘り下げ、戦後の元島民の苦難と日本政府の責任を告発する内容となっています。
 戦後、日本から切り離された沖縄では住民たちが抑圧され米軍基地が建設されていったわけですが(このあたりは櫻澤誠『沖縄現代史』(中公新書)に詳しい)、硫黄列島では住民が完全に排除されて軍事施設化が進行してしまっており、この本を読むと、日本の敗戦の傷が放置されたままだということを強く感じます。広く読まれて欲しい本ですね。

君塚直隆『ヨーロッパ近代史』(ちくま新書) 7点

 ルネサンス期から第一次世界大戦までのヨーロッパ近代史をたどった本。新書のボリュームでは当然ながらヨーロッパの近代史の網羅的に記述することは不可能ですが、この本では舞台を西欧に絞り、さらに時代ごとに代表的な人物をとり上げる列伝体的なスタイルで歴史を描いています(このあたりはほぼ固有名を出さずに中国の近代史を論じた同じちくま新書の岡本隆司『近代中国史』と対照的)。

 全編を貫くテーマは「宗教と科学の相克」で、とり上げられている人物は、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ルター、ガリレオ・ガリレイ、ロック、ヴォルテール、ゲーテ、ダーウィン、レーニンの8人になります。
 ちょうど、この8人の没年は次の人物の生年と近くなっており、ちょうどしりとりのような形で時代が進んでいきます。つまり、伝記的事実をたどりながら、同時代に起こった出来事を語っていく構成になっていて、伝記を読んでいくと、いつの間にかヨーロッパの近代史が追体験できるようなしくみです。
 ただ、紙幅を考えれば仕方がないものの、例えば、ヨーロッパの行なった新大陸やアジアでの収奪といったことに関してはあまり触れられいないなど、ややヨーロッパのみの「閉じた」歴史になっている感もあります。
 
 目次は以下の通り。
はじめに 「ヨーロッパ」とはなにか
第1章 ルネサンスの誕生
第2章 宗教改革の衝撃
第3章 近代科学の誕生
第4章 市民革命のさきがけ
第5章 啓蒙主義の時代
第6章 革命の時代
第7章 人類は進化する?
第8章 ヨーロッパの時代の終焉
おわりに ヨーロッパ近代とはなんであったのか

 第1章ではレオナルド・ダ・ヴィンチを主人公としてルネサンスが語られています。
 まず、はじめにとり上げられているのがフィレンツェの街と、1401年にそこで行われたレリーフのコンクールです。結果は無名の新人であったギベルティが勝利しますが、無名の新人が選ばれた「実力主義」と、審査に市民がこぞって参加したという風土に、今までにはなかった新しさがあります。
 そして、1466年頃、このフィレンツェの名門の工房に助手として入ったのがレオナルド・ダ・ヴィンチです。

 ルネサンス期になると、今まで匿名、あるいは工房単位でしか把握されていなかった芸術家が「個人」として認知されるようになります。芸術家など一部の人間だけとはいえ、「個性(個人)」が確立していくのです。
 この時代はまた、現在に続く外交のスタイル(例えば常駐大使など)が生まれた時代であり、軍事革命の時代でもありました。レオナルドも、画家としてだけではなく軍事技術家として自らを売り込んでいきます。
 レオナルドは絵画の制作をしつつも、新しい兵器や要塞の研究などを行い、最終的にはフランス王のフランソワ8世に招聘されます。こうしてルネサンスはヨーロッパの北西へと広がっていくのです。
 
 しかし、このルネサンスの動きはキリスト教世界を大きく揺さぶることになります。1505年、ローマではサン・ピエトロ大聖堂の改築が始まりますが、その資金集めのために贖宥状が大々的に売り出されることになりました。
 そして、この贖宥状の販売に反対し、95カ条の論題を掲げて論争を挑んだのがマルティン・ルターでした。当初、ルターには教会批判の意図はありませんでしたが、論争の中で「教皇も誤りを犯すことがあった」と発言したことから、後戻りができなくなってしまいます。

 ルターは神聖ローマ皇帝カール5世によって異端を宣告されますが、ルターを支持する諸侯によって保護され、聖書のドイツ語訳に取り組みます。そして、このドイツ語訳の聖書やルターの主張をまとめた小冊子は、グーテンベルクの発明した活版印刷術によって広まっていきました。
 さらにルターは礼拝を民衆に委ね、誰でも歌える賛美歌を作り、プロテスタントと呼ばれるようになるキリスト教の新しい潮流をつくりました。
 ルターの死とともにカール5世が巻き返し、プロテスタントの軍を粉砕しますが、このころのヨーロッパはすでに宗派だけで動く世界ではなくなっており、カール5世は失意のうちに引退していきます。カトリックの圧倒的な権威が復活することはなかったのです。

 16世紀半ばから17世紀半ばの人物としてとり上げられるのはガリレオ・ガリレイです。ガリレオは音楽家の家に生まれましたが、当初は医学部に入り、やがて数学者への道を歩み始めます。ただ、数学科の教授の給与は十分なものではなく、貴族の子弟に築城術なども教えていました。
 その後、ガリレオは望遠鏡に出会い、天文学にのめり込んでいきます。ガリレオは木星の衛星を発見するなどの業績を重ね、ローマ教皇にも進講する機会を得るなど、ガリレオの発見は聖職者たちにも認められました。
 
 しかし、ここから神学者や哲学者たちの逆襲が始まります。ガリレオの唱えた太陽中心説は旧約聖書の記述と矛盾するとして批判を始めたのです。これには一介の数学者にすぎないガリレオが聖書の解釈にまで口を出そうとしているという反発もありました。結局、ガリレオは、1615年に反対派から告発を受け異端審問の嫌疑でローマに召喚され、太陽中心説を公言しないように求められたのです。
 1623年、以前からガリレオに好意的だったバルベリーニ枢機卿がウルバヌス8世としてローマ教皇になります。ガリレオは再び自説を唱えますが、これに教皇庁が激怒し、1633年から第二次裁判が行われます。そして、ガリレオは「異端放棄の宣誓」をさせられることになるのです。

 このころ、ちょうどヨーロッパでは三十年戦争が行われており、カトリック国であるはずのフランスがプロテスタント陣営を支援したことからカトリック陣営は劣勢に立たされていました。ガリレオに対するローマ教皇の厳しい姿勢にはこうした国際情勢も影響したと考えられます。
 
 第4章の主役となるのはジョン・ロックです。ロックが生まれた頃のイングランドではジェントルマン(地主貴族階級)によって支配されていました。彼らは地方の名望家として活躍すると同時に、議会の議員として国政に関わりました。
 ロックは中小ジェントリの出身でしたが、後に首席の大臣職になりシャフツベリ伯爵となるアシュリに見出され、その秘書官となります。そして、現実の政治に関わっていくこととなるのです。

 しかし、そのシャフツベリがカトリック教徒であることを公言していたジェームズ2世の王位継承に反対して失脚すると、ロックもまたオランダでの亡命生活を強いられます。
 このオランダでロックは『宗教的寛容論』の執筆に取り組みます。ロックは「個人の理性のなかにこそ神は存在する」(158p)と考え、宗派に属することや離脱することは個人の自由だと主張しました。
 1688年に名誉革命が起こるとロックは帰国し、『市民政府二論』や『人間悟性論』を刊行します。『市民政府二論』では権力分立と抵抗権や革命権を主張し、後の世に大きな影響を与えました。
 また、この時代は世界の覇権がオランダからイギリスに移りつつありましたが、著者はその要因の1つとしてイングランド銀行設立による金融の中央集権化と、それによるロンドンのシティの地位向上をあげています。

 第5章の主人公はヴォルテールです。ヴォルテールもご存知のようにロックと同じく宗教的寛容を唱えた人でしたが、同時に18世紀のヨーロッパ大陸のパワーゲームに巻き込まれた人物でもありました。
 父からは法律家となることを期待されたヴォルテールでしたが、演劇や詩作にのめり込み名を上げます。しかし、決闘騒ぎに巻き込まれたこともありロンドンに亡命しました。
  
 その後、ヴィルテールは許されパリに戻り、1736年からプロイセンの皇太子フリードリヒ(のちに「啓蒙専制君主」として知られるフリードリヒ2世)との文通が始まります。
 ヴォルテールはその後、オーストリア王位継承戦争でプロイセンを味方につけるためにフランスからフリードリヒのもとへ派遣されます。劣勢だったフランスは勢力を取り戻し、プロイセンはシュレージエンの大部分を獲得し、列強に承認させました。そして、ヴォルテールはフリードリヒのつくったサンスーシ宮殿に滞在することとなしています。

 しかし、この交流も喧嘩別れに終わり、ヴォルテールはジュネーブで『百科全書』の発行に協力します。さらに1761年にプロテスタントのジャン・カラスが息子を殺したとした死刑になったカラス事件が起こると、これを宗教的不寛容がもたらした冤罪事件だとして厳しく批判します。ヴォルテールは『寛容論』を出版し、知識人として世論に訴えかけました。こののち、世論が政治を動かす時代が到来します。

 18世紀後半から19世紀半ばは、フランス革命に始まる革命の時代ですが、この時代の主人公として選ばれたのがゲーテです。
 ヴォルテールが法律の勉強を捨てて文芸の道に入ったのに対して、ゲーテは文芸に興味を持ちつつも法律家となりました。ただし、彼の名を知らしめたのは25歳の時に出版した『若きヴェルター(ウェルテル)の悩み』によってです。
 この本はベストセラーとなり、ゲーテは一躍有名人となります。そして、ドイツ中部のザクセン・ヴァイマール・アイゼナハ公国の君主に請われ、この国の政務を担当することとなるのです。ゲーテは、領内のイエナ大学にフリードリヒ・シラーを招聘し、さらにフィヒテやヘーゲルやシェリングを迎え入れます。

 1789年にフランス革命が勃発すると、ゲーテもその嵐の中に巻き込まれていくことになりますが、ゲーテは政治家としては保守主義者であり、貴族政治こそが善政と考えていました。
 革命の混乱を嫌ったゲーテが「歴史上可能なもっとも優れた現象」(228p)と絶賛したのがナポレオンです。ベートーヴェンが皇帝となったナポレオンに失望したのに対してゲーテはナポレオンを信奉し続けました。
 ナポレオン戦争の2年後にゲーテは政治家を引退し、『ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代』や『ファウスト』を世に送り出します。しかし、政治の世界ではゲーテの信奉していた保守主義と貴族政治は1848年の革命で完全に破綻しました。
 一方、著者はこの時期にイギリスが第一次選挙法改正を成し遂げ、漸進的な改革を進めたことをとり上げ、ここにイギリスの優位性を見ています。

 19世紀の半ば(1830~80)を代表する人物として選ばれているのがダーウィンです。18世紀に産業が革命が起こったイギリスでは、さまざまな科学や芸術の振興組織がつくられ、また図書館や博物館、美術館も登場し、一種の「公共圏」を形作っていました。
 こうした環境のもとで生まれたのがダーウィンの業績でした。聖職者になる道をあきらめ科学の道を進もうと志したダーウィンは、大学を卒業すると測量船のビーグル号へ乗り込み、南米、ガラパゴス諸島、オセアニア、アフリカ南部を回りロンドンへと帰ります。
 ダーウィンは航海での研究成果を発表するとともに、進化論のアイディアにたどり着き、1859年には『種の起源』を出版します。もちろん、この本は大きな論争を引き起こしましたが、ダーウィン自身は沈黙を守りました。著者はこの時代になると論争は「「宗教の科学の相克」というよりは、「信仰と理性の融合」のなかで進められたのではないだろうか」(280p)と述べています。

 一方、進化論はハーバード・スペンサによって「社会進化論」へと拡張され、人間社会にも優れた社会と劣った社会があり、劣った社会が消えていくのは仕方がないという議論に利用されていきます。そして、これは欧米による世界の植民地化を正当化する理論となっていくのです。

 最後の第8章の主人公はレーニン。唯一西欧以外の出身者になります。
 レーニン(本名はウラジーミル・イリイーチ・ウリヤーノフ)の父は貧しい仕立て屋の息子から教員、官吏となり世襲貴族にまで出世した人物でしたが、父が亡くなり、兄が皇帝の暗殺計画に関与していたことが明らかになると、レーニンは苦学を強いられます。
 レーニンはマルクス主義のサークルに入り、シベリア送りになったりもしますが、1901年からはレーニンの筆名で活動するようになり、次々と論文を発表していきます。
 また、レーニンというと宗教を批判したイメージが強いですが、この時代の活動では当時のロシアで弾圧されていたキリスト教の古儀式派の力を借りていたのではないかという分析を紹介しています。

 1914年に第一次世界大戦が勃発すると、ロシアはタンネンベルクの戦いで大敗を喫し苦戦を強いられることとなります。こうした中、スイスに亡命してたレーニンは『帝国主義論』を書き上げ、資本主義と帝国主義の打倒を訴えます。
 そして、1917年の2月にそのチャンスはやってきます。ペトログラードで始まったデモは兵士の反乱へと発展し二月革命が起こったのです。当初は自由主義的な臨時政府が実権を握りましたが、戦争と食糧不足の混乱の中でその政治はうまく行かず、「すべての権力をソヴィエトに」というスローガンを掲げ帰国したレーニンのボリシェヴィキが十月革命によって権力を奪取しました。

 レーニンはドイツと講和するとともに今までの秘密外交をすべて暴露し、さらに土地の私有性を廃止するなど、今までのヨーロッパの近代を支えてきた基盤を次々と破壊していきました。また、内戦の中で正教会の財産も没収され、ヨーロッパの近代に大きな存在感を示していたキリスト教も否定されていきます。ここに「ヨーロッパの近代」は終わりを告げることとなるのです。

 終章で著者は、第一次世界大戦とともに民主主義は進展したが、「ヨーロッパ近代がそれまで築いてきた「個人」というものが、再び衰微してしまうような状態に戻ってしまった」(336p)と述べています。
 読み物としては文句なしに面白く、高校の世界史などで習った点としての知識を線としてつないでくれる本ですが、最初に述べたアジア・アフリカからの収奪についての記述がほとんどない点と、上述のようなエリート主義的な視点は、個人的には少し引っかかるところでした。


紀谷昌彦『南スーダンに平和をつくる』(ちくま新書) 5点

 2015年4月から2017年9月までの約2年半、日本の南スーダン大使を著者による、その仕事と日本の国際貢献のあり方を論じた本。
 南スーダン大使という当事者による記録は貴重ではありますが、外務省のプレスリリース的な部分が多く、著者個人の分析があまり出ていないのが少し残念なところ。また、南スーダン情勢に関してもそれほどわかりやすい説明がなされているわけではないので、2016年のジュバ衝突のインパクトや、衝突がなぜ起こって、どのように収拾されたのかといった点はあまり見えてきません。
 ただ、やはり当事者の記録や提言には興味深いところもあり、なるほどと思わせる部分もあります。

 目次は以下の通り。
第1章 南スーダン問題の構造―現場の視点から
第2章 政治プロセス―国内と国際社会の取り組みの双方を後押し
第3章 国連PKO―自衛隊のインパクト
第4章 開発支援―JICAが支えた国づくり
第5章 人道支援―国際機関と連携したリーダーシップ
第6章 NGO支援―現地NGOと連携した展開
第7章 危機管理―平和構築支援の安全確保

 南スーダンは2011年に独立した新しい国です。スーダンはもともと北部にアラブ系民族が、南部にアフリカ系民族が暮らしていいた土地で、英国がこの地域を支配する中で、南部を「閉鎖地域」として南北の交流を制限したことから、南北の分断が進みました。
 第二次世界大戦後は、英国もこの分断政策を改め、南北の統合をはかりますが、1956年のスーダン独立の前年から北部と南部の間で内戦が始まり、最終的に2005年に南北包括和平合意が署名され、2011年の国民投票によって南スーダンの独立が決まります。
 しかし、独立後には与党SPLM内の権力争いが持ち上がり、2013年12月から政府軍(SPLA)と反政府軍(SPLA‐IO)の衝突が起こりました。著者が赴任した2015年の5月は政府と反政府勢力の衝突解決合意が署名される直前の時期で、政情が安定しない中での赴任でした。難民・国内避難民は400万人以上で、国民の約3分の1にのぼっています。
 
 南スーダンにはさまざまなアクターが関わっています。まず周辺国としてエチオピア、ウガンダ、ケニア、スーダンなどが加盟する政府間開発機構(IGAD)があり、その外側にはAU(アフリカ連合)があります。
 もちろん、国連もPKOを派遣しており、その関与は大きいですが、先進国の中では米国、英国、ノルウェーが「トロイカ」として政治プロセスの支援や人道支援をリードしています。さらに、南スーダンの石油に投資している中国、エチオピアと関係の深いイタリアなども、南スーダンに関わっています。

 2015年の衝突解決合意でイニシアティブをとったのは米国でした。米国の圧力によって南スーダンのキール大統領は衝突解決合意に署名し、反政府派だったマシャール前副大統領が、第一副大統領として国民暫定政府に加わりました。
 ところが、この合意は2016年のジュバ衝突によって崩れてしまいます。マシャール副大統領はジュバから逃走し、反政府勢力の間でも分裂騒ぎが起こったのです。

 こうした中で日本は融和的に動いています。米国は南スーダン政府に対する武器禁輸と個人制裁強化決議案を国連安保理に提出しますが、日本は棄権に回り、この決議案は否決されました(60p)。対米追従にイメージが強い日本ですが、独自の動きを見せていたことがわかります。

 第3章以降では、日本の行ったさまざまな支援が紹介されています。
 まずは自衛隊のPKO活動です。日報問題のイメージが強くなってしまった自衛隊のPKO活動ですが、南スーダンには2012年から約350名規模の施設部隊が派遣されていました。
 自衛隊の施設部隊はUNMISS(国連スーダン・ミッション)の活動のために派遣されえおり、UNMISSの安全確保のための防護壁や退避壕の設置や強化などを行いました。さらに、南スーダンの国民にとってもプラスとなる幹線道路の整備も自衛隊は行いました。

 また、この本を読むと自衛隊が細々とした交流を行っていたことも見えてきます。孤児院の訪問や、ねぶたをはじめとする日本の祭りの披露、空手の演舞の披露、スポーツ大会のための会場整備や、スポーツ交流など、現地の人々との交流を積極的に行っていたことが見えてきます。
 ただし、ジュバ衝突のときに自衛隊がどれくらい危険な状況下にあったのかということなどは書かれていません。

 第4章では、JICAを中心とした開発支援を扱っていますが、まずは政府に問題がある場合に支援を継続すべきかという問題がとり上げられています。
 欧米諸国は、南スーダン政府が対立をつくり出しているとして、援助を続けることは悪行に対して報奨を与えるようなものだという観点から支援の継続に否定的ですが、日本は政府と国民を峻別することは容易ではないとし、国民のためにも援助を継続すべきだというスタンスです。

 南スーダンは産油国であり、本来ならば比較的財源には恵まれているはずなのですが、政府が南スーダンポンドとドルの公定レートと実勢レートの乖離を放置して、特定の業者に公定レートでドルを手にすることができるようにしたせいで、外貨は流出し、財政状況は悪化していきました(108p)。

 そんな中で日本は治安部門に対して一貫して援助を続けるとともに、JICAを通じてさまざまなインフラ整備などを行いました。
 例えば、ナイル川に架ける橋「フリーダム・ブリッジ」の建設やジュバでの上下水道の整備などがあげられます。ただし、地元の期待も高かったこの2つの事業も2016年のジュバ衝突でストップしてしまったそうです。

 ただ、それ以外にも河川港の建設や農業・灌漑のマスタープランの作成、職業訓練、税関支援、スポーツ支援とオリンピックへの選手派遣など、さまざまな分野で日本による支援が行われていることがわかります。

 第5章では人道支援がとり上げられています。南スーダンのような内戦状態の国では、地方への支援は反政府勢力に流れてしまう恐れがあり、政府は地方への支援に消極的です。また、支援する側の安全を確保する必要も出てきます。
 また、短期的に人道支援は必要ですが、それに依存してしまうようになると、逆に経済発展が阻害される恐れも出てきます。
 
 日本に関しては、特に強調されているわけではありませんが、この章を読む限り、予算的な制約が厳しいようで、特定の分野に大規模な支援を行うよりも、ややニッチな部分に小さな予算を出していく「細切れ作戦」で支援を行っているとのことです。
 例えば、献血制度の構築や、警察支援、南スーダンの若手実務者を国連訓練調査研究所の広島事務所に招いての研修などがあげられます。

 第6章はNGOについて。南スーダンではさまざまなNGOが支援活動にあたっていますが、南スーダン政府のNGOに対する見方は必ずしも好意的なものではありません。
 南スーダン政府の関係者は、南スーダンに対する援助資金の多くがNGOの職員の給与等にあてられているのではないかと疑っており、NGOの登録料引き上げなどを試みたりもしたそうです(184p)。

 そうした中で、日本の大使館としてはまずはNGOにたずさわる日本人の安全確保が問題となります。南スーダンでは、2013年12月以降、ジュバ以外の地域はレベル4(退避勧告)であったため、撤退を余儀なくされたNGOもいました。
 著者自身は、国際NGOの中には国連などと緊密に連携しつつ活動を継続した団体も多いので、日本のNGOも同様に活動できるのではないか? と考えたりもしたそうですが、やはり邦人の安全確保が優先されたのです。

 一方、各国のNGOが行っている支援に対して、日本の大使館として資金協力を行う「草の根無償」というプロジェクトも行われました。 
 さらに、この章では、南スーダンからのハチミツの輸出など、ビジネスの可能性についても触れられています。

 第7章は「危機管理」というタイトルで、UNMISSや南スーダンの治安機関との連携の大切さ、ジュバ衝突の時にいかに動いたかということが簡単に触れられています。ただし、ここの記述は報告書のような感じで、実際の緊迫感などはあまり伝わってきません。

 数々のプロジェクトが中心になっていることからもわかるように、ジュバ衝突は大きなインパクトを持った出来事のはずなのですが、その衝撃がぼかされているような印象を受けるのがこの本の欠点なのではないかと思います。
 自衛隊の日報隠しではないですが、深刻な事態のはずなのに立場的にそれを書けないのではないかと邪推していまいます。

 ただ、副題に「「オールジャパン」の国際貢献」とつけながら、「おわりに」では「ただし、「オールジャパン」という松明は、日本の関係者を広く巻き込む上では効果的だが、他の支援国・機関を尻込みさせ、遮断させることにつながりかねないという点には注意すべきである」(221p)など、著者の経験に則した個人的な見解がうちだされている部分もあり、そういった部分に関しては興味深いです。


小笠原弘幸『オスマン帝国』(中公新書) 9点

 オスマン帝国はアナトリアを中心に中東、バルカン半島に大きく勢力を広げた王朝です。オスマン帝国についてはその版図の広がりに目を奪われますが、それ以上に驚かされるのが13世紀末に登場し、1922年まで600年以上も存続したという息の長さです。
 もちろん、長く続いているということであれば日本の天皇家はそれ以上ですが、一つの家系がそれなりに権力を保持しつつ、しかも、一般的にカリスマ的指導者を失うとあっという間に崩壊してしまいことが多い遊牧民族系の王朝の中でこの存続期間は驚異的です。
 この本はそんなオスマン帝国の歴史を誕生から滅亡まで描いた本になります。比較的オーソドックスな構成ながら、オスマン帝国の支配構造の変遷がわかるようになっており、世界史の中におけるオスマン帝国の特殊性と、現在のトルコに与えている影響といったものを教えてくれる内容になっています。

 目次は以下の通り。
序章 帝国の輪郭
第1章 辺境の信仰戦士―封建的侯国の時代:1299年頃‐1453年
第2章 君臨する「世界の王」―集権的帝国の時代:1453年‐1574年
第3章 組織と党派のなかのスルタン―分権的帝国の時代:1574年‐1808年
第4章 専制と憲政下のスルタン=カリフ―近代帝国の時代:1808年‐1922年
終章 帝国の遺産

 もともと中央アジアで遊牧生活を送っていたトルコ人は奴隷軍人としてイスラム世界に流入し、やがて王朝をつくるようになります。なかでも大セルジューク朝は1071年のマラズギルトの戦いでビザンツ帝国の軍を破ると、アナトリアのトルコ化が進みました。
 しかし、大セルジューク朝が力を失うと、いくつかの小国家(侯国)が現れ、争うようになります。その中の1つの指導者がオスマンです。
 
 オスマンの起源は謎に包まれていますが、1302年にビザンツ帝国軍がオスマン軍に敗れたとする記録がオスマンが歴史に登場する最初になります。
 このころのオスマンはたんなる部族的な結合だけではなく、イスラムの聖戦にたずさわる「信仰戦士(ガーズィー)」としての共同意識がありました。ただし、オスマンにはビザンツ帝国に見捨てられたキリスト教戦士も集まっており、オスマンは「聖戦の名のもとに、ムスリムとキリスト教徒が集いともに戦う」(34p)という一見すると奇妙な集団でした。

 このオスマンがつくった国を発展させたのが2代目のオルハンでした。1326年にビザンツ帝国の要衝ブルサを攻略すると、北西アナトリアをほぼ支配下におきます。
 さらにオルハンはウラマー(イスラム法学者)のチャンダルル家の一門をまねき、宰相とすることで国制を整えていきます。
 
 オルハンの頃からオスマン軍はたびたびバルカン半島へと遠征をしていましたが、オルハンの後を継いだムラト1世の時にバルカン半島のエディルネを征服します。さらに1387年にはサロニカを攻略し、エーゲ海の北岸を支配下に置きました。
 また、このムラト1世の行ったことで特筆すべきはイェニチェリ軍団の創設です。今までのトルコ系の騎兵部隊に加え、元キリスト教徒奴隷からなる常備歩兵がつくられることになったのです。
 この奴隷の活用はオスマン朝の一つの特徴で、歴代の君主の母も多くは奴隷でした(ムスリムの自由人を奴隷にすることは出来ないのでキリスト教徒が多かったと考えられる)。奴隷は君主以外に地縁や血縁を持たず、謀反の可能性が低いと考えられましたし、また、君主の母が奴隷であることによって外戚を排除できました。

 ムラト1世の後を継いだバヤズィトはアナトリアを統一し、さらにコンスタンティノポリスを包囲しますが、1402年のアンカラの戦いでティムールに大敗し、バヤズィトは捕らえられ、残されたバヤズィトの王子たちもティムールに服従しました。
 この後、オスマン朝は4人の王子が争う空位時代を迎え、この争いに勝ったメフメト1世が領土を回復させます。

 そして、このころ導入されたのがデヴシルメ制度です。これはキリスト教徒の農村から眉目秀麗・身体頑健な少年たちを奴隷として徴用し、ムスリムに改宗させトルコ語を学ばせたうえで、特に優秀なものは宮廷に、それに次ぐものは常備騎兵に、それ以外はイェニチェリ軍団に入れるというものです。
 彼らの中からは州総督や宰相、大宰相といった要職につくものも出ましたが、奴隷身分から開放されなかったのが特徴で、「カプクル(王の奴隷)」と呼ばれました。

 また、地方支配に関してはティマール制がとられました。これはムスリム戦士に町や村の徴税権を与える代わりに治安維持をゆだねるもので、彼らはいざ戦争となれば駆けつける義務がありました。
 鎌倉武士と少し似ていますが、徴税権しか持たず、一代限りであったのが特徴で、この点もオスマン朝の中央集権性をあらわしていると言えるでしょう。

 そして、メフメト2世が登場します。彼がまず行ったのは、当時乳児にすぎなかった弟のアフメトの処刑でした。メフメト2世の晩年に編纂された『法令集』には「世界の秩序のために、兄弟を処刑することは許される」(82p)との記述があり、この兄弟殺しの慣習は16世紀末までつづきます。

 1453年、メフメト2世は難攻不落のコンスタンティノポリスを攻略し、帝都に定めます。この都市はイスタンブルと呼ばれるようになりました。
 メフメトは聖ソフィア教会をアヤ・ソフィア・モスクにつくりかえ、のちにトプカプ宮殿と呼ばれる新宮殿をつくりました。また、メフメトは前述のカプクルを政権運営の中枢に据えました。こうした政策によって「オスマン帝国では、ほかの社会に見られるような貴族・名士層が、ほとんど台頭しなかった」(96p)のです。
 メフメト2世はバルカンでアルバニアやワラキアを征服し、アナトリアでは白羊朝を破って勢力を広げ、49歳で亡くなりました。

 つづくバヤズィト2世は父と違って治世の間、ほぼ目立った遠征をしませんでしたが、代わりにイベリア半島から逃げてきたユダヤ人を受け入れたこともあり、文化が発展した時代でした。
 しかし、新興のサファヴィー朝への生ぬるい態度は、息子のセリムや軍人の反発を呼び、バヤズィト2世は息子に追われる形で退位します。
 
 そのセリム1世は、1514年にチャルディランの戦いで鉄砲をうまく利用してサファヴィー朝を破り、1516年にはマムルーク朝を破ります。そのままセリムの軍はエジプトまで進撃し、エジプトを支配下に置きます。このとき、アッバース朝のカリフの末裔からセリムがカリフの座を受け継いだとの説もありますが、この真偽は不明だそうです(119p)。

 セリム1世の後に登場するのがスレイマン1世です。スレイマンの治世の前半は、セルビア系の出自だと言われるイブラヒムを重用し、ヨーロッパへの遠征を繰り広げました。
 1521年にはベオグラードを攻略し、1522年にはロードス島を征服、1526年にはハンガリーに遠征し首都のブタを陥落させますが、このハンガリーをめぐってオスマンとハプスブルクの対立が始まります。1529年には有名なウィーン包囲が行われますが、決着はつかず、この対立は長きにわたって続いていくことになります。
 また、ヨーロッパ諸国と対立するだけではなく、フランスとは友好関係を結んでおり、オスマン帝国内での通商の自由などを認めるカピチュレーションを与えていました(ただし、この恩恵がのちの時代には不平等条約に転化する)。
 1536年にスレイマンの片腕だったイブラヒムが処刑されると、代わって権力を握ったのがウクライナ出身の奴隷、寵姫ヒュッレムでした。イブラヒムの処刑後は、スレイマンも目立った親征をしなくなり、1566年に亡くなります。

 つづくセリム2世の治世を支えたのが大宰相ソコッルです。ボスニアで生まれデヴシルメ制度で徴用されたソコッルは、「酔漢王(サルホシュ)」との異名を持つセリム2世に代わって政治を取り仕切りました。
 このセリム2世のとき、レパントの海戦があり、オスマン帝国の艦隊はスペインなどの連合艦隊に敗れますが、その前にキプロスの攻略に成功しており、ここを歴史のターニングポイントのように考えるのは誤りのようです。
 また、この時代にはイルミエ制度と呼ばれるウラマーの位階制度が確立しました。イスラム長老エビュッスウード・エフェンディによりイスラム法学者のヒエラルキーが整備されました。この制度のもと、現金ワクフの合法化など、イスラム法の大胆な読み替えも行われていきました。

 セリム2世の次のムラト3世の時代を著者はひとつの画期と見ています。ムラトはソコッルの死後、大宰相を長期間その座に留めない一方で、ハレムを統括する黒人宦官長の役職を創設し母に「母后」の称号を与えるなど宮廷の強化に努めました。
 これは中央集権を強化するために用いられたカプクルの力が強くなる中で、逆にスルタンの大権が制限されるようになってしまった状況への対処だとだ考えられます。このムラト3世以降、オスマン帝国では大宰相らに代表される政治家たち、高位ウラマー、宮廷勢力など、さまざまなアクターが合従連衡を繰り返しながら政権が運営されていくことになるのです。
 
 また、このころティマール制が解体され徴税請負制が導入されていきました。軍事技術の発展によって時代遅れになっていたティマール騎兵に変わって、イェニチェリが増員され、それ以外の非正規兵の雇入れが行われましたが、それには財源が必要でした。
 そこでティマールに代わって徴税請負人を置き、政府に税を上納させたのです。ただし、上納分以外は徴税請負人の収入となったため、しばしば過度の収奪が行われ、それが地方を不安定にしました。

 ムラト3世が病死するとメフメト3世が即位しますが、このときは19人の幼い弟達が殺害され、イスタンブル市民に衝撃を与えました。しかし、メフメト3世のあとに13歳のアフメト1世が即位した時には、その弟のムスタファは殺されませんでした。アフメト1世が子をなす前に死ぬ可能性がありましたし、イスタンブルの世論にも配慮する必要が出てきたからです。
 こののち、殺されなかったスルタンの兄弟は宮殿の奥深くで外界との接触を断つ形で育てられました。これを「鳥籠(カフェス)」制度といいます。

 しかし、スルタンの候補者がイスタンブルにいるという状態はスルタンの廃位を容易にすることでもあります。17世紀には9名のスルタンが登場し、6度の廃位が行われています(172p)。これは、オスマン帝国の衰退の証のようにも思えますが、これは「王権の濫用にたいしてステークスホルダーが起こしたリアクションとして捉え直すこと」(173p)もできます。

 17世紀半ば、ヴェネツィア艦隊にダーダネルス海峡を封鎖されたオスマン帝国は危機に陥ります。この危機を救ったのが当時80歳近かったと言われる大宰相キョプリュリュでした。キョプリュリュは徹底した粛清で常備騎兵軍などを退場させて秩序を回復すると、ダーダネルス海峡の封鎖を解きます。
 さらにキョプリュリュの子のファーズルも優秀な人物で、1669年にはクレタ島を、1672年にはポドリアを攻略し、オスマン帝国の版図は最大となりました。
 しかし、ファーズルの死後に行われた1683年の第2次ウィーン包囲は失敗に終わり、ここから攻守は逆転します。

 ヨーロッパでオーストリア、ポーランド、ヴェネツィア、ロシアによる神聖同盟が結成されるとオスマン帝国は苦戦を強いられることになります。苦戦の要因にはオスマンが軍事技術の革新に乗り遅れてしまったことと、神聖同盟が長期にわたって対オスマンで結束したことです。
 一時期、オスマン帝国はムスタファ2世の活躍によって盛り返すものの、ハプスブルク軍のオイゲンに大敗し、1699年のカルロヴィッツ条約によってオスマン帝国はハンガリーやクロアチア、ペロポネソス半島、黒海沿岸の北東部などを失いました。

 オスマン帝国の18世紀はスルタンとイスラム長老がイェニチェリ軍団や市民などによってその座を追われる1703年のエディルネ事件に始まります。1730年のイスタンブルでの反乱でもスルタンが廃位されるなど、国内は安定しませんでした。
 一方、ロシアに対してはスウェーデンやプロシアと条約を結んで対抗し、1739年には有利な条件でベオグラード条約を結びましたが、1768年になると露土戦争が始まり、オスマン帝国はクリミア半島を失います。
 また、このころには終身の徴税請負人が導入され(任期付きだとその任期中に苛烈な収奪をするから)、「アーヤーン(地方名望家)」と呼ばれるようになりました。のちにエジプトで半独立政権を打ち立てるメフメト・アリ(ムハンマド・アリー)もその一人です。

 こうした中、18世紀末にセリム3世が改革を始めます。目玉はヨーロッパ式の軍事技術を取り入れたニザーム・ジェディード軍の創設で、エジプトではナポレオン軍を撃退することに成功しましたが、イェニチェリ軍団をはじめとする旧勢力の反発などによって改革は挫折し、セリム3世もその座を追われます。

 ただし、改革は粘り強く続けられることになります。19世紀前半、マフムト2世はイェニチェリ軍団の廃止に成功し、アーヤーンを掃討します。さらに文民に洋装をさせ、ターバンを廃止しトルコ帽を導入するなど、近代化を進めました。
 マフメト2世の子アブデュルメジト1世は、自ら政治の主導権は握りましせんでしたが、部下たちに改革を進めさせました。1839年には薔薇園(ギュルハネ)勅令が出され、タンズィマートと呼ばれる改革が始まります。これによって、臣民の身分が保障されるとともに、司法や教育制度の改革が行われ、イスラムと近代的な制度の融和が図られました。
 さらにクリミア戦争では英仏の助けを得ると、非ムスリムの待遇改善を要求され、1856年に非ムスリムにムスリムと同等の権利を与える改革勅令が発令されました。

 それでもオスマン帝国の苦境は去らず、1875年にはオスマン政府は債務不履行を宣言しています。
 相変わらず、ロシアからの圧迫もなくならない中で、オスマン帝国が英仏の支援を引き出すために行ったのが憲法の制定です。ミドハト・パシャを中心につくられたこの憲法はアジア初の近代的憲法であり、ロシアにも先んじたものでした。
 
 しかし、立憲政治がスタートした直後にロシア軍が侵攻、しかも、英仏も支援には動いてくれず、オスマン帝国は大きく領土を失います。そこで、立憲政治に見切りをつけたアブデュルハミト2世は非常大権を使って憲法を停止させます。そして、アブデュルハミトの30年にわたる専制が始まるのです。
 アブデュルハミトは自らに権力を集める一方で、イスラム的な価値観を使って帝国内の臣民をまとめあげようとしました。また、スルタン個人への忠誠心が求められ、アブデュルハミト体制は「20世紀の中東諸国にみられる権威主義的独裁体制の、もっとも早い一例」(251p)とみることもできます。

 この専制を崩したのが青年トルコ人運動でした。立憲制の復活を求めた彼れは1908年にサロニカで蜂起し、それを鎮圧できなかったアブデュルハミトは憲政の復活を認めます。
 アブデュルハミトが退位し、議会が存在感を増すようになりましたが、相変わらず外敵の存在が国内政治を不安定にさせました。1912年にはじまったバルカン戦争ではオスマン帝国はまたしても危機に陥り、そうしたなかでトルコ民族主義が台頭します。

 第一次世界大戦では、積極的ではなかったもののドイツ側で参戦します。オスマン帝国は粘り強く戦ったものの、ドイツが休戦すると、オスマンもまた軍事占領を受けます。
 最後のスルタン・ヴァヒデッティン(メフメト6世)はイギリスと協調することでオスマン帝国の延命を図ろうとしましたが、ギリシャ軍がアナトリアに上陸すると、ムスタファ・ケマルが立ち上がり、新しいトルコへと向けて動き出すのです。
 ここにオスマン朝の命脈は尽きました。1922年11月1日、スルタン制の廃止が宣言され、11月18日にヴァヒデッティンの廃位が宣言されることで、オスマン朝は600年近い歴史を終えるのです。

 このようにこの本では、支配構造とその変遷を中心にオスマン帝国600年の歴史を描き切っています。オスマン朝における血統の捉え方、奴隷の活用、遊牧国家との違い、イスラムという宗教の扱いなど、本当に勉強になることが多く、汲み尽くせぬ面白さがあります。著者の豊富な知識と、オスマン帝国という素材の面白さがなせる業でしょう。
 歴史好きにとっては、オスマン帝国というヨーロッパとも中国とも違う帝国の姿を知ることで、いろいろなものが見えてくると思います。また、今後のイスラムと世俗社会の関係を考える上でも参考になりますし、終章にも書かれているように、今のトルコのエルドアン政権を考える上でもオスマン帝国の理解は欠かせません。現在の中東を知る上でも役に立つ本です。
 

小田中直樹『フランス現代史』(岩波新書) 8点

 フランスの戦後史を10年ごとに区切りながら、そこで起こった出来事と、対立の構造の変容を描き出した本。著者はもともとフランスの近代の社会経済史を研究していた人物で、読む前は社会経済史によった内容を想像していましたが、思ったよりも政治経済よりで、政治が経済に及ぼした影響、経済が政治の対立軸を変えていく様子が「分裂と統合の弁証法」というキーワードのもと、詳細に書かれています。
 また、各年代をほぼ25ページ前後で均等にまとめている点も、特徴と言えるでしょう(例えば、1968年に大きなページが割かれたりはしていない)。それでいて、平板な印象を与えないのは著者の筆力のなせる業と言えるのかもしれません。 

 目次は以下の通り。
序 章 分裂と統合の弁証法
第一章 解放と復興―― 一九四〇年代
第二章 統合欧州の盟主をめざして―― 一九五〇年代
第三章 近代化の光と影―― 一九六〇年代
第四章 戦後史の転換点―― 一九七〇年代
第五章 左翼政権の実験と挫折―― 一九八〇年代
第六章 停滞,動揺,模索―― 一九九〇年代
第七章 過去との断絶?―― 二〇〇〇年代
終 章 その先へ

 まずは「分裂と統合の弁証法」という言葉ですが、著者はこれがフランス革命以来続いているといいます。
 例えば、1848年の二月革命はブルジョワジーと民衆(労働者や小農)がその担い手となりました。彼らは王政を倒すという目的では一致しましたが、革命後は所有権や自由な経済活動を重視する前者と、生存権の保証による生活の安定を求めた後者で分裂します。そして、その分裂はナポレオン3世によって統合されるという具合です。

 なぜ、このようなプロセスが生じるのかというと、それはフランスが「相対的後進国」だからだといいます。
 日本からするとフランスを「後進国」と呼ぶことに疑問を抱くかもしれませんが、産業革命以降、フランスはイギリスに対して常に劣位に置かれていました。しかしそれは、埋めようとすれば埋められると思われるほどの差です。
 中間層は経済の自由化を推し進めることによってイギリスにキャッチアップしようとし、民衆は身分制の廃止には同意するものの、同時に生活の安定を望みました。こうした分裂がフランスの歴史を貫いているというのです。

 1944年8月パリが解放され、翌年の5月にはドイツが降伏し、ヨーロッパでの第二次大戦は終結します。しかし、フランスに残されたのは反独派と親独派の分裂であり、また、反独派の中においても国内レジスタンスと国外レジスタンスの間にも分裂がありました。
 これに対し、国外のレジスタンスを率い、臨時政府の首席となったシャルル・ドゴールは、多くのフランス人がレジスタンスに参加・協力しドイツに勝ったという「レジスタンス神話」を押し出すことで統合を図っていきます。

 ドゴール率いる臨時政府は経済の再建に着手しますが、そこで採られたのがディリジスムと呼ばれる国家主導主義でした。この路線にしたがって企業の国有化が進みますが、こののちにポイントとなったのが、企業の経営をテクノクラートが主導する「上からのディリジスム」と、労働者の参加を重視する「下からのディリジスム」の違いです。ドゴールは「上からのディリジスム」を志向しましたが、共産党などは「下からのディリジスム」を志向しました。

 政治の面では、ドゴールはすべての階層を基盤とする姿勢を示しましたが、国民議会では共産党、社会党、人民共和運動の3党で議席の8割を占め、46年1月にはドゴールは政府首席を退任します。
 46年10月の国民投票で可決された憲法は立法府である議会に大きな権力をもたせたものであり、政治は議会で多数を占める共産党、社会党、人民共和運動の3党によって進んでいくことになります。

 50年代のフランスが直面した課題は、外交面で言えば植民地の独立と欧州統合でした。
 まず、インドシナに関しては、54年に停戦とフランス軍のベトナムからの撤退、カンボジアとラオスの独立が決まりますが、一方、フランスに近く密接な関係のあるアルジェリアに関しては独立を認めるかで国論が二分されることになります。
 欧州統合は、ドイツの封じ込め政策、そしてアメリカやソ連に対抗する手段として進められていきます。そして、51年に欧州石炭鉄鋼共同体が、58年には欧州経済共同体が誕生するのです。

 また、経済に関しても復興が進み、輸出促進のためにフランの切り下げが繰り返されたこともあって、経済は成長しました。
 しかし、政治に関しては不安定な状態が続き、1950年から58年まで17の内閣が誕生し、平均在任期間は半年弱という状況でした(50p)。
 こうした中で、「上からのディリジスム」によって思い切った経済の自由化を進めて国民の支持を得たのがマンデスフランス首相でした。彼の改革は「マンデス革命」とも呼ばれますが、その在任期間もわずか7ヶ月に過ぎませんでした。

 安定しなかったフランス政治は50年代後半、アルジェリア戦争をめぐってますます混乱します。クーデタもささやかれる中で、この混乱の収拾のために復活したのがドゴールでした。
 ドゴールは国民投票を行ってアルジェリア独立を承認するとともに、新たな憲法を制定し、大統領と行政府の権力を強化しました。そして、59年に第五共和政初代大統領となるのです。

 ドゴールは62年にポンピドーを首相に任命し、社会経済構造改革を進めながら、外交面でフランスの栄光を追求しました。核実験と核軍備、中華人民共和国の承認、NATOからの一時的かつ部分的な脱退など、米ソ二大国による国際社会の支配に反発する姿勢を示します。
 このために欧州統合を推し進め、西ドイツとの緊密な関係を築きました(一方で、アメリカに近いイギリスの加盟は拒否した)。67年には欧州共同体(EC)が誕生します。

 経済成長が続いた50~70年代は「栄光の30年」とも呼ばれますが、その中で人々の暮らしも大きく変化しました。都市への人口集中とメリトクラシーの拡大がこの時代の大きな変化でしたが、人口を吸収するためにつくられた団地は人々からは好まれず、やがて荒廃し都市問題を引き起こしていくことになります。また、メリトクラシーは拡大しましたが、同時にグランゼコールと呼ばれる高等教育機関に集まった政官財のトライアングルを形成していくことになります。

 こうした状況に反発したのがベビー・ブーマー世代であり、68年の学生反乱と五月危機へとつながっていきます。学生反乱に誘発される形で労働者のストライキが起こり、フランス社会を大きく揺るがすにいたりますが、ポンピドーが一切の譲歩を拒否するドゴールを説得して労働者の待遇改善を約束することで運動は下火になっていきます。

 つづく70年代に著者はフランス社会の転換のポイントを見ています。
 1969年、憲法改正に失敗したドゴールが辞職します。同年の大統領選挙ではドゴールの後継として選挙に臨んだポンピドーが当選し、経済分野の改革と労使協調路線が目指されました。
 また、新中間層が増えてきたのもこの時代の特徴で、この新中間層をどう取り込んでいくかが政党の課題となりました。社会党が新中間層の取り込みに動くとともに、ジスカールデスタンが新中間層を代弁するための政党・独立共和派を結成しました。
 ジスカールデスタンは74年の大統領選挙でミッテランを破って当選、シラクを首相に据えて先進型リベラル社会の建設を目指します。そして成人年齢の引き下げや人工妊娠中絶の合法化などが行われます。

 しかし、この時期は第一次石油危機の直撃を受けた時期でもありました。ECは加盟国間の為替相場を一定のレンジで固定する政策を採用し、フランスもこれに参加しますが、これはフランスが通貨切り下げ政策をとれなくなることも意味しました。

 この70年代には、「上」(支配層と新中間層)か「下」(旧中間層と民衆層)かという対立だけではなく、移民をめぐって「内」か「外」かという対立も生まれてきました。
 この「内」と「外」の対立を利用したのが72年に誕生した国民戦線と党首のジャンマリー・ルペンです。当初は旧中間層を代表する政党でしたが、70年代末から移民の問題をとり上げ、勢力を伸ばしていくことになります。
 70年代はアイデンティティ・ポリティクスが力を持ってきた時代でもあり、84年には緑の党も誕生します。「エコロジー運動をはじめとする新しい社会運動は、フランスでは、基本的に左翼に分類されている。ただし、それらは、アイデンティティ・ポリティクスに土台を置く点を、国民戦線と共有する」(122p)のです。

 81年の大統領選挙で当選したのは左派のミッテランでした。ミッテランは企業の国有化、財政支出の増加、フランの切り下げ、最低賃金の引き上げ、年金の引き上げ、公的セクターの雇用創出などを進めていきます。いかにも左派的な経済政策と言えるでしょう。
 しかし、大々的に始まった「ミッテランの実験」でしたが、経済政策のパッケージが機能性せずに行き詰まります。欧州通貨制度を離脱して通貨を切り下げる政策は支持を得られず、フランの価値を維持するために通貨供給量を絞るディスインフレ政策が採用され、産業の合理化が進められていくことになります。

 また、80年代は移民の問題がクローズアップされた時代でもありました。団地にすむ若者たちが暴動事件を起こす一方で、83年には移民の若者が人種差別の撤廃を求める「ブールの行進」を行いました。ムスリムの女子生徒がかぶっていたスカーフが問題となり、国論を二分する騒ぎになったのも89年です。
 
 86年の国民議会選挙では左派が敗北。左派のミッテランのもとで右派のシラクが首相になるというコアビタシオンが出現します。内政をシラクが外交と防衛をミッテランが担当する形で政治が進み、国内では国有企業の民営化など新自由主義的な政策が行われました。
 
 冷戦の終結はドイツの再統一をもたらしますが、この統一ドイツに対してフランスを始めとする欧州諸国は欧州統合の強化という形で対応します。92年にはマーストリヒト条約が調印され、97年には国境検査の廃止をうたったアムステルダム条約が調印されます。90年代、欧州統合は大きく深化するのです。
 しかし、フランス国民のすべてがこの統合の深化を歓迎したわけではありません。マーストリヒト条約調印をめぐって行われた国民投票では賛成が51.04%という僅差の勝利であり、統合の深化には右派左派双方から反対の声が上がりました。
 
 こうした中で、政治に対立軸には「親欧州統合」、「反欧州統合」も加わり、複雑な様相を見せるようになります。70年代まではフランス社会は「上」(支配者層)が「右」、「下」(民衆)が「左」というわかりやすい構造でしたが、「右」と「左」の対立軸は移民問題などをめぐって再編され、国民戦線のような「右」であり「下」といったポジションも確立していくことになります(166pの図2、167pの図3参照)。
 こうした対立の中で政治も安定せず、93年にはミッテラン大統領のもとで2度目のコアビタシオンが、97年には右派のシラク大統領のもとで左派のジョスパン政権が成立するコアビタシオンが起きました。マーストリヒト条約という「コルセット」(174p)のもとでは右派・左派とも国民の不満を受けない政権運営は難しかったのです。

 2002年の大統領選挙において、ルペンが決選投票に進んでしまうというアクシデントが起きます。これは左派がジョスパンの人気を過信して候補を乱立させたために起こったことですが、こうなると左派もシラクを支持せざるを得ませんでした。
 しかし、シラクが目指した社会保障改革は大規模なデモやゼネストによって阻まれ、社会問題の解決は持ち越されます。

 このような状況のもとで07年の大統領選挙に勝利したのがサルコジです。サルコジは社会政策の面では不法移民への厳しい対処と治安の重視を掲げます。サルコジ自身、ハンガリー移民の2世であり、移民やイスラムに反対していたわけではありませんが、彼はアイデンティティ・ポリティクスを嫌い、経済的な自由主義を貫徹しようとしました。
 
 また、サルコジは「ピープル」(英語のPeopleだが、日本語の「セレブ」や「有名人」にあたる)として振る舞いました。私生活を露出し、結婚と離婚を繰り返し、メディアで自らのイメージを広げようとしたのです。
 「かくして、21世紀に入り、政治は、効果と意義と実現可能性をもった政策の構想と提示よりは、政治家の人格やイメージの売りこみという色彩を強めて」(197p)いきます。
 2012年の大統領選挙では左派のオランドが当選しますが、欧州の経済危機の中、結局、ディスインフレ政策しか打ち出すことはできず人気は失速します。
 そして2017年の大統領選挙では右派と左派が分裂する中で、中道路線での大同団結を掲げるマクロンが、国民戦線のマリー・ルペンを破って大統領に当選するのです。

 このようにこの本を読むと、フランス政治を動かしてきた対立軸と、その行き詰まりが理解できると思います。
 「上」と「下」、あるいは「上からのディリジスム」と「下からのディリジスム」の対立は、グローバル化と欧州統合によって課せられた財政や金融面での制約によって成り立たなくなっています。そこで、「移民」、「親EU/反EU」といった対立軸がつくられるわけですが、これらの対立軸は社会の分裂を加速させます。
 フランス社会を貫く対立の構造の歴史的経緯を丁寧にたどっており、今後の欧州政治を考えていく上でも参考になる内容です。


池上彰・上田紀行・中島岳志・弓山達也『平成論』(NHK出版新書) 5点

 少し前に出たものですが、ひょんなことから手に入ったので読んでみました。
 「平成論」という大きなタイトルが掲げられていますが、副題は「「生きづらさ」の30年を考える」で、宗教の問題を中心に平成という時代を論じたものになります。
 著者の4人がそれぞれ論考を寄せるような形の構成となっており、わかりやすく読みやすいですが、同時に論じ方はやや荒っぽいなと感じさせる面もあります。ちなみに著者の4人はいずれも東京工業大学でリベラルアーツ教育に携わっている教授や匿名教授になります。
 以下ではそれぞれの論考を簡単に見ていきたいと思います。

 目次は以下の通り。
はじめに 大正大学客員教授 渡邊直樹
第1章 世界のなかの平成日本──池上 彰
第2章 スピリチュアルからスピリチュアリティへ──弓山達也
第3章 仏教は日本を救えるか──上田紀行
第4章 平成ネオ・ナショナリズムを超えて──中島岳志
おわりに  上田紀行

 まずは池上彰の第1章ですが、ここでは平成の30年を、冷戦の終結、バブル経済の崩壊、地下鉄サリン事件、同時多発テロ、IS、リーマン・ショック、東日本大震災などの出来事をたどる形で振り返っています。そして、ここでキーワードをして上がるのが宗教です。
 冷戦の終結は平和をもたらすかに思われましたが、代わって登場したのが宗教対立でした。また、アメリカではキリスト教原理主義が勢力を広げ、日本でもオウム真理教という宗教団体によるテロ事件が起きました。宗教に再び注目が集まったのがこの30年とも言えるのです。

 ただ、わかりやすいストーリーではあるものの、議論にはやや荒っぽいところがあって、個々のトピックに関しては注意して読む必要があります。
 例えば、「「バース党員の公職追放」の報は、シーア派にしてみれば絶好のチャンスです。統治機構が崩壊し、無政府状態となったイラク国内でシーア派によるスンニ派攻撃が始まります」(36p)といった記述は、池内恵『シーア派とスンニ派』を読んだ身からするとずいぶん荒っぽいものに思えます。宗派対立が最初からあったというよりは、無政府状態の中で宗派が見出されていったという池内恵の見方が適切でしょう。
 他にもオウムとISに参加する人々を自殺願望のある若者というキーワードでくくり、それを受けて「イラクやシリアの内戦で実際に戦っている兵士や、戦火から逃れようとする避難民はどうかと言えば、彼らは自殺しません」(45p)という記述も、やや乱暴だと思います。吉田裕『日本軍兵士』(中公新書)を読めば、状況によっては兵士のほうが高い自殺率になることもわかります。

 第2章では、弓山達也が平成の日本の宗教事情を振り返りながら分析していますが、この章は面白いと思います。
 80年代、世界的なニューエイジ・ブームの中で、日本でも自分探し・輪廻転生、意識変容と行ったものが流行します。オウム真理教もその流れの中で登場していきました。筆者は1988年に麻原彰晃の説法を聞いたことがあるそうですが、会場が閉まった後も近所の公園で夜遅くまで続いた質疑応答を聞いて、ある人は「ブッダの初転法輪ってこんな感じだったんじゃないか」(67p)と言ったといいます。

 しかし、このオウム真理教が引き起こした95年の地下鉄サリン事件が日本の宗教に大きな衝撃をもたらします。
 87pに載っている「宗教を信じるか」という問いへの答えの推移を示したグラフを見ると、95年を境に「信じていない」が60%台後半から70%台前半に上がってきますし(一方、東日本大震災はこの質問の答えにあまり影響を与えていない)、94年から2014年にかけて、天理教の信者は189万人から117万人に、立正佼成会は655万人から309万人へと大きく減少しています(74p)。もちろん、信者の高齢化などの要因もあるのでしょうが、オウム以降、新たな信者獲得が難しくなっている状況があるのでしょう。
 
 ただし、宗教的なものが消え去ったかいうとそうではありません。平成における宗教的なものとしては00年代半ば以降のスピリチュアル・ブームがあります。
 05年に江原啓之の「オーラの泉」が始まり、07年からはゴールデンに進出しますが、それとともにスピリチュアルなものへの関心が高まり、「すぴこん」と呼ばれるイベントが多くの人を集めました。これがパワースポット・ブームなどにもつながっていくわけですが、この「すぴこん」では教団宗教は排除されました(84p)。
 著者は、章の後半で、東日本大震災が日本人の宗教的行動への影響は観測されないが(89p図2参照)、個々の僧侶の活動や「祭り」の復興など、震災が日本人の宗教観を再び変えていくのではないかとしていますが、データなどを見る限り、日本人はオウム・ショックによる宗教不信から抜け出せていないように思えます。
 
 第3章は上田紀行が仏教の可能性を検討しているのですが、冒頭から「2000年代半ば、とにかく経済を立て直すことだけに特化した結果、安心や信頼が失われる「第三の敗戦」が起きた」(110p)と書いていて、ガクッときました。第一の敗戦は1945年、第二の敗戦はバブル崩壊らしいですが、この「第三の敗戦」はさすがに「敗戦」概念の乱用ではないかと…。
 この第三の敗戦は、小泉首相が「政治家だって使い捨てだ」と言ったのに対して、著者が大学の授業でそう思うかどうか聞いたところ、200人中100人ほどが手を上げてがっくり来たという体験から来ているそうです。

 また、あなたがある企業に務めていて転勤先の途上国で会社が公害問題をおこしていることを知ったら告発するか?というアンケートをとったときも、200人中180人が「何もしない」しないに手を上げたことにショックを受けたといいます。
 しかし、東日本大震災のあとの11年の3月に、同じアンケートをしたところ「何もしない」が70人に減り、6月に再びアンケートをしたところ「何もしない」が30人になったそうです。著者はここに震災以降の「目覚め」を見るのですが、3月のアンケートはともかくとして、3ヶ月後に同じアンケートをすれば、学生は教員の考えを忖度するのではないでしょうか?
  
 第4章では、中島岳志がナショナリズムをとり上げています。地下鉄サリン事件以降、「生きづらさ」を抱えた若者が宗教に入って行くことができなくなりナショナリズムがその代替的な役割を果たしたという見立てはそのとおりだと思いますし(97年に「新しい歴史教科書をつくる会」が発足、98年に小林よしのりの『戦争論』)、60〜70年代からつづく土着世界への回帰を主張する右翼的なものとスピリチュアルなものには親和性があって、安倍首相の夫人である昭恵氏などは、まさにそれを象徴するような人物だというのもその通りだと思います(昭恵氏が小池都知事との対談(2016年の『週刊現代』で語っという「「日本を取り戻す」ことは「大麻を取り戻すこと」」(181p)という発言は改めてすごい!)。
 
 ただ、材料としては面白いのに、それを分析するロジックが20年前の宮台真司のものとあまり変わらないところがもったいないです。
 著者は岡崎京子『リバーズ・エッジ』、鶴見済『完全自殺マニュアル』といった著作から現代の若者をとりまく「生きづらさ」を取り出すわけですが、ともに25年近く前の著作です。

 むしろ、平成全体を論じる上で注目すべきは、この章に引かれている『完全自殺マニュアル』の「はじめに」にある「あなたの人生はたぶん、地元の小・中学校に行って、塾に通いつつ受験勉強をしてそれなりの高校や大学に入って、4年間ブラブラ遊んだあとどこかの会社に入社して、男なら20代後半で結婚して翌年に子どもをつくって、何回か異動や昇進をしてせいぜい部長クラスまで出世して、60歳で定年退職して、その後10年か20年趣味を生かした生活を送って、死ぬ。どうせこの程度のものだ」(164p)という、「どうせこの程度のもの」が、いつの間にか考えうる限りかなり望ましい人生になってしまったことではないでしょうか?
 「クレヨンしんちゃん」の父親のヒロシが、「うだつのあがらないサラリーマン」だったはずなのに、今見るとかなり順調に見えてしまうのと同じ問題です。
 この経済状況の変化を織り込まない限り、平成の後半の問題はうまく見えてこないと思うのです。

 また、戦前の血盟団事件、五・一五事件、二・二六事件に関して「これらの事件の背景にあったのは、天皇による世界統一というビジョンと、そこに加わる若者たちの「生きづらさ」という問題です」(178p)とまとめてしまうのは、さすがに乱暴すぎではないかと。

 このように、全体的に議論の荒さが気になります。また、「生きづらさ」というがマジックワードになってしまっている面もあると思います。
 ただし、ここに提示されている材料に関してはなかなか面白いものがあるので、この本を読んで、改めて平成という時代を振り返って考えてみるのもいいでしょう。

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