山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期

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桃崎有一郎『室町の覇者 足利義満』(ちくま新書) 7点

 『武士の起源を解きあかす』(ちくま新書)という野心的な著作を出した著者が、室町幕府の三代将軍・足利義満について書いた本。
 とは言っても、幕府の成立から6代将軍義教の死までを扱っており、一種の室町幕府論とも言えるような内容です。ただし、記述の中心は幕府のそのものよりも朝廷と幕府の間の関係にあり、鎌倉幕府や江戸幕府とは違って、京都に本拠を置いた足利将軍がいかに朝廷との関係を結んだか、そして義満が日本史史上類例がないような立場に立って朝廷を掌握したのかということが語られています。
 足利義満というと、今谷明の『室町の王権』(中公新書)では天皇の位を簒奪しようとした人物として描かれていました。近年この説は否定されつつありますが、本書はこの議論を少し違った形で復活させようとした本と言えるかもしれません。文体は『武士の起源を解きあかす』と同じくやや饒舌気味ですが、読みやすさはあります。

 目次は以下の通り。
プロローグ――日本史上に孤立する特異点・足利義満
第一章 室町幕府を創った男の誤算──足利直義と観応の擾乱
第二章 足利義満の右大将拝賀──新時代の告知イベント
第三章 室町第(花御所)と右大将拝賀──恐怖の廷臣総動員
第四章 〈力は正義〉の廷臣支配──昇進と所領を与奪する力
第五章 皇位を決める義満と壊れる後円融天皇
第六章 「室町殿」称号の独占と定義──「公方様」という解答
第七章 「北山殿」というゴール─―「室町殿」さえ超越する権力
第八章 虚構世界「北山」と狂言──仮想現実で造る並行世界
第九章 「太上天皇」義満と義嗣「親王」──北山殿と皇位継承
第十章 義持の「室町殿」再構成──調整役に徹する最高権威
第十一章 凶暴化する絶対正義・義教──形は義持、心は義満
第十二章 育成する義教と学ぶ後花園─室町殿と天皇の朝廷再建
エピローグ――室町殿から卒業する天皇、転落する室町殿

 室町幕府というと守護大名たちの力が強く、将軍もそれをコントロールできなかったというイメージがありますが、著者はその理由を足利尊氏の弟である直義の行動に求めています。
 尊氏は鎌倉幕府を滅ぼす引き金を引きましたが、尊氏や行動をともにした御家人にとって幕府を滅ぼすという意識はなく、あくまでも北条高時を中心とする得宗家を倒したという意識だったといいます。
 後醍醐天皇はもちろん幕府の復活を許す考えはなかったのですが、直義が相模守として鎌倉に赴任すると、直義は雑訴決断所の地方分局を設置して、「次の執権」のように振る舞い始めます(相模守は鎌倉幕府の執権が就く役職)。
 この後、中先代の乱が起きて直義が窮地に陥ると、尊氏が後醍醐天皇の許可を得ずに出兵し、結果的に尊氏は建武の新政を崩壊させて、幕府を開きます。この幕府を実際に動かしていたのは直義でしたが、直義はあくまでも兄を将軍、自分を執権と位置づけていました。

 著者は、直義が将軍、高師直が執権になっていればすべてはうまく収まったのではないかと考えていますが、直義があくまでも執権的な地位に固執したことで、観応の擾乱が起こります。
 この観応の擾乱は尊氏の勝利に終わるわけですが、幕府はあくまでも直義が中心につくったものであり、尊氏に鎌倉幕府を裏切るように進めた上杉憲房なども直義派でした。足利一門(足利市の庶子や庶流)が直義派となり、尊氏には佐々木道誉や赤松則祐といった非一門の大名がついたのが観応の擾乱の特徴で、これが南北朝の対立と相まって戦乱を長引かせました。

 しかし、南朝方についた直義派の大名は南朝に対して忠誠心を持っていたわけではありません、それなりの処遇が約束されると幕府に帰順していきました。特に1356年に斯波高経が帰順したことが大きなターニングポイントになります。
 高経は足利家の執事になるには家格が高すぎたので、息子を執事にしてそれを後見するという立場に収まります。この立場が管領と呼ばれるようになりますが、それは「「管領」するとは、制度に由来する権限を、制度的地位にない人が行使することをいう」(44p)ということから来ているといいます。

 この高経の帰順は尊氏の跡を継いだ義詮の勝利ではなく、直義派の勝利だというのが著者の見方です。「高経の幕府帰参は、政治力学上、将軍義詮が高経を許してやったのではない。話は逆で、高経が義詮に許されてやったのだ」(45p)というわけです。
 斯波高経の後、大内弘世、上杉憲顕、山名時氏なども帰参し、幕府の力は強まりますが、それは直義派が幕府の中枢を乗っ取ったことでもあります。1367年には佐々木道誉らが細川頼之と組んで高経を失脚させますが、義詮が死んで義満があとを継いだときの幕府の力というものは相変わらず不安定なものでした。

 ここで将軍となった義満は、まずは北朝の掌握に動き出します。幕府の不安定さを大名の自立性と、その大名と南朝の結合に見た義満は、まずは南北朝の統一を考えます。しかし、幕府と南朝の和平では幕府は下手に出ざるを得ません。そこで北朝と南朝の和平という形を取る必要があり、そのためには義満が北朝を掌握することが必要だったのです。
 そのために義満が最大限利用したのが右大将拝賀の儀式です。右大将は源頼朝の代名詞でもあり武家にとって重要な役職でした。義満は前摂政の二条良基をブレーンに迎えて摂家の家格に並ぶような形で儀式を行おうとします。
 また、義満は京都の室町に室町第(花御所)を造営します。尊氏や直義はできれば本拠地を鎌倉に置きたい考えていましたが、北朝を守るために京都にい続ける必要がありました。これに対し、義満は京都を幕府の本拠地に定めたのです。
 右大将拝賀は何度か延期されますが、1379年の7月に拝賀は行われました。義満は21人の公卿を扈従(こしょう)させました。その中には摂家に次ぐ清華家の公卿たちも含まれており、義満が朝廷を従えたことを満天下に印象づけました。

 義満は廷臣たちの遅刻や欠席を厳しく咎め、公卿たちを力で従わせました。義満は直接命令するよりも、「〜してくてたら本望だ」というような形で従わざるを得ない雰囲気を作り出しました。さらに「武家執奏」という幕府が持つ人事権を使い公卿たちを奉仕させ、気に入らない人物の所領を差し押さえさせ、没落させました。子の義持の代になるとこれによって餓死する人物(今出川実富)も出てきます。
 この義満の力の行使は後円融天皇にも及びました。義満の人事案に対して後円融が返事を渋ると右大将辞任をちらつかせて不満を示しました。後円融は不満をつのらせますが、皇位をめぐる争いを抱えていた後円融は義満を頼るほかなく、皇位について義満に決めてほしいとまで口にしています(119p)。
 皇位の面でも経済面でも義満に依存せざるを得なかった後円融は精神的にも変調をきたしていき、息子の後小松の即位の儀式を欠席し、義満との密通が疑われた妃の三条厳子を刀の峰で滅多打ちにするという事件を起こしています。さらに切腹未遂事件も起こし、34歳で亡くなりました。

 このような権力を持った義満は室町殿と呼ばれるようになります。建物の名前で建物の主を呼ぶ習慣は昔からあるもので、鎌倉幕府の将軍は鎌倉殿と呼ばれました。この鎌倉殿という名を尊氏も使っていましたが、義満は新しい権力を示す称号として室町殿を選びました。
 室町殿は朝廷と幕府双方を支配するポジションでしたが、朝廷の支配に関しては院(上皇)に近いポジションだったと考えられます、そして、その特異なポジションを表すために「公方(様)」という呼び名も使い始めます。公方はもともと「しかるべき公権力」といった意味でしたが、義満はそれを自分一人を指す言葉につくり変えたのです。

 朝廷を掌握した義満が次に目指したのが諸大名の自立性を削ぐことです。1389年の土岐康行の乱で土岐氏の勢力を削減すると、1391年の明徳の乱では強大な勢力を誇っていた山名氏清を討ち、かつての直義派の主力であった山名氏の勢力を削減することに成功します。
 1392年には南朝が帰順し、義満の日本統一は完成します。1394年には征夷大将軍を息子の義持に譲り、太政大臣となりました。このときの太政大臣拝賀では義満は数々の慣例を打ち破り、院(上皇)と同じような待遇で儀式に臨みました。
 この後、義満は出家し、義満の立場は「”武士の長であると同時に廷臣の長である者”から、”武士の長と廷臣の長を従える何者か”に変貌」(179p)します。義満は幕府と朝廷の外部からそれらを支配する者となったのです。

 この新しい立場にふさわしい場としてつくられたのが北山殿です。この造営のさなかに大内義弘による応永の乱も起こりますが、これを鎮圧すると北山に定住し始めます。
 北山が京都から外れていることも1つのポイントになります。義満というと明と外交関係を結んで「日本国王」に冊封されたことが知られており、これが天皇の地位を奪おうとした証拠だとみなされた時もありましたが、近年の研究では義満がこの「日本国王」の地位を国内でアピールしなかったことが注目されています。義満にとって明との関係はあくまでも貿易による実利が目的で、義満個人が明との関係を結んだという形式になっています。
 当時の日本の朝廷では外国人を警戒・蔑視する風潮が強く、後白河法皇と宋人を引き合わせた平清盛は九条兼実から「天魔の所為か」と言われています(200p)。そこで京都から離れた北山という場所で、義満は明と個人的な関係を結んだのです。著者はこの北山を「虚構世界」と名付け、明との交渉に使った源道義という名前をハンドルネームだと表現しています。また義満の中華趣味も「虚構世界」での楽しみと考えることができるといいます。

 さらに義満は大きな野望をいだいていたと考えられます。その息子。義嗣の「親王」化です。義嗣は他の義満の庶子と同様に仏門に入る予定で梶井門跡に入室しますが、成長した義嗣に会った義満は義嗣をいたく気に入り、ここから義嗣は常軌を逸した昇進を遂げます。
 彼は元服前に童殿上(わらわてんじょう)と呼ばれる元服前に内裏の清涼殿に登るという特別待遇を受けると、15歳のときには元服して参議となります。また、義嗣の元服は後小松天皇の猶子となり「若宮」と呼ばれる形で行われました。さらに義嗣は親王宣下を受ける予定だったのです。
 この親王宣下は義満の急死によって実現しませんでした。しかし、義満は正室・日野康子を後小松天皇の准母にし、自らに太上天皇尊号宣下を行わせようとしたことなどから(この宣下は年齢が若すぎるとして通らなかった)、著者は義満はもうひとりの天皇である太上天皇になろうとしたと考えています。
 そして、義満は義嗣のことを親王将軍にしようとしていたのではないかと推測しています。鎌倉幕府における宗尊親王の将軍就任は1つの安定した形態であり、義満は義嗣を使って足利氏の血を引く親王将軍を実現させようとしたのではないかというのです。
 
 しかし、この計画はあくまで義満個人の計画として進められており、義満の死とともにそれは破綻しました。義満の死後、朝廷は太上天皇の尊号を追贈しようとしましたが、幕府はこれを拒否します。諸大名たちは朝廷にはかかわっておらず(ここが豊臣政権との違い)、義持は北山殿という地位を捨て、室町殿として幕府の長として行動していくことになります。
 一方、梯子を外された義嗣は最終的に上杉禅秀の乱のときに出奔し、最終的には殺されています。

 義持は室町殿と呼ばれましたが、実は室町には住んでおらず三条坊門殿に住み続けました。これは義持に朝廷との距離を取る意図があったからだと考えられます。
 義持は義満のような派手好きではなく、また後小松院を立て、朝廷のことに関しては基本的に院に任せました。廷臣たちにも朝廷での仕事を優先させました。
 1423年義持は息子の義量に将軍を譲り出家しますが、義量が将軍としての権限を行使した形跡はなく、義持が政務をとり続けました。2年後に義量が病死すると、将軍は空位となり、将軍不在のまま義持が室町殿として政務を行いました。
 義持は、ときに後小松院の政治に介入し、院の命令をチェックさえしましたが、義満のようにすべてをチェックしようとはせず、院の後見、つまり天皇の後見の後見のような形で君臨しようとしました。

 義持が死ぬとくじ引きによって義満の子の中から義教が6代将軍に選ばれます。ちょうどこの時期、朝廷では称光天皇が亡くなり、皇位は崇光流に移り、10歳の後花園天皇が即位します。
 義教というと気に入らない者を次々と粛清して、それが仇となって暗殺されたことが知られていますが、本読を読むと後花園の後見に関しては相当真面目に取り組んでいたことがわかります。義教は義持と違って朝廷の政治に深入りし、重要事項を決定するとともに、後花園に儒学を学ばせました。後花園は儒学と歴史を熱心に学び、典籍の収集を行いました。政治は義教の領域でしたが、後花園は学問の領域で君主としての資質を示そうとしたのです。
 永享の乱における持氏討伐の綸旨は美文調で後花園の学問の成果が生かされています。ところが、1441年の嘉吉の変で義教は暗殺されます。このとき出された赤松満祐討伐の綸旨もまた美文調で、著者はこれを「卒業論文」と評しています(336p)。

 このように足利義満の評伝というよりは室町時代前半の幕府と朝廷の関係を描いた本と言えるでしょう。幕府を京都に置いたことから、将軍と天皇の関係を新たに構築し直さなければならなくなり、そこに義満が「北山殿」という幕府と朝廷を外部から支配する地位を築き上げたというストーリーは説得的です。幕府の不安定さを直義に求める説明に関しては、そこまで割り切っていいものかという感想はありますが、あえて図式化することでわかりやすくなっている部分もあると思います。
 著者は最後に応仁の乱に関して「乱を招いた決定的な理由と乱の本質は、まだ学界で分析中で、応仁の乱についての本が最近空前の大ヒットを飛ばしたにもかかわらず、実は解明が済んでいない」(338p)と述べているので、著者の描く「応仁の乱」も読んでみたいですね。
 

東大作『内戦と和平』(中公新書) 6点

 先日とり上げた多湖淳『戦争とは何か』にも書かれていたように国家間の戦争は減少傾向にあります。しかし、その代わりに大きな犠牲者を生み出しているのが内戦です。現代の戦争の95%以上が内戦だと言われています(i p)。 
 そんな内戦の実態と和平調停のポイント、国連の働きなどについて書かれているのがこの本です。著者はNHKのディレクターからカナダの大学院に進み、国連のアフガニスタン支援ミッションで働いた後に日本の大学の教員になったという異色の経歴の持ち主で、現場に足を運び、紛争の当事者にインタビューを重ねるなどジャーナリスト的な手法が生きてきます。
 一方、明解な理論を押し立てていた『戦争とは何か』を読んだあとということもあって、理論的な面からの整理はやや弱いようにも思えました。

 目次は以下の通り。
第1章 凄惨な内戦の実態
第2章 内戦とは何か―データと理論
第3章 交渉のテーブルにつくべきは誰か
第4章 周辺国の責任、グローバル国家の役割
第5章 国連に紛争解決の力はあるか
第6章 日本だからできること

 第1章では内戦の実態を伝えるために南スーダンの事例が紹介されています。
 2011年にスーダンから独立を果たした南スーダンでしたが、13年にキール大統領とマチャール副大統領の対立が内戦に発展、15年に和平合意が結ばれたものの、16年には再びキール派とマチャール派が武力衝突を起こし内戦へと発展しました。その後、18年に再び和平合意がなされ、19年に著者は南スーダンに足を運んでいます。
 南スーダンの内戦は市民を巻き込んだ形で行われ、多くの人が家を終われ避難生活を余儀なくされました。この章では現地の人の声、政府の要人へのインタビュー、ジュバ大学の様子、日本企業が中心に行っているナイル川の架橋工事などが紹介されています。

 第2章では内戦をデータと理論から分析しようとしています。
 ウプサラ戦争データでは、戦争を、(1)国家間の戦争、(2)純粋な内戦、(3)国際化した内戦(内戦をきっかけに始まり外国が軍事介入)、(4)植民地からの独立戦争の4つに分類しています。
 21世紀に入ってから、(4)は姿を消しており、(1)も減少しています。しかし、(2)と(3)は減っておらず、2014〜16年には3年連続で戦争による死者数が10万人を超えました(30p図2−1参照)。これは(3)であるシリア内戦の影響が大きいです。

 本書では内戦に対する和平調停に関して、「紛争予防」、「和平交渉」、「平和構築」の3つの局面に分けて考えようとしています。現在国連ではこれらの3つの局面に対して切れ目なく支援をしていこうと考えていますが、紛争予防の取り組みはやはりなかなか難しいようです。
 2011年のアラブの春に端を発するイエメン紛争では、30年以上独裁者として君臨してきたサーレハ大統領の後継体制をめぐって、国連特使が間に入る形で国民対話が行われました。しかし、ハーディ大統領が強引に6つの地域による連邦制を導入しようとしたことでホーシー派(フーシ派)が反発、軍事衝突に発展します。ホーシー派をイランの代理勢力と見たサウジアラビアが紛争に介入すると、イエメンは国際化した内戦の舞台となってしまいました。紛争予防は失敗したのです。

 内戦の和平調停というのは難しいもので、ステファン・ステッドマンの研究によると、1900〜89年の間に起きた軍事紛争のうち、和平交渉によって終わった内戦は15%で、残りの85%は一方的な軍事勝利で終わっているそうです(53p)。これにはコミットメントの問題などが関わっています(和平に応じて武装解除したら、そのあと殲滅されるのではないか? と考えて和平に応じない、など)。
 国際社会としては、武器の禁輸などを行って双方に一方的勝利が難しいと思わせること、和平後に当事者の安全確保や選挙の監視などを行うことで、和平を促すことはできますが、効果は状況によりけりです。
 著者はステッドマンの考えを受け入れながら、和平交渉のおける「包摂性」を重要なポイントとしてあげています。一方、表向きは国連に和平交渉を期待しつつ、裏では特定のグループに軍事援助を与えたりする大国や周辺国もあるとして、これを「国連の濫用」として批判しています。

 第3章では誰が和平交渉のテーブルにつくべきかという問題を検討しています。一般的に和平交渉の参加者が少ないほうが交渉自体はスピーディーに進むはずですが、当然、参加できなかった勢力は不満を持ち、出来上がった和平案は反発を受ける可能性が高くなります。
 南スーダンではマチャール派以外にも反政府勢力はいましたが、東アフリカの地域以降であるIGADはキール大統領とマチャール副大統領に当事者を絞り込む形で和平交渉を仲介しました。
 しかし、先述したように2015年にまとまった和平は短期間で崩壊し、多くの難民が発生しました。そこで、17年に再開された和平交渉ではその他の勢力や、市民団体や女性団体の代表なども招き、新たな枠組みづくりが目指されました。最終的にはマチャール派を支援するスーダン、キール派を支援するウガンダが強調して和平交渉に介入することで和平が進展しますが、著者はさまざまな団体が和平交渉に携わったことを評価しています。

 次のアフガニスタンの事例がとり上げられていますが、これはタリバンという最大勢力を国家建設の過程から除外したことがその後の混乱を生んだということで、失敗事例として位置づけられています。
 2001年のアメリカによるアフガニスタン攻撃後、03年に新憲法が採択され、04年にカルザイ大統領が選出された頃までは、アフガニスタンの国家建設はうまくいくと思われていましたが、05年頃からタリバンが巻き返し、08年には国土の7割をタリバンが支配するに状況になってしまいました。
 タリバン兵の復帰を手助けするプログラムはあったのですが、米軍や多国籍軍が参加しなかったこと、生活困難からタリバンに戻る兵士が相次いだこと、タリバン幹部に対する国連の制裁が解除されなかったことなどから、なかなかうまくいきませんでした(104−105p)。

 こうした状況に対して著者は新たな和解プログラムを提案するなど動きます。あくまでもタリバンの兵士や中堅幹部までの対話を想定するアメリカと、タリバン指導部との対話も必要だと考える国連の間で考えに違いがありましたが、アメリカもタリバン指導部との対話の必要性を認識するようになり、交渉が始まります。
 しかし、タリバン側の自爆テロなどにより和平交渉は暗転し、ようやくアメリカとタリバンの直接交渉にゴーサインを出したトランプ大統領により交渉は大きく進展しますが、それでもいまだに交渉はまとまっていません。誰がどのような形で和平交渉に参加し、それを進めていくのかというのはやはり難しい問題です。

 第4章ではグローバルな大国や周辺国の責任について考えています。
 最初にとり上げられているのがシリア内戦です。シリア内戦は、アラブの春の流れで始まった平和的な反政府デモ→アサド政権の弾圧→反政府側の武力抵抗→各国の介入という形でエスカレートしてしまいました。
 2012年にはアナン前国連事務総長が特使に任命され、停戦交渉を続けましたが、アサド大統領が暫定政権のメンバーに入るかどうかで折り合えず、交渉は失敗します。シリアの反体制武装勢力の背後にはシリアからイランの影響を排除したいサウジアラビアなどがおり、折り合うことが難しかったのです。
 14年からは新たな特使となったデミツラ氏がシリア政府や反体制武装グループだけでなく、市民団体などとも会合を行って和平の機運を醸成しようとしますが、今度はイスラム国(ISIS)が台頭し、15年からはロシアがアサド政権側に立って本格的な介入を始めます。
 結局、ロシアとイランの支援を受けたアサド政権が息を吹き返し、トルコがロシアやイランとの対話に応じたことで16年12月に停戦合意がなされます。その後も国連の介入はあまりうまくいっておらず、アサド政権が完全な勝利を目指す形で攻勢を強める中、和平の道は見えていません。

 次にイラクのケースがとり上げられていますが、ここでもアメリカが戦争終結後にバース党の解体を行ったことが治安の不安定化につながったと考えられます。フセイン大統領を支えていたバース党の追放は、イラクにおいて少数派だったスンニ派の追放につながり、シーア派主導の政権に対してスンニ派が不満を溜め込むこととなったのです。
 しかも、アメリカは当初国連の力を借りない形で国家建設を行おうとしたことで、アメリカと国連の関係は悪化しました。結局、イラクでの反米武装勢力による攻撃と、アナン事務総長の「もし仮に米国が、憲法の制定や選挙の実施まで占領を続けるのならば、二年も三年も四年も占領を続けなければならないかもしれません。本当に米国はそんなに長く占領を続ける気があるのですか」(160p)との指摘もあり、アメリカは暫定政権の樹立に動き出しますが、暫定政府が樹立され、新しい憲法や選挙が実施されてもイラクの情勢は安定しませんでした。
 
 その後、オバマ政権が増派を行い、さらにスンニ派との大規模な和解プログラムを実施すると、イラクの治安は劇的に回復しますが、その後再び、シーア派とスンニ派の対立が再燃し、イスラム国の台頭を許すことになります。
 著者はシリアとイラクの事例を通じて、グローバルな大国や周辺国が国連に政治的な役割を与えずに、その正統性だけを利用とする姿勢を「国連の濫用」だと批判しています。ただし、同時にグローバルな大国や周辺国の助けがなければ国連の調停がいかに無力であるかも指摘しています。

 第5章では、紛争解決に関する国連の果たしてきた役割を改めて振り返っています。
 トーマス・ウェスによれば、国連には、国家の集合体、事務総長をトップとする組織、国連の活動に協力するNGOや専門家など、という3つの部分があるといいます。国連の役割やその失敗を考える場合には、1つ目の部分と2つ目3つ目の部分を分けて考えることも必要です。
 紛争に有効に対処できていないケースもありますが、冷戦終結後のPKO活動の増加を見ると、やはり国連の役割は大きいと言えます。

 この章では、カンボジア、東ティモール、シエラレオネ、コロンビアという国連が和平交渉や国家建設に携わった事例をとり上げています。ここではシエラレオネのケースが興味深いです。
 シエラレオネの反政府組織のRUF(革命統一戦線)は「タリバンよりも残虐」(200p)と呼ばれた組織ですが(映画『ブラッド・ダイヤモンド』を見た人はよく分かると思います)、和平交渉はこのRUFを交えて行われました。そして兵士のDDR(武装解除)が進んだ結果、RUFの指導者サンコーが再び反乱を起こそうとしたとき、サンコーと行動をともにしようとした兵士はほとんどいませんでした。平和構築の成功例と言えるでしょう。

 また、近年のPKOでは文民保護がミッションの1つとなっています。当然、一般市民の命は守られるべきですが、本来は調停などを行うはずのPKOが武力行使を強いられることになるという問題点もあります。著者はこの文民保護のミッションにやや疑問を感じているようです。

 第6章では日本の役割が論じられています。日本の活動というと、どうしても自衛隊と9条の絡みで論じられることが多いですが、JICAの活動など、国際的に評価されている活動は他にもあります。特に知名度はないですが、フィリピンのミンダナオ和平に関しては、JICAの理事長だった緒方貞子のリーダーシップもあり、日本は大きな役割を果たしています。
 著者は、日本は紛争にかかわる政治勢力間の対話を促進する「グローバル・ファシリテーター」の役割を果たしていくべきだと考えています。

 このように盛りだくさんの本ですが、もう少し理論に基づいて整理してあったほうが読みやすかったのではないかと思います。和平交渉における包摂性というのが本書の1つのキーワードだと思うのですが、それならば第3章と第4章に分割して紹介されているアフガニスタンとイラクの例を、ともに和平交渉と国家建設から主要な敵対勢力を排除したことが(アフガニスタンではタリバン、イラクではバース党)その後の混乱につながったケースとしてまとめても良かったのではないでしょうか。
 その上で、どこまで包摂するのか? ということを検討しても良かったでしょう。今から振り返ればタリバンは包摂すべきでしたが、では、シリア紛争におけるイスラム国はどうでしょうか? そのあたりを議論しても面白かったと思います。

 ただ、近年の国連の和平活動に関してかなり網羅的に紹介しており、それをまとめて知ることができるという点は便利ですし、和平交渉の一線で活躍してきた国連の特使などへのインタビューも豊富で、実際の和平交渉の現場を感じ取ることのできる本になっています。


多湖淳『戦争とは何か』(中公新書) 7点

 タイトルだけを見れば、「このような大胆なタイトルの本を書くのは哲学者か、よほど大御所の学者か?」と思いますが、著者は40代前半の気鋭の国際政治学者で、戦争を「科学的」に解明しようという野心作です。
 序章で「戦争は数えられるが、平和は数えられない」という話が出てきますが、本書は戦争を数えられるデータとして扱い、「なぜ戦争が起きるのか?(終わらないのか?)」ということをデータの分析やゲーム理論を通じて明らかにしようとしています(おそらく本書の内容を的確に表すタイトルは「戦争とは何か」ではなく「なぜ戦争が起きるのか」だと思う)。
 とにかく明解であり、かつ自信に溢れた本でもあります。「エビデンスを備えた科学的な研究は、戦争と平和をめぐる一般的な傾向の把握を可能にし、ひいては戦争の予測さえも現実的なものにしていく」(20p)などという言葉はなかなか言えないものではないかと思うのですが、それを言い切る点にこの本のかっこよさがあります。
 ただ、そうはいっても個人的には疑問も残るので、それは最後に書いておきます。

 目次は以下の通り。
序章 戦争と平和をどのように論じるべきか
第1章 科学的説明の作法
第2章 戦争の条件
第3章 平和の条件
第4章 内戦という難問
第5章 日本への示唆
第6章 国際政治学にできること

 本書では、戦争を「①当事者同士が一致できない問題が存在し、しかも②その対立を解決する交渉に失敗して組織的、継続的に暴力で訴えるという共通項」(26p)で捉えています。特に「国家間」という条件はないので内戦も含まれます。「紛争」はもう少し広い概念で「暴力の仕様の程度がそこまで達しない緊張・対立状態も含まれ」(13p)、尖閣諸島をめぐる日中の対立も国際紛争として認識されています。

 戦争には大きなコストがかかります。戦費がかかり、戦死者が出て、国土が破壊されるかもしれませんし、負ければ為政者は政権を失うかもしれません。。ですから、基本的には交渉が優先されるはずです。また、第2次世界対戦における日本のように敗色が濃厚になってから戦い続けるケースがあります。「なぜ戦争は(もっと早く)おわらないのか?」というのも本書がとり上げる問になります。
 ただし、すべての戦争を数え上げるのは難しく、組織的暴力の継続期間をどう取るかといったことはデータを構築する観察者によってブレも生じますし、漏れも生じるでしょう。

 スウェーデンのウプサラ大学とノルウェーのオスロ平和研究所が構築しているデータセットでは、1400年から現在まで起こった戦争がまとめられていますが(43p図1参照)、これを見ると、三十年戦争と、第一次・二次の両大戦が突出して大きな戦争だったことがわかりますし、戦争と戦死者は1950年以降確実に減っていることがわかります。
 47p図4のグラフでは、1500年以降の大国間の戦争の数が示していありますが、この数は減少傾向にあり、2000年以降は発生していません。大国同士の戦争は確実に減っています。

 では、なぜ大国同士の戦争は減ったのか? もし、戦争の勝敗が国力によって決まり、勝敗が確率的に計算できるのであれば、そもそも戦争は起こらずに交渉が選択されると「合理的」には考えられます。
 ジェームズ・フィアロンは合理的な意思決定者でも次の3つのケースでは戦争が選択されることもあると考えました。
 1つは情報の不確実性(非対称性)です。交渉において相手の国力や意志の強さをを正確に見積もっているおは限りませんし、交渉ではこの情報の不確実性を利用したブラフ(はったり)も使われます。1990年の湾岸戦争、2003年のイラク戦争はいずれもイラクが相手側の戦争への決意を低く見積もったために起こったとも説明できます(イラク戦争のケースではたとえイラク側が正しい情報を出しているのにアメリカ側がそれを信じようとはしなかったという要因もある)。
 2つ目は、コミットメントの問題から起こってしまうケースです。国際社会では「世界政府」が不在のため、国家同士の約束が守られるとは限りません。そうした状況においてA国の国力が低下しつつありB国の国力が伸びているような状況では、A国から見ると、今妥協したとしても将来B国が約束を破って武力行使に訴えてくる可能性を考えざるを得ません。そこで、力が拮抗している現時点でのイチかバチかの戦争にかける選択肢が浮上するのです。日本の真珠湾攻撃もこのロジックで説明する事が可能です。石油を止められた日本と軍需品の生産に力を入れ始めたアメリカの国力は将来的に開く一方だと考えられ、日本としてはイチかバチかの武力行使が魅力的に見えることとなるのです。
 3つ目は「宗教的聖地」「固有の領土」など価値不可分な対象をめぐる争いです。これらのものは交渉による妥協が難しいです。エルサレムの帰属問題などがそうなります。

 戦争の終結に関しては、「圧倒的な勝利による終戦」と「交渉による終戦」の2つがあります。情報の不確実性が開戦理由だった場合、戦闘の推移とともに国力の差が明確となり、終戦の可能性は高まります。一方、コミットメントの問題や価値不可分の対象をめぐって起きた戦争は長引く可能性が高いです。第二次大戦の日本の場合、国力の差は1945年はじめの時点で明確で情報の不確実性の問題は消えていましたが、天皇制維持についてのコミットメントが確認できなかったことが戦争を長引かせたとも言えます。

 どうすれば戦争を防げるのか? どのような状況ならば戦争が起こりにくいのか? そのことを論じたのが第3章です。
 まず、「民主主義国同士は戦争をしにくい」という考えがあります。ブルーノ・ブエノ・デ・メスキータの定義によると、1816〜2013年の127件の戦争のうち、民主主義国同士の戦争は1974年のトルコ対キプロス、1993年のインド対パキスタンの2例のみです(72p)。
 これは、民主主義国では議会があり、軍備についても国民に説明する必要があるため、情報の不確実性の問題が少ないこと、威嚇や約束を実行しなかった場合に、国内の有権者からの支持がなくなってしまうコスト(観衆費用)などがあるため、戦争が起こりにくい(起こしにくい)と考えられています。

 一方、独裁国家についての研究も進んでいて、ジェシカ・ウィークスは独裁国を、軍/文民主導、カリスマ的個人/集団指導体制の2つの軸を使って4つに分類し、それぞれの武力紛争の生起確率を調べました。その結果、軍人・カリスマ>文民・カリスマ>軍人・集団指導>文民・集団指導の並びでその確率が大きかったとのことです。ちなみに、北朝鮮は文民・カリスマ、中国は文民・集団指導となります。
 また、民主化は平和をもたらすと考えられていますが、エドワード・マンスフィールドとジャック・スナイダーの研究によれば、民主化したばかりの体制移行国ほど対外冒険的な政策に訴え、戦争をしやすいとのことです。

 この他、民主主義よりも報道の自由が重要という説や、経済的相互依存が平和をもたらすという議論もあります。経済的相互依存に関しては、貿易よりも直接投資が戦争の防止に影響を与えているガーツキーの研究がありますが、これには批判もありはっきりとした結論は出ていないようです。
 国際連合の介入、特にPKOの効果についてもさまざまな研究がなされていますが、停戦合意が存在する場合は、紛争の再起確率を引き下げるという研究もあります。これは紛争当事者間の情報の非対称の問題を緩和するからだと考えられています。

 第4章では内戦がとり上げられています。現代の戦争の多くはこの内戦です。
 内戦には、唯一の政府としての存在を争う「首都をめぐるもの」と。ある国の中の一部地域の「自治権確立、または分離独立をめぐるもの」がありますが(90p)、後者のケースはチェコスロヴァキアの分離などのように交渉で解決することも可能です(ユーゴスラビアのように泥沼化する場合もある)。
 内戦を終結させる難しさはコミットメントの問題にあります。政府側と反政府勢力が一部地域の自治で合意したとしても、その約束を信じて武装解除に応じれば、約束を反故にされる可能性もあります。ですから武装解除をめぐって駆け引きが続くのです。
 
 原因として資源の原因があげられることがありますが(ポール・コリアーなどがこの議論をしている)、著者はサウジアラビアやイランなどの例をあげ、この議論に懐疑的な姿勢をとっています。
 著者がより重視するのは不平等、特に集団間の「水平的不平等」からの説明です。ラース・エリック・シダーマンらは集団間の水平的不平等に関するデータを構築し、政治体制に組み込まれていない集団がいると内戦が起こる確率が上がり、さらに経済的な面で水平的不平等があると、さらにその確率が上がることを示しました(ちなみにこの部分に関しては、マイケル・L・ロス『石油の呪い』の産油国では民主主義が後退するとの研究もあり、内戦に限らず対外戦争も含めれば資源は戦争の原因になり得るのではないか? と思いました)。
 
 内戦に対する介入の効果に関しては議論が分かれている状況のようですが、ここで紹介されていうるルワンダの虐殺事件をめぐるアラン・クーパーマンの議論は興味深いです。クーパーマンは国際社会の問題を認める一方で、ルワンダには大量の兵員や装甲車などを短時間で送り込めるインフラがなく、介入を決断できたとしても効果的な介入を行うことは難しかったと結論づけています(104−106p)。
 先述のフィアロンは、内戦の期間についても研究を行っていますが、それによると「首都をめぐる内戦」が平均3年ほどであるのに対して、「分離独立型の内戦」で、かつ「資源が絡む内戦」だと7〜30年とかなり長期化しています。これは首都をめぐる内戦ではお互いの能力差が早期に明らかになり、情報の非対称性が解消されますが、分離独立型ではそうはならないからだと考えられます(108−111p)。

 第5章は「日本への示唆」へというタイトルで、実際に今まで紹介してきた理論を使って日本の安全保障について論じています。
 まず、日本の国力はCINCスコアによれば2002年、2012年とも世界第5位ですが、中国との差は02年が約3倍だったのに対して12年には約6倍に開いています(116−117p表5参照)。予防戦争論からすると、国力が衰えている国ほどイチかバチかの戦争にかける可能性が高く、日本の意思はともかくとして、外からはその可能性があると見られているかもしれません。
 
 日本は、北方領土問題、竹島・独島問題、尖閣諸島問題という3つの領土問題を抱えています。民主的平和論からすると、戦争のリスクが低いのはお互いが民主主義国家である竹島・独島問題です。また、経済的依存度が戦争のリスクを下げるとの考えからすると、リスクがあるのは経済的依存関係の薄いロシアとの間の北方領土問題です。ただし、日本の貿易依存度は低く、韓国や中国との経済的依存関係が強いと言っても、紛争発生の確率が下がるレベルまでにはいかないとのことです。

 著者らは、領土問題についてさまざまな想定をランダムに割り当てて行うサーベイ実験を行っていますが、紛争中の領土について他国と共同で主権を保持するような形には抵抗が強く、たとえ相手の国力が強くても、かえって自国の主権を主張する態度が強くなる傾向があります。
 全体の16%ほどいた妥協を許さないハードコアな価値不可分主義者は、8割近くが限定された武力行使を、6割が全面的な武力行使を示しています。ただし、ハードコアな価値不可分主義者でも国際機関の仲介に関しては支持を示しています。
 竹島・独島問題について行われた実験でも、二国間交渉で竹島を失うよりも、国際司法裁判所の判決で竹島を失う方が、内閣への不支持が高まらないという結果が出ていますし(136p図13参照)、この国際機関の仲介は日本だけでなく、他国でも一定の支持を得ています。

 自国の平和を維持するには抑止力が重要だと考えられてますが、防衛力を高めることは相手にとって驚異となってしまい、いわゆる囚人のジレンマになってしまうことが多いです。お互いに軍縮をしたほうが利得は高いのですが、相手の軍拡の可能性を考えると双方が軍拡を選択してしまうのです。
 ただし、繰り返しゲームの場合、この均衡は変化する可能性があります。お互いに将来の利得を重視すれば双方が軍縮を選ぶ可能性もあるのです。

 憲法9条についても一種の安全供与戦略だと考えることもできます。憲法9条に問題があったり、時代の変化にそぐわない面があったとしても、憲法改正が周辺国に軍拡のシグナルとして機能してしまうことは考えておく必要があります。
 また、現在のようにSNSが発達し、国境を超えて除法が飛び交うような社会では、軽率な発言が領土的野心などのシグナルとして伝わってしまうこともあります。

 最後の第6章では、マオツの平和愛好国(スウェーデン、スイス、ベネズエラなど)と戦争中毒国(イスラエル、パキスタン、インドなど)のデータを紹介した上で(159p表8参照)、戦争やクーデターの予測に関する研究を紹介しています。著者はさまざまな研究方法を紹介した上で次のように述べています。

 大事なのはどの方法であれ、透明性が高く、科学としての国際政治学の蓄積が増えれば、戦争の原因・平和の条件をさらに明らかにし、そして将来のより正確な予測も可能になると考える姿勢である。過去50年での達成度を考えれば、そして加速度的に進化するデータ社会科学のスピードを思えば、戦争と平和の科学が、信頼できる予測を行う日の到来を楽観的に期待してもよいのではないかと思う。(172p)

 このように本書は一貫して「科学」的に戦争と平和を分析しており、その論旨も明解です。個々の詳しい事例を知っている人だと、「そのロジックは実際に起ったことと違うのではないか」と言いたくなる部分もあると思いますが、「こういうロジックがある」、「このように説明できる」というが重要であり、そのようなロジックや説明が、現実の政治を見る上での一種のガイドの役割を果たすことになるはずです。
 
 ただし、最後の引用した部分については個人的にやや異議があります。確かに、戦争やクーデターの確率をさまざまなデータから推測することには意味があると思います。国際政治や経済活動の参考になるでしょう。
 しかし、人間の行動を扱うという社会科学の性質からいって正確な予測は不可能ではないでしょうか?
 例えば、クーデターの発生がかなりの精度で予測できるようになれば、その国の指導者はそれを見て行動を変えるでしょう。それは少数民族の権利を認めるような政策なのか、部下に金品を配るような政策なのかはわかりませんが、クーデターの発生確率を下げるような行動をとるはずです。社会科学の難しさとは観察する者と観察される者が同じ世界に住んでいることであり、途上国の独裁者も研究者の研究を見て行動を変えることができるのです。

 このように少し「言い過ぎ」ではないかと思われる部分もありますが、面白く刺激的な本であることは間違いないと思います。


後藤健太『アジア経済とは何か』(中公新書) 8点

 中国を筆頭に目覚ましい経済成長がつづくアジア地域。この地域はグローバル・バリューチェーンという国境を超えた生産工程が発展している地域であり、EUのような組織はなくとも経済は緊密に結びついています。そして、以前のように日本を先頭にした他の国々が追随しているといった形では説明できなくなっています。
 そんなアジア経済の変化について分析したのがこの本。内容的には去年読んで面白かった猪俣哲史『グローバル・バリューチェーン』と被る部分がありますが、『グローバル・バリューチェーン』がマクロ的な分析に重きをおいていたのに対して、本書は、著者が伊藤忠でアパレル部門の仕事をしていたということもあり、よりミクロの動きがわかるようになっています。ビジネス関係の人には本書のほうがとっつきやすいと思います。
 なお、「アジア経済」と銘打っていますが、分析対象は、日本・中国・韓国・台湾・ASEANになっており、インドや中東地域などは含まれていません。

 目次は以下の通り。
第1章 「日本一極」の20世紀
第2章 アジアの21世紀はいかに形成されたか
第3章 グローバル・バリューチェーンの時代
第4章 なぜ日本は後退し、アジア諸国は躍進したか
第5章 もう一つのアジア経済
終章 アジアの時代を生き抜くために

 第1章では20世紀のアジア経済がデータを中心に語られていますが、そこから見えてくるのはタイトル通りの「日本一極」の姿です。
 11pの図表1-1a「主要国GDP推移の比較」、14pの図表1-2a「1人あたりGDP(名目)」をみると世界の中でも日本の経済成長は際立っています(ただし、名目では主要国トップとなった1人あたりGDPもPPP(購買力平価)ベースでみるとアメリカやドイツを下回っている(16p図表1-2b参照)。
 
 こうした日本一極の時代に唱えられたのが「雁行形態論」です。これは途上国における国内産業の盛衰を輸入ー国産ー輸出ー再輸入というプロセスで論じたもので、例えば、50年代の日本では労働集約的な繊維産業が主要な輸出品でした。それが人件費の上昇とともに、主要な輸出品は繊維から60年代には鉄鋼。そして70年代にはテレビへと変化していきます。一方、アジアNIEs諸国の主要輸出品は60年代が繊維、70年代は鉄鋼、それにつづく先進ASEANでは70年代になると繊維産業が輸出産業として発展してきます(27p図表1−5参照)。
 こうした発展はキャッチアップ型工業とも言われます。特にアジアでは1985年のプラザ合意によって円高が進んだことが、日本企業によるアジアへの海外直接投資(FDI)に拍車をかけ、労働集約的な産業はアジアの他の国々へと移っていきました。

 そして、90年代以降、アジアで、そして世界で大きな存在感を見せ始めたのが中国です。中国は人口や軍事力からいって大国でしたが、経済的には1990年の時点でGDPが日本の1/9しかなく、今からは考えられないほど小さな存在でした。
 しかし、1978年の改革開放政策の採用、そして92年の南巡講話などをきっかけとして、中国は巨大な工業国に成長していきます。

 こうしたアジア経済の発展は、1993年の世界銀行の『東アジアの奇跡』という報告書でもとり上げられました。このレポートの作成と刊行には日本が資金援助をしたそうですが、政府の輸出振興策を評価し、輸出志向型工業化の重要性を訴えている点が特徴でした。
 この「東アジアの奇跡」はクルーグマンによって否定され、97年にはアジア経済危機が起きますが、そこでアジアの経済成長は終わったわけではなく、21世紀に入ると中国を筆頭にアジア経済はますますその存在感を増しています。

 21世紀になると、アジアは他地域よりも高い経済成長を示すようになり(55p図表2−1参照)、1980年に14%だった地域別GDP比率は2017年には27%になりました(56p図表2−2参照、なおここでは冒頭にあげたアジアの範囲から台湾が抜けている)。
 ただし、その経済発展の水準が一様でないのもアジアの特徴で、一人あたりのGDP(名目)で見ても、5万7000ドルを超えるシンガポールから1257ドルと「低所得」のカテゴリーを少しだけ上回るミャンマーまでまちまちです(58p図表2−3参照)。
 
 アジア経済のポイントの1つは輸出をベースとした「外向き」である点で、全世界の輸出に占めるアジアの割合は1990年の約18%から2017年には約31%にまで拡大しています。輸出先に関しては90年の段階では北米向けがトップでしたが、17年にはアジア向けがトップとなっています。日本のアジア向け輸出も90年の21.8%から17年には40.1%にまで拡大しています(68−69p図表2−6参照)。
 品目では電子機器・機械類が増えているのが特徴で、中国の輸出品のトップは92年には衣類・靴製品約23%でしたが、16年には電子機器・機械類43%となっていますし、ベトナムでも00年に26%でトップだった原油は、16年には電子機器・機械類38%となっています(72p)。
 FDIに関しても、以前はコスト削減のための「垂直型直接投資」がさかんでしたが、ホンダのスーパーカブなどはバイク需要の高い東南アジアのニーズに対応するために、企画などに関してもタイで行われています。

 こうしたアジアの貿易と投資の活性化を支えたのがWTOとFTAやEPAです。
 WTOに関しては、01年に中国が、92年に台湾が、04年にカンボジアが。07年にベトナムが、13年にラオスが加盟し、本書が設定するアジアのすべてが加盟しました。
 FTAも急増していますが、FTAに関しては、その製品の一定程度がその国で生産されなければならないという原産地規則という実務上やっかいな問題も存在します。このための書類を揃えるコストもばかにならないわけですが、日本の企業に関する分析ではそのコスト以上の便益を得ているそうです(90p)。
 著者は、欧州などとは違って制度が先行するのではなく、民間企業が先行し、それを制度的な枠組みが後押ししたのがアジアの特徴だと考えています。
 
 この民間企業が主導し、アジアの新しい潮流となっているのが第3章で取り上げられているグローバル・バリューチェーンです。
 現在、商品の生産工程は分割され、その分割された工程は国境を超えて展開しつつあります。例えば、衣服でいえば、A「製品企画・デザイン」→B「生地などの生産・調達」→C「縫製・組み立て」→D「マーケティング・流通」という4つの工程があります。一時はこのすべてが日本国内で行われていましたが、現在ではA,Dは日本、Bは中国、Cはベトナムといった具合かたちでグローバル・バリューチェーンが構成されています。
 こうした国際分業は以前から見られましたが、ネットが普及していない90年代前半までは細かい部分は実際に出張を繰り返して打ち合わせをするしかなく、時間とお金の両面でのコストがかかっていました。ところがICTの発達はそうした壁を取り払ったのです。
 
 こうした生産工程の分割(フラグメンテーション)が進むと、特定の工程が同じ場所に集積するアグロメレーションと呼ばれる現象も起きます。例えば、21世紀になると労働集約的な縫製の工程はベトナムに集積するようになりました。
 ある国に関して、特定の産業が強いといった見方は意味を成さないようになってきており、どの工程や機能が集積しているかがポイントになってきます。例えばベトナムではスマートフォンやプリンターなどの電子機器の輸出が大きく伸びていますが、ベトナムにあるのは基本的には労働集約的な組み立ての工程です。
 このためアジアでは欧州、北米に比べて中間財の貿易がさかんになっています(112p図表3−2参照)。
 以前は統合型だった生産形態も市場型に変化する産業も出てきました。例えば、自転車産業は、以前は各部品のすり合わせが重要でしたが、部品のインターフェイスが共通化されることで、変速機のシマノのような基幹サプライヤーの部品を組み合わせて生産が可能になりました。
 
 こうした中で、アジアでは各工程の高度化も進んでいます。縫製というと比較的熟練を必要としない工程のように思われますが、経験が物を言う暗黙知の領域の部分も多く、生産スピードに労働者の能力が大きく関わってきます。ベトナムでは00年代初頭、1人あたり1日4枚程度だったアウトプットは10年頃には20枚を超えるレベルに上がったといいます。
 ただし、そうは言っても縫製の付加価値は低く、工程の中で高い付加価値を上げるのは「製品企画・デザイン」、「マーケティング・流通」の部分です。生産フローの最初と最後の付加価値が高く、途中の付加価値が低いことをグラフから「スマイル・カーブ」と呼びます(128p図表3−6参照)。
 「中所得国の罠」という言葉がありますが、これはアジアの後発諸国がなかなか最初と最後の工程に進出できていないことから説明できるかもしれません。

 日本に関しては、アジアにおいて最初と最後の工程を握っていたので安泰と言いたいところなのですが、そうも言えなくなってきたというのが第4章の分析になります。
 その理由の1つが産業が「擦り合わせ(インテグラル)」型から「組み合わせ(モジュラー)」型へと変化してきたことです。例えば、80年代に登場したノートパソコンは当初インテグラル型の製品でした。限られたスペースに多くの部品を互いに干渉することなく詰め込むには高い技術が必要だったのです。ところがインテルのCPUが登場し、そのインターフェイスが標準化されると、ノートパソコンはモジュラー型の製品となり、台湾企業が市場を席巻していきます。
 これはブラウン管テレビから液晶テレビの変化の中でも起きたことですし、自動車に関しても電気自動車に関してはモジュラー型の要素がかなり強くなります(中国の電気自動車メーカーBYDはもともと電池メーカー)。

 この変化によって日本企業の立ち位置も変わりつつあります。以前はiPhoneなどでも日本製の基幹部品を中心に中国で組み立てるといった性格が強かったのですが、近年では有機ELディスプレイなどの基幹部品も中国製となりつつあります。
 R&D支出のGDP比や知識集約的なサービスに従事する労働者比率、海外からの知的財産権等の使用料の支払いなどから算出されるグローバル・イノベーション指数では、日本はアジアにおいてシンガポール、韓国、香港、中国につぐ第5位であり(07年の時点では日本はアジアの1位(150−151p)、日本を追い越すような動きが見られます。日本一極の時代は終わり、アジアは多極化の時代を迎えたと言えるでしょう。
 対外FDIを見ても、日本、韓国、台湾などに加え、タイ、中国がネット(差し引き)の投資国となっており、20世紀とは状況が一変しました。ちなみにこの本では日本の対内投資の極端な少なさ(対外投資に比べて対内投資が少ない)も指摘されています(161−162p)。

 最後の第5章ではインフォーマル経済についてとり上げています。インフォーマル経済というのは、例えば、東南アジアの都市で見られる露天商などの経済活動です。この正規に登録されていない事業所以外で働くインフォーマル雇用の割合(農業従事者を除く)は、日本では12.0%ですが、韓国では23.3%、中国で47.7%、インドネシアで62.7%、カンボジアで67.3%といった具合になっています(168p図表5−1参照)。

 インフォーマル経済というと露天商、行商、ゴミ拾いなどだけを思い浮かべるかもしれませんが、例えばベトナムではインフォーマルに操業するアパレル企業というのもあり、フォーマルな企業は輸出、インフォーマル企業は国内向けと行った具合の棲み分けが行われていることもあり、海外向けの製品の縫製のみを行うフォーマル企業に対して、インフォーマル企業はデザインや企画(コピー製品も多いですが)なども行っているケースもあります。
 一方、タイでは人件費の高騰で競争力を失ったアパレル産業がミャンマーとの国境沿いのメーソートという地域に集積し、国境を超えて働きにくるミャンマー人(多くは許可証なし)を雇用しているケースもあり、こちらも多くはインフォーマルな存在です。
 このようにインフォーマル経済には、ベトナムのようにそこからステップアップできるかもしれない可能性と、タイのメーソートに見られるような、いわゆる「底辺への競争」的な側面もあります。
 また、本章の最後では米中貿易摩擦の影響に関しても、簡単にではありますがとり上げられています。

 終章では日本の今後についての提言がなされています。「選ぶ日本」から「選ばれる日本」へ、ということや、多様性の確保といったことはその通りでしょう。そして、その中で興味深いのは一国の持つ生産的知識の多様性とその能力の遍在性(あるいは希少性)に注目した経済複雑性指標で、日本は現在でも世界のトップだということです。日本には多様性がないとされる中で、生産的知識は世界トップの多様性があるというのは興味深いです。

 このように本書は世紀をまたいだアジアのダイナミックな変化がよく分かる1冊となっています。40代以上だと、日本企業がコスト削減のために移転した先としてのアジアの印象が強い人もいるかも知れませんが、本書を読むと21世紀になってからそのアジアが大きく変貌していることがわかると思います。
 また、冒頭でも述べたように著者に商社勤務の経験があることもプラスに働いていて、ビジネスの人にもわかりやすい語り口になっていると思いますし、読みやすい1冊に仕上がっています。


中野耕太郎『20世紀アメリカの夢』(岩波新書) 9点

 岩波新書から刊行されている〈シリーズ アメリカ合衆国史〉の第3巻。20世紀の幕開けから1970年代までを取り扱っています。
 実は、岩波新書からは中国史も刊行中で、このアメリカ合衆国史のほうはスルーするつもりだったのですが、この第3巻に関してはネットなどでの評判も非常に良いので読んでみました。
 読んだら評判通りに面白かったです! 1900〜70年代というと、大統領を見ても、セオドア・ローズヴェルトがいて、ウィルソンがいて、フランクリン・ローズヴェルトがいて、ケネディがいて、といった具合に豪華絢爛であり、これを250ページ以内の新書に収めることは不可能では? と思ってしましますが、それを社会思想やそれに基づいた社会政策などの面から鮮やかに読み解いていきます。
 特にフランクリン・ローズヴェルト以降の民主党を支え、民主党の時代をつくり上げた「ニューディール連合」がいかに形成され、いかに解体したかということがわかりやすく描かれており、トランプ大統領を生み出したアメリカの政治風土なども理解できるようになっています。
 シリーズものの1巻ではありますが、もちろん本書だけ読んでも何の問題もないですし、アメリカの政治と社会を考える上で重要なことを教えてくる本だと思います。

 目次は以下の通り。
第1章 革新主義の時代
第2章 第一次世界大戦とアメリカの変容
第3章 新しい時代―一九二〇年代のアメリカ
第4章 ニューディールと第二次世界大戦
第5章 冷戦から「偉大な社会」へ
第6章 過度期としてのニクソン時代

 1901年9月、マッキンリー大統領が暗殺され、副大統領だったセオドア・ローズヴェルトが42歳という若さで大統領に就任します。
 このセオドア・ローズヴェルトの初めての年次教書には、無政府主義者への断固たる態度、独占企業のもたらす問題やそれに対する連邦政府の介入の必要性、移民の選別、フィリピンをはじめとする植民地経営などが書き込まれており、いわゆる「大きな政府」へ向けての萌芽が見られます。

 セオドア・ローズヴェルトの時代は革新主義の時代でもありました。「改革」を求める人びとは反独占、貧困の撲滅、選挙制度改革、禁酒など、さまざまな分野に登場しましたが、そこで重要なのは彼らが「社会的な」問題領域を発見したことです。そして、その解決のために彼らは匿名的な連帯を追い求めました。
 この連帯において消費者という1つの共通の立場が見いだされ、指標として生活水準が語られるようになっていきます。

 しかし、こうした「社会」への注目は、異なる生活文化を持つ「他の人々」の存在を炙りだすことにもなりました。生活困窮者を人種・民族的(エスノ・レイシャル)な出自と結びつけて理解する考えが広がっていきます。
 1907年移民法の成立とともに議会に移民に関する特別委員会が設置されますが、ここでは識字率などによって移民を選別しようという議論がなされ、1917年に成立した新しい移民法では、「入国時に識字テストと人頭税を課し、またアジアからの移民を禁止するもの」(17p)となりました。自分たちのアイデンティティに同化できるかどうかを人種・民族で区別しようという動きも生まれてきたのです。

 対外政策としては相変わらずモンロー・ドクトリンが受け継がれたようにも見えますが、もともとはアメリカ大陸におけるヨーロッパの干渉を排除するものだったのに対して、この時代になるとそれは「中米カリブ海を念頭において、特定地域の政治・経済安定のためにはアメリカ合衆国が敢えて内政干渉を行う必要を説い」(27p)たものへと変質していきます。
 キューバやフィリピンといった地域は「さながら革新主義者の実験室の様相を呈し」(31p)ました。これらの地域では公衆衛生、環境保護、刑務所の民主化、薬物の取締りなどが行われ、それがアメリカ本国に還流していきます。

 1912年の大統領選挙ではウッドロー・ウィルソンが勝利します。彼は学者出身の理想主義者のイメージがありますが、同時に南部民主党が選出した人物でもあり、「人種隔離を支持し、クー・クラックス・クラン(KKK)の騎士道を信じる南部人」(38p)でもありました。
 このウィルソンが第一次世界大戦の勃発に直面することになるわけですが、当初、ウィルソンは大戦へのコミットメントに消極的でした。
 このウィルソンとアメリカ国民の態度を変えたのが1915年に起きたルシタニア号事件だと言われています。ドイツの潜水艦によってルシタニア号が撃沈され多くのアメリカ人が犠牲となったのです。
 しかし、現在ではルシタニア号事件とアメリカの参戦は直接には結びつかないと考えられています。ウィルソンはカリブ海の国々などへの軍事介入を続けており、1916年にはメキシコとの間で軍事衝突を起こします。こうした中で、ウィルソンは中南米で模索していた集団安全保障の構想を全世界に拡大させるような考えを表明します。
 1917年にウィルソンが「勝利なき平和」演説を行うと国内の革新主義者は参戦へと傾き、さらにドイツによるメキシコ尾の軍事同盟締結の動きが発覚すると、アメリカは参戦を決断するのです。

 第一次世界大戦への参戦はアメリカ国内に大きな変化をもたらしました。全国規模の徴兵制が導入され、政府・産業界・労働界が結びついた動員体制が築かれます。労働組合はストライキを放棄し、「明白かつ現存する危機」があれば憲法上の市民権は制限可能だとする判決が出ます(シェンク対合衆国裁判)。
 また女性の職場進出も進みますが、徴兵免除の条件に「扶養家族のある既婚男性」があったように家父長主義的な価値観が変わったわけではありませんでした。
 黒人の間にも戦争をきっかけに地位の向上をはかるべきだとの声がありましたが、軍需工場で働くために南部の黒人が北部に移動したことは北部での人種的緊張を高め、1917年7月にはイリノイ州のイースト・セントルイスで大規模な人種暴動が起こっています。
 軍隊においても黒人兵は鉄道建設や港湾労働などの軍事訓練を必要としない部門に回され、軍隊内でも人種的な隔離が行われました。

 第一次世界大戦が終わると、戦中に行われた改革に対するバックラッシュともいうべき動きが起こります。高関税が復活するとともに、法人税や累進所得税が引き下げられ、連邦の児童労働規制法に違憲判決が出され、ワシントンDCの女性最低賃金法も無効とされました。
 第2次KKKの動きも活発化し、1924年移民制限法では1890年のアメリカ国民の出身国という基準によってイタリアやポーランドからの移民を制限するとともに、アジア人全般の入国を基本的に禁止しました。
 ウィルソンのあとにつづいた共和党政権は、トーマス・ラモントなどの民間外交に頼りましたが、完全に孤立主義に回帰したわけではなく、ドイツの賠償問題に関与し、ワシントン会議を主催してワシントン体制を構築しました。

 1920年代、アメリカは未曾有の繁栄を迎え、「平均的アメリカ人」という考えが普及します。さらにこれは国境を超え、「非人格化された「平均的アメリカ人」は、世界を「同化」するモジュールとなりえ」(107p)ました。アメリカの大衆文化は世界中に広がっていったのです。
 しかし、この繁栄は1929年10月に始まった大恐慌によって終わります。ときの大統領フーバーはこの大不況に無策だったと見られていますが、公共事業や所得税の最高税率の引き上げは行われましたし、また、ブロック経済を阻止し、貿易を活性化するための国際協調を目指しました。

 ところが、庶民を見殺しにしているとの印象は払拭できず、1932年の大統領選挙ではフランクリン・ローズヴェルトが圧勝し、民主党が上下両院で多数を占めました。
 1933年の3月に始まった臨時議会(百日議会)でローズヴェルトは次々と法案を通過させていきます。それは「フーバーの産業自治論を引き継ぐものから、巨額の国家資金を市場に投入するもの、さらには革新主義者の救貧、コミュニティ運動を彷彿とさせる「社会的な」政策など、実に多様な理念とアプローチが存在して」(134p)いましたが、政府が立案し、独立した行政機関の設置を求めていた点では共通していました。行政主導が際立つようになります。
 ローズヴェルトはしばしば「恐怖」という言葉を使いましたが、これを梃子にして行政機関と大統領権限の拡大がなされたのです。

 1935年のシェクター鶏肉会社対合衆国裁判で、最高裁が全国産業復興法(NIRA)に違憲判決を出すなど、ニューディールは抵抗にもあいましたが、ローズヴェルトは全国労働関係法(ワグナー法)を成立させ、労働者保護の姿勢を強めます。この過程の中で、産業別労働組合会議(CIO)が誕生し、労組は民主党の最も有力な集票組織となりました。
 こうした中で、(1)民主党・都市政治マシーン、(2)労働組合、(3)中西部・南部農民、(4)都市部の左派知識人、(5)北部黒人労働者、(6)南部民主党(人種隔離主義者)からなるニューディール連合が形成されていきます(146p)。
 これはどう考えても矛盾のある組み合わせなのですが、南部は南北戦争以来民主党の牙城であり、当選回数の多い民主党議員は南部出身者に集中していました。当選回数の多い議員が委員会の議長を務めることが多い連邦議会では、この南部民主党の力を借りることは必要不可欠だったのです。
 ローズヴェルトは反リンチ法に冷淡な態度を取るなど、黒人を失望させることもありましたが、「経済的セキュリティ」の要請がこうした矛盾を覆い隠しました。

 1939年、第二次世界大戦が勃発しますが、アメリカは中立政策をとり、ローズヴェルトも1940年の三選時は参戦に慎重な姿勢を示していました。しかし、41年になると参戦への姿勢を示し、12月の真珠湾攻撃をきっかけとして参戦します。
 参戦は巨額の政府支出を伴い、巨大企業の収益にもつながりました。労働組合はストを放棄する代わりにその組織を拡大させます。景気は回復していきましたが、この景気回復は「経済的セキュリティ」の要請を弱め、社会を保守化させます。1942年の中間選挙では共和党が大きく巻き返しています。
 これを受けて44年の大統領選挙でローズヴェルトは副大統領候補をニューディールを推進してきたウォーレスから保守派のトルーマンに差し替えます。そして45年4月にローズヴェルトが急死したことによって、このトルーマンが大統領となるのです。

 トルーマンは外交経験があまりない人物でしたが、彼が直面したのは核兵器という新しい兵器の登場と冷戦でした。
 トルーマンは共産主義の脅威に対して、国家安全保養会議(NSC)をつくり、その下部組織としてCIAをつくるなど、安全保障を強化します。一方、ソ連との対抗上、国務省などから南部の人種隔離政策に厳しい目が注がれていきます。「アジア・アフリカの新興国をめぐるソ連との攻防において、人種問題はアメリカニズムの「アキレス腱」だという認識」(183−184p)が生まれてきたのです。
 48年の大統領選において、トルーマンは黒人市民権の擁護を掲げ、南部民主党の離反を招きつつも、黒人票の大部分を獲得し、再選に成功しました。

 しかし、朝鮮戦争の泥沼化、国内でのマッカーシズムによってトルーマンの人気は凋落し、1952年の大統領選挙では共和党のアイゼンハワーが勝利します。これは33〜69年まで続いた民主党政権の小休止とも言える時期でした。
 アイゼンハワーは国内では民主党の政策を継続しつつ、対外政策では民主党の理念外交や軍事費の増大に警鐘を鳴らし、安上がりな核兵器による抑止力に頼る姿勢を示しました。また、この時代は54年のブラウン判決により教育における人種隔離の慣行が否定され、55年にはローザ・パークスに始まるバス・ボイコット運動が起こるなど、黒人の市民権を求める動きが盛り上がりました。
 
 1960年の大統領選に勝利したのは民主党のケネディですが、本書では「元来、ケネディは対外政策、特に軍拡と対ソ強硬路線に執着した政治家であった」(200p)と評されています。そのケネディはこの黒人公民権運動に接近し、南部政治の変革を視野に入れた動きを見せます。
 しかし、ケネディは63年に暗殺され副大統領のリンドン・ジョンソンが大統領となります。ジョンソンはかつてニューディールの全国青年局の最年少幹部に抜擢されたこともあるリベラルであり、市民権法を成立させ、64年の大統領選に勝利しました。
 ジョンソンは貧困問題にも取り組みましたが、ここで注目されたのが「貧困の文化」で、「人種」を文化的なものとして定義していく動きが見られました。対貧困戦争は冷戦の文脈のもとで進められ、「アメリカの大都市の一角にアジアや中米と同様の貧しい「村」を発見し」(209p)ていきました。この動きは目的こそ違いますが、ニクソンの対犯罪戦争やレーガンの対麻薬戦争に引き継がれていきます。

 しかし、ベトナム戦争の泥沼化はジョンソンに大統領選への出馬を断念させることとなり、68年の大統領選挙では共和党のニクソンが勝利します。
 ニクソンは「忘れ去られたアメリカ人」という言葉を使い、南部の守旧派や北部の労働者の一部の票を得ていきます。68年の大統領選ではジョージ・ウォーレスが獲得した低南部の州は、72年の大統領選では共和党の票田となります。
 外交面では、ニクソンはベトナムからの撤退を進め、中国と国交を結び、ソ連とも軍縮を進めます。イデオロギーから離れたいわゆるリアリズム外交が展開されました。

 保守色の印象が強いニクソン政権ですが、憲法の男女平等権修正条項(ERA)ではこの時期に両院を通過しています。郊外の住宅と専業主婦というニューディールの理想像は否定され、マイノリティの権利を求める運動が活発化したのです。
 こうした動きに対してニクソン政権はアファーマティブ・アクションの全国的な実施を進めていきます。しかし、個人の権利を求めるフェミニストなどの運動とアファーマティブ・アクションの間にはズレもありました。アファーマティブ・アクションはあくまでも資源配分の政治なのです。
 このアファーマティブ・アクションの導入について本書では次のように分析されています。
 このアファーマティブ・アクションの反ニューディール的性格は、なぜこの制度が保守的なニクソン政権期に全国化し、定着していくのかを説明しよう。すなわち、ニクソンが推進した雇用に関する優遇措置は、白人が多数を占める労働組合と黒人労働者を離間させ、かつての一枚岩と言われた南部の民主党支持者の間にも複雑な分断を持ち込んだ。ニクソンの真意が奈辺にあったかは別にして、アファーマティブ・アクションの導入が民主党ニューディール連合を効果的に破壊し、共和党の党勢拡大を図るうえで合理的な選択であったことは確かであろう。(226−227p)
 
 このような戦略でニクソンは72年の大統領選に圧勝しますが、ウォーターゲート事件の発覚によって退陣することになります。そして、「社会的なもの」への関心は薄れていき、反中絶など「文化的な」問題がもっぱら語られる時代へとアメリカは転換していくのです。

 以上のように、本書はアメリカの20世紀を非常に高い密度で描き出しています。もちろん、書かれていない部分もありますし(当然、本書では触れているのにこのまとめでは触れていない部分もあります)、アメリカの対外政策にもっと触れてほしいという人もいるでしょう。
 それでも、アメリカの社会と政治の変化をこれだけコンパクトかつダイナミックに描き出すということは並大抵のことではないです。トランプ時代を考える上でも示唆に富んでいますし、通史でありながらタイムリーな本でもあると思います。
 

村井良太『佐藤栄作』(中公新書) 7点

 安倍政権が長期化することで、同じ長期政権を築いた人物として比較の対象となったりすることも佐藤栄作の評伝になります。
 生前の姿を知らない者からすると、佐藤栄作というのはイメージの湧きにくい人物です。吉田茂、岸信介、田中角栄、中曽根康弘といった政治家についてはその特徴をいくつかパッとあげることができそうですが、佐藤に関してはいまいちとらえどころがないです。
 そんな佐藤に対して、本書は佐藤の特徴をいくつか打ち出してそれに沿った叙述をするのではなく、淡々と佐藤の事績を追っていきます。沖縄返還に関してはかなり力を入れて書いていますが、それ以外は比較的フラットな印象を受けます。「あとがき」に「現時点の研究状況と資料状況から政治家佐藤栄作について「私たちはいま、何がわかっているのか」を読者に届けることに務めた」(390p)とあるように、著者なりの大胆な見解のようなものも特にはありません。
 ただし、淡々と事績を追った先に見えてくるものがあり、本書を読み進めながら徐々に佐藤の政治家としての特徴や優れていた点、そして退屈さが浮かび上がってきます。同時に佐藤政権誕生までの戦後史を丁寧に記述している点も1つの特徴です。

 目次は以下の通り。
第1章 政界を志すまで―三つの時代の官僚として
第2章 吉田茂の薫陶―憲政の再建と二つの日米安保条約
第3章 政権獲得への道程―政党政治家としての成長
第4章 佐藤政権の発足―戦後二〇年目の日本政治
第5章 沖縄返還の模索―つきまとう七〇年安保の影
第6章 一九七〇年を越えて―戦後の次の日本像
第7章 総理退任後―晩年と残された人々

 まずは佐藤という人間の「つまらなさ」を感じさせるエピソードから紹介します。
 「1963(昭和38)年12月24日のクリスマス・イブ、佐藤は自宅で一人テレビをつけて趣味のトランプ占いをしていた」(122p)、ここに当時産経新聞の政治部デスクだった楠田實が訪ねてきて「Sオペ」が始まるわけですが、クリスマス・イブに1人トランプ占いをする63歳の佐藤。「つまらない」です。
 
 その「つまらない」人間がいかにして総理になり長期政権を維持できたのか? この本を読むといくつかの偶然が見えてきます。
 佐藤には身近に兄岸信介、伯父松岡洋右という政治家がいますが、東京帝国大学卒業時は官界ではなく日本郵船を受けようとしていました。ところが、その年の採用がなかったことから鉄道省に入ることになります。
 1934年に在外研究を命じられアメリカを中心にイギリス、ドイツ、イタリア、フランスなどに滞在し、特に米国体験は強い印象を残したようです。
 その後も鉄道省の官僚として活躍しますが1944年に大坂鉄道局長へ転出します。本人はこれを左遷ととりましたが、このときに大阪に行っていなければ戦後追放されていたかもしれません。また、この大阪時代に労働界にいた西尾末広と親しくなりました。

 戦後、佐藤は吉田茂内閣において運輸大臣を打診されますが、この話は戦犯・岸信介の実弟であることをGHQが問題視し流れ、運輸事務次官となります。その後、片山内閣のもとで官房長官に就任した西尾末広から官房副長官の打診を受けますが、これを断っています。このときに佐藤は社会党から政界に入る道も考えたようですが、結局は48年に吉田茂の民主自由党に入湯しました。

 この年に成立した第2次吉田内閣で佐藤は官房長官に抜擢されます。当時の官房長官は国務大臣ではなかったとはいえ、よほど実務能力を買われていたのでしょう。49年には衆議院議員に当選し、民自党の政務調査会長となります。さらに50年には自由党の幹事長になっています。
 このように吉田の引き立てで自由党の役職を歴任した佐藤でしたが、日本が独立を回復し、鳩山一郎らの公職追放組が復帰すると、党内対立が激しくなり、吉田とともに佐藤の地位も不安定になります。

 55年に自民党が誕生しますが、当初佐藤はこれに参加せず無所属となりました。57年、佐藤は自民党に入党します。同じ頃、兄の岸信介が首相となり、佐藤は再び要職を歴任していいくことになります。
 岸内閣は安保闘争で倒れますが、続く池田内閣でも重要閣僚を歴任し、64年7月の自民党総裁選で池田にチャレンジしますが敗れます。ところが9月に池田の病気が発覚し、11月には佐藤内閣が誕生しました。首相になるまでの佐藤には運があったと見るべきでしょう。

 次に注目したいのが実兄の岸信介との関係です。本書を読むと岸と佐藤の関係は良かったように見えますが、実際の仲は別として岸という特徴的な政治家の弟であったことは佐藤のイメージを大きく規定したことと思います。
 佐藤がどのくらい「右寄り」だったかはわかりませんが(著者は、佐藤がライシャワーに対して核兵器保有の意向をもらしたと言われる問題に関してはライシャワーの誤解だと解釈しています(159p))、岸という非常に「右寄り」の政治家の弟ということで、佐藤を直接知らない人はおそらく「右寄り」のイメージを抱いたことでしょう。

 ところが、佐藤が自民党総裁選にチャレンジするにあたって、楠田を中心としたSオペで決定された路線は、「右フック、左パンチ」(132p)という合言葉のもと、「真ん中より左」の政治家として佐藤を押し出すことでした。
 総理になってからも、住宅政策などの「社会開発」を重要政策に掲げ、非核三原則を打ち出し、公害国会では公害に対して積極的な取り組みを見せました。兄のイメージとは違い、佐藤はまさに「真ん中より左」とも言える路線を歩んだのです(もちろん、革新官僚だった岸も「社会開発」には興味を示したかもしれませんが)。

 本書で指摘されているわけではありませんが、「岸の弟」という佐藤のイメージは佐藤にとってプラスだった面もあるのでしょう。
 佐藤の「真ん中より左」という路線は、自民党内の右派から批判されても仕方のないものです。ところが、佐藤には「右寄り」のイメージもあるため、右派の批判の矛先も鈍ります。ちょうど現在の安倍政権が安倍首相の「右寄り」のイメージによって、女性の活用や中国との緊張緩和などの政策について批判を受けずに進めることができているのと似ています。
 また、佐藤が岸の弟でなかったら、福田赳夫あたりがもっと早くに佐藤に対してチャレンジしていたかもしれません。
 さらに岸が経験した安保闘争が佐藤を沖縄返還へ駆り立てたとも言えます。
 
 沖縄返還は佐藤の最大の業績であり、本書でもかなり紙幅を割いて書かれています。この沖縄返還の背景にあるのが、日米安保条約が自動継続となる1970年をどう迎えるのかという問題です。佐藤内閣発足時に官房長官の橋本登美三郎は「日米安保条約が自動継続となる[昭和]45年6月まではやりたい」(145p)と述べていますし、またSオペでも1970年が強く意識されています。

 そして、本書を読むと、1970年を乗り越えるために沖縄返還に取り組んだことが、佐藤政権が長期化した大きな理由であることも見えてきます。
 あとがきにおいて著者は、「沖縄返還交渉の随所で佐藤のリーダーシップには跳躍がみられ、その勝負に勝っている」(392p)と述べていますが、基本的に慎重な政治姿勢の佐藤ですが、沖縄返還交渉については前のめりです。
 65年に首相となってから初めて訪米すると、ジョンソン大統領との会談で沖縄と小笠原の返還問題を提起し、同年8月には日本の首相として初めて沖縄を訪れています。このとき「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、わが国にとって「戦後」が終わっていないことをよく承知しております」(179-180p)と述べ、沖縄返還を日本の大きな課題として位置づけます。

 当時、日本国内では沖縄返還は困難で、小笠原返還のほうが70年までに結果が出しやすいとみられていましたが、実はアメリカ側でも「1970年までにアメリカが沖縄の本土復帰を確約していなかったら、日米関係は重大な危機を迎えるだろう」(215p)という認識がありました。佐藤はこうした動きを知らなかったわけですが、結果的には前のめりともいえる沖縄返還への佐藤の姿勢は機を捉えたものでした。佐藤は国際政治学者の若泉敬を非公式な交渉者として渡米させ、沖縄返還への道を探っていきます。
 
 67年11月の2回目の訪米で、佐藤はアジア開発銀行への出資額引き上げ、インドネシアへの援助増額などのカードを切る形で、ジョンソン大統領との間で「沖縄の施政権を日本に返還する」方針を確認し、「ここ両3年内」に返還時期に合意すべきことを共同声明に盛り込むことに成功します。

 68年1月、佐藤内閣は「非核三原則」を表明します。野党は国会決議を求めましたが、佐藤は以降の内閣を拘束すべきではないと考え、これに否定的でした。4月には小笠原返還協定が調印され、6月には返還が実施されます。
 いよいよ沖縄の番となるわけですが、ここで問題になったのが沖縄の核の問題でした。佐藤にとってもこれは難しい問題でしたが、69年には「核抜き本土並み」を明言します。ただし、アメリカ側は有事の核再持ち込みを求めており、このアメリカの意向は非核三原則と衝突しました。佐藤は「非核三原則の持ち込ませずは、誤りであったと反省している」(269p)ともらしています。

 69年に佐藤は訪米しニクソンと会談します。ここで「核抜き」の復帰が決まるのですが、そのために佐藤は基地移転の財政問題や沖縄返還とは関係のない繊維問題で譲歩し、さらに核再持ち込みについての「密約」を結びます。「核抜き、本土並み、72年返還」が実現しますが、そのために佐藤はかなりの無理を重ねています。
 この無理はアメリカとの力関係で強いられたものにも見えますが、この無理はニクソン・ショックによる円・ドルレートの急変によってドルを使用していた沖縄の人々の財産が目減りしてしまう問題にも発揮されました。佐藤は沖縄県民に対して1ドル=360円のレートを保証し、日本銀行の赤字を受け入れました。
 このように佐藤は沖縄返還実現のためにかなり強引なこともしているわけですが、「沖縄返還を実現するまでは」という執念が政権の求心力を保ったことも事実でしょう。

 沖縄返還においては強引さもあった佐藤でしたが、それ以外の面については柔軟でした。本書で何度か指摘されているように、佐藤は情報を集めることに長けており、その情報をもとにして政治的な判断を下していました。
 学生運動に対しては大学臨時措置法をつくって強硬にこれを抑え込み、公害に対しては70年の公害国会でこれに集中的に取り組み、公害対策基本法にあった経済調和条項を削除し、一歩踏み込んだ姿勢を示す。それぞれ当時は賛否があったと思いますが、時が過ぎてみれば佐藤のとった方針が時代に適合的であったと言えるでしょう。

 このように本書を読むと、佐藤政権が長期化した理由が見えていきます。ただし、「あとがき」でも触れられている「党内の凝集性」(390p)の部分については、やや記述が弱いかもしれません。佐藤の下の世代がいう佐藤の「怖さ」についてもあまり触れられていません。また、佐藤政権が国政選挙で勝ち続けることができた理由についても、それほど詳しい分析がなされているわけではありません(特に政権的には危機だったと思われる67年の黒い霧解散でなぜ勝てたのかについてもう少し言及があっても良かったかも)。

 一方、本書において充実しているのは戦後史について一般的な記述です。特に佐藤が首相になる前の動きを丁寧に追っており、佐藤引退までの戦後政治史といった趣きもあります。
 本書を読むと、1960年代半ばまで存在した、対米強調・軽武装の吉田路線と、自主独立・憲法改正の鳩山・岸路線が、佐藤によって統合され(ここでは「統合」と書いたけど、著者は「吉田路線とは佐藤政治のことではないか」(392p)と述べている)、「戦後」の日本の路線を定着させた過程が浮かび上がってきます。


青山拓央『心にとって時間とは何か』(講談社現代新書) 7点

 時間の謎について考えた哲学的エッセイで、時間というものをとことん考えるのではなく、〈自由〉、〈記憶〉、〈自殺〉、〈SF〉、〈不死〉といったテーマを変えながら時間の謎、特に移り行く「今」の謎に迫っています。
 著者は『分析哲学講義』(ちくま新書)の著者であり、正直、自分とは「謎」だと感じるポイントが違うと感じるところもあります。ただ、とり上げられている例は興味深いですし、自殺の話などは著者の考えに賛成するかは別にしてもかなり面白い視点からの分析がなされています。

 目次は以下の通り。

第一章 〈知覚〉――時間の流れは錯覚か
第二章 〈自由〉――私はいつ決めたのか
第三章 〈記憶〉――過去のデッサンを描くには
第四章 〈自殺〉――死ぬ権利は、権利なのか
第五章 〈SF〉――タイムトラベルは不可能か
第六章 〈責任〉――それは、だれかのせいなのか
第七章 〈因果〉――過去をどこかに繋ぐには
第八章 〈不死〉――死はいつまで続くのか

 第1章では、「時間が流れる」という感覚について考察しています。「今」が流れ去って「過去」になる、といったイメージで人々は時間を捉えているわけですが、この「時間が流れる」ということをきちんと説明しようとするとなかなか難しくなります。
 現在の心理学や神経科学では、人間はほんの少し過去の世界を「今」として生きている、と言われることがあります。例えば、画面のある場所に緑の点が表示され、次に少し離れた場所に赤の点が表示されると、タイミングがうまくいけば、点が移動し、色が緑から赤に変わったかのように見えますこのとき被験者は、赤の点が現れる前に点は赤へと変化していったと報告します。つまり、脳は感覚器官から送られてきた情報を遅延して体験するだけではなく、時間的な編集も行っているようなのです。
 フッサールは、「今」はついさっき消え去った現象やこれから現れようとする現象を含んでいると考えました。これは最近の科学の知見と整合的かもしれません。
 ただし、著者はこのフッサールの考えは、「今」の内部から「今」の移行を捉えようとしており、これは不可能ではないかと見ています。このあたりの著者の問題意識はややわかりにくいのですが、「今」に近未来や直前のことが含まれるというのは「今」が拡大しただけであって、「今」が移行することを説明していないのではないか? ということなのでしょう。

 第2章では、ベンジャミン・リベットの実験がとり上げられています。リベットの実験については詳しくは以前『マインド・タイム』を紹介したときのエントリーを見てほしいのですが、人間の行動が実は人間が意識する前から始まっているということを明らかにしたもので、これを「自由意志が否定された」と考える人もいます。
 著者はこの解釈に対して、そもそもリベットが実験で行わせた「任意のときに腕を上げる」ということは、普通の意味での「自由な行為」とは言えないのではないかと疑問を呈しています。
 また、2つの顔写真を見せて好きな1枚を選択させて被験者に渡し選んだ理由を述べてもらう作業で、選択した写真を渡す瞬間に選ばなかったほうの写真をすり替えても被験者は気づかずに選んだ理由を滔々と語りだしてしまうという実験も紹介しています。著者はこの実験を面白いと評価しつつ、同時に「評価」と「選択」は違うのではないかとも述べています。

 第3章では記憶についてです。ここで中心的にとり上げられているのが、ラッセルの「五分前世界創造仮説」です。これは、この世界は5分前にすべて創造された(それまでの歴史や記憶も含めて)としても私たちはそれに気づかないだろうというものです。
 著者は、何かを疑うにはある種のデッサン画を維持しておく必要があり、それは少しずつ修正されることはあっても、一気に白紙にしてしまっては疑いようがない(間違いを修正しようがない)という考えのもと、この仮説に実践的な意味はないとしています。基本的にはウィトゲンシュタインの『確実性の問題』における考えと似ています。

 第4章は自殺。この章はなかなかおもしろいと思います。
 著者がまず問題にするのは、人間の「死ににくさ」です。もし、人間に「命のスイッチ」がついていてそのスイッチを自由に動かせるのであれば、私は時と場合によってはそのスイッチを切ってしまう、と著者は言います。
 しかし、現実にはそうしたスイッチはなく、自殺の失敗や後遺症の可能性などを考えざるを得ません。もちろん、確実な死をもたらす薬物などはありますが、それを手に入れるためには何らかの社会的な承認を得る必要があります。
 「死ぬ権利」という言い方もありますが、「権利」という言葉は社会的なものです。安楽死の場合で言えば、自らの苦しみを他者にも理解可能な形で語っていくことが要請されることになり、それが広く了解されるかどうかは不確定です。
 他にも、ここでは「今の自分が未来の自分を殺すことができるか?」という問題もとり上げています。やや詭弁に感じる人もいるかもしれませんが、これに対して著者は「たとえば、失恋した小学生がそのことを理由にして自殺しようとしたなら、それが未来の当人から見てどれほど強い「他殺」性をもつかを、説明したくなるに違いない」(123p)と述べています。

 第5章は〈SF〉という名前ですが、とり上げられるのはタイムマシンです。
 例えば、『ドラゴンボール』の「精神と時の部屋」では中で1年過ごしても外では1日しか経っていません。もし、この逆の部屋があれば(1日過ごすと1年経っている)、それは未来へと向かうタイムマシンのように感じられるでしょう。「未来へ行く」という表現も使われるかもしれませんが、これは時の流れが誰にとっても同じだという感覚から導かれる表現です。実際、これに近いことは相対性理論では起こり得ることで、「ウラシマ効果」と呼ばれています。
 このあと著者は、タイムトラベルを「今」が必要な「テンストラベル」と「今」が必要でない「テンスレストラベル」に分けて分析していますが、ここの議論はピンとこなかったです。

 第6章では責任という問題がとり上げられています。
 バスのドライバーが信号を無視し歩行者が怪我をしたケースで、その理由として次の4つのものがあげられたとします。(1)前日の芸能人結婚のニュースにショックを受け寝不足だった、(2)前日遅くまで隣の部屋の住人が騒いでおり寝不足だった、(3)医者が間違って駐車した薬のせいで突然の睡魔に襲われた、(4)実は映画『スピード』のように減速すると爆発する爆弾が仕掛けられておりブレーキを踏めなかった。
 多くの人は(1)→(4)の順にドライバーの責任が軽くなると感じると思います((3)と(4)については同じと考える人もいるかも)。(1)と(2)は本人にとっては(1)の方が重大事ということはもちろんありえるでしょうが、(1)の理由は多くの人の支持を受けにくいでしょう。著者はこうしたことから「責任」は受け渡し可能なのか? 「責任」というものは「構成」されるものだと考えていいのか? といったことを考察しています。
 さらに脳の障害によって犯罪を犯してしまうようなケースを紹介し(ある男性は急に児童ポルノにのめり込んだが脳の腫瘍を摘出すると治った、しかし、再び児童ポルノに手を出すようになり調べてみると同じ場所に腫瘍ができていた(171p))、神経学者のイーグルマンが犯罪に関して「非難に値する」から「修正可能である」という考えに変えていくべきであるという提言を検討しています。

 第7章は因果。個々の出来事(トークン)でから一定の法則を導けるかというのはヒュームのころから考えられている問題です。
 さらにこの章では記憶の問題も検討しており、「いつ」「どこで」「何が」起きたかという個人的記憶を意識的に思い出し、それを再体験できる「エピソード記憶」というものをとり上げています。動物も過去の経験を覚えていてそれを行動に反映させますが、それは「トークン」の記憶なのか、それともある種の「タイプ」(法則性)を覚えたのかははっきりしませんが、人間は出来事とともに、それを経験している「私」というものをより明確に保持していると著者は考えているようです(ここの議論のポイントは個人的にいまいちピンとこなかった)。

 第8章は〈不死〉というタイトルで、まずはイーガンの『順列都市』がとり上げられています。『順列都市』では巨大な乱数の集合があれば、そこに何らかの整合性をもった諸パターンが含まれているはずであり、心もまたパターンであるなら、そこには心も含まれているかもしれない」(209p)で、そしてそれが心であるならば内部から秩序を作り上げるであろう、つまり真の「不死」が出現する、という話が登場します。
 ただし、このようなパターンは時間的な流れのようなものを持つのかは疑問です。心のパターンのようなものがあれば、それは無時制的だと考えるのが自然でしょう。しかし、私の「心」は一定の先後関係の中にあると考えられるのが普通です。昨日と今日の間に大きな矛盾がないからこそ、私は安定した生活ができるのです。私の「心」は整合的な繋がりによって構成されているのです。

 どこまで著者の思考を追うことができたかはわかりませんが、いくつか興味を引くような思考があったのではないかと思います。著者の思考にどれだけついていけるかは別にして、複数の面白い論点が提出されていると思います。個人的には、〈自由〉、〈自殺〉、〈責任〉といったことをとり上げた章を面白く読みました。
 ただし、この本には少し欠点も感じていて、それは第3章においてラッセルの「五分前世界創造仮説」をウィトゲンシュタインが『確実性の問題』示したスタンスで棄却していることです。
 それ自体は全然構わないのですが、ウィトゲンシュタイン的な立場を取れば、タイムトラベル(本書ではその中でもテンストラベル)のような現実にはありえないような設定で現在の状況を疑うことはできなくなってしまうのではないでしょうか? そうした疑問は端的に意味がないと棄却されてしまうからです。
 そのため本書後半の哲学的な議論の一部がやや空転してしまっているようにも思えました。


2019年の新書

 去年の「2018年の新書」のエントリーからここまで51冊の新書を読んだようです。
 今年の前半は中公の歴史ものレベルが非常に高く、上半期は2017年に引き続いて「中公一強か?」と思いましたが、下半期は岩波が巻き返した印象です。特に岩波の9月のラインナップは見事でした。ちくまは夏くらいまでは良かったけど秋以降のランナップは今ひとつピンとこずで(見返してみたら去年も同じようなことを書いていた)、他だとNHK出版新書の企画がなかなか面白かったと思います。

 まずはベスト5とそれに続く5冊を紹介します。

小塚荘一郎『AIの時代と法』(岩波新書)



 今年のベスト。「第4次産業革命」とか「ソサエティ5.0」などの言葉が飛び交い、AIや情報技術の発展によって世界の姿が一変するようにも言われますが、そう言われると「そんなことはないだろ」と言い返したくなる人も多いと思います。
 自分も世界が一変するとは思いませんが、本書を読むと「法」とそれが想定する社会のあり方が変容を迫られていくことがわかります。「法」という固定された観点から見ることで、今起きている、そしてこれから起こる変化をかえってわかりやすく捉えることができるのです。
 AIの時代の特徴を、「モノ(の取引)からサービス(の取引)へ」、「財物からデータへ」、「法/契約からコードへ」という3つの変化に見ながら、それが法と社会にもたらす変化を検討する本書はまさにタイムリーな本だと思います。





曽我謙悟『日本の地方政府』(中公新書)



 日本の地方政府(地方自治体)について、制度と国や地域社会の関係などから明らかにしようとした本になります。
 このような政治制度やその実態を明らかにしようとする本だと、事例(地方自治をめぐるさまざまなトピック)や歴史(地方自治の起源、地方分権改革がもたらした変化など)を中心に論じるのがオーソドックスなやり方だと思いますが、この本ではデータと制度、さらにその制度から予想される帰結とそこからのズレを中心に論述を進めていきます。
 やや議論の進め方に面食らう人もいるかもしれませんがその議論の密度は高く、今までの地方自治体に関するイメージを覆すものも多いです。また、積極的な改革を提言する本ではありませんが、分析の中で浮き上がってきた問題点の把握を通じて、今後の日本の地方制度を考えていく方向性を教えてくれる内容にもなっています。




梶谷懐・高口康太『幸福な監視国家・中国』(NHK出版新書)



 キャッシュレス社会にシェアエコノミーに信用スコアと、猛烈な勢いでハイテクが普及しつつある中国。その姿はこれからのテクノロジー社会を予見させるようでありつつ、同時に多数の監視カメラや政府によるネット検閲などもあって近未来のディストピアを予見させるようでもあります。本書は、そんな中国社会をどのように考えればよいのか? という問いに向き合ったものです。
 本書は現在の中国の状況を教えてくれるとともに、中国で進行していることが中国という特殊な政治体制にのみ当てはまるものではなく、日本をはじめとする他の国々でもあり得るものだということを明らかにしています。と同時に、終章でとり上げられている新疆ウイグル自治区はまさに情報技術が暴走してしまっているケースでもあり、中国の実情を知るためだけではなく、今後の情報化社会を考えていく上でも重要な本でしょう。




石原俊『硫黄島』(中公新書)



 沖縄に関して、よく「日本で唯一地上戦が行われた」と言われます。もちろん、少し考えてみればこの本の舞台となる硫黄島も内地なのでこの表現は誤りなのですが、硫黄島の場合はそこに住民がいなかった印象があるので、スルーされてしまうのでしょう。
 しかし、硫黄島にも住民はいましたし、そこには社会がありました。硫黄島に住民がいなかったという印象は、戦後、住民が帰島を許されずに軍事基地化したことから、いつの間にか出来上がったものなのかもしれません。
 この本は、戦前の硫黄島社会を再現しつつ、実は住民の一部も巻き込まれていた地上戦、戦後の「難民化」、そして硫黄島への帰島が政府によって封じられていくまでを、元島民の証言や史料から描き出しています。
 今まで歴史の盲点となっていた部分に光を当てた貴重な仕事であり、非常に読み応えがあります。平岡昭利『アホウドリを追った日本人』(岩波新書)が面白かった人には前半部分を中心に面白く読めるでしょうし、戦後補償の問題などに興味がある人にとっては後半の内容は必読と言うべきものでしょう。




大木毅『独ソ戦』(岩波新書) 9点



 独ソ戦こそが第2次世界対戦の帰趨を決めたという考えは広く共有されつつありますが、同時に独ソ戦に関してはよく「歴史のif」が語られます。例えば、「ドイツが冬季の作戦にもっと慎重だったら…」とか「ヒトラーが作戦に介入しなければ…」といったような事が言われ、「第二次世界大戦においてドイツの勝った世界」という想像を刺激されるのです。
 ところが、本書を読むと、ドイツにとって対ソ戦はヒトラーのきまぐれではなく必然であることがわかりますし、ドイツ敗北の理由も、ヒトラーの介入や冬の厳しさといった部分ではなく、もっと根本的なところにあることが見えてきます。
 作戦次元の解説も行いながら、「通常戦争」「収奪戦争」「世界観戦争」という3つの性格の重なりとして独ソ戦全体の姿を描き出し、「質のドイツ軍」VS「量のソ連軍」といった形で理解されがちな独ソ戦のイメージを塗り替え、さらには独ソ戦で行われた蛮行の背景を説明することにも成功しています。





 次点は通史の傑作ともいうべき小笠原弘幸『オスマン帝国』(中公新書)、良質の経済学エッセイでもあり行動経済学の入門書としても機能する大竹文雄『行動経済学の使い方』(岩波新書)、移民受け入れにかじを切った日本の現状と問題点を明らかにしたまさにタイムリーな本である望月優大『ふたつの日本』(講談社現代新書)、新書とは思えない緻密な議論で日本の教育における格差の問題を示した松岡亮二『教育格差』(ちくま新書)、歴代最長政権となった安倍政権を支える自公連立を分析した中北浩爾『自公政権とは何か』(ちくま新書)といったところになります。


 『応仁の乱』のヒット以降、どこも歴史ものには力を入れている印象ですが、やはりこの分野では中公の強さを感じます。坂井孝一『承久の乱』、元木泰雄『源頼朝』といった本も『応仁の乱』以前から企画は進行していたようで今までの積み重ねが為せる業でしょう。ちなみに個人的には内藤一成『三条実美』が企画としても内容としても面白かったと思います。
 あと、もはや新書の範疇を超えたボリュームと読み応えだったのが小熊英二『日本社会のしくみ』。600ページ超えで、しかも中身が「日本的雇用の形成と展開」ともいうべきマニアックな内容でした。別のフォーマットで出すべきではないかという声もあるでしょうが新書だからこそこのような本が広く流通したという面もあるわけで、何でもありの新書の可能性を感じさせてくれた本だったと言えるかもしれません(これは松岡亮二『教育格差』にも言える)。

 この他にも面白そうだと思いつつも手が回らなかったものもいくつかありますが、少なくとも来年も週1冊くらいのペースを守りつつ、新書を読んでいきたいと思っています。

益尾知佐子『中国の行動原理』(中公新書) 8点

 似たタイトルの中公新書に岡本隆司『中国の論理』という本がありますが、あちらが中国の歴史と思想から中国の行動様式を読み解こうとした本であるのに対して、こちらは副題が「国内潮流が決める国際関係」とあるように、国内の社会のしくみとそれを反映した政治のしくみが、いかに外交に現れているかということ明らかにしようとした本になります。
 著者は国際関係論や中国の対外政策の研究者ですが、本書ではエマニュエル・トッドの家族類型の分類の枠組みなどを用いながら、かなり思い切った議論を展開しています。そのため、第5章と第6章の事例分析はあるものの(第6章の国家海洋局に関する分析は面白い)、中国の外交を事細かに説明しているわけではありません。ただし、思い切った議論であるぶん、非常に刺激的な内容でもあり、少なくとも「独裁国家としてリアリズムに基づいた一枚岩の外交を行なう中国」のようなイメージは覆されるのではないでしょうか。

 目次は以下の通り。
序章 国内力学が決める対外行動―中国共産党の統治
第1章 現代中国の世界観―強調され続ける脅威
第2章 中国人を規定する伝統的家族観
第3章 対外関係の波動―建国から毛沢東の死まで
第4章 政経分離というキメラ―トウ小平から習近平へ
第5章 先走る地方政府―広西チワン族自治区の21世紀
第6章 海洋問題はなぜ噴出したか―国家海洋局の盛衰
終章 習近平とその後の中国

 日本から近年の中国の対外行動を見ていると、2010年の尖閣諸島沖での漁船衝突事件、暴力的な反日デモなどの影響もあって、かなり侵略的・膨張主義的に感じると思います。ところが、表向きは中国は「平和」を訴えていますし、中国国民の多くは「中国は平和的な国」だと主張します。本書ではこのギャップを読み解こうとしています。

 まず、考えらるのが中国は徹底的なリアリズムで動いていて、平和を唱えるのは口先だけのポーズだという考えです。1970年代はじめの米中接近などは、この徹底的なリアリズムで読み解くことができるでしょう。
 ただし、このリアリズムだけでは反日デモのような国民の対外政策への追随を説明できません。なぜ、中国社会では外交的な駆け引きが社会全体のうねりを引き起こすのでしょうか?

 リアリズム以外で中国外交を説明するものとしては伝統的な中華思想があります。中国が世界一の大国を目指すのはそれが中国のあるべき姿だからだというのです。
 ただし、中国の行動原理が単純な膨張主義だとは言えません、中国は陸上国境を接する14カ国中12カ国と話し合いで国境問題を解決していますが、係争地域の半分以上を相手国に譲っています(25p)。中国は近代主権国家体制を受け入れているのです。
 ただし、中国の行動は近隣諸国に対して厳しいという傾向はあります。ダライ・ラマは世界中を外遊していますが、それが理由で厳しい制裁を課されたのはモンゴルだけでした(26p)。近隣諸国の主体性を認めないという点は中華思想の名残なのかもしれません。

 またリアリズムは1つの柱なのですが、そのリアリズムは欧米諸国に比べると人間臭く、善悪の判断がつきまといます。そしてそれは被害者意識と陰謀論的な見方を伴っています。
 野田政権の尖閣国有化は石原都知事の購入計画への対処でしたが、中国では最初から石原都知事と野田首相がグルになって行ったという見方が広まっていましたし、最近では香港デモの背後にアメリカがいるという見方が根強くあります。
 これには清朝末期の列強による中国進出の記憶も影響しており、外国勢力は中国を陥れるために行動していると考えがちです。
 また共産党の支配を維持するには、共産党がよりよい社会に導くというイメージが必要です。社会主義経済を捨てた今、何らかの問題を国外に想定せざるを得ないという面もあり、常に外からの脅威が強調されるのです。

 第2章ではこうした中国の行動原理をエマニュエル・トッドの家族形態論か明らかにしようとしています。
 トッドの分類によると、中国は親子関係が権威主義的で兄弟の関係が平等な「共同体家族」にあたります(日本は親子関係が権威主義的で兄弟の関係が不平等な「権威主義家族」)。さらに近親婚の許容度について中国は厳しく、「外婚制共同体家族」に分類されます。
 この外婚制共同体家族は、他にロシアやスロバキア、ブルガリア、ハンガリー、フィンランド、イタリア中部、ベトナム、キューバ、インド北部などに見られる形態で、これらの地域は共産主義革命が成功した地域、または共産党が大きな勢力を持った地域でもあります(64p)。

 中国では長子相続原則が続いていましたが、漢王朝が前127年に長子相続原則を廃止すると、7〜9世紀に兄弟を平等に扱うやり方が確立されたと見られています。中国において兄弟は結婚しても父のもとで暮らすことが多く、父親のもとで兄弟が連帯を求められました。
 しかし、それぞれの妻は外部からやって来ることもあり、兄弟の間には緊張関係もありました。しかも、遺産が平等に分け与えられることはよいことのように見えますが、多くの場合、分与された土地だけでは狭すぎて、父の死とともに家族の共同体は崩壊したのです。
 
 日本では長子相続が原則で、長子が相続した本家を弟たちの分家が支えるような構造になりやすく、「家」という共同体が長続きしますが、中国では父の死とともに崩壊することが多いです。
 また、日本ではボトムアップの形で物事が決められますが、中国ではトップダウンで決まります。組織におけるヨコの連携は弱く、下の者は基本的にトップが割り振った仕事のみを行います。
 そして中国の組織ではトップの寿命や考え方の変化によって波が生じます。下の者はこの潮流を読み、先回りして行動することも求められるのです。
 ですから、組織は属人的要素に支配されやすく、トップが強ければ下の者はイエスマンになり、トップが弱ければ下の者は面従腹背となります。

 中国の国家を考える場合、1つのポイントは党・軍・国(行政)の3つの組織系統が並列していることです。そしてこれらをトップが束ねています。党・軍・国のヨコの連携は基本的に弱く、特に軍と国の連携はほぼないといいます。また地方政府の自律性も強く、相当大きな裁量権が与えられてます。

 第3章ではこうした考えを下敷きにしながら、建国から改革開放に至るまでの中国の対外政策が分析されています。
 この時期の中国外交については米中接近に見られるように、中国が国益を中心に外交を組み立てていたという説明が一般的でしたが、朝鮮戦争参戦に見られるよな国益を度外視したような行動も行っており、イデオロギー的要素も無視できないといいます。
 外交が党と国家の二重外交になっていたのも特徴で、例えば、ビルマ政府との平和共存を謳いながら反政府闘争を行なうビルマ共産党を支援するというような一貫性の欠けた行動も見られました。
 
 1950年代半ば、中国は周恩来総理兼外相が「第三世界」を中心とした外交を展開しますが、50年代後半に中ソ関係が悪化すると、毛沢東が外交においても実権を握りソ連に対する批判を強めます(このときにソ連に赴いてソ連を激しく批判したのがトウ小平)。
 この中ソ論争は文革への導火線ともなり、外交面でも「極左外交」と呼ばれる極端な外交を展開します。ところが、66年にソ連とウスリー島で武力衝突を起こしてから徐々に軌道修正を始め、アメリカとの外交関係を樹立することになるのです。

 改革開放を進めたトウ小平は、当初はかなり強硬な共産主義者でしたが、文革で失脚したことが経済改革の道を選ばせました。同時に政治関しては共産党の一党独裁を守り抜くことを優先しており、それが現れたのが89年の第二次天安門事件です。
 中国は経済改革のモデルとして日本を参考にし、特に大来佐武郎の影響が大きく、大来からは「中国の中央政府は運輸、通信、そして一部の基幹産業を集中管理して全体を統括しつつ、地方分権を実施して国民経済の積極性を喚起すべき」(146p)というアドバイスがなされたといいます。
 改革が進むと、各省の地方政府間の競争が激しくなりました。党指導部は各省の経済成長率を評価するようになり、各省はこぞってインフラ整備を行うとともに、外資の導入に務めました。その中で独自の対外活動も行われていくことになります。

 トウ小平の後、最高指導者は江沢民、胡錦濤、習近平と受け継がれていきます。
 江沢民はあまり人気のない指導者でしたが、現在では努力すれば報われた時代として江沢民時代を懐かしむ声もあるそうです。胡錦濤の頃になると格差の拡大など社会の矛盾が表面化します。胡錦濤は穏健な改革派でしたが。それが弱腰と取られることもあり、対外関係においては一枚岩的な行動が取れませんでした。一方、習近平は腐敗撲滅などによって国内凝集力を高めることに成功しており、現在のところ強いリーダーとして君臨しています。

 第5章と第6章では本書の考えを補強する事例が紹介されています。まず第5章は「先走る地方政府」と題し、広西チワン族自治区の動きが紹介されています。
 チワン族は中国東南部からベトナムにかけて暮らす農耕民族で中国最大の少数民族でもあります。1958年に少数民族優遇の動きから広西省は広西チワン族自治区になるのですが、もともと貧しい地域出会ったことに加え、ベトナム戦争と中越戦争の影響で発展は遅れていました。2002年の時点で沿岸の省級行政区の最下位、全国で見ても貴州省、甘粛省に次ぐワースト3の貧しさでした(182p)。

 ところが、この広西チワン族自治区の首都南寧は急速な発展を見せています。2003年に中国−ASEAN博覧会の永久開催地に指名されて以降、中国の対ASEAN窓口として成長したのです。
 2002年にASEAN−中国自由貿易圏(ACFTA)の設立が合意されますが、当初、中国側の窓口になると考えられていたのは雲南省の昆明でした。
 この不利な状況の中、広西政府は博覧会の会場としての大型会議場を博覧会の誘致決定前に建ててしまうという思い切った手に出ます(ただ、会議場の建設計画は以前から進んでいたことらしい(187−188p)。そして、この思い切った手で博覧会の誘致に成功するのです。

 その後も、中央政府が合意した昆明−ハノイの「両廊一圏」を出し抜く形で、南寧−ハノイの「南友公路」を進めるなど(197p5−1参照)で、中央政府の一歩先を行く形でASEANとの協力を推進していきます。
 この「独走」に対して中央政府はこれを追認し、さらに広西政府の動きを国家戦略の中に組み込んでいきます。この結果、広西チワン族自治区は高い経済成長を示すことになり、2011年には域内総生産成長率で全国1位(25.3%)となります。そして、劉奇葆、郭声琨といった人物が中央政府の高級幹部となりました。

 さらにこの広西政府の構想は「一帯一路」にも影響を与えたと見ています。中国では中央政府(最高指導者)の意向や潮流を読むことが重要ですが、同時に中央政府が地方政府の動きを取り込むことがあります。
 習近平政権は地方政府の独自の動きをほとんど評価しておらず、広西チワン族自治区のような「独走」はなくなりましたが、広西チワン族自治区は見事に流れを作り出し、それに乗ったと言えるでしょう。

 第6章でとり上げられている国家海洋局も流れを作り出し、それに乗った機関ですが、同時にそれが理由で解体されています。この第6章は非常に興味深いです。中国の海洋進出は国家的な野心の現れだと見られることが多いですが、国家海洋局の「独走」という面が強かったというのが著者の分析です。

 国家海洋局は1964年に国務院の直属機関として設立され、一度海軍の直接領導のもとに入った後、80年に海軍から自立した機関となりました。
 94年に国連海洋法条約が国際発効し、96年には中国もこれを批准します。これを受けて、国家海洋局は自国の陸地領土の自然延長部分をすべて大陸棚と規定し、300万平方kmもの管轄海域を主張します。そしてその50%が他国との係争地域でした。
 一方、この壮大な目標が政府内で共有されていたとは言えず、国家海洋局の地位は低いままでした。国家海洋局は96〜98年にかけて尖閣諸島の領海への侵入を試みていますが、98年の江沢民来日を機に2008年まで領海への侵入は止まります。これは指導部から抑止されたためと考えられます(235p)。

 ところが、2001年に日本が北朝鮮工作船を撃沈した事件をきっかけに、国家海洋局は日本が中国の海洋権益を侵害したとして(不審船が沈没したのは中国のEEZだった)、海洋権益の保護をアピールし始めます。
 2002年に最高指導者となった胡錦濤が「弱腰」と見られたこともあって、国家海洋局は中国の海洋権益擁護を前面に出し、周辺国に対して強硬な政策をとっていくことになります。そして、それとともに国家海洋局の装備は強化されていきます。07年にはパラセル諸島をめぐってベトナムの漁船の大量拿捕を行い、08年には尖閣諸島の日本領海に侵入するなど、強硬な姿勢を強めていくのです。尖閣への侵入が第1回日中韓サミットの5日前だったことを考えると、これは党中央の承認なき行動だったと可能性が高いです。

 2013年には国家海洋局の中に中国海警局が新設されます。中国の海上法執行組織が統合され、国家海洋局はさらに大きな権限を手に入れたのです。
 しかし、この頃から国家海洋局に対する中央の統制も強まります。中国海警局は公安部の業務指導を受けることとなり、公安部の関与が強まりました。
 国家海洋局は北極海航路の開発などによってその存在をアピールしようとしますが、2016年に中国海警局の局長であった孟宏偉が中国人として始めて国際刑事機構(インターポール)の総裁となると、その後任は空席のままでした。さらに17年の末に孟宏偉の退任が正式に発表されると、中国海警局は武警とともに中央軍事委員会の指揮下に入ります。その後、孟宏偉は18年に所在不明のまま総裁辞任の辞表が出され、19年には収賄容疑で公職追放処分を受けました。
 国家海洋局は4つの組織に分割され徹底的に解体されました。2016年の仲裁裁判判決で中国の「九段線」の主張が根本的ん否定されたことなどがきっかけで、国家海洋局の動きが問題視され、強烈な引き締めにあったのです。

 終章では習近平とポスト習近平について簡単に考察されていますが、第6章の国家海洋局の話からもわかるように、習近平の引き締めによって中国の対外行動がある意味でわかりやすくなりました。胡錦濤政権とは違い、「中国は彼の治世下で安定し、突発的な行動は減り、外部からも「予測しやすくなった」(276p)のです。
 しかし、米中貿易摩擦などで欧米との溝は深まっており、このままでは「権威主義的で貧しい国々の「盟主」に」(283p)なっていくことも考えられます。また、習近平という重しを失ったときにどうなるかということは今後の大きな問題でしょう。

 このように本書は中国外交に内在するメカニズムを大胆に描こうとしています。トッドの家族形態論の是非や、それがどの程度、現代の中国社会に息づいているのかということに関しては判断ができませんが、後半の事例分析には「なるほど」と思わせるものがあり、面白いと思います。
 文明論的な仮説と、精緻な分析が同居するユニークで刺激的な本と言えるでしょう。

渡辺信一郎『中華の成立』(岩波新書) 8点

 岩波新書から刊行が始まった<シリーズ中国の歴史>全5巻の第1巻。副題は「唐代まで」となっています。
 この副題を聞いて、「ずいぶん駆け足なんだな?」と思った人も多いでしょう。最初の1巻は漢代くらいまでを想定する人が多いでしょうし、隋唐で1冊くらいではないかと考える人も多いはずです。
 その訳は本シリーズの構成を示した以下の画像をご覧ください。

 

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 この画像を見ればわかりますが、江南は別立てなのです。例えば、項羽は1ページで退場しています。
 いわゆる中原と呼ばれる黄河中流域の政治と社会の動きを中心に、古代中国を一気に概観するというのが本書の内容です。英雄の活躍や皇帝のエピソードはほぼ省かれており(本書は安史の乱の開始までを描いていますが楊貴妃は出てこない)、かなり硬い内容となっていますが、「均田制」や「租庸調制」といった高校の世界史でも出てくる用語の再検討を求めるなど、今までの中国史の見直しをはかる野心的な通史になっています。

 目次は以下の通り。
第一章 「中原」の形成――夏殷周三代
第二章 中国の形成――春秋・戦国
第三章 帝国の形成――秦漢帝国
第四章 中国の古典国制――王莽の世紀
第五章 分裂と再統合――魏晋南北朝
第六章 古典国制の再建――隋唐帝国

 通史であるこの本を最初からまとめていくというのはなかなか難しいので、以下、この本の個性が現れていると思える面をあげていきたいと思います。

 まずは華北における民族の多様性です。
 本書の第1章では現代中国人のミトコンドリアDNAを見ると南部ほど多様性が高く、北部に行くほど小さくあるそうですが、一方、Y染色体の解析では東ヨーロッパ系の遺伝子グループも見つかっており、西からの民族集団の流入も想定されます。山東省臨淄の遺跡から出土した約2500年前の古人骨を調べると、現代ヨーロッパ人類集団と現代トルコ人集団の中間に位置するとの結果が出たそうです。孔子はこのころ斉の隣国の魯国で生まれましたが。著者は「憶測をたくましくすれば、特異な風貌をもっていたといわれる孔子も茶色の眼、もっといえば青い目をもっていた可能性がある」(7p)と述べています(さすがにかなりの「憶測」ですが)。
 
 さらに第5章では、五胡十六国時代における諸種族が華北に進出する様子も描かれています。
 漢末の混乱以降、華北の住民は大挙して東北部の遼東や江南へと移住しました。一方、これとい入れ替わるように華北に進出してきたのが匈奴・鮮卑・羯・氐・羌といった五胡と呼ばれる種族です。
 後漢末から匈奴・羯といった種族はすでに山西省に住み始めており、西晋期には長安周辺の住民100万の半ばが羌族だったといいます(165−166p)。かなりダイナミックな人々の移動があったのです。

 次に農村社会の変容とそれに伴う政治・軍事の再編成について力点が置かれている点です。
 周の時代、戦いの主役は戦車でした。馬4頭が引く戦車に3人が乗り込み、1人が戦車を操縦し、2人が弓矢や矛などで攻撃しました。この戦士は支配者集団の世族の成員で、この戦車に数十人の非戦闘員が付属していました。
 ところが、前6世紀末〜前五世紀初になると呉・越で独立歩兵部隊が誕生し、これが広がっていきます。そして百姓小農がこれを軍役として負担しました。

 もともと百姓は爵位・領土を持つ百官を示す言葉でしたが、前5世紀までに庶民を指す言葉に変化していきます。
 もともと中国では4つ前後の小家族が複合世帯を編成し、消費と生産の基本単位となっていましたが、前五世紀くらいになると、この小家族が自立し、生産と消費を行なう家を形成するようになります。
 この時代に華北では、木製農具の先に鉄をつけたものが普及し、畝を立てて種を条播きすることがなくなります。施肥も容易になり、耕作地を毎年取り替える必要も少なくなってきます。そこで、毎年同じ場所を小家族で耕作していくスタイルが一般化したのです。

 これに対応したのが秦における商鞅の変法です。秦は後発の諸侯国で、夷狄同様の扱いを受けていましたが、商鞅の改革を通じて、戸籍によって小農民を把握し、彼らを等級制の爵位を持つ国家の成員へと編成し、軍役・徭役・租税を負担させました。そして、これが秦を強国へと押し上げたのです。
 商鞅はまた、五家・一〇家ごとに相互に犯罪を監視する仕組みもつくりました。これについて著者は「この什伍制による相互監視のしくみは、血縁的系譜による社会統合からぬけでようとする小農社会にあって、小農世帯相互の分断をもたらした」(65p)と述べていますが、同じような五人組のしくみをもった江戸時代において、そのような効果がなかったことを考えると、経路依存的なものも見えてきて興味深く感じました。

 この小農社会が危機にひんしていたのが紀元前後のころで、ちょうど王莽が登場した頃でした。
 このころ「均田制」が崩壊し始めていました。後でも述べますが、ここでいう「均田制」とは世界史に教科書に載っている「均田制」ではなく、それぞれの爵位に応じた田畑の保有の仕組みです。
 漢初の頃、すでに農民の階層分化は進行しており、大家、中家・中産、貧家の3つの階層に分かれていました(122p)。これが武帝期になると度重なる対外戦役などによって中産層が没落していきます。土地の売買がさかんになり、国王・列侯や高級官僚・富豪層による土地の集積が進むのです。
 「均田」の「均」とはたんに平等というものではなく、位に応じた公正な配分であり、この公正さが紀元前後に崩れていくことになるのです。

 2003年に河南省内黄県南部で発見された住居遺跡は、後11年の黄河決壊による水害で水没したものと考えられていますが、そこでは農家は密集しておらず25〜500メートルの距離をおく散村の形態でした(153p)。耕地のなかに小家族の住居が点在し、大農法経営が営まれていたと考えられるのです。
 こうした中で中産層は、こうした大農法を行なう農家へと上昇するか、貧家へと没落していったと考えられます。
 3世紀後半の西晋の時代になると、男女の夫婦に100畝=1項の田土を基準として設定し、九品九等級の官人身分に応じて土地保有限度を認める占田制が定められます。これは「均田制」の再建の試みと言えるでしょう。

 いわゆる教科書に載っている「均田制」が行われるのは北魏の時代になります。このときの夫婦二人の基礎的給田は60畝で、西晋の時代よりも減っていますが、これは土壌の表層に堅く緊密な層をつくって水分の蒸発を防ぐ華北乾地農法が成立し、より高度な土地生産性を実現するようになったからだと考えられます(176−177p)。
 北魏の「均田制」は農民たちに同じ広さの田畑が給付されたように考えがちですが、奴婢や丁牛にも給田が行われており(180p表10参照)、多くの奴婢と牛を所有する富豪層の家であれば、相当な広さの土地を経営していたはずです。
 そして、この北魏の制度が隋や唐へと受け継がれていきました。

 3つ目にあげたいのが王莽の再評価です。王莽というと儒教に傾倒するあまりに周の制度の復活を狙った時代錯誤な人間というイメージでしたが、本書では第四章の副題が「王莽の世紀」となっているように、中国の古典国制を形成した人物して重点的にとり上げられています。
 王莽は法吏の家に生まれましたが礼楽に励む儒家へと転身し、平帝のもとで大司馬として政務を掌握しました。この平帝のもとで行政機構や地方制度が整備されるとともに、祭儀や礼楽制度も整えられました。
 そして、民衆には自治能力がないから天から天子への政治の委任が行われたのだという政治イデオロギーが確立していきます。もし、天子が天からの委任を果たせないのであれば代わりの人間が天子の地位につくべきだという考えも生まれ、その考えを王莽が実践し、王莽は皇帝となり、新を建国しました。
 王莽の経済政策は現実と合わず、社会は混乱して王莽は殺害されます。この後、劉秀が光武帝として即位し、後漢が始まるわけですが、この後漢は王莽が前漢末までに成し遂げた国制改革を受け継ぐ形で出来上がっており、儒家的な祭祀・礼楽・官僚制度も引き継がれました。この骨格は清朝まで引き継がれていきます(131p)。

 4つ目は、皇帝号と可汗(カーン)号の併用についてです。
 よく清朝の特徴として説明される皇帝号と可汗(カーン)号の併用ですが、これは北魏のころにすでに始まっていると考えられます。北魏をつくることになる鮮卑拓跋部の王権は当初から可汗を称しており、北魏成立後も天子号の他に鮮卑族をはじめとする諸種族には可汗号を使用していた可能性があります(169−170p)。
 さらに唐の太宗は北方諸族から「天可汗」の称号を贈られており、中国では「皇帝(天子)」、北の遊牧民からは「可汗」として君臨したのです。

 最後にあげるのが、最初にも少し述べましたが、今まで使われていた歴史用語の見直しです。
 「均田制」については2つ目の特徴のところで述べたとおり、著者は「均田制」=「平等な給田」という考えを否定しています。唐の特徴とされる「均田制」、「租庸調制」、「府兵制」の言葉は北宋の司馬光や欧陽脩が用いた表現であり、唐の時代にはほとんど使われていませんでした(はじめにxi p)。
 「租庸調制」について、著者は「賦役制」もしくは「租調役制」というべきだとしています(216p)。庸は正役20日の代替として絹を納めることですが、唐の時代に代納が基本だったとする史料はなく、多くの者は物資の輸送などの労役を負担していたと考えられるのです。
 また、唐の軍制は府兵制のみだとされてきましたが、『大唐六典』を見れば府兵制による中央軍制の他に、防人制の地方軍制と二本立てになっており(211p)、節度使の設置は府兵制の崩壊からではなく、この防人制の変化から見るべきものだとしています。
 
 府兵制に関しては、則天武后のころから庶民百姓の逃亡現象によって崩壊の兆しが見られるようになります。この結果、府兵制は募兵制へと変化していき、8世紀なかばに府兵制は終わります。
 一方、防人制については当初は1年交替でしたが、8世紀前半に4年交替、さらに6年交替となります。こうなるともはや一般の農民に担える軍役ではありません。この防人制から逃れるためにも百姓の逃散は進み、防人制も募兵制化していきます。737年には兵士は召募による職業兵士・長征健児制に切り替えられ、律令制の軍役は解体されるのです。長期的に見ると、「ここに商鞅変法を淵源する「耕戦の士」は最終的に解体し、」宋代軍制にまで継承される兵農分業が成立した」(220p)でのです。

 このようにシリーズの通史ものでありながら、かなり刺激的な議論がなされていることがわかると思います。最初に述べたように、本書は一般的な見方とはやや違った時代の切り取り方をしていますが、これも成功していると思います。周から唐までの農村の変貌と政治制度の変革を一気に見ることで、中国社会の変化のダイナミズムが見えてきました。
 また、最後に述べた用語の見直しに代表される唐の制度の記述は、日本史を教えることが多い自分にも非常に勉強になりました。
 というわけで個人的にはお薦めしたい本ですが、抽象化された歴史に対して興味を持てる人向きの本ではあると思います。制度を理解させるため以外のエピソードについてはほぼ削られており、英雄の活躍を読みたい人にとっては無味乾燥な本に映るかもしれません。
 ただ、中国社会をより深く知りたい人、あるいはある程度抽象化された歴史をつかむ必要のある人(例えば、高校で世界史や日本史を教えている教員など)にはお薦めできる本です。

 ちなみに、英雄の出てこない中国史の通史というと、岸本美緒『中国の歴史』(ちくま学芸文庫)があります。こちらのほうが手軽に読めます。

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