山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期

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牧野百恵『ジェンダー格差』(中公新書) 8点

 このところずっと話題になっているジェンダー格差の問題ですが、では、その解決方法は? というと一筋縄ではいきません。
 別に男女問わずの競争をしているはずなのに、東大には男子学生が多いですし、政治家は男性ばかりです。
 もちろん、東大に入ったり政治家になるのが「良いこと」なのかという根本的な問題はありますが、とりあえず、そこには女性にとって何らかな不利な状況があると考えられます。

 本書は、実証経済学で行われてきたさまざまな研究を紹介することによって、このジェンダー格差の問題に迫っていきます。
 「女性の労働参加が何をもたらすか」「学歴と結婚や出産の関係」「出産などについて女性が決める権利を持つことが何をもたらすか」など興味深いトピックについてのさまざまな研究が紹介されています。
 中には、意外な結果となっているものもあるのですが、そうしたものを含めてみていくことで、エビデンスの重要性や、エビデンスを得るための手法の大切さを理解できるような構成になっています。
 「実証経済学」というと難しい印象を持つ人もいるかもしれませんが、本書の記述は非常にわかりやすく、実証経済学に馴染みのない人でも面白く読めるのではないでしょうか。

 目次は以下の通り
序章 ジェンダー格差の実証とは
第1章 経済発展と女性の労働参加
第2章 女性の労働参加は何をもたらすか
第3章 歴史に根づいた格差―風土という地域差
第4章 助長する「思い込み」―典型的な女性像
第5章 女性を家庭に縛る規範とは
第6章 高学歴女性ほど結婚し出産するか
第7章 性・出産を決める権利をもつ意味
第8章 母親の育児負担―制度はトップランナーの日本
終章 なぜ男女の所得格差が続くのか

 ジェンダー格差を表すものとして有名なのが「ジェンダーギャップ指数」です。日本の2023年で146カ国中125位という低い順位はよくとり上げられています。
 「健康」「教育」「政治」「経済」のそれぞれの分野について男女の平等を測ろうとしたもので、日本は政治と経済が低い点数になっています。
 ただし、国連開発計画(UNDP)の「ジェンダー不平等指数」では日本は170カ国中22位です。こちらは妊産婦の死亡率と20歳未満の女性の出産率が重視されており、いずれも低い日本は高い点数になるわけです。この指数では日本はアメリカ、イギリス、ニュージーランドよりも上位に来ます。
 このように「何を測るのか?」という問題は大きいです。

 経済学では、、因果関係をより厳密に測定するためのRCTや自然実験などの手法が開発され、特定の政策の影響なども分析できるようになっています(序章でこうした手法がわかりやすく紹介されています)。

 女性の労働参加と経済成長には一般的に正の関係あると言われています。ただし、これは相関関係で必ずしも女性の労働参加→経済成長という因果推論ではありません。
 複数の国を見ていくと中所得国で女性の労働参加率が下がるというU字の関係が見られます。
 例えば、インドでは経済成長が続いていますが、女性の労働参加率は2005年頃から低下に転じ、30%以上あったものが20%程度まで落ち込んでいます(38p1−4参照)。
 また、学歴別に見ていくと初等教育未満の女性の労働参加率が最も高く、中等教育レベルが最も低く、高等教育レベルになると少し上がります(39p1−5参照)。

 この背景には女性が親族以外の男性との接触を嫌がる慣習もあると言われますが、経済学的には「所得効果」が「代替効果」を上回っていると説明できます。
 この場合の所得効果とは男性働き手の所得の向上で、代替効果とは女性の賃金が上昇することで女性の労働参加を促すことです、つまり、経済成長で男性の賃金が伸び女性を養えるようなった割には女性の賃金の伸びはまだ不十分なので、家庭にとどまるインセンティブが働くというわけです。
 これは日本の高度経済成長期にも見られたもので、かなり普遍的なものと見られます。
 
 一方、産業構造の変化が女性の就労を促す可能性もあります。
 一般的に男性は肉体労働に、女性は頭脳労働に比較優位を持っていると考えられます(比較優位なので女性のほうが頭がいいというわけではない)。
 経済が発展すると、頭脳を使う仕事の収益率が上がる傾向があり、そのために女性の男性に比べた相対的な賃金が上がってきます。インドではBPOビジネス(オペレーターやデータ入力のアウトソーシング)の発展により、女性への教育投資が増えているという状況もあります。

 では、女性の労働参加が進むとどうなるのでしょうか?
 基本的に女性の労働参加率と女性のエンパワーメントは正の関係にあるとされています。
 このエンパワーメントを測るためのものはいくつか考えられますが、本書がまずとり上げているのが家庭内交渉力です。例えば、女性が自らの稼ぎを得るようになれば離婚の決断も容易になり、それを背景にして夫に対する交渉力が上がります。

 世界では男児に比べて女児が少ない地域が見られます。特に中国とインドではそれが著しいです。
 中国では一人っ子政策の影響が大きいとされていますが、ほぼ同時期に始まった農業改革によって農民が余剰生産物を自由に販売できるようになったことが男子を選別して産むことを可能にしたとの研究もあります。
 インドでは花嫁の持参金であるダウリーが大きな問題では、「500ルピーをいま(中絶の費用として)払うのか、5万ルピーをのちほど(ダウリーとして)払うのか」という産婦人科の広告さえあるそうです(50p)。

 この現象をアマルティア・センは「ミッシング・ウーマン現象」と名付けましたが、女性の労働参加が進むと性比が下がる、つまり女性の生存確率が上がるとの研究もあります。
 また、中国の茶の栽培が盛んになった地域では、女性が茶摘みの仕事に向いているために性比が改善したという研究もあり、インドの深耕に向いた土壌の地域ではそうでない地域に比べてより力仕事が必要になるために性比が高くなったことを示した研究もあります。
 さらに女性の就業機会の増加が児童婚を減らすというバングラデシュを対象にした研究もあります。

 家庭内暴力については、アメリカで女性の賃金上昇が家庭内暴力を減らしたという研究がある一方、バングラデシュの教育水準が低く、年齢が低いなど、もともと家庭内交渉力が低そうな女性に関しては労働参加が家庭内暴力を増やしたとの研究もあります。
 インドでも似たような研究がありますが、離婚という選択肢が考えられるかどうかがこうした違いを生み出している可能性があります。

 では、こうしたジェンダーの格差はいつからあるのでしょうか? 現時点では、女性が男性に依存するようになったのは農耕文化が発達し、定住するようになってからという説が主流だそうです。

 地域差に関しては農業のスタイルにその起源を求める研究もあります。
 焼き畑中心の農業では土をそれほど掘り返す必要がなく鍬で十分ですが、定住するタイプの農業は土をより深く掘り起こす必要があるために鋤が必要になります。
 鋤を使うにはより大きな力が必要なために男性中心の農業になって女性の地位が下がりますが、鍬ならば女性も十分に使えるために女性の地位が下がらず、それが今にまで続いているというのです。ちなみに日本も含めた東アジアは鋤の地域で、アフリカや南米などに鍬の地域が広がっています(74p3−2参照)。

 男女の格差に対する説明の1つとして「男性の方が競争を好む」というものがあります。逆に女性は競争心が弱いために企業のトップなどになりにくいというのです。
 この競争心と、父系社会、母系社会の関係を調べた研究があります。父系社会のタンザニアのマサイ族は男性がより競争を好みましたが、母系社会のインド北東部のカーシ族は女性がより競争を好みました。
 ただし、カーシ族でも政治家や民間防衛、裁判官、司法など伝統的に権力を持ちそうな職業は男性中心です。

 女性の社会進出を抑えるものとしてステレオタイプがあります。
 内閣府が日本で行った調査では、例えば、たとえ共働きであっても男性の25%、女性の20%が子どもの看病は女性がすべきと考えており、男性の50%近くと女性の45%ほどが男性は仕事をして家計を支えるべきと答えています。
 こうした考えが、例えば、採用時に男性の方が熱心に働くだろうと考えて能力が同じなら男性を採用する統計的差別を生んでいるかもしれません。

 また、アメリカのSATの数学の点数において、トップ層では男性が多くなっています。ほとんどのスコアでは男女が重なっているのに、一部の優秀層だけをみて「男性が数学が得意」という思い込みが形成される可能性もあります。
 さらに、こうした言説が実際の成績に影響するという研究もあります。女性は相手が男性である場合、男性が得意とされる分野における自己評価が下がる傾向があるのです。
 これに関連して、日本では進学校の女子校の生徒は数学の成績は男子と変わらないという研究もあります。

 こうした状況を打破するのに有効なのがロールモデルの存在です。そして、ロールモデルをつくるための1つの方法がクォータ制です。
 特に政治家についてはクォータ制の導入が各国で進んでいます。このクォータ制にへの反論の1つとして「実力もない女性が選ばれてしまう」というものがありますが、クォータ制がむしろ有能でない男性の排除する結果に繋がったとの研究もあります(ただし、ここでの「有能」が何を意味するのかは気になる)

 「男性が外で働き、女性は家で家事・育児をすべきだ」という考えは、先進国では古い考えだとみなされるようになりましたが、アメリカでも19世紀末〜1920年代にかけては、一部の専門職を除く働く女性の多くは貧しい未婚の女性でした。
 
 アメリカでもかつては結婚退職制度がありました。ただし、この制度は事務職や教員などのホワイトカラーが中心でブルーカラーにはなかったといいます。人手不足の際には緩和されたりしながら1950年代まで運用されていました。
 このように「男性は外、女性は家」という規範はアメリカにもありましたが、アメリカでは比較的短期間でこの規範が弱まり、1970年代には「革命的」とも言える変化が起こっています。

 一方、南アジアなどでは「男性は外、女性は家」という規範が強いのですが、実際に女性が働こうとした時の妨げになるのは夫や父の反対だといいます。
 南アジア、中東、北アフリカでは、女性の親族以外の男性との接触を良しとしないパルダという慣習があり、これが女性の就労を妨げていますが、やや例外となっているのが教師です。
 これは教師が尊敬される職業だからという理由がありますが、一方で教師は名誉職のようでもあり、給与は低い状況です。パキスタンの2014年のデータでは工場勤務の半分にも達していません(115p5−4参照)。
 この背景には南アジアには寺子屋のような私立学校が多いことがあります。女性の進学率が上がる中で、「教師だったら働いてもいい」と考える父親が多いため、女性教師が供給超過になっていることが考えられます。
  
 また、パルダのような慣習は、他人の目を気にすることで強化しています。サウジアラビアを舞台にした研究では、男性たちは自分の妻が働くことに賛成していても、周囲の男性は反対するだろうと考えています。このケースでは間違った認識を是正することで妻が働いても良いと考える男性が増えました。
 一方で、家族の意識改革を狙った介入が失敗したことを報告する実験もあります。

 かつては高学歴女性ほど、結婚・出産をしないと考えられていました。学歴やスキルを身に着けた女性が家庭に入ることの逸失利益は大きいと考えられたからです。
 しかし、先進国に限ると大卒女性の方が出産をしているという傾向が見られるようになっています(128p6−1参照)。離婚したとしてもすぐに以前と同じ様な条件で働ける環境があれば、女性はためらわずに産むというのです。
 ただし、働けるとしても非正規の職にしかつけないようであれば、そうは言えないかもしれません。日本ではこれがひとり親家庭の貧困の大きな要因になっています。

 女性の高学歴化、社会進出が進んだアメリカでも、男性よりも稼ぎそうな女性は結婚市場ではモテないという現実もあるそうです。高学歴の人も内心では「妻は夫よりも稼ぐべきではない」といった規範を持ち続けている可能性があるのです。

 結婚において花婿側から花嫁側に婚資が贈られたり、花嫁側が結婚持参金(ダウリー)を持っていくケースがあります。
 サハラ以南のアフリカでは女性が労働参加して家計の所得に貢献していることが多いため、その補填として花嫁側に婚資が贈られることが多く、一方、南アジアでは女性の労働参加率が低いために一人分の食い扶持が花嫁側から花婿側に移ることになり、その補償としてダウリーがあると説明されています。

 ダウリーに関しては児童婚を招いているとの指摘もあり(花嫁の年齢が低いほどダウリーが安く住む傾向がある)、一方の婚資も離婚しにくくなるといった弊害があります。
 ただし、ダウリーに関しては親からの生前贈与という性格もあり、女性に相続権がない場合はダウリーの額が多いほど、花嫁の家庭内での発言権が強まるとの研究もあります。また、婚資があるほうが女性の教育水準が上がるとの研究もあります(教育投資を婚資で回収できるため)。
 ダウリーも婚資も一概に悪いとは言えない側面があります。
 
 性や出産について女性が決める権利を持っていることも重要です。
 アメリカではピルの合法化が女性の労働参加率を高めたと言われています。また、ピルは女性が産む子どもの数を減らしたわけではなかったが、第一子を産む年齢を遅くしたそうです。女性がより計画的にキャリアを築けるようになったからだと考えられます。
 また、1973年の「ロー対ウェイド判決」での中絶の合法化も大きな影響を与えました。この中絶合法化については『ヤバい経済学』でスティーヴン・レヴィットらが、中絶の合法化が犯罪を照らしたと主張し物議を醸しましたが、2020年発表の論文でもその主張は変わっていないとのことです。

 世界には一夫多妻制を認めている地域もありますが、一夫多妻制は子どもを増やすのでしょうか? 減らすのでしょうか?
 なんとなく子どもが増えそうな気もしますが、子どもの数を決めるのが夫であれば減るかもしれません(妻が1人でも5人の子ども、2人でも5人の子どもならば女性一人あたりの出生数は減る)。
 実証では、増える傾向が確認されています。これは妻同士の競争がはたらき、子どもが増えるからです。

 また、一夫多妻制において教育水準が高く、リプロダクティブヘルス、妊娠出産についての意思決定ができる女性の方が出生率が上昇する可能性もあるといいます。
 インドや中国では教育水準の高い女性の子どものほうが性比が高い(男子が多い)傾向があり、女性が知識や権利を持つことが手放しでいい結果を生むわけではないこともわかります。

 他にもアフリカのHIVについて、女性の財産保障が強い大陸法を採用している国よりも財産保障の弱い英米法を採用している国のほうがHIV感染率が25%高いといった研究も興味深いです。

 子どもを持つと賃金は下がるのか? この直截的な問いに答えようとしているのが第8章です。
 ただし、この問いに答えることは非常に難しく、本書ではさまざまな自然実験が紹介されていますが決定打はないとのことです。
 「子どもを持つことの賃金ペナルティ」も確認されていますが、厳密な因果関係を証明することは難しいといいます。
 また、ジェンダー格差の小さい北欧などでは賃金ペナルティが小さいのですが、南欧でも小さいといいます。これは女性の社会参加が低い地域では、子どもがいても労働に参加する女性は特別にキャリア志向の強い女性だからです。
 
 男性の育児休暇は基本的に女性を助けるものですが、逆に女性の昇進に不利になる可能性を示唆する研究もあります。研究者を対象とした研究では、育児休暇を取得した男性研究者はその間も研究を進め、テニュア取得に有利になったというのです。

 終章では男女の賃金格差について改めてとり上げています。
 OECD諸国のフルタイム勤労所得の男女格差を見ると1位が韓国で35%近く、2位が日本で24%となっていますが、ジャンダ‐格差が小さいと思われるスウェーデンやノルウェーでも5〜8%くらいの格差が残っています(191p9−1参照)。
 これはなぜなのでしょうか?

 今まで、学歴、キャリアの中断、差別といった要因があげられてきました、学歴に関しては先進国では女性が男性を上回る国が主流になっています(日本は別)。
 他にも男女の職種の違い(この職種の分断の原因にセクハラがあるとの研究もある)、女性の方が柔軟な働き方を好む、競争や交渉を好まないなどの原因があげられています。
 その根本には社会規範やステレオタイプがあるわけですが、同時に社会規範やステレオタイプといった概念のさらなる検討も必要なように思いました。 
 例えば、誰でも柔軟な働き方を好むはずなので、これを女性に比べて選ばない男性を取り巻く状況が歪んでいるという可能性もあるでしょう。

 このように本書はさまざまな興味深い知見を紹介していくれています。このまとめでは書けませんでしたが、個々の実験デザインについても説明があり、そのアイディアも1つの読みどころだと思います。 
 また、先進国だけではなく途上国の事例を数多く紹介することで、男女差別の問題の深刻さを端的に示すことができていると思います。


平体由美『病が分断するアメリカ』(ちくま新書) 7点

 COVID-19の流行は社会にさまざまな対立を生み出しました。行動制限をめぐ対立、マスクをめぐる対立、ワクチンをめぐる対立、これらは日本でもありましたし、一部はいまだに続いています。
 しかし、アメリカにおける対立は日本よりも一段と強烈だったと思います。バイデン支持者はマスクをするが、トランプ支持者はマスクをしないといった状況を見て、「いったい何がこの人たちを動かしているのか?」と感じた人も多いでしょう。

 本書は、そんなアメリカの分断を、公衆衛生史の専門家である著者が読み解いたものになります。
 本書を読むと、アメリカの歴史の中で培われてきた「自分たちのことは自分たちで決める」(それが自由)という考えと、公衆衛生の相性の悪さがわかりますし、また、黒人を中心としたマイノリティが置かれてきた状況もわかります。
 前半は、新書だということで細かい事項に踏み込まないで論じようとするスタイルがややフワッとして漠然とした印象を与えてしまっていますが、後半(第3章以降)は、興味深いトピックも多く、面白く読めると思います。

 目次は以下の通り。
第1章 そもそも公衆衛生とは何か
第2章 「自由の国」アメリカ―個人の選択と公衆衛生管理の相克
第3章 ワクチンと治療薬―科学と自然と選択肢
第4章 病の社会格差―貧困層を直撃する社会制度
第5章 社会の分断―「マスク着用」が象徴するもの

 本書がとり上げているのは公衆衛生です。そのためアメリカの医療問題としてはおなじみの医療保険の問題などはとり上げられてません。医療全体ではなく、あくまでも公衆衛生の分野に絞って書かれています。
 
 公衆衛生というものは説明しにくい概念ですが、とりあえずは「地域やコミュニティを病から防衛し、住民の健康を維持するための、公共的取り組みである」(16p)と大まかに定義されます。
 その上で、著者は公衆衛生の特徴として、「数を数え分析すること」、「健康教育を行うこと」、「行動制限を行うこと」の3つをあげています。
 
 ただし、これら3つのことには困難も伴います。
 まず、「数を数える」といっても、例えば、COVID-19による死者数を数えることにも難しさがあります。COVID-19陽性者が別の病気によって亡くなることもあり得るからです。また、アメリカでは人種ごとの死亡率なども出ていますが、ミックス・レイスの人をどう捉えるかなどの問題があります。

 「健康教育」にも難しさが伴います。健康を考えれば、「太りすぎ」だけではなく「痩せすぎ」もなくしていく必要がありますが、これは若い女性の痩せ願望と衝突するかもしれません。
 また、現代では「健康のため」と称してさまざまな器具やサプリメントなどが売られていますが、公衆衛生はこういった情報の洪水の中で人々を啓蒙することが求められています。

 そして、最後の「行動制限」についての難しさは明らかでしょう。行動制限は人々にストレスを与えるだけではなく、経済にも大きな打撃を与えます。
 当然ながら、公衆衛生の一環として行動制限が受け入れられるまでにもさまざまな問題がありました。

 アメリカは「自由の国」であるとされていますが、著者はその中心は「自分たちのことは自分たちで決める」という自治の感覚だといいます。
 アメリカでは基本的に州政府が人々の身近な公共政策を担うようになっており、戦争、通商、外交など、共通して行わなければならないことを連邦政府の役割としました。
 
 この「自分たちのことは自分たちで決める」ということを公衆衛生の相性は残念ながらあまり良くないです。
 パンデミックにおいて、医療や公衆衛生の専門家が意思決定で重要な役割を果たすことになり、アメリカには世界から優秀な専門家が集まっています。
 ただし、アメリカでは同時に「それは誰が決めたのか」という反応が出てきます。「自分たちのことは自分たちで決める」という原則から逸脱していると感じられるからです。
 
 アメリカにおいて、基本的に公衆衛生の分野も州政府の管轄でしたが、交通インフラやテクノロジーの発達によって州政府だけでは対処できない問題も出てきます。
 1898年の米西戦争において、アメリカ軍兵士のために提供された肉の缶詰に防腐剤としてホウ酸が添加されており、それを食べた兵士が中毒症状になり、死者まででました。こうした中で連邦レベルでの規制を求める声もあがります。

 しかし、連邦政府に公衆衛生の管轄権はありません。そこで連邦政府の持っている通商権限を用いて食品衛生管理などを行う動きが出てきます。
 1906年の食肉検査法は食肉工場の衛生管理を定めた法律ですが、これも通商規制という形で指定されており、州内での販売に対しては規制しないものでした。

 州政府はワクチンの接種の義務化などを行うことができますが、別の州がワクチンを義務化していなければ感染は抑えられません。実際、複数の鉄道路線が乗り入れるシカゴなどでは、鉄道から感染が始まったケースがありました(このあたりは時期とか規模の具体例が書いてあると良かったと思う)。

 今回のCOVID-19の流行においては、CDC(アメリカ疾病予防管理センター)が入国制限や入国時の検査や隔離を行いましたが、CDCが制限したのは外国との往来に限られ、州間移動については鉄道と長距離バスでのマスクの義務化を指示するにとどまりました。基本的に州政府に任せる姿勢をとったのです。
 そこで例えば、ニューヨーク州のクオモ知事はCDCの国内旅行自粛の勧告よりも前に州非常事態宣言を出し、多人数での集会や高齢者施設への訪問の自粛を呼びかけました。その後も学校閉鎖、マスクの義務化などの対策を打ち出しています。
 ただし、これでも感染者が爆発的に増加していたニューヨーク市からすると弱いもので、クオモ知事とニューヨーク市のデブラシオ市長が批判合戦を繰り広げるといったことも起こりました。
 基本的な権限は州政府にあるのですが、ここでも「自分たちのことは自分たちで決める」という考えが根底にあったと言えるでしょう。

 こうした公衆衛生とアメリカという国の特徴を踏まえて、第3章ではワクチンの問題がとり上げられています。
 ワクチンによる伝染病の予防は1796年のジェンナーによる天然痘に対する牛痘の接種から始まりました。
 ヨーロッパでは19世紀になって大規模な種痘勧奨に踏み切りましたが、アメリカでは連邦政府による種痘勧奨や義務化は行われませんでした。公衆衛生は州政府の管轄だったからです。

 州レベルで種痘義務化を実施したのは1855年のマサチューセッツ州が最初です。マサチューセッツ州では1827年に公立学校児童に対して種痘証明書の提出も求めています。ただし、当時の公立学校は義務教育ではなかったため、全児童の5割は対象外でした。
 労働者階級や貧困層、公務員、移民などに対しては集団接種なども行われましたが、ミドルクラスや上流階級への接種の強要は行われませんでした。他の州においても、義務化はなされた場合でも緩やかなものにとどまったといいます。
 また、天然痘は「移民が持ち込むもの」という先入観もあり、移民の少ない地域などでは広がりませんでした。

 当時の天然痘ワクチンは品質も安定しておらず、効果が十分でなかったり、逆に他の病気をもたらすケースもありました。1901年にニュージャージー州での学童の破傷風の集団発生は、天然痘ワクチンに破傷風菌が混入していたためではないかと疑われています。
 これを受けて、連邦政府は1902年に生物薬品管理法を制定し、ワクチンの品質管理をはかりますが、ワクチン接種をどうするかについては州政府に任されていたために、南部ではワクチンの接種は広がりませんでした。

 また、「反ワクチン」の動きも起こってきます。
 1901年、マサチューセッツ州ケンブリッジ市は過去5年以内に天然痘のワクチンを接種したことを証明できない住民にワクチン接種を命令します。これに対してヘニング・ジェイコブソン牧師は、スウェーデンで暮らしていた少年時代に天然痘ワクチンの接種を受けていましたが、その際に体調不良になったことから自分と息子へのワクチン接種を拒否しました。
 これに対してケンブリッジ市はジェイコブソンを起訴し、罰金5ドルの支払いを命じますが、ジェイコブソンがこれを拒否し、連邦最高裁まで争われました。

 ジェイコブソンは裁判で憲法修正第14条の「何人たりとも法の適正手続きなしに生命、自由、財産を奪われない」を持ち出して、ワクチン義務化は憲法違反であると訴えます。
 ジェイコブソン側には自信もありましたが、最高裁はこの訴えを退けます。州政府は州民の健康と安全を守るために「合理的な手段」を取る権限をもつとしたのです。

 しかし、反ワクチンの動きが収まることはありませんでした。ジェイコブソン判決で個人の選択の自由が否定されると、反ワクチン派は、ワクチンの危険性を訴える方向と、免除規定を拡大させる方向で運動を進めます。
 ジェイコブソン判決には一部の子どもや虚弱な人には免除が認められると示唆するところがあり(ジェイコブソンがもっと虚弱に見えていたら裁判に勝っていたとの声もあるそう(106p))、また、宗教上の理由からワクチン免除を求める動きも起こります(もっともワクチン接種を否定する宗派はクリスチャン・サイエンスなどわずか)。2022年現在で44州とワシントンDCで宗教上の理由によるワクチン免除規定があるそうです。
 ただし、公立学校入学にワクチンの接種証明書かワクチン免除の証明書が必要になるなど、日本のようになんとなく不安だから受けさせないといったことは認められません。 
 
 COVID-19において、アメリカはワクチン開発に力を注ぎ、イギリスに次ぐ2020年12月14日にワクチン接種を開始しました。
 しかし、アメリカの接種率は成人人口の半数が接種した2021年4月半ばから緩やかなり、5月には急ブレーキがかかりました。9月上旬には接種の開始が3ヶ月遅れた日本にも追いつかれ、抜かれています(114pのグラフ参照)。
 
 この背景にはワクチンの危険を煽るような情報がSNSを中心に流れたことがありました。
 また、マイノリティの接種率が低いのも1つの問題でした。CDCによると、2021年4月26日の時点で、白人成人の接種率が38%に対して、黒人成人24%、ヒスパニック成人25%で、ワクチン接種においてマイノリティが出遅れる状態でした。
 この後、ヒスパニックの接種率は伸びて白人を上回るのですが、黒人が人種別に見ると最下位にとどまっています(120pのグラフ参照)。

 黒人やヒスパニックはかかりつけ医を持っていないことも多く、そういった医療へのアクセスが原因の1つと思われますが、黒人の接種率が低いままにとどまったのは過去の経験もあったと考えられます。
 1932〜72年にかけてアメリカ合衆国公衆衛生局によって行われたタスキギー梅毒実験は、患者の病状変化を観察・記録するために、治療と称して黒人患者を集めて行われたものでしたが、黒人はこうした「実験」に使われることが多かったのです。こうした過去が黒人の医療不信へとつながっています。

 第4章は「病の社会格差」となっています。ただし、本書はアメリカの医療保険制度については扱っていません。
 一般的に経済的に豊かになると健康になります。カロリーも十分に摂取できるようになり、衛生状態も向上するからです。
 しかし、アメリカは世界で最も豊かな国の1つにもかかわらず、2020年の平均寿命は日本84.62歳、カナダ81.75歳、中国77.1歳に対して、アメリカは77.28歳とあまり長くはなく、COVID-19においても、死亡者数で世界一となりました。

 この背景には貧困と格差の問題があり、近年、社会経済地位(SES)と健康の関係が注目されています。特にアメリカではSESと人種が関係しており、大都市スラムに住む黒人に注意が払われてきました。

 しかし、本書では大都市の黒人が注目される一方で、非都市部の健康問題が見過ごされてきたことが指摘されています。
 現代のアメリカでは少なくとも140万人が水道設備を持たずに暮らしていると推定されていますが、その多くは非都市部の住民です。
 2005-09年の非都市部の平均寿命は76.8歳と都市部より2歳短く、しかも2010−19年では都市部は平均寿命が伸びたのに対して非都市部でへ男女とも短くなっています。自殺率も非都市部は都市部の2倍となっています。

 非都市部は医療のアクセスも悪く、また、車中心のライフスタイル、伝統的ではあるが脂肪分過多な食事、飲酒率や喫煙率の高さは、いずれも健康にとって良いものでありません。
 アメリカでは貧困を都市の人種とエスニシティと結びつける傾向が強く、それ自体は間違っていないとしても、その裏で非都市部の問題が見過ごされる傾向があるのです。

 今回のCOVID-19においても、都市部のエッセンシャルワーカーが感染のリスクに晒されていたことはよく報道されていましたが、非都市部の年齢調整致死率は大都市貧困地域に次いでおり、女性に限ればそれを上回っていました。

 最後の第5章ではマスクの問題がとり上げられています。アメリカでは、なぜあそこまでマスクを拒否する人がいたのでしょうか?

 アメリカで広くマスク着用が要請されたのは「スペイン風邪」のときです。1910年代までは医療現場でもマスクをせずに治療に当たることが一般的であり、マスクの効果がまだ信じられていない時代でした。
 スペイン風邪は世界でおよそ5億人が感染し、少なくとも500万人が亡くなったというパンデミックで、アメリカでも感染が広がる中で集会の禁止などの行動制限が始まりました。
 
 1918年10月、一旦落ち着いた感染者が再び増え始めるとサンフランシスコ市は市内で働く市民を対象にマスク義務化令を出し、労働者以外の市民にもマスク着用を強く要請しました。
 その他の地域でもマスク着用を義務化するところが出てきましたが、反発も起こります。市が税金代わりに罰金を徴収しているのではないか? ガーゼ製造会社を設けさせるためではないか? といった声も上がり、1919年1月にはサンフランシスコ市で反マスク連盟が結成されます。
 当時のマスクの質が悪く、効果が十分にあがらなかったころもあり、サンフランシスコ市も19年の2月にマスク義務化令を撤廃します。
 その後はクー・クラックス・クランの活動活発化に対応して一部の州でマスク禁止令が出たことなどによって(いまだに18州で有効とのこと)、マスクは次第に反体制・反政府・反既存秩序的な色彩を帯びていくことになります。

 COVID-19においてCDCは2020年の4月に自宅以外の場所におけるマスク着用を勧告します。勧告にとどまったのはCDCには複数の州にまたがる交通機関等しか規制することができず、州内のことについては管轄権を持たないからです。
 2021年1月にCDCは複数の州にまたがる飛行機や鉄道の利用者にマスクを義務付け、違反者には罰金を科すことにしますが、22年4月にフロリダの連邦地方裁判所によってこの政策は否定されます。CDCは連邦最高裁に控訴せずに、この命令を引っ込めました。
 
 マスク着用の義務化は州政府の判断に任されることになりましたが、先述のように反マスク法が生きている州もあり、そうした州では反マスク法が廃止、または一時停止されました。

 感染が広がるにつれ、マスクの着用は次第に政治的分極化の象徴のようになってしまいます。
 トランプ大統領は意思決定から意図的に専門家を遠ざけ、アメリカ人の中にある専門家への不信に同調し、マスクもなかなかつけようとしませんでした。
 こうした中で、トランプを嫌う人はマスクを付け、トランプ支持者はマスクを付けないという状況になって言ってしまいます。
 
 国立アレルギー感染症研究所のファウチ所長は2021年2月のインタビューで「政治的分極化の中で、マスク着用は公衆衛生対策ではなく政治的意思表明の手段となってしまった」(197p)と嘆いています。
 
 このように本書はアメリカの公衆衛生の歴史をたどることで、公衆衛生とアメリカの双方に対する理解が深まるような内容になっています。
 最初にも述べたように、前半はやや漠然としたところがあるのですが、後半(第3章以降)になると面白いので、最後まで読んでみてください。
 アメリカの自主独立の気風と公衆衛生は相性が悪いのですが、だからこそ両者の特徴が引き立つところが面白いですね。


輪島裕介『昭和ブギウギ』(NHK出版新書) 7点

 副題は「笠置シヅ子と服部良一のリズム音曲」。2023年度下半期の朝ドラが笠置シヅ子をモデルにした『ブギウギ』なので、その副読本の1つとして捉えられそうですが、著者の『創られた「日本の心」神話』(光文社新書)や『踊る昭和歌謡』(NHK出版新書)を読んだ人は、単純な副読本ではないと想像がつくはずです。

 本書は、笠置シヅ子と「東京ブギウギ」などの笠置の代表曲をつくった作曲家の服部良一の人生をたどりつつ、同時にレコード中心、洋楽の受容中心の従来の日本の歌謡曲史に対する異議申し立てを行うという野望を秘めています。
 また、それは東京中心ではなく、「大阪発」というもう1つの価値観を提示する試みでもあります。

 というわけで、純粋に笠置シヅ子の伝記を求めているような人にはお薦めできませんが、逆に「別に朝ドラを見る予定はないし…」という人が読んでも面白いかもしれません。
 また、戦前の文化や、戦前と戦後の連続性といったものに興味がある人には非常に興味深い内容になっていると思います。

 目次は以下の通り。
前口上 「近代音曲史」の野望
第1章 「歌う女優」誕生―大阪時代の笠置シヅ子
第2章 服部良一と「道頓堀ジャズ」
第3章 レコード・ラジオと「国民歌謡」
第4章 スウィングのクイーン&キング―松竹楽劇団時代
第5章 関西興行資本の東京進出―松竹・東宝・吉本
第6章 時代のアイコン「ブギの女王」
第7章 服部は「ブギウギ」をどう捉えていたか
第8章 リズム音曲の画期としての「買い物ブギー」

 本書の「前口上」では次のように述べられています。

本書を端緒として、音楽学者としての私が挑戦したい暗黙の前提とは、以下の四つである。

一、1945年の敗戦を決定的な文化的断絶とする歴史観への挑戦
二、東京中心の文化史観に対する挑戦
三、「洋楽」(≒西洋芸術音楽)受容史として近代日本音楽史を捉えることへの挑戦
四、大衆音楽史をレコード(とりわけ「流行歌」)中心に捉えることへの挑戦

 このうち四は、『踊る昭和歌謡』でも打ち出されていた考えですが、本書はさらに広範な分野で既存の考えに挑戦しようとしており、そのための格好の素材が笠置シヅ子&服部良一というわけなのです。

 笠置シヅ子(本名・亀井静子)は1914年に香川県で非嫡出子として生まれ、亀井うめという女性に引き取られて大阪に移り住んでいます。
 亀井うめの家は銭湯を営むようになり、笠置はそこで客たちの歌う歌を覚え、自分でも歌ったり踊ったりしていたといいます。

 宝塚歌劇団を受験したものの体格ではねられたという笠置は、1927年に松竹楽劇部に入団しています。
 松竹楽劇部は宝塚歌劇団の模倣でしたが、音楽学校の「卒業生」で構成され学校的なシステムをとっていた宝塚に対して、松竹は給料をもらう「プロ」という意識もあったといいます。
 宝塚というと「男装の麗人」というイメージがあるかもしれませんが、そのイメージを確立したのは東京松竹歌劇団の水の江瀧子(ターキー)であり、宝塚より「なんでもあり」の姿勢が強かったといいます。

 笠置は、最初は「三笠静子」という芸名で舞踊専科に所属しますが、体が小さいという理由で歌に転向します。そうしたことあって、笠置は正統な西洋式の発声などを身に着けないままで舞台に立つことになりました。

 1934年、大阪松竹楽劇部は本拠地を道頓堀の松竹座から千日前の大阪劇場に移し、OSSKと改称します。このころになると三笠静子は主題歌を歌うようになり、ソロを含むレコードも発売されるようになっています。
 この後「笠置シヅ子」と改名し、1938年4月に上京します。
 
 本書のもう一人の主人公である服部良一は、1907年に大阪で生まれています。父親が好きだった浪花節、近所の教会で歌った賛美歌などの影響を受け、紆余曲折の末、鰻屋だった出雲屋の少年音楽隊に入ります。
 服部はサクソフォン・セクションのリーダーを務め、船場の料亭「灘万」で演奏されていたジャズバンドを手本にして演奏していたといいます。

 出雲屋音楽隊は2年足らずで解散となりますが、服部はラジオの社団法人大阪放送局(JOBK)のオーケストラ(JOBKオーケストラ)に引き抜かれ、サックスを吹くことになります。
 ここで服部はBKオーケストラに常任指揮者として招聘されたウクライナ人のエマヌエル・メッテルと出会います。
 服部は毎週神戸のメッテルの自宅に通い和声学、管弦楽法、指揮法などを学びました。
 さらに服部は「道頓堀ジャズ」とも言われる大阪のジャズも影響を受け、ダンスホールでフィリピン人んプレイヤーと共演するなどして腕を磨きました。

 1923年9月1日に関東大震災が起こりますが、その影響は音楽界にもありました。1924年の復興税制によってレコードと蓄音機に100%の関税がかけられます。
 これに対してポリドール、コロンムビア、ビクターといった外資系のレコード会社は日本の企業と組んで、日本でレコードをプレスすることで関税の回避を狙いました。
 こうした外資家のレコード会社が大衆向けの歌謡をレコードとして囲い込むようになり、流行歌のスター作曲家となったのが古賀政男でした。

 こうした状況の中、1933年に服部は上京します。1935年にコロムビアの専属だった古賀政男がテイチクに引き抜かれると、服部はコロムビアに招聘されます。
 コロムビアで服部が作曲した最初のレコードは淡谷のり子の「おしゃれ娘」でした。さらに服部は37年の淡谷のり子「別れのブルース」で、これによって服部の流行歌作家としての地位を確立しました。
 なお、淡谷は東洋音楽学校卒業で、いわゆる「正統な」歌唱技術を身につけた存在であり、笠置とは対照的でした。

 ただし、「別れのブルース」の前の時期にも、服部は国民歌謡や民謡の編曲などで力を発揮しており、「山寺の和尚さん」を発表しています。これは日本民謡をジャズ調に仕立て上げたような曲で、本人曰く「日本のジャズを目ざした」(93p)ものでした。

 1938年、男女混成のレヴュー団である松竹楽劇団(SGD)がつくられます。
 SGDがつくられた背景には洋画(アメリカ映画)の輸入禁止もありました。総動員体制のもとで輸出入の不均衡を是正するための措置でしたが、当時は帝国劇場も松竹の洋画封切館として営業しており、洋画の代わりになるコンテンツが必要だったのです。

 ここで服部と笠置が出会います。稽古場であったときは服部は小柄な笠置をとてもスターだとは思えなかったそうですが、その後の舞台稽古で印象が一変したそうです。
 旗揚げからしばらくはパッとしなかったSGDですが、音楽を服部が仕切るようになってから徐々に存在感を発揮し始めます。
 服部は、笠置に対しては「地声」で歌うように指導しています。1939年の公演『カレッジ・スウィング』における笠置は評論家筋からも絶賛され、笠置は「スウィングの女王」としての地位を固めていきました。

 そして39年7月の公演では、著者が「超絶的な歌と演奏は、同時代の日本のどんな録音や映像をも凌駕する爆発的な躍動感に満ちていると感じる」(100p)と評する服部良一作詞作曲の「ラッパと娘」が笠置によって歌われます。
 この曲は笠置の個性を念頭にしてつくられたもので、西洋流の歌唱法にとらわれていた他の歌手にはまったくない魅力をもったものでした。著者はこの曲を激推しており、142p以下では音楽的な分析も行われています。

 しかし、一方で帝劇の経営権が東宝に移ったことでSGDは本拠地を失い、1941年初頭にSGDは解散します。
 1941年末の日米開戦以降はスウィングなどは「敵性音楽」として演奏できなくなっていきました。

 さて、いよいよ戦後の笠置&服部の活躍と行きたいところですが、本書では、その前に「第5章 関西興行資本の東京進出―松竹・東宝・吉本」が挟まっています。
 笠置と服部の評伝のように読んでいくと、やや余計に感じるかもしれませんが、個人的には面白く感じた部分でした。

 1923年の関東大震災は興行界にも大きな影響を与えました。東京の主要な劇場は軒並み壊滅し、興行的な中心だった根岸興行部は主要な劇場を松竹に買われました。松竹はすでに東京に進出しており、震災の被害も受けましたが、東京の主要な劇場を傘下に収めた松竹は興行界の中心になります。
 この松竹と争うことになるのが東宝です。1932年に小林一三が株式会社東京宝塚劇場を設立し、日比谷・有楽町付近を「劇場街」として開発する動きを見せました。
 さらに吉本興行も東京に進出してきます。吉本の林弘高は1934年11月にアメリカのレヴュー団「マーカス・ショー」の日劇での公演を成功させ、お笑いだけでなく「吉本ショウ」というレヴューにも進出していきます(この吉本ショウから漫才も生まれてくる)。

 こうした中で、笠置は吉本の御曹司であった吉本頴右(えいすけ)と1943年に出会い、交際を始めます。
 
 敗戦後、笠置と服部のコンビが活躍の場としたのは東宝系の劇場でした。戦争末期の文化産業の統合とシャッフルによって既存の契約関係はかなり緩んでいたことが背景にあったと考えられます。
 1947年1月末、妊娠中の笠置が主演し、服部が音楽を担当したのが『ジャズ・カルメン』でした。ただ、笠置がジャズとクラシックを歌い分けることができず、あまり好評は得られませんでした。
 さらに笠置の妊娠中に吉本頴右は亡くなってしまい、笠置は忘れ形見のエイ子を一人で育てる決意をし、カムバックのための歌を服部に頼みました。これが「東京ブギウギ」です。

 服部が「東京ブギウギ」の着想を得たのは電車の中だったといいます。メロディと一緒に「リズム浮き浮き心ずきずきわくわく」という歌詞も浮かび、この語呂合わせに合うような詞を鈴木大拙の子である鈴木勝に依頼しました。
 「東京ブギウギ」は1947年に9月にレコーディングされ、発売前に大阪の梅田劇場で披露されたといいます。「東京」というタイトルはついていますが、「海を渡り」「世界は一つ」「世紀のうた」といった気宇壮大な言葉の中に「東京」が投げ込まれているだけで、大阪の観客からも好評を得ました。

 さらに「東京ブギウギ」は、レコード発売に合わせて東宝の正月映画の『春の饗宴』にも用いられます。
 服部は必ずしも「東京ブギウギ」を笠置専用の歌とは考えておらず、さまざまな歌手によって歌われることを考えていたようですが、「東京ブギウギ」は笠置の歌として大ヒットし、黒澤明の『醉いどれ天使』のための「ジャングル・ブギー」、「さくらブギウギ」、「ヘイヘイブギー」といった曲がつくられていきます。

 笠置シヅ子もさまざまに論じられるようになっていきますが、著者は1951年の鶴見俊輔のものを「決定的なもの」として引用しています。

 太宰治とか、田中英光とか、無用意の反逆を旧日本に対して試みては敗北し自殺する日本知識人の系譜をふりかえるとき、かぎりなく自己更新の力を持ち、決して自殺しないかまえを持つ近代文化を代表するものとして大阪の生んだ天才、笠置シヅ子や横山エンタツの意味が理解される。これらの人々が幾分なりとも大阪の土地がらに根ざすとするならば、ぼくたちは大阪型の近代に学ぶことがあってもよいと思う。(208p)

 鶴見は笠置とエンタツを並べていますが、笠置は1949年からエノケン(榎本健一)と共演しています。
 笠置とエノケンの舞台では服部が関わった和洋折衷の音楽も使われ、吉川英治もこの舞台を賞賛しています。
 
 1949年になると、「ブギウギ」が笠置以外の歌い手によっても歌われるようになります。特に京マチ子は笠置と同じ大阪松竹少女歌劇団出身ということで注目されています。
 服部も高峰秀子のために「銀座カンカン娘」をつくるなど、笠置以外の歌手にもブギウギのリズムを用いた楽曲を提供しました。

 第7章ではブギウギの音楽的な分析がなされています。評者は音楽的な素養はないので詳しくはぜひ本書をお読みください。
 音楽史的に言うと、ブギウギは20世紀初頭に形成されたピアノで演奏されたダンス音楽になります。これが1938年のカーネギーホールで行われた「スピリチュアルからスウィングへ」という伝説的なコンサートをきっかけに再び見出され、広がりました。服部は1942年頃にこうした楽譜を手に入れていました。

 服部はブギウギを「エイト・ビート・ミュージック」と言っていますが、これは和製英語で服部独自の用法です。
 服部はリズムは二拍→三拍→四拍という形で進化してきたといい、そのあとに出てきたのが八拍(エイト・ビート)というわけです。
 
 さらに服部は「私自身は笠置シヅ子が適当なブギ歌手とは思って居ないのである」(234p)という衝撃的な発言も残しています。ブギは踊らせる音楽ではありますが、自ら踊って歌う必要はないというのです。
 また、服部は八拍の次は十二拍、十六拍といった具合にリズムが複雑化し発展していくことを予想する一方、「調和のあるリズムを破壊する、破壊主義にほかならない演奏」(240p)としてビ・バップを批判しています。
 作曲者編曲者としての立場を脅かすものと見たのかもしれませんし、いたずらに大衆から遊離してしまうものと考えていたのかもしれません。

 ところが、著者は「リズム音曲」のひとつの究極的な形と絶賛する「買物ブギー」の最初の草稿には「買物BOP」という仮タイトルがつけられていたのです。
 本書の第8章は、この「買物ブギー」を中心に論じられています。

 各奏者が即興を競い合うビ・バップを譜面にするというのはなかなか困難なことですが、服部は早いテンポや短い音での切れ目のないメロディなどをビ・バップの特徴と捉えて、これに上方落語の「ないもん買い」からきた詞をつけています。
  
 そして、1950年の6月に発売された「買物ブギー」はブギウギの最後の大ヒットとなりました。
 「メロディーも何もない。音楽やら何やらわからない」(260p)などと評されながらも、そのリズムと調子と歌詞は人々の心を捉えました。
 発売と同時期に笠置と服部はハワイとアメリカ本土へ演奏旅行に出ますが、ハワイでも「買物ブギー」は大人気でした。

 その後も笠置は舞台や映画で活躍しますが、流行歌手としてピークは「買物ブギー」だったという評価が一般的です。
 笠置の物真似で登場した美空ひばりをはじめ、江利チエミ、雪村いづみといった少女歌手に人気の中心は移っていきました。
 50年代後半に入ると、笠置の活動は落ち着いていきます。一般的に1957年初頭に歌手を引退したと言われていますが、その後も何度かステージに出ています。

 笠置と服部によってつくられた「リズム音曲」は一旦終りを迎えますが、著者は、それは例えば、小林旭やクレイジー・キャッツやドリフターズ、さらには宮川左近ショーや横山ホットブラザーズあるいは藤井隆などの「芸人」にも受け継がれているといいます。そして、「芸人」と「音楽家」の区別を撤廃したいと著者は考えており、そのためにひねり出した概念が「リズム音曲」だというのです。
 
 このように本書は笠置と服部のコンビを描くことで日本の音楽史を書き換えようという野心的な本になります。
 音楽的な部分とその社会的な文脈の双方が書かれており、音楽にそれほど詳しくない人でも面白く読めるはずです。

 一方、これを笠置と服部の評伝のように読もうとすると、例えば、服部の「青い山脈」が完全にスルーされているなど、少し引っかかる部分もあります(「青い山脈」は、1989年にNHKが放映した『昭和の歌・心に残る歌200』の第1位ですし、服部が国民栄誉賞を贈られるまでになったのは「青い山脈」があってこそでしょう)。
 かなり著者のテイストが前面に出ている本であり、そのあたりで好き嫌いが分かれるところはあるかもしれません。


佐藤雄基『御成敗式目』(中公新書) 7点

 帯には「日本の歴史上「最も有名な法」の知られざる実像」とあります。御成敗式目が「最も有名」かどうかはわかりませんが、中学校の歴史にも登場する有名な法であることは間違いないです。
 一方、聖徳太子によるものとされる「憲法十七条」の内容を多くの人が知っているに対して、御成敗式目の内容を「知っている」と言える人は少ないかもしれません。高校の日本史でも御成敗式目を使った史料問題はあまり見たことがないです。

 本書は、このように知名度の割に中身が知られていない御成敗式目について、その誕生の経緯、性格、内容、後世への影響や御成敗式目の語られ方をまとめたものになります。
 ありそうでなかった本であり(御成敗式目の英訳はあるが、日本語の現代語訳はなく、内容に踏み込んで解説した一般書は山本七平『日本的革命の哲学』くらいしかないとのこと)、歴史の教員からすると非常にありがたい本ですね。
 先行研究に対する批判という形で議論を進めている部分も多いので、慣れていない人には読みにくい面もあるかもしれませんが、御成敗式目を通じて、鎌倉時代や中世がいかなる時代だったのかということも見えてくる形になっており、面白く読めます。

 目次は以下の通り。
第1章 中世の「国のかたち」
第2章 「有名な法」の誕生
第3章 「道理」の法
第4章 五十一箇条のかたち
第5章 式目は「分かりやすい」のか
第6章 女性と「もののもどり」
第7章 庶民と撫民
第8章 裁判のしくみ
第9章 天下一同の法へ
第10章 「古典」になる
第11章 現代に生きる式目

 本書では、まず鎌倉時代の社会の仕組みから見ていきます。
 鎌倉時代というと、政治の中心が貴族から武士へと移り変わった時代として捉えられてますが、日本の各地には荘園がつくられており、その領主は皇族や貴族や大寺社でした。
 ここに鎌倉幕府は地頭を送り込み、荘園制を利用しながら武士たちの収益を確保していました。

 鎌倉時代は気候変動とともに飢饉が頻発した時代でもありました。御成敗式目が制定されたのは1232(貞永元)年ですが、「寛喜の大飢饉」と呼ばれる、後世に「日本国の人口の三分の一が死に絶えた」(『立川寺年代記』)とも言われた歴史的な飢饉が起こってました。
 
 中世の日本人口についてはよくわかっていませんが、御成敗式目が制定された当時で6、700万程度と推計されています。京都の人口が多くて十数万人で、京都以外の大都市は存在しませんでした(鎌倉が数万規模)。
 地方の有力者は京都と結びついて地方社会に君臨するという選択肢をとり、一方で、京都の為政者たちは民を守っるという意識を欠いていたため、人々は自分たちの権利を自分たちの力で守るという「自力救済」が求められました。

 こうした中で、荘園の管理人である荘官などのポストが。役職と利益をセットにした「識」として世襲されるようになり、これとともに「家」が成立します。この中世の「家」とは単なる家族ではなく、仕事(家業)とセットになっていることが特徴です。
 
 治承・寿永の内乱を勝ち抜いたのは源頼朝でしたが、頼朝は「御家人」を率いて朝廷を守護する存在という自己規定を行いつつ、京都にはとどまらずに鎌倉を根拠地としました。また、御家人が自らの許可を得ないで官職を得ることを禁じ、朝廷と御家人の仲介者というポジションをとります。
 また、武士はすべて御家人になるのではなく、非御家人にとどまるという選択肢もあったことも重要です。
 頼朝は鎌倉に独自の権力を築きつつ、幕府が管轄する事柄とそうでないものを「線引き」し、その枠内で権力を行使しました。

 幕府と朝廷の関係が大きく変わってくるのが承久の乱における幕府の勝利です。
 今までは東国=幕府、西国=朝廷といった棲み分けがありましたが、幕府が朝廷方の荘園を没収し、幕府の権力は全国に広がります。
 また、このときに任命された地頭(新補地頭)がさまざまなトラブルを起こすことになります。
 例えば、犯罪者からの財産の没収は地頭の収益にもなったため(新補率法では地頭が1/3、荘園領主・国司が2/3を得る)、地頭が警察権を濫用することもありました。
 このように全国的なトラブルが増えてきた中でつくられたのが御成敗式目だったのです。

 御成敗式目を制定したのは当時の執権の北条泰時ですが、泰時は式目制定の事情を弟の重時に説明する書状を送っており、二通が伝わっています。
 泰時は武士たちが律令を知らないためにさまざまなトラブルが起こってるとし、法をつくって武士たちに周知させたいと述べています。
 鎌倉時代の後半まで、幕府が出した法を記録保存する仕組みがなく、ある法令が出されたかどうかが裁判の争いになることもありましたが、この御成敗式目は最初から周知徹底させることを念頭においてつくられてます。そして、だからこそ有名な法になりました。

 御成敗式目の説明でよく出てくるのが「道理」という言葉です。
 先述の重時宛の書状でも、「ただ「道理」の示すところを記したものです」(56p)との言葉があります。
 ちなみに、この書状では「式目」のことを「式条」と呼んでいますが、朝廷では「式条」と言えば朝廷の法、特に権威のある延喜式を指していたために難色が示され、泰時は「式条」を「式目」に改めました。

 つづいて朝廷からは「この式目は、何を『本説』として書き記しているのか」という非難があったといいます。
 この「本説」や「本文」とは依拠すべき原典のことです。それまで日本の法律家たちは律令を「原典」として、そこからさまざまな解釈を生み出しながら法を運用してきました。
 こうした中で、泰時らは「道理」に基づいて、「本文」とは異なる新たな法を書き記すとしたのです。

 「道理」というと、慈円が『愚管抄』の中で示した概念でもあります。これについては石井進からの「ご都合主義」という厳しい批判もあるわけですが、著者は御成敗式目における「道理」も、ある意味でご都合主義的であり、訴訟における個別事情に配慮するバランスを示すようなものでもあったと考えています。

 御成敗式目は全部で51条からなっています。これについては聖徳太子の憲法17条を3倍した数になっているとの説がありますが、これは後付とみられています。
 佐藤進一は、前半の内容にまとまりがあるのに対して、36条以降は雑多な項目が並べられているとして、36条以降の部分はあとから付け加えられた、ただし制定時に51条あったこともわかっているので、前半が圧縮されたあとに後半が付け加えられたのではないか? という説を唱えました。
 しかし、著者は後半の条文にもそれなりの関連性が見られるとして、この説には否定的です。

 泰時は「仮名しか知らない」ような武士のためにこの法をつくったといいます。
 と、言いながらも、式目は漢文で書かれており、この「仮名しか知らない」というのは朝廷向けの言い訳だとも考えられます。
 では、式目がわかりやすいのかというと、現在からするとわかりにくいといいます。これは式目に「本文」がないことが1つの原因です。
 当時の文章には古典の典拠があるために、そこから意味などが推測できるのに対して、式目ではそれができないのです。
 
 また、後の幕府の法令などと比べても式目には主語の欠落などわかりにくい点が多く、当時の人にとってもわかり易い文章だったかどうかは微妙です。
 一方で、式目が有名な法となったために、広く使われるようになった言葉もあります。
 例えば、「悪口(あっこう)」という言葉は、それまでは「悪言」「放言」といった言葉があてられることが一般的でしたが、式目で「悪口」という言葉が使われたことで、「悪口」という言葉が広く流通していくことになります。

 第3部からは式目の具体的な規定を見ていきます。まずは女性に関する規定です。
 鎌倉時代は女性の地位が比較的高かった時代です。女子にも相続権があり、妻は夫とは別に財産を持ち、夫の死後は「後家」として家を切り盛りしました。
 しかし、14世紀以降に、武士の「家」が確立し、「家」を継承する嫡男への単独相続が一般化すると、女性や長男以外の男子(庶子)の立場は低下していきます。
 御成敗式目が成立したのは、武士の間でも「家」が成立しつつある時代でした。

 式目の18条では、女子に対する「悔い返し」が定められています。悔い返しとは一度譲った財産を親が取り返すことで、男子に対しては広く認められていました。
 ここでは、女子の相続権と男子に対する悔い返しを前提として、それが女子に対してもできるということが述べられています。
 実は公家法では女子に対する悔い返しはできないと考えられていました。女子は結婚すると、他人である夫がその財産を管理するようになるので、女子への財産分与は他人への贈与と同じで取り消すことができないとされていたのです。

 式目が親(父母)の悔い返しを認めている理由として、武士社会の親権の強さがあげらていますが、著者はそれだけではなく、一族同士の争いなどもあり、同時に婚姻関係が重要なネットワークとなっていた中で、女子への悔い返しを認めることで、親中心の「家」の凝集力を高める狙いがあったものと考えています。

  24条では後家の再婚についてとり上げられていますが、「貞心を忘れて再婚するようなことがあれば、夫から譲り受けた所領は亡夫の子に与えなさい。もし子がいなければ、(幕府が没収して)別の者に与える」(135p)という規定も、後家に亡夫の「家」の維持管理を期待したためと思われます(「後家」という言い方自体が「家」の成立と結びついている)。
 ちなみに、1239年には後家が家の管理に支障のない形で内々に再婚することに関しては幕府は関知しないとの「追加」が行われました。

 この他、式目では従者への「宛がい」について主人の悔い返しを認めていて、さらに1247年と翌年の追加法では主人と従者が争った場合に従者の訴えを受理しないとの法を定めていますが、これも御家人の「家」を守るためのものであると考えられます。
 
 武士の中で女性の権利が弱まるきっかけとなったのが蒙古襲来です。幕府は朝廷に代わって国家権力を担っていましたが、御家人にしか負担を課すことができず、結果として御家人に負担が集中していました。
 1286年、幕府は「異国警固」が解決しない間は九州の御家人は女子に所領を譲ってはならないという命令を出しています。それまで女性の地頭や御家人は代官を出していましたが、国難にあたってそれでは不十分という判断がはたらいたのでしょう。

 御成敗式目は御家人を対象とした法ですが、御家人以外が絡むような場面も想定されている部分があります。
 例えば、人妻との密通を禁じた第34条は、後半で「辻捕(つじとり)」という行為を禁止しています。この辻捕とは道路において女性を捕まえる行為で、「物くさ太郎」に自社参詣をしている女性を強引に妻にしようとするシーンがあるように中世社会では珍しいものではありませんでした。
 この辻捕の被害者には庶民の女性も含まれていると考えられます。つまり、ここでは対象は御家人だけにとどまらないのです。
 ちなみに辻捕の罰は、御家人は百箇日の出仕の停止、郎従以下は片方の鬢髪を削ぎ落とす、法師ならそのときに斟酌する、となっています。

 地頭が式目の規定を使って庶民を処罰することもあり、式目を持ち出して荘園での支配権を強める動きもあったようです。
 一方で、幕府も地頭が犯罪者の縁坐(連帯責任)を拡大させようとする動きに対して、式目を持ち出してこれを戒めています。
 結果として、式目の対象は御家人を越えて広がったとも言えます。

 また、式目の第42条では、百姓が「逃散」したときに妻子や財産を奪い取ることを禁じ、年貢の未進が解消されたあとに百姓が領主のもとから立ち去ることを認めています。
 これらは年貢未進を理由に領主が百姓やその妻子を奴隷化してしまうことを防ぐためのもので、幕府の百姓への保護政策だと考えられます。

 鎌倉幕府の裁判のしくみとしてよく知られているのが「三問三答」です。原告と被告が幕府に対して相互に三回ずつ書面を提出するというしくみになっています。
 ただし、このしくみが確立したのは引付方が設置された北条時頼のときで、式目が制定された泰時のころにはここまで制度化されてはいませんでした。

 幕府の政治に関しては泰時の頃が理想的であり、得宗専制の時代をそこからの後退とみる味方が強かったために、「三問三答」のしくみも御成敗式目と重ねられてしまうことが多いですが、泰時の時代にはもう少し泰時個人のバランス感覚に基づいたものが多かったようです。

 成立当初の式目は当時のニーズに沿って出されたものですが、それが次第に一般原則を示すものとして解釈されるようになったといいます。
 例えば、式目の第8条は20年の実効支配で権利が認められる規定として知られています。一方、見出しは「知行せずに年月を経た所領について」となっています(192p)。
 この規定は、幕府の下文を持ちながら実効支配しないまま一定期間を起こすことが問題となっていたために置かれたものと考えられています。つまり訴訟を抑制するための規定です。
 ところが、のちの世になると、20年の実効支配で権利が生じるという一般原則を定めたものとして式目が引用されるようになっていったのです。

 「私領」の売買を認めたと解釈されることもある第48条も、基本的には幕府から与えられた恩領を勝手に売ってはならないというもので、その前段として「相伝の私領を売却するのは、「定法」である」(198p)と書かれています。
 これはあくまでも前振りの様なものなのですが、後世になると式目が私領の売買を認めたと理解されるようになります(のちに幕府は御家人の没落を防ぐために私領の売却を制限するようになる)。

 このように式目の内容が一般原則として理解されるようになるにつれ、朝廷や寺社、さらには村掟などにも式目を意識したものが見られるようになりました。
 
 そして、御成敗式目は古典になります。式目に対する注釈書もつくられるようになり、「本文」がなかったはずの式目を中国の古典や律令に引きつけて解釈する動きも出てきます。
 近世になると、式目は寺子屋の教材として使われるようになります。そのために出版もされましたが、これによって式目追加やその後の注釈は切り離され、51箇条の式目だけが「古典」として流通していくことになりました。

 イギリスでは1215年のマグナ・カルタが「法の支配」の原点として語られるようになりましたが、同時期の御成敗式目も近代以降にそういった文脈で見直されることになります。
 日本にいたイギリスの外交官ジョン・ケアリー・ホールは1906年に式目の英訳して紹介し、その後も日本人研究者の中から御成敗式目を「法の支配」に重ね合わせる議論がなされました。さらに式目について日本の独自法として注目する議論も起こります。
 一方で、式目自体(式目の本文)は式目への注目にも関わらず読まれなくなっていきました。

 このように本書は御成敗式目の内容だけではなく、それが生まれてきた背景や後世における受容にまで目を配った分析が行われています。
 最初にも述べたように第1部と第2部は先行研究を批判するような形で書かれているので、ややわかりにくさを感じる人もいるかも知れませんが、第3部以降はそういったこともなく、わかりやすいのではないでしょうか。

 本書に「御成敗式目への注目は高いが本文が紹介されることはあまりない」と書かれていますが、日本史の教科書などを見てもそういう感じです。ですから、内容を含めた分析を行い、当時の文脈を紹介してくれる本書は非常に有益だと思います。


濱口桂一郎『家政婦の歴史』(文春新書) 8点

 『新しい労働社会』『ジョブ型雇用社会とは何か』(ともに岩波新書)などで、日本の雇用システムの歴史や問題点をえぐり出してきた著者ですが、今回は「家政婦の歴史」というかなり小さな話を扱った本になります。
 ところが、「家政婦」という1つの職業の変転の中に、日本の労働政策の大きな転換とそこで隠されてしまった矛盾点が見えてくるのが本書の面白さでしょう。
 
 女中と家政婦、似たようなことをしているように見えてその出自は違い、しかし、その出自の違いはGHQの占領政策によって見えなくなってしまう…、このように書くとミステリーのようですが、本書はそうしたミステリーとしても楽しめると思います。 
 
 目次は以下の通り。

序章 ある過労死裁判から
第1章 派出婦会の誕生と法規制の試み
第2章 女中とその職業紹介
第3章 労務供給請負業
第4章 労務供給事業規則による規制の時代
第5章 労働者供給事業の全面禁止と有料職業紹介事業としてのサバイバル
第6章 労働基準法再考
第7章 家政婦紹介所という仮面を被って70年
第8章 家政婦の労災保険特別加入という絆創膏
第9章 家政婦の法的地位再考
終章 「正義の刃」の犠牲者

 本書の始まりは2022年9月に出た、ある過労死事件の判決になります。
 家政婦のAさんは、訪問介護事業及び家政婦紹介所を営むB社に家政婦兼訪問介護ヘルパーとして登録され、重度の認知症で寝たきりのCさん宅に派遣されました。
 Aさんは午前0時から午前5時までの休憩時間を除く19時間を家事業務及び介護業務の時間として指定されていましたが、このうち介護業務に充てられていたのは4時間30分でした。
 こうした中、AさんはCさん宅での業務を終えたあとに倒れてしまい亡くなってしまいます。

 Aさんの夫のXさんはAさんの死亡はB社の業務に起因するとして労災保険法にもとづく補償を請求しましたが、労働基準監督署はAさんは家事使用人であり、労働基準法116条により適用除外になるとして労災の適用を認めませんでした。
 Xさんはこれを不服として、裁判に訴えるのですが、東京地方裁判所も訪問介護ヘルパーとして訪問介護サービスを提供した時間は過労死認定の算定基準となる労働時間になるが、家政婦として家事及び介護を行った時間はそうはならないとして、この訴えを退けました。
 労働基準法116条第2項に「この法律は、同居の親族のみを使用する事業及び家事使用人については、適用しない」との条項があるのです。
 
 これに対して原告側は、それはおかしいし憲法違反ではないか? と主張したのですが、東京地方裁判所の裁判官はこの主張をとり上げませんでした。
 しかし、著者によれば、そもそも家政婦は家事使用人ではないのです。そして、そのことにほとんど誰も(裁判官や弁護士すら)気づかずに判決が下されたというのです。

 労働基準法制定と同時に施行された労働基準法施行規則には労働基準法第8条において、労働基準法の適用を受ける事業又は事務所の例として「派出婦会」があげられています。
 「派出婦会」と言っても多くの人はよくわからないものだと思いますが、実は家政婦を派遣する事業所なのです。
 つまり、労働基準法制定当時、家政婦は労働基準法の適用対象であったはずなのに、いつの間にか適用除外の「家事使用人」になってしまったというのです。

 本書の第1章では、まず、この派出婦会がいかなるものだったのかを説き起こしていきます。
 派出婦会というのは、1918(大正7)年に東京の四谷区で大和俊子という女性が始めたビジネスです。
 大和俊子は起業家精神の旺盛な女性で、派出婦会をつくる前は本所区で近所の主婦たちに内職の斡旋を行っていました。
 本所区から四谷区に転居して内職斡旋のビジネスは中絶してしまいましたが、近所の人を見ていて、布団や着物の仕立て直し、大掃除、来客、外出などのときに、ツテを頼って主婦や婆やさんにお金を払って手伝ってもらっているのに気づきました。
 
 そこで大和は4、5名の同志婦人とともに、既婚婦人が自分の暇な時間を利用して他の家庭の家事を手伝う仕事を思いつき、それを羽仁もと子が主宰する『婦人之友』に発表したところ、当時、中産家庭で女中難に陥っていたこともあって多数の申し込みが殺到したのです。

 派出婦会のビジネスは、派出(派遣)できる多くの女性会員を擁し、家庭の申込みに応じて適当な会員を派出するというもので、多くの主婦や未亡人が食事付1日50銭くらいで派出されました。

 当初の派出会の派出婦は「女中代わり」というよりは「主婦代わり」であり、相当の敬意をもって迎えられましたが、需要が増える中で新聞広告で派出婦を募集するようになり、大和俊子のビジネスを真似て他の人々も次々と派出婦会を設立するようになると、次第に、今まで女中になっていたような人も、比較的自由のある派出婦の方がいいということになり、次第に今の家政婦に近いイメージになっていきます。

 派出婦は派出婦会に登録して働くわけですが、入会金として1円を徴収し、料金の15%を会費として納入させるやり方が一般的だったようです。
 料金の15%というのはたんなる紹介と考えると高いですが、派出婦が派遣先で起こした事件に対して、派出婦会が責任を負うことになっていました。
 派出婦会の多くは寄宿舎を持ち、田舎から出てきたばかりの女性に電気やガスや水道の使い方を教え、ちょっとした行儀作法まで仕込んだ上で派出婦として派遣していました。

 この派出婦の流行には、スペイン風邪も関係しているといいます。女中が感染を恐れて田舎に帰ってしまう中で、夫や子どもが病に倒れればその看病役が必要でしたし、妻が倒れてしまえば代わりに家事を行う人間が必要でした。
 その需要に派出婦会はタイムリーに応えたのです。

 大和俊子は事業を始めた翌年の1919年に警視庁令紹介営業取締規則い基づいて営業許可を受けていますが、1921年にはこの届出を取り下げています。
 大和は、最初はこの事業が規則の中の「僕婢」の「紹介又は周旋」に当たるかもしれないと思って許可をもらったが、自分たちの事業は「派出」なのだから許可は必要ないと考え直したそうです。
 派出婦会は「紹介」ではなく「労務の供給請負」だと考えられていたのです。
 その後、大和の働きかけもあり、1925(大正14)年に東京府で派出婦会取締規則が制定されます。ここで兼業禁止の中に紹介営業が含まれていることからも派出婦会が職業紹介とは違うビジネスだったことがわかります。

 一方、女中は基本的に職業紹介という形でした。江戸時代から口入れ屋が女中を武家屋敷などに紹介していました。
 明治以後になってもこうした民間の職業紹介を通して女中が供給されていきました。
 ただし、時代を下るにつて女中という職業は不人気になり、1937年に横浜市社会課がまとめた『女中調査』によると、求人100人対して就職はわずか10人という状況で、女中難に陥っていました。
 女中の労働時間は長く、朝5時から夜の10時まで拘束時間が17時間、しかも休憩時間がないケースも多かったのです。

 先に見たように派出婦会は自分たちを職業紹介ではなく「労務供給請負業」だと規定したわけですが、この労務供給請負業は問題を孕んだ事業形態でもありました。
 戦前には人夫供給請負業者という業者が存在し、彼らの行っていた酷い搾取はたびたび問題になっていたからです。

 彼らは下宿を用意して人夫を募集し、彼らにさまざまな肉体労働をさせました。労賃は親方がすべて徴収し、1〜5割をピンハネします。賃金が高くなるに連れピンハネ率も上がりました。
 人夫たちは仕事がないと下宿代や食費が払えませんので、親方から賃金を前借りすることになります。そうなると借金が増えて、ほとんどタダ働きを強いられることになります。
 本書では、いくつかの実例も紹介されていますが、この時代は地方から出てきた若者が騙されるような形でタダ働きを強いられることも多かったのです。
 
 こうした問題への対処は1920〜30年代に政策課題に上ることになりますが、これを取り締まる法律ができたのは1938年の職業紹介法の全面改正によってです。
 日中戦争が始まり、軍需産業へ労働力を振り向ける必要が出てきた中で、政府は労働力の管理を強化する必要性を感じていました。そこで、今まで市町村営だった職業紹介所を国営とし、民営職業紹介事業を原則禁止するとともに、労務供給事業についても許可制を導入しました。

 このとき、派出婦会も規制の対象となります。
 1940年の労務供給事業の供給業者数と所属労務者数を見ると、人夫が業者数842、労務者数39717人、家政婦は業者数700、労務者数24643人と、派出婦会が大きな存在感をもっていたことがわかります(123p表3参照)。
 戦争が進行していくと、男性向けの労務供給事業は禁止されていきます。一方で、派出婦会は合法なビジネスとして残りました。

 日本は敗戦を迎え、GHQによる一大改革が始まります。もちろん、労働法制もその例外ではなく、労働基本権が憲法に書き込まれ、労働三法がつくられていきます。
 こうした法の中で、日本側からのイニシアティブがほとんど見られず、GHQの一担当官であったスターリング・コレットの個人的見解によって作り出され、運用までもが左右されたのが職業安定法です。
 職業安定法では、基本的に労働者供給事業は禁止され、労働組合が行うものなど、わずかな例外が認められるだけになりました。
 
 コレットは1948年2月11日の「労働者供給事業禁止に関する声明書」の中で日本の労働者供給事業を、「苦力(クーリー)制度」であり、労働者は「囚人同様の扱」を受けていると厳しく批判しています(134−136p)。
 コレットは人夫供給事業などを念頭に、こうした悪弊をなんとしても取り除かねばならぬと考えていました。

 しかし、戦中の政策もあって労働者供給事業の中心は親分が人夫を支配するタイプから派出婦会の系譜を引くものに移っていました。
 日本側の担当者も当然それはわかっており、当初は派出婦会の関係者が労働組合をつくることで事業を続けられると考えていました。
 ところが労働組合法の生みの親である末弘厳太郎は、こんなものは労働組合ではないと突っぱねました。このあたりの具体的な発言などは本書を見て確かめてほしいのですが、「理想」と「現実」の対決でだいたい「現実」が押し通ることの多い日本の中で、このときは「理想」が「現実」を押し切っています。

 このように派出婦会のビジネスモデルは否定されてしまったのですが、現実に派出婦の需要と供給は存在します。
 では、この現実に対して政府はどのように対応したのか? 
 

 ここまでの紹介を読んで、「本書を読んでみよう!」と思った人は、ここでこのエントリーを読むのを止めたほうが面白く読めるかもしれません。


 政府はあれこれと弥縫策を考えた上で(149p以下で紹介されている局長通達「労働者供給事業の禁止に伴う、看護婦、派出婦等の職業紹介に関する件」はなかなか支離滅裂なものになっている)、最終的には有料職業紹介に家政婦を潜り込ませるというやり方に落ち着きます。

 ところが、有料職業紹介になると、家政婦(派出婦)と女中の違いがぼやけてきます。
 今までは、家庭に長期に渡って直接雇用される女中と、派出婦会に登録され必要に応じて派遣される家政婦の間は、その働き方に大きな違いがあったのですが、派出婦会が有料職業紹介になったことで、両者とも家庭による直接雇用される存在になったからです。

 1947年に労働基準法が制定されますが、この対象には家政婦も含まれていました。労働基準法施行規則第1条には「派出婦会」と明記されています(この条文は1999年まで残っていた)。
 一方、労働基準法の適用除外とされたのが家事使用人、いわゆる女中でした。
 1946年9月14日の公聴会で市川房枝が「女中は是非入れよ」(176p)と述べるなど、女性から家事使用人も対象に含めるべきだとの声が上がりますが、政府は適用は難しく国際的に見ても適用除外になっているとして、これを受け入れませんでした。

 派出婦会は、有料職業紹介という仮面を被って営業を続けることになります。
 『職業研究』1953年8月号に「有料職業紹介事業の実態を探る」という記事があり、そこで池袋公共職業安定所の民営事業課長が「家政婦は、家事使用人の範囲に入るために労働基準法の万全の保護を受け得られない面がある」(196p)と述べていますが、ここですでに家政婦は家事使用人として扱われています。
 同誌1955年1月号に載った静岡県職業安定課長は「この営利紹介所は労働大臣の許可事業ではあるが仔細に検討すると今日の市中の家政婦紹介業の実態は決して単なる紹介事業ではなくむしろ労務供給事業であることだ」(197−198p)と述べていますが、政府が無理やり違ったカテゴリーに押し込めたことは忘れられているわけです。

 1999年に職業安定法が改正され、それまでのやってよい業務だけを列記するポジティブリスト方式から、やってはいけない業務を列記するネガティブリスト方式に移行します。
 これによって家政婦紹介所が家政婦派遣事業所になることは可能になりましたが、50年近く続いた仕組みを変えることはありませんでした。
 家政婦紹介所は家政婦紹介所のままで、別途に介護保険法に基づく請負による訪問介護事業者としての二枚看板を掲げるというやり方が一般化していきます。

 国勢調査を見ると、1995年まで女中と家政婦は分けて分類されていました。
 1950年の調査を見ると、「女中/家事女中/家事手伝い」が23万3639人、「派出婦/家政婦」が1万3382人で、その後も女中の方が多い状況が続きます。ところが、1960年からは5年毎の調査のたびに女中の数は半減する形で、1995年には4617人まで落ち込んでいます(232p表9参照)。
 そして、2000年の国勢調査では女中のカテゴリーがなくなり、「家政婦(夫)、家事手伝い」として計上されるようになります。住み込み女中というスタイルはほぼ消滅したと思われます。
 つまり、当初、労働基準法が適用除外としていた家事使用人もほとんどいなくなっていると思われるのです。

 家政婦も減少の一途を辿っていますが、これは一部がホームヘルパー、訪問介護事業者にカウントされるようになったからだと思います。本書の始まりとなった家政婦のAさんも家政婦兼介護ヘルパーでした。 

 このように、本書は違うものだった女中と家政婦(派出婦)がいつの間にか同じものにされていき、法の保護の狭間に落ち込んでしまった歴史的経緯を描き出しています。
 終章のタイトルは「「正義の刃」の犠牲者」となっていますが、GHQのコレットは当然ながら派出婦を切った自覚はなく、日本の役人たちも10年も立たないうちに切り捨てたことを忘れてしまっているという事例です。

 日本の戦後処理では、在サハリン朝鮮人など、法の狭間に落ち込んでしまい長年に渡って救済を受けられなかった事例がありましたが、実は身近な家政婦が法制度の狭間に落ち込んでいて、しかもほとんどの人がその理由に気づいていなかったというのは、なかなか考えさせられることです。


松里公孝『ウクライナ動乱』(ちくま新書) 5点

 同じちくま新書の『ポスト社会主義の政治』で、ウクライナの政治も分析していた著者が、ウクライナの政治と、2014年以降にウクライナから切り離されたクリミアとドンバスの政治を解説し、さらに2022年に始まったロシアによるウクライナ全面侵攻を分析した本。
 『ポスト社会主義の政治』も370ページを超える厚い新書でしたが、こちらは500ページを超えており、さらなるボリュームになっています。

 ただし、なかなか癖のある本でもありまして、ウクライナから切り離されたあとのクリミアやドンバスの政治状況を解説した日本語の本という点では貴重なのですが、ウクライナ内部の対立を詳述するあまりに、結果的にロシアの介入が見えにくくなる構成になっています。
 「今回の戦争の原因は約束違反のNATO拡大だ!」みたいなロシアのナラティブを採用しているわけではありませんが、ユーロマイダン革命以降の動きにおいてロシアを常に受け身的に描くことによって、結果的にロシアの責任が軽くなるような描き方がなされていると思います。

 目次は以下の通り。
第1章 ソ連末期から継続する社会変動
第2章 ユーロマイダン革命とその後
第3章 「クリミアの春」とその後
第4章 ドンバス戦争
第5章 ドネツク人民共和国
第6章 ミンスク合意から露ウ戦争へ
終章 ウクライナ国家の統一と分裂
 大部の本なので、以下はざっくりと紹介していきます。

 まず、著者は今回の戦争に至るまでの出来事を、ソ連崩壊からの流れとして捉えています。
 ソ連の工業の中心地であったことからソ連時代後期のウクライナは景気が良かったといいます。著者は1989〜91年までレニングラードの大学にいたそうですが、都市の景観はロシアよりもウクライナのほうが良かったそうです。
 しかし、1990年に2000億ドルを超えていた実質GDPは、99年には1000ドルを切り、その後上昇したものの、リーマン・ショック以降、1200〜1300億ドルあたりをうろうろしています(24p表1−1参照)。
 
 ソ連時代のウクライナは原料をロシアから輸入し、機械などをロシアに輸出する形でしたが、ソ連崩壊後、ロシアへの輸出は伸びなくなり、かといって、ウクライナに西側に輸出できるような技術力はなかったのです。

 こういた経済的困窮のもとで生まれるのはポピュリズムです。
 著者はポスト・ソ連の三代ポピュリストとしてグルジア(ジョージア)のサアカシヴィリ、アルメニアのパシニャン、ウクライナのゼレンスキーを上げています(30p)。
 ここからもわかるように著者のゼレンスキー大統領への評価は非常に低いです。

 ソ連の連邦制は民族領域連邦制と呼ばれる特殊な連邦制で、当該連邦構成主体の主人公である民族が決まっていました。
 新疆ウイグル自治区でウイグル人が第一書記になることは中国では考えられませんが、ソ連では基幹民族出身ではないとその自治体の第一書記にはなれないという慣行が定着し、また、その基幹民族の決定には先住主義が用いられたために、歴史的にどの民族が先に住んでいたかということが重要になりました。
 こうした状況下でなし崩し的にソ連が崩壊していったことが、さまざまな民族紛争を生むことになります。

 ウクライナの政治については、親欧と親露の対立で理解されがちです。ウクライナの東西の違いもあって、ウクライナ西部・親欧VSウクライナ東部・親露という図式です。
 しかし、これは単純すぎる見方で、このようなわかりやすい対立になったのは1994年と2004年の大統領選挙だけだったといいます。
 2010年のヤヌコヴィチとティモシェンコが争った大統領選においても、東部のヤヌコヴィチと西部のティモシェンコという図式はありましたが、それ以上に都市と農村や世代間の違いが顕著だったとのことです。

 また、親欧・親露といっても欧米への経済統合はウクライナの共産党を除く政治家とオリガークの一致点であり、それゆえにヤヌコヴィチもEUとの交渉を進めました。
 しかし、EUとアソシエーション条約を結び、ロシアのユーラシア関税同盟にも入ろうというヤヌコヴィチの都合のいい政策は破綻をきたし、EUとの条約調印を延期します。
 ここからユーロマイダン革命が始まります。

 ユーロマイダン革命は、独立広場(マイダン)での座り込みから始まりましたが、事態が急変したのは2013年11月30日未明の警察によるピケ参加者への暴行です。これがテレビで中継されたことで抗議の輪が大きく広がることになりました。
 年が明けても抗議は収まらず、2014年2月20日にはマイダン派の隊列に警察が銃撃する事件が起こります。この事件についてはさまざまな説が流れており、著者も警察による一方的な銃撃という見方には疑問を呈しています。
 21日夜、ヤヌコヴィチ大統領が逃亡したことでマイダン派の勝利となります。

 ここからヤヌコヴィチの与党の地域党の地盤でもあった東部では、ウクライナから分離する動きが出てきます。
 4月6日にはドネツクとルガンスクにおいて分離派が州議会・国家行政府建物を占拠し、翌日にドネツク人民共和国の成立を宣言しました。
 7日はハルキウでも分離派が占拠を行いますが、これは内務省特殊部隊によって排除されました。こうした動きはマリウポリなどでも起こっています。
 5月2日にはオデサでマイダン派と反マイダン派が衝突し、反マイダン派の40人以上が火災に巻きこれて死ぬ事件も起きています。

 最終的に武力衝突と第一ミンスク合意、第二ミンスク合意を経て、ドネツク人民共和国はウクライナの中央政府の支配から離れていくことになるのですが、本書はロシアの介入についてほとんど触れていないので、この流れは非常にわかりにくいです。
 ただ経緯はどうであれ、ユーロマイダン革命後に大統領になったポロシェンコ大統領は苦境に立たされます。
 ポロシェンコは2019年の大統領選挙で、ライバルのティモシェンコに勝利するために、「軍、言語、信仰」運動を始めます。幅広い領域でウクライナ後の使用を義務付けるなど、ウクライナ・ナショナリズムを活性化させるような政策をとりました。著者はこれらの政策がウクライナの分断をさらに進めたと考えています。

 2019年の大統領選挙で当選したのはポロシェンコでもティモシェンコでもなく、俳優出身のゼレンスキーでした。ゼレンスキーは大統領になると議会を解散し、議会選でも勝利しました。

 第3章ではクリミアの情勢を追っています。
 クリミアは1954年にロシアからウクライナへと移された地域で、多数派もロシア語話者でした。クリミアはクリミア自治共和国とセヴァストポリ市の2つの行政単位からなっていますが、本書がとり上げるのはクリミア自治共和国のほうです。
 クリミアはロシアがオスマン帝国から奪った土地ですが、そのときにクリミアに残ったのがクリミア・タタールと呼ばれる人々です。
 ウクライナ独立のとき、クリミアとウクライナでは権限などをめぐって揉めましたが、最終的にはウクライナ内の自治共和国として落ち着きました。

 ただし、クリミアを分離させようとする運動は1995年に自滅する形で終わります。クリミアの大統領職は廃止され、ウクライナの影響力が強まることになります。
 1998年に採択されたクリミア自治共和国の新しい憲法では、クリミア首相はウクライナの大統領がクリミア最高会議に首相候補を推薦し、最高会議が承認するという形で選ばれることになりました。
 
 2004年のオレンジ革命の結果、政権に就いたユシチェンコ大統領はクリミアでのロシア語の使用を制限する政策を進め、クリミアの人々の反発を受けました。一方、クリミアではヤヌコヴィチ支持が強まりました。
 2010年の大統領選挙でヤヌコヴィチが勝利すると、クリミアの首相にヤヌコヴィチ勝利に功績があったジャルティを送り込みます。ジャルティは腹心の部下をマケエフカ、ドネツクから連れて乗り込み、現地の幹部とすげ替えていきますが、彼らは「マケ」エフカ、「ドネ」ツク、そしてクリミアを見下す植民地的態度から外来幹部は「マケドニア人」と呼ばれました。

 ジャルティは、中央から資金を引っ張ってきてクリミアの開発を進めますが、2011年8月に53歳の若さでガンで亡くなります。
 クリミアでは、マケドニア人、クリミア・タタール、ロシア人の勢力が割拠する状態になりましたが、ロシア人勢力の中心となったのが後にクリミアのロシア編入を主導したアクショノフです。
 
 マイダン革命後、クリミアはロシアに編入されますが、この過程についても本書では常にロシアは受け身的に描かれており、わかりにくいです。
 編入後については、クリミア大橋の建設を始めとしてロシアがテコ入れを行ったこともあって経済が活性化しています。ただし、ロシア企業はクリミアに進出すると国際制裁を受ける可能性があるため、それほどロシア資本の進出は進まなかったといいます。結果的にクリミアの企業を保護することにも繋がり、それがクリミアの政治を安定させました。

 第4章はドンバス戦争ですが、ここも細かく書いてある割にはロシアの介入についてはあまり触れていません。

 ドンバスは炭鉱地域であり、そのためドンバス人には「炭鉱夫」「荒くれ者」といったイメージがあり、そのため、同じドネツク州でもクラマトルスクやマリウポリの市民などからは同一視されることを嫌がる声もあったとのことです。
 ドンバスはソ連時代に工業化が進み、そのために人口も流入し、ソ連末期にはウクライナ人が約5割、ロシア人が約4割となりました(ただし、ウクライナ人も大半はロシア語話者)。

 ソ連崩壊後のドンバスで中心になったのが「赤い企業長」と呼ばれる、地域の行政や社員への福祉の提供も代行するような新しい経営層でした。こうした「赤い企業長」が政治にも進出していきます。
 1994年の地方選挙では、「赤い企業長」に代わって新興のビジネスマンが知事や市長になっていきますが、基本的には恩顧政治が展開されていくことになります。

 ヤヌコヴィチはドネツク州の出身であり、そのために2004年のユシチェンコが勝った大統領選でも、ドネツクではヤヌコヴィチが圧倒的な得票率となっています(299p表4−2参照)。
 ユーロマイダン革命以前において、ヤヌコヴィチの地域党はドネツク州の州議会の90%以上の議席を占めていました。
 こうした中、ユーロマイダン革命によってヤヌコヴィチが逃亡したことはドネツクに政治的空白を生みました。

 著者によれば、当時、ドネツクの政治に大きな影響力を持っていた富豪のアフメトフらが中央政府との交渉力を高めるために分離主義者を泳がせたことが問題を大きくしたといいます。
 著者はマイダン革命後のドネツクで分離派の集会を実際に見たそうですが、分離に向けて確実に進んでいたクリミアに比べると、空疎なスローガンを叫んでいただけだったといいます。
 
 先述のように、2014年4月7日にドネツク人民共和国の成立が宣言されますが、このときプーチンは、クリミアと違ってドネツクの分離を受け入れるつもりはなかったと著者はみています。
 プーチンは独立を当住民投票の延期を求めますが、これにはウクライナの大統領選においてドネツクの票が失われれば、親欧的でNATOへの早期加盟を求めるような候補しか勝てなくなるといった読みがあったとされます。

 それにもかかわらず5月11日の住民投票でドネツク人民共和国の「独立」が承認されます。
 この時点でも東部は一定の平穏を保っていましたが、それを打ち壊したのが5月26日にポロシェンコ大統領が命じたウクライナ軍によるドネツク空港の空爆だといいます。
 その後の内戦においても、ウクライナはマイダン革命で活躍した武装グループを内務大臣に従属する国民衛兵隊として編成し、それをドンバスに送られたが、訓練を受けたロシア義勇兵には叶わなかったと書いていますが(330p)、「義勇兵」でいいのかはやや留保したいところです。

 第5章では、ドネツク人民共和国を他の旧ソ連の未承認国家と比べながら検討しています。
 プーチンは、2014年7月17日のマレーシアMH17撃墜事件や8月17日にウクライナ軍がルガンスク市の中心部に突入し、ドネツクも包囲されたことで、人民共和国が滅びない程度に助けるという方針を固めたと本書では分析されてます。
 8月28日には反抗に転じた人民共和国の部隊(ここでは著者はおそらくロシアの正規軍が含まれていたと書いている(359p)がマリウポリに迫りますが、著者は第一ミンスク合意をうまくいかせるための陽動的な作戦とみています。

 著者は2014年8月後半と2017年8月にドネツクに入ったそうですが、荒廃していたドネツクの街は、2017年人あるとロシアの援助もあって街もきれいになり、活気があったといいます。 
 政治的にもロシアの影響力が強まり、「建国者」たちや共産党などがパージされていきます。
 また、戦闘は落ち着いていたとはいえ、ウクライナ側からの砲撃は続いており、それに対する被害者意識がドネツク人民共和国の紐帯を強めたと著者はみています。

 第5章では今回の戦争(本書では露ウ戦争と呼称)が分析されています。
 まず、分離紛争解決の処方箋として、①連邦化、②land-for-peace(分離政体が実効支配地域の一部を献上することで独立を認めらもらう)、③パトロン国家による分離国家の承認、④親国家による再征服、⑤パトロン固化による親国家の破壊、の5つがあげられています。

 ①の解決方法については、ミンスク合意が基本的にはこの路線です。ただし、しばらく分離したあとに戻ってくることになると有権者のバランスが崩れます。沿ドニエストル共和国についてはもし戻ってきたらモルドヴァの政治家が困るとも言われており、ドンバスもそうかもしれないと著者は言います。
 ②はあまりない策で、③は南オセチアなどでとられました。また、2022年2月21日にロシアがドンバスの2共和国を承認したのもこれにあたります。
 
 ④について、著者はゼレンスキーがこれを目指していたとしています(第6章の第2節のタイトルは「ゼレンスキー政権の再征服政策)。
 ゼレンスキーは大統領選挙で、「ミンスク合意のリセット」を訴え、人民共和国の指導者とは会わずにプーチンとの直接会談による事態の打開を目指しました。
2021年になるとゼレンスキー政権の人民共和国に対する態度は厳しくなりますが、これはアゼルバイジャンのカラバフ紛争での勝利を見て、強硬策を検討し始めたためだとみています。

 前述のようにロシアは2共和国の承認に踏み切ります。③を志向したわけですが、3日後の2月24日にはウクライナへの全面侵攻、すなわち⑤に踏み切ります。
 プーチンはこの戦争を「予防戦争」だとしましたが、著者もこの理由付けは苦しいとしています。
 結局、プーチンはウクライナの体制変更を目指す戦いを始めますが、キエフ急襲作戦は失敗し、領土獲得に目的を変更して戦争が続きます。

 著者は、今回の戦争をNATOの拡大とそれに対するロシアの反発といった図式で見ることには反対で、あくまでもウクライナの問題だとみています。
 ロシアとウクライナは切っても切れない関係ですが、このような戦争を経験してしまった今、ウクライナから分離した地域の扱いを始めとして、露ウがどのように打開できるとかというと、なかなか難しいという結論になります。

 このまとめでは詳しく書きませんでしたが、本書ではクリミア自治共和国やドネツク人民共和国の政治家の動きなども追っており、他では得ることのできない情報を知ることができます。
 ただ、途中で何回か書きましたが、あまりにロシアの介入という要因が後景に退いてしまっているように思えます。もちろん、ウクライナはさまざまな問題を抱えた統一感のない国家だったのは事実でしょうが、やはり、ウクライナの分裂や今回の戦争に関してはロシアに一番の責任があると思うのです。
 今回の戦争について知りたいと思って、本書をまず初めに手に取るのはお薦めできないので、2冊め、3冊目の本ということになるでしょうね。
 

関口正司『J・S・ミル』(中公新書) 7点

 ジョン・スチュアート・ミルは日本でもよく知られた思想家でしょう。彼が『自由論』で展開した「他者危害の原理」は未だに現役ですし、「太った豚より痩せたソクラテス」といった言葉や、彼が父親から英才教育を受けていたことなどを高校や大学で教わったという人も多いと思います。

 本書はそんなミルの比較的オーソドックスな評伝です。何かミルについて新しい解釈を打ち出しているわけではありませんし、今までにはなかった切り口で論じたというものでもありません。
 内容としては、ミルの人生を追いながら、『自由論』、『代議制統治論』、『功利主義』という3つの主著を解説したものになります。

 ただし、それでも今に通じる興味深い考えが数多く出てくるというのがはミルの魅力でしょうし、そうしたミルの面白さを多面的に引き出しているのが著者の腕ということになるのでしょう。
 主著の解説についてはもう少し網羅的なものを望む人もいるかも知れませんが、「J・S・ミル入門」としては手堅くまとまった1冊になっているのではないかと思います。

 目次は以下の通り。
第1章 ミルの生誕から少年時代
第2章 「精神の危機」とその後の模索
第3章 思索の深まり
第4章 『自由論』
第5章 『代議制統治論』
第6章 『功利主義』
第7章 晩年のミル

 J・S・ミルは1806年にロンドンで生まれていますが、ミルといえば有名なのが父親のジェイムズ・ミルによる英才教育です。
 3歳からギリシア語の単語の学習を始め、12歳で父の『英領インド史』の校正を手伝ったというのですから、その早熟ぶりもわかります。
 
 ミルの『自伝』を読むと圧倒的に父親の存在が強く、母親の存在は薄いのですが、これには『自伝』の意図が自らの思想形成を示すことにあったためでもあるといいます。
 例えば、父のジェイムズは当時のイギリス人としては「非宗教的」な人間でしたが、こうした考えは子のミルにも受け継がれています。

 ミルは15歳の頃に父からフランス語版のベンサムの『立法論』(デュモン編)を手渡され、大きな衝撃を受けたといいます。
 ミルは『自伝』に「一つの(最善の)意味での宗教を持ったのである」(17p)と書いていますが、以降、ミルはベンサム主義者として生きていくことになりました。そして、世の中を変革しようという人間になったといいます。
 また、ロンドン討論協会での活動なども始めますが、ここでの対等な立場での討論は『自由論』にも大きな影響を与えたと考えられています。

 このようにベンサム主義者として順調に成長したミルでしたが、20歳のときに『自伝』で「精神の危機」と呼ばれている状況に陥ります。
 書かれている様子などから見ると典型的なうつ症状に見えますが、ミルは子どものころから身につけてきた複雑な観念や感情を単純な快苦として分析するスタイルが、自己に向けれ自分の意欲や幸福感を損ねてしまったと考えていたようです。
 また、父から受けた抑圧的な教育に関しても疑問を呈するようになっています。

 ミルはこの危機を、マルモンテルの『回想録』に出てくる、父を失った息子がこれからは自分が父の代わりになろうと決意するシーンを読むことをきっかけに脱し、ワーズワースの詩に傾倒することによって、次第に単純なベンサム主義者ではなくなっていきます。
 
 さらにミルにとっての永遠の女性となるハリエット・テイラーと出会うことで、自分の中の感情の陶冶を目指す方向性と、社会の改革者として熱意を持つ方向性の間でバランスを取ることができるようになり、自らとらわれてた宿命論も克服するようになりました。

 また、理論的な面でも変化が見られるようになります。
 ベンサム主義者は演繹的推論を重視し、ジェイムズ・ミルは『政府論』で次のような議論を展開していました。
大前提:すべての人間は、他人の利益よりも自分の利益を優先する。
小前提:統治の担当者は人間である。
結論:ゆえに統治の担当者は自己利益を優先する。(70p)

 ベンサム主義者は、これによって当時のイギリス政治の弊害は十分に説明可能だと考え、選挙権の拡大によって多くの選挙民の利益に反する行動を政治家が取れば落選する仕組みをつくることが重要だと考えました。

 この議論は大雑把に言えば正しいかもしれませんが、論証として穴があるものです。19世紀のイギリスを代表する歴史家となるマコーリーは、国民に歓迎された絶対君主という歴史上の例(デンマーク)を持ち出して、この議論の反証例をあげ、さらには君主の名誉欲といったものの存在も指摘しました。
 ジェイムズ・ミルの推論には、数学の定理のような厳密性はなかったのです。

 この問題に対して、J・S・ミルは、演繹には、幾何学的方法(抽象的方法)と物理学的方法(具体的方法)という2つの種類のものがあるという考えを打ち出しました。
 幾何学的方法は数学の定理のようなものですが、物理理学的方法とは次のようなものです。空中に静止している水素の入った風船には重力と浮力という2つの力が働いており、それが均衡しています。この場合、普遍的な法則である重力ははたらいていますが、それとは別の力もはたらいているのです。
 同じように、自由貿易は一般的にその国民を豊かにしますが、何か別の要員がはたらいて国府を増大させないケースもあるのです。

 ミルは1836年に「経済学の定義と方法」という論考を発表していますが、ここでは「物質的安楽への欲望」という人間本性を前提にしつつ、それが国民性などによって影響を受けるという議論を展開しています。
 また、実践的規則の体系をアートと呼び、科学とは「密接に関連しているとはいえ、本質的に異なる」(86p)と説明しています。アートは行為に関する規則や指示の集合体であり、目的とそれを実現するための手段を提示します。
 この目的は複数あることもあり、同じ制度が2つの目的の達成に関わっているケースなども考えられるのです。

 ミルはベンサムの政治に対する考え方を単純すぎるものとみなすようになり、教育や忠誠、構成員の結びつきといったものを重要だと考えるようになりました。
 また、トクヴィルの『アメリカのデモクラシー』の第1巻を読むことで、民主政治に対する考えを深めました。
 1836年に発表された「文明論」では、アメリカとイギリスの社会を比較しながら、民主化の趨勢と、多数者(大衆)の画一化という問題を考察しています。
 
 方法論的にはミルはコントの実証主義を評価しつつも、コントの家族を社会安定の要因として重視する考えから主張されていた離婚禁止論や、女性を男性より劣る存在に位置づける考えなどは受け入れがたいものでした。

 1848年のフランス二月革命を受け、ミルは「二月革命擁護論」を書きましたが、同時にフランスの新しい政治体制において行政府の長(大統領)に議会解散権がないことを懸念していました。議会と大統領が対立すれば、大統領にそれを打開するすべはなく、それを口実にクーデターに訴えかねないと考えたからです。そして、この懸念はナポレオン3世によって現実になります。

 1851年、ミルは2年ほど前に夫をなくしていたハリエットと結婚します。ようやく一緒になれた二人でしたが、実は2人とも結核に罹患していました。
 結局、ハリエットは1858年に転地療養に出かけようとした途中のアヴィニヨンで亡くなることになります。

 第4章からは主著の解説に入っていきますが、まずは『自由論』です。
 『自由論』で取り扱われているのは意志の自由の問題ではなく、社会生活における自由の問題です。若い頃に宿命論にとらわれていたミルにとっては意志の自由も重要な問題でしたが、本書では社会の中で自由を擁護することが目的になっています。

 人々の自由を侵害するものとして支配者の干渉がありましたが、この時代になってくると民主政が広がることで、統治者と被治者が一致してきます。こうなると、統治者と被治者の利害も一致し、自然と自由も擁護されるようにも思えますが、ミルはそう考えませんでした。
 トクヴィルが指摘したように多数者の専制によって少数者の自由が抑圧される可能性も生まれてきたのです。一方、その反動のエリート主義にも警戒する必要がありました。

 本書で主張されている有名な原理が、他者に危害を加えない限り自由が尊重されるべきだという「他者危害の原理」です。本書ではこれを見るの言い方に従って「自由原理」と呼ばれていますが、この原理は「一つの非常に単純な原理」(145p)でありながら、そこにはいくつかの前提があり、実際にはかなり複雑なものとなっています。

 まず、ミルは自由原理について文明社会のどの成人にも適用されると述べていますが、逆に未成年者や未開社会の人々には適用されません。自由原理では、社会のルールに従い自律できる人間を想定しています。
 そして、人々が個性の自発性が固有の価値を持っているということを認識している必要もあります。
 社会のために行動することを善しとする政治道徳のようなものが、その基盤として必要であり、それは既存の道徳から拡張されていくべきものなのです。

 『自由論』の第2章のタイトルは「思想と討論の自由」になっています・これはミルが内面の自由だけではなく、社会的・公共的行為の自由を重視していた現れだと考えられます。
 ミルは自由を擁護する根拠として「効用」をあげていましたが、この効用は個人にとってのものなのか? 社会全体にとってのものなのか? ということが1つの問題になります。
 討論の自由を擁護する文脈であげられるのは主に後者になります。

 意見の自由な表明が抑圧されることの弊害として、ミルは真理が抑圧されるケースだけではなく、誤っている意見が抑圧されるケースもあげています。誤っている意見ならば表に出てこなくても構わないだろうと考えてしまいますが、ミルは以下のように考えます。

 正しい意見だったとしても、それを死んだドグマとして信奉するだけでは、「字面の上では真理を表している言葉にたまたま執着しているだけの、もう一つのたんなる迷信」(八二頁)になってしまう。こういう場合、信奉者は自分の信条を「理解という言葉の正しい意味で言えば、理解していない」(八六頁)(155−156p)

 また、双方が部分的真理をもっており、それが激しく対立することもありますが、それでも「真理の半分がひっそりと抑圧されること」(158p)よりはましだと考えています。
 さらに意見の表明は自由だとしても、ある程度は自制するモラルが必要であるという考えにも反対しています。「やりすぎだ」というのも1つの意見なのです。
 ただし、「主張の仕方が不誠実であったり、悪意や排他性や不寛容が感情的に示されたりしている場合は、議論のどちらかの側に見方する主張であっても、そうした主張をする人を避難すべきである」(160p)とも述べています。

 ミルは、こうした思想と討論の自由をそれ以外の分野にも拡張していきます。著者も指摘するように、自由原理と思想と討論の自由の擁護にはずれる部分もあるのですが(討論では他者に影響を与えることが想定されている)、ミルは論理よりも説得を重視して議論を進めています。
 ここでは卓越した才能を持つ個人の効用が論じられており、ミルのエリート主義的な面もうかがえますが、同時にエリート以外の人が持つ個性の価値にも言及してバランスをとろうとしています。
 また、自らを奴隷として売り渡すような契約は無効だと考えるなど、自由に限界があることも論じています。

 第5章は『代議制統治論』です。この本は1861年に公刊されています。
 ミルは統治形態を、社会を構成する人々の資質を向上させているか、機構それ自体の質という2つの基準で評価しています。
 この2つの基準から評価されるのが代議制統治です。代議制のもとでは絶対的支配者の統治に比べて公正や正義が確保されやすく、また、政治参加は人々の資質を向上させます。
 また、著者はこの『代議制統治論』における自由が他者に影響を与えるような能動的な自由も含んでいることに注目しています。

 ミルは当時のイギリスは実質的に代議制統治になっていると考えており、『代議制統治論』では、今後の方向性についても多く論じられています。
 ミルは行政の具体的な業務については行政部門に任せるべきだと考えており、政治家の思いつきが行政の妨げになると言いますが、官僚制のもとではルーティン化が進んで活力が失われてしまうとも考えています。
 また、ベンサムや父のジェイムズ・ミルとは違い、代議制のもとでも権力は腐敗すると考え、それを防ぐための努力が重要だと考えました。

 ミルは、投票資格の拡大を訴えるとともに(ただし識字能力と一定の納税は必要だと考えた、候補者に順位をつけて投票するヘア式投票制を推奨しています。
 また、投票を私的な権利だと考えさせないために秘密投票制に反対しています。
 行政職員の採用については、公開競争試験の徹底を求めました。

 第6章は『功利主義』をとり上げています。この論考は1861年に雑誌に発表され、63年に1冊の本として刊行されました。
 ここでミルは「公共道徳」と「私的倫理」を自由に行き来しながら、公共道徳の正義に関する部分を中心的に論じています。これは他者や社会全般に危害をもたらす行為を対象とした行為規範であり、『自由論』で論じられていたものとは違います。
 
 功利主義といえば、幸福(快楽)を増やして不幸(苦痛)を減らすことですが、ミルは今までの功利主義が快楽の質の違いを軽視しがちだったことを認めています。高級な快楽と低級な快楽については両方を経験する人がどちらを選ぶかで判断できるといいます。
 また、他者を幸福にして喜びを感じたり、自分が他者を幸福にできなくてつらいと感じることがあります。こういった経験を繰り返されていくと、他者の幸福に貢献する行為が習慣化し、有徳な人になっていきます。有徳な人は行為の目的が快楽や苦痛の感情から独立していくのです。

 有徳な人は、ときに自己犠牲を払って社会のために尽くしますが、ミルはこうした自己犠牲を義務として要求することはありません。『自由論』でも論じられたように、こうしたことは社会が強制すべき事柄ではないからです。
 ミルは人間の行為を正か不正かという基準で見ることに反対しており、義務を幅広く設定することは間違っていると考えているのです。

 最後の第7章では晩年のミルの活動についてまとめられています。
 ミルは男女の平等を主張して『女性の隷従』を刊行し、女性にも選挙資格を広げる運動をしています。また、1866年に庶民院の議員になったこともあり、属領であったジャマイカの統治問題やアイルランド問題についても積極的に発言しています。
 ミルは著作以外のこうした活動にも携わり、1873年に亡くなりました。

 このように本書はミルの生涯と主著をまとめてくれています。
 ミル自身がバランスを重視する思想家であり、また多面的な活動をしていたために、ミルの考えがスパッとわかるといったものではありませんが、ミルの生涯や思想遍歴がわかることで、主著における主張の力点も随分わかりやすくなると思います。
 ミルの思想を論じるには、実際に著作を読む必要があるでしょうが、本書は「ミル入門」としてまとまりのよいものになっています。


八鍬友広『読み書きの日本史』(岩波新書) 9点

 江戸時代にやってきた外国人、例えばゴローヴニン事件で捕らえられたゴローヴニンや、漂流民を装って日本にやってきて森山栄之助に英語を教えることになったラナルド・マクドナルド、あるいはイギリスの初代駐日公使のオールコックは、日本人の読み書きの能力に驚いています。
 こうしたことから、当時の日本は世界一の識字率だったというような主張もあります。

 ただし、ここでいう「識字率」とは一体どのようなものなのでしょうか?
 活字に囲まれた現代に生きる私たちは、漢字を除き、一定の訓練を受ければ提示された文章をどんどん読めるし、自分の思ったことを書けるようになると考えがちです。
 ところが、近世までの日本において、話し言葉と書き言葉は分離しており、ひらがなを覚えたからといって自分の思ったことが「書ける」ようになるわけではありませんし、行書や草書で書かれた字体を読み解くには、また訓練が必要です。
 つまり、「字を知っている/書ける」ということに関して、さまざまなレベルが想定されるのです。

 本書は、日本における書き言葉の特徴を指摘し、さらに読み書きの教材として使われた「往来物」に注目することで、庶民がいかなる読み書きの能力を欲し、それを学んだかということを検討しています。
 さらに、先程あげた「識字率」のレベルの問題、そして、近代になって始まった学校教育の新しさと、その中にある寺子屋教育との連続性についても分析しています。
 
 日本の歴史における読み書きと教育の問題について断片的には知っていましたが、本書は日本語の特殊性から説き起こして、これを1つの流れとして説明しています。
 多くの論点を含んだ非常に刺激的な本だと思います。

 目次は以下の通り。
第一章 日本における書き言葉の成立
第二章 読み書きのための学び
第三章 往来物の隆盛と終焉  
第四章 寺子屋と読み書き能力の広がり
第五章 近代学校と読み書き
 
 人間の言語を話しますが、文字を持たない人々もいます。日本にかつて住んでいた人々も文字を持っておらず、漢字を取り入れる形で文字を使うようになりました。
 しかし、中国語と日本語ではまったく言語類型が違います。語順も違うわけですが、日本語の単語の中には営業、減速、就職のように中国語的な語順の言葉がたくさんあります。
 本書では「券売機が発券する」という例があげられていますが、「券売」は日本語的、「発券」は中国語的な語順になっています。

 当初の漢字で書かれた文書は、ほぼ外国語のようなものだったと思われますが、やがて漢文訓読という漢文にレ点などをつけて、日本語風に読む方法を生み出していきます。
 これは考えてみれば不思議な方法で、”I play piano.”という文章を「アイ プレイ ピアノ」と発音せずに、レ点を打って「我、洋琴を奏す」などと読んでいると思えば、かなり特殊なやり方だということがわかると思います。
 
 しかし、いくら漢文訓読という手法が編み出されても、元になっている中国語の文章は日本人にとっては読解が困難です。
 そこで、より日本語に近接した文体が生み出されていくことになります。変体漢文と言われるものであったり、あるいは天皇の発する詔書に使われた宣命体です。
 さらに万葉仮名という漢字を当て字に使う方法が生み出され、さらに片仮名、平仮名が発明されることでさらに日本語に近接した表現方法が生み出されていくことになります。

 こうした日本の文章表記において主流になっていったのが候文というものです。特に近世期になると公文書から手紙にいたるまで、この候文で書かれていくことになります。
 候文は漢文性を極力排除しつつ、「有之」「難有」などの漢文的な表現を含んでおり、ぎりぎりのところで漢文的な性格を保ったものでした。

 また、近世になると書体の統一も進みます。平安時代初期までは公文書は楷書体、私的性格が強まると行書体漢字・平仮名が使用されるという使い分けがありましたが、次第にすべての文書が行書体で書かれるようになります。
 近世期になると、その崩し方まで一様になり、きわめて均質的な書記世界が成立していくことになります。
 ただし、候文も話し言葉との乖離は大きく、言葉が話せることと読むこと・書けることの間には大きな壁がありました。

 古代の日本では紙のかわりに木簡が用いられていましたが、この木簡に役人たちが字の練習をしたものが見つかっています。これが習書木簡です。
 この習書木簡に多く書かれているものが、官司名や地名、物品名です。これらは役人たちが必ず書かなければならないものでそのための練習だったと考えられています。
 
 では、上級貴族は自由に字が書けたのかというと、律令制が崩壊すると「一文不通」と呼ばれる貴族が出てきます。
 例えば、藤原道綱は、藤原実資から名字しか書けず、「一二」という数字すら知らない者が大納言になるのはおかしいと書かれていますし、藤原経実も藤原宗忠から、一文不通であり、公事のたびに病気と偽って出仕しなかったことを責められています。
 道綱も経実もまったく字が書けなかったわけではなさそうですが、平安時代後期になって官職の世襲化が進むと、文書(漢文)作成能力に疑問がつくような貴族も増えてきたのです。

 こうした時代に登場したものが「往来物」です。「往来」とは手紙のことであり、「往来物」とは基本的には手紙の例文集になります。
 最古の往来者とされているのが『明衡往来』で、平安中期の学者・藤原明衡によるものとされています。内容は貴族の間の各種の手紙文の文例集です。
 これが読み書きの教科書となっていくわけですが、手紙で読み書きを学ぶものとして、中国には「書儀」と呼ばれるものがあり、こうしたものの影響を受けていると考えられます。

 しかし、この「往来物」という呼び方は、手紙の書き方を示したものに限らず、さまざまなジャンルに広がっていることになります。
 例えば、元禄時代に刊行された『商売往来』には、「雑穀は粳(うるち)・糯(もち)・早稲、晩稲・古米・新米・麦…」、「絹布の類は、金襴、繻子・段(緞)子・紗綾、縮緬、綸子、羽二重…」(55p)といった具合に商品名が列挙されており、さらに商人の心得といったものも書かれています。手紙はどこにも登場しませんが、「往来」と名乗っていのです。

 この他にも江戸時代には周囲の村名を列挙したものや、よくある名字を列挙した往来者が刊行されています。
 他にも『国性爺往来』は鄭成功の伝記ですし、『童子往来』はさまざまな教訓などを書き記したものでした。

 こうした往来物は1万を超えるものがつくられたといいます。今までにも述べたようにその中身はさまざまですが、こられが読み書きの教材として使われました。
 その中には借金証文のテンプレートもありましたし、江戸の地名が羅列されたものもありました。

 さらに関ヶ原の戦いの前に上杉景勝の家臣の直江兼続が徳川家康に出した書状とされる『直江状』や、大阪の陣において家康と豊臣秀頼の間でかわされたとされる『大坂状』も往来者として使われていました。家康に対する不穏当な表現が含まれているにもかかわらずです。
 不穏当といえば、往来物には一揆の訴状をとり上げているものもありました。百姓が領主の不法を訴えでたものが往来者となっているのです。

 なぜ、このようなものが教材になったのでしょうか?
 理由の1つは、近代以前の日本の公私文書が候文という口語体とは異なる書記言語によって作成されていた点です。近世以前の人々は文字そのものの読み書きを覚えるだけでは文書を作成することはできませんでした。また、文書ごとの約束事があり、それも身につける必要があったのです。
 もう1つは、近世以前の日本には読んでその内容を深く理解すべきと位置づけられる共通のテクストが不在だったこともあげられます。西洋世界の教理問答書のような、多くの人が理解すべきものと考えられていたものはありませんでした。また、日本ではこうしたことを強制する統一的な権力も不在でした。

 明治期になると「読ませる権力」が出現しますが、往来物については明治初期にそのピークを迎えます。
 内容は手紙中心から、さまざまな公文書の書式集へと変化していきます。ただし、この書式集は実務家を対象とした一般書へと変質していき、読み書きを教わる場は学校に集約されていきます。

 第4章では寺子屋について再検討しています。
 近世の日本の「識字率」の高さを支えたのは寺子屋による教育だと言われていますが、実際にどのような教育が行われ、どの程度の効果があったのか? といったことが探られています。
 ちなみに「寺子屋」という言い方は、「手習師」「手習塾」などのさまざまな呼び名があったものをまとめたもので、明治政府が調査のときにこれらの教育機関を「寺子屋」としてまとめたことから江戸時代の読み書きの教室がこう呼ばれるようになりました。
 また、「寺子屋」といっても必ずしも寺で行われていたわけではなく、さまざまなスタイルのものがありました。

 まず、近世初期の「識字率」です。これを推定するのは難しいのですが、本書では長崎出島と京都六角町の宗旨人別帳において、花押を書いた者、署名した者、印鑑を押した者、◯などの記号をつけた者の割合を分析した研究が紹介されています。
 1634年の長崎平戸町において家持当主23人のうち21人が、借家層の当主17人のうち10人が花押を書いています。1635年の京都六角町では家持当主19人全員が、借家層7人のうち6人が花押を書いています。
 これらの地域はかなり先進地域だと考えられますが、都市部では流暢に字を書く者の割合はかなり高かったと考えられます(ただし、女性で花押を書いた者は皆無)。

 17世紀になると地方都市にも寺子屋が普及するようになります。寺子屋の総数を把握することは困難ですが、寺子屋の師匠が亡くなったときに建てられた筆子碑の数などから見ても、相当な数があったと考えられます。
 
 また、寺子屋の門人帳を見ることで、住民のどのくらいが通っていたかもわかります。新潟県の村上のケースでは、寺子屋周辺の町で、世帯数とほぼ同じ数の世帯から入門者がいるなど、住民のかなりの割合が寺子屋に通っていたこともわかっています。
 近江の北庄村にあった時習斎寺子屋は、4276人もの寺子が入門した寺子屋として有名で、常時200人前後が学んでいたのではないかと推測されています。
 ちなみに北庄村の人口が900人ちょっとだった一方、明治6年までの60年間に時習斎寺子屋で学んだ北庄村の者が860人にのぼることから、村人のほとんどがこの寺子屋に通っていたのではないかとも推測されています(ただし、女子の割合は少なく全体を通して女子の割合は22.2%(121−123p))。
 
 では、これだけ寺子屋に通っていたからには多くの人が自由に読み書きができていたのかというと、そうでもないようです。
 志摩国の鳥羽町の寺子屋で使用された手本を分析した研究によると、入門者の半分以上は習った手本が5冊以下であり、候文を含めた文書の作成は難しかったと思われます。
 陸奥国岩手郡篠木村の寺子屋師匠が残した『俗言集』には、百姓の子どもは半年から1年で辞めてしまう者も多く、農作業が忙しいとかその他の理由で来なくなってしまって、結果として読み書きを忘れてしまうという嘆きが書かれています。
 宮本常一は、寺子屋に通った自分の祖父の話として「平生使いもしない字をならうのはつまらなかったという」(133p)と書いています。一方、外祖父は「大工になったので相当に読み書きができた」(134p)と書いており、文字を使う環境にいたかどうかが、その後の読み書きの能力に大きな影響を与えたようです。

 農村の識字率についてはわからないことが多いですが、村請制が行われていたということは村には一定の読み書きできる層がいたと考えられます。
 明治初期(明治7〜8年)に和歌山県が行った識字調査では、全住民を対象とした50ヶ村の調査で、男子の自署率は54.4%、その中で文通できる者は男子全体の10.2%ほどでした。
 他の地域に関しても、この10%程度の層が村請制を支えていたと考えられます。

 さらに江戸時代の後期になると、徘徊をはじめとして書、詩文、画などの文化活動を行う人々が増え、在村文化を形成していきます。
 こうした趣味のネットワークが広がるに連れ、一定以上の層にとっては読み書きや教養が必須のものになり、大庄屋などになれば漢文の素養なども求められることになりました。

 こうしたことから、近世日本のリテラシーは、「読めるか/読めないか」ではなく、一種のスペクトル状に展開していたと考えられます。
 漢学や国学などを学ぶ層から、徘徊や和歌を楽しむ層、寺子屋で往来物を学んだ程度の層といった具合に、「識字」の中にもさまざまなレベルがあったのです。

 明治になると学校において読み書きの教育が始まるわけですが、そうした中でいくつかの県において住民を対象にした自署率の調査が行われています。
 本書では滋賀県、岡山県、鹿児島県の調査が紹介されていますが(159p図5−1)、まず目を引くのは滋賀県男子の自署率の高さです。1877年から一貫して90%近い自署率です。滋賀県の女子は1877年で4割程度、これが1893年には7割弱程度まで上がってきています。
 一方、鹿児島県は1884年の時点で3割ちょっと、女子に至っては4%しかありません。岡山は滋賀と鹿児島の中間といった具合ですが、明治初期において地域の格差が相当に大きかったことがうかがえます。そして学校教育の普及とともに自署率は上がっていっています。
 
 自署を超えるレベルはどうかというと、和歌山県の調査では、自署と文通についてそれぞれ可能かどうかを調べています(166p図5−2)。これによると、自署率に関しては村によってバラバラですが、文通率に関してはどの村も同じような値(5〜15%程度)になっています。これらが村請制を支えた層だと思われます。
 
 こうした中で導入された学校制度ですが、これは明治政府の他の政策とともに身分制社会を否定するものでした。
 江戸時代において子どもが職業的な能力を獲得していく過程は徒弟制的なものでしたが、学校では子どもたちを家庭や職場から切り離して教育するところに特徴があります。
 1872年に発布された学制はアメリカのカリキュラムを手本としており、「小学教則」には究理(物理)、幾何、博学、化学、生理など、自然科学関係科目を含む28科目を配したものでした。

 この従来の寺子屋教育を一掃するような野心的なやり方は人々のニーズと合っておらず、うまくいきませんでした。
 学校で勉強させたのに手紙も書けないといった声もあがり、1881年の小学校教則綱領で、科目は修身、読書、習字、算術、唱歌、体操に再編されます。習字では、干支や地名、実用書類などについても教えられるようになり、寺子屋的な教育内容が復活することになります。
 また、歴史や地理や理科などの内容が国語の中で教えられるという「内容主義の国語教育」の傾向が強まります。ここにもさまざまな事柄を往来物で教える寺子屋教育の残滓があったと言えるかもしれません。

 明治なって言文一致も進みます。1900年頃から尋常小学校の教科書においても口語化が進み、1904年から国定教科書が導入されたことで口語化の流れは決定的になりました。
 新聞の口語体が進むのが1920年代、公用文・法令・詔書などが口語化するのは戦後になってからであり、口語化については教育が大きく先行しています。

 また、この時期には音読から黙読へという動きもありました。明治期には汽車の中や図書館で音読をしている人がいたことが知られていますが、次第にそうした場での音読は禁止されていきます。
 ただし、著者は江戸時代の川柳「まくらゑを高らかによみしかられる」などから(「まくらゑ」とはエロティックな読み物)、江戸時代にも黙読はあり、必ずしも近世/近代で断絶したものではなかっただろうと分析しています。

 最後に著者は、「生活綴方」を可能にしたのが鉛筆と安い西洋紙の普及だという指摘に触れ、ワープロ、そして音声入出力システムの普及が私たちの「読み書き」に大きな変化をもたらすのではないか? と述べています。

 このように本書は日本語の読み書きの歴史を追いながら、同時に日本の教育や日本語の書記システムの特徴といったものも教えてくれる本です。
 今のように活字に囲まれた世界では、字を一通り習えば、自然に読み書きができるようになると考えてしまいますが、話し言葉と書き言葉が分離した世界では、字だけではなくさまざまな約束事を同時に身につけることで、初めて「書く」ことができたのです。
 「言われてみればその通り」ということを鮮やかに示した本だと言えるでしょう。

保坂三四郎『諜報国家ロシア』(中公新書) 7点

 面白いけど、読んでいくとロシアに関係する人がすべて信じられなくなってしまいそうな厄介な本でもあります。
 
 プーチンがKGB(国家保安委員会)出身であり、ロシアの前身であるソ連がさまざまなスパイ活動を行っていたことはよく知られていることですが、本書を読むと、ロシアが単なるスパイ大国というだけではなく、巨大な情報期間が国家のあらゆる部分に浸透している「防諜国家」であることがわかります。

 本書はソ連の秘密警察の歴史から説き起こし、情報機関という枠には収まらないソ連・ロシアの諜報機関の姿とそのさまざまな手口、さらに情報機関が国の中心に存在するロシアに広がる世界観を明らかにしています。
 そして、こうした世界観と国家体質がウクライナへの侵攻をもたらしたことを明らかにするのです。

 目次は以下の通り。
第1章 歴史・組織・要員―KGBとはいったい何か
第2章 体制転換―なぜKGBは生き残ったか
第3章 戦術・手法―変わらない伝統
第4章 メディアと政治技術―絶え間ない改善
第5章 共産主義に代わるチェキストの世界観
第6章 ロシア・ウクライナ戦争―チェキストの戦争
終章 全面侵攻後のロシア

 KGBの前身は1917年12月20日に創設された反革命・サボタージュ取締全ロシア非常委員会、いわゆる「チェーカー(Cheka)」です。
 レーニンはチェーカーの初代議長にジェルジンスキーを任命しました。チェーカーはロシア国内の反革命勢力の取締にあたり、富豪や革命に抵抗する白軍だけでなく、次第に一般市民までをさまざまな罪で処刑していきました。
 レーニンとジェルジンスキーの指揮下にあるチェーカーは、家宅捜索、逮捕、処刑の権限を持ち、法の制約を受けずに活動しました。
 チェーカーは全土に密告者のネットワークをつくり上げ、さらに海外にもエージェント網を広げていきました。

 1921年、内戦が収束に向かい始めると、レーニンは「ネップ」を打ち出し、市場、私企業を一部で復活させます。こうなると悪名高いチェーカーをどうするのかということが問題になりました。
 1922年2月にチェーカーの廃止が発表され、その機能は内務人民委員部(NKVD)の中に設置された「国家政治局(GPU)」に移管され、見かけ上は大幅に縮小されました。
 ジェルジンスキーはチェーカーを去り、運輸人民委員(運輸相)になりましたが、実際にはジェルジンスキーが運輸相とGPUのトップを兼任していました。チェーカーは看板を掛け替えただけで生き残ったのです。

 1923年、GPUは統合国家政治局(OGPU)に改組され、スターリンの私的テロ機関への変貌していきます。
 スターリン時代になると一般囚人と政治犯の区別は曖昧になり、OGPUは一般警察を吸収し、拡大します。

 スターリンが死に、ベリヤが失脚してフルシチョフの時代になると、1954年にOGPUの流れからできた国家保安委員会(KGB)には逆風が吹くことになります。
 フルシチョフはKGB議長について、生え抜きのチェキストではなく、外部の党員をあてるようにするなど統制を図りますが、組織自体は温存されました。

 KGBの特徴は政府に所属するのではなく、党の政治局の指示に従う政治機関であったことです。KGBが政府を監視するという形になっていました。
 その組織に関しては、本書22〜23pの図2を見てもらうとして、ソ連末期には50万に近い職員を抱える巨大組織だったといいます。
 KGBには「現役予備」の制度もあり、省庁、新聞社、通信社、大学、国営航空会社(アエロフロート)などに将校を送り込み、防諜・諜報活動を行っていました。さらにKGBの第3総局は軍の監視を行っており、核の管理など担っていたこともあるといいます。

 KGBの活動を支えたのがチェキストの分身とも言うべき「エージェント」の存在です。例えば、プーチンはウクライナの元大統領府長官のヴィクトル・メドヴェチュークを半公然のエージェントとして使い、ウクライナの政治に介入していました。
 KGBは思想的説得の他、時にはセックスや汚職絡みで弱みを握り、あるいは金や地位を保障することでエージェントをリクルートしました。
 ソ連崩壊後に明らかになった1968年のアンドロポフの発言から、ソ連全体で約17万人のエージェントがいたと推定されています。また、ソ連崩壊時にはウクライナに7万人、エストニアに最大3000人、ラトビアに4500人エージェントがいたことが明らかになっています。
 外国人のエージェントもおり、1970年代にハニートラップに引っかかってリクルートされた日本外務省の電信担当者「ナザル」(コードネーム)は、日米間の外交公電や暗号資料をKGBに渡していました。

 さらにエージェントよりも秘密度の低いKGBの協力者として「信頼できる者」というカテゴリーがあるといいます。彼らは駅員、あるいは郵便の窓口担当者などに配置され、怪しい動きをしている人を通報しました。 
 本書では、アエロフロートの女性乗務員が、流暢なロシア語で書類の書き方を尋ねてきたアメリカ人の旅行者に対して、「どこで勉強したのか?」と聞いたところ、言葉を濁したのでKGBに通報したケースが紹介されています。

 このKGBですが、ソ連が解体され、ソ連共産党も解体されたあともいくつかの機関に分割されて残りました。
 まず、1991年の八月クーデター失敗後、ソ連共産党の資金をKGBが密かに海外に移していたといいます。
 さらにソ連末期にはビジネスの分野にも進出し、ソ連時代末期に行われた各種の選挙で候補者を擁立して当選させるなど、各分野に浸透をはかりました。
 1988年にはチェキストについての大量の本や映画がつくられ、KGBのイメージアップが図られました。

 東ドイツでは体制の崩壊後、秘密警察の文書が公開され、関係者の公職追放が行われました。
 ロシアでもKGBの復活を危惧した議員からKGB関係者の公職追放を行う法案が提出されましたが、それが採択されることはありませんでした。
 ロシア議会内にもKGBの関係者は浸透しており、さらにKGBの徹底した秘密主義もあって、国民の中でKGBを恐れる声は高まらなかったのです。

 ソ連崩壊後、情報機関と犯罪組織の癒着は日常的になり、KGB職員のコネや特殊技能は犯罪組織から重宝されました。
 こうした中で、マフィアの協力を得ながら、サンクトペテルブルクの経済犯罪を影で牛耳り、台頭したのがプーチンだといいます。
 プーチンはソ連解体後の混乱や犯罪の蔓延を引き合いに出しながら、安定や秩序を訴えましたが、自らも犯罪の片棒を担いでいた時期があったのです。

 KGBの国内部門は基本的にロシアFSBに移されましたが、プーチンはFSB=マフィア=行政の三位一体の「システマ」と呼ばれる体制をつくり上げ、経済的な利益を確保し、情報の統制を行いました。
 KGB時代と同じようにFSBからの出向職員は、大学やジャーナリズム、携帯会社などにも広がっており、ソ連時代と同じような防諜体制をとっているのです。

 KGBが行ってきたものにアクティブメジャーズ(積極工作)と呼ばれるものがあります。これは敵対者のイメージ失墜やソ連の影響力強化を目的に偽情報の流布や秘密の暴露などを行うものです。
 パブリック・ディプロマシー(広報文化外交)と重ねる目的もありますが、敵国の政府の信用低下や国民の不安や不満を助長することに重点が置かれている点が違います。

 例えば、1959年12月のクリスマスの朝、西ドイツのケルンのシナゴーグに鉤十字や「ユダヤ人は出ていけ」という落書きが見つかり、その後、そうした行動が西ドイツ各地に広がります。当初は右翼政党のメンバーの仕業と見られていましたが、実は共産党員で、東ドイツの基地でソ連の軍人と接触していたことも明らかになりました。
 西ドイツの社会を混乱させ、NATOの分断を狙った作戦でした。

 1999年にロシア国営テレビは、ユーリー・スクラトフ検事総長と似た人物が二人の売春婦と戯れる映像を流しました。スクラトフは否認しましたが、これが原因でクレムリンの高官を捜査していたスクラトフは解任されています。
 このときに会見で映像は本物だと言ったのがFSBの長官だったプーチンです。これもロシアの情報機関が使う手段の1つなのです。

 「ディスインフォメーション」(偽情報)もアクティブメジャーズの手段の1つですが、1999年にFSB支援計画局のトップに就任したズダノヴィチは効果的な偽情報作戦の情報のうち、95%は事実であり、捏造は5%だと述べています。正確な情報に少しの嘘を混ぜことがポイントなのです。
 また、信頼を得るためにソ連時代にはあえてソ連に批判的な情報も混ぜて発信していたといいます。
 陰謀論的な情報も拡散しますが、KGBの行ったもので成功したのが「米国エイズ製造説」です。エイズはアメリカが開発していた生物兵器が流出したものだとするこの主張は、未だに一部で信じられているといいます。
 
 アクティブメジャーズの手法として「特殊肯定感化」と呼ばれるものがあります。これは偽の肩書やエージェントを使って、対象となる政治家や官僚、記者、財界人などを感化させることです。
 例えば、かつてのソ連の記者(多くはKGBの将校)は西側にできるだけ多くの「友人」を作れと司令されていました。彼らは「友人」と酒を飲み、情報を握らせ、信頼を得てからソ連に有利な情報を発信させるのです。
 学者に対しては貴重な資料を見せる便宜を図ったり、政治家には花を持たせたりします。1970年代に東京に駐在したKGB将校のレフチェンコによると、石田博英自民党議員が訪ソした際に、ソ連国境警備隊が拘束していた漁船乗組員を解放し、石田に手柄を立てさせながら、石田を通じて工作を行ったといいます。

 他にも、例えば、ウクライナでは2014年に反戦NGOを名乗る団体が「兵士の母」を使って徴兵拒否を呼びかけたり、2004年の大統領選挙ではユーシチェンコ支持集会を開催し、そこで外国人排斥のスローガンやヒトラー式の敬礼を行ってユーシチェンコとナチスを結びつけるような工作を行いました。 

 1990年代なかばに「政治技術者」という職業が生まれたといいます。KGBで開発されたメディア・世論操作術を受け継ぎ、政治を動かす仕事です。
 90年代半ば、こうした政治技術者はボリス・ベレゾフスキー安全保障会議副書記の周囲に集まり、96年の大統領選で誰もが不可能と思っていたエリツィンの再選を成功させました。
 2000年の大統領選ではプーチンをエリツィンの後継に担ぎましたが、プーチンは大統領就任後まもなくベレゾフスキーを訴追する構えを見せ、イギリスに亡命を強いられたベレゾフスキーは2013年に遺体で発見されています(自殺として処理された)。

 プーチン政権のもとでは、野党に対してはさまざまな圧力がかけられ、あるいはリベラル政党の得票を減らすために傀儡野党がつくられるなど、選挙に対するコントロールが行われました。
 また、テレビ局も次々とクレムリンの支配下に組み込まれました。しかも、ベレゾフスキーから人質交換のような形で第一チャンネルの株式を取得するなど、かなり強引な手法もとられています。
 さらに一見すると「リベラル派」あるいは「反体制派」とみられる人物やグループに対してもFSBの影響力が浸透しているケースもあるといいます。

 2016年のアメリカ大統領選では、ロシアはインターネットを駆使してさまざまな工作を行いました。
 例えば、Facebookに「BlackMattersUS」というコミュニティがつくられ、黒人差別に反対する集会が開催されましたが、このコミュニティはロシアがつくったものでした。
 サンクトペテルブルクのIRA(インターネット・リサーチ・エージェンシー)には英語が堪能な人物が集められた「外国部」があり、彼らはアメリカ人になりすましてネット上の議論などに参加しましたが、ロシアやプーチンに言及してはならず、もっぱらアメリカ人に反政府的な気分をもたせることを目的にしていました。
 2021年のイギリスのカーディフ大学の研究チームによると、「Yahoo!ニュース」のコメント欄や『毎日新聞』のコメント欄でもロシアからの書き込みが行われていたといいます。

 このように世界中に陰謀論をばらまいているロシアの情報機関ですが、チェキストたちがそもそも陰謀論に染まっているという見方もできます。
 1997年に発表されたアレクサンドル・ドゥーギンの『地政学の基礎』で示された、ロシアを盟主とするユーラシア大陸勢力(ハートランド)が、米英、NATOを中心とする大西洋勢力に対抗し、伝統的な価値や思想を守るという考えは、軍や情報機関、そしてプーチンにも大きな影響を与えているといいます。

 こうした動きとともに、ナチスドイツを撃退した「大祖国戦争」の記憶を称揚し、さらに敵対勢力に「ファシスト」のレッテルと貼るレトリックもさかんに使われるようになっています。
 こうしたレトリックはソ連時代にも使われていましたが、2014年のウクライナでのユーロマイダン革命でヤヌコービッチに反対した人々が「ファシスト」と呼ばれるなど、お得意のレトリックとなっています。

 第6章では、ロシア・ウクライナ戦争がとり上げられてます。
 親ロ派に区分されるヤヌコーヴィチですが、自らの再選のために2012年にEUとの連合協定へ動きます。これに対して、ロシアは情報工作や貿易の締め付けなどによってこれを阻止しようとしますが(2012年の調査ではウクライナ人の53%がプーチンを肯定的に評価していた(239p)、うまくいかずに最終的にプーチンがヤヌコーヴィチと秘密裏に会談を行ってこれを阻止します(汚職ネタなどでヤヌコーヴィチを強請ったと考えられる)。
  
 EU連合協定署名延期への抗議は最初は小さなものでしたが、政権側が抗議に参加していた学生やジャーナリストを暴行したことで抗議運動は拡大し、いわゆるユーロマイダン革命へと発展していきます。
 ロシアの工作は失敗したわけですが、ここからロシアはクリミア占拠へと動き、東部では「内戦」の形を取りながら正規軍を投入し、東部に紛争の火種を残すことに成功します(ちなみにこのときにウクライナ東部で工作に関わった自称「政治学者」がアレクサンドル・カザコフで、佐藤優が「無二の親友」と呼ぶ人物でもある(245−247p))。

 そして、2022年2月からはウクライナへの全面的な侵攻が始まります。現在のところ作戦はうまくいっていませんが、戦場の劣勢を情報工作によって挽回しようとする可能性は十分にあり、今後もロシアの工作には警戒が必要になります。

 このように本書はロシアの情報機関の歴史と手口をえぐり出したものになっています。ここでは割愛した興味深いエピソードもあり、読み応えは十分だと思います。
 一方、ロシアの驚くべき情報工作がこれでもかと並べられているので、少しでもロシア寄りの言動がすべてロシアのアクティブメジャーズに見えてしまうという副作用もあるかもしれません。
 ないものねだりにはなってしまいますが、今回のウクライナ侵攻における「失敗」などにも触れてあると、そうした副作用への解毒剤になったのではないかと思いました。

 

今井むつみ・秋田喜美『言語の本質』(中公新書) 9点

 もしも「日本の本質」というタイトルの新書があったら、「ずいぶん大げさなタイトルだな」とも思いますが、「言語の本質」というのもそれに匹敵する、あるいは上回るような大げさなタイトルだと思います。言語は人間のコミュニケーションだけではなく、認識にとっても鍵になるものだからです。

 ところが、本書はその大げさなタイトルに十分に応える内容になっています。
 本書はオノマトペと言語がいかに現実とつながっているかという「記号接地問題」を軸にして、まさに言語の本質に迫っていくのです。
 前半のオノマトペの役割や、世界のオノマトペとその共通点といった話題でも十分に1冊の新書として成り立つ面白さがありますが、さらにそこから子どもがいかにして言語を学ぶのかという問題、そして言語の本質へと肉薄していきます。
 言語哲学をかじった人にも面白い内容だと思いますし、AIに興味がある人にも、さらには子どもを育てたことのある人など、さまざまな人にとって興味深く、面白い内容になっていると思います。
 
 目次は以下の通り。
第1章 オノマトペとは何か
第2章 アイコン性―形式と意味の類似性
第3章 オノマトペは言語か
第4章 子どもの言語習得1―オノマトペ篇
第5章 言語の進化
第6章 子どもの言語習得2―アブダクション推論篇
第7章 ヒトと動物を分かつもの―推論と思考バイアス
終章 言語の本質

 まずは「記号接地問題」から説明しますが、これは身体的な経験がなくても言葉の意味がわかるのか? という問題です。
 例えば、生成AIに「メロンの味を教えて」と訊けば、「甘いです」と答えてくれるかもしれませんが、AIはメロンを味わったことはありません。それで「メロン」という言葉の意味を本当に理解していると言えるのか? という問題です。

 これに対して、オノマトペ、特に子どもが使うオノマトペは身体的な経験と密接に結びついています。猫ではなく「ニャーニャー」と呼び、おもちゃのくるまを「ゴロゴロ」と言いながら押すのは、まさに身体的な経験と直接に言語が結びついている例と言えるでしょう。

 オノマトペはもともとギリシア語起源のフランス語で、「名前、ことば」+「つくる」といった意味のものからつくられており、フランス語や英語では基本的に擬音語を指しますが、日本語では擬態語が多くなっています。

 オノマトペの定義としては、オランダの言語学者マークディンゲマンセによる「感覚イメージを写し取る、特徴的な形式を持ち、新たに作り出せる語」(6p)というものが有名です。
 まず、オノマトペは感覚イメージと結びついています。「ニャー」「パリーン」のように聴覚、「ザラザラ」のように触覚、「ウネウネ」のように視覚、あるいは「ドキドキ」のようにその他の身体感覚と結びつくものが多いです。一方、「正義」や「愛」などを表すオノマトペは日本語でも外国語でもめったにありません。

 この感覚イメージを写し取っているというのですが、外国人留学生が髪の毛が「サラサラ」と「ツルツル」の違いがわからないというように、この写し取り方は言語によって随分違います。例えば、韓国語の「オジルオジル」は「めまい」を表すそうですが、日本人にとってはわかりにくいでしょう。
 オノマトペにはアイコン性があるといいます。「☺」が、かなり抽象化されていても笑顔だとわかるように、「ピカピカ」は光が点滅している様子を想像させます。

 オノマトペのアイコン性ということでいうと、まずはオノマトペに特徴的な語形があります。
 オノマトペには「ドキドキ」「グングン」といった重複形が多いです。そして「ドキドキ」は心臓の鼓動が繰り返し打つさまを表しています。一方、「ドキッ」は驚きなどを表すので1回限りなわけです。
 また、日本語では清濁音の違いがその様子を表しています。「トントン」よりも「ドンドン」のほうが音が大きく、「サラサラ」よりも「ザラザラ」には荒くて不快な感じがあります。
 「ゴジラ」もそうですが、日本語の濁音には大きいイメージがあり、オノマトペにもそれが使われています。

 「パン」と「ピン」を比べると、「パン」のほうが大きい打撃音です。一般的に母音の「あ」と「い」を比べると「あ」のほうが大きいイメージがありますが、これは発音するときの口の形と結びついていると思われます。
 これは英語でもその傾向があり、「large」は大きいですし、「teeny」は細いです。
 世界的に見てもこうした音とイメージというものがあり、「マルマ」と「タケテ」という音を示して図形を選ばせると、「マルマ」のほうが丸っこい図形と結びつくといいます。

 単語の音や意味を左半球が処理することは知られていますが、「ずんずん」「ちょこちょこ」といった動作に関連するオノマトペの場合、右半球でも活動が認められたといいます。つまり、オノマトペは環境音としても処理されているのです。

 ただし、音の写し取っている場合でも、その写し取り方には言語による違いがあります。猫の鳴き声は日本語では「ニャー」、英語では「ミアウ」、韓国語は「ヤオン」となり、鼻音を含んでいるなど似ている点はあるものの、やはり違います。
 日本語には「ハ行」「バ行」「パ行」という特徴的な音韻体系があり、何かが落ちる様子を表す「ハラハラ」「バラバラ」「パラパラ」などセットになっていることも多いです。「フラリ」「ブラリ」「プラリ」も音韻が微妙なニュアンスの違いを出していると言えます。
 こうした音韻体系の違いが、オノマトペの言語による違いを生み出していると考えられます。

 第3章では「オノマトペは言語か?」という問題がとり上げられています。
 ここでは、コミュニケーション機能、意味性、超越性、継承性、習得可能性、生産性、経済性、離散性、恣意性、二重性という10個のキーワードから検討しています。
 
 例えば、咳払いは言語ではありませんが、うるさくしている人に注意を促す機能もあります。ですから、不完全ながらもコミュニケーション機能や意味性を持つかもしれません。また、継承性や習得可能性もあると言えます。
 しかし、言語にはその場にないものや過去や未来について話題にすることができる超越性があるのに対して、咳払いにはそれがありません。うるさい人に対して5分後に咳払いをしても何の機能も果たせません。

 一方、オノマトペは「夏になれば太陽がギラギラ照りつけるだろう」といった今ここに縛られない使い方が可能です。
 また、言語には次々と新しい文を生み出すことができます。この生産性は咳払いにはありません。咳払いによって言語のような無数のパターンを生み出すのは不可能です。一方、オノマトペについて言えば、例えば「モフモフ」などの新しいオノマトペが生み出されており、生産性があると言えます。

 言語では、1つの言葉にさまざまな意味を持つ場合があります。例えば、「さがる」は「危ないから下がってください」「物価が下がる」といった違う意味で使われますが、これを経済性といいます。
 オノマトペはどうかというと、例えば「カチカチ」は「カチカチと氷を叩く」といった硬いものを叩く音を写すだけでなく、「この氷はカチカチだ」、「受験生はカチカチに緊張している」というように硬くなっているさまを表します。オノマトペには経済性もあると言えるでしょう。

 次に離散性です。例えば、赤とオレンジは色として連続していますが、言語の世界では「赤」と「オレンジ」に分かれます。これが離散性です。
 オノマトペについては、例えば「ゴォー」という風の音について風の強さによって言い方を強くしたりすることがあり、その点ではオノマトペはアナログ的ですが、「コロコロ」と「ゴロゴロ」の使い分けを考えると離散性もあると言えます。

 恣意性はソシュールが指摘したことでも知られています。日本語で「イヌ」と呼ばれる動物は、英語では「dog」と呼ばれており、そこにつながりはありません。言語の形式と意味の関係に必然性はないのです。
 一方、犬の鳴き声は日本語で「ワンワン」、英語で「bowwow バウワウ」、中国語で「汪汪 ワンワン」といった具合に似ています。ここからオノマトペには恣意性がなく、「言語とは言えない」とも主張できます。ただし、「ワンワン」と「bowwow バウワウ」は同じ音ではありません。ここから一定の恣意性があると主張することも可能です。

 最後はパターンの二重性です。例えば、「ノライヌ」という言葉のn,o,r…といった発音には意味がありませんが、「ノラ」や「イヌ」には意味があります。
 オノマトペについては、「フワフワ」には軽い感じのh音、柔らかい感じを示すw音があり、この二重性には反する面があります。

 結論として、オノマトペは恣意性と二重性を除けば、言語の条件を満たしていると著者たちは考えています。
 
 第4章では、オノマトペが子どもの言語獲得に重要な役割を担っていることが示されます。
 赤ちゃん向けの絵本などを読んでいても気づくことですが、大人は小さい子どもに話しかけるときにオノマトペを多用しています。
 犬を「ワンワン」、車を「ブーブー」と呼んだりしますし、「捨てて」ではなく「ポイして」と言ったりすることもあるでしょう。
 子どもは0歳時に母語の音や韻律の特徴をつかんで音韻の体系を作り上げ、1歳から本格的な単語の学習が始まり、2歳ごろから文の理解が進むといいます。音を楽しむ0歳児、言葉と対象の結びつきを覚える1歳児、動詞の意味を推論しなければならない2歳児、いずれにとってもオノマトペは課題をクリアーするための助けになるのです。

 対象に名前があるというのは当たり前のようでいて当たり前ではないものです。ヘレン・ケラーは掌に冷たい水を受けているときにサリバン先生が”water”と指文字で綴り、初めてすべてのものに名前があるのだという洞察を得たといいます。
 私たちは赤ちゃんのときにこの洞察を得ているためにその記憶はありませんが、これは非常に大きな一歩なのです。

 ただし、ここで難しいのがクワインが「ガヴァガーイ問題」として提起した問題です。これはまったく知らない言語を話す原住民が飛び跳ねていく白いウサギを指さして「ガヴァガーイ」と言ったときに、「ガヴァガーイ」を「ウサギ」という意味でとっていいのか? というものです。
 「ガヴァガーイ」は「野原を飛び跳ねるもの」かもしれませんし、「白いもの」かもしれません。1つの指示対象から一般化できる可能性はほぼ無限になるのです。

 ここで子どもがこの問題を乗り越えるための手助けになるのがオノマトペです。
 ウサギのきぐるみがのっそり歩いている様子に「ネケっている」という動詞を与え、3歳位の子どもに教えます。そして、ウサギが小刻みに歩いている様子とクマがのっそり歩いている様子を見せて「どちらがネケっているか?」と訊くと、子どもはうまく答えられないそうです。 
 ところが、「ノスノスする」というオノマトペで教えてると、クマがのっそり歩いている方を迷いなく選べるといいます。「ノスノス」という語感が動作への注目を促すのです。
 
 また、オノマトペは言い方の強弱やリズムなどによって感情や感覚的なものを込めやすく、子どもを言語の世界に引き付けます。
 オノマトペは母語の音や音の並び方の特徴などを掴むのにも役立ち、著者たちはオノマトペには「言語の大局観を与える」(120p)役割があるといいます。

 では、言語はオノマトペだけではないのでしょう? そして、子どもがオノマトペ中心の表現から徐々に離れていくのはなぜなのでしょう?
 ここで出てくるのが冒頭でも紹介した記号接地問題です。記号の意味を記号によってのみ説明するのは不可能だという問題です。

 この記号接地問題は、子どもが母語を学ぶ上でも起こります。例えば、「愛」という言葉が指し示す概念には物理的な実体はありません。
 ただし、子どもは自分に向けられた「愛」について、「愛」という語を知らなくても理解できると思われます。「愛」という言葉はうまく説明できなくても、その状態は空中楼閣のようなものではなく、何らかの形で経験とつながっていると言えるでしょう。

 一方、AIにはそういった経験が基本的にはないです。また、さまざまなセンサーをつけて経験をインプットしても感情の問題が残ります。
 これに対してオノマトペには「ワクワク」「イライラ」のように感情を表すものも多いです。

 このようにオノマトペは身体的感覚とつながっているのですが、実は一般語にもその傾向はあります。
 「スーダンのカッチャ語の「イティッリ」と「アダグボ」、「多い」はどっち?」、「ソロモン諸島のサヴォサヴォ語の「ボボラガ」と「セレ」、「黒い」はどっち?」と訊かれれば、なんとなく「アダグボ」が「多く」、「ボボラガ」が「黒く」感じるのではないでしょうか?(本書の131−133pにかけてこうした例が10個載っており、7〜8割は正解できるのではないかと思われる)。
 
 さらに日本語にはオノマトペ由来の一般語も数多くあります。「ふく」「すう」は「フー」「スー」という擬音語からつくられた言葉だといいますし、「カラス」「鶯」「ホトトギス」は鳴き声を写す擬音語の「カラ」「ウグヒ」「ホトトギ」に鳥であることを示す接辞「ス」がついたものだといいます。

 では、言語はなぜオノマトペから離れてしまったのでしょうか? これについて教えてくれるのがニカラグア手話です。
 ニカラグアには日本手話のような汎用的な手話がなく、ろうの子どもを教育するシステムもなく、家庭内で「ホームサイン」で家族とコミュニケーションを取っている状況でした。
 ところが、1970年代以降になると教育が始まり、耳が聞こえない子どもたちが学校へと集められます。そこで生まれたのはニカラグア手話です。まずは第1世代の子どもたちのい間で自然発生的に生まれ、それが新しく入った子どもに教えられていきました。

 このときに起こった変化を一言でいうと「アナログからデジタル」への変化だといいます。
 現象をそのまま写し取るではなく、記号の組み合わせによって意味を表すようになっていったのです。例えば、「転がり落ちる」は、第1世代では転がりながら落ちていくようすをそのまま再現していましたが、第2世代では「転がる」+「落ちる」で表現されるようになっています(142p図5−2参照)。
 表彰したいものを細かく分割し、それを組み合わせることで効率的な表現が可能になります。一方で言語は実際の事象から離れていくのです。

 オノマトペ中心の言語だと情報処理という面で問題があります。コガモ、カルガモ、マガモ、カイツブリといった水鳥の名前がみんなオノマトペ由来であれば、似たような名前がひしめいてしまうに違いありません。
 さらに、オノマトペは抽象的な概念を表すのが苦手であり、ここにも限界があります。

 第5章の後半では日本語にオノマトペが多く、英語に少ない理由についても分析されていて面白いのですが、ここでは割愛し、最後に出てくる言語におけるアイコン性と恣意性のバランスの話だけを紹介します。
 英語のlaugh(笑う)はもともとは「フラッハン」という音形を持っていたそうです。これは笑い声を連想させますが、laughになるとアイコン性は消えています。しかし、その代わりにchuckle(クックと笑う)やgiggle(クスクス笑う)といったアイコン性の高い言葉が生まれました。つまり言語全体で一定のアイコン性が保たれているのです。

 第6章では再び子どもの言語習得の話に戻ります。
 子どもはさまざまな単語を覚えていきますが、それを適切に使うというのは難しいことです。例えば、日本語の「持つ」という言葉には非常に多くの動作が含まれており、中国語では5つの言葉で表現を使い分けるところを「持つ」という言葉でまとめています(180p図6−1参照)。
 本書には、子どもの足元に転がっていったボールにを「ポイして」と言った所、子どもがゴミ箱に捨ててしまったという話が紹介されています。親は「ポイして」を「投げて」という意味で使ったのですが、子どもは「捨てる」という意味にとっていたのです。このあたりはオノマトペの限界と言えます。

 著者たちが子どもが言語を習得する過程として考えるのが「ブーストラッピング・サイクル」というものです。
 これは最初に経験に接地した知識から推論によって必ずしも実際に経験したことのない知識も獲得していくというもので、これによって子どもは語彙を獲得するとともに「学習の仕方」も洗練させていくのです。

 子どもは暗記だけではなく推論によって言葉と知識を増やしていきます。
 推論には演繹推論と帰納推論、そしてパースの提唱したアブダクション(仮説形成)推論があります。
 このうちアブダクション推論には馴染みがないかもしれませんが、これは①「この袋の豆はすべて白い」(規則)、②「これらの豆は白い」(結果)、③「それゆえに、これらの豆はこの袋から取り出した豆である」(結果の由来を導出)というものです。
 
 演繹推論、帰納推論、アブダクション推論のうち、常に正しい結論が得られるのは演繹推論のみです。帰納に関してはいわゆるブラックスワンが出現するかもしれませんし、アブダクション推論においても仮説は棄却されるかもしれません。
 それでも、このアブダクション推論が言語の習得にとって重要だといいます。子どもの知識が知識を生み、洞察を生むブーストラッピング・サイクルは、帰納推論とアブダクション推論が混ざったものなのです。
 例えば、ヘレン・ケラーの洞察も水の感触とwaterというより水がwaterであるとともに、「すべてのものには名前がある」という洞察を得ました。

 子どもはさまざまな間違いをしながら言語を習得できます。本書では、「ピッチャー」「キャッチャー」という言葉を知った子どもがバッターを「バッチャー」と言った例などが紹介されていますが、これは間違いではあるものの子どもが推論しながら言葉を使っていることを示しています。
 
 本書の第7章では、このアブダクション推論をキーにして人間と動物の違いに迫っています。
 京大で訓練されていたチンパンジーのアイは、黄色の積み木なら△、黒の積み木なら◯を選ぶことができます。ところが、△を見せたら黄色い積み木を選んでくるということができません。
 人間の子どもが見られる双方向性がチンパンジーにはないのです。

 ただし、「XならばA」と「AならばX」は同じではありません。「ペンギンならば鳥」であっても「鳥ならばペンギン」とは言えません。
 「外を見たら道路が濡れていた。雨が降ったに違いない」というのは推論としては間違っています。「後件肯定の誤謬」と言われるもので、道路が濡れた原因としては雨以外も考えられます。
 ところが、こうした推論が人類の知識を増やして生きたとも言えます。とりあえず仮説を立ててみて行動することが人間の特徴なのです。
 一方、ベルベットモンキーは蛇の通った跡から蛇の存在を予測できないといいます。動物はアブダクション推論ができないのです。
 
 このことから「対称性推論をごく自然にするバイアスがヒトにはあるが、動物にはそれがなく、このことが、生物的な種として言語を持つか持たないかを決定づけている」(234p)という仮説を著者たちは提示しています。
 そして、著者たちの実験によれば、ヒトは赤ちゃんの頃から対称性推論を行っていると思われる証拠があるのです(ただし、チンパンジーの中にもたまに対称性推論を行っていると思われる個体はあるとのこと)。
 過剰な一般化は人間の思考の問題点だと指摘されることが多いですが、これこそが人間と動物を分かつものかもしれないのです。

 このように本書はオノマトペをめぐる面白い話から、ついには人間と動物の違いにまで到達します。まさに「言語の本質」に迫った本と言えるでしょう。
 相当長いまとめになってしまいましたが、紹介しきれなかった面白いエピソードもまだまだたくさんあります。多くの人の知的な刺激を与える本と言えるでしょう。


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通勤途中に新書を読んでいる社会科の教員です。
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