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田中拓道『リベラルとは何か』(中公新書) 6点

 政治の世界でよく使われる「リベラル」という言葉ですが、では一体何を指すのかと言うと、意外と難しいのものがあります。「リベラル」の辞書的な意味は「自由な」、「自由主義の」、あるいは「寛大な」といったものになりますが、日本ではいわゆる左派が「リベラル」を名乗ることも多い一方で、自由民主党の英語名は「Liberal Democratic Party」です。
 こうした「リベラル」という言葉をめぐる混乱を歴史的経緯を踏まえて整理しつつ、リベラルという思想の可能性や、あるべきリベラルの政策を探った本になります。
 本書の特徴は、百花繚乱という形の「リベラル」という言葉の使われ方を一定の範囲で限定しながら論じている点で、それが例えば吉田徹『アフター・リベラル』(講談社現代新書)に比べたときに、わかりやすさを生んでいます。
 ただし、個人的にはそのわかりやすい整理の中で切り落とされたものもあるのではないかと感じました。

 目次は以下の通り。
第1章 自由放任主義からリベラルへ
第2章 新自由主義vs.文化的リベラル
第3章 グローバル化とワークフェア競争国家
第4章 現代リベラルの可能性
第5章 排外主義ポピュリズムの挑戦
第6章 日本のリベラル―日本のリベラルをどうとらえるか
終章 リベラルのゆくえ

 まず、本書の特徴は冒頭で「現代のリベラルとは「価値の多元性を前提として、すべての個人が自分の生き方を自由に選択でき、人生の目標を自由に追求できる機会を保障するために、国家が一定の再分配を行うべきだと考える政治思想と立場」(i p)と明確な定義を与えている点です。
 これによって古典的な自由主義の系譜や、バーリンの「消極的自由」を擁護する立場などを対象から外しています。
 また、ヨーロッパの「リベラル」は「小さな政府」を求め、アメリカの「リベラル」は「大きな政府」を求めるという対比がありますが、本書ではこの対比がここまで強く考えられているのは日本くらいなもので、他の国々では、古典的自由主義と現代リベラリズムの対比こそが中心であり、ヨーロッパの「リベラル」も現代においては現代リベラリズムだという見方が採用されています。

 第1章では古典的自由主義の流れが簡単に整理されていますが、本書ではロックの思想をその出発点に置き、その特徴を個人の自然権と法の支配による国家権力の制約にもとめています。
 産業革命の進展とともに自由主義はブルジョワジーの経済的利益を代弁する思想になっていき、19世紀には「自由主義の黄金時代」を迎えました。
 しかし、労働者階級の長時間労働や貧困が問題になるにつれ、都市部の専門職やジャーナリストなどの自由業を中心にこうした問題の解決を求める声が強まります。彼らは「社会主義と異なり市場経済を肯定する一方で、「自由」をたんなる私的利益の追求と結びつけるのではなく、個人の尊厳や道徳的発展と結びつけた」(15p)のです。
 本書では、こうした動きを示すものとしてイギリスの「ニュー・リベラリズム」、フランスの「連帯主義」、アメリカの「革新主義」などがあげられています。

 世界恐慌が起こると、古典的な自由主義は社会主義とファシズムに挟撃され力を失いますが、新しいリベラルな思想も生まれてくることになります。ケインズは経済的な自由主義を修正して国家が経済に介入する道を開き(ただし、ケインズには個人の人格的発展や分配論について関心は薄い(27p)、ベヴァリッジは「ナショナル・ミニマム」を保障する社会保障制度を提案しました。
 そして、第2次大戦後には、労働者は経営者の協力して生産性を向上させ、経営者は労働者の雇用を保障して生産性の伸びに合わせて賃金を引き上げ、さらに国家が経済成長の果実を公共投資と社会保障へと回し個人の「自由な生活」を保障するという合意、「リベラル・コンセンサス」が出来上がります。

 しかし、このリベラル・コンセンサスは1970年代に行き詰まります。第2章では、この行き詰まりと、その後に出てきた新自由主義と文化的リベラルがとり上げられています。
 1973、79年の2度の石油危機は先進諸国の経済成長のペースを大きく低下させます。さらにグローバル化の進展はケインズ的福祉国家の維持を難しくさせました。産業構造も第2次産業から第3次産業へのシフトが起こり、人びとの価値観も多様化しました。
 そんな中で登場したのが新自由主義です。新自由主義と言うと市場万能主義のようにも思われていますが、その思想的バックボーンとなったハイエクやフリードマンは福祉国家が個人の生き方に介入することを批判しました。新自由主義のリベラル批判の中核には「価値の多元性」があります。
 新自由主義の考えを反映した政策を行ったのが、イギリスのサッチャー政権でありアメリカのレーガン政権でした。ただし、新自由主義は当初期待されたようなトリクルダウンを生み出さず、格差の拡大に対しては新自由主義政権は保守的な道徳を押し出すようになります。

 一方、70年代には文化的リベラルとも言われる動きも起こってきます。イングルハートは1970年に20歳前後になった世代から、「物質主義的価値観」を持つ人よりも「脱物質的価値観」を持つ人が増えてきたと指摘し、これを「静かな革命」と呼びました。経済的安定や治安などリベラル・コンセンサスが約束した価値に代わって、政治や職場での決定への参加、環境、人権の尊重などをより抽象的な価値や自己決定を重視する人が増えたのです。
 こうした考えの転換を背景に、環境運動、反戦運動、人種的マイノリティの権利運動、フェミニズム運動などがさかんになります。
 また、新自由主義が価値の多元性を表明しつつも政策面では経済的な価値に集約されるような政策をとったのに対して、文化的リベラルはあくまでも価値の多元性を主張しました。

 こうした結果、キッチェルトによると、今までの「市場中心か国家中心か」という右と左の政治の対立軸は、それに社会秩序や文化に関して個人の自由と平等を最大限に尊重する「リベラル」と社会の秩序が階層と権威によって成り立つと考える「保守」という対立軸を加えたものになります。
 そして、現代の政治の対立軸は、経済的には国家中心で文化的には「リベラル」の「左派リベラル」と、経済的には市場中心で文化的には「保守」の「右派保守主義」が中心になります。
 ただし、文化的リベラルはキッチェルトが想定したほどには大きな政治勢力にはなりませんでした。この理由として、当初、支持層として想定されていたサービス業の従事者や中産階級が、グローバル化の中でその地位が不安定になり、文化的リベラルの運動が「一握りの恵まれた社会層による高踏的な理想論だというイメージ」(67p)を持たれてしまったことなどが考えられます。

 一般的に新自由主義の隆盛によって「小さな政府」がもたらされたと考えられがちですが、実態は違います。このあたりを論じているのが第3章です。
 確かにOECD諸国の平均法人税率は2000年の30.4%から2018年の22.3%へと下がりましたが、平均総税収(GDP比)は2000年の33.8%から2018年の34.3%へ微増しています(71‐72p)。公的社会支出(GDP比)に関しても1990年と2015年の比較で、日・米・英・仏・スウェーデンの中で減少しているのはスウェーデンだけです(72p図表3−1参照)。
 もちろん、高齢化という要因もあるのですが、格差の拡大や不安定な雇用の増大で、政府支出拡大の要求は高まっているのです。

 労働市場はギグ・エコノミーの登場などでますます流動化しつつありますが、そうした中で「インサイダーとアウトサイダーの二分化」が進行しています。安定した雇用で社会保険によって守られた正規労働者と、断片的で不安定な雇用で社会保険からも弾かれがちな非正規労働者に大きく分かれてしまっているのです。さらに、家族構成も変化し、共働き世帯、一人親世帯、単身世帯が増え、以前のような「男性稼ぎ主モデル」にあてはまらない家族が増えています。
 こうした中で、以前のような定型的なリスクに対応する社会保険だけでは人びとの生活を守りきれなくなっています。

 そこで、アメリカの民主党やイギリスの労働党などの中道左派政権は、新自由主義を修正し、「ワークフェア競争国家」とも言われるスタイルを模索します。
 これは、市場の活力を重視しつつ、同時に国家が教育や福祉を通じて人びとに働きかけ労働参加を促すスタイルになります。70年代以降、貧困層への手厚い福祉が問題視され、それが中産階級の左派離れを引き起こしていましたが、福祉(ウェルフェア)を就労(ワーク)へ方向づけることで、新しい福祉の形を目指したのです。
 こうした政策では表向きでは多元性が尊重されましたが、実際は経済的繁栄を価値の中心に置くもので、社会秩序の次元でも保守的であったと著者は診断しています。

 本書ではこのように、「ワークフェア競争国家」はリベラルが対抗すべきものと想定されているわけですが、では、リベラルの取るべき道を考えたのが第4章です。
 本章の前半ではロールズの『正義論』、センのケイパビリティ、エリザベス・アンダーソンの運の平等論に対する批判(ロールズは才能や境遇の違いは運・不運によるものであり、これらは是正されるべきだと考えたが、アンダーソンはそれに加えて個人の選択が引き起こす格差問題にも対処する必要があると考えた)が紹介されています。

 リベラルに担い手となるべき左派政党はジレンマに直面しています。正規労働に従事するインサイダーは雇用の保護や社会保障の維持を求めますが、不安定な職業に従事するアウトサイダーは就労支援や再分配の拡大を望みます。インサイダーの考えを重視すればアウトサイダーは棄権か極右か極左のポピュリズムに流れるかもしれませんし、アウトサイダーを重視すればインサイダーは右派政党に流れるでしょう。
 さらに経済的な対立よりも文化的な対立が良い先鋭化している問題もあります。グローバル化とともにコスモポリタン的な価値観を持つ人々と、安定した生活が失われたと感じ伝統的な共同体を守ろうとする人々に分裂しつつあるのです。
 
 EUが2000年に採択したリスボン戦略では、「人への投資」が打ち出され、これらは「社会的投資」として発展していきます。事後の再分配よりも教育などの事前の投資を重視する政策です。
 ただし、これには経済的価値のみを重視しているとの批判の他、こういった福祉は富める者をますます富ませ貧しい人をより貧しくする「マタイ効果」があるとの批判もあります。例えば、共働きの支援策によってパワーカップルの所得が高まりますし、高等教育の強化も基本的には高所得層に利益をもたらす政策です。
 こうした中では、インサイダーとアウトサイダーの双方の合意が得られるような改革が必要になります。オランダの労働市場改革のようにうまくいったケースもありますが、アウトサイダーがどのような選好を持っているのかを捉えきれていない(例えば、雇用の保護と流動化のどちらを求めているのか?)のが現状で、ここにポピュリズムが台頭する余地があります。

 第5章では、そのポピュリズムに関して、外国人の排斥を訴える排外主義ポピュリズムに焦点を合わせながら分析しています。
 本書では、「既成政党を腐敗したエリートの代弁者として批判し、これまで無視されてきた人民の意思を直接的に代表する自称する運動を指す」(130p)というカス・ミュデらのポピュリズムの定義を採用し、今日の特徴として排外主義と結びつくことを指摘しています。

 以前の右派ポピュリズム政党は、経済的には市場中心、文化的には保守と、新自由主義なとと同じポジションをとっていましたが、グローバル化の進展によって経済的に不安定な層が増えると、右派ポピュリズム政党はその立ち位置を経済的には国家中心(つまり「大きな政府」)にシフトさせていきます。自国の福祉を守るために排外主義を取るというスタンスです。
 一方、多文化主義に対しては福祉のために必要な連帯意識を薄めるものだという批判が出てきます(アメリカの福祉国家の規模がヨーロッパよりも小さいのは民族的多様性のせいだという説もある(140p))。
 ただし、こうした分断を生まれるのは福祉が制度が選別的だからであり、普遍的な制度(誰でも受給対象になる)であればそうはならないという考えもあります。

 第6章では日本の「リベラル」について分析しています。
 日本において、「リベラル」という用語は「護憲・平和主義」を表すものとして使われることがあり、欧米とは異なる意味で使われることがあります。
 もともと日本は自由主義の伝統が弱く、リベラル・コンセンサスに関しても本書では「なかった」(生産性の向上はあったが経営者主導であった)と見ています、福祉に関しても経済成長の原動力として位置づけられており、公的社会支出は他国に比べて一貫して低いままでした(162p図表6−2参照)。
 80年代になると、人びとの生活は安定してきますが、それは企業による手厚い保障がもたらしたもので、職種やジェンダー関係なしに保証がなされたわけではありません。
 そして、バブル崩壊後の長い景気低迷の中で、非正規雇用が増え、「男性稼ぎ主型」家族は少数派になりつつあります。一方で、福祉のほうはそうした変化に追いついていないのが現状です。

 日本の政治において「リベラル」という用語が多く用いられた時期は、1994〜96年頃と、2017年前後です。
 まず90年代半ばに増えたのは、政界再編の中で、社会党系の議員が「革新」に代わって「リベラル」という言葉を使ったこと、自民・新進の保守二大政党に対抗する第三極を目指す勢力が「リベラル」を自称したからです。そして後者の流れは民主党政権へとつながっていくことになるのですが、民主党の政策パッケージは体系性を欠いたものであり、また、確固たる支持基盤をつくれないままに終わります。
 2017年に立憲民主党が結成されると、再び「リベラル」という言葉が多く用いられるようになりますが、立憲民主党の主張する「リベラル」は「法による国家権力の制約」という古典的自由主義の考えに力点が置かれたものでした。
 その一方、第2次安倍政権において、首相自ら「私がやっていることは(国際標準では)かなりリベラルだ」(185p)と発言することもありましたが、雇用や福祉への公的支出水準の低さなどから、著者は第2次安倍政権はリベラルではなく、ワークフェア競争国家に近いものだとみています。

 このように切れ味鋭く現代のリベラルについて解説した本で、わかりやすい見取り図のリベラルの課題を教えてくてます。
 ただ、最後に2点ほど疑問に思ったことを指摘しておきます。まず、1つは社会民主主義の位置づけです。現代の「リベラル」を古典的自由主義からの変質として描いているわけですが、では、欧州において大きな力をもった社会民主主義はどう位置づけられるのかということが気になります。
 もう1つは次の図式です(191pより)。
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 このまとめでも書きましたが著者はイギリスのブレア政権やアメリカのクリントン政権によって推進されたワークフェア競争国家を図の右下に位置づけます。ただ、この右下にはワークフェア競争国家だけではなく、いわゆる新自由主義も入るでしょう。そうなると「イギリスの保守・労働両党、アメリカの共和・民主両党の対立軸はどこにあるのか?」という問題が出てきます。同じ象限にいるのであればあれだけ激しく対立するのはなぜなのでしょうか?
 これを二大政党の政策は限りなく接近すると考えるホテリングの定理で説明することも可能でしょうが、個人的には何かを間違えているのではないかと感じます。 
 確かに本書はわかりやすいのですが、「リベラル」を理想化することで、かえって「リベラル」の範囲を狭めてしまっているところがあるようにも思えるのです(ブレア政権やクリントン政権が右下ならば、左上や右上には何が入れられるんだ?ということ)。


菊池秀明『太平天国』(岩波新書) 8点

 帯には「人類史上最悪の内戦」との言葉が載っていますが、太平天国の乱による死者は江蘇省だけで2000万人を超えるとも言われ、まさに世界大戦に匹敵するような犠牲者が出ています。また、乱が14年近く続いたのも1つの特徴で、同じく清末の反乱として知られている義和団の乱に比べると、その持続性は段違いです(義和団の乱は1年ちょっと)。
 本書はそんな太平天国の乱の始まりから終わりまでをたどるとともに、そこに中国の歴史に繰り返し現れ、現代にも通じている1つのパターンを見出そうとしています。副題は「皇帝なき中国の挫折」となっていますが、単純に太平天国の興亡のドラマを見せるだけではなく、中国の近代や、中国の政治や社会そのものを考えさせるような内容です。

 目次は以下の通り。
一 神は上帝ただ一つ
二 約束の地に向かって
三 「地上の天国」の実像
四 曽国藩と湘軍の登場
五 天京事変への道
六 「救世主の王国」の滅亡
結 論

 太平天国の中心人物となった洪秀全は、広州の郊外の花県で1814年に生まれています。洪秀全は客家と呼ばれる後発の移民の生まれで、秀才だった洪秀全は幼い頃から科挙合格の期待をかけられたものの、勉強を進める上での人脈などはなく、上手くはいきませんでした。
 1837年、科挙に不合格になった後に洪秀全は熱病に倒れ、そこで金髪に黒服姿の老人からこの世を救えと命じられる夢を見たといいます。1843年、プロテスタントの伝道のパンフレットを読んだ洪秀全は、ここに書かれた偶像崇拝禁止の教えに感銘を受けるとともに、夢で見た老人こそキリスト教の神のヤハウェであるに違いないと思い、「上帝」と呼ばれていたヤハウェを信仰するキリスト教こそが、太古の中国で信じられていた宗教だと確信し、布教を始めます。
 この舶来の新しいキリスト教を中国の伝統と結びつけたことが太平天国の1つの特徴と言えるでしょう。

 しかし、アヘン戦争の記憶も新しい中で西洋の思想を布教することは困難で、洪秀全は広西省に赴きます。この中で、洪秀全は教義をまとめていきますが、堯・舜・禹も上帝を信仰していた、天国の約束された領土は中国だと考えるなど、一般的なキリスト教理解とは違ったものでした。 
 初期からの信者であった馮雲山は広西省で2000人近い信者を獲得し、この団体は上帝会と呼ばれるようになります。信者は主に山間部に入植した貧しい客家で、彼らに現世利益を約束したことで上帝会は勢力を拡大させました。
 「皇上帝はこの世のすべての人にとって共通の父である」(18p)との教義に示されるように、上帝会は大家族思想をとっており、宗族を形成できなかった貧しい人々に宗族に代わる相互扶助組織を提供するような面があったのです。

 その後、洪秀全らは偶像破壊運動を起こし、各地の廟を破壊するなどして地元社会との摩擦を引き起こしました。
 そんな中、楊秀清と蕭朝貴という2人の会員にヤハウェとイエス・キリストが降臨し、お告げを発し始まるという出来事が起こります。広西ではシャーマニズムの伝統があり、その流れを継ぐものでしたが、洪秀全が楊秀清と簫朝貴のお告げを本物だと認めたことで、上帝会はシャーマニズムの要素も取り入れながら拡大していくことになります。楊秀清は、洪秀全をヤハウェの次子、イエスの弟として権威を強調し、来たるべき新王朝の君主であると主張し始めました。こうして上帝会は易姓革命の要素も取り込みます。

 こうした中、1850年に広西省の貴県で客家とチワン族や早期に移民していた漢族との争いが起こると、行き場を失った客家の人々は上帝会を頼り、石達開に率いられて戦うようになります。50年の12月には蜂起を決意し、弁髪を切って清朝への抵抗の姿勢を明らかにしました。

 1851年の前半には太平天国という国号も決まり、新王朝創設の意思を示します。清朝の軍事力の中心は満州人や蒙古人からなる八旗と漢人中心の緑営でしたが、この時期には弱体化が進んでおり、太平軍を鎮圧することはできませんでした。
 51年12月、洪秀全は詔により、楊秀清を軍師かつ東王に、蕭朝貴を西王に、馮雲山を南王に、韋昌輝を北王に、石達開を翼王に任命します。こうして上帝=ヤハウェのもと、地上の支配者が皇帝を名乗ることを許されないとの教えにもとづき、洪秀全以下6人の王が存在する体制が生まれます。洪秀全と他の王は兄弟であり、両者の間には絶対的な身分の差はありませんでした。
 一方、信者に対しては戦闘で功績のあったものには官職を与えると宣言しました。このあたりは日本の一揆などとは違うところで、「昇官発財(官となって財産を築く)」という官界への上昇志向を刻み込んだものとなっています。

 清軍の反撃を受けた太平軍は永安州を脱出し、途中で馮雲山を失うなどの大きな損害を受けますが、広西から湖南に進出します。太平軍がダメージを受けながらも戦闘が継続できた背景には、この地域に貧しい人々が多かった背景もあり、また、銀納を原則とする土地税が銀の海外流出に伴う銀貨の高騰によって重くなっていたということもあります。税負担に耐えかねた人びとが太平軍に合流していったのです。
 1852年9月、太平軍は湖南の省都長沙を包囲しますが、蕭朝貴を失うなど攻撃は失敗します。そこで、太平軍は11月末には船を手に入れて岳州を陥落させ、さらに長江を東進して南京を目指すことを決めます。
 太平軍は略奪や徴発を厳しく禁止したこともあり、一般の人々の支持を受けます。また、「滅満興漢」の主張も掲げるようになり、清を「夷」と捉える華夷観念に訴える形で、人びとの支持を集めようとしました。太平天国は「中国」や」「中国の人」という言葉をよく使っており、中国のナショナリズムに訴えるような面もあったのです。

 1853年1月に太平軍は武昌(現在の武漢の一部)を占領します。武昌は太平軍が占領した初めての省都クラスの都市で、太平軍は大きな富を得ました。同時に辺境出身の彼らと都市住民の間には埋めがたい意識の差があったといいます。
 53年2月には太平軍は十数万の兵力で水陸に分かれて南京を目指します。太平軍は農村で略奪をしないだけではなく、都市の富を農村に分け与え、租税の3年間免除などを掲げて、人びとを引きつけました。
 3月にはついに南京を占領し、同時に旗人に対する虐殺が行われました。また、カトリックの教会にあったイエス・キリスト像も偶像として破壊するなど、過激な面も見せました。

 洪秀全の入城後、南京は天京と改称され、洪秀全の宮殿や、楊秀清、韋昌輝、石達開らの宮殿が作られました。南京の住民は男女に分けて「館」に収容されました。家族は引き離され男性、女性がそれぞれ25人1組の組織にまとめられました。纏足が禁止され、女性の集住区の「女営」は男性が立ち入ることが禁止され、父娘や夫婦であっても館の外から顔を見るか声を交わすことしかできませんでした。さらに建築や武器製造などの職人集団が設けられました。
 1853年末に南京を訪れたカトリック神父は「南京は都市というよりも一つの兵営だった」(83p)と述べています。食糧は南京に貯蔵されていたものや住民から没収した銀などで買い付けたものが配給され、一種の公有制の経済が目指されていました。
 また55年には男女に結婚と夫婦同居を認める決定がなされますが、功績をあげた老兄弟(古くから太平天国に参加している者)に若い女性を娶らせ、集団結婚式が行われたといいます(95p)。
 
 しかし、太平天国は南京を攻略したものの、周辺地域を面として占領したわけではないために、徐々に食糧不足に苦しむことになります。配給は減らされ、都市住民が周辺の稲刈りなどに動員されましたが、それに乗じて逃げた者も多かったといいます。
 そうした中で人びとは諸王の庇護を求めるようになります。諸王は長江上流へ出陣し食糧を確保し、それを頼って多くのひとが諸王のもとに集まりました。諸王はそれぞれが宗族的な集団を形成したのです。

 1853年5月、太平天国は北京攻略のために約2万の精鋭部隊を送ります。天津についたら援軍を送るとの話もあったようですが、洪秀全らは南京攻略後、南京からは動きませんでした。
 北伐軍に対して援軍も送られましたが、その援軍は途中で糾合した反体制集団を統率できず、本隊は食糧不足などに苦しみ、結局、この北京遠征は失敗します。

 太平天国は北だけでなく西にも兵を送りました。1853年6月には1000隻あまりの船に分乗した数千人の部隊が長江上流へと向かっていあす。この西征軍の目的は食糧の調達であり、ここでも面としての支配地域の拡大は目指されていませんでした。
 ただし、安徽の省都である安慶を占領した石達開はそこを拠点にして一帯の支配を目指します。地方官を配置し、土地税を取るようになったのです。税負担は清朝のものよりも軽く、太平天国の支配は清朝よりもましなものでした。
 一方、安徽や湖北で科挙が行われたものの、孔子廟を破壊したり儒教の経典を焼き捨てたりする太平天国に対する読書人の反発は強く、彼らの心を掴むことはできませんでした。

 そんな中で登場したのが曾国藩です。曽国藩は1811年に湖南で生まれた人物で、比較的貧しい家の出ながらも科挙に合格し、内閣学士に抜擢されるなど、順調に出世をした人物でした。曽国藩は咸豊帝に諫言をして激怒されますが、どうにか許され、1853年に母の死によって故郷に帰っていたところ、団練大臣に任命されます。
 当初は治安維持の役割などを担っていましたが、農民たちを集めて訓練し、太平軍と戦うことを決意します。曽国藩は火力と水軍を重視して軍(湘軍)を編成すると、54年の2月に1万数千人からなる軍を率いて出撃します。
 曽国藩は「官僚となり財産を築いてハハハと笑おう」(141p)といったスローガンで士気を鼓舞し(ここは太平軍と同じ)、はじめは苦戦しながらも、徐々に太平軍相手に勝利を重ねていきます。清の地方官の非協力的な態度などに悩まされながらも、ついに西征軍を撤退させるのです。

 しかし、この西征軍の撤退の主因は太平天国側の内部分裂でした。天京事変が勃発したのです。
 この顛末は第5章に書かれていますが、第5章の前半では太平天国と外国との関係についても書かれています。キリスト教を母体とする太平天国は欧米にとって歓迎する要素を持つ存在でしたが、その外交スタイルは以前の中華思想丸出しのもので、外国からの使節を失望させました。多妻制や三位一体説の否定も西洋人は受け入れがたいものであり、欧米列強との交渉では清朝側に遅れをとることになります。

 この太平天国のキリスト教からみて異教的な要素にシャーマニズムがありますが、このシャーマニズムが天京事変の引き金になります。
 東王・楊秀清は天父下凡と呼ばれるシャーマニズムを行う人物でもあり(ヤハウェが楊秀清のもとに降臨する)、南京攻略後もお告げがたびたび下されました。ここで問題となるのは、普段の序列では洪秀全が兄、楊秀清が弟であるものの、天父下凡のときはヤハウェが憑依した楊秀清が父となり、子の洪秀全を指導するという点です。
 この地位を利用して、楊秀清はNo.2の地位を確立し、ときに他の王を天父下凡を利用して笞刑に処すなど周囲に対しても高圧的に出ます。ただし、著者はこれを楊秀清の驕りというよりは軍事上の権力を掌握しながら、結果を出せなかった楊秀清の焦りと、その不安からさらなる専制を求めたものと解釈しています(これは袁世凱や毛沢東にも見られた中国の権力者のよくあるパターンとのこと(179p))。

 1856年8月、楊秀清は天父下凡を行い、洪秀全に対し、洪秀全にしか認められていなかった「万歳」の称号を楊秀清にも認めるように迫ります。このとき、洪秀全はそれを受け入れましたが、楊秀清に自らと同等の地位を与えるというお告げを受け入れるわけにはいかず、南京の外にいた韋昌輝と秦日綱に密かに楊秀清を殺すように命令を出し、楊秀清を殺害させ、東王府の兵や関係者は皆殺しにされました。
 帰還した石達開はこの楊秀清だけではなく関係者を皆殺しにした行いを責めますが、同時に見の危険も感じて南京を脱出します。この後、石達開は韋昌輝を殺すことを洪秀全に要求し、洪秀全はこれを受け入れ、韋昌輝を殺し、秦日綱も殺されます。
 石達開は楊秀清に代わって政務を担当することになりますが、洪秀全の兄などから圧力にいたたまれなくなり、軍を率いて、江西から浙江、福建へと移動し、最終的に広西の地に戻りますが、最終的には捉えられて殺されました。こうして洪秀全を支えた5人の王はすべていなくなったのです。

 普通ならこの内部崩壊によって終わるところですが、ここで太平天国はしぶとく盛り返します。南京周辺も危うくなった洪秀全は兄の王号を剥奪し、陳玉成、李秀成、李世賢らに主将として兵を率いさせますが、彼らの活躍によって再び包囲網が破られます。
 さらにこの頃には洪秀全のいとこで香港に逃れていた洪仁玕が合流します。洪仁玕は干王と軍師の地位に任命され、外国との通商や産業の育成など近代化政策に着手します。さらに太平天国の教義をオーソドックスなキリスト教に近づけることでヨーロッパ諸国との条約締結を目指しました。
 一方、李秀成の軍は杭州、そして蘇州に勢力を広げ、蘇州の一帯を支配し始めます。ただし、洪仁玕が企図した上海のヨーロッパ勢力との交渉はうまくいきませんでした。
 
 この頃になると洪秀全は夢のお告げに従ってさまざまなことを行うようになり、太平天国の国号を「上帝天国」、さらに「天父天兄天王太平天国」に改めますが、こうした洪秀全に対し、李秀成らの諸王は自立する姿勢を強めました。
 1861年9月に安慶が陥落し、長江中流域の支配権を失った太平軍ですが、浙江へ進出し、なおしばらく勢力を維持します。特に李秀成は江蘇東部と浙江西部を支配し、ヨーロッパ商人から鉄砲を購入し、傭兵を雇いました。ただし、軍紀の低下は深刻で、創設当時の軍律の厳しさは失われていました。

 1861年8月に咸豊帝が死去すると西太后と咸豊帝の弟だった恭親王の奕訢がクーデターを起こして実権を掌握します。彼らは欧米列強の力を借りて太平天国を鎮圧する方針を決め、62年になると英仏軍や常勝軍と言われる中国人の傭兵部隊が太平軍と戦うようになります。
 太平軍はこうした列強の支援を受けた軍と曽国藩の湘軍に挟撃されるような形になり、62年5月には湘軍が南京へと迫ります。李秀成率いる軍による反撃も失敗し、李秀成は南京に戻り洪秀全に南京を脱出するように求めますが、洪秀全はこれを拒否し、64年の6月に南京が飢えに苦しむ中で病気で亡くなります。そして7月には南京が陥落し、太平天国は終りを迎えました。

 このように本書は波乱に富んだ太平天国の興亡を教えてくれのですが、それだけではなく、その興亡を中国の社会や歴史に重ね合わせているところが特徴です。
 「結論」でも述べていますが、洪秀全と5人の王による分権的な統治を目指した太平天国は、結局はそれを維持できずに血に塗れた天京事変を引き起こしました。そして、後の中国の権力者はこうした内部分裂を防ぐためにさらなる権力の集中を目指すのです。また、キリスト教という「西洋」との出会いが太平天国の乱という巨大な内戦と結びついたという点も、中国にある種の「内向き」な姿勢をもたらしたと言えるかもしれません。
 中国における近代、中国のおける西洋、そして中国の社会構造など、さまざまなことを考えさせてくれる歴史書だと思います。
 

空井護『デモクラシーの整理法』(岩波新書) 7点

 デモクラシーについて書かれた本ですが、例えば、宇野重規『民主主義とは何か』(講談社現代新書)のようなデモクラシーに関する「入門書」とは少し違います。「入門書」と言うには、本書は著者の独自の考えがあまりにも強く出ている本であり、政治学を学ぶ上での入り口として機能するような本ではありません。
 また、「整理法」と銘打っていますが、デモクラシーをタイプ分けする本(代表的なものとしてレイプハルト『民主主義対民主主義』がある)でもありません。
 一番簡単に本書を説明しようとすると「デモクラシーを問い直す本」ということになるのでしょうが、本書では「〇〇のためにデモクラシーが必要である」という議論を行わずに、デモクラシーそのものが機能するための必要最小限度の要件を探るような内容になっており、そのあたりも類書とは違います。
 非常に説明しにくい本ではあるのですが、以下、自分なりに本書の議論の特徴をスケッチしてみたいと思います。

 目次は以下の通り。

序 章
 一 本書の目的
 二 本書の構成
第一章 収納――政府・政治・政治体制
 一 政府と政府的共同体
 二 政策と政治
 三 政治体制と政治体制型
第二章 整理Ⅰ――デモクラシーの組み立て
 一 ふたつのデモクラシー
 二 古典デモクラシー
 三 現代デモクラシー
 四 デモクラシーと自由の関係
第三章 整理Ⅱ――民主体制の整列
 一 序列の解消
 二 民主体制の使い分け
 三 デフォルトとしての混合型民主体制
終 章
 一 デモクラティズムの諸相――整理法の整理のために
 二 ふたたび本書の目的について――結語にかえて

 まず、本書では「民主主義」ではなく「デモクラシー」という用語が選択されています。「主義」という言葉を使ったものには、「自由主義」「保守主義」のように何らかの思想や信条が込められているものがありますが、著者が本書で説明したい「デモクラシー」はあくまでも「手続き的なもの」であって、思想面ではありません。政治の仕組みとしての「デモクラシー」を説明することが本書の目的です。
 本書では、「デモクラシー」の訳語にも「民主主義」ではなく「民衆支配」という言葉が選択されています。

 第1章では、まず「統治」の問題から入っていくのですが、その前に「政治はそれ自体とし完結し自立した活動ではなく、政府の存在を前提としている」(23p)とサラッと書いているように、本書が取り上げる「政治」はあくまでも国、あるいは少なくとも自治体レベルのものであり、「個人的なことは政治的なこと」というような政治観は視野に入っていません。
 「政府」とは、「一定の地理的領域内の人的・物的秩序の維持を目的に(あるいは目的にすると称して)活動する人的集団」(25p)であり、その政府によって展開される活動が「統治」です。

 著者は、社会契約説に関しては「およそリアリティを欠いている」(30p)と評価していますが、社会契約説の自分たちの利益のために政府があるという考えには同意します。
 居座り盗賊集団であっても、彼らが一定の治安を維持したり、一定の社会資本をつくったりすれば(それは住民を強制労働させてのものかもしれませんが)、そうした集団の存在は住民の利益になることもありえますし、定期的な略奪は「税」と呼ばれるようになるかもしれません。このように、著者は「正統性」のようなものがなくても、政府は成立して機能しうると考えています。

 多くの本では、こうして成立した政府が何をするかということに関して、「法」という概念を持ち出して説明すると思いますが、本書では憲法〜閣議決定までをひっくるめて「政策」と呼び、この政策を政府に対する指令として理解しています。
 数多くの政策案の中から、政策を決定するのが「政策決定者」であり、本書における「政府」とは私たちが一般的に想像する政府から政策決定者を差し引いたものになります(本書の考えだと例えば、議員や大統領は政府に含まれない)。そして、この政策決定者をどう作り上げるかがポイントになります。

 この政策決定者による決定を政府を構成する人々(公務員、役人)は受け止めて、政府の活動が行われます。この政策決定者と政府(を構成する人々)の関係は<支配=服従>の関係でありますが、この政策決定を「物理的暴力をふんだんに蓄えた政府が引き受ける」のは「かなり不思議な現象」であり、著者は「政府が政策決定者に対して認める正統性」の重要性を指摘しています(49p)。
 場合によっては政府(を構成する人々)から政策に対する異議が出ることもあります。著者は内閣法制局の審査を、「政府に対する指令の事前チェックと異議申立てを、指令の受け手である政府自身に認める仕組み」(50p)とみています。
 また、複数の政策の整合性が問題になることがありますが、著者はここでその整合性を担保する仕組みとして「形式的な意味」でも「立憲主義」の考えを持ち出しています。53p以下で、いわゆる権力を制限する「実質的な立憲主義」もとり上げていますが、本書ではそうした立憲主義の理解はそれほど重視されていません。

 政策の宛先も、いわゆる国民(政府的共同体員)ではなく、あくまでも政府です。憲法は政府を縛り、法律は市民を縛るといったことが言われますが、著者によれば法律も政府を縛っています(例えば、刑法などを見ても「人を殺してはいけない」と書いているわけではなく、「人を殺したら○年以上の懲役」と書かれていることを思い出すとよい)。
 一方で、著者は自由を保障するためには政府からの自由を認めるだけでは足りないと言います。自由を保障するには私人間での自由の侵害に対して、政府が適切な対処を取る必要があるからです。著者はライアム・ナーフィーとトーマス・ネーゲルの議論をとり上げて、「財産権や所有権は政府なしにはあり得ない」(67p)と論じています。

 こうした政治観のもと、本書では政治の型の1つとしてデモクラシーを分析しています。
 デモクラシーという政治体制の型にはレファレンダムを使用する「直接デモクラシー」と、選挙を使用する「関節デモクラシー」の2つが考えられます。しかし、このように書くと「直接」の方が優れている印象を与えるために、本書では前者を「古典デモクラシー」、後者を「現代デモクラシー」と名付けています。
 前者においてはレファレンダムが「まとも」であること、後者においては選挙が「まとも」であることが重要になります。

 古典デモクラシーのモデルとなるのは古代アテナイの民主政です。このアテナイの民主政を現代にアップデートさせるとして、著者はまともなレファレンダムが成り立つためには次の6つの基準が充たされることが必要だとしています。
 1,政治的市民の包摂的な認定(選好形成・表明主体の認定)
 2,政治的市民権の包括的かつ通時的な保障(選好形成)
 3,投票運動の公平な取り扱いの保障(選好形成)
 4,政治的市民に対するアジェンダ設定権の保障(選好表明)
 5,投票の自由と平等な投票機会の保障(選好表明)
 6,票の平等な取り扱いの保障(選好集計)

 この中で、意外と難しいのが4のアジェンダ設定権でしょう。投票を行うにしても、何を投票し、どのような選択肢を提示するかは非常に重要ですが、それをレファレンダムで決めるようでは無限後退に陥ってしまいます。くじの利用や、一定の要求があったときは必ずレファレンダムを行うといったやり方が考えられますが、ここは難しい問題になります。

 一方、現代デモクラシーに必要なまともな選挙が成り立つための基準を著者は以下のように整理しています。
 1,政治的市民の包摂的な認定(選好形成・表明主体と選好対象主体の認定)
 2,政治的市民権の包括的かつ通時的な保障(選好形成)
 3,投票運動の公平な取り扱いの保障(選好形成)
 4,選挙の十分な頻度の保障(選好表明)
 5,投票の自由と平等な投票機会の保障(選好表明)
 6,票の平等な取り扱いの保障(選好集計)

 4を除くと同じに見えますが、1ではカッコ中に「選好対象主体」という言葉が追加されています。これは基本的には立候補者のことなのですが、著者は必ずしも立候補は必要ではないとも考えています。フランス革命後の選挙において立候補が禁じられていたように、自分が適任だと思う候補者を自由に選ぶというやり方も考えられるのです。
 4に関しては、やはり一定の間隔で選挙が行われることが重要です。選挙で表明された政治的選好には耐用年数がありますし、一定の間隔で選挙が行われるからこそ、政治家たちは次の選挙に備えて振る舞い、有権者はそれを判断の材料にできるのです。

 一般的に、現代デモクラシーは古典デモクラシーの縮小版と捉えられがちですが、著者はレファレンダムが選挙に置き換わっただけだと考えます。
 著者はデモクラシーを「選挙中心主義」(125p)的に理解しており、まともな選挙があるのであれば、選挙で大統領1人を選ぶような政治スタイル(議会はなし)でも、デモクラシーが成立すると考えています(124p)。

 レファレンダムにしろ選挙にしろ、その「まともさ」を保障するのが「政治的自由」になります。一般的な政治の入門書ではここで人権が持ち出されることが多いと思いますが、本書では政治的自由に絞って論じられています。
 ここではバーリンの自由を積極的自由と消極的自由に分け、消極的自由=個人の自由=非政治的な自由であるとする議論が批判されています。ここの議論はややわかりにくいのですが、「「私を統治するのは誰か」という問いへの答えは、筆者に言わせれば政府に決まって」おり、「政府は私にどれほど干渉するか」という問題に関しても、その答えは「政府は私に不当に干渉することが許されないと同時に、私に対する他人の不当な干渉を止めるために干渉する義務を負う」というもので(132p)、個人の消極的な政治的自由を保障するためには政府が必要であるとの議論がなされています。

 ここから、著者は「リベラル・デモクラシー」という用語を批判します。現代の民主主義は自由主義と民主主義が結合したリベラル・デモクラシーである」という考えは広く流通していますが(例えば、待鳥聡史『代議制民主主義』(中公新書))、著者は、この言葉には政治的な自由を保障しないデモクラシーが存在し得るという誤解を招くといいます。もしも、個人の重視や多元主義という意味を含めたいのであれば、そうした言葉を使うべきだというのです。

 第三章では、現代デモクラシーが古典デモクラシーに劣るという印象を覆すために、「政策形成ステイタス」と「政策執行ステイタス」の均衡という議論がなされているのですが、これもややわかりにくいです。
 政治的市民が政策の形成局面において政策との関係いおいて置かれる地位が「政策形成ステイタス」、政策の執行局面によるそれが「政策執行ステイタス」です。本書の理解では政策の受けては政府であり一般の市民ではないので、政策執行ステイタスは中途半端です。一方、実際に立候補して当選し、政策決定者となる市民もわずかなので政策形成ステイタスも中途半端だと言えます。
 とは言え、市民には政治的自由があり、デモなども行うことができます。また、一定頻度の選挙は政策決定者に次の選挙を意識させます。自らは政策決定をしないものの、政策に大きな影響を与えうるのです。
 この政策の形成と執行における中途半端なステイタスが、ときに「決めすぎる」古典デモクラシーの問題点を薄めているというのが著者の見方です。「現代民主政治は「(あえて)決めない政治」(157p)なのです。

 本書では古典デモクラシーと現代デモクラシーを分けながら議論を進めてきましたが、混合的な運用、つまり現代デモクラシーの一部にレファレンダムを取り入れることも可能であると著者は考えています。
 そしてそれには「「政策決定理由」の単純化」(165p)というメリットもあるといいます。政策にはそれを導入するための売り込み文句とも言うべき「政策理由」があります。そして、政策が決定された理由が政策決定理由です。
 レファレンダムの場合、投票運動期間中、政策立案者は政策理由を説明し、反対者はその不十分さなどを指摘します。一方、政策決定理由はレファレンダムで多数を獲得したからという単純な理由で説明できます。
 この政策決定理由の単純化がある種の安定をもたらすと著者は考えています。政策理由に関しては時間の経過とともにそれが必ずしも説得力を持たなくなることもあり、場合によっては政策決定が蒸し返されますが、「レファレンダムで多数を得た」という事実は蒸し返しを困難にします。
 これに対して現代デモクラシーでは、政策決定者(政治家)の判断の是非を蒸し返すことが容易です。また、野党は次の選挙に勝つために政策決定者の判断(政策理由)の問題点を指摘します。ただし、この政策理由が常に蒸し返されて政策決定理由が複雑化することは必ずしも否定的に捉えられるべきではないとも著者は言います(189p)。
 そして、現代のデモクラシーは、基本的に憲法などの重要な政策ではレファレンダムを用い、一般的な政策の決定では代議制を用いるという混合型となっています。

 終章では民主体制を望ましいとものと考えるデモクラティストについて考察していますが、次のような見解は一般的なデモクラシー理解とはずいぶんと違ったものでしょう。

 民主政治は、「自分たちのことを自分たちで決まる」という仕組みではない(本当にそれを実現しようとするならば、政府が自己支配をする、つまり「政府が政策を決める」という仕組みに帰着するはずである)。ゆえに民主政治における政治的市民は、「自己決定」や「自律性」につきまとう道徳的な責任とは無縁なのである。無責任で気ままである点において、非民主体制のもとでの独裁的な政策決定者と民主体制のもとでの民衆とのあいだに、本質的な違いがない。よって民衆による政治支配が慎重で配慮に富んだものとなる保証は、独裁者いよる政府支配と同じ程度に低い。(206−207p)

 ここにいたって本書のデモクラシー理解の特徴は際立ってくると思います。多くの論者は「自己決定」や「自己陶冶」の延長として「デモクラシー」を捉え、そのために市民に責任を自覚させようとするのに対して、本書ではそうしたもっともらしい理由付けが捨て去られ、剥き出しの政治の作動のようなものが記述されているのです。

 さらに近年の民主体制の状況を確認した部分では、フリーダム・ハウスの調査から、信教の自由や学問の自由、あるいは「法の支配」などを差し引いた上で独自の指標を作成しています(215−216p)。つまり、政治に直接関わりのない人権が制限されても、法の支配が十分でなくとも、デモクラシーは成り立つと考えているのです。
 223‐225pでポピュリズムが政治的自由を毀損する危険性に釘を指しているものの、人によってはポピュリズムとの親和性を感じるかもしれません。

 「デモクラシー」という言葉はある意味で理想化されており、そこにはさまざまな理念が込められていることが多いですが、そうした理想化されたデモクラシーから飾りを剥ぎ取って、まともなレファレンダム、まともな選挙こそがデモクラシーであるという、シンプルなデモクラシー観を提示しているのが本書の一番の特徴と言えるでしょう。
 正直、法の支配や政治に直接関わりのない人権を取り去ってもデモクラシーが機能するかどうかは判断がつきかねるのですが、読む人の思考を促す本であることは確かだと思います。
 軽妙な文体で面白く読めるのですが、「整理法」とうたいつつ、同時に多くのひとを(良い意味で)当惑させる本だと言えるでしょう。


 

中元崇智『板垣退助』(中公新書) 7点

 誰もが知っている人物でありながら、意外と評伝などがないのがこの板垣退助。もちろん、本人が監修した『板垣退助君伝』や自由民権運動の指導者としての板垣を描いた『自由党史』はあるのですが、かなり盛っていると思われるところがあり、どこまで信用していいものかはわかりません。
 そんな板垣の生涯について、可能な限り「伝説」的な部分を剥ぎ取ってたどってみせたのがこの本です。以外に謎が多い人物で、前半(自由民権運動に身を投じるまで)に関しては、ややわかりにくい部分もあるのですが、後半の部分は非常に面白く、決して知略や判断力や組織力に優れていたわけではない板垣が、、自由民権運動で大きな役割を果たした理由がわかるようになっています。
 初期議会の状況に関しても、近年の研究をもとに従来のイメージが修正されており、日本の議会史を考える上でも面白い材料を提供してくれる本です。

 目次は以下の通り。
第1章 戊辰戦争の「軍事英雄」―土佐藩の「有為の才」
第2章 新政府の参議から民権運動へ
第3章 自由民権運動の指導者―一八八〇年代
第4章 帝国議会下の政党政治家―院外からの指揮
第5章 政治への尽きぬ熱意―自由党への思い
終章 英雄の実像―伝説化される自由民権運動

 板垣退助は1837年(天保8年)、土佐藩の御馬廻・上士の家に嫡男として生まれています。生まれたときの姓は乾で、幼少の頃から喧嘩好きだったとのことです。
 1854年(安政元年)に18歳で江戸勤番を命じられ江戸へ向かいますが、帰国後には同輩に「不作法之挙動」があったとして惣領職を剥奪されています。許された後も再び「不作法」を起こすなど、粗暴な面があった板垣ですが、特に思想的に一致していたわけではない吉田東洋に評価されるなど、見どころのある人物だったようです、
 吉田東洋の暗殺後、板垣は尊皇攘夷の考えを深めます。これは山内容堂の考えとは必ずしも一致しないものでしたが、容堂も板垣を評価しています。

 武市半平太らの土佐勤王党が失脚したあとは藩の要職を歴任し、洋式の騎兵について学んだりしています。そして藩の軍政を掌握し、上士を銃隊に編成するという思い切った改革を行います(当時、鉄砲を扱うのは下士だった)。
 土佐藩は後藤象二郎の献策によって大政奉還へと動きますが、板垣はこれに異論を唱えています。これによって倒幕派の板垣の地位は危うくなりますが、鳥羽・伏見の戦いが起きると、再び板垣が前線に立つことになります。

 板垣は土佐で編成された迅衝隊の司令として東山道軍に従い、さらに別働隊として甲州街道を進軍します。ここで板垣は、自分のルーツが武田信玄の家臣の板垣信方だったことから姓を「乾」から「板垣」に改姓します。板垣の部隊は近藤勇率いる甲陽鎮撫隊を撃破し、江戸に入り、さらに北関東、東北へと転戦します。
 日光では立てこもる大鳥圭介の部隊に対して、日光東照宮の消失を惜しんで退去を求めたという逸話が伝わっていますが、放火すべきだと集中した土佐兵を板垣が諌めたかどうかは定かではありません。
 また、会津では会津の人民が領主を守ろうとせずに逃げたのを見て封建制度の廃止に開眼したということになっていますが、後述のように本当にそうだったのかは謎です。ただし、会津での戦いは軍人としての板垣の名声を大いに高めました。

 明治維新後、板垣は新政府の参与になり、後藤とともに土佐藩の実権を握りました。板垣らは土佐藩で身分制度改革を行い、士族を五等に分け、士族と平民の間の身分の卒族を三等に分けました。しかし、明治政府がこうした家格を認めないという通知を出したために、この制度は維持不可能になります。
 板垣は家格が厳格な高知ではこれは難しいと嘆きましたが、ここで板垣は一気に身分制の解体を主張し始めます。士族が独占してきた文武の職を平民に開放し、身分制を大きく変革したのです。板垣は家格が維持できないと見るや、大胆な手で状況を突破しようとしました。

 1871年(明治4年)、板垣は、藩兵の献上を大久保・西郷・木戸らとともに建言し廃藩置県を断行すると、参議となります。岩倉使節団が欧米へと出発すると、板垣は西郷らと留守政府を預かることになりますが、ここで問題となったのが征韓論です。 
 ご存知のように、板垣は西郷を使節として派遣することに賛成で、岩倉や大久保と対立しますが、西郷は自らが殺されたら戦争は板垣に任せるとしており、西郷が板垣の軍人としての才能を高く評価していることがうかがえます。しかし、結局は西郷の使節派遣はならず、西郷や板垣は下野します。

 下野した板垣は、後藤や江藤新平、副島種臣らと愛国公党を結成し、「民撰議院設立建白書」を提出します。この建白書は古沢滋が中心になって起草されましたが、どうして板垣がこの建白書を出すことになったのかという流れは本書ではよくわかりません。
 その後、板垣は高知で立志社を設立します。これは士族の没落を防ぐための互助的な組織でした。1875年には、大阪で全国的な民権結社愛国社が設立されます。しかし、この愛国社は大阪会議で板垣が政府に復帰したことでほぼ何もせずに消滅します。
 参議に復帰した板垣は、参議の省卿兼任をやめて、内閣と各省を分離することを主張します。この問題で同じ主張をしたのは左大臣の島津久光でした。久光はいわゆる守旧派であり、民権派の板垣とは相容れないはずで、政府の主導権を握るための共闘とみていいでしょう。結局、ここでも板垣は政争に敗れて、久光とともに辞職します。
 1877年に西郷が挙兵し西南戦争が起きると、立志社ではこれに呼応して挙兵するかが問題となります。板垣はまずは建言をもって政府を突くべきあると主張します。立志社の林有造は挙兵に前向きで、西郷軍が劣勢になったあとも挙兵を主張しますが、板垣は最終的には挙兵を決断しませんでした。戦後、林有造だけでなく立志社社長の片岡健吉らも逮捕されますが、板垣は逮捕されませんでした。

 武力による政権奪取の道がなくなった板垣らは民権の道を目指しますが、板垣のもとには土佐出身の植木枝盛らだけではなく、河野広中、杉田定一、栗原亮一らが集まってきます。板垣個人の政治家としての能力に関しては疑問符もつきますが、周囲に優秀な人を集めることができたのは板垣の人望でしょう。また、人の意見を取り入れることもでき、板垣の主張する政策の多くは栗原によるものとされています。
 1878年に愛国社が再興され、1880年には国会期成同盟が結成されますが、板垣はこの動きに表立っては関わりませんでした。その後、板垣は運動を活発化させ、81年には東北を遊説に出発します。その最中、明治14年の政変が起こり、10年後の国会開設を約束する国会開設の勅諭が出されます。これに呼応して正式に自由党が発足し、東北遊説中だった板垣が総理とされます。

 1882年(明治15年)の4月に板垣は岐阜で相原尚褧(なおぶみ)に刺されて重傷を負います。このとき「板垣死すとも自由は死せず」の名言が飛び出したとも言われていますが、具体的にどのように言ったのか、相原に対して言ったのか、周囲の人物に言ったのかなどいろいろなバリエーションがあり、本書では一覧にまとめられています(96−97p)。
 この遭難事件の後、板垣の人気は一種の社会現象となり、板垣の写真が売れ、伝記や演説集が発行されます。また、このとき明治天皇から勅使が派遣されましたが、断ったらよいと言う自由党員もいた中で、板垣は涙をながしたといいます。板垣の「尊王」は揺るぐことがなく、イギリスにおける国王と人民の一体化を理想と考えていました。「教科書的理解では、「フランス流の急進的な自由主義をとなえる自由党」とされがちであるが(『山川出版社 詳説日本史B』2014年)、板垣が主張した政治体制はイギリスの立憲君主制に近かった」(103p)のです。

 事件後、明治政府は板垣を外遊させて民権運動を鎮静化させようとします。この計画は伊藤博文や井上馨が後藤象二郎と連携して進めました。自由党の党員からは反対も出ますが、板垣は伊藤博文の憲法調査などを意識し外遊を決意します、洋行の費用は、三井銀行からのものと板垣の支持者の山林地主の土倉庄三郎から出たものがありましたが、前者の金は後藤が管理したようで、板垣は知りませんでした。
 板垣は外遊中、ジョルジュ・クレマンソー、ヴィクトル・ユーゴー、ハーバード・スペンサーらと交流しましたが、金銭不足などにも苦しめられ、「引きこもり」に近い状況にあったようです。少し情けないようにも見えますが、当時日本を圧倒していた欧米を見ても「変わらなかった」のが板垣の長所なのかもしれません。
 
 帰国後の板垣には逆風が吹いていました、外遊費の出所をめぐって板垣の清廉潔白なイメージは失墜し、外遊中には自由党員による激化事件が起きていました。
 板垣らは「一大錬武舘」をつくりそのエネルギーを吸収しようとしましたが、自由党急進派を抑えることは難しく、また資金募集計画もうまくいかず、1884年10月、自由党は解党します。

 1887年、板垣、後藤、大隈、勝安芳(海舟)に伯爵が授与されます。政府の狙いは民権派の機先を制して在野指導者に叙爵を行うことで「官民協調」ムードをつくることで、後藤と大隈はこれを受けました。
 一方、板垣は辞退する意向を示しますが、明治天皇からの叡慮を伝えられ落涙します。伊藤は爵位を辞退するのは天皇の勅命に背いた朝敵であると批判しており、この問題を使って板垣を追い詰める作戦でした。板垣は再び辞退の移行を示しますが、明治天皇から却下され、最終的には伯爵位を拝受します。

 三大事件建白運動などで自由民権運動は再び盛り上がりますが、政府はこれを保安条例などによって弾圧し、さらに大隈を伊藤内閣の外務大臣、後藤を黒田内閣の逓信大臣として入閣させて運動の切り崩しをはかりました。
 板垣はこの時期は高知にあって動かず。大日本帝国憲法や黒田内閣の政治を基本的には評価していました。1889年の3月には板垣の入閣も検討されましたが、板垣はこれを断っています。
 憲法発布に際しては大赦も行われ、自由党系の運動家も釈放されますが、板垣は自らを襲撃した相原が大赦から漏れたことを遺憾に思い、自ら明治天皇に訴えて相原を出獄させています。

 1890年7月の第1回総選挙において、自由党系は127名の当選者を出します。選挙後、自由党系のメンバーは合流し、9月に立憲自由党が結成されます。党首はおかず、板垣、河野広中、大井憲太郎、松田正久らの集団指導体制でした。このような状況で立憲自由党はなかなか統一的な行動が取れず派閥が生まれますが、板垣を中心とした派閥が土佐派です。
 ちなみに板垣は爵位を持っていたので衆議院には立候補できず、貴族院に関しては辞退しています。板垣の一君万民思想からは貴族院議員というものは収まりが悪いものだったと考えられます。
 また、板垣は議会に備えて立憲自由党にも政策が必要だと考えて、「通商国家構想」を示しています。これを書いたのは栗原亮一ですが、海運貿易によって日本を富ませようという主張は板垣の持論になっていきます。

 第一議会では、山県有朋内閣の示した予算に対して民党が「民力休養」「経費節減」を訴えるわけですが、原田敬一の研究によれば地租引き下げなど山県内閣には「民力休養」「経費節減」の主張を飲む意向があったといいます。
 しかし、立憲自由党内の不一致もあって政府との妥協は上手くいかず、最終的には土佐派が政府との徹底対決を避けたことで、地租引き下げが実現しないままに予算は成立します。板垣や片岡健吉、林有造らの土佐派には第一義会を失敗させてはならないという思いがあり、それがこの妥協につながったと考えられます。

 こうして「裏切った」板垣ですが、第一議会後に開かれた自由党大阪大会で板垣は自由党の総理となります。板垣を批判していた星亨もこの人事を受け入れますが、それは党勢拡大のためには板垣を担がざるを得ないと判断していたからでした。
 第二議会でも自由党・立憲改進党と松方内閣が対立し、衆議院は解散されます。ここで有名な内務大臣・品川弥二郎による選挙干渉が起きるわけですが(この経緯についても諸説ある(165p))、特に高知県では薩摩出身の知事・調所広丈のもとで激しい選挙干渉が行われます。結局、死者10名、負傷者68名を出す騒ぎになりましたが、官憲に抵抗した高知の民衆に、「板垣は非常にご満悦であり、土佐は能くやった能くやったと感嘆していた」(166p)そうです。この選挙で自由党は議席を減らしますが、板垣はこれに落胆することはありませんでした。

 1892年、第2次伊藤内閣が成立します。ここから自由党は政府との接近を目指す星亨とそれに批判的な議員で対立し結局は星が脱党することになりますが、板垣は星を擁護しています。
 1894年の日清戦争を機に、政府と自由党の距離はさらに接近し、自由党は地租軽減要求を取り下げます。そして、95年の11月には自由党と政府の提携が発表され、翌年には板垣が内相として入閣するのです。
 世論の反発も呼んだ板垣の入閣でしたが、大隈の入閣をめぐって対立し、入閣後わずか4ヶ月で第2次伊藤内閣は崩壊します。つづく第2次松方内閣では進歩等の大隈が入閣し、自由党は下野しました。

 一時期、求心力が落ちた板垣でしたが、第2次松方内閣、第3次伊藤内閣が行き詰まると、自由党と進歩党は合同して憲政党を結成します。この合同は政策、地方支部など扱いをめぐって問題を抱えており、そのことは板垣も意識していましたが、藩閥政治の専制政治を倒すという目的で合同に踏み切ります。
 そして、第3次伊藤内閣が倒れるといわゆる隈板内閣が成立します。ここで板垣が首相に意欲を見せなかったことから、首相・大隈、内相・板垣という形になりました。隈板内閣のもとでの第6回総選挙で憲政会は圧勝しますが、政党員からの猟官運動に悩まされ、また、共和演説事件で辞任した尾崎行雄の後任問題、さらには星亨の策動によって隈板内閣は瓦解します。
 憲政会は星亨が仕切るようになり、星は代わって成立した第2次山県内閣との提携を進めます。憲政会は星によって主導されることとなり、板垣は総務委員待遇の辞表を提出します。政治化としての板垣は基本的にはここで終わったと著者は見ています。

 1900年に憲政会が解党して立憲政友会が発足します。1901年に星亨が暗殺されると、板垣を立憲政友会の副総裁に迎えようとする動きも起きますが、伊藤との考えの違いから実現することはありませんでした。1903年には林有造らが立憲政友会から抜けて自由党を結成しますが、翌年の選挙で振るわずに解散しています。
 その後、板垣は激化事件で命を落とした民権運動家の顕彰運動や自由党史の編纂に力を入れます。1913年の第一次護憲運動の際に演説をしたりもしていますが、公的な役職につくことはありませんでした。そして、1919年に83歳で亡くなっています。子どもには爵位を辞退させ、以前から主張していた一君万民思想のための一代華族論を貫きました。
 
 このように本書は板垣の長い生涯を辿っています。前半に関しては史料の制約もあって少しわかりにくい部分もあるのですが、後半は自由民権運動や初期議会への理解も深まる内容で面白いですね。
 そして、本書を読むと自由民権運動のアイコンが板垣だった理由も見えてくると思います。政治家としての能力はともかく、板垣は立派な神輿になれる人物でした。機を見るに敏な大隈や後藤では安心して担げないが、板垣なら担げるということで多くの人が板垣のもとに集まったのではないかと思います。伊藤の柔軟性や先見性は政治家として重要な資質ですが、本書を読むと伊藤は少し「セコく」見えます。そんなところが板垣の魅力なのかもしれません。

河合信晴『物語 東ドイツの歴史』(中公新書) 7点

 中公新書の『物語 〇〇の歴史』シリーズではさまざまな国の歴史が扱われていますが、おそらく本書がもっとも短い期間を扱ったものではないかと思います。1949年10月に建国され、1990年に西ドイツとの統一によって姿を消した東ドイツ(ドイツ民主共和国)のわずか40年ほどの歴史を描いたのが本書です。
 わずか40年ほどの歴史ですが、ソ連による占領→ドイツの分断→社会主義国家の建設→ソ連と西側の間での外交的な駆け引き→ゴルバチョフの登場→民主化と解体という激動の歴史であり、その密度は濃いです。
 東ドイツというと、シュタージによる監視国家というイメージが強いかもしれませんが、本書を読むと、国民が活発に請願などを行なっていたことがわかりますし、逆に国民の不満を恐れて政府が右往左往するような局面も見られます。
 「オリンピックと東ドイツ」「シュタージ」「東ドイツ時代のメルケル」といったコラムも挟まれており、東ドイツの歴史を多面的に振り返ることができます。

 目次は以下の通り。
序章 東ドイツを知る意味
第1章 新しいドイツの模索―胎動 1945‐1949
第2章 冷戦と過去の重荷を背負って―建国 1949‐1961
第3章 ウルブリヒトと「奇跡の経済」―安定 1961‐1972
第4章 ホーネッカーの「後見社会国家」―繁栄から危機へ 1971‐1980
第5章 労働者と農民の国の終焉―崩壊 1981‐1990
終章 統一後の矛盾と対峙

 東ドイツの歴史は1945年5月にドイツが降伏し、ソ連が占領地域に軍政をしいたことから始まります。ソ連はドイツ占領を円滑に進めるために、ドイツ人の協力者を求めましたが、この役割を担ったのが大戦中にソ連に亡命していた共産主義者であり、ウルブリヒトらが中心人物となりました。
 米・英・ソによるポツダム会談によって、ドイツの非ナチ化、非軍事化、民主化、脱中央集権化という占領目標が決まります。この脱中央集権ということもあり、各占領地域で独自の行政管理が行われることになりました。
 また、ソ連は併合したポーランドの東側の領土の補償のような形で旧ドイツ領のオーデル・ナイセ線以東をポーランドに引き渡しました。国境の正式な確定は講和条約締結後に決まることになっていましたが、講和条約が結ばれないまま既成事実化していきます。

 ソ連占領地域で、6月に政治結社の設立が認められると、ドイツ共産党(KPD)、ドイツ社会民主党(SPD)、キリスト教民主同盟(CDU)、ドイツ自由民主党(LDPD)といった政党が結成されます。
 当時は社会主義を容認する空気が強く、社会民主党は共産党以上に工場の公有化に熱心で、キリスト教民主同盟も鉱業と基幹産業の国有化を訴えていました。
 46年になるとソ連の後押しもあって共産党と社会民主党が合同し、4月に社会主義統一党が結成されます。しかし、46年10月の州議会選挙ではソ連占領地域において社会主義統一党は50%の得票にわずかにとどかず、キリスト教民主同盟と自由民主党がそれぞれ25%程度を分け合う結果となりました。

 敗戦後のドイツは大きな混乱に見舞われます。戦争によって生産設備は大きな被害を受け、46〜47年にかけては厳冬となり、夏も凶作だったことから食糧不足に陥ります。さらにかつての東部ドイツ領から追放された人も加わりソ連占領地域に多く流入しました。
 そんな中でもドイツ人はアンチ・ファシズム委員会を設け行政を自発的に担おうとする動きを見せました。しかし、共産党と競合する可能性があったこともあり解散させられていきます。
 公務員の非ナチ化は西側よりも徹底的に行われました。親衛隊隊員やゲシュタポの人員は約13万人が戦犯として収容所に送られ、そのうち1/3は収容所の劣悪な環境などが原因で亡くなったといいます(19−20p)。
 土地改革も行われ大規模農場が解体されて小農や小作農や非追放難民に土地が分配されましたが、生産効率のいい大農場が解体されたことで農業生産力は低下しました。

 ソ連はドイツからの賠償を求めており、それはドイツのソ連占領地域から取り立てられることになりました。この賠償は、ソ連軍駐留経費の負担、工場の機械の解体(デモンタージュ)と持ち出し、ソ連が接収し株主となった企業への生産物や利益の納入といった形で行われました。この賠償の取り立てが終了したのは1953年ですが、戦争によって失われたソ連の生産設備が120億7000ライヒスマルクと推定される中、賠償の合計は約540億ライヒスマルクになると言われています(25p)。
 特にデモンタージュは東ドイツ経済に深刻な影響を与え、生活用品などの不足をもたらしました。一方で、鉄道の車両や線路も解体されたこと、規格が違ったことなどにより、解体された機械がソ連で有効に活用されたわけではありませんでした。

 1948年6月、西側の占領地域では新しいドイツマルクを導入する通貨制度改革が行われます。この新しい通貨が西ベルリンを通じで東側に流れ込めば経済が不安定化すると考えたソ連は、ベルリン封鎖を行います。東西の経済的なつながりが断たれたことで、ドイツの分断は決定的になりました。
 そして、東側では「ソ連化」が進行し、社会主義統一党もソ連型の党に改組されていきます。48年にはデモンタージュも終了し、計画経済が導入されました。

 1949年5月にドイツ連邦共和国(西ドイツ)が建国されると、10月にはドイツ民主共和国(東ドイツ)が建国されました。このときにつくられた東ドイツ憲法は、基本的にヴァイマル憲法を受け継ぐものでしたが、第6条2項には民主的制度や組織に対するボイコットの扇動を、刑法で定める犯罪行為とするなど、反対運動を抑え込むことも可能なものでした(43p)。
 選挙は、あらかじめ候補者が載った統一リストに対する信任投票の形で行われ、社会主義統一党とその衛星政党が過半数を確保できるようになっていました。
 50年の社会主義統一党の党大会では民主集中制と呼ばれる原則が決まり、書記長にはウルブリヒトが就任します。「分派活動」は禁止され、党の人事はカードル(幹部)人事局は仕切ることになります。連邦制も廃止され、社会主義統一党が指導する中央集権体制が確立したのです。

 1948年にはソ連とチトー率いるユーゴスラビアの対立が表面化し、東ドイツでも粛清が行われます。そして、このときには東欧では多くのユダヤ系の人々がシオニズムを理由に粛清されます。さらにアメリカがイスラエルに接近したことの対抗としてソ連がアラブ諸国に接近したことから、東ドイツも反シオニズムの立場を取り、ユダヤ人に対する補償などは進みませんでした。

 東ドイツ政府は、人々の間に芽生えたドイツ統一願望に対処するために急速な社会主義の建設を目指します。農業の集団化や手工業やサービス業の集団化が進められますが、必ずしも生産力の向上にはつながりませんでした。
 この経済状況の悪化は西側への逃亡者への増加をもたらし、ソ連からの指示もあって社会主義建設のペースは緩められます(新コース)。
 しかし、過重なノルマは撤回されなかったため、1953年6月17日、東ドイツにおいて大規模なゼネストが発生します。特に指導者のいなかったこの動きはソ連軍の出動で沈静化しますが、この六月十七日事件は、社会主義統一党に最低限の生活水準を維持しなければ支配体制の安定化は難しいという教訓を植え付けました。政府はシュタージを強化するとともに、消費財や食料品の生産に重点が置くようになります。

 その後、56年にソ連でスターリン批判が行われると、新コースは転換され、再び重工業重視の路線がとられます。57年には自家用車トラバントの出荷も始まり、経済も順調に成長しました。
 また、政府が教会の活動を抑えるために堅信式に代わる青年式を制定するなどしたため、50年代後半には人々の教会離れも進みます。

 外交に関しては、西ドイツが東ドイツと正式な国交を結んでいる国とは外交関係を樹立しないというハルシュタイン原則をとったため、東ドイツの外交関係は限定されました。
 また、当時、多くのひとがベルリンを通じて東から西へ脱出しており、この穴を塞ぐことは東ドイツにとって大きな課題でした。
 1961年8月13日、フルシチョフの許可も得た上で東ドイツはベルリンの壁の建設に着手します。一夜にして東西ベルリンを横断する道路網は寸断され有刺鉄線が引かれました。市民は当初は一時的なものだと考えましたが、次第に本格的な壁が建設されていきます。
 東ドイツの市民は脱出の可能性を失います。そうした状況を踏まえ62年には徴兵法が制定され、徴兵が始まります。西ドイツとの通商も断たれたことで、工業規格もソ連に合わされ、輸出入の拠点も今まで利用していた西側のハンブルクに代わってロストックが整備されました。

 60年代はじめ、ソ連では各企業に経営の裁量を委ねるリーベルマン方式の導入が見送られましたが、これを採用したのが東ドイツでした。この改革の成否を握るのが価格を柔軟に変更できるのかという点でした。東ドイツでは企業間取引の価格の改定には成功するものの、それをストレートに小売価格に転嫁することは市民の反発も考慮されたためにためらわれ、その差額は政府からの補助金が埋めることになりました。
 社会主義統一党は国民のニーズを探るために64年には世論調査研究所を設けるなどし、さかんに世論調査を行います。また各種団体に対して動員をかけるだけでなく、請願や政府批判の声を集めさせます。

 60年代は比較的順調に経済が成長した時代で、冷蔵庫や洗濯機、テレビなどの耐久消費財の普及も進みます(ただし冷蔵庫と洗濯機の1970年の普及率は50%台(123p))。しかし、すぐに手に入るわけではなくトラバントの予約から納入までの待機期間は8年にも及びました。
 一方、高所得者を対象にしたイクスイジットラーデン(高級商店の意味)や外貨のみで購入が可能なインターショップもつくられ、西側の商品を手に入れることができるようになりましたが、これは一方で人々に不公正を意識させることにもなります。
 
 東ドイツの経済はソ連から安定して安価に資源を獲得できるかどうかにかかっていましたが、64年にフルシチョフが解任されると、ブレジネフは東ドイツの自主性を抑え込むとともに東ドイツへの交易の優遇措置も講じなくなります。
 ブレジネフと上手くいっていなかったウルブリヒトは、西ドイツとの協力によって経済発展を成し遂げようとします。一方、70年にはモスクワ条約が結ばれソ連と西ドイツが接近。ウルブリヒトはさらなる西ドイツとの協力でこれに対処しようとしますが、ホーネッカーは東ドイツの主権を危うくするようなウルブリヒトの行動に反発し、71年1月にはブレジネフにウルブリヒトの解任を要請。結果、5月にウルブリヒトは解任されるのです。
 こうした中でも72年には両独基本条約が結ばれ、両国な特別な関係が承認されました。

 新たに指導者となったホーネッカーは、「「人びとの物質面そして文化面における生活水準の向上」が”あらゆる政策の主要課題”」(152p)だと宣言しました。ウルブリヒト体制のもとで拡大した格差を是正し、さらに西ドイツを基準とした生活水準の実現を求めたのです。
 71年に決まった新たな5カ年計画では、西側から新しい技術を導入し、輸出によって対外債務を減少させることが目指されていましたが、それと人びとの生活水準の向上を両立させることは難しく、結局は西側に対する貿易赤字が拡大していくことになります。

 70年代には経営の自主性が後退し、再び計画経済体制へと移行します。私企業経営者の平均収入が一般労働者の3.5倍になっていたこともあり、私企業の国営化も進められます。これらの企業を計画経済に組み込むことで生産は上がるはずでしたが、結果的にそれらの企業は独自の製品の供給を止め、日用品の不足はより深刻になりました。
 それでも76年頃までは生活状況は改善し、「東ドイツの黄金時代」(160p)と呼ばれる状況が出現しました。最低賃金などは引き上げられる一方で、支配体制の安定のために基礎消費財の値上げは抑えられ、相変わらずの物不足ではあったものの、消費生活は充実したのです。

 西側との関係改善も進み、73年には西ドイツとともに国連に加盟し、その後、フランス、イギリス、アメリカと国交を結びます(日本とも73年に国交樹立)。しかし、その一方で、ホーネッカーは西ドイツの影響力が増大することを恐れつつも、ソ連からの経済的援助が減る中で西ドイツとの経済的な関係を深めざるを得ない状況に追い込まれます。
 オイルショックで石油価格が上昇すると、東ドイツ経済も苦境に陥ります。基礎消費財の値上げを避けたかった政府は質の悪い商品(コーヒーなど)を流通させますが、これは市民の大きな反発を呼びました。
 東ドイツは社会主義統一党の独裁体制でしたが、「平等な社会を実現するために独裁的に政治を運営していると説明している以上、社会から絶えず実現不可能な要求にさらされ続ける」(186p)ことになったのです。

 西側との関係が改善する一方でソ連との関係は冷え込んでいかいます。81年にはブレジネフが突如として東ドイツ向けの原油の輸出を減らすことを通告してきます。70年代後半以降、東ドイツはソ連産の原油を加工し西側に輸出することで外貨を獲得してきましたが、それが難しくなったのです。結局、東ドイツはこの危機を西側からの借款で乗り切っていきます。ウルブリヒトの西ドイツへの接近を批判したホーネッカーですが、結局は同じような状況に追い込まれます。
 ホーネッカーはまた、電子産業の投資によって経済的な活路を開こうとしましたは、COCOMの規制により西側から技術を導入するととは難しく、成功しませんでした。一方で、投資が控えられたインフラは荒廃し、消費財不足も深刻化します。西側の親戚から送られた商品が重要になり、80年代後半には商店での一般的な供給量を上回るまでになるほどでした(212p)。

 1985年のゴルバチョフの登場は東ドイツの政治環境を一変させます。ゴルバチョフと20歳年長のホーネッカーの関係はうまくいかず、ホーネッカーはソ連の改革から距離をとることとしますが、東ドイツ市民はゴルバチョフの改革を望みました。
 87年にホーネッカーは西ドイツを訪問し関係を強化しますが、関係を強化すれば人の移動は増え、西ドイツのメディアは東ドイツの反対派の動きを報じました。ソ連から離れるには西ドイツに接近するしかありませんでしたが、それは体制を不安定化させました。
 80年代になると、平和運動、兵役拒否運動、環境運動などの社会運動が活発化し、体制に対する反対派として成長していきます。

 このあたりからの動きに関しては、アンドレアス・レダー『ドイツ統一』(岩波新書)のまとめも参考にしてほしいのですが、さまざまな抗議運動や反対運動に対してホーネッカーの危機意識は薄く、適切な対処ができませんでした。
 89年の夏にホーネッカーは手術のために3ヶ月近く職務を離れますが、この時期にはハンガリーでの「パンヨーロッパ・ピクニック」をきっかけに東ドイツ市民の大量脱出が始まるなど、支配体制が一気に崩れ始めます。
 そして、89年10月にライプチヒで大規模デモが起こると、内務省は武力鎮圧の用意をしていたものの、内部からの反対もあって鎮圧には踏み切れませんでした。ここから”平和革命”が始まったとも言われます。デモを鎮圧してもソ連の支持は得られそうになく、西側からは借款を打ち切られるだけだったからです。そして10月17日にホーネッカーは解任されます。
 ここから事態はベルリンの壁の崩壊からドイツの統一へと急速に動いていくのです。

 本書を読んで強く感じるのは東ドイツの独特の立ち位置です。ソ連の影響を強く受けた社会主義国家であると同時に、分断国家として西ドイツとの関わりも持ち続けたことが、一定の豊かさをもたらした一方で、統治の難しさも生みました。西ドイツとの交流がある程度ある中では、生活水準は常に西側と比較され、そこから生まれる不満に政府は対処せざるを得なかったからです。このあたりは北朝鮮と韓国の関係と比較してみても面白いかもしれません。
 個人的にはコラムで人びとの生活実感などに触れてくれると、東ドイツの社会がよりわかりやくなったようにも思えますが、40年ほどの短い歴史を通じてさまざまなことを教えてくれる本になっています。
 

小口彦太『中国法』(集英社新書) 8点

 副題は「「依法治国」の公法と私法」。長年、中国の契約法を中心に研究してきた著者が、中国における具体的な判例に沿いつつ、中国の法の特質を論じた本になります。
 判例を中心に法学的な議論がなされているので決してとっつきやすい本ではないのですが、読み進めていくと中国の法、そして政治や社会の原理といったものまでが見えてきて非常に面白いです。
 さらに、中国の法制度は欧米流の刑事司法の原則や法の支配、あるいは立憲主義といった考えからは明らかずれている部分があるのですが、その「ずれ」は、実は一般的な日本人にとって比較的受け入れやすい考えでもあり、欧米で発展してきた司法制度そのものがかなり特異なもの(だからこそ貴重)だということが見えてくるような内容になっています。
 
 目次は以下の通り。

序章 私法か公法か、法律認識のギャップがもたらした事態―尖閣諸島国有化問題
私法編
第1章 “中国では法はあって無きが如し”か
第2章 悪魔の証明を強いられた日本企業―三菱自動車株式会社損害賠償事件
第3章 対日損害賠償請求における法と政治―「商船三井」船舶差押事件とその後
第4章 教室の学生の誰一人として賛成しなかった民事判決―広東省五月花レストラン人身傷害賠償請求事件
公法編
第5章 二つの憲法―沈涯夫・牟春霖誹謗事件
第6章 拷問による自白の強要―殺されたはずの妻が舞い戻ってきた余祥林事件と、憐れ刑場の露と消えた劉涌事件
第7章 中国の「法院」は裁判機関か―莫兆軍職務懈怠罪事件
第8章 表の法と裏の法―南剡鋒不法所得罪事件

 中国の法律については「遅れている」というイメージを持つ人も多いでしょうが、例えば、中国の契約法は最近の国際的な動向を取り入れた法律であり、国際性という観点からは日本よりも「進んでいる」とも言えます(19p)。
 ただし、個人の権利義務関係を定めた私法の領域においては欧米や日本と同じように機能していると考えられる中国の法も、公権力の行使にかかわる公法の領域ではその様相が変わっているというのが本書の見立てになります。そして、私法と公法の領域自体も日本とはずれがあるのです。

 そのずれが表面化したのが、日本政府による尖閣諸島の購入です。野田政権は東京都に購入されるよりはと、地権者から尖閣諸島の土地を購入し、登記の手続きをしました。所有権移転登記は日本では完全に私法の領域であり、公権力の行使ではないように見えますが、社会主義の流れをくむ中国では都市部の土地はすべて国有地であり、国有財産の権利は憲法に由来する公権となります。「国有化」は単なる所有権移転登記にすぎないという日本の主張は、中国の法の下では受け入れがたいものなのです。

 中国では民事訴訟の件数は多く、例えば契約をめぐる訴訟だけでも2016年には67万件以上の訴訟が受理されています(48p)。これだけの訴訟があるということは、紛争解決の手段として人々が裁判に期待を持っている証拠になるでしょう。
 市場経済の浸透とともに契約をめぐるトラブルは増えていますが、そこで中国では泣き寝入りしない人が多いのです。
 ちなみに、中国の契約は約定重視であり、日本の民法のように契約の種類ごとに「原則」のようなものがあるわけではなく、約定こそが原則という形になっています。

 第2章と第3章は日本企業が巻き込まれた事件を扱っています。
 第2章の「三菱自動車株式会社損害賠償事件」については、製造物責任をめぐる問題で、走行中のフロントガラスの突然の破損の責任をめぐって争われた裁判で、被告側の三菱自動車が証拠のガラスを日本に持ち帰って鑑定したという行為が原告側の欠陥証明を妨害したとみなされて三菱自動車が敗訴しました。著者は被告側の中国の法や司法制度に対する無知や軽視が招いた判決だと論評しています。

 第3章の「「商船三井」船舶差押事件」は戦時中の船舶徴用の賠償として中国に停泊中だった商船三井の船舶が差し押さえられた事件です。
 日中戦争当時の1937年に日本の大同海運が原告(の父)から貸借していた船が日本海軍が徴用し、それが沈没して返還されなかったことの損害賠償を求めたものになります。
 賠償を日本政府に求める場合だと、日中共同声明によって賠償権は消滅しているわけですが(被告となった大同海運の業務を受け継いだ商船三井や日本政府は本裁判でもこの主張をした)、中国はこの商船三井相手の訴訟を私人間の訴訟として取り扱いました。
 1930年代の出来事にどのような法を適用するのか?(当時は中華民国だった) あるいは、時効の問題などさまざまな問題を含んだ訴訟ですが(詳しくは本書を読んでください)、政治と裁判の関わりを感じさせる事件でもあります。

 第4章では、「広東省五月花レストラン人身傷害賠償請求事件」という事件が紹介されているのですが、章のタイトルにもあるように日本の司法からすると理解しがたい判決です。
 この事件は、原告が五月花レストランに行ったところ隣の個室で起きた爆発に巻き込まれ子どもが死亡、妻が重傷を負ったというものですが、この爆発は個室の客が料理とともに飲もうと思っていた酒に爆発物が仕掛けられていたことで発生しました。この事件において、原告は加害者ではなくレストランを被告として裁判に訴えたのです。
 普通、客が持ち込んだものに爆発物が仕掛けられているとは想像できず、レストランにはそれを予見する可能性や事故を防止する義務はまったくなかったように思われます(例えば、これが飛行機に爆発物が持ち込まれて爆発とかならわかりますが)。
 しかし、この事件の二審判決で二審法院は被告のレストランに30万元の補償を命じたのです。

 一審では被告は果たすべき注意義務を果たしており、不法行為はないために損害賠償は認められないとしました。日本で裁判をやってもこのような結論が出るでしょう。
 ところが、二審では被告の不法行為を認めなかったものの、「双方当事者の利益の均衡」という考えを持ち出して、補償を命じました。原告が受けた損害(家族の命)と被告の受けた損害(レストランの損傷と経営への打撃)を比べると、原告の受けた損害のほうが深刻であり、「社会各界」が原告に深い同情を示していることから、被告は原告に補償すべきだというのです。
 この判決に関して、清華大学教授の韓世遠は次のように述べています。

 二審は、輿論と民意に注目し、五月花レストランが補償すれば輿論の批判を引き起こさずにすむが、それをしなければ批判の的になると判断した。もしこのことが裁判を主導した決定力であるとしたら、これはその背後にある文化的特徴を反映するものである。それは”富を奪いて貧を救う”という文化的特徴である。(119p)

 こうした考えは、清の時代の裁判にはよく見られるものだったといいます。清代の民事裁判は地方長官が一段高い立場から双方に譲歩や妥協を求める「教諭的調停」をするものであり、そこでは「情理」のうちの「情」が特に重視されました。当事者の事情を汲むことによって、「法と理の厳格さを修正・緩和」(121p)したのです。
 こうした考えは、宋代の民事訴訟にはあまり見られず、清代になってから定着したものとのことですが、それでも中国の訴訟においてある種の伝統として機能していると言えそうです。

 後半では公法の分野が扱われていますが、ここにくると中国の裁判、あるいは法に関する考え方のずれが目立つようになります。
 第5章でとり上げられている「沈涯夫・牟春霖誹謗事件」は、沈涯夫・牟春霖の2人が、原告が上海に移住するために妻に精神病のふりをさせて精神病院に入院させたという記事を書き、その記事を見た人からの非難のために原告が正常な生活を営めなくなったというものです。その後の調べでは、妻が精神的疾患を持っていたが、移住するためい精神病のふりをさせたといったことはないということが明らかになっています。

 基本的には日本でもありそうな名誉毀損の裁判で、一審では原告の訴えを認めて損害賠償を命じています。二審でも原告の損害賠償が命じられているのですが、その判決の中では、憲法51条の憲法上の権利を行使するときに生じる義務である「国家、社会、集団の利益と、その他の市民の合法的自由と権利を害(そこな)ってはならない」という部分が引用されています。つまり私人間の名誉毀損の裁判に憲法が適用されているわけです。

 立憲主義憲法の下では、国家から個人の権利や自由を守るために憲法がありますが、ここでは憲法が表現の自由を宣言する根拠となっています。
 この51条の「国家、社会、集団の利益と、その他の市民の合法的自由と権利を害ってはならない」という規定は、「集会・デモ・示威法」などさまざまな法律に引用されており、市民の基本的権利一般を縛るものとなっています。
 では、51条の「「国家、社会、集団の利益」とは何かというと、それは憲法の序言に書き込まれた「党の指導」という部分になります(以前は「党の指導」と「社会主義」の2本柱だった)。中国においては「党政不分」、つまり党と公的な政治を分けることはできないのです。

 第6章では、2つの事件がとり上げられています。
 1つはしゃ(ひとやねに示)祥林という男が妻殺しの容疑で逮捕され服役したが、服役後に死んだと思われていた妻が帰ってきたという事件。2つ目の劉涌事件は、会社を経営しながら黒社会(犯罪組織)も組織していた劉涌が死刑になったという事件です。
 この2つの事件の共通点は、一審では執行延期のつかない死刑判決が出たものの、ニ審ではそれが覆された点で、その判決の背景には拷問の疑いが払拭できなかったことが考えられます。つまり、裁判では容疑者の有罪であろうという判断に違いはなかったものの、拷問があったかもしれないということを差し引いて執行延期のつかない死刑という一番重い刑罰が回避されたのです(劉涌事件に関しては二審では執行が猶予される死刑となりましたが、世間の反発が起こり(「民憤」という)、最高法院が再審に乗り出して執行延期のつかない死刑判決を出している。そして、この事件の裏には劉涌から政敵のスキャンダルをつかもうとした薄熙来の影があるとされる)。

 中国においては拷問がしばしば行われているようで、拷問の末に獄死するようなケースもあるといいます。
 そして、興味深いのが、中国では礼記などの古典にも登場し、唐代の法にもあった”疑わしきは軽きに従う”、つまり有罪どうか確信が持てない、あるいは拷問のような違法な手続きがあった場合は刑を軽くするという考えが、現代でも息づいているという点です(明代や清代にはみられなかったとのこと)。
 これは刑事司法の原則からするととんでもないことですが、もしも素人のみで裁判をしたら日本でも出てきそうな考えだと思います。警察が違法捜査をして真犯人を捕まえた場合、無罪を決断できる一般人は少なく、「減刑して有罪」が落とし所と考える人が多いのではないでしょうか。

 第7章では中国の法院がそもそも「裁判所」と言えるのか? さらに中国の「司法」をどう捉えるべきかという問題が検討されています。
 とり上げられている「莫兆軍職務懈怠罪事件」は、広東省四会市の法官(裁判官)だった莫兆軍が取り扱った民事事件で敗訴した被告が自殺をしたことがきっかけで法官の莫兆軍が職務懈怠罪で刑事告訴された事件です。
 この民事事件は借金の取り立てをめぐるものですが、実は借用書は被告が脅迫されて書いたものであり、このことは被告が自殺した後の捜査で判明しました。結果的に、ずさんな審判だったわけですが、だからといって担当した裁判官が刑事告訴されるような事態は日本では想定できないものでしょう。

 莫兆軍は一審こそ無罪でしたが、二審では「当該事件の処理意見を指導者に報告してから判決を下すことを求めるとの上司の支持に莫が従わ」(184p)なかったことが問題とされました。
 ここでも日本における「裁判官の独立」とはまったくちがった原則がはたらいています。結局、莫は上司の支持に従わなかったわけではなかったということで職務懈怠罪は成立しなかったのですが、日本では裁判官が判決について上司の支持を仰ぐこと自体が問題で、上司の意向を取り入れたらその方が問題となります。

 西洋の裁判官は「いかなる主人も持たない」ことが原則ですが、中国の法官はヒエラルヒー的な構造のもとで意思決定を行っており、そのあり方は行政官に近いものがあります。
 また、西洋の裁判官は「自らの下した決定に対して責任を問われることがない」(194−195p)ですが、中国の法官は莫のように責任を問われます。また、判決が確定した後でもしばしば再審がなされ、ときには法院が被告人に不利な方向で再審請求をすることもあります。
 マックス・ウェーバーは中国では「すべての裁判が行政の性質を帯びてくる」(197p)と述べましたが、その伝統はまだ続いていると言えるでしょう。

 第8章では、中国の「裏の法」について述べています。実は中国は1949〜79年まで30年間、刑法典も刑事訴訟法典も存在しない状態でした。当然、刑法典がなくても犯罪は起きるわけで、反革命処罰条例や、汚職処罰条例などを援用しながら裁判は行われていました。
 文化大革命の後に鄧小平が実験を握ると法典の整備が進み、2020年の民法典の制定をもって体系的な法体系が出来上がったと言えます。
 そうした事情もあるせいか、中国には公表されていない「裏の法」が存在し、それが裁判で明示はされないものの適用されることがあります。
 
 本章でとり上げられている「南剡鋒不法所得罪事件」は、南剡鋒という下級官吏の不正蓄財が疑われ不法所得罪で起訴された事件ですが、この蓄財が行われた1982〜85年にはこの不法所得罪は公布されていませんでした。しかし、82年に全人代常務委員委員会機関党組が先駆けて規制案を作成しており、それが内部規定として参照・試行するものとされていたのです。
 中国では法案の審議が常に公開されるわけではありません。「香港国家安全維持法」もまったくの密室で審議されています。法は秘密裏に作成され、ある時期に公表されるのです。そして、この公表されていない法がときとして裁判に適用されます。また、憲法に書き込まれた「裁判の独立」と「党の指導」のさじ加減を決めているのも党の内部文書になります。

 このように、本書は中国の異質な司法の姿を描き出しているのですが、面白いのはその「異質さ」は日本の一般の人々の常識と照らし合わせると、ある程度納得できる部分を含んでいる点です。例えば、第6章に出てきた「疑わしきは軽きに従う」という考えなどは、日本でも出てきておかしくない考えだと思います。
 ですから、本書を通して浮き上がってくるのは中国の司法の「異質さ」とともに、イギリスを中心とした西洋で発展してきた「法の支配」や「刑事司法の原則」といったものの「異質さ」でもあります。本書でも指摘されているように、日本にも北条泰時の御成敗式目に見られるような「法の支配」に近い考えが生まれたこともありましたが、やはり、「法の支配」や「刑事司法の原則」といったものは特定の歴史の中で生まれた特殊な考えでもあると思うのです。
 中国の法制度について知るとともに、中国と西洋という社会のあり方、さらにはその狭間に位置するような日本の社会のあり方についても考えさせられる非常に刺激的な本です。


竹中治堅『コロナ危機の政治』(中公新書) 7点

 武漢市政府がウイルス性肺炎の患者の発生を発表した2019年12月31日から、菅義偉内閣が成立した2020年9月16日までの期間をドキュメント風に追いながら、日本政府の対策と、それがなぜ必ずしも上手くいかない面があったのかということを分析した本。
 著者は政治学者であり、「安部一強」と呼ばれる政治情勢のもとで、「このコロナ危機に関してはなぜ首相の指導力が効果を発揮しなかったのか?」という問題意識を持ちながら、政府のコロナ対応を追っています。
 そして、浮かび上がってくるのが、副題に「安倍政権 vs. 知事」とあるように、「安部一強」となっても地方自治体への政府の影響力は限られるという日本の統治構造の姿です。
 このように本書はドキュメントとしても政治構造の分析としても面白いわけですが、特に現在第3波が襲来し緊急事態宣言が再び出されている中において、菅政権の対応を評価と今後を考える上でも役に立つ本と言えるでしょう。

 目次は以下の通り。
序章 コロナ危機
第1章 コロナ危機対応の見方
第2章 初動期
第3章 緊急事態宣言の発令
第4章 安倍政権の動揺
第5章 緊急事態宣言の解除
第6章 安倍内閣の終焉
第7章 首相の指導力への制約要因

 本書は、政府の新型コロナウイルスへの対応を追っていますが、3つの点に注目しながら事態を見ています。1つは政治アクターの相互関係、特に首相と知事の関係です。2つ目は検査、病床、保健所、検疫などの「キャパシティー」の問題で、3つ目は、未知の感染症に対応する中でどこかの対応が「先例」「モデル」となり、それが広まっていくという動きです。

 まず、政治アクターの問題ですが、現在の日本の政治の1つのポイントは、小選挙区比例代表並立制の導入と省庁再編と内閣府の強化によって首相の力が大幅に引き上げられた一方で、地方分権も進められたということです。1999年の地方分権一括法によって機関委任事務が廃止されたこともあり、中央ー地方の上下関係は大きく後退しました。
 感染症法では知事が対応のための大きな権限を持っており、政府が一律に対応を決めることができるわけではありません。ただし、すべての権限が知事に集中しているわけではなく、感染症対策を担う保健所は都道府県、政令指定都市、中核市、政令で定める市、特別区によって設置されており、知事が都道府県内の保健所を指揮できるというわけではないのです。
 新型インフルエンザ等対策特別措置法(特措法)の20条には政府による総合調整権が書き込まれているのですが、安倍政権の主要閣僚(本書で具体的にあげられているのは菅官房長官と加藤厚労相)は国が都道府県知事や市長や区長を指揮することには消極的でした(37p)。

 2019年の12月31日、共同通信と時事通信が初めて中国武漢市での原因不明のウイルス性肺炎について伝えています。しばらく大きな動きはありませんでしたが1月の半ばをすぎると死者が増え始め、1月23日には武漢市政府は都市封鎖を決定します。
 このときはまだ国内の危機感は薄く、政府は武漢市周辺の日本人を帰国させるための武漢オペレーションに注力しました。政府はチャーター機の派遣について中国政府と交渉し、帰国者についても厚労省は無症状者は公共交通機関で自宅に戻ってもらうことを考えていましたが、安倍首相はそれには問題があると考え、勝浦のホテル三日月などの宿泊施設を確保して収容します。
 ここまでは安倍政権の官邸主導のスタイルが上手くいったと言っていいでしょう。

 しかし、国内で感染が広がってくると、対応は徐々に後手後手に回っていくことになります。3月5日に中国からの入国禁止措置が発表されますが、これは習近平国家主席の来日に配慮して遅れたと批判されましたし、PCR検査を受ける基準に関しても、PCR検査のキャパシティーの問題もあって高いハードルが課され、国民の不満が高まっていきます。
 さらにダイヤモンド・プリンセス号の問題が追い打ちをかけます。船員と乗客3700人ほどが乗船していた大型クルーズ船内で集団感染が発生したのです。ここでも乗客を下船させて収容する施設がない、検査能力が足りない、病床も足りないというキャパシティーの問題に直面します。この問題には菅官房長官が中心となって対応しましたが、問題が長引く中で批判の声も高まり、さらにマスク不足などの問題も起きてきます。

 2月半ばからは感染者数も急速に伸びていくようになり、根絶ではなくピークを抑えることで医療のキャパシティーを超えないようにすることが目指されるようになります。「3密」を避けることとクラスター対策を柱とする対策の方針が打ち出されていくことになります。クラスター対策が重視された背景にはPCR検査のキャパシティーの問題もありました。
 2月の後半から3月の前半にかけて、感染者数が大きく増えたのが北海道でした。鈴木知事は2月27日からの小中学校の一斉休校を決断し、さらに28日には道独自の緊急事態宣言を出します。
 そして、この北海道の取り組みをモデルとする形で安倍首相も全国の小中学校・高校の一斉休校を決断します。首相と今井尚哉首相秘書官兼補佐官が主導し、萩生田文科相の反対を押し切る形で行われました。イベントの開催制限と併せて、踏み込んだ対応をとったと言えます。

 しかし、休校措置は必ずしも国民から歓迎されたとは言えず、2月の後半から感染が爆発的に拡大し始めた欧州からの入国制限については決断が遅れました。また、帰国者に対して停留を求めることは法的に可能でしたが、これには厚労省が反対します。鈴木次官は「内閣のためにならない」(103p)とまで言って反対したとのことですが、その背景には検疫所のキャパシティーの問題があったと考えられます。
 
 この頃になると都道府県の対策も活発化し、感染者の重症度に応じて入院先を一元的に振り分けるやり方が、大阪府を皮切りに各地に波及していきます。そして、このやり方は国レベルでも踏襲されていきます。
 さらに北海道におけるマスクの配布、特に北見市や中富良野町での日本郵政のサービスを利用した配布が、政府の布マスクの配布につながっていきます。

 こうした対策もあって3月の半ばに感染者の増加は落ち着きを見せますが、3月20〜22日の3連休あたりから人々の活動が活発化したこともあって、再び感染者は増加していきます。
 懸案だった東京オリンピックに関しては3月24日に1年の延期が決まりますが、中止がなくなったことで、東京都の小池知事が「ロックダウン」という言葉を使って強力な対策を主張するようになります。日本の法制度では外出の自粛は要請できても外出禁止を命令することはできないわけですが、世論はより強い対策を求めるようになっていきます。3月27日には小池都知事が緊急事態宣言について「まさにぎりぎりのところ」と述べると、30日には大阪の吉村府知事が「緊急事態宣言を出すべきタイミングだ」と述べ(136p)、外堀が埋まっていきます。
 一方、軽症者対策としては愛知県が県の宿泊施設を確保して利用することを打ち出し、東京都などもこの動きに追随します。国も宿泊施設の確保に動きますが官僚機構が苦戦していることを知ると、安倍首相は自らアパホテルの代表にかけあって協力を得ることに成功しました。

 4月に入ると、医師会などからも緊急事態宣言を出す声が強まり、安倍首相は4月6日の尾身茂会長との会談で4月7日に緊急事態宣言を出すことを決意します。緊急事態宣言については、麻生財務相や菅官房長官は経済への影響を考えて慎重でしたが、医療体制の危機などを背景に安倍首相は決断します。
 つづいて焦点は経済対策へと移っていきます。本予算が参議院で審議されているうちに補正予算の検討が始まるなど、動き出したとしては早かったものの、現金給付の額と範囲を巡って迷走することになります。また、この補正予算の前に全世帯に布マスクを配布することが決まりますが、補正への期待が高まる中で布マスク2枚という話が先行したことなどもあって、「アベノマスク」と揶揄されるようになっていきます。

 緊急事態宣言後の休業要請に関しても、小池都知事は宣言語すぐに広範囲に休業要請を行おうとしましたが、政府はすぐに休業要請を行うことや広い範囲に出すことに慎重でした。結局、小池都知事と西村康稔担当大臣との間で、一部の業種への要請を外すことを条件に休業要請を出すことが決まります。ここでは国と都が対立したわけですが、政府が総合調整権を講師することはありませんでした。
 こうなると他の都道府県も休業要請に動き、補正予算の「地方創生臨時交付金」を休業補償に使えるようにするように政府にはたらきかけます。当初は難色を示していた西村大臣でしたが、高まる圧力を前に認めざるを得ませんでした。

 このころになると、PCR検査だけでなく保健所のキャパシティーも限界を迎えてきます。こうした中で、新宿区が「新宿区新型コロナ検査スポット」を設置し独自の検査の仕組みをつくりますが、これが1つのモデルとして全国に波及していくことになります。
 ただし、東京では都と特別区の連携が不十分で、これが感染者がスムーズに入院できない要因となりました。

 緊急事態宣言発令後も安倍政権への風当たりは強く、布製マスクの配布、そして4月12日に安倍首相のツイッターに投稿された「うちで踊ろう」を使った動画が大きな批判を浴びます。医療資材の不足に対しても対策は行われ一定の効果はあげますが、問題を解消することはできませんでした。
 現金給付については、当初、住民税非課税世帯や収入が半減し所得が住民税非課税世帯の2倍以内の世帯に30万円給付ということで話が進みましたが、4月14日に二階幹事長が疑問の声を上げると、公明党も同調し、連立離脱をちらつけかせて10万円の一律給付を要求します。
 結局、4月16日には首相が譲歩し、10万円の一律給付が決まりますが、補正の組み替えの大義名分も必要となり、緊急事態宣言を全国に拡大することが決まります。

 5月になると感染者の増加も落ち着きを見せ、入院患者数も減少に転じます、そこで5月14日には39県で緊急事態宣言が解除され、16日には大阪で休業要請が緩和されるなど、徐々に平常への復帰へと動き出します。
 しかし、この時期の安倍政権は黒川検事長の定年延長問題に揺れ、支持率をさらに下げることになります。5月23・24日に行われた朝日新聞の世論調査では支持19%、不支持52%という数字でした(232p)。
 感染の抑制は進み、5月31日までを予定していた緊急事態宣言の完全解除は5月25日に前倒しされましたが、それでも安倍政権の対応が評価されるムードは生まれませんでした。

 緊急事態宣言解除後になると、PCR検査のキャパシティーも増強され、また接触確認アプリのCOCOAが投入されるなど、対策は強化されたかに見えました。ただし、病床の確保や保健所のキャパシティーの拡大に関しては順調とはいい難く、この後の第2波において再び問題となります。
 6月から「夜の街」、特にホストクラブでの感染が目立っていましたが、7月に入るとさらに感染が拡大します。7月11日に菅官房長官はこれは「東京問題」だと発言しましたが、この後から東京以外でも感染が拡大していきます。
 この第2波では、検査体制や治療体制が整備されたこと、感染者における高齢者の割合が少なかったこともあって、重症者はあまり増えず、政府も再度の緊急事態宣言には否定的でした。

 しかし、Go Toキャンペーンの取り扱いや帰省をめぐって政府と都道府県の足並みは揃いませんでした。
 政府は8月上旬を目処としていたGo Toトラベルを7月22日からに前倒しすることを決めましたが、多くの都道府県知事、特に小池都知事が疑問を呈したこともあって、東京のみを除外する形で始まります。帰省をめぐっても、政府は一律の自粛を求めませんでしたが、各県では帰省の自粛を求めるかなり強いメッセージが出されました。
 この第2波は8月7日をピークとする形で徐々に落ち着いてきますが、これは夏休みと国民の行動変容が重なったことによるものと考えられます。
 こうした中で安倍首相の健康問題が報じられるようになり、8月28日には安倍首相が辞任の意向を示します。そして9月16日に菅内閣が発足することになるのです。

 今回のコロナ危機を経験し本書を読むと浮かび上がってくるのが、「首相支配」が強化されたとはいえ、首相の力の及ばない領域も実は広かったということです。待鳥聡史『政治改革再考』で指摘されているように、平成の統治機構改革では、首相の権限が強化されるとともに、地方分権も進みました。中央の統治機構を完全に掌握したかに見えた安倍政権でも、自立した地方政府を従えることはできなかったのです(本書では特に指摘されていませんが、東京、大阪という2大都市で自民党の力が弱いというのも調整を難しくした一因かとも思える)。
 ただし、本書が指摘するように、地方で行われた施策がモデルとして他の自治体や国に波及して上手くいったケースもあります。この権力の分散についてはメリットとデメリットの双方があったと見るべきなのかもしれません。

 最初にも述べたように、本書は安倍政権の対応を振り返ることで、現在の菅政権の対応を評価する上での地図のような役割も果たすかもしれません。安倍政権において上手くいかなかった部分を菅政権がどのように乗り越えられるのか、本書を読みながら考えてみるのもよいのではないでしょうか。


東浩紀『ゲンロン戦記』(中公新書ラクレ) 8点

 批評家であり、思想家でもある東浩紀が立ち上げた株式会社ゲンロンのここ10年の歩みを自身が振り返ったもの。
 本書は、まず起業の記録として読めると思います。事業計画の甘さ、会計処理の重要性など、企業を経営するときに降るかかる問題点を教えてくれます。さらに、もう少し広く、「組織論」としても読めます。能力のある仲間を集めても必ずしも組織としては機能しないということを教えてくれます。
 そして、著者による現代社会論、特にネット論としても読めると思います。もともと、著者はネットの可能性に大いに期待していた人物ですが、どこが上手くいかなかったのか、今のネットのどこが問題なのかということが見えてきます。もちろん、この10年でネットはさらに影響力を高めており、このネットの問題は、現実の政治や経済ともつながっています。本書を読むことは、現代の社会のあり方を問い直すことにもつながるでしょう。

 本書は、ノンフィクションライターの石戸諭のインタビューをもとにした語り下ろしですが、非常に濃密な内容になっています。
 ちなみに自分はゲンロン友の会にも短い期間ですが入っていたことがありますし、ゲンロンカフェにも数回行き、著者のツイッターもフォローしているので、ここで書かれているトラブルの多くや著者の考えの変化も断片的には知っているのですが、一冊の本にまとまった面白さというのは大きい思います。

 目次は以下の通り
第1章 はじまり
第2章 挫折
第3章 ひとが集まる場
第4章 友でもなく敵でもなく
第5章 再出発
第6章 新しい啓蒙へ

 株式会社ゲンロンの前身の会社であるコンテクチュアズが立ち上がったのは2010年の4月、評論家の宇野常寛、社会学者の濱野智史、建築家の浅子佳英、そして本書ではXさんとされている5名で設立の準備が進められ、すぐに宇野氏と濱野氏は抜けることになりますが、基本的には著者に近い人物が集まった会社と言っていいでしょう。
 著者はこれ以前にGLOCOMの副所長をしていたことがあり、人件費などを確認する立場でしたが、事務をする人間が正社員で、研究員が有期雇用や業務委託であったことに疑問を持ったといいます。「コンテンツをつくる人間だけが集まる組織であるべきだ、経理や総務のような面倒な部分はすべて外注で賄うべきだ」(31−32p)というのが著者のスタンスだったのです。

 しかし、最初に出した『思想地図β vol.1』が3万部という異例の売れ行きを示したものの、内部での資金の使い込み、震災について特集を組んだ『思想地図β vol.2』の売上の1/3を寄付することをぶち上げてしまったことなどで、資金の面では余裕がなくなります。
 さらに、「思想地図β vol.3」にあたる『日本2.0』は、コストの掛けすぎ、部数の刷りすぎといった要因で、失敗し借金を抱えることになります。
 一方で、社員はゲンロンカフェを開業するなど、さまざまな事業にお金を突っ込んでおり、後に著者自らがそれの後始末をすることとなりました。
 その後、チェルノブイリ原発を自ら取材した『チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド』は良かったものの、2013年11月の『福島第一原発観光地化計画』が失敗したことにより倒産の危機に陥ります。スタッフも減らすこととなります。
 2014年末には経理を任せていた社員が辞職し、著者自らが領収書の打ち込み作業などに追われることになります。デジタル化が叫ばれる時代ですが、「それだけでは社員は仕事の存在を忘れてしまう」(79p)と著者は言います。データではない物理的な存在が重要だというのです。

 ただし、調子に乗って広げた事業の中の一つ、ゲンロンカフェが会社を救うことになります。当初に構想されていたシェアオフィス+バーのような形は実現しませんでしたが、カフェでのイベントとニコ生で中継が予想以上の収益をあげていくことになったのです。
 ゲンロンカフェのトークイベントの特徴は長いことで。書店でのトークイベントは1時間半ほどで終わり、その後はサイン会という流れが多いですが、ゲンロンカフェでは3時間超え、場合によっては終電になってもつづくようなイベントもあります。話す方にとっては負担が大きいようにも思えますが、その時間の長さが登壇者の話したい欲求を満足させ、話を思わぬ方向に導くものとなっています。

 ここで著者が以前から述べている「誤配」の考えも出てきます。狙った相手、狙った内容ではなく、意外なところにメッセージが届くことが重要だという考えですが、長時間のトークや観客との交流が、こうした「誤配」を生み出しているというのです。
 さらにこのゲンロンカフェから、芸術、批評、SF、漫画などのスクールが生まれ、これらもゲンロンの経営を支えていくことになります。

 また、著者はゲンロンカフェの成功の要因として価格設定をあげています。現在は前売り2700円、当日3200円(いずれもワンドリンク付き)で、ネット中継は1回1000円、見放題は当初9800円でした。
 これを高いか安いかと見るかは人それぞれですが、ネットのみを考えた場合は「高い」と感じる人が多いでしょう。しかし、ネットのいわゆる「フリー」戦略にのったり、月額2000円程度の価格にしたら、イベントの質は保てなかった著者は述べています。
 結果的に、現在では視聴者数が1000人を超えるイベントが月に1回程度はあるといいます。石田英敬をゲストに迎えた記号論の講義は900人を集めており、テーマからすると異例の集客と言っていいでしょう(110p)。そして、集客人数に応じて登壇者のギャラを増やすような仕組みも取り入れています。

 著者はある種の非合理性を大事にしており、TEDのスーパープレゼンテーションのような無駄のない主張ではなく、ときにメインの主張から外れるような部分こそが重要だと考えています。そこにこそ「考える」契機があるというのです。
 スクールについても、正規のプログラムが充実していることはもちろんですが、スクールが終わった後に行われている飲み会などがつくりだすコミュニティがゲンロンスクールの強みだといいます。今の大学では「親密さはリスク」(124p)と考えられていますが、ゲンロンスクールは大学ほどリスクを恐れずにそうした空間を生み出せるのです。
 また、スクールの卒業生が必ずしも自立する(芸術家になる、SF作家になる)とは限りませんが、良き「観客」になるのであればそれにも大きな価値があると著者は考えています。今はみんながスターを目指している社会で「新自由主義とSNSがその傾向を加速した」(128p)のですが、著者は原理的にそれは不可能で間違っているといいます。「観客」を含めた良きコミュニティが文化を作り出すのです。

 「観客」と似ていますが、もう1つ著者が持ち出すのが「観光客」という考えです。
 前にも述べたように、著者は2013年の4月にチェルノブイリを取材し『チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド』という本を出しています。「観光地化」されているチェルノブイリに強い印象を受けた著者は、この体験を共有できないかと考え、自らチェルノブイリへのツアーを企画し、今まで5回開催しています。
 ちなみに現在、ゲンロンの代表を務める上田洋子はチェルノブイリへの取材をきっかけに著者と知り合い、ゲンロンの活動に加わっていくことになります。

 この取材やツアーを通じて著者が重要だと考えたのが「観光客」の視点です。チェルノブイリを取材した日本人というとジャーナリストの広河隆一がいて、その成果は『チェルノブイリ報告』(岩波新書)にまとめられています。この本には健康には問題がない、自然は回復しているという声も拾われていますが、彼のチェルノブイリは「死の大地」であるというフレームは揺らいでいません。
 しかし、それほどチェルノブイリに詳しくなかった著者らは、イメージとの違いに衝撃を受けます。取材の目的がはっきりしていなかったことがむしろ良かったというのです。ガイドブックを手にして現地を訪れて、ときに裏切られる。そうした「観光客」の視点こそが重要だと著者は訴えています。
 ただし、福島に関しては上手くいかないところもあり、『福島第一原発観光地化計画』は商業的に失敗し、社会学者の開沼博とは福島とのコミットをめぐって決裂しています。
 一方で、「観光地化計画」の中で知り合い、ゲンロンのメルマガでの連載をまとめた小松理虔『新復興論』が大佛次郎論壇賞を受賞し、「友」でも「敵」でもない関わり方というものの可能性を示しました。
 
 2015年からは今までの『思想地図β』に代わって『ゲンロン』という雑誌の刊行を始めます。毎号スタイルを変えていた『思想地図β』とは違い、『ゲンロン』は一般的な論壇誌と同じ判型で日本の「批評」の伝統を受け継ごうとする内容でした。
 浅田彰へのインタビューが載った『ゲンロン4』は1万部超え、著者の書き下ろしとなった『ゲンロン0 観光客の哲学』は3万部超えのヒットとなり、毎日出版文化賞も受賞しました。ここでゲンロンは一時期の経営危機からは完全に抜け出し、会社の体制も拡大していきます。
 しかし、この体制の拡大が再び危機をもたらすことになります。まずは独自の動画配信プラットフォームをつくろうと、著者の読者でもあったエンジニアに業務を委託しますが、これがうまくいきませんでした。また、経理を手伝ってもらっていたアルバイトがやる気を見せていたので、社員にしたところ、彼がアルバイトを増やすなど経営者的な動きをし、経理が放置されるという事態が起こります。結局、彼は退社するわけですが、それに伴ってアルバイトも次々と辞め、2018年末には著者はゲンロンを畳むことを決意します。著者は変な話だが、自分が「ゲンロンに搾取されているという不満をいだいていた」(212p)と言います。

 一度は会社自体をやめることを決意した著者ですが、周囲の説得や上田洋子が自ら代表になると言ったことで、ゲンロンは存続します。当初は自分が代表でなければゲンロンは回らないと考えっていた著者でしたが、自らが経営にかかわらなくなっても、というかかかわらなくなったからこそうまく回るようになった面があるといいます。
 著者は「ゲンロンを強くするためには「ぼくみたいなやつ」を集めなければならないと考えていた」のですが、「でも、その欲望自体が最大の弱点だった」(220p)ことに気づきます。新しく代表となった上田洋子は「ぼくみたいなやつ」ではありませんが、それが組織を上手く回すこととなり、ゲンロンに根強くあったホモソーシャル性から距離をとることにもつながったといいます。

 こうして安定したゲンロンの経営ですが、コロナ禍はゲンロンカフェやスクールの運営に大きな影響を与えています。スクールの後の飲み会にこそ勝ちがあると考える著者にとって、単純なオンラインへの移行は解決にはなりません。著者は現在の状況について次のように述べています。

 感染症への恐怖に駆動されて、多くのひとが、「オンラインで可能な清潔な情報交換だけがコミュニケーションの本体であり、感染症リスクの高い身体的接触はノイズである」と考えるようになってしまいました。
 コロナ禍が長期的な負の影響を残すとしたら、まさにこの価値観こそがそれだと思います。コロナ禍のもとで、多くの人々は、かつてにもまして「誤配」を避けるようになってしまった。(235−236p)

 そんな中で著者が取り組んでいるのがシラスというどいうが配信のプラットフォームです。以前、取り組んだ配信のプラットフォームの計画は挫折しましたが、紆余曲折を経て2020年の10月にサービスがスタートしています。
 シラスのポイントはスケールを追わないことで、Youtubeのように100万人の視聴者の獲得を目指すようなものではありません。無料放送はなしにして、小さなスケールでもサービスが成り立つような仕組みとなっています。
 ここでもキーとなるのは「観客」という考えで、無料でのべつ幕なしに人を集めるのでも、会員制のサロンのようでもなく、「友」でもなく「敵」でもなく、興味を持ってお金を払う「観客」を集めたいと著者は考えています。
 そして、著者は、啓蒙とは人は「見たいものしか見ようとしない」という前提を持った上で、「彼らの「見たいもの」そのものをどう変えるか」であり、「啓蒙というのは、ほんとうは観客をつくる作業」(259p)だと言います。「信者」ではなく「観客」を、というのが著者のスタンスなのです。

 以上が、本書のまとめですが、最初にも述べたようにさまざまな楽しみ方ができる本だと思います。本書は「ある起業家の悪戦苦闘の体験記」としても読めますし、「ネット社会に対する東浩紀の応答」としても読めますし、「東浩紀のここ10年の自伝」としても読めるかもしれません。それだけ「入り口」の多い本だと言えます。そして、この「入り口」の多さが、著者の言う「誤配」という考えの実践にもなっていると言えるでしょう。
 個人的には最近、興味が「人文知」的なものから「社会科学」的なものに移行しているので、近年のゲンロンの活動は追えていないのですが、著者の「ファン」ではなくても非常に面白く読める本だと思います。


鈴木亘『社会保障と財政の危機』(PHP新書) 7点

 経済学者で、社会保障を専門とする著者が、コロナ危機で露呈した日本の社会保障の問題点と、危機の中でこそ行う改革を論じた本。タイトルからすると、財政危機への警鐘をメインにした本にも思えますが、「消費財減税は可能」と主張するなど、「財政再建をしないと大変なことになる」と主張する本ではありません。危機における財政出動は当然のものとして認めつつ、膨張する社会保障費をいかに効率化していくべきかを考えています(実は著者には『財政危機と社会保障』(講談社現代新書)という2010年に出版されたよく似たタイトルの新書があるのですが、このときはもっと「財政危機」が強調されていたと思う)。
 著者は、経済学者として経済学の観点から乱暴とも思える議論をするときと、現場を知る人間として実際の現場での経験をもとに政策を組み上げていくという二面性があるのですが(後者の側面がよく出ているのが「あいりん地区」の改革に取り組んだ『経済学者 日本の最貧困地域に挑む』で、この本は非常に面白い)、今回の本でも両方の面が出ていると思います。

 目次は以下の通り。
第1章 新型コロナ対策と経済をどう両立させるか
第2章 戦後最大の経済対策はやりすぎか
第3章 「働くと負け」の生活保護制度をどうするか
第4章 医療崩壊はなぜ、簡単に起きてしまうのか
第5章 目前に迫る介護崩壊
第6章 デフレで終了する「年金100年安心」
第7章 コロナ禍の中でこっそり通った年金改革法案の謎
第8章 消費税減税は実施可能
第9章 ベーシック・インカムは実現可能か

 本書の冒頭では、近年の日本に関して、08年のリーマンショック、11年の東日本大震災、20年のコロナ禍と、「100年の1度」の事態が立て続けに起こっている状況だと形容しています。
 コロナ禍の特徴は、危機が現在進行系である点で、特に危機対応と経済の状態がトレードオフの関係になっているのが厄介です。日本では失業率と自殺死亡率の間に高い相関があり(16p図表1−1参照)、経済の悪化を無視して厳しい対策を取れば自殺者が増える恐れがありますし、経済優先で対策を取らなければ、コロナによる死者が増える可能性もあります。

 そこで経済と感染抑制対策のバランスをとることが重要になるわけですが、著者はトレードオフの構造自体を変えるような政策を取ることも重要だといいます。
 まず、1つ目の策は無駄を承知で医療のキャパシティを拡大するというものです。コロナ用の病棟が空いたとしても政府が金銭的な補償をすることで病床やスタッフをキープしておき、対応能力を確保します。
 また、都道府県間の医療資源の融通や、患者の減っている中小医療機関のスタッフを大病院に回す仕組みを作る。死亡リスクの高い高齢者のみに外出制限などをかける、子どもと同居する高齢者には一時的に別居するための補助を行う、高齢者が地方に疎開するための「GO TO 観光疎開」制度、テレワークの推進、時差通勤へのインセンティブの導入などがあげられています。

 第2章では経済対策が評価されています。
 まず、今回のコロナ危機は需要ショックなのか、供給ショックなのか、といった問題がとり上げられています。リーマンショックは需要ショック、東日本大震災は供給ショックとなりますが、今回の危機はどちらとも言い難いものとなっています(ただし、危機の前に消費税増税による需要ショックがあった)。政府の命令や自粛により需要面と供給面がそれぞれ制限されているような状況です。
 ですから、消費税増税など需要ショックに対応しつつ、先述した感染症対策と経済のトレードオフ構造を変えるような部分に財政支出を行うべきだというのが著者の主張です。
 こうした点から、著者は10万円の一律給付に対しては批判的です。給付金の消費喚起効果は限られていますし、支給対象には高齢者や公務員といった減収のなかった世帯も含まれています。また、それ以外のメニューに関しても既存の政策とタブっているものが多く、複雑です。そこで著者はワンストップの相談窓口をつくり、待っているだけではなく、困っている人にアプローチする姿勢が必要だといいます(例えば、学校でプリントを配るなど)。公共事業に関しては、ITインフラへの投資を積極的にすべきだとしています。

 財政の悪化に関しては心配しつつも、近いうちの財政破綻はないだろうという立場です。だから、現在で増税などの財政再建の動きを今の時点で示すべきではなく、財政再建は将来へのコミットメントにとどめておくべきだとしています。また、財政再建の方法としては景気が回復した後の中高所得者への所得税の増税がベストだと考えています。

 第3章では休業補償制度や生活保護をとり上げています。
 今回のコロナ危機では有効求人倍率はリーマンショック並に下がっていますが(65p図表3−2参照)、失業率は比較的抑えられています(66p図表3−3参照)。これは休業補償制度が拡充されダムの役割を果たしているからです。
 しかし、著者はこの休業制度の長期化は問題だと考えています。休業補償と失業給付では休業補償の方が有利な設計であり、しかも休業した上で失業した人は、失業した人に比べて長期間の給付を受けられて不公平だからです。
 将来性のない企業に務める人が休業補償を受けるよりは、失業して職業訓練を受けたほうが良いと著者は考えており、休業補償を延長するよりは失業を顕在化させるべきだとしています。また、廃業に対して補助を行うのもありだとしています。

 生活保護については2020年6月までの段階では受給者は特に増えていません(80p図表3−5参照)。これは休業補償制度や給付金などのおかげと考えられますが、コロナの影響が長期化すれば生活保護受給者の増加は避けられません。
 生活保護受給者はリーマンショックの後、大きく増加しましたが、景気回復後も大きくは減少していません。これは高齢化の影響も大きいのですが、著者は働ける層が生活保護にとどまり続けてしまっており、その背景には「働き損」となる現在の生活保護制度の問題があると考えています。
  そこで著者はリーマン・ショック後の厚生労働省の通達を改めて、生活保護の受給に稼働能力要件を求める形に戻すべきだと主張しています(つまり働けるのであれば原則的に生活保護は受給させない)。その代わりに求職者支援制度を拡充すれば、例えばヘルパー資格→介護分野での就職といった具合でいけると考えているようです。

 第4章は医療について。まずは日本の病床数が多いにもかかわらず、コロナ危機において「医療崩壊」が叫ばれたことがとり上げられています。 
 著者によれば、その要因として厚労省の感染症対策のレベル設定が高すぎたこと、人材などの面で一般病床での受け入れを増やせなかったこと、そもそも都市部では一般病床の削減が進められていたことなどをあげています。そして、厚生労働省が思い切った金銭的なインセンティブをつけなかったこと、都道府県ごとの医療資源の偏在、勤務医不足などがこの状況に拍車をかけました。
 著者はこうした問題の背景に、現在の中医協で診療報酬などが全国一律で決まっていくシステムがあるとみています。勤務医の不足の対応としては開業医の報酬を引き下げ、勤務医に回すことが必要ですが、中医協では開業医が中心の日本医師会の影響力が強く、こうしたことを大胆に行うことは困難です。そこで、都道府県別の地域版中医協をつくり、国の中医協と、日本医師会の影響力を削ぐことを提唱しています。
 また、「病床取引市場」を設けて、病床が欲しい病院と余っている病院で病床の売買を行わせることなども主張しています。

 第5章は介護について。介護は三密が避けられない分野であり、デイケアやデイサービスなどの通所介護は特に大きな打撃を受けています。
 こうした事態に対して、厚労省は人員基準配置の緩和や特例的な介護報酬の上乗せ措置などの素早い対応を取っています。これは医療分野と違い、介護分野では厚労省が規制や介護報酬決定のグリップを握っているからです。
 しかし、コロナ禍が長期化すれば介護事業所の廃業、介護サービスを利用できないことでの健康状態の悪化、家族への負担の増大、介護離職の増加などが考えられます。著者は、介護事業者へのさらなる支援と、介護を行う家族への支援が必要だと主張しています。

 さらに、著者はこのコロナ禍を機に介護保険の抜本的改革を行うべきだと言います。2019年4月の段階で介護ヘルパーの有効求人倍率は14.75倍でしたが(124p)、この背景には報酬の低さがあると考えられます。報酬を他産業並みに引き上げようとすると、月額5896円の介護保険料を月額7000円程度に引き上げる必要があります。
 政治面・経済面から考えるとこの引き上げはなかなか難しい状況であり、そこで著者は混合介護の導入を提唱しています。要介護者と同居する人への調理などのサービス、ヘルパーの指名などを保険外で行うことを認めることで、より柔軟な料金の徴収を認めるべきだというのです。
 また、特定の時間にサービスが集中することを避けるために「ピークロード・プライシング」的な料金設定を行うべきだとも言っています。例えば、昼食のサービスに関して11時台や13時以降の料金を引き下げるなどして、需要の分散を図るのです。大学生などにヘルパー資格取得の費用を援助することで短時間勤務のヘルパーを増やすことも提案しています。
 さらに、家族で介護する人に現金給付を行うべきだとしています。ドイツや韓国ではこれが行われており、家族介護に対する現金給付は介護保険の財政にもプラスだと言います。
 長期的な視点としては、高齢化が進んでいる県(秋田県など)では2020年代で高齢化率がピークアウトする一方で、東京では高齢化率が上がり続けます(141p図表5−1参照)。高齢者の地方移住を促進する政策も必要だとしています。

 第6章と第7章では年金が扱われています。
 年金に関しては「年金100年安心」というキャッチフレーズが用いられていますが、著者はこれを厳しく批判します。2004年の年金制度改革によって、マクロ経済スライドが導入され、年金制度は長期的に持続可能のなったと言われていますが、マクロ経済スライドはデフレ時には発動されず、年金カットが実現できたのは2015年、2019年、2020年の3度しかありません。結果的に現在の年金は過剰給付となっており、そのツケは将来世代に回されています。
 5年ごとに年金の財政検証が行われていますが、その前提は非常に甘いものであり(160p図表7−1参照)、現実的な想定では2043年ごろに所得代替率50%の維持は不可能になります(165p図表7−2参照)。
 2020年にコロナ禍の中で年金改革法案が成立しましたが、小手先の改正にとどまっており、年金財政を改善作用な施策はありません。著者は、今こそデフレ下でもマクロ経済スライドを発動させる制度改正を行い、過剰給付を是正すべきとしています。また、年金の支給開始年齢も70歳まで引き上げることが必要だとしています。

 第8章では消費税減税について検討しています。年金財政を心配しているスタンスなどから消費税減税には反対の立場かと思いきや、消費税減税はありだという立場です。消費税減税はストレートに消費を喚起する施策であり、企業のIT投資なども後押しする可能性があります。時限的な消費税減税は、駆け込み需要を生み、給付金よりも優れた施策だとみています。
 消費税は社会保障目的の財源と位置づけられており、それを理由として消費税の減税に難色を示す識者も多いですが、消費税は制度的に社会保障と紐付けられているわけではありません。消費税を減税したからといって、社会保障を削減する必要はないのです。
 
 このように書いていくと、著者は財政拡張論者のように聞こえますが、そうではありません。著者の狙いは消費税と社会保障の紐付けを弱めることで、社会保険制度への税金の投入を削減することであり、狙いは社会保険制度の自立化と社会保障分野での規制緩和にあります。
 現在、年金にしろ医療にしろ介護にしろ、保険という形を取りながら多額の公費が投入されています。著者はそれがどんぶり勘定と過剰規制を招いていると言います。そして、規制緩和によって社会保障分野を成長産業に転換できるというのです。

 第9章はベーシックインカムについて。今回のコロナ禍で働けない人が出てきた中、改めて注目をあびたベーシックインカムですが、著者は注目すべきアイディアであり実現可能性もあるという立場です。
 国民一人当たり8万円、15歳以下6万円ならば必要な金額はざっと117兆円で、ベーシックインカムによって削減可能な歳出(生活保護、基礎年金、配偶者控除など)が100兆円(217p図表9−1と221p参照)。あと17兆円の財源があれば実行可能であり、これは所得税の増税や歳出削減で十分対応可能です。
 なお、給付付き税額控除(一定以下の所得の人には一定所得になるまでの給付を行う)でもベーシックインカムと同じ効果が得られますが、そのためには所得の正確な把握が必要になります。

 最初にも書いたように、本書には、著者の困窮者の実態をよく知っていてミクロ的に行き届いた対策を取ろうとする部分と、経済学の理論に従って社会保障を大胆に作り変えようとする部分の両方の面が現れています。
 後者の部分に関しては、アメリカの医療制度を見ればわかるように、医療や介護に民間の競争を取り入れたからといって必ずしも効率的な運用がなされるとは限らないと思いますし、ベーシックインカムにしても障害者などをどうするのか? 月8万のベーシックインカムで生活保護が代替できるのか? といった疑問も残ります。ただし、前者の部分に基づいた時論的な部分については得るものも多いと思います。
 なお、年金改革に関しては、『年金は本当にもらえるのか?』(ちくま新書)などで主張されていた積立方式への移行は引っ込められましたね。やはり現実の社会保障制度を大きく動かすのは大変なのだと思います。


荒木田岳『村の日本近代史』(ちくま新書) 9点

 なんとなく我々は、鎌倉時代以降に成立した自治的な組織である惣村が、人々の共同体として江戸時代に受け継がれ、それが明治期に行政単位として再編されていったというイメージを持っています。江戸時代には共同体としての「自然村」のようなものがあったと想定されがちです。
 しかし、本書ではそうした自然村は一種の幻想であり、村というのはあくまでも支配のための「容器」であったと主張します。そして、そのことを証明するためにあくまでの支配者の目線に立ちながら、太閤検地以降の村の変遷を追っていくのです。
 このように書くとなかなか硬そうな内容ですし、実際に硬い本なのですが、全体を通して非常に刺激的な議論が行われています。
 私たちは権力者が制度を制定すれば、その通りに物事が運ぶと考えがちですが、そうはならなかった部分を丁寧に見ていくことで、今までとは違った歴史が立ち上がってきます。

 目次は以下の通り。
序章 村概念の転換
第1章 村の近代化構想―織豊政権期
第2章 村の変貌と多様化―幕藩体制期
第3章 村の復権構想とその挫折―明治初期
第4章 土地・人・民富の囲い込みと新たな村の誕生―明治中期
終章 「容器」としての村

 一般的に「村」というと、一定の領域があり、その中で共同生活が営まれているとイメージされます。
 しかし、歴史的にみると支配者が把握しようとしたのは「人」であり、「領域」ではありませんでいた。律令制における戸籍制度や税制などを思い浮かべると、そうだったことがわかると思います。
 では、村を「領域」として把握しようと考え始めたのはいつのなのか? 著者によれば、それは秀吉の太閤検地からになります。

 この時代は大航海時代でもあり、スペインとポルトガルは世界を「分割」しようと考えました。地球の有限性が認識されるとともに、世界を「分割」して「囲い込む」動きが起こったのです。
 著者は太閤検地をこうした流れの中に位置づけます。秀吉はいわゆる「天下統一」を成し遂げ、戦争や紛争を全面的に違法化していくのですが、それを実現するための政策が石高制にもとづく土地政策になります。
 
 信長は一部の家臣に領国の自由裁量を委ねる全権を与えましたが(これを「一色進退」という)、秀吉は領知権(貢租収納権)と所有権を分離し、前者を領主に、後者を百姓に与えました。
 これによって、その土地を先祖代々受け継いできた領主はあくまでも一時的な領知権を持つ当座の領主となりました。秀吉は全国の領主を交換可能な「石高官僚」にすることを狙っていたのです。そのために、所有権を百姓に与えるという思い切った方針がとられました。
 しかし、それを行うには領地が交換可能ではなければなりません。そこで、その交換可能性を担保するのが石高制です。度量衡を統一して、全国の耕地を測り、全国の土地を「石高」という数字に換算することで、例えば、近江10万石の大名を遠江10万国に転封することが可能になるのです。

 ただ、現実には難しい部分もあり、「石高」という言葉一つとっても、生産高として使われている所もあれば、年貢高として使われている所もあります。実際に集めた年貢高から逆算して生産高としての石高を求めたような所もあったとのことです。
 またこの時、同時に村を再編成し、その領域を確定する「村切り」も行われましたが、どちらかというと年貢高の確保が優先されたために、この「村切り」は不徹底に終わったようで、この後も境界紛争は頻発しています。
 当時は村請制が広がりつつあり、実は村請制がしっかりと機能している限り、村の中の実際の耕地のありようや、村境の問題は放置していても年貢は徴収できます。現場では実測ではなく、村との交渉の中で石高が決まっていったケースも多かったのでしょう。ただし、これによって百姓は課税に同意したともとれます。

 この時期には刀狩りも行われています。これは農民から完全に武器を奪い取るものではありませんでしたが、これによって身分の違いがよりはっきりするようになりました。さらに人掃令も出されたことで、武士と奉公人が峻別され、城下に住む家臣(士)と村々の地侍(兵)が分離されました。
 領主には領知権のみを認め、一定期間で転封させる。そのときには家臣(士)のみがついていき、百姓はその土地にとどまって次の領主の支配を受ける。これが秀吉の狙いであり、著者はこれに「近代化」という言葉を当てています。

 しかし、この「近代化」は未完に終わります。
 まず、江戸幕府が成立してしばらくすると転封があまり行われなくなり、秀吉の目指した全国の領主を交換可能な「石高官僚」にする計画は頓挫します。幕府の社会全体の安定のために「末期養子の禁」を緩和するなど、領知権も次第に相続されるものとして認識されるようになります。
 各地の検地では独自の間尺が使われるようになり、度量衡の統一も崩れます。さらに新田だけで独自の間尺が使われるようなケースもあり、統一的に土地を把握するという太閤検地の目論見は崩れていきます。
 関所や湊での口銭の徴収も見られるようになりますが、これらは信長や秀吉が廃止しようとしたものであり、権力の分散化を示すものと言ってもいいかもしれません。

 江戸時代においては、城下には武士と町人がそれぞれ決められた区域に住み、百姓は村方に住むことになっていました。
 ところが、江戸では人口増加によって町は拡大していきます。また、武士の中には町人に屋敷を貸すものや、町人地・百姓地を買って賃貸する者が現れます。幕府はさんざん禁令を出していますが、決まった石高を相続する武士の暮らしは時代を減るごとに厳しくなっており、生きるために不動産収入に頼らざるを得ませんでした。江戸時代末期になると薩摩藩主・島津斉興が町並抱屋敷を自らの名義で購入し、自らの名義で年貢・町入用を収めています(76p)。年貢などの税さえ納めればその内実は問われなくなっていくのです。

 さらに都市化の進行によって百姓地が蚕食されていきます。江戸時代にもスプロール現象のようなものが起きていたのです。
 江戸時代の初期に「田畑永代売買御仕置」が出され、田畑の売買は罰則付きで禁止されていたはずでしたが、実際の取り締まりは緩く、藩によっても売買を認めているところがありました。
 こうした売買とともに、江戸の周辺では町人地が拡大していきます。人別は町方で、土地・高方は村方で扱うという変則的なケースも出始め、さらに村方に従来どおり貢租を負担する条件で新町の建設が認められたりもしていきます。
 「人別は町方、土地・高方は村方」というややこしい形ができたのは、貢租収納の手数料などを受け取っていた村役員らの抵抗があったためと考えられます。

 さらに「村」も所有権の移転や新田開発等で変化を迫られます。
 もともと、太閤検地のときでさえ、村を「領域としての村」として定義したはずなのに、「入作」の記述が見られます。複数の村にまたがって耕地を持っている場合、その人物は複数の村のメンバーになるのではなく、あくまでも他の村に本籍があるイレギュラーな存在でした。ここでは「人間集団としての村」の性格が現れています。
 また、太閤検地当時の日本ではどこの村にも属さない山野河海が広大にありましたが、時代が下るにつれてこうした地域にも新田開発の波が押し寄せます。
 特に江戸時代初期には大名の関与などを得て沖積平野の新田開発が行われます(領主が転封が行われないという前提で投資していたということでもある)。江戸時代初期には新しい村を創設する「村立開発」、元禄期以降は既存の村に石高を付け加える「持添新田」という形が多かったですが、これらの動きも村の再編を促します。
 特に「持添新田」においては、新田は村と地続きで開発できるものとは限らず、各地で飛び地が発生しました。また、新田開発奨励のために貢租が低く抑えられたこと、石高も低めに抑えられたこともあって、統一的な石高制は形骸化していきます。さらに大規模な検地が行われなくなったことから、各地で隠田、切添(耕地の脇を開墾したもの)、切開(許可を得ず原野を開墾したもの)が発生し、明治期には約4割の耕地が検地帳から漏れていたといいます(99p)。
 こうして石高以上の米が生産されるようになり米価は低迷していきます。そして、石高制の根幹を揺るがすようになっていくのです。

 転封が実施できなくなると、飛び地の形でしか論功行賞にもとづく加増を行えなくなります。結果として、譜代大名や旗本の分散知行が進行し、本拠地よりも飛び地の方が大きいという足守藩のような藩も現れます(107p)。数字の帳尻を合わせるために村までもが細切れになり、1つの村に複数の庄屋・名主が置かれたりもするようになります。
 村の分割と言っても、あくまでも領主が違うだけで村の一体化は保たれたケースもあるようですが、一方で、村の祭りを1日違いで行うなど、村の中に村ができたようなケースもあるようです。さらに、河川の流路変更などによって飛び地が生じるケースもありました。
 こうした飛び地や分散知行は非効率であり治安の面でも問題でした。そこで天保の改革では上知令が出され、三方領知替えが試みられるのですが、これは現地の領民の抵抗もあって失敗します。秀吉の掲げた理念はもはや通じなくなっていたのです。

 明治維新で成立した新政府は、当初は幕府領だけで運営されており、財源の拡大が急務でした。そこでまずは旗本領の上地を試み、さらに各藩の飛び地を近接の府県に還納させようとします。しかし、飛び地整理に対する抵抗は大きく、行き詰まります。
 1871年5月に交付された統一戸籍法では身分別の人民の把握が放棄され、居住地編成主義に取って代わられます。先程述べたように、これは崩れつつあった町方・村方の区別に対応したものでしたが、これが土地と人間の関係に大きな転換をもたらすことになりました。
 71年の8月には廃藩置県が断行されます。これによって飛び地の整理は用意になり、機械的に府県が統合されていきます。今までは「村(あるいは細分化された村)」を集めて石高をつくり「藩」とするような形で支配体制が組み上げられましたが、今度は国をいくつかの府県に分割し、さらにそれをいくつかの郡に分割する形で支配体制が上からつくられていくことになったのです。

 こうなると問題になるのは末端の村です。新政府は、当初、飛び地や分散知行などを解消することで旧来の「村」を復活させて行政を担わせようとします。
 ところが、同じ「村」といってもその性格はばらばらで、一町村あたりの平均戸数は長崎県が321、香川県が259に対して、若松県は31、酒田県は38と、地域によってその規模も全く異なっていたのです。村役人の選出法などを含めて考えると、「地域によってまったく性格の異なる「村」を、同じ名前で読んでいた可能性がある」(153p)のです。
 そこで新政府は「区」をつくって、そこに戸長を置き、行政事務に当たらせます。

 1872年3月、明治政府は田畑永代売買の禁を解きます。これは現実を追認したものと言えますが、新政府にはこれとともに地券を発行し、それをもとに課税を行おうという意図もありました。また、同時に武家地や町人地からの税の徴収も行われるようになります。
 当初、地券の発行は検地帳の記載内容に基づいて行われるはずでしたが(つまり実際のものとは相違があることは仕方がないと考えていた)、検地帳がない、検地帳への記載がないなど、地券の発行は困難を極めます。
 1873年7月に地租改正がなされますが、ここでも土地の調査などは行われず、秋田県の場合でもまずは地租目標額を決め、地租米の4倍を収穫米として、そこから村との交渉などによって地価を算出していきました(175p)。結局、個別の地価をどうするかは村に任された部分もあったようです。
 また、この過程で石高制が廃止され、土地は面積というわかりやすい指標で把握されることになりました。度量衡の再統一も進んでいます(ただし75年までは基準を統一せずに作業が進められていた)。

 1881年に改租の作業が終了しますが、326万444町であった旧反別は、改租後には484万8567町となりました(185p表3参照)。つまり、耕地は1.5倍近く増加したのです。これは江戸時代に開発されていた土地がそのまま検地帳などへ載っていなかったということです。
 地租改正への抵抗の1つはこの隠していた耕地が露見することへの抵抗だったのでしょう。実際の税負担に関しては、徴税目標額が変更されたわけではなかったので、土地あたりの税率としては減税になったはずです。
 また、誰のものでもない土地(山林など)が官没され、政商などに払い下げられていきました。

 さらにこの地租改正作業の中で町村合併が進んでいきます。これは飛び地の存在や境界の問題などの解決が困難だったために、それらの問題を打開するために合併が行われたと考えられます。飛び地の編入は村高の変更も伴うために厄介なものだったのです。
 また、大蔵省は土地台帳を完成させるために調査を行いますが、この調査の結果、45万町あまりの土地が新たに出てきます。326万444町だった土地は1890年末には543万1418町にまで拡大しました(199p)。土地台帳の整備も進み、飛び地なども少しずつですが解消されていきます。
 土地の登記に関する問題の管轄は戸長から裁判所へと移されるようになります。それまでは土地売買に戸長が関与していましたが、それが原因で戸長が訴えられるケースもあり、村請制が解体される中で土地売買に村が容喙する必要性はなくなったのです。

 1888年に市制町村制が制定されますが、そこで「村」は行政を担うための単位として位置づけられ、疆土(明確な区域)、人民、「十分ノ資力」が存立条件とされました。この要件を満たすために既存の村は合弁を迫られます。基準としては300〜500戸、町村税総額800円以上という基準が設けられますが、この基準を満たしていた村は全体の1割以下であり、多くの町村で合併が行われることとなりました。
 あらゆる土地を余白なき帰属させるためには境界をはっきりさせることが必要ですが、入会地の帰属などはそう簡単に結論が出るものではなく、その問題を合併によって解決した面もありました。新しい村は行政単位を整備するための切り分けの結果としてできたものでもありました。
 明治の町村大合併により7万1314あった町村は1万5820市町村へと1/5にまで減ります。これとともに「住民」という言葉が出現し、村請制の解体とともに存在感を失いつつあった村は、行政単位として再生するのです。そして、村は国家の下請け的な役割を果たしながら「自治体」とも呼ばれるようになっていきます。

 終章にあるように本書は「村」を「容器」として捉えます。そしてその「容器」が「村」の内実をつくり上げた面もあるだろうというアプローチです。もちろん、「村」の共同体的な性格を否定するものではありませんが、例えば福武直が『日本農村の社会的性格』で述べたように、「属人的な中国の村と境界がはっきりした日本の村」という対比は果たして成り立つのか? と疑問を呈しています(236−237p)。

 このように本書は、「村のあり方」という比較的地味なテーマを扱いながら、私たちの歴史、あるいは日本社会のイメージを書き換えようとする大胆な本です。テーマや方向性は松沢裕作『町村合併から生まれた日本近代』(これも面白い本)と重なるところがあり、少し違う捉え方をしている部分もありますが、『町村合併から生まれた日本近代』を面白く読んだ人なら、本書も楽しめるのではないかと思います。
 日本史に興味がある人にはもちろん、「自治」について考えたい人にもお薦めできる本です。


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