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池田嘉郎『ロシア革命』(岩波新書) 8点

 今年100週年を迎えたロシア革命、ご存知のようにロシア革命は二月革命と十月革命という2つの革命をからなっています。まず二月革命でロマノフ朝が倒され、十月革命でレーニン率いるボリシェヴィキが権力を握るわけです。
 世界史の教科書などでは、この二月革命から十月革命の間、政権を担っていた臨時政府(ケレンスキー内閣)については「倒された存在」としてしか書かれていませんが、当然ながら、臨時政府はなんとか政権を運営し、政情を安定させようと努力したわけです。
 そんな臨時政府の立場からロシア革命を辿り直してみせたのがこの本。最近の歴史の本はさまざまなアクターを登場させることが多いですが、あえて臨時政府というアクターに絞って、ロシア革命の展開と、「無理ゲー」とも言える当時のロシアの政治情勢のなかで悪戦苦闘した政治家たちの姿を描いています。

 目次は以下の通り。
第1章 一〇〇年前のロシア
第2章 二月革命―街頭が語り始めた
第3章 戦争と革命
第4章 連立政府の挑戦
第5章 連邦制の夢
第6章 ペトログラードの暑い夏
第7章 コルニーロフの陰謀?
第8章 ギロチンの予感
第9章 十月革命

 「後進国のロシアでなぜ社会主義革命が成功したのか?」
 これは長年問われてきた問ですが、この本を読むといくつかの前提条件が見えてきます。
 まず、ロシアでは政府の抑圧が強かったため、有産層の政党よりも、「はじめに地下活動をおこなう勇気と大胆さをもった社会主義者が、非合法で政党をつく」りました(5-6p)。
 欧米流の教育を受けた自由主義者もいましたが、その数は圧倒的に少なく、農民や労働者といった民衆の力を借りずに政府をひっくり返すことは不可能でした。
 一方、長年、抑圧されてきた民衆にとって「現在ある秩序はこつこつ修正していくべきものというよりは、いつか、夢のような真実の瞬間に、一挙の転覆されるべきものであった」(16p)のです。

 そんな中で、第一次世界大戦が始まります。ロシアも総動員体制を敷きましたが、1915年の半ばにロシア軍は総崩れとなり「大退却」が始まります。そして、農村から大量の兵士が動員され、「独自の公正観念をもつ農民が、武器をもたされて、前線や都市に大量移動させられた」(17-18p)のです。

 1917年2月23日(ロシア暦)、ペトログラードの街頭で女工たちが「パンを!」と要求したことから二月革命は始まります。
 街頭に繰り出す人は次々と増えていきましたが、皇帝ニコライ2世は大本営の置かれていたベラルーシのモギリョフにあり、事の深刻さを把握することはありませんでした。 
 ペトログラードにいたロシア議会ドゥーマの議長ロジャンコは皇帝に対処を求めましたが、2月27には兵士の反乱も始まり、事態は切迫します。
 ここでドゥーマは自ら権力を掌握する道は選ばず、臨時委員会を設立する道を選びました。一方、ペトログラードの道を埋め尽くした群衆らは労働者と兵士の代議員評議会、メンシェヴィキの指導によりソヴィエトをつくり出します。

 ソヴィエトからは兵士の自由を求める声が強まり、兵士委員会による将校の解任なども行われました。この戦時下における、兵士の自由・解放と軍紀の維持の問題はこのあともずっと続いていきます。

 当初、臨時委員会はニコライ2世を退位させて12歳の皇太子に譲位し、皇帝の弟のミハイル大公を摂政に立てようとしましたが(33p)、事態の急転の中でこの案では事態を収拾できなくなり、共和制への移行と、臨時政府が全権力を引き継ぐことが決まります。この時、ミハイル大公の声明を書いたのが作家・ナボコフと同名の父で法学者のナボコフでした(40p)。

 臨時政府の中心となったのはカデットと呼ばれる政党を中心とした自由主義者たちでした。基本的にカデットなどの自由主義者が臨時政府に、社会主義者たちはソヴィエトによって事態を動かそうとしましたが、そんな中でケレンスキーは個人の資格で臨時政府の司法大臣となります。
 臨時政府の首班はリヴォフ公ですが、内閣の顔となったのは外務大臣のミリュコーフです(43p)。
 
 臨時政府はソヴィエトとの協議によって、成立にあたって8項目の活動方針を掲げましたが、その中には「革命に参加した部隊を武装解除せず、ペトログラードから動かさぬこと」という厄介な条項も含まれていました(48p)。
 また、ケレンスキーによって政治犯が釈放され、シベリアに流刑されていたボリシェヴィキの面々も釈放されていくことになります。
 臨時政府とソヴィエトの対立はありましたが、全体としては「社会全体が専制の崩壊を喜んで、幸福な一体感を味わっていた」(53p)という状況でした。

 しかし、臨時政府とソヴィエトでその姿勢が大きく違ったのが戦争に対する態度です。ソヴィエトが「無併合、無賠償、民族自決」の原則を打ち出したのに対して、外相のミリュコーフは英仏との協調のため、戦争の継続は必要との立場でした。
 当時の情勢からするとミリュコーフの考えももっともなものでしたが、政治の場は街頭にも溢れ出しており、「「街頭の政治」とは噂、とりわけ陰謀に関する噂が人の心を捉える政治」であり、「「敵」を探す政治」でもありました(69p)。
 ミリュコーフは帝国主義的な「ブルジョワ大臣」とされ、結局、5月2日に辞意を表明することになります。

 それを受けて、5月7日、ケレンスキーだけでなくメンシェヴィキのツェレテリエスエル党首のチェルノフなど社会主義勢力のリーダーがずらりと入閣した連立政府が発足します。
 しかし、この連立政府には議会がないという欠点がありました。一応、ドゥーマは完全に解散しておらず存在感を示そうとした時期もありましたが、ソヴィエトはこれに猛反発し、廃止提案を可決させます。
 一方で、憲法制定議会の準備は遅々として進みませんでした。
 
 ロシアの社会ではこれまで家父長的な原理が社会を覆っており、軍を始めとする秩序はそれに支えられていました。
 しかし、革命はこの家父長的原理を破壊しました。兵士を突き動かすのは「死地に赴きたくない、故郷に帰りたい、地主地の分割に参加したいという、極めて真っ当な要求のみ」(93p)だったのです。
 
 こうした動きに対して、カデットは「市民になれ」と訴え、他人の財産や権利を尊重するように求めました。メンシェヴィキやエスエルも民衆の反乱に寄り添いつつも、このカデットの呼びかけを否定したわけではありませんでした。
 そんな中で、民衆の反乱を全肯定してみせたのがレーニンの「四月テーゼ」でした。彼は混乱を恐れず、一気に社会主義革命まで突き進もとしたのです。

 多民族との自治や連邦制をめぐる協議でも臨時政府は杓子定規な対応に終始し、ウクライナとの交渉をきっかけカデットの大臣たちは連立を離脱します。
 7月になるとペトログラードの街頭はボリシェヴィキに指導された反政府デモで埋め尽くされますが、レーニンがドイツのスパイだという説が流れたこともあり、臨時政府が再び主導権を取り戻します。トロツキーやカーメネフは獄に繋がれ、レーニンは地下に潜伏しました。
 ボリシェヴィキはその勢いを失いましたが、この好機を臨時政府は活かすことができませんでした。
 メンシェヴィキとエスエルはブルジョワジー勢力との連立を模索し、政党としてのボリシェヴィキの活動を禁止しませんでした(134p)。
 ケレンスキーが首相に就任し、彼のカリスマに頼ることで自体の打開が目指されましたが、第二次連立政府も社会主義者と自由主義者のバランスを重視した構成になりました。

 この時、注目を集めたのが軍人のコルニーロフの存在でした。軍紀を回復し、6月攻勢で勝利を得た彼は7月には軍の最高司令官に就任します。コルニーロフのもと、戦闘地域では銃殺に寄る死刑が復活しました。
 ケレンスキーとコルニーロフは、首都ペトログラードを軍事総督府という特別な地域にし、戒厳令を敷くというプランで合意します(のちにケレンスキーはこれをコルニーロフの「陰謀」だとします(158ー160p))。 
 しかし、ケレンスキーとコルニーロフの間の仲介役をリヴォフが買ってでたことから、この計画は迷走します。余計な仲介で疑心暗鬼になったケレンスキーはコルニーロフを解任。ケレンスキーは臨時政府内で孤立します。 
 このケレンスキーの窮地を救ったのがソヴィエトで、ソヴィエトの動きによってコルニーロフは拘束されますが、それはボリシェヴィキの復活も意味していました。

 この後、事態は十月革命へとなだれ込んでいくわけですが、この時の状況について著者はナボコフの次のような言葉を引いています。
 ナボコフは『レーチ』紙上でこう書いた。代議機関や憲法のない共和国などというものは明確な国家形態であるはずがない。ここにあるのは「われらの動乱時代の大いなるフェティシズム、つまり言葉のフェティシズムである。われわれは言葉に捕らわれている。どれだけの言葉があることか!」(177p)

 9月25日、第3次連立政府が成立しますが、同じ日にペトログラード・ソヴィエトではボリシェヴィキが過半数を掌握。トロツキーが議長となります(189p)。
 そして十月革命で、ボリシェヴィキは軍事クーデタのような形で権力を掌握するのです。

 この臨時政府の挫折とボリシェヴィキの成功について、著者は「おわりに」で次のようにまとめています。
 臨時政府が状況を収拾するためには、(1)早期に戦争を終結する、(2)暴力によって徹底的に民衆の要求を抑え込む、のどちらしかなかった。前者を選ぶには臨時政府はあまりに西欧諸国と深く結びつき、その政治・社会制度に強く惹かれていた。後者を選ぶには臨時政府はあまりに柔和であった。(228ー229p)

 一方、ボリシェヴィキは「西欧諸国の政府との関係を断ち切ってもよいと考えるほどに、彼らは新しい世界秩序の接近を確信して」ましたし「いざ政権を獲得してからは、躊躇なく民衆に銃口を向けることができるだけの苛酷さをもっていた」のです(229p)。

 このように、この本はロシア革命をたどると同時に、極限状態での強圧的な権力の必要性やそれを生み出すことの難しさなど、さまざまなことを教えてくれます。
 政治とは本来、多くの人々の意見を調整することがその大きな役割ですが、革命の嵐が吹き荒れる状況の中では、自らの意見を強硬に貫き通す勢力が政治を支配することもあるのです。
 ロシア革命だけではなく、革命というものの本質を改めて考えさせる本と言えるでしょう。


ロシア革命――破局の8か月 (岩波新書)
池田 嘉郎
4004316375

岩崎育夫『入門 東南アジア近現代史』(講談社現代新書) 7点

 新書1冊で東南アジアのASEAN10に東ティモールを加えて11カ国の近現代史をたどるという欲張りな構成を持った本ですが、「多様性の中の統一」というキーワードのもと、うまくまとめてあると思います。
 もちろん、個々の国に関しては、「もう少しここがほしい」といった部分もありますが、東南アジアという地域のポイントを上手く押さえた内容に仕上がっています。

 目次は以下の通り。
序章 東南アジアの土着国家
第一章 ヨーロッパの植民地化――16~19世紀
第二章 日本の東南アジア占領統治――1941~1945年
第三章 独立と混乱――1945~1964年
第四章 開発主義国家と民主化――1960年代後半~1990年代
第五章 経済開発と発展――1960年代後半~2000年代
第六章 地域機構ASEANの理想と現実
終章 東南アジアとは何か

 目次を見ればわかるように、この本は国ごとの歴史を見ていくのではなく、時代ごとの東南アジアにおけるトレンドを押さえた上で、各国ごとの特徴を見ていく内容になっています。

 東南アジアはインドと中国という影響力のある文明圏の狭間にある地域であり、そのためインドや中国の強い影響を受けました。
 宗教に関しては、インドからの影響が強く、儒教が入ったベトナム北部を除くと、ヒンドゥー教や仏教といったインド発祥の宗教の影響を強く受けました。
 著者は植民地化される前の東南アジアの土着国家に関して、「インド化」、領域が曖昧な「マンダラ型国家」、貿易港を中心として栄えた「港市国家」という特徴をあげています(42-45p)。

 16世紀にポルトガルがインド、そしてマラッカに進出して以来、この地域は欧米によって植民地化されていきました。
 植民地化は2つの段階で行われ、最初は香辛料を始めとする一次産品の貿易を独占するために貿易に必要な港が支配されました。そして、18世紀の産業革命以降は、一次産品の栽培のために土地とヒトの支配が目指されました(61-62p)。
 マレーシアではゴム、フィリピンではバナナやパイナップル、インドネシアではコーヒーの栽培が進められ、いわゆるモノカルチャー経済が成立することになります。

 そして、この植民地化によって東南アジアの社会も変容していきます。
 一次産品の栽培がさかんになりましたが、すべての人がそれに携わったわけではなく、「近代経済の下で単純労働者として生活する住民と、伝統経済の下で自給自足の農業などで生活する住民が併存する状態」(75p)になりました。
 また、中国とインドから数多くの出稼ぎ労働者がやってきたことにより、東南アジアのいくつかの地域は「単一民族型社会から多民族型社会に転換」(76p)しました。
 さらに、植民地化の過程のなかで領域が策定され、その結果として多民族形社会になった例もあります。ミャンマーの場合、平原部のビルマ人と山岳部の少数民族の間で棲み分けが行われていましたが、イギリスが一つの植民地として扱ったため、多民族型社会に転換したのです(79-79p)。

 こうした欧米の植民地支配を終わらせるきっかけとなったのが、第2次世界大戦における日本による占領と統治でした。
 著者は、この占領下における「シンガポールの華僑虐殺」、「フィリピンでの捕虜虐待」、「泰緬鉄道建設労働者の強制徴用」といった蛮行に触れつつ、「日本の占領統治は、東南アジアの人びとが独立を意識する苦い学習機会」(100p)になったとまとめています。

 第2次世界大戦後、東南アジアの国々は独立していくわけですが、インドネシア、ベトナム、フィリピン、ミャンマーといった戦後すぐに独立した国と、カンボジア、ラオス、マレーシア、シンガポール、ブルネイといった比較的時間のかかった国に分かれました。
 この理由を著者は、「国民のあいだでどの政治社会集団が政権を担うのかが決まっていたかどうか」(105p)の違いだったといいます。
 日本の占領下の時代からインドネシアにはスカルノ、ベトナムにはホー・チ・ミンといった独立指導者がいたためにこれらの国は早期に独立しましたが、マレーシアでは王族の力が残っており、イギリスとの話し合いで独立が決まった後も王族(王族出身者)が政治に強い影響を持ちました。

 ただし、独立が達成されたとはいえ、東南アジアの歴史は血なまぐさいものでした。
 ベトナム戦争や、カンボジアにおけるポル・ポト派の虐殺がありましたし、インドネシアでは1965年の九・三〇事件をきっかけに華人に対する弾圧が行われ(華人の粛清はベトナムでも行われた)、またアチェの独立をめぐっても紛争が起きました。
 他にも1950年代後半から60年代前半にかけて、ボルネオ島をめぐってマレーシア、インドネシア、フィリピンのあいだで紛争が起こるなど、地域間の仲も必ずしも良くはなかったのです。

 このように不安定だった東南アジアの国々は、60年代後半から開発独裁というスタイルで社会を安定させるとともに経済を発展させます。シンガポールのリー・クアンユーやインドネシアのスハルト、フィリピンのマルコスなどが代表例です。
 開発独裁において、「経済成長は単なる経済営為にとどまらないで、社会の安定を確保し、かつ古い社会を変革するトータルな国家営為とみなされ」(152ー153p)、国家の主導によって経済開発が行われました。

 この開発独裁のスタイルが東南アジアで同時期に広まった理由として、著者はインドネシアの九・三〇事件をあげています。東南アジアの大国であるインドネシアが中国と断交し、開発主義に舵を切ると、他国でも中国の支援を受けた共産主義勢力が衰退し、それが開発主義国家の形成につながりました(155ー156p)。
 また、シンガポールという成功例の存在も影響を与えています。実現はしませんでしたが、ベトナムは1993年にシンガポールの首相を退任したリー・クアンユーに経済開発顧問への就任を要請しています(162ー163p)。

 しかし、この開発独裁は経済成長にともなって都市に中間層を生まれてくるとその限界を迎えます。86年のフィリピンの「黄色い革命」、92年のタイの「血の民主化事件」などがその代表例です。また、ミャンマーのように外圧によって民主化へと動いた国もあります。
 ただし、現在のタイが軍政下にあるように東南アジアの民主化は「未完」の状態だとも言えます。

 東南アジアはこの開発主義の時代に工業化しました。多くの国が経済発展のために工業化を目指しましたが、東南アジアの成功の秘訣は輸入代替型ではなく輸出志向型を目指したからだといえます。国内に市場を持たないシンガポールなどが輸出志向型で成功したことから、他の国も輸入代替型から輸出志向型へと転換していったのです。
 こうした経済発展を担ったのが、海外とのネットワークを持つ華人企業でしたが、その華人企業と政治家との癒着は東南アジア経済の問題の一つです(205ー208p)。

 また、この本では東南アジアの出稼ぎ労働者についてもとり上げられています。
 東南アジアの出稼ぎ労働者というと、域内から域外へという動きばかりに目を奪われますが、実は域内での移動もさかんです。タイはミャンマー、カンボジア、ラオスなどから大量の未熟練労働者を受け入れており、その数は3国合計で287万人(2014年11月)にのぼります。マレーシアにもインドネシアからの労働者が94万人(2013年)います(210ー211p)。
 もちろん、域外への動きもあり、特にフィリピンは中東などにメイドや建設労働者を送り出すとともに、専門技能者をアメリカなどに流出させています(212ー213p)。

 最後はASEANについて。現在、世界的にみても「成功」の部類に入る地域統合ですが、1967年にインドネシア、タイ、フィリピン、マレーシア、シンガポールの5カ国で結成された時は、ベトナム戦争においてアメリカを後方支援する同盟といった性格が強く(225p)、経済協力は名ばかりのものでした。
 その後、90年代にベトナムやミャンマーなどが加盟してASEAN10になるとともに、93年には「ASEAN自由貿易地域」(AFTA)が始まり、2007年には「ASEAN憲章」が合意されました。この時期にASEANの統合は急速に深まっていったのです。
 EUなどに比べると、ASEANのつながりは緩やかですが、民族や宗教の異なる東南アジアにおいてこの緩やかさが「多様性」を象徴するものであり、同時に人為的につくられたASEANという組織こそが、東南アジアの「統一(協調)」のシンボルだと著者はまとめています。

 スハルト後のインドネシアやマハティール以後のマレーシア、ASEAN加盟国同士の関係など、他にも知りたいことはいろいろあるのですが、新書で「東南アジア近現代史」という形式を考えれば十分にポイントを押さえていますし、読み応えがあります。
 まさに、「入門」として機能する本だといえるでしょう。

入門 東南アジア近現代史 (講談社現代新書)
岩崎 育夫
4062884100

宮本太郎『共生保障』(岩波新書) 6点

 著者は2009年の『生活保障』(岩波新書)おいて、雇用と社会保障を結びつけることで行き詰まりを見せつつある日本の社会保障の再編を提唱しました。この本はお手本となるスウェーデンモデルの問題点なども指摘した非常に面白い本だったと思います。
 それから7年ちょい、著者自身も民主党政権での内閣府参与、野田政権下での三党合意のもとで設置された社会保障制度改革国民会議でも委員を務めるなど、政策形成の場に携わってきたわけですが、社会保障制度の行き詰まりが解消されたとは思えません。
 そんな現状に対して、「支える側」と「支えられる側」の二分法をこえた「共生」によるアプローチによって普遍主義的な福祉の再構築を提唱した本。
 理念や実戦の紹介としては悪くないですが、政策的な処方箋という点からするとやや不満も残ります。

 目次は以下の通り。
第1章 制度はなぜ対応できないか
第2章 共生保障とは何か
第3章 共生の場と支援の制度
第4章 社会保障改革のゆくえ
第5章 共生という価値と政治

 かつての日本は、一家における男性の稼ぎ手に立場が比較的安定しており、その男性が社会保障制度の支え手となり、老人のみの世帯や母子家庭など男性の稼ぎ手がいない世帯は支えられる側として福祉を受けていました。
 また、住宅や子育てに関する費用なども、企業の手当や住宅ローン減税などを通して供給されることが多く、国が直接国民を支えるしくみは手薄でした。

 ところが、男性稼ぎ手の雇用が不安定になり、少子高齢化が進んだことで、このしくみは行き詰まります。「支える側」の生活が不安定になり、「支えられる側」が増加したことで、「支える側」と「支えられる側」の二分法を前提としたしくみは持続が難しくなってきたのです。
 また、特定のカテゴリーの弱者を救うための制度の間に落ち込み、適切な支援を受けられない人々も出てきました。

 そこで著者が打ち出すのが「共生保障」という考えです。
 ポイントは3つで、1つ目は「支える側」を「強い個人」とは見なさずに必要に応じて支え直すこと、2つ目は「支えられる側」に就労や社会参加の機会を提供すること、3つ目は共生の場を作り出すと同時に、補完型の所得保障を広げることです(47p)。

 この「共生保障」という考えは、現在、安倍政権の推進する「一億総活躍社会」の考えと近いようにも見えますが、著者は「一億総活躍」が一般的就労をゴールとして強調している点を問題とし、「共生保障」では、就労がゴールではなく、問題があったらケアを受け、再教育が受けられるような入退出がしやすい社会を目指すとしています。

 こうした「共生」の実践例としてまずとり上げられているのが、秋田県藤里町の事例です。
 藤里町は人口3600人ほどの町ですが、2010年の調査によってひきこもり状態の町民が113名もいたことから(68p)、その対策に乗り出しました。この「ひきこもり」というのは必ずしも障害者というわけではありませんし、母子福祉や高齢者には引っかからない存在です。まさに制度の間に落ち込んでしまう存在なのです。
 藤里町では、こうした「ひきこもり」だった人々へ就労機会を積極的に提供し、特産品の通信販売などにもつなげました。彼らを単純に「支えられる側」だと規定しないことによって彼らの潜在能力を引き出したのです。

 他にもいくつかの事例が紹介されていますが、著者がキーポイントだと考えるのがユニバーサル就労の考え方です。
 ユニバーサル就労とは、「障害や生活困窮など、働きがたさを抱えていた人々が、支援を受けつつも多様なかたちで働くことができる新しい職場環境」(82p)のことで、こうしたかたちを支援していくことが、「支える側」と「支えられる側」の二分法を乗り越えることになるといいます。

 次に共生型ケアがあげられています。共生型ケアとは「福祉のなかから当事者同士の支え合いをつくりだし、部分的には支援付き就労にもつなげていく試み」(106p)で、例えば、高齢者と障害者、障害児などが一つの施設でケアを受けつつ、互いに支援し合うようなやり方です。
 また、こういった仕組みを誘発するための、建物づくりや地域づくりも重要です。

 さらに補完型所得補償の必要性も主張されています。
 現在の社会保障は代替型が多く、例えば雇用保険は失業することではじめて受給資格を得ます。しかし、これでは低賃金で働いている人を支援することはできません。この問題を解決することができるのが、一定以下の所得の場合にその不足分を給付する補完型所得補償です。
 他国でも導入されているのが給付付き税額控除で、アメリカでは「勤労所得税額控除」というかたちで行われています。アメリカでは、「2016年の段階で、たとえば子ども二人を育てる夫婦で5万198ドルまでの所得に対して、最高額で5572ドルまでが給付される」(125p)ようになっています。アメリカというと低福祉の国としていいられていますが、著者は「600億ドルを越える給付付き税額控除が給付されている事実は、再認識されてよい」(125p)と述べています。

 この本ではさまざまな取組が紹介されており、補完型所得補償を除いては日本でもいくつかの実践例があります。
 しかし、現在の日本において、このような誰でもが受益者となるような社会保障の普遍主義への転換がうまく進んでいるとはいい難い状況です(著者は2000年から導入された介護保険などを普遍主義の例としてあげていますが、全体として著者の理想に近づいているとはいい難いとしている(151-153p))。

 その理由として著者は「三重のジレンマ」をあげています。
 1つ目は「本来は大きな財源を必要とする普遍主義的改革が、成長が鈍化し財政的困難が広がるなかで(その打開のための消費税増税の理由づけとして)着手されたこと」、2つ目は「自治体の制度構造は「支える側」「支えられる側」の二分法に依然として拘束されている」こと、3つ目は「救貧的福祉からの脱却を掲げた普遍主義が、中間層の解体が始まり困窮への対処が不可避になるなかですすめられた、という逆説」です(153-154p)。

 介護保険をはじめとして日本の普遍主義的改革は、準市場的なかたちで進められました。「こうした準市場型の普遍主義は、包括的なサービスを柔軟に提供するという点では、共生保障の条件としてはむしろ好ましくすらある」(155p)のですが、保険料の高騰と自己負担の引き上げは、貧しい人々を排除するしくみにつながります。また、逆進的な社会保険料が上がり続けている状況は、低所得者の負担感を大きくしています。
 これに対して著者は、遺領福祉サービスの自己負担について上限を設ける総合合算制度を提案しています。「たとえば、世帯所得の10%といった上限を決め、それを超える分は公費負担とする」(170p)のです。

 2000年代後半の福田政権~民主党政権時に、「社会保障と税の一体改革」が行われました。これも普遍主義を目指す改革であり、「全世代型の社会保障」が目指されました。
 しかし、これも十分な成果を上げたとはいい難い状況です。実際、消費税が5%から8%に引き上げられたことによって8.2兆円の財源が生まれたものの、既存の社会保障の穴埋めに3.4兆円、基礎年金の国庫負担割合を二分の一にするために3.1兆円が使われ、社会保障の強化に使われたのは1.35兆円にすぎません。社会保障の強化のために増税されたものの、社会保障が充実したという実感は育たなかったのです(179-180p)。

 著者はそうした中で成立した生活困窮者自立支援制度を、共生保障の考えに重なるものとしてある程度評価していますが、同時に「これまで普遍主義的改革を困難にしてきた財政的制約や自治体制度の壁を簡単には突き崩せないでいる」(186p)としています。

 ここまでが第1章〜4章までの内容。これを受けて第5章では、今後の展望が述べられているわけですが、ここが物足りなく感じます。
 例えば、「共生の可視化」ということが語られているのですが、例としてあげられているのが徳島県の上勝町のゴミ分別の話。上勝町ではゴミ収集車が走っておらず、町民が34種類に分別しゴミステーションに持ってくるそうです。これによってゴミ処理費用が抑制され、ステーションでの立ち話も増え、人々の間のつながりを強めたとのことですが(203ー204p)、都市部の共働き世帯がこれをやられたら悪夢ですよね。農家を含む自営か専業主夫のいる世帯でないと成り立たない仕組みでしょう。

 218pに「地域では、人々の支え合いを支え、共生を可能にしようとする多様な試みが広がっている。しかし、こうした動きは「好事例」に留まり大きな制度転換にはつながっていない」との記述がありますが、この本ではその制度転換のためのロードマップを示して欲しかったです。
 もちろん簡単なことではないでしょうが、この本で参照されているアンソニー・B・アトキンソン『21世紀の不平等』は具体的な政策提言に満ちた本でしたよね。

 社会保障の現在地点を確認する上では悪くない本だと思いますが、将来への展望に関してはやや不満が残りました。

共生保障 〈支え合い〉の戦略 (岩波新書)
宮本 太郎
4004316391

今井宏平『トルコ現代史』(中公新書) 7点

 シリア内戦、ISの台頭とISの引き起こすテロ、ヨーロッパの流れこむ大量の難民、こうした問題が中東とヨーロッパで起こっていますが、その中東とヨーロッパをつなぐ存在であり、またこれらの問題のキープレーヤーでもあるのがトルコ。
 この本はそんなトルコの共和国建国から現在にいたるまでの歴史を辿った本です。トルコの政治家といってもムスタファ・ケマルと現在のエルドアンくらいしか思い出せない人も多いと思いますが、そのケマルとエルドアンの間を埋めることで、現在のトルコが抱える内政・外交上の問題が見えてきます。

 目次は以下の通り。基本的にまずは内政について述べ、ついでその時代の外交をまとめるという構成になっています。
序章 トルコはいま、何を目指しているのか
第1章 トルコ共和国の国家建設
第2章 複数政党制下における混乱
第3章 冷戦期のトルコ外交
第4章 トゥルグット・オザルの時代
第5章 迷走する第三共和政
第6章 公正発展党の台頭とその政権運営
第7章 安定を模索する公正発展党
第8章 トルコと日本の関係
終章 建国一〇〇周年を見据えて

 第一次世界大戦において同盟側だったオスマン帝国は、戦後の1920年に結ばれたセーヴル条約によって完全に解体されようとしていました。
 そんな中でトルコを守るために立ち上がったのが建国の父・ムスタファ・ケマルです。彼はアナトリアからギリシャ軍を駆逐し、ローザンヌ条約によってトルコの独立を認めさせ、初代の大統領となりました。

 そのケマルが打ち出したのが、「共和主義」、「民族主義」、「人民主義」、「国家資本主義」、「世俗主義」、「革命主義」という6本の矢でした。
 ケマルはこの理念のもとトルコの近代化を進めましたが、「民族主義」は少数民族であるクルド人のアイデンティを抑圧しましたし、「世俗主義」は経験なイスラム教徒の多い民衆とエリートの齟齬を生みました。また、「革命主義」は、その後の政軍関係に影響を与えています。

 トルコにドラスティックな改革をもたらしたケマルですが、1938年に57歳の若さで死去してしまいます。その後を継いだのは、独立戦争において活躍したイノニュでした。
 イノニュは第2次世界大戦という難題に直面しますが、トルコは「現状維持」を第一に、1939年から42年まで、イギリス・フランス・ドイツ・ソ連との間に全方位外交を展開します(39p)。トルコは注意深く中立を保ち、大戦末期に連合国側に加わりました。

 戦後すぐ、トルコは一党制を放棄し、複数政党制に移行します。これは、当時の支配政党であった共和人民党内部での内輪もめと、ソ連の脅威に対抗するために西側陣営の一員となったことから民主化をアピールする必要があったためだといいます(43-44p)。
 1946年の総選挙では共和人民党が勝利したものの、50年の選挙では新しく結成された民主党が圧勝。アドナン・メンデレスが首相となります。

 メンデレスは地方経済の活性化を目指すとともに政教分離を緩め、広く民衆の支持を得ようとします。
 しかし、こうした動きやイノニュへの執拗な批判は軍の反発を呼び、1960年5月27日のクーデタによって、トルコには軍政が敷かれることになりました。
 1961年に憲法が制定され、トルコは再び民生に復帰。イノニュが首相に返り咲きます。

 この後、1960年代後半~70年代にかけてはイノニュの後継者である共和人民党のエジェヴィトと公正党のデミレルが中心となって政治が動きます。
 彼らはトルコの民主化を推進しましたが、デミレルとエジェヴィトの「双方がポピュリストであったことが、皮肉にも政治の不安定かと治安悪化の原因となり、軍部の武力行使による新たなクーデタを引き起こすことにつながっていく」(69p)のです。

 外交では、第2次大戦後、トルコは西側陣営への傾斜を強め、朝鮮戦争へは4500人を派兵。その貢献もあって1952年にNATOへ加盟します(82p)。
 しかし、1964年のトルコのキプロス派兵によるアメリカとの関係は悪化します。さらに1974年の第2次キプロス紛争が起こると、アメリカのフォード政権はトルコへの軍事援助と軍備品の売却を停止し、対米関係は悪化しました(99p)。

 1980年9月12日、治安の悪化などを理由に軍がクーデタを起こします。そして新しく1982年憲法がつくられました。
 この憲法の一つの特徴が総選挙における10%の足きり条項です。この足きり条項(阻止条項)はドイツでも採用されていますが、その基準は5%。トルコの10%は非常に高い数字と言っていいでしょう。
 この新しい制度のもとで政権を担当することになったのが祖国党のトゥルグット・オザルです。

 オザルは新自由主義的な経済政策を推し進めるとともに、「トルコ-イスラーム統合論」によって政教分離に抵触しない範囲でイスラームを正当化しました。
 また、外交面では親米政策を取り、大統領として迎えた1989年の湾岸危機では、ほぼ独断で多国籍軍のトルコの基地使用を認めました。
 また、オザルは祖母がクルド系で、「クルド問題」をはじめて議題としてとり上げた政治家でもありました(131p)。そして、湾岸戦争後のイラクでのクルド人難民の発生はトルコ国内のクルド人問題にも影響を与えていきます。

 しかし、そのオザルが1993年に急逝するとトルコの政治は再び不安定化します。首相にはデミレルの後継者である正道党(公正党の後身)の党首で経済学者でもあった女性のチルレルが就任しましたが、チルレルは、どちらかというと地方や保守的立場を代表していた正道党のリーダーでありながら、新自由主義的な政策を志向します。この正道党の新自由主義家は親イスラーム政党の台頭を招きました。
 また、クルド人問題についても解決の道筋は見えず、オジャラン率いるPKKが海外で戦闘員を育成し、テロ活動を繰り返しました。

 そうした中で、親イスラームの福祉党が1994年の地方選挙や95年の総選挙で躍進(エルドアンも94年にイスタンブル市長に当選している(169p))、96年には福祉等の党首のエルバカンが首相となります。
 ところが、この台頭は軍部の警戒感を招き、98年に福祉党は解党されます。99年からはエジェヴィトが首相となり、02年まで政権を担いますが、00年と01年には経済危機が起こり、ハイパーインフレが発生しました。

 この危機を受けた02年の総選挙で大勝したのがエルドアン率いる親イスラームの公正発展党です。
 実はこの総選挙では、正道党や民族主義者行動党といった既成の有力政党が10%の壁を突破できず、得票率34.29%の公正発展党が363議席、得票率19.38%の共和人民党が178議席を獲得して、他には独立候補が9席という結果になりました(188p)。  
 既成政党に有利なはずだった10%の足きり条項が新しく発足した公正発展党に大きな力をもたらしたのです。

 この本ではエルドアン以外にも、ギュル、アルンチ、チチェク、ダーヴトオール、ババジャンといった公正発展党躍進の立役者を紹介しています(190-203p)。
 これを読むと、当初の公正発展党がエルドアンのワンマン政党ではなかったことがわかると思いますし、大学教授でトルコ外交を分析した著作を持つダーヴトオールやアメリカでMBAを取得したババジャンなど、政権運営に必要な人材を持つ政党であったことがわかります。
 また、初期は現在弾圧の対象となっているギュレン運動の後押しも受けていました(203-204p)。

 公正発展党は経済危機の立て直しに成功し、国民からの支持を固めていきます。07年、ギュルが大統領になろうとすると、軍がこれを牽制しますが、その後の前倒しされた総選挙で公正発展党勝利を収め、ギュルが大統領になります。
 2010年には憲法の一部を改正し、軍の特権を制限します。軍部の影響力は失墜していくのです。

 経済的にも安定したトルコはG20のメンバーとなり、その存在感を増していきます。
 外交も、ダーヴトオールの提唱した「中心国」の概念のもと、地域の「大国」として中東地域を安定させようとしました。
 しかし、この外交は「アラブの春」を機に軌道修正されます。今までの「現状維持」を捨て、権威主義国家との関係を許容しない「現状打破」へと動くことになるのです(237p)。そして、この軌道修正はトルコを不安定化させました。

 特にシリア内戦において、トルコは当初アサド政権の退陣を求めたものの、アメリカの不介入の方針もあって、ISの台頭、ISに対抗するために存在感を増したクルド人の武装組織、さらにはロシアの介入と、トルコにとって厄介な事態を次々と引き起こしています。
 また、シリアからの難民は2016年12月の時点で約279万人がトルコに流入しており(290p)、たとえシリア内戦が終わってもすべてが帰国するとは思えません。このシリア難民の統合はトルコの民族主義にとって大きな問題となるでしょう。
 また、PKKとの和平交渉も現在は頓挫しており、現在68歳のオジャランが存命中に和平を達成できるかがひとつの鍵となります(250p)。

 2013年にはイスタンブルでの公園の再開発をめぐって市民が抗議した「ゲズィ抗議」が、2016年7月にはクーデタ未遂が起こるなどエルドアンに反発する人々もいますが、今のところそれをエルドアンが力で抑えている状況です(クーデタについてはギュレン運動との絡みも解説してありますが(294ー295p)、この公正発展党とギュレン運動の関係はいまいちよくわからない面が残る)。

 ここではあまり外交について書かれた部分には触れませんでしたが、各時代のトルコの外交が抑えられていますし、日本とトルコの関係については1章を割いています(第8章)。また、コラムでトルコの財閥やオルハン・パムクなどについて紹介されており、政治面以外からも光を当てようとしています(サイド・ヌルスィーについてのコラムはなぜこの位置にこのコラムがあるのかいまいち謎なのですが)。  
 トルコという国を知るのに便利で有益な1冊となっていると思います。

トルコ現代史 - オスマン帝国崩壊からエルドアンの時代まで (中公新書 2415)
今井 宏平
412102415X

藤澤房俊『ガリバルディ』(中公新書) 7点

 イタリア建国の英雄・ガリバルディの評伝。存命中から「神話」に彩られていた人物ですが、この本ではできるだけそうした「神話」を排しながら、「人間」としてのガリバルディを描こうとしています。
 ということもあって、比較的オーソドックスな評伝なのですが、それでもドラマ性に溢れ、「神話」を帯びてしまうのがガリバルディの生涯。非常に面白く読める評伝に仕上がっています。

 ガリバルディは1807年に当時フランス領であったニースに生まれています。イタリア建国の英雄として知名度抜群のガリバルディですが、その前半生は謎に包まれています。
 史料となるのは、ガリバルディ自らが書いた『回想録』だけであり、南米にわたるまでの30年についての記述は20ページにも満たないものです。また、本人の創作と思われる部分もあり信憑性は乏しいです(17p)。

 最近の研究によるとガリバルディは一時期、短期間ではあるもののジェノーヴァの宗教学校で学んだことがあり、何らかの理由で学校をやめ、船乗りの世界に入ったようです。

 この船乗りの時代に、母語とも言えるイタリア語とフランス語の他にスペイン語とポルトガル語を学び、英語やドイツ語にもある程度通じるようになったとのことです。
 ガリバルディはこの船乗り時代に、サン・シモン主義とイタリアの祖国統一をめざすマッツィーニ主義に出会います。マッツィーニの思想に感化されたガリバルディは、その後サルデーニャ海軍に入隊しますが、マッツィーニの結成した「青年イタリア」の計画したサルデーニャ軍兵舎襲撃計画に関わったとされ死刑判決を受けていることを知り、南米へと旅立ちます(この経緯はいまだによくわかっていない部分が多いようですが、ガリバルディが海軍を脱走し襲撃に加わろうとしたものの途中で計画の失敗を知り、そのまま逃亡したのではないかという解釈が一般的だそうです(28-30p)。

 南米に渡ったガリバルディはしばらく船を使った食料品の販売などを行っていましたが、ブラジル南部でリオ・デ・スール共和国の分離独立運動が起こると、イタリア人の仲間ともにこの運動に参加します。そして、この戦いに参加する中で名を上げるとともに、妻になるアニータとの運命的な出会いを果たします。

 その後、リオ・デ・スール共和国の情勢が厳しくなると、ガリバルディはウルグアイに移動し、ここでイタリア軍団を結成してアルゼンチン軍と戦います。
 このイタリア軍団の制服がのちにガリバルディの代名詞ともなる赤シャツでした(赤なのは血の色が目立たない食肉加工職人用のシャツの在庫を安く買い取ったため(44p))。また、この時期にガリバルディはフリーメイソンの会員にもなっています。

 1846年2月、サン・アントーニオ・デル・サルトの戦いで、ガリバルディの軍はわずか180人でアルゼンチン軍を撃退します。この勝利をウルグアイ政府が宣伝したこともあってガリバルディは一躍「英雄」となり、その名はヨーロッパにも伝わることになります。
 そして、1848年、死刑判決も時効となっていたガリバルディはイタリアへと帰国するのです。

 ガリバルディの帰国した1848年には、ヨーロッパで革命の嵐が吹き荒れた年でその影響はイタリアにも及んでいました。ガリバルディがニースに到着した6月はオーストリアとの戦争のさなかで、戦士として名の知られていたガリバルディには期待が集まりました。
 独立戦争自体は、サルデーニャ軍がオーストリア軍に敗れ、8月には休戦協定が結ばれました。しかし、ガリバルディは義勇兵を率いて戦場を求め、ローマ共和国の防衛に向かいます。
 教皇ピウス9世の呼びかけもあって、誕生したばかりのローマ共和国はルイ・ナポレオンのフランス軍から攻撃を受けます。ガリバルディはフランス軍を撃退しますが、戦線を拡大しようとするガリバルディとそれを抑えようとする共和国の首脳と対立し、最終的には圧倒的な物量をほこるフランス軍の前に敗北。敗走の中で妻のアニータも亡くなりました。

 失意のガリバルディはニューヨークへと渡り、貿易などに従事したあと、1855年にサルデーニャ島の近くにあるカプレーラ島の一部を購入し、晴耕雨読の日々を送ろうと考えました。
 1850年代前半になると、イタリア統一運動(リソルジメント運動)の中心は、マッツィーニのような革命家からサルデーニャ王国へと移っていきます。猪突猛進的な行動の目立つガリバルディですが、「大きな流れ」を見る目は確かで、イタリア統一にはサルデーニャ王国が中心になるしかないと見ていました。

 そして、そのサルデーニャ王国では、カヴールの深謀遠慮の計画が動き始めます。カヴールはオーストリアに勝つため、ナポレオン3世のフランスと手を結び、ガリバルディの故郷のニースなどを割譲するを密かに約束しフランス軍の支援を引き出します。
 1859年1月、カヴールはガリバルディに義勇兵の訓練を行うように依頼し、将軍の地位を与えます。さらにこの時、ガリバルディは国王のヴィットーリオ・エマヌエーレ2世にも謁見しており、この後、ガリバルディはこの国王に忠誠を尽くすことになります。

 1859年4月に始まった第二次独立戦争は、サルデーニャとフランスの連合軍が勝利をおさめるものの、ナポレオン3世がサルデーニャの頭越しにオーストリと講和してしまったことにより、中途半端な形で終結します。
 ガリバルディは主戦場以外の各地を転戦して勝利を重ねて名声を高めますが、結局、この第二次独立戦争は、中部イタリアの諸邦はサルデーニャ王国とフランスへのニースとサヴォイアの割譲によって幕を閉じます。この生まれ故郷のニースの割譲は、ガリバルディにとって「あらゆるものが私を打ち砕き、打ちのめす」(113p)と記すほどのものでした。
 しかし、ガリバルディはここで反乱を起こしたり腐ったりせずに、イタリア統一のためにもう一度立ち上がります。

 南イタリアのスペイン・ブルボン王家が支配する両シチリア王国で蜂起の火の手が上がると、ガリバルディはシチリア遠征を決断します。いわゆる千人隊の誕生です。
 千人隊は防備が手薄だったシチリア島の西岸に上陸し、進軍を開始します。無謀にも思えたガリバルディの行動でしたが、シチリアではピッチョッティと呼ばれる大地主の私兵を加え勢力を拡大させます。

 1860年5月15日、カラータフィーミの戦いでブルボン軍約1800と千人隊約1200が激突します。千人隊は32人の死者、ブルボン軍は30人の死者を出しますが、ブルボン軍が撤退したことにより、戦いは千人隊の勝利に終わります。この本を注意深く読んでいくと、ガリバルディの戦いは敵よりも多くの犠牲者を出しながら踏みとどまって勝利を勝ち取るという戦いが多いですね。
 この後、勢いになったガリバルディはパレルモを攻略、7月20日のミラッツォの戦いでも勝利をおさめるとシチリア全土を制圧します。
 
 このガリバルディの快進撃に対して、カヴールは南イタリアに共和主義政権が誕生することを恐れ、ガリバルディの動きを止めようとします(このあたりの記述(143-145p)あたりは少しわかりにくい)。
 その後、ガリバルディはイタリア半島に上陸し、9月7日にはナーポリへの入城を果たし、ヴォルトゥルノ河畔の戦いで再びブルボン軍を破ります。
 シチリアとイタリア南部に関しては、議会によりその帰属を決めるか、住民投票でサルデーニャへの併合を決めるかで対立がありましたが、ガリバルディはこうした政治的な問題をうまくさばくことができず、結局は住民投票によるサルデーニャへの併合が決まります。
 ガリバルディはテアーノでヴィットーリオ・エマヌエーレ2世と会見、ガリバルディは「ここに、イタリア王がおられる!」と叫び、イタリア統一を劇的に演出します(156p)。
 ガリバルディのシチリア遠征は想定外の出来事の連続でしたが、カヴールはそれを巧妙に着地させることに成功したのです。

 この一連の戦いによって、ガリバルディはひとりの人間をこえた「統一」や「解放」のシンボルとなりましたが、乱世にこそ輝くその才能はイタリア政府によっては厄介な存在ともなりました。
 ガリバルディには、南北戦争における北軍司令官の要請がアメリカから届きますが、奴隷制廃止が確約されなかったこと、最高司令官ではなかったことなどからこれを断っています。
 そして、その後のガリバルディはイタリアの完全な統一のために残っていたオーストリア支配地域やローマの解放を目指して義勇兵を組織しては政府軍に阻止されるということを繰り返します(1866年の第三次独立戦争では政府の命を受けて戦う)。
 1867年のメンターナの変ではローマの解放を目指すもののフランス軍の前に敗北。イタリアにおける革命家としてのガリバルディの戦いは終わります。

 しかし、その後の普仏戦争時に第三共和政のフランスのために立ち上がっているのがガリバルディの偉大というか面白いというかなんとも言えないところ。
 ガリバルディは義勇兵を組織し、ディジョンの戦いで戦力において圧倒的に優勢だったプロイセン軍を退けます。結局、他のフランス軍はプロイセン軍に一蹴され、普仏戦争は終結します。ガリバルディはパリでルイ・ブラン、ヴィクトル・ユゴー、ガンベッタにつづき4番目で議員に選出されますが、これを辞退しています(208p)。
 そして1882年6月2日に74歳で息を引き取ります。盛大な規模の国葬が行われ、ガリバルディは「祖国の英雄」としての地位を不動のものとしました。

 この本ではガリバルディが日本で西郷隆盛と比較されたことがとり上げられています。確かに革命において果たした役割の大きさ、民衆からの人気、富や栄誉を求めない姿勢などは共通していま。
 けれども、やはりガリバルディの生涯のほうがずっと「明るい」ですね。この本で紹介されている、52歳の時に18歳の侯爵令嬢と結婚したらその娘に愛人が二人いることが発覚して笑いものになったというエピソードなど(114ー115p)、少し間抜けな面もあり、それでいて時代の大きな流れを掴んでいるという点が西郷とは違う点でしょう。

 このように「人間」としてのガリバルディがバランスよく描かれている評伝になっていると思います。個人的には、ガリバルディの軍人として評価などがもう少し知りたかったというのはありますが、ガリバルディの生涯の面白さが素直に伝わってくる本です。


ガリバルディ - イタリア建国の英雄 (中公新書)
藤澤 房俊
4121024133

広中一成『通州事件』(星海社新書) 6点

 盧溝橋事件の直後に北京郊外の都市・通州で日本人居留民が虐殺された通州事件。教科書に大きく載るような事件ではありませんが、「中国人の手による日本人の虐殺事件」として、南京事件の相対化のために保守論壇などでよく言及される事件です。
 この本は、戦時中、そして現在もプロパガンダの材料として用いられがちなこの事件(実際に、「南京大虐殺文書」がユネスコの世界記憶遺産に登録されたことに対抗して、通州事件の記録を世界記憶遺産に登録しようという動きがある)を冷静な筆致で検討しており、貴重な仕事になっています。ただ、一冊の本としてはやや物足りない部分のあります。

 目次は以下の通り。
はじめに
第一章 通州事件前史
第二章 通州事件の経過
コラム その一 今に遺る通州事件の痕跡 ―「奥田重信君之碑」―
第三章 通州事件に残る疑問
コラム その二 通州事件の歴史写真をめぐって
おわりに

 まず、第一章では通州事件が起こるまでの背景が語られています。
 北京郊外の通州に日本人居留民がいたのには、満州事変以降の日本の華北分離工作があります。
 1933年の塘沽停戦協定によって、日中両軍の間に緩衝地帯がつくられることになりましたが、問題はその地域の治安の維持でした。そこで中国人によって保安隊が結成され、この地域の治安維持を担当することになります。 
 しかし、緩衝地帯が抗日ゲリラの拠点となったことから、日本は華北分離工作を行い、この地域への支配を強めようとします。
 そして、日本にも留学経験があり日本人妻を娶っていた殷汝耕を首班として冀東政権を成立させるのです。同時に支那駐屯軍を強化し、通州にも週替りで守備隊を派遣するようになったのです(週替りにしたのは常駐では義和団事件後の北京議定書や塘沽停戦協定に違反するため(44p))。

 1937年7月7日、盧溝橋事件が勃発します。一度は停戦協定が結ばれましたが、日本が増援を決めたこともあり情勢は落ち着かず、7月28日には支那駐屯軍が北京に総攻撃をかけます。一方、戦場となった北京と違って通州は平穏な状態でした。

 第二章では通州事件の経過が描かれています。
 7月27日、通州では日本軍の萱島部隊が、中国側の傅鴻恩(ふこうおん)を隊長とする部隊に攻撃を仕掛けます。このとき、関東軍の飛行隊がこれを援護しましたが、このとき保安隊員を誤爆してしまう事件が起きました。保安隊員からは日本に対する怒りの声が上がり、これが保安隊の反乱の原因だと考える説もあります。

 あくる7月28日、日本人居留民は、保安隊員が日本人の家屋を調べ家の壁にチョークで「△」や「×」印をつけている不審な行動を目にしています(59p)。また、通州領事館警察もこの動きを警戒したものの、軍は保安隊を信用していました。

 そして7月29日の午前3時に事件は勃発します。日本軍の通州守備隊兵営が攻撃を受けたのです。
 日本軍に反旗を翻したのは保安隊第一総隊長・張慶余と第二総隊長・張硯田に率いられた約7000人。日本軍が保安隊を武装解除しようとしているとして立ち上がったとも言われています(67-68p)。
 一方、日本の通州守備隊は120人ほど。兵営に立てこもりつつ必死の防戦を行いました。保安隊は同時に通州特務機関を攻撃し、冀東政権首班の殷汝耕を捉え、通州領事館警察も襲撃しています。

 さらに保安隊は日本人居留民宅への襲撃を行いました。この本ではからくも生き延びた日本人の証言を紹介し、民間人が襲われた様子を再現しようとしています。保安隊は民間人も殺しましたが、中国人の住民の中には日本人を匿った者もいました。
 通州事件でなくなった日本人居留民は、日本人114人、朝鮮人111人の合わせて225人だと言われています(4p)。

 7月30日になると、関東軍の飛行隊が通州の兵営を包囲していた保安隊を爆撃すると、保安隊は繊維を喪失して撤退。救出部隊も通州に到着し、通州事件は終結することになります。

 第三章は「通州事件に残る疑問」として、「なぜ保安隊は反乱を起こしたのか」、「通州事件によって生じた問題はどのように解決されたのか」、「通州で日本居留民は何をしていたのか」、「通州事件は日中戦争にいかなる影響を及ぼしたのか」という4つの問いについて言及されています。

 まず、「なぜ保安隊は反乱を起こしたのか」についてですが、これについては「共産党謀略説」をはじめとして保安隊が何らかの勢力にそそのかされたという説も根強いのですが、1982年に発表された張慶余の手記にある、張慶余が国民政府の軍人・宋哲元と通じていたという説明に説得力を感じました。

 「通州事件によって生じた問題はどのように解決されたのか」のパートでは、支那駐屯軍は責任を取ろうとせず、結局、冀東政権が謝罪と賠償をすることになったことなどが述べられています。

 次に「通州で日本居留民は何をしていたのか」という問題ですが、実は日本居留民の多くが密輸に関わっていました。
 1930年に国民政府が関税自主権を回復すると国内産業の保護を目的にさまざまな商品の関税が引き上げられ、日本製品は打撃を受けました。そうした中で、それをすり抜けるために行われたのが冀東政権を使った密貿易でした。そして、これは冀東政権の財源となり、国民政府の財政に打撃を与えるものだったので、日本軍にとっても都合の良いものでした。
 
 さらに冀東地区ではアヘンの密輸も行われていました。このアヘンの密輸は日本軍の特務機関の暗黙の了解のもとで行われ(137p)、さらにヘロインの現地生産も行われていました。また、製造などは日本人、売人は朝鮮人という役割分担もあったとのことです(139p)。
 日本居留民が中国人から恨みを買う理由があったのです。

 最後に「通州事件は日中戦争にいかなる影響を及ぼしたのか」ですが、個人的にはここが物足りなく感じました。
 日本軍は最初は通州事件を隠蔽しようとしましたが、のちにプロパガンダのため内外に積極的に情報を発信するようになります。
 このあたりの動きを、著者は新聞に掲載された報道写真などを通じて検証しようとしています。そこで比較対象として郎坊事件や広安門事件があげられているのですが、郎坊事件や広安門事件は第一章でチラッと触れられているだけなので、本書だけを読んでいる読者にはどのような事件かよくわかりません。

 また、報道やプロパガンダとしての情報発信に重きが置かれているため、通州事件が日本軍の作戦や日本兵の対中感情にどのような影響を与えたのかということはわかりません。なかなか検証しにくいところではあると思いますが、日中戦争における中国の民間人の殺傷の正当化に通州事件が使われたのかということは知りたいところです。

 あと、全体的にレイアウトがうまくいっておらず、図表と本文のページがずれているケース(言及している本文よりも前のページに図表が出てくる)が多いです。

 とはいえ、現在でもプロパガンダに使われてしまう通州事件をこのような形でまとめたことは重要だと思います。
 「日本だけが悪いことをしたわけではない」というのはその通りでしょうが、安易な「どっちもどっち論」に陥らないためには、この本のような地道な検証が必要になるはずです。


通州事件 日中戦争泥沼化への道 (星海社新書)
広中 一成
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富田武『シベリア抑留』(中公新書) 8点

 同じ「シベリア抑留」というタイトルの新書は2009年に岩波新書からも出ています(栗原俊雄『シベリア抑留』)。毎日新聞の記者によるもので、主に生存者や遺族の証言、抑留者の書き残したものなどの一次資料を使いながら、抑留された人びとに寄り添うような形で書かれている本でした。
 一方、ソ連政治史、日ソ関係史を専攻する政治学者の書いたこちらの本は、公文書などを使いながら「シベリア抑留」を総体的に捉えようとしたもので、ある意味で対称的な内容になっています。
 そして、その「総体的」といった時にスケールの大きさがこの本の一番の特徴です。まずは「シベリア抑留」を、スターリンが行った国内弾圧と矯正労働収容所、さらにドイツ兵の捕虜に対する扱いとの連続性で捉え、さらに南樺太や北朝鮮に抑留された人々まで扱っています。
 まさにスケールの大きな本で、一種の「グローバル・ヒストリー」と言えるかもしれません。

 目次は以下の通り。
序章 矯正労働収容所という起源
第1章 二〇〇万余のドイツ軍捕虜―侵略の「人的賠償」
第2章 満洲から移送された日本軍捕虜―ソ連・モンゴル抑留
第3章 「現地抑留」された日本人―忘却の南樺太・北朝鮮
終章 歴史としての「シベリア抑留」の全体像へ

 序章では、捕虜を使役する「起源」ともなった矯正労働収容所について語られています。
 ソビエト政権成立後、「労働によって人格を改造し、「真人間にする」というマルクス主義的人間観」(4p)のもと、矯正労働収容所がつくられました。
 1930年代後半にスターリンが大テロルを推進すると、矯正労働収容所に収容される人々は激増します(1939年には200万人を超える(11p)。ここに収容所の不払い強制労働に依存する「ラーゲリ経済」が成立するのです(11ー12p)。

 しかし、この強制労働の生産性は低く、それを補うために労働時間の延長や、さらなる「人海戦術」が要求されるというのが実態でした。その中で職員はノルマ達成のために水増し報告をし、囚人は「トゥフタ(見せかけの労働)」を行いました(13p)。
 病人のあふれる収容所の中で、一部の刑事犯が暴力で収容所内部を支配しました。収容所は「矯正」どころか「堕落」を生み出したのです。
 その他、この序章ではソ連のポーランド侵攻によって生まれたポーランド人捕虜についても触れています。

 第1章は、主にドイツ人捕虜の扱いについて詳述されているのですが、その前にドイツがソ連軍の捕虜をどのように扱ったがとり上げられています。
 ドイツは当初、破竹の勢いでソ連領内に進撃しましたが、その過程で大量のソ連軍捕虜が生まれました。しかし、ドイツによる捕虜の扱いはひどいもので、ドイツがミンスクに設営した収容所には、70m×40mほどの広さに捕虜約10万人、民間人約4万人が押し込まれ、ほとんど身動きがでいなかったといいます(33p)。ドイツ軍はスターリングラード戦敗北の直前までソ連軍の将校335万人を捕虜にし、そのうち200万人ほどが死んだと推定されています(34p)
 また、1941年末からはドイツ国内の労働力不足を補うために、捕虜がドイツへと移送されルール炭鉱地帯などで働かされました(36p)。

 1943年2月にドイツがスターリングラードで敗北すると、戦局は一変し、今度はドイツ軍の捕虜が激増していきます。1945年の5月にドイツが降伏した時点で、ソ連が収容していたドイツ人捕虜は180万人以上、民間人などを含めると200万人以上でした(44p)。
 ソ連の指導部はこれらの捕虜を「人的賠償」として使役することを方針として決めており、今度はドイツ人がソ連の国内で働かされることになりました。

 結局、ドイツ軍捕虜のうち約104万人がソ連領内に送られます。労働力として使役する以外にも、捕虜収容所の存在が住民の反感を買い占領行政の妨げとなるとの判断があったようです(46p)。
 ただし、捕虜の労働使役はスムーズに行ったとはいえず、その劣悪な待遇は労働の低下となって現れました。これに対し、ソ連の内務人民委員からは待遇改善の指示なども出ています。
 また、収容所内では反ファシズムの政治教育も行われましたが、それほど効果はなかったとの分析が紹介されています(82p)。

 第2章はいよいよ日本人のシベリア抑留について。
 日本はソ連の対日参戦を「早くても9月」と見ており、8月9日にソ連が参戦すると、ほぼまったく対応できないままに終戦を迎えました。日本から武装解除の命令が伝えられると、8月19日に停戦と武装解除が行われます。
 このときにソ連が「捕虜」としたのは朝鮮人・台湾人の軍人・軍属を含めて約59万4千人(諸説あり)。降伏後の武装解除なので「捕虜」というよりも「被抑留者」というべき存在ですが、ソ連はあくまでも「捕虜」として扱いました(89-90p)

 ポツダム宣言では「武装解除後の家庭復帰」がうたわれていましたが、ソ連は労働力として使役するために日本軍捕虜のソ連領内への移動を開始します。なお。この決定の裏には、「トルーマンに北海道の一部占領を拒否されたから」、「瀬島龍三に労務提供の申し出」といった説がありますが、著者はいずれにも否定的です(93-95p)。
 満州での収容所も、ソ連領内への移動に使われた貨物列車もいずれもひどい状態で、多くの犠牲者が出ました。また、労働力として使い物にならなかった者については、満州の収容所への逆送も行われました。

 ろくな防寒着も与えられないままに労働を矯正された捕虜たちは多くが病に倒れ、1945-46年の最初の冬だけで5万人近くが亡くなりました。全抑留期間の死者約6万の80%がこの時期に亡くなっているのです(108p)。
 各自の健康状態に応じて労働等級も決められるのですが、「女医が捕虜の尻をつねって皮下脂肪のつき具合を見て決める」といったもので大雑把なものでした(116p)。食糧状況も十分ではなく、45年12月のイルクーツク州の収容所の捕虜の作業出勤率は20~30%にすぎなかったといいます(118p)。
 そんな中でノルマ達成のために労働時間が延長され、捕虜たちはますます疲弊していきました。

 とにかく食糧事情のひどさは捕虜たちを苦しめました。この本では戦友が下痢をすると「こいつの飯が食える」と思った猪熊得郎の回想や、食糧の分配の様子を殺気をもって見守る吉田勇の絵などを紹介しています(138-139p)。
 さらに捕虜たちの文化活動(音楽・短歌・川柳など)を紹介しているのもこの本の特徴と言えるでしょう。当然ながらソ連による政治教育や、「民主運動」についての言及もあります。
 
 また、この本ではハバロフスク地方とモンゴルを比較することで抑留における地域差を描き出そうともしています。例えば、モンゴルでは政治教育が行われず階級制度も維持されました(160p)。同じ抑留でも地域によってその条件に違いはあったのです。
 他にも国防人民委員部/国防省管轄の独立労働大隊にも触れられています。この独立労働大隊にしろハバロフスクの収容所の管理者にしろ、ソ連軍の捕虜経験者があてられることが多かったようで、彼らが「懲罰」として捕虜の管理者となっていた実態も浮かび上がってきます。

 第3章は、北朝鮮や南樺太で「現地抑留」された日本人について。
 あまり知られていないことですが、終戦当時、北朝鮮や南樺太にいた人々もソ連によって抑留されています。
 南樺太では約30万人の住民が抑留されました。漁業や鉄道などを含む樺太の産業を維持するためには日本人の手が必要だったのです(184-185p)。多くの産業が国有化される中、漁業だけは各漁師の裁量に任され、日本時代と同じ生産を維持したという話も興味深いです(188-189p)。
 民間抑留者に関しては段階的な送還が進められましたが、サハリン州が労働力確保のために抵抗したために遅れがちになり(196p)、犯罪を犯したとして中央アジアの収容所に送られ、21世紀になってようやく帰国した者もいました(194-196p)。また、朝鮮人居留民の帰国も1990年代になってようやく実現しています(201p)。

 北朝鮮では、満州にいた日本人が難民化して流れ込んだこともあって終戦時に大きな混乱がありました。
 多くの日本人がソ連軍の了解のもと、自力で南下したものの、産業の維持に必要とされた技術者は抑留されましたし、シベリアから北朝鮮に逆送されてくる捕虜もいました、彼らの多くは病人で、その収容所はひどいありさまでした。
 一方、北朝鮮からソ連領内のカザフスタンやグルジアやウクライナに送られた健康な捕虜もいました(221-222p)。カムチャッカに漁業出稼ぎに行かされた抑留者もいたとのことです(226-228p)。

 このように簡単にはまとめきれないほどの広い内容を持った本になります。また、抑留者の境遇や心理などに関しても、途中にコラムなどを挟み込みながらとり上げており、まさにシベリア抑留に関して総合的に迫った本といえるでしょう。
 
 特に日本人のシベリア抑留を、ソ連国内の矯正労働収容所やドイツ人捕虜への扱いと連続したものとして捉えることで、シベリア抑留が全体主義と絶滅戦争という20世紀の荒廃した現実につらなるものであることが示されたと思いますし、ソ連の捕虜経験者が「懲罰」として日本人捕虜の監視にあてられているなど、ある種の精神の荒廃が広がっていくさまを見るようです(他にも、ソ連は軍紀の低い囚人部隊を対独戦や対日戦に投入し、略奪や強姦などをエスカレートさせている)。
 他にも、ノルマ至上主義の社会主義経済の仕組みが、抑留の長期化を生んだと思われる面もうかがえ、社会主義の分析としても興味深い材料を提供しています。

シベリア抑留 - スターリン独裁下、「収容所群島」の実像 (中公新書)
富田 武
4121024117

水島治郎『ポピュリズムとは何か』(中公新書) 9点

 トランプ大統領の誕生に、イギリスのEU離脱をめぐる国民投票における離脱派の勝利。2016年はまさに「ポピュリズム台頭」の1年といえるかもしれません。
 しかし、この「ポピュリズム」とは一体何なのでしょうか?
 日本では小泉首相や大阪市の橋下市長の政治に「ポピュリズム」というレッテルが貼られていましたが、その多くは批判する側からのものでした。とりあえず人気のある政治家を批判するためのキーワードとして「ポピュリズム」というものが使われていたと思います。
 この本は、ある意味でいい加減に使われているポピュリズムというものを再検討し、「リベラル・デモクラシー」に内在するものとしてポピュリズムを捉えなおそうとしたものになります。
 南米やヨーロッパの豊富な事例から、ポピュリズムがときに「デモクラシー」そのものであり、ときに「リベラル」そのものでもあるという、複雑にして厄介な状況が見えてきます。

 目次は以下の通り。
第1章 ポピュリズムとは何か
第2章 解放の論理―南北メリカにおける誕生と発展
第3章 抑圧の論理―ヨーロッパ極右政党の変貌
第4章 リベラルゆえの「反イスラム」―環境・福祉先進国の葛藤
第5章 国民投票のパラドクス―スイスは「理想の国」か
第6章 イギリスのEU離脱―「置き去りにされた」人々の逆転劇
第7章 グローバル化するポピュリズム

 ポピュリズムの定義に関しては、支持基盤をこえ広く国民に訴えかける政治手法と、「人民」の立場か既成政治やエリートを批判する政治運動という2つのものがありますが、この本では後者の定義を採用しています。本書を読んでいけばわかるようにカリスマ的な指導者がいなくなったあともポピュリズム政党が生き残り続けるケースは多いのです。
 
 ヨーロッパのポピュリズム政党の多くが極右政党などに起源を持つことから、ポピュリズム政党はデモクラシーを否定していると捉えがちですが、むしろポピュリズムこそがデモクラシーを体現している部分もあります。
 現代のリベラル・デモクラシーは、法の支配や権力分立を重視する「自由主義的」側面と、民意の反映や統治者と被治者の一致を重視する「民主主義的」側面がありますが(本書では山本圭の議論が紹介されていますが、新書では待鳥聡史『代議制民主主義』(中公新書)が同じような議論を行っています)、ポピュリズムは前者を軽視し、後者を重視する「デモクラシー」とも言えるのです。

 また、イデオロギーが「薄い」のもポピュリズムの特徴です(12p)。これは意外に聞こえるかもしれませんが、ポピュリズム政党に共通する思想のようなものは基本的に存在しません。
 それは、第2章でとり上げられるラテンアメリカの事例と、近年のヨーロッパの事例の違いを見ればわかるでしょう。

 ポピュリズムという現象が注目を集めたのは19世紀末のアメリカ合衆国においてでした。1892年に創設された人民党(People's Party)はポピュリスト党とも呼ばれ、独占資本主義と二大政党に対して挑戦します。この人民党による異議申し立ては、二大政党がその異議に素早く反応したことから短期間で収束しますが、この「人民」からの異議申し立ては、ラテンアメリカにおいて一つの政治潮流となります。

 ラテンアメリカでは一部の富裕層が経済を支配する状態が続いており、これに対抗したのがポピュリズムでした。
 この本では特にアルゼンチンのペロンがクローズアップされています。職業軍人だったペロンは、1943年のクーデタに関与し政治に関わるようになると、労働者重視の政策を掲げ、1945年には大統領に当選します。
 ペロンと彼の妻エヴィータは国民から圧倒的な支持を受け、賃上げや社会福祉の充実を実現させていきます。ペロン政権の経済政策には経済学的にも無理がある部分が多く、その政権は行き詰まりますが、「解放の理論」としてのポピュリズムが機能したのが、このアルゼンチンをはじめとするラテンアメリカでした。

 一方、ヨーロッパのポピュリズムは、「反エリート、半既成政党」という面ではアメリカ大陸のものと共通ですが、その来歴は異なっています。
 ヨーロッパのポピュリズム政党の一つのタイプは極右勢力を起源とするものです。
 この本の第3章では、フランスの国民戦線、オーストリアの自由党、ベルギーのVB(フラームス・ブロック)がとり上げられていますが、いずれも設立当初は極右的な主張をしていました。

 この本では、特にベルギーのVBについて詳しく触れられています。VBはもともとベルギーのオランダ語圏であるフランデレン地方を地盤とする民族主義政党で、初期メンバーには第2次大戦における対独協力者などが入っていました。しかし、1980年代になると右翼的な主張から距離を取り、「反移民」「反既成政党」を打ち出していきます。そして、90年代から00年代にかけて国政でも大きな存在感を示すようになるのです。

 このVBの台頭に対して、主要政党は「防疫線」と呼ばれるVBの排除を行います。VBとは選挙でも議会でも協力しない姿勢を示したのです。
 これはVBによる「既成政党エリートによる談合政治」批判を勢いづけることにもなりましたが(91p)、結果的にVBの台頭により既成政党の改革が進んだという指摘もあります(98-100p)。VBの台頭はベルギーの「デモクラシー」を進化させたとも言えるのです。

 一方、近年のヨーロッパでは極右を起源としないポピュリズム政党も台頭してきました。この本ではデンマークとオランダの事例がとり上げられています。
 デンマークでは、進歩党という政党が1972年に減税や規制緩和を掲げる政党として誕生しました。この進歩党は95年に分裂し、そこからデンマーク国民党が生まれます。
 デンマーク国民党は福祉政策を受け入れた上で、移民や難民が福祉の負担になっているとしてこれを批判し、支持を伸ばします。2001年以降は閣外協力という形で保守政権に協力しており、実際にデンマークの移民・難民政策はかなり厳しいものになっています。デンマーク国民党は、イスラムの「女性差別」などを槍玉に挙げることによって、この移民・難民政策を正当化しました。

 オランダについても同じようなことが起こっています。オランダは安楽死や大麻が合法化されるなど「リベラル」な国で、移民に対しても寛容でした。
 その「リベラル」の価値観からイスラム系の移民を批判したのが90年代後半に登場したピム・フォルタインでした。ゲイでもあった彼は、同性愛や女性の権利を認めないイスラムを「後進的」だと批判し、フォルタイン党を結成します。

 フォルタインは2002年に暗殺されますが、彼の主張は自由党のウィルデルスに引き継がれます。
 ウィルデルスもイスラムの「不寛容」を攻撃する主張で支持を伸ばしますが、政治についてアマチュアだったフォルタインとは違い、保守系政党の政策スタッフををつとめ、議会政治のしくみに通暁しているのがウィルデルスの強みです。

 また、自由党はウィルデルスの「一人政党」という独自のスタイルを取っており、党員はウィルデルス一人です。その上で、彼は候補者の選出に細心の注意を払い、極右系の人物を排除しました。また、事前に研修を行い、議会のルールや政策を勉強させるなど、議員の質の確保にも力を入れました。
 2005年のヨーロッパ憲法条約批准が否決された国民投票において、自由党は大きな存在感をしまし、2010年に成立した保守政権では閣外協力を行っています。

 このようにデンマークやオランダのポピュリズム政党は「リベラル」な主張を掲げることで支持を伸ばしていますが、ポピュリズム政党はまた「デモクラシー」のしくみを利用することでその支持を伸ばしました。その代表的な例がスイスです。

 スイスは以前から国民投票の制度が整備されていましたが、それは言語や宗教の分れるスイスにおいて中央政府の決定を抑制する役割を担っていました。また、国民発案による憲法改正も可能になっています。
 国民投票では議案が否決されることが多く、既成政党や組織はこの「国民投票に訴える」という手段をちらつかせることで、一種の「拒否権」を持っている状態だったのです。  

 このような中で、この制度をまったく違った形で利用したのがスイス国民党でした。
 スイス国民党はもともと農民や中小業者を基盤とする中道右派の政党でしたが、1977年にクリストフ・ブロッハーが党首となると、既成政党批判を強め、AUNS(スイスの独立と中立のための行動)という民間組織と連携することで勢力を拡大します。
 92年にEEA(欧州経済領域)への加盟が否決されると、94年にはPKOへの参加、01年にはEU加盟の交渉を求める議案が否決されるなど、AUNSは影響力を広げていきました。
 そして09年にはミナレット(イスラム寺院の尖塔)建設禁止条項を憲法に追加する国民投票が通ってしまいました。「そんなの憲法違反でしょ」と言いたくなりますが、これは憲法自体の改正なのです。勢いに乗った国民党は10年に特定の罪を犯したり社会保障の不正受給を受けた移民を自動的に国外追放する憲法改正も成立させています。

 このスイスの動きについて、著者は次のように述べています。
 そもそも国民投票は、諸刃の剣である。特に国民発案は、「人民の主権」を発露する究極の場である半面、議会で到底多数派の支持を得られないような急進的な政策であっても、民主主義の名のもと、国民投票を通じて直接国レベルの政策として「実現」することが可能である。(中略)
 「純粋民主主義」を通して「不寛容」が全面的なお墨付きを与えられることさえあるのである。(156-157p)

 第6章ではイギリスのEU離脱派の勝利が分析され、第7章ではトランプ旋風がとり上げられていますが、この2つの現象の共通点は「置き去りにされた人々」とも形容される、時代から取り残された労働者階級の不満です。
 そしてそれを扇動するのがトランプやイギリス独立党の党首のファラージといったビジネスで成功した金持ちです。EU離脱やトランプの当選は「民主主義をエリートから取り戻す」行為でもありましたが、内実は「呉越同舟」でもあり、その行先は不透明と言えるでしょう。

 第7章ではさらに橋下徹の「維新」や欧州の最近の動きなどを紹介した上で、ポピュリズムを考えるいくつかの論点をあげています。
 1つ目はここでも何度か言及してきたポピュリズムの「リベラル」や「デモクラシー」との親和性です。「現代デモクラシーが依拠してきた、「リベラル」かつ「デモクラシー」の論理をもってポピュリズムに対抗することは、実は極めて困難な作業」(223p)なのです。
 2つ目はポピュリズムの持続性です。ポピュリズムというとカリスマ的な政治家に煽られた運動という印象も強いですが、ヨーロッパのポピュリズム政党の多くは代替わりしてもなおその勢力を伸ばしています。日本の「維新」も橋下徹が引退したからといって崩壊したわけではありません。
 3つ目はポピュリズムが既存の政治に与える効果です。ベルギーのVBの事例に見られるようにポピュリズムは既存の政治の改革を促す効果もあり、一概に否定されるべきものではありません。ただ、その効果がどの方向にどれだけ働くのかということは未知数です。

 このようにこの本は政治や民主主義を考える上で非常に広く長い射程をもったものになっています。この本を読むと、トランプ旋風についても、トランプという特殊な個人が巻き起こしたものではなく、「リベラル・デモクラシー」に内在するリスクであったことが読み取れると思います。
 民主主義の機能不全は、「世論操作」や「権威主義への盲従」が引き起こすわけではなく、民主主義のなかにひそんでいるのです。
 トランプ大統領の就任、フランス大統領選挙、ドイツの総選挙と、今年も政治的な重要日程が目白押しですが、この本はそんな政治情勢を読み解くための必読書と言えそうです。

ポピュリズムとは何か - 民主主義の敵か、改革の希望か (中公新書)
水島 治郎
4121024109

梶谷懐『日本と中国経済』(ちくま新書) 8点

 副題は「相互交流と衝突の100年」。著者は、中国の財政・金融といったマクロ経済の専門家ながら、今までも『「壁と卵」の現代中国論』『日本と中国、「脱近代」の誘惑』といった著作で(両方とも面白いです)、中国の思想や政治文化、さらの日本人の中国認識の問題などを論じてきた人物で、この本でもそうした知見が十分に活かされています。
 さらにこの本は日中の経済交流を描くだけでなく、現代中国経済史としても読み応えのある内容になっています。同じちくま新書の岡本隆司『近代中国史』(これも面白い)のつづきとも言える本かもしれません。

 目次は以下の通り。
第一章 戦前の労使対立とナショナリズム
第二章 統一に向かう中国を日本はどう理解したか
第三章 日中開戦と総力戦の果てに
第四章 毛沢東時代の揺れ動く日中関係
第五章 日中蜜月の時代とその陰り
第六章 中国の「不確実性」とはなにか
終章 過去から何を学び、どう未来につなげるか

 副題に「相互交流と衝突の100年」とあるように、この本はおよそ100年前の中国経済の様子を見ていくことから始まります。
 今から100年前の1916年というと、前年の1915年に「対華二十一カ条要求」がありました。ここから中国のナショナリズムが燃え上がり、中国の対日感情は悪化の一途を辿っていった、というのが多くの人の頭にある認識だと思いますが、実はこのあとも日本と中国の経済は密接な関係にありました。
 その代表が「在華紡」と呼ばれる日系の紡績工場になります。

 1920年代、日本の紡績企業は低廉な労働力を求めて相次いで中国に進出しました。在華紡は上海と青島を中心に進出し、その在華紡の存在もあって、第一次世界大戦後、中国の綿糸自給率は向上していきました(34p)。
 以前は、在華紡が中国資本の民族紡を駆逐したとも考えられていましたが、その後の研究によるとこの時期は民族紡も伸びており、在華紡の経営手法などを模倣しながら民族紡も伸びていったというのが実態だったようです(34-36p)。

 しかし、この在華坊も1925年の五・三〇事件では大規模なストライキとボイコットに巻き込まれることになります。
 一般的に、「帝国資本主義」に対する反発といったかたちで説明されることの多い五・三〇事件ですが、著者はその背景にあった「日本的労務管理」の問題も指摘しています。
 民族紡が請負中心の比較的緩い労務管理だったのに対して、在華紡では効率性を追求するために厳しい労務管理が行われていました。
 著者も指摘するように、これはそっくりそのまま現在にもあてはまる問題です。日本型の労務管理に中国人の従業員が反発するというのはよく聞く話で、100年の時をこえて同じようなことが繰り返されているのです。

 1928年に南京国民政府が全国を統一すると、軍閥の割拠状態を利用して中国に勢力を伸ばしていた日本は難しい状況に迫られました。
 日本の経済界には、上海周辺に進出した軽工業(「在華紡路線」)と満州に進出した重化学工業(「満鉄路線」)がありました(66p)。利益率などを見ると、明らかに「在華紡路線」のほうがその収益は高いのですが(68p)、上海周辺の中小の工場はストライキやボイコットに苦しみ、1931年の満州事変以降、日系資本の多くは軍部の強硬路線を支持するようになっていきます。

 この1930年代から今に至る日本の対中国観について、著者は「「脱亜論」的中国批判」、「実利的日中友好論」、「「新中国」との連帯」という3つの類型にまとめて分析しています。
 それぞれ、「脱亜論」的中国批判は中国は遅れた異質な社会であって中国とは距離を置こうという主張、実利的日中友好論は日中経済交流の進化は互いの利益になるという主張、「新中国」との連帯は中国の革命勢力などに共感し併せて日本政府を批判する主張になります。
 そして、1930年代の日本では「脱亜論」的中国批判が優勢で、蒋介石の進めた幣制改革にも懐疑的であり、結局、国民政府の力を見誤ることになりました。

 日中戦争が本格化すると、中国大陸の重要拠点の多くが日本によって支配されることになりましたが、戦費を現地の銀行を使って賄おうとする日本のやり方は中国にハイパーインフレーションをもたらし、国民政府の発行した法幣のほうが好まれる状況でした。
 一方、日本の支配は中国の地域経済間の繋がりを分断し、中国が確保していた外国市場も失わせることになりました。これは戦後の中国経済に大きく響いてくることになります。

 また、116ページ以下の中国の農村と日本の農村を比較した部分も興味深いです。
 中国には日本のような強いつながりを持った「村落共同体」といったものは存在せず、中国の小作農は日本の小作農にくらべて「逃げる」ことが容易でした。
 しかし、戦争の激化の影響は農村にも及び、小作農たちは戦時徴発によって戦場へと駆り出されることになります。一方、地主の側は小作農が戦場に行ってしまったため、彼らとの契約を解除し、立ち退きを迫ります。この国民党による戦時徴発が、農村における擬似的な「階級闘争」を生み、共産党の土地改革を受け入れる土壌を形成したとも考えられるのです(121-122p)。

 1949年、共産党が国共内戦に勝利し、中華人民共和国が成立します。
 しかし、その経済政策は当初から順調とはいえませんでした。共産党政権は富国強兵の必要性から重化学工業に力を入れましたが、当時の中国にとっては労働節約的な重化学工業よりも資本節約的な軽工業のほうが有利であり、それを無視した路線は労働力の余剰を生みました(149p)。
 結局、経済は農村からの収奪によって成り立つ状況であり、またこの時期に労働力の余剰を防ぐためという目的もあって農村と都市の戸籍を分けて管理する戸籍制度がつくられます。
 一方、労働力の調整弁としては日雇いや季節労働者の「臨時工」があてられました(149-150p)。今の農民工のような存在は早い時期から存在したのです。

 日本との関係に関しては、「政経分離」の立場から民間交流が進められますが、57年に岸信介が首相になり、58年に「長崎国旗事件」が起こると、「断交」に近い状態になるなど、中国側の「政経不可分」の立場は時に強固なものでした。
 1962年にLT貿易の枠組みが整えられても、日中間の「政治」の問題は経済にも大きな影響を与えました。

 1972年に日中の国交が正常化されると、日中関係は80年代後半まで良好な関係を保ちます。もちろん、この背景には両国の政治的思惑や戦争に関する記憶などもありましたが、経済的にも両国にとってWin-Winの関係だったという面も大きいです。
 日中貿易において、80年代後半まで日本側が貿易黒字であり、中国は工業化を進める中で日本から工業製品を輸入しました。そして、その資金を日本が対中ODAでファイナンスする形になっていたのです。また、両国の主力産業で競合するものは少なく、棲み分けもできていました(199ー204p)。

 しかし、この良好な関係は1989年の天安門事件でターニングポイントを迎えます。
 事件は、民主化運動とそれを弾圧した共産党政府という政治的なものですが、その背景には経済問題もありました。当時の中国は地方政府の野放図な投資行動により加熱状態にあり、88年のインフレ率は年率で20%近くになりました(212p)。この物価コントロールの失敗が趙紫陽の指導力を削ぎ、市民たちの不満を高めたのです。
 そして、日本政府はいち早く中国との融和に勤めるものの、日本の国民の間には中国政府への不信感が高まることとなったのです。

 90年代になると、製造業を中心に対中投資がブームを迎えますが、一方で日中間の貿易摩擦も起きるようになり、また、日本の国民の対中感情も悪化していきます。
 ただ、この本の分析によれば貿易摩擦があるとは言え、日中の産業にはある種のすみ分けができてており、中国の台頭が日本経済の低迷をもたらしたというわけではありません(238-241p)。

 しかし、やはり厄介なのが政治も絡んだリスクです。2005年の中国での反日デモや2010年の尖閣国有化をめぐる中国の反発などは記憶にあたらしいところですが、この本ではもう少し根本的なところからそのリスクを説明しています。
 一般的な資本主義社会では、企業と労働組合が対立・協調しながら労使の間のルール作りが行われます。そして、それがうまくいかない場合は政府が第三者として介入します。
 ところが、表向きは社会主義の中国では政府から自立した労働組合というものは存在せず、NPOなども厳しく規制されています。つまり、労働者はその不満を直接政府に訴え、政府が労使を仲介することになるのです。
 このときに、労働者の不満をそらすための手段としてナショナリズムが持ち出される可能性があります。特に日系企業にとってそれは大きなリスクでしょう(268-274p)。

 このように「不確実性」のある中国経済ですが、そこには潜在的な成長の芽もあります。この本の最後で、深センおけるメイカー・ムーブメントを紹介しています。この深センの動きについては丸川知雄『チャイニーズ・ドリーム』(ちくま新書)でゲリラ携帯のことが紹介されていましたが、この深センのダイナミックなものづくりの動きは今も衰えていないようです。
 政府が統制しきれていない部分で「自生的な市場秩序」(282p)が生まれているのも中国の一つの側面です。中国に関しては、その「不確実性」の中に「可能性」を見ていく必要があるというのが著者の結論です。

 このように盛りだくさんの本で、単純に日中の経済関係史を頭に入れておきたいという人にはやや過剰かもしれません。ただ、この本を読めばここ100年の中国経済史の見取り図を得ることもでき、中国経済への理解は格段に深まるでしょう。
 そして、この本を面白く感じたのであれば、中国や日中関係について別のアプローチから迫った『「壁と卵」の現代中国論』『日本と中国、「脱近代」の誘惑』もぜひお薦めしたいです。

日本と中国経済: 相互交流と衝突の100年 (ちくま新書1223)
梶谷 懐
4480069291

2016年の新書

 去年、「2015年の新書」というエントリーを書いてからここまで合わせて55冊の新書を読んだようです。
 今年は6月から10月にかけて読みたいと思わせる新書の刊行ラッシュでした。そのせいもあって、読みたかったけれども読めずに終わってしまった新書もけっこうありました。
 というわけで、豊作の一年の中から例年通り5冊をあげてみたいと思います。
 一応、順位を付ける形で並べますが、上位3冊は横一線。2位、3位の本が著者の今までの著作からして期待通りだったのに対して、1位の本は期待を大きく上回る面白さだったので、こうした順位になっています。


移民大国アメリカ (ちくま新書)
西山 隆行

4480068996
筑摩書房 2016-06-06
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 今年のニュースといえば、大統領選におけるトランプの勝利が上位に来ると思いますが、そんな「トランプ現象」の背景を知る上で、非常に多くの情報を与えてくれる本。
 アメリカの移民をめぐる政策の変遷や、アメリカの教育制度や社会保障制度、そして犯罪と移民の関わりを読み解くことで、トランプ勝利の背景にあるものが見えてくる構成になっています。 
 さらに、2007年6月に連邦議会下院で決議された「従軍慰安婦問題についての対日謝罪要求決議」で注目された、「エスニック・ロビイング」などもとり上げ、アメリカ政治に対して移民が与える影響についても分析しています。
 「トランプ現象」だけでなく、アメリア社会を読み解く上でも役に立つ本と言えるでしょう。大統領選が終わったあとでも読む価値があります。(紹介記事はこちら


自由民権運動――〈デモクラシー〉の夢と挫折 (岩波新書)
松沢 裕作

400431609X
岩波書店 2016-06-22
売り上げランキング : 61605

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 この本では自由民権運動を、たんに権力闘争と見るのではなく、近世社会から近代社会の移行期に、その新しい社会を自らで創りだそうとした運動として捉えています。
 このように書くとかなり格調高く聞こえますが、実際、この本で紹介されるいくつかのビジョンは時代錯誤であり、ご都合主義なものです。自由民権運動が成功すれば「武士になれる」と謳う団体もありましたし、強盗事件を起こした運動家もいました。そうした、駄目な部分も含めてとり上げることで、自由民権運動という「運動」に新しい光を当てた本と言えるでしょう。(紹介記事はこちら


欧州複合危機 - 苦悶するEU、揺れる世界 (中公新書)
遠藤 乾

4121024052
中央公論新社 2016-10-19
売り上げランキング : 1160

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 ここ最近、経済危機やテロ、難民問題、さらにはイギリスの国民投票におけるEU離脱派の勝利と、まさに「危機」という言葉がふさわしいEUの政治情勢ですが、その危機を長年EUを研究してきた著者が解きほぐしてみせた本。
 絶え間ない危機に見舞われているEUですが、その危機は外部からEUを襲っているのか?、それともEU内部にあった問題が今になって噴出しているのか?、現在のヨーロッパの危機を概観しつつ、この根本的な問題にも答えようとしている本になります。
 今後のEUがどちらに転ぶかはわかりませんが、とりあえずこの本を読めばEUの来歴と現在位置はわかるはずです。(紹介記事はこちら


食の人類史 - ユーラシアの狩猟・採集、農耕、遊牧 (中公新書)
佐藤 洋一郎

4121023676
中央公論新社 2016-03-24
売り上げランキング : 88425

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 やや読みにくい部分もあるのですが、歴史の教科書とはまったく違う角度から歴史を考察した本であり、いろいろと発見がありました。
 サブタイトルは「ユーラシアの狩猟・採集、農耕、遊牧」。タイトル、サブタイトルともにスケール感がありますが、そのタイトルに負けない広く深い内容になっていると思います。
 「食べる」という視点から、狩猟採集、農耕、牧畜という3つの生業に注目し、ユーラシア大陸におけるそれぞれのあり方を歴史的、地理的に探っていく内容で、ジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』を思い起こさせるような本になっています。(紹介記事はこちら



カストロとフランコ: 冷戦期外交の舞台裏 (ちくま新書)
細田 晴子

4480068864
筑摩書房 2016-03-07
売り上げランキング : 74863

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 今年の大きなニュースに「フィデル・カストロの死」というものもありました。そのカストロの知られざる側面に光を当てたのがこの本。
 カストロとフランコの弾圧者としての側面をまったく描いていないなど、やや対象を美化しすぎているきらいもあって欠点もある本だとは思いますが、面白いです。
 社会主義革命を成し遂げたカストロのキューバと、反共産主義の独裁者フランコ率いるスペインが、なぜ国交を断絶させずに付き合い続けたのか?という疑問から、キューバ・アメリカ・スペインの外交の三角形を見事に読み解いていきます。
 冷戦の裏面史としても面白く読めるのではないでしょうか。(紹介記事はこちら


 これらの本に続くのが、高木久史『通貨の日本史』(中公新書)、服部龍二『田中角栄』(講談社現代新書)、角岡伸彦『ふしぎな部落問題』(ちくま新書)、飯田泰之・木下斉・川崎一泰・入山章栄・林直樹・熊谷俊人『地域再生の失敗学』(光文社新書)、 岡田一郎『革新自治体』(中公新書)、川名壮志『密着 最高裁のしごと』(岩波新書)、伊藤邦武『プラグマティズム入門』(ちくま新書)といったところでしょうか(5冊あげようと思っていたけど、結局7冊あげてしまったところに今年の新書のレベルの高さが現れていると思う)。

 今年は何といっても中公新書のラインナップが良く、中公の10月のラインナップ(遠藤乾『欧州複合危機』、呉座勇一『応仁の乱』、宮城大蔵『現代日本外交史』、寺尾隆吉『ラテンアメリカ文学入門』)は、近年で最も企画として充実していた2013年7月のちくま新書のラインナップ(今野晴貴『生活保護』、大田俊寛『現代オカルトの根源』、翁邦雄『日本銀行』、岡本隆司『中国近代史』)を上回るものだったと思います。
 そして、2014年上半期以降、やや低迷していた感のあるちくま新書は今年になって盛り返してきましたね。良い本が多かったと思います。
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名前:山下ゆ
通勤途中に新書を読んでいる社会科の教員です。
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