山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期

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前田健太郎『女性のいない民主主義』(岩波新書) 8点

 『市民を雇わない国家』で、日本の公務員が実は国際的に見て少なく、それは人事院勧告という制度の影響もあって60年代の段階ですでに公務員数を抑制する動きがあったからだということを明らかにして、サントリー学芸賞を受賞した著者による初の新書になります。
 『市民を雇わない国家』では、公務員数が抑制された結果として、「最も大きな不利益を被ったと考えられるのは、他の国であれば公務員になれたにもかかわらず、日本では公務員になることができなかった社会集団、すなわち女性である」(『市民を雇わない国家』260p)と述べていたので、本書はそうした日本の公務員数の少なさが女性の政治や社会への進出を阻んでいるということを述べる本なのかと思いましたが、実際に手にとってみたら、もっとオーソドックスな構成をとる政治学入門の本でした。
 ただし、本書の特徴はオーソドックスな学説を説明しつつ、同時に「では、それはジェンダーの視点から見るとどうなのか?」という点が問われていることです。
 もちろん、政治においてジェンダーをどれほど重視すべきかということは人それぞれでしょうが、本書は実はこのジェンダーについて考えることが、民主主義における重要な概念である「代表」や「福祉国家」そのものを問い直すことになることを明らかにしており、読み応えがあり考えさせる内容になっていると思います。

 目次は以下の通り。
第1章 「政治」とは何か(話し合いとしての政治
第2章 「民主主義」の定義を考え直す
第3章 「政策」は誰のためのものか
第4章 誰が、どのように「政治家」になるのか

 政治とは公共の利益を目的とした活動であり、それは構成員による話し合いによって行われます。
 ところが、日本の国会を見れば圧倒的に男性議員が目立ちますし、地方議会でも、あるいは審議会などでも基本的には男性が目立ちます。有権者数は女性の方が多いにもかかわらずです。あるいは、行政の場においても高級官僚は男性中心です。
 
 日本において、なぜ政治の場には男性ばかりがいるのか? この問に対する答えの1つがジェンダー規範です。「男は男らしく女は女らしく」という考えが政治の場から女性を排除しているというのです。
 「男は仕事、女は家庭」という二分法は古びつつあるかもしれませんが、男性の医師に女性の看護師といったように男性が中心的な仕事、女性が補助的な仕事という構図は根強くあります。また、「マンスプレイニング」と言われる、男性が女性に説教、あるいは説明したがる現象もあります。(家庭内ではともかくとして)公的な場では、男性=話し手、女性=聞き手という構図が根強くあるのです。
 こうしたこともあって、少数の女性議員の意見は、なかなか男性中心の政治の世界では反映されないのです。

 もちろん、男性中心の政治を改めようという動きはあります。1970年代からいわゆる脱物質的価値観が重要視されるようになり、伝統的な左右対立だけではなく、環境問題やジェンダーも政治上の争点となってきました。
 しかし、特に日本においては給与面などの男女の格差が大きく改善されたわけではありません。ジェンダーに関しても政治上の大きな争点とは認識されていない状況です。
 これについては明示的な行動の変化をもたらす「一次的権力」だけではなく、争点化を防ぐ「二次的権力」、紛争自体を消滅させる「三次的権力」を考えることが必要であり、フェミニズムはこうした権力に抵抗してきました。
 フェミニズムによる「公私二元論」に対する批判や、近年の#MeToo運動などによってジェンダーの争点化は進んでいますが、政治の世界においてもその男性中心のあり方が問い直されているのです。

 ここまでが第1章。第2章では民主主義の定義そのものからジェンダーの問題を考え直していきます。
 アメリカ大統領のウィルソンは第一次世界大戦似参戦するにあたって、ドイツのような権威主義国家と共存することはできず、「世界は、民主主義にとって安全にならなければならない」(54p)と訴えて参戦を正当化しました。
 ところが、この時点でアメリカでは女性に参政権はなく、全米女性党のメンバーはウィルソンを「皇帝」と呼んで抗議しました。アメリカで女性参政権が導入されるのは第一次世界大戦後の1920年です。

 民主主義の定義としては、「政治指導者が競争的な選挙を通じて選ばれる」というシュンペーターの定義や、「参加」と「異議申し立て」の2つの軸からみるダールのポリアーキーの考えなどがあります。ダールのポリアーキーの「参加」という側面に注目すれば、やはり女性参政権は民主主義に必要不可欠なものと言えるでしょう。
 ただし、ダールの『ポリアーキー』が出た70年代前半、女性の議員が多かったのはむしろ包括的抑圧体制の国(社会主義諸国)でした。それでもこの点をダールは特に問題視しなかったのです。

 「政治指導者が競争的な選挙を通じて選ばれる」というシュンペーターの定義からは、女性議員がいないことが致命的な問題であるとの考えは出てきませんが、「代表」ということを考えるとまた違った風景が見えてきます。
 もし、議会が社会の構成を代表すべきである(描写的代表という)というのであれば、女性議員がいないことは大きな問題であり、現在の日本の民主主義は不十分ということになります。
 
 民主化の歴史を振り返ると、サミュエル・ハンチントンによれば過去に3つの波があったといいますが、そこでハンチントンが民主化の基準としていることの1つは「成人男性の50%が選挙権を有していること」(76p)です。つまり、ハンチントンの議論は女性を無視してい成り立っている部分があるのです。
 ここで女性参政権を考慮して民主化の歴史を考えてみると、アメリカが先行するのではなく、世界で初めて女性参政権を導入したニュージーランドが先行し、アメリカがそれを追いかけるという図式が見えてきます(82p図2−4参照)。
 
 民主主義の歴史において男性の普通選挙権が先行した要因としては、「国を守る人には参政権を認めなければならない」(96p)という、徴兵と参政権を結びつける考えがありましたが、第一次世界大戦時に女性も軍需生産に携わる総力戦体制が出来上がると女性の参政権が認められるようになっていきます。
 さらにこれが国民国家の原理や、あるいは文明国は女性参政権を認めるべきといった考えに後押しされる形で広がっていきました。特に共産圏ではその進歩性を示すものとして女性参政権が認められ、女性議員が起用されていきました。

 また、2度の世界大戦は福祉国家を生み出しました、その福祉国家が男女の不平等にいかなる変化をもたらしたのかを論じているのが第3章です。
 福祉国家の嚆矢としてはイギリスが有名ですが、その基本方針を示したベヴァリッジ報告書ではその福祉を「彼自身および彼の家族のため」(106p)と規定していました。女性や子どもはあくまでも間接的に福祉を受けることが想定されていたんです。
 こうして生まれた福祉国家を分析したのがエスピン=アンデルセンでしたが、当初の脱商品化を軸にした分類では女性の問題を十分に扱えていないとして、脱家族化の軸を設定しました。保育所や児童手当、介護などへの支出を測ることでこの問題を扱おうとしたのです。
 1980年代のデータをもとにした分析の結果が114pの図3−1に載っていますが、これによると日本は脱商品化指数こそ中程度ですが、家族関係社会支出がGDPに占める割合は先進国で最低レベルでした。80年代の日本はまさに男性稼ぎ主モデルの福祉国家だったのです。

 政治においては議員や官僚以外にも政策に影響を与えるアクターとして利益集団などがあります。日本においても55年体制のもとでは多くの利益集団が政治に影響を与えてきました。
 ある意味で多元主義的な政治が行われていたわけですが。ここでも問題となるのはほとんどの利益集団のトップが男性だったということです。例えば、現在でも経団連の役員は男性59人に対して女性1人、日本医師会は男性13人に対して女性1人という具合に(122p表3−2参照)、女性はごく少数という組織が多いのです。
 では、女性の利益を主張する利益集団の可能性はないかというと、「女性」といってもその利害は様々であり(専業主婦とフルタイムで働く女性の望む政策は大きく違うはず)、「女性の利益」という旗印のもとでの結集には難しさがあります。
 
 さらに政策には経路依存性があります。男性稼ぎ主モデルに問題があるとしても、それを変えようとすれば現在そのシステムから恩恵を受けている人は反対します。白紙の上に理想的な制度を書き込むということはなかなかできないのです。
 例えば、早くから全世代向けの福祉を行っていた北欧諸国に対して、日本では高齢化が進んでしまっており今から福祉を高齢者向けから全世代向けに多く転換するのは難しいです。
 90年代以降の政治改革で首相のリーダーシップは強くなっており、以前よりも政策転換の可能性は高くなりました。ただし、未だに日本では女性の首相は現れておらず、首相を選ぶプロセスでも男性の影響力が強いです。
 そこで、ポイントとなるのが国際的な流れ(外圧)や「政策の窓」という考えです。「政策の窓」とは政権交代やメディアが問題を取り上げることにより陽の目を見なかった問題がアジェンダとして設定される現象で、例えば、少子化対策は1990年の「1.57ショック」をきっかけに政治的な課題となりました。

 第4章はいかに女性政治家を増やすのかという問題です。
 当然ながら、政治家にとって性別は二の次であるという考えもあると思います。ただし、防衛力の強化、原発の再稼働については男性有権者と男性議員に賛成が多く、夫婦別姓や外国人の地方参政権には女性有権者と女性議員の賛成が多いと行った具合に(162p図4−2参照)、男女で意見の分かれる問題があります。先程述べた「代表」を重視するのであれば、やはり一定の女性議員がいたほうが良いということになるでしょう。
 ところが、日本では国政(衆議院)における女性議員の割合は10%程度と、他の先進国に比べて低い割合にとどまっています(165p図4−3参照)。

 日本に女性議員が少ない理由としては、例えば、ジェンダー規範があるのかもしれません。女性候補者は女性らしく振る舞えば政治的能力にかけると思われ、政治家としてのリーダーシップを強調すれば「女性らしさに欠ける」と思われている可能性があります。
 また、そもそも女性候補者が少ないという現実があります。一度選挙に出てしまえば、女性候補者は男性候補者と遜色なく戦っているのですが(175p図4−7参照)、候補者が少なければ選挙で健闘したとしても女性議員は増えません。
 日本の国政議員の候補者は、地方議員、議員秘書、官僚、労働組合などのキャリアパスを通る事が多いですが、そもそもこのキャリアパスを通る候補者は男性が圧倒的に多く、女性候補はタレントやスポーツ選手等から、その知名度を期待されて擁立されるケースが多いのです。

 ここで問題となるのが候補者を擁立する政党です。例えば、自民党は当選回数に重きを置いており、こうしたシステムでは世襲のチャンスが多い男性議員が有利となります。こうした組織を内側から変えていくのはなかなか困難です。
 一方、野党には女性議員を擁立することによって与党の違いをつくりだすインセンティブがあります。サッチャーもメルケルもともに野党時代に党首となっています。
 しかし、日本において野党が女性候補の擁立に積極的だったとはいえません。55年体制の社会党が女性候補の擁立に積極的になったのは土井たか子を初の女性党首に選出して以降です。

 選挙制度に関しては、中選挙区制に比べて小選挙区制における女性候補者が不利になっているということはないようです(195p図4−10参照)。ただし、日本の比例代表制は衆院では小選挙区との並立、参院では非拘束名簿となっているために、男女の候補者を同数にするジェンダー・クォータはやりにくくなっています。
 このジェンダー・クォータは各国で広がっており、2000年にはフランスで候補者を男女同数にする制度が、韓国でも複数の改正を経て現在では比例区の候補者を男女同数、小選挙区の候補者の30%を女性とする制度が導入されています。また、スウェーデンのように法制化はされていないものの各政党がジェンダー・クォータを採用している国もあります。
 日本でも2018年に候補者を男女同数に近づける努力を求める「日本版パリテ法」が制定されましたが、これに政党がどの程度応えるかはまだ未知数です。

 こうした分析を行った上で、「おわりに」の部分で著者は次のように述べています。

 ジェンダーの視点から眺めることで、世界の見え方がこれほど変わるのならば、そのことを最初から知っておきたかった。自由主義やマルクス主義があらゆる政治現象を説明する道具立てを備えているのと同じように、フェミニズムもあらゆる政治現象を説明する論理を持っているということを、知っておきたかった。だからこそ、これから政治学を学び始める人には、そのことを早い段階で知っておいてもらいたい。本書は、このような動機から執筆されている。(209p)

 この考えが本書の肝なのではないかなと思います。こうしたジェンダーを全面に押し出した政治の味方に反発する人は当然いるでしょう。日本の有権者は女性が長寿のため女性の方が多く、もしも女性にとって「女性」という要素が何にも増して重要ならば、ほほあらゆる選挙で女性が勝つはずです。でもそうならないのは、「女性」という要素が一番重要ではないからなのかもしれません(ただし、男性が「男性」という要素を何よりも重視している可能性はある)。
 そうであっても、ジェンダーの視点からあらゆる政治現象を見ることができるという点は重要です。ちょうどルーマンが「法」、「道徳」といったものがあらゆる現象をその観点から説明できると論じたのと同じように、ジェンダーという視点を知ることで政治についての新しい見方を獲得することができます。そして、それは多くの既存の設定(デフォルト)を疑う視座を得ることにもつながります。
 本書で述べられていることにどれくらい同意するかは人それぞれでしょうが、間違いなく政治を見る目を広げてくれる本であり、考えさせられる内容になっていると思います。


金成隆一『ルポ トランプ王国2』(岩波新書) 8点

 「なぜ、トランプが大統領になれたのか?」という謎を追って、中西部のラストベルトに入りさまざまな人々の声に耳を傾けた『ルポ トランプ王国』の続編。トランプ支持者に関しては、かなり取材や分析も進んだので、前作のような驚きはないかもしれませんが、それでも今のアメリカの政治状況と社会を知ることができる興味深いルポになっていると思います。
 前作は市井の人々の声に耳を傾けることに徹していましたが、今作ではジャーナリストのトマス・フランク、社会学者のアーリー・ホックシールドへのロングインタビュー、2018年の中間選挙で旋風を巻き起こした民主党のオカシオコルテスの支持者などにも取材しており、やや引いた視点からの分析も行われています。
 とは言っても、前作に引き続き一般の人々が語る言葉というのが一番の魅力となります。トランプや現在のアメリカ社会に対する鋭い評価を、著者がうまく引き出して記録しています。

 目次は以下の通り。
プロローグ――就任式へ,ラストベルトから山を越え
第1章 新たなブラック・マンデー
第2章 3年後の「王国」再訪(ロードトリップ前半)
第3章 次もトランプで決まり(ロードトリップ後半)
第4章 郊外で「王国」に揺らぎ?
第5章 帰還兵とアメリカ
ロングインタビュー1 どうしちまったのか民主党?(トマス・フランク)
第6章 バイブルベルトを行く
ロングインタビュー2 アメリカン・ドリームという「物語」を生きる右派(アーリー・ホックシールド)
第7章 もはや手に入らないアップルパイ
エピローグ――クリスマス,ラストベルトから山を越え

 第1章から第3章までは、オハイオ、ペンシルベニアといったいわゆる「ラストベルト」と呼ばれる地域で人々の声を拾っています。
 この地域では石炭産業がオバマ政権のせいで潰されたとの思いが強く、それがトランプへの支持につながっています。また、オバマ政権の政策についてはフェイクニュースが広まり続けている現状もあり、オバマが低所得者に「オバマフォン」なる携帯電話をタダで配っているが反発を浴びています(実際はレーゲン政権のときに始まった「ライフライン」と呼ばれる政策で、タダではなく月額9.25ドルが必要)。
 
 第1章では2017年7月にトランプがオハイオ州のヤングスタウンで開かれた集会の様子が書かれていますが、人々はトランプの「出て行った仕事は全て戻ってきますよ」「家を売らないで下さいよ」(29p)との言葉を高く評価しましたが、同時に「トランプが約束の1割でもやれば十分だよ」(31p)とのあきらめもあり、この認識がトランプの支持率の底堅さの理由の1つとも言えます。
 
 こうしたトランプへの支持に対して民主党の地元の委員長であるデビット・べトラスは次のような言葉を残しています。

 重労働の価値を認め、仕事の前ではなく、後に(汗を流す)シャワーを浴びる労働者の仕事に価値を認めるべきです。〜「もう両手を使う仕事では食べていけない。教育プログラムを受け、学位を取りなさい。パソコンを使って仕事をしなければダメだ」。そんな言葉にウンザリなんです。(36p)

 民主党や反トランプ派はメディアを通じて(性的少数派の人々が)男性用、女性用どっちのトイレを使うべきか、そんな議論ばかりしているように見えた。(36p)

 卓上の中央には肉か魚で、労働者の雇用と賃金という経済問題であるべきです。トランプが「今晩のメインディッシュは大きくてジューシーなステーキです」と売り込んでいるときに、民主党は「メインはブロッコリー。健康にいい」と言っているように聞こえてしまったのです。(37p)

 ただし、トランプが大統領になったからといって雇用が順調に増えているわけではありません。2018年11月にはGMがオハイオ州のローズダウン工場の閉鎖を発表し多くの雇用が失われました。トランプ支持を悔やむ労働者の声も聞かれますし、あるいは世界的な労働者の連帯が必要なのではないかという声もあります。
 また、チラホラと聞こえるのがサンダースが候補だったらサンダースに入れたが、ヒラリー・クリントンとトランプだったからトランプを選んだという声です。著者も「あの大統領選は、「トランプが勝った」というよりも、「クリントンが負けた」と説明する方が実態に近いのかもしれないと思うほどだ」(67p)と述べています。

 「100%トランプ!」という人は一部なわけで、分極化するアメリカ政治に不満を覚えておる人もいます。例えば、ペンシルベニアのルザーン群という保守的な土地の出身でNYの大学に通うトロイは「今のアメリカでとにかく不愉快なのは、共和党員だと市民的自由のために闘えなくて、民主党員だと経済的自由を求めることができないことだ」(68p)と述べています。
 
 トランプ支持の理由に関してはさまざまんですが、その率直なスタイルが受けている面はあります。例えば、以下のような声です。

 トランプはクレイジーよ、私はね、それが気に入ったの。〜チェンジを期待してオバマを支持したけど、次はトランプに投票した。彼ぐらいクレイジーじゃないと、改革なんてやれない。常識的な人には改革は無理とわかったからよ。(70p)

 彼は本心を口に出す。普通の政治家はそれをしないでしょう? 政治家は、問題を避けてうやむやにするが、トランプは政治家ではない。太っている人には「太っているから減量した方がいい」と言う男だ。(105p)

 一方で、当然ながらトランプの大統領としての資質を疑問視している人もいます。
 
 特にツイッターはひどい。メンタルが安定しなていない。子どものようにわめきちらしているだけだ。大統領らしくない。それどころかプロフェッショナルでもない。僕が同じことをやれば会社をクビになる。(117p)

 トランプはいま世界の笑いものだ。堪えられない。成人しても、中学生がずっと自慢しているような男だ。(129−130p)

 思ったことを何でも口にするという性質は子どもっぽいものですが、率直とも言えます。このあたりの見方は人それぞれといったところなのでしょう。
 
 この本を読む限り、現在の傾向としては製造業の現場ではまだまだトランプへの支持は根強く、特に天然ガス業界などは好景気に沸いておりトランプへの支持は盤石。一方で、郊外ではトランプのやり方に対する不満が出ており、共和党支持者が中間選挙で民主党の候補者を支持するような現象も起きています。
 
 本書ではさらに退役軍人と南部のバイブルベルトと言われるアラバマやルイジアナといった地域も取材しています。
 特に退役軍人を取材した第5章は、トランプの支持者の実態を探るというテーマからは少し離れる部分もあるかもしれませんが、一人ひとりの言葉は重いです。
 全体としては退役軍人にトランプ支持者は多いものの、ベトナム戦争で徴兵を逃れた疑いのあるトランプを嫌う人も多いです。ただし、シリアから撤退などを支持する人は多く、「世界の警察」から降りる考えに対しては一定の支持を得ているようです。
 戦場からの撤退を支持する背景にあるのは戦場の経験であり、そこからくるPTSD、酒やドラッグに頼る日々といったものです。
 ここでは退役軍人を父ん持つデイナの「私の周りには帰還兵がたくさんいる。みんな戦場に行くと人が変わる。二度と同じ人物には戻れない。だから戦争は嫌い」(178p)という言葉が重いです。

 バイブルベルトの取材からは、教会が政府に代わって福祉を担っていることが「小さな政府」への支持と「リベラル」に対する警戒を生んでいることが見えてきます。
 アラバマ州の共和党のトップは次のように述べています。

 この地域の人々は、人間は働くべきである、自分の役割を十分に果たすべきと考えます。私も含め、この地域の人々にとって、自分の暮らしは自分で維持するということが基本的な考え方です。政府のプログラムは不要です。政府が強制的な権力で奪うのではなく、隣人同士が支え合うのです。ここはバイブルベルトで、たくさん教会がある。教会に行けば、様々な支援を受けられます。つまり政府に指示されてやるのではなくて、人々は自発的に隣人を助けるのです。(221p)

 こうした風土の中で、政教分離をはじめとする「リベラル」な価値観の浸透は社会を破壊するものと映るのです。

 私たちが育った頃は、授業が始まる前に学校で毎朝お祈りがあったのです。毎朝です。そうやって私たちは育った。ところがマダリン・マーレイ・オヘア(Madalyn Murray O’Hair)という女性が裁判を起こして、お祈りを学校から追放してしまいました。それ以降です、アメリカ社会が変わり始め、ついには「メリークリスマス」も言わなくなった。(224p)

 もちろん、敬虔なキリスト教徒にとってトランプという人物は必ずしも推せる人物ではなく、「私たちは、自分の娘にはデートをさせたくない人物を担ぎ上げたのです」(215p)との声もありますが、連邦最高裁の判事に保守派を二人押し込んだことへの評価は高く、トランプへの支持は揺らいではいません。

 最初にも書いたように、本書の特徴の1つはジャーナリストのトマス・フランクと社会学者のアーリー・ホックシールドへ行ったロングインタビューを収録していることです。
 トマス・フランクは中西部出身のジャーナリストで、2016年の大統領選の半年前に労働者階級の民主党からの離反を指摘する本を書いています。共和党が結局は富裕層のための減税と規制緩和を推進する政党だと批判しながらも、それにも関わらず、民主党が敗れ去ったポイントをいくつかして指摘しています。
 特に重要だと思ったのは同じランクの人々とコンセンサスを求め、大胆に勇敢になれない「専門職の病理」(190)という問題です。

 グローバリゼーションとオートメーション化の議論で好きになれないのは、真実を覆い隠す「偽装」があるからです。他にもやりようがあったのに、まるでなかったかのような議論になってしまう。(中略)「不可避だった」という議論は、単なる偽装の手口です。この世界で不可避のことなどないのです。
 私はトランプのことを痛烈に批判してきましたが、彼の姿勢で真に新鮮なのは、すした「不可避論」を破壊したことです。(中略)もはや既定路線などない。すべてはトランプ勝利が引き起こした変化です。誰もが大統領になると思っていた、その意味で「不可避」だったヒラリー・クリントンが負けたのです。(198−199p)

 ホックシールドはルイジアナ州の保守派の人々についてインタビューした『壁の向こうの住人たち』という本を出していますが、そうしたインタビューでの経験などをもとに、父親よりも豊かになるというアメリカン・ドリームが難しくなる一方でマイノリティが優遇されていると思いにかられている白人男性のおかれている状況などを語っています。
 トランプに対抗する連合体をつくることを主張していますが、そこにおいて「アイデンティティー・ポリティクスは連合体を形成する際の最大の障害の一つです」(264p)とも述べています。

 最後の章では、史上最年少の連邦下院議員となったオカシオコルテスの支持者を取材しています。旋風を巻き起こしたとはいえ、オカシオコルテスの選挙区はヒスパニックとラティーノが多く、自宅で英語以外の言語をしゃべる人が7割近いという選挙であり、彼女や彼女の主張が全米で受けるかどうかはわかりませんが、次々と政治の世界に人々の期待に応えようとする新しい人が参入してくるということはアメリカ社会の優れた点だと感じました。

 このようにアメリカ社会の多様な声を拾っているのが何といっても本書の良い点だと思います。前作と同じラストベルトでの支持者の支持の行方も追いつつ、さらに南部のバイブルベルトにも足を運ぶことでトランプ支持の複合的な要因が見えてきますし、また、退役軍人への取材はトランプ現象とは別にアメリカ社会の一つの側面を教えてくれるものでした。
 前作に引き続き、読み応えのあるルポです。


辻陽『日本の地方議会』(中公新書) 7点

 帯には「存在意義はあるのか?」の文字。近年、厳しい評価にさらされている地方議会を今一度問い直す内容の本です。
 とは言っても、著者は日本の地方政治を専門に研究を重ねてきた人物ですので、地方議会の不祥事を並べ立てるような内容ではなく、日本の地方議会や地方議員がおかれている状況を分析しながら、今後の改革を展望する内容となっています。
 副題に「都市のジレンマ、消滅危機の町村」とあるように、大規模自治体と小規模自治体で地方議会がおかれている状況が違うことを踏まえた上で丁寧な分析を行っています。

 目次は以下の通り。
第1章 強い首長、弱い議会
第2章 議員の仕事
第3章 議員の選挙―なり手と制度
第4章 議員とお金
第5章 議会改革の行方
おわりに―何を代表する地方議会なのか

 国会議員の不祥事もたびたび報道されますが、さすがに「国会はいらない」と考える人は少ないでしょう。一方、地方議員の不祥事のニュースを見て「地方議会なんていらないんじゃないか?」と考える人は多いと思います。
 これは地方自治体が二元代表制をとっており、知事や市町村長も選挙で選ばれており、なおかつこれらの首長の権限が強いことにその一因があるでしょう。首相を直接選挙で選ぶことはできませんが、首長は選ぶことができるのでそれで十分だという感覚を持つ人もいるでしょう。

 実際、国会議員には憲法において不逮捕特権や免責特権という特権が付与されていますが、地方議員にはそういった特権はありません。また、国会議員は採否を受け取ることが憲法で定められていますが、地方議員に関しては2008年の自治法改正前まで他の非常勤職員と同じく「報酬」という位置づけでした。
 これは戦前の地方議員が無給の名誉職であったことが影響しています。1947年の自治法制定時に地方議員に報酬を支給することが決まりましたが、自治省は1960年代まで地方議員を専門職というよりは名誉職に近い位置づけでみており、報酬も首長の3割程度でよいと考えていました(第4章150−155p参照)。

 このように地方議員の位置づけが弱い一方で首長は強大な権限を持っています。アメリカの大統領にはない法律案や予算案の提出権を持っていますし、日本の首相にはない再議を求める権利(拒否権)も持っています。また、議会に代わって議案を処理する専決処分の権限も持っています。
 この専決処分に関しては阿久根市の竹原市長の暴走などの影響もあって、2012年の自治法改正で歯止めがかけられることとなりました。さらにこのときの改正では通年議会がひらけるようになりました。この2012年の改正だけではなく、近年地方議会の権限は拡大を続けています。議員定数は柔軟になり、議員の議案提出の要件が緩和され、条例制定の範囲も広がり、議会における公聴会の実施や参考人の招致も法制化されました。まだ十分ではない点のあるとはいえ、基本的にその権限は大きくなっており、本来ならば地方議会の重要性が再認識されてもおかしくはない状況なのです。

 第2章では地方議員の仕事についてとり上げられています。
 地方議員の仕事と一口に言いますが、都道府県と市、さらに町村ではずいぶん違います。議案の数が違うのはもちろんですが、都道府県や市では政党を中心とした会派が結成されている事が多い一方で、定数の少ない町村議会では政党化が進んでいないケースが多いです。
 もともと二元代表制の地方では、国政のように与野党の立場がはっきりすることはありませんが、町村では特に誰が与党的立場で誰が野党的立場かというのは実際の議事などを確認しないとはっきりしません。

 本会議の花形となるのは各会派による代表質問や、議員による一般質問で、この質問によって首長の方針や政策を問いただしていくわけですが、近年では市の職員が市議会議員から依頼されて質問を作成した件などが表面化しており、議会での質問の形骸化も指摘されています。この状況について鳥取県知事だった片山善博は、かつてのインタビューの中で「議会が始まる前に、根回しが済んでいて、本番では与党は突っ込んだ質問をせず、執行部も答弁書を読むだけの『学芸会』になっていた」(63p)と述べています。
 このような状況はもちろん問題ですが、現在の地方自治では首長が予算提案権を独占し、条例提案権も持っている状況で、議員にできることはせいぜい議会質問くらいしかないという制度的な要因もあります。議会が積極的に政策を提案することは難しく、首長の政策に「NO」を突きつけることができる程度なのです。

 さらにこの章では、公明党の市議会議員のインタビューから地方議員の仕事を明らかにしています。
 「なぜ公明党?」という声もあるかもしれませんが、実は政党に所属する市議会議員のなかでは最も数が多く(「保守系無所属」が多いため自民党所属はそれほどでもない)、また「出たい人より出したい人」という考えのもと周囲の推薦によって議員になっているため仕事熱心であり、さらに政党というものの役割を考えさせる立場だからです。
 毎日のように朝8時に市役所に出向き、市民から寄せられた相談をもとに担当部署に行ったり、国の予算などについての問い合わせをし、休日はさまざまなイベントを回るなど忙しい毎日を送っています。
 さらに市民からの相談で国レベルの問題は国会議員に、県レベルの問題は県議会議員にすぐにつなぐようにしており、「公明党」という政党の一員として組織的に活動いている様子がうかがえます。地方議員であっても政党に所属している強みが見えてくるような内容です。

 第3章は議員について。地方議員というと「高い金をもらってないながら何もしていない」という印象を持ている人もいるかと思いますが、小規模な町村では議員のなり手不足が大きな問題となっています。
 2019年の統一地方選挙では町村議会議員の定数の約1/4にあたる1000人近くが無投票で当選しており、8町村では定員割れとなりました(86−87p)。町村議会議員の多くが議員の他に職を持っている兼職型であり、名誉職に近い位置づけなのですが、その担い手が減ってきているのです。
 さらに女性議員が少ないのも問題です。都道府県議会の女性議員の割合は10.0%、市議会では14.7%、町村議会では10.1%と、近年、都市部を中心に女性議員が増えているとはいえ、まだまだ少ないのが現状なのです。
 名誉職に近い報酬で女性も少ないとなると、担い手となるのは男性の高齢者です。町村議員の9割以上が50歳以上であり、市議会でも8割が50歳以上です(94p図表3−5参照)。町村議会では議員の平均年齢も上がってきており、現職議員の在職年数が増えていっています。
 政党ごとにみると、都道府県議会はともかくとして市議会や町村議会では政党化が進んでいない状況が見て取れます(97p図表3−6参照)。市町村レベルでは公明党と共産党が強く、この2つの政党だけが組織化が進んでいる様子がわかります。

 選挙制度に関しては、地方の選挙制度は国政に比べるとわかりやすいように思えます。とりあえず個人名を書いて投票すればいいからです。
 ところが、政治学的に見ると都道府県議会議員選挙は小選挙区制と大選挙区制の混合であり、異なる性格を持つ選挙制度が同居したものとなっています。選挙区の約4割が定数1の小選挙区である一方、鹿児島県の鹿児島市・鹿児島島郡選挙区の定数は17。このような選挙区ではかなり低い得票率でも当選できます。また、この小選挙区では自民系の議員が強く、都市部のみで政党間競争が行われている状況となっています。
 政令市以外の市町村議会議員選挙は選挙区が1つの大選挙区制であり、制度としてはわかりやすく思えます。ただし、議員定数が50を超えるような選挙区もあり、そうなると有権者にとって候補者を比較検討することが難しくなります。
 
 地方政治は二元代表制をとっており、首長を支持する会派が議会で多数派であれば「統一政府」、首長を支持しない会派が多数派であれば「分割政府」と言えます。首長が無所属であっても選挙では国政の与野党が相乗りで推薦していることも多く、そのような首長と議会の会派に大きな違いがない場合は、首長の提案がほぼ議会で承認されることとなり、議会は首長の「追認」機関のように見えるようになります。
 一方、首長と議会が対立する分割政府となった場合、議会は「抵抗勢力」のように扱われることも多いです。近年では、大阪のように分割政府状態から脱却するために首長が政党を結成し、自らの与党を形成しようという動きもあります。

 第4章は議員とお金の問題について。最初にも述べたように「地方議会不要論」が出てくる背景にあるのが地方議員によるお金に関する不祥事です。
 そのせいもあって地方議会には定数削減の圧力がかかっています。「平成の大合弁」とともにかなりの数の町村が姿を消したこともあって町村議会議員は大きくその数を減らし、かといって市区議会議員が増えたわけでもありません。
 2011年の自治法改正によって各議会は自由に定数を設定できるようになりましたが、地方財政の厳しさ、地方議員に注がれる有権者の厳しさもあって基本的には減る一方です。ただし、この定数削減に関して著者は次のように述べています。

 有権者であれ議員であれ、議員定数削減に強く同意する人には、より厳しくなる選挙で勝てる人ほど議会人として有能であるとする考え方があるように、筆者には思われる。しかし、選挙に強いことと議会人として有能であることとは別問題であろう。(149p)

 はじめの方でも述べたように、地方議員については名誉職なのか専門職なのかという問題があり、都道府県議会の議員と大都市の市議会議員は専門職、小さな市や町村では名誉職に近い報酬となっています。
 同じ市でも横浜市が年収約1650万円であるのに対して、夕張市は約260万円です。さらに町村議会では報酬は平均で月額21万5000円ほどで、福島県矢祭町議会では日当制となっています(日額3万円で議会や行事に出席する日数を30日とすると年額90万円(160−161p))。
 
 また政務活動費についても市町村の規模によって大きな違いがあります。政令市では月額30万円以上が70%、人口50万以上の市でも10万以上20万未満が46.7%と一番のボリュームゾーンになっているに対して、人口5万人未満の市では1万未満と1万以上2万未満で65%以上を占めています(172−173p図表4−10参照)。さらに人口5万未満の市では不交付、あるいは交付が凍結されている市もあります。そして、町村で見ると政務活動費を交付している町村は全体の約2割に過ぎません。
 もともと政務活動費は、多くの自治体で支給されていた会派に対する調査研究費が2000年の自治法改正によって政務調査費として法制化されたものです。交付の方法や使える範囲などは条例で定めることとされたので、政務調査費が支出可能な範囲は一律に定められているわけではありません。

 そのせいもあって政務活動費が不正に使われる事例は跡を絶ちませんし、東京都議会議員の支出内訳でも広報・広聴活動費が支出の46.4%を占めている状況で(176p図表4−11参照)、政策調査のためというよりは議員本人の選挙活動のために使われていることが多いのです。
 一方、小規模な自治体では研修や他の自治体の視察のために使われていることも多く、それなりの意義があるとも言えます。
 著者は日本の地方政府の機能は国際的に見ても大きく(GDPに対する政府支出の割合は国が約4%なのに対して地方は約11%で連邦制のアメリカやドイツと差がない(181−182p))、近年の地方分権によって自治体の裁量が増大していることを考えると、議員活動を十分に保障する報酬や政務活動費が必要ではないかと述べています。

 第5章では地方議会をどのように改革していくべきかということを論じています。
 地方議会に関しては、総務省や有識者などによる「外からの改革」と当事者である議会からの「内からの改革」の動きがあり、その力点はずれています。
 「内からの改革」で行われていること、目指されていることとしては、議会の方針について定めた議会基本条例の制定、住民参加の推進、議会における政策討議の充実、情報公開の推進、議会がより自治体の政策に関われるようにすること、議会改革推進組織の常設などがあげられます。
 基本的に首長にしっかりと対峙できる議会を住民参加を背景にして進めていこうという動きです。

 一方、「外からの改革」では地方議会の意思決定機能と主張に対する監視機能を強めるために、地方議会そのもののあり方や選挙制度が議論されています。
 特に選挙制度に関しては大きな問題として認識されており、比例代表制の導入、制限連記式の導入、複数の選挙区の設置などが提案されています。政治学者の間では大選挙区制の欠点や国政との選挙制度の違いによって政党間競争が起こりにくくなることなどが指摘されており(前者の問題については砂原庸介『民主主義の条件』、後者の問題については同じ著者の『分裂と統合の日本政治』が詳しい)、地方議会の選挙制度は大きな問題として認識されているのです。
 ただし、政治学者の中にも地方議会の政党化に反対する意見、定数が多い選挙区はそれほど多くないことをあげて、こうした選挙制度改革に慎重な見方をする者もいます。
 また、総務省の「町村議会のあり方に関する研究会」では、少数の専業的議員によって構成される「集中専門型」モデルと議員をすべて非専業とし夜間や休日に議会を開催する「多数参画型」モデルが提案されましたが、町村議会議長会は主張に対する監視機能が弱まるなどとして反対してます。
 
 こうした状況に対して、諸外国の地方自治制度が多様であることを指摘し(例えば、アメリカでは「議会ー支配人型」と「市長ー議会型」、さらに「住民総会」を採用している自治体、「理事会型」などいくつかのスタイルがある)、自治体の規模などに大きな差がある日本でも多様な地方自治制度があるべきではないかと述べています。
 この提言自体はそれなりに納得できるものではありますが、多様な制度から選ぶとなると地方議会側からのアクションが必要になります。そうなったときに今の地方議会が議員の専門性を強化するために報酬やサポートを強化するような改革を打ち出せるのかが個人的には疑問に思えます。
 今の地方議会や地方議員の威信では自らの存在意義を有権者に認めさせることは難しく、結局は地方議会の機能を削ぎ落とすような改革が行われてしまう可能性も高いのではないでしょうか?

 このように著者の最後の低減に関しては少し疑問も残りましたが、何よりも現在の地方議会を見るときにその多様性を見る必要があるという点はよく理解できました。また、公明党議員へのインタビューを入れることで地方議会と政党の関係についても改めて考えさせられますし、地方議会自体を多面的に見ることができる内容になっていると思います。
 地方議会のあり方に不満を持つ人がこの本を読んでもスッキリするわけではないと思いますが、少なくとも不満の原因が個々の議員だけにあるのではないことは見えてくるでしょう。


飯田隆『日本語と論理』(NHK出版新書) 7点

 言語哲学を専門とする著者が、日本語による論理学の可能性、あるいは自然言語の論理性について探った本というのがとりあえずの紹介になりますが、この本のやろうとしていることを説明するのはなかなか難しいです。
 例えば、同じ言語哲学を専門とする野矢茂樹『論理トレーニング』のような本を想像する人もいるかもしれませんが、まったく違います。本書を読んでも論理的な作文力や読解力が鍛えられるということはあまりないでしょう。
 本書は現代の記号論理学を日本語という自然言語でいかに展開できるのか、具体的に言うとタルスキの理論を用いて日常言語の言葉遣いを分析使用したドナルド・デイヴィッドソンのプログラムを日本語で展開するとどうなるかということを探った本になります。
 こう書いてもわからない人にはまったくわからないでしょうし、以下にあげる目次を見ても本書の内容はさっぱり見えてこないと思いますが、次の引用した部分に興味を持った人は、以下の記事をもうちょっと読んでみてください。

 そもそも日本語に論理学が適用できるというのが、第一の謎である。話題になっているのが特定の人や物なのか、それとも、不特定の人や物なのかを示す定冠詞のような表現がなく、単数と複数の区別もないのが日本語だとしたら、こうした区別が重要な論理学が、日本語に適用できるわけがないとおもわれるからである。第二の謎は、日本語に限ったことではないが、論理学の言葉では同じになってしまうのに、日本語としては異なる表現法がふんだんにあることである。たとえば、「こども全員が笑った」と「どのこどもも笑った」は、論理学からみれば、区別がつかないようにみえるのに、なぜ、二種類の言い方があるのか。(4p)

 評価は7点で、7点は「期待通り。この分野に興味がある人は読むといいです」くらいのイメージで付けているのですが、この本に関しては「この分野に「特に」興味がある人は読むといいです」くらいの感じで。ただし、第5章の総称文の話は非常に重要で、広く読まれるべき内容を含んでいると思います。
 
 目次は以下の通り。
第1章 「こどもが笑った」
第2章 「三人のこどもが笑った」
第3章 「大部分のこどもが笑った」
第4章 「どのこどもも笑った」
第5章 「こどもはよく笑う」
付録 様相的文脈の中の「三人のこども」

 改めてこの本がやろうとしていることを述べると、アメリカの哲学者ドナルド・デイヴィッドソンのプログラムを日本語において展開することです。
 フレーゲは、ある文を理解しているということはその文の真理条件を知っていることだと考えました。デイヴィッドソンはタルスキの真理条件などの考えを用いながら、文の意味をこの真理条件を使って考えようとしました。
 そして、著者は『言語哲学大全』の第4巻において、このデイヴィッドソンのプログラムを日本語で展開しようとして1999〜2000年にかけて原稿を書いてそれを私家出版したことを「まえがき」で述べていますが、本書はおそらくその原稿のつづきのようなものなのでしょう。

 まず、第1章の冒頭に置かれているのが「こどもが笑った。」という文です。これは英語にすると、「A child laughed.」、「Chirdren laughed.」、「The Child laughed.」、「The children laughed.」という4つの訳が考えられます。日本語の「こども」は一人にも複数にも使われますし、日本語には定冠詞がないからです。
 「だから日本語は非論理的なのだ」と結論づけたくなるかもしれませんが、著者によればいくつかの手がかりを使えば、そのこどもに「The」がつくのかつないのか、そのこどもが特定の誰かを指す確定的な使われ方なのか、特定の子どもを指すわけではない不確定な使われ方をしているのかは推定可能だといいます。
 もし「こどもが笑った」を「笑ったこどもがいる」に言い換え可能であれば、そのこどもは不確定な形で使われていると言えるのです。

 単数/複数の区別に関しては、日本語では体系的な区別を行っていないのですが、日本語でも「可算名詞/不可算名詞」の区別は可能です。一般的に「人」「頭」「冊」「枚」などの分類辞をとるものは可算名詞になります。

 第2章の「三人のこどもが笑った」では量化の問題が扱われています。「三人のこどもが笑った」という文が真理になるには、はたして何人のこどもが笑えばいいのでしょうか?
 二人のこどもが笑った場合、「三人のこどもが笑った」と言えないのは明らかですが、4人のこどもが笑った場合、「三人のこどもが笑った」と言えるのでしょうか? 言えないのでしょうか?
 意見の分かれるところですが、著者は基本的に「三人のこどもが笑った」のは笑ったこどもがちょうど三人であるときのみ成り立つといいます。
 ただし、「三個のケーキを食べてよい」と言う表現はおそらく「三個以下」を指しますし、三個のケーキを食べなければならない」と言われれば、「三個以上」、つまり四つ食べてもOKなのかもしれません。
 
 第3章は「大部分のこどもが笑った」という表現を取り上げています。これは一見すると「三人のこどもが笑った」とほぼ同じものに思えますが、「大部分」であることを確かめるためには全体のこどもの数を知ることが必要です。たとえ10人のこどもが笑っても、1000人中の10人であれば、それは「大部分」とは言えないでしょう。著者はこのような「比例的な数量名詞」だとしています。
 さらにこの章で著者は日本語の「の」の問題が、ラッセルが「the」について考えたのと同じくらい考える価値のある問題ではないかとして(125−126p)、「の」にまつわるさまざまな問題を研究しています。
 例えば、「まあちゃんの本を読んだ」という表現の「の」は何らかの関係性を示唆しているわけでしが、それは「まあちゃんが持っている本」、「まあちゃんが書いた本」、「まあちゃんについて書かれた本」、「まあちゃんが面白いと言っていた本」といった具合に、いろいろと考えることができるのです。

 第4章は「どのこどもも笑った」。この表現は「すべてのこどもが笑った」に言い換えれば、記号論理学の「∀」の記号を使うことができ、簡単に解釈できるように思えます。
 ただし、「どの」とは「これ」「それ」「あれ」「どれ」などの「こそあど」と呼ばれる言葉であり、不定詞によって量化をおこなうしくみになっています。
 本章では、この「こそあど」を使った文の真理条件、さまざまな量化の解釈などがなされており、興味深い問題も含んでいますが議論を噛み砕いて紹介できるだけの力がないので、この部分は割愛します。

 第5章は「こどもはよく笑う」という文章から総称文の問題を扱っています。第2〜第4章は相当専門的な議論で、多くの人にとって何をやっているのかわからなかったかもしれませんが、この第5章の議論は言語哲学や記号論理学に興味のない人にとっても重要なことを教えてくれるものだと思います。
 
 第5章の冒頭には「こどもはよく笑う」と「こどもは全員くる」という2つの文があげられています。後者の特定の集団のこども全員という意味ですが、前者はこども一般の性質を表しています。このあるものの性質などを表す文が総称文です。
 しばしば総称分は全称文と同じだと考えられています。「カラスは黒い」は「すべてのカラスは黒い」に言い換えられると考えられるのです。
 しかし、アルビノのことを考えれば白いカラスも存在します。しかし、だからといって「カラスは黒い」という文が偽だとは言えないでしょう。一般的にカラスは黒いからです。さらに「ペンギンは卵を生む」も「すべてのペンギンが卵を生む」とは言い換えられません。卵を生むペンギンは少なくともメスに限られるからです。
 
 この総称文と全称文の区別のつきにくさは悪用されます。「日本人は気が小さい」「金持ちはけちだ」といった表現にはそれぞれ賛否があるでしょうが、これが真か偽かを決めることは容易ではありません。そこでこうした文の真偽はとりあえず放っておかれるわけですが、これらの文はしばしば偏見や差別を生み出します。
 しかも、こどもはこの総称文からさまざまなことを学んでいきます。こどもは「どのカラスも黒い」という全称文よりも「カラスは黒い」という総称文を先に聞くはずなのです。

 また、論理学において「金持ちはけちだ」、「田中さんは金持ちだ」から「田中さんはけちだ」が導かれることがありますが、「金持ちはけちだ」が総称文だと考えると、この推論は100%のものではありません。
 さらに「水は100℃で沸騰する」といった科学的な真理を示すような文も総称文です。実際には沸騰する温度には気圧などのさまざまな条件が付きますが、科学ではこうした総称文で表されるような真理が、しばしばその本質を示すものとして求められます。
 その上で、著者は次のように述べています。

 「日本人」、「金持ち」、「女性」といった社会種についての総称文が社会的に問題だと考えられる最大の理由は、そうした文が総称文として、これらの社会種に「本質」があると想定させるところにある。そうした「本質」は、ないかもしれないし、あるかもしれないが、少なくとも、物質や自然種の「本質」の探求のために歴史を通じて払われてきたような努力がなされていないことは確かである。「日本人」や「金持ち」や「女性」について、個人的印象や偏見から、たまたまもった自分の考えに安住している人の方が圧倒的に多いというのが、実情だろう。(242−243p)

 そして、著者は現在の論理学ではこの総称文と全称文の違いがうまく扱えていないことも認めています。論理学の教科書でよく取り上げられる「すべての人間はいつか死ぬ」という文は、「人間はいつか死ぬ」という例外を持たない珍しいタイプの総称文であり、そこでは全称文と総称文の違いが曖昧になっているのです。
 なんとなく、論理学の言葉こそ完全なものであり、日本語のような自然言語は不完全だと思われがちですが、必ずしもそうではありません。このことについて著者は次のように述べています。

 もともとそれは数学のなかでの推論を研究するために作られたので、そこで必要でないことはいっさい無視された。それゆえ、日本語やその他の自然言語にくらべると、その表現力はきわめて弱い。そこでは、過去、現在、未来の区別も、また必然か可能かといった区別も表現できない。論理的に区別されるべきことが区別できない言語を挙げろと言えば、論理学の言語がまっさきに挙がっても不思議ではない。(271p)

 ここ最近、言語哲学からずいぶんと遠ざかっており、この本の面白さをどこまで読み込めているかは自信のないところではありますが、第1章の議論は言語に興味のある人なら面白いと思いますし、第5章の話は非常に重要で、最初にも述べたように広く読まれるべき内容を含んでいると思います。
 また、紹介しきれなかった細部にも「なるほど」と思わせる解釈は数多くあり、難しいなりに読み応えがあります。最初に「デイヴィッドソンのプログラムがいかなるものなのか?」という部分があった方が親切だとは思いますが、いろいろと触発される本です。
 

峯陽一『2100年の世界地図』(岩波新書) 5点

 サブタイトルは「アフラシアの時代」。「アフラシア」とはアフリカとアジアを合わせた造語で(この言葉自体はトインビーが用いている)、2100年にアジアとアフリカに住む人々がそれぞれ全世界の約4割となり合わせて8割になることを見据えながら、2100年の世界を展望した本になります。
 大まかに分けると、前半は2100年の未来予測にあてられており、後半は「アフラシアの時代」にふさわしい理念を探る試みとなっています。
 冒頭のカラー口絵をはじめとして前半の予測の部分は興味深いと思います。ただし、後半の理念の部分では「反西洋」が核となってしまっていて、「「アフラシア」といっても「アジア主義」の変形に過ぎないのでは?」という感想を持ってしまいました。

 目次は以下の通り。
第1部 2100年の世界地図
 第1章 22世紀に向かう人口変化
 第2章 定常状態への軟着陸
 第3章 新たな経済圏と水平移民
第2部 後にいる者が先になる
 第4章 ユーラシアの接続性
 第5章 大陸と海のフロンティア
 第6章 二つのシナリオ
第3部 アフラシアの時代
 第7章 汎地域主義の萌芽
 第8章 イスラーム
 第9章 「南」のコミュニケーション
終章 共同体を想像する

 21世紀の終わりの2100年、世界人口は112億人程度になると予想されています。
 そして、驚くべきはアフリカにおける人口増加です。ヨーロッパの人口が減少し、アジアでも2050年あたりをピークに人口は減少しますが、アフリカは21世紀を増え続け、2001年の約8億4千万人から2100年には約46億7千万人となり、約47億8千万人のアジアに肉薄します(9p図1−1、表1−1参照)。
 国別で見ても、ナイジェリア、コンゴ民主共和国、タンザニアといった国々で人口が大きく増加し、特にナイジェリアは2100年には人口は約8億人に達し、インドネシアやアメリカを上回り世界第3位の人口になると予測されています。
 また、2100年には世界で高齢化が進み世界の高齢者人口の割合は35.5%になると予測されていますが、アフリカの高齢者人口の割合は14.6%であり(19p)、深刻な高齢化に直面しない唯一の地域となります。
 
 他の予測と違って人口予測はある程度長期の状態を予測できます。これは急に出生率が急上昇したり急降下したりしないこと、例えば20年後において20歳以上の人は現時点ですでに存在していることなどから導かれます。もちろん、地球規模の天災やパンデミックなどによって人口が大きく減る可能性はありますが、現在の人口やトレンドからある程度の予測が可能です。
 基本的に世界の出生率は低下傾向にあります。アフリカは高い出生率を誇っていますが。、それでも1960年代の6.72をピークに2010−15年には4.72まで低下しており(34p)、今後もこのトレンドは継続すると考えられます。
 アフリカの出生率も22世紀はじめには2.0代に落ち着くと見られており、世界人口も落ち着いてくると予想されているのです。

 22世紀はじめに世界人口が落ち着くとしても、心配なのはそれだけの人口をまかなえる食糧があるのかということです。ご存知のようにマルサスは悲観的な見方をしていましたが、実際には食糧生産は人口以上の伸びを見せており、現在のところ破局とはなっていません。
 ただし、温暖化が進めば熱帯地域で農業生産が打撃を受けると考えられており(口絵14参照)、問題になる可能性があります。

 人口動態に大きな影響を与える可能性があるのが移民です。移民というとアフリカやアジア、ラテンアメリカからヨーロッパやアメリカを目指す移民が思い浮かびますが、実際に多いのは地域内の移民であり、特にアジア内の移民が多くなっています(58p図3−2参照)。
 また、近年では中国からアフリカへと向かい人の動きも目立ちますが、将来的には出生率の高いアフリカから少子高齢化の進むアジアへの移民が進むかもしれません。

 ここまでが第1部、以降の第2部と第3部が「理念編」というべき部分になります。
 第4章では、フランクの『リオリエント』、ポメランツの『大分岐』、アリギの『北京のアダム・スミス』を用いながら、18世紀までは必ずしも西洋の優位が確立していたわけではないことを示し、ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』の決定論的な見方を批判してます。
 ただし、例えば著者は「ダイアモンドの議論には、近年の西洋中心主義の自己批判、あるいは「アジアの再興」といった議論の流れに対して、周到に挑戦する側面があり、その意味で溜飲を下げた読者も世界には多かったのではないだろうか」(83p)と書きますが、本当にそうなのでしょうか?
 著者の議論には「反西洋主義」のバイアスがかかっているようにも思えます。

 第5章ではルソーの『社会契約論』における野生人の話から、移動する人と多文化共生を構想しています。
 多文化主義は9.11テロ以降やや旗色が悪い状況ですが、著者は東京の下町などに見られるさまざまな国籍の人の「よそよそしい共存」という状態に期待を寄せています。EUとは違い、ASEANやAUでは加盟国の内政にそれほど干渉しません。そういった形の共存が可能ではないかというのです。
 
 第6章では今後のアフリカとアジアについて分裂と収斂という2つのシナリオを提示しています。
 まず、分裂のシナリオですが、これはアジアが経済成長する一方で、そのアジアがアフリカの資源を収奪するようなシナリオです。アフリカに対する投機的な投資は地下資源だけではなく、農産物などにも及んでおり、状況をますます悪化させる可能性があります。
 一方、アフリカで人口が増加し人口密度もアジア並みに高まってくる中で、労働成約型の製造業が発展するシナリオも考えられます。これにはアジア諸国がアフリカの人的資源の育成などに力を貸すことが必要です。

 第7章は「汎地域主義の萌芽」として、バンドン会議や汎アジア主義、汎アフリカ主義の思想を振り返っています。
 汎アジア主義としてはタゴール、岡倉覚三(天心)、孫文らが、汎アフリカ主義としてはフランス領マルチニックの詩人エメ・セゼール、タンザニアのニエレレ大統領、アパルトヘイトに反対し30歳で獄死した南アフリカのスティーヴ・ビコの言葉が紹介されています。
 いずれにも西洋流の考えや資本主義に対する道徳的な批判があります。もちろん、植民地支配の歴史などを考えるとこれらの批判は正当なのですが、こうした西洋批判の上に新しい何かが生まれるのかといえば、個人的には疑問です。

 第8章はイスラームについて。もしもアフリカとアジアが結びつく要素があるとすればこれでしょう。北アフリカから中央アジアに広がる一帯はもちろんのこと、イスラームはサブサハラ地域にも東南アジアにも広がっています。特に2050年のムスリム人口の予測を見ると(155p図8−2参照)、サブサハラ地域のムスリム人口は大きく伸び、その存在感も大きくなっています。
 イスラームは「不寛容」だというイメージがあるかもしれませんが、イスラームはアフリカの土着の教えも容認しながら勢力を広げています。そうしたこともあって「アフリカでは宗教を軸とする紛争がまれ」(162p)です。
 
 第9章では「「南」のコミュニケーション」と題して、アジアとアフリカのコミュニケーションを言語面から考察しています。
 著者は「交通の言語」、「理知の言語」、「情愛の言語」という3つの言語を想定しています。他者同士の意思疎通を行う「交通の言語」や学術研究などに使う「理知の言語」においては英語が強く、またいくつかの言語にその可能性がありますが、母語は「情愛の言語」として残るだろうとしています。

 こうした考察を経た上で、著者は終章で次のように述べています。

 アフラシアは、外にも内にも敵をつくらない温和な共同体になれるだろうか。アフリカとアジアに生きる人々を情念によって結びつける根拠があるとしたら、それは歴史的な他者との関係、すなわち西ヨーロッパという異空間の政治権力によって植民地支配を受けた歴史的経験だけである。この広大な空間を束ねる共通の属性は、他には存在しない。エチオピアやリベリア、タイや日本のように、植民地支配を免れた国々もあったが、面として地域を見ると、これらの国々も列強が支配を狙う対象だった。歴史的に日本は、列強の侵略に対する一種の過剰反応として、自ら帝国に化けてしまった。植民地的な関係が繰り返されてはならない。大国が中小国の自由を奪うことがあってはならいない。アフラシアは、「義」による想像の共同体である。(187p)

 個人的にはこの「反西洋」を軸とした連帯は健全なものとは思えませんし、植民地支配の経験をキーにするのであれば、やはり日本はアフラシアから外れるのではないでしょうか。
 いくら地理的なくくりは同じだとはいえ、日本にとって西アジアは遠い存在ですし、アフリカはなおさらです。まさに彼らは「他者」になります。もちろん、「他者」同士の連帯は可能ですが、そこで下手に「反西洋」の理念を持ち出しても、戦前のアジア主義がうまくいかなかったように、アフラシアもうまくいかないのではないでしょうか。
 個人的にアフラシアをまとめる可能性がある理念はイスラームしかないように思えますが、そうなれば、そのアフラシアからおそらく日本や中国などは外れることになるでしょう。

 最初に述べたように、前半の将来予測の部分は面白いと思いますが、後半の理念編の部分には大きな問題があるように思えます。20世紀半ばまでつづいた植民地支配はアフリカやアジアに大きな傷をもたらしたことは確かですが、その傷をテコにした共同体に未来があるとは思えないのです。


布留川正博『奴隷船の世界史』(岩波新書) 7点

 アフリカから1000万人以上の人が連れ去られたとされる奴隷貿易。その奴隷貿易について主に奴隷船にスポットを当てながらその全体像を明らかにしようとした本になります。
 わざわざタイトルに「奴隷船」と付けているので、奴隷船をめぐる細かい情報が紹介されているのかと思いますが、奴隷船がメインにとり上げられているのは第2章のみで、奴隷貿易の始まりから奴隷貿易と奴隷制の廃止に至る過程をバランスよく記述しています。特に奴隷貿易の廃止運動については、その運動をになった人々や運動の過程をかなり詳しくとり上げています。
 
 目次は以下の通り。
第1章 近代世界と奴隷貿易
第2章 奴隷船を動かした者たち
第3章 奴隷貿易廃止への道
第4章 長き道のり―奴隷制廃止から現代へ

 近代以前にも奴隷貿易は存在しました。中世の地中海貿易においてヴェネツィアやジェノヴァの商人はレコンキスタの過程で獲得されたムスリム奴隷を扱っていました。さらにヴェネツィアがコンスタンティノープルを占領すると黒海沿岸からも奴隷が調達され、イスラームのマムルーク軍(イスラーム世界における奴隷身分出身の者で構成された軍)へと送られたりしました。
 大航海時代が始まると、ポルトガルがアフリカで奴隷を獲得し、奴隷貿易に乗り出します。狙いは黄金海岸の金で、金を得るために黄金海岸に奴隷が運ばれました。また、多くの奴隷がポルトガルやスペインにも運ばれています。

 この後、いよいよ大西洋の奴隷貿易が始まるのですが、以前からいったいどれくらいの奴隷が新大陸に運ばれていったのかということは大きな問題でした。
 この問題に挑戦したのがフィリップ・D・カーティンです。彼はさまざまな史料を使い、新大陸に生きて上陸した奴隷(途中で死んだ者は含まない)を、およそ950万人ほどと推計しました(22p表2参照)。
 その後、D・エルティスとD・リチャードソンによる研究で約1070万人という数値が出されました。さらに、大西洋奴隷貿易データベース(TSTD1とTSTD2)が作成され、奴隷貿易1回ごとのデータが集積されました。
 それによるとアフリカから送り出された奴隷は1250万人ほどで(32−33p表6参照)、先程の上陸した奴隷の推計数1070万人と比較すると、航海途中での死亡率は14.5%ほどになります。また奴隷を送り出した数が最も多いのは西中央アフリカで、受け入れ先として最も多かったのはブラジルでした(34p図1−3参照)。

 新大陸で奴隷を必要としたのはスペイン人です。彼らは新大陸の農園や鉱山の労働力として先住民を使っていましたが、ヨーロッパ人が持ち込んださまざまな伝染病と過酷な労働によって先住民な激減します。
 そこでアフリカから奴隷が輸入されることとなったのですが、スペイン人は奴隷貿易自体にはあまりありませんでした。大西洋の奴隷貿易はスペイン王室から「アシエント」という請負契約を交わした外国人商人によって行われることになります。
 当初、このアシエントを獲得したのはポルトガル商人でしたが、17世紀後半以降は、ジェノヴァ商人、オランダ商人、フランスのギニア会社などが獲得し、1713年にアシエント権はユトレヒト条約によってイギリスの手に渡ります。そして、イギリスが大西洋奴隷貿易の中心となっていくのです。

 第2章は奴隷船とその関係者に焦点を合わせています。
 奴隷がびっしりと描かれている奴隷船の図を世界史の教科書や資料集などで見たことがある人もいるでしょう。それは奴隷船ブルックス号の構造図であり、奴隷廃止運動のときに奴隷貿易の非人道性をアピールするものとしてさかんに用いられました。この船は1781年にリヴァプールで建造された船で、この図がつくられるまで実際に4回の奴隷貿易に従事していました。
 奴隷船の大きさは多くは100〜200トンで、それほど大きなものではなく、「移動する監獄」「浮かぶ牢獄」と言われました(64p)。大西洋横断の2ヶ月ほどの間、奴隷たちは1日16時間ほど身動きできずに寝かされて、1日に1回、病気にならないように甲板上でダンスを踊らされました。
 奴隷船には他の船には見られないバリカド(バリケード)と呼ばれる仕切りがあり、これによって男性奴隷と女性奴隷を分け、奴隷叛乱が起きたときにも使われました。また、奴隷船には手枷、足枷、首輪、鞭などの拘束具なども詰め込まれていました。

 奴隷として船に乗せられたアフリカ人はどこから来たのかというと、その多くはアフリカ人の手によってヨーロッパの奴隷商人に引き渡されています。18世紀にベニン湾岸で勢力をもっていたダホメ王国では、奴隷狩りが毎年の王の恒例の行事となっており、そこで得た奴隷がヨーロッパの奴隷商人に売却されました。その過程では、当然殺された者もいると考えられ、奴隷船の船長だったジョン・ニュートンは「売却されるために留保された捕虜は殺された者よりは少ない、と私は思う」(72p)との言葉を残しています。
 奴隷船では奴隷叛乱もたびたび起きましたが(特にガンビア人は奴隷になるのを嫌う危険な存在だったとのこと(79p))、手枷足枷を外して自由になり、乗組員との戦闘に勝って、なおかつ船を自分たちの思う通りに動かすという3つのハードルをクリアーすることは難しく、多くの叛乱は失敗し首謀者が見せしめのために責め苦を負わされました。

 奴隷船には船長と水夫たちがいました。先程紹介したジョン・ニュートンは奴隷船の船長でもあり、また「アメージング・グレース」の作詞者としても知られています(奴隷貿易から足を洗って牧師になった)。このジョン・ニュートンの残した記録を見ると、水夫たちの質の低さ、奴隷の調達の難しさ、そして奴隷叛乱の計画や嵐などのトラブルが合ったことがわかります。
 水夫たちの多くは無知な若者がほとんどで、多くは借金の返済のために奴隷船に乗り込まざる得なくなった者たちでした。また、ベンガル人やアフリカ人の水夫たちもいました。
 水夫たちは排泄物の処理や夜間の奴隷の監視など、大変な仕事を押し付けられていましたが、さらに悲惨なのは船長たちが帰国する船に水夫を乗せたがらなかったことでした。船長たちは目的地が近づくとわざと水夫に対して罰を加えたりして現地で船を降りるように仕向けることもあったそうです。1786−87年にリヴァプールから出航した奴隷船の乗組員3170人のうち、帰還したのはたった45%でした(95p)。
 
 一方、奴隷商人たちは奴隷貿易によって大きな富を得ました。本書には18世紀に奴隷貿易を行ったウィリアム・ダベンポートという人物の取引が紹介されていますが(98p表9参照)、ビーズや真鍮、鉄器などを載せて出航したホーク号は、ビアフラ湾で奴隷を獲得しジャマイカで売りさばくことで、同時に行われた象牙の取引を含めて100%を超える利潤を生み出しています。
 また、当時の船はフランス船を拿捕する権利を与えられており、これも利益をもたらしましたが、逆にフランス船に拿捕されて大きな損失を被ることもありました。そのせいもあって多くの船は何人かの商人の共同出資によって運行されました。
 このようにして富を得た商人たちは土地を買い集め地主となり、子弟をケンブリッジやオックスフォードなどに送り出しました。

 第3章は奴隷貿易の廃止運動を詳しくとり上げています。
 奴隷貿易と奴隷制に対する反対運動は1769年に起きたサマーセット事件から始まります。北米で奴隷として購入されたサマーセットがロンドンで逃亡したことをきっかけに、イングランドで奴隷は認められるか? という問題が沸き起こりました。裁判で奴隷制の禁止は明言されなかったものの、サマーセットが釈放されたこともあって、奴隷制は認められないとする風潮が高まりました。
 さらに1781年にゾング号事件が起こります。これは奴隷船ゾング号で伝染病が発生し、さらなる感染を恐れた船長が奴隷たちを海に投げ込んだというもので(病死ならば船主の損失だが事故死なら保険会社の損失になる)、この事件の裁判をきっかけに奴隷貿易の残酷さが世に知られるようになりました。

 こうした事件を受けてイギリスではアボリショニズム(奴隷制廃止運動)が起こります。1787年にロンドン・アボリション・コミュニティー(ロンドン委員会)がつくられ、まずは奴隷貿易の廃止を目指すことが決まりました。
 この運動を担ったのがクウェイカー教徒です。クウェイカーが17世紀にイギリスで生まれたプロテスタントの一派で、「他人が我々にしてくれることを期待するのと同じことを、他人にしてあげなさい」(121p)という人道主義のもと、奴隷貿易廃止運動を担っていくことになるのです。

 その中で特に大きな役割を果たしたのはウィリアム・ウィルバーフォースです。若くして下院議員となった彼には宗教家として身を立てたいという想いもあったとのことですが、先程名前をあげたジョン・ニュートンの説得もあって奴隷貿易廃止運動の先頭に立ちます。
 ロンドン委員会を中心に奴隷貿易反対の制限キャンペーンが展開されます。この活動にはウェッジウッド社の創設者でもあるジョサイア・ウェッジウッドも関わっており、彼は奴隷貿易廃止のためのメダリオンなどを作成し、運動の大衆化に尽力しました。
 1791年、ウィルバーフォースは奴隷貿易廃止法案を動議にかけ、4時間を超える演説を行いますが、法案は否決されました。

 一度は挫折した奴隷貿易廃止運動ですが、フランスの「黒人友の会」(コンドルセが会長で会員にシエイエスやラファイエットがいた)と連携し、国内では砂糖不買運動をはじめます。この運動では「毎週五ポンド[重量]の砂糖を使う家庭は、21ヶ月その使用をやめれば、アフリカ人奴隷1人の「殺人」を防ぐことができる」(136p)と訴えましたが、この訴えは大きな反響を呼び、ロンドンでは2万5000人がこの運動に参加したといいます。また、この運動をきっかけに奴隷貿易廃止運動が女性の間にも広がりました。
 1792年、ウィルバーフォースは再び奴隷貿易廃止法案を下院に提出します。これに対してヘンリー・ダンダスが奴隷貿易の漸進的廃止を求める法案を出し、下院ではこの法案が可決されます。しかし、上院がこの法案を退け、奴隷貿易廃止運動はしばらく停滞します。

 再び奴隷制廃止運動に火をつけたのが1791年のハイチの奴隷叛乱でした。フランスの植民地のハイチでは3万人ほどの白人に対して43万人以上の奴隷がいる状況でしたが、フランス革命と呼応するように奴隷の蜂起が起こったのです。紆余曲折を経て、1804年に黒人共和国であるハイチが誕生します。
 このハイチ革命をきっかけに再びイギリスの奴隷貿易廃止運動も活性化し、1805年にはウィルバーフォースらによって旧オランダ領ギアナ向けの奴隷輸出が禁止され、1807年に、上院では首相のウィリアム・グレンヴィル、そして下院ではウィルバーフォースの活躍もあって、ついに奴隷貿易廃止法案が可決されたのです。
 
 しかし、奴隷貿易の廃止がイギリスの植民地拡大につながった面もあります。イギリスは奴隷船を拿捕して奴隷を解放しましたが、この解放の地であったシエラ・レオネはイギリスの植民地となっていきます。さらに在英黒人をシエラ・レオネに入植させる計画や、ジャマイカの逃亡奴隷であるマルーンがシエラ・レオネに連れてこられたりします。
 また、イギリス政府の圧力もあって、オランダ、フランス、ポルトガルといった国々も奴隷貿易の廃止に踏み切っていきます。ブラジルでは奴隷に対する需要が強く、なかなか奴隷貿易がなくなりませんでしたが、イギリス海軍のブラジルの領海内でも奴隷船を拿捕するという強硬策もあって、1850年に奴隷貿易は終焉します。
 また、アメリカではアミスタッド号事件の裁判が行われ(奴隷船での奴隷叛乱ををめぐる事件、スピルバーグが映画化した)、弁護団に加わったジョン・クインシー・アダムズの活躍もあって奴隷たちは解放されると同時に、奴隷制反対の世論が強まりました。

 こうして奴隷貿易は19世紀中頃までに廃止されたものの、奴隷制そのものの廃止に関してはさらに時間がかかりました。第4章ではその長き道のりをたどっています。
 1823年にイギリスの植民地のガイアナで奴隷叛乱が起きましたが、植民地当局によって鎮圧され首謀者は死刑や鞭打ち刑に処せられました。さらに、このときに牧師のジョン・スミスも牧師補が首謀者だったことから死刑に処せられたのですが、これがイギリス本国に伝わると奴隷制廃止の機運が高まります。特にこの運動には女性が多く参加し、漸進的な奴隷制廃止ではなく即時の奴隷廃止を訴えました。
 さらに1831年にジャマイカで奴隷叛乱が起こり、その背景にプランターの奴隷に対する残虐な行為があったことが明らかになると、議会改革の流れにも乗って、1833年に奴隷制廃止法が成立します。さらに奴隷と境遇の近い年季奉公人についても廃止が進んでいきます。

 この流れの中、カリブ海地域では1848年までに奴隷制がほぼ廃止されますが、アメリカでは綿花の栽培の拡大に伴って奴隷が必要とされたことから、奴隷制の廃止は南北戦争まで持ち越されましたし、ブラジルでもコーヒー生産のために奴隷が用いられ、奴隷制の廃止は1888年まで持ち越されました。
 奴隷廃止後、その代わりにプランテーションなどで働いたのがインドや中国から連れてこられた年季契約労働者です。彼らは奴隷ではありませんでしたが、その扱いは奴隷に近く、中国からキューバへの移民船の1847〜60年の死亡率は約15%で、奴隷船の死亡率よりも高いものでした(218p)。
 さらに本書は「奴隷制は終わっていない」と書きます。ケビン・ベイルズの2016年の著作『環境破壊と現代奴隷制』によると、世界に存在する奴隷の数は4580万人であり、南アジア地域の債務奴隷を中心に数多くの奴隷的な人々がいるといいます。タイの売春宿やブラジルの炭焼き場、アフリカの児童労働など、現在も奴隷的境遇で働く人は多く、この問題は終わったわけではないのです。

 以上のように、本書は奴隷船だけではなく奴隷制度全般について扱った本となっています。「奴隷船」に期待した人にとっては物足りない面もあるかもしれませんが、奴隷貿易を考える上で入門書的な位置づけとなる本に仕上がっていると思います。特に奴隷貿易や奴隷制の廃止運動に関しては勉強になりました。
 特にイギリスの奴隷貿易廃止運動、奴隷制廃止運動で世論が重要な役割を果たしたことと、現代でもまだ奴隷的境遇の人がいるという事実は重要なことではないでしょうか。

 

中野等『太閤検地』(中公新書) 7点

 日本史において中世と近世を分かつのが織豊政権であり、特に秀吉の行った太閤検地と刀狩に代表される兵農分離政策が大きな意義をもったと考えられています。
 教科書的な知識だと、太閤検地は統一的な尺度を用いて行われ、また枡も京枡に統一され、土地の収穫量が石高で表されるようになった。戦国大名の行った検地の多くが申告制の指出検地であったのに対し、太閤検地は実際に計測された丈量検地であった、さらに検地帳に耕作者が記入されたことによって中世以来の複雑な土地所有の関係が整理され一地一作人の原則が確立した、といったところでしょうか。
 では、この太閤検地は実際にはどのように進められ、どのような影響をもたらしたのか、これが本書の内容となります。本書を読むと太閤検地が長期にわたって試行錯誤を繰り返しながら行われたことがわかりますし、検地と大名の転封が相まって日本独自の近世封建社会が成立していったことが見えてきます。

 目次は以下の通り。
序章 太閤検地と日本近世社会
第1章 織田政権下の羽柴領検地
第2章 「政権」としての基盤整備
第3章 国内統一と検地
第4章 大名領検地の諸相
第5章 「御前帳」「郡図」の調製
第6章 政権下の「在所」と「唐入り」
第7章 文禄検地の諸相
第8章 政権末期の慶長検地
終章 太閤検地の歴史的意義

 まず、本書では「太閤検地」を「豊臣政権期に秀吉あるいは政権中枢が何らかの関与をして実施した土地調査」(5p)として、議論を進めています。 
 秀吉の検地に先行するのが織田信長により検地です。ただし、尾張では検知が行われた形跡がなく、主に新たに服属させた地方で検知が行われています。1577年(天正五年)の越前での検地では、村人すべてを立ち会いで村の領域を確定させ、指出に依拠しつつ場合によっては検地奉行が実検・丈量を行うなど、支配単位たる「村」とそこから取れる年貢である「村高」を確定させる作業が行われています。
 1580年(天正八年)には秀吉によって播磨と但馬の検地が行われており、この検地に基づいて黒田孝高や加藤清正に知行が与えられています。

 その後、いくつかの検地が行われますが、その性格が少し変わってきたと考えられるのは賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を滅ぼしたあとにおこなれた越前での検地からです。増田長盛や伊藤秀盛のもとでかなり厳しい検地が行われたようで、寺領などの没収もあったようです。
 また、このときに「検地の水帳」に記載された者が当該の耕地を「あいさばく」との原則が定められた地域もあり(28p)、土地の権利関係がある程度整理されていったこともうかがわれます。
 ただし、丹羽長秀や前田利家といった僚将・盟友の収める地域に関しては、それぞれ独自の検地が行われたようで、統一的な検地が行われてはいませんでした。

 秀吉の行う検地に対して、1585年(天正13年)の近江では大規模な逃散が起きるなど、在地社会の抵抗も根強くありましたが、この年に秀吉が関白に叙任されると、秀吉の立場は他の諸大名と隔絶したものとなります。
 同年、丹羽長秀が没すると嫡子の長重が越前から若狭に転封となり、越前には堀秀政らが入ります。このころから大名の転封が相次ぎます。このあたりの事情について著者は次のように述べています。

 ここで確認しておくべきは、秀吉自身はいうまでもなく、それを支えた家人たちの多くが土豪や在地の地侍、あるいはさらに下層の出身だったことであり、換言すれば彼らには確固として護るべき父祖伝来の地などもなかったという事実である。こうした存在の家臣たちにとって領地替え・所領替えといった措置も容易に受容しうるものだったと判断される」(47-48p)
 
 さらに所領が石高という数値で示されることになったことが、その賞罰を明確にしました。また、検地によって「打出」と呼ばれる石高の増加が発生することが多いですが、その打出の分を没収するということも行われました(領主にとって石高は変わらないが領地の面積は減る)。

 1587年(天正15年)秀吉は「国郡の境目にあり様については、双方の見解を充分に聞いて決定を下す」(56p)との方針に従わなかった島津氏を討ち、九州を平定します。さらに同年には丹波の検地を行い、公家たちの知行を丹波にまとめていきました。
 さらに佐々成政に与えた肥後で国人一揆が起こると、秀吉はこれを鎮圧させるとともに肥後の検地を行って各郡の石高を確定させ、小西行長と加藤清正に与えました。この肥後国人一揆は刀狩令や海賊停止令を出すきっかけになったとも言われています。

 1589年(天正17年)、東国平定をにらんで美濃一国の検地が行われます。この検地では300歩を基準面積とすること、京枡を用いて計量すること、地種・等級別で想定収量を設定するなど、統一的な基準で行われています。ただし、名請人(耕作者)に関する規定はありません。
 1590年(天正18年)、北条氏が降伏し、伊達氏をはじめとする東北の大名が服属すると、秀吉は奥羽の検地を命じています。このとき秀吉は浅野長吉に対して、検地を受け入れない者は「撫で切り」しても構わないとの書状を出しています。新たな服属地に対する検地は非常に重要なものだったのです。ただし、この奥羽の検知では石高ではなく貫高が用いられるんど、現地の習慣に対する一定の配慮も見られます。
 
 このころになると各大名領でもさかんに検地が行われるようになります。安房の里見氏の例のように秀吉配下の増田長盛が派遣されて行われるようなケースもありましたし、毛利領のように基本的に「私検地」ともいうべき豊臣政権が関わらない検地もありました。
 
 こうした諸大名の検地を踏まえ、秀吉は「御前帳(ごぜんちょう)」と「一郡ごとの絵図」の調製と提出を諸大名に命じます。この「御前帳」は全国統一の基準で調整され、禁中に献納されました。
 島津領のように検地ができず指出の収納量から逆算して石高を算出するようなケースもありましたが、この御前帳の作成を通じて。、京枡の使用がさらに広まり、「郷」という名前が「村」に変わってくるなど、さまざまなものの標準化が進みます。また、私検地の結果であってもそれが御前帳に調整され、禁中に献納されたことで、それは公的な性格を帯びてきます。

 こうした中で、室町時代以来の在地社会のまとまりである「在所」のあり方も変化していきます。秀吉は1590年(天正18年)に在所から「侍」や「浪人」を追い払うように命じています。また、この侍や浪人が商人や職人になった場合でも同様に追い払うように求めています。
 いわゆる「兵農分離」の政策のようにみえますが、著者は塚本学が指摘する「士農分離」という考えが重要だと指摘しています。兵は相変わらず農民からも徴収されましたが、それを率いる武士と兵卒の差がはっきりとしてきたのです。

 1592年(天正20年)、秀吉は朝鮮へ軍勢を差し向けます。九州を中心とする西国の大名が動員されましたが、ここで大名が動員すべき軍勢の数は御前帳に書かれた石高が基になっています。
 さらに「人掃い」が実施されます。これは先程の浪人停止の政策が全国に敷衍したもので、在所の奉公人、百姓を把握しようとするものでした。
 さらに侵略した朝鮮半島でも指出を実施するなど、収納量と人口の把握に努めています。187−188pに書き出された朝鮮半島各道の石高を見る限り、きちんとした調査が行われたわけではないようですが、朝鮮半島の地も石高で表示し、その石高に応じて各大名に知行を与えようとしていたのです。

 文禄の役が一段落したあとも、改易された大友吉統(義統)の領地をはじめとして各地で検地は行われます。このころになると検地のやり方もかなり統一的になり、それとともに打出が生じています。この打出を配下への加増に回すなどして、豊臣政権、そして各大名は支配力を強めていくのです。
 1592年(天正20年)に行われた島津領の検地は石田三成の主導で実施され、36万石の打出に成功します。そして、改めて島津家中の者に配分されるとともに、豊臣氏の蔵入地、石田三成の知行も設定されています(216pの表参照)。島津氏の家中への支配力が強まるとともに、豊臣氏の島津氏への支配力も強まる仕組みでした。
 他にも佐竹領などで同じような検地と豊臣氏の蔵入地の設置などがなされています。

 1598年(慶長3年)に上杉景勝が越後から会津へと転封になると、玉突き的に大名の転封が行われます。越前や加賀でも大名の転封が行われ、越前と南加賀で大規模な検知が行われました。賤ヶ岳の戦い後の越前検地では1反=360歩だったのですが、今回は1反=300歩となるなど、より標準化された方法で行われ、検地後には豊臣家蔵入地が大きく増加しました。しかし、この検地が終わった直後に秀吉が没したことから、これが最後の「太閤検地」となりました。

 終章では先行研究の検討などを行いながら、改めて太閤検地の意義が分析されています。
 まず、よく言われる「一地一作人の原則」により、土地の権利関係が確定したとの考えですが、必ずしも耕作者の登録は徹底されておらず、むしろ村請制が確立する契機となりました。「すなわち、太閤検地は必ずしも農民の土地保有権や経営権の確保などを目論んだものではなく、「村」の立ち上げと「村請制」の始動を期したものと考えるべき」(258p)なのです。
 
 秀吉が関白にまでなると、天皇の権威のもとでの国土の掌握といった性格が強くなり、ときに国郡の境目の確定が重視されるようになります。当時の争いの多くが境目をめぐるものだったからです。
 また、領地が石高という数字で表されるようになったこと、「人掃い」によって武士とそれ以外の者の違いが明確になったことなどによって、大名の転封が容易になりました。結果として、「豊臣政権の末期にいたると、戦国以来の故地にいたのは中国の毛利氏と九州・奥羽などの遠隔地の諸大名に限られてくる」(263p)のです。そのうえで著者は本書を次のように結んでいます。

 むしろ、故地にあり続けた毛利氏などが例外なのであり、原理的にすべての「国土」は天皇あるいは秀吉の手に帰し、以後江戸時代を通じて大名・給人は在地性を否定された「鉢植え」の領主として存在することになる。こうした世界史的にも稀有な「封建制度」を可能にし、それを根本で支えたのが一連の太閤検地と称される政策であった。(263p)
 
 秀吉が主導した、またはその時期に各大名が行った検地について時系列的に多数取り上げているために、やや検地そのものについての大きな流れは捉えにくい面もあるのですが、時系列で論じることによって、上述のような戦国時代の中世的な封建制度が近世的な封建制度へと変化していく様子は見えてくるのではないかと思います。
 太閤検地という政策を知る上ではもちろん、兵農分離や近世の村落といったことを考えていく上でも重要なことを教えてくれる本になっていると言えるでしょう。


梶谷懐・高口康太『幸福な監視国家・中国』(NHK出版新書) 9点

 キャッシュレス社会にシェアエコノミーに信用スコアと、ものすごい勢いでハイテクが普及しつつある中国。その姿はこれからのテクノロジー社会を予見させるようでありつつ、同時に多数の監視カメラや政府によるネット検閲などもあって近未来のディストピアを予見させるようでもあります。
 そんな中国社会をどのように考えればよいのか? という問いに向き合ったのがこの本です。『なぜ、習近平は激怒したのか』(祥伝社新書)、『現代中国経営者列伝』(星海社新書)などの著作があるジャーナリストの高口康太が、誤解も多い現在の中国のテクノロジー社会の状況を紹介し、『「卵と壁」の現代中国論』『日本と中国、「脱近代」の誘惑』『中国経済講義』(中公新書)などの著作がある経済学者の梶谷懐が、功利主義や市民的公共性といった概念を使って中国社会をいかに考えるべきなのかということを分析しています。

 まず現在の中国の監視社会の状況を把握する事ができる本ですし、中国で進行していることが中国という特殊な政治体制にのみ当てはまるものではなく、日本をはじめとする他の国々でもあり得るものだということを明らかにしています。さらに終章でとり上げられている新疆ウイグル自治区ではそのあり方が一線を越えてしまっており、非常に考えされられる内容です。
 中国に興味がある人だけではなく、広く情報社会論に興味がある人(例えばローレンス・レッシグや東浩紀の情報社会論などを面白く読んだ人)にもお薦めできます。

 目次は以下の通り。なお、第1章と第5〜7章を主に梶谷懐が、第2〜4章を主に高口康太が執筆しています。
第1章 中国はユートピアか、ディストピアか
第2章 中国IT企業はいかにデータを支配したか
第3章 中国に出現した「お行儀のいい社会」
第4章 民主化の熱はなぜ消えたのか
第5章 現代中国における「公」と「私」
第6章 幸福な監視国家のゆくえ
第7章 道具的合理性が暴走するとき

 中国では多数の監視カメラが設置され、交通違反者の顔が大スクリーンでさらされるといったシステムがあり、さらには個人を格付けするようなスコアも開発されています。まさにジョージ・オーウェルの『一九八四年』の世界のようですが、実はこのイメージは的確ではないといいます。
 実は個人を格付けする信用スコアは民間企業がやっていることで、政府が一元的に管理しているわけではありません。その他のテクノロジーに関しても利便性の追求のもとで生まれているものが多く、どちらかというとオルダ・ハクスリーの『すばらしい新世界』に近いイメージなのです。

 世界を席巻しているGAFA(Google、Amazon、Facebook、Apple)ですが、中国市場には食い込めていません。もちろん、これには中国の「Great Firewall」とも呼ばれる一種のネット鎖国のようなシステムの存在が大きいですが、第2章ではそれ以外の要因も指摘されています。
 例えば、アリババがAmazonに勝てたのは、「誰から買うか」を重視した「人軸のEC」の仕組みがあったといいます。粗悪品も流通する中国では信頼できる人や店舗を見つけることが重要なのです。
 このEC(電子商取引)の拡大を支えたのがモバイル決済です。現在はこれがネット以外の場所でも使われるようになっていますが、このモバイル決済では、誰がいつ、どこで、どのようにお金を使ったがわかります。そして、このデータはGoogleやFacebookでも収集することが難しいデータです。こうしてアリババやテンセントといった中国のIT企業はデータの面でアメリカのIT企業に対して優位に立つことができたのです。
 また、ウーバーなどに代表されるギグエコノミー(超短期の仕事で1回毎に報酬を受け取るスタイル)でも、中国はもともとそういった生活を送っていた人が多かったこともあって先行しています。そして、ここでもさまざまなデータが収集されていると考えられるのです。

 こうしたことを踏まえて第3章では中国の監視社会と信用スコアなどの実態が語られています。
 中国では行政の電子化が進み、煩雑だった行政手続きはアプリで行えるようになりました。さらに国中に設置された監視カメラは顔認証テクノロジーなどが強化され、中国社会の治安を向上させました。一時期の中国では一人っ子政策の影響もあり、子どもの誘拐が多発していましたが(身代金目的ではないので戻ってこないケースが多い)、監視カメラシステムによって未解決事件は激減しました。さらに殺人事件なども減っていおり、監視カメラは人々に安心をもたらしているとも言えるのです。

 そうした中で日本からも注目を浴びているのが「社会信用システム」です。日本の報道だと中国が国家としてこうしたシステムを構築しているように捉えているものもありますが、実態は少し違います。
 まず、登場したのは金融分野における信用スコアです。お金を貸すには相手が信用できる人物なのかを知る必要があり、例えば日本のサラ金でもお金を借りた情報を共有していました(『ナニワ金融道』に出てきたやつ)。中国ではクレジットヒストリーをもたない人が大量にいたために、彼らの信用度を図るものとしてネットショッピングやモバイル決済の履歴、さらには学歴やネットの人間関係などが利用され、それがスコアという形で点数化されるようになります。
 そして、こうしたものが金融以外の分野にも使われ始めており、その代表がアリババの「芝麻信用」とテンセントの「謄訊征信」です。

 一方で、個人情報を「懲戒」の仕組みとして利用しようというのが「失信被執行人リスト」です。中国では近年さまざまなブラックリストが作成され、2014年にはそれが連結され、一括して検索できるシステムの構築が始まりました。この中で法の執行に従わなかった者などを載せているのが「失信被執行人リスト」です。そして、この賠償金を支払わないなどしてこのリストに載った者には高速鉄道に乗れないなどのペナルティがあるのです。

 さらに中国では地方自治体が独自の信用スコアを導入しようとする動きもあります。個人の道徳をスコア化して人々を望ましい方向へと誘導しようというのです。
 例えば、山東省威海市栄成市では「お墓参りで紙銭を燃やしたり爆竹を鳴らしたりすればマイナス20点」「派手すぎる結婚式はマイナス10点」「栄成市を飛び越えて上級自治体に陳情したらマイナス10点」(96-97p)などと定められており、農民たちの生活習慣や行動を改めようという意図がうかがえます。
 ただし、現時点で有効に稼働している自治体は少なく、あくまでも「紙の上のディストピア」(98p)に留まっているのが現状のようです。しかし、これが単なる「ディストピア」ではなく、リチャード・セイラーとキャス・サンスティーンが主張するリバタリアン・パターナリズムの「ナッジ」の仕組みと近いものであることも押さえておく必要があるでしょう。

 こうしたシステムはネットの普及と重なる形で進化しています。このネットの普及は、一時期中国の民主化をもたらすのではないかと期待されましたが、現在のところその予想は外れたと言っていいでしょう。
 2009年に微博(中国版Twitter)がリリースされ、デモや騒擾事件の様子がまたたく間に拡散されました。2011年の烏坎(うかん)事件では地方政府に対する農民の抗議運動が微博で中継され、それが海外メディアにもとり上げられ、地方政府が譲歩を余儀なくされました。この時期、中国では地方政府の非法をネットなどを使って上級政府に訴えるというやり方が多発します。水戸黄門を待望するような形ではありますが、庶民が声を上げる動きが起こったのです。

 ところが、2012年に習近平が国家主席になると状況は一変します。習近平は「反腐敗キャンペーン」によって共産党の大物を逮捕するとともに、有名ブロガーや人権派弁護士などを次々と逮捕し、世論を萎縮させます。さらにネットの監視員や世論誘導員を増員し、検閲を強化したのです。
 しかもこの検閲は巧妙になっており、単に発言を削除するのではなく、検索されない、リツートできないなど本人も気づかないような形で行われていることもあります。さらにネットの書き込みにも信用スコアを導入しようという動きもあります。一定の点数を下回るとフォローされたりリツイートされなくなるなどの仕組みを通じて自己検閲をさせようというものです。しかも「祖国を熱愛することを栄光とし、祖国に害を与えることを恥とする」といった定型文を書き込むとポイントの回復が早くなるなど(134p)、いかにも共産党っぽい仕組みもあります。
 こうした中で、ネットにおける社会問題に関する書き込みは減少していき、ネットの話題はエンタメ情報などへと移っているのです。

 第5章からは理論的な考察に入っていきます。西洋社会において「市民社会」は、法の下で平等である個人の政治参加と、経済における私的利益の追求が重なる形で発展してきましたが、中国では「公」が正しく「私」は悪であるする儒教的な伝統が根強くあり、国家も市民社会も「天理」に従うことによって正当性を得られるのだという考えがあります。
 こうした中で、市民たちが自ら従うべき規範を定めていく法の支配は確立されにくく、高い徳を持った者による正義の支配ともいうべきものが求められがちなのです。
 中国の右派と左派は日本とは違い、右派がリベラリスト、左派がナショナリストとなります。左派が要求するのは経済的な平等であり、「経済面における「平等化」の要求は、国家権力を制限するのではなく、むしろパターナリズムを容認し、強化させるほうに働きがちです。」(165p)
 ここに市民生活に対する政府の介入を受け入れる余地がありますし、市民社会による政府の「監視」といった働きも期待しにくいです。

 第6章では、功利主義やカーネマンの「心の二重過程論」を手がかりに、監視社会がある意味で「理にかなったもの」であることを示しつつ、分析を進めていきます。
 功利主義は帰結を重視します。ですから、場合によっては自由を制限することも正当化されます。例えば、車に乗るとついあおり運転をしてしまう人間がいるならば、先回りしてその人間には車を貸さない、運転をさせないといったふうにしたほうが、周囲にとってもその人にとってもいいことかもしれません。自由を制限することで「幸福」は増加するのです。
 また、カーネマンは人間の脳内には直観的に判断を下す「システム1」と意識的な判断を下す「システム2」があると想定しています。「システム2」はかなりの注意力を必要とするものであり、人々は多くの場合、直観的に「システム1」に従い、ときに間違います。
 しかし、将来はAIがこの「システム2」の代わりをしてくれるかもしれません。AIによる示唆や判断は人々が間違いを犯す可能性を低下させてくれるでしょう。

 この「心の二重過程論」に関連する議論としてスタノヴィッチの「道具的合理性とメタ的合理性」という考えがあります。「道具的合理性」は目的を達成するために発揮されるもので、「メタ合理性」とは、そもそも目的の正しさなどを問うものです。
 著者はこの考えを用いて、市民社会では市民が議会やNGOなどの「メタ的合理性」を担うシステムをつくり、それが「道具的合理性」を発揮する企業などを規制・監視するという仕組みを考えています。一般の人は「システム1」に従って直観的に生きていますが、議会などを通じて「道具的合理性」の正しさを問うことができるというわけです。
 ところがビッグデータなどの解析によって、巨大IT企業が「システム1」に従って生きる人々からデータを吸い上げて、人々に快適な生活を提供する「アルゴリズム的公共性」(186p)とも言うべきものが生まれようとしています。
 そして、著者はこの「アルゴリズム的公共性」が中国の「天理」と親和的だと考えています。データによって「可視化された人民の意志」(201p)もとに、腐敗を正しつつ、市民の不満の芽を摘み取るような政治が行われる可能性もあるからです。
 そして、これは中国だけの問題ではありません。「市民的公共性」が弱いとされる日本をはじめとするアジア諸国では、この「アルゴリズム的公共性」が肥大化していく可能性が十分にあるのです。

 最後の第7章では新疆ウイグル自治区の状況が語られています。2009年にウルムチで起きた暴動を機に中国政府はウイグル族の民族主義的な動きを「対テロ闘争」として抑え込んでいます。
 新疆ウイグル自治区には「再教育キャンプ」と呼ばれる収容所がつくられ、テロの疑いをかけられた者だけでなく、ビジネスマンや大学教授までも収容され、共産党や習近平への忠誠を誓う言葉を毎日唱えさせられた上に、「職業訓練」という名で単純労働に従事させられているのです。
 さらに地方政府の役人がテュルク系住民の家庭に滞在したり、住民のスマホにスパイウェアのインストールを義務付けるということも行っています。さらに住民からのDNAの採取、話し声や歩き方などの生体情報の収集も行われており、まさにディストピアが出現しているのです。

 では、こうした監視社会にどう対峙すればいいのか?
 第3章では、大屋雄裕の議論が紹介されています。大屋は考えられる将来像として、私企業のアーキテクチャによって個人の行動が制限され政府によるコントロールが及ばなくなる「新しい中世の自由主義」、一部のエリートや彼らに選ばれた公権力がデータを集中的に管理する「総督府功利主義のリベラリズム」、市民もエリートも政府もお互いがお互いを監視し合う「ハイパー・パノプティコン」の3つを提示しています。
 しかし、中国のような権威主義体制では「ハイパー・パノプティコン」は機能しがたいでしょう。そんな中で、著者は王力雄の『セレモニー』という小説を紹介しながら、独裁者にもテクノロジーが見渡せなくなり、ある種の相互監視が生まれるような可能性を示唆しています。

 このように本書は中国の実情を紹介するだけではなく、日本、そして全世界がこれから直面する問題を示しています。
 日本でも導入当初こそ監視カメラは気持ち悪く思われましたが、数々の事件解決に寄与する中で、犯罪防止のために監視カメラを設置しようという考えは当たり前になっています。交通違反者をモニターに大写しにすることには抵抗を覚えても、あおり運転の車を自動的に割り出して、免許の点数を差し引くようなシステムなどがあれば歓迎する日本人も多いでしょう。本書を読むと、中国が「異なる世界」ではなく「地続きの世界」であることがわかります。欧米のような市民的公共性が弱い日本では監視テクノロジーに対するブレーキも弱いかもしれません(ただし、個人的には日本人の一般的な他者に対する不信、政府に対する不信がブレーキになると思う。羅芝賢『番号を創る権力』で指摘されているように日本での総背番号制は何度も挫折しており、特に政府によるビッグデータの把握は相当遅れるのでは)。
 最初にも述べたように、中国に興味がある人だけでなく、これからの情報社会を考える上でも広く読まれるべき本でしょう。

 

白戸圭一『アフリカを見る アフリカから見る』(ちくま新書) 7点

 新聞記者としてアフリカに駐在し、現在は大学教授となっている著者が、Webメディアの「朝日新聞GLOBE+」に書いたエッセイなどを中心に構成された本。巻末には『平和構築入門』、『ほんとうの憲法』(ともにちくま新書)などで知られる篠田英朗との長めの対談も掲載されています。
 アフリカの現状を紹介しているエッセイも多いですが、それとともにポイントとなっているのが、タイトルにもある「アフリカから見る」という部分で、アフリカから国際情勢などを読み解くことによって、現在の日本が置かれている立場などがわかるようになっています。

 目次は以下の通り。
1 アフリカを見る アフリカから見る
 第1章 発展するアフリカ
 第2章 アフリカはどこへ行くのか
 第3章 世界政治/経済の舞台として
 第4章 アフリカから見える日本
2 アフリカに潜む日本の国益とチャンス(篠田英朗との対談)

 21世紀になり、資源価格の上昇もあってアフリカ経済は発展しました。今後の経済成長に関しては不透明な面もありますが、人口の増加などにより今後アフリカの国々のプレゼンスが大きくなってくることは確実です。2100年には人口上位10カ国のうち5カ国がサブサハラのアフリカ(ナイジェリア、コンゴ民主共和国、タンザニア、エチオピア、ウガンダ)になるという予想となっており、2100年には人類の3人に1人はサブサハラの住民になるというのです。
 一方、アフリカの農業の生産性は低く、アフリカ全体の1ヘクタールあたりの穀物生産量は約1.6トンと、日本や中国の約6トンに比べると大きく見劣ります。
 このようにアフリカには問題とともにビジネスチャンスもありますが、アフリカにおける日本の存在感は薄いです。アメリカのロサンゼルスの日本総領事館の管轄下だけで約9万6000人の日本人がいるといいますが、アフリカ54カ国にいる日本人の合計は7591人にすぎないのです(20p)。

 本書では発展するアフリカ諸国の例としてエチオピアを紹介し(2016年、エチオピアのGDPはナイジェリア、南アフリカ、アンゴラに次ぐ第4位になった。ただし2017年に通貨切り下げがありケニアに抜き返された)、また、近年アフリカへの投資を積極的に行っている中国のプレゼンスについて触れています。
 日本では比較的中国の進出によるマイナス要素が伝わりがちですが(「雇用や資源を奪っている」など)、現地の人びとの中国に対する印象は悪くなく、不満があるのは「安いが壊れやすい中国製品」についてです。日本で広がっている話の裏には「「中国はアフリカで嫌われていてほしい」という日本人の願望」(98p)があるのではないかと著者は見ています。

 一方の日本は、アフリカへの投資に及び腰です。例えば、エボラ出血熱が西アフリカで流行すると、日本ではアフリカ大陸全体への渡航を自粛する動きが起こりました。西アフリカと南アやエチオピアは5000キロ近く離れており、ネパールで感染症が流行した時に日本への渡航を自粛するのと同じようなものです(39−40p)。
 また、日本では「インフラも金融機関もないアフリカでどんなビジネスができるのか?」という声も根強くありますが、固定電話や銀行はなくても、携帯電話やモバイルマネーサービスがそれを代替しつつあります(120−124p)。アフリカにはアフリカなりのビジネスチャンスがあるのです。

 ただし、やはりまだアフリカは多くの問題も抱えています。第2章の「アフリカはどこへ行くのか」では、そうした問題がとり上げられてます。
 まずは著者がミャンマーに行ったときの経験が語られていますが、著者は畦があり稲が直線的に並んでいる(正条植え)ミャンマーの水田を見て感銘を受けたといいます。日本では当たり前ですが、アフリカでは畦もなく正条植えもされていないことが一般的なのです。ただ、だからこそまだまだ食糧増産の余地があるとも言えます。

 また、政治の不安定性も大きな問題です。ここではコートジボワールとケニアがとり上げられています。
 コートジボワールは60年の独立から80年にかけて高い経済成長率を誇りましたが、大統領の座を巡る対立の中でナショナリズムが台頭し、それが社会を不安定化させます。もともとこの地域の国境はフランスが勝手に決めたものですが、コートジボワール生まれを意味する「イボワリアン」というグループの優越を主張するものが現れ、それが内戦につながりました。
 ケニアでは2007年の大統領選のあと、結果に不満を持つ集団による暴力行為が行われました。その担い手は角材や斧などで武装した一般市民であり、武装勢力などではありません。ルワンダでもそうでしたが、アフリカでは一般市民が集団的な暴力の担い手となることが多いです。もともと集団になると「集団極性化」といって行動がエスカレートすることが多いのですが、警察力の弱さがこうした行動にブレーキを掛けられない要因ともなっています。

 さらに第4章では南アフリカで頻発する外国人への襲撃をとり上げています。暴力の担い手は黒人ですが、ターゲットは白人やアジア系ではなく、モザンビークやジンバブエなどからやってきた外国人労働者です。
 雇用側にとって、権利意識が強い南アの黒人よりも外国人労働者のほうが使い勝手の良い存在であり、そのために南アの黒人の失業率は高く、その不満が外国人労働者へと向けられているのです。このあたりは今後日本が直面するかもしれない問題でもあります。

 では、こうしたアフリカに日本が関わるべき理由は何でしょうか?
 1つは国連中心の外交を行おうとした場合にアフリカが決定的に重要だからです。2004〜05年にかけて国連の安保理改革が叫ばれ、常任理事国入りを目指す日本・ドイツ・インド・ブラジルのG4が熱心に活動を行いました。
 このときに鍵を握ったのがアフリカの動向です。日本はアフリカから2カ国の常任理事国を出すという案、ただし日本をはじめとする新しい常任理事国は拒否権をしばらく凍結するという内容でアフリカ諸国の取りまとめをはかります。AU(アフリカ連合)の議長であったナイジェリアのオバサンジョ大統領に働きかけ、2005年のAU首脳会議でアフリカを一本化しようとします。
 しかし、ここで猛烈な反対を行って会議をひっくり返したのがジンバブエのムガベ大統領でした。そして、その裏には中国の働きかけがあったといいます(会議の9日前にムガベ大統領は中国を訪問し経済協力文書に署名している)。
 
 また、PKOなどの活動に関わろうとするのであれば、アフリカに関わらざるを得ない状況です。最後の対談で篠田英朗も指摘していますが、「21世紀になってからできたPKOオペレーションはほほぼ全てアフリカ」(195p)であり、日本がPKOによる国際貢献を行おうとすれば、その舞台はアフリカにしかないのです。
 しかし、日本の自衛隊は南スーダンから撤退してしまいました。南スーダンはアフリカの中で特に危険なオペレーションというわけではなく、中央アフリカやマリでの活動に比べれば、その危険性は小さいにも関わらずです(201p)。
 著者は、90年代後半以降、ルワンダの虐殺事件などを受けてPKOの性格が変わってきているにも関わらず、日本が四半世紀前に決めたPKOの「参加5原則」に固執していることが問題だと言います。「日本の国連PKOへの参加は、派遣されている自衛隊員の練度や規律の正しさでは世界最高水準にあるものの、制度設計の点では国連の基準からも世界の紛争の現実からも遠くかけ離れている」(154p)のです。

 この問題は篠田英朗との対談で、北岡伸一の言う「右の鎖国」と「左の鎖国」の問題に絡めてとり上げられています。「右の鎖国」とは、「日本すごい!」といって日本に閉じこもる右派であり、「左の鎖国」とは憲法9条を金科玉条としてPKOなどの危険な任務に反対する左派のことです。この2つの「鎖国」的態度のもと、PKOなどに関する議論が進まず、結果的には平和構築などで日本は存在感を示すことができていないというのが二人の見立てになります。
 こうした考えに反論がある人もいるでしょうが、比較的現場に近い人の考えとして読み応えのある対談となっていると思います。

 この他にも、アフリカから見ると北朝鮮は意外に孤立していなということをレポートした第3章の「北朝鮮は本当に孤立しているのか?」、日本の「英語公用語論」に疑問を呈した第3章のコラム「英語礼賛は何をもたらすのか」が面白かったです。
 北朝鮮は日本の報道を見ていると「世界の孤児」のようにも見えますが、コンゴ共和国には2012年まで北朝鮮が建設した武器工場があり、ウガンダは北朝鮮との間でウガンダの警察官を北朝鮮が訓練をする取り決めを結んでいました。2014年に国連で採択された北朝鮮の人権状況を非難する決議でもアフリカ54カ国の半分以上の29カ国が反対・棄権・欠席に回っており、少なくともアフリカには北朝鮮に対する厳しい包囲網のようなもはないのです。
 
 また、英語に関しては、著者は企業が英語を重視することや英語教育の充実には賛成だとしながら、英語公用語化には反対だと言います。アフリカ諸国では英語やフランス語が公用語になっており、高等教育を受けた人は流暢な英語やフランス語を話しますが、地方に行くと現地語しか通じない地域も多いです。こうなると国民は2つの層に分断されていきます。
 
 もともと存在した現地諸語に英語を公用語として加えた言語環境は、英語を操る少数の知識層・富裕層・権力者層と、英語を解さず社会の意思決定過程から疎外された圧倒的多数の人々との格差を広げる方向に作用することはあっても、その逆ではなかったのである。(130p)

 もともとがWeb媒体のエッセイということもあって、一つ一つのトピックに関する掘り下げはそれほど深くはないですが、そのトピックの着眼点に関しては非常に面白いと思います。
 タイトルからすると「アフリカを見る」という点に関してはもう少し掘り下げてほしいという点もあるのですが、「アフリカから見る」という点に関しては非常に面白くオリジナリティのある内容になっているのではないかと思います。アフリカだけでなく、広く国際政治や国際協力について興味のある人におすすめできる内容と言えるでしょう。


大木毅『独ソ戦』(岩波新書) 9点

 第二次世界大戦の帰趨を決めたのは、日米の太平洋での戦いでもノルマンディー上陸作戦でもなく独ソ戦であったことは多くの人が認識していることだと思います。
 だからこそ、独ソ戦に関してはよく「歴史のif」が語られます。例えば、小説ではありますがスティーヴ・エリクソンの『黒い時計の旅』では、ヒトラーが対ソ戦を決断しないことでナチ・ドイツがヨーロッパを制圧している世界が描かれていましたし、作戦面に関しても、「ドイツが冬季の作戦にもっと慎重だったら…」とか「ヒトラーが作戦に介入しなければ…」といったような事が言われ、「第二次世界大戦においてドイツの勝った世界」という想像を刺激されるのです。
 ところが、この本を読むと、ドイツにとって対ソ戦はヒトラーのきまぐれではなく必然であることがわかりますし、ドイツ敗北の理由も、ヒトラーの介入や冬の厳しさといった部分ではなく、もっと根本的なところにあることが見えてきます。
 また、著者は防衛研究所講師や陸上自衛隊幹部学校講師なども務めた人物で軍事面の記述は当然ながら充実しているわけですが、248ページというテーマにしてはコンパクトな紙幅のなかに、軍事面にとどまらない独ソ戦の側面を盛り込んでおり、非常に読み応えのある内容となっています。

 目次は以下の通り。
第一章 偽りの握手から激突へ
第二章 敗北に向かう勝利
第三章 絶滅戦争
第四章 潮流の逆転
第五章 理性なき絶対戦争

 1941年5月、スターリンのもとには日本にいたゾルゲをはじめとしてさまざまなルートからドイツの侵攻が近いという情報が寄せられていましたが、スターリンはイギリスが独ソの仲を裂こうとしている謀略だと考え、ドイツに対する備えを固めませんでした。また、1937年から始まった大粛清によって軍の将校たちの多くが処刑されており、ソ連軍の弱体化は隠しようがない状況でした。
 一方、ヒトラーは1940年の後半に徐々に対ソ戦の決意を固めていったと考えられています。もともと東欧からロシアにかけてドイツの「生存圏」を確保すべきだと考えていたヒトラーは、英本土制圧の行き詰まりもあり、ソ連を屈服させることでイギリスの抗戦意思をくじこうとしたのです。
 1940年の12月18日にヒトラーから対ソ戦実行の指令が下りますが、国防軍もハルダー陸軍参謀総長のもとルーマニアの油田を確保するために対ソ戦の覚悟を固めていました。

 ヒトラーはソ連を一撃で屈服させる作戦を望みましたが、陸軍が立案した作戦もかなり楽観的なものでした。陸軍のマルクス・プランではソ連侵攻作戦は「全部で9ないし17週で完遂されるとみていた」(25p)のです。
 最終的に北方軍集団、中央軍集団、南方軍集団の3つの軍集団による「バルバロッサ」作戦が決まりますが、ヒトラーだけでなく国防軍もソ連軍を過小評価しており、非常に甘い見立てとなっていました。

 第2章は「敗北に向かう勝利」と題されていますが、この部分は読みどころの一つだと思います。
 ドイツは緒戦で圧倒的な勝利を収め、中央軍集団は開戦1週間でソ連領内400キロの地点にまで進撃しています。ヒトラーだけでなく、ハルダーも「ロシア戦役は二週間のうちに勝利した」(38p)と豪語しました。
 一方、ソ連は無謀な反撃によってかえって傷口を広げていきました。指揮官の能力、兵站、通信などに劣っていたソ連軍にはドイツに反撃する力はなく、ドイツ中央軍と対峙したソ連西正面軍は62万5000の兵力のうち、20日も経たないうちに41万以上の戦死者、戦傷者、捕虜を出したのです。

 このドイツの快進撃を可能にしたは作戦は「電撃戦」という言葉で知られています。ただし、「電撃戦」という言葉はのちに使われるようになった言葉で軍事用語ではありません。第一次世界大戦中に完成された「浸透戦術」の考えをもとに、戦車や航空機を用いて大規模に行ったのでが「電撃戦」と呼ばれる作戦様態です。
 突進部隊によって相手の通信・補給能力を寸断し、後続部隊が弱体化した敵を殲滅するこの作戦はフランスにおいて大きな戦果をあげました。
 しかし、ロシアでは思うようにはいきませんでした。ロシア軍は補給路を絶たれてもしぶとく抵抗しましたし、「電撃戦」を可能にする道路状況も非常に劣悪で進軍のスピードは鈍っていきました。

 6月下旬のミンスク包囲戦ではドイツは33万人余のソ連軍捕虜を得ますが、戦闘能力を持った部隊の脱出を許し、無視できない損害を得ました。頼みの装甲部隊に関しても、稼働できない戦車が増え、その攻撃力と機動力はダメージを受けていました。
 7月のスモレンスクの戦いでも、ドイツ軍は個々の戦いで勝利を収めスモレンスクを占領するわけですが、ソ連主力の包囲殲滅に失敗し、大きな損害を被りました。オーストラリアの研究者デイヴィッド・ストーエルは「ドイツが「バルバロッサ」作戦に失敗したのは、大戦闘で惨敗したことによるものでもなければ、ソ連軍の善戦ゆえというわけでもない。彼らは、戦争に勝つ能力を失うことによって失敗したのである」(59p)と述べています。ストーエルによれば、41年8月の時点で「ドイツはもう対ソ戦の敗北を運命づけられていた」(61p)のです。

 このように当初のプランが揺らぐなか、ドイツではヒトラーと国防軍の間で考えの違いが表面化します。国防軍がモスクワの早期攻略を主張したのに対して、ヒトラーはコーカサスの油田地域への進撃やレニングラードの孤立化などを主張したのです。
 モスクワ進撃を主張する国防軍の移行を押し切って、ヒトラーはキエフでのソ連軍の包囲殲滅を目指します。このキエフ会戦の戦果は飛び抜けたものでソ連の4個軍を壊滅させましたが、ハルダーを始めとする国防軍のメンバーは、戦後になってこれは時間の浪費だったと主張しています。これによってモスクワへの進撃が遅れ、ドイツはモスクワ攻略に失敗したというのです。
 ただし、近年の研究によれば補給などの問題により当時のドイツ軍にモスクワへの迅速な進撃は不可能であり、また、モスクワを攻略がソ連に致命的なダメージを与えたのかというと、それも確かではありません。
 そして、ちょうどモスクワ攻略が失敗に終わった頃、日本の真珠湾攻撃とともにドイツはアメリカに対して宣戦布告を行います。

 第3章では個々の戦闘から一旦離れて、独ソ戦の性格が検討されています。独ソ戦には「通常戦争」「世界観戦争」「収奪戦争」という3つの性格があり、徐々に「通常戦争」の面が後景へと退き、「世界観戦争」「収奪戦争」の色彩が濃くなっていくのです。
 ヒトラーの構想によれば、まずはヨーロッパ大陸においてソ連を打倒して東方植民地帝国をつくり、その上で世界の覇権をかけてアメリカ(+イギリス)との戦争が行われることになっていました。つまり、独ソ戦はヒトラーの「プログラム」を実現するためには不可欠なものだったのです。

 一方、独ソ戦は経済面から必要とされました。ヒトラーは第一次世界大戦において国民に負担をかけた結果、革命が起こって敗北したという「1918年のトラウマ」の影響からか、軍備拡張とともに国民の生活水準の維持を求めました。 
 しかし、この政策により資源も労働力も不足してきます。こうした事態に対しては、軍拡の抑制、または日本でも行われた厳し経済統制と国民の勤労動員の強化という方策が考えられますが、ドイツが選んだのは「他国の併合による資源や外貨の獲得、占領した国の住民の強制労働により、ドイツ国民に負担をかけないかたちで軍拡経済を維持」(88p)するというやり方でした。戦争は内政面からも要請されていたのです。
 ドイツの食料供給の責任者であったヘルベルト・バッケは「戦争三年目に、国防軍全体がロシアからの食料によって養われるようになった場合にのみ、本大戦は継続し得る」(95p)と述べています。

 このようにドイツの戦争目的の一つが収奪であったことから占領地域では厳しい収奪が行われたわけですが、さらに東部戦争ではナチのイデオロギーが前面に出た「世界観戦争」=「絶滅戦争」となったことから、占領は過酷、さらには不合理なものとなっていきます。
 ラインハルト・ハイドリヒのもとに「出動部隊(アインザッツグルッペ)」が編成され、占領地域でユダヤ人の虐殺を行っていきました。この出動部隊の行動は国防軍によっても支援されており、国防軍も無関係だったわけではありません。
 さらにソ連兵の捕虜に関しても、各部隊の政治委員は殺害の対象とされ、ユダヤ人将校も殺されていきました。その他のソ連兵に関しても「世界観」に基づいて過酷な取り扱いがなされ、570万のソ連兵捕虜のうち300万名が死亡したといわれています。
 さらに東方での占領地域の拡大は、ユダヤ人を大量に抱え込むことにもつながりました。マダガスカルなどへのユダヤ人追放政策が挫折すると、各地に絶滅収容所が建設されていきました。

 こうしたドイツの動きに対して、スターリンは対独戦を「大祖国戦争」と名付け、ナショナリズムを利用することで戦争を勝ち抜こうとしました。
 また、ドイツがソ連の残存部隊を掃討するために住民を人質にしたり、ソ連兵をその場で射殺したりしたことが、パルチザン運動に火をつけました。こうした憎しみとナショナリズムの高揚はドイツ兵の捕虜への虐待を生み、多くのドイツ兵捕虜が命を落とすことになります。

 第4章で描かれるのがスターリングラードの興亡を中心とした戦局の転換です。
 41年12月〜42年1月にかけてのソ連軍の連続攻勢に対して、ヒトラーは現在地を死守せよとの命令を出し、退却を禁じました。国防軍の幹部はこれに反発しますが、ヒトラーは彼らを次々と解任し、ヒトラー自らが陸軍総司令官の地位に就きます。ソ連の攻勢は準備不足により失敗しますが、ヒトラーは死守命令のおかげだと考え、作戦への介入をさらに強めます。
 42年の春、ヒトラーはモスクワ攻略を訴える国防軍の意見を退けて、コーカサスの石油を狙う作戦を推し進めます。
 
 こうして立案された「青号」作戦は、黒海沿岸沿いに進軍しコーカサスを狙う作戦でしたが、ここが突出するとその側面が狙われやすくなります(133pの地図参照)。そこで、ドン川流域のソ連軍を殲滅し、スターリングラードを火砲の射程圏内に収め、ソ連軍の水運を絶つ作戦が立案されました。
 一方のスターリンは、ドイツの目標はモスクワであると決め込んでおり、42年6月28日に始まった「青号」作戦は奇襲の形となり、緒戦はドイツが勝利を収めます。

 この勝利の報を聞いたヒトラーは軍を2つに分け、コーカサス占領とスターリングラードへの進撃の2つの目標を設定します。しかも、スターリングラードは無力化するだけでなく占領するものとされました。
 8月、ドイツ軍はコーカサスのマイコープ油田を占領しますが、設備は徹底的に破壊されており、油田が再稼働したのは戦後の1947年になってからでした。ヒトラーはA軍集団司令官のリスト元帥を解任すると、自らその地位に就き、さらにハルダー陸軍参謀総長も解任します。
 一方、スターリングラードに向かった部隊はソ連の頑強な抵抗にあい、市街戦へと突入していきます。9月にはスターリングラードの80%を占領しますが、ヒトラーは完全占領にこだわります。ドイツはスターリングラード攻略のために戦力を集中しますが、その両翼は非常にもろくなっていました。

 11月19日、ソ連軍の反撃が始まります。ソ連軍はスターリングラード攻略にあたっていたドイツの第6軍の包囲殲滅を目指しますが、この作戦は他の地域での攻勢とも連携したもので、連続的なものでした。本書ではこうしたソ連の行動を「作戦術」という用語で説明しています。
 作戦術とは戦略と戦術の間にあって、「戦線方面に「作戦」、あるいは「戦役」を、相互に連関するように配していく」(153p)もので、ソ連の軍人たちが研究していた用兵思想でした。
 第6軍が包囲されると、ヒトラーは救援のためにマンシュタイン元帥を派遣します。マンシュタインの救援部隊は第6軍に近づきますが、ヒトラーが現地の死守を命じていたこともあり、内側から包囲を突破することはできませんでした。1月31日、第6軍が降伏します。
 
 その後、マンシュタインの反撃と泥濘期の到来によって一時期戦線は膠着します。その後、ドイツは新型戦車などを投入して「城塞」作戦を行います、局地的にドイツ有利に進んだ戦いでしたが、43年7月10日に連合軍がシチリア島に上陸したという知らせを聞いたヒトラーは作戦の中止を決断します。
 その後は、物量で勝るソ連軍がドイツ軍を圧迫し続けました。ヒトラーは変わらず死守命令にこだわりましたが、この命令はいたずらに損害を増やしただけでした。
 9月14日、ついにドイツ軍の南方軍集団の退却が始まります。マンシュタインは撤退を指揮するとともに徹底的な「焦土作戦」を行い、人びとや家畜も根こそぎ連れ去りました。その後もマンシュタインは部隊を撤退させつつ戦力を温存しようとしましたが、占領地域の維持にこだわったヒトラーと対立し、44年3月31日にマンシュタインは解任されます。これより以前、日本やイタリアが独ソの講和を望みますが、「世界観戦争」を戦っているヒトラーに講和の考えはありませんでした。

 一方、戦後を睨んでスターリンはドイツに対する攻勢を強めます。44年6月22日、ソ連軍による大規模な攻勢である「バグラチオン」作戦が行われ、ドイツの中央軍集団が大敗し、ソ連軍はワルシャワに迫ります。
 もはやドイツの敗北は明らかでしたが、ヒトラーは「世界観戦争」を戦い抜くつもりでしたし、収奪によって豊かな生活を享受していた国民からも戦争を止める動きは起こりませんでした。
 45年1月にドイツ本土侵攻作戦が始まると、4月26日にはソ連軍はベルリンに突入します。そしてヒトラーが4月30日に自殺し、5月2日にドイツは降伏するのです。
 こうした中、ソ連軍はドイツの各地で略奪や暴行を繰り返し、ドイツ人の集団自決も起こりました。また、東欧のドイツ系住民は追放され、その中でも多くの犠牲者が出ました。

 このように本書は、最近の研究によって明らかになった独ソ戦の戦闘の実態を明らかにしつつ、「通常戦争」「収奪戦争」「世界観戦争」という3つの性格の重なりとして独ソ戦全体の姿を描き出しています。「質のドイツ軍」VS「量のソ連軍」といった形で理解されがちな独ソ戦のイメージを塗り替えつつ、独ソ戦で行われた蛮行の背景を説明することにも成功しています。
 もちろん、ここには書かれていないことも数多くありますが、巻末の文献解題も充実しており、独ソ戦を理解するための最初の1冊としても良い本ですし、第二次世界大戦を考える上でも非常に有益な本だと思います。

 
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