山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期

ここブログでは新書を10点満点で採点しています。

広中一成『通州事件』(星海社新書) 6点

 盧溝橋事件の直後に北京郊外の都市・通州で日本人居留民が虐殺された通州事件。教科書に大きく載るような事件ではありませんが、「中国人の手による日本人の虐殺事件」として、南京事件の相対化のために保守論壇などでよく言及される事件です。
 この本は、戦時中、そして現在もプロパガンダの材料として用いられがちなこの事件(実際に、「南京大虐殺文書」がユネスコの世界記憶遺産に登録されたことに対抗して、通州事件の記録を世界記憶遺産に登録しようという動きがある)を冷静な筆致で検討しており、貴重な仕事になっています。ただ、一冊の本としてはやや物足りない部分のあります。

 目次は以下の通り。
はじめに
第一章 通州事件前史
第二章 通州事件の経過
コラム その一 今に遺る通州事件の痕跡 ―「奥田重信君之碑」―
第三章 通州事件に残る疑問
コラム その二 通州事件の歴史写真をめぐって
おわりに

 まず、第一章では通州事件が起こるまでの背景が語られています。
 北京郊外の通州に日本人居留民がいたのには、満州事変以降の日本の華北分離工作があります。
 1933年の塘沽停戦協定によって、日中両軍の間に緩衝地帯がつくられることになりましたが、問題はその地域の治安の維持でした。そこで中国人によって保安隊が結成され、この地域の治安維持を担当することになります。 
 しかし、緩衝地帯が抗日ゲリラの拠点となったことから、日本は華北分離工作を行い、この地域への支配を強めようとします。
 そして、日本にも留学経験があり日本人妻を娶っていた殷汝耕を首班として冀東政権を成立させるのです。同時に支那駐屯軍を強化し、通州にも週替りで守備隊を派遣するようになったのです(週替りにしたのは常駐では義和団事件後の北京議定書や塘沽停戦協定に違反するため(44p))。

 1937年7月7日、盧溝橋事件が勃発します。一度は停戦協定が結ばれましたが、日本が増援を決めたこともあり情勢は落ち着かず、7月28日には支那駐屯軍が北京に総攻撃をかけます。一方、戦場となった北京と違って通州は平穏な状態でした。

 第二章では通州事件の経過が描かれています。
 7月27日、通州では日本軍の萱島部隊が、中国側の傅鴻恩(ふこうおん)を隊長とする部隊に攻撃を仕掛けます。このとき、関東軍の飛行隊がこれを援護しましたが、このとき保安隊員を誤爆してしまう事件が起きました。保安隊員からは日本に対する怒りの声が上がり、これが保安隊の反乱の原因だと考える説もあります。

 あくる7月28日、日本人居留民は、保安隊員が日本人の家屋を調べ家の壁にチョークで「△」や「×」印をつけている不審な行動を目にしています(59p)。また、通州領事館警察もこの動きを警戒したものの、軍は保安隊を信用していました。

 そして7月29日の午前3時に事件は勃発します。日本軍の通州守備隊兵営が攻撃を受けたのです。
 日本軍に反旗を翻したのは保安隊第一総隊長・張慶余と第二総隊長・張硯田に率いられた約7000人。日本軍が保安隊を武装解除しようとしているとして立ち上がったとも言われています(67-68p)。
 一方、日本の通州守備隊は120人ほど。兵営に立てこもりつつ必死の防戦を行いました。保安隊は同時に通州特務機関を攻撃し、冀東政権首班の殷汝耕を捉え、通州領事館警察も襲撃しています。

 さらに保安隊は日本人居留民宅への襲撃を行いました。この本ではからくも生き延びた日本人の証言を紹介し、民間人が襲われた様子を再現しようとしています。保安隊は民間人も殺しましたが、中国人の住民の中には日本人を匿った者もいました。
 通州事件でなくなった日本人居留民は、日本人114人、朝鮮人111人の合わせて225人だと言われています(4p)。

 7月30日になると、関東軍の飛行隊が通州の兵営を包囲していた保安隊を爆撃すると、保安隊は繊維を喪失して撤退。救出部隊も通州に到着し、通州事件は終結することになります。

 第三章は「通州事件に残る疑問」として、「なぜ保安隊は反乱を起こしたのか」、「通州事件によって生じた問題はどのように解決されたのか」、「通州で日本居留民は何をしていたのか」、「通州事件は日中戦争にいかなる影響を及ぼしたのか」という4つの問いについて言及されています。

 まず、「なぜ保安隊は反乱を起こしたのか」についてですが、これについては「共産党謀略説」をはじめとして保安隊が何らかの勢力にそそのかされたという説も根強いのですが、1982年に発表された張慶余の手記にある、張慶余が国民政府の軍人・宋哲元と通じていたという説明に説得力を感じました。

 「通州事件によって生じた問題はどのように解決されたのか」のパートでは、支那駐屯軍は責任を取ろうとせず、結局、冀東政権が謝罪と賠償をすることになったことなどが述べられています。

 次に「通州で日本居留民は何をしていたのか」という問題ですが、実は日本居留民の多くが密輸に関わっていました。
 1930年に国民政府が関税自主権を回復すると国内産業の保護を目的にさまざまな商品の関税が引き上げられ、日本製品は打撃を受けました。そうした中で、それをすり抜けるために行われたのが冀東政権を使った密貿易でした。そして、これは冀東政権の財源となり、国民政府の財政に打撃を与えるものだったので、日本軍にとっても都合の良いものでした。
 
 さらに冀東地区ではアヘンの密輸も行われていました。このアヘンの密輸は日本軍の特務機関の暗黙の了解のもとで行われ(137p)、さらにヘロインの現地生産も行われていました。また、製造などは日本人、売人は朝鮮人という役割分担もあったとのことです(139p)。
 日本居留民が中国人から恨みを買う理由があったのです。

 最後に「通州事件は日中戦争にいかなる影響を及ぼしたのか」ですが、個人的にはここが物足りなく感じました。
 日本軍は最初は通州事件を隠蔽しようとしましたが、のちにプロパガンダのため内外に積極的に情報を発信するようになります。
 このあたりの動きを、著者は新聞に掲載された報道写真などを通じて検証しようとしています。そこで比較対象として郎坊事件や広安門事件があげられているのですが、郎坊事件や広安門事件は第一章でチラッと触れられているだけなので、本書だけを読んでいる読者にはどのような事件かよくわかりません。

 また、報道やプロパガンダとしての情報発信に重きが置かれているため、通州事件が日本軍の作戦や日本兵の対中感情にどのような影響を与えたのかということはわかりません。なかなか検証しにくいところではあると思いますが、日中戦争における中国の民間人の殺傷の正当化に通州事件が使われたのかということは知りたいところです。

 あと、全体的にレイアウトがうまくいっておらず、図表と本文のページがずれているケース(言及している本文よりも前のページに図表が出てくる)が多いです。

 とはいえ、現在でもプロパガンダに使われてしまう通州事件をこのような形でまとめたことは重要だと思います。
 「日本だけが悪いことをしたわけではない」というのはその通りでしょうが、安易な「どっちもどっち論」に陥らないためには、この本のような地道な検証が必要になるはずです。


通州事件 日中戦争泥沼化への道 (星海社新書)
広中 一成
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富田武『シベリア抑留』(中公新書) 8点

 同じ「シベリア抑留」というタイトルの新書は2009年に岩波新書からも出ています(栗原俊雄『シベリア抑留』)。毎日新聞の記者によるもので、主に生存者や遺族の証言、抑留者の書き残したものなどの一次資料を使いながら、抑留された人びとに寄り添うような形で書かれている本でした。
 一方、ソ連政治史、日ソ関係史を専攻する政治学者の書いたこちらの本は、公文書などを使いながら「シベリア抑留」を総体的に捉えようとしたもので、ある意味で対称的な内容になっています。
 そして、その「総体的」といった時にスケールの大きさがこの本の一番の特徴です。まずは「シベリア抑留」を、スターリンが行った国内弾圧と矯正労働収容所、さらにドイツ兵の捕虜に対する扱いとの連続性で捉え、さらに南樺太や北朝鮮に抑留された人々まで扱っています。
 まさにスケールの大きな本で、一種の「グローバル・ヒストリー」と言えるかもしれません。

 目次は以下の通り。
序章 矯正労働収容所という起源
第1章 二〇〇万余のドイツ軍捕虜―侵略の「人的賠償」
第2章 満洲から移送された日本軍捕虜―ソ連・モンゴル抑留
第3章 「現地抑留」された日本人―忘却の南樺太・北朝鮮
終章 歴史としての「シベリア抑留」の全体像へ

 序章では、捕虜を使役する「起源」ともなった矯正労働収容所について語られています。
 ソビエト政権成立後、「労働によって人格を改造し、「真人間にする」というマルクス主義的人間観」(4p)のもと、矯正労働収容所がつくられました。
 1930年代後半にスターリンが大テロルを推進すると、矯正労働収容所に収容される人々は激増します(1939年には200万人を超える(11p)。ここに収容所の不払い強制労働に依存する「ラーゲリ経済」が成立するのです(11ー12p)。

 しかし、この強制労働の生産性は低く、それを補うために労働時間の延長や、さらなる「人海戦術」が要求されるというのが実態でした。その中で職員はノルマ達成のために水増し報告をし、囚人は「トゥフタ(見せかけの労働)」を行いました(13p)。
 病人のあふれる収容所の中で、一部の刑事犯が暴力で収容所内部を支配しました。収容所は「矯正」どころか「堕落」を生み出したのです。
 その他、この序章ではソ連のポーランド侵攻によって生まれたポーランド人捕虜についても触れています。

 第1章は、主にドイツ人捕虜の扱いについて詳述されているのですが、その前にドイツがソ連軍の捕虜をどのように扱ったがとり上げられています。
 ドイツは当初、破竹の勢いでソ連領内に進撃しましたが、その過程で大量のソ連軍捕虜が生まれました。しかし、ドイツによる捕虜の扱いはひどいもので、ドイツがミンスクに設営した収容所には、70m×40mほどの広さに捕虜約10万人、民間人約4万人が押し込まれ、ほとんど身動きがでいなかったといいます(33p)。ドイツ軍はスターリングラード戦敗北の直前までソ連軍の将校335万人を捕虜にし、そのうち200万人ほどが死んだと推定されています(34p)
 また、1941年末からはドイツ国内の労働力不足を補うために、捕虜がドイツへと移送されルール炭鉱地帯などで働かされました(36p)。

 1943年2月にドイツがスターリングラードで敗北すると、戦局は一変し、今度はドイツ軍の捕虜が激増していきます。1945年の5月にドイツが降伏した時点で、ソ連が収容していたドイツ人捕虜は180万人以上、民間人などを含めると200万人以上でした(44p)。
 ソ連の指導部はこれらの捕虜を「人的賠償」として使役することを方針として決めており、今度はドイツ人がソ連の国内で働かされることになりました。

 結局、ドイツ軍捕虜のうち約104万人がソ連領内に送られます。労働力として使役する以外にも、捕虜収容所の存在が住民の反感を買い占領行政の妨げとなるとの判断があったようです(46p)。
 ただし、捕虜の労働使役はスムーズに行ったとはいえず、その劣悪な待遇は労働の低下となって現れました。これに対し、ソ連の内務人民委員からは待遇改善の指示なども出ています。
 また、収容所内では反ファシズムの政治教育も行われましたが、それほど効果はなかったとの分析が紹介されています(82p)。

 第2章はいよいよ日本人のシベリア抑留について。
 日本はソ連の対日参戦を「早くても9月」と見ており、8月9日にソ連が参戦すると、ほぼまったく対応できないままに終戦を迎えました。日本から武装解除の命令が伝えられると、8月19日に停戦と武装解除が行われます。
 このときにソ連が「捕虜」としたのは朝鮮人・台湾人の軍人・軍属を含めて約59万4千人(諸説あり)。降伏後の武装解除なので「捕虜」というよりも「被抑留者」というべき存在ですが、ソ連はあくまでも「捕虜」として扱いました(89-90p)

 ポツダム宣言では「武装解除後の家庭復帰」がうたわれていましたが、ソ連は労働力として使役するために日本軍捕虜のソ連領内への移動を開始します。なお。この決定の裏には、「トルーマンに北海道の一部占領を拒否されたから」、「瀬島龍三に労務提供の申し出」といった説がありますが、著者はいずれにも否定的です(93-95p)。
 満州での収容所も、ソ連領内への移動に使われた貨物列車もいずれもひどい状態で、多くの犠牲者が出ました。また、労働力として使い物にならなかった者については、満州の収容所への逆送も行われました。

 ろくな防寒着も与えられないままに労働を矯正された捕虜たちは多くが病に倒れ、1945-46年の最初の冬だけで5万人近くが亡くなりました。全抑留期間の死者約6万の80%がこの時期に亡くなっているのです(108p)。
 各自の健康状態に応じて労働等級も決められるのですが、「女医が捕虜の尻をつねって皮下脂肪のつき具合を見て決める」といったもので大雑把なものでした(116p)。食糧状況も十分ではなく、45年12月のイルクーツク州の収容所の捕虜の作業出勤率は20~30%にすぎなかったといいます(118p)。
 そんな中でノルマ達成のために労働時間が延長され、捕虜たちはますます疲弊していきました。

 とにかく食糧事情のひどさは捕虜たちを苦しめました。この本では戦友が下痢をすると「こいつの飯が食える」と思った猪熊得郎の回想や、食糧の分配の様子を殺気をもって見守る吉田勇の絵などを紹介しています(138-139p)。
 さらに捕虜たちの文化活動(音楽・短歌・川柳など)を紹介しているのもこの本の特徴と言えるでしょう。当然ながらソ連による政治教育や、「民主運動」についての言及もあります。
 
 また、この本ではハバロフスク地方とモンゴルを比較することで抑留における地域差を描き出そうともしています。例えば、モンゴルでは政治教育が行われず階級制度も維持されました(160p)。同じ抑留でも地域によってその条件に違いはあったのです。
 他にも国防人民委員部/国防省管轄の独立労働大隊にも触れられています。この独立労働大隊にしろハバロフスクの収容所の管理者にしろ、ソ連軍の捕虜経験者があてられることが多かったようで、彼らが「懲罰」として捕虜の管理者となっていた実態も浮かび上がってきます。

 第3章は、北朝鮮や南樺太で「現地抑留」された日本人について。
 あまり知られていないことですが、終戦当時、北朝鮮や南樺太にいた人々もソ連によって抑留されています。
 南樺太では約30万人の住民が抑留されました。漁業や鉄道などを含む樺太の産業を維持するためには日本人の手が必要だったのです(184-185p)。多くの産業が国有化される中、漁業だけは各漁師の裁量に任され、日本時代と同じ生産を維持したという話も興味深いです(188-189p)。
 民間抑留者に関しては段階的な送還が進められましたが、サハリン州が労働力確保のために抵抗したために遅れがちになり(196p)、犯罪を犯したとして中央アジアの収容所に送られ、21世紀になってようやく帰国した者もいました(194-196p)。また、朝鮮人居留民の帰国も1990年代になってようやく実現しています(201p)。

 北朝鮮では、満州にいた日本人が難民化して流れ込んだこともあって終戦時に大きな混乱がありました。
 多くの日本人がソ連軍の了解のもと、自力で南下したものの、産業の維持に必要とされた技術者は抑留されましたし、シベリアから北朝鮮に逆送されてくる捕虜もいました、彼らの多くは病人で、その収容所はひどいありさまでした。
 一方、北朝鮮からソ連領内のカザフスタンやグルジアやウクライナに送られた健康な捕虜もいました(221-222p)。カムチャッカに漁業出稼ぎに行かされた抑留者もいたとのことです(226-228p)。

 このように簡単にはまとめきれないほどの広い内容を持った本になります。また、抑留者の境遇や心理などに関しても、途中にコラムなどを挟み込みながらとり上げており、まさにシベリア抑留に関して総合的に迫った本といえるでしょう。
 
 特に日本人のシベリア抑留を、ソ連国内の矯正労働収容所やドイツ人捕虜への扱いと連続したものとして捉えることで、シベリア抑留が全体主義と絶滅戦争という20世紀の荒廃した現実につらなるものであることが示されたと思いますし、ソ連の捕虜経験者が「懲罰」として日本人捕虜の監視にあてられているなど、ある種の精神の荒廃が広がっていくさまを見るようです(他にも、ソ連は軍紀の低い囚人部隊を対独戦や対日戦に投入し、略奪や強姦などをエスカレートさせている)。
 他にも、ノルマ至上主義の社会主義経済の仕組みが、抑留の長期化を生んだと思われる面もうかがえ、社会主義の分析としても興味深い材料を提供しています。

シベリア抑留 - スターリン独裁下、「収容所群島」の実像 (中公新書)
富田 武
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水島治郎『ポピュリズムとは何か』(中公新書) 9点

 トランプ大統領の誕生に、イギリスのEU離脱をめぐる国民投票における離脱派の勝利。2016年はまさに「ポピュリズム台頭」の1年といえるかもしれません。
 しかし、この「ポピュリズム」とは一体何なのでしょうか?
 日本では小泉首相や大阪市の橋下市長の政治に「ポピュリズム」というレッテルが貼られていましたが、その多くは批判する側からのものでした。とりあえず人気のある政治家を批判するためのキーワードとして「ポピュリズム」というものが使われていたと思います。
 この本は、ある意味でいい加減に使われているポピュリズムというものを再検討し、「リベラル・デモクラシー」に内在するものとしてポピュリズムを捉えなおそうとしたものになります。
 南米やヨーロッパの豊富な事例から、ポピュリズムがときに「デモクラシー」そのものであり、ときに「リベラル」そのものでもあるという、複雑にして厄介な状況が見えてきます。

 目次は以下の通り。
第1章 ポピュリズムとは何か
第2章 解放の論理―南北メリカにおける誕生と発展
第3章 抑圧の論理―ヨーロッパ極右政党の変貌
第4章 リベラルゆえの「反イスラム」―環境・福祉先進国の葛藤
第5章 国民投票のパラドクス―スイスは「理想の国」か
第6章 イギリスのEU離脱―「置き去りにされた」人々の逆転劇
第7章 グローバル化するポピュリズム

 ポピュリズムの定義に関しては、支持基盤をこえ広く国民に訴えかける政治手法と、「人民」の立場か既成政治やエリートを批判する政治運動という2つのものがありますが、この本では後者の定義を採用しています。本書を読んでいけばわかるようにカリスマ的な指導者がいなくなったあともポピュリズム政党が生き残り続けるケースは多いのです。
 
 ヨーロッパのポピュリズム政党の多くが極右政党などに起源を持つことから、ポピュリズム政党はデモクラシーを否定していると捉えがちですが、むしろポピュリズムこそがデモクラシーを体現している部分もあります。
 現代のリベラル・デモクラシーは、法の支配や権力分立を重視する「自由主義的」側面と、民意の反映や統治者と被治者の一致を重視する「民主主義的」側面がありますが(本書では山本圭の議論が紹介されていますが、新書では待鳥聡史『代議制民主主義』(中公新書)が同じような議論を行っています)、ポピュリズムは前者を軽視し、後者を重視する「デモクラシー」とも言えるのです。

 また、イデオロギーが「薄い」のもポピュリズムの特徴です(12p)。これは意外に聞こえるかもしれませんが、ポピュリズム政党に共通する思想のようなものは基本的に存在しません。
 それは、第2章でとり上げられるラテンアメリカの事例と、近年のヨーロッパの事例の違いを見ればわかるでしょう。

 ポピュリズムという現象が注目を集めたのは19世紀末のアメリカ合衆国においてでした。1892年に創設された人民党(People's Party)はポピュリスト党とも呼ばれ、独占資本主義と二大政党に対して挑戦します。この人民党による異議申し立ては、二大政党がその異議に素早く反応したことから短期間で収束しますが、この「人民」からの異議申し立ては、ラテンアメリカにおいて一つの政治潮流となります。

 ラテンアメリカでは一部の富裕層が経済を支配する状態が続いており、これに対抗したのがポピュリズムでした。
 この本では特にアルゼンチンのペロンがクローズアップされています。職業軍人だったペロンは、1943年のクーデタに関与し政治に関わるようになると、労働者重視の政策を掲げ、1945年には大統領に当選します。
 ペロンと彼の妻エヴィータは国民から圧倒的な支持を受け、賃上げや社会福祉の充実を実現させていきます。ペロン政権の経済政策には経済学的にも無理がある部分が多く、その政権は行き詰まりますが、「解放の理論」としてのポピュリズムが機能したのが、このアルゼンチンをはじめとするラテンアメリカでした。

 一方、ヨーロッパのポピュリズムは、「反エリート、半既成政党」という面ではアメリカ大陸のものと共通ですが、その来歴は異なっています。
 ヨーロッパのポピュリズム政党の一つのタイプは極右勢力を起源とするものです。
 この本の第3章では、フランスの国民戦線、オーストリアの自由党、ベルギーのVB(フラームス・ブロック)がとり上げられていますが、いずれも設立当初は極右的な主張をしていました。

 この本では、特にベルギーのVBについて詳しく触れられています。VBはもともとベルギーのオランダ語圏であるフランデレン地方を地盤とする民族主義政党で、初期メンバーには第2次大戦における対独協力者などが入っていました。しかし、1980年代になると右翼的な主張から距離を取り、「反移民」「反既成政党」を打ち出していきます。そして、90年代から00年代にかけて国政でも大きな存在感を示すようになるのです。

 このVBの台頭に対して、主要政党は「防疫線」と呼ばれるVBの排除を行います。VBとは選挙でも議会でも協力しない姿勢を示したのです。
 これはVBによる「既成政党エリートによる談合政治」批判を勢いづけることにもなりましたが(91p)、結果的にVBの台頭により既成政党の改革が進んだという指摘もあります(98-100p)。VBの台頭はベルギーの「デモクラシー」を進化させたとも言えるのです。

 一方、近年のヨーロッパでは極右を起源としないポピュリズム政党も台頭してきました。この本ではデンマークとオランダの事例がとり上げられています。
 デンマークでは、進歩党という政党が1972年に減税や規制緩和を掲げる政党として誕生しました。この進歩党は95年に分裂し、そこからデンマーク国民党が生まれます。
 デンマーク国民党は福祉政策を受け入れた上で、移民や難民が福祉の負担になっているとしてこれを批判し、支持を伸ばします。2001年以降は閣外協力という形で保守政権に協力しており、実際にデンマークの移民・難民政策はかなり厳しいものになっています。デンマーク国民党は、イスラムの「女性差別」などを槍玉に挙げることによって、この移民・難民政策を正当化しました。

 オランダについても同じようなことが起こっています。オランダは安楽死や大麻が合法化されるなど「リベラル」な国で、移民に対しても寛容でした。
 その「リベラル」の価値観からイスラム系の移民を批判したのが90年代後半に登場したピム・フォルタインでした。ゲイでもあった彼は、同性愛や女性の権利を認めないイスラムを「後進的」だと批判し、フォルタイン党を結成します。

 フォルタインは2002年に暗殺されますが、彼の主張は自由党のウィルデルスに引き継がれます。
 ウィルデルスもイスラムの「不寛容」を攻撃する主張で支持を伸ばしますが、政治についてアマチュアだったフォルタインとは違い、保守系政党の政策スタッフををつとめ、議会政治のしくみに通暁しているのがウィルデルスの強みです。

 また、自由党はウィルデルスの「一人政党」という独自のスタイルを取っており、党員はウィルデルス一人です。その上で、彼は候補者の選出に細心の注意を払い、極右系の人物を排除しました。また、事前に研修を行い、議会のルールや政策を勉強させるなど、議員の質の確保にも力を入れました。
 2005年のヨーロッパ憲法条約批准が否決された国民投票において、自由党は大きな存在感をしまし、2010年に成立した保守政権では閣外協力を行っています。

 このようにデンマークやオランダのポピュリズム政党は「リベラル」な主張を掲げることで支持を伸ばしていますが、ポピュリズム政党はまた「デモクラシー」のしくみを利用することでその支持を伸ばしました。その代表的な例がスイスです。

 スイスは以前から国民投票の制度が整備されていましたが、それは言語や宗教の分れるスイスにおいて中央政府の決定を抑制する役割を担っていました。また、国民発案による憲法改正も可能になっています。
 国民投票では議案が否決されることが多く、既成政党や組織はこの「国民投票に訴える」という手段をちらつかせることで、一種の「拒否権」を持っている状態だったのです。  

 このような中で、この制度をまったく違った形で利用したのがスイス国民党でした。
 スイス国民党はもともと農民や中小業者を基盤とする中道右派の政党でしたが、1977年にクリストフ・ブロッハーが党首となると、既成政党批判を強め、AUNS(スイスの独立と中立のための行動)という民間組織と連携することで勢力を拡大します。
 92年にEEA(欧州経済領域)への加盟が否決されると、94年にはPKOへの参加、01年にはEU加盟の交渉を求める議案が否決されるなど、AUNSは影響力を広げていきました。
 そして09年にはミナレット(イスラム寺院の尖塔)建設禁止条項を憲法に追加する国民投票が通ってしまいました。「そんなの憲法違反でしょ」と言いたくなりますが、これは憲法自体の改正なのです。勢いに乗った国民党は10年に特定の罪を犯したり社会保障の不正受給を受けた移民を自動的に国外追放する憲法改正も成立させています。

 このスイスの動きについて、著者は次のように述べています。
 そもそも国民投票は、諸刃の剣である。特に国民発案は、「人民の主権」を発露する究極の場である半面、議会で到底多数派の支持を得られないような急進的な政策であっても、民主主義の名のもと、国民投票を通じて直接国レベルの政策として「実現」することが可能である。(中略)
 「純粋民主主義」を通して「不寛容」が全面的なお墨付きを与えられることさえあるのである。(156-157p)

 第6章ではイギリスのEU離脱派の勝利が分析され、第7章ではトランプ旋風がとり上げられていますが、この2つの現象の共通点は「置き去りにされた人々」とも形容される、時代から取り残された労働者階級の不満です。
 そしてそれを扇動するのがトランプやイギリス独立党の党首のファラージといったビジネスで成功した金持ちです。EU離脱やトランプの当選は「民主主義をエリートから取り戻す」行為でもありましたが、内実は「呉越同舟」でもあり、その行先は不透明と言えるでしょう。

 第7章ではさらに橋下徹の「維新」や欧州の最近の動きなどを紹介した上で、ポピュリズムを考えるいくつかの論点をあげています。
 1つ目はここでも何度か言及してきたポピュリズムの「リベラル」や「デモクラシー」との親和性です。「現代デモクラシーが依拠してきた、「リベラル」かつ「デモクラシー」の論理をもってポピュリズムに対抗することは、実は極めて困難な作業」(223p)なのです。
 2つ目はポピュリズムの持続性です。ポピュリズムというとカリスマ的な政治家に煽られた運動という印象も強いですが、ヨーロッパのポピュリズム政党の多くは代替わりしてもなおその勢力を伸ばしています。日本の「維新」も橋下徹が引退したからといって崩壊したわけではありません。
 3つ目はポピュリズムが既存の政治に与える効果です。ベルギーのVBの事例に見られるようにポピュリズムは既存の政治の改革を促す効果もあり、一概に否定されるべきものではありません。ただ、その効果がどの方向にどれだけ働くのかということは未知数です。

 このようにこの本は政治や民主主義を考える上で非常に広く長い射程をもったものになっています。この本を読むと、トランプ旋風についても、トランプという特殊な個人が巻き起こしたものではなく、「リベラル・デモクラシー」に内在するリスクであったことが読み取れると思います。
 民主主義の機能不全は、「世論操作」や「権威主義への盲従」が引き起こすわけではなく、民主主義のなかにひそんでいるのです。
 トランプ大統領の就任、フランス大統領選挙、ドイツの総選挙と、今年も政治的な重要日程が目白押しですが、この本はそんな政治情勢を読み解くための必読書と言えそうです。

ポピュリズムとは何か - 民主主義の敵か、改革の希望か (中公新書)
水島 治郎
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梶谷懐『日本と中国経済』(ちくま新書) 8点

 副題は「相互交流と衝突の100年」。著者は、中国の財政・金融といったマクロ経済の専門家ながら、今までも『「壁と卵」の現代中国論』『日本と中国、「脱近代」の誘惑』といった著作で(両方とも面白いです)、中国の思想や政治文化、さらの日本人の中国認識の問題などを論じてきた人物で、この本でもそうした知見が十分に活かされています。
 さらにこの本は日中の経済交流を描くだけでなく、現代中国経済史としても読み応えのある内容になっています。同じちくま新書の岡本隆司『近代中国史』(これも面白い)のつづきとも言える本かもしれません。

 目次は以下の通り。
第一章 戦前の労使対立とナショナリズム
第二章 統一に向かう中国を日本はどう理解したか
第三章 日中開戦と総力戦の果てに
第四章 毛沢東時代の揺れ動く日中関係
第五章 日中蜜月の時代とその陰り
第六章 中国の「不確実性」とはなにか
終章 過去から何を学び、どう未来につなげるか

 副題に「相互交流と衝突の100年」とあるように、この本はおよそ100年前の中国経済の様子を見ていくことから始まります。
 今から100年前の1916年というと、前年の1915年に「対華二十一カ条要求」がありました。ここから中国のナショナリズムが燃え上がり、中国の対日感情は悪化の一途を辿っていった、というのが多くの人の頭にある認識だと思いますが、実はこのあとも日本と中国の経済は密接な関係にありました。
 その代表が「在華紡」と呼ばれる日系の紡績工場になります。

 1920年代、日本の紡績企業は低廉な労働力を求めて相次いで中国に進出しました。在華紡は上海と青島を中心に進出し、その在華紡の存在もあって、第一次世界大戦後、中国の綿糸自給率は向上していきました(34p)。
 以前は、在華紡が中国資本の民族紡を駆逐したとも考えられていましたが、その後の研究によるとこの時期は民族紡も伸びており、在華紡の経営手法などを模倣しながら民族紡も伸びていったというのが実態だったようです(34-36p)。

 しかし、この在華坊も1925年の五・三〇事件では大規模なストライキとボイコットに巻き込まれることになります。
 一般的に、「帝国資本主義」に対する反発といったかたちで説明されることの多い五・三〇事件ですが、著者はその背景にあった「日本的労務管理」の問題も指摘しています。
 民族紡が請負中心の比較的緩い労務管理だったのに対して、在華紡では効率性を追求するために厳しい労務管理が行われていました。
 著者も指摘するように、これはそっくりそのまま現在にもあてはまる問題です。日本型の労務管理に中国人の従業員が反発するというのはよく聞く話で、100年の時をこえて同じようなことが繰り返されているのです。

 1928年に南京国民政府が全国を統一すると、軍閥の割拠状態を利用して中国に勢力を伸ばしていた日本は難しい状況に迫られました。
 日本の経済界には、上海周辺に進出した軽工業(「在華紡路線」)と満州に進出した重化学工業(「満鉄路線」)がありました(66p)。利益率などを見ると、明らかに「在華紡路線」のほうがその収益は高いのですが(68p)、上海周辺の中小の工場はストライキやボイコットに苦しみ、1931年の満州事変以降、日系資本の多くは軍部の強硬路線を支持するようになっていきます。

 この1930年代から今に至る日本の対中国観について、著者は「「脱亜論」的中国批判」、「実利的日中友好論」、「「新中国」との連帯」という3つの類型にまとめて分析しています。
 それぞれ、「脱亜論」的中国批判は中国は遅れた異質な社会であって中国とは距離を置こうという主張、実利的日中友好論は日中経済交流の進化は互いの利益になるという主張、「新中国」との連帯は中国の革命勢力などに共感し併せて日本政府を批判する主張になります。
 そして、1930年代の日本では「脱亜論」的中国批判が優勢で、蒋介石の進めた幣制改革にも懐疑的であり、結局、国民政府の力を見誤ることになりました。

 日中戦争が本格化すると、中国大陸の重要拠点の多くが日本によって支配されることになりましたが、戦費を現地の銀行を使って賄おうとする日本のやり方は中国にハイパーインフレーションをもたらし、国民政府の発行した法幣のほうが好まれる状況でした。
 一方、日本の支配は中国の地域経済間の繋がりを分断し、中国が確保していた外国市場も失わせることになりました。これは戦後の中国経済に大きく響いてくることになります。

 また、116ページ以下の中国の農村と日本の農村を比較した部分も興味深いです。
 中国には日本のような強いつながりを持った「村落共同体」といったものは存在せず、中国の小作農は日本の小作農にくらべて「逃げる」ことが容易でした。
 しかし、戦争の激化の影響は農村にも及び、小作農たちは戦時徴発によって戦場へと駆り出されることになります。一方、地主の側は小作農が戦場に行ってしまったため、彼らとの契約を解除し、立ち退きを迫ります。この国民党による戦時徴発が、農村における擬似的な「階級闘争」を生み、共産党の土地改革を受け入れる土壌を形成したとも考えられるのです(121-122p)。

 1949年、共産党が国共内戦に勝利し、中華人民共和国が成立します。
 しかし、その経済政策は当初から順調とはいえませんでした。共産党政権は富国強兵の必要性から重化学工業に力を入れましたが、当時の中国にとっては労働節約的な重化学工業よりも資本節約的な軽工業のほうが有利であり、それを無視した路線は労働力の余剰を生みました(149p)。
 結局、経済は農村からの収奪によって成り立つ状況であり、またこの時期に労働力の余剰を防ぐためという目的もあって農村と都市の戸籍を分けて管理する戸籍制度がつくられます。
 一方、労働力の調整弁としては日雇いや季節労働者の「臨時工」があてられました(149-150p)。今の農民工のような存在は早い時期から存在したのです。

 日本との関係に関しては、「政経分離」の立場から民間交流が進められますが、57年に岸信介が首相になり、58年に「長崎国旗事件」が起こると、「断交」に近い状態になるなど、中国側の「政経不可分」の立場は時に強固なものでした。
 1962年にLT貿易の枠組みが整えられても、日中間の「政治」の問題は経済にも大きな影響を与えました。

 1972年に日中の国交が正常化されると、日中関係は80年代後半まで良好な関係を保ちます。もちろん、この背景には両国の政治的思惑や戦争に関する記憶などもありましたが、経済的にも両国にとってWin-Winの関係だったという面も大きいです。
 日中貿易において、80年代後半まで日本側が貿易黒字であり、中国は工業化を進める中で日本から工業製品を輸入しました。そして、その資金を日本が対中ODAでファイナンスする形になっていたのです。また、両国の主力産業で競合するものは少なく、棲み分けもできていました(199ー204p)。

 しかし、この良好な関係は1989年の天安門事件でターニングポイントを迎えます。
 事件は、民主化運動とそれを弾圧した共産党政府という政治的なものですが、その背景には経済問題もありました。当時の中国は地方政府の野放図な投資行動により加熱状態にあり、88年のインフレ率は年率で20%近くになりました(212p)。この物価コントロールの失敗が趙紫陽の指導力を削ぎ、市民たちの不満を高めたのです。
 そして、日本政府はいち早く中国との融和に勤めるものの、日本の国民の間には中国政府への不信感が高まることとなったのです。

 90年代になると、製造業を中心に対中投資がブームを迎えますが、一方で日中間の貿易摩擦も起きるようになり、また、日本の国民の対中感情も悪化していきます。
 ただ、この本の分析によれば貿易摩擦があるとは言え、日中の産業にはある種のすみ分けができてており、中国の台頭が日本経済の低迷をもたらしたというわけではありません(238-241p)。

 しかし、やはり厄介なのが政治も絡んだリスクです。2005年の中国での反日デモや2010年の尖閣国有化をめぐる中国の反発などは記憶にあたらしいところですが、この本ではもう少し根本的なところからそのリスクを説明しています。
 一般的な資本主義社会では、企業と労働組合が対立・協調しながら労使の間のルール作りが行われます。そして、それがうまくいかない場合は政府が第三者として介入します。
 ところが、表向きは社会主義の中国では政府から自立した労働組合というものは存在せず、NPOなども厳しく規制されています。つまり、労働者はその不満を直接政府に訴え、政府が労使を仲介することになるのです。
 このときに、労働者の不満をそらすための手段としてナショナリズムが持ち出される可能性があります。特に日系企業にとってそれは大きなリスクでしょう(268-274p)。

 このように「不確実性」のある中国経済ですが、そこには潜在的な成長の芽もあります。この本の最後で、深センおけるメイカー・ムーブメントを紹介しています。この深センの動きについては丸川知雄『チャイニーズ・ドリーム』(ちくま新書)でゲリラ携帯のことが紹介されていましたが、この深センのダイナミックなものづくりの動きは今も衰えていないようです。
 政府が統制しきれていない部分で「自生的な市場秩序」(282p)が生まれているのも中国の一つの側面です。中国に関しては、その「不確実性」の中に「可能性」を見ていく必要があるというのが著者の結論です。

 このように盛りだくさんの本で、単純に日中の経済関係史を頭に入れておきたいという人にはやや過剰かもしれません。ただ、この本を読めばここ100年の中国経済史の見取り図を得ることもでき、中国経済への理解は格段に深まるでしょう。
 そして、この本を面白く感じたのであれば、中国や日中関係について別のアプローチから迫った『「壁と卵」の現代中国論』『日本と中国、「脱近代」の誘惑』もぜひお薦めしたいです。

日本と中国経済: 相互交流と衝突の100年 (ちくま新書1223)
梶谷 懐
4480069291

2016年の新書

 去年、「2015年の新書」というエントリーを書いてからここまで合わせて55冊の新書を読んだようです。
 今年は6月から10月にかけて読みたいと思わせる新書の刊行ラッシュでした。そのせいもあって、読みたかったけれども読めずに終わってしまった新書もけっこうありました。
 というわけで、豊作の一年の中から例年通り5冊をあげてみたいと思います。
 一応、順位を付ける形で並べますが、上位3冊は横一線。2位、3位の本が著者の今までの著作からして期待通りだったのに対して、1位の本は期待を大きく上回る面白さだったので、こうした順位になっています。


移民大国アメリカ (ちくま新書)
西山 隆行

4480068996
筑摩書房 2016-06-06
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 今年のニュースといえば、大統領選におけるトランプの勝利が上位に来ると思いますが、そんな「トランプ現象」の背景を知る上で、非常に多くの情報を与えてくれる本。
 アメリカの移民をめぐる政策の変遷や、アメリカの教育制度や社会保障制度、そして犯罪と移民の関わりを読み解くことで、トランプ勝利の背景にあるものが見えてくる構成になっています。 
 さらに、2007年6月に連邦議会下院で決議された「従軍慰安婦問題についての対日謝罪要求決議」で注目された、「エスニック・ロビイング」などもとり上げ、アメリカ政治に対して移民が与える影響についても分析しています。
 「トランプ現象」だけでなく、アメリア社会を読み解く上でも役に立つ本と言えるでしょう。大統領選が終わったあとでも読む価値があります。(紹介記事はこちら


自由民権運動――〈デモクラシー〉の夢と挫折 (岩波新書)
松沢 裕作

400431609X
岩波書店 2016-06-22
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 この本では自由民権運動を、たんに権力闘争と見るのではなく、近世社会から近代社会の移行期に、その新しい社会を自らで創りだそうとした運動として捉えています。
 このように書くとかなり格調高く聞こえますが、実際、この本で紹介されるいくつかのビジョンは時代錯誤であり、ご都合主義なものです。自由民権運動が成功すれば「武士になれる」と謳う団体もありましたし、強盗事件を起こした運動家もいました。そうした、駄目な部分も含めてとり上げることで、自由民権運動という「運動」に新しい光を当てた本と言えるでしょう。(紹介記事はこちら


欧州複合危機 - 苦悶するEU、揺れる世界 (中公新書)
遠藤 乾

4121024052
中央公論新社 2016-10-19
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 ここ最近、経済危機やテロ、難民問題、さらにはイギリスの国民投票におけるEU離脱派の勝利と、まさに「危機」という言葉がふさわしいEUの政治情勢ですが、その危機を長年EUを研究してきた著者が解きほぐしてみせた本。
 絶え間ない危機に見舞われているEUですが、その危機は外部からEUを襲っているのか?、それともEU内部にあった問題が今になって噴出しているのか?、現在のヨーロッパの危機を概観しつつ、この根本的な問題にも答えようとしている本になります。
 今後のEUがどちらに転ぶかはわかりませんが、とりあえずこの本を読めばEUの来歴と現在位置はわかるはずです。(紹介記事はこちら


食の人類史 - ユーラシアの狩猟・採集、農耕、遊牧 (中公新書)
佐藤 洋一郎

4121023676
中央公論新社 2016-03-24
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 やや読みにくい部分もあるのですが、歴史の教科書とはまったく違う角度から歴史を考察した本であり、いろいろと発見がありました。
 サブタイトルは「ユーラシアの狩猟・採集、農耕、遊牧」。タイトル、サブタイトルともにスケール感がありますが、そのタイトルに負けない広く深い内容になっていると思います。
 「食べる」という視点から、狩猟採集、農耕、牧畜という3つの生業に注目し、ユーラシア大陸におけるそれぞれのあり方を歴史的、地理的に探っていく内容で、ジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』を思い起こさせるような本になっています。(紹介記事はこちら



カストロとフランコ: 冷戦期外交の舞台裏 (ちくま新書)
細田 晴子

4480068864
筑摩書房 2016-03-07
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 今年の大きなニュースに「フィデル・カストロの死」というものもありました。そのカストロの知られざる側面に光を当てたのがこの本。
 カストロとフランコの弾圧者としての側面をまったく描いていないなど、やや対象を美化しすぎているきらいもあって欠点もある本だとは思いますが、面白いです。
 社会主義革命を成し遂げたカストロのキューバと、反共産主義の独裁者フランコ率いるスペインが、なぜ国交を断絶させずに付き合い続けたのか?という疑問から、キューバ・アメリカ・スペインの外交の三角形を見事に読み解いていきます。
 冷戦の裏面史としても面白く読めるのではないでしょうか。(紹介記事はこちら


 これらの本に続くのが、高木久史『通貨の日本史』(中公新書)、服部龍二『田中角栄』(講談社現代新書)、角岡伸彦『ふしぎな部落問題』(ちくま新書)、飯田泰之・木下斉・川崎一泰・入山章栄・林直樹・熊谷俊人『地域再生の失敗学』(光文社新書)、 岡田一郎『革新自治体』(中公新書)、川名壮志『密着 最高裁のしごと』(岩波新書)、伊藤邦武『プラグマティズム入門』(ちくま新書)といったところでしょうか(5冊あげようと思っていたけど、結局7冊あげてしまったところに今年の新書のレベルの高さが現れていると思う)。

 今年は何といっても中公新書のラインナップが良く、中公の10月のラインナップ(遠藤乾『欧州複合危機』、呉座勇一『応仁の乱』、宮城大蔵『現代日本外交史』、寺尾隆吉『ラテンアメリカ文学入門』)は、近年で最も企画として充実していた2013年7月のちくま新書のラインナップ(今野晴貴『生活保護』、大田俊寛『現代オカルトの根源』、翁邦雄『日本銀行』、岡本隆司『中国近代史』)を上回るものだったと思います。
 そして、2014年上半期以降、やや低迷していた感のあるちくま新書は今年になって盛り返してきましたね。良い本が多かったと思います。

川名壮志『密着 最高裁のしごと』(岩波新書) 8点

 最高裁の仕組みと、近年の最高裁の変化についての大事なポイントを、実際の最高裁の判決に即しながら読み解いてみせた好著。ある程度硬い本を読み慣れている身からすると、噛み砕きすぎていると感じる部分もあるのですが、易しい内容ながらもその分析は深いところまで届いていると思います。
 著者は、佐世保で小6女児が同級生に殺害された事件のその後を描いた『謝るなら、いつでもおいで』を書いた毎日新聞の記者。『謝るなら、いつでもおいで』は未読ながらその評判は聞いていましたが、やはり力のある書き手ですね。

 目次は以下の通り。
第1部 家族のあり方を最高裁がデザインする(民事編)
第1章 わが子と思いきや赤の他人だった
    ―親子関係不存在確認訴訟でみる最高裁のしくみ
第2章 夫は「主人」ではない 妻のアイデンティティ
    ―夫婦別姓にみる大法廷)
第2部 市民が裁く罪と罰 手綱をにぎる最高裁(刑事編)
第3章 死刑と無期懲役のわかれみち
    ―死刑破棄事件にみる裁判員裁判の難しさ
第4章 求刑超えに「待った」をかけた最高裁
    ―アマチュア市民とプロ裁判官をつなぐ最終審

 目次を見ればわかるように、とり上げられている事件は少ないです。近年、最高裁は以前よりも違憲判決を積極的に出していますが、それを網羅的に紹介するような内容にはなっていません。
 著者の狙いは最高裁の「しくみ」を理解してもらうことで、最高裁のやっている仕事の面白さや重要さに気づいてもらうことになります。

 そこでまずとり上げられる事件が、親子のつながりについての争いです。
 民法の772条第1項には、「妻が婚姻中に懐胎した子は、夫の子と推定する」という規定があります。結婚している女性から生まれた子の父親は、その時の夫ということになるわけです。
 ところが、世の中には不倫によって生まれる子も存在します。法律上は、そのようなケースであっても結婚中に生まれれば夫の子ということになるのですが、近年はDNAによる鑑定技術が発展し、夫と子の間に血のつながりがないことが「証明」されてしまうこともあります。

 そうしたDNA鑑定で、血のつながりがないことが「証明」されても、その子は「夫の子」なのか?というのが裁判での焦点でした。ちなみに裁判を起こしたのは元妻の側になります。
 第一審と二審ではDNA鑑定を評価し、夫の子ではないと結論づけました。しかし、この判決を最高裁は3対2の僅差でひっくり返します。あくまでも民法のコンテキストを重視する形で、科学技術よりも現行法の枠内での法的な安定性に軍配を上げたのです。

 著者は、この判決について補足意見や反対意見もとり上げながら丁寧に読み解いていきます。それぞれの最高裁判事の経歴なども紹介しながら、ひとりひとりの裁判官がどのような考えで判断を下したのかを見ていき(やや意外にも思えますが、法的安定性を重視する判断を示したのが裁判官以外のキャリアをつんだ裁判官で、DNA鑑定を重視した2人が裁判官出身の人物)、同時に最高裁の意思決定のしくみや、裁判官の構成なども読者に紹介していくのです。
 さらに、最後に著者は最高裁まで争った夫側への取材についても書いています。事件の概要を聞くと、「なぜ夫は自分の子ではないとわかっていながらそこまでこだわったのか?」という疑問が多くの人に浮かぶと思いますが、新聞記者らしくそうした疑問にも応える構成になっています。

 第2章では、夫婦同姓制度が違憲かどうかを巡って争われた裁判がとり上げられています。
 多くの人がご存知のように、最高裁の大法廷は2015年の12月に「夫婦同姓の規定は違憲ではない」との判決を出したわけですが、この本ではその判決を分析しつつ、同時に日本における違憲審査のしくみを紹介しています。
 さらに最高裁の寺田長官の意見をとり上げながら、そこに寺田氏が法務省にいた時に検討され、法制審議会によって答申された「選択的夫婦別姓」の議論の顛末を重ねあわせています。

 第2部は刑事裁判について。
 ここ最近の最高裁の動きを追う時に、刑事裁判について民事裁判と同じボリュームでとり上げるというのは珍しいことかもしれませんが、この本では「裁判員裁判の判決をどう捉えるのか?」ということに重点を置きながら、最高裁の判断を見ていきます。

 第3章の「死刑と無期懲役のわかれみち」では、2009年に起きた松戸女子大生殺害事件をとり上げています。
 何人もの女性を襲い、現金を奪い、そのうち一人を殺し、さらに証拠隠滅のために放火をしたというひどい事件なのですが、あくまでも被害者は1人で計画性はありません。
 この事件に関して、一審の裁判員裁判は死刑、二審の高裁では無期懲役と判断がわかれました。
 
 第4章では、裁判員裁判での求刑超えの判決についてとり上げられています。
 中心的にとり上げられているのは、2012年に大阪府で起きた虐待事件。1歳10ヶ月の娘を死なせた両親に対し、求刑が懲役10年のところ一審の裁判員裁判で懲役15年の判決が下った事件です。
 
 これらの事件について最高裁は、いずれも量刑の公平性という観点から裁判員裁判の判決を否定しました。そして、裁判員裁判を担当した裁判官に対してその問題点を指摘するような考えを示しています。
 この2つの章は、最高裁のスタンスを明らかにすると同時に、裁判員裁判について考える材料を提供してくれています。裁判員裁判について興味のある人は目を通しておくと良いでしょう。

 このように簡単に読める本ですが、日本の司法についてのしくみや重要な論点を教えてくれ、そして読者にそれを考えさせる内容に仕上がっています。 
 日本の司法というとなかなか興味深いイメージが湧きにくいものですが、この本は日本の司法の面白さや重要性を伝えることに成功していると言えるでしょう。


密着 最高裁のしごと――野暮で真摯な事件簿 (岩波新書)
川名 壮志
4004316294

森山優『日米開戦と情報戦』(講談社現代新書) 7点

 「なぜ、日本は敗色濃厚な対米戦争に突入してしまったのか?」
 これは今まで何度も問われてきた疑問で、多くの論者が論じてきた問題です。その問題には日米英のインテリジェンスという視角から光をあてると同時に、その意思決定の過程を緻密に論じた本。
 複雑な意思決定の過程を日米英の視点から細かく追っているので、最初は少し読みにく感じもあるのですが、ある程度読み進めて、各国の意思決定のパターンがつかめてくるとパズルのピースがはまっていくように面白く読めると思います。

 目次は以下の通り。
序章 日米は、なぜ戦ったのか
第1章 政策決定とインテリジェンス
第2章 「南進」と「国策」
第3章 独ソ開戦と南部仏印進駐
第4章 対立の深化から破局へ
結論 誰が情報戦の勝利者だったか

 この本の序章に、「一般的に、日本は先の大戦で情報戦に完敗したと考えられている」(55p)とありますが、実際、そう考える人は多いと思います。
 ミッドウェイ海戦での敗北や山本五十六が乗った飛行機が待ち伏せにあって撃墜された事件などは、日本の情報が敵側に筒抜けになっていた例です。
 さらにアメリカは開戦前の1940年8月に日本の外務省の九七式欧文印字機の暗号を解読しており、それをMagic情報として活用していました(45p)。

 ここから「アメリカは真珠湾攻撃を事前に知っており、第2次大戦に参戦するためにわざと日本に真珠湾を攻撃させたのだ」という陰謀論が語られることになります。
 しかし、日本も開戦前にアメリカの最高強度の外交暗号であるスプリット・サイファーを解読しており、イギリスの暗号についてもある程度解読していました(46p)。日本が暗闇を歩いている一方、米はすべてお見通しというような状況ではなかったのです。
 お互い手探りの中で、下手に相手の機密情報を知ったがゆえに誤解が深まるということが日米双方にありました。

 そして、日本側の意思決定をややこしくしているのが、日本の縦割り組織とボトムアップ型の意思決定です。
 ご存知のように、戦前の日本の首相は「同輩中の主席」にすぎず、各省に指導力を発揮することは難しかったですし、「統帥権の独立」によって軍の作戦に口出しすることは難しい状況でした。
 そこでこの時期の外交政策は陸軍と海軍と外務省などのすり合わせで決まっていくことになります。ところが、その軍部も陸軍であれば陸軍省と参謀本部、海軍であれば海軍省と軍令部に分かれており、容易にまとまらない状況でした。

 そこで、多用されたのが「両論併記」と「非(避)決定」です。
 この本では、まず日米の関係を一気に悪化させた南部仏印進駐に至る過程が検討されるのですが、そこで繰り返されるのが、この「両論併記」と「非(避)決定」です。
 ボトムアップで「大本営連絡会議」などの意思決定の場にある案があげられたとき、陸軍と海軍のあいだ、あるいは外務省とのあいだで調整がつかない場合、「両論併記」で糊塗したり、文書化を見送る「非決定」がしばしば行われました。
 しかし、両論併記の場合、文書にはより積極的な方針も残ることになります。そして、この両論併記の文書がアメリカやイギリスに流れ、日本の侵略的意図が認定されるといったこともしばしば起こったのです。
 さらに、日本の内部でも書き込まれた積極策に引きずられていくということがありました。

 また、ドイツはイギリスの弱体化を狙って、日本にシンガポール攻撃をするように要請していました。
 そこでドイツは拿捕したイギリス商船オートメドン号にあった機密文書を日本に流し、日本の参戦の機運を高めようとしました。この文書によると、日本が仏印を攻撃してもイギリスは戦争に訴えず我慢するといったことが書かれており、日本の南進を促進とも言われています。
 しかし、著者はオートメドン号の情報は肝心のアメリカについて何も知らせておらず、「タイ仏印施策の積極化の触媒になったが、影響力は限定的だった」(111p)と述べています。

 むしろ、問題は「ドイツからの要請」を背景に積極策を振り回し、陸軍や海軍を混乱させた松岡洋右外相という存在でした。
 松岡に関しては非常にエキセントリックな性格で、彼の発言を辿っていくと昭和天皇が『昭和天皇独白録』の中で行った「ヒトラーに買収されたのではないかと思われる」とか「彼は他人の立てた計画には常に反対する」といった評価が当てはまっているようにも思えますが、一方で、加藤陽子のように松岡を評価する歴史学者も存在します。
  
 この本ではそんな松岡の発言を、「シンガポール攻略」のような軍部の許容範囲外の積極策を振りかざすことによって自らがイニシアチブをとる戦略として次のように評価しています。
 松岡はある時は陸海軍以上の強硬論(シンガポール攻略など)を唱えて陸海軍を腰砕けにし、ある時は慎重論を唱えて陸海軍の主張を牽制した。天皇を利用することもいとわなかった。しかし、陸海軍の不一致を利用した松岡の戦略は、弱点も持っていた。松岡に挑発された陸海軍が一致して強硬論を唱えると、抗うことが難しくなるのである。まさに自縄自縛である。(149p)

 「両論併記」と「非(避)決定」の構造と、松岡のエキセントリックな発言が生み出した産物が独ソ開戦を受けて、1941年7月2日の御前会議で決定された「帝国国策要綱」でした。
 そこには日中戦争の解決を最優先にしつつ、自存自衛のために南方進出を進め、機会があれば対ソ戦を行うという、3つの方向が盛り込まれていました。そして、「対英米戦ヲ辞セス」という言葉まで盛り込まれたのです。しかし、内部の人間にとって、これは対英米戦の覚悟を示すものではなく、松岡対策だったといいます(183-187p)。
 松岡はこの時期、さかんに北進論(対ソ戦)を唱えますが、それはある意味で軍を牽制するための作戦でした。しかし、そのことがかえって南進における陸海軍の政策の一致をもたらすことになったのです。
 ところが、日本にとっては対内的な要因で決定された「国策」も、外から見れば当然ながら日本の「国策」ということになります。

 そして南部仏印進駐が行われ、それに対してアメリカは日本への石油の全面禁輸で応えます。インテリジェンスによって互いに不信感を強めていった日米関係はついに決定的に悪化することになったのです(著者は歴史の「イフ」として、1941年2月の段階で南部仏印進駐が行われていれば英米は強硬策にでなかったのではないか?と分析している(149-150p)。

 アメリカの石油の全面禁輸に関しては、実はアメリカは当初から全面禁輸を意図したわけではありませんでした。
 これについては官僚制の「もつれ」という説もありますし、アチソン国務次官補のせいだという説もありますし、モーゲンソー率いる財務省のせいだという説もあり、今なお、決定的な理由がわかっていないとのことです(232-237p)。

 こうした状況に対し、近衛文麿首相は(この本ではここでようやく近衛が主要なアクターとして登場する)、ローズウェルトとの「日米巨頭会談」によって事態を打開しようとしますが、この案が検討されるなかで、7月2日に決定された国策要綱が解読され、アメリカ側は日本への不信感を強めます。対内的な性格を持っていた国策要綱は、日本の本心と受け取られてたのです。
 その後、ハル国務長官は暫定妥協案を日本に提示することを検討しますが、結局これを断念します。理由としては、中国の反発、情報がマスコミん漏れたこと、スティムソンからの誤情報などがあげられていますが、これん関しても決定的な理由は謎だというのが著者の立場です(280-292p)。

 最後に残るのが、「なぜ、アメリカは真珠湾の奇襲を許したのか?」という謎です。
 ローズヴェルトは確かに最初の一弾を日本に打たせたがっていました。しかし、そのために仕組まれた「陰謀」は、東南アジア方面に約900トンのヨット改造の船を派遣するといったもので、日本軍の航空機がこれを見つけたものの無視して飛び去っています(302ー304p)。
 この時、アメリカの目は完全に東南アジア、特にマレー半島に向いており、真珠湾攻撃というのは盲点だったと言っていいでしょう。

 これ以外にも、この本では英米の情報分析の違い、最後に対米交渉を行った野村吉三郎駐米大使の問題点など、興味深い論点をいくつか指摘していますし、何よりもインテリジェンスによって揺れ動く意思決定の過程を、日米英にまたがって緻密に分析してあります。
 ただ、これだけの本なのでやはり巻末の参考文献一覧もほしいですね。参考文献は適宜示されているとはいえ、そこはちょっと頑張って欲しかったところです。
 けれども、巷に広がっているさまざまな「陰謀論」を否定する有益な本であることには間違いないです。

日米開戦と情報戦 (講談社現代新書)
森山 優
4062883988

宮地弘子『デスマーチはなぜなくならないのか』(光文社新書) 5点

 ソフト開発の現場で、いくら仕事をしても仕事が終わらないような状況を「デスマーチ(死の行進)」と呼びます。そのデスマーチについて、自らも元エンジニアである著者が仕事を辞めた後に大学院で社会学を学び、社会学の視点から迫ってみせようとした本。
 自らの経験について、社会学を学んでその視点から語り直そうとする点では、同じ光文社新書の中野円佳『「育休世代」のジレンマ』と重なります(ただ、こちらは上野千鶴子ゼミではないです)。
 そして、『「育休世代」のジレンマ』と同じように自分の経験した、あるいは想像できる出来事ばかりを追っていて、他の事例との比較といった観点は薄いです。
 この本を読んで、「こんなのはデスマーチではない!」と怒る人もいるのではないかと思います。

 目次は以下の通り。
第一章 究極の迷宮――どのようなものづくりとも異なるソフトウェア開発の特質
第二章 「デスマーチ」の語り――ソフトウェア開発者たちに聞く経験
第三章 当事者にとっての「デスマーチ」の経験とは
第四章 「人々の社会学」という考え方――逸脱の問題から常識の問題へ
第五章 「あたりまえ」の起源を探る
第六章 今、「デスマーチ」が問題化していることの意味
第七章 IT化時代の社会問題としての「デスマーチ」

 第一章ではソフトウェア開発の特殊性について述べられています。
 大規模なソフトウェアでは、「ウォーターフォール」モデルという、まず仕様書を作り、その仕様書を拠り所として設計・実装・試験という過程が行われるやり方が採用されることが多いですが、プログラムの構造は複雑であり、プログラムのある部分が他の部分とうまく同調しないこともありますし、また、注文側の変化にニーズに応じてソフトウェアの機能に対し新たな要求が出てきます。結果として、仕様書のとおり作れば万事OKとはならないケースが多いのです。

 第二章、第三章では「デスマーチ」を経験したエンジニアへのインタビューが行われています。
 主にインタビューされているのは三名で、いずれも大手外資系のソフトウェア開発会社X社の社員や元社員です。X社では出勤時間や服装などはかなり自由で、エンジニアの裁量が重視されている会社です。一見すると「デスマーチ」とは無縁の会社ですが、そんな中でも、仕事のしすぎで燃え尽きるエンジニアはいるのです。

 この本で「デスマーチ」の経験者として中心的にインタビューされているのは、40代前半のAさんです。AさんはX社が開発したデジカメのデータ取り込みとデジカメのリモートコントロールをするソフトのプログラマーでした。
 プロジェクトのメンバー仕様を決めスケジュールを管理するエンジニアが1人、試験担当のエンジニアが4人(さまざまなメーカーのデジカメに対応するために試験に人数が必要だった)、そしてプログラマはAさん1人です。
 
 比較的小規模なプロジェクトでしたが、各メーカーごとのデジカメの仕様の違いに泣かされ、プロジェクトは遅れ気味になっていきます。しかも、デジカメに同梱するために納期は厳密に決められており、遅れは許されない状況でした。
 ここでAさんは「できません」とは言えなかったといいます。著者はこの背景にエンジニアの文化を見ています。こうした仕事の抱え込みはエンジニアにとっては当たり前の光景であり、他人に助けを求めるのは「恥」だとされることが多いというのです。
 結局、Aさんは休日出勤を繰り返しなんとか形にしますが、そこで燃え尽きてしまい、いわば「名誉の戦死」(76p)をした形になったといいます。

 このエンジニアの文化に関しては、同じX社に新入社員として入ったBさんへのインタビューからも裏づけられます。
 新入社員だったBさんは、ろくな説明もないままに「とにかくバグをあげろ」という上司に反発し、仕事が残っていても帰っていたといいますが、その割を食う形で同じプロジェクトの先輩社員は「燃え尽きて」退職したといいます。
 新入社員だったBさんには、とにかく「できません」と言わずに仕事を抱え込むエンジニアの文化がわからなかったのです。

 また、Aさんの2回目のインタビューでは、Aさんが浪人時代のバイトからこの業界に入り、ゲームプログラマからX社に中途で入ったという経歴が辿られています。
 学歴もなかったAさんは、ここで「ステータス」を得たわけですが、だからこそ「無能」と思われたくない気持ちも強く、それも仕事の抱え込みにつながったと分析されています。

 第4章は著者の依拠するエスノメソドロジーが紹介されているのですが、「常識、あたりまえを疑う」といったことが紹介されているくらいで、例えば会話分析などには触れられていません。
 ここからもわかるように、この本で行われているインタビューは、普通のインタビューで、会話分析に技法などは使われていません。
 
 第5章では、30年以上ソフトウェア開発の現場で働く女性のCさんのインタビューを通して、ソフトウェア開発環境の変化とその文化の来歴が分析されています。
 国立大の電気工学科を卒業したCさんは、男性社会のなかで就職などにも苦労しますが、大手外資系のX社に入ることで活躍の場を得ました。
 当時にX社の日本法人はかなりいい加減な組織であり、Cさんはカルチャーショックも受けたといいますが、その後、アメリカ本社への長期出張などを通じてエンジニアとしてのキャリアを積んでいきます。
 1990年代のX社は急成長する市場とともに成長しており、若いエンジニアたちが昼夜を問わずに働いていました。

 しかし、そうした雰囲気は2000年前後に変わってきたといいます。ITバブルが弾け、業界の成長に陰りが見られるようになり、Cさんも父の看病などで今までのような働き方はできなくなりました。
 また、Cさんの意識や役割も開発者からビジネスを重視する立場へと変化していったといいます。
 この後、リーマンショックのときにX社でも人員整理が行われ、X社の文化も変わっていきました。内部のやり取りはより官僚主義的になり、また、若手のエンジニアたちも子育てや親の看取りなどもあって今までのような働き方はできなくなってきたといいます。

 こうしたインタビューを経て、著者は「デスマーチ」の原因を次のようにまとめています。
 まず、1人で仕事を抱え込むエンジニアの文化があります。しかしソフトウェアの大規模化と複雑化、さらに草創期を支えたエンジニアたちが年を取り、そのような仕事のやり方は年々難しくなっています。
 ところが、「1人で抱え込む」に変わる文化は職場では育っておらず、エンジニアの文化と現状の齟齬が「デスマーチ」を生み出しているのです。

 おそらく、著者の分析はある程度正しいのだと思います。けれども、多くの人はこれが「デスマーチ」の原因だと言われても納得しないのではないでしょうか?
 これは著者がとり上げた世界というのがソフトウェア開発の中のほんの一部の現場で、多くの人が想定する「デスマーチ」とずれているからだと思います。
 「デスマーチ」といって一般人が思い浮かぶのは、現在進行中のみずほ銀行のシステム開発などではないかと思うのですが、ここではそういった日本の多重下請けシステムの中での「デスマーチ」などはとり上げられていません。この本でとり上げられているのは比較的「スマート」に見える現場のみです。

 また、エスノメソドロジーについて触れられていますが、この程度の分析であれば、わざわざエスノメソドロジーを持ち出さなくても、と感じます。
 新書では難しいかもしれませんが、エスノメソドロジーの名を出すのであれば、もう少し精密なインタビューの分析が欲しい所です。
 ソフトウェア開発の外野から見て、「「プログラマ35歳定年説」ってこんな感じだから言われるのか」みたいな発見はありましたし、業界の変遷など、いくつか面白い部分はあるのですが、「デスマーチ」の分析とすると物足りない面が残ります。


デスマーチはなぜなくならないのか IT化時代の社会問題として考える (光文社新書)
宮地 弘子
4334039545

大澤武司『毛沢東の対日戦犯裁判』(中公新書) 6点

 戦犯というと、まずは東京裁判で裁かれた東条英機らのA級戦犯が思い浮かびます。しかし、人数が圧倒的に多かったのはBC級の戦犯であり、彼らは日本だけでなくフィリピンやシンガポールなどの各地で法廷で裁かれ、約1000人が処刑されました。
 また戦犯の扱いに関しては、蒋介石の「以徳報怨」(徳を以って怨みを報ず)路線などを思い起こす人もいるかもしれません。
 一方、中華人民共和国に日本人の戦犯が抑留されていたという事実を知る人は少ないでしょう。そんな、知られざる事実と、戦犯らが日中両国にとってどのような存在であったのか、帰国した戦犯のその後などを描いたのがこの本になります。

 目次は以下の通り。
第1章 中国の虜囚―一五二六名の戦争犯罪人
第2章 思想改造―抵抗から受容へ
第3章 戦犯の政治利用―日本への秋波
第4章 日本人戦犯裁判―「寛大」処理の裏側
第5章 帰国後の戦犯たち―毛沢東思想の伝道と中帰連
終章 「毛沢東の対日戦犯裁判」とは何だったのか

 戦後、中国を掌握したのは中華民国であり、多くの日本人戦犯はその下で裁かれました。
 しかし、ソ連に捉えられシベリアに抑留されていたグループと、山西省の閻錫山(えんしゃくざん)に協力して国共内戦に参加していた日本軍将兵は別でした。前者はソ連から成立した中華人民共和国のもとに送られ、後者は山西省で激しい戦闘を行ったあと捉えられました。収監された場所から、前者は「撫順組」、後者は「太原組」と呼ばれました。
 他にも河北省の西陵農場で「労働改造」を施されていた日本人の中にも、後に戦犯とされた者がおり(「西陵組」)、毛沢東の手に握られていた日本人の戦犯は合わせて1526名でした(4p)

 この本では閻錫山に協力した経緯なども説明されているのですが、脅しや謀略によって日本軍の協力を引き出そうとする閻錫山もひどいですし、残留を煽った第一軍の元参謀長山岡道武とか第一軍司令官という責任者の澄田らい四郎らがいち早く帰国しており、これまたひどいです。

 シベリアから送られてきた「撫順組」では、中国で「戦犯」扱いされることに大きな抵抗があり、第59師団長の藤田茂は「お前たちは国際法を踏みにじった。国際法では戦争が終わったなら直ちに捕虜を送還しなければならない」と抗議しました(49p)。
 しかし、一貫して日本の戦犯への厳重な処罰を主張していた共産党にとって国民政府とは違った形で戦犯を裁くことは必要不可欠だと考えられており(国民政府は敗色濃厚となった1949年1月に岡村寧次元支那軍総司令官ら戦犯260名を日本に送還している(48p))。

 このため日本人戦犯の取り扱いに関しては周恩来から直接指示が出ており、国家の最高レベルの意思決定をもとに、戦犯に対して人道的待遇を行うとともに「認罪」という学習と反省を行わせようとしました。
 看守には日本人に家族を殺されたものも多かったのですが、上層部は繰り返し人道的待遇を行うように指示しています。
 学習では、日本の兵卒が日本の帝国主義の犠牲者であること認識させ、その上で自らの罪業を「担白」(告白)させることに重きが置かれました。
 しばらくすると、日本の戦犯の中から担白するものが相次ぎ、皆の前で老人や子供、妊婦までを銃剣で殺したという告白を泣きながら行うもの者も現れました(67-72p)。こうして尉官級以下の戦犯の多くが自らの罪を告白していくことになります。
 一方、将官佐官級の取り調べに関しては難航しましたが、徹底的に調査を行い、それを突きつけていくことで「認罪」を迫っていきました。

 「太原組」「西陵組」では、太原陥落直後に逮捕された日本人は意外と少なく、張作霖爆殺事件の首謀者とされる河本大作も太原陥落2日後に逮捕されています(76p)。
 太原においても、戦犯への人道的待遇がなされ、そして「認罪」が目指されました。

 日本人戦犯は日中交流のためのカードとしても利用されました。
 毛沢東は「以民促官(民を以って官を促す)」を掲げ、民間交流から日中関係を前進させようとしましたが(88p)、その時の交流のきっかけとして使われたのが日本人戦犯でした。
 中国側は対日政策の司令塔に廖承志をおき、中国紅十字会と日本赤十字社とのパイプを使って日本に対する働きかけを行います。
 1954年には「西陵組」の417名の釈放を決定し、日本へと帰国させます。戦犯は民間交流を進めるカードとしても使われたのです。

 1955年以降、中国は戦犯の起訴準備を本格化させます。量刑に関しては、現場では死刑を含む重い刑を望むものが圧倒的でしたが、党中央は死刑や無期刑を排除、最終的には周恩来の支持によって現場を押さえ込みます(111p)。また、周恩来は起訴状の一部の字句修正なども行っており(129p)、日本人戦犯に対する裁判がいかに重大事であったかがわかります。

 最終的に起訴されたのは45名。それ以外の1000名近くは釈放されました。これらの人々は1956年以後、順次帰国していくことになります。
 45名は特別軍事法廷で裁判を受けましたが、著者はこの裁判について「裁判の開廷前にすでに徹底的な量刑議論が完了し、「有罪」かつ「刑期ありき」の判決文が確定していた毛沢東の戦犯裁判は、法的手続きがいかに慎重であろうが、やはり一種の劇場型の戦犯裁判であったといえる」(151p)と述べています。
 
 45名の戦犯は最高懲役20年~懲役8年までの判決を受け、撫順戦犯監獄に収監されました。そこでは、マルクス主義の学習や生産活動への参加、そして自己批判・相互批判などが求められました(164p)。彼らは順次釈放され、東京オリンピックの1964年の3月までにすべての戦犯が釈放されました。

 後半の第5章で描かれるのが帰国した戦犯たちの姿です。
 しかし、帰国した彼らは、「中共帰り」、「洗脳」といったレッテルを貼られ偏見にさらされまししたし、政府による待遇も満足できるものではありませんでした。彼らは「中国帰還者連絡会」をつくり、会員間の互助や日中友好を目指しました。

 1957年3月に光文社から『三光』という中国戦犯の手記を中国から持ち込み編集した本が出版されると、その衝撃的な内容は社会に大きなインパクトを与えました。
 中帰連によって、自分たちの体験や罪行を公表することが「有効な「反戦平和」の手段」(184p)と認識させた出来事でもありました。
 こうした中で、中帰連は「政治化」していき、1960年の中帰連第二回全国大会では、規約の「目的」から、「親睦」「相互援助」「補償要求」が外され、平和と日中友好が前面に押し出されました。このとき、最高裁長官田中耕太郎の実弟で当時東京地裁の判事だった飯守重任(いいもりしげとう)は、その「反動的」な思想ゆえに除名されています(193ー195p)。

 しかし、会の求心力を保つには「補償要求」は欠かせないもので、その後も活動の中心となりました。理事長であった国友俊太郎は「補償要求運動は認罪の精神と対立する」として、補償要求運動への反対の姿勢を示し、会を「純化」させようとしましたが、地方からは批判が相次ぎます。
 さらに中国本土で起こった文化大革命は中帰連を分裂させ、その後の政治情勢の変化は中帰連のメンバーの思惑を超えた形で進みます。1972年に中帰連の会長であった藤田茂らが中国を訪問しますが、周恩来は招待にあたって「感謝する」「お詫びする」などの言葉を絶対に口に出さないでほしいと伝えてきたそうです。これは「認罪」思想に基づき、中国人民への「謝罪」と「感謝」を尊んできた彼らにとって、その基盤が掘り崩されたようなものでした(219p)。

 その後、会員の高齢化とともに会の活動は低調化し、1995年に藤岡信勝の『三光』などへの批判に対する半批判で一時期活性化するものの、2002年に中帰連は解散しています。

 このように、あまり知られていない歴史の事実に日本側と中国側双方から光を当てた内容になっています。
 ただ。構成としては中国側の動きを中心に叙述する前半と、帰国後の戦犯の動きを描いた後半でばらけてしまっている印象はあります。後半のことを考えると、この本の隠れた主人公ともいうべき国友俊太郎などに関しては、前半でどのような経歴の持ち主であったのかが説明してあると、帰国後の行動なども理解しやすかったのではないでしょうか。
 また、「認罪」学習について、批判的な回想は特に引用されていませんでしたが、そういったものがなかったのかどうかも気になります。

 とはいえ、戦争と日中関係における知られざる一面を明らかにした労作であることには変りはないです。

毛沢東の対日戦犯裁判 - 中国共産党の思惑と1526名の日本人 (中公新書)
大澤 武司
4121024060

寺尾隆吉『ラテンアメリカ文学入門』(中公新書) 7点

 1950年代後半から70年代にかけて世界に衝撃を与え、「ブーム」を巻き起こしたラテンアメリカ文学。ボルヘス、コルタサル、ガルシア・マルケス、バルガス・ジョサ、ドノソといった作家の名前や、「マジック・リアリズム」といった形容のされ方は多くの人が耳にしていると思います。
 しかし、ラテンアメリカと言ってもさまざまな国があり、作家の個性もそれぞれです。「マジック・リアリズム」という形容詞が当てはまる作家もいれば、当てはまらない作家もいます。
 そんなラテンアメリカ文学について、ブーム以前からボラーニョなどのブーム後の作家までの歩みをたどり、なおかつ個々の作家と作品に対する批評を試みたのがこの本。200ページちょっとの本文の中に、数多くの作品の翻訳を手がける著者の手によって圧縮・整理されたラテンアメリカ文学の全体像が詰まっています。

 目次は以下の通り。
第1章 リアリズム小説の隆盛―地方主義小説、メキシコ革命小説、告発の文学
第2章 小説の刷新に向かって―魔術的リアリズム、アルゼンチン幻想文学、メキシコ小説
第3章 ラテンアメリカ小説の世界進出―「ラテンアメリカ文学のブーム」のはじまり
第4章 世界文学の最先端へ―「ブーム」の絶頂
第5章 ベストセラー時代の到来―成功の光と影
第6章 新世紀のラテンアメリカ小説―ボラーニョとそれ以後

  第1章では、ブームが生まれる前の19世紀のリアリズム小説についてとり上げられています。
 このころ、ラテンアメリカにおいて小説の地位は低く、ブラジルのマシャード・デ・アシスなどを除けば、見るべき作品はあまりありませんでした。
 20世紀になると、メキシコ革命を背景に政治と文学を関連付ける作品も現れますが、それはある種のマンネリに陥っていきます。

 そういったマンネリズムを打ち破ったのが、第2章でとり上げられるシュルレアリスムの影響を受けた魔術的リアリズムの文学やアルゼンチンの幻想文学でした。
 魔術的リアリズムの作家で名前が上がるのは、ミゲル・アンヘル・アストゥリアスとアレホ・カルペンティエールです。ヨーロッパの文化に親しんでいた彼らは、インディオの神話や黒人文化をヨーロッパからの視点でとり入れ、独自の世界をつくり出し、注目を浴びました。

 一方、アルゼンチンではそのヨーロッパ都の独自の距離感から、ホルヘ・ルイス・ボルヘス、アドルフォ・ビオイ・カサーレスらにより、徹底的に虚構性を重視した幻想文学が花開きました。
 ボルヘスやカサーレスの成功から生まれたアルゼンチンの幻想文学の流はフリオ・コルタサルに引き継がれていくことになります。
 また、メキシコではフアン・ルルフォが『ペドロ・パラモ』が書き上げ、のちにバルガス・ジョサがラテンアメリカ文学の特徴の一つにあげる「主観的世界の客観化」をこの小説のなかで実現させました(72p)。

 第3章と第4章では、いよいよラテンアメリカ文学ブームが語られます。
 個々の作家や作品の評価については、ぜひ本書で確認してほしいのですが、本書からわかるのはラテンアメリカ文学ブームが、たんに優れた作家がたくさん出てきたというめぐり合わせだけでなく、作家同士のつながりや、そのつながりを強め、のちに崩壊に導いた政治的な背景に拠っていたということです。

 ブームの口火を切ったのは1958年のカルロス・フエンテス『澄みわたる大地』でしたが、フエンテスは創作活動を行うだけでなく、自らの作品の売り込みのために文学エージェントと契約し、さらに自分だけでなく他の作家の売り込みも行いました。
 
 また、1959年に起こったキューバ革命も作家たちに大きな影響を与えました。フエンテスをはじめとして、多くの作家がキューバ革命に賛意を示し、多くの作家がキューバへの支援を表明しました。キューバ革命に無関心だったのはカサーレスくらいだったといいます(105p)。
 このようにキューバ革命はラテンアメリカの作家を結びつけましたが、革命の興奮が冷めるにつれ、カストロ政権に対する賛否は分かれ始め、これが第5章で語られるバルガス・ジョサとガルシア・マルケスの決別の一つの要因ともなります。

 バルガス・ジョサとガルシア・マルケスはバルセロナに住み、またその他の多くの作家もバルセロナを訪れ、バルセロナがブームの中心地となりましたが、ラテンアメリカの独裁政権に対する態度は作家たちの大きな課題の一つでした。
 カストロをはじめとして独裁者に好意的な態度を取り続けたガルシア・マルケスに、バルガス・ジョサは反発。1976年にバルガス・ジョサがガルシア・マルケスを公衆の面前で殴り倒す「パンチ事件」が起こると、作家同士のつながりは薄れ、ブームは終焉していくことになります(157-158p)。

 その後、イサベル・アジェンデ『精霊の家』パウロ・コエーリョ『アルケミスト』などのベストセラーが登場しますが、コエーリョはもちろん、アジェンデに対しても「野性的な語り手の才」はあるが「芸術的・学術的価値を持つ作品はまったく書いていない」(168p)と手厳しいです。
 さらに、この本はブライス・エチュニケの起こした剽窃事件、文学賞の問題点、出版社に年1回の出版を求められる契約の問題など、ラテンアメリカ文学を取り巻く問題点に触れ、最後の第6章ではロベルト・ボラーニョを中心に近年の動向に触れています。

 このようにこの本ではラテンアメリカ文学の盛衰を描いているのですが、同時に著者の歯に衣着せぬ作家評・作品評というのも大きな特徴です。
 『蜘蛛女のキス』などで日本でもファンの多いマヌエル・プイグに関しては、「いまやすっかり色褪せた感が否めないながらも現在まで生きながらえている」(129p)と評価されていますし、ボラーニョに関してもその才能を認めつつ(長編よりも短篇集の『通話』を評価している(197p)、『野生の探偵たち』や『2666』を持ち上げる風潮に関しては異議を唱えています(具体的に、『2666』の第4部の延々とつづく殺人事件の描写などを槍玉に挙げている(199p))。

 個人的に、ボラーニョの『2666』については著者とは違った意見を持っていますし、その評価に疑問を持つ部分もありますが、非常に明解な評価をしているので、著者に同意するにせよしないにせよ、難解な文学談義で煙に巻かれることはないです。
 まさに非常にコンパクトにまとまった「入門書」になっていると思います。


ラテンアメリカ文学入門 - ボルヘス、ガルシア・マルケスから新世代の旗手まで (中公新書)
寺尾 隆吉
4121024044
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通勤途中に新書を読んでいる社会科の教員です。
新書以外のことは
「西東京日記 IN はてな」で。
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