山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期

ここブログでは新書を10点満点で採点しています。

白波瀬達也『貧困と地域』(中公新書) 8点

 副題は「あいりん地区から見る高齢化と孤立死」。日雇い労働者の町であった大阪西成区のあいりん地区(釜ヶ崎)の歴史と実情、そして将来の展望を分析した本になります。
 著者は長年に渡ってあいりん地区でソーシャルワーカーとしても働いたことのある社会学者です。あいりん地区については、近年、「西成特区構想」が進められており、その内容は推進役となった経済学者の鈴木亘が『経済学者 日本の最貧困地域に挑む』という本にまとめています(この本は面白い!)。著者はこの構想のプロジェクトの中心的な役割をになったまちづくり検討会議にファシリテーターとして参加しており、『経済学者 日本の最貧困地域に挑む』の内容を補う本としても面白く読めます。

 『経済学者 日本の最貧困地域に挑む』では、日雇い労働者が集まる「集積のメリット」が、景気低迷と日雇い労働者の高齢化により生活困窮者の集まる「集積のデメリット」になってしまった変化が語られていましたが、この本ではそうした面も押さえた上で、生活困窮者にとってあいりん地区は今なお「集積のメリット」がある場所でもあるということを示しており、数字にはなかなか現れてこない町と人々の暮らしの関係を浮かび上がらせることに成功しています。

 目次は以下の通り。
序章 暴動までの歴史的背景
第1章 日雇労働者の町として
第2章 ホームレス問題とセーフティネット
第3章 生活困窮者の住まいと支援のあり方
第4章 社会的孤立と死をめぐって
第5章 再開発と向き合うあいりん地区
終章 地域の経験を活かすために

 戦前から釜ヶ崎地区は木賃宿が立ち並ぶ貧困層が集まる場所でしたが、1961年の第一次釜ヶ崎暴動までは女性や子どもも多い地域で、いわゆる一般的なスラム街でした。
 それが高度成長と度重なる暴動の中で徐々に日雇い労働者が集まる「ドヤ街」として性格を強めていきます。
 この本の24pには社会学者・大橋薫によるスラムとドヤのちがいが表としてまとめられていますが、スラムの住居は恒久的であり、助け合いの必要性から人間関係は緊密になります。一方、ドヤでは住居は一時的なものであり、人間関係は匿名的なものとなります。また、得た収入を目の前の消費に使ってしまう傾向があり、そのことが生活の余裕を奪うともいいます。

 こうした釜ヶ崎地区の変化を加速させたのが61年から数次に渡る暴動です。
 交通事故の自己処理における警察の人名軽視の姿勢に端を発した第一次暴動は3日間に渡って続き、警察は6000人以上の警察官を投入してこれを鎮めました。
 この後も暴動はたびたび起こり、61~73年にかけて21次にわたる暴動がありました(36p)。特に70年以降は、新左翼が釜ヶ崎を「革命の拠点」と位置づけて組織化を進めたこともあって、70~73年の間に13回もの暴動が起きました(37p)。

 1966年、大阪市・大阪府・大阪府警は釜ヶ崎を「愛隣地区」と改称し、対策を進めますが、こうした過程の中で、家族を持つ者が徐々に流出していくことになります。32pにはこの地区の萩之茶屋小学校の児童数の変遷がまとめられていますが、61年に1290人いた児童は、70年に632人、80年に421人、90年に137人とその数を減らし続けました。
 あいりん地区のマイナスイメージが住人の就職や結婚にマイナスにはたらくということもあったそうです(39p)。
 一方、キリスト教関係者などはこの地区の支援に入ってくるようにもなり、独特のセーフティーネットを形成していくことになります。

 また、港湾運輸業、製造業などさまざまであった日雇いの求人も80年代以降になると、建設業に一元化されていきます。建設業の需要は天候や時期(年度はじめは工事が減り年度末は増える)によって左右され、ただでさえ不安定な日雇い労働者の立場をさらに不安定にしました(46p)。
 バブル期にはあいりん地区は活況を呈し、外国人労働者の流入などもありました。一方で、90年には17ぶりの暴動が起き、さらにその後のバブル崩壊でホームレスが増え、住人の高齢化も進んでいきます。

 ホームレスに関しては、2002年に「ホームレスの自立の支援等に関する特別措置法」が制定され対策が進みます。また、09年に厚労省から当該自治体に住所を持たない者でも生活保護の申請ができるという通知が出たこともあり、ホームレスは生活保護を受給し、この地区に定住するようになっていきます。
 あいりん地区は「単身男性を中心とする非定住型の貧困地域=労働者の町」から「単身男性を中心とする定住型の貧困地域=福祉の町」へと変貌したのです(74p)。  
 
 あいりん地区は長い歴史をもった貧困地域であることから、ある意味で貧困者向けのセーフティーネットが充実した町だともいえます。
 生活保護だけでなく、市と府と国による「あいりん対策」、キリスト教系団体、社会運動団体によるあわせて4つのセーフティーネットがあるといいます(78-90p)。
 しかし、その一方で生活保護受給者を囲い込む業者が現れたもしましたし、キリスト教系団体の無料食事会や社会運動団体の行う炊き出しは「生活保護費を計画的に利用する意識を弛緩させる負の効果を持つ」(81p)こともあります。
 貧困の集積は、他に比べて充実したセーフティーネットをもたらす一方で、必ずしも社会全体のメリットとはなっていない面もあるのです。

 中盤以降は、住宅と孤立死の問題がとり上げられています。
 先述のように、あいりん地区では生活保護の受給によってホームレスは減少していますが、その住居問題が解決されたとはいえません。
 あいりん地区では、無料低額宿泊所が生活保護受給者に住居を提供していますが、生活保護費から住居費やケアの費用を徴収するスタイルは特に公的既成がないために「貧困ビジネス」の温床ともなっています。
 しかし、これらの無料低額宿泊所を規制すべきかという、これらの施設がケアを担っている面もあり、意見が分かれるところとなっています。

 また、近年は簡易宿泊所を回収したサポーティブハウスという施設も増えています。
 サポーティブハウスは簡易宿泊所を転用しているため、居室は三畳ほど、トイレ・風呂・炊事場は共用というものが多いです。スタッフが24時間常駐して必要な生活支援を行い、共同のリビングを設置しているのもサポーティブハウスの特徴になります。
 しかし、居住面積の狭さという問題があり、2015年の生活保護の住宅扶助の引き下げによりその経営は苦しくなっています。
 
 次に孤立死の問題です。
 あいりん地区の居住者の多くは単身男性であり、その死を看取る家族がいるケースはまれです。あいりん地区のある西成区の一人暮らし高齢者の出現率は2010年で66.1%(130p)、さらに、あいりん地区の女性人口は約15%にすぎず(132p)、高齢者男性の町であることがうかがえます。
 また、日雇いの町であったあいりん地区では、互いの過去に踏み込まないことが一種の社会規範となっており、そういった流動的な人間関係から生活保護に定住生活への以降の中で孤立してしまう人間もいるとのことです(133-137p)。
 
 孤立死を防ぐためには人のつながりを再構築することが必要ですが、家族的ネットワークの再構築は期待できず、また町内会などへの加入状況も非常に低い割合にとどまっており、何らかの新たな地縁の創造が必要になっています。
 当然ながら無縁仏も増えており、あいりん地区ではそれに対するさまざまな取り組みがなされています。ある意味で日本の今後の課題を先取りしていると言えるかもしれません。

 後半は西成特区構想とあいりん地区の今後について。
 最初にも述べたように現在、あいりん地区では経済学者の鈴木亘などを中心として西成特区構想が進められています。外から見ると橋下市長がトップダウンで進めている改革にも見えましたが、実際は特区構想以前から活動していた「釜ヶ崎のまち再生フォーラム」の主催する「定例まちづくりひろば」などの仕事を受け継ぐ形で進められており、住民や関係団体の意見を取り入れたものとなっています。

 著者もファシリテーターとして参加したようにこの構想に完全に反対しているわけではありません。あいりん地区の貧困問題には何らかの対処が必要ですし、実際にこの構想が動き出してからあいりん地区の治安や景観は改善されています。
 一方、著者は「手厚いケアが「強い管理」をもたらすのではないか?」、「再開発によって簡易宿泊所などがなくなり日雇い労働者が暮らしていくことが困難になるのではないか?」といった懸念も抱いています。
 実際に新今宮駅周辺の簡易宿泊所は外国人旅行者向けに改修されつつあり、特区構想の成功によって日雇い労働者たちが居場所を失う可能性は十分に考えられます。

 あいりん地区は日本でも例外的な場所であり、貧困の集積は問題を産むと同時に、さまざまな取り組みやセーフティネットも生み出しました。しかし、一つの地域に貧困を押し付けるやり方は限界となっています。
 また、あいりん地区であらわになっている孤立死をはじめとする高齢単身世帯の問題は、これから他の地域が直面する問題でもあります。
 何かスパッとした解決方法が示されているわけではないですが、問題を考えていく上でのいろいろなヒントが詰まった本と言えるでしょう。


貧困と地域 - あいりん地区から見る高齢化と孤立死 (中公新書)
白波瀬 達也
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米川正子『あやつられる難民』(ちくま新書) 5点

 もと難民高等弁務官事務所(UNHCR)の職員としてルワンダやケニア、コンゴ民主共和国などで活動した著者が、難民支援の実情や偽善性を告発した本。UNHCR職員だった人物による内部からの批判であり、また日本で流布している「虐殺を乗り越えたルワンダ」という言説を真っ向から批判する主張は価値がありますし、著者の熱意というのもうかがえます。
 ただ、残念ながら本の構成や文章の組み立てがあまり良くなく、やや読みづらい本になってしまっています。

 目次は以下の通り。
第一章 難民問題の基本構造
第二章 難民とUNHCR、政府の関係
第三章 難民キャンプの実態とアジェンダ
第四章 難民と安全保障――ルワンダの事例から
第五章 難民の恒久的解決――母国への帰還と難民認定の終了
第六章 人道支援団体の思惑とグローバルな構造

 本書のタイトル「あやつられる難民」とは、難民を支援するはずの政府(難民受け入れ国政府と援助の資金などを拠出する政府)や国連(UNHCR)、NGOがときに難民を利用し操作し、難民に対する加害者になっている現状を告発するためいつけられています(17p)。
 特に著者が活動していたルワンダやコンゴではその傾向が強かったようです。
 著者はこうした中で自らの活動に疑問を感じ、また、難民についての研究者バーバラ・ハレル=ボンド氏の研究に触れることでその認識を深めたといいます。

 おそらく、最初に著者の体験談やバーバラ氏の著作についての説明があるとわかりやすくなったと思うのですが、この著者の体験やバーバラ氏の主張は、このあと細切れに紹介されていく形になり、「難民とは何か?」という大問題に移っていきます。
 ただ、そうした大きな問題の説明の中でもちょくちょく著者の体験が挟み込まれるので、その論旨はわかりにくくなっています。

 第2章ではUNHCRの問題がとり上げられています。
 UNHCRというと日本の緒方貞子が高等弁務官をつとめたこともあり、難民を守る組織として知られています。
 しかし、UNHCRといえども資金を提供するドナー国の影響は無視できず、その方針はしばしばドナー国の政府(アメリカをはじめとする先進諸国)の都合に左右されると言います。
 また、難民を法的に保護する存在から、難民に現地で福祉を提供する存在に変質しつつあるとの指摘もあり(78-80p)、むしろ難民の移動を制限しているケースもあります。
 また、UNHCRの職員の中には難民に対して「上から目線」であったり、自分のキャリアばかりを考えている者もおり、官僚主義的な対応も目につくということです。

 第3章は難民キャンプについて。
 現在では難民を保護する場所として一般的になった難民キャンプですが、そのルーツには捕虜収容所や強制収容所があります。
 本来、難民条約には難民を受入国に統合させていく規定がありますが(117p)、「今日の難民はキャンプで「保管」され、拠出国が提供した支援で生存している」(118p)状態だといいます。
 UNHCRの『緊急対応ハンドブック』には「キャンプは最後の手段」と明記されていますが(119p)、実際はキャンプがあって当然という認識になっているそうです。

 援助物資を届けるためにはキャンプは便利な場所ですが、そのキャンプであっても食料の配給や居住スペースが不十分なこともあり、何よりも長期間のキャンプでの生活は難民の無力感を高めます。
 何もすることがないキャンプの中で子どもたちの間では早い時期から性的行為がさかんになり、今後の難民キャンプでは「15歳以上の女の子の大多数が妊娠しているか出産経験者」(134p)だそうです。
 
 また、男性はやることがなくさらに無力感を高めます。これらの男性が戦闘員にリクルートされてキャンプが「軍事化」することもあります。
 コンゴでは隣国のルワンダが難民をルワンダ兵士にリクルートする例もあるそうで、それらの「コンゴ難民」をコンゴの天然資源の確保に利用しているとのことです(154p)。
 ソマリア難民が身を寄せているケニアのダダーブキャンプでは難民がテロ行為に関わったとして、ケニア政府がキャンプの閉鎖に動くといった事態も起きています(155-158p)。

 第4章はルワンダの事例について。
 映画『ホテル・ルワンダ』などで描かれた1994年のルワンダの虐殺についてはご存知の人も多いでしょう。多数派のフツ族が少数派のツチ族を大規模に虐殺されたとされる事件です。
 その後、ルワンダは「和解が進んだ「開発の成功例」や「アフリカの優等生」というイメージ」(174p)で語られていますが、著者はそれは表層的な見方だといいます。

 ルワンダでは1959年の社会革命後、多くのツチ族が難民として周辺国に流出しました。1987年にこれらの難民は帰還を目指してRPFを創設します。このRPFは「あらゆる可能な手段を使って」の帰還を目指しており(176p)、90年にルワンダに侵攻します。
 そして、94年の虐殺のあとRPF政権が成立し、カガメ大統領が実権を握ります「虐殺を止めた」ということで、国際的なイメージは良いカガメ政権ですが、実際はRPFによるフツ族への虐殺もあったとのことですし、国外に難民として逃れた反対派の人物の暗殺を行ったりもしているそうです。
 カガメ政権はルワンダ国外のルワンダ難民のキャンプにスパイを潜り込ませて監視するなど、抑圧的な姿勢を強めており、また、先述のように隣国のコンゴでは難民を使って天然資源の確保などを行っています。

 第5章は難民の帰還問題について。
 難民が平和裏に帰還できればそれに越したことはありませんが、実際には母国で迫害される恐れのため帰還を躊躇する難民も多いです。
 しかし、問題はないとしてUNHCRが難民を「強制帰還」させることもあるそうです。時に難民受入国やUNHCRが難民への食料の配給を減らすことで帰還を促すこともあるとのことです(226ー228p)。
 特に著者はコンゴからルワンダへと難民が「強制帰還」させられたことを問題視しています。
 難民の地位が喪失される難民地位の終了条項というものがあり、この難民の地位終了が決まると難民は帰還するか受入国で帰化するかの選択を迫られます(238ー239p)。ルワンダ難民に関しては、ルワンダ政府の長年の申請もあり、2009年にUNHCRはルワンダ難民に終了条項を適用すると発表、2013年に実際に適用されました。
 しかし、先ほども述べたように現在のカガメ政権は抑圧的であり、難民の多くは現政権に恐怖心を抱いています。こうした中で終了条項を適用したUNHCRを著者は問題視しているのです。

 第6章は「人道支援」ということにまつわる問題について。
 ここでは基本的に「人道」という名のもとに、犯罪的な行為や国益の追求が行われている現状を告発しています。
 やや難癖に近いものもあるのですが、アメリカのCIAなどが人道支援機関を利用して現地の軍事情報などを探っている疑いがあるという話は頭に入れていてよいかもしれません。

 基本的に個人的に気になった内容はこんなところですが、今まで書いてきたことは決してこの本の正確なまとめにはなっていません。まとめが困難なほどに論旨がいろいろな所に飛んでいるからです。
 最初にも書いたように著者の熱意というものは十分に伝わってきます。ただし、きちんとした構成なしに情報を詰め込んだ感もあり(その情報もきちんとしたものと伝聞が入り交じっている)、著者の言いたいことが十分に伝わるのかというとやや疑問にも思えます(個人的な見解としては、ルワンダ難民の問題を中心に、著者の体験→ルワンダ虐殺の背景説明→ルワンダ難民の実情→UNHCRの機能不全、というような構成にしたほうが良かったのではないかと思います)。


あやつられる難民: 政府、国連、NGOのはざまで (ちくま新書 1240)
米川 正子
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柴田悠『子育て支援と経済成長』(朝日新書) 4点

 「子育て支援」が経済成長率を引き上げ財政改善する可能性が見えてきた!純債務残高600兆円を超え、深刻な財政難にいまだ効果的な手を打てずにいる日本。でも現実を見れば、「働きたいのに働けない女性」はたくさんいる。安心して子どもを産み育てられる「良質な保育サービス」に本気で取り組めば、日本はまだ成長できる。データ分析が示す国家戦略の新形態!「マツコ案」を試算した若手社会学者の新提案。

 これがAmazonのページに載っている本書の紹介文。経済成長の「お荷物」と考えられがちな社会保障ですが、子育て支援に関しては女性労働力率の向上や子どもの貧困の削減などを通じて経済成長が期待でき、「投資」としても優れていますよ、というのが本書の主張になります。
 個人的には、この著者の主張には賛成ですし、これを政策効果についての統計分析で裏付けようという姿勢も良いと思います。
 ただし、本書に関してはいろいろと問題点があり、そのロジックや政策の優先順位についてやや疑問が残りました。

 目次は以下の通り。
第1章 財政難からどう抜け出すか
第2章 働きたい女性が働けば国は豊かになる
第3章 「子どもの貧困」「自殺」に歯止めをかける
第4章 社会保障の歴史から見るこれからの日本
第5章 子育て支援の政策効果
第6章 財源をどうするか
おわりに――分断を超えて

 この本の中心となる主張は、「子育て支援に追加予算を投入したときの経済効果は約2.3倍になる可能性がある」というものです(8p)。経済効果とはGDP増加額を予算投入額で割ったもので、この本の第5章では保育サービスへの予算を0.5兆円(GDPの約0.1%)増やせば、経済成長率が数年以内に0.23%、長期も合わせると0.28%増えるという試算から、数年以内の分を取り出して2.3倍(GDPの約0.1%を投入して0.23%の経済成長)という数字を出しています(165ー166p)。

 この「約2.3倍」という根拠はどこから出てきたかというと、OECD加盟国からデータの揃っている28カ国を選んで1980~2009年、特に00年代のデータを分析して得られた数値だといいます。
 ただ、この本では28カ国がどの国なのかは明示されていません。現在OECDの加盟国は35カ国。そのうち2016年加盟のラトビアは抜いてあるでしょうし、データ分析の期間から2010年加盟のチリ、スロベニア、イスラエル、エストニアも抜いてあるのかな?と思いますが、抜かれているあと2カ国はどこなのでしょうか?新書であってもこれは明示すべきでしょう。

 この本では最初に日本の財政危機に警鐘を鳴らし、そのために追求する目標としてまず財政余裕(財政収支の改善)をあげています。財政余裕のためには、経済成長が必要であり、そのキーとなるのが労働生産性だというのです。
 短期的な財政収支の改善は福祉の切り捨てによっても実現するので、ここはまずは経済成長の方を基本的な目標として掲げるべきではないかと思いました。
 また、経済成長に必要なものとして、労働力率、投入労働時間、労働生産性をあげ、そこから改善すべきものとして労働生産性を選択しています。労働生産性の向上は必要だとは思いますが、経済成長にはそういった供給面の要因だけでなく需要面の要因もあります。需要面の改善によって製品価格が上がれば自然と労働生産性も上がるといった側面もあり、労働生産性にフォーカスしすぎるのはどうかと思います。

 労働生産性の上昇をもたらすものとして、著者は「労働力女性比率が上がると、翌年の労働生産性が上がる」というデータに注目します(53p)。
 この因果関係について、著者は日本の企業においても「正社員女性比率が高い企業ほど利益率が高い」という研究などを参考にしていますが(57-60p)、日本で女性の職場進出が進んだのは近年になってからであり、また女性の勤続年数が短いことを考えると「「正社員女性比率が高い企業」=「近年、採用に積極的な企業」とも考えられると思います。そうなるとそういった企業は利益率も高いだろうと推測できるのではないかと思います。
 女性の職場進出は長時間労働の是正につながる可能性がありますし、女性という新たな労働力の投入は経済成長をもたらすでしょうが、「労働力女性比率の向上」→「労働生産性の向上」という因果関係については証明しきれていないように思えます。

 ちなみにこの本では出生率の向上は目的とされていません。出生率の向上を目的とすると「本人の気持ちを無視して女性に出産を求めてしまう社会」になってしまうおそれがあるからです(111p)。
 これはもっともな配慮ではありますが、ただそうなると「労働力女性比率の向上」を目的として良いのかという疑問も出てきます。それは「本人の気持ちを無視して女性に労働市場への参加を求めてしまう社会」にはならないのでしょうか?(ただしこの問題は非常に難しいもので、現在の日本では成人男性が労働市場に参加するのは当然と考えられているので、女性も当然と考える議論は成り立つと思う)

 第3章では、日本の子どもの貧困と自殺の問題がとり上げられています。
 まず、最近よく言われるようになりましたが、日本の子どもの相対的貧困率は先進国の中でも高くなっています(90p)。
 著者の分析によると、子どもの貧困に効果がある政策は、児童手当、保育サービスの拡充、ワークシェアリング、失業手当の4つです(92p)。政策の効果としてはワークシェアリングが一番なのですが、予算規模を考えると力を入れるべきなのは保育サービスと児童手当であり、2つの中では保育サービスの効果が高いとしています(93ー95p)。

 また、自殺率に関しては職業訓練が有効だとのことですが、同時に著者は自殺率と労働力女性比率の関連に注目します。労働力の女性比率が増えると翌年の自殺率が低下する傾向にあるのです(107p)。
 著者はこの理由として労働力女性比率が上がれば男性が一家の大黒柱としてのプレッシャーから開放されるためでは、との推測を述べています(107ー109p)。
 ここから著者は子育て支援が労働力女性比率の向上を通して自殺率の低下にもつながると結論づけています。
 
 けれども、そもそも労働力女性比率というのは指標は適切なのでしょうか?
 もし、労働力女性比率が上がれば上がるほど良いなら、男性が一斉に仕事を辞めれば労働力女性比率は100%になります。そうなったら労働生産性は劇的に向上し、自殺率は低下するのでしょうか?
 おそらくそんなことはないですよね。50%を超えれば今度はまた別の問題が出てくるはずですから、追求すべきは労働力女性比率の向上というよりは、この比率の男女差を減らすことになるはずです。そのあたりの注意書きがこの本にはありません(追記(3/9):Twitterで教えていただきましたが、著者の前著『子育て支援が日本を救う』にはこの点に関する注意書きがあるそうです。また55pに「しかし、現在の日本の労働力比率は50%よりも低く、43%にとどまっているのです」との記述があり、著者が50%を理想としていることは推測できます)

 そして、実はこの「労働力女性比率」なる言葉は一般にはあまり流通していない言葉で、「”労働力女性比率"」で検索しても、この著者の本に関連するページくらいしか出てきません。
 普通はポイントになるのは労働力女性比率(働いている人の何割が女性か)よりも女性労働力参加率(女性の内どれくらいが働いているか)だと思うのですが(前にも書いたように投入される労働力が増えれば経済成長する)、女性労働力参加率ではうまく数字が出なかったのでしょうか?

 この後の第4章では、自らの研究者の来歴を振り返るとともに欧米諸国の福祉制度の違いをキリスト教の宗派の違いやトッドの家族システムを用いて説明しようとしています。ただ、個人的には第5章の記述との関係でフランスの位置づけがよくわかりませんでした(第4章ではフランスの子育て支援には否定的なトーン(139ー140p)。

 第5章はさまざまな試算、待機児童を解消するにはいくら必要か、マツコ・デラックスがテレビ番組内で言った教育費と子どもの医療費を全て無料にするにはいくらかかるかといったことを明らかにしています。
 待機児童の解消には1.4兆円が必要とのことですが、172pには「保育サービスの拡充に1.4兆円」→「労働力女性比率0.34%アップ」→「労働生産性成長率0.53%アップ」→「経済成長率0.64%アップ」という図が載っていますが、やはりこの因果関係は腑に落ちないですね。
 第6章では、必要となる財源についていくつかのアイディアと簡単な試算がしてあります。

 なんだか文句ばかりになってしまいましたが、子育て支援が一種の「投資」として機能するのはその通りだと思いまし、それを実際の数字で示そうとした姿勢も良いと思います。
 ただ、どうしても「労働力女性比率」という指標をキーにした分析には違和感が残りました。
 また、日本人の研究者の研究は注をつけて紹介しているのに、ヘックマンやアトキンソンなどの研究の紹介には何も注がついていないところとかも気になりました。新書であってももっと丁寧な本づくりが必要でしょう。


子育て支援と経済成長 (朝日新書)
柴田悠
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赤川学『これが答えだ!少子化問題』(ちくま新書) 6点

 2004年の『子どもが減って何が悪いか!』(ちくま新書)で、「男女共同参画社会の推進が少子化を解決するというのはまやかし。男女共同参画社会の推進は別の理由から行われるべき」との主張をした著者が久々に少子化問題の議論の場に帰ってきました。
 『子どもが減って何が悪いか!』はリサーチ・リテラシーの本としても良い本なのですが、少子化問題の処方箋を出している本ではありません。今回の『これが答えだ!少子化問題』も、タイトルから処方箋を期待する人もいるかとは思いますが、それを期待すると肩透かしをくらいます。基本的には現在の少子化対策を批判的に検討した上で、その効果に疑問を呈した本になっています。

 目次は以下の通り。
序章 「希望出生率」とは何か?
第1章 女性が働けば、子どもは増えるのか?
第2章 希望子ども数が増えれば、子どもは増えるのか?
第3章 男性を支援すれば、子どもは増えるのか?
第4章 豊かになれば、子どもは増えるのか?
第5章 進撃の高田保馬―その少子化論の悪魔的魅力
第6章 地方創生と一億総活躍で、子どもは増えるのか?

 第1章は「女性が働けば、子どもは増えるのか?」
 女性の労働労働力率が高まれば子どもが増えるといった議論がよくなされます。この根拠として使われるのがOECD加盟24カ国の女性労働力率と合計特殊出生率をプロットしたグラフです(31p)。
 しかし、このグラフは『子どもが減って何が悪いか!』でも指摘があったように国の抜き出し方に問題があります。このグラフは「OECD加盟国」でなおかつ「1人あたりのGDPが1万ドルを超える国」を抽出しているのですが、OECD加盟34カ国になるとこの関係性は消滅しますし、「1人あたりのGDPが1万ドルを超える国」85カ国を抽出すると負の相関(女性労働力率が上がると合計特殊出生率が下がる)になります(サウジアラビアなどの中東の産油国が入ってくるため)。抽出する国の基準を変えれば、その関係も大きく変化するのです(30-35p)。

 ただ、日本を都道府県別に見ると女性労働力率が高い都道府県ほど合計特殊出生率が高いという関係性は見られます。
 しかし、著者はこの関連は「都市化」という共通の要因から生じているのではないかといいます。「都市化の進んだ都道府県ほど出生率が低く、女性の労働力率も低い」という関係があるからです(40p)。
 また、個人データの調査を見ても本人収入や世帯収入が高いほど子供の数は少ないというデータがあり、「女性の労働労働力率が高まれば子どもが増える」という議論は成り立たないだろうと結論づけます。

 第2章では、山口一男氏によるパネル調査をもとによる研究が批判的に検討されています。
 パネル調査とは1年とか2年とか一定の間隔を開けて繰り返し調査を行うもので、山口氏は1993~99年のデータを用いて女性の出生行動に影響を与える要因を分析しています。
 分析手法は手堅いが、著者はその解釈のいくつかに疑問をぶつけています。例えば、「夫の家事分担と育児分担は有意の影響がなかった」そうなのですが、山口氏はこれを日本の男性への家事・育児への期待度が低いために出産意欲に影響を与えていないといった形で評価しています。
 これに対して著者は、「ここは素直に「夫の家事・育児分担は妻の出産意欲に影響を与えない」とみるべきだろう」(58p)といいます。
 
 著者がこの章で指摘するのは、「マイナーな要因のゴリ押し」というものです。先程の例だと、確かに夫が育児に協力的だったので二人目を産む気になったという女性はいると思います。しかし、それは統計に表れてこないような微々たるケースです。
 少子化の要因のほとんどは「結婚しない人が増加したこと」にあるのに(61-62p)、少子化を食い止める要因としては「焼け石に水」しかならない要因がゴリ押しされているというのです。
 著者の分析によれば、第2子出生に影響を与える要因は経過年齢(第1子を産んでから何年経ったか)以外存在せず、「夫婦出生力は社会経済的諸条件には依存していない」という解釈が妥当だといいます(72-74p)。

 第3章では、「男性を支援すれば、子どもが増えるのか」という問題が検討されています。
 確かに男性の年収が男性の結婚率に影響を与えているというデータは存在します(83p)。ここから若年男性の年収をアップする政策を行えば、出生率も上がってくると考えられます。
 しかし、著者はこれは女性のハイパガミー志向を考えるとそうはうまくいかないだろうといいます。ハイパガミー志向とは女性の上昇婚志向のことであり、女性がパートナーに自分よりも経済的・社会的地位の高い者を選ぶ傾向のことです。
 これが強い限り、若年層の収入が全体としてアップしたとしても結婚できない男性は残ります。もちろん、男性だけの年収をアップさせればこの問題は解決しますが、それは難しいでしょう(85-88p)。
 
 第4章では、世界を見ると基本的には「1人あたりのGDPが増えるほど出生率が低下する」という事実を押さえた上で、子育て支援によって出生率を上昇させたスウェーデンやフランスの事例を検討します。
 著者は日本とスウェーデンやフランスの違いとして、「日本では出生率は都市で低く農村部で高いが、スウェーデンやフランスでは都市部で高く農村部で低い」ということをあげます(116ー121p)。著者はこの要因をデュルケイムやトッドの議論などを使って説明しようとするのですが、ここはいまいちよくわからなかったです。また、このことが日本の少子化対策の無効性の理由になるという議論もよくわかりませんでした。

 第5章は「進撃の高田保馬」というインパクトのあるタイトルがついていますが、ここでは戦前を代表する社会学者の高田保馬の少子化論が今でも説得力のあるものとして紹介されています。
 105pのグラフをみてもわかるように、現在の日本では「貧乏人の子だくさん」と「金持ちの子だくさん」という現象が両立しています。子どもの数は世帯年収が300万円以下の家庭と1200万円以上の家庭で多いのです。
 この一見すると矛盾する現象を説明するのが高田保馬の「出生制限が行われるのは「力の欲望」からだ」という議論だといいます(152p)。
 高田によればポイントは相対的な窮乏であり、中流では生活水準を維持し、さらに子どもに階級の上昇を願うために出生制限が行われるのです。これと同じような考えは60年後にピエール・ブルデューも提唱しています(156p)。
 高田はこの解決策として「国民皆貧論」を打ち出していますが(160p)、著者はこの議論に説得力を感じつつ、「国民皆貧」は無理なので少子化を受け入れるしかないといいます。

 第6章は、『地方消滅』で話題を読んだ「増田レポート」の少子化対策を批判的に検討しつつ、「子育て支援」を大々的に打ち出すと子育てに対する期待水準が上がってしまい、また出産に対するプレッシャーも高まるので、行うならば「少子化対策」と銘打たない「ステルス支援」が良いだろうとして本書を閉じています。

 全体としては第1章と2章の議論には説得力があり、第3章と4章の議論には疑問が残るといった感じです。
 第3章では女性のハイパガミー志向がはたしてどれくらい固いのか、ということはもっと分析されるべきですし、男性だけの収入を引き上げることはできませんが男性に安定的な仕事を提供する製造業を支援したりすることは可能なのではないかと思います(松田茂樹『少子化論』では九州の出生率の高さが製造業の強さと結びつけて論じられていた)。
 第4章は、日本がスウェーデンやフランスのような少子化対策をとっても出生率は上がらないということは証明できていないと思います。

 少子化対策の議論にみられるバイアスを教えてくれる本としてはいいですが、この本は逆に「少子化対策は無効である」という結論に向けてややバイアスがかかっているようにも思えます。


これが答えだ! 少子化問題 (ちくま新書 1235)
赤川 学
4480069364

金成隆一『ルポ トランプ王国』(岩波新書) 8点

 朝日新聞で注目を集めたトランプ支持者へのルポの書籍化。
 「いずれは失速する」と言われ続けたトランプですが、結局は共和党の予備選を制し、さらには本選でも大本命のヒラリー・クリントンを破りました。この原動力となった支持者の熱気と素顔を伝えてくれる本です。
 日本では、ニューヨークやワシントンの東海岸、あるいはロサンゼルスやシアトルなどの西海岸発の記事が多いですが、その真ん中に広がるアメリカの現在の雰囲気も教えてくれます。

 著者はニューヨーク駐在の記者ですが、周囲にトランプ支持者はほとんどいなかったといいます。実際、本選でのトランプの得票率はニューヨークのマンハッタンで10%、ブロンクスで9.6%、ブルックリンで17.9%、ワシントンでは4.1%(ii p)。都市部からの票はほとんどなかったのです。

 一方で、トランプはアメリカの真ん中で勝ちました。255pのエピローグの扉絵にはトランプ支持者の描いたアメリカの真ん中を共和党のカラーの赤で塗りつぶした絵が載っています。
 そして、この絵を書いたオハイオ州の溶接工の男性は次のようにトランプ勝利後に次のように言っています。
 「大陸の真ん中が真のアメリカだ。鉄を作り、食糧を育て、石炭や天然ガスを掘る。両手を汚し、汗を流して働くのはオレたち労働者。もはやオレたちはかつてのようなミドルクラスではなくなり、貧困に転落する寸前だ。今回は、真ん中の勝利だ」(257p)

 この本では、この「アメリカの真ん中」、特に今回の大統領選の勝敗を決定づけたと言われる五大湖周辺の「ラストベルト(さびついた工業地帯)」を中心にトランプ支持者の話を聞いています。
 トランプの言動だけを追っていると、「こんな政治家を誰が支持するんだ?」という疑問も湧いてきますが、この本を読むと、その支持者たちはいたって真っ当な人物が多く、トランプを支持する理由というものも見えてくると思います。
  個人個人の話に関しては、著者がうまく引き出しているのでぜひ本書を読んでほしいのですが、ここではこの本に描かれているトランプ支持者のいくつかの特徴を紹介したいと思います。

 「貧しい」というより「以前より貧しくなった」
 トランプの支持者は貧乏な白人が多いと言われており(所得だけでいくと5万ドル以下の層はクリントンに投票した人が多いのですが(巻末264pのCNNの出口調査を参照)、困窮した白人がイチかバチかでトランプに票を入れたというイメージがありますが、著者が取材した人には意外と大きな家に住み、さまざまなものをもっている人が多いです。
 著者がインタビュー相手を地域のダイナー(食堂)で探したこともあって、インタビューされている人は高齢者が多いのですが、彼らは学歴がなくても真面目に働けば家と車を買い、年に一度は旅行に出かけられた世代で、現在もその時に買った家に住んでいます。
 彼らの生活はけっして余裕のあるものではないのですが、それよりも「昔はよかったけど今は…」という不満、あるいは将来への不安がトランプ支持の原動力の一つとなっているのです。

 オバマはそんなに嫌われていない
 オバマ大統領のもとで民主党と共和党の分断は深まりましたし、議会の共和党はオバマのやることなすことに文句をつけていたイメージがあるのですが、この本に出てくるトランプ支持者はオバマに対して好意的な人も多いです。
 オハイオ州に住むフェンス工場勤務のロニーは「オバマも好きだ。他人を攻撃しない彼を100%支持してきた。彼が思うように実績を残せないのは、(共和党多数の)議会の協力を得られないからだ」(94p)と冷静な分析を披露し、トランプを「オバマと正反対で下品なヤツだ」と言いつつ「今回はトランプもおもしろいかもな」と言うのです。
 オバマの「チェンジ」に期待した層が、今回の選挙ではその「チェンジ」への期待をトランプにかけたということなのでしょう。

 ヒラリー・クリントンはすごく嫌われている
 ヒラリー・クリントンについては「エリート」「傲慢」「カネに汚い」というイメージが定着しており、「エスタブリッシュメント(既得権益層)」の代表者として見られています。
 ヒラリー自身は弁護士時代に貧困問題や教育問題に熱心に取り組んだことがあり、「カネに汚い」わけではないと思うのですが、ゴールドマン・サックスから3回の講演料として67万5000ドル(7760万円)を受け取ったという話(55p)がすべてを打ち消している感じです。また、2016年9月9日にヒラリーがトランプ支持者を「deplorable(惨めな、嘆かわしい)人々の集まりだ」と発言したことは相当反発を買ったようで、トランプの女性蔑視発言よりもこちらが実は大きかったのかもしれません。

 ビル・クリントンは意外と好かれている
 ヒラリーへの悪いイメージは、夫のビル・クリントンのニューデモクラット路線やNAFTAの締結などが影響しているのかと思いましたが、この本ではビル・クリントンを評価するトランプ支持者が複数登場します。
 前出のロニーは「ビル・クリントンが最高の大統領だった。ヒラリーでもいいかな、と思うのは、ついでにビルが政治の世界に戻ってくるからだ」(94p)と言っていますし、ケンタッキー州のアパラチア地方の町の建設業者のブッチャーは「これまでの大統領で一番は(民主党の)ビル・クリントンだ。雇用状態もよく、(大きな)戦争もなく繁栄した。ブッシュは最悪。若者の命とカネを犠牲にしたイラク戦争を始めた」(160p)と言います。こうした人が今回の選挙ではトランプ支持に回ったのです。

 アメリカは広いし、人生は長い
 「NAFTAをはじめとする90年代から進んだグルーバル化が格差の拡大と不法移民の増加をもたらし、それが今回のトランプ勝利の背景となった」といった理解がなされていますが、この本を読むとそんな単純なことだけではないことがわかります。
 ペンシルベニア州のエドナという80歳の女性は、「街に知らない人が増えた。いろんな人種が増えた」と言うのですが、その「知らない人」とはヒスパニックやアジア系ではなく、「ポーランド人とかスロベニア人とか、新しい人たちが増えた」と言うのです(172p)。彼女にとってアメリカが最高だったのは1950年代であり、近年のグローバル化とは違ったスパンでアメリカを憂いているのです。

 トランプは急に出てきたわけではない
 この本の第2章ではオハイオ州出身の下院議員ジム・トラフィカントの話が紹介されているのですが、彼は国境警備の強化を訴え、雇用の重要性を訴えって個別の企業を名指しで批判しました。「労働者のホンネをありのまま表現した」(64p)と評されるトラフィカントは、ある意味でトランプを先取りした存在でした。
 また、この本の第7章では「北米自由貿易協定(NAFTA)が間違いというのはまったくその通り」、「私はNAFTA改定を試みるため、メキシコなどの大統領にすぐに電話を入れます」、「雇用を海外に出す企業への税の優遇措置は止め、アメリカに投資する企業を優遇しないといけません」といった大統領候補の言葉が紹介されていますが(236p)、これはトランプの言葉ではなく、ヒラリー・クリントンと戦った時のオバマの言葉なのです。
 トランプのような主張が受けるというのは、以前から知られていたことでもあったのです。

 トランプの強さは「独立している」こと
 支持者の多くが口にするのは、トランプは自己資金を使っていて大企業から献金を受けていないからえらいし、実行力も期待できるというもの。アメリカでは「独立している」ということが高く評価されているのだと改めて思いました(以前、日本で政治家を評価する言葉として「クリーン」というものがありましたが、それとは少しずれるのでしょうね)。

 他にも第6章ではサンダースの支持者も取材していますし、この本を読めば今回のアメリカ大統領選の様子や現在のアメリカの雰囲気というものが見えてくると思います。
 センセーショナルな取材対象を選ぶのではなく、いろいろなタイプのトランプ支持者を取材しており、テレビの報道などに比べても厚みのある内容に仕上がっているといえるでしょう。面白くタイムリーな本です。

ルポ トランプ王国――もう一つのアメリカを行く (岩波新書)
金成 隆一
4004316448

池田嘉郎『ロシア革命』(岩波新書) 8点

 今年100週年を迎えたロシア革命、ご存知のようにロシア革命は二月革命と十月革命という2つの革命をからなっています。まず二月革命でロマノフ朝が倒され、十月革命でレーニン率いるボリシェヴィキが権力を握るわけです。
 世界史の教科書などでは、この二月革命から十月革命の間、政権を担っていた臨時政府(ケレンスキー内閣)については「倒された存在」としてしか書かれていませんが、当然ながら、臨時政府はなんとか政権を運営し、政情を安定させようと努力したわけです。
 そんな臨時政府の立場からロシア革命を辿り直してみせたのがこの本。最近の歴史の本はさまざまなアクターを登場させることが多いですが、あえて臨時政府というアクターに絞って、ロシア革命の展開と、「無理ゲー」とも言える当時のロシアの政治情勢のなかで悪戦苦闘した政治家たちの姿を描いています。

 目次は以下の通り。
第1章 一〇〇年前のロシア
第2章 二月革命―街頭が語り始めた
第3章 戦争と革命
第4章 連立政府の挑戦
第5章 連邦制の夢
第6章 ペトログラードの暑い夏
第7章 コルニーロフの陰謀?
第8章 ギロチンの予感
第9章 十月革命

 「後進国のロシアでなぜ社会主義革命が成功したのか?」
 これは長年問われてきた問ですが、この本を読むといくつかの前提条件が見えてきます。
 まず、ロシアでは政府の抑圧が強かったため、有産層の政党よりも、「はじめに地下活動をおこなう勇気と大胆さをもった社会主義者が、非合法で政党をつく」りました(5-6p)。
 欧米流の教育を受けた自由主義者もいましたが、その数は圧倒的に少なく、農民や労働者といった民衆の力を借りずに政府をひっくり返すことは不可能でした。
 一方、長年、抑圧されてきた民衆にとって「現在ある秩序はこつこつ修正していくべきものというよりは、いつか、夢のような真実の瞬間に、一挙の転覆されるべきものであった」(16p)のです。

 そんな中で、第一次世界大戦が始まります。ロシアも総動員体制を敷きましたが、1915年の半ばにロシア軍は総崩れとなり「大退却」が始まります。そして、農村から大量の兵士が動員され、「独自の公正観念をもつ農民が、武器をもたされて、前線や都市に大量移動させられた」(17-18p)のです。

 1917年2月23日(ロシア暦)、ペトログラードの街頭で女工たちが「パンを!」と要求したことから二月革命は始まります。
 街頭に繰り出す人は次々と増えていきましたが、皇帝ニコライ2世は大本営の置かれていたベラルーシのモギリョフにあり、事の深刻さを把握することはありませんでした。 
 ペトログラードにいたロシア議会ドゥーマの議長ロジャンコは皇帝に対処を求めましたが、2月27には兵士の反乱も始まり、事態は切迫します。
 ここでドゥーマは自ら権力を掌握する道は選ばず、臨時委員会を設立する道を選びました。一方、ペトログラードの道を埋め尽くした群衆らは労働者と兵士の代議員評議会、メンシェヴィキの指導によりソヴィエトをつくり出します。

 ソヴィエトからは兵士の自由を求める声が強まり、兵士委員会による将校の解任なども行われました。この戦時下における、兵士の自由・解放と軍紀の維持の問題はこのあともずっと続いていきます。

 当初、臨時委員会はニコライ2世を退位させて12歳の皇太子に譲位し、皇帝の弟のミハイル大公を摂政に立てようとしましたが(33p)、事態の急転の中でこの案では事態を収拾できなくなり、共和制への移行と、臨時政府が全権力を引き継ぐことが決まります。この時、ミハイル大公の声明を書いたのが作家・ナボコフと同名の父で法学者のナボコフでした(40p)。

 臨時政府の中心となったのはカデットと呼ばれる政党を中心とした自由主義者たちでした。基本的にカデットなどの自由主義者が臨時政府に、社会主義者たちはソヴィエトによって事態を動かそうとしましたが、そんな中でケレンスキーは個人の資格で臨時政府の司法大臣となります。
 臨時政府の首班はリヴォフ公ですが、内閣の顔となったのは外務大臣のミリュコーフです(43p)。
 
 臨時政府はソヴィエトとの協議によって、成立にあたって8項目の活動方針を掲げましたが、その中には「革命に参加した部隊を武装解除せず、ペトログラードから動かさぬこと」という厄介な条項も含まれていました(48p)。
 また、ケレンスキーによって政治犯が釈放され、シベリアに流刑されていたボリシェヴィキの面々も釈放されていくことになります。
 臨時政府とソヴィエトの対立はありましたが、全体としては「社会全体が専制の崩壊を喜んで、幸福な一体感を味わっていた」(53p)という状況でした。

 しかし、臨時政府とソヴィエトでその姿勢が大きく違ったのが戦争に対する態度です。ソヴィエトが「無併合、無賠償、民族自決」の原則を打ち出したのに対して、外相のミリュコーフは英仏との協調のため、戦争の継続は必要との立場でした。
 当時の情勢からするとミリュコーフの考えももっともなものでしたが、政治の場は街頭にも溢れ出しており、「「街頭の政治」とは噂、とりわけ陰謀に関する噂が人の心を捉える政治」であり、「「敵」を探す政治」でもありました(69p)。
 ミリュコーフは帝国主義的な「ブルジョワ大臣」とされ、結局、5月2日に辞意を表明することになります。

 それを受けて、5月7日、ケレンスキーだけでなくメンシェヴィキのツェレテリエスエル党首のチェルノフなど社会主義勢力のリーダーがずらりと入閣した連立政府が発足します。
 しかし、この連立政府には議会がないという欠点がありました。一応、ドゥーマは完全に解散しておらず存在感を示そうとした時期もありましたが、ソヴィエトはこれに猛反発し、廃止提案を可決させます。
 一方で、憲法制定議会の準備は遅々として進みませんでした。
 
 ロシアの社会ではこれまで家父長的な原理が社会を覆っており、軍を始めとする秩序はそれに支えられていました。
 しかし、革命はこの家父長的原理を破壊しました。兵士を突き動かすのは「死地に赴きたくない、故郷に帰りたい、地主地の分割に参加したいという、極めて真っ当な要求のみ」(93p)だったのです。
 
 こうした動きに対して、カデットは「市民になれ」と訴え、他人の財産や権利を尊重するように求めました。メンシェヴィキやエスエルも民衆の反乱に寄り添いつつも、このカデットの呼びかけを否定したわけではありませんでした。
 そんな中で、民衆の反乱を全肯定してみせたのがレーニンの「四月テーゼ」でした。彼は混乱を恐れず、一気に社会主義革命まで突き進もとしたのです。

 多民族との自治や連邦制をめぐる協議でも臨時政府は杓子定規な対応に終始し、ウクライナとの交渉をきっかけカデットの大臣たちは連立を離脱します。
 7月になるとペトログラードの街頭はボリシェヴィキに指導された反政府デモで埋め尽くされますが、レーニンがドイツのスパイだという説が流れたこともあり、臨時政府が再び主導権を取り戻します。トロツキーやカーメネフは獄に繋がれ、レーニンは地下に潜伏しました。
 ボリシェヴィキはその勢いを失いましたが、この好機を臨時政府は活かすことができませんでした。
 メンシェヴィキとエスエルはブルジョワジー勢力との連立を模索し、政党としてのボリシェヴィキの活動を禁止しませんでした(134p)。
 ケレンスキーが首相に就任し、彼のカリスマに頼ることで自体の打開が目指されましたが、第二次連立政府も社会主義者と自由主義者のバランスを重視した構成になりました。

 この時、注目を集めたのが軍人のコルニーロフの存在でした。軍紀を回復し、6月攻勢で勝利を得た彼は7月には軍の最高司令官に就任します。コルニーロフのもと、戦闘地域では銃殺に寄る死刑が復活しました。
 ケレンスキーとコルニーロフは、首都ペトログラードを軍事総督府という特別な地域にし、戒厳令を敷くというプランで合意します(のちにケレンスキーはこれをコルニーロフの「陰謀」だとします(158ー160p))。 
 しかし、ケレンスキーとコルニーロフの間の仲介役をリヴォフが買ってでたことから、この計画は迷走します。余計な仲介で疑心暗鬼になったケレンスキーはコルニーロフを解任。ケレンスキーは臨時政府内で孤立します。 
 このケレンスキーの窮地を救ったのがソヴィエトで、ソヴィエトの動きによってコルニーロフは拘束されますが、それはボリシェヴィキの復活も意味していました。

 この後、事態は十月革命へとなだれ込んでいくわけですが、この時の状況について著者はナボコフの次のような言葉を引いています。
 ナボコフは『レーチ』紙上でこう書いた。代議機関や憲法のない共和国などというものは明確な国家形態であるはずがない。ここにあるのは「われらの動乱時代の大いなるフェティシズム、つまり言葉のフェティシズムである。われわれは言葉に捕らわれている。どれだけの言葉があることか!」(177p)

 9月25日、第3次連立政府が成立しますが、同じ日にペトログラード・ソヴィエトではボリシェヴィキが過半数を掌握。トロツキーが議長となります(189p)。
 そして十月革命で、ボリシェヴィキは軍事クーデタのような形で権力を掌握するのです。

 この臨時政府の挫折とボリシェヴィキの成功について、著者は「おわりに」で次のようにまとめています。
 臨時政府が状況を収拾するためには、(1)早期に戦争を終結する、(2)暴力によって徹底的に民衆の要求を抑え込む、のどちらしかなかった。前者を選ぶには臨時政府はあまりに西欧諸国と深く結びつき、その政治・社会制度に強く惹かれていた。後者を選ぶには臨時政府はあまりに柔和であった。(228ー229p)

 一方、ボリシェヴィキは「西欧諸国の政府との関係を断ち切ってもよいと考えるほどに、彼らは新しい世界秩序の接近を確信して」ましたし「いざ政権を獲得してからは、躊躇なく民衆に銃口を向けることができるだけの苛酷さをもっていた」のです(229p)。

 このように、この本はロシア革命をたどると同時に、極限状態での強圧的な権力の必要性やそれを生み出すことの難しさなど、さまざまなことを教えてくれます。
 政治とは本来、多くの人々の意見を調整することがその大きな役割ですが、革命の嵐が吹き荒れる状況の中では、自らの意見を強硬に貫き通す勢力が政治を支配することもあるのです。
 ロシア革命だけではなく、革命というものの本質を改めて考えさせる本と言えるでしょう。


ロシア革命――破局の8か月 (岩波新書)
池田 嘉郎
4004316375

岩崎育夫『入門 東南アジア近現代史』(講談社現代新書) 7点

 新書1冊で東南アジアのASEAN10に東ティモールを加えて11カ国の近現代史をたどるという欲張りな構成を持った本ですが、「多様性の中の統一」というキーワードのもと、うまくまとめてあると思います。
 もちろん、個々の国に関しては、「もう少しここがほしい」といった部分もありますが、東南アジアという地域のポイントを上手く押さえた内容に仕上がっています。

 目次は以下の通り。
序章 東南アジアの土着国家
第一章 ヨーロッパの植民地化――16~19世紀
第二章 日本の東南アジア占領統治――1941~1945年
第三章 独立と混乱――1945~1964年
第四章 開発主義国家と民主化――1960年代後半~1990年代
第五章 経済開発と発展――1960年代後半~2000年代
第六章 地域機構ASEANの理想と現実
終章 東南アジアとは何か

 目次を見ればわかるように、この本は国ごとの歴史を見ていくのではなく、時代ごとの東南アジアにおけるトレンドを押さえた上で、各国ごとの特徴を見ていく内容になっています。

 東南アジアはインドと中国という影響力のある文明圏の狭間にある地域であり、そのためインドや中国の強い影響を受けました。
 宗教に関しては、インドからの影響が強く、儒教が入ったベトナム北部を除くと、ヒンドゥー教や仏教といったインド発祥の宗教の影響を強く受けました。
 著者は植民地化される前の東南アジアの土着国家に関して、「インド化」、領域が曖昧な「マンダラ型国家」、貿易港を中心として栄えた「港市国家」という特徴をあげています(42-45p)。

 16世紀にポルトガルがインド、そしてマラッカに進出して以来、この地域は欧米によって植民地化されていきました。
 植民地化は2つの段階で行われ、最初は香辛料を始めとする一次産品の貿易を独占するために貿易に必要な港が支配されました。そして、18世紀の産業革命以降は、一次産品の栽培のために土地とヒトの支配が目指されました(61-62p)。
 マレーシアではゴム、フィリピンではバナナやパイナップル、インドネシアではコーヒーの栽培が進められ、いわゆるモノカルチャー経済が成立することになります。

 そして、この植民地化によって東南アジアの社会も変容していきます。
 一次産品の栽培がさかんになりましたが、すべての人がそれに携わったわけではなく、「近代経済の下で単純労働者として生活する住民と、伝統経済の下で自給自足の農業などで生活する住民が併存する状態」(75p)になりました。
 また、中国とインドから数多くの出稼ぎ労働者がやってきたことにより、東南アジアのいくつかの地域は「単一民族型社会から多民族型社会に転換」(76p)しました。
 さらに、植民地化の過程のなかで領域が策定され、その結果として多民族形社会になった例もあります。ミャンマーの場合、平原部のビルマ人と山岳部の少数民族の間で棲み分けが行われていましたが、イギリスが一つの植民地として扱ったため、多民族型社会に転換したのです(79-79p)。

 こうした欧米の植民地支配を終わらせるきっかけとなったのが、第2次世界大戦における日本による占領と統治でした。
 著者は、この占領下における「シンガポールの華僑虐殺」、「フィリピンでの捕虜虐待」、「泰緬鉄道建設労働者の強制徴用」といった蛮行に触れつつ、「日本の占領統治は、東南アジアの人びとが独立を意識する苦い学習機会」(100p)になったとまとめています。

 第2次世界大戦後、東南アジアの国々は独立していくわけですが、インドネシア、ベトナム、フィリピン、ミャンマーといった戦後すぐに独立した国と、カンボジア、ラオス、マレーシア、シンガポール、ブルネイといった比較的時間のかかった国に分かれました。
 この理由を著者は、「国民のあいだでどの政治社会集団が政権を担うのかが決まっていたかどうか」(105p)の違いだったといいます。
 日本の占領下の時代からインドネシアにはスカルノ、ベトナムにはホー・チ・ミンといった独立指導者がいたためにこれらの国は早期に独立しましたが、マレーシアでは王族の力が残っており、イギリスとの話し合いで独立が決まった後も王族(王族出身者)が政治に強い影響を持ちました。

 ただし、独立が達成されたとはいえ、東南アジアの歴史は血なまぐさいものでした。
 ベトナム戦争や、カンボジアにおけるポル・ポト派の虐殺がありましたし、インドネシアでは1965年の九・三〇事件をきっかけに華人に対する弾圧が行われ(華人の粛清はベトナムでも行われた)、またアチェの独立をめぐっても紛争が起きました。
 他にも1950年代後半から60年代前半にかけて、ボルネオ島をめぐってマレーシア、インドネシア、フィリピンのあいだで紛争が起こるなど、地域間の仲も必ずしも良くはなかったのです。

 このように不安定だった東南アジアの国々は、60年代後半から開発独裁というスタイルで社会を安定させるとともに経済を発展させます。シンガポールのリー・クアンユーやインドネシアのスハルト、フィリピンのマルコスなどが代表例です。
 開発独裁において、「経済成長は単なる経済営為にとどまらないで、社会の安定を確保し、かつ古い社会を変革するトータルな国家営為とみなされ」(152ー153p)、国家の主導によって経済開発が行われました。

 この開発独裁のスタイルが東南アジアで同時期に広まった理由として、著者はインドネシアの九・三〇事件をあげています。東南アジアの大国であるインドネシアが中国と断交し、開発主義に舵を切ると、他国でも中国の支援を受けた共産主義勢力が衰退し、それが開発主義国家の形成につながりました(155ー156p)。
 また、シンガポールという成功例の存在も影響を与えています。実現はしませんでしたが、ベトナムは1993年にシンガポールの首相を退任したリー・クアンユーに経済開発顧問への就任を要請しています(162ー163p)。

 しかし、この開発独裁は経済成長にともなって都市に中間層を生まれてくるとその限界を迎えます。86年のフィリピンの「黄色い革命」、92年のタイの「血の民主化事件」などがその代表例です。また、ミャンマーのように外圧によって民主化へと動いた国もあります。
 ただし、現在のタイが軍政下にあるように東南アジアの民主化は「未完」の状態だとも言えます。

 東南アジアはこの開発主義の時代に工業化しました。多くの国が経済発展のために工業化を目指しましたが、東南アジアの成功の秘訣は輸入代替型ではなく輸出志向型を目指したからだといえます。国内に市場を持たないシンガポールなどが輸出志向型で成功したことから、他の国も輸入代替型から輸出志向型へと転換していったのです。
 こうした経済発展を担ったのが、海外とのネットワークを持つ華人企業でしたが、その華人企業と政治家との癒着は東南アジア経済の問題の一つです(205ー208p)。

 また、この本では東南アジアの出稼ぎ労働者についてもとり上げられています。
 東南アジアの出稼ぎ労働者というと、域内から域外へという動きばかりに目を奪われますが、実は域内での移動もさかんです。タイはミャンマー、カンボジア、ラオスなどから大量の未熟練労働者を受け入れており、その数は3国合計で287万人(2014年11月)にのぼります。マレーシアにもインドネシアからの労働者が94万人(2013年)います(210ー211p)。
 もちろん、域外への動きもあり、特にフィリピンは中東などにメイドや建設労働者を送り出すとともに、専門技能者をアメリカなどに流出させています(212ー213p)。

 最後はASEANについて。現在、世界的にみても「成功」の部類に入る地域統合ですが、1967年にインドネシア、タイ、フィリピン、マレーシア、シンガポールの5カ国で結成された時は、ベトナム戦争においてアメリカを後方支援する同盟といった性格が強く(225p)、経済協力は名ばかりのものでした。
 その後、90年代にベトナムやミャンマーなどが加盟してASEAN10になるとともに、93年には「ASEAN自由貿易地域」(AFTA)が始まり、2007年には「ASEAN憲章」が合意されました。この時期にASEANの統合は急速に深まっていったのです。
 EUなどに比べると、ASEANのつながりは緩やかですが、民族や宗教の異なる東南アジアにおいてこの緩やかさが「多様性」を象徴するものであり、同時に人為的につくられたASEANという組織こそが、東南アジアの「統一(協調)」のシンボルだと著者はまとめています。

 スハルト後のインドネシアやマハティール以後のマレーシア、ASEAN加盟国同士の関係など、他にも知りたいことはいろいろあるのですが、新書で「東南アジア近現代史」という形式を考えれば十分にポイントを押さえていますし、読み応えがあります。
 まさに、「入門」として機能する本だといえるでしょう。

入門 東南アジア近現代史 (講談社現代新書)
岩崎 育夫
4062884100

宮本太郎『共生保障』(岩波新書) 6点

 著者は2009年の『生活保障』(岩波新書)おいて、雇用と社会保障を結びつけることで行き詰まりを見せつつある日本の社会保障の再編を提唱しました。この本はお手本となるスウェーデンモデルの問題点なども指摘した非常に面白い本だったと思います。
 それから7年ちょい、著者自身も民主党政権での内閣府参与、野田政権下での三党合意のもとで設置された社会保障制度改革国民会議でも委員を務めるなど、政策形成の場に携わってきたわけですが、社会保障制度の行き詰まりが解消されたとは思えません。
 そんな現状に対して、「支える側」と「支えられる側」の二分法をこえた「共生」によるアプローチによって普遍主義的な福祉の再構築を提唱した本。
 理念や実戦の紹介としては悪くないですが、政策的な処方箋という点からするとやや不満も残ります。

 目次は以下の通り。
第1章 制度はなぜ対応できないか
第2章 共生保障とは何か
第3章 共生の場と支援の制度
第4章 社会保障改革のゆくえ
第5章 共生という価値と政治

 かつての日本は、一家における男性の稼ぎ手に立場が比較的安定しており、その男性が社会保障制度の支え手となり、老人のみの世帯や母子家庭など男性の稼ぎ手がいない世帯は支えられる側として福祉を受けていました。
 また、住宅や子育てに関する費用なども、企業の手当や住宅ローン減税などを通して供給されることが多く、国が直接国民を支えるしくみは手薄でした。

 ところが、男性稼ぎ手の雇用が不安定になり、少子高齢化が進んだことで、このしくみは行き詰まります。「支える側」の生活が不安定になり、「支えられる側」が増加したことで、「支える側」と「支えられる側」の二分法を前提としたしくみは持続が難しくなってきたのです。
 また、特定のカテゴリーの弱者を救うための制度の間に落ち込み、適切な支援を受けられない人々も出てきました。

 そこで著者が打ち出すのが「共生保障」という考えです。
 ポイントは3つで、1つ目は「支える側」を「強い個人」とは見なさずに必要に応じて支え直すこと、2つ目は「支えられる側」に就労や社会参加の機会を提供すること、3つ目は共生の場を作り出すと同時に、補完型の所得保障を広げることです(47p)。

 この「共生保障」という考えは、現在、安倍政権の推進する「一億総活躍社会」の考えと近いようにも見えますが、著者は「一億総活躍」が一般的就労をゴールとして強調している点を問題とし、「共生保障」では、就労がゴールではなく、問題があったらケアを受け、再教育が受けられるような入退出がしやすい社会を目指すとしています。

 こうした「共生」の実践例としてまずとり上げられているのが、秋田県藤里町の事例です。
 藤里町は人口3600人ほどの町ですが、2010年の調査によってひきこもり状態の町民が113名もいたことから(68p)、その対策に乗り出しました。この「ひきこもり」というのは必ずしも障害者というわけではありませんし、母子福祉や高齢者には引っかからない存在です。まさに制度の間に落ち込んでしまう存在なのです。
 藤里町では、こうした「ひきこもり」だった人々へ就労機会を積極的に提供し、特産品の通信販売などにもつなげました。彼らを単純に「支えられる側」だと規定しないことによって彼らの潜在能力を引き出したのです。

 他にもいくつかの事例が紹介されていますが、著者がキーポイントだと考えるのがユニバーサル就労の考え方です。
 ユニバーサル就労とは、「障害や生活困窮など、働きがたさを抱えていた人々が、支援を受けつつも多様なかたちで働くことができる新しい職場環境」(82p)のことで、こうしたかたちを支援していくことが、「支える側」と「支えられる側」の二分法を乗り越えることになるといいます。

 次に共生型ケアがあげられています。共生型ケアとは「福祉のなかから当事者同士の支え合いをつくりだし、部分的には支援付き就労にもつなげていく試み」(106p)で、例えば、高齢者と障害者、障害児などが一つの施設でケアを受けつつ、互いに支援し合うようなやり方です。
 また、こういった仕組みを誘発するための、建物づくりや地域づくりも重要です。

 さらに補完型所得補償の必要性も主張されています。
 現在の社会保障は代替型が多く、例えば雇用保険は失業することではじめて受給資格を得ます。しかし、これでは低賃金で働いている人を支援することはできません。この問題を解決することができるのが、一定以下の所得の場合にその不足分を給付する補完型所得補償です。
 他国でも導入されているのが給付付き税額控除で、アメリカでは「勤労所得税額控除」というかたちで行われています。アメリカでは、「2016年の段階で、たとえば子ども二人を育てる夫婦で5万198ドルまでの所得に対して、最高額で5572ドルまでが給付される」(125p)ようになっています。アメリカというと低福祉の国としていいられていますが、著者は「600億ドルを越える給付付き税額控除が給付されている事実は、再認識されてよい」(125p)と述べています。

 この本ではさまざまな取組が紹介されており、補完型所得補償を除いては日本でもいくつかの実践例があります。
 しかし、現在の日本において、このような誰でもが受益者となるような社会保障の普遍主義への転換がうまく進んでいるとはいい難い状況です(著者は2000年から導入された介護保険などを普遍主義の例としてあげていますが、全体として著者の理想に近づいているとはいい難いとしている(151-153p))。

 その理由として著者は「三重のジレンマ」をあげています。
 1つ目は「本来は大きな財源を必要とする普遍主義的改革が、成長が鈍化し財政的困難が広がるなかで(その打開のための消費税増税の理由づけとして)着手されたこと」、2つ目は「自治体の制度構造は「支える側」「支えられる側」の二分法に依然として拘束されている」こと、3つ目は「救貧的福祉からの脱却を掲げた普遍主義が、中間層の解体が始まり困窮への対処が不可避になるなかですすめられた、という逆説」です(153-154p)。

 介護保険をはじめとして日本の普遍主義的改革は、準市場的なかたちで進められました。「こうした準市場型の普遍主義は、包括的なサービスを柔軟に提供するという点では、共生保障の条件としてはむしろ好ましくすらある」(155p)のですが、保険料の高騰と自己負担の引き上げは、貧しい人々を排除するしくみにつながります。また、逆進的な社会保険料が上がり続けている状況は、低所得者の負担感を大きくしています。
 これに対して著者は、遺領福祉サービスの自己負担について上限を設ける総合合算制度を提案しています。「たとえば、世帯所得の10%といった上限を決め、それを超える分は公費負担とする」(170p)のです。

 2000年代後半の福田政権~民主党政権時に、「社会保障と税の一体改革」が行われました。これも普遍主義を目指す改革であり、「全世代型の社会保障」が目指されました。
 しかし、これも十分な成果を上げたとはいい難い状況です。実際、消費税が5%から8%に引き上げられたことによって8.2兆円の財源が生まれたものの、既存の社会保障の穴埋めに3.4兆円、基礎年金の国庫負担割合を二分の一にするために3.1兆円が使われ、社会保障の強化に使われたのは1.35兆円にすぎません。社会保障の強化のために増税されたものの、社会保障が充実したという実感は育たなかったのです(179-180p)。

 著者はそうした中で成立した生活困窮者自立支援制度を、共生保障の考えに重なるものとしてある程度評価していますが、同時に「これまで普遍主義的改革を困難にしてきた財政的制約や自治体制度の壁を簡単には突き崩せないでいる」(186p)としています。

 ここまでが第1章〜4章までの内容。これを受けて第5章では、今後の展望が述べられているわけですが、ここが物足りなく感じます。
 例えば、「共生の可視化」ということが語られているのですが、例としてあげられているのが徳島県の上勝町のゴミ分別の話。上勝町ではゴミ収集車が走っておらず、町民が34種類に分別しゴミステーションに持ってくるそうです。これによってゴミ処理費用が抑制され、ステーションでの立ち話も増え、人々の間のつながりを強めたとのことですが(203ー204p)、都市部の共働き世帯がこれをやられたら悪夢ですよね。農家を含む自営か専業主夫のいる世帯でないと成り立たない仕組みでしょう。

 218pに「地域では、人々の支え合いを支え、共生を可能にしようとする多様な試みが広がっている。しかし、こうした動きは「好事例」に留まり大きな制度転換にはつながっていない」との記述がありますが、この本ではその制度転換のためのロードマップを示して欲しかったです。
 もちろん簡単なことではないでしょうが、この本で参照されているアンソニー・B・アトキンソン『21世紀の不平等』は具体的な政策提言に満ちた本でしたよね。

 社会保障の現在地点を確認する上では悪くない本だと思いますが、将来への展望に関してはやや不満が残りました。

共生保障 〈支え合い〉の戦略 (岩波新書)
宮本 太郎
4004316391

今井宏平『トルコ現代史』(中公新書) 7点

 シリア内戦、ISの台頭とISの引き起こすテロ、ヨーロッパの流れこむ大量の難民、こうした問題が中東とヨーロッパで起こっていますが、その中東とヨーロッパをつなぐ存在であり、またこれらの問題のキープレーヤーでもあるのがトルコ。
 この本はそんなトルコの共和国建国から現在にいたるまでの歴史を辿った本です。トルコの政治家といってもムスタファ・ケマルと現在のエルドアンくらいしか思い出せない人も多いと思いますが、そのケマルとエルドアンの間を埋めることで、現在のトルコが抱える内政・外交上の問題が見えてきます。

 目次は以下の通り。基本的にまずは内政について述べ、ついでその時代の外交をまとめるという構成になっています。
序章 トルコはいま、何を目指しているのか
第1章 トルコ共和国の国家建設
第2章 複数政党制下における混乱
第3章 冷戦期のトルコ外交
第4章 トゥルグット・オザルの時代
第5章 迷走する第三共和政
第6章 公正発展党の台頭とその政権運営
第7章 安定を模索する公正発展党
第8章 トルコと日本の関係
終章 建国一〇〇周年を見据えて

 第一次世界大戦において同盟側だったオスマン帝国は、戦後の1920年に結ばれたセーヴル条約によって完全に解体されようとしていました。
 そんな中でトルコを守るために立ち上がったのが建国の父・ムスタファ・ケマルです。彼はアナトリアからギリシャ軍を駆逐し、ローザンヌ条約によってトルコの独立を認めさせ、初代の大統領となりました。

 そのケマルが打ち出したのが、「共和主義」、「民族主義」、「人民主義」、「国家資本主義」、「世俗主義」、「革命主義」という6本の矢でした。
 ケマルはこの理念のもとトルコの近代化を進めましたが、「民族主義」は少数民族であるクルド人のアイデンティを抑圧しましたし、「世俗主義」は経験なイスラム教徒の多い民衆とエリートの齟齬を生みました。また、「革命主義」は、その後の政軍関係に影響を与えています。

 トルコにドラスティックな改革をもたらしたケマルですが、1938年に57歳の若さで死去してしまいます。その後を継いだのは、独立戦争において活躍したイノニュでした。
 イノニュは第2次世界大戦という難題に直面しますが、トルコは「現状維持」を第一に、1939年から42年まで、イギリス・フランス・ドイツ・ソ連との間に全方位外交を展開します(39p)。トルコは注意深く中立を保ち、大戦末期に連合国側に加わりました。

 戦後すぐ、トルコは一党制を放棄し、複数政党制に移行します。これは、当時の支配政党であった共和人民党内部での内輪もめと、ソ連の脅威に対抗するために西側陣営の一員となったことから民主化をアピールする必要があったためだといいます(43-44p)。
 1946年の総選挙では共和人民党が勝利したものの、50年の選挙では新しく結成された民主党が圧勝。アドナン・メンデレスが首相となります。

 メンデレスは地方経済の活性化を目指すとともに政教分離を緩め、広く民衆の支持を得ようとします。
 しかし、こうした動きやイノニュへの執拗な批判は軍の反発を呼び、1960年5月27日のクーデタによって、トルコには軍政が敷かれることになりました。
 1961年に憲法が制定され、トルコは再び民生に復帰。イノニュが首相に返り咲きます。

 この後、1960年代後半~70年代にかけてはイノニュの後継者である共和人民党のエジェヴィトと公正党のデミレルが中心となって政治が動きます。
 彼らはトルコの民主化を推進しましたが、デミレルとエジェヴィトの「双方がポピュリストであったことが、皮肉にも政治の不安定かと治安悪化の原因となり、軍部の武力行使による新たなクーデタを引き起こすことにつながっていく」(69p)のです。

 外交では、第2次大戦後、トルコは西側陣営への傾斜を強め、朝鮮戦争へは4500人を派兵。その貢献もあって1952年にNATOへ加盟します(82p)。
 しかし、1964年のトルコのキプロス派兵によるアメリカとの関係は悪化します。さらに1974年の第2次キプロス紛争が起こると、アメリカのフォード政権はトルコへの軍事援助と軍備品の売却を停止し、対米関係は悪化しました(99p)。

 1980年9月12日、治安の悪化などを理由に軍がクーデタを起こします。そして新しく1982年憲法がつくられました。
 この憲法の一つの特徴が総選挙における10%の足きり条項です。この足きり条項(阻止条項)はドイツでも採用されていますが、その基準は5%。トルコの10%は非常に高い数字と言っていいでしょう。
 この新しい制度のもとで政権を担当することになったのが祖国党のトゥルグット・オザルです。

 オザルは新自由主義的な経済政策を推し進めるとともに、「トルコ-イスラーム統合論」によって政教分離に抵触しない範囲でイスラームを正当化しました。
 また、外交面では親米政策を取り、大統領として迎えた1989年の湾岸危機では、ほぼ独断で多国籍軍のトルコの基地使用を認めました。
 また、オザルは祖母がクルド系で、「クルド問題」をはじめて議題としてとり上げた政治家でもありました(131p)。そして、湾岸戦争後のイラクでのクルド人難民の発生はトルコ国内のクルド人問題にも影響を与えていきます。

 しかし、そのオザルが1993年に急逝するとトルコの政治は再び不安定化します。首相にはデミレルの後継者である正道党(公正党の後身)の党首で経済学者でもあった女性のチルレルが就任しましたが、チルレルは、どちらかというと地方や保守的立場を代表していた正道党のリーダーでありながら、新自由主義的な政策を志向します。この正道党の新自由主義家は親イスラーム政党の台頭を招きました。
 また、クルド人問題についても解決の道筋は見えず、オジャラン率いるPKKが海外で戦闘員を育成し、テロ活動を繰り返しました。

 そうした中で、親イスラームの福祉党が1994年の地方選挙や95年の総選挙で躍進(エルドアンも94年にイスタンブル市長に当選している(169p))、96年には福祉等の党首のエルバカンが首相となります。
 ところが、この台頭は軍部の警戒感を招き、98年に福祉党は解党されます。99年からはエジェヴィトが首相となり、02年まで政権を担いますが、00年と01年には経済危機が起こり、ハイパーインフレが発生しました。

 この危機を受けた02年の総選挙で大勝したのがエルドアン率いる親イスラームの公正発展党です。
 実はこの総選挙では、正道党や民族主義者行動党といった既成の有力政党が10%の壁を突破できず、得票率34.29%の公正発展党が363議席、得票率19.38%の共和人民党が178議席を獲得して、他には独立候補が9席という結果になりました(188p)。  
 既成政党に有利なはずだった10%の足きり条項が新しく発足した公正発展党に大きな力をもたらしたのです。

 この本ではエルドアン以外にも、ギュル、アルンチ、チチェク、ダーヴトオール、ババジャンといった公正発展党躍進の立役者を紹介しています(190-203p)。
 これを読むと、当初の公正発展党がエルドアンのワンマン政党ではなかったことがわかると思いますし、大学教授でトルコ外交を分析した著作を持つダーヴトオールやアメリカでMBAを取得したババジャンなど、政権運営に必要な人材を持つ政党であったことがわかります。
 また、初期は現在弾圧の対象となっているギュレン運動の後押しも受けていました(203-204p)。

 公正発展党は経済危機の立て直しに成功し、国民からの支持を固めていきます。07年、ギュルが大統領になろうとすると、軍がこれを牽制しますが、その後の前倒しされた総選挙で公正発展党勝利を収め、ギュルが大統領になります。
 2010年には憲法の一部を改正し、軍の特権を制限します。軍部の影響力は失墜していくのです。

 経済的にも安定したトルコはG20のメンバーとなり、その存在感を増していきます。
 外交も、ダーヴトオールの提唱した「中心国」の概念のもと、地域の「大国」として中東地域を安定させようとしました。
 しかし、この外交は「アラブの春」を機に軌道修正されます。今までの「現状維持」を捨て、権威主義国家との関係を許容しない「現状打破」へと動くことになるのです(237p)。そして、この軌道修正はトルコを不安定化させました。

 特にシリア内戦において、トルコは当初アサド政権の退陣を求めたものの、アメリカの不介入の方針もあって、ISの台頭、ISに対抗するために存在感を増したクルド人の武装組織、さらにはロシアの介入と、トルコにとって厄介な事態を次々と引き起こしています。
 また、シリアからの難民は2016年12月の時点で約279万人がトルコに流入しており(290p)、たとえシリア内戦が終わってもすべてが帰国するとは思えません。このシリア難民の統合はトルコの民族主義にとって大きな問題となるでしょう。
 また、PKKとの和平交渉も現在は頓挫しており、現在68歳のオジャランが存命中に和平を達成できるかがひとつの鍵となります(250p)。

 2013年にはイスタンブルでの公園の再開発をめぐって市民が抗議した「ゲズィ抗議」が、2016年7月にはクーデタ未遂が起こるなどエルドアンに反発する人々もいますが、今のところそれをエルドアンが力で抑えている状況です(クーデタについてはギュレン運動との絡みも解説してありますが(294ー295p)、この公正発展党とギュレン運動の関係はいまいちよくわからない面が残る)。

 ここではあまり外交について書かれた部分には触れませんでしたが、各時代のトルコの外交が抑えられていますし、日本とトルコの関係については1章を割いています(第8章)。また、コラムでトルコの財閥やオルハン・パムクなどについて紹介されており、政治面以外からも光を当てようとしています(サイド・ヌルスィーについてのコラムはなぜこの位置にこのコラムがあるのかいまいち謎なのですが)。  
 トルコという国を知るのに便利で有益な1冊となっていると思います。

トルコ現代史 - オスマン帝国崩壊からエルドアンの時代まで (中公新書 2415)
今井 宏平
412102415X

藤澤房俊『ガリバルディ』(中公新書) 7点

 イタリア建国の英雄・ガリバルディの評伝。存命中から「神話」に彩られていた人物ですが、この本ではできるだけそうした「神話」を排しながら、「人間」としてのガリバルディを描こうとしています。
 ということもあって、比較的オーソドックスな評伝なのですが、それでもドラマ性に溢れ、「神話」を帯びてしまうのがガリバルディの生涯。非常に面白く読める評伝に仕上がっています。

 ガリバルディは1807年に当時フランス領であったニースに生まれています。イタリア建国の英雄として知名度抜群のガリバルディですが、その前半生は謎に包まれています。
 史料となるのは、ガリバルディ自らが書いた『回想録』だけであり、南米にわたるまでの30年についての記述は20ページにも満たないものです。また、本人の創作と思われる部分もあり信憑性は乏しいです(17p)。

 最近の研究によるとガリバルディは一時期、短期間ではあるもののジェノーヴァの宗教学校で学んだことがあり、何らかの理由で学校をやめ、船乗りの世界に入ったようです。

 この船乗りの時代に、母語とも言えるイタリア語とフランス語の他にスペイン語とポルトガル語を学び、英語やドイツ語にもある程度通じるようになったとのことです。
 ガリバルディはこの船乗り時代に、サン・シモン主義とイタリアの祖国統一をめざすマッツィーニ主義に出会います。マッツィーニの思想に感化されたガリバルディは、その後サルデーニャ海軍に入隊しますが、マッツィーニの結成した「青年イタリア」の計画したサルデーニャ軍兵舎襲撃計画に関わったとされ死刑判決を受けていることを知り、南米へと旅立ちます(この経緯はいまだによくわかっていない部分が多いようですが、ガリバルディが海軍を脱走し襲撃に加わろうとしたものの途中で計画の失敗を知り、そのまま逃亡したのではないかという解釈が一般的だそうです(28-30p)。

 南米に渡ったガリバルディはしばらく船を使った食料品の販売などを行っていましたが、ブラジル南部でリオ・デ・スール共和国の分離独立運動が起こると、イタリア人の仲間ともにこの運動に参加します。そして、この戦いに参加する中で名を上げるとともに、妻になるアニータとの運命的な出会いを果たします。

 その後、リオ・デ・スール共和国の情勢が厳しくなると、ガリバルディはウルグアイに移動し、ここでイタリア軍団を結成してアルゼンチン軍と戦います。
 このイタリア軍団の制服がのちにガリバルディの代名詞ともなる赤シャツでした(赤なのは血の色が目立たない食肉加工職人用のシャツの在庫を安く買い取ったため(44p))。また、この時期にガリバルディはフリーメイソンの会員にもなっています。

 1846年2月、サン・アントーニオ・デル・サルトの戦いで、ガリバルディの軍はわずか180人でアルゼンチン軍を撃退します。この勝利をウルグアイ政府が宣伝したこともあってガリバルディは一躍「英雄」となり、その名はヨーロッパにも伝わることになります。
 そして、1848年、死刑判決も時効となっていたガリバルディはイタリアへと帰国するのです。

 ガリバルディの帰国した1848年には、ヨーロッパで革命の嵐が吹き荒れた年でその影響はイタリアにも及んでいました。ガリバルディがニースに到着した6月はオーストリアとの戦争のさなかで、戦士として名の知られていたガリバルディには期待が集まりました。
 独立戦争自体は、サルデーニャ軍がオーストリア軍に敗れ、8月には休戦協定が結ばれました。しかし、ガリバルディは義勇兵を率いて戦場を求め、ローマ共和国の防衛に向かいます。
 教皇ピウス9世の呼びかけもあって、誕生したばかりのローマ共和国はルイ・ナポレオンのフランス軍から攻撃を受けます。ガリバルディはフランス軍を撃退しますが、戦線を拡大しようとするガリバルディとそれを抑えようとする共和国の首脳と対立し、最終的には圧倒的な物量をほこるフランス軍の前に敗北。敗走の中で妻のアニータも亡くなりました。

 失意のガリバルディはニューヨークへと渡り、貿易などに従事したあと、1855年にサルデーニャ島の近くにあるカプレーラ島の一部を購入し、晴耕雨読の日々を送ろうと考えました。
 1850年代前半になると、イタリア統一運動(リソルジメント運動)の中心は、マッツィーニのような革命家からサルデーニャ王国へと移っていきます。猪突猛進的な行動の目立つガリバルディですが、「大きな流れ」を見る目は確かで、イタリア統一にはサルデーニャ王国が中心になるしかないと見ていました。

 そして、そのサルデーニャ王国では、カヴールの深謀遠慮の計画が動き始めます。カヴールはオーストリアに勝つため、ナポレオン3世のフランスと手を結び、ガリバルディの故郷のニースなどを割譲するを密かに約束しフランス軍の支援を引き出します。
 1859年1月、カヴールはガリバルディに義勇兵の訓練を行うように依頼し、将軍の地位を与えます。さらにこの時、ガリバルディは国王のヴィットーリオ・エマヌエーレ2世にも謁見しており、この後、ガリバルディはこの国王に忠誠を尽くすことになります。

 1859年4月に始まった第二次独立戦争は、サルデーニャとフランスの連合軍が勝利をおさめるものの、ナポレオン3世がサルデーニャの頭越しにオーストリと講和してしまったことにより、中途半端な形で終結します。
 ガリバルディは主戦場以外の各地を転戦して勝利を重ねて名声を高めますが、結局、この第二次独立戦争は、中部イタリアの諸邦はサルデーニャ王国とフランスへのニースとサヴォイアの割譲によって幕を閉じます。この生まれ故郷のニースの割譲は、ガリバルディにとって「あらゆるものが私を打ち砕き、打ちのめす」(113p)と記すほどのものでした。
 しかし、ガリバルディはここで反乱を起こしたり腐ったりせずに、イタリア統一のためにもう一度立ち上がります。

 南イタリアのスペイン・ブルボン王家が支配する両シチリア王国で蜂起の火の手が上がると、ガリバルディはシチリア遠征を決断します。いわゆる千人隊の誕生です。
 千人隊は防備が手薄だったシチリア島の西岸に上陸し、進軍を開始します。無謀にも思えたガリバルディの行動でしたが、シチリアではピッチョッティと呼ばれる大地主の私兵を加え勢力を拡大させます。

 1860年5月15日、カラータフィーミの戦いでブルボン軍約1800と千人隊約1200が激突します。千人隊は32人の死者、ブルボン軍は30人の死者を出しますが、ブルボン軍が撤退したことにより、戦いは千人隊の勝利に終わります。この本を注意深く読んでいくと、ガリバルディの戦いは敵よりも多くの犠牲者を出しながら踏みとどまって勝利を勝ち取るという戦いが多いですね。
 この後、勢いになったガリバルディはパレルモを攻略、7月20日のミラッツォの戦いでも勝利をおさめるとシチリア全土を制圧します。
 
 このガリバルディの快進撃に対して、カヴールは南イタリアに共和主義政権が誕生することを恐れ、ガリバルディの動きを止めようとします(このあたりの記述(143-145p)あたりは少しわかりにくい)。
 その後、ガリバルディはイタリア半島に上陸し、9月7日にはナーポリへの入城を果たし、ヴォルトゥルノ河畔の戦いで再びブルボン軍を破ります。
 シチリアとイタリア南部に関しては、議会によりその帰属を決めるか、住民投票でサルデーニャへの併合を決めるかで対立がありましたが、ガリバルディはこうした政治的な問題をうまくさばくことができず、結局は住民投票によるサルデーニャへの併合が決まります。
 ガリバルディはテアーノでヴィットーリオ・エマヌエーレ2世と会見、ガリバルディは「ここに、イタリア王がおられる!」と叫び、イタリア統一を劇的に演出します(156p)。
 ガリバルディのシチリア遠征は想定外の出来事の連続でしたが、カヴールはそれを巧妙に着地させることに成功したのです。

 この一連の戦いによって、ガリバルディはひとりの人間をこえた「統一」や「解放」のシンボルとなりましたが、乱世にこそ輝くその才能はイタリア政府によっては厄介な存在ともなりました。
 ガリバルディには、南北戦争における北軍司令官の要請がアメリカから届きますが、奴隷制廃止が確約されなかったこと、最高司令官ではなかったことなどからこれを断っています。
 そして、その後のガリバルディはイタリアの完全な統一のために残っていたオーストリア支配地域やローマの解放を目指して義勇兵を組織しては政府軍に阻止されるということを繰り返します(1866年の第三次独立戦争では政府の命を受けて戦う)。
 1867年のメンターナの変ではローマの解放を目指すもののフランス軍の前に敗北。イタリアにおける革命家としてのガリバルディの戦いは終わります。

 しかし、その後の普仏戦争時に第三共和政のフランスのために立ち上がっているのがガリバルディの偉大というか面白いというかなんとも言えないところ。
 ガリバルディは義勇兵を組織し、ディジョンの戦いで戦力において圧倒的に優勢だったプロイセン軍を退けます。結局、他のフランス軍はプロイセン軍に一蹴され、普仏戦争は終結します。ガリバルディはパリでルイ・ブラン、ヴィクトル・ユゴー、ガンベッタにつづき4番目で議員に選出されますが、これを辞退しています(208p)。
 そして1882年6月2日に74歳で息を引き取ります。盛大な規模の国葬が行われ、ガリバルディは「祖国の英雄」としての地位を不動のものとしました。

 この本ではガリバルディが日本で西郷隆盛と比較されたことがとり上げられています。確かに革命において果たした役割の大きさ、民衆からの人気、富や栄誉を求めない姿勢などは共通していま。
 けれども、やはりガリバルディの生涯のほうがずっと「明るい」ですね。この本で紹介されている、52歳の時に18歳の侯爵令嬢と結婚したらその娘に愛人が二人いることが発覚して笑いものになったというエピソードなど(114ー115p)、少し間抜けな面もあり、それでいて時代の大きな流れを掴んでいるという点が西郷とは違う点でしょう。

 このように「人間」としてのガリバルディがバランスよく描かれている評伝になっていると思います。個人的には、ガリバルディの軍人として評価などがもう少し知りたかったというのはありますが、ガリバルディの生涯の面白さが素直に伝わってくる本です。


ガリバルディ - イタリア建国の英雄 (中公新書)
藤澤 房俊
4121024133
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