山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期

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大澤武司『毛沢東の対日戦犯裁判』(中公新書) 6点

 戦犯というと、まずは東京裁判で裁かれた東条英機らのA級戦犯が思い浮かびます。しかし、人数が圧倒的に多かったのはBC級の戦犯であり、彼らは日本だけでなくフィリピンやシンガポールなどの各地で法廷で裁かれ、約1000人が処刑されました。
 また戦犯の扱いに関しては、蒋介石の「以徳報怨」(徳を以って怨みを報ず)路線などを思い起こす人もいるかもしれません。
 一方、中華人民共和国に日本人の戦犯が抑留されていたという事実を知る人は少ないでしょう。そんな、知られざる事実と、戦犯らが日中両国にとってどのような存在であったのか、帰国した戦犯のその後などを描いたのがこの本になります。

 目次は以下の通り。
第1章 中国の虜囚―一五二六名の戦争犯罪人
第2章 思想改造―抵抗から受容へ
第3章 戦犯の政治利用―日本への秋波
第4章 日本人戦犯裁判―「寛大」処理の裏側
第5章 帰国後の戦犯たち―毛沢東思想の伝道と中帰連
終章 「毛沢東の対日戦犯裁判」とは何だったのか

 戦後、中国を掌握したのは中華民国であり、多くの日本人戦犯はその下で裁かれました。
 しかし、ソ連に捉えられシベリアに抑留されていたグループと、山西省の閻錫山(えんしゃくざん)に協力して国共内戦に参加していた日本軍将兵は別でした。前者はソ連から成立した中華人民共和国のもとに送られ、後者は山西省で激しい戦闘を行ったあと捉えられました。収監された場所から、前者は「撫順組」、後者は「太原組」と呼ばれました。
 他にも河北省の西陵農場で「労働改造」を施されていた日本人の中にも、後に戦犯とされた者がおり(「西陵組」)、毛沢東の手に握られていた日本人の戦犯は合わせて1526名でした(4p)

 この本では閻錫山に協力した経緯なども説明されているのですが、脅しや謀略によって日本軍の協力を引き出そうとする閻錫山もひどいですし、残留を煽った第一軍の元参謀長山岡道武とか第一軍司令官という責任者の澄田らい四郎らがいち早く帰国しており、これまたひどいです。

 シベリアから送られてきた「撫順組」では、中国で「戦犯」扱いされることに大きな抵抗があり、第59師団長の藤田茂は「お前たちは国際法を踏みにじった。国際法では戦争が終わったなら直ちに捕虜を送還しなければならない」と抗議しました(49p)。
 しかし、一貫して日本の戦犯への厳重な処罰を主張していた共産党にとって国民政府とは違った形で戦犯を裁くことは必要不可欠だと考えられており(国民政府は敗色濃厚となった1949年1月に岡村寧次元支那軍総司令官ら戦犯260名を日本に送還している(48p))。

 このため日本人戦犯の取り扱いに関しては周恩来から直接指示が出ており、国家の最高レベルの意思決定をもとに、戦犯に対して人道的待遇を行うとともに「認罪」という学習と反省を行わせようとしました。
 看守には日本人に家族を殺されたものも多かったのですが、上層部は繰り返し人道的待遇を行うように指示しています。
 学習では、日本の兵卒が日本の帝国主義の犠牲者であること認識させ、その上で自らの罪業を「担白」(告白)させることに重きが置かれました。
 しばらくすると、日本の戦犯の中から担白するものが相次ぎ、皆の前で老人や子供、妊婦までを銃剣で殺したという告白を泣きながら行うもの者も現れました(67-72p)。こうして尉官級以下の戦犯の多くが自らの罪を告白していくことになります。
 一方、将官佐官級の取り調べに関しては難航しましたが、徹底的に調査を行い、それを突きつけていくことで「認罪」を迫っていきました。

 「太原組」「西陵組」では、太原陥落直後に逮捕された日本人は意外と少なく、張作霖爆殺事件の首謀者とされる河本大作も太原陥落2日後に逮捕されています(76p)。
 太原においても、戦犯への人道的待遇がなされ、そして「認罪」が目指されました。

 日本人戦犯は日中交流のためのカードとしても利用されました。
 毛沢東は「以民促官(民を以って官を促す)」を掲げ、民間交流から日中関係を前進させようとしましたが(88p)、その時の交流のきっかけとして使われたのが日本人戦犯でした。
 中国側は対日政策の司令塔に廖承志をおき、中国紅十字会と日本赤十字社とのパイプを使って日本に対する働きかけを行います。
 1954年には「西陵組」の417名の釈放を決定し、日本へと帰国させます。戦犯は民間交流を進めるカードとしても使われたのです。

 1955年以降、中国は戦犯の起訴準備を本格化させます。量刑に関しては、現場では死刑を含む重い刑を望むものが圧倒的でしたが、党中央は死刑や無期刑を排除、最終的には周恩来の支持によって現場を押さえ込みます(111p)。また、周恩来は起訴状の一部の字句修正なども行っており(129p)、日本人戦犯に対する裁判がいかに重大事であったかがわかります。

 最終的に起訴されたのは45名。それ以外の1000名近くは釈放されました。これらの人々は1956年以後、順次帰国していくことになります。
 45名は特別軍事法廷で裁判を受けましたが、著者はこの裁判について「裁判の開廷前にすでに徹底的な量刑議論が完了し、「有罪」かつ「刑期ありき」の判決文が確定していた毛沢東の戦犯裁判は、法的手続きがいかに慎重であろうが、やはり一種の劇場型の戦犯裁判であったといえる」(151p)と述べています。
 
 45名の戦犯は最高懲役20年~懲役8年までの判決を受け、撫順戦犯監獄に収監されました。そこでは、マルクス主義の学習や生産活動への参加、そして自己批判・相互批判などが求められました(164p)。彼らは順次釈放され、東京オリンピックの1964年の3月までにすべての戦犯が釈放されました。

 後半の第5章で描かれるのが帰国した戦犯たちの姿です。
 しかし、帰国した彼らは、「中共帰り」、「洗脳」といったレッテルを貼られ偏見にさらされまししたし、政府による待遇も満足できるものではありませんでした。彼らは「中国帰還者連絡会」をつくり、会員間の互助や日中友好を目指しました。

 1957年3月に光文社から『三光』という中国戦犯の手記を中国から持ち込み編集した本が出版されると、その衝撃的な内容は社会に大きなインパクトを与えました。
 中帰連によって、自分たちの体験や罪行を公表することが「有効な「反戦平和」の手段」(184p)と認識させた出来事でもありました。
 こうした中で、中帰連は「政治化」していき、1960年の中帰連第二回全国大会では、規約の「目的」から、「親睦」「相互援助」「補償要求」が外され、平和と日中友好が前面に押し出されました。このとき、最高裁長官田中耕太郎の実弟で当時東京地裁の判事だった飯守重任(いいもりしげとう)は、その「反動的」な思想ゆえに除名されています(193ー195p)。

 しかし、会の求心力を保つには「補償要求」は欠かせないもので、その後も活動の中心となりました。理事長であった国友俊太郎は「補償要求運動は認罪の精神と対立する」として、補償要求運動への反対の姿勢を示し、会を「純化」させようとしましたが、地方からは批判が相次ぎます。
 さらに中国本土で起こった文化大革命は中帰連を分裂させ、その後の政治情勢の変化は中帰連のメンバーの思惑を超えた形で進みます。1972年に中帰連の会長であった藤田茂らが中国を訪問しますが、周恩来は招待にあたって「感謝する」「お詫びする」などの言葉を絶対に口に出さないでほしいと伝えてきたそうです。これは「認罪」思想に基づき、中国人民への「謝罪」と「感謝」を尊んできた彼らにとって、その基盤が掘り崩されたようなものでした(219p)。

 その後、会員の高齢化とともに会の活動は低調化し、1995年に藤岡信勝の『三光』などへの批判に対する半批判で一時期活性化するものの、2002年に中帰連は解散しています。

 このように、あまり知られていない歴史の事実に日本側と中国側双方から光を当てた内容になっています。
 ただ。構成としては中国側の動きを中心に叙述する前半と、帰国後の戦犯の動きを描いた後半でばらけてしまっている印象はあります。後半のことを考えると、この本の隠れた主人公ともいうべき国友俊太郎などに関しては、前半でどのような経歴の持ち主であったのかが説明してあると、帰国後の行動なども理解しやすかったのではないでしょうか。
 また、「認罪」学習について、批判的な回想は特に引用されていませんでしたが、そういったものがなかったのかどうかも気になります。

 とはいえ、戦争と日中関係における知られざる一面を明らかにした労作であることには変りはないです。

毛沢東の対日戦犯裁判 - 中国共産党の思惑と1526名の日本人 (中公新書)
大澤 武司
4121024060

寺尾隆吉『ラテンアメリカ文学入門』(中公新書) 7点

 1950年代後半から70年代にかけて世界に衝撃を与え、「ブーム」を巻き起こしたラテンアメリカ文学。ボルヘス、コルタサル、ガルシア・マルケス、バルガス・ジョサ、ドノソといった作家の名前や、「マジック・リアリズム」といった形容のされ方は多くの人が耳にしていると思います。
 しかし、ラテンアメリカと言ってもさまざまな国があり、作家の個性もそれぞれです。「マジック・リアリズム」という形容詞が当てはまる作家もいれば、当てはまらない作家もいます。
 そんなラテンアメリカ文学について、ブーム以前からボラーニョなどのブーム後の作家までの歩みをたどり、なおかつ個々の作家と作品に対する批評を試みたのがこの本。200ページちょっとの本文の中に、数多くの作品の翻訳を手がける著者の手によって圧縮・整理されたラテンアメリカ文学の全体像が詰まっています。

 目次は以下の通り。
第1章 リアリズム小説の隆盛―地方主義小説、メキシコ革命小説、告発の文学
第2章 小説の刷新に向かって―魔術的リアリズム、アルゼンチン幻想文学、メキシコ小説
第3章 ラテンアメリカ小説の世界進出―「ラテンアメリカ文学のブーム」のはじまり
第4章 世界文学の最先端へ―「ブーム」の絶頂
第5章 ベストセラー時代の到来―成功の光と影
第6章 新世紀のラテンアメリカ小説―ボラーニョとそれ以後

  第1章では、ブームが生まれる前の19世紀のリアリズム小説についてとり上げられています。
 このころ、ラテンアメリカにおいて小説の地位は低く、ブラジルのマシャード・デ・アシスなどを除けば、見るべき作品はあまりありませんでした。
 20世紀になると、メキシコ革命を背景に政治と文学を関連付ける作品も現れますが、それはある種のマンネリに陥っていきます。

 そういったマンネリズムを打ち破ったのが、第2章でとり上げられるシュルレアリスムの影響を受けた魔術的リアリズムの文学やアルゼンチンの幻想文学でした。
 魔術的リアリズムの作家で名前が上がるのは、ミゲル・アンヘル・アストゥリアスとアレホ・カルペンティエールです。ヨーロッパの文化に親しんでいた彼らは、インディオの神話や黒人文化をヨーロッパからの視点でとり入れ、独自の世界をつくり出し、注目を浴びました。

 一方、アルゼンチンではそのヨーロッパ都の独自の距離感から、ホルヘ・ルイス・ボルヘス、アドルフォ・ビオイ・カサーレスらにより、徹底的に虚構性を重視した幻想文学が花開きました。
 ボルヘスやカサーレスの成功から生まれたアルゼンチンの幻想文学の流はフリオ・コルタサルに引き継がれていくことになります。
 また、メキシコではフアン・ルルフォが『ペドロ・パラモ』が書き上げ、のちにバルガス・ジョサがラテンアメリカ文学の特徴の一つにあげる「主観的世界の客観化」をこの小説のなかで実現させました(72p)。

 第3章と第4章では、いよいよラテンアメリカ文学ブームが語られます。
 個々の作家や作品の評価については、ぜひ本書で確認してほしいのですが、本書からわかるのはラテンアメリカ文学ブームが、たんに優れた作家がたくさん出てきたというめぐり合わせだけでなく、作家同士のつながりや、そのつながりを強め、のちに崩壊に導いた政治的な背景に拠っていたということです。

 ブームの口火を切ったのは1958年のカルロス・フエンテス『澄みわたる大地』でしたが、フエンテスは創作活動を行うだけでなく、自らの作品の売り込みのために文学エージェントと契約し、さらに自分だけでなく他の作家の売り込みも行いました。
 
 また、1959年に起こったキューバ革命も作家たちに大きな影響を与えました。フエンテスをはじめとして、多くの作家がキューバ革命に賛意を示し、多くの作家がキューバへの支援を表明しました。キューバ革命に無関心だったのはカサーレスくらいだったといいます(105p)。
 このようにキューバ革命はラテンアメリカの作家を結びつけましたが、革命の興奮が冷めるにつれ、カストロ政権に対する賛否は分かれ始め、これが第5章で語られるバルガス・ジョサとガルシア・マルケスの決別の一つの要因ともなります。

 バルガス・ジョサとガルシア・マルケスはバルセロナに住み、またその他の多くの作家もバルセロナを訪れ、バルセロナがブームの中心地となりましたが、ラテンアメリカの独裁政権に対する態度は作家たちの大きな課題の一つでした。
 カストロをはじめとして独裁者に好意的な態度を取り続けたガルシア・マルケスに、バルガス・ジョサは反発。1976年にバルガス・ジョサがガルシア・マルケスを公衆の面前で殴り倒す「パンチ事件」が起こると、作家同士のつながりは薄れ、ブームは終焉していくことになります(157-158p)。

 その後、イサベル・アジェンデ『精霊の家』パウロ・コエーリョ『アルケミスト』などのベストセラーが登場しますが、コエーリョはもちろん、アジェンデに対しても「野性的な語り手の才」はあるが「芸術的・学術的価値を持つ作品はまったく書いていない」(168p)と手厳しいです。
 さらに、この本はブライス・エチュニケの起こした剽窃事件、文学賞の問題点、出版社に年1回の出版を求められる契約の問題など、ラテンアメリカ文学を取り巻く問題点に触れ、最後の第6章ではロベルト・ボラーニョを中心に近年の動向に触れています。

 このようにこの本ではラテンアメリカ文学の盛衰を描いているのですが、同時に著者の歯に衣着せぬ作家評・作品評というのも大きな特徴です。
 『蜘蛛女のキス』などで日本でもファンの多いマヌエル・プイグに関しては、「いまやすっかり色褪せた感が否めないながらも現在まで生きながらえている」(129p)と評価されていますし、ボラーニョに関してもその才能を認めつつ(長編よりも短篇集の『通話』を評価している(197p)、『野生の探偵たち』や『2666』を持ち上げる風潮に関しては異議を唱えています(具体的に、『2666』の第4部の延々とつづく殺人事件の描写などを槍玉に挙げている(199p))。

 個人的に、ボラーニョの『2666』については著者とは違った意見を持っていますし、その評価に疑問を持つ部分もありますが、非常に明解な評価をしているので、著者に同意するにせよしないにせよ、難解な文学談義で煙に巻かれることはないです。
 まさに非常にコンパクトにまとまった「入門書」になっていると思います。


ラテンアメリカ文学入門 - ボルヘス、ガルシア・マルケスから新世代の旗手まで (中公新書)
寺尾 隆吉
4121024044

宮城大蔵『現代日本外交史』(中公新書) 8点

 起きてしばらく経ってから、その出来事の意味や時代の変化のポイントが見えてくることがあります。特に外交では、その影響はしばらく経ってから現れますし、関係者の証言なども少し時間をおいてから出てくるものです。
 この本は、冷戦終結後の日本の外交を「ドキュメント」のようなリアルタイムに出来事を追うスタイルではなく、ある程度距離をとった「歴史」として描こうとしています。
 当然、時代が近づくにつれ、「歴史」として描くことは難しくなっていくのですが、著者はさまざまな資料を駆使することにより、できるだけ俯瞰的に日本外交を見ていこうとしています。

 目次は以下の通り。
第1章 湾岸戦争からカンボジアPKOへ―海部・宮沢政権
第2章 非自民連立政権と朝鮮半島危機―細川・羽田政権
第3章 「自社さ」政権の模索―村山・橋本政権
第4章 「自自公」と安保体制の強化―小渕・森政権
第5章 「風雲児」の外交―小泉純一郎政権
第6章 迷走する自公政権―安倍・福田・麻生政権
第7章 民主党政権の挑戦と挫折―鳩山・菅・野田政権
終章 日本外交のこれから―第二次安倍政権と将来の課題

 目次を見れば分かるように、過去25年の日本外交の通史という構成になっているために、内容をたどることはせずに、いくつかのポイントを中心に紹介していきたいと思います。

 まず、「はじめに」で著者が述べるように、「本書を貫くモチーフの一つは、外交と内政の連関、あるいは両者の相互作用」(ip)になります。
 例えば、金丸訪朝団が「戦後の償い」に前向きな姿勢を示したことが右翼の「土下座外交」との批判を呼び起こし、その右翼対策を金丸信が佐川急便の渡辺広康社長を通じて稲川会の元会長石井進に依頼したことが、いわゆる佐川急便事件へとつながり、自民党が下野する原因となりました(19-22p)。
 
 自民党下野後に成立した細川政権では、北朝鮮の核危機が高まることによって、小沢一郎と社会党の軋轢が高まり、小沢は社会党を見限って自民党の渡辺美智雄を担いで自民党の一部と組むことを考え、それが自社さの村山世間の誕生へとつながっていきます(54-57p)。
 そして、その村山首相は戦後50年という節目の年に政権を担当することになり、その後のわが国の基本的な歴史認識となる「村山談話」を出します。「自民党が社会党の首相を担ぐという村山政権特有の構図が、歴史問題という保革の最も深い分断線を糊塗し、日本が戦後50年の「けじめ」として一つの声を発することを可能にした」(68p)のです。

 小渕政権における自自公連立の後押しをしたのも、北朝鮮のテポドンの発射でした。この危機に対応するため、公明党の取り込みが必要とされ、そのために野中官房長官は「ひれ伏してでも」と、小沢一郎の自由党との連立に動きます。
 また、ご存知のように福田康夫首相が小沢一郎率いる民主党に大連立を呼びかけた理由も、期限切れが迫ったテロ特措法への対応でした。
 小沢一郎の外交・安全保障政策はともかくとして、安全保障政策絡みの政局で何度も小沢一郎が出てくるというのはいろいろな意味で面白いところです。

 民主党政権に関しては言わずもがな、といったところで、普天間基地、尖閣、日韓関係という外交政策の失敗がそのまま政権へのボディーブローとなり、民主党への支持を削り取っていきました。

 著者はこうした外交と内政のリンクをたどり、次のように考察しています。
 自公の枠組みは比較的安定し、他が持続性を欠いた一因は、公明党と社民党(1996年までは社会党)の行動の違いである。社民党が安全保障政策の不一致を理由に複数回に渡って連立政権を離脱しているのに対して、憲法や安保問題をめぐって必ずしも自民党と一致しているわけではない公明党が連立を維持していることが、自公の安定をもたらしている。(中略)
 社民党にとっては安保問題が党の存在意義そのものであるのに対し、公明党は「平和の党」を掲げつつも、組織維持自体が優先目標という違いがあると言えよう。(258p)

 この本を読むことで見えてくるもう一つの面は、副題にもある「首相たちの決断」です(副題は「冷戦後の模索、首相たちの決断」)。
 外交に関しては、やはり首相や外相と行った人物のパーソナリティに左右される部分もあり、その人物だからこそできた(あるいはできなかった)決断というものがあります。

 アメリカからの誘い水があったにせよ(72p)、橋本龍太郎首相でなければ普天間返還の合意は実現しなかったかもしれませんし、その橋本首相のある種のせっかちさが沖縄との詰めの協議をおろそかにし、その後、20年続く普天間の迷走の出発点をつくりました。

 また、民主党政権というと鳩山由紀夫首相の迷走ぶりばかりが強調されますが、この本を読むと鳩山政権の岡田外相の根回し不足や、野田首相の融通の効かなさも大きな問題だったことがわかります。特に野田首相に関しては外交のセンスが致命的になかったと言わざるをえない気がします。

 そして、副題の前半にある「冷戦後の模索」というのもやはり大きなテーマになります。
 冷戦終結後まで、日本外交は日米関係の舵取りと戦後処理という大きなテーマを「受け身」でこなしていく面が大きかったですが(もちろん、これは単純化した見方ですが)、冷戦終結後の日本外交は、さまざまな課題に能動的に対処する必要が出てきました(i-iip)。

 それに伴って、新たな価値を模索する外交も行われます。橋本政権や小渕政権はそうしたものを志向したと言えるでしょうし、特に第1次安倍政権は「自由と繁栄の弧」など、新たな価値を掲げた外交を打ち立てようとした政権といえるでしょう。
 しかし、この「価値」を掲げるという行為は、それが日本にも跳ね返ってくるということでもあります。この事について、著者は慰安婦問題にからめて次のように語っています。
 そもそも安倍外交は民主主義や人権など「価値」の重視を掲げたが、それでは過去の日本の戦争について、人権という判断基準からどう向き合うのか。「安倍カラー」に潜む矛盾が日本外交に影を投げかけた一幕であった。(168p)
 
 第2次安倍政権は、戦後70周年の談話についてはこの辺りの折り合いを巧妙につけてみせましたが、この問題は今後も安倍外交のポイントとなるでしょう。

 とりあえず、以上のような点に注目してまとめてみましたが、この本はさまざまなエピソードを詰め込んだ読みやすい通史にも仕上がっています。じっくりと腰を落ち着けて日本外交を考える上でも役立ちますし、また、意外と調べにくいちょっと前の外交上の出来事を知る上でも便利です。
 日本外交についての強いビジョンが打ち出されているわけではありませんが、これからの日本外交(政治)のビジョンを考えていく上で非常に有益な本だと思います。


現代日本外交史 - 冷戦後の模索、首相たちの決断 (中公新書)
宮城 大蔵
4121024028

呉座勇一『応仁の乱』(中公新書) 7点

 日本の歴史の大きな画期とされる応仁の乱。しかし、この乱がなぜ起こり、なぜ11年もつづき、結局何が変わったかとなると、そう簡単には説明できない出来事です。
 そんな応仁の乱を、奈良興福寺の別当であった経覚と尋尊という二人の僧侶の日記を一つの視点としながら近年の研究の成果をもとに鮮やかに再構成してみせた本。とりあえず、この本の巻末の人名索引を見れば、かなり野心的な本であることがわかると思います。

 目次は以下の通り。
はじめに
第一章 畿内の火薬庫、大和
第二章 応仁の乱への道
第三章 大乱勃発
第四章 応仁の乱と興福寺
第五章 衆徒・国民の苦闘
第六章 大乱終結
第七章 乱後の室町幕府
終章 応仁の乱が残したもの

 応仁の乱について簡単にまとめるのが不可能なように、この本を要約していくというのもかなりのこんな伴うものなので、とりあえず「はじめに」と「終章」から著者の応仁の乱についての基本的な見立てを紹介します。

 まず、近年の研究では「応仁の乱で室町幕府の権威は失墜した」という見方はとられず、6代将軍義教が暗殺された嘉吉の変からつづいた幕府政治の混迷が応仁を乱を生み、さらに応仁の乱後の1493年の明応の政変によって幕府の権威は完全に失墜したという見方が支配的になっています(vーvi p)。
 その上で、応仁の乱を原因と影響を考えるというのが本書の立場です。

 歴史の教科書などでは、応仁の乱は将軍の後継者争いをめぐって東軍の細川勝元と西軍の山名宗全が激突した戦いという形でまとめられています。
 室町幕府は、その初期に守護大名らの反乱に悩まされたこともあり、政権が安定すると彼らに在京を命じ、その在京する守護大名らによって政権が運営されました。

 応仁の乱にはこの守護大名らによる派閥争いという側面がありますが、乱の当事者とされる細川勝元と山名宗全の関係は実は悪くなく(勝元の妻は宗全の養女)、1466年の文正の政変では、両者は協調して8代将軍義政の側近であった伊勢貞親を失脚させています。
 山名宗全が細川氏の覇権に挑戦するという形になっていますが、宗全も全面激突を望んでいたわけではないのです。

 では、なぜ実際に乱が起こり拡大してしまったのか?
 著者は一番の要因として、畠山家の家督争い、特に一方の当事者である畠山義就(よしひろ)が大和や河内などで軍事行動を起こしたあと、上洛したからです。
 管領家でもある畠山家の家督争いは、将軍足利義政の無定見な最低のせいもあって義就と政長の間でこじれにこじれていましたが、とりあえず政長に家督が認められ、義就は河内に立て籠もった状態でした。

 しかし、文正の政変後の混乱において、宗全が上洛を呼びかけたこともあり、義就は政長を討つために上洛します。そして御霊合戦が起こり、応仁の乱が始まります。
 ただ、この御霊合戦の時点でも、宗全が義就に加勢しなければ東軍と西軍の全面対決にはならなかったと著者は見ています。実際、細川勝元は義政の言いつけを守って政長に加勢しておらず、宗全の加勢がなければ戦いは畠山家の内紛ということで済んだのかもしれません。

 先に述べたように勝元と宗全の関係はそれほど悪いものではなく、両者の間に関しては和睦が成立する可能性は十分にありました(実際に、細川氏と山名氏は所掌に先駆けて講和している)。
 しかし、大きくなりすぎた大名連合と、長く続いた合戦が和睦を難しくさせた事情を著者は次のように説明しています。
 勝元と宗全が多数の大名を自陣営に引き込んだ結果、戦争の獲得目標は急増し、参戦大名が抱える全ての問題を解決することは極めて困難になった。しかも長期戦になって諸大名の被害が増大すればするほど、彼らの戦争で払った犠牲に見合う成果を求めたため、さらに戦争が長期化するという悪循環が生まれた。(257p)

 応仁の乱が東軍優位に推移するようになったきっかけは朝倉孝景の寝返りですが、本書では朝倉孝景の武将としての実力といった側面よりも、東軍が越前を押さえたことにより、越前から京都に至る補給路を西軍が使えなくなったという点に注目しています(162ー165p)。

 応仁の乱と、その後の明応の政変によって守護の在京制は崩壊し、守護大名を束ねるはずの管領の機能も低下していきます。各大名家の内部でも、「他家とのパイプを握る在京家臣から地域に根ざした分国出身の家臣への権力移行が見られ」(258p)、守護大名自身も分国へと帰っていきます。ここに戦国時代的な状況が始まるのです。

 このようにこの終章では、複雑怪奇な応仁の乱に関してかなり分かりやすい見取り図が得られると思います。
 ただ、では全体が分かりやすいかというと必ずしもそうなっていないところが本書の難点かもしれません。
 
 経覚と尋尊という二人の僧侶を観察者に据えることで、京の騒乱をある程度客観的に見られる面はありますし、興福寺が守護を務めているという大和の国の特殊性は、それこそ権門体制期から室町時代にかけての連続性を思い起こさせます。
 さらに第四章で紹介されている、京の貴族が戦乱を避けるために奈良に疎開し、その奈良で「林間」という風呂と茶を楽しむ催しがさかんに行われていたことなども興味深いですし、大和というのは室町時代を考える上で非常に面白い材料が揃っている場所だと思います。

 しかし、この大和の情勢というのが応仁の乱と同じかそれ以上にややこしいのです。そのため、応仁の乱以前の大和の国の情勢の説明にかなり紙幅を咲いていますし、応仁の乱勃発後もかなりの部分が大和の情勢の説明にあてられています。
 おそらく著者はこの情報量の中でも出来事の間の関連性を見失うことはないのでしょうが、読んでいる方としてはあまりの情報量に、ときに応仁の乱の本筋を見失いそうになります。
 もちろん、人名索引を含め読みやすさを確保するための工夫はあるのですが、経覚と尋尊という二人の僧侶にフォーカスする構成は、面白いもののやや野心的すぎるものに思えました。

応仁の乱 - 戦国時代を生んだ大乱 (中公新書)
呉座 勇一
412102401X

遠藤乾『欧州複合危機』(中公新書) 9点

 ギリシャ危機に難民危機にウクライナ危機にイギリスのEU離脱と、絶え間ない危機に見舞われているEUですが、その危機は外部からEUを襲っているのか?、それともEU内部にあった問題が今になって噴出しているのか?、現在のヨーロッパの危機を概観しつつ、この根本的な問題にも答えようとしている本になります。

 著者は2013年に『統合の終焉』(岩波書店)という本を出しています。この本はEUの歴史を読み解きつつ、2013年以降に起こった問題にも適用できるEUの問題点を分析してみせた大変面白い本なのですが、いかんせん500ページ近いボリュームと3800円+税の価格、なかなか普通の人が手に取れるものではなかったと思います(価格に関しては内容とボリュームを考えればむしろ安いと思いますが)。
 そんな大作の『統合の終焉』で取り出されたEU分析のエッセンスを駆使しつつ、現在の危機を読み解こうとしたこの本は、きわめて時事的な本であると同時に今後しばらくEUの問題を考える上で参考になり続けるものに仕上がっています。

 目次は以下の通り。
第1部 危機を生きるEU
 第1章 ユーロ
 第2章 欧州難民危機
 第3章 欧州安全保障危機
 第4章 イギリスのEU離脱
第2部 複合危機の本質
 第5章 統合史のなかの危機
 第6章 問題としてのEU
 第7章 なぜEUはしぶとく生き残るのか
第3部 欧州と世界のゆくえ
 第8章 イギリス離脱後の欧州と世界
 終章 危機の先にあるもの

 第1章から第4章までは、現在の危機の様相を再確認したもので、「はじめに」で著者は、個々の危機について十分に知っている読者であれば読み飛ばして構わないと述べていますが(vp)、読みどころはあります。

 まず、今回の危機に先立って、欧州統合のプロジェクトは2005年の欧州憲法条約がフランスとオランダの国民と票で否決されたことによって、すでに「危機」に陥っていました。「ヨーロッパ合衆国」のような「夢」は今回の危機の前にしぼんでいたのです。

 しかし、今回の危機は欧州統合にブレーキをかけるだけでなく、欧州統合そのものを揺さぶり、後戻りさせようとしています。
 ユーロ危機に対しては、EUは「財政規律の強化とEUへの集権化」(17p)という方向でこれを乗り切ろうとしましたが、緊縮政策は人々を苦しめますし、EUへの集権化は不満の矛先がEUに向かうということです。
 
 難民問題に関しては、シリア内戦というEUにはコントロールしがたい大きな原因があり、外部の危機がEUに波及しているだけだとも言えます。
 しかし、著者はシリア内戦などの難民を送り出す「プッシュ要因」の他に、豊かで社会給付も受けやすいとヨーロッパ(特にドイツ)という「プル要因」、さらにトルコやギリシャなど難民の流入ルートの途上にある国が、難民を責任をもって引き受けずに通過させようとする「スルー要因」が重なって現在の問題を引き起こしているといいます。
 2016年3月、EUはトルコとの間に財政援助などと引き換えに難民をトルコに送還する枠組みに合意します。これによって難民の数は激減しましたが、難民条約の完全な締結国ではないトルコに難民を送還することは難民条約や欧州人権規約に違反するとの指摘もあり(54p)、EUの掲げてきた理念は揺らいでいます。

 第3章の「欧州安全保障危機」でとり上げられるのは、ウクライナ危機と頻発するテロです。
 ロシアのプーチン大統領によるクリミア併合、ウクライナ東部の分離運動への支援といった国際秩序への挑戦に対して、メルケル首相などの尽力でミンスク合意が結ばれますが、その内容はかなりロシアに譲歩したものでした。
 さらに、G8から追放されたロシアはシリアへの軍事介入で国際社会への復帰を狙いますが、これは前述の難民危機を加速させました。

 テロに関してあ、何といっても2015年11月のパリ同時テロ事件のインパクトが大きいですが、この事件の実行犯に難民のルートをつかってヨーロッパに入ってきた者がいたこと、テロリストの情報が各国の治安機関に伝わっていなかったことが、難民への反発や各国政府とEUへの批判を引き起こしました。
 EU加盟国の多くは領域内の移動の自由を保障したシェンゲン条約に加盟していますが、今回の難民の大移動に対応できるような犯罪やテロ情報の共有では出来ておらず、国境管理を復活させる動きが出ていますし、フランスでは非常事態宣言が続いています。

 第4章の「イギリスのEU離脱」では、「若者は残留、高齢者は離脱」といった国民投票に見られた傾向を確認するとともに、サッチャー以来の保守党内部での反EUの流れを確認することで、キャメロンが「国民投票をしてしまった」理由が見えてくるようになっています。
 この国民投票では、保守党・労働党の二大政党がきちんと機能せず、今後のイギリスの政党政治に不安を抱かせるものとなりました。さらにスコットランドの独立運動の再燃も予想されるなど、今後も多くの波乱が予想されます。

 第5章以降は理論編ともいうべき部分で、これらの危機をEUの来歴と政治的な構造から読み解こうとしています。
 まず、現在「EUの危機」が叫ばれていますが、EUは常に危機とともにありました。1965年にはフランスのド・ゴールがEECからフランス代表を引き上げさせてEECを麻痺させましたし、冷戦終結とドイツ統一は「ドイツをいかに制御するか?」という問題をヨーロッパに突きつけました。近年においても、イラク戦争への対応に関してEU内部で分裂が起こりました。
 このようにEUは常に危機とともにあり、その危機への対処として統合を深化させてきたのです。

 しかし、統合の深化は、同時にEUの民主的な正統性の問題を露わにします。EUの権限が強まれば強まるほど、自分たちとは関係のないエリートが物事を決めているという感覚は強まります。
 第8章では、イギリスのEU離脱に関して、あるロンドン大学教授が残留のほうがGDPにプラスだという意見を紹介したところ、「それはお前のGDPだ、俺たちのではない」というやじが飛んだというエピソードが紹介されています(258p)。
 もちろん、これは無茶苦茶な意見なのですが、これは現在のEUの一面を非常によく表しています。かつてのEUやその前身の機関の危機はエリートの間だけで騒がれたものでしたが、現在のEUは人々の生活に直接かかわっており、その危機は域内に住む人々の生活に直結します。
 しかし、この一般の人々とEUのエリートをつなぐ回路がきわめて脆弱なのです。

 この回路として欧州議会がつくられており、その権限も強化されつつあるのですが、近年の欧州議会の議員選挙の投票率は40%台であり(204p)、民主的な正統性を調達できていません。
 正統性には「うまく作動しているから」という機能的正統性もありますが、ご存知のようにこの機能的正統性は度重なる危機によって大きく揺らいでいます(167p)。

 著者は、こうした危機を統合の深化で解決してきたEUが、その統合の深化ゆえに行き詰まっている状況を、「《解決としてのEU》から《問題としてのEU》」という言葉で表現しています。
 例えば、ユーロは域外への発言権を高め、グローバル経済の奔流を制御するための解決策として導入されましたが、現在はそのユーロ自体がさまざまな問題を引き起こしています。

 おそらく解決策の一つは「さらなる統合の深化」です。EUの財政統合が実現し、ドイツなどからギリシャを始めとする南欧諸国に財政移転がなされるようになれば、ユーロ危機は終息するでしょう。
 しかし、ここには「国民国家」、「ナショナリズム」といった壁が立ちはだかります。デモクラシーはあくまでも国家を単位として想定されており、それを超えるレベルでのデモクラシーに関して人々が共有できるイメージというものはありません。
 著者は、日中韓で共同のデモクラシーを行なうという反実仮想をとり上げ、この3カ国でどのように多数決をすれば正しい決定という感覚が確保されるのか、と問うていますが、まず無理だというのが一般的な感覚でしょう(200p)。

 イギリスがEU離脱を決めたことによって、今後、EUではドイツの覇権がますます強まると警戒されていますが、著者はこれについて次のように述べています。
 いまのドイツは戦間期のアメリカに近く、自身の権力と責任(意識)が乖離した状況にある。じつは、いまヨーロッパで必要とされるのは、責任に応じたよりいっそうのドイツの権力行使であり、正しい権力の使い方なのだが、「ドイツの覇権が復活した(ので警戒せねばならない)」とだけ述べる多くの言説は、その必要を覆い隠してしまうのである。(246p)

 著者は独仏の政党政治が極右政党に乗っ取られたりしないかぎり、EUの内破はありえず、イギリスのEU離脱がもたらすのはEUの再編成であろうと予想しています。
 その一つの形は、独仏伊とベネルクス三国の原加盟国を中心として、より統合を深める一部リーグと周縁的な二部リーグ、さらにヨーロッパの非加盟国が三部リーグを構成するようなものです(252ー255p)。

 現在のEUに関して、著者はこのまま緊縮財政にこだわって自滅するか(ちょうど1930年代の金本位制のように)、それとも「人為」による改良である「政治」を取り戻せるかの「危機(分かれ道)」にあるといいます(270p)。

 今後のEUがどちらに転ぶかはわかりませんが、とりあえずこの本を読めばEUの来歴と現在位置はわかるはずです。
 かなりの情報が詰め込まれているために、「見やすい地図」とはいえない部分もありますが、ヨーロッパの情勢を見ていくときに、しばらく携えていくべき「地図」にあたる本と言えるのではないでしょうか。

欧州複合危機 - 苦悶するEU、揺れる世界 (中公新書)
遠藤 乾
4121024052

平山優『真田信之』(PHP新書) 7点

 父・真田昌幸と弟の真田信繁(幸村)の影にあって目立たない真田信之ですが、『真田丸』の大泉洋の好演でその知名度も上がったと思いますし、何よりも信之は有名人の子や兄というだけではなく、松代藩の基礎を築き、93歳で大往生を遂げたという「中世から近世へ」という変革期を生きるという非常に興味深い人生を送った人物なのです。
 そんな真田信之の事跡を、『真田丸』の時代考証の一人でもある著者が丁寧に追った本。400ページを越えるボリュームでかなり細かい部分まで書いているため、信之の人生をコンパクトに知りたいという人には不向きかもしれませんが、「中世から近世へ」という変化について興味のある人であれば得られるものは大きいと思います。

 目次は以下の通り。
第1章 信之の生い立ちと家族の群像
第2章 武田氏滅亡の衝撃と天正壬午の乱
第3章 真田昌幸と信之の飛翔
第4章 信之の決断
第5章 苦難の連続だった信之の内政
第6章 大坂の陣と信之
第7章 上田から松代へ
第8章 「土呑み裁判」からキリシタン対策まで―もめごと、さまざま
第9章 相次ぐ不幸
第10章 信之、最後の戦い

 まず、第一章から第四章までは、関ヶ原の戦いで父・弟と決別し父昌幸の遺領(上田と沼田)を受け継ぐまで。
 武田氏滅亡以降の、信濃・上野をめぐる動きは非常に複雑で頭にすっと入ってくるものではありませんが、『真田丸』を見ていた人なら、春日信達、室賀正武、出浦昌相(出浦に関しては後半、内政に奮闘する家老として頻出しています)といった名前も出てくるので、それらを思い出しながらより細かい動きが理解できると思います。

 また、忍城攻めでは父や家臣の諫止も聞かずに出丸に攻めかかったエピソードなども紹介されており(106-108p)、若い頃は武闘派の一面もあったことがうかがえます。
 その他、上田城と沼田城の当時の様子から、かなりのスケールと格式を持っており徳川家康の諫止のために豊臣政権の後押しを受けてこれらの城が築かれたのではないかと推理しています(120-131p)。

 このように前半にもいろいろな発見があるのですが、個人的に面白かったのは第五章「苦難の連続だった信之の内政」以降の部分です。
 
 天正十年(1582年)に大噴火してから、浅間山は毎年のように噴火を繰り返しており、信之の治める信濃と上野は大きな被害に見舞われました。さらに大雨や干魃などの被害も受けており、信之の内政は災害との戦いというべきものでした。

 農村は荒廃し、耕作放棄や身売りが相次ぎました。信之は帰還した農民には税を免除したり、事実上の徳政令を出すなどして、なんとか農民を農村につなぎとめようとしました。また、牢人を積極的に農村に招き入れ、定住と農地再興をねらいました(181-184p)。さらに沼田領では、借金の方に身売りした農民を真田家が金を出して買い戻すなど(212-213p)、なりふり構わない形で働き手の確保に走っています。
 また、伝馬利用に関して、町人から真田家の家臣が不当な伝馬を要求する事が多く困っているとの訴えがあり、信之は朱印状のない伝馬利用を禁止する措置を打ち出しています(208ー211p)。
 農民や町人に過重な負担をかけないことがこの時期の藩の経営では重要だったのです。

 この本には上田の者が食うために佐渡金山に金掘り人夫として渡ったことが書かれていたり(183p)、信之が領内の鉱山を開発するために渡りの鉱夫を受け入れたことによって、沼田料を中心にキリシタンが増えてしまったことなども書かれています(220pと第八章)。江戸時代の初期は人の移動が激しい時代でもありました。

 農村に対する支配のしくみでは、有徳人と呼ばれる有力農民であるとともに地域の商業活動や金融も担った存在が重要な役割を果たしていたそうです。
 信繁の娘すへが嫁いだ石合十蔵道定もそうした有徳人の一人で、この石合家からは真田家の下級家臣となった者も出ています(227ー228p)。
 つまり、真田家においては、いわゆる「兵農分離」はそれほど進んではおらず、戦国期と同じように武士と農民の境は曖昧だったのです。

 では、いつ「兵農分離」が進んだのか? 大阪の陣後の真田家の松代転封がそのタイミングになります。
 このとき、真田家の家臣の中には上田に残り、百姓となった家もあったとのことですし(346p)、家臣たちは松城の城下町に集住することになりました(388p)。
 著者は、「ここに旧真田領の上田・真田領では、村から兵を動員する戦国期の慣行が完全に終焉を迎えた。いわゆる「兵農分離」が、結果的に達成されたといえる」(346p)と述べています(ちなみに松代転封・左遷説は完全に否定されています)。

 「中世から近世へ」という変化を考えるとき、われわれはどうしても信長と秀吉という「転換点」を想定してしまいがちなのですが、黒田基樹『戦国大名』(平凡社新書)も指摘しているように、江戸時代初期と戦国期はよく似ており、信長・秀吉によって日本全体が変えられたわけではありません。
 むしろ、江戸時代初期の転封政策が「兵農分離」を後押ししたという本書の指摘は非常に興味深いものだと思います。

 このように1世紀近い信幸の生涯をたどることで、社会の変化も見えてくる点がこの本の面白いところです。
 これ以外にもこの本は「真田信之大百科」と言っていいほど、さまざまなエピソードがとり上げられています。さすがに細かすぎて中身を追っていくのが大変だと思うこともあるかもしれませんが(『真田丸』のファンでとりあえず何か1冊というなら、まず丸島和洋『真田四代と信繁』(平凡社新書)をお薦めします)、興味のないところは飛ばしたとしても、それでも十分な情報と知見が得られる本です。


真田信之 父の知略に勝った決断力 (PHP新書)
平山 優
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麻田雅文『シベリア出兵』(中公新書) 8点

 多くの人にとってシベリア出兵についての知識というのは、「これがきっかけで米騒動が起きて、日本は他国が撤兵した後も派兵を続けたが特に得るものはなかった」といった程度のものではないでしょうか。少し詳しい人ならば尼港事件のことなどを知っていると思いますが、シベリア出兵が具体的にどのように展開し、どう終結したのかをきちんと説明できる人は少ないと思います。この本は、そんなシベリア出兵の全貌を教えてくれる本です。
 
 著者の前著の『満蒙』(講談社選書メチエ)が、「ロシア側から見た満蒙の歴史」という感じだったので、今回もロシア側からの視点が中心かと思いましたが、むしろ日本側の動きを重点的に追いながら、ロシアや国際社会の動きにも目を配る構成になっており、シベリア出兵とそれにまつわる動きが総合的に分析されています。
 シベリア出兵における、撤退すべきなのになかなか撤退できない様は、日中戦争における日本の姿を思い起こさせるものがあり、満州事変以降の日本の動きなどを考える上でも示唆に富む内容になっていると思います。

 目次は以下の通り。
序章 ロシア革命勃発の余波―一九一七~一八年
第1章 日米共同出兵へ―一九一八年
第2章 広大なシベリアでの攻防―一九一九年
第3章 赤軍の攻勢、緩衝国家の樹立―一九一九~二〇年
第4章 北サハリン、間島への新たな派兵―一九二〇年
第5章 沿海州からの撤兵―一九二一~二二年
第6章 ソ連との国交樹立へ―一九二三~二五年
終章 なぜ出兵は七年も続いたのか

 日露戦争から現代にいたるまで、日本とロシアの関係というのは、ソ連時代も含めてあまり良くない印象がありますが、1916年に結ばれた第4次日露協約はほぼ軍事同盟と言っていいものであり、第一次世界大戦時の日露関係はかつてないほど良好なものでした。
 しかし、その良好な日露関係は1917年のロシア革命によって崩れ去ります。特に十月革命によってレーニン率いるボリシェヴィキが政権を握ると、成立したソヴィエト政府はドイツと単独講和。日本だけでなく世界各国がロシアとの関係に悩まされることになります。

 こうした中で、西部戦線でドイツと対峙する英仏がシベリアへの出兵を計画しますが、当然ながらシベリアに割ける戦力はなく、アメリカと日本に白羽の矢が立ちました。
 第一次世界大戦への参戦過程からすると、日本は喜び勇んで出兵したのではないかと思いがちですが、実際は違います。アメリカが出兵に慎重姿勢をとったこともあって、日本でも消極姿勢が目立ちました。
 元老の山県有朋は「およそ刀を抜くときには、まずどうして鞘におさめるか、それを考えた後でなければ、決して柄に手をかけるものではない」(17ー18p)と、十分な国際協調抜きの出兵には反対でしたし、山県の後押しで首相になった寺内正毅も出兵には消極的でした。

 そんな中で出兵に積極的だったのが、本野一朗外相と本野の公認となった後藤新平外相です。彼らは戦後の講和会議において日本が発言力を持つためには出兵が必要だと考えていました。
 さらに出兵に積極的だったのが参謀本部でした。この時の参謀本部は参謀総長・上原勇作、参謀次長・田中義一というコンビでしたが、特に出兵に熱心だったのが田中義一です。

 田中によれば、シベリア出兵は、ドイツやオーストリアが東へ進出することを阻止し、中国を味方につけ、連合国への信義を果たし、シベリアの資源を獲得するという一石四鳥の策でした(40p)。
 ここで注目すべきは、田中が対中国政策の一環としてシベリア出兵を考えていた点で、田中は中国との共同出兵により北満州での利権獲得も狙っていました。
 そのために陸軍は、中東鉄道の責任者でハルビンを支配していたホルヴァート、中露国境地域を本拠地とするコサックのセミョーノフなどを支援し、北満州からシベリアを影響下に置こうとしました。

 このような中で、日本政府がついに出兵へと動き出したのは、今まで姿勢だったアメリカがチェコ軍団救出のために出兵へと舵を切ったからです。
 オーストリアからのチェコ独立のためにロシア軍に加わっていたチェコ軍団でしたが、ソ連がドイツと講話したことにより居場所を失い、その救出がにわかに国際社会の問題となったのです。
 そして、アメリカは出兵を決断し、日本に共同出兵をもちかけます。アメリカ側の考えは日米ともに兵士は同数の7千人という形での出兵でした(55ー57p)。

 このアメリカ側からの提案はそれまでの慎重論を吹き飛ばしました。そしてシベリア出兵にもとから積極的だった人々は、より大規模な出兵をねらいます。
 アメリカへは1万〜1万2千の兵を出すことを通告して了承させましたし(59p)、陸軍首脳は出兵数は2個師団(戦時編成)で4万を超える軍の派遣を決めました(68p)。
 こうして米騒動などで世間が騒然とする中、1918年8月、ウラジオストクに日本軍が上陸します。アメリカ軍9000、イギリス軍7000、中国軍2000といった中で、最大7万2400、その後も5万に近くを送り込んだ日本軍の兵数は突出していました(73p)。

 その兵力でもって、日本軍は沿海州、アムール州、ザバイカル州と軍を進め、バイカル湖以東を2ヶ月足らずで制圧します。陸軍はアメリカとの合意違反は承知の上で、既成事実をつくってしまえば日本側が有利になると考えたのです。
 また、同時にロシアに逃げていた朝鮮人の独立運動家らを「駆除」するために朝鮮軍を出動させています(79-80p)。

 シベリア出兵の40日後、日本では寺内内閣が総辞職し、原敬が組閣の大命を受けます。原は外相にソヴィエト政権の承認を主張していた内田康哉を据え、また、陸相に田中義一を任命し、田中と連携することで陸軍をコントロールしようとしました。
 原はすぐに兵力削減を打ち出し、12月には2万6000人減らすと決定しました。原はアメリカとの強調を重視し、アメリカの反発をかわそうとしたのです。
 1918年11月には休戦協定が結ばれ、第一次世界大戦はとりあえず終結します。しかし、各国ともすぐにシベリアから兵を引こうとはしませんでした。

 シベリアでの実際の戦いについては、この本の第2章の前半で触れられています。現地の日本兵が寒さに苦しめられたこと、広大な領域に配置され手薄になったところをパルチザンに攻撃されたこと、またパルチザンへの報復のために村を「討伐」したことが現地の人々の反発を生んだことなどが指摘されています。

 こんな状況の中、なぜ各国の軍隊はシベリアにとどまり続けたのか?
 それは反革命派、特にコルチャーク政権に勢いがあり、ソヴィエト政府を打ち倒す勢いを見せたからです。海軍中将だったコルチャークは、オムスクを中心に勢力を広げ、1918年の12月にはウラル山脈を超えて進撃するなどソヴィエト政府を脅かしました。
 コルチャークは、1919年の3月にはイギリスなどの支援を得てウラル地方のウファを奪還。モスクワに迫る勢いを見せました。日本も5月にコルチャーク政権を承認し、バイカル湖以西への派兵も検討します。

 しかし、内政でつまづいたコルチャーク政権は赤軍の反撃の前に後退していき、1919年6月にウファを失うと、東へ敗走します。
 勢いに乗って追撃してくる赤軍を前にして、1920年1月にはバイカル以西のイルクーツクへの派兵も行われますが、ちょうど同じタイミングでコルチャークは失脚し、2月に処刑されます。各国は赤軍との衝突を避けるためにシベリアからの撤兵を急ぎました。

 1920年1月にはアメリカが撤兵を決定。日本は取り残されることになります。
 ここで原は、単純な撤兵ではなく、増派をしつつ撤兵を準備するという方針を取ります。この撤兵のための増派というのは、イラク戦争やアフガニスタンでの対テロ戦争でも行われましたが、基本的にはわかりにくいもので、国際社会からの支持は得られませんでした。
 日本はアムール州とザバイカル州から撤退しますが、1920年3月に軍人民間人合わせて700人余の日本人が殺された尼港事件が起きたことによって、引くに引けない状態になります。いきり立つ世論を前にして、「手ぶらでは帰れない」というムードが強くなったのです。

 1920年6月、日本は尼港事件が解決されるまでの担保として北サハリンを「保障占領」します。石油を始めとする北サハリンの資源と、尼港事件への怒りが新たな軍事行動を引き起こしたのです。
 この頃になると、山県有朋も原に撤兵を持ちかけたりするのですが、原は日本人の居留民保護や「不逞鮮人」対策のためのウラジオストクへの駐留にこだわります(174-175p)。
 1921年からはソヴィエト政府のバックアップを受けた極東共和国との交渉が大連で始まりますが、撤兵の代償を求める日本と、撤兵無くして利権なしと考える極東共和国の溝は埋まりませんでした(189-191p)。
 結局、何らかの代償を得ることにこだわった原はシベリアからの撤兵を果たせず、1921年11月4日に暗殺されます。

 結局、撤兵を決断できたのは、政党内閣ではなく海軍出身の加藤友三郎内閣でした。加藤内閣は「民意無視の変態内閣」(204p)などと新聞から批判されましたが、民意によって選ばれていない内閣だからこそ、民意を忖度しない決断ができたとも言えるでしょう。
 1922年10月に日本軍はウラジオストクから撤兵。北サハリン以外からすべての日本軍が引き上げることになるのです。

 この本では、その後の日ソの国交樹立交渉、北サハリンからの撤兵、北サハリン利権のその後といった部分まできちんと書ききって終わります。
 そして、「なぜ出兵は七年も続いたのか?」という問に答えようとしています。
 
 著者は「統帥権の独立」、「親日政権の樹立に失敗」、「死者への責務」という三点を理由としてあげています。
 この三点は実は日中戦争終わらせられなかった理由と共通するものです。日中戦争においても「統帥権の独立」によって政府は軍をコントロールすることができず、「親日政権の樹立に失敗」し、「死者への責務」から対米交渉で中国からの撤兵を飲むことができませんでした。
 この点を踏まえ、著者は「日中戦争では、シベリア出兵に参加した多くの将校たちが昇進して指揮をとっているが、その経験が生かされたようにも見えないのが、シベリア出兵のさらなる悲劇である」(250p)と述べています。

 シベリア出兵について詳細に語りながら、同時に「なぜ日本は満州事変以降引き返せなかったのか?」という問いついての知見も与えてくれる読み応えのある本です。

シベリア出兵 - 近代日本の忘れられた七年戦争 (中公新書)
麻田 雅文
4121023935

墓田桂『難民問題』(中公新書) 7点

 副題は「イスラム圏の動揺、EUの苦悩、日本の課題」。長年、難民について研究し、法務省の難民審査参与員なども務めた著者が、20世紀以降の難民問題を概観しつつ、近年のイスラム圏の動揺によってヨーロッパに押し寄せる難民とそれがもたらす問題について語った本。
 著者の履歴から想像されるのと違い、この本は難民受け入れにかなり慎重な立場から書かれています。著者が指摘する問題にはうなずける部分も多いのですが、個人的にはやや筆が滑っているのではないかと思われる部分もあります。

 目次は以下の通り。
第1章 難民とは何か
第2章 揺れ動くイスラム圏
第3章 苦悩するEU
第4章 慎重な日本
第5章 漂流する世界
終章 解決の限界

 第1章では難民問題の歴史と現状が概観されています。
 太古の昔から生まれた地を追われた人々は存在しましたが、今のような難民の問題がクローズアップされたのは第一次世界大戦とロシア革命のときでした。赤軍(ソヴィエト政権)が白軍(臨時政府)を打ち倒したことで白軍側を支持していた数十万とも数百万とも言われる人々が難民となったのです。
 国際連盟は1921年にノルウェー人の探検家ナンセンをロシア難民についての「高等弁務官」に任命し、ここから国際機関による難民支援が始まります。
 その後、戦間期のユダヤ人難民の問題などを経て、第2次世界大戦後には国連にUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)が設立され、難民への国際的保護がなされていくことになるのです。

 1951年には難民条約が調印されますが、この条約の難民の定義には「1951年1月1日以前に生じた事件結果として」という但し書きがついていました。
また、「欧州において生じた事件」という但し書きもあり(1967年の「難民の地位に関する議定書」でこれらの但し書きは撤廃)、当初、難民問題が第二次世界大戦による混乱で引き起これた一時的な問題だと見られていたことがわかります(17-20p)。

 難民条約において、難民に認定するかどうかは基本的に各国政府に委ねられていますが、「ノン・ル・フールマン」の呼ばれる原則があり、難民を追放したり送還したりすることは禁止されています。
 この原則を守るためにはすべての難民申請者に対してきちんとした審査を行うことが求められるのです(24-25p)。

 1990年代前半から00年代の半ばまでは減少を続けていた難民の数ですが、最近は上昇に転じています。
 2015年末時点で、最も難民を発生させているのはシリアで、その次はアフガニスタンです。一方、最も多くの難民を受け入れている国はシリアの隣国のトルコであり、第二位はアフガニスタンの隣国のパキスタンです(30-31p)。

 第2章では、近年のイスラム圏の不安定化した状況が説明されています。
 内戦の続くシリアだけではなく、戦争の舞台となったアフガニスタンやイラクもいまだに不安定な状況ですし、「アラブの春」は数多くの独裁者を打ち倒しましたが、その結果リビアのように国内の統一が失われてしまった国家も生まれました。
 一方、「世界の警察」をつとめてきたアメリカのオバマ政権は中東には積極的に介入しない姿勢を示しており(渡辺将人『アメリカ政治の壁』で紹介されているバイデン副大統領の発言も参照)、問題が根本的に解決されるきざしは見えません。
 また、シリア難民が多く流れ込んでいるトルコやヨルダンといった国々でもさまざまな問題が起こっており、このまま難民を受け入れ続けられるわけではありません。

 第3章では、そうしたイスラム圏の難民が大量に流入しているEUの苦悩が語られています。
 EUの難民問題が厄介なのは、EUに押し寄せているのは難民だけではなく、経済的な豊かさを求める移民が混じっているという点です。この本ではそれを「混合移動」という言葉で説明していますが、こうした移民のなかには難民認定される確率の高いシリア国籍を語る者もおり、さらにはテロとの接点を持つ者も混じっています(90-92p)。

 2015年9月に5歳のアラン・クルディちゃんの死がクローズアップされて以降、トルコからギリシャへとわたる東地中海ルート、ギリシャからバルカン半島を北上するバルカンルートが注目を集めていますが、これ以外にもリビアからイタリアを目指す中央地中海ルート、モロッコからスペインへと向かう西地中海ルートなどもあり、特にイタリアを目指す中央地中海ルートでは、密航船の転覆などによって多くの死者が出ています。
 これを防ぐためにイタリア海軍などが救出活動を行ってきましたが、この救出活動が密航ビジネスを助け、さらなる難民を呼び寄せてしまうという問題もあります(95-100p)。

 EUにおいて難民受け入れに積極的なのがドイツです。ドイツは旧ユーゴスラビア危機でも多くの難民を受け入れており、市民にも難民を歓迎するムードがありました。
 ところが、そのドイツでもあまりに多い難民の流入に風向きが変わってきています。難民受け入れに積極的なメルケル首相の支持率は低下し、2016年の2月には、難民として認められなかった者の強制送還や家族呼び寄せの権利を制限す法案が下院を通過しました(105-106p)。

 EUには域内の移動の自由を保障したシェンゲン協定と、原則的に難民は到着した国で難民申請を行うというダブリン規則があります。
 しかし、ダブリン規則は現実に合わなくなったとしてハンガリーやドイツなどがダブリン規則の運用停止に踏み切っていますし(121p)、各国で相次ぐ国境へのフェンスの建設など、シェンゲン協定の精神に反するような動きも起こっています。
 2016年6月に行われたイギリスのEU離脱をめぐる国民投票で離脱派が勝利したことに代表されるように、EUの求心力は大きく傷ついており、押し寄せる難民はそれに拍車をかけているのです。

 第4章では日本の難民政策が語られています。
 2015年、日本において難民の申請をしたものは7586人で、この年に難民として認定されたものはわずか27人(170p)。
 あまりに少ない数に思えますが、日本も過去にはインドシナ難民を1万人以上受け入れており、まったく難民に門を閉ざしていたわけではありません。

 また、法務省の難民審査参与員を務め、難民認定が認められなかった者の異議申し立てを審査した経験を持つ著者によると、偽造難民が大半であり、特に技能実習生として日本にやってきて在留期間が切れる前に難民申請を行うものなどが目立つそうです(171-172p)。
 日本では、難民申請をした者は「特定活動」の残留資格が与えられ、働くこともできるため、それを狙って難民申請をする者も多いそうです(173p)。
 著者は現状について次のように述べています。
 ここで率直なところを述べるならば、筆者自身、日本が難民条約に加入し続ける意味を見出しづらくなっている。1年間で27人に難民の地位を与えるために、膨大な労力と税金が割かれている。一つの条約を履行するための法務行政の負担はあまりにも重い。(179p)

 難民条約に加入していなくても難民の受け入れは可能であり、自発的な脱退も一つの選択肢だというのです。

 また、この章では将来における移民受け入れの是非や、北朝鮮や中国で体制が動揺した時のシナリオなどについても簡単に検討しています。

 第5章と終章では、現代における主権国家の動揺と国連の機能不全をとり上げ、難民問題の難しさを改めて指摘しています。

 全体として、基本的には著者の考えに賛同できるところが多いのですが、先に紹介した難民条約からの脱退の部分を含め、「そんなに簡単に言ってしまっていいのかな?」と思うところはあります。
 難民条約を守るのは確かにコストがかかることでしょう。著者は日本の財政状況などからしても大規模な対外援助や難民支援は難しくなると言っていますが(180ー186p)、それも事実だと思います。
 ただ、それでも国際社会は損得よりも人の命を重視するという「正義」(「建前」と言ってもいいかもしれません)を、第二次世界大戦の経験などを通じて打ち立ててきたのではないでしょうか?

 また、この本ではシリア難民の受入を訴えた緒方貞子の「日本は、非常に安全管理がやかましいから。リスクなしに良いことなんでてきませんよ」という発言をとり上げ、安全とリスク管理は政治家の責任であり、「軽率な発言」と論評していますが(188ー189p)、
緒方貞子も当然ながら難民を受け入れるリスクは知っているはずです。それでも守るべき「正義」があるというのが彼女の考えなのではないでしょうか。

 自分もドイツのような形での難民受入は近い将来行き詰まると思いますし、日本での大規模な受入にも慎重な立場ですが、それでももう少し「建前」に踏みとどまった議論がなされるべきではないかと思いました。
 そうしないと、それはあまりにも国際社会に背を向けた内向きな議論になってしまうと思うのです。

難民問題 - イスラム圏の動揺、EUの苦悩、日本の課題 (中公新書)
墓田 桂
4121023943

服部龍二『田中角栄』(講談社現代新書) 8点

 『広田弘毅』(中公新書)、『日中国交正常化』(中公新書)、『ドキュメント 歴史認識』(岩波新書)、『中曽根康弘』(中公新書)などの著作で知られる著者による田中角栄の評伝。田中角栄の評伝というと中公新書から田中角栄の朝日新聞首相番記者でもあった早野透による『田中角栄』という同タイトルの評伝が出ていますが、個人的にはこちらのほうが面白く感じました。

 1冊の本としては田中角栄の最大の業績と言える日中国交正常化、著者の『日中国交正常化』で精緻に分析されている分、簡単に済まされているという欠点はありますが、それ以外の首相時代の外交、訪欧や訪ソ、東南アジア歴訪について詳しく触れている点と、ロッキード事件と裁判について詳しく触れられている点です。

 特にロッキード事件に関しては、今までの本が児玉誉士夫などの解明されなかった「巨悪」やアメリカの「陰謀」といった部分を追っているのに対し、この本では「田中角栄がなぜ実刑判決を受けたのか?」、「せめて外為法違反くらいでお茶を濁せなかったのか?」という素朴な疑問に答えるものになっており、非常に面白かったです。
 
 また、全体的に政治学者ならではのやや突き放した距離感が取られていながら(特に後半性については結構辛辣に書いている部分の多い)、秘書で愛人の佐藤昭と娘の田中真紀子の確執などにも迫っており、ある種「下世話」な部分も含んだ評伝になっています。

 目次は以下の通り。
序章 一五歳の上京――「理研は俺の大学だった」(12p)
第1章 大陸体験と初当選 (24p)     
第2章 保守本流、そして最強の建設族 (42p)
第3章 政界の中枢へ――「二つのハシゴ」 (64p)
第4章 「汚れ役」の天下取り――『日本列島改造論』 (100p)
第5章 首相の八八六日――屈辱の「列島改造論」撤回 (144p)
第6章 誤算と油断――ロッキード事件 (228p)
第7章 「闇将軍」と「田中支配」 (260p)
終章 失意の晩年――角栄が夢見た「日本の未来」 (312p)

 目次にページ数をつけましたが、これで全体の紙幅の配分はわかると思います。本文は全部で337pなので、退陣以降の記述が厚めになっているといっていいでしょう。

 まず、首相になるまでですが、ここは他の本でも書いてあるエピソードなどを中心に比較的コンパクトにまとめてあります。
 ただ、自民党の派閥がらみの話については筆が冴えていて、田中と池田勇人、佐藤栄作との関係などは興味深いです。また、田中がお金の集め方とともに使い方に関しても思い切っており、上の人物の懐へと飛び込む度胸と金の使い方が田中角栄を自民党政治の中心に押し上げていったことがわかります。
 
 このようにして自民党の総裁候補にのし上がっていく田中ですが、佐藤栄作の意中の後継者は福田赳夫でした。政権末期、佐藤は田中を官房長官にし、官邸に押し込めようとしますが、田中はこれを固辞し通産相となります。中曽根康弘は後年この人事を決定的なポイントと見ていますが(132p)、この本ではこういった人事の面白さなども垣間見ることが出来ます。

 1972年に54歳で総理大臣となった田中がまず取り組んだのが日中国交正常化でした。ただ、最初にも述べたように、この本では台湾問題を含めた田中の対応はほとんど触れられておらず、日中国交正常化は「対中裏安保」(日本が軽武装を続けるためには中国との良好な関係が必要)だという田中の考えが紹介されているくらいです(153-157p)。

 一方、ソ連を含めたヨーロッパ歴訪と東南アジア歴訪に関しては詳しく触れられています。
 ヨーロッパ歴訪の目的は、第一に資源問題であり、第二に日本を含めた西側諸国による軍事的経済的な包括的な枠組みである「キッシンジャー構想」の是非についてでした。
 キッシンジャー構想については、比較的前向きな田中に対して、フランス、イギリス、西ドイツといった国々はあまり前向きではなく、田中の姿勢は空振りに終わっている感じですが、資源外交に関しては悪くない手応えで、特に原子力政策に関しての田中の積極性が目立ちます。
 また、モスクワ訪問では、ブレジネフらのいかにも社会主義的な対応をされながら(第2回目の会談のとき、ブレジネフから2時間近い長広舌を聞かされた田中が「今日のブレジネフは何だ。あれではまるで通産省の課長補佐から大学助教授が講義を聞いたようなものではないか」と怒った話は面白い(183p))、ねばり強さを発揮して北方領土問題の存在を認めさせるという成果をあげています。

 また、東南アジア歴訪についてはインドネシアでの反日暴動の印象が強く、福田赳夫の「福田ドクトリン」の枕話のように語られることが多い、田中の東南アジア歴訪ですが、この本ではフィリピンではマルコス大統領と親密な関係を築いたこと、タイではインドネシアではできなかった学生との対話を行うなど、反日暴動以外の出来事についても触れています。
 
 1974年10月に立花隆によって田中の金脈問題が明らかにされると、田中に対する世間の批判が高まり、田中は退陣することになります。
 ただ、著者は田中の失速の原因をむしろ1973年の超大型予算に見ています。この予算はインフレを加速させ、インフレの進行は内閣支持率の低下となってはねかえってきました。1973年5月の朝日新聞が報じる田中内閣の支持率は27%であり、前年8月の支持率67%から急落しています。人々の心は金脈問題の前からすでに田中から離れていたのです(159-160p)。
                                      
 そして、個人的にもっとも興味深かったのがロッキード事件に関する記述です。
 以前から、「なぜ田中角栄は受託収賄罪で実刑判決を食らったのか? 「闇将軍」と言われるほどの力があったのだから外為法違反あたりでお茶を濁せなかったのか?」と思っていて、あれだけ世間を騒がせたのだから無罪放免とはいかないまでも、田中の政治力をもってすればもっと別の落とし所があったはずだという印象がありました(だからこそ、アメリカの「陰謀説」にも少し説得力が残ってしまう)。

 ところが、この本を読むと田中が実刑判決を受けたのは基本的に田中側の戦略ミスだったことがわかります。
 まず、自分が辞めたあと、盟友の大平を後継にするのではなく、椎名暫定総裁を立てようとしたことが三木武夫内閣を生み出し、その三木がロッキード事件の究明に前のめりになっていきます。
 さらに、逮捕1週間前の1976年の7月20日に、衆議院議長の前尾繁三郎から「ある人から頼まれたんだが、この際、議員バッジを外すことはできないか」と電話で言われます。この「ある人」とは布施検事総長であり、議員辞職をすれば逮捕せずに在宅起訴で済ませるということだったのですが田中はこの申し出を一蹴してしまいます(244ー245p)。

 また、田中の基本戦略は5億円の授受自体を認めないというものでした。この戦略を維持するためには5億円を受け取ったとされる秘書の榎本敏夫と口裏を合わせる必要がありましたが、特に榎本と綿密な打ち合わせをした様子もなく、榎本は逮捕され、5億円の授受を認めてしまいます。
 田中事務所の金の流れを管理していたのは佐藤昭で、田中が初期の段階で佐藤と話し合っていれば違った展開もあったかもしれませんが、田中はこの問題に佐藤を巻き込みませんでした。著者はこれについて「30年前の初出馬から連れ添い、認知できない女児を育ててくれている佐藤への親心にも似た愛惜だろう」(247p)と推測しています。

 この逮捕前後の田中の行動について著者は次のように述べています。
 仮に田中が前尾を通じて検察の動向を探り、榎本と事実関係を検討し、五億円の授受を認めつつもその性質が収賄でないことで争っていたら、裁判は有利に展開したのではなかろうか。
 だが、現実は逆である。田中は何の戦術もないまま逮捕された。秘書の配置を含めて、危機管理が甘かったといわねばなるまい。田中の生涯について、最も疑問を覚えるのはこの油断である。卑近な表現だが、裸の王様になっていた感が否めない。(245ー246p)

 この後、派閥抗争では相変わらずの冴えを見せる田中ですが、公判に関しては榎本のアリバイを証明しようとするもののうまくいかず、むしろ榎本の元妻の「ハチの一刺し」と言われた証言によって窮地に追い込まれていきます。
 実刑判決を受けたあとの控訴審では、当時の中曽根首相を法廷に証人として呼び、首相の職務権限を否定させようとするなど苦し紛れの手に出ようとし中曽根に拒否されます(320ー321p)。
 裁判闘争とともに酒量も増え、若手は田中の元を離れ始めます。そして1985年に竹下登が創政会を立ち上げ、直後に田中は脳梗塞に倒れるのです。

 著者は、現金の受け渡し場所、職務権限、コーチャンへの嘱託尋問の合法性などさまざまな疑問点はあるが、5億円の授受はあっただろうという立場です。
 また、「陰謀説」の根拠としてあげられるロッキード社の機密文書が誤ってアメリカの
チャーチ委員会に届けられたとする「誤配説」については、それを報じた『朝日新聞』の記事が誤報であったと指摘しています(237ー239p)。
 
 著者の描くこうしたロッキード事件の見取り図は個人的に非常に腑に落ちるものでした。リアルタイムにロッキード事件の公判を見ていた人は承知していることかもしれませんが、「陰謀説」や「戦後最大のフィクサー児玉誉士夫」みたいな話があふれる中で、ロッキード事件のあらましを冷静にまとめてくれたことは貴重だと思います。
 最初に述べたように日中国交正常化に関する記述が薄いという部分はありますが、文句なしに面白い評伝だと思います。

田中角栄 昭和の光と闇 (講談社現代新書)
服部 龍二
4062883821

渡辺将人『アメリカ政治の壁』(岩波新書) 7点

 副題は「利益と理念の狭間で」。近年、分極化の様相を強めているアメリカ政治について、それを単純に2つに色分けするわけではなく、砂田一郎の「利益の民主政」と「理念の民主政」という概念を使って、その複雑な様相を解き明かそうとした本(著者が前に書いた『見えないアメリカ』(講談社現代新書)と共通するテーマですが、こちらのほうが時事的な内容です)。
 著者は現在は大学の准教授ですが、元はジャーナリストであり、この本もアメリカのさまざまな人に取材したルポ的な要素の強いものになっています。そのため、ややまとまりの弱い部分もありますが、途中にアメリカ映画についてのコラムを挟み込むなどして、日本からは見えにくい「アメリカの姿」を浮かび上がらせようとしています。

 目次は以下の通り。
1 揺れ動くアメリカの民主政治
2 アメリカ政治の壁1
3 アメリカ政治の壁2
4 リベラルの混迷と出口探しの行方

 「1 揺れ動くアメリカの民主政治」は、今回の大統領選挙についての分析です。
 著者は大統領選を勝ち抜くには、「玉」(候補者の資質)、「風」(その時の政治情勢)、「技」(周囲の人材や資金)が必要だといいます(8p)。
 特に著者は「風」が重要だと言います。2008年の大統領選の民主党予備選挙でオバマを勝たせたのはイラク戦争への幻滅という大きな「風」でした。ヒラリー・クリントンはイラク戦争への賛成していたため逆風を受け、反対していたオバマには追い風となったのです。
 今回の大統領選挙においても、この「風」は続いていて共和党の最有力候補に思われたジェブ・ブッシュを敗退に追い込みました。集会のたびに聴衆から「イラク戦争の責任は」と問われ、体力をすり減らしていったのです(36ー37p)

 そんな中で、「風」に乗ったのがトランプでした。
 まさに「旋風」を巻き起こしたトランプですが、著者はトランプのような候補者が支持される素地はあったと言います。
 これまで文化的に保守的な層は「小さな政府」という「理念」を優先して、自らの利益になるはずの医療保険改革や富裕層増税に反対してきた。しかし、反移民や「アメリカ第一」など文化的に保守的な主張を訴えながら、その一方でグローバル企業ではなく国内産業を守る保護貿易を唱え、医療保険や再分配を重視するという「利益の民主政」を添え木する候補者が登場すれば、貧しい文化保守の有権者が支持する可能性が生じる。(32p)

 1960年代以降、白人の労働者層の多くが、マイノリティ重視の「承認の政治」を展開した民主党を離れ共和党支持者となりました。「理念」に賛同できなかったからです。しかし、共和党は彼らとは「理念」を共有するものの、その「利益」を実現しようとはしませんでした。
 共和党は「小さな政府」と「キリスト教道徳」という「理念の民主政」でまとまってきましたが(39p)、トランプはそれを揺るがす存在なのです。

 一方、民主党の予備選において「旋風」を巻き起こしたのがサンダースでした。
 サンダースには「オバマの行儀のいい「中庸」」(47p)への失望という「風」が吹きました。オバマに「チェンジ」を期待したものの、それが果たされなかったと感じた若者を中心に、より過激なサンダースへの支持が集まったのです。
 また、著者はサンダース旋風の影には、リベラル派の支持するエリザベス・ウォーレンの存在があるといいます。ハーヴァート大のロースクールの教授から上院議員となり、消費者の立場から金融機関と対決してきたウォーレンは、今回の予備選の「見えない候補」として、ヒラリーの政策にも左」からプレッシャーをかけ続けていたといいます(50-51p)。そのウォーレンが出馬しないということで、ウォーレンに期待していた層がサンダース支持へと流たのです。

 「2 アメリカ政治の壁1」では、民主・共和両党の支持基盤の複雑な関係を、主に民主党の内情を中心に紹介していきます。
 例えば、環境保護団体の多くは民主党よりであり、環境保護は民主党候補の優先する理念の一つです。
 しかし、同じく民主党の支持基盤である労働組合は自らの職を守るために環境保護を進めることに反対だったりします。同じように石炭や石油がでる州出身の民主党議員たちも環境保護に反対します。ここでは「理念」よりも「利益」が優先されるのです。

 一方、共和党の「理念」は自由貿易であり、TPPにも賛成が多いと思われていますが、これについても州ごとの「利益」によって出身議員の賛否は変わってきますし、また、対中国政策からTPPに反対する人々もいます。
 日本だとTPPを一種の「対中包囲網」と考える人がいますが、アメリカでは「中国はヴェトナムがTPP加盟国として享受するアメリカ市場へのアクセスを周辺から横取りするためにヴェトナムに数十億ドルを投資している」「中国はヴェトナムの輸出で利益を得て、軍事的、経済的な地域での影響力を増す」(93p)といった、やや理解の難しい論理でTPPに反対する勢力もいるのです。

 また、キリスト教の強い影響力もアメリカの政治を複雑にしています。
 カトリックは元々民主党の支持基盤ですが、中絶問題ではリベラルな立場を取る民主党とは相容れない立場で、中絶問題は常に厄介な問題でありつづけています。

 「3 アメリカ政治の壁2」では、ブッシュとオバマの外交政策、連邦上院議会で長きに渡って重鎮として活躍したハワイ選出の上院議員ダニエル・イノウエの政治スタイルと、ソの後継者争いの顛末などについて書かれています。
 オバマの出身地であるハワイの政治情勢など興味深い点はありますが、ややまとまりの弱い部分だと思います。
 ただ、次の部分は今後の中東情勢を読み解く上でポイントになる部分でしょう。
 NBC放送の政治記者チャック・トッドによれば、二期目の初動のころ、バイデン副大統領はオバマに高助言していた。
 「中東では突発事態の管理だけにしておくのです。コミットしてはなりません。何も成果は出ません。それほど混乱の根は深いのです。国益を死守し、テロの根絶と、国の経済的な将来が約束されているアジア、中南米に集中してください」(150p)

 「4 リベラルの混迷と出口探しの行方」では、第二次大戦後のアメリカ政治を振り返りつつ、民主党の今後が展望されています。
 ビル・クリントンに代表される「ニュー・デモクラット」は、ビジネスを重視した中道化路線でホワイトハウスを奪還しましたが、イラク戦争とリーマン・ショックを経て、「ニュー・デモクラット」や労働組合や環境団体を「エスタブリッシュメント」とみなし、それを批判する「アウトサイダー」が勢いを得ています。
 しかし、「アウトサイダー」的なオキュパイ運動が大きな成果をあげることなく消えたように、「アウトサイダー」的な勢力には限界があります。
 著者は、「ニュー・デモクラット」、「エスタブリッシュメント」、「アウトサイダー」が問題ごとにいかに連携できるかが今後の鍵だといいます。

 著者はヒラリー・クリントンや民主党のシャコウスキー下院議員の選挙スタッフを務めたということもあって、どちらかというと民主党よりの観点からアメリカ政治を見ています。
 そのため、後半部分は共和党に関する記述がやや弱いのですが、「トランプ現象」などはわかり易く解説してありますし、大統領選を控えた今のアメリカ政治情勢を知る上で有益な本と言えるでしょう。とりあえず「1 揺れ動くアメリカの民主政治」を読めば、今度のアメリカ大統領選挙において何が有権者を動かしているのかということがわかるはずです。

アメリカ政治の壁――利益と理念の狭間で (岩波新書)
渡辺 将人
4004316162
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通勤途中に新書を読んでいる社会科の教員です。
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