山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期

ここブログでは新書を10点満点で採点しています。

岡本隆司『世界史序説』(ちくま新書) 9点

 新書だけでも、『李鴻章』『袁世凱』(ともに岩波新書)、『近代中国史』(ちくま新書)、『日中関係』(PHP新書)、『中国の論理』(中公新書)など精力的に著作を発表している著者ですが、今回のタイトルはなんと『世界史序説』。近年、流行しているグローバル・ヒストリーに対し、東洋史の立場から「もう一つの世界史」を提示するという非常に野心的な内容となっています。
 正直なところ、著者の描き出す世界史像がどれだけの実証性を備えているものなのかはわかりませんが、地中海→大西洋→グローバルといった形で描き出されることが多い「西洋史」からの「世界史」ではなく、農耕民と遊牧民が混ざり合うユーラシアから描き出された「世界史」は非常に刺激的です。

 目次は以下の通り。
はじめに 日本人の世界史を
第1章 アジア史と古代文明
第2章 流動化の世紀
第3章 近世アジアの形成
第4章 西洋近代
おわりに 日本史と世界史の展望

 近年、さかんに「グローバル・ヒストリー」という言葉が使われるようになり、歴史を国別ではなく世界全体から見る、さまざまな地域の関係性を見る、といったことがさかんに行われるようになっています。
 また、以前は大航海時代以降はずっと西欧が世界をリードしていたという視点が一般的でしたが、例えば、ポメランツの『大分岐』では産業革命前までは中国や日本も同じように発展しており、さまざまな偶然から起こった産業革命によって「大分岐」が生じたという見方が打ち出されています。

 しかし、著者はこうした見方もあくまでも西洋中心の歴史であり、西洋と東洋のさまざまな質的な違いを無視した議論だといいます。
 現在の「世界史」においては、時代区分なども西洋史のものを当てはめるような形で考えられており、いわば、西洋の歴史を説明するためにつくられたさまざまな図式に東洋の歴史を無理にはめ込んだようなものなのです。

 そこで、この本ではまず、宮崎市定にならって文字の排列法に注目し、右から左の西アジア、左から右の南アジア、上から下の東アジアに分類します(46p図5)。
 その上で、オリエント、インダス、黄河流域のいずれもが、農耕民族と遊牧民族の隣接地域であることに注目して、ここに古代文明の成立条件をみています。
 例えば、中国では黄河と長江の流域に文明が誕生しましたが、最終的に勝ち残ったのは「中原」と称される黄河流域でした。これは中原が遊牧民族と隣接する地域で、その軍事力や商業ネットワークにアクセスすることが可能だったからだと考えられます。

 4~5世紀は西では西ローマ帝国が滅亡し、東では漢帝国滅亡後の争いが続くという混乱の時代でした。この原因は地球の寒冷化だと考えられています。
 遊牧民族の南下によって西ヨーロッパや中原は混乱し、荒廃した農地を耕作させるために流民を土地に縛り付けて耕作させる制度が採用されました。東アジアでは均田制であり、ヨーロッパでは封建制になります(65p)。
 また、この時代に発展したのが仏教、キリスト教、イスラームといった世界宗教でした。危機の時代にあって信仰の熱が高まったのです。
 現在、仏教は他に比べ信者数などでマイナーな存在となっていますが、この時期には大乗仏教が東アジアに急速に普及しており、日本の遣隋使も「仏教」を一つの口実とした使者だったように(94p)、東アジアを覆う勢いを見せました。

 オリエントでは6世紀になると、東ローマ帝国のユスティニアヌス帝、ササン朝のホスロー1世が、互いに和睦した上で東ローマは西にササン朝は東へと拡大し、繁栄しますが、7世紀になると再び両国は戦うようになります。
 そんな中で誕生したのがイスラームです。アラビア半島で生まれたこの宗教は、シリア、エジプト、ペルシャを征服し、オリエントの統一を成し遂げました。そして地中海も支配するようになったのです。

 一方、中央アジアでは、シルクロードの商業地帯に住んでいたイラン系のソグド人をトルコ系の遊牧民族の突厥が支配するようになります。
 このソグドの商業経済力と突厥の遊牧軍事力の組み合わせは強力で、突厥は非常に大きな勢力となりましたが、7世紀になると唐が突厥を服属させます。唐はソグド人の商業ネットワークとつながるようになり、唐の影響力は中央アジアへと広がっていきます。
 ここに長らく混乱してきた東アジアと西アジアは、唐とイスラームという形でまとまることになるのです。

 しかし、唐は8世紀の安史の乱を境に衰えていき、東ユーラシアの統合は解体していきます。
 一方、西ではウマイヤ朝にアッバース朝が取って代わりますが、アッバース朝からイベリア半島や北アフリカ地域が離脱していき、ウマイヤ朝に比べると東向きな政権となりました。
 中央アジアではトルコ化が進み、ソグド人と融合する形で勢力を広げます。この背景には地球の温暖化があり、草原の再拡大とともにトルコ人の勢力が広がっていったと考えられます(112-114p)。
 中国の北方では、モンゴル系の部族である契丹が勢力を伸ばし、華北に進出し、「遼」と称します。これに対抗するために、中国では「唐宋変革」と呼ばれる変革の中で皇帝に権力が集中するしくみが整えられ、北方の遊牧民族と対峙しました。

 しかし、ここでその均衡を打ち破り、ユーラシアを統合する動きが起こります。チンギス・カン(この本はカン表記)とその子孫たちによるユーラシアの征服です。
 チンギスは武力によってモンゴル高原と中央アジアの統合を成し遂げましたが、その子のオゴデイの代になると、駅伝制度が整えられるなど、巨大な領域を支配する仕組みがつくられていきます。
 モンゴルはさらに金を殲滅させ、ロシアから東欧へと遠征し、アッバース朝を滅ぼしてシリアに進出し、エジプトを窺います。モンゴルの拡大は、南宋攻略を除くと、クビライが大カーンに即位したあたりで停止しますが、モンゴルによってユーラシアは一つになりました。

 モンゴルのもとにはウイグル人やイラン系のムスリムなどが集まり、彼らの商業資本やネットワークを活かす形で広大な地域を支配していきます。
 クビライは都を大都(今の北京)に定めましたが、北京のあたりは農耕世界の北限であり、遊牧世界の南限に位置します(149p)。クビライはこの大都と遊牧世界に位置する開平を拠点に、ユーラシアの商業ネットワークを支配しました。
 税も商業の流通過程から取り立て、また、兌換紙幣を発行し、貨幣経済を拡張しました。

 しかし、このモンゴルも14世紀後半に地球の寒冷化とともに訪れた「14世紀の危機」の中で崩壊していきます。
 中央アジアではモンゴルはトルコ人ムスリムと混淆しティムール朝をつくります。このティムール朝は衰えていきますが、その末裔はインド方面に侵入しムガル朝をつくりました。
 また、西アジアではサファヴィー朝やオスマン帝国が、それぞれモンゴル的な要素を取り入れながらイスラームによってさまざまな民族を包摂しました。
 
 一方、中国では「 反モンゴル」色の強い明が成立します。明は反商業・反貨幣というモンゴルとは対照的な経済政策をとり、貿易も厳しく制限しました。また、遊牧民と農耕民を隔てる万里の長城を改めて構築しています。
 しかし、中国における商業や手工業の発展は深刻な貨幣不足をもたらし、明の海禁政策を揺るがしました。いわゆる「北虜南倭」は北のモンゴルと南の倭寇を差しますが、これは中国経済が貴金属という貨幣を求める中で起こった動きとも言えます。

 明に代わった清は、皇帝が中華の皇帝とモンゴルの大カーンを兼ねることで遊牧世界とのつながりを回復しますが、このころになると交易に中心は陸から海い移りつつありました。
 そこで存在感を増してきたのが、今までユーラシアの中では孤立していたインドです。そして喜望峰をまわってインドに到達したヨーロッパ人たちもインドを中心とした海洋貿易に参加していきます。
 また、ヨーロッパ人が新大陸で発見した銀は中国に流れ込み、中国社会の商業化を進めていきます。さらに中国には隣国の日本からも大量の銀が流れ込みました。

 そして、ここでようやく著者はヨーロッパを論じ始めます(第4章)。ヨーロッパ世界は800年のシャルルマーニュによる西ローマ帝国の復興に始まりますが、ヨーロッパは地中海やオリエントからは切り離されていました。シチリア島は9世紀後半にイスラームの支配するところとなりましたし、ヨーロッパはユーラシアの中で孤立した存在だったのです。
 しかし、温暖化が進むとヨーロッパの農業は生産力を増し、北方にいたノルマン人がシチリアと南イタリアを占領してシチリア王国を建てます。

 このシチリアの王から神聖ローマ帝国の皇帝となり、ルネサンスを準備したと考えられているのが大帝フリードリヒ2世です。フリードリヒ2世はアラビア語やギリシア語を駆使して、近代的な官僚制を整備し、傭兵部隊をつくり上げました。
 フリードリヒ2世の目指したイタリア統一はかないませんでしたが、彼の衣鉢を継ぐような形で北イタリアの都市が発展し、ルネサンスが始まります。商業や金融の技術も発展し、ヨーロッパは地中海、そして大西洋へと乗り出していくことになるのです。

 ヨーロッパではまずスペイン・ポルトガルが世界へ進出し、やがてその地位はオランダ、そしてイギリスへと移っていきます。
 その中でもイギリスは、たんなる海運・通商帝国から政治・軍事的な帝国へと発展していきました。著者はこの背景にイギリスの歴史の中で培われた「法の支配」の存在を見ています。
 そして、産業革命が世界の商品の流れを変えました。今までのスペイン・ポルトガルやオランダはアジアに銀を運び、アジアの商品を買い付けていましたが、産業革命によってイギリスはついにアジアから富を流出させることに成功したのです。
 このヨーロッパの優位をもたらした背景には、新大陸の富を背景にした経済力や軍事力といったものがありますが、それととに著者があげるのが「信用」の問題です。中国では法制度の問題もあって仲間内を超える「信用」はなかなか生まれませんでしたが、ヨーロッパの小国では小国ゆえのきめ細かな統治の中で、こうした法制度が整えられていきました。

 「おわりに」で著者は日本についても簡単に触れていますが、日本には大陸のような遊牧世界と農耕世界のダイナミックな交流は存在せず、ヨーロッパに似た農耕一元社会の中で細やかな統治が行われました。
 近世の成立過程における一向宗やキリスト教徒への弾圧は一種の政教分離を生み、また、鎖国は中国からの輸入を代替する産業(生糸や綿花)を生みました。こうして、日本社会は近代へと移行する準備を整えたのです。

 著者の描く大きな見取り図をこの記事でどれだけ紹介できているかは自信のないところもありますが、壮大かつ、教科書に載っている、あるいは「グローバル・ヒストリー」と銘打つ本とは一味違う「世界史」が描き出されていることはわかると思います。
 最初にも述べたように、この本で提示されている見取り図をどの程度実証できるのかということはわかりませんが、間違いなく面白いですし、世界史に対する新たな見方を提供してくれる本です。


世界史序説 (ちくま新書)
岡本 隆司
4480071555

廣瀬陽子『ロシアと中国 反米の戦略』(ちくま新書) 7点

 日本でニュースを見ていると、日露関係、日中関係はわかります。そして米露係、米中関係というのもよく報道されるのである程度はつかめるでしょう。
 では、中露関係はどうかというと、「反米で連携している」というくらいのイメージしか伝わってこないと思います。上海協力機構(SCO)の名前を知っている人もいるでしょうが、何をしているかというニュースはあまり流れてきません。
 そんな中露関係の内実を主にロシアの立場から分析したのがこの本。著者は『強権と不安の超大国・ロシア』(光文社新書)や『コーカサス 国際関係の十字路』(集英社新書)などの著作でソ連崩壊後のロシアと周辺国の状況を分析してきた国際政治学者で、テレビや新聞などからはなかなか見えてこない「ユーラシア」をめぐる中露の駆け引きを知ることができる内容です。

 目次は以下の通り。
序章 浮上する中露―米国一極支配の終焉
第1章 中露関係の戦後史―警戒、対立、共闘
第2章 ロシアの東進―ユーラシア連合構想とは何か
第3章 中国の西進―一帯一路とAIIB
第4章 ウクライナ危機と中露のジレンマ
第5章 世界のリバランスと日本の進むべき道                          

 中露の基本的関係については、第4章の199pに掲載されている図5がわかりやすいです。
 中露の関係は「離婚なき便宜的結婚」と呼ばれていますが、これは中露がお互いに愛し合っている(価値観を共有している)わけではないが、国際政治において互いを必要としているということです。
 まず、一致する利害として最大のものはアメリカの一極支配を許さず多極的な世界を維持するということがあげられます。中露が連携することでアメリカというスーパーパワーに対抗することができますし、安保理での孤立も避けられます。
 また、ロシアはエネルギーを売る相手として中国を必要としていますし、中国は軍事技術を供与してもらう相手としてロシアを必要としています。

 一方、上海協力機構やBRICS(中露印ブラジルにあとから南アフリカ(S)も参加)でどちらが主導権を握るか、ロシアから中国に供給される天然ガスの価格をめぐって両者は微妙な関係にあります。
 さらに、中国の「一帯一路」政策はロシアの勢力圏に中国が入り込んでくることであり、地政学的には中露は潜在的な敵対関係にあるとも言えます。他にもロシアの軍事技術を中国がコピーすることに対してロシアは神経質になっています。
 対アメリカという点では連携することの多い両国ですが、お互いに完全に信頼し合える相手というわけでもないのです。

 この本では、こうした中露の複雑な関係を近年のさまざまなトピックを通じて読み解いていきます。
 ロシアの前身であるソ連は、中華人民共和国成立当時は中国と非常に緊密な関係を築いていましたが、56年のフルシチョフによるスターリン批判以来その関係は悪化、1969年には国境をめぐって武力衝突も起きています。
 しかし、ソ連崩壊後は1996年の上海ファイブ(のちの上海協力機構)の発足(発足時は中露とカザフスタン、キルギス、タジキスタンの5カ国)、2004年の国境問題の解決によって中露の関係はぐっと縮まりました。
 イスラーム過激派への対応、そして何よりもアメリカの一極支配への対抗という点で両者の利害は一致したのです。

 ただし、例えば上海協力機構内においても主導権争いはあり、ロシアがインドを加盟させようとするとインドとの国境問題を抱える中国はパキスタンの加盟を目指し、結局、2017年に両国が加盟するといったことも起きています(31p)。
 
 2012年にプーチンが首相から大統領に返り咲くと、アジア・太平洋地域重視の戦略を打ち出しました。その中心となるのが2011年にプーチンが打ち出したユーラシア連合構想です。
 これはまずロシア、ベラルーシ、カザフスタンによる「関税同盟」を創設し、そこにタジキスタン、キルギスといった小国を加え、共通通貨の発行なども視野に入れたユーラシア経済同盟(EAEU)を発足させ、やがてそれを「ユーラシア連合」へとつなげていこうというものです(49ー50p)。
 これは「ソ連の復活」を目指すものにも思われますが、「中国への対抗」という要素も強いと考えられています。

 近年、中国の動きとして注目されているのが「一帯一路」政策と、アジアインフラ銀行(AIIB)の創設です。
 一帯一路の「一帯」は中国西部から中央アジアを経由してヨーロッパにつながる「シルクロード経済ベルト」、「一路」は中国沿岸部から東南アジア、スリランカ、アラビア半島の沿岸部、アフリカ東岸を結ぶ「21世紀海上シルクロード」を指すとされ、さらに「一路」には北極海を通じて中国とヨーロッパを結ぶ「氷上シルクロード」も含まれるとされます。
 ただし、この「一帯」と「氷上シルクロード」の部分がロシアの勢力圏とバッティングするのです。
 
 まず、「一帯」に含まれる中央アジア諸国ですが、カザフスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタン、アゼルバイジャンといった国々はいずれも中国が必要とする石油や天然ガスなどの資源を有する国であり、中国はこれらの国で油田の権益を獲得したり、パイプラインの敷設を行っています。
 しかし、これらの地域はロシアが勢力圏として確保したい地域でもあります。以前は、これらの地域の天然ガスに関して、ロシアが「独占的に安価で天然ガスを輸入し、欧州に高く売りつけ、高いマージンで甘い蜜を吸っていた」(65p)のですが、中国の進出でそれも難しくなりました。
 
 一方で、ウクライナ紛争以降、欧米から経済制裁を受けるロシアにとって中国からの投資は必要不可欠なものですし、この地域のインフラ整備にはロシアにとっての利点もあります。
 ロシアとしてはこの地域における経済分野での中国の進出を許容しつつ、政治や軍事の麺ではロシアのプレゼンスを維持したいといったところでしょうが、そうした棲み分けができるかどうかは不透明です。

 さらに新たな焦点となっているのが北極圏です。地球温暖化の進展とともに北極海航路の利用が可能になりつつあります。そこで中国が狙うのがこの北極海航路を利用した「氷上シルクロード」です。
 今までのスエズ運河を通る航路では約45~48日かかっていた日数が約2週間に短縮でき、おまけにソマリアの海賊もいません(116p)。北極海航路は中国に大きなメリットをもたらす可能性があるのです。
 
 しかし、この北極圏はロシアの裏庭というべき場所であり、ロシアはこの北極海航路をコントロール下におきたいと考えているはずです。
 近年、ロシアは北極圏でさまざまな軍事訓練を行い、北極海に面した地域に次々と基地を建設していますが、これらはロシアはこの地域で主導権を握っていこうとする意志の現れでしょう。

 このようにロシアと中国は勢力圏をめぐって緊張関係にあるとも言えるのですが、2013年のウクライナ危機以降、ロシアが国際社会で孤立する中でロシアにとって中国はなくてはならない存在となっています。
 経済的にも中国の力を借りなければロシアの経済やユーラシア経済圏の建設は立ち行かないわけで、プーチンと習近平はたびたび協調姿勢を打ち出しています。

 ただし、中国とウクライナも実は緊密な関係にあります。ウクライナと中国はヤヌコーヴィチ大統領時代に中国ウクライナ友好協力条約を締結しており、「その中に、もしウクライナが核の脅威に直面した場合には、中国が相応の安全保障を提供するという条項があると言われてい」(139p)ます。
 また、中国は長年ウクライナから軍事技術を得ていました。ソ連時代に軍需産業が立地していたウクライナにはさまざまな軍事技術が蓄積されており、中国はウクライナを通じてその技術を得ていたのです。
 中国の空母「遼寧」も、もとはソ連時代にウクライナで建造されていた空母「ワリャーグ」であり、それを民間企業経由で使途を偽って購入し、「遼寧」へと改造されました。この「遼寧」の艦載機の殲15もウクライナから購入したロシアの戦闘機Su-33の無認可コピーです(153p)。

 こうした兵器のコピーは中露関係の棘となっている問題の一つです。
 ロシアの軍需産業にとって中国は大きな輸出先ですが、同時に自分たちの技術を勝手にコピーし、それをもとに輸出まで行う厄介な存在でもあります。
 中国はロシアから戦闘機のライセンス生産を行いつつ、そのエンジンなどをコピーするということを行っており、ロシアから知的財産を侵害していると訴えられています。

 このようなことを含む中国への警戒感もあって、戦闘機も中国向けにはSu-30MKKというダウングレート版が輸出されており、これはインド向けに輸出されているSu-30MKIよりも性能が落ちるそうです(159ー160p)。インド>中国というところに、ロシアの中国に対して秘めた不信感としたたかさが窺えます。
 ちなみにこの軍事技術に関する部分は、戦闘機以外にも潜水艦、地対空ミサイル、弾道ミサイルなどについても詳述してあって、「廣瀬先生はミリオタなのか?」と思ってしまうくらいですね。

 最終章では、日本の立ち位置と今後の外交についても触れています。
 ロシア以外の旧ソ連の国々は、欧米とロシア、あるいはロシアと中国の間に挟まれた「狭間の国家」だと言えます。この「狭間の国家」に必要なのはバランス感覚で、例えば、欧米に寄り過ぎたジョージアやウクライナはロシアから報復されました。
 著者は、日本は小国ではないといえ、この「狭間の国家」に似た位置を占めているといいます。米露の狭間にあって、ある程度のバランスを保つ必要があるからです。
 著者はロシアと中国のバランスに関して、「中央アジアにおける覇権争いでも、中国に負ける兆候はすでに見え始めている」(227p)とロシアについて悲観的ですが、だからこそ、ロシアが日本にアプローチしてくるという展開もありえるでしょう。
 
 全体的に構成がごちゃごちゃしていてやや読みにくい部分もあるのですが、アメリカがトランプ大統領のもとで迷走し、中国とロシアが存在感を増す中、この本に書かれている情報や、国際政治の見方は、非常に有益なものだと思います。
 現在の世界情勢を把握する上でも、今後の日本の外交を考えていく上でも、役立つ本です。


ロシアと中国 反米の戦略 (ちくま新書)
廣瀬 陽子
4480071539

久保田哲『帝国議会』(中公新書) 6点

 副題は「西洋の衝撃から誕生までの格闘」。帝国議会そのものの歴史を扱った本ではなく、帝国議会の開設史になります。
 ペリー来航の衝撃に対処するために唱えられた「公議」が、西洋流の議会という形で定着するまでの40年弱の歴史を、帝国議会に先立つ立法組織の模索や、伊藤博文による議会制度の設計などに焦点を当てて描いています。
 全体として手堅い内容ですが、このテーマに対してやや切り口を絞りきれなかった印象も受けます。

 目次は以下の通り。
序章 発見―西洋の議会と維新の理念
第1章 始動―民選議院の要求、元老院の開設
第2章 抗争―自由民権運動、明治一四年の政変
第3章 西洋―英仏とは異なる議会の模索
第4章 設計―欽定憲法下の議会とは
第5章 完成―帝国議会の開会
終章 軌跡―日本にとっての議会とは

 1853年のペリー来航により日本の政治は大きく変わっていくわけですが、その変化は欧米列強との対峙だけではなく、老中の阿部正弘が「公議」をもとに政治を行おうとしたことによってもたらされました。
 今まで幕府の政治は徳川家と譜代大名に独占されていたわけですが、阿部正弘は広く天下の意見を聞こうと考えたのです。これによって今まで政治から排除されていた親藩・外様の大名、そして大名以外の武士からも政治参加を求める声が高まっていきます。
 著者は、この時代に「公議」という考えが広く受け入れられていった背景として、もともと日本では合議によって政治的決定を行う伝統があったことをあげています(13-15p)。

 明治新政府が発足すると、その政治方針が五ヶ条誓文として示されます。
 当初の由利公正の案には第五条に「万機公論に決し、私に論ずるなかれ」という条文がありましたが、それを福岡孝弟が「列侯会議を興し、万機公論に決すべし」という形で第一条に置き、さらに木戸孝允が「広く会議を興し、万機公論に決すべし」と改めました。
 これによって「列侯会議」が「広く会議」に変更されたことで、この条文は近代的な議会へと通じるものとなりました。
 
 1869年3月、法の制定を第一要務とする公議所が開設されます。この会議には諸藩から選ばれた公議人227名が出席しましたが、当時の日本においてこれだけの人数による会議が開かれている例はあまりなく、なかなか議論はまとまりませんでした(30-32p)。
 69年に7月に公議所は集議院へと改称されます。ここでは人びとが提出した建白書が検討され、三条実美や岩倉具視、大久保利通などが列席することもありましたが、集議院の議員の志向が保守的すぎたこと、議論に慣れていなかったこともあって、やはりうまくいきませんでした。

 1871年、新たな立法諮問機関として左院が設けられました。議長に後藤象二郎、副議長に江藤新平が就任し、議案の審議だけでなく、議会の開設や憲法の制定を模索する動きも起きました。
 また、岩倉使節団に参加した木戸孝允も憲法や議会の必要性を考えるようになるなど、徐々に議会の必要性を訴える声が出てくることになります。

 征韓論をめぐる対立から政府が分裂する明治六年の政変が起こると、下野した板垣退助や後藤象二郎らが考えたのが議会開設の要求でした。1874年に民撰議院設立建白書が提出され、いわゆる自由民権運動が起こってきます。
 一方、守旧派からも元老院の設置を求める声が上がります。岩倉具視は島津久光の意向なども取り入れ、民撰議院設立建白書が提出された2ヶ月後に元老院の設置を構想しています。
 
 1875年の大阪会議で木戸と板垣が政府に復帰するとともに、漸次立憲政体樹立の詔を出すことと、元老院を設置することが決まります。ただし、この元老院はメンバーが後藤象二郎、勝安芳(海舟)、陸奥宗光、加藤弘之らだったことからもわかるように、岩倉が構想したものとは少し違うものでした。
 また、島津久光がこの元老院の議長に就任することに意欲を見せたこともあって(結局、就任はせず)、元老院の権限拡大は進みませんでした。

 1877年、西南戦争で西郷隆盛が敗れると、武力による新政府転覆の可能性はほぼなくなり、代わりに自由民権運動が盛り上がっていくことになります。
 一方、政府も1878年に地方三新法を制定し、地方議会への設置へと動きます。設置された府県会では自由民権派が台頭し、岩倉は府県会廃止の意見書を提出しますが、府県会は維持されました(90p)。

 自由民権運動が盛り上がる中、1879~81年にかけて参議たちは立憲政体についての意見書を提出していきます。
 山田顕義、井上馨、伊藤博文は議会開設の必要性を説きましたが、例えば伊藤の考えは、まずは将来の議会解説に備えて上院(元老院)を強化するというもので、いずれも慎重なものでした(102-105p)。
 その中で急進的な意見を示したのが大隈重信でした。大隈はイギリス流の議院内閣制を念頭に置き、82年までに憲法公布、83年までに議会開設というロードマップを示したのです。
 他の参議たちはこの大隈の意見に反発、結局、大隈は明治十四年の政変で政府を去ることになります。そして、同時に9年後の国会開設を約束した国会開設の勅諭が出されるのです。

 これを受け、憲法制定と議会開設のために伊藤博文が渡欧します。まずは、ドイツのグナイストに師事することを決め、グナイストや弟子のモッセから講義を受けることになるのですが、ドイツ語の通訳を交えた講義は理解がうまく進みませんでした。
 伊藤の理解はウィーン大学のシュタインの講義を受けたことで大きく進みます。もともとシュタインは英字新聞で福沢諭吉の論考を読むなど、日本に関心を持っており、何よりも英語での講義を行いました。
 イギリスに留学経験のある伊藤にとって、言葉の壁が取り払われたことは大きかったようです。

 シュタインは君主の力を尊重しつつも、「君主も国家の一機関であると捉える」「君主機関説」を唱え、「法は議会に可決によって即座に成立するのではなく、君主が生殺与奪の権を握っていることを強調」しながら、「「議会の可決なくしてほうが成立しないことも「憲法の原則」であると説」きました(134p)。

 1883年に帰国した伊藤は憲法制定と議会開設のための諸改革に乗り出します。
 伊藤は将来の上院設置のために華族制度を創設し、内閣制度を創設し、自ら初代内閣総理大臣となります。
 憲法に関しては、井上毅とロエスレルがつくったそれぞれの草案をもとに検討が進められ、1887年8月には「夏島草案」と呼ばれる原案ができあがります。この草案では、議会に「帝国議会」という名称が与えられ、「貴族院」「衆議院」という二院で構成されるとなっていました。
 
 この草案をどのように公表し、審議するのか? 当時の制度からすると元老院に諮るという選択肢もありましたが、憲法制定の主導権を握り続けたいと考えた伊藤は枢密院をつくってそこで審議することを選択し、自ら議長となり、憲法制定のイニシアティブをとります。
 
 議会制度については、まず、衆議院の議員選挙で直接選挙にするか間接選挙にするかという問題がありました。グナイストは伊藤に間接選挙を進めましたが、ロエスレルや井上毅が府県会議員を通した間接選挙の採用が、地方議会の党派性を高めることを危惧して直接選挙を主張しました。結果、伊藤は直接選挙を選択します。
 また、貴族院の名称についても井上やロエスレルは功労者や学識経験者、高額納税者は貴族ではないという理由から貴族院ではなく元老院という名称を主張しましたが、伊藤は既存の元老院との連続性を立ちたいとの思惑から貴族院という名称を選びました。

 一方、民権派は1886年に星亨の呼びかけで大同団結運動が起こり、井上馨の進める条約改正交渉への批判を中心に三大事件建白運動へと発展していきますが、政府はこれを保安条例によって押さえ込みました。ただし、三島通庸が退去の対象者にしようとした後藤象二郎と福沢諭吉は、議会開設後のことも考えて名簿から削除されています(187ー188p)。
 
 憲法はいよいよ枢密院で詰めの審議が行われますが、ここで問題となったのが、法律が議会の"consent"によって制定されるという言葉の翻訳です。これは「夏島草案」の時から問題となっていた部分で、"consent"に「承認」や「承諾」という言葉を当てると、あたかも議会のほうが君主よりも立場が上に見えてしまうのです。
 そこで、「翼賛」という言葉が当初候補として上がりましたが、最終的に伊藤は「協賛」というあまり使われない言葉が用いられることになりました。

 選挙法についても同時に検討が行われ、衆議院の選挙権は25歳以上の男子で直接国税15円以上を納める者、257の選挙区で300名の議員といったことが決まっていきます。また、投票の結果、得票が同数の場合は年長者が当選するという決まりもつくられました(200p)。

 1889年、大日本帝国憲法が発布され、翌90年には第一回衆議院議員総選挙が行われます。
 制限選挙だったというのも今との大きな違いですが、もうひとつの大きな違いは立候補制ではなかったことで、福沢諭吉は選挙前日に自分は議員になる意思はなく自分への投票は無駄であるとの広告を出しています(217p)。
 投票率は93.9%で、今なおこれを上回る投票率はなく、最多得票は松田正久の4548票、当選者の最低得票は浜岡光哲の27票でした(218p)。
 貴族院議員も華族の間での互選や、当時の山県有朋首相のもとでの勅撰議員の選考が行われていきます。一方、元老院は1890年に閉院されました。

 1890年11月、ついに帝国議会が召集されます。貴族院の議長は伊藤博文が務めることが決まっていましたが、衆議院の議長を選ぶのは大変だったようで、マイクもない中で10時間以上かかって中島信行が選ばれました。
 政府と民党が激突した第一義会でしたが、ご存知のように山県内閣が自由党の土佐派を買収で切り崩し、予算を成立させます。ただし、この背景には外国の目もある中で何とかして議会を滞りなく終えたいという意識を政府と民党双方が持っていたことがありました(230ー231p)。
 また、この第一議会を無事に終えたあとの園遊会で、貴族院書記官長の金子堅太郎と衆議院書記官長の曾禰荒助が胴上げされという話は明治国家の「若さ」を象徴するエピソードですね(235p)。

 ここまでがこの本の本論という感じで、この後の動きについては終章で簡単にフォローされています。
 ここまで書いてきたように議会開設の歴史を丁寧に追っており、議会というものをつくり上げるまでの先人たちの苦闘がよくわかる内容になっています。
 ただし、ある程度この時代の政治について書かれた本を読んでいる者からすると、ややや新規性に欠けている感もあります(逆にこの時代にそれほど詳しくない人には丁度良いのかもしれませんが)。
 個人的には、「議会と政府の対立がエスカレートする中で、なぜ伊藤博文をはじめとする藩閥政府の首脳たちが議会を停止しなかったのか?」というところまで筆をすすめるとより面白くなったような気もしますね。


帝国議会―西洋の衝撃から誕生までの格闘 (中公新書)
久保田 哲
4121024923

加藤節『ジョン・ロック』(岩波新書) 8点

 丸山眞男に「17世紀に身を置きながら18世紀を支配した」思想家と言われたジョン・ロック(ii p)。社会契約説、『統治二論(市民政府二論)』の著者、抵抗権・革命権の提唱者、アメリカ独立革命への影響、所有権を理論付けた人物など、いくつかのことが思い浮かぶでしょうし、また、議会政治、寛容、所有権などを考える上で、今なおその出発点となる思想家です。
 そんなロックについての新書ですが、この本は評伝というわけではありません。ロックの生涯に関しては第一章で30ページほどにまとめられているのみです。また、彼の思想を噛み砕いて説明した本でもありません。よく知られている抵抗権や革命権、ロックの所有権の理論などを概観するような部分はほとんどないです。

 では、どんな本なのかというと、「ロックの思想を位置づけた本」という表現があっているかと思います。政治だけでなく認識論や宗教の問題にも多くの思索をめぐらしたロックですが、この本では、そのロックの思考にはいかなる一貫性があり、どのような時代背景と対応しているのかを論じています。
 ここ最近の新書の中では難解な部類で、第2章までは「ロックの思想は難解だ」ということを言おうとしている本にも思えますが、第3章、4章と読み進めるに連れ、その難解さの理由もわかってきます。
 難しい本ですが、格闘する価値のある本だと言えるでしょう。

 目次は以下の通り。
プロローグ―実像をもとめて
第1章 生涯
第2章 思想世界の解読―方法の問題
第3章 政治と宗教―「神の作品」の政治=寛容論
第4章 生と知―「神の作品」の認識=道徳論
エピローグ―ロックからの問い

 第1章ではロックの生涯が語られています。
 ジョン・ロックは1632年に生まれました。父は治安判事の訴訟代理人兼書記をつとめていた人物で、多少の土地を所有するジェントリーでもありました。父・母はともに敬虔なピューリタンで、ロックもピューリタンとして育ちます。
 1642年にいわゆるピューリタン革命が起こると、ロックの父は議会派の騎兵隊の一将校としてこれに参加し、そこでポファムという人物と知り合い、そのポファムの支援もあって、ロックはウェスタミンスター・スクールからオックスフォード大学へと進みました。

 1660年頃になるとロックは思想家として生きる覚悟を決め、『世俗権力二論』、『自然法論』といった著作を完成させます。
 1666年、ロックはアシュリー卿と出会い、侍医としてロンドンのアシュリー卿の屋敷で暮らすようになります。ロックはアシュリー邸で行われていた知識人の集まりに参加するとともに、のちに議会派の大物政治家となるアシュリー卿の政治活動を支えました。

 アシュリーは1672年に国王のチャールズ2世からシャフツべリ伯に叙せられますが、国王の親フランスの姿勢に危機感を覚えたシャフツベリは反国王に転じ、1682年にオランダに亡命し、翌年に亡くなります。そして、シャフツベリの腹心であったロックも1683年にオランダに亡命するのです。
 1688年に名誉革命が起こるとロックもイギリスに帰国します。そして、『寛容についての手紙』、『統治二論』、『人間知性論』を発表し(『人間知性論』以外は批判を恐れて匿名で出版された(26p))、1704年に亡くなっています。

 第2章ではロックの思想が概観されています。
 ロックは内部にさまざまな矛盾を抱えた思想家で、わかりやすい意図や枠組みに沿ってその思想を理解することは困難です。
 例えば、『人間知性論』では経験に先立つ生得性や実在性を否定していますが、『統治二論』では「神の意志」としての自然法が先験的に人間に内在しているとしています(40p)。
 
 著者は、ロックの著作には『世俗権力二論』、『寛容論』、『統治二論』、『寛容についての手紙』の政治=寛容論の系譜と、『自然法論』、『人間知性論』、『キリスト教の合理性』の認識=道徳論の系譜があるとし(49-50p)、その系譜の中での理論変化と、2つの系譜の関係を頭に入れる必要があるとします。
 その上で、著者はロックの不動の信条として「神を人間に服すべき規範をあたえてくれる存在として信仰し、生きるに値する人間の善き生の条件をその規範にしたがって生きることにみいだす」(60p)ということをあげています。

 第3章では、『統治二論』や『寛容についての手紙』に見られるロックの政治論が検討されています。
 「政治的なもの」を全面に押し出したホッブズに比べると、ロックの著作では「政治的なもの」が制限されているように見えます。これがロックが現在の「リベラル」な政治と親和的な理由ですが、ロックがこのような考えに至ったのにはいくつかの理由があります。

 まずは内乱から王政復古、そして名誉革命という動乱の時代を生きた経験です。ロックは政治について「われわれは、それとともに泳ぐか沈むかしなければならない」(69p)と述べていますが、これはそのような時代背景があってこその言葉でしょう。
 また、ロックは、「「政治的なもの」について、「武装」して守るべき自分に固有の領域の外の「世界」から侵入して来る「悪」という印象」(74p)をもっていたといいます。
 ロックにとって政治は人間において不可避なものであり、同時に宗教上の「魂への配慮」といったものから分離されるべき領域なのです。

 ロックの『統治二論』は、フィルマーの王権神授説を批判したものですが、ここでの批判のポイントは、フィルマーが君主の絶対性を強調することで、「神への義務をつらぬく人間の自発性や主体性を否定することになる」(86p)ということでした。
 ロックは神による抑圧を嫌ったのではなく、君主を神格化することが神への義務をおろそかにすることにつながると考えたのです。

 ロックの「プロパティ」論も、ブルジョワ的な自由主義というよりは、この神との関わりの文脈の中で位置づけられます。
 ロックの「プロパティ」は、「「資産」のほかに、人間の身体や人格にかかわる「生命、健康、自由」までをふくむものとされて」(87p)いますが、これらは「それなしに人間が神への義務をはたすことができないもの」(88p)と考えられます。
 ロックにとって「プロパティ」は、神に対する義務を果たすために必要不可欠なものであり、自己保存や再生産を可能にする「資産」もこれに含まれるのです。

 ロックは神は政治的統治の目的に関しては「沈黙して」いると考えました。そこで、次善の目的として想定されるのが「プロパティ」の保全です(94p)。
 つまり、ロックは「「プロパティ」を非政治的な領域として聖域化するために政治的統治が要請されるという逆説的な」(95p)議論を行っているのです。
 ロックの想定する「人間は、自らの「プロパティ」を聖域として他者の侵害から守るためいに、まず、社会契約を結んで自然状態から政治社会に移行し、ついで、政治的統治者を選出した上で「プロパティ」の保全のために彼らに立法能力を頂点とする政治権力を「信託」する」(97p)のです。

 これが有名な抵抗権にもつながります。「プロパティ」を侵害する統治者は、「「プロパティ」の保全を欲する「神の意志」への「叛逆者」」(99p)であり、抵抗は「神の意志」に仕える人間の義務でもあるのです。

 ロックの寛容論の枠組みも「「政治的統治の任務と宗教の任務とを明確に区別」する政教分離論」(107p)でした。
 政治の目的を「プロパティ」の保全だとしたロックは政治権力の「魂の救済」への介入を否定しました。「永遠の生命」を目的とするキリスト教と「現世的利益」にかかわる政治とは、その目指すところに違いがあるとロックは考えていたのです。
 また、ロックは「いかなる人間も生まれながらにある教会の一員であるわけではない」(118p)と考えており、信仰に対して個人主義的な考えを持っていました。
 ここからも自分と異なる宗派や協会に対する寛容が求められたのです。

 ただし、寛容に扱われてはならない者として、ロックは、「「政治社会の維持に不可欠な道徳的規則」を否定する意見の持ち主」、「「統治権力を奪い取り、仲間である臣民の資産や財産を手に入れる」ことを意図して「寛容の義務」を否定する者」、「カトリック教徒のように、「自国のなかに外国の支配権が確立されること」を容認する教会の構成員」、「「人間の社会の絆である約束、契約、誓約」の拘束をうけない「無神論者」」は寛容の対象とならないとしています(123-124p)。

 第4章は『人間知性論』と『キリスト教の合理性』に代表されるロックの認識=道徳論について。
 『人間知性論』は認識論を中心とした本ですが、著者がロックが一番知りたかったことは道徳規範であろうと述べています。
 ロックは、「神は、私たちの関心事の大部分について、人間がこの世で置かれた凡庸と試練との状態にふさわしく、蓋然知という薄明だけを私たちにあたえた」(151p)との言葉を残していますが、神が与えた道徳規範も明示的に示されたものではなかったのです。

 1689年に『人間知性論』は出版されましたが、その後も改訂を続け、第5版まで出しています。これは『人間知性論』がなお未完成の作品であったことを示しています(158p)。
 著者は『人間知性論』が、「神の存在相目」、「神があたえた規範の論証」、「その認識根拠の証明」について問題を抱えていたと考えます(160ー161p)。
 そこで、ロックは「啓示」から人間の生の規範を引き出す方向へと向かいます(167p)。これが『キリスト教の合理性』です。

 ロックは、イエスによって「啓示」された「だから、あなたたちが人々からして欲しいと思うことはすべて、そのようにあなたたちも彼らにせよ」(186p)という一般黄金律を聖書から引き出しますが、それは政治=寛容論で打ち立てた規範を包摂するものでした。
 著者は、この解答を「挫折」であり「後退」でもあるとしますが、同時にロックの知的誠実さを証明するものだとも考えています(188p)。

 エピローグではロックの思想の今日的な意味も考察していますが、簡単に触れられている程度で、ロックの思想が現代にいかなる影響を及ぼしているかといったことに関する言及はそれほどありません。

 このように最初から最後まで面白いという本ではないのですが、第3章と4章、特に第3章は非常に面白いと思います。
 ロックの『統治二論』はかなり昔に読んだのですが、そのときは現代の政治制度に通じる部分だけに注目して、この本で描かれるようなキリスト教思想家としての部分にはあまり気付けていなかったと思います。今回、この本を読んでとても勉強になりました。
 思想家の全体像を提示した本というよりは、狭く深く、その本質を探ろうとした本です。


ジョン・ロック――神と人間との間 (岩波新書)
加藤 節
4004317207

田中智仁『警備ビジネスで読み解く日本』(光文社新書) 7点

 町ではいたるところに警備員を見かけますし、セコムやALSOK(綜合警備保障)という企業名もCMなどで多くの人が耳にしたことがあると思います。
 そんな警備ビジネスですが、日本に警備会社が約9000社あり、警備員が約54万人いると聞くと(17p)、改めてその規模に驚く人も多いのではないでしょうか。
 この本は、そんな警備ビジネスを、社会学者で過去に警備員として働いていたこともある著者が包括的に分析したものになります。
 警備ビジネスの発展の歴史から、仕事の内容、従業員確保の問題、他業種との格差、警備ビジネスの未来まで、多角的な視点から論じており、面白く読めます。

 目次は以下の通り。
第1章 警備業の基礎知識
第2章 守る・誘導する・運ぶ
第3章 高度経済成長期の申し子
第4章 高齢者が支える警備業
第5章 「規模」「給与」「健康」格差
第6章 警備員は絶滅する?

 全国に9000社もありますし、求人誌などを見ると「誰でもなれる」イメージが強い警備員ですが、その事業は警備業法によって規定されており、会社の設立はもちろん、着用する制服についても都道府県の公安委員会への届け出が必要となります。
 また、警備員になるには、禁錮以上の刑を受けてから5年以上経っている、破産者でない、暴力団関係者でないなどのいくつかの要件があり、30時間(4日間)の研修を受ける必要があります。しかも、現職の警備員も半年ごとに8時間の「現任教育」を受けなくてはなりません。

 警備業をよく「警備保障」と言いますが、これは多くの警備会社が警備を行うだけでなく、被害が発生した場合に補償を提供するサービスを行っているからです。多くの警備会社は損害保険会社と提携し、保険の役割も果たしています。

 第2章では、1号警備、2号警備、3号警備、4号警備という4つの警備のタイプが紹介されています。
 まず1号警備ですが、これは施設警備になります。警備員がビルや商業施設などを警備するといったものです。ビルなどに関しては、そのビルに警備員が常駐する常駐警備と、いくつかのビルを巡回する巡回警備があります。当然、前者のほうがより厳重な警備が可能ですが、コストは当然かかります。このあたりは警備業のジレンマと言えるでしょう。

 2号警備は不特定多数の車や人を誘導する警備です。工事現場の交通誘導やイベントでの雑踏警備などがこれに入ります。
 3号警備は貴重品や危険物を運ぶ業務です。ATMへの現金の輸送と障害対応などが代表的なものですが、核燃料の運搬などもこれに入ります。
 4号警備については、去年(2017年)にNHKで『4号警備』というドラマが放送されたので、4号警備が身辺警護だということを知っている人も多いと思います。ただし、いわゆる身辺警護だけではなく緊急通報サービスなどもこの4号警備に入ります。
 これ以外にも、警備員が行うことが多い関連業務として、駐車違反を取り締まる駐車監視員や鉄道の工事現場などに立つ列車見張員などがあります。

 第3章では日本の警備業の発展をたどっています。
 1962年に日本船貨保全株式会社(現:大日警)と日本警備保障株式会社(現:セコム)が創業したことで日本の警備ビジネスは始まります。
 60年代前半は、第一次産業の就業人口を第三次産業や第二次産業が抜いていくころで、雇用者が急速に増えていった時代でした。また、それに伴って都市部では昼間人口と夜間人口の差が目立つようになってきます。これは雇用者が郊外に住み都市部に通勤するようになったからですが、こうなると夜間の都市部を誰が守るのかという問題が出てきます。

 このために「守衛」や「宿直」が配置されましたが、彼らは警備のプロではなく、防犯という観点からは大きな問題を抱えていました。
 こうした状況を見て、セコムの創業者である飯田亮や戸田寿一はここにビジネスチャンスがあると考えたわけですが、当初は外部の人間を施設に入れるということに対する抵抗感は強く苦戦を強いられました。
 しかし、64年の東京オリンピックでの選手村の警備を請け負ったことで、ビジネスは軌道に乗っていきます。

 1965年、テレビドラマ『ザ・ガードマン』の放送が開始されます。このドラマは人気シリーズとなり6年以上続きますが、この「ガードマン」とは和製英語で外国では通用しません。
 実は当初、『東京用心棒』というタイトルが用意されていたのですが、このタイトルを嫌って改題を提案したのが、モデルとなったセコムの飯田です(125p)。
 当時の日本では「警備=用心棒=ヤクザ」のイメージが強く、飯田がセコムの創業を思いついたとき、父親から「幡随院長兵衛みたいなまねはやめろ」と反対されたそうです(129p)。
 
 「ガードマン」という言葉によってマイナスイメージを払拭した警備業が、さらに伸びていくきっかけとなったのが永山事件です。
 永山は4件の射殺事件を起こし逃亡を続けますが、その逮捕のきっけかは永山が東京の専門学校に侵入を試みたのをセコムの機械警備が捉えたからでした。この事件によって機械警備の有用性が世間に知られるようになり、のちのホームセキュリティなどにもつながっていきます。

 しかし、警備業の急激な拡大は悪質な業者や警備員の増加も招きました。1972年に警備法が制定されるまで、警備業はほぼ自由に展開できたので、拾得物のネコババや、警察官を装っての交通違反の取り締まり、警備中に商品を盗むなどの犯罪に手を染める警備員も少なくはなかったのです。
 また、警備員が労働争議や株主総会などに動員され、反対勢力で暴力で排除するようなことも行っていました。

 70年代になると、警備業の問題が国会やマスコミでもとり上げられ警備法が成立します。この警備法は、第15条に「警備業者及び警備員は、警備業務を行うに当たつては、この法律により特別な権限を与えられたものではないことに留意するとともに、他人の権利及び自由を侵害し、又は個人若しくは団体の正当な活動に干渉してはならない」とあるように、警備業と警察の違いを強調し、警備業に規制をはめたものでした(150p)。
 ただし、このとき監督官庁が警察庁・公安委員会となったことから警備業に警察OBなどが天下っていくことになります。

 第4章では、高齢者と警備員の問題がとり上げられています。 
 近年、街中で目立つのが高齢の警備員です。実際、2016年の統計によると警備員の42.2%が60歳以上で、65歳以上も26.4%を占めています(160pの表4-1参照)。
 そして、「高齢者が多い」=「ベテランが揃っている」というわけではありません。在職10年以上の警備員は23.1%である一方、在職3年未満の警備員が全体の38%を占めています(168p表4-2参照)。
 つまり高齢の警備員であっても、多くは在職年数の短い者なのです。

 この背景には年金受給年齢の引き上げと、年金支給額の少なさがあります。退職後も生活を支えるために働かねばならず、警備業がその受け皿となっているのです。
 一方、高齢者の犯罪も増加しており、少年の犯罪と考えられていた万引きは、いまや高齢者の犯罪です(2012年に高齢者の割合が少年を抜いた(182-183pの図4-3参照))。
 老人が老人から施設や商品を守る「老老警備」の時代になってきたとも言えるのです。

 第5章は警備業をめぐるさまざまな格差について分析しています。
 まず、警備会社大手の売上高を見ると、1位のセコムが3824億、2位の綜合警備保障(ALSOK)が2295億、3位のアサヒセキュリティが421億と、大手2社とその下の間では売上高の桁が一つ違います。しかもアサヒセキュリティは2015年にセコムの完全子会社となっており大手2社の存在感は圧倒的です(197p)。
 しかし、一方では警備員が100人未満の会社が8419社、全体の89.2%を占め、警備員20人未満の会社で52.8%を占めます(200p)。
 ちなみに警備員0人の警備会社も存在します。これはイベント会社や広告代理店がイベント運営のために警備業の認定を取得しているケースで、電通も警備業の認定を受けています(203p)。

 次に給与ですが、所定内給与額を比べると全職種が30万4000円であるのに対して警備員は19万9200円(208p)、この所定内給与額にはボーナスが入っていませんので、ボーナスを入れるとさらに差が広がると考えられます。
 また、警備員にはさまざまな資格があるものの、それに伴って給与が上がっていかいのも特徴です。施設警備業務検定1級または実務6年以上の警備員でも実務3年未満の警備員に比べて労務単価(日給)は2000円ちょっとしか変わりません(212-213p)。
 さらに交通誘導員の労務単価は96年に10206円だったのが2005年には7833円にまで下がっています。いくらデフレだたとは言え、これは尋常ではない下がりかたです。

 2005年に警備業法が改正され、検定合格警備員の配置が義務化されました。専門性を高めることによって給与の下落を抑えようとしたのです。
 2012年からは交通誘導員の労務単価は急回復しますが、これは警備業法改正の影響ではなく、国土交通省が社会保険未加入の企業を入札に参加させない方針を打ち出したことが主原因と考えられます。
 もともと警備業(特に交通警備)は寄せ場で人を集めるような形で行われていたこともあり、社会保険への加入率は低くとどまっていました、しかし、それでは仕事が取れないということで社会保険へ加入するようになり、その分労務単価が上がったのです。
 しかし、給料の手取りが減るために社会保険への加入を嫌がる労働者もいます。

 この章では最後に健康格差についても簡単に触れられています。
 労働時間は2016年のデータで月平均の労働時間が全職種が177時間なのに対して、警備業は196時間。1ヶ月に50時間以上残業した人の割合もシステム・エンジニアを上回って第一です(234ー235p)。また、昼夜逆転の勤務スタイルも多く、それも健康に悪影響があると考えられます。

 第6章では、人手不足の問題や警備員の「責任」をどう考えるのか? といった問題がとり上げられています。
 特に2020年の東京オリンピックでは1万4000人の警備員が必要だとされていますが、これはコンパクト五輪をうたっていた時の数字で、実際にはさらに増えると考えられます。人手不足の中、これだけの人員を確保することは容易ではないのです。
 
 このように警備ビジネスの過去・現在・未来を多角的に考察したのがこの本です。やった人でもない限り警備業の実態というのはあまり知らないと思うので、勉強になりますし、面白く読めます。
 また、高齢警備員の問題など、現在の日本の社会問題をうまく切り取った部分もあり、高齢化の問題を考えたい人なども読んで得るものがあると思います。


警備ビジネスで読み解く日本 (光文社新書)
田中智仁
4334043607

見田宗介『現代社会はどこに向かうか』(岩波新書) 6点

 岩波新書から『現代社会の理論』、『社会学入門』という名著を出している見田宗介によって、この2冊の続編的なかたちで書かれた本。
 『現代社会の理論』は、その着眼点の鋭さやスケールの大きさなど、今まで読んできた新書の中でも屈指の本だと思います。そして、この『現代社会はどこに向かうか』はスケール感という点ではこれまた十二分なのですが、個人的には『現代社会の理論』でとり上げられてきた「情報化」の部分が後景に退いてしまって、少し残念な気がしました。

 目次は以下の通り。
序章 現代社会はどこに向かうか――高原の見晴らしを切り開くこと
一章 脱高度成長期の精神変容――近代の矛盾の「解凍」
二章 ヨーロッパとアメリカの青年の変化
三章 ダニエルの問いの円環――歴史の二つの曲がり角
四章 生きるリアリティの解体と再生
五章 ロジスティック曲線について
六章 高原の見晴らしを切り開くこと
補章 世界を変える二つの方法

 この本の書き出しは「現代社会は、人間の歴史の中の、巨大な曲がり角にある」(ip)という文章で始まっています。
 多くの人は、いわゆる「近代」の終焉を語るのだろうと想像するかもしれませんが、著者が語るのはもっと大きなスケールの話です。ギリシャ哲学、仏教や儒教、古代ユダヤ教の誕生などから始まる時代(著者はこれをヤスパースにならって「軸の時代」と呼ぶ)が大きく変化しようとしているというのです。

 二千数百年前に人類に大きな変化をもたらしたのは<貨幣>と<都市>でした。この貨幣経済と都市化が全面的に展開したのが「近代」です。
 この「近代」が地球という有限性にぶち当たり、変革を迫られているというのが、著者の基本的な認識です。

 著者がこのような認識を持つ根拠は、人々の意識の変容や人口増加の急ブレーキです。
 NHK放送文化研究所の行っている「日本人の意識」調査を見ていくと、近年になるに連れて世代ごとの差はなくなってきています。70年代や80年代までは親子の世代間には大きな意識の差があったのですが、21世紀以降になってからは、その意識の差がほぼ消滅しています(5pの表2参照)。

 また、60年代後半をピークに世界の人口増加率には急ブレーキがかかっています(9pの図4参照)。
 この動きは生物学者の用いるロジスティック曲線の動きに似ています。例えば、孤立した森にその環境の適応する動物種を放すとはじめは少しずつ、途中からは急速に増殖していきます。そして、その森の環境容量の限界に達すると、増殖をやめ、安定平衡期に入ります。
 人類は、地球環境という有限性にぶち当たったことで、「近代」という一回限りの爆発的な増殖期を終え、安定平衡期に入ったとも考えられるのです。

 一章では、この変化を日本人の意識の変化に着目して示そうとしています。先ほどもあげたNHK放送文化研究所の「日本人の意識」調査を詳しく見ることによってその変化の内実を明らかにしようとするのです。
 具体的には2013年調査における20-29歳の青年層(80年代生まれが中心)と1973年調査いおける20-29歳の青年層(50年代生まれが中心)の間で、答えの変化が大きかった問に注目していきます。

 まず変化が大きいのが家族に関する問です。73年の調査で40%が理想の家族としてあげていた父が働き母が家庭を守るという性別役割分担スタイルが、13年の調査では7%にまで減少しています(25pの表4参照)。他にも子どもが生まれても女性ははたらいたほうがよい、女の子も大学まで行かせたい、婚前交渉をしても構わない、といった項目が顕著に増えており、「近代家父長制家族」が解体してきたことがうかがえます。

 一方、生活満足度は上昇し、政治活動への参加は減少、地域の問題についても波風を立てずに静観しようとする人が増えるなど、「保守化」の傾向も見て取れます。
 また、あの世や来世、奇跡、お守りやお札などを信じる人は増えています。マックス・ウェーバーは近代を<合理化>の貫徹、<魔術からの解放>と捉えましたが、ここでは脱・脱魔術化というべき方向性が見えるのです(31p)。
 
 著者は、これらの変化の背景に「経済成長課題の完了、これによる合理化圧力の解除、あるいは減圧」(37p)という背景を考えています。
 さらにこの章の補論では、若者生活スタイルやファッションにおける変化をとり上げています。著者が大学で観測していた印象では、2004年か05年ころから最新のモードを追い求めることが流行らなくなっており、常に新しいものを求め続ける「近代」の脅迫が薄れてきたといいます。

 二章では、日本だけではなくヨーロッパやアメリカにおける青年層の意識の変化を見ていきます。
 ここで使われているのは1981年に始まった「ヨーロッパ価値調査」と、それをもとに拡大展開された「世界価値調査」です。その中の20~24歳の青年層の変化に着目しています。

 まず、ヨーロッパ諸国で共通するのが、「非常に幸福」と答える若者の割合の増大です。例えば、フランスでは81年に19%だったその割合が、86年29%、96年39%、08年49%と増加しています。また、「あまり幸福ではない」「全く幸福ではない」という答えも減少しており、両極分解が起こっているわけでもありません(57-59p)。
 一方、アメリカに関しては、「非常に幸福」の割合が82年28%から99年には44%と増えたものの、06年36%、11年33%と減少しています。著者はこれを9.11テロの「テロ効果」と見ていますが、どうなんでしょう?
 また、「脱物質主義」かも進んでおり、大切な価値観でも「寛容と他者の尊重」がほとんどの国で伸びています。

 三章では、アマゾンの小さな部族ピーダハーン(ピダハン)の人たちと30年近く暮らした宣教師/言語学者のダニエル・エヴェレットの話が紹介されています。
 エヴェレットは長年、ピーダハーンの人々と暮らした末にキリスト教を捨ててしまうのですが、著者はここに生きることの「意味」を「未来」に求める、ここ二千数百年の考えの転換を見ています。
 ダニエル書は迫害の中で「未来」の救済を約束したものですが、今、人々はこれを乗り越えようとしているというのです。

 四章は2008年の秋葉原連続殺傷事件の話から始まります。著者は1968年の永山則夫の事件と重ねて、永山の事件は「まなざしの地獄」であったが、08年の事件は「まなざしの不在の地獄」だったといいます。
 秋葉原の事件の犯人は、誰からも必要とされない、注目されないことに耐えきれなくなったと考えられるからです。
 そこから著者は話を進め、現代の問題は「現在の生のリアリティの直接の充実を手放したままで、このリアリティを補充する未来の<目的>を失ってしまう」(111p)ことだといいます。

 五章は、序章でもとり上げられていたロジスティック曲線について。著者は人類が直面する環境の限界を指摘した上で、他の惑星への移住や資源採取、遺伝子組み換えや核エネルギーの使用という環境の成約を突破するための2つの方向性を検討し、いずれも難しいと結論づけています(ここでの検討は非常にあっさりしたもの)。
 ただし、人類には価値観を変容させることによって、環境の成約とうまく折り合いをつけることもできるのです。

 六章で著者はまず次のような見方を披露しています。
 計算してみればわかることだが、日本を含む先進産業諸社会においては、まずすべての人びとに、幸福のための最低限の物質的な基本条件を配分しても、なお多大な富の余裕は存在している。(129p)

 その上で、新しい幸福を次のように描写しています。
 経済競争の強迫から解放された人間は、アートと文学と学術の限りなく自由な展開を楽しむだろう。歌とデザインとスポーツと冒険とゲームを楽しむだろう。知らない世界やよく知っている世界の旅を楽しむだろう。友情を楽しむだろう。恋愛と再生産の日々新鮮な感動を享受するだろう。子どもたちとの交歓を楽しむだろう。動物たちや植物たちとの交感を楽しむだろう。太陽や風や海との交感を楽しむだろう。
 ここに展望した多彩で豊穣な幸福はすべて、、どんな大規模な資源の搾取も、どんな大規模な地球環境の汚染も破壊も必要としないものである。つまり、永続する幸福である。(135p)

 見田宗介(真木悠介))の本を読んできた者にとっては、ある程度予想できる結論ではあるのですが、『現代社会の理論』に見られた「情報化」によって持続可能な「消費社会」を構想するというアイディアは消えてしまって、「原子共同体への回帰」のような部分だけが残ってしまった感じです。
 『現代社会の理論』は、地球環境の物質的な限界を、「消費社会」の否定ではなく、「情報の消費」という形で突破しようとしたところに著者ならでは思考のポイントがあったように思うのですが、この本では「消費」が否定的に捉えられてしまっています。

 また、『社会学入門』において魅力的だった現代社会に対するミクロ的な分析もやや交代してしまった感じで、二章では若者の幸福感の変容がアンケートの抜粋という形で語られているのみです。

 著者のスケールの大きな視野というものは健在で、最初にこの本を読めば面白く感じる人も多いとは思いますが、個人的には22年前の本であっても『現代社会の理論』のほうをお薦めしたいですね(このブログの前身のホームページでは10点をつけてました)。

現代社会はどこに向かうか――高原の見晴らしを切り開くこと (岩波新書)
見田 宗介
4004317223

現代社会の理論―情報化・消費化社会の現在と未来 (岩波新書)
見田 宗介
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大高保二郎『ベラスケス』(岩波新書) 7点

 17世紀のスペインで王付きの画家となり、後にゴヤに大きな影響を与え、マネに「画家たちの画家」と讃えられたベラスケスの評伝。ベラスケスの生涯を新しい史料などを使って当時の時代背景とともに再現しつつ、ベラスケスの作品の革新性を解説する構成になっています。
 カラー口絵も充実していますし、ベラスケスの画業のほぼすべてをたどることができる内容です。

 目次は以下の通り。
1 画家の誕生―聖・俗の大都市セビーリャとボデゴン
2 「絵筆をもって王に仕える」―フェリペ四世の肖像から“バッコスの勝利”へ
3 ローマでの出会い―ヴィラ・メディチと古代への感興
4 絵画装飾の総監督―“ブレダ開城”をピークに
5 ふたたびイタリアへ―“教皇インノケンティウス一〇世”から“鏡のヴィーナス”へ
6 封印された野望―晩年の日々と“ラス・メニーナス”
終章 晩年の活動と近現代への遺産

 ベラスケスは1599年、スペインのセビーリャに生まれています。父も母も裕福な家の出身でしたが、平民の家柄で、だからこそ父はベラスケスに当時は職人とおなじような「卑しい」職業と考えられていた画家の道を歩ませたと考えられます。
 ベラスケスは画家であり、また美術理論に関する本も著していたパチェーコのもとに弟子入りし、その才能が認められパチェーコの娘と結婚しています。
 
 ベラスケスはパチェーコのもとで6年間修行し、1617年に職業画家の資格試験に合格しています。
 ベラスケスは初期に《東方三博士の礼拝》、《パトモス島の福音書記者聖ヨハネ》、《無原罪のお宿り》といった宗教画を描いていますが、いずれも宗教画にしては世俗的に描かれています。
 また、ボデゴンと呼ばれる厨房風俗画も描いていますが、いずれも人物が入っているのが特徴で、純粋な静物画はありません。
 ベラスケスは「あいつは顔しか描けない」という批判に、「これまで本当に顔を描けた者がいるだろうか」と応じたといいますが(30p)、人物の顔へのこだわりはベラスケスの生涯を貫くものと言っていいでしょう。

 1623年、24歳で国王フェリペ4世の肖像画を描くチャンスを得たベラスケスは、その絵が気に入られフェリペ4世に王付きの画家として召し抱えられることになります。
 ベラスケスが召し抱えられる前は数名の画家がフェリペ4世の肖像画を描いていましたが、ベラスケスが召し抱えられて以降、ベラスケス以外でフェリペ4世の肖像画を描いたのはルーベンスのみであり、ベラスケスが肖像画家としていかに信頼されたかがわかります(39p)。

 そして、王付き画家となる直前に、名作《セビーリャの水売り》が生まれています。素焼きの大きな瓶の存在感と滴り落ちそうな水滴、「卑俗」な光景ではありますが、著者は「この「卑俗さ」という言葉にこそベラスケス絵画の本質が宿るだろう」(46p)と述べています。

 フェリペ4世は15歳でスペイン王となった人物で、機転が利き、聡明で教養がありましたが、意志薄弱という父のフェリペ3世譲りの欠点がありました。このため、政治には向いておらず、政治は寵臣のオリバーレスに任せることとなりましたが、学芸の保護者としては大きな役割を果たしました。

 そのフェリペ4世のもとでベラスケスは私室取次係にも任じられ、宮廷官僚としての道も歩み始めます。ベラスケスは順調に出生していき、ついにはサンティアゴ騎士団の称号も手にするのですが、この宮廷官僚としての職務はベラスケスから画家としての時間を奪ったのも事実で、そのため今に伝わるベラスケスの作品は真作で120点ほどにとどまっています。

 画家としての仕事もすべてが順風満帆というわけではなく、ベラスケスの描いたフェリペ4世の騎馬像がルーベンスの描いたものに差し替えられるという屈辱も味わっています。
 著者が言うようにこれを「ルーベンスとの確執」(63p)と表現すべきなのかどうかはわかりませんが、この後、ベラスケスはルーベンスの神話画を意識した《バッコスの勝利》を仕上げています。
 神話を題材にしながら、ボデゴンでもあり、庶民の群像画でもあるこの作品は、ジャンル間の壁を壊していったベラスケスならでは作品といえるでしょう。

 1629年から1631年までの1年半ほど、ベラスケスはイタリアへと遊学します。ベラスケスはパルマの大使に「情報収集者で、その職務は本当はスパイである」(75p)と書かれたように、一種の外交使節のような扱いを受けていましたし、また、絵画の買い付けの職務も任されていました。
 ベラスケスは1年近くローマに滞在し、イタリアの画家の作品を学ぶとともに、メディチ家の別荘にも滞在し、さまざまな人と交流したと考えられています(著者は同時期にメディチ家の別荘に滞在していたガリレオとの出会いを想像している(85ー87p)。

 帰国してからベラスケスは、離宮ブエン・レティーロの新造営、トーレ・デ・ラ・パラーダ(狩猟休憩塔)の装飾事業に取り組みます。1630年代は「スペイン王家にとっては最後の、かろうじて幸福と思える一時代」(106p)でした。
 ブエン・レティーロには800点の絵画が国内外からかき集められ、もちろん、ベラスケスの作品も飾られました。

 そのレティーロの「諸王国のサロン」を飾った一枚がベラスケスの《ブレダ開城》でした。三十年戦争におけるフェリペ4世の輝かしい勝利を描いたこの作品は、和解の精神を示したものであり、また、背景にはイタリア留学を経て風景画家としても腕を上げたベラスケスの技術が見られます。
 
 さらにこのレティーロにおいて注目すべきなのが「道化の間」と、そこに飾られたと思われるベラスケスの道化たちの肖像画です。
 当時、王族たちの娯楽や慰めのために宮殿に道化や矮人が仕えていましたは、ベラスケスは彼らの肖像画を描きました。無背景に黒服で立ち、のちのマネの《笛吹き》などに大きな影響を与えた、《パブロ・デ・バリャドリード》を筆頭に、これらの肖像画は彼らの存在感や尊厳を描き出しており、既存の秩序に左右されることなく人物や事物を描いたベラスケスの一つの到達点と言えるでしょう。

 1640年代になると、スペインの栄光は次第に失われていきます。1643年、フェリペ4世は寵臣オリバーレスを追放することを決断しますが、これはオリバーレスの大スペイン王国構想が破綻したからでした。
 1640年にはカタルーニャとポルトガルで反乱が起き、43年にはフランスに大きな敗北を喫します。1648年に三十年戦争が集結するものの、オランダの独立が決まり、さらに王室内でも44年に王妃イザベルが亡くなり、46年には王太子バルタサール・カルロスが亡くなるのです。
 オリバーレスが失脚した後も、ベラスケスは王の信任を得て、宮廷官僚として出世していきましたが、その職務と王室経済の窮状は、ベラスケスの創作活動を妨げたと考えられます。

 そんな中、1648年にベラスケスはフェリペ4世の再婚相手マリアナ・デ・アウストリアを迎えに行く使節とともにスペインを出発し、2度目のイタリア遊学へ向かいます。
 この遊学でベラスケスはフェリペ4世から美術品蒐集の任務を托されており、忙しく働いたと考えられています。
 この中で描かれたのが、肖像画の傑作とされる《教皇インノケンティウス10世》でした。著者はこの作品について「画面は醜男で知られたこの猊下の容貌を一瞬にしてとらえており、激しい猜疑心と嫉妬、強い現世欲、また聖務への不撓不屈の情熱など、およそ教皇らしからぬ複雑で屈折したモデルの全人格が余すところなく暴かれている」(181p)と評しています。

 ベラスケスはフェリペ4世からの再三の帰国命令を無視する形で一年以上滞在を引き伸ばすのですが、近年、イタリア女性との間に庶子をもうけていたことが明らかになりました。著者はベラスケスが子供の誕生をもってイタリアを立ったのではないかと想像をはたらかせています。

 イタリアから帰国したベラスケスは王宮配室係、同配室長へと出世しいきます。創作のペースは鈍りますが、そんな中で描かれたのが代表作の《ラス・メニーナス》です。
 「フェリペ4世の家族」と記録されたこの作品は、ベラスケスの建築家的な素養が十分に生かされた空間構成、人物の視線や鏡を使った物語的な深みなど、さまざまな魅力に溢れた作品で、著者は「いわゆる表象芸術の頂点」にして「この作品を分水嶺に、古典的絵画の解体が始まろうとしている」と評しています(221p)。
 また、この時期には《織女たち》(《アラクネの寓意》)という傑作も描かれています。

 晩年、ベラスケスはサンティアゴ騎士団への入団が認められ貴族に列せられます。本来、入団には軍人で貴族であること、正統なカトリックであること、父母などの家が商人や両替商、卑しい手仕事をしていないことが必要でした。しかし、前述のように、ベラスケスの家系は平民の出で、商業に関わる仕事をしていました。こうしたハードルをベラスケスは国王の後押しもあってクリアーしたと考えられます。
 さらに著者はベラスケスの父の家系がポルトガル系の改宗ユダヤ教徒ではなかったか?と推理しています。
 この改宗ユダヤ教徒をコンベルソといいますが、この時期のヨーロッパでは、コンベルソの血を汲むスピノザ、モンテーニュといった知識人が活躍しています。著者はベラスケスいもその可能性があり、それがベラスケスの出自への沈黙や、私的な書簡や芸術論を残さなかったことにつながっているんではないかというのです。
 この本に書かれている手がかりだけでは、そう断じることはできないと思いますが、興味深い見方だと思います。
 
 1660年、ベラスケスは亡くなります。フェリペ4世の娘マリア・テレサとルイ14世の結婚のために忙しく働いたことによる過労による突然死と考えられます。
 先程も述べたようにベラスケスは自らの芸術論などを一切残さなかったのですが、この本は作品と時代背景の読み解いていくことで、ベラスケスの芸術について迫ろうとしています。ベラスケスの人物に関しては、まだ謎も残った感じがありますが、彼の作品とその背景に関しては詳細な読み解きがなされていると思います。
 カラー口絵も8pにわたっており、主要作品がカラーで見ることができますし、ベラスケス作品の魅力が楽しめる本になっていると言えるのではないでしょうか。

ベラスケス 宮廷のなかの革命者 (岩波新書)
大高 保二郎
4004317215

竹中亨『ヴィルヘルム2世』(中公新書) 8点

 最後のドイツ皇帝にして第一次世界大戦を引き起こした指導者の1人とも考えられているヴィルヘルム2世の評伝。
 近年、今まで評価の低かった人物を再評価するような評伝がよく見られます。ヴィルヘルム2世も決して評価の高い人物ではないので、この本もそういった再評価をする本かとも思いましたが、そうではありません。ヴィルヘルム2世のだめな部分を容赦なく書いています。
 ただ、同時にドイツの複雑な国制や急速に変化する時代状況を描くことで、ヴィルヘルムの立たされた難しい立場と、その難しい立場をよくわかっていなかったヴィルヘルムの姿が浮かび上がるようにもなっています。
 とり上げられている人物に特に共感できないのに面白いという、なかなか珍しい評伝と言えるでしょう。

 目次は以下の通り。
第1章 二人のヴィルヘルム
第2章 「個人統治」への意志
第3章 世界帝国への夢
第4章 世界大戦へ
第5章 晩年

 教科書などを漫然と読んでいると、ドイツ統一をしたヴィルヘルム1世の子がヴィルヘルム2世と認識しがちですが、ヴィルヘルム2世はヴィルヘルム1世の孫にあたります。
 父はヴィルヘルム1世の子のフリードリヒ3世、母はイギリス生まれでヴィクトリア女王の娘にあたるヴィッキー(ヴィクトリア)。その両親のもと、ヴィルヘルム2世は1859年に生まれました。
 ところが、出産のときに逆子であったこともあって、左腕に障害が残りました。

 知的で活発だった母のヴィッキーは、このことにショックを受け、この障害を克服させるためにスパルタ教育を施します。左腕を使わせるために右腕を縛ったり、殺したばかりのウサギに左腕を突っ込むという「動物浴」なる治療も行われたそうです(動物の生気が乗り移るという理屈)。
 また、ヴィッキーはイギリス王室を理想と考え、プロイセンの田舎臭さを嫌っていました。ヴィルヘルムはイギリス風にウィリーと呼ばれ、言葉も英語を使って育てられました。

 成長したヴィルヘルムがこうした母親に反発していくのは当然といえば当然です。父のフリッツが妻のヴィッキーの意向に従うことが多かったこともあって、ヴィルヘルムの気持ちは祖父のヴィルヘルム1世へと向かっていくことになりました。
 ヴィルヘルム1世はナポレオン戦争を経験し、ドイツ統一を成し遂げた偉大な人物であり、また質実剛健なプロイセン的な価値観を体現した人物でした。彼はベルリンの王宮にきちんとした浴室をつくらせずに革袋に湯を張ったものを使って行水したといいます(30p)。
 ヴィルヘルム2世も軍隊を愛し、軍服を取り揃え、側近にも軍人を登用しました。これは祖父の影響と言えるでしょう。

 ところが、母のヴィッキーに反発を覚えつつも、ヴィルヘルムはイギリスに愛する特別な愛着を持ち続けました。イギリスに対しては敬愛と反発という2つの態度がヴィルヘルムには存在したのです。

 こうした矛盾がヴィルヘルムの一つの特性だと著者は言います。
 軍隊など男性的なものを偏愛したヴィルヘルムですが、周囲にいた女官などからは「女性的」な性格だと見られていましたし、宰相のビューローに対して「君の正式な辞表が届いたら、私は次の朝にはもう生きてはいないつもりだ」などと哀願する手紙を送ったりもしています(11p)。
 
 このようなヴィルヘルムでしたが、当時のドイツを動かしていたビスマルクには期待されました。ビスマルクはイギリス流の自由主義を奉じるフリッツとヴィッキーを嫌っており、ヴィルヘルム1世に同調するヴィルヘルム(2世)に期待をかけたのです。
 1888年3月、ヴィルヘルム1世が91歳で亡くなります。しかも息子のフリッツもすでに病魔に侵されており、即位したものの6月に亡くなります。皇太子になったばかりのヴィルヘルムはその年にヴィルヘルム2世として即位、この年にドイツは3人の皇帝を交代したことになります。

 皇帝となったヴィルヘルムにはドイツを導こうとする強い意欲がありました。しかし、その意欲を裏付ける思慮や忍耐力には明らかにかけていました。
 皇帝となったヴィルヘルムはビスマルクと衝突します。衝突の要因はいくつかありますが、その一つはルール炭鉱のストライキに対する対応です。ビスマルクは不介入の方針を取りましたが、ヴィルヘルムは労働者の側に立って事態を収めようとしました。また、社会主義者鎮圧法の更新に関してもヴィルヘルムは反対でした。
 このように書くと両者の主義の違いが両者の決裂をもたらしたようにみえますが、ビスマルクが去った後、ヴィルヘルムは更に厳しい社会主義者への弾圧法を提案しており、ヴィルヘルムの反対はその信念から行われたことではなく、国民に対して自分の存在感を見せようとしたものと言えるのです。

 ヴィルヘルムにこのようなスタンドプレーをさせた一因と考えられるのが、同時のドイツという国家の複雑な構造です。
 1871年にドイツ帝国が成立したことになっていますが、そこで成立したのは統一国家ではなくプロイセンを中心とする国家連合でした。例えば、プロイセンは独自の憲法や軍隊を持ったままでした。
 ドイツ帝国の国旗が制定されたのは1892年、建国記念日や国歌は制定されずに終わっています(61p)。憲法には帝国政府の記載はなく、記載されているのは帝国宰相のみで(ビスマルクは当初プロイセン外相の立場から帝国をコントロールするつもりだった(65p))、帝国海軍は存在するものの、帝国陸軍は存在せず、プロイセンやバイエルンなどの各邦の軍の寄せ集めで、各邦は課税権や外交権などの強い権限を持っていました。

 しかし、このような古いドイツのしくみを温存した連邦国家は時代遅れの存在でもあり、国民国家への脱皮が求められました。そして、その国民国家の象徴たらんとしたのがヴィルヘルムなのです。

 ヴィルヘルムはビスマルクを解任し社会問題の解決に取り組みますが、社会民主党の勢いは衰えず、労働者階級を懐柔することはできませんでした。また、ヴィルヘルムは社会民主党とカトリック勢力を嫌ったために、帝国議会でヴィルヘルムの意向はたびたび阻まれることになります。
 ヴィルヘルムは政治に対して意欲的であったにもかかわらず、職務に熱心ではありませんでした。ヴィルヘルムは地味な実務が大の苦手で、執務室いるのは日に2時間ほどでした。しかも、大の旅行好きで一年の半分近くベルリンをはなれていた年もありました。この時代のドイツは「指導者なきドイツ」とも言われています(78p)。

 一方、行事は演説は好きで、演説は特に準備もしないままに即興でしゃべりました。自己顕示欲の強い人間が即興で話すのですから、当然失言が増えます。
 こういった皇帝はメディアが扱ういはもってこいの対象で、風刺画としてさかんにとり上げられました。ヴィルヘルムは本人が望んだのとは違う形で「国民皇帝」になったとも言えます。

 ヴィルヘルムのスタンドプレーは外交でも発揮されました。1905年にロシアのニコライ2世と結んだビョルケの密約はその中でも特に目立つものです。
 ヴィルヘルムはフィンランドのビョルケ島の沖合のヨットの中で、ニコライ2世と攻守同盟を結ぶことをもちかけニコライ2世の同意を得ます。露仏同盟に包囲されているドイツにとって、この同盟は非常に大きなものとなるはずでしたが、ドイツ・ロシア両政府の同意がなかったこの密約はあっさりと反古にされます。
 外政家として活躍しようとしたヴィルヘルムでしたが、もはや時代は君主1人による外交を許す時代ではなかったのです。

 ヴィルヘルムは艦隊建設にも熱意を注ぎました。先程述べたように海軍は帝国直轄のものであり、イギリスに憧れと反発をもっていたヴィルヘルムにとってイギリスに負けない艦隊建設はヴィルヘルムを惹きつけるものでした。
 そして、この艦隊建設を後押ししたのが、ヨーロッパの大国としての自負を強めていたドイツ国民です。艦隊建造には巨額の費用が必要で、その割にはドイツの防衛にそれほど役立たないものでしたが、ドイツ国民はこの艦隊建設を支持しました。
 こうしたドイツの姿勢に警戒心をもったのがイギリスで、フランスやロシアと対立していたイギリスはこれらの国と協商を結び、ドイツに対抗していくことになります。

 そんな中、ヴィルヘルムは1904年にベルギーのレオポルド2世にフランスを一緒に攻めないかと提案したり、その数日後にオランダ女王の夫に日露戦争になればドイツはフランスと共にロシアを支援し、英国と戦争になるかもしれない、そうなったらオランダはどちらにつくかと迫ったり、思いつきの発言を繰り返します。
 1907年のデイリーテレグラフ事件では、イギリスの新聞に自分がいかにイギリスに親愛の情をもっているかを訴えて、今度はドイツ国民の大きな反発を受けます。

 このようなヴィルヘルムの態度が第一次世界大戦の一因となったという声もありますが、ヴィルヘルムは一貫して戦争には消極的でした。
 サライェヴォ事件のあとも、オーストリアの強硬姿勢を支持しつつ、ヴィルヘルムは戦争にはならないと踏んでいました。これはヴィルヘルムだけではなくドイツ政府全体の考えで、オーストリアがセルビアに宣戦してもロシアは動かないというのがドイツの読みだったのです。

 ロシアの参戦が不可避となったあとも、ヴィルヘルムはイギリスが中立を守ることを期待し、イギリスが中立を守りそうだという情報に接したヴィルヘルムは8月1日に総動員の停止を命じています(これにはモルトケが猛反対し、しかもこの情報は誤報だとわかる(164p))。
 戦争にいたる状況を準備したのはヴィルヘルムかもしれませんが、ヴィルヘルムが戦争を始めたわけではなかったのです。

 戦争が始まるとヴィルヘルムは大本営で生活することになりますが、作戦には関与させてもらえませんでした。情報も上がってこず、新聞を読んだほうが戦局がわかったといいます。
 ティルピッツの提唱する無制限潜水艦作戦を退けティルピッツを更迭しましたが、ヒンデンブルクとルーデンドルフのコンビが強く求めると結局承認しており、軍のブレーキともなりえませんでした。

 このように戦争に主体的に関わっていなかったとこもあって、敗戦時に退位を求められたことはヴィルヘルムにとって心外であり、軍を率いて革命を鎮圧すると言い出しました。
 しかし、もちろんそんなことは不可能であり、ヴィルヘルムはオランダへの亡命を余儀なくされます。

 歴史の表舞台から去ったあともヴィルヘルムの人生は続きました。彼はひたすら木を切り、10年ほどの間に3000本の木を切り倒したといいます。
 オランダ政府が保護してくれたおかげで戦犯法廷に引きずり出されることはなく、財産も没収されなかったため不自由のない生活を送ることはできました。しかし、こうした生活の中でヴィルヘルムは憤懣と怨恨に苛まれ、ユダヤ人やフリーメイソンやイエズス会が諸悪の根源であると考えるようになります。

 ですから、ヴィルヘルムはワイマール共和国に反対し、反ユダヤ主義を掲げるナチスに期待しました。ナチスが再び自分を帝位につけてくれると考えたのです。
 ところが、ヒトラーに君主制を復活させる考えはなく、ナチスが政権を握ったあともドイツへの帰還はかないませんでした。
 ヴィルヘルムは1941年の6月、独ソ戦が始まる半月ほど前に82歳で泣くなりました。ドイツの絶頂時に死んだのはある意味で幸運だったのかもしれません。

 このように、この本はヴィルヘルムの君主としての問題点と時代とのズレを容赦なく指摘した評伝となっています。ヴィルヘルムの人間像に共感できなくても面白く読めるのは著者のこの姿勢があってこそです。
 歴史好きには文句なしに楽しめると思いますし、さらに著者がweb中公のインタビューで述べている通り、この本のヴィルヘルムの姿を見て思い出すのはトランプ大統領の姿です。思いつきの発言、大衆の受けを気にする、首脳会談好き、部下に愛想を尽かされるなど、共通点が複数あげられます。
 もちろん、時代や国制の違いは大きいですが、トランプ大統領の今後を占う意味でも読んで面白い本だと思います。


ヴィルヘルム2世 - ドイツ帝国と命運を共にした「国民皇帝」 (中公新書)
竹中 亨
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西山隆行『アメリカ政治講義』(ちくま新書) 9点

 一昨年に出た『移民大国アメリカ』(ちくま新書)が非常に面白かった著者によるアメリカ政治全般の解説書。
 このような概説書的な本はどうしても制度の説明+αとなりがちで、なかなか読んでいて面白いという形にはなりにくいのですが、この本は違います。
 アメリカ政治のニュースに接していて感じる疑問、例えば、「民主主義がさかんな国なのになぜ投票率が低いのか?」、「「小さな政府」にもかかわらず常に減税が主張されるのはなぜか?」、「銃規制が進まないのはなぜか?」などに沿う形で、うまくアメリカの政治制度の説明を織り込んでいます。

 「はじめに」や「あとがき」によると政治学を専攻するゼミの学生に疑問や感想などを出してもらい、それをもとにして本書を書いたとのことですが、それがうまくはまっていると言えるでしょう。
 アメリカの政治にそれほど知識がない人にとっても、政治制度に一通りの知識がある人にとっても読み応えのある内容になっています。
 
 目次は以下の通り。
第1章 アメリカの民主政治
第2章 大統領と連邦議会
第3章 連邦制がもたらす影響
第4章 二大政党とイデオロギー
第5章 世論とメディア
第6章 移民・人種・白人性
第7章 税金と社会福祉政策
第8章 文化戦争の諸相

 第1章ではアメリカの民主政治がテーマとなっています。アメリカといえば民主主義を体現する国というイメージが強いですが、アメリカの建国の父たちが恐れたのは多数者の専制であり、それを防ぐためにさまざまな制度が構築されてます。

 そして、選挙の投票率も実は高くありません。大統領選挙でも50%ほど、州や地方の選挙では10%ほどしかない場合もあるそうです(29p)。
 この理由として、まずは選挙の数が多すぎることが挙げられます。大統領、上下両院の連邦議会、州知事、州議会、州務長官(州レベルの国務長官にあたる人)、市長、市議会、さらに警察署長や消防署長、、学校の校長まで選挙で選ぶところもあります。しかも、それらが平日に行われるため、熱心な人でないと投票に足を運ばないのです。
 また、有権者登録が必要で、有権者登録をすると陪審員に選ばれる可能性が出てきてしまうこと、小選挙区中心で勝敗があらかじめ見えている選挙も多いことが投票率の低さを生んでいると考えられます。

 日本と同じように「一票の格差」の問題も存在します。下院議員は435の議席を州ごとに人口比例で配分していますが、どんなに人口が少ない州でも1議席は配分されています。これによって下院でも2倍以上の格差が存在しています。
 また、グアムやプエルトリコなど州に属さない地域の人々は大統領や連邦議会の選挙に投票できません。特にプエルトリコは20の州よりも多い人口を抱えているにもかかわらずです(36p)。

 さらに重罪犯、元重罪犯に対する投票権剥奪の問題もあります。重罪の定義やその運用は州によって違い、州によっては合法化されているマリファナの単純所持によって投票権を失う人もいます。そして、これに引っかかってくるのが黒人男性で、黒人男性の13人に1人が投票できない状態になっているといいます(39p)。
 
 第2章では大統領と連邦議会についてとり上げられています。
 一般的に、日本の首相に比べてアメリカの大統領の権限は強いと考えられがちですが、立法部と行政部が融合している日本の議院内閣制に比べて、アメリカの大統領が議会に行使できる影響力は大きく限定されており、政治権力全体の中で必ずしも強い権限を持っているとは言えません。
 一方、日本の行政権が内閣に属するのに対して、アメリカでは行政権は大統領個人に属しています。ですから、トランプ大統領がやるようなちゃぶ台返しも可能なのです。
 
 アメリカの大統領といえば、まず何よりもリーダーシップが期待されますが、これは20世紀になって強まってきた傾向です。19世紀、少数の例外を除けば大統領はそれほど大きな役割を果たしてきませんでした。
 しかし、大統領だけが全国民を代表していることや、統治機構(特に連邦議会)への不信などもあって、大統領個人への期待は高まってきています。
 また、連邦議会への不信が強いにもかかわらず、現職の再選率が高いことが(ゲリマンダリングなど現職有利な仕組みがある)、アウトサイダー的な大統領候補への期待を高めています。

 ここで著者はリーダーシップなる概念そのものに疑問を呈しています。「リーダーシップは結果論に過ぎず、成功した人がリーダーシップがあるといわれているものにすぎないのではないか」(74p)というのです。
 実際、アイゼンハワーは現職のときは人柄は良いがリーダーシップに欠けると思われていましたが、アイゼンハワーのもとでさまざまな重要な法案が通っています。そこで、現在では目立たないながらもリーダーシップを発揮したと考えられています。

 第3章では連邦制の問題がとり上げられています。
 日本でもよく地方分権の推進が主張されますが、それはあくまでも単一主権制のもとでの話です。一方、アメリカの州政府は主権を持っており、その主権の一部が分割されてつくりあげられたのが連邦政府なのです。
 
 連邦制によって州ごとに違いがあるということは、人々は自分の好む政策を行っている州に移り住むことで自分の選好をかなえることができます。いわゆる「足による投票」です。
 しかし、州政府は独自の通貨を発行できるわけではないので、財政を成り立たせるには、できるだけ裕福な人に住んでもらい、貧しい人の割合を減らしていくことが合理的になります。そこで起こるのが福祉水準の切り下げという「底辺への競争」です。福祉水準が高い州には貧しい人が集まってしまい、それを嫌がる裕福な人たちが去ってしまうかもしれないからです。

 第4章ではアメリカの二大政党とイデオロギーの問題がとり上げられています。
 一般的に民主党はリベラル、共和党は保守となっていますが、アメリカのリベラルと保守ほどややこしい概念もありません。著者はこの章で「保守とリベラルの意味がわかりにくい理由を説明」(104p)するとしています。

 アメリカの保守が何を保守するかというと、まずは独立宣言や合衆国憲法という建国の理念になりますが、これらは一般的にリベラルの人々も守ろうとするものです。そのため、アメリカの保守派を特定のイデオロギーにもとづいて説明することは難しいのです。
 一方、リベラルはニューディール以降の民主党が行った社会福祉政策や公民権運動などに賛同した人々が集まったグループで、民主党優位な時期に「ある意味勝ち馬に乗る」(107p)形で拡大していきました。そして、これらの政策に反発を覚える人が保守という位置づけになっていったのです。

 アメリカの政党は地方政党や利益集団、社会集団の連合といった側面が強く、政党規律は強くありません。特に民主党はニューディール期から比較的最近に至るまで、労働組合や移民団体、環境保護団体などの連合といった性格が強くあり、また、そうした民主党が80年代まで優位を保ってきました。
 それに対して、劣勢に立たされた共和党はイデオロギー的に純化していきます。『ナショナル・レビュー』という雑誌や、シンクタンク、保守系メディアなどを中心に、共和党連合は団結し、よりイデオロギー的な性格を強めたのです。
 
 94年の中間選挙ではニュート・ギングリッチを中心に党の公約をつくり上げた「ギングリッチ革命」によって共和党が勝利し、以後、議会においてもたびたび共和党が優位に立つようになりました。 
 しかし、そうなると今まで「反民主党」でまとまっていた共和党内部でさまざまな利害が衝突すようになり、共和党内部の対立も強まってきたのです。

  第5章は世論とメディアについて、政治家は世論に従うべきなのか、それとも世論を説得すべきなのかというのは昔から民主政治につきまとう問題ですが、現在のアメリカではさらに「分極化」という問題にもさらされています。
 つまり、民主党支持層の「世論」と共和党支持層の「世論」が分裂してしまっているのです。この分極化をもたらしている要因の一つがメディアの多様化やインターネット・SNSの普及です。
 また、選挙において、日本とは違って都市部では足を使った地上戦が、農村部では人口密度が低いためにメディアを使った空中戦が展開されている(だから共和党は空中戦を志向する)という指摘は興味深いです(142-143p)。

 第6章は、「移民・人種・白人性」という少し変わったタイトルが付いています。
 まずは移民問題ですが、移民国家の米国において問題となるのは不法移民であり、その中心は中南米系の移民です。
 中南米系の移民が特に問題とされるのは、その数と出稼ぎ感覚でアメリカに来ておりアメリカ社会に同化していかないのではないか、という懸念です。
 一般的に民主党が不法移民に融和的、共和党が強硬的と見られていますが、共和党の支持層の企業経営者などにとっては不法移民は使い勝手の良い労働力ですし、民主党を支持する労働組合にとっては自分たちの職を奪う存在です。そのことも問題を複雑にしています。

 人種問題もいまだに大きな問題です。現在では、黒人などのマイノリティの地位を引き上げるためのアファーマティヴ・アクションが「逆差別だ」という反発を受けたりもしていますが、もともと黒人などのために一定の枠を作るクオーター制を積極的に提唱したのは共和党のニクソンやレーガンでした。抜本的な貧困対策などよりも安上がりな政策だからです(170-171p)。
 
 そうした中で浮上してきたのが、「マイノリティではない」白人男性の問題です。
 他の人種に比べて白人男性の地位は相対的には上ですが、近年、45~54歳の白人男性の死亡率は他国が大きく減少する中で上昇傾向にあり、しかも薬物やアルコールの過剰摂取や自殺による死が増えています(177pの図13参照)。
 アメリカでは福祉は本当に貧しい人々にしか提供されないので、没落した白人男性はなかなかその対象とはなりません。また、製造業で働く彼らが失業する一方で、サービス業に従事する妻は失業していないことも多く、そうした状況が彼らの被害者意識を強め、それがトランプ当選の一因となったと考えられるのです。

 第7章では税金と社会福祉政策の問題がとり上げられていますが、ここでもポイントとなるのが本当に貧しい人々にしか供給されない福祉制度です。一般的な納税者にとってそれが自分たちの福祉のために使われているという感覚は薄く、それがさらなる減税志向、「小さな政府」志向へとつながります。
 そのため、特に公的扶助に対する風当たりは非常に強いものがあります。アメリカの憲法には生存権の規定がなく(203p)、一時的貧困家庭扶助(TANF)プログラムも「働かざる者食うべからず」という性格の強いものとなっています。

 第8章では「文化戦争の諸相」と題し、宗教や銃規制の問題がとり上げられています。
 アメリカでは進化論を学校で教えるか、中絶・同性婚の是非といったことが政治においても大きな問題となりますが、この背景には宗教の多様性があります。
 ヨーロッパなどでは自分の宗派というのは生まれた場所などによって決まっているケースが多いですが、移民の国のアメリカでは自分の宗派を自分で選択するという意識が強くなります。
 さらにプロテスタント教会が分裂を続けたこともあって(なぜ分裂するかは深井智朗『プロテスタンティズム』(中公新書)に詳しい)、聖書に書いてあることをそのまま信じようとするキリスト教原理主義の影響も強くなったのです。

 銃規制が進まない理由として、武装の権利を保障した修正第二条の影響は大きいですが、それ以外にも都市と農村の違いという問題もあります。銃の乱射事件が怒るのは都市であり、都市部では銃規制を求める声が強いですが、すぐに警察が駆けつけることができない農村では自衛のために銃を持つのは当然という意識があります。
 
 このようにずいぶんと長く書いてしまいましたが、これ以外にも読みどころはいくつもあり、アメリカ政治に対する新たな見方を提供してくれる本になっています。
 例えば、金成隆一『ルポ トランプ王国』(岩波新書)がトランプ現象を生んだアメリカ社会の雰囲気を伝えてくれる本だとすると、この本はトランプ現象と現在のトランプ政治を生み出している土壌を解説した本と言えるかもしれません。
 アメリカ政治が流動化し、それが日本を始めとする各国に影響を与えている現在、非常に有益な本だと思います。
 
アメリカ政治講義 (ちくま新書)
西山 隆行
4480071431

大泉啓一郎『新貿易立国論』(文春新書) 6点

 『老いてゆくアジア』『消費するアジア』(いずれも中公新書)などの著作で知られる著者がこれからの日本経済の進むべき道を探った本。
 基本的には、新興国経済が成長する中で日本企業はもっと海外展開をしていかなければならないという本なのですが、そのときに直接、中国やインドといった大市場に進出するのではなく、ASEAN諸国を拠点としてASEAN諸国のみならず中国やインド市場を攻略していくのがよいのではないか、というのが本書の特徴的な主張になります。
 この主張に関しては、「なるほど」と思うところもあるのですが、『老いてゆくアジア』で提示されていた、アジア諸国の高齢化問題がこの主張にどう反映されているかという部分は気になりました。

 目次は以下の通り。
序章 貿易立国の復活に向けて
第1章 変わる日本の立ち位置
第2章 新興国・途上国の台頭
第3章 「アジアと日本」から「アジアのなかの日本」へ
第4章 ASEANから新興国・途上国を開拓する―メイド・バイ・ジャパン戦略
第5章 新興国・途上国とともに成長する
第6章 日本から富裕層マーケットに切り込む―メイド・イン・ジャパン戦略
第7章 日本の競争力をいかに高めるか

 第1章は現在の日本の経済的なプレゼンスの確認です。
 40pの図表1-3にビデオレコーダー、音響機器、集積回路、液晶パネル、太陽電池の日本の輸出シェアのグラフがありますが、1990年には35~75%を占めていた日本のシェアは2016年には軒並み20%を割り込み、ビデオレコーダーや音響機器は1%を下回っています。
 基本的にこの時期に日本の輸出は最終製品から中間財へとシフトしたわけですが、例えば、新興国向けの中間財の輸出は2010年の1050億ドルから16年に820億ドルに減少するなど、中間財においてもプレゼンスを低下しつつあります(41p)。

 では、なぜ日本の輸出シェアが低下したかというと、それは新興国・途上国に取って代わられたからです。
 49pの図表1-5「世界輸出に占める日本と新興国・途上国のシェアの変化」を見ると、それがよくわかりますし、またアメリカへの輸出でもやはり新興国・途上国にシェアを奪われています。
 また、中国への輸出が減っているのも注目に値します。2010年に1490億ドルだった輸出額は16年には1140億ドルと減少しています。これには中国への直接投資の減少などの要因もありますが、中間財に含まれる部品の輸出も伸び悩んでいるのです(63p)。

 第2章では、近年の新興国・途上国経済の台頭を見ていきます。
 新興国・途上国の輸出シェアは1990年の20.8%から2014年の42.5%へと倍増しています(69p)。名目GDPの世界シェアにおいても2016年の段階で先進国61.3%に対して新興国・途上国38.7%と迫ってきています(73p図表2-3参照)。
 また、生産プロセスは国境を超える形で展開しており、新興国・途上国を含んだ、いわゆるグローバル・サプライチェーンが形成されています。
 
 ただし、新興国・途上国が全体として発展しているかというとそうではありません。例えば、インドのIT産業がバンガロールという地域によって牽引されているように、国単位ではなく、地域単位で経済が発展しているケースもあります。
 特にメガリージョンと呼ばれる大都市圏の発展は著しく、新興国内でもそこに経済が集中するケースが目立ちます、例えば、タイではバンコクに続いて他の都市が発展していくと考えられていましたが、実際に起ったのはバンコク周辺の発展でした(99-100p)。

 第3章では、アジアにおける日本の位置の変化が語られています。
 21世紀の初めまで、日本は他のアジア諸国の追随を許さない存在であり、他のアジア諸国とは一線を画した存在でした。日本の名目GDPは中国・韓国・台湾・香港・ASEAN加盟10カ国(東アジア諸国)の合計を上回っていたのです。
 ところが、00年代の半ば移行、アジア諸国の経済発展と日本の停滞によって、06年には東アジア諸国の名目GDPが日本を追い抜き、10年には中国が単独で日本を追い抜きました。さらに16年の東アジア諸国の名目GDPは日本の3.2倍となっています(105-106p)。
 「アジアと日本」という見方から「アジアのなかの日本」という見方への変更を迫られていると言えます。

 第4章では、ASEANから他の新興国・途上国の市場を狙うという戦略が披露されており、本書の肝となっています。
 日本から新興国・途上国の市場を狙うというと、まずはそれらの国とのFTAやEPAの締結という戦略が頭い浮かびます。しかし、例えば、日本とインドの間のFTAは2011年に発効していますが、インドへの輸出は12年の106億ドルから16年の82億ドルに減少しています(133p)。
 また、最大の市場である中国とFTAを結ぶとしても、交渉期間がかかりますし、たとえ妥結したとしても、関税が撤廃されるにはさらに5~10年といった期間がかかるでしょう。

 一方、ASEANはすでに中国ともインドともFTAを締結しています。関税の適用を受けないためには現地調達率などの問題はありますが、ASEANという場を使って中国やインドなどの新興国市場へとアクセスしていくことは可能なのです。
 さらにASEANにはインドネシアやマレーシア、ブルネイといったイスラム諸国もあり、ここを足がかりにしたイスラム市場への進出も可能だと考えられます。

 さらに日本企業はすでにタイに巨大な集積地を形成しています。このタイの集積地を中心に、さらに賃金水準の低い、ベトナム、カンボジア、ラオス、ミャンマーなどの地域にサプライチェーンを拡大させていく「タイプラスワン」モデルが、著者が考える日本企業が取るべき戦略の一つとなります。
 この地域は日本のODAなどによって輸送インフラの整備が進められており、さらに中国の一帯一路政策によって、さらに開発が進むと考えられています。
 カンボジアとラオスに関してはその人口規模の小ささからタイの代わりとはなれませんが、ミャンマーにはタイを上回る若年人口がおり、労働力の供給地として高い潜在力をもっています(166p)。
 著者はタイを中心とした東南アジア企業とのパートナーシップが日本企業が成長する一つの鍵だと考えています。

 第5章では、ASEAN諸国の政府、企業、人といかに付き合って共に成長していくかということが述べられていますが、ややまとまりにかけるかもしれません。

 第6章では、市場としてのASEAN諸国が考察されています。今までは安価な労働力を利用するためにASEAN諸国に進出するケースが多かったですが、経済成長の結果、ASEAN諸国は市場としても魅力的なものとなっています。
 国全体でいうとまだまだ所得水準の低い国もありますが、特に前述のメガリージョンには高所得者層が集まっています。これらの高所得者層は高い消費志向を持っており、世界的なトレンドにも敏感です。
 2008年にインドのタタ・モーターズが一台30万円の自動車「ナノ」を発売し、日本メーカーに衝撃を与えましたが、思ったほど売れずに終わりました(212-213p)。もはやASEAN諸国の消費者に訴求するには価格だけでは足りなかったのです。

 著者はASEAN諸国の市場で成功するには、徹底したブランドの確立と現地化(インサイダー化)が鍵だといいます。
 また、ネットによる越境ECの発展は、農産物など、今まで輸出が難しかったものの輸出を伸ばしていく可能性があるといいます。

 第7章では、今後の日本が取るべき対策として、技術のブラックボックス化、インフラ輸出、海外からの人的資本の誘致などがあげられています。

 このように、現在の日本経済の位置、東アジア諸国との関係性がよく分かる内容になっていますし、ASEANから中国やインド市場を狙うべきだという主張も興味深いと思います。
 ただ、やはり『老いてゆくアジア』で指摘されたアジアの高齢化がどう組み込まれているのかは気になりました。169pにタイの2015年の合計特殊出生率は1.5で日本とほとんど変わらないという指摘がありますが、それならば生産拠点としてのタイの魅力は薄れていくのではないでしょうか? この本では、だからタイでの生産性を引き上げなければならないという議論につづくのですが、いつまで生産拠点としてのASEANの優位性が残るのかという点には疑問も残りました。

新貿易立国論 (文春新書)
大泉 啓一郎
4166611704
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通勤途中に新書を読んでいる社会科の教員です。
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