賛否両論の的になりつつ、2023年6月にアメリカ連邦最高裁で違憲判決をくだされたアファーマティブ・アクション。そのアファーマティブ・アクションのアメリカにおける誕生から終焉までを追ったのが本書になります。
アファーマティブ・アクションというと、「差別是正のために必要か?逆差別か?」というようにディベートのテーマのような形で扱われることが多いですが、本書はアメリカでの歴史、そしてその語られ方を丁寧に追っており、非常に勉強になります。
日本でも大学の理系学部での「女子枠」の導入が進んでいますが、本書でアファーマティブ・アクションの歴史を知ることは、こうした日本での問題を考えるうえでも役立つのではないでしょうか。
目次は以下の通り。
序章 なぜアファーマティブ・アクションが必要だったのか第1章 いかに始まったのか―連邦政府による差別是正政策第2章 それは「逆差別」なのか―転換点としてのバッキ裁判第3章 反発はいかに広がったのか―「文化戦争」のなかの後退第4章 いかに生き残ったのか―二一世紀の多様性革命第5章 なぜ廃止されたのか―アジア系差別と多様性の限界終章 どのように人種平等を追求するのか
アファーマティブ・アクションは、技能職や大学の入学枠などに人種別の数値目標を求めたり、選考の際に人種の考慮を求めたりするもので、1960年代のアメリカで始まりました。
アメリカでは1964年に公民権法が成立することで公共施設、教育、雇用における差別が禁止されました。しかし、公民権法の成立後に表面化したのは、法的な差別や隔離の解消がすぐに人種主義的な体制の解体には結びつかないという現実です。
黒人の貧しい居住環境、貧弱な教育環境とともに、安定した仕事に就きにくい、住宅ローンを組みにくいなどの、さまざまな制度的人種主義が存在することが明らかになったのです。
これに対して、登場してきたのがアファーマティブ・アクション(以下AA)になります。
時代を遡ると、AAのような人種ごとの割当制度(クオータ制度)が過去にもありました。
19世紀後半から、南・東ヨーロッパからの移民が増え、カトリックやユダヤ教徒の割合が増えてくると、1924年に移民受け入れの国別割当制度が導入されます。これは移民の数を1890年の各国出身者の2%を上限として設定するもので、南・東ヨーロッパからの移民の締め出しを狙ったものでした。ちなみにアジア系は枠さえ設定されずに新規移民の受け入れが停止されています。
この時期に導入されたもう1つのクオータ制がアイビーリーグの大学などがユダヤ人の学生を制限するために導入した「ユダヤ人クオータ」です。
ハーバード大では、1925年にユダヤ人が入学者の1/4以上になり、学内の人種秩序が崩れると考えた大学はクオータ制を導入してユダヤ人の割合を15%にまで抑え込みます。
ニューディール政策でも南部では州政府の事業で黒人が排除され、戦後、復員兵の大学進学や住宅取得を後押しした復員兵援護法(GIビル)においても、黒人は大学や住宅ローンから黒人を排除する慣行に阻まれたといいます。
1961年に大統領に就任したケネディは雇用差別問題に取り組むために「雇用機会均等に関する大統領委員会(PCEEO)」を設置し、雇用差別の調査や指導に取り組みますが、この大統領令に「積極的な措置(affirmative action)」という言葉が使われていました。
ただし、その意味するところは「差別をしないこと」であり、人種による特別な取り扱いを求めているわけではありませんでした。
ジョンソン政権は公民権法を成立させると、司法長官に差別の禁止や平等を憲法上の権利として守るための権限を認め、差別案件について調査する公民権委員会や雇用機会の平等を求める雇用機会均等委員会(EEOC)の設置を決めます。
ただし、EEOCは殺到する案件に処理が追いつけませんでしたし、何を雇用差別とするかという基準がはっきりしていませんでした。
こうした中で1つの基準となったのは、1966年にニューポート・ニューズ造船社とEEOCの間で結ばれた和解合意における差別の解釈でした。ここでは上級職や管理職に黒人が圧倒的に少ないことを差別と認定したのです。EEOCは66年から従業員1000名以上の企業の人種構成を調査するようになり、雇用差別の実態を改善するように「積極的な措置(affirmative action)」を求めました。
それでも黒人の雇用が少ないのは能力に基づいた結果だという主張がありましたが、それに楔を打ち込んだのが1971年の合衆国最高裁判所によるグリッグス対デューク・パワー社判決でした。
デューク・パワー社は公民権法の成立とともに卒業証明に代えて昇進試験を導入しましたが、このやり方でも黒人が昇進できない状況は変わりませんでした。最高裁は「現状を『凍結』する」ような制度だとしてこれを差別だと認定したのです。
こうして過去の差別の補償のために政府が積極的に介入すべきだという「補償的正義」の考えが確立していきます。
こうした中でAAが導入されていくことになり、女性にも対象を拡大させながら進んでいくことになります。
このAAを大々的に勧めたのが共和党のニクソン政権でした。
ニクソン政権は、ジョンソン政権が導入したものの断念した連邦政府の事業に入札する建設業者のAAを求めるフィラデルフィア・プランについて、これを修正したうえで導入しました。
ニクソン政権のAAの推進については。民主党の支持基盤だった労組と黒人を分断させる戦術だったとの見方があります。確かに、結果としてこの分断は上手くいくのですが、著者はそれよりもAAが安上がりな人種政策であったことに注目しています。
ジョンソン大統領が進めた「貧困との闘い」はコミュニティ単位に予算の支援を行うものでしたが、AAは大規模な予算措置を必要としない福祉政策でした。「数値」の目標を定め、その「数値」の達成を求めるやり方は、わかりやすくコストのかからないものだったのです。
このAAですが、70年代になるとマジョリティの側から「逆差別」と訴えられることになります。
まず、1976年の合衆国最高裁のマクドナルド対サンタフェ輸送会社判決があります。これは従業員が積み荷の不凍剤を不正流用した事件でしたが、この事件に関与した従業員3名のうち白人2名が解雇され、黒人1名は解雇猶予となります。原告の白人従業員はこれを人種差別だとして訴えました。
これに対して合衆国最高裁は業務上の不正に対する罰に人種は関係ないはずであり、そこで人種によって異なる扱いをしたとすればそれは差別になると結論付けました。
また、1971年にワシントン大学法科大学院を不合格になったユダヤ系の白人学生マルコ・デフニスが起こした裁判が「逆差別」という言葉を世間に広めることになります。
デフニスは自分がマイノリティ枠よりも高い点数をとっていたにもかかわらず不合格になったのは「白人」であったためであり、平等保護原則に反すると訴えたのです。
71年にキング郡上位裁判所はデフニスへの差別を認定し、大学への入学を認めるように求めました。これに対してワシントン大学は入学を認めながらも控訴します。
結局、合衆国最高裁まで持ち込まれましたが、デフニスがすでに大学院終了間近だったこともあり、最高裁は合憲性についての判断を留保したまま審議を終えます。
しかし、キング郡の判決で「逆差別」という言葉が使われたこともあり、この事件をきっかけにこの言葉が広まっていくことになるのです。
そして、1974年からはバッキ裁判が始まります。
白人男性のアラン・バッキはミネソタ大学で工学を学び、その後NASAで働いたあと、1971年、32歳のときに医師を目指してカリフォリニア大学デイビス校医科大学院を受験しましたが不合格となり、翌年も不合格になりました。
デイビス校では定員100名のうち16名を非白人のための特別枠としていましたが、バッキはその枠で入学した学生よりもいい点数だったにもかかわらず不合格だったのは差別だとして訴えたのです。
裁判では郡の上位裁判所でも、州の最高裁でも違憲判決が下りました。特別枠を「クオータの一形式」として違憲とするとともに、1968年に大学院を開設したばかりのデイビス校が過去にマイノリティを差別したという証拠がなかったことも問題視されました。
カリフォリニア大学が合衆国最高裁に上告したことで、合衆国最高裁でAAについての何らかの判断がくだされることとなりました。
この裁判には過去に例のない注目が集まり、黒人団体や人権団体がAAを支持する意見を出すとともに、ユダヤ系アメリカ人の団体はAAを「人種クオータ」と呼んで反対しました。また、イタリア系やポーランド系も特定のマイノリティを救済するための措置が、他のマイノリティ(自分たち)のアクセスを否定することに反対しています。
論争で焦点となったのは、カラー・ブラインド(人種を意識しない)か、それともカラー・コンシャス(人種を意識する)というものです。
AAに反対する人は、しばしばマーティン・ルーサー・キングの「私には夢がある。私の3人の息子たちが、肌の色ではなく、人格そのものによって判断される日が来ることを夢見ている」(71p)という言葉を引用し、カラー・ブラインドを訴えました(キングは不平等是正のために連邦政府の介入を支持する立場だった)。
一方、大学側は人種差別によってつくられた不平等を改善するためには、カラー・コンシャスであることが必要だと訴えました。人種を考慮しない形式的な平等は現状を再生産するだけだというのです。
1978年6月28日、いよいよバッキ裁判の合衆国最高裁の判決の日を迎えました。
判決を導いた意見はルイス・F・パウエル判事のものでした。パウエルは「人種やエスニックによる区分」を疑わしいものとし、「人種やエスニックな地位に基づいて線を引いている」としてデイビス校のAAを「無効」とし、アラン・バッキの入学を認めました。
一方、AAは完全に否定されたわけではなく、制度的人種主義に対する是正措置としてのAAを否定はしましたが、「多様な学生集団を獲得するという目標」のために人種を用いたAAは認められるとの判断を示したのです。
パウエルは「多様性から学ぶこと」の意義を強調し、学生層のバランスを取るためのAA(ハーバードがこういう方法を用いていた)は認められると判断したのです。
この判決にはAAの推進派と反対派の双方から批判が出ましたが、「敗訴」したカリフォリニア大学の総長が「大学にとっては偉大な勝利」と表現したように、教育現場などからは歓迎されました。「逆差別」という批判を受けながらもAAは定着していくことになります。
1980年の大統領選挙で当選したレーガンはAAの見直しを公約にし、EEOCなどの連邦機関の予算を大幅に縮小しました、この流れは次のブッシュ政権だけではなく、民主党のクリントン政権にも受け継がれました。
80年代後半〜90年代にかけて、AAは「文化戦争」と呼ばれた対立の争点の1つとみなされ、人工妊娠中絶、同性愛者の権利といったトピックとともに取り扱われるようになります。そうした中でAAが人種的な分断を煽っているとの声も上がります。
黒人の中からもAAへの反対の声が出るようになります。社会学者のウィリアム・ジュリアス・ウィルソンは都市部のアンダークラスはAAでは救えないと考え(AAは次第に高等教育機関や大企業などに限られるようになってきた)、人種よりも階級を重視すべきだと主張しました。
一方、黒人エリートの中からもAAへの批判の声が上がります。法律家のクラレンス・トーマスはレーガン政権下でEEOCの委員長に就任しますが、AAには否定的な考えの持ち主でした。
トーマスによれば、AAのせいで黒人は「優遇」されたとみなされ、「優遇なしには対等な競争ができない存在」(99p)として認識されるというのです。
こうした人物をトップに戴いたEEOCは機能不全に陥りますが、これこそがレーガンの狙ったものでした。1991年にはブッシュ大統領がトーマスを最高裁の判事に任命します。
とは言っても、AAに反対する黒人はあくまでも少数派でした。
バッキ裁判でAAの息の根を止めることができなかった保守派は住民運動によってAAを廃止しようとします。
カリフォリニア州では1991年に「カリフォリニア公民権イニシアティブ(CCRI)」と呼ばれるAAの廃止を求める住民提案文書が作成され、保守系の政治家を中心に住民投票を求める運動が始まります。
この運動はなかなかうまく行きませんでしたが、95年11月から黒人実業家のウォード・コナリーを議長に迎えたことで運動は加速します。
当時のカリフォリニア州知事のピート・ウィルソンはAAに反対しており、カリフォリニア大学でのAAを廃止させましたが、さらにCCRIを成立させる運動に乗り出します。
ウォード・コナリーは提案文書を修正し、AAという言葉を使わずに一貫して「優遇措置(preferential treatment)という言葉を使いました。住民投票で多数を獲得するためには「優遇措置の禁止」というワードが効くと判断したからです。
コナリーは成功した人物であり、「努力すれば成功できる」という成功者のバイアスを持っていたと思われますが、黒人による「優遇措置」への反対という作戦は効きました。
1996年11月の大統領選挙に合わせて行われた住民投票では賛成54.6%、反対45.4%で「優遇措置」禁止の提案は承認されました。白人以外の人種/エスニシティ、女性では反対が多かったものの白人男性を中心とした賛成票が上回ったのです(116p表3−1参照)。
一方、出口調査によると「女性やマイノリティがよりよい職や教育を得るために民間・公的なアファーマティブ・アクション・プログラムを支持しますか」との質問については回答者の54%が支持すると答えました。
それでも、AA廃止の動きはワシントン州やフロリダ州にも広がりました。
2003年6月、ミシガン大学のAAをめぐって起こされていた2つの裁判の判決が合衆国最高裁でありました。
法科大学院への入学を巡って争われたグラッター対ボリンジャー裁判では、人種を入試の1つの要素として考慮するやり方を合憲としましたが、学部入学について争われたグラッツ対ボリンジャー裁判では、白人志願者と非白人志願者を分けて選抜する「グリッド制」と非白人学生や貧困層出身者に一律に加点する「ポイント制」はともに違憲とされました。
最高裁は、「多様性の確保」というAAの目的は認めたものの、実施できるAAはより狭くなりました。また、判決文ではAAの「期限」についても言及がありました。
その後、2006年にミシガン州でもAAを禁止する住民投票が可決され、ミシガン大学のAAは禁止されてます。
企業のAAについては企業の裁量が認められていましたが、白人から「逆差別」として告発されるリスクを避けるためにクオータ制などは採用されず、採用や昇進において人種などを考慮するなどの穏健なものにとどまりました。
一方で1980年代に研究者や人事コンサルタントが「多様性マネジメント」という考えを打ち出したこともあり、特にジェンダーの平等について意識された人事が行われるようになります。
2009年、オバマが非白人として初めての大統領になります。オバマ政権はAAを推進し、多様性確保のためのガイドラインを作成しました。
しかし、こうした中で白人の被害者感情に訴えて2016年の大統領選挙に勝利したのがトランプです。「白人に対する差別は、黒人や他のマイノリティに対する差別と同様に問題である」と考える人は2016年の大統領選時に白人で57%、とくに白人労働者階級では66%、トランプ支持者では81%にまで達しました。
これを受けて、トランプ政権はオバマ政権がつくったAAのガイドラインを廃止し、教育機関に「人種的に中立な方法で」選抜することを「強く推奨」しましたが、ハーバード大などはこれに従いませんでした。
しかし、トランプ大統領がなしたことで大きかったのは合衆国最高裁の判事に保守派を3人送り込み、保守派6名、リベラル派3名という保守は圧倒的優位の合衆国最高裁をつくりあげたことでした。
この保守派寄りになった最高裁が2023年6月にハーバード大とノースカロライナ大における人種を考慮する入学者選抜の方法を違憲と判断し、AAを終わらせることになります。そして、今度の原告は白人ではなく、マイノリティでありながらAAによって不利を受けたとするアジア系でした。
2020年の時点で「アジア系」とされた人はアメリカの人口の6.2%を占め、大卒以上の学歴を持つ者は61.1%と白人の41.3%を上回ります。そのせいもあって2022年の世帯あたりの年間実質所得の中央値は10万ドルを上回り、白人(8.1万ドル)、ヒスパニック(6.3万ドル)、黒人(5.3万ドル)よりも高くなっています。
2014年、「公平な入試を求める学生の会(SFFA)」がハーバード大とノースカロライナ大を訴えますが、ここでポイントになったのがAAは「アジア系への差別」だという主張でした。
この裁判で注目されたのは成績優秀でSATで満点近い成績を取りながらアイビーリーグの大学にことごとく不合格になったマイケル・ワンであり、また、公民権政策の停止をライフワークとしてきた白人活動家のエドワード・ブラムでした。
この裁判はメリトクラシーを信じるアジア系エリート移民と、白人優位の社会を維持しようとするバックラッシュ運動の利害の一致によって進められたのです。
そして、合衆国最高裁は、「人種」を考慮するステップを含んだハーバード大とノースカロライナ大の入試は、憲法に違反していると結論付けました。
最高裁の多数意見は両大学の入試が人種という「疑わしい区分」を用いてまで実現しなくてはならない利益があるのか。といった点を指摘し、さらにAAは目的達成のための一時的手段のはずなのにAAを終了する具体的なポイントを設定してないことも問題視しました。
リベラル派のソトマイヨル判事はアジア系の中の多様性(中国系やインド系だけでなくインドシナ難民のモン人などもいる)に配慮する際にもAAは有効だと主張しましたが、保守化した最高裁では少数意見にとどまりました。
ただし、AAが問題になっていたのは一部の難関大学だけであり、それ以外の大学ではすでにキャンパスの多様性は実現しており、AAのような措置は必要なかったという事実もあります。
また、人種を基準とした多様性確保の試みは消えることになりますが、難関大学でも卒業生の家族や親族を対象としたレガシー入試やスポーツ入試が「キャンパスにおける多様性の維持」という名目で行われています。
最後に著者は、AAのはじまりにもう1度目を向け、AAは1つの手段であり、目的としては構造的な不平等の解消であったことを指摘しています。確かにAAという手段は最高裁で否定されましたが、差別の解消という目的は未だに果たされておらず、原点に帰った取り組みがまだまだ必要なのです。
まとめを長々と書いてしまいましたが、それだけ読み応えのある面白い本です。
AAはよくディベートのテーマなどに使われますが、本書を読むことで「差別の解消か?逆差別か?」というような単純な理解では論じられないことがわかるはずです。