山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期

ここブログでは新書を10点満点で採点しています。

南川文里『アファーマティブ・アクション』(中公新書) 8点

 賛否両論の的になりつつ、2023年6月にアメリカ連邦最高裁で違憲判決をくだされたアファーマティブ・アクション。そのアファーマティブ・アクションのアメリカにおける誕生から終焉までを追ったのが本書になります。
 アファーマティブ・アクションというと、「差別是正のために必要か?逆差別か?」というようにディベートのテーマのような形で扱われることが多いですが、本書はアメリカでの歴史、そしてその語られ方を丁寧に追っており、非常に勉強になります。
 日本でも大学の理系学部での「女子枠」の導入が進んでいますが、本書でアファーマティブ・アクションの歴史を知ることは、こうした日本での問題を考えるうえでも役立つのではないでしょうか。

 目次は以下の通り。
序章 なぜアファーマティブ・アクションが必要だったのか
第1章 いかに始まったのか―連邦政府による差別是正政策
第2章 それは「逆差別」なのか―転換点としてのバッキ裁判
第3章 反発はいかに広がったのか―「文化戦争」のなかの後退
第4章 いかに生き残ったのか―二一世紀の多様性革命
第5章 なぜ廃止されたのか―アジア系差別と多様性の限界
終章 どのように人種平等を追求するのか

 アファーマティブ・アクションは、技能職や大学の入学枠などに人種別の数値目標を求めたり、選考の際に人種の考慮を求めたりするもので、1960年代のアメリカで始まりました。
 アメリカでは1964年に公民権法が成立することで公共施設、教育、雇用における差別が禁止されました。しかし、公民権法の成立後に表面化したのは、法的な差別や隔離の解消がすぐに人種主義的な体制の解体には結びつかないという現実です。
 黒人の貧しい居住環境、貧弱な教育環境とともに、安定した仕事に就きにくい、住宅ローンを組みにくいなどの、さまざまな制度的人種主義が存在することが明らかになったのです。
 これに対して、登場してきたのがアファーマティブ・アクション(以下AA)になります。

 時代を遡ると、AAのような人種ごとの割当制度(クオータ制度)が過去にもありました。
 19世紀後半から、南・東ヨーロッパからの移民が増え、カトリックやユダヤ教徒の割合が増えてくると、1924年に移民受け入れの国別割当制度が導入されます。これは移民の数を1890年の各国出身者の2%を上限として設定するもので、南・東ヨーロッパからの移民の締め出しを狙ったものでした。ちなみにアジア系は枠さえ設定されずに新規移民の受け入れが停止されています。

 この時期に導入されたもう1つのクオータ制がアイビーリーグの大学などがユダヤ人の学生を制限するために導入した「ユダヤ人クオータ」です。
 ハーバード大では、1925年にユダヤ人が入学者の1/4以上になり、学内の人種秩序が崩れると考えた大学はクオータ制を導入してユダヤ人の割合を15%にまで抑え込みます。

 ニューディール政策でも南部では州政府の事業で黒人が排除され、戦後、復員兵の大学進学や住宅取得を後押しした復員兵援護法(GIビル)においても、黒人は大学や住宅ローンから黒人を排除する慣行に阻まれたといいます。

 1961年に大統領に就任したケネディは雇用差別問題に取り組むために「雇用機会均等に関する大統領委員会(PCEEO)」を設置し、雇用差別の調査や指導に取り組みますが、この大統領令に「積極的な措置(affirmative action)」という言葉が使われていました。
 ただし、その意味するところは「差別をしないこと」であり、人種による特別な取り扱いを求めているわけではありませんでした。

 ジョンソン政権は公民権法を成立させると、司法長官に差別の禁止や平等を憲法上の権利として守るための権限を認め、差別案件について調査する公民権委員会や雇用機会の平等を求める雇用機会均等委員会(EEOC)の設置を決めます。

 ただし、EEOCは殺到する案件に処理が追いつけませんでしたし、何を雇用差別とするかという基準がはっきりしていませんでした。
 こうした中で1つの基準となったのは、1966年にニューポート・ニューズ造船社とEEOCの間で結ばれた和解合意における差別の解釈でした。ここでは上級職や管理職に黒人が圧倒的に少ないことを差別と認定したのです。EEOCは66年から従業員1000名以上の企業の人種構成を調査するようになり、雇用差別の実態を改善するように「積極的な措置(affirmative action)」を求めました。

 それでも黒人の雇用が少ないのは能力に基づいた結果だという主張がありましたが、それに楔を打ち込んだのが1971年の合衆国最高裁判所によるグリッグス対デューク・パワー社判決でした。
 デューク・パワー社は公民権法の成立とともに卒業証明に代えて昇進試験を導入しましたが、このやり方でも黒人が昇進できない状況は変わりませんでした。最高裁は「現状を『凍結』する」ような制度だとしてこれを差別だと認定したのです。
 こうして過去の差別の補償のために政府が積極的に介入すべきだという「補償的正義」の考えが確立していきます。
 こうした中でAAが導入されていくことになり、女性にも対象を拡大させながら進んでいくことになります。

 このAAを大々的に勧めたのが共和党のニクソン政権でした。
 ニクソン政権は、ジョンソン政権が導入したものの断念した連邦政府の事業に入札する建設業者のAAを求めるフィラデルフィア・プランについて、これを修正したうえで導入しました。
 ニクソン政権のAAの推進については。民主党の支持基盤だった労組と黒人を分断させる戦術だったとの見方があります。確かに、結果としてこの分断は上手くいくのですが、著者はそれよりもAAが安上がりな人種政策であったことに注目しています。
 ジョンソン大統領が進めた「貧困との闘い」はコミュニティ単位に予算の支援を行うものでしたが、AAは大規模な予算措置を必要としない福祉政策でした。「数値」の目標を定め、その「数値」の達成を求めるやり方は、わかりやすくコストのかからないものだったのです。

 このAAですが、70年代になるとマジョリティの側から「逆差別」と訴えられることになります。
 まず、1976年の合衆国最高裁のマクドナルド対サンタフェ輸送会社判決があります。これは従業員が積み荷の不凍剤を不正流用した事件でしたが、この事件に関与した従業員3名のうち白人2名が解雇され、黒人1名は解雇猶予となります。原告の白人従業員はこれを人種差別だとして訴えました。
 これに対して合衆国最高裁は業務上の不正に対する罰に人種は関係ないはずであり、そこで人種によって異なる扱いをしたとすればそれは差別になると結論付けました。

 また、1971年にワシントン大学法科大学院を不合格になったユダヤ系の白人学生マルコ・デフニスが起こした裁判が「逆差別」という言葉を世間に広めることになります。
 デフニスは自分がマイノリティ枠よりも高い点数をとっていたにもかかわらず不合格になったのは「白人」であったためであり、平等保護原則に反すると訴えたのです。
 71年にキング郡上位裁判所はデフニスへの差別を認定し、大学への入学を認めるように求めました。これに対してワシントン大学は入学を認めながらも控訴します。
 結局、合衆国最高裁まで持ち込まれましたが、デフニスがすでに大学院終了間近だったこともあり、最高裁は合憲性についての判断を留保したまま審議を終えます。
 しかし、キング郡の判決で「逆差別」という言葉が使われたこともあり、この事件をきっかけにこの言葉が広まっていくことになるのです。

 そして、1974年からはバッキ裁判が始まります。
 白人男性のアラン・バッキはミネソタ大学で工学を学び、その後NASAで働いたあと、1971年、32歳のときに医師を目指してカリフォリニア大学デイビス校医科大学院を受験しましたが不合格となり、翌年も不合格になりました。
 デイビス校では定員100名のうち16名を非白人のための特別枠としていましたが、バッキはその枠で入学した学生よりもいい点数だったにもかかわらず不合格だったのは差別だとして訴えたのです。
 裁判では郡の上位裁判所でも、州の最高裁でも違憲判決が下りました。特別枠を「クオータの一形式」として違憲とするとともに、1968年に大学院を開設したばかりのデイビス校が過去にマイノリティを差別したという証拠がなかったことも問題視されました。

 カリフォリニア大学が合衆国最高裁に上告したことで、合衆国最高裁でAAについての何らかの判断がくだされることとなりました。
 この裁判には過去に例のない注目が集まり、黒人団体や人権団体がAAを支持する意見を出すとともに、ユダヤ系アメリカ人の団体はAAを「人種クオータ」と呼んで反対しました。また、イタリア系やポーランド系も特定のマイノリティを救済するための措置が、他のマイノリティ(自分たち)のアクセスを否定することに反対しています。

 論争で焦点となったのは、カラー・ブラインド(人種を意識しない)か、それともカラー・コンシャス(人種を意識する)というものです。
 AAに反対する人は、しばしばマーティン・ルーサー・キングの「私には夢がある。私の3人の息子たちが、肌の色ではなく、人格そのものによって判断される日が来ることを夢見ている」(71p)という言葉を引用し、カラー・ブラインドを訴えました(キングは不平等是正のために連邦政府の介入を支持する立場だった)。
 一方、大学側は人種差別によってつくられた不平等を改善するためには、カラー・コンシャスであることが必要だと訴えました。人種を考慮しない形式的な平等は現状を再生産するだけだというのです。
 
 1978年6月28日、いよいよバッキ裁判の合衆国最高裁の判決の日を迎えました。
 判決を導いた意見はルイス・F・パウエル判事のものでした。パウエルは「人種やエスニックによる区分」を疑わしいものとし、「人種やエスニックな地位に基づいて線を引いている」としてデイビス校のAAを「無効」とし、アラン・バッキの入学を認めました。
 一方、AAは完全に否定されたわけではなく、制度的人種主義に対する是正措置としてのAAを否定はしましたが、「多様な学生集団を獲得するという目標」のために人種を用いたAAは認められるとの判断を示したのです。
 パウエルは「多様性から学ぶこと」の意義を強調し、学生層のバランスを取るためのAA(ハーバードがこういう方法を用いていた)は認められると判断したのです。

 この判決にはAAの推進派と反対派の双方から批判が出ましたが、「敗訴」したカリフォリニア大学の総長が「大学にとっては偉大な勝利」と表現したように、教育現場などからは歓迎されました。「逆差別」という批判を受けながらもAAは定着していくことになります。

 1980年の大統領選挙で当選したレーガンはAAの見直しを公約にし、EEOCなどの連邦機関の予算を大幅に縮小しました、この流れは次のブッシュ政権だけではなく、民主党のクリントン政権にも受け継がれました。
 80年代後半〜90年代にかけて、AAは「文化戦争」と呼ばれた対立の争点の1つとみなされ、人工妊娠中絶、同性愛者の権利といったトピックとともに取り扱われるようになります。そうした中でAAが人種的な分断を煽っているとの声も上がります。

 黒人の中からもAAへの反対の声が出るようになります。社会学者のウィリアム・ジュリアス・ウィルソンは都市部のアンダークラスはAAでは救えないと考え(AAは次第に高等教育機関や大企業などに限られるようになってきた)、人種よりも階級を重視すべきだと主張しました。

 一方、黒人エリートの中からもAAへの批判の声が上がります。法律家のクラレンス・トーマスはレーガン政権下でEEOCの委員長に就任しますが、AAには否定的な考えの持ち主でした。
 トーマスによれば、AAのせいで黒人は「優遇」されたとみなされ、「優遇なしには対等な競争ができない存在」(99p)として認識されるというのです。
 こうした人物をトップに戴いたEEOCは機能不全に陥りますが、これこそがレーガンの狙ったものでした。1991年にはブッシュ大統領がトーマスを最高裁の判事に任命します。
 とは言っても、AAに反対する黒人はあくまでも少数派でした。

 バッキ裁判でAAの息の根を止めることができなかった保守派は住民運動によってAAを廃止しようとします。
 カリフォリニア州では1991年に「カリフォリニア公民権イニシアティブ(CCRI)」と呼ばれるAAの廃止を求める住民提案文書が作成され、保守系の政治家を中心に住民投票を求める運動が始まります。
 この運動はなかなかうまく行きませんでしたが、95年11月から黒人実業家のウォード・コナリーを議長に迎えたことで運動は加速します。
 当時のカリフォリニア州知事のピート・ウィルソンはAAに反対しており、カリフォリニア大学でのAAを廃止させましたが、さらにCCRIを成立させる運動に乗り出します。

 ウォード・コナリーは提案文書を修正し、AAという言葉を使わずに一貫して「優遇措置(preferential treatment)という言葉を使いました。住民投票で多数を獲得するためには「優遇措置の禁止」というワードが効くと判断したからです。
 コナリーは成功した人物であり、「努力すれば成功できる」という成功者のバイアスを持っていたと思われますが、黒人による「優遇措置」への反対という作戦は効きました。
 1996年11月の大統領選挙に合わせて行われた住民投票では賛成54.6%、反対45.4%で「優遇措置」禁止の提案は承認されました。白人以外の人種/エスニシティ、女性では反対が多かったものの白人男性を中心とした賛成票が上回ったのです(116p表3−1参照)。
 
 一方、出口調査によると「女性やマイノリティがよりよい職や教育を得るために民間・公的なアファーマティブ・アクション・プログラムを支持しますか」との質問については回答者の54%が支持すると答えました。
 それでも、AA廃止の動きはワシントン州やフロリダ州にも広がりました。

 2003年6月、ミシガン大学のAAをめぐって起こされていた2つの裁判の判決が合衆国最高裁でありました。
 法科大学院への入学を巡って争われたグラッター対ボリンジャー裁判では、人種を入試の1つの要素として考慮するやり方を合憲としましたが、学部入学について争われたグラッツ対ボリンジャー裁判では、白人志願者と非白人志願者を分けて選抜する「グリッド制」と非白人学生や貧困層出身者に一律に加点する「ポイント制」はともに違憲とされました。
 最高裁は、「多様性の確保」というAAの目的は認めたものの、実施できるAAはより狭くなりました。また、判決文ではAAの「期限」についても言及がありました。
 その後、2006年にミシガン州でもAAを禁止する住民投票が可決され、ミシガン大学のAAは禁止されてます。

 企業のAAについては企業の裁量が認められていましたが、白人から「逆差別」として告発されるリスクを避けるためにクオータ制などは採用されず、採用や昇進において人種などを考慮するなどの穏健なものにとどまりました。
 一方で1980年代に研究者や人事コンサルタントが「多様性マネジメント」という考えを打ち出したこともあり、特にジェンダーの平等について意識された人事が行われるようになります。

 2009年、オバマが非白人として初めての大統領になります。オバマ政権はAAを推進し、多様性確保のためのガイドラインを作成しました。
 しかし、こうした中で白人の被害者感情に訴えて2016年の大統領選挙に勝利したのがトランプです。「白人に対する差別は、黒人や他のマイノリティに対する差別と同様に問題である」と考える人は2016年の大統領選時に白人で57%、とくに白人労働者階級では66%、トランプ支持者では81%にまで達しました。
 
 これを受けて、トランプ政権はオバマ政権がつくったAAのガイドラインを廃止し、教育機関に「人種的に中立な方法で」選抜することを「強く推奨」しましたが、ハーバード大などはこれに従いませんでした。
 しかし、トランプ大統領がなしたことで大きかったのは合衆国最高裁の判事に保守派を3人送り込み、保守派6名、リベラル派3名という保守は圧倒的優位の合衆国最高裁をつくりあげたことでした。

 この保守派寄りになった最高裁が2023年6月にハーバード大とノースカロライナ大における人種を考慮する入学者選抜の方法を違憲と判断し、AAを終わらせることになります。そして、今度の原告は白人ではなく、マイノリティでありながらAAによって不利を受けたとするアジア系でした。
 2020年の時点で「アジア系」とされた人はアメリカの人口の6.2%を占め、大卒以上の学歴を持つ者は61.1%と白人の41.3%を上回ります。そのせいもあって2022年の世帯あたりの年間実質所得の中央値は10万ドルを上回り、白人(8.1万ドル)、ヒスパニック(6.3万ドル)、黒人(5.3万ドル)よりも高くなっています。

 2014年、「公平な入試を求める学生の会(SFFA)」がハーバード大とノースカロライナ大を訴えますが、ここでポイントになったのがAAは「アジア系への差別」だという主張でした。
 この裁判で注目されたのは成績優秀でSATで満点近い成績を取りながらアイビーリーグの大学にことごとく不合格になったマイケル・ワンであり、また、公民権政策の停止をライフワークとしてきた白人活動家のエドワード・ブラムでした。
 この裁判はメリトクラシーを信じるアジア系エリート移民と、白人優位の社会を維持しようとするバックラッシュ運動の利害の一致によって進められたのです。

 そして、合衆国最高裁は、「人種」を考慮するステップを含んだハーバード大とノースカロライナ大の入試は、憲法に違反していると結論付けました。
 最高裁の多数意見は両大学の入試が人種という「疑わしい区分」を用いてまで実現しなくてはならない利益があるのか。といった点を指摘し、さらにAAは目的達成のための一時的手段のはずなのにAAを終了する具体的なポイントを設定してないことも問題視しました。
 リベラル派のソトマイヨル判事はアジア系の中の多様性(中国系やインド系だけでなくインドシナ難民のモン人などもいる)に配慮する際にもAAは有効だと主張しましたが、保守化した最高裁では少数意見にとどまりました。

 ただし、AAが問題になっていたのは一部の難関大学だけであり、それ以外の大学ではすでにキャンパスの多様性は実現しており、AAのような措置は必要なかったという事実もあります。
 また、人種を基準とした多様性確保の試みは消えることになりますが、難関大学でも卒業生の家族や親族を対象としたレガシー入試やスポーツ入試が「キャンパスにおける多様性の維持」という名目で行われています。

 最後に著者は、AAのはじまりにもう1度目を向け、AAは1つの手段であり、目的としては構造的な不平等の解消であったことを指摘しています。確かにAAという手段は最高裁で否定されましたが、差別の解消という目的は未だに果たされておらず、原点に帰った取り組みがまだまだ必要なのです。

 まとめを長々と書いてしまいましたが、それだけ読み応えのある面白い本です。
 AAはよくディベートのテーマなどに使われますが、本書を読むことで「差別の解消か?逆差別か?」というような単純な理解では論じられないことがわかるはずです。

 

上脇博之『検証 政治とカネ』(岩波新書) 7点

 昨年発覚して以来、政界を揺るがしている自民党の政治資金パーティー問題。高まった政治不信はなかなか払拭できずに、ついに岸田首相の退陣が決まりました。
 こうした中、政治資金に関する疑惑を自ら調査し告発してきたのが著者です。著者は憲法学を専門とする教授ですが、同時に市民団体「政治資金オンブズマン」の代表も務めており、「政治とカネ」の問題の専門家ともなっています。
 そんな著者が、「政治とカネ」をめぐるさまざまな問題点、市民でもできる政治資金問題の調べ方などをレクチャーしたのが本書になります。
 著者の政治制度に対する意見については賛同できないところもありますが、現在の「政治とカネ」のややこしい問題をわかりやすく解説した内容になっています。

 目次は以下の通り。
第1章 政治家の収入源はどうなっているのか
第2章 カネはどう規制されているのか
第3章 抜け道だらけの政治資金規正法――裏金はこうしてつくられる
第4章 金権政治を加速させてしまった90年代政治改革
第5章 市民の手で「政治とカネ」を究明する――私が告発を続けるわけ
終 章 真に求められる政治改革とは

 まず、第1章では政治家の収入の内訳が述べられています。
 現在、国会議員は月に129万4000円の歳費と約300万円の期末手当を2回受け取っています。トータルの年収は2000万円を超えます。
 これ以外に副業をしている議員もいます。会社の役員となって報酬を受け取ったりしていますが、1992年に成立した「国会議員資産公開法」によって、資産や所得を報告しなければならなくなりました。ただし、この法律に違反しても罰則はありませんし、公開しているといってもネットでは公開しておらず、衆参それぞれの議員会館に出向いて調べなければなりません。

 議員には他にもさまざまな公費の支給があります。
 まずは衆参各院の「会派」に支給される立法事務費です。議員1人あたり月65万円が支払われます。「会派」に支給されることになっていますが一人会派も認められているので無所属の議員にも交付されます。

 次に「調査研究広報滞在費」です。耳慣れない言葉ですが、これはかつての文書通信交通滞在費のことで、2022年から法改正とともに現在の名称になりました。月100万円が支給されていますが、以前からその使い道が不透明だとされてきました。法改正によって「国民との交流」という語句が盛り込まれ、ますます政治活動とは関係のないことに使われているのではないかと懸念されています。

 地方議員には旧文書交通滞在通信費や立法事務費と同じような位置づけのものとして政務活動費が支給されています。金額や使い道については自治体によってバラツキがあります。

 国会議員には公設秘書がつきます。公設秘書2人、政策担当秘書1人の計3人まで公費で雇うことができます。

 選挙運動費用の公費負担もあります。ポスターやビラの作成、政見放送の制作、選挙カーのレンタル費用や燃料費などについてかかったお金の一部が公費で賄われます。ただし、全員が受けられるわけではなく、一定の得票数に達しなければ供託金が没収されるだけではなく、こうした公費負担も受けられないことになります。

 さらに政党交付金があります。日本の人口1人あたり250円を基準にした金額が政党に配分されています(共産党は受取を拒否している)。
 政党交付金の額は大まかに言って所属する国会議員の人数と衆参の選挙で得た得票数で決まります。2015〜2022年にかけて自民党は毎年240〜258億円程度を受け取っており、収入の7割前後が政党交付金となっています15p表4参照)。

 さらに与党の議員については内閣官房機密費がわたっている可能性があります。官房機密費の使徒は非公表であり、過去には竹下政権下で消費税導入の際の野党対策に使われた疑いがあります。
 近年の官房機密費は年間約12億円で、その多くは政策推進費という名目です。

 こうした公費以外にも政治家はさまざまな形でお金を集めているわけですが、そのお金の出入りについて定めているのが政治資金規正法になります。
 政治資金の規正に関しては、政治資金の流れを国民に公開するという考えと、政治資金のやり取りを直接制限するという2つの方法が取られています。
 政治資金は政治とカネの問題が起きるたびに改正され、政治資金の制限と資金の流れの透明化が進められてきました。

 政治資金規正法が適用されるのは、政治資金を受ける側と提供される側の両方になりますが、収支の流れの公開などが義務付けられているのは政治家ではなく、政治団体になります。
 政治団体には、①政党、②政治資金団体、③資金管理団体、④国会議員関係政治団体、⑤その他の政治団体、の5つに分けられます。

 ①の政党ですが、政治資金規正法の定義では「国会議員が5人以上在籍」または「国政選挙での得票率が全国で2%以上」という条件をクリアーすることが必要です。そのため「大阪維新の会」や「都民ファーストの会」などの地域政党は政治資金規正法上の政党ではありません。政党は企業や労働組合からも政治献金を受けることができます。
 ②の「政党のために資金上の援助をする目的を有する団体」で、自民党の「国民政治協会」などがあります。企業などからの献金も可能です。
 ③は政治家が自身が代表を務める政治団体のうちから1つの政治団体に限り指定できます。資金管理団体に指定されると議員本人からの寄付についての上限規制(150万円)がなくなりますが、政治資金収支報告書はより詳細に記載しなければならず、5万円以上の支出を記載する必要が出てきます
 ④は2008年の政治資金規正法改正で新たに加わった区分で、こちらは1万円以上の支出を記載しなければなりません。
 ⑤は上記に当てはまらないもので、派閥の政治団体や地域政党などもこれに当たります。支出の透明度が低く、明細を記載しなければならないのは5万円以上の政治活動費のみです。

 政治資金規正法において企業、労働組合、任意団体から寄付を受けることができるのは政党と政治資金団体に限られていますが、その抜け穴となっているのが政治資金パーティーです。パーティー券はパーティーの対価であり、寄付とは違うと考えられているのです。
 普通のパーティーであれば実費に近い金額を徴収するわけですが、政治資金パーティーについては著者のしらべたところによると利益率が8〜9割という例も珍しくないそうです。
 しかもパーティー券を買ったからと言ってパーティーに出席しているとは限りません。地方の企業が東京で開かれるパーティー券を2万円×50枚=100万円分買っているケースもありますが、社員が50人も出席しているとは思えません。
 また、1つの政治資金パーティーについて同一の者からの対価が20万円を超える場合にのみ明細を記載することになっており、5万円以上のものを記載する必要のある寄付よりもゆるいものとなっています。

 毎日新聞が2022年11月にスクープした平井卓也元デジタル担当大臣のケースでは、著者が入手した内部資料によると、チケット購入願いとして10枚×2万円=20万円という数字が書いてあり、さらに下の方を見ると出席者3名の氏名を書くように求めています。つまり、7名分は欠席前提でカネを集めているわけです(49p図1参照)。
 しかも、このパーティーはコロナによって2度延期されましたが、購入した会社にその連絡はなかったといいます。パーティー券はパーティーの対価というのは建前で、実態は限りなく寄付に近いのです。

 また、これとは違って政治家が有権者を接待するタイプのパーティーもあります。この例が安倍元首相の「桜を見る会」になります。

 政治資金パーティーと並ぶ政治資金規正法の抜け穴が政党から政治家への寄付です。
 政治資金規正法では、収支報告を行わなければならないのは政治団体であり政治家ではありません。そのため政党から政治家へお金が移動してしまうと市民はその先の流れをチェックできません。

 自民党本部は「組織活動費」「政策活動費」という名目で幹事長ら10〜20人ほどの幹部に巨額のお金を寄付しています。衆議院選のあった2017年と参議院選のあった2019年に二階幹事長は10億円以上のお金を自民党から受け取っています(56p表12参照)。
 過去にはさらに高額のお金が流れており、2000年には85億円ものお金が294名もの国会議員に流れていました(58p表13参照)。この後、著者らが刑事告発したこともあって(結果は不起訴)、現在は幹部に限定してお金を流す方式になっています。
 また、自民党では派閥から6月に「氷代」、12月に「餅代」という名目で100〜400万円のお金が配られる慣行がありましたが、2024年に自民党本部が廃止を打ち出しています。

 多くの国会議員は複数の政治団体を持っています。これには政治資金の受け皿を複数持っていたほうが便利である、また「国会議員関係政治団体」よりも「その他の政治団体」の方が支出の公開の透明度が低いといった理由があると思われます。
 つまり、国会議員関係政治団体で受け取ったお金をその他の政治団体に回すことでお金の使い道についてのチェックを免れることができるのです。実際、茂木敏充幹事長は自身の国会議員関係政治団体から自身の後援会であるその他の政治団体に2008〜22年にかけて4億7940万円を寄付しているそうです。

 寄付についてもいろいろと抜け穴があります。個人から政治団体に対する寄付は同一の受領者に対して年間150万円までとなっていますが、国会議員は複数の政治団体をもっているため、分散してこの規制をすり抜けることが可能です。
 政治団体から政治団体への寄付の上限は年間5000万円ですが、これも複数の政治団体を設立し、迂回献金をすることですり抜けられます(ただし迂回献金の意図が立証されれば違法となる、日歯連事件がそう)。

 このように政治資金には不透明なところがあり、その一部はいわゆる「裏金」になっていると考えられます。
 この裏金は政治家のプライベートな遊興などに使われているかもしれませんし、選挙などで表には出せない金として使われているのかもしれません。近年の例としては、河井克行、河井案里が選挙において地元議員に現金を配った事件などがあります。
 また、自民党総裁選でこうした裏金が使われている可能性もあります。

 こうしたさまざまな問題の要因を著者は90年代の政治改革に求めています。
 リクルート事件や佐川急便事件を受けて行われた1994年の政治改革では、小選挙区比例代表並立制の導入、政治資金規正法の改正、政党助成金制度の導入といったことが行われましたが、著者はこれらの改革のいずれにも否定的です。

 個人的には政党助成金制度を違憲だとする主張などにはあまり同意できないのですが、40%台の得票率で70%以上の議席を獲得するケースもある小選挙区制と、政党助成金制度における議員数と得票率をもとにした配分が、与党に過剰な資金を提供しているというはその通りかもしれません。
 ただし、小選挙区制になっても「政治とカネ」の問題がなくなるわけではないというのはその通りでも、政治改革以前に比べれば「政治とカネ」の問題のスケールはずいぶん小さくなったとも言えるのではないでしょうか。

 後半の第5章では、実際に市民の立場から「政治とカネ」の問題を追求する方法をレクチャーしています。
 著者が初めて国会議員を告発したのは新進党が分裂し、6つの政党に分かれたときです。このとき、6党は1998年1月1日時点で結党を届け出て政党交付金の交付を受けていましたが、のちに著者が行ったアンケートで1月1日時点では結党がなされていなかったことが明らかになりました。そこで著者は2000年に他の憲法学者等とともに6党の党首を政党助成法違反で告発しました。
 このことがきっかけで弁護士の阪口徳雄と知り合い、2002年に市民団体「政治資金オンブズマン」を結成しています。
 その後、収支報告書などから証拠を集め、報道機関を巻き込みながら告発するという手法が確立していったといいます。

 ただし、検察が告発を受理して実際に起訴するハードルは高いといいます。収支報告書への不記載などでも金額が小さければ費用対効果を考えて動かないことが多いといいますし。政治家が報告書をミスだったと訂正すればそれで終わりになるケースも多いです。
 しかし、それでも告発する意味はあるといいます。告発によってマスコミが動き、それが政治家の進退に関わるようなケースもあります。
 安倍元首相の「桜を見る会」問題も不起訴となりましたが、マスコミを巻き込んで大きく報道され政権運営の足を引っ張りました(125pでは少しトーンダウンした書き方ですけど、122pの「安倍氏が2020年9月に辞職するきっかけとなったのが、「桜を見る会」問題でした」は少し言い過ぎではないかと)。

 一方、著者らの告発から逮捕・起訴にまでつながったのが自民党の薗浦健太郎衆議院議員です。
 薗浦議員は政治資金パーティーを開催したにもかかわらずその事実を政治資金収支報告書に記載せず、そのお金を裏金にしていたという「闇パーティー」の疑惑がありました。
 著者は薗浦議員と資金管理団体の会計責任者になっていた公設第一秘書を刑事告発しますが、このときに証拠隠滅を図ろうとした薗浦議員に対して秘書がそのやり取りの録音などの証拠を検察に提出し、議員辞職につながりました。薗浦議員は4000万円以上の裏金をつくっていたといいます。

 地方議員については「どうせ誰も調べないだろう」といい加減な処理がされているかもしれませんが、ここを追求すればさまざまな疑惑が出てくるかもしれません。

 つづいて具体的な調べ方が記されています。このあたりはぜひ本書を読んでほしいのですが、政治資金収支報告書については新潟県だけがネットでの公開をしていないそうです。また、政治資金収支報告書の保存期間は3年のみで、議員の任期よりも短くなっています。
 
 素人が政治資金収支報告書を見て何がわかるか? という考えもあるでしょうが、単純な日付の間違いなどから怪しいお金の流れがわかることもありますし、お金の流れを見ることでその政治家がどんな政治団体を持っていて、何を隠そうとしているかが見えてくるといいます。
 また、あきらかに個人の遊興などに使ったと思われる項目が見つかることもあります。

 終章では、政治資金に対するさらなる規制の強化とともに完全比例代表制への移行、「べからず選挙」の改革などを訴えています。

 途中にも書きましたように著者の政治全般に対する見方には同意できな部分もあるのですが、政治資金の問題については、さすが長年実際に調べているだけあって読んでいて勉強になります。
 個人的には政治資金についてもっと政党に説明責任を負わせるようなやり方もあるのではないかと思いますが、本書も指摘しているように、あれこれと細かい抜け穴を利用して不透明にお金を処理できるような仕組みを変えていくことは急務と言えるでしょう。
 

検証 政治とカネ (岩波新書)
上脇 博之
岩波書店
2024-07-25


濱口桂一郎『賃金とは何か』(朝日新書) 8点

 日本型の雇用をメンバーシップ型雇用として欧米のジョブ型雇用と対比させながら論じてきた著者が日本の賃金の歴史について論じた本。
 日本の賃金の特徴については『ジョブ型雇用社会とは何か』(岩波新書)の第3章でも論じられていますので、単純に日本の賃金の特徴を知るのであればそちらのほうがいいかもしれません。
 一方、本書はさらに細かく日本の賃金の歴史が深掘りしてあり、そして多くの人が気になっている「日本の賃金が上がらない理由」というものがわかるようになっています。
 「上げなくても上がるから上げないので上がらない賃金」という謎掛けのような言葉が最後に登場しますが、本書を読めばその意味がよくわかると思います。

 目次は以下の通り
序章 雇用システム論の基礎の基礎
第1部 賃金の決め方(戦前期の賃金制度;戦時期の賃金制度;戦後期の賃金制度;高度成長期の賃金制度;安定成長期の賃金制度;低成長期の賃金制度)
第2部 賃金の上げ方(船員という例外;「ベースアップ」の誕生;ベースアップに対抗する「定期昇給」の登場;春闘の展開と生産性基準原理;企業主義時代の賃金;ベアロゼと定昇堅持の時代;官製春闘の時代)
第3部 賃金の支え方(最低賃金制の確立;最低賃金制の展開;最低賃金類似の諸制度)
終章 なぜ日本の賃金は上がらないのか

 目次を見ればわかるように本書は3部仕立てになっています。
 まず、第1部では賃金の決め方の歴史が語られています。日本型雇用といえば終身雇用と年功賃金ですが、かつてはまったく違った世界が広がっていました。
 明治期の工場労働者の特徴はその高い異動率で、腕の良い労働者ほど工場から工事へと異動していきました。
 当然ながら、年功賃金が存在するはずもなく、工場内の労務管理を請け負っていた親方職工による技能評価によって賃金が決まりました。

 ところが、このやり方は日露戦争後の重工業化の中で変わっていきます。
 工場では親方を通じた間接管理から工場の監督者による直接管理が導入されるようになり、大工場では自前の熟練工の養成に取り組み始めました。

 第一次世界大戦後に不況が訪れると、企業側は渡りの職工を思い切って切り捨て、自前の職工を中心とする体制をつくっていきます。
 また、「定期採用」、「定期昇給」の仕組みがつくられ、企業内で労使の意思疎通を図るための工場委員会ととともに、終身雇用、年功賃金、企業別組合に代表される日本型雇用のプロトタイプがつくられていくことになります。

 この時代には生活給の考えも打ち出されています。著者が今までの本でも持ち出してきた呉海軍工廠の伍堂卓雄の考えが紹介されていますが、これによれば若者に多くの賃金を与えても酒や映画に使うだけであり、一方、ベテランの職工の賃金は家族を養うには厳しいものがあるのだから、年齢とともに給料が上がる仕組みが望ましいというものです。

 1930年代前半、政府で職務給の導入が模索されたこともありましたが、日中戦争の開始とともに経済統制が強まり、雇用や賃金への統制も強まります。
 新卒技術者は割当制となり、軍事産業の労働者は許可なく転職できなくなりました。さらに企業には企業内の訓練システムの導入を命じています。
 賃金についても1939年3月の第一次賃金統制令で未経験者の初任給の最低額と最高額を決め、10月の賃金臨時措置令では賃金を引き上げる目的で基本給を変更することを禁じ、ただ内規に従っての昇給のみが許されました。この抜け穴となったのが家族手当で、日本の賃金は年功的要素、生活給的要素を強めていきます。

 53p表2では第二次賃金統制令における男子労務者の最高初給賃金が紹介されていますが、年齢と経験年数によって上がる仕組みになっています。また、生活給の要素が強いため、男子と女子で平均時間割賃金が大きく違います(30歳以上、金属精錬業で男子は42.7銭、女子は16.0銭(54p表3参照))。
 さらにホワイトカラーの賃金統制も同時期の会社経理統制令で始まりました。ここでも初任給の上限や昇給率に制限がかけられたことでホワイトカラーの賃金も年功的にならざるを得なくなります。
 1942年の重要事業場労務管理令では、これまで別立てであったブルーカラー労働者とホワイトカラー職員を「従業員」という単一のカテゴリーに事業主に賃金規則や昇給内規の作成を義務付けました。

 このように戦時の統制が強まるにつれ賃金は年功的、生活給的性格を強めていくわけですが、それを正当化するために生産性と賃金と結びつけるのは「賃金奴隷」の考えだというような言説まで登場していくるのは興味深いところです。
 
 戦争が終わり戦時統制も終わるのですが、賃金は戦時を引きずることになります。
 1946年12月に締結され、その後の日本の賃金に大きな影響を与えた電産型賃金体系は、本人の年齢と扶養家族の人数+能力によって賃金が決まるというものでした(66p表5参照)。
 また、抑えられた基本給に各種の手当が肥大化しており、終戦後の電気産業では本給287円、家族手当148円、その他の手当含めて計616円と、本給の占める割合は4割強でした。

 しかし、こうした生活給はGHQや世界労働組合連盟(世界労連)から批判されます。
 GHQの労働諮問委員会報告では、賃金が仕事の性質と連関していないこととともに、生活給は団体交渉を混乱させ、低水準の婦人や児童の過度の使用を促すと指摘しています。
 世界労連も日本の賃金制度が差別的待遇に繋がりかねないことを批判しました。

 GHQの影響で職務給への転換が進められたのが公務員です。
 1947年10月に成立した国家公務員法には職階制が明記され、1950年5月には国家公務員の職階制に関する法律(職階法)が制定されています。ここでは明確にジョブ型の公務員制度が志向されていました。
 今いる公務員に対してもその職に的確かどうか試験を受けさせることにし、1950年1月に「S-1試験」と呼ばれる試験が行われましたが、これによって約1/4の幹部職員が職を追われることになり、猛反発を受けます。
 結局、占領が終わるとジョブ型の公務員制度は捨て去られることになります。賃金についても縦の等級は15級もあるのに、横の職務区分は一般、税務、公安、船員しかないというジョブ型とはかけ離れたものになっていきます。

 1950〜60年代にかけて、政府とともに職務給の旗振り役だったのは日経連でした。身分ではなく、職務に応じた賃金こそが科学的だという考えがあったのです。
 一方、労働組合の反応はさまざまでしたが、総評が1952年にすべての生活費目を価格換算して積み上げるマーケット・バスケット方式を打ち出したように、生活給の考えから脱しようという考えが主流にはなりませんでした。

 高度成長期に入ると賃金の上昇圧力も強まります。
 そうした中で日経連は職務給と定期昇給の推進という二本立てで対応していきます。職務給によって給与を抑制することもできるはずですが、現実的には定期昇給という仕組みで賃金総額を抑制しようとしたのです(もし各年齢の労働者が1人ずつで、一番上の人が定年で抜けるのであれば、定期昇給を実施しても会社全体の給与の支給総額は変わらない)。

 一方、労組は職務給の受け入れをめぐって割れていました。
 全国産業別労働組合連合(新産別)は賃金の近代化のために職務給の導入は必要だというスタンスでしたが、当時最大のナショナルセンターであった日本労働組合総評議会(総評)は議論自体を拒否するような態度を示しています。これは職務給の導入によって中高年男性の賃金が下げられる恐れがあったからです。

 1960年代後半になってくると、日経連が職務給の導入を放棄して能力主義へと転換していきます。労組も口先では同一労働同一賃金を唱えながら本音では年功賃金を維持したいと考えており、職務給導入の機運はしぼんでいきます。

 経営者側からも年功賃金が日本に合ってるという認識が広まっていくのですが、高度成長が終わり安定成長の時代になると、ピラミッド型の人員構成が崩れていき、名ばかり管理職の問題が現れてきます。
 そこで役職位の管理と処遇の管理を分けていこうという動きが起こります。ただし、この結果出現したのが高給をとる中高年ヒラ社員でした。
 また、定年延長の際にも、この年功賃金の存在は大きな障害になりました。

 バブルが崩壊すると企業側は賃金を抑制する姿勢を強めます。そうした中で、1995年に日経連は『新時代の「日本的経営」』という報告書の中で、①「長期蓄積能力活用型」、②「高度専門能力活用型」、③「雇用柔軟型」という3つの雇用類型を示し、①では「職能給+年齢給」、②では「年俸制」、③では「職務給」といったイメージを描きました。①でも成果によっては降給もあり得るとし、全体的な賃金の抑制を行おうとしたのです。
 ただし、②の雇用スタイルは普及せず、③の仕事は派遣やバイトやパートに置き換えられ、職務給というよりは低賃金に張り付くことになります。

 非正規雇用の増大により非正規雇用の低すぎる賃金が問題として浮上します。
 「同一労働同一賃金」のスローガンも唱えられますが、年功賃金のもとではこの同一労働同一賃金を導入するのは至難の業でした。
 それでも同一労働同一賃金を目指す動きは続き、2014年には同一労働同一賃金をめざす職務待遇確保法が成立し、2016年になると安倍首相が同一労働同一賃金を目指す考えを示します。
 さらに岸田政権になると「職務給」という言葉が首相の口からも語られるようになりました。

 第2部は「賃金の上げ方」となっていますが、冒頭で紹介されているのは日本では例外的に産業レベルで団体交渉を行い、職種や技能水準ごとに賃金を決めている船員の例です。そして、日本では例外であっても欧米ではこれがスタンダードなのです。

 一方、日本では企業別に総額人件費をいくら増やすかというベースアップ(ベア)が賃上げ交渉の中心になります。 
 このベアの起源は第二次賃金統制令にあるといいます。欧州でWW2が勃発し物価の上昇が予想されるが、我が国の物価をストップするには賃金をストップしなければならないという考えのもとに導入された賃金総額制限方式がベアにつながったというのです。

 戦後になると次々と労働組合が設立されていきますが、その多くは産業別でも職業別でもなく、産業報国会の流れをくむ企業ごとにホワイトカラーとブルーカラーを包含した組織でした。こうした組合は給料一律何割値上げといった形の主張をしていきます。
 戦後のインフレの中、公務員の賃金を抑制するために「賃金ベース」という言葉が登場します。この賃金ベースの考えは緊縮政策を進めるGHQのもとで民間企業でも使われるようになり、労働組合も賃上げのために賃金ベースという言葉を使いだします。もともと賃金を抑制するために使われていた言葉が、賃上げのためにも使われるようになっていったのです。
 そして、1950年には「ベースアップ」という和製英語が使われるようになりました。

 経済が上向いてくると、賃金抑制の手段であったベースアップ方式は賃上げのロジックになっていき、経営側はベースアップの代わりに定期昇給という考えを打ち出していきます。
 先にも述べましたが、定期昇給は年齢構成のバランスが良ければ個人は昇給しても全体の賃金総額は変わらないというもので、これが経営側の賃金抑制のロジックとなります。
 ただし、現実には1970年代なかばまでベースアップはつづき、90年代後半になってその姿を消します(198p図2参照)。好景気の中での賃金抑制というのはやはり無理があるのです。

 1955年には春闘が始まります。これはベースアップ方式が前提とする企業別交渉の問題点を乗り越えるための工夫でした。
 企業別交渉だと自社でベースアップを実現させても他社が賃上げをしなかれば競争に負けてしまうかもしれませんし、ストライキをしている間に他社にシェアを奪われてしまうかもしれません。これを防ぐためにある程度要求額やスケジュールを統一して交渉を行おうというのです。
 60年代になると、鉄鋼労連がこの春闘を引っ張っていくようになります。
 
 1973年に石油危機が起きると74年の春闘では32.9%という空前の賃上げが実現します。こうした中で経営側は生産性を基準とした賃金の抑制をはかろうとします。
 政府もインフレの抑制を考え、三木内閣で副総理兼経済企画庁長官として入閣した福田赳夫が鉄鋼労連の宮田義二委員長に賃金の抑制を含む所得政策を持ちかけます。これに対して、宮田は所得政策に反対しつつ、賃上げの自粛を持ち出し、75年の春闘は13.1%の伸びにとどまります。
 労組はあくまでも政府との話し合いの中で賃上げを自粛したわけですが、経営側はこれを「勝利」と受け止めます。

 この石油危機が分水嶺となり、労組も賃上げよりも雇用の維持を重視するようになっていきます。経営側からも賃金は企業ごとの生産性によるべきだという声が強まり、企業別労組との協調を日本型経営の長所だとする声も生まれてきます。
 また、80年代後半〜90年代に労組の側からも消費者目線からのデフレ推進論があったのは興味深いところです。日本の物価は欧米に比べて高いとの認識から、これを引き下げれば実質賃金が上昇するとの指摘が出てきたのです。
 1993年の日経連内外価格差問題研究プロジェクト報告では「仮に3年で10%の物価が引き下げられれば、毎年約9兆円の実質所得の向上にな」り、「国民は新しい購買力を獲得し、そこから商品購買意欲の高まりが生まれる」(223p)という、その後の展開を知っている者からすれば「何を言ってるんだ…」としか思えない展望が示されています。

 90年代後半になるとベースアップはほぼ消滅してしまいます。ベースアップによる賃上げは企業がこれだけ儲かっているんだから給料も増やせというロジックでしたが、肝心の企業業績が低迷すればベースアップの要求は難しくなります。
 2002年になると、連合の要求も「賃金カーブ維持分+α」という具合にベアゼロを認め、定期昇給だけはなんと開示するといった具合に後退していきます。
 2000〜2013年に至るまで、ベースアップはほぼゼロだった一方、定期昇給分は2%弱の水準で維持されましたが、これは個人としては給料は上がるが、総額としては凍結された状況でした。

 このベアゼロ時代に変化をもたらしたのが安倍政権でした。デフレ脱却を旗印に賃上げにも積極的な姿勢を示し、わずかながらでもベアが復活します。
 そして、世界的なインフレの波もあり、2023年以降は大きなベースアップがなされることになるのです。

 最後の第3部は主に最低賃金がとり上げられています。
 日本で本格的に最低賃金が導入されたのは1939年の第一次賃金統制令です。政府は労働者の異動を制限しようとしましたが、その代わりに何らかの保障が必要だと考えられたのです。
 
 戦後になると労働基準法で最低賃金の根拠規定が設けられます。ただし、具体的な金額を決めるとなると抵抗も大きく最低賃金が設定されないままに時が過ぎていきます。
 この状況を変えたのが業者間協定でした。1956年に静岡缶詰協会が缶詰調理工の初給賃金について結んだ業者間協定を皮切りに各地で業者間協定が結ばれていきます。
 1959年にはようやく最低賃金法が成立しますが、業者間協定方式が中心であり、横断的な最低賃金は設定されないままでした。これが設定されるのはようやく1968年になってからで、地域別の最低賃金が決められることになりました。

 当初は中卒労働者の初任給を念頭に設定されていた最低賃金でしたが、次第にパートやアルバイトなどの非正規雇用を念頭にしたものとなり、日給表示はなくなり、時間給の表示となります。
 そして、00年代後半になると非正規雇用の賃上げのためにこの最低賃金への上昇圧力がかかっていくことになります。
 
 一方、顧みられなくなっていったのが産業別最低賃金の制度です。産業別の労組や産業別の交渉が発展しなかったこともあり、使用者側からは廃止を求められながら、特定最低賃金という形でなんとか存続しています。
 
 最後に日本の賃金はなぜ上がらないのか? という問題がとり上げられています。
 その答えが冒頭でも紹介した「上げなくても上がるから上げないので上がらない賃金」ということになります。
 日本には定期昇給の制度があり、個人の給与は2%程度上がっていきます。しかし、それはあくまでも個人にとってのものであり、総額の人件費は据え置かれたままです。
 職務給の世界では賃金を上げるには労組としてまとまって戦う必要があるのですが、日本では「上げなくても上がる」という状況です。だから、「上げない」ままでもそれなりに満足でき結果として「上がらない」わけです。

 こうした中で、著者は特定最低賃金と名を変えた産業別最低賃金でエッセンシャルワーカーの賃金を上げるやり方や、公契約条例、派遣労働屋の労使協定方式などに期待を寄せています。

 このように読みどころの多い本ですが、第1部と第2部で2回歴史をたどる形になっているので少し読みにくさはあるかもしれません。自分も1回目に読んだときはずいぶんゴチャゴチャしているなと思いましたが、この記事を書くために読み直してみると第1部と第2部のつながりがよくわかりました。
 そして、戦時体制のもとでビルトインされた制度の根深さ(個人的は産業報国会→企業別組合という流れの影響力の強さを改めて感じた)というのも感じました。

籔本勝治『吾妻鏡』(中公新書) 7点

 鎌倉幕府の「正史」とされる『吾妻鏡』、しかし、その内容については以前からさまざまな虚偽や曲筆があるのではないかと指摘されていました。
 本書は『吾妻鏡』においてどのような事実への加工がなされているかを、『吾妻鏡』の中の合戦の描写を中心に探ってきます。
 著者は国語科の教員であり、歴史的な事実の確定が本書の狙いではありません、他の歴史学者の研究などを使いながら「なぜ『吾妻鏡』ではこのような記述になっているのか?」というのを明らかにするのが本書の目的です。
 『吾妻鏡』がいかなる意図をもって歴史を物語ろうとしていたかを明らかにしてく過程は面白く、特に『鎌倉殿の13人』を見ていた人には刺さるのではないでしょうか。

 目次は以下の通り。
序章 『吾妻鏡』とは何か
第1章 頼朝挙兵(一一八〇年)―忠臣たちの物語と北条氏の優越
第2章 平家追討(一一八五年)―頼朝の版図拡大と利用される敗者たち
第3章 奥州合戦(一一八九年)―幕府体制の確立を語る軍記物語
第4章 比企氏の乱(一二〇三年)―悪王頼家の退場と逆臣の排斥という虚構
第5章 和田合戦(一二一三年)―頼朝の政道を継ぐ実朝と北条泰時
第6章 実朝暗殺(一二一九年)―源氏将軍断絶と得宗家の繁栄を導く神意
第7章 承久の乱(一二二一年)―執権政治の起源を語る軍記物語
第8章 宝治合戦(一二四七年)―北条時頼による得宗専制の開始
終章 歴史像の構築

 まず、『吾妻鏡』の編纂時期ですが、北条貞時によって発せられた永仁の徳政令についての記述があること、後深草院を単に「院」と表記していることなどから、永仁元(1293)年〜寡元3(1305)年の間に成立したと考えられています。
 編纂に関わった人物としては、太田時連、長井宗秀、金沢顕時(金沢実時の子)らが有力視されていますが、彼らは霜月騒動で安達泰盛が平頼綱に討たれたときに失脚し、その後、平禅門の乱で頼綱が討たれて貞時が実権を握ったときに揃って幕政に復帰しています。
 貞時は「徳政」(本来あるべき善政への復古)を目指すわけですが、これが『吾妻鏡』の編纂方針に大きな影響を与えています。

 編纂は、原史料を収集し、それを漢文の編年体の様式に切り貼りしていく形で行われましたが、この時点で誤った年月日になってしまった例もあります。
 原史料としては各家に伝わる家伝、『平家物語』などの歴史叙述などが使われていますが、藤原定家の日記『明月記』を切り貼りして合戦を描写したりもしているそうです。

 『吾妻鏡』は将軍記という将軍ごとの事跡を描くスタイルを取っており、漢文・編年体のスタイルとともに六国史を意識したものとなっています。
 ただし、描かれているのは天皇ではなく将軍ですし、視点も東国からのものです。『吾妻鏡』という書名がいつから使われていたのかは謎なのですが、天皇中心ではないということもあり「鏡」という非公式な史書に使われる言葉がついたのではないかと考えられます。

 内容的には大雑把に源氏三代将軍の前半と摂家皇族将軍の後半に分けることが可能ですが、同時に頼朝による草創の時代→泰時による中興の時代→時頼による得宗専制の開始および時宗への継承の3つに分けることもできます。
 そして、叙述の中で源氏将軍の誕生からその権力の北条家の継承、そして貞時の正当性が打ち出されているのです。

 第1章は頼朝の挙兵です。
 『吾妻鏡』の冒頭では、源頼政の挙兵があり、頼朝が以仁王の令旨を受け取り、その令旨を開いたとき最前列に北条時政が座っていたことが記されています。
 しかし、頼朝に挙兵を踏み切らせたのは幽閉されていた後白河法皇からの密命であり、また、源頼政が敗死したことで伊豆の知行国主が頼政から平時忠に交代し、それに伴って在庁官人の北条氏が権益を失ったからです。さらに、関東では各地で在庁官人の権益をめぐる対立などがあり、挙兵すれば既存の体制に不満を持つ者をそれなりに集められる計算がありました。

 では、なぜ後白河法皇の密命ではなく以仁王の令旨なのか? 
 頼朝挙兵の流れについては『平家物語』も似たような構成になっており、『吾妻鏡』が『平家物語』を参考にしたという見方もあります。
 しかし、『平家物語』にあって『吾妻鏡』にないのが後白河法皇の院宣です。この背景には頼朝の挙兵を頼政に始まる源氏再興の事業として位置づけたいという考えと、院宣であれば無位無官の時政がその授受に最前列で同席できないが、令旨であればそれが可能だったということが考えられます。

 また、『吾妻鏡』には、『源氏物語』における光源氏と明石入道のような貴種流離譚の性格もあるといいます。
 折口信夫によると貴種流離譚とは貴種以上にその助力者たちの活躍を描く物語形式ですが、『吾妻鏡』では衣笠の合戦で1人残って戦った三浦義明や佐々木四兄弟の活躍、また、頼朝が房総半島に逃れた際の千葉常胤の歓待などにそれが現れています。
 房総攻略については『愚管抄』などによると上総広常が主導していたとされていますが、のちに上総広常が粛清されたこともあって『吾妻鏡』では上総広常は悪役化されています。

 第2章は平家追討の流れです。
 ここでも持ち上げられている存在と消されている存在があるといいます。
 まず、富士川の戦いです。川を挟んで源平の両軍が布陣したが、水鳥の羽音に驚いて平家軍が潰走したことが知られています。この平家軍の潰走は『山槐記』にも記されており、事実らしいのですが、近年の研究ではこれは頼朝の戦いではなく甲斐源氏の戦いだったとされています。
 甲斐源氏は独自の動きをしていたのですが、『吾妻鏡』では北条時政が甲斐源氏にはたらきかけてこれを動かしたような形にもなっています。
 そして、甲斐源氏が主導した富士川の戦いも、頼朝を恐れて潰走したような形に書き直されていると考えられるのです。

 その後も平家討伐については『吾妻鏡』も『平家物語』と同じように義経の活躍を中心に描いていきます。
 一の谷の合戦ではかなり広域で行われた戦いが狭い地域で行われたものに圧縮され、福原の背後をついて戦いの趨勢を決めたと言われる多田行綱の功績が義経中心のものとして語られています。多田行綱は後白河院によって動員されたと考えられ、また、後白河院が和平を持ちかけたことが騙し討ちを可能にさせたと考えられていますが、『吾妻鏡』では源平の戦いに回収されているわけです。

 義経と頼朝の不和の原因として『吾妻鏡』は元暦元(1184)年に義経が頼朝の推挙なしに検非違使に任官されたことをあげています。
 しかし、この時点での軋轢は『吾妻鏡』以外では確認できず、実際は元暦2(1185)年に義経が伊予守に任官して以降だと考えられています。
 義経のいわゆる「腰越状」も後世の創作と考えられており、『愚管抄』や『平家物語』諸本によると義経と頼朝はこのときに鎌倉で対面しています。
 全体的に義経の身勝手さを強調するために各種の曲筆がなされていると考えられますが、著者は腰越状の引用などによって敗者の声を響かせることなっていることにも注目しています。

 第3章は奥州合戦です。
 頼朝は文治5(1189)年に全国から28万4千騎ともいわれる軍勢を集め、頼朝の権威を広く認知させました。『吾妻鏡』はこの奥州合戦を承久の乱と並ぶ長大な分量で書いています。
 基本的には神仏に護られながら忠臣たちの活躍で反逆者を鎮圧するという構成でつくられており、忠臣としては畠山重忠と結城朝光の活躍が目立っています。
 ただし、そのために地理的に離れた場所で行われた合戦を近くで行われたかのように描く手法などもとられているといいます。
 合戦後の頼朝の行動も詳述しており、奥州の地の領有し撫民していくさまが描かれています。
 
 また、頼朝の行動が前九年合戦の源頼義と重ねて描かれているのも『吾妻鏡』の特徴だといいます。
 過去の偉人に重ね合わせるということはよくあることですが、普通は源氏の代表的な武者として想起されるのは頼義ではなくてその子の義家です。
 これは頼義の妻の父が平直方であり、その平直方が北条氏の祖先(本当に北条氏の祖だったのかはよくわからない)であることから、平直方と婿の頼義がそのまま北条時政と頼朝の関係に重ねられているからではないかと考えられています。

 第4章は比企氏の乱です。
 建久10(1199)年に源頼家が第2代の将軍となりますが、『吾妻鏡』はこの頼家を積極的に暗君として描き出しています。基本的には頼朝の政治を頼家が乱していったという書き方です。
 建久11(1200)年にはいわゆる13人の合議制が始まります。近年では将軍を補佐する目的だったと捉えられるようになってきていますが、従来は『吾妻鏡』の流れに沿って将軍と御家人の対立を見出す解釈が主流でした。
 同年に起きた、安達景盛が京都から招いた美女に頼家が横恋慕し、景盛を討とうとした頼家を母の政子が諌めた事件が紹介されています。
 この後も、頼家は神意を聞いても行動を改めない者として描かれ、一方でそれを諌める者として北条泰時が登場します。

 建仁3(1203)年、頼家は病になり、10歳の千幡(実朝)に関西38カ国の地頭職を、6歳の一幡(頼家の子で比企能員の外孫)に関東28カ国の地頭職と惣守護職を譲ったといいます。このとき、比企能員が千幡と北条一族を滅ぼそうとして比企氏の乱が起こります。
 これが『吾妻鏡』の描く比企氏の乱ですが、『愚管抄』によると、すべてを一幡に相続させようとした比企能員に対して、時政が千幡を擁立しようと能員を殺し頼家を管理下においたという流れになっています。
 北条氏のクーデターが比企氏の謀反をいう形で語り直されているのです。

 第5章は和田合戦です。
 建暦3(1213)年に行われた和田合戦は鎌倉市街で行われた大規模な戦いで、5月2日の夕刻頃から5月3日の日没頃にようやく鎮圧されるという激しいものでした。
 『吾妻鏡』はこの戦いの原因を、和田義盛が上総国国司という過分な任官を望み、義時打倒を企んだ謀略(泉親衡の乱)が露見したために、義時が義盛を挑発して挙兵に追い込み滅ぼしたという流れで叙述しています。

 しかし、まず義盛の上総国国司への任官は決して過分ではないといいます。政子は「侍受領」(侍の身分で国司の長官になること)は頼朝の沙汰に背くといったそうですが、北条時政・義時・時房や大江広元や八田知家はこの時点で国司を経験しています。和田氏としては前例がないことですが、義盛の思い上がりとは言えないのです。
 
 また、頼朝死後の『吾妻鏡』は頼朝の後継者として、頼家、実朝、そして北条泰時の3人を対比的に描くような形になっているといいます。
 頼家は先の部分でも指摘したように暗君として描かれていますが、実朝は少なくとも和田合戦までは『吾妻鏡』において賢王として描かれています。また、実朝は夢告や祭祀を通じて神仏と更新する人物としても描かれています。

 和田合戦の記述は藤原定家の『明月記』の記事の切り貼りでつくられていますが、いくつかの作為もあって、その1つが三浦義村の活躍の省略です。近年の研究では、三浦一族の族長の座を争う義村が北条と利害を一致させて和田を滅ぼした合戦だと指摘されていますが、『吾妻鏡』では義盛の挙兵直後に北条側に寝返ったような記述になっています。
 また、乱の鎮圧も義村の兵が背後をついたことが決め手だったと『明月記』には書かれていますが、『吾妻鏡」にそのことは書かれていません。
 一方で『吾妻鏡』に書かれているのは、実朝が周囲の御家人に出した書状や北条泰時の奮戦です。実時の「文」と泰時の「武」が勝利の鍵だったように書かれているのです。

 第6章は実朝の暗殺です。
 この実朝暗殺については北条義時黒幕説が昔からあり、戦後になると作家の永井路子の打ち出した三浦義村黒幕説が石井進にも支持され有力視されましたが、近年の研究では否定的に見られています。
 いずれの黒幕説も義時、義村が実朝が暗殺された際の拝賀の列に供奉していなかったことに注目しているわけですが、義時が列にいなかったのは公卿・殿上人のみで儀式を行おうとしたため直前に外されたからで、義村がいなかったのは前年に行列を遅らせる失態を演じたからだと考えられています。つまり公暁とその一味による単独犯との見方が主流なのです。

 『吾妻鏡』では、実朝の死の前から天変地異や怪異の記述が増えてきます。さらに実朝が文に傾倒し武を軽んじているといった記述や、華美を好む実朝が民に負担をかけているといったエピソードも現れます。全体的に実朝が将軍の座を失っても仕方がないというムードが作られていくわけです。
 陳和卿によってつくられた唐船が結局浮かばなかったエピソードも著者は虚構の可能性が高いと見ています。

 一方、北条泰時に関しては伊豆の神領を返還したという「徳政」が書かれています。実朝がその座を失い、泰時が継承するというストーリーがつくられているわけです。
 また、この「徳政」とは『吾妻鏡』が編纂されたときの執権である北条貞時が重視した考えでもあります。「徳政」の強調は泰時だけでなく、貞時をも正当化することになるのです。

 第7章は承久の乱です。
 承久の乱についてはその経過を記した日記などがほぼ現存していないといいます。乱に関わったことがわかれば断罪されかねなかったからです。
 そこで『吾妻鏡』の記述を頼るしかないわけですが、『吾妻鏡』は実朝の死後の1219年4〜6月までの記事が欠落しています。実朝将軍記が3月28日で終り、次の九条頼経の将軍記は7月19日の三寅の鎌倉への下向から始まっているのです。
 この間に行われた将軍後継問題について『吾妻鏡』はほぼ沈黙し、代わりに後鳥羽院が寵愛した舞女亀菊のために義時に地頭職を手放すように迫ったことが乱のきっかけだとしています。

 『吾妻鏡』で特筆されているのが政子の大きな役割です。政子は頼朝の後家という立場で将軍→北条氏への権力の移行を媒介するだけではなく、神仏と交信してその加護を取り付ける媒介者としても描かれています。
 そのうえで泰時が諏訪社の加護に守られて勝利するというストーリーが展開します。そして、この承久の乱での活躍が、義時の次の執権に泰時がなることを正当化するのです。

 第8章は宝治合戦です。
 承久の乱以後が『吾妻鏡』の後半ということになりますが、ここからは記事に大半が儀式や相論の記録などで面白みにかけるといいます。編纂時期から考えると、後半の時代はまだ関係者が生存している時代であり、前半のようなわかりやすい善悪の認定が難しかったと考えられます。
 そんな中で唯一の合戦叙述が宝治合戦となります。

 泰時と三浦義村の娘の間に生まれた時氏が早逝し、その子の経時・時頼(母は安達景盛の娘)が相次いで執権になると、執権の外戚という特権的地位は三浦氏から安達氏へと移動します。しかし、その後も三浦氏がその立場を譲ろうとしなかったことから幕政に歪みが生まれたとされています。
 もともと『吾妻鏡』では、三浦氏のはたらきは矮小化されていると考えられています。『愚管抄』では九条家からの将軍下向を求めたのは義村だといいますし、後堀河天皇の即位の根回しを行ったのも義村だといいます。義村は朝幕交渉の中心的存在だったといいますが、『吾妻鏡』はそのあたりの情報を載せていません。

 『吾妻鏡』では、この義村が息子たちとともに傍若無人に振る舞うようになり、彼らを滅ぼした時頼や安達氏の正当性が示されるような構成になっています。
 一方、『吾妻鏡』の宝治合戦の記述では、頼朝法華堂で三浦一族が集団自決をするようすを天井裏から見ていたという法師の証言が引用されています。この証言の引用によって凄惨な現場が再現されるとともに、宝治合戦の意義付けがなされています。

 終章でも、『吾妻鏡』後半部のいくつかのエピソードがとり上げられていますが、その多くは曲筆されているというよりは省略されています。
 例えば、後鳥羽上皇の怨霊に関する話題はことごとく消されていますし、頼経が将軍の座を降りた寛元の政変についても『吾妻鏡』は具体的な対立を示しません。
 また、九条家派と反九条家派の対立から摂家将軍が廃絶し皇族将軍へと変わることになった建長の政変についても『吾妻鏡』は九条家の動きなどを伝えません。
 編纂された時期が近づくに連れ書けないことが多くなり、『吾妻鏡』は出来事の羅列へとなっていくのです。

 このように合戦を中心に『吾妻鏡』がどのように事実を書き直しているか、あるいは、特定の「物語」をつくっているのかを分析しているのが本書です。また、ここではあまり触れられませんでしたが、文学的な効果といったものも分析しています。
 よく「歴史は勝者がつくる」と言いますし、『吾妻鏡』において北条氏が持ち上げられていることは周知のことかもしれませんが、「では、どのようにつくるのか?」ということに踏み込んだ面白い本に仕上がっています。


吾妻鏡―鎌倉幕府「正史」の虚実 (中公新書)
藪本勝治
中央公論新社
2024-07-22


杉谷和哉『日本の政策はなぜ機能しないのか』(光文社新書) 6点

 副題は「EBPMの導入と課題」。近年話題になっている「EBPM=Evidence-Based Policy Making」を取り扱った本になります。
 EBPMというと経済学者からの発言が目立っていますが、本書の著者は公共政策学を専門としており、今までの日本の政策評価などからの連続性を見ているところが本書の特徴と言えるでしょう。
 「EBPM」というと今までの政治を変える魔法の杖のように思われている部分もありますが、当然ながら以前から似たようなことは行われていたわけです。
 本書はそうしたEPBMの「古さ」と「新しさ」に目配りをしながら、EPBMの可能性と限界を見定めようとしています。
 
 全体的にわかりやすく、EBPMの長所と難しさがわかるような構成になっており、この問題の入門書としてはいいと思います。
 一方で、一部の経済学者はEBPMについてかなり突っ込んだ議論をしており、本書でもそうした議論を踏まえたうえでの見解を聞きたいとも思いました。

 目次は以下の通り。
第1章 EBPMの出現
第2章 日本における政策評価
第3章 日本におけるEBPM
第4章 エビデンスを掘り下げる
第5章 政策の合理化はなぜ難しいのか
第6章 EBPMのこれから

 「EBPM」という言葉自体は、イギリスのブレア政権(1997〜2007)から使われ始めたと言われています。
 その少し前から医療分野で「EBM=Evidence-Based Medicine)の動きが起こっており、この影響があったと言われています。

 医学の分野では、適切なエビデンスを見つけるためのRCT(ランダム化比較試験)などの技法が発達し、複数のRCTを使ったシステマティック・レビューを頂点としたハイアラーキーが認められています。
 こうして得られたエビデンスとエビデンスの質を見ていけば、適切な治療方法が選択できるというわけです。

 政策においても思い込みを排してその効果を検証することが必要です。
 アメリカで行われていた非行少年に刑務所を訪問させて矯正させようとする「スケアード・ストレート」というプログラムはTV番組でその効果が取り上げられたりもしましたが、実際にはプログラムに参加したほうが再犯率が高かったという問題のあるプログラムでした。
 このように効果がありそうな政策に効果がなかったというのはよくあることなのです。
 
 EBPMという言葉を大々的に使い始めたのはイギリスですが、アメリカでも昔からEBPM的な取り組みが行われてきました。
 1930年代に行われた「ケンブリッジ・サマービル青少年研究評価」では、非行に走る可能性があるとされた約500人の少年を2つのグループに分け、1つのグループにはカウンセラーをつけて勉強や精神面での支援を行い、もう一方のグループには何もしないという大掛かりな実験が行われています。
 実は介入を受けたグループのほうが再犯率やアルコール依存の度合いが高かったそうなのですが、アメリカではこのような大掛かりな実験や長期の追跡が行われています。
 一定以下の所得の人には給付金を支給する「負の所得税」も、実験によって労働意欲が低下しないことが確認されていから、幅広く行われるようになりました。
 また、アメリカでもオバマ政権はEBPMを推し進める姿勢を強く示しました。

 では、日本ではどうだったのか? 著者によれば日本にも政策評価の歴史があるといいます。
 まず、1つ目がプログラム評価です。これは政策の「ニーズ」「セオリー」「プロセス」「アウトカム」「インパクト」をそれぞれの段階で評価していくものです。ちなみに「アウトカム」と「インパクト」の違いはアウトカムは短期、「インパクト」は長期の結果を指します。
 
 2つ目の流れは業績管理/業績測定です。基本的には民間企業の経営で使われているものですが、日本ではイギリス発の「NPM(New Public Management)とアメリカ発の「行政革命」を受ける形で広がっていきました。
 いずれも行政に経営的な手法を取り入れたもので、市民を顧客という形で捉え、効率的な行政を目指すものです。
 これらの考えをもとにした業績管理はプログラム評価よりも手軽に行うことが可能で、多くの現場で広がっていくことになります。

 日本の政策評価は自治体から始まったと言われており、特に1995年に三重県知事に就任した北川正恭が進めたものが知られています。
 その中心の1つが「事務事業評価」で、政策を実行していく際の具体策を評価しようとするものです。本書では岩手県盛岡市の評価シートを例にあげながら説明しています(52−55p)。
 事務事業評価の特徴として、事後評価であり、また内部評価であり評価は行政職員が行うこと、全数評価でありすべての事務事業が同一の手法で評価されます。

 この事務事業評価ですが、三重県では大規模な予算削減につながったとして話題を呼びました。
 この事務事業評価は業績管理/業績測定の流れにあるものであり、プログラム評価に比べると簡単にしかも多くの人ができるという特徴がありました。

 この日本の政策評価に大きな影響力を持ったのが上山信一だといいます。運輸省からマッキンゼーへと進んだ上山は1998年に「「行政評価」の時代』を刊行し、これが多くの関係者に読まれました。
 上山は「政策評価」ではなく「行政評価」という言葉を使っていますが、上山によれば「行政評価」とは「政策評価」と「執行評価」を含むより大きな概念になります。「執行評価」はごみ収集や水道事業などの効率を測るものであり、民間企業が導入しているものと同じだといいます。
 上山の議論はNPMの影響を受けており、市民を「顧客」に見立てて、そのニーズを把握するとともに、市民と協働しながら地域を良くしていくというものでした。

 著者はこうした考えに対して、顧客たる市民が「こういうサービスがほしい」という要望はしても、自分たちも汗をかこうという発送は生まれるのか? 税金に見合ったサービスを求めるVFM(Value For Money)の考えにたったとしてもサービスに見合った増税を求めることはできるのか? VFMの根底にある「元を取りたい」という思いは公共性とは相性が悪いのではないか? という真渕勝の議論も紹介してます。

 こうした中、2002年には「行政機関が行う政策の評価に関する法律」が制定されました。
 ここでは説明責任(アカウンタビリティ)の徹底が謳われていますが、ここには問題もあります。
 まず、「説明責任」と訳されたことによって「責任」の要素が強まり、何を説明しなければならないかという問題が置き去りにされる傾向があります。また、誰に対するアカウンタビリティなのか? という問題もあります。もちろんその相手として市民が想定されているのですが、実際に細かいデータを見ようとする市民は多くはないです。さらに、アカウンタビリティを確保しようとするとその作業が本来の業務を圧迫する「アカウンタビリティのジレンマ」という問題も起こります。

 また、日本の政策評価には山谷清志の指摘する「業績測定と数量化」「事前評価の偏重」「内部評価と客観性」「予算との連動」という4つの問題があったといいます。
 具体的には、政策評価が業績測定と重ねられてしまい、しかも適切な知識がないまま評価が行われていたこと、予算獲得のために政策の事前評価が重視されてしまったこと、内部評価が主流で客観性に疑問があったこと、評価と予算が連動しており、特に評価が予算カットのための道具となってしまったこと、といったものになります。

 「内部評価ではない政策評価を」ということで導入されたのが「事業仕分け」でした。
 これは民主党への政権交代とともに大々的に行われ消えてしまったと思われがちですが、その後も行政事業レビューという形で続いています。ただし、かなり淡々と行われているそうで、かつてのような大規模なものは負担感や対立を過度に煽るといった面から行われなくなっています。
 事業仕分けもそうですが、日本の政策評価はコストカットを目的として行われることが多く、その評価軸が「効率性」に過度に偏重しているのではないかと著者は指摘しています。

 では、日本のEBPMへの取り組みはいつ始まったのでしょうか?
 2016年末の「官民データ活用推進基本法」の施行などを受けて2018年を「EBPM元年」と呼ぶことが多いですが、著者は2009年に施行された「新統計法」からの動きにも注目しています。
 これによって「公共財としての統計」という考えが打ち出され、また、省庁ごとにばらばらに行われていた統計の司令塔として2007年に「統計委員会」が設置されました。
 2018年5月には「統計法及び独立行政法人統計センター法の一部を改正する法律」が成立し、調査票情報の提供拡大と統計委員会の機能強化が決まっています。
 英米のEBPMが政策の効果への関心から始まったのに対して、日本ではデータと利活用と関連付けられたのが特徴だといいます。

 日本には「EBPM三本の矢」というものがあり、「第一の矢」が「重要業績評価指標(KPI)整備」、「第二の矢」が「政策評価」、「第三の矢」が「行政事業レビュー」です(97p図表3-2参照)。
 これを見ると、日本のEBPMが政策の立案だけではなく、業績管理や政策評価の部分も含んでいるということがわかるでしょう。
 ただし、本書が紹介する「Go Toイベント」についての行政事業レビューの解説を見ると、ここで「EBPM」という言葉を使う必要性に関してはあまりピンときません。
 著者も日本のEBPMが今までの政策評価と似たものになってしまっていることを指摘しています。

 第4章ではEBPMにおける「エビデンス」について掘り下げています。
 エビデンスには広義のものと狭義のものがあるといいます。狭義のものは「定量的な因果効果」、「定性的な因果効果」で、広義のものはこれに加えて「データ、ファクト」、「将来予測」(現状のまま推移した場合の将来予測)なども含みます(119p図表4-1参照)。
 他にもエビデンスを「政策効果把握」と「現状把握」の2つの面から見るものもあります。

 日本のEBPMではロジックモデルの活用が主流となっていますが、この日本で用いられるロジックモデルの多くはRCTなどで裏付けられているわけではなく、「広義のエビデンス」の役割を果たしています。
 また、既存の事業に改めてロジックモデルを当てはめている場合も多く、こうした場合は「現状把握」のエビデンスとして用いられていると言えます。
 このように紹介していくと、以前と同じことが行われているようにも思えますが、著者が「エビデンス」という概念が政策に関する議論を活性化させている面を工程定期に取り上げています。 
 
 しかし、このエビデンスは無条件に信頼していいものだとも言えません。
 ジャスティン・パークハーストによると、エビデンスを扱う際には「技術的バイアス」と「イシューバイアス」の2つのバイアスに気をつける必要があるといいます。そして、それぞれが「エビデンスの創出」、「エビデンスの選択」、「エビデンスの解釈」に関わっています(131p図表4-3参照)。

 例えば、タバコ業者が喫煙の害を低く見積もる研究デザインを採用しエビデンスをつくるのが「技術的バイアス×エビデンスの創出」で、HIVやマラリアなどに比べて「顧みられない熱帯病」とも呼ばれる感染症の研究が少なくエビデンスが集まらないのが「イシューバイアス×エビデンスの創出」といった具合です。
 
 また、RCTのような実験が行われたとしても、政策も目的を決めることはできるのか、社会実験の対象がどうしてもアンダークラスに偏る、ある集団で効果があった政策が果たして他の集団にも適用できるのか(外的妥当性の問題)、といった問題も残ります。
 「エビデンス」といってもその適切性を評価するような枠組みも必要になってくるのです。

 では、適切なエビデンスやロジックモデルがあれば日本の政策は良くなるのでしょうか? 著者は必ずしもそうなるとは考えていません。
 現在のところ政策評価は外部に向けてアカウンタビリティを果たすためではなく、組織の中で業務を進めるルーティンの一環になってしまっています。
 これは、公表の仕方もあるかもしれませんが、そもそも多くの有権者は個別の政策の評価に関心を持っていないからです。そのため、政治家も政策評価を活用しませんし、官僚にもそれを利用するインセンティブがはたらきません。

 政策課題は、しばしば「ウィキッド・プロブレム(厄介な問題)」だと言われます。ステークホルダー間で認識が異なったり、問題同士が相互に連関していたり、対処するための知識が不足していたり、不確実性が高かったりするのです。
 こうした問題に対処するためには「冗長性」が必要になります。組織が問題に対処するための一定の余裕を持っている必要があるのです。
 一方、アカウンタビリティの徹底することは、そのためにリソースを消費することになるので組織の余裕をなくしていきます。これが前にも登場したアカウンタビリティのジレンマ」です。

 また、十分なエビデンスがない状況でも政治的な判断を迫られる場合もあります。新型コロナのときがそうでした。こうなると、政治は「サイエンス」というよりも「アート」の領域に入ってくるのかもしれません。
 合理的な政策形成を政治が邪魔をしている面もありますが、だからといって政治を排除すればうまくいくというものでもないのです。

 EBPMは「Policy Making」であり、本来的には政策形成のスタイルです。ただし、日本では主に行政事業レビューなどの評価の部分でEBPMの活用が行われています。
 著者はこの理由として「新しい知識を政策過程に投入する回路が限られていることが関係しているかもしれない」(188p)と述べています。
 本書ではこの問題をそれほど深追いしていませんが、やはり問題はここなのではないかと思います。

 このように、本書はEBPMの考え方と日本の取り組みについてわかりやすく説明してくれています。行政が打ち出してくることはどうしても総花的なので、本書の記述もやや総花的に感じる部分がありますが、それは仕方がないのでしょう。
 ただし、日本のEBPMの現状の説明としてはこれでいいのかもしれませんが、EBPMについてはもっと踏み込んだ議論ができたのではないかと思います。
 
 本書では参考文献にもあがっておらず、引用もされていませんが、個人的にEBPMについて書かれたもので個人的にしっくりといったのは酒井正『日本のセーフティーネット格差』(慶應義塾大学出版会)の第7章「政策のあり方をめぐって―EBPM は社会保障政策にとって有効か」と終章の議論です。
 ここでは、策決定にエビデンスが役割を果たす場面というのは、政策の目的には対立がなく、そのための施策が複数ある場合などに限られるのではないかといった指摘をしつつ、「エビデンスの役割は政策目標を明確にすることに寄与するところが大きいのではないか」と述べています。
 本書の今までの政策評価とEBPMの連続性を取り出すという意義は認めつつも、政策形成の今後についてもっと論じても良かったのではないかと思います。


酒井正『日本のセーフティーネット格差』の紹介はこちら

吉弘憲介『検証 大阪維新の会』(ちくま新書) 7点

 結党から10年以上たった今も大阪で圧倒的な強さを誇り、さらに他地域でも地方議員や国会議員を送り出している維新の会、その指示される理由と問題点について財政から迫ったのが本書になります。
 「大阪都構想」、「万博誘致」など大阪維新の会が力を入れている政策には時期ごとに変化もありますが、結党以来から変わっていないのが「身を切る改革」です。その「身を切る改革」とはどのようなもので、具体的に財政にはどのように現れてるのかということを教えてくれます。
 細かいところでは疑問や不満もあるのですが、「維新の会が何をしてきたのか?」ということについて具体的に教えてくる本で、面白く読めます。

 目次は以下の通り。
第一章 大阪維新の会とはどんな政党か――「定説」の再検討
第二章 主要政策を読みとく
第三章 維新支持の構造――大阪府民は「特殊な人びと」か
第四章 財政から読みとく――維新の会は「小さな政府」か
第五章 「大阪の成長」の実像――「維新は大阪を豊かにした」は本当か
第六章 財政ポピュリズムを乗り越える

 本書のポイントについては「はじめに」に書かれているので、まずはそれを引用しておきます。

 維新の会は、公務員や外郭団体、教育組織や住民組織といった既存の中間組織(特定の目的を共有する人びとの集合体)に対する財政(税金を使って人びとの共同の目的を達成する機能)が、一般市民の利益と乖離していることを、くり返し主張してきた。こうした中間組織を、市民の利益ではなく自己の利益を最大化する既得権益層だと攻撃するのである。そして、これら一部の既得権益層への予算配分を解体し、それをできるだけ多数の人に頭割りで資源を配り直す。本書では、こうした現象を試みに「財政ポピュリズム」と呼ぶこととしたい。(11−12p)

 「財政ポピュリズム」という用語が適当化はさておき、この文章は維新の会の政策の傾向をわかりやすく示していると思います。

 まず、第1章では大阪維新の会がどのような政党なのかを概観しています。
 その上で、大阪維新の会がどのような人々に支持されているのか? 維新の会の行っている政治は「小さな政府」を目指すものと言えるのか? 維新は大阪を豊かにしたのか? といった論点を出しています。

 第2章では維新の主要政策を概観しています。
 看板政策であった大阪都構想の次に説明されているのが公務員制度改革です。
 公務員制度改革の基本方針は、①公務における競争原理の導入、②特に管理職や役職級における外部人材の登用、③政治活動と公務の分離、④透明性の確保の4つだといいます。
 公務員の業績評価を絶対評価から相対評価に改め、大阪市では複数年で改善が見られなかった職員2名が免職されました。
 給与制度ではみなしで上位の等級の給与を当てはめる「わたり」と呼ばれる制度を廃止し、号給表を見直すことで昇進に対するインセンティブを強化しました。
 また、大阪市の区長や学校長への外部人材の登用、技能労務職(ごみ収集や給食調理員等)の給与水準を民間準拠にすること、外郭団体への天下りの規制などが行われています。
 さらに組合の政治活動を規制するなど組合に対して厳しい姿勢を取りました。

 維新の会は教育にも力を入れています。
 2008年に学力テストで大阪府が2年連続最下位になったことを受けて、橋本府知事のリーダーシップのもとに教育へのテコ入れが行われました。
 エアコンの設置などの教育施設の整備、中学における給食の選択制をやめ全員が食べる形にするとともに、学校間の競争を強化し、校長への外部人材の登用を進めました。
 2014年には府立高校に対して、3年連続で定員割れをしている学校で改善の見込みがないものは再編の対象とするとし、統廃合を余儀なくされる学校も出てきています。
 
 私立高校授業料無償化とその所得制限の撤廃も打ち出しており、私立高校と公立高校を同じ土俵で競争させようとしています。
 2012年から行われている困窮世帯を対象とする塾代や習い事のバウチャー型補助制度も、2024年10月からは所得制限が撤廃される予定になっています。

 一方、12の大阪市立特別支援学校を大阪府に移管することも決定されました。高コストの学校を安定的に運営するためと説明されていますが、府に移管された後で、各種教材費の削減や肢体不自由生徒の補助として特別配置していたスタッフが減らされるなど、市が独自で行ってきた予算措置が府の基準に合わせて削減されたといいます。

 学力テストに関しては、2014年の中学生では近畿圏内で最低レベルでしたが、2022年には数学、国語とも近畿圏で3位にまで浮上しており、全国平均との偏差も縮まっています。

 この他、「二重行政」の解消としての旧・大阪市立住吉市民病院の廃止と機能統合、コロナ対策、万博誘致、カジノを含む統合型リゾート施設(IR)の誘致についても簡単に触れています。

 第3章では維新を支持する人々が分析されています。
 手法としては大阪府民とそれ以外の都道府県在住の人にネット調査を行い(2024年5月上旬に実施)、その支持層の特徴や維新の会のどの政策を支持しているのかということを分析しようとしています。
 
 支持政党に関する質問では、全国で維新の会を支持するとした人は5.8%でしたが、大阪府内に限った集計では26.3%で、やはり大阪で支持が強いということがわかります。
 ただし、「先行研究では、維新支持が一定程度「土着的」なものであることが指摘されている(2)」(74p)とした上で、注(2)で善教将大『維新支持の分析』(有斐閣)があげられているけど、善教本が指摘しているのは「二重行政の解消」などの大阪の抱える制度的な要因であって「土着的」なものではないと思う。

 まず、大阪府民とそれ以外の全国の人々の政策への選好ですが、統計的に有意だと考えられるのが「生活保護を増やす」と「貧困世帯の児童に限って公的支援を行う」で、いずれも全国に比べて大阪府民は否定的に捉えています(「生活保護を増やす」は全国的にみても「好ましくない」と考えられているが大阪は特にその傾向が強く、「貧困世帯の児童に限って公的支援を行う」は全国も大阪も「好ましい」となっているが大阪ではその傾向が弱い。76p図3−1参照)。
 また、法人税の増税を除けば、全国でも大阪でも増税には否定的なのですが、「金融所得の増税」を「好ましくない」とする回答する人の割合は大阪が有意に多くなっています。

 維新の支持者の階層ですが、これについては先行研究と同じように、特に高所得者、あるいは低所得者に偏っているわけではないとの結果が出ています。
 
 次の近年の維新の行った政策についてですが、評価が高いのが「二重行政の解消」で、さらに「定員を満たさない公立高校の統廃合」「コロナ対策」「大阪中心部の再開発」「市長や知事のリーダーシップ」「私立高校を含めた教育費の無償化」がプラス評価、「IR施設の誘致」「万博の誘致」「塾代補助のためのバウチャー制度」がマイナス評価です。「大阪都構想、大阪副首都構想など行政組織の改革」も微妙な評価で、都構想が住民投票で否決されたのもわかります(83p図3−3参照)。
 また、この10年間の大阪の環境の変化についての評価では、「地下鉄などの交通インフラ環境」「子供の教育環境の整備」といった項目が評価され、「生活困窮者への支援」「街の治安や安全性」の2つの項目がマイナス評価になっています(85p図3−4参照)。

 本書では、維新支持層と非支持層、無関心層に分けた分析も行っていますが(87p図3−5参照)、それによると、維新支持層で特に評価が高いのは「二重行政の解消」、支持層でもあまり評価が高くないのが「塾代補助のためのバウチャー制度」、非支持層でも比較的評価が高いのが「二重行政の解消」「定員を満たさない公立高校の統廃合」といったものになります。
 大阪の変化については、非支持層でも「地下鉄などの交通インフラ環境」に対する評価は比較的高く、一方で「大阪の地域経済の活性化」については支持層と非支持層で大きく評価が分かれています(88p図3−6参照)。

 ちなみに「定員を満たさない公立高校の統廃合」に対する評価が高いのは、これとともに学区制度が撤廃されてからではないかと著者は推測しています。
 また、「コロナ対策」について非支持層でもそれなりに評価する声があることについても著者は首をひねっており、報道された陣頭指揮を取る吉村知事の姿が影響したのかと考えています。

 第4章は大阪維新の会が行った財政運営を読み解いていきます。
 まず、大阪維新の会は「小さな政府」を目指しているように思われていますが、実は他の政令市と比べて予算規模が小さいわけではありません。
 2006〜21年の時期において、人口一人あたりの歳出総額は一貫して横浜市や名古屋市、あるいは政令市平均を上回っています(107p図4−1参照)。
 ただし、人口一人あたりの歳出総額の偏差値を見ると、2019年度以降は他の自治体がコロナ対策で増加したのに対して大阪市ではあまり増えなかったことから横浜市や名古屋市との差は縮まっています(107p図4−2参照)。ちなみに偏差値で見ると、2006〜19年にかけて偏差値は75前後であり、大阪市の歳出規模がかなり大きかったことがうかがえます。

 歳出規模は大阪維新の会によって減ったわけではありませんが、その中身については大きな変化がありました。
 まずは公務員制度改革です。大阪維新の会は「中之島一家の解体・再編」を掲げてきました。
「中之島」とは大阪市庁舎の置かれた場所で、「中之島一家」は既存政党、公務員組織や外郭団体、地域活動協議会などの地縁組織による既得権益の配分構造を指します。
 この「中之島一家」こそが大阪を蝕んでいるというのが維新の基本的な認識になります。

 「身を切る改革」の最初の標的となったのが公務員組織でした。公務員の絶対数に関しては政令市に義務教育課程の教員が移されたこともあって増えているのですが、「人口10万人あたりの普通会計職員数」を偏差値で見ると、他の政令市に比べてかなり多かった大阪市の職員数は2011年頃から減り始め、2022年には名古屋市を下回るレベルになりました(113p図4−3参照)。
 これとともに「人口一人あたり人件費」の偏差値も2010年に74だったのが2021年には56まで低下し、これも名古屋市を下回る水準になりました(115p図4−4参照)。

 また、外郭団体についても厳しい目を向けており、これらの団体への事業委託を減らしています。
 事業委託についても一般競争入札も増えており、競争原理の導入が進んでいるようにも見えますが、営利事業者への特定随意契約も増えており、著者は大阪以外に本社を持つ会社等へお金が流れてしまってる可能性もあるとみています。

 大阪維新の会が力を入れたのは財政赤字の削減です。2012〜17年度にかけて借金の返済にあたる公債費は偏差値80の水準で推移しており、2011年以前には偏差値55〜60程度で推移していた一人あたりの地方債収入は、2012年度以降、偏差値50を下回るようになります。
 地方債残高の減少幅は、横浜市や名古屋市と比較しても目立ったものになっています(127p図4−7参照)。

 近年の大阪維新の会は教育にも力を入れています。
 教育は政府が提供する財の代表のように思われていますが、公共財の定義である「非競合性」(多くの人が利用できる)、「非排除性」(料金を払わない人を排除することが難しい)を必ずしも満たしているわけではなく、私的なセクター(私立学校)が供給することも可能です。

  公共財の配り方には、困窮者だけに提供する選別主義とすべての人に提供する普遍主義がありますが、大阪維新の会は、私立高校の授業料無償化とその所得制限の撤廃という普遍主義的な政策を行っています。
 一般的に普遍主義というと北欧などの手厚い福祉が思い浮かびますが、大阪の教育政策はそれとは違った面もあります。
 
 134p図4−8の「大阪市の人口一人あたりの教育費支出(偏差値)」を見ると、教育費総額は2010年代後半になると65を上回る高い数値になっており、小学校費や中学校費も伸びています。
 一方、突出して高かった事務手続きや本庁の教育委員会業務などを扱う教育総務費の水準は大きく削減されました。
 これだけなら、無駄な事務を効率化して現場に回したということになりますが、もう1つ下がっているのが特別支援学校費です。かつては50〜60程度でしたが2016年からは40程度に張り付いています。
 つまり、マジョリティのニーズに応える一方で、マイノリティのニーズは相対的に軽視されているとも言えるのです。

 生活保護費については、もともと大阪は全国でも最も高い水準であり、また支給の要件などは国が定めているために簡単に削ることはできませんが、大阪市の生活保護の人口一人あたりの支給水準な2011年度以降、低下傾向にあります(ちなみにこの部分で「第一章でも触れたが、維新の会に対する意識調査では、同党が「弱者に優しい」性格を持っているという結果が示されている」(137p)とあるが、読み直しても該当箇所がわからなかった)。
 また、社会福祉費や老人福祉費は他と比べて高い水準にあるものの低下傾向であり、子育て支援等の児童福祉費も実額では伸びているものの偏差値では低下傾向であると言います。

 大阪市の近年における特徴の1つが「普通建設事業費」や「投資的経費 人件費」の伸びで(141p図4−9参照)、2018年以降、大阪市の中心部の再開発などに多くの資金が投じられていることがわかります。
 
 2019年のダブル選挙で、大阪維新の会は「大阪の成長を止めるな」をキャッチフレーズにしましたが、「大阪の成長」の内実を分析したのが第5章です。
 維新は税収増や関西圏の外国人観光客の増加などをあげていますが、これらは維新の政策の成果と言えるのでしょうか?

 155p図5−1の「大阪府の人口一人あたりの地方税収額」をみると、大阪府は全国平均以下ですが、これは東京都がずば抜けているためで、東京都を除くと全国平均を上回っています。ただし、他と比べて顕著な伸びが見られるわけではありません。
 「一人あたりの県民所得の偏差値」の推移を見ても、大阪が他の近畿の府県に比べて伸びているということはありません(161p図5−3参照)。
 「一人あたりの雇用者報酬の偏差値」をみても、2000年頃に比べれば低下していますし、その後の推移も他の近畿の府県に比べて目立った伸びはありません(163p図5−4参照)。
 
 外国人観光客については他地域よりも大阪の伸びが目立っており、それに伴って大阪の百貨店の売上も伸びています。コロナによる大きな落ち込みがあったとはいえ、外国人観光客の増加が大阪中心部の活性化につながっているとは言えるでしょう。
 その証拠の1つとして、大阪府の商業地地価は全国平均を上回る方での伸びていますが(168p図5−5参照)、地価の上昇はあくまでも大阪市の中心部は中心です(170p図5−6参照)。

 本書の議論の中心はやはり第4章で、著者が「財政ポピュリズム」と名付ける財政についての分析だと思います。
 福祉における普遍主義というと目指すべき理想だとされることも多いですが、大阪で行われているのは既存の政治や財政への不信からくる普遍主義で、政治が真に困った人のみをきちんと選別して助けることが信じられないために、すべての人への税金の払い戻しが支持されているような状況になっています。
 そして、この人々の心理にうまく乗っかっているのが大阪維新の会というわけです。

 この政治への不信感が普遍主義的な政策を駆動するロジックは興味深いと思います。維新の会の性格の一端を示していると言えるでしょう。
 ただし、それに「ポピュリズム」という名をつけて場合、それこそ減税+歳出拡大を行う財政は何と呼ぶべきなのか? という疑問も残ります。
 その他、まとめでも指摘したように細かい部分では疑問もあるのですが、興味深い内容であることは確かです。

上野貴弘『グリーン戦争』(中公新書) 8点

 副題は「気候変動の国際政治」、パリ協定以降の各国の温暖化対策とその駆け引き、アメリカやEUが打ち出した政策の国際的な影響などを分析した本で、近年の温暖化対策をめぐる駆け引きが分かる本です。
 また、第1章が「米国のパリ協定脱退と復帰」となっているのですが、トランプの返り咲きが現実味を帯びる中で、今後の米国の動きなどを考えるうえでも参考になりますし、EUの「規制力」の国際的な影響なども感じさせる内容です。
 さらに、「グリーン」であることが企業にとっても一種のブランドとなる中で、それに待ったをかけたアメリカの「反ESG」の動きなどからは、グローバルな経済主体と主権国家の角逐も感じさせますし、先進国VS新興国の図式なども含めて、新しい時代の国際政治が浮かび上がってくる内容になっています。

 目次は以下の通り。
第1章 米国のパリ協定脱退と復帰
第2章 削減目標外交の攻防
第3章 グリーン貿易戦争
第4章 金融と気候変動のグローバルガバナンス
第5章 エネルギーの脱炭素化と世界の分断
終章 日本と世界が進むべき道

 2015年12月、パリ協定が採択され、強制力こそないものの195の参加国が温室効果ガスの削減に取り組むという歴史的な取り決めが決まりました。
 しかし、2017年6月、アメリカのトランプ大統領はパリ協定からの脱退を宣言します。21年にバイデン大統領がパリ協定への復帰を宣言しましたが、トランプが再び大統領に就任すれば、アメリカが再びパリ協定から脱退する公算が高くなっています。

 ただし、2017年のアメリカの脱退宣言によっても他国が次々と脱退する負の連鎖は起きませんでした。
 この背景には、まず、トランプ大統領が脱退を表明しても締結国が国連へ脱退を通告できるのは協定発効から3年目以降で脱退通告が効力を持つのは通告から1年後という取り決めがありました。つまり、協定発効が2016年11月4日だったために最短で脱退できるのはその4年後の2020年11月4日であり、それは次の大統領選の翌日だったのです。ここでバイデンが勝利したためにアメリカはすぐに復帰することになります。

 また、パリ協定は各国が独自に目標を設定するもので、アメリカが脱退したからといって自分たちの目標を低くしよう、あるいは脱退しようとはなりにくい仕組みでした。
 さらに、パリ協定以降、温暖化対策を成長への足かせではなく脱炭素という新たな成長産業への投資という見方が強まっており、負の連鎖は抑制されたのです。

 バイデン大統領は就任日の2021年1月20日にパリ協定への復帰を国連に通告します。さらに4月の気候首脳サミットに合わせて「2030年に、2005年比で50〜52%の排出削減」という目標を打ち出します。
 アメリカの2021年の温室効果ガス排出量は2005年比で16%減、およそ1年で1ポイント減になります。2050年で半減となると、年平均で3.8ポイントの削減が必要であり、対策の加速が必要です。

 では、これをどのように実行していくのでしょうか?
 オバマ政権では温暖化対策の立法に失敗し、さらに大気浄化法を用いた火力発電所からの温室効果ガスの排出を規制するやり方は連邦最高裁によって止められてしまいました。
 そこで、バイデン政権は連邦政府の収入や支出に限定した法案であれば上院の単純過半数で可決できるという「財政調整」と呼ばれる手続きに注目し、脱炭素を進めようとします。
 石炭を産出するウェストバージニア州選出の民主党のマンチン上院議員の反対もあり、法案は紆余曲折の末、法人税の最低税率の設定なども盛り込んだ「インフレ抑制法(IRA)」として成立しますが、この法案は巨額の脱炭素投資を推進するものでした。

 もし、今年の大統領選挙で民主党の候補が勝てば(本書ではバイデンが勝てばとなっているが撤退が決まった)、2035年に向けてさらに踏み込んだ目標が立てられるでしょう。
 IRAの脱炭素投資は2030年以降も続く予定になっており、2005年比で60〜70%の削減目標が立てられるのではないかと考えられます。ただし、さまざまな措置が保守化した連邦最高裁でひっくり返される可能性もあります。

 一方、トランプ大統領が返り咲けばパリ協定から脱退するのはほぼ確実であり、就任後すぐに脱退を宣言すれば、今度は1年後の2026年1月に脱退が確定します。
 IRAが存続するかは上下両院で共和党が過半数を取れるか否かがポイントです。ただし、IRAの投資は共和党が強い地域でも行われており、すべての共和党議員がIRAの撤廃に賛成するかは不透明です。オバマケアに関しても共和党は撤廃を主張していましたが、結局は党内のコンセンサスを得ることができずに上下両院で多数を握りながら撤廃できなかった過去もあります。

 バイデン大統領が主宰した気候首脳サミットに合わせて日本の菅首相は2030年に2013年比で46%の削減を打ち出しました。
 パリ協定では削減目標は「国が決定する貢献(nationally determined contribution=NDC)」という形になっており、各国が独自に設定できる用意なっています。これは京都議定書の失敗や、アメリカの上院で採択された「途上国にも削減を義務付けない限り、米国は先進国に削減目標を義務付ける議定書に加わるべきではない」という「バード・ヘーゲル決議」を受けてのものです。NDCの方式であれば、「バード・ヘーゲル決議」をすり抜けることができます。

 パリ協定が決まったCOP21では、こうしたアメリカの置かれた状況に配慮しつつ、最大の排出国である中国を参加させ、温暖化対策を止めるという困難なミッションが課されました。
 目標とする温度についても、2℃か1.5℃かという対立がありましたが、「世界全体の平均気温の上昇を産業革命以前に比べて、2℃よりも十分に低い水準に抑え、1.5℃以内に抑える努力を追求する」という文言での妥協がはかられています。
 COP21では議長国のフランスのファビウス外相がうまく交渉をリードし、さらに米中が協調姿勢を示したことで妥結へと導かれました。2010年代半ばはまだ米中が協調できる時代でもあったのです。
 
 2010年代後半になると、1.5℃目標を目指す動きも活発化します。当時高校生だったグレタ・トゥーンベリ氏が国連で演説したのが2019年であり、カーボンニュートラルという排出量の差し引きゼロを目指す動きも出てきます。
 こうした中で、ネットゼロの目標の年次を決め、それに沿って中期の目標を立てるスタイルが広がります。
 EUは2019年に2050年にネットゼロの目標を立て、アメリカもバイデンが大統領選で2050年にネットゼロの目標を掲げます。中国も「2060年までにカーボンニュートラルの達成を目指す」と表明しました。
 
 日本も2020年に菅首相が2050年のカーボンニュートラル実現を打ち出します。従来は80%削減だったので目標は大幅に強化されました。
 バイデン政権が発足するまで、日本は2030年に2013年比で26%減を掲げていました。しかし、このペースで2050年にカーボンニュートラルを実現するのには無理があります。そこでさまざまな積み上げを行って「46%減」という数字が出てくることになります。

 しかし、気候首脳サミットに合わせて先進国は削減目標の強化を行いましたが、中国、インド、ロシアはオンラインで参加しながらも削減目標の強化は打ち出しませんでした。
 トランプ政権を経て強まった米中対立はバイデン政権にも持ち越されており、米中協調の機運は失われていたのです。

 2021年にグラスゴーで開かれたCOP26では、インドなどいくつかの国がNDCを強化しましたが、それでも今のままだと2030年の排出量は2010年比で14%程度の増加になる見通しであり、1.5℃目標どころか2℃目標にも届かないような状況です。
 会議では「1.5℃の気候変動影響は2℃の場合よりずっと小さく、1.5℃に抑える努力の追求を決意」という内容が合意されましたが、1.5℃目標については玉虫色の状況であることに変わりはありません。
 ただし、2023年のCOP28では今まで1.5℃目標に反対してきた中国が、次期NDCについて「1.5度との整合を奨励」することに反対せず、これが合意文書に盛り込まれました。中国が温室効果ガスの削減でイニシアチブを取ろうとすることも十分に考えられます。

 バイデン政権によるインフレ抑制法(IRA)は、温室効果ガスの削減を進めるものですが、同時に保護貿易的なものでもあります。
 IRAはクリーン電力、EV、炭素回収貯留(CCS)、水素といった脱炭素に必須となる技術を税額控除による減税のインセンティブによって進めようとする法律です。
 ただし、減税措置を受けるためには製品が米国で生産されていることなどが条件になっている場合があります。例えば、EVでは一般消費者は最大7500ドルの税額控除を受けることができますが、この減税を受けるには完成車の最終組立が「北米」(米国、カナダ、メキシコ)であり、さらにバッテリーに関してもその一定割合が金額ベースで「米国」または「米国と自由貿易協定を締結している国」で抽出・処理されたか、北米で再利用されたものであることが必要です。
 さらに2024年以降は、懸念国の事業体(中国やロシア政府の管轄・指導下にある企業)がバッテリーの部品を一部でも製造していると購入者は減税を受けられないなど、「経済安全保障」の色彩も強くなっています。

 このためIRAには日本やEUからの懸念も出ています。日本もEUも「米国と自由貿易協定を締結している国」ではないからです。
 このあたりはマンチン上院議員との修正協議の際に盛り込まれたものですが、十分に練られていたものではありませんでした。
 結局、IRAでは「自由貿易協定」をきちんと定義していないことから、日本は2023年3月に「日米重要鉱物サプライチェーン強化協定」をアメリカとの間で締結し、EV減税上の自由貿易協定締結国になっています。

 ただし、抜け穴もあり、EV減税に付された原産国要件は消費者が購入するEVのみに適用され、事業者が商用車として購入するEVには適用されません。
 何が「商用車」なのかはIRAでは定義していませんでしたが、財務省がリース車も「商用車」として認める決定をしたことから、EU、韓国、日本からのEV輸入が増加し、同時にEV新車のリース比率も高まっています。

 IRAのような原産国要件はWTOの「内外無差別」や「最恵国待遇」に違反する可能性が高いですが、アメリカがWTOの上級委員の選任の手続きを止めていることもあって、WTOの機能の一部が麻痺した状態になっています。
 一方、アメリカがIRAのような政策に踏み切った背景には、EVなどの分野で中国が産業補助金を使って急速に存在感を高めているということもあり、これについてはEUも相殺関税を予定しています。

 このEUが進めようとしているのが国境炭素調整です。
 近年では排出量取引や炭素税などの「カーボンプライシング」という政策を採用する国が増えていますが、その分コストがかかるのでカーボンプライシングを行っている国の企業は行っていない国の企業との競争で不利になります。
 これを防ぐためのものが国境炭素調整です。輸入品に自国と同等の炭素コストを課すことで、カーボンプライシング政策を他国の動向を気にせずに進めることができるようになります。

 2022年12月、EUはこの国境炭素調整を「炭素国境調整メカニズム(CBAM)」という形で導入することを決定しました。
 CBAMはEUの排出量取引が2026年に強化されるのに合わせて導入される予定で、輸入者は輸入品の製造時に出た排出量に応じて「CBAM証書」をEUの加盟国政府から購入し、一定期日までに納付します。このときCBAM証書をEUの排出権取引での価格と同じ価格で販売します。これによってカーボンプライシングを行っていない国で生産されたものも同条件になるわけです。

 ただし、ある製品がどのくらいの炭素を排出しているかを計測することには困難が伴います。工場の炭素の排出量を計測できたとしても、その工場では他の製品をつくっているかもしれませんし、自動車のように多くの部品で構成される製品については部品を製造する際の炭素の排出量を逐一記録する必要が出てくるからです。
 EUの排出権取引では、基本的に企業単位のデータがわかっていればいいわけですが、CBAMでは製品ごとのデータが必要になるのです。

 そのため、対象となる製品は当面の間、鉄鋼、アルミニウム、セメント、肥料、水素などに限定されます。まずは製品排出量の計算が比較的容易だと考えられる一部の素材やエネルギーに限定したのです。
 化学製品も製造時の排出量は大きいのですが、化学産業では石油などを原料に多数の製品が製造されており、製品ごとの割り付けが困難なために対象になっていません。
 また、鉄鋼は対象ですが、鉄鋼を原材料に使った自動車は対象ではありません。鉄鋼ではなく自動車の形で輸入したほうが有利になります。
 この問題についてはEUも認識しており、2024年末までに川下の製品についても適用の拡大を検討することになっています。
 さらに輸出還付がないのも問題ですが、こちらはWTOのルールに抵触する可能性が高く、今後の議論に持ち越されています。

 このように近年では気候変動対策と貿易が密接に関わるようになっていますが、そこでは「底辺への競争」と「頂上への収斂」という2つの動きが考えられるといいます。
 まず、輸出入の国際競争力を高めるために各国が気候変動対策を緩めるのが「底辺への競争」です。
 一方、ある国が規制を強化するとその国に輸出している国も規制を強化する「頂上への収斂」が起きる可能性もあります。実際、EUのCBAM導入により、EUへの輸出が大きいトルコやウクライナは排出権取引の導入を検討しています。
 また、アメリカのIRAに見られるように気候変動対策が保護主義を招く可能性もあります。同時に各国のグリーン産業への補助金が市場を歪める可能性もあります。

 第4章では気候変動対策と金融の問題がとり上げられていますが、すでに長々と書いているのでここは気になった点だけを簡単に紹介します。
 金融の世界でも温暖化はリスクとして認識されるようになっており、投資にあたっても脱炭素という要素が重視されるようになっています。
 2021年にはイングランド銀行の総裁も務めたカーニーを中心に「グラスゴー金融同盟(GFANZ)」が創設され、「投融資排出量」(投融資先の企業等の排出量)もネットをゼロを目指す金融機関を増やすことが目指されました。このGFANZのもとにネットゼロ銀行同盟(NZBA)やネットゼロ保険同盟(NZIA)などがつくられました。

 ところが、2023年5月にGFANZに衝撃が走ります。米国の23州の司法長官がNZIAに加盟する保険会社に対して排出量の大きな事業に対して保険をつけないようなやり方は違法である可能性があると警告したのです。この結果、NZIAから脱退する保険会社が相次ぎました。
 23州の司法長官はいずれも共和党に属しており、共和党では「反ESG」の動きが強まっています。ESGは特定のイデオロギーを推進するもので経済的利益を損なっているというのです。フロリダ州やテキサス州では「反ESG」の法律が成立しています。

 一方、EUではグリーンな経済活動とそうではない経済活動を分ける基準である「EUタクソノミー」が制定され、他国でもこのEUタクソノミーを参照しながらタクソノミーを制定する動きが起きています。
 このあたりはEUの規制がグローバルに展開される「ブリュッセル効果」が効いていると言えます。

 第5章では脱炭素化を巡るさまざまな対立がとり上げられています。
 2021年のバイデン政権の成立以来、G7ではかなり前のめりに脱炭素が推進されており、石炭火力発電の扱いを巡って日本が孤立するような事態も起きました。
 しかし、2022年にロシアによるウクライナ侵攻が起きると、ヨーロッパでもエネルギー危機が起き、ドイツが化石燃料への投資の中でも天然ガスへの投資を例外扱いするように求めるなど、各国の事情に応じた駆け引きも盛んになされています。
 
 また、クリーンエネルギー関連の分野では、太陽光パネル、風力タービン、蓄電池などで中国企業がサプライチェーンで重要な地位を占めているという問題もあります。クリーンエネルギーへの移行を急ぐと中国への依存を一層深めることにもなりかねないのです。
 一方、IRAのように自国産業への過度な優遇は保護主義にもつながるわけで、ここでも難しい舵取りを迫られることになります。

 もちろん、先進国と途上国の対立もあり、石炭火力の廃止などをめぐって対立が続いているわけですが、COP26では石炭火力の段階的な削減が盛り込まれました。
 一方、COPは交渉の場から各国が取り組みをアピールする場へと変質しており、「万博化」が進んでいるともいいます。

 最後に日本についての言及もありますが、ここでは世界の他の国と違って若い世代ほど気候変動が引き起こす問題への関心が薄いという調査結果が興味深いです(288p6−1参照)。

 このように本書は近年の気候変動をめぐる国際的な政治や経済の動きを幅広く分析しています。
 TVや新聞だと、どうしても「先進国VS途上国」、「孤立する日本」といった単純なフレームで報道されることが多いので、このように複雑な状況を複雑さを捨象せずに伝えてくれる本書は貴重だと思います。
 また、アメリカのトランプ再選のリスクなどの脱炭素を阻む問題、一方でEUによる規制などの脱炭素を進める要因の双方について指摘してあり、今後の日本や日本企業の対策を考えるうえでも有益な本だと言えるでしょう。
 

橋本直子『なぜ難民を受け入れるのか』(岩波新書) 9点

 副題は「人道と国益の交差点」。タイトルからすると単純に「難民を受け入れるべきだ」という規範的な主張をする本をイメージするかもしれませんが、副題にもあるように各国の国益をシビアに検討しつつ「難民の受け入れを進めるべきだ」という本になっています。
 著者は研究者であるとともに、国際移住機関(IOM)やUNHCRの職員、法務省の入国者収容所等視察委員会の委員、法務省の難民審査参与員などを務めてきた実務家であり、本書は理想と実務のバランスを意識しながら論じられています。
 理想を掲げて終わるでもなく、現実の問題を数え上げて終わるのでもなく、「難民問題」という難しい問題が適切なやり方で論じられた本です。

 目次は以下の通り。
はじめに
第一章 難民はどう定義されてきたか――受け入れの歴史と論理
第二章 世界はいかに難民を受け入れているか――その1「待ち受け方式」
第三章 世界はいかに難民を受け入れているか――その2「連れて来る方式」
第四章 日本は難民にどう向き合ってきたか
第五章 難民は社会にとって「問題」なのか
第六章 なぜ「特に脆弱な難民」を積極的に受け入れるのか――北欧諸国の第三国定住政策
おわりに

 以前から国境を超えた人の移動はありましたが、これが「難民」という形で国際政治の場でとり上げられるようになったのは20世紀の戦間期からです。
 特定の出身国から逃れた特定の民族集団が「グループ難民」として指定され、国際的な保護が与えられることになりました。
 しかし、第2次世界大戦中にユダヤ人の虐殺を許してしまったことが、この問題へのさらなる対応を求めることになります。

 これを受けて1951年に国際連合で「難民の地位に関する条約」(難民条約)が採択されます。
 この条約では、対象を「1951年1月1日前に生じた事件の結果」としていましたが、これは67年に採択された「難民の地位についての議定書」(議定書)でこの成約は取り払われています。
 また、難民に当てはまる者は「人種、宗教、国籍もしくは特定の社会集団の構成員であることまたは政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するため」となっています。
 この「特定の社会集団」については当初は定義がありませんでしたが、現在では社会的因習に従わない者やLGBTQの人なども含むと考えられるようになっています。

 一方、「差別に基づく迫害」という要件があるために、戦争や内戦の暴力から逃れてきた者、極度の貧困から逃れてきた者は難民条約の難民にはあたらないことになります。 
 また、「迫害のおそれ」というのも、何が「迫害」でどこまでの「おそれ」があればいいのかという議論を生む表現になっています。
 さらに難民は「国籍国の外にいる」ことが条件で、迫害を受けている人が国外に逃れて初めて難民となります。

 ただし、アフリカや中南米では難民の定義をやや広く取っています。
 アフリカのOAU難民条約では「外部からの侵略、占領、外国の支配」が原因で国を出た人も難民として認めていますし、中南米の「難民に関するカルタヘナ宣言」では、「暴力が一般化・状態化した状況」「内戦」「重大な人権侵害」といったものも難民発生の事由に含めています。
 また、ヨーロッパではユーゴ紛争などを受けて、「欧州共通庇護制度」が策定・改定されてきました。ここでは死刑や拷問の恐れがあること、無差別暴力を受ける可能性などを保護の対象者に含めています。

 このように各地域ごとの取り組みがありますが、東アジアと東南アジアは難民受け入れ制度の空白地帯になっています。難民条約を締結している国は、フィリピン、日本、中国、韓国、カンボジア、東ティモールの6カ国にすぎず、地域的な取り組みもありません。
 一方で、インドシナやミャンマーなどからは多くの難民が発生しており、しっかりとした法的な枠組みなしに周辺国が受け入れてきた形になっています。

 第1章の最後では移民と難民の違いが論じられています。日本では自発性の有無がこの2つを分ける基準とされることが多いですが、国際的にはそのような区別をしているところはあまりなく、移民の定義の中に難民が含まれている場合がほとんどだといいます。
 ただし、移民を受け入れるか受け入れないかはその国の判断ですが、難民については難民条約締結国はこれを保護し、迫害の危険性のある国に追い返してはならないという「ノン・ルフールマンの原則」があります。

 第2章と第3章では難民の「受け入れ方」について論じています。第2章は「待ち受け方式」、第3章は「連れて来る方式」です。
 私たちがイメージしやすい難民は迫害などによって隣国に逃げてきた集団で、こうした中で受け入れられた難民が「待ち受け方式」となります。
 
 ただし、他国に庇護を求めるためにはまず出国せねばならず、これが大きなハードルとなります。他国に庇護を求めそうな人間はそもそもビザを得ることも難しく、途上国ではビザがなければ他国に行けない状況だからです。
 しかも、近年では渡航先の先の入館職員が出発地の航空に常駐し、渡航者が正式な証明書や滞在許可証を持っているかをチェックし、それらがない場合は現地で登場を阻止するという制度を設けるケースも増えています。
 「難民になるために自国を出る」こと自体が難しくなっているのですが、この裏には1度入国した難民は送り返せないというノン・ルフールマンの原則があります。

 このため不法入国を試みる難民も跡を絶ちません。難民条約では不法入国や不法滞在の難民であっても庇護申請ができるようになっています。
 この仕組みは問題のような気もしますが、例えば、タリバン政権の復活後に迫害されそうになっていたアフガニスタン人のことを考えると、彼らがタリバン政権から出国を認められるカヌ性は低いですし、そもそもタリバン政権を認めていない国も多いです。差し迫った危険のある難民ほど正式なルートでは出国しにくいのです。

 難民として認められれば、大まかに言って自国民と同等か一般の外国人と同等の権利が保障されます。
 そのため、審査に時間がかかることも多く、2015年に89万人の新規庇護申請を受け付けたドイツでは未だに審査が終わっていないといいます。
 そのため、「一応の難民認定」、「集団認定」と呼ばれる簡単な手続きがとられることもあります。このような認定が行われるのは途上国が多いです。
 途上国が難民の受け入れに寛容な理由としては、受入国の政策決定者に難民と同じ民族的・部族的・宗教的つながりがあることが大きな要因としてあるといいます。また、中東では多民族の伝統や、中南米では軍事独裁によって各国から難民が発生し互いにそれを受け入れてきた伝統から難民の受け入れに寛容だとも言われます。

 次に「連れて来る方式」です。この方式の代表的なものが「第三国定住」です。
 第三国定住はA国からB国に逃れた難民を、C国(多くは先進国)が受け入れる方式です。難民には庇護を受けているB国にいる限りC国に入国する権利はなく、C国も受け入れ義務はないのですが、近年では日本を含めた多くの先進国が行っています。

 第三国定住の長所は連れて来る難民を選べるところです。日本などは難民の「社会統合の見込み」を重視して難民を選別しています。一方、北欧などでは母子家庭、障害者、重病者などの「脆弱性」を選抜のポイントにしている国もあります。
 日本をはじめとしていくつかの国では第一次庇護国にいる難民に対して語学研修や文化オリエンテーションなどの事前研修を行っている国もあり、かなり念入りに準備した上で受け入れることも可能です。

 なぜ、わざわざ難民を連れてきて保護しようとする国が増えているのか?
 「待ち受け方式」だとその人が難民かどうかを審査する必要があり、審査中は出身国に送り返すことはできません。一方、連れて来る方式、特に第三国定住の場合はその人が難民であることはUNHCRなどが保障してくれます。
 また、計画的に秩序だって受け入れることができますし、難民の発生国との摩擦も避けられます(「そいつは難民ではない」と言われてもUNHCRが決めたことだと逃げられる)。
 そして、問題のなさそうな難民を選んで受け入れることができるという面も大きいです。

 近年では、「待ち受け方式」の代わりに第三国定住を拡大するといった動きもあります。
 EUは2016年にトルコとの間で、トルコからギリシアに非正規に漂着した庇護申請者のうち、庇護申請の内容が不十分な者やギリシアで庇護を求めない者をトルコに送還する代わりに、トルコ内でUNHCRによって難民と認められた者を第三国定住の形でEU圏内で受け入れるという協定を結びました。
 これは無謀な渡航をやめさせるという目的もありましたが、庇護申請者と第三国定住者が「人身交換」された形になっています。

 第三国定住以外にも、近年では留学生や技能労働者などの難民以外の立場で受け入れるケースもあります。
 また、「民間スポンサーシップ」と呼ばれる民間主体の受け入れも増えています。例えば、カナダは第三国定住をさかんに受け入れている国ですが、その中の多くは民間スポンサーや官民ハイブリッドの組織が受け入れています(101p図3−4参照)。民間スポンサーは、難民の受け入れや行政手続き、語学の習得、職探しなどまでサポートし、難民の自立を助けます。かなり大変な仕事ですが、正義感から、あるいは元難民などがこうした活動に熱心に取り組んでいるといいます(ただし、ケベック州では労働搾取の疑惑が持ち上がり中断されたこともあった)。

 第4章では、日本の難民受け入れが検討されています。
 日本は、難民への財政的支援は大きいものの難民の受け入れ数が極端に少ない国となっています。
 しかし、日本にも難民受け入れの歴史があります。その大きな転機となったのが1975年からのインドシナ難民の受け入れです。

 日本政府は船などで救助されたインドシナ難民が日本に留まることを許さずに第三国へ出国させていました。
 しかし、米国などからの外交圧力により1978年より一定の条件下で日本での定住が許可されるようになり、2005年までに1万1319人のベトナム、カンボジア、ラオス出身者がインドシナ難民として定住を許可されています。日本に船などでたどり着いた人々だけではなく、第三国定住、あるいは家族の呼び寄せも行われ、特に家族の呼び寄せは2005年まで続きました。

 インドシナ難民の受け入れが始まった当初、難民という概念はアジアには関係ない、日本周辺で大規模な難民危機が発生する可能性は低いなどの理由で日本は難民条約に加入していませんでしたが、この前提が覆ったこともあり、1981年に日本は難民条約の締結国となります。
 その後、10万5487人が日本国内で庇護申請を行い、うち1420人が難民条約上の難民として認定されています。また、累計で6054人に「人道配慮による在留許可」が出されています(121p表4−1参照)。2022年と23年にこの在留許可が急増していますが、これはアフガニスタンやミャンマー情勢を受けてのものです。

 日本においては難民認定率の低さが問題になることがあります。
 法務省は、そもそも就労目的などが多く制度の濫用・誤用のケースが多く、また、いわゆる「難民発生国」の出身者が少ないのでこのような数字になると主張しています。
 一方、支援団体などからは、「迫害」の解釈が狭すぎる、難民であるとの主張の信憑性の評価や迫害のおそれのハードルが高すぎる、難民審査参与制度が機能していない、といった批判があります。
 こうした主張に対し著者は、そもそも難民認定は個別のケースに即して行われるので認定率のみで判断するのは意味が薄いという立場を取っています。
 
 このようにやや消極的にも見える日本の難民受け入れですが、2010年からは第三国定住の制度もスタートしています。
 タイにいるミャンマー難民の受け入れから始まり、2019年から対象が「アジアに滞在している難民を年間60人」という形に広がり、現在は年に30〜60人程度の受け入れを行っています。
 受け入れにおいて重視されるのは「日本社会への適応能力があって、生活を営むに足りる職に就くことが見込まれる者」で、語学や日本文化の研修プログラムもあり、受け入れた難民のその後の生活状況はよいといいます。

 さらにシリア危機に際しては留学生として受け入れる方式も取られました。彼らは最低でも学士号以上を取得しており英語が話せるというエリートですが、彼らを日本の大学院などで受け入れることにしたのです。
 その後、アフガニスタンやミャンマーの危機を受けて、シリア出身者以外にもこの方式が開かれています。

 アフガニスタンの危機の際には現地職員の退避も問題になりました。タリバンのカブール侵攻を受けて、日本政府は現地の職員や留学予定者などを自衛隊機で退避させようとしましたが、これはうまくいかず、その後、カタール経由、あるいは隣国へ陸路で逃れ、日本にやってきた人々がいました。
 しかし、日本政府が認めた職員の範囲は非常に狭く、また、自力で脱出した人に対しても、日本人の身元引受人や有効なパスポート、日本における雇用主か受け入れ機関の確保を要請するなど非常に厳しいものでした。特にパスポートに関してはタリバンに迫害される恐れがあるのにタリバン政府にパスポートを発行してもらえという要求です。
 さらに来日後も難民申請をしないように要求する行為もあったといいます。

 一方、アフガニスタンのケースと違って大盤振る舞いだったのがウクライナのケースです。
 2022年2月のロシアによるウクライナ侵攻後、日本政府は身元保証人なし、場合によってはパスポートがなくてもウクライナからの避難民を受け入れました。
 来日後もすぐに就労可能な「特定活動」の在留資格に迅速かつ柔軟に変更され、さまざまな支援のサービスも用意されました。こうしたことは悪いことではないですが、今までの他のケースとあまりにも違います。ただし、逆に言うと本気になればここまでできるということも示しています。

 第5章は、「難民は社会にとって「問題」なのか」と題されています。
 難民が増加すると治安が悪化するのではないかという懸念があります。もっとも難民にはノン・ルフールマンの原則があるとはいえ、難民が出身国で重大な犯罪を犯していれば庇護しないことは可能ですし、安全保障上の理由で追放や送還を認める規定もあります。また、ここから重大犯罪を犯した難民を強制退去処分にすることも可能です。
 日本でも2023年の改正入管法でこの規定が盛り込まれました。著者は当初、審議されていた条文ではほとんどすべての難民の送還停止効が解除される可能性があると考え、議員にはたらきかけて一部を修正しますが、この修正案はより大きな修正を求めるグループによって葬られてしまい、当初の案が通ってしまっています。

 こうしたことを踏まえた上で、各国での研究を紹介し、難民の受け入れによって治安が悪化するのか?という問題を検討しています。
 アメリカでは移民のほうが地元民よりも犯罪を行う可能性が低いという研究結果がいくつも出されています。
 ドイツでは2014〜15年に(避)難民や庇護申請者を受け入れた行政管区を見ると、犯罪率全体は継続的かつ大幅に下がり続けたが、薬物犯については微増という傾向が出ています。より詳しく見るとより多数の庇護申請者を受け入れた行政管区ではドイツ国籍を有しない者による暴力犯罪が増えましたが、犯罪被害者も外国籍であった可能性もあるといいます。窃盗についてもそうした傾向が見られます。
 スウェーデンでは、2017年の時点で人口に占める移民の割合は33%だが、58%の犯罪被疑者が移民(本人が外国出身または親の少なくとも片方が外国出身)だったという研究があります。移民が犯罪を犯すリスクは地元民に比べ1.8〜2.1倍で、特に移民2世の犯罪リスクが増加傾向にあるといいます。

 日本では、観光客などの短期の滞在者と長期の滞在者を区別しているデータがないために、移民や難民が犯罪に走りやすいかどうかはよくわかりません。検挙者数に占める凶悪事件の割合が日本人比べて外国人のほうが高いのは懸念材料ですが、そもそも観光客などの軽犯罪は摘発されにくいといったこともあるかもしれません。

 難民の受け入れが財政的な負担になるという議論もありますが、日本が年間30人のペースで受け入れてた頃の第三国定住の費用は一人当たり450万円です。この金額はある程度までは人数が増えれば低下していく可能性が高いです。
 難民の定住支援プログラムの予算も2023年で3億2700万円で、こうしたプログラムによって就労ができるようなるのであれば、それほど高額なものではありません。
 また、外国籍者の生活保護自給率がやや高いのは事実ですが、その多くは福祉制度なの恩恵が十分に受けられなかった韓国。朝鮮籍の人となっています。

 第6章では北欧諸国の状況、特になぜ「脆弱な人々」を受け入れるのか?という問題を検討しています。
 日本の第三国定住では「日本社会に適用し就労できそう」という点が重視されており、経済的な国益が重視されています。一方、わざわざ負担になりそうな人を受け入れる北欧諸国の狙いは何なのでしょうか? 北欧諸国の近くには大きな難民発生国がないにもかかわらずです。

 年により増減はありますが、ノルウェイは2000〜3000人程度、スウェーデンはピーク時には5000人近くを受け入れています。そのうちスウェーデンは900人を障碍を持つ者やシングルマザーなど特に脆弱な者の枠としています。
 デンマークも以前は定着の見込みを重視していましたが、2010年代中盤以降は「デンマークに第三国定住すると本人の人生の継続的な改善が見込まれる者」(211p)へと変わってきています。この背景には教育レベルやスキルレベルが高い者が必ずしもデンマーク社会に適応できるわけではないという教訓もあるそうです。ただし、デンマークでは永住権を得るためにデンマーク語の試験などのハードルがあります。

 このような脆弱な者たちを受け入れる背景には人道主義や、あるいは「人道主義の国」としてのイメージを保ちたいという考えもあります。また、脆弱な難民は「可哀そう」なイメージと合致し、さらにルールの遵守なども期待できるという面があります。
 また、優秀な男性の難民ほど現地に溶け込みにくく、女性や子どもが溶け込みやすいということも脆弱な難民の受け入れを後押ししています。

 しかし、これらの北欧諸国では右派ポピュリスト政党の勢力が伸長し、難民政策への変更もみられるようになりました。
 デンマークではデンマーク国民党が勢力を伸ばす中で、社民党も移民や難民を制限する方向にかじを切り、2016年には庇護申請者から貴金属を没収できる法律が、17年からはしばらくの間の第三国定住の停止、18年には公共の場でのブルカ・ニカブの禁止、19年には難民認定された者にも時限付きの暫定残留資格しか認めないなど政策が打ち出され、21年にはデンマークでの庇護申請者のうち転送可能な者はデンマーク域外の審査書に送られ、その域外で難民に認定された者はルワンダに移送されるという法律までできました(2023年度末の時点では未実施)。

 スウェーデンでもスウェーデン民主党が伸長しており、2016年には外国人法が改訂され、難民認定された者にもすぐには永住権を与えない、家族の呼び寄せの条件を厳しくする、難民不認定者や送還対象者への社会保障アクセスへの制限などが決まっています。
 2022年の総選挙後のティトー合意では第三国定住の人数が900人にまで絞られ、「社会統合」が重視されるようになるなど、スウェーデンの難民受け入れ政策も曲がり角に立っています。
 このような第三国定住の人数削減はフィンランドでも行われています。

 一方、ノルウェイは難民政策を維持しています。もともと、社会への統合性を重視したり、自治体が受け入れるかどうかを判断できるなどの仕組みがあったということもありますが、右派ポピュリスト政党の進歩党も2013〜20年に連立政権入りしたにもかかわらず、今のところ自力でたどり着いた庇護申請者に対する扱いが厳しくなった程度です。
 この背景には、ノルウェイでは受け入れ後の定住・統合政策に力を入れており、移民や第2世代の犯罪率が減少傾向にあること、ブレイビク事件のあとに進歩党が反移民政策をトーンダウンさせたこと、世論や王室が難民の保護に前向きであることなどがあげられます。

 「おわりに」では、著者の提言が書かれています。
 まずは第三国定住を質量とも拡充すべきだといいます。ウクライナからの避難民の受け入れで特にトラブルが起きなかったように、日本にも難民を受け入れる一定のキャパシティはあるはずです。また、ベトちゃんドクちゃんの例をあげていますが、少数でも脆弱な難民を受け入れてはどうかとしています。
 さらに南庭認定基準の改善、行政から完全に独立した第三者機関の難民認定制度の導入を訴えています。
 「日本がいい国だと思うならば、それをたまたま「悪い国」に生まれた人々をと分け合ってもらえないだろうか」というのが著者の訴えです。

 長大なまとめになってしまったのは、それだけ本書の記述の密度が濃いからです。最初にも書いたようにタイトルからは規範的な主張を述べた本に思えますが、そうではなく、難民受け入れについて知っておくべきさまざまな事実や見方が書かれています。
 アフガニスタン、ミャンマー、ウクライナと日本にも関わる難民問題が次々と発生した今、まさに読まれるべき本と言えるでしょう。


宮垣元『NPOとは何か』(中公新書) 7点

 多くの人が知っているものでありながら、「NPOって何なの?」と正面から聞かれるとなかなか答えるのが難しい。NPOとはそんな存在かもしれません。
 「非営利組織」というように、名前からは「営利組織ではない」といったくらいの情報しか引き出せず、「なんだかよくわからないもの」として認識している人も多いのではないかと思います。

 本書は、そんなNPOについて、NPOが登場してきた背景、NPOの特徴、NPO法の内容、活動実態、歴史的な位置づけ、その必要性などを多面的に論じたものになります。
 定義から始めるでもなく、その歴史から始めるでもなく、社会の変化と「NPOとは何か」という問題をともに明らかにしていくような構成になっていますが、これがなかなかうまくいっていると思います。
 本書を読み終えると、掴み難いNPOという存在がここまで増え、さかんに活動をしている理由といったものが見えてくる内容になっています。

 目次は以下の通り。
序章 社会に浸透するNPO
第1章 求められる時代背景
第2章 複雑な顔を持つ組織
第3章 NPO法とはどのようなものか
第4章 参加意識と活動実態
第5章 市民による公益活動の長い歴史
第6章 なぜ社会に必要か―非営利組織の存在意義
第7章 「分かちあう組織」を創る

 本書は、序章で日本や世界のさまざまなNPOを簡単に紹介した後、第1章で阪神淡路大震災とそこでの「ボランティア元年」とも言われたボランティアの活躍ぶりを見ていきます。
 1995年1月17日におきた阪神淡路大震災は6000人以上の犠牲者を出した大災害でしたが、同時に多くの若者が「ボランティア」として活動したことでも画期となりました。
 それまで、「ボランティア」というと特別に献身的な人が行うものといったイメージがありましたが、阪神淡路大震災では、多くの普通の人々が駆けつけ、さまざまな活動を行いました。
 
 その後も1997年のタンカー・ナホトカ号の重油流出事故では当初の3ヶ月間で延べ27万5000人が重油の回収にあたり、2011年の東日本大震災ではその後7年で延べ154万人以上のボランティアが活動したといいます(この数はボランティアセンターを通じて活動した人で、それ以外にももっといたはず)。
 このように日本のボランティアに関しては、阪神淡路大震災以前/以後という見方ができるかもしれません。

 ただし、ボランティアやNPOに注目が集まった要因は阪神淡路大震災だけではありません。
 海外でもNPOへの注目が集まっており、ピーター・ドラッガーなども非営利組織に関心を寄せていました。
 こうした潮流の中で日本でもボランティアに注目が集まることになったのです。

 著者は阪神淡路大震災をきっかけとして見出されたボランティアの長所として、「活動の柔軟性
」、「ニーズに立脚した新しい活動」、「現場に身を置くことでわかる問題の発見」の3つをあげています。
 一方で、課題となったのが「活動の継続性」と「需給のミスマッチ」です。
 震災の発生から日が経つにつれて参加するボランティアは減っていきましたし、ボランティアからしても活動を続けようと思っても食料も宿泊場所も自弁では限界があります。また、一部の避難所のボランティアが押し寄せ、他の場所ではボランティアが不足するといった事態も起こりました。
 ここから継続的な組織や全体を調整する存在が必要だということになり、NPOという存在が注目されていくことになります。

 このような形でNPOという言葉も知られるようになりましたが、NPOというのもかなり幅のある概念です。
 NPO法人や認定NPO法人のように法で認められたもののみを指すケースもありますし、NGO、市民団体、学校法人や社会福祉法人までを含むような形で使われることもあります。
 「非営利組織」の「非営利」とは収入を得てはならないという意味ではなく、収益をメンバーで分配できないという分配面に関わることであり、ここからすると学校法人や社会福祉法人も含まれます。
 宗教団体が福祉などの活動を行うこともありますが、海外の定義でも宗教団体を除くが一般的です。
 また、協同組合や社会的企業などもNPOと似た活動をしていることがあります。

 本書の第2章では、NPOには「事業者と社会運動の2つの顔」があるといいます。
 子育て支援、障害者支援などNPOはさまざまな事業を行っており、政府や企業から補助を受けているケースも多いです。この場合は政府や企業とは協力関係にあります。
 一方、NPOの活動には社会運動としての側面もあり、このときには政府や企業と対抗関係になることもあります。
 そして、この2つはきれいに分離できるものではありません。例えば、障害者支援を行っているNPOがあるとして、その団体はときに政府の支援を受け、ときに政府の政策に反対の声をあげているかもしれません。
 事業活動と社会運動の両面は基本的にはつながっていることが多いですが、どのようにバランスをとるのかが難しいこともあります。

 人との関わりにおいてもNPOには二面性があります。企業だと従業員と顧客という形で整理できるものの、例えば、ボランティアに支えられて事業活動を行っているNPOの場合、サービスの利用者でなく、ボランティアにまた参加してもらえるように気を配る必要もあります。ドラッガーはNPOにはボランティアという第二の顧客がいると指摘しました。
 ボランティアもまた、もっぱらサービスを提供するだけではなく、自身のやりがいや成長を求めて参加していることも多いです。単純に支えるー支えられるの関係にあるわけでもないのです。
 さらに活動への参加ではなく、寄付という形での参加もあります。

 NPOは組織であり、掲げられた目的を達成するために活動しているわけですが、同時にメンバーにとっての居場所でもあり、コミュニティとしての側面も大きいです。
 NPOの活動への参加は口コミを介するものが最も多いといいます。つまり既存の人間関係がある程度組織の中に持ち込まれているわけです。
 ここは企業との大きな違いですが、同時に閉鎖性を生む可能性もあります。また、居場所としての側面が重視されすぎると活動が非効率になる可能性もあるでしょう。
 
 また、NPOには金子郁容が指摘した「自発性のパラドックス」と呼ばれる問題もあります。ボランティアを行う人は他人の問題を自分に引き付けて考え、引き受けようとするわけですが、問題への取り組みを始めると「自分たちに何ができるだろう」と自問自答のループにハマることがありますし、あるいは「自己満足だ」と批判されることもあるでしょう。自発的に行動することでさまざまな問題を背負ってしまうのです。
 ただし、これこそが行政や企業とは違った、ボランティアの特徴であるとも言えるでしょう。

 第3章ではNPO法がとり上げられています。
 1998年、特定非営利活動促進法(NPO法)が施行され、「特定非営利活動」を置こうなう団体に法人格を与える仕組みができました。
 法人格を得るには公益法人を目指すという道がありましたが、そのハードルは高く、主務官庁の指導や監督が強く出る形になっていたために、そうではない形が必要とされたのです。
 なお、この法案は当初は「市民活動促進法」と称されていましたが、参議院自民党の中に「市民」に難色を示す声があり、「特定非営利活動促進法」になったといいます。

 NPO法では一定の要件を満たせば誰でも法人設立が認証されるようになりましたが、税制の優遇などの課題は残りました。
 そこで2001年に「認定NPO法人制度」がスタートしています。これはNPO法人のうち一定の基準を満たす寄り公益性の高い法人に税制の優遇を与えるものです。
 ただし、当初はなかなか認定されず、2012年に改正NPO法が施行され、認定事務が国税庁から地方自治体へと移りました。

 NPO設立のための要件は88〜89pに載っていますが、具体性の強い部分として「役員のうち報酬を受ける者の数が役員総数の三分の一以下であること」、「10人以上の社員を有するものであること」の2つかもしれません。
 営利を目的としないのは当然ですが、それを担保するために役員の報酬についての規定があり、10人程度はメンバーを集められない団体は活動の継続が困難ということなのでしょう。
 また、「宗教活動や政治活動を主たる目的とするものではないこと」という規定もありますが、「主たる目的」となっているように、NPOが宗教活動や政治活動をすることは可能です。

 第4章ではNPOへの意識と参加について分析されています。
 まず、世界価値観調査をみると、日本は他国に比べて慈善団体への信頼が低いです(116−117p4−1参照)。日本で慈善団体を「信頼する」(「非常に」、「信頼できる」、「やや」の合計)は31.3%で、これはアメリカ61.8%、イギリス72.5%、韓国61.5%などと比べても明らかに低い数字です。
 政府への信頼が、日本39.9%、アメリカ33.4%、イギリス24.1%、大企業への信頼が、日本47.4%、アメリカ31.2%、イギリス37.0%なので、他の組織と比べても慈善団体への信頼は低いと言えそうです。
 
 「わからない」という回答が多いのも日本の特徴で、22,2%とかなり高い数字になっています。
 2018年度に行われた内閣府の世論調査でも、NPOについて「知っている」とした人は全体の89.2%ですが、内訳は「よく知っている」(21.7%)、「言葉だけは知っている」(67.5%)で、
「NPO」という言葉は知っていても、その実態はよくわからないということが信頼度の低さにもつながっているのかもしれません。

 ただし、日本人の社会貢献に対する意識が低いというわけではありません。
 「何か社会の役に立ちたいと思っていますか」という質問に対して、64.3%の人が「思っている」と答えており、これは増加傾向にあります(121p4−2参照)。
 では、実際にどれくらい行動しているかというと、「ボランティア活動」の1年間の参加経験を見ると、1996〜2016年までは20%台の後半(2016年で26.0%)、21年は17.8%と下がっていますが、これはコロナの影響だと考えられます。
 また、属性で見ると女性の方が高いですが、近年は差が詰まっており、21年は男性が僅かに上回りました。
 年代では20代の参加率が低く、30代後半が高くなっています。これはPTAの活動などが含まれているためだと思われます。

 個人寄付の規模は2021年の『寄付白書』の推計で1兆2126億円、ただし、ここにはふるさと納税6725億円、共同募金会や赤十字社、町内会・自治会、政治献金、宗教関係の2773億円も含まれ、これを除くと2628億円です。この他、企業からの寄付を合わせると個人と企業で1兆円近い寄付があるといいます、

 現在、NPO法人の数はおよそ5万程度、認定NPO法人の法人は2024年3月で1284あるといいます。
 NPOの数は2018年をピークにやや減少傾向にありますが、これは社団法人などの別の形態をとるようになったからだとも考えられます。なお、不認証となることが少ないNPO法人ですが東京都だけは突出して不認証の数が多くなっています(135p4−6参照)。
 活動分野としては、「保健・医療・福祉」、「子育て」、「まちづくり」などが多くなっています(138p4−7参照)。
 規模や収入に関しては分散が大きくて特徴を抽出することが難しいですが、認定NPOのほうが規模も収入も大きくなる傾向があります。
 有給のスタッフの中央値を見るとNPOは1人、認定NPOで2人。年間給料手当総額の中央値はNPOが210万円、認定NPOが613.4万円です。

 兵庫県の任意団体を含めた調査を見ると、活動者が20人以下の団体が全体のやう7割を占め、活動の中心が「ほとんど女性」とする団体が約6割、「65歳以上」とする団体が7割近くになっています。
 ただし、NPO法人は任意団体と比べて49歳以下の割合が高く、専従で働く人がいることなどに特徴があります。会社員や自営業者のメンバーも多く、任意団体よりも幅広い参加を集めていると言えるでしょう。
 近年ではこうした団体では世代交代が大きな問題となっており、多くが担い手不足の問題を抱えています。

 第5章では一転して日本の公益活動の歴史をたどっています。
 それこそ行基のころから仏教は救貧活動を行ってきましたし、鎌倉時代の叡尊や忍性なども積極的に社会活動を行っています。江戸時代になると、講などの相互扶助組織もできました。
 明治になると、民法で財団法人や社団法人が規定されますが、主務官庁の力が強く行政が統制する形でした。1930年代になると「ボランティア」という言葉も紹介され、貧困地域に移り住んで住民の生活向上をはかるセツルメント活動もさかんに行われるようになりました。

 戦後になると、アメリカなどから学生が子どもの兄・姉代わりになって厚生を図る「BBS運動」(Big Brothers and Sisters)など活動が輸入されます。また、ボランティアのための組織もつくられていくことになります。
 1960〜70年代にかけては環境保護運動や消費者運動などもさかんになり、「コミュニティ」という言葉も紹介されるようになります。80〜90年代になると地球環境問題への関心の高まりからNGOの活動が紹介されるようになっていきます。
 そして、1995年の「ボランティア元年」を迎えることになるのです。

 その後、1998年のNPO法だけでなく、2000年の介護保険制度、03年の指定管理者制度、06年の障害者自立支援法と、NPOと関連の深い制度がスタートし、行政からNPOへの委託も増えていきました。また、2000年代になると社会的起業が注目を集めるようになります。
 2010年代になるとSNSの発達やクラウドファンディングの広がりなどが、NPOの活動の幅を広げていくことになります。

 本書の第6章は「なぜ社会に必要か」となっています。冒頭に置かれてもよい章がここに置かれているというのが本書の1つの特徴です。
 まず、近年になってNPOが必要とされてきた理由について、「変容する社会での新しいニーズ」、「人と接する社会参加の場として」という2つのことがあげられています。
  共同体や家族が変容する中で、今までは家族や共同体内で解決していた問題が処理できなくなっています。また、今までは企業がその従業員の人生を抱え込むような形になっていることもありましたが、そのような企業の力は弱まっていますし、長寿化とともに老後の活動も考える必要があります。

 次にNPOの強みですが、一般的に言われるのが私的財と公共財の中間にあるような「準公共財」の提供です。公共財の定義は非排除性と非競合性ですが、例えば、同時に複数のが利用できる非競合性は満たさないが公共的な財というは想像できるでしょう。
 また、特殊な難病患者の抱える問題などはどうしても政治の場ではとり上げられにくいですが、何らかの手当が必要というケースもあります。こうした多様なニーズに対応するためにNPOが必要だというのです。

 ただし、多様なニーズに応えるのは企業ではいけないのか? これに答えるのが「契約の失敗」理論です。
 医療や福祉に関しては情報の非対称性があり、これを利用してサービス利用者を犠牲にして利益を得ることが可能です。しかし、NPOはこうした得た利益の分配に制約があり、それが信頼を生むことになります。
 
 一方、NPOが多様なニーズに応えられるとはいえ、すべてのニーズに応えられるわけではありません。また、活動分野は人々の関心が集まりやすいところに集中することになりますし、ボランティアに頼っているために彼らの好みや意向を無視できません。さらに誰でも参加できるがゆえに専門性が求められる分野では十分に活動できない可能性があります。
 ただし、これらの弱みは強みの裏返しでもあり、一概に否定されるべきものでもありません。

 最後の第7章では今後のNPOについて展望していますが、ソーシャルセクターの「ソーシャル」には社会的門だという意味と社交という意味の2つが含まれているのではないかという指摘は興味深いです。
 NPOが参加者の自己満足のように批判されることもありますが、人々が所属する中間団体としてNPOが重要だとも言えるわけです。

 このように本書は「NPOとは何か」という多くの人が持つ疑問に答える内容になっています。
 NPOという明確に定義しにくいものを説明することは難しいと思うのですが、本書は構成を工夫することで平板にならずにそれを伝えることに成功しています。
 「NPOという名前は知っているけど…」という人には、まさにぴったりな内容なのではないでしょうか。

玉野和志『町内会』(ちくま新書) 7点

 脱退をめぐってトラブルが起きたり、存続が危ぶまれたりすることが報じられる町内会。この町内会を歴史社会学に読み解いた本人なります。
 著者は、『創価学会の研究』(講談社現代新書)などの著作がありますが、そこでも近代日本の都市化と都市下層の集団が1つのポイントになっていましたが、本書でも都市化の中で誕生した自営業の担い手が同時に町内会の担い手になっていったこと、自営業の衰退が町内会の衰退につながっていったことを示しています。

 基本的には町内会の来歴を探る本なので、現在の町内会の問題に興味がある人からすると少しずれる部分もあるかもしれませんが、町内会の歴史をたどることで、その特徴や限界といったものも見えてくると思います。
 
 目次は以下の通り。
第1章 危機にある町内会
第2章 町内会のふしぎな性質
第3章 文化的特質か、統治の技術か
第4章 近代の大衆民主化―労働者と労働組合、都市自営業者と町内会
第5章 町内会と市民団体―新しい共助のかたち

 自分はちょうどコロナ禍のさなかに自治会の班長をやったことがあるのですが、そのときは行事が軒並み中止になり、町内会の会費集めと、町内会の運営のための資源回収を月に1回やるくらいしか仕事がありませんでした。
 「町内会は何のためにあるのだ?」と疑問に思う人も増えていると思います。
 実際、本書14pの図1を見ると、八王子、町田、日野といった東京の多摩地域の市でも、2010年頃〜2020年頃にかけて加入率が10ポイントほど落ちて、多くの市で加入率が50%を割り込んでいます。

 こうした加入率の低下は町内会長の負担の増加にもつながっており、さらに町内会長になると連合会などの上部会やPTA、警察・消防関係のあて職がついてきてあっという間に予定が埋まってしまうといいます。
 そうした中で、町内会を解散したい、上部組織から抜けたいという声も上がっています。
 一方で、町内会を抜けるとゴミの集積所を使わなせないなどの、さまざまなトラブルも起こっています。
 このように問題を抱えながらも、阪神淡路大震災、東日本大震災以降は地域の防災や助け合いのキーとして町内会への期待が高まっています。

 町内会は、「自治会」「部落会」「町会」など、さまざまな名称で呼ばれています。名称に揺れがあるのと同じように定義にも揺れがあるのですが、著者は次のような定義を掲げています。

 町内会・自治会は、「共同防衛」を目的とする「全戸加入原則」をもった地域住民組織である。(28p)

 「共同防衛」と「全戸加入原則」というやや硬い用語が用いられていますが、「共同防衛」についてはあとで説明されるとして、「全戸加入原則」は町内会の1つのポイントです。
 国家組織などではないために加入を強制することはできませんが、全戸加入が1つの目標になります。著者はできればすべての労働者の加入を目指す労働組合と似たところがあると指摘しています。

 著者は中村八朗の議論をもとに、町内会の特徴として以下の6つをあげています。
 ① 加入単位は個人ではなく世帯であること
 ② 一定地区居住者の全戸加入を原則とすること
 ③ 機能的に未文化であること
 ④ 一定地区にはひとつの町内会しかないこと
 ⑤ 地方行政における末端事務の補完作用をなしていること
 ⑥ 旧中間層の支配する保守的伝統の温存基盤になっていること(37〜38p)

 ただし、⑤と⑥は歴史的特質で、⑤はまだ維持されているが、⑥についてはもはや一般的なものではなくなっているといいます。

 町内会については、中田実が入会地などを念頭に地域共同管理をその機能の中心だと捉えました。
 しかし、著者によると、村落の部落会や自治会であれば、この議論は当てはまるものの、都市化とともに誕生した町内会には当てはまりにくといいます。

 そこで著者が提唱するのは鈴木栄太郎が提起した「共同防衛」という概念です。災害や外敵の侵入、内的な秩序の破壊としての犯罪の発生に対処することが町内会の核となる機能だというのです。
 共同防衛が担うべき機能だからこそ、空間的な領域が確定され、全戸の参加が求まられます。さらに共同防衛のためにはありとあらゆることをする必要が出てきます(安田三郎は町内会を地方自治体だと考えたが、著者はやはり違いがあると考えている)。
 著者は、町内会は明治国家が生み出した統治の技術だと考えており、もともと日本にあった文化ではなく、上からつくられたものだと考えています。

 町内会が行政の末端として存在しているというのは行政学者の高木鉦作も指摘していたことですし、村松岐夫の言う「最大動員システム」の一端を担ったものの1つに町内会はあげられます。
 そこで、本書ではまず明治の地方自治制度に注目します。そこに現在の町内会へと至る原型があるというのです。
 
 江戸時代の後半になると村の中での階層分化も進み、村方三役などの役職は有力な地主が務めることになります。このような地主には小作人が連なっていました。
 本書では、この村の階層を、①大地主層(50町歩以上)、②中小地主層(約3町歩以上)、③自作上層(約2町歩)、④自作下層(約1町歩)、⑤小作層(上記以下)の⑤つに分けて分析しています。
 この階層は制限選挙とも対応しており、小作層はいずれにも参加できず、自作下層は府県会選挙権だけを持ち、自作上層は加えて府県会の被選挙権を、中小地主層は加えて衆議院の選挙権を、大地主層は加えて軍歌大地主議員になることができます。
 
 自由民権運動では担い手が旧武士層から豪農層へと移ってきますが、この豪農層は在村の手作地主でした。さきほどの階層では②の中小地主層から③の自作上層に分布する形ですが、彼らの役割は明治になってからの大区小区制などで大幅に削られており、その不満が彼らを自由民権運動に向かわせたと考えられます。

 これに対して、政府は1878年の地方三新法で大区小区制を廃止するなど豪農層への歩み寄りを見せますが、税に関しては国が吸い上げ、地方自治体は国の補助金に依存せざるを得ない状態となりました。
 一方、1880年代に松方デフレが進むと、農民は大きな打撃を受け、自作農から小作農に転落する者が相次ぎます。自作上層と自作下層が土地を失い、大地主層と中小地主層に土地が集まっていくことになりました。

 こうした中で山県有朋による地方行政の再編が進みます。山県は「明治の合併」を進め、幕藩体制以来の自然村をいくつかまとめて行政村をつくっていきます。
 衆議院選挙の選挙権は15円以上の国税を納める者に限定され、自然村の範囲内だけで土地を所有する豪農下層は選挙に参加することは難しくなりました。
 旧自然村に置かれた区長や区長代理には豪農層が選ばれましたが、区長や区長代理は町村長に従属する末端機関の役目しか与えられておらず、豪農層は政治の舞台から遠ざけられ、行政の下請けに甘んじることになります。

 この地域のリーダーの影響力を政治舞台では発揮させず、行政の過程にのみ発揮させるという「成功体験」が、のちの町内会にもつながっていると著者はみています。

 地方支配についてはある程度の成功を収めた明治政府ですが、日露戦争後になると産業化と都市化が進む中で都市の中の下層民をどう治めていくかという問題が浮上します。
 日比谷焼打事件に見られるように都市騒擾事件が相次ぐようになり、労働争議なども頻発していくことになります。

 労働者をはじめとした都市下層の人々は、自分たちの生活のため、あるいは社会的地位向上のためにさまざまな動きを起こしていきます。
 労働運動はその代表的なものになりますが、明治政府は1900年に治安警察法を制定し、ストライキだけではなく使用者に労働条件の交渉を求めることすら禁じます。このため、日本では欧米と違って労働運動や労働組合が徐々に体制内化していくこととにはならず、社会主義の影響を受けながら反政府的なものとして存在してくことになります。

 このように労働運動が政府によって抑えられる中で、経営者たちは「経営家族主義」によって従業員の定着を図ろうとしました。
 一方、労働者の中からは社会的地位向上のために、小さな工場主や商店主として独立しようとする動きが起こります。
 この動きに著者は町内会誕生の鍵をみています。

 都市における住民組織としては土地所有者だけが加入できる地主会が一般的で、町内会は後からできたといいます。
 町内会のでき方はさまざまだといいますが、都市部の住宅地では町内会に対する反応は鈍く、唯一退役軍人だけがこれに反応したといいます。一方、住宅地の高台から下った場所には零細な商店が集まり、町の会をつくっていきました。
 こうした町の会のなかには「全戸加入」を謳うところも出てきました。これには同業者が移住してくることへの警戒もあったと思われます。

 階級的な面からいうと、労働運動の弾圧によって労働組合や労働運動による社会的上昇の道を絶たれた人々が自営という道で身を立て、その不安定な地位を守るためにつくったのが町の会だと言えます。

 この町の会に注目したのが戦時体制を構築しようとしていた行政でした。防空などをはじめとして「共同防衛」の必要性が高まる中で、町の会を町内会として組織し、広めていこうとする動きが起こります。
 1940年には内務省訓令として「部落会町内会等整備要項」が出され、町内会は戦時体制の末端を担うものとして整備されていきます。

 この行政側の動きに対して、商店主たちも呼応します。彼らの多くは地方の小作などの貧しい階級の出身で、労働者としては弾圧される対象でした。しかし、そんな彼らのつくった町の会が行政の目に止まり、ひとかどの人物として、天皇の臣民として認められることになります。
 町内会が戦時中に戦争へ積極的に協力したのも、こういった背景から分析できると著者は考えます。また、欧米において大衆民主化を担ったのが労働組合であるとすれば、日本ではそれは町内会だったというのです。

 戦時中は、この町内会はだいたい10世帯くらいの班組織をもつようになり、これが隣組となります。この隣組と、その「常会」と呼ばれる会合を通じて、配給や金属類の回収、出征兵士の見送り、防空訓練などが行われました。
 ある町内会長の話によると、出征のときに金持ちの息子は盛大に見送られるのにそうでない子は誰も見送らないのは不憫だということで、町内会で楽団を組織して誰であっても盛大に見送るようにしたといったケースもあったそうです。
 こうした中で、町内会の中心メンバーが幅を利かせるようになり、知識人や俸給生活者らがそれを苦々しく思うということもありました。

 戦後、GHQによる染料が始まると戦時中の活動が咎められ、町内会。部落会は「封建遺制」であるとされ((著者はもちろんこの解釈に反対)、政令で禁止されます。
 しかし、戦後も配給は続いたために町内会・隣組のルートを使うしかありませんでした。
 1952年、GHQによる占領が終わり、GHQの政令の効力が執行すると、町内会は公然と復活することになります。ただし、行政としてはそれまでの判断もあり、町内会・自治会を公然と特別扱いすることはできませんでした。

 高度成長期になると、自営業者たちは地主から土地を買い取り、ますます旺盛な活動意欲を見せるようになります。
 東京などでは、自分たちの地位を行政に認めさせるために、町内会連合会を組織して行政に自分たちの要求を突きつけるようになっていきました。
 町内会に特別な地位が与えられることはありませんでしたが、行政にとっても町内会は都合のいいものであり、地域開発や施設誘致などの際にも、まずは町内会の有力者だけに説明がなされ、合意の形成が図られるといったことも増えてきます。

 こうした行政と結びついた町内会には批判も向けられるようになり。70年代に革新自治体が登場すると、町内会・自治会とは異なる住民運動や市民運動が注目されるようになります。
 一方、自治省からは「コミュニティ施策」と呼ばれるものが打ち出されますが、結局、その担い手は町内会や自治会に求められていくことになります。
 革新自治体でも、市民参加による意思決定の難しさが顕在化し、町内会・自治会との協力を尊重するようになっていきました。
 著者はこの70年代に「町内会体制」が確立したとみています。

 しかし、この町内会体制は確立とともに解体していきます。
 昭和のはじめに20代で町の会を設立した世代は、戦後間もなくに40代で土地を取得して土地付きの自営業者となり、1970年代に60代で町内会長などの役職を務めてとして、80年代になると70代になってそろそろ引退ということになっていきます。
 彼らの子どもは必ずしも店を継ぐ存在ではなく、大学に進学して一般企業へと就職していくことになります。町内会体制を受け継いでいく継承者は必ずしもいるわけではなかったのです。

 この町内会は自民党議員の個人後援会を支える存在でもありましたし、町内会長などから地方議員へと転身するケースもありました。町内会の有力者が行政をバイパスして議員経由で政策に影響力を持つようなケースもあったといいます。著者はこうした動きが80年代の「保守回帰」の背景にあったと考えています。

 こうした構造も、大規模小売店舗法の改正や小選挙区比例代表並立制の導入などによって掘り崩されていきます。
 大規模店の進出によって商店主たちは経済的な打撃を受け、自民党の国会議員も個人後援会だけで選挙戦を戦っていくことは難しくなります。
 もちろん、後援会組織は重要ですが、衰退した商店主たちに代わってそれを担ったのが創価学会であり、そのための自公連立だというのが著者の見立てです。

 最後に著者は今後の町内会についても簡単に展望しています。
 まずは市民団体との関係です。以前は水と油と言われた関係ですが、町内会が衰退し、福祉の一端を市民団体が担うようになってきた中で、町内会も市民団体と協力していかざるをない状況になっています。
 また、行政としては町内会に下請け的な仕事をさせてきたわけですが、今後は難しくなっていくと思われます。
 
 それでも全戸加入原則を持つ町内会の存在は貴重です。すでに行政の下請けを行う資源は残っていないものの、行政への窓口、行政と協議する場所としての町内会は残せるのではないかというのが著者の考えです。
 一方、活動の方は分野ごとに市民団体に任せるべきだといいます。町内会を議会を補完する(というよりも議会が町内会を補完する)ような政治についての協議の場としていくのが著者の描く青写真です。

 全体としてはやや繰り返しになってしまっているところがあったり、農村の自治会はどう考えればよいのか? といった疑問も残りますが、町内会が階級的な承認を得るための手段として立ち上がり、上からの組織化もあって公共的なものを担ったという議論は興味深いです。都市部の政治については、このロジックは比較的使えそうな気がします。
 現在の町内会というよりも、日本の近代の都市の歴史に興味がある人にお薦めできる本です。


記事検索
月別アーカイブ
★★プロフィール★★
名前:山下ゆ
通勤途中に新書を読んでいる社会科の教員です。
新書以外のことは
「西東京日記 IN はてな」で。
メールはblueautomobile*gmail.com(*を@にしてください)
タグクラウド
  • ライブドアブログ