山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期

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2020年04月

古松崇志『草原の制覇』(岩波新書) 7点

 岩波新書<シリーズ中国の歴史>の第3巻。渡辺信一郎『中華の成立』、丸橋充拓『江南の発展』
につづく巻で、時代的には前2巻と重なる部分があるのですが、こちらは北方の草原地帯から元の滅亡までの歴史をたどっています(シリーズ構成を示した図は『中華の成立』か『江南の発展』のレビューを御覧ください)。
 時代的には拓跋の建国した北魏から始まっており、契丹や金に関する記述が手厚くなっています。この部分、特に澶淵(せんえん)の盟を中心に書かれている第3章は非常に面白いです。一方、モンゴルを描いた部分は期待よりも少し弱い感じもしました。

 目次は以下の通り。
序章 ユーラシア東方史と遊牧王朝
第1章 拓跋とテュルク
第2章 契丹と沙陀
第3章 澶淵の盟と多国体制
第4章 金(女真)の覇権
第5章 大モンゴルと中国

 中国では北に行くに従って降水量が少なくなり、南部は稲作、北部は小麦が中心となっています。そして、さらに北に行くと農耕と遊牧の境界地帯があり、さらに北に行くと遊牧地域となります(12p図2参照)。ポイントになるのは、農耕と遊牧の境界地帯に北京や成都が含まれ、長安のすぐ北部もこの境界地帯ということです。
 著者は、秦や漢といった古代の帝国が華北西部に成立したことに注意を向け、この農耕と遊牧の境界地帯に近い地域が馬の生産を導入しやすい位置にあったことを指摘しています。
 漢の時代に北方の高原で勢力を拡大したのが匈奴になります。冒頓単于はモンゴル高原を統一し、劉邦を破りました。匈奴は十・百・千・万を単位とする軍事組織をつくり、これはのちの遊牧民族の軍事組織にも受け継がれていきます。

 北方の遊牧民が華北に王朝を建てたのが五胡十六国時代です。この中で本書が本格的に取り上げるのは華北を統一した北魏からになります。
 北魏は鮮卑拓跋部のつくった王朝ですが、遊牧部族集団を中心に漢族の農耕民を包摂することにより安定した支配体制をつくり上げました。北魏の皇帝はカガン(可汗)の称号を名乗り、都にとどまらず、夏には行幸し狩りを行うなど、遊牧民の慣習を維持しました。
 しかし、孝文帝が洛陽に遷都し国の重心が南に移ると、北の守りについていた六鎮と呼ばれる軍団が反乱を起こし、華北は混乱に陥ります。そして、この六鎮の流れの中から、隋を興す楊氏、唐を興す李氏が現れることになるのです。

 華北が混乱する中で中央ユーラシアでは突厥が台頭します。突厥はテュルク系遊牧民で、華北の王たちは東突厥に臣従することで、戦いに勝ち抜こうとしました。唐も当初は東突厥に臣従していましたが、太宗は東突厥の混乱をついてこれを滅亡させます。
 この結果、唐は華北と南モンゴルを統合し、さらに西域へと勢力を広め西突厥も打倒します。唐の勢力圏は天山山脈の北側にまで達しました。こうして遠征を支えたのはテュルク系遊牧民の騎馬軍団でした。

 その唐が大きな危機に陥ったのが8世紀後半の安史の乱です。この反乱を起こした安禄山がソグド人(イラン系種族)であることは知られていることかもしれませんが、安禄山が節度使として任じられていたのは范陽という中国の東北部です。安禄山は突厥から唐へと亡命した人物で、幽州(北京)の節度使のもとで軍人として頭角を現し、自らも節度使に成り上がった人物でした。
 唐の辺境には羈縻州が置かれていましたが、安禄山は幽州周辺の羈縻州の指導者層と通婚関係や疑似父子関係を結び、さらに突厥からの亡命者などを受け入れ、自らの軍団を強化しました。さらにソグド商人の元締めのような存在となり巨利を得ました。
 反乱を起こすと一気に洛陽を陥れた安禄山でしたが、子の安慶緒に殺害され、反乱軍自体は史思明に率いられ幽州へと退却します。このときに唐が頼ったのがモンゴル高原の新興遊牧王朝だったウイグルです(ウイグルと聞くと中国西部のイメージがありますが52p図8からもわかるように当時の根拠地は中国の北)。さらに西部の節度使の力を借りて、唐は安史の乱の平定に成功します。「こうして見ると、安史の乱とは、唐の北辺を守る節度使というきわめて似通った軍事集団が、東と西で敵・見方に分かれてたたき合った戦いだったとみなすことができる」(53p)のです。

 安史の乱を機に唐の領土は縮小し、草原地帯や西域では、ウイグル、そしてチベット(吐蕃)が勢力を伸ばし、三国鼎立といった状況になります。822年に唐はチベットと対等な形で会盟を結び、その後、チベットとウイグルの間でも盟約が結ばれました。
 しかし、840年代にウイグルとチベットは相次いで崩壊し、草原世界は再び混沌としていきます。

 このような唐の衰えを受けて、第2章では契丹と沙陀がとり上げられています。
 契丹は突厥に服属していましたが、9世紀後半に耶律阿保機が登場すると強大な国家に成長します。阿保機は907年にカガンに即位し、916年には「大聖大明天皇帝」を名乗り、国号を「大契丹」としました。925年には渤海を滅ぼしますが、翌年に阿保機は亡くなってしまいます。
 しかし、阿保機の正妻の応天皇后月理朶(げつりだ)が非常に有能だったこともあって、契丹は阿保機の死によっても瓦解せずに、さらに拡大します。契丹は諸部族からオルドと呼ばれる親衛軍団をつくり皇帝が強大な軍事力を掌握できる制度をつくり、王朝の中心部に定住農民を移住させ、城郭都市を数多く建設しました。契丹は漢人のブレインも上手く登用しながら、遊牧王朝と中原王朝の文化や制度をうまく融合させて安定した支配を実現したのです。

 一方、華北西部に勢力を伸ばしていったのが沙陀です。沙陀はテュルク系の遊牧集団で、朱邪赤心が唐から国姓を賜って李国昌を名乗ると、その子の李克用は黄巣の乱の討伐に活躍します。その後、同じく黄巣の乱の平定で活躍した朱全忠と対立し、最終的に朱全忠が唐を滅ぼし、李克用は劣勢となり亡くなりますが、その子の李存勗は朱全忠の軍を破り、後梁を建国します。この後、後唐、後晋・後漢と沙陀系の王朝が続き、さらにその後の後周、北宋も沙陀連合体に属した漢人武人の建国した王朝となります。

 李存勗は軍事的才能には優れていましたが、無秩序な側近政治を多なったこともあって後梁は短期間で崩壊、李嗣源により後唐が建国されますが、今度は李嗣源の女婿の石敬瑭が契丹に援軍を求め、後唐を滅ぼして後晋を建国します。
 この見返りとして後晋は燕雲十六州を契丹に割譲し、後晋が毎年30万匹の絹を送るとともに、石敬瑭が契丹の皇帝・堯骨と年少の堯骨を父とする父子の関係を結び、互いを皇帝と認めました。
 石敬瑭の死後、後晋がこの関係を精算しようとすると、堯骨は後晋を滅ぼして国号を「大遼」としますが、中原の人々の反発にあって撤退します。その空白地帯に後漢・後周が建国されます。後漢の一部は北漢をつくって契丹の援助を受けながら後周に対抗しますが、後周の柴栄がこれを打ち破り、中国統一へと動きますが、そのさなかに亡くなり、後周の有力な武人であった趙匡胤が北宋を建国するのです。当時は契丹の内部が混乱していたこともあり、趙匡胤とその後継者の趙光義は中国統一事業をすすめることができました。

 趙光義(太宗)は中国南部を制定すると、北漢を滅ぼし、さらに契丹へと兵を進めます。しかし、太宗の2度に渡る契丹への遠征は失敗し、北方の統一は未完のまま終わりました。
 北宋は一転して防衛策をとるようになりますが、1004年に契丹の大軍が北宋に侵入し、北宋は危機に陥ります。このときに取り決められたのが「澶淵の盟」になります。この盟約は、北宋が契丹に毎年絹20万匹、銀10万両を支払うという取り決めがあることから、敗戦後の講和条約のようにも見えますが、本書を読むと両国の軍事衝突を回避するためのかなり細かい取り決めがあることがわかり、平和維持のための条約だったことが見えてきます。
 このときに定められた疑似親族関係も、年長の北宋の真宗を兄、年少の契丹の聖宗を弟とするものでしたが、この兄弟関係は可変的であり、両国がまさに対等な関係だったことがわかります(111pの表参照)。そして、この盟約は100年を超える平和共存体制をもたらしました。
 絹や銀の支払いに関しても、当時経済成長が著しかった北宋では大きな重荷にはならず、両国の貿易を発展させる役割も果たしたといいます。

 10世紀末から11世紀にかけて、西ではもとはチベット系の遊牧民(羌)であるタングトが勢力を伸ばし、西夏を建国します。夏州を根拠地としたタングトは契丹の庇護を受けながら北宋と攻撃を繰り返し、徐々に勢力を拡大させていきます。北宋と契丹の間に澶淵の盟が結ばれると、タングトも融和路線に舵を切り、1006年に和平が成立します。
 しかし、1040年になるとタングトは北宋に対して攻撃を開始し、北宋は危機に陥ります。ここで両国の間に介入したのが契丹です。契丹は北宋に圧力をかけて自らに対する歳弊を絹10万匹、銀10万両増額させると、西夏に講和を勧める使者を送ります。結局、北宋は毎年銀7万2千両、絹15万3千匹、茶3万斤の巨額の歳賜を西夏に送ることになり、形式的には西夏が臣従するかたちになったものの、西夏が皇帝を名乗ることを黙認しており、実質的には西夏を独立王朝として承認するものでした。

 こうした平和共存体制は12世紀になると終わりを迎えます。契丹の東北の辺境で女真と呼ばれる集団が台頭したからです。女真はツングース系の諸部族の集団で、契丹の支配下で平時は農牧業に従事し、戦時には軍事力の一翼を担っていました。
 この女真から阿骨打(アクダ)が現れ、契丹に対して挙兵します。1115年契丹の軍を破った阿骨打は皇帝に即位し、国号を「大金」と定めます。さらに契丹の軍を破った阿骨打は版図を拡大します。1123年に阿骨打が亡くなるものの、金の勢いは止まらず、契丹は滅亡することになります。
 
 この金の台頭をチャンスと見たのが北宋でした。北宋は金と契丹挟撃を協議しますが、北宋側の事情で出兵は遅れ、1122年、契丹の敗亡がほぼ明らかになった時点でようやく兵を進めます。しかし、契丹の反撃を受けて退却し、北宋が目的としていた燕京の攻略は結局金によってなされました。
 金は当初の約束通り、燕雲十六州の一部を北宋に引き渡し、北宋との間に澶淵の盟と同じような盟約を結びますが、北宋はこれを守りませんでした。金は北宋に侵攻し、最終的には上皇徽宗、皇帝欽宗らを連れ去り、北宋はここに滅亡します(靖康の変)。
 その後、徽宗の子の高宗が江南によって宋を復活させ南宋が生まれます。その後、金と南宋の間には一度は和議が成立しますが、1140年になると金は再び南宋と戦端を開きます。しかし、南宋軍が善戦したことで再び和議が成立し、南宋が金に毎年銀25万両、絹25万匹を送ることなどが取り決められました。澶淵の盟に似た取り決めですが、金が上で南宋は下という上下関係がありました。
 
 金ではこの後、中原王朝の制度の導入が進みました。上京(じょうけい)と呼ばれる都城を建設し(現在の黒龍江省ハルビン市)、さらに1149年に帝位についた海陵王は科挙の殿試を実施し、都を燕京に移すなど、さらなる中原王朝化を進めますが、強引なやり方は反発を呼び暗殺されました。
 その後、金では中原王朝化に対する揺り戻しが起き、女真文化の復興などが進められましたが、北方の遊牧民族の侵入に苦しめられることになります。一方、南宋は好機が来たと金に攻め込みますが大敗し、1207年に南宋が銀30万両、絹30万匹を送ることを取り決めた和議が結ばれました。

 しかし、この平和は前年にチンギス=カンによって建国されたイェケ=モンゴル=ウルス(大モンゴル国)によって打ち破られることになります。
 チンギス=カンは指揮下に入った遊牧民を95の千戸集団に再編し、それを中央ウルス、右翼ウルス、左翼ウルスに分け、自身や子ども、同母弟に指揮させました。さらに君主の側近としてケシクテンと呼ばれる親衛隊がつくられました。チンギスの元へは西ウイグルなども来降し、モンゴル語の表記にウイグル文字が使われることとなります。
 チンギスは1211年には金に侵入して、金が毎年銀や絹を貢納することなどを条件に和議を結び、1215年には和議を破った金に再び侵攻し、中都(燕京)を陥落させました。さらにチンギスは西のカラ=キタイを滅びし、ホラズム=シャー朝も滅ぼします。西夏攻略の最中にチンギスはなくなりますが、モンゴルは西夏も滅ぼし、中央ユーラシアを制圧するのです。

 チンギスの跡を継いだオゴデイは1234年に金を滅亡させ、華北の支配を始めます。モンゴルは農耕地帯に財務機関を設置し、ウイグルやムスリムの商人などを財務官僚に登用して徴税制度を整備させました。華北では包銀という銀立ての税が徴収されるようになります。
 1236年にはバトゥが西方遠征に、クチュが南宋遠征に派遣されますが、ロシア・東欧まで兵を進めたバトゥに対してクチュの軍は目立った成果を挙げられませんでした。

 その後、オゴデイの死とともにモンゴルでは内紛が続きますが、1251年にモンケが即位すると、次弟のクビライが南宋へ、三弟のフレグがイランに派遣されます。難航した南宋攻略のためにモンケが自ら遠征をしますが、四川でモンケは疫病に倒れ、その後、クビライが争いを制して即位します。
 クビライは現在の北京に大都を建設し、中書省の下に六部を設けるなど、中国風の官僚機構も整備しましたが、基本的には遊牧民流の側近政治が行われました。また、文書行政が発達し、中国ではモンゴル語を直訳したような独特の文体が皇帝の命令書に使われました。1271年、クビライは国号を「大元」としています。

 クビライは南宋攻略のために襄陽を包囲し、西アジアからもたらされた最新式の投石機なども用いて5年をかけてこれを陥落させました。これをきっかけに南宋は一気に崩壊し、1279年に南宋は滅亡します。モンゴルは南宋の支配地では南宋流の支配を行い、両税法が踏襲されました。
 モンゴルは中国を南北に結ぶ運河を改修し、さらに海上交易も活発化しました。日本に対しては2度の侵攻とその失敗が知られていますが、この時期、民間の貿易は活発であり、日本から寺社造営料唐船もさかんに派遣されています。
 元は銀の代わりとなる「中統元宝交鈔」という紙幣をつくり、塩税や商税など商業流通に対する課税を柱とするなど、商業活動を活発化させ、そこから富を得ました。

 クビライの死後、モンゴルは多元化していきますがゆるやかなまとまりは維持され、東西の文化の交流が行われました。中国では儒教が保護されましたが、その中で朱子学にもとづく儒学教育が広まることとなります。
 しかし、14世紀になると元では内紛が続き、また14世紀前半の北半球での寒冷化の影響もあって元の支配は急速に揺らぐことになるのです。

 本書では以上のような内容以外にも宗教に関する記述に紙幅が取られており、日本を含めた仏教の動きなどもわかるようになっています。
 最初にも書いたように、契丹や金、そして宋との関係を中心に書かれた第2〜第4章は非常に面白いです。澶淵の盟の意義などがわかりましたし、アジアの外交にも大きなスケールと面白さがあったことがわかります。
 一方、やや弱く感じたのがモンゴルについて。特にモンゴルの支配は中国社会にどのような変化を与えたのかということに関してはもう少し詳しく知りたいとも思いした(ひょっとすると第4巻でとり上げられているのかもしれませんが)。

 

本田由紀『教育は何を評価してきたのか』(岩波新書) 6点

 教育社会学者である著者が日本の教育を分析した本ですが、帯にある「生きづらい社会を変えられない原因は、「望ましい」人間像にあった/能力・態度・資質という三つの言葉から読み解く」とのキャッチコピーからもわかるように、著者は日本の教育の現状に批判的であり、その問題点の来歴を探るような内容になっています。
 「能力・態度・資質」という3つの言葉は教育関係の公的な文書で頻出する言葉あり、この3つの言葉を分析の中心点に据えるというのは良い着眼点だと思いますし、「人間力」や「生きる力」といった、「学力」以外の要素が重視されつつ、それが生徒の垂直的な序列を決める要素になりつつある状況(本書の言葉でいえばハイパー・メリトクラシー)に危惧を覚えるという点も同意します。
 
 ただし、本書の分析は一面的だと思います。詳しくは後述しますが、本書の分析において日本の教育に問題をもたらしている原因は、基本的に右派と経済界に求められています。近年の問題をもたらしている大きな流れは90年代半ばから強まっている「右傾化」です。
 しかし、例えば「態度」を重視してきたのは右派だけではなく、日教組に代表されるような「左派」も同じだったのではないでしょうか? 個人的には、本書は日本の児童・生徒に加わっている圧迫の1つの側面だけをとり上げているように思えます。

 目次は以下の通り。
第1章 日本社会の現状―「どんな人」たちが「どんな社会」を作り上げているか
第2章 言葉の磁場―日本の教育の特徴はどのように論じられてきたか
第3章 画一化と序列化の萌芽―明治維新から敗戦まで
第4章 「能力」による支配―戦後から一九八〇年代まで
第5章 ハイパー・メリトクラシーへの道―一九八〇~九〇年代
第6章 復活する教化―二〇〇〇年代以降
終章 出口を探す―水平的な多様性を求めて

 第1章では日本の教育の現状についての分析と、本書の分析の道具立てが紹介されています。
 「学力低下」が叫ばれていますが、OECDが行っているPISA(国債学習到達度調査)やPIAAC(国債成人力調査)における日本の成績は比較的優秀です。上位5%層と下位5%層の得点差も小さいですし、2015年のPISAで初めて実施された「協同問題解決能力」のテストでもシンガポールについで第2位であり、日本人は知識だけでなく課題解決のスキルにおいても高いと言えます。

 しかし、その能力(PIAACの読解力)の割には日本人の賃金は低く(5p図1−1)、1人あたりのGDPもそれに見合った水準になっていません(6p図1−2)。さらにジニ係数も高めです(7p図1−3)。ただし、ジニ係数と読解力の議論についてはやや疑問に感じました。
 こうした経済的な指標よりも現在の日本の教育の問題を端的に示しているのが、日本の若者の自己肯定感の低さでしょう。内閣府が2018年に米・英・独・仏・スウェーデン、韓・日の7カ国で行った調査で、「自分への満足感」「自分には長所があると感じるか」「うまくいくかわからないことにも積極的に取り組むか」「困っている人がいたら助けるか」「40歳になったときに幸せになっているか・人の役に立っているか」「将来の明るい希望をもっているか」との質問に対して日本の若者の肯定的な回答はいずれも最下位であり、「つまらない・やる気が出ない」「ゆううつだ」と感じた割合は最も多くなっています(17p)。
 日本の若者はさまざまなスキルをもっているはずなのに、自己肯定感や自信は著しく低いのです。

 こうした問題を生み出していると考えられるのが日本の教育の構造です。著者はこの日本の構造の教育の特質として、「垂直的序列化」と「水平的画一化」という2つの概念をあげています。
 垂直的序列化とは、わかりやすい例では偏差値による進路の振り分けですが、近年では学力だけでなく、「生きる力」や「人間力」といった学力以外の基準での序列化も進んでいると著者は見ています。
 水平的画一化とは、特定のふるまい方や考え方を押し付けるもので、古くは「教育勅語」による「国民」の形成、近年では「態度」や「資質」の重視がこれにあたります。そして、結果として水平的多様化は過小となっています。
 本書が解き明かそうとするのは、この垂直的序列化と水平的画一化がいかに進んできたのかということです。

 第2章では、まず「能力」という言葉がとり上げられています。「能力主義」という言葉は、多くの教育学者から批判すべき言葉と捉えれる一方、教育社会学者にとっては近代を記述するための中立的な言葉として、また政府や経営者にとっては望ましい社会や雇用管理を語る言葉として使われてきました(32p)
 しかし、著者は「能力主義」が「メリトクラシー」の訳語として定着したことに注意を促します。確かに、「メリトクラシー」という言葉を生み出したマイケル・ヤングは<IQ+努力=メリット>という定式化をしましたが、訳語としては「業績主義」という言葉もあります。
 ところが、日本で「能力主義」という言葉が使われるとき、そこに「業績」のニュアンスは薄いです。41p図2-1「メリトクラシー意識の国際比較」をみると、日本は給与を決める時に教育や研修を受けた年数が重視されるべきという考えが他国に比べて明らかに低く、日本の「メリトクラシー」においては、「業績」よりも個々人の「性能」のようなものが評価されていることがうかがえます。

 そのため日本では学歴は「能力」を反映していないといった議論もしばしばで、「「能力」は、誰かが勝ったあとでその誰かに周囲が与える称号のようなもの」(47p)です。そのため、「能力」は非常によく使われる言葉でありながら測定の難しい概念となっています。
 しかし、それでも「能力」「能力主義」という言葉はさかんに使われており、それが本来比較が難しいはずの子どもたちを序列化し、著者の言う「垂直的序列化」を助長してきたとしています。

 第3章では戦前にさかのぼって日本の教育が分析されています。
 戦前の学校体系は非常に複雑で(62p図3-1参照)、子どもたち全員が垂直的序列化に巻き込まれることはありませんでした。しかし、富裕層や士族階級においては「良い学校」をめざす動きもあり、これが大正〜昭和期に次第に広がっていきます。
 一方、「水平的画一化」に関しては、教育勅語という、まさに子どもをあるべき姿に教化していくためのものがありました。

 この章では、さらに戦前における「態度」「資質」という言葉の使われ方の変遷を追っています。
 「態度」に関しては、初期は教師の態度を論じる本が多かったのですが、しだいに「学習態度」など生徒の態度を論じる本が増えてきます。また、態度は当初、身体とその所作を意味していましたが、次第に心的なものも態度として捉えられるようになってきます。
 「資質」に関しても、当初は教師の資質を論じるものが多かったのですが、1940年代になると資質という言葉は「国民」に対して使われるようになってきます。
 「能力」という言葉についても、1920年ごろからそれを測定し、その測定結果を処遇に反映させるべきだという議論が強くなっています。

 第4章では戦後から1980年代までを扱っています。
 まず、「能力」に関して大きいのは、日本国憲法26条に「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する」と、「能力」という言葉が書き込まれたことです。
 この「能力」という言葉は、GHQの草案の段階ではなかったのですが、日本側の草案起草に携わった佐藤達夫がワイマール憲法を参考に書き加えたと見られています(92-94p)。そして、憲法に沿ってつくられた教育基本法にも「能力」という言葉が盛り込まれます。

 学校制度に関しても大きな改革が行われ、6・3・3・4の「単線型」の制度となりました。これは垂直的序列化を助長させるしくみとなります。
 特に日本では高校入試が1つのポイントになりました。当初、高校は小学区制と総合制が原則として、学区内の志望者をまるごと受け入れるしくみが構想されていましたが、定員的にその余裕はなく、入学にあたって選抜が行われることになります。
 さらに50〜60年代に高校への進学率が上昇すると、「高校全入運動」が起こり、予算的な制約もあって普通科が増設されていくことになります。しかし、それでも定員は追いつかず、選抜試験が行われることによって高校の序列化は進んでいくのです。
 
 50〜60年代なかばにかけては経済界から職業高校の増設が求められており、政府もそれに応えようとしましたが、教育学者や教員からは、それを「「能力」による子どもの選別」(108p)だとする批判が巻き起こります。
 経済界は「能力主義」という言葉で進路の振り分けを求め、教育学者などはそれを「選別」だとして批判しました。苅谷剛彦の言葉を借りれば、経済界が求める個々の職業に対応する「多元的能力主義」を、批判する側は一定の基準に従って子どもを選別する「一元的能力主義」と混同したとも言えます(110-111p)。
 学校を設置する側にとっても多元的なシステムというのは予算的に大変なものであり、例えば、生徒の激増した神奈川ではとにかく普通科によって需要を満たすことが優先され、1972年から89年にかけて普通科の生徒数は2.5倍に拡大する一方、職業学科は1割減少しました(115p)。
 そして、この普通科は、「入試偏差値」の普及や79年からの共通一次試験の導入とともに、垂直的に序列化されていくことになります。

 第5章では80〜90年代の動きが扱わています。
 受験競争などの加熱を受け、84年に設置された臨時教育審議会では「生涯学習」が掲げられ、そのための自己教育力や個性重視の原則が打ち出されました。そして90年の学習指導要領では、観点別評価項目の筆頭に「知識・技能」に代えて「関心・意欲・態度」が据えられることになります。

 80年代後半〜90年代にかけては、東京・埼玉の連続幼女誘拐殺人事件、オウム事件、神戸連続児童殺傷事件など、世間の注目を集める若者世代の起こした事件が頻発したこともあって、教育にその対処が求められます。96年の中央教育審議会の答申が打ち出した「生きる力」はまさにその処方箋です。
 80年代から重視されてきた自主性・自発性に、さらに他者との協調性や社会性、人間性のようなものがプラスされ、「生きる力」というものになっていったのです。
 96年の答申は同時に「ゆとり」の原則も打ち出しましたが、これは「学力低下」批判を招き、00年代前半には早くも後退を余儀なくされます。07年には「全国学力・学習状況調査」が始まり、再び「学力」をめぐる競争が活性化します。

 また、不景気による若者の就職難と、それに伴うフリーターの増加に対してキャリア教育が注目を集め始めます。一方、大学入試においては推薦入試・AO入試の比重が高まり、狭義の「学力」以外を測ろうとする試みもなされていきますが、これが多元性を評価するのではなく、コミュニケーション能力などの「人間力」とも言われるようなものを一元的に評価する「ハイパー・メリトクラシー」的な状況を生み出しているのではないかというのが著者の見立てです。
 
 第6章では「復活する教化」と題し、2000年以降の動きを主に「右傾化」と絡めながら論じています。
 95年の戦後50周年などを区切りに歴史認識問題が盛り上がりましたが、そうした中で右派的なグループによる教育への発言や行動が目立つようになりました。96年に設立された「新しい歴史教科書をつくる会」などはその代表でしょう。
 そして、そうしたグループと親和的と思われる第1次安倍政権のときに教育基本法が改正されます。話題になったのはいわゆる「愛国心」の取り扱いでしたが、著者はこの新教育基本法において、「資質」「態度」という言葉が数多く使われていることに注目します。
 この「資質」や「態度」の重視は世界的な趨勢だとする意見もありますが、著者は「「能力」の水準がどうであれ、まずはふるまいや心構えとしての「資質」≒「態度」において、政府の要請に従え、というメッセージが、新教育基本法の通奏低音なのである」(167p)と分析しています。
 2017年に告示された学習指導要領では、「学びを人生や社会に生かそうとする学びに向かう力・人間性等の涵養」という目標が打ち出されており、「資質」「態度」重視の流れが感じられます。

 同じく17年には教育勅語の教育現場での使用に関して、教育基本法や学校教育法の趣旨に反しない限り許されるという答弁書が出されるなど、著者は教育勅語に通じるような水平的画一化が進行していると見ており、最近話題になっている「ブラック校則」とも言われる事細かな校則に関してもこうした流れに位置づけています。
 こうした水平的画一化の動きとしては、他にも素手や素足によるトイレ清掃、「〇〇しぐさ」「〇〇スタンダード」などの子どもに同じ行動を求める活動などもあげられるといいます。こうした新しい「教化」とも言えるものを著者は「ハイパー教化」と呼んでいます。

 終章では本書の流れを概観した上で、本書が指摘した問題が子どもにどんな影響を与えているのか、そして出口について論じられています。
 210−215pにかけて都内の区部の公立中学校で行われた調査がとり上げられていますが(ただし、この調査は東大の「教育社会学調査実習」の履修生が実施したもの(236p))、ここでは「経済階層」と「校内成績」、「校内成績」と「クラス内影響力」、「クラス内影響力」と「道徳の授業の内容が好き」の間に正の相関が見られます(「経済階層」は家にある物品の数から、「校内成績」と「クラス内影響力」はいずれも自己申告)。
 「校内成績」と「自分の考えよりも先生や先輩の指示に従うべきだと思う」の間に負の相関が見られるなど、「従順な国民」が生み出されているわけでもないのですが、「クラス内影響力」と「女性は家事・育児、男性は仕事が普通」との間に正の相関があるなど、中学生が比較的保守的な価値観を身につけていることもうかがえます。
 
 こうした状況を変えるために、著者は、高校の学科の多様化、高校・大学の選抜方法の変更(「学力」から学科で求められる具体的な知識・スキル、志望の明確さに即した選抜)、企業でのジョブ型採用の拡大などを提言しています(217−219p)。
 これらは教育再生実行会議の提言と似ているようにも見えますが、現在の方針では選抜方法や企業の採用の部分に関する取り組みが不十分で、垂直的序列化を強化するだけになる恐れもあります。
 また、水平的画一化から水平的多様化へと変化していくために、学級や学年の流動化、修了要件を明確化した上で個別学習を重視する、校則や生活指導、部活動を最小限度のものにする、といった提言がなされています(231−232p)。
 
 このように本書は日本の教育における問題の根を探っていますが、基本的にその原因は「右派」や「経済界」に求められています。ラスト近くに置かれた「日本の教育、ひいては日本の社会を変えていくためには、戦前の「教化」の体制をよりハイパーな形で復活させようとしている、自民党政権およびその背後にある保守団体の姿勢を根底から変化させるか、あるいは彼らを権力の座から下ろすか、いずれかが必要であるということである」(233p)との一文は本書の結論とも言えます。

 しかし、やはりこれは一面的だと思います。例えば、「態度」の重視は「従順な国民の育成」といった考えだけではなく、「勉強が苦手でも進級させたい」という現場の教員や、「留年はかわいそう」といった世間の価値観が要請したものでもあるでしょう。組体操や「〇〇スタンダード」だって「教化」を望む政府が主導したものではなく、「良い学校」「良いクラス」を作りたいと考えた現場の教員が育ててきたものでしょう。
 そういった点で本書は日本の教育が抱える問題の分析としては優れているものの、原因に関しては半分だけ(実際は半分以下かもしれない)を指摘したものに思えました。

君塚直隆『エリザベス女王』(中公新書) 8点

 1952年に即位し、いまだにイギリスの王位に君臨するエリザベス2世の評伝。著者には『ヴィクトリア女王』(中公新書)、『ヨーロッパ近代史』(ちくま新書)などの著作があります。
 本書は、エリザベス2世の生涯(といってもまだこれからも続くのですが)を描きつつ、20世紀のイギリスの歴史、それに伴う英王室の変化、そして外交や政治おける立憲君主の役割がわかるような内容になっています。『ヴィクトリア女王』を読んだ人はわかるように、著者は評伝のうまい書き手で、エリザベス女王その人の性格や気質、個人を取り巻く政治情勢などがバランスよく記述されています。生きている人物の評伝なので利用できる史料も限られており、「決定版」というものではないでしょうが、非常に面白く読める内容に仕上がっていると思います。

 目次は以下の通り。
第1章 リリベットの世界大戦―王位継承への道
第2章 老大国の若き女王―25歳での即位
第3章 コモンウェルスの女王陛下―一九七〇~八〇年代
第4章 王室の危機を乗り越えて―ダイアナの死と在位50周年
第5章 連合王国の象徴として―21世紀の新しい王室

 エリザベス女王は1926年にジョージ6世の長女として生まれています。母のエリザベスはスコットランドの名門貴族の出身で、イギリスの王子がヨーロッパの王族以外と結婚するのは久々(263年ぶり)のことでした(9p)。この背景には第一次世界大戦によって各国の王室が次々と消え去ったこともあります。

 エリザベスは家族内では「リリベット」と呼ばれていました。リリベットは国王のジョージ5世からも気に入られていましたが、ジョージ5世はリリベットが9歳のときに亡くなります。ついで国王となったのはリリベットの伯父にあたるエドワード8世でしたが、ここからリリベットの運命は大きく変わっていきました。
 エドワード8世は、いわゆる「王冠をかけた恋」で、アメリカ人女性との結婚と引き換えに王位を捨て、弟のジョージ6世が即位することとなったのです。ジョージ6世の子はリリベットと妹のマーガレットであり、リリベットは王位継承者となったのです。

 ジョージ6世は映画『英国王のスピーチ』で描かれているように、第2次世界大戦という国難に立ち向かうことになりました。リリベットも1940年10月のBBCラジオ「子どもの時間」でラジオ出演し、42年には近衛歩兵第一連隊の連隊長、18歳になった44年4月には国事行為臨時代行のひとりにも任命されています。45年2月には婦人部隊の准尉となり、このときに大型自動車の整備や修理なども学びました。
 45年5月にドイツが降伏すると、ロンドンでは盛大に戦勝が祝われ、この日、リリベットと妹のマーガレットは特別に外出を許され、ロンドンの街を楽しんだといいます(未見ですが映画『ロイヤル・ナイト 英国王女の秘密の外出』で描かれているやつですね)。 

 1947年にリリベットは海軍大尉のフィリッピ・マウントバッテンと結婚します。フィリップのドイツの血が強すぎるなどの反対もありましたが、リリベットの意思が固かったこともあり、2人は結ばれ、翌年には長男のチャールズが誕生します。
 こうした中でもリリベットは公務をこなし、ジョージ6世の体調が悪化すると、51年にはカナダ、そしてアメリカを訪問し、トルーマン大統領と会見しています。
 さらに翌年にはイギリス領東アフリカ(現在のケニア)を訪れますが、ここでリリベットは父であるジョージ6世崩御の知らせを受けます。ここにリリベットは25歳でエリザベス2世として即位することになったのです。

 ここから女王としての生活が始まるわけですが、日本の天皇と比べると、いくつか違った点が見て取れます。
 まずは外遊の多さです。イギリスの女王は同時にコモンウェルスの女王であり、戴冠後、半年もたたずにバミューダ諸島→ジャマイカ→パナマ→フィジー→トンガ→ニュージーランド→オーストラリア→ココス諸島→セイロン(スリランカ)→アデン(イエメン)→ウガンダ→トブルク(リビア)→マルタ→ジブラルタルと回っています(68ー69pの地図参照)。
 エリザベス女王はこうした積極的な外遊によって、一見すると時代錯誤的にも見えるコモンウェルスをつなぎとめています。
 
 コモンウェルスの会議は以前はロンドンで開かれていましたが、1971年からコモンウェルス諸国首脳会議(CHOGM)は加盟各国で開かれるようになり、エリザベス女王はそれにできるだけ出席しようとしています。
 このCHOCM、アフリカ諸国なども含まれるため、後述するように以外に厄介なことも多く、ときの首相は後ろ向きだったりすることもあるのですが、本書を読むと女王はこの会議に一貫して積極的だったことがわかります。

 もう1つが政治に対する関わりです。天皇に対しても内奏があり、首相によってはかなり事細かに行っていたこともあるようですが、女王は議会会期中、毎週一度は首相と長時間に渡って会見しており、サッチャーの回顧録には「この拝謁が単なる形式的なものだとか、社交上の儀礼に限られていると想像する者がいたら、それは完全な間違い」(v p)と書くように、女王個人の意志が表に出ることはほぼないものの、政治に密接に関わっています。
 
 即位当時は政治はチャーチルにほぼ委ねられていましたが、即位の翌年にチャーチルは脳梗塞に倒れます。後継はイーデンが有力でしたが、当時に自身の手術のために渡米しており不在でした。当時の保守党には党首選がなく事態は流動化しましたが、女王は秘書官と保守党幹部に相談させ、ソールズベリ侯爵を暫定政権の首相代理に据えました(チャールズは奇跡的に回復し80歳になた翌年に引退)。
 
 この後、チャーチルの後継となったイーデンはスエズ危機の対応に失敗し、アメリカとの関係も悪化します。ここで関係改善に一役買ったのがエリザベス女王でした。女王は57年に訪米し大きな歓迎を受けています。
 1961年には政情不安のガーナを訪問していますが、この訪問はガーナを西側にとどまらせるための重要な役割を持つものでもありました。

 しかし、60年代後半になるとイギリスの力にはっきりとした陰りが見られるようになります。労働党出身のウィルソン首相は67年にECへの加盟交渉に乗り出しますが、フランスのド・ゴール大統領の反対で失敗。68年にはスエズ以東からのイギリス軍の撤退を打ち出します。「イギリスが「大英帝国」と完全に決別した瞬間」(96p)でした。女王は72年にシンガポール、マレーシア、ブルネイを訪問し、この決断に理解を求めています。
 また65年に西ドイツを訪問し、71年には昭和天皇の訪英、75年にはエリザベス女王の訪日が行われるなど、かつての敵国との和解の演出も行いました。

 70年代以降になると、コモンウェルスにこだわ女王とコモンウェルスよりもヨーロッパやアメリカとの関係を重視する首相との齟齬が見られるケースも出ていきます。
 EC加盟を目指したヒース首相は、71年にシンガポールで開催されたCHOGMへの女王の参加を引き止めました。コモンウェルスの各国は自国の輸出が打撃を受けることを懸念してイギリスのEC加盟に反対であり、各国が女王に不満を訴えることを阻止したかったからです。このときは女王が折れて、ヒースは72年にECへの加盟交渉に成功します。
 このEC加盟を目前に控えたクリスマス・メッセージで、女王は「われわれは古い友人を失うわけではないのです。イギリスはコモンウェルスとの絆をヨーロッパへと参入させるのです」(120p)と述べ、コモンウェルスへの配慮をにじませています。

 1981年、長男のチャールズがダイアナと結婚します。スペンサ伯爵の三女で家柄的にも申し分なく、出会ってから1年ほど(正確に言うとチャールズは幼い頃のダイアナに会っている)でのスピード婚でした。
 当時の首相はサッチャーでしたが、エリザベス女王とサッチャーの間にはCHOGMや当時問題となっていたローデシアの問題をめぐって温度差がありました。CHOGMに及び腰だったサッチャーに対して、女王は79年にザンビアのルサカで行われたCHOGMに出席し、各国の首脳と個別に会談する機会を設けてイギリスに対する敵対的な空気を一変させました。サッチャーはこの後、ローデシア問題に積極的に取り組んでいます。
 しかし、サッチャーは南アフリカのアパルトヘイトへの対応に関しては消極的で、一時はこの問題をめぐって女王との確執も報じられました。マンデラの釈放に関してもサッチャーよりも女王が積極的だったという話もあり、大統領になったマンデラにメリット勲章を送っています。外国人でメリット勲章を受けたのはマンデラ以前ではマザー・テレサだけでした。

 こうした女王の行動に対して、ザンビアの大統領カウンダは次のような言葉を残しています。

 女王はコモンウェルスをひとつにまとめる接合剤(セメント)である。この母親なくしては、様々な諸国からなる家族はもう何年も前に離散していたことだろう。この点を忘れてはならない。われわれは植民地の歴史という単なる偶然によって一緒になっているのではない。信念によってともにあるのだ。(163p)

 しかし、90年代になるとイギリス王室は試練にさらされます。92年には女王の長女のアンが離婚、次男のアンドリューが別居、さらに『ダイアナ妃の真実』でチャールズの不倫が暴露され、12月には別居するなど、スキャンダルが連続しました。
 エリザベス女王が即位した時、チャールズは3歳であり、他の子どもたちも含めて、子どもに対して十分な時間をとってやれなかったという背景もあるかもしれませんが、子どもたちの結婚生活は相次いで破綻していきました。
 
 そして97年にダイアナは事故死します。このとき首相のブレアは素早く追悼のコメントを出しましたが、女王は沈黙を続けました。女王としては孫にあたるウィリアムやハリーが巻き込まれないようにとの配慮もあったのかもしれませんが、この行動は国民の怒りに火をつけました。
 しばらくして女王はバッキンガム宮殿の献花の場を訪れ、ダイアナ死去に関するコメントも出しますが、王室への支持率は急落します。
 ここから英王室は改革を迫られることになります。慈善活動などの王族の活動を公開するとともに(ダイアナの慈善活動が目立っていたのに対し王室のものは目立っていなかった)、経費削減を行い、王室ヨット「ブリタニア号」を退役させました(この退役式典において女王は初めて人前で涙を見せた(184pの写真))。

 この90年代後半〜00年代前半はさまざまな意味で女王にとって多難な時期でした。オーストラリアでは99年に共和制への移行の是非を問う国民投票が行われ(結果は君主制を望んだ国民が54.7%で否決)、2002年には妹のマーガレットと母のエリザベスが亡くなります。
 しかし、ここから王室はさまざまな改革を行って国民の支持を取り戻していきます。慈善活動の記録の公開だけでなく、王室財政の透明化、さらに王位継承法を改正し、「男子優先の長子相続」と「カトリックとの婚姻禁止」の規定を変えました。王位は男女問わず長子優先となり、カトリックとの結婚もOKになりました(ただし、国王はイギリス国教会の首長でもあるのでカトリックは王位に就けない(216p))。
 さらに2010年にウィリアム王子がキャサリンとの婚約を発表したことで、王室人気は蘇ります。

 10年代に入っても、女王の活発な活動は続きました。11年にはイギリスの君主としてほぼ1世紀ぶりにアイルランドのダブリンを訪問し、アイルランド語で挨拶するなど、両国の不幸な過去の修復に務めました。
 12年のロンドン五輪では007役のダニエル・クレイグとパフォーマンスを行っています。14年にはスコットランドの独立を求める住民投票が行われ否決されましたが、スコットランドの独立派も、独立しても君主として女王にとどまってほしいと考えていました。
 2016年にBrexitが決まると、政府の要請により王族総出でのヨーロッパ各国への親善訪問が行われました。こうした王族の親善訪問の意義を著者は次のように解説しています。

 フランス大統領やドイツ首相といった多忙を極める要人は、普通の高官や外交官では簡単に会ってくれない。そのようなときに女王の子や孫たちが訪れるともなれば、彼らに会わないわけにはいかない。こうした王族の訪問に随行するかたちで、政府高官や外交官らが各国を廻り、相手国の政府高官や外交官らと現実の交渉を進める。(258p)

 このようにエリザベス女王と英王室は重要な「ソフトパワー」を担っています。2017年に夫のエディンバラ公が引退するなどの変化もありますが、女王は今なお君主としての職責を果たしているのです。

 まだエリザベス女王の治世に何が起こるのかはわかりませんが、とりあえずこの本を読めば今現在までの女王の歩みとその前後のイギリスの変化がわかると思います。かつてチャーチルは、イギリス外交の「3つの輪」として「イギリス帝国と英連邦」「英語圏(アメリカ)」「統合ヨーロッパ」の3つをあげましたが、特にこの中の「イギリス帝国と英連邦」において、エリザベス女王が非常に大きな役割を果たしたことがわかると思います。
 ここでは書きませんでしたが、女王以外の王族に関する記述も充実しており、読み物としても面白く読めるでしょう。著者ならではの優れた評伝です。


川田稔『木戸幸一』(文春新書) 6点

 太平洋戦争の開戦時と終戦時に内大臣として昭和天皇を輔弼し、昭和天皇の意思決定に大きな影響力をもったとされる木戸幸一。本書は『昭和陸軍全史123』(講談社現代新書)、『昭和陸軍の軌跡』(中公新書)などの、主に陸軍を中心に近現代史を研究している著者による木戸幸一の評伝になります。
 ただし、帯で「初の本格的評伝」と銘打っているものの、「評伝」としてはやや物足りない面もあるかもしれません。生まれて3ページで内大臣秘書官長(41歳)になっており、それまで木戸という人間がどのように形成されていたのかという点は完全に省かれています。評伝というと、一般的に「その人が何をしたのか?」「その人がどのような人物であったのか?」ということが書かれていますが、本書では後者の部分は弱いです(戦後の木戸についてはほとんど触れられていない)。
 一方、充実しているのは日米開戦に至る経過の記述です。今までの著者の研究の蓄積もあって木戸をはじめとする政府の中枢が「開戦やむなし」と至るまでの過程が詳述されています。
 そのため本書は「本格的評伝」というよりは「木戸を中心とした開戦史」という性格になっています(「木戸を中心」という部分もやや怪しくはあるのですが)。

 目次は以下の通り。
第1章 満州事変と二・二六事件
第2章 近衛内閣入閣と日中戦争
第3章 「宮中の要」内大臣に就任
第4章 三国同盟を容認
第5章 日米諒解案をめぐって
第6章 独ソ開戦という誤算
第7章 日米首脳会談案の挫折
第8章 なぜ東条を選んだのか
第9章 木戸内大臣の“戦争”
第10章 「聖断」の演出者として

 木戸幸一は木戸孝允の甥の木戸孝正の長男として生まれ、木戸公爵家を継ぎました。木戸は学習院の初等科、中等科、高等科から京大に進んでいます。学習院時代に近衛文麿、原田熊雄と知り合い、この関係はのちの政治にも大きな影響を与えました。
 木戸は大学卒業後、農商務省に入り、1930年に内大臣秘書官長に引っ張られます。当時の内大臣は牧野伸顕でしたが、木戸を推薦したのは近衛です。

 満洲事変時の対応などをみると、木戸は宮中から内閣へのバックアップには消極的であり、また、陸軍の一夕会につながる鈴木貞一や井上三郎(鈴木は一夕会のメンバー)と頻繁に連絡をとっておりいました。木戸は、軍部による政党政治の否定は認めないとしつつも、その軍部を穏当な方向に導かねばならない「軍部善導論」(23p)をとっていました。
 これは日本は海外進出せねば窒息するだけで、膨張的な政策は必要不可欠だが、それを軍部だけにやらせるのは危険で、政治家が「先手」を取らなければならないという近衛の「先手論」(29p)と同じようなものだったと考えられます。

 五・一五事件の後も、小畑敏四郎、鈴木貞一、永田鉄山といった陸軍の一夕会のメンバーから近衛、木戸、原田らに政党内閣は不可だということが伝えられ、それが西園寺公望へと伝えられたと見られます。
 二・二六事件においては、内大臣の斎藤実が殺され、侍従長の鈴木貫太郎が重傷を負ったために、木戸は湯浅倉平宮内大臣らとともに事態の収拾にあたり、内閣の辞職は不可という方針を打ち出して、暫定内閣の道を封じました。この対応に関しては、前年に暗殺された永田鉄山のアドバイスがあったといいます(47-48p)。

 1936年に木戸は内大臣秘書官長を辞任、以前から兼務していた宗秩寮総裁専任となり、1937年10月に首相となった近衛から文部大臣就任を打診されるとこれを受け、入閣しています。
 当時、日中戦争の和平工作であるトラウトマン工作が参謀本部の後押しで進んでいましたが、木戸は近衛とともに日本から講和を提議するのは「まるで敗戦国のような態度」(63p)であり、日本の国際的な立場が低下するとしてこれに反対でした。1938年1月に近衛は第一次近衛声明を出して交渉を打ち切ります。なお、木戸は新設された厚生省の大臣も兼任しました。

 このころ、木戸は原田に対し昭和天皇に関して「どうも今の陛下は科学者としての素質が多すぎるので、右翼の思想なんかについての同情がない。そうしていかにもオルソドックスで困る」(69p)ともらしています。近衛も「どうも陛下は少し潔癖すぎる。もう少し清濁あわせ呑むようなところがおありになってほしい」(69p)と述べており、2人が昭和天皇に不満をもっていたことがうかがえます。
 しかし、日中戦争の収拾に行き詰まり、39年に近衛内閣は総辞職します。後任は平沼騏一郎となりますが、平沼に関しては西園寺や湯浅が難色を示す中、近衛と木戸が推しました。このあたりからも木戸のスタンスが随分と「右翼寄り」だったことがわかります。平沼内閣で懸案となった日独伊三国同盟についても木戸は推進派でした。
 
 しかし、独ソ不可侵条約によって三国同盟は頓挫し、世界は第二次世界大戦へと突入します。この頃木戸は「計画なき政治家が計画を有する軍人に引き摺られるのは当然の話しなり。〜日本が生き延びていく以上、英国の勢力を駆逐せざるべからざること明白なり。また蘇連も一度は討たざるべからざること確かなり」(80-81p)との発言残しており、欧州大戦を1つの機会と見ていたことは確かでしょう。
 そうした中で、1940年の6月に木戸は内大臣に就任しますが、これは近衛や有馬頼寧らの新党運動と連携したもので、近衛は木戸に宮中からのバックアップを期待していました。なお、西園寺は木戸の内大臣就任に関して明確に奉答しておらず、著者は西園寺が木戸の内大臣就任について危惧したいたと見ています。

 原田が「今度の[木戸]内大臣になってから、かねて陸軍は非常に喜んで、[蓮沼蕃]侍従武官長の如きも、ほとんど毎日、内大臣の所に詰切りというような状態だ」(98p)と述べているように、木戸の内大臣就任は陸軍から歓迎されました。陸軍が自分たちの考えを遂行していくためには内閣の協力とともに天皇の裁可が必要であり、そのために天皇を常侍輔弼する内大臣の木戸に期待がかけられたのです。
 このような中で第2次近衛内閣が成立しますが、このとき木戸は後継首相の選定の方法に関しても内大臣を軸としたしくみを提案して了承されており、以降、木戸が次の首相を決めるキーパーソンとなります。ちなみにこのときに内大臣が相談する重臣が「前官礼遇」から首相経験者に広げられましたが、これは首相経験者でありながら「前官礼遇」を受けていない、林銑十郎や阿部信行といった陸軍出身者を含めるためだと、のちに木戸は述べています(116p)。
 
 三国同盟に関して、木戸は昭和天皇に対して「独伊と軍事同盟を結ぶこととなれば、結局は英米と対抗することとなるは明らかなり。故に一日も早く支那と国交調整の要あり」(129p)と述べています。
 戦後の回想では、木戸は三国同盟に反対であったと述べていますが、原田は日米戦争を回避するためには三国同盟が必要という近衛や松岡洋右の意見を木戸も容認していたと見ていました(130ー131p)。木戸は三国同盟の件を西園寺に伝えておらず、少なくとも三国同盟を潰すために積極的に行動していなかったのは確かです。

 しかし、この三国同盟と北部仏印への進駐は対米関係を大きく悪化させました。この難局に対して、松岡は日独伊ソの四国同盟によってアメリカを牽制するため、日ソ中立条約の締結へと動きますが、同時にドイツからは独ソ戦の可能性を示唆する情報も伝わってきていました。
 松岡、あるいは陸軍の武藤章などは、そうは言っても合理的に考えれば独ソ戦はないと判断していましたが(アメリカもこのように考えていた(167p))、6月には独ソ戦が始まります。
 一方、4月にはアメリカから「日米諒解案」が届きます。これは日本に対して融和的なもので、近衛や木戸はこれを歓迎しました。これによってドイツと一時的に不和になることはあっても、長期的にドイツとアメリカ双方と友好関係を築くことは可能だと両者は見ていたのです。
 しかし、これによってアメリカの対独参戦が実現してしまうと見た松岡は強硬に反対します。6月になると今度はアメリカ側の態度が硬化します。これは独ソ戦によってイギリスの危機が遠のき、日本に対して融和的な政策をとる必要がなくなったからだと考えられます。

 独ソ戦勃発後、松岡は対ソ戦を主張します。これに困った近衛は松岡の更迭を考え、総辞職→近衛再登板というシナリオを木戸らとともに描き、41年の7月に第3次近衛内閣が成立します。
 この頃、近衛は三国同盟の破棄を考えていたようですが、木戸はドイツの力を信じており、三国同盟破棄によって日本が国際的に孤立することを恐れていました(200p)。7月の時点では、木戸はアメリカとの交渉は妥結可能だと考えており、南部仏印進駐に関してもそれほど警戒心をもっていなかったとみられます。
 しかし、南部仏印はアメリカの強硬な反発を引き起こします。アメリカが事実上の対日石油禁輸措置をとったことによって日本は一気に追い詰められたのです(実はルーズベルトもハルも対日石油禁輸措置に賛成ではなかったということも本書では説明されている(209ー210p))。資産凍結を含む一連の強硬な措置は日本を対ソ開戦に向かわせない措置でもありました(石油がなければ日本は北をあきらめて南に向かわざるを得ない)。
 
 アメリカの対日石油禁輸措置は、近衛や木戸の構想を破綻させました。木戸は場合によっては総辞職して陸海軍に任せるしかないとも考えるようになります。
 一方、近衛はルーズベルトとの首脳会談によって事態を打開しようとします。近衛の作戦は、ある程度フリーハンドの状態でルーズベルトと会談し、合意がなされれば陸海軍の頭越しに直接天皇から裁可を求め、天皇の力によって軍を従わせようとするものでした。もちろん、これには内大臣の木戸の協力が必要で、木戸もそれに賛同していました。
 しかし、アメリカ側は予備会談である程度の合意ができなければ首脳会談には応じられないとの態度を取り、近衛の作戦は水泡に帰します。結局、41年の9月6日の御前会議で「対米英蘭戦争を辞さず」とする「帝国国策遂行要領」が決まります。このとき、昭和天皇は「四方の海みな同胞と思う世になど波風の立ち騒ぐらん」という明治天皇の御製を読み上げ、外交交渉への協力を求めましたが、これは近衛が発案し、木戸が天皇にアドバイスしたものです。
 この天皇の発言に対して、武藤は外交交渉への努力を続けますが、参謀本部の作戦部長の田中新一はもはや対米開戦しかないと考えていました。また、天皇に忠実だったと考えられる陸相の東条英機も天皇が日本に不利な交渉をしようとするなら「どこまでも陛下をお諌め申し上げなくてはならない」(244p)と考えていました。

 41年10月、中国における駐兵問題で登場と折り合えなかった近衛は万策尽きて辞職します。後継には皇族の東久邇宮の名前もあがりましたが、木戸は事前に陸海軍で戦争回避で一致しない限り、東久邇宮の組閣は難しいと考えていました。皇室に責任が及ぶことを危惧しての判断です。
 ここで木戸が推したのが東条でした。木戸のプランは、9月6日の御前会議の決定を白紙に戻すために、海軍に「対米開戦はできない」と言わせ、それをもとにして東条をして陸軍の主戦派を抑え込むというものでした(戦後、木戸は「開戦は避けられなかった」と述べているが、著者は直前まで開戦回避の道を探っていたと見ている(271ー274p)。

 しかし、新しく海相となった嶋田繁太郎が「開戦やむなし」との判断を示したことから木戸の構想は挫折します。この嶋田の方針転換の裏には前軍令部総長の伏見宮からの働きかけがあったとも言われますが、真相はよくわかっていないそうです。
 そして、11月下旬にハル・ノートが示されたことにより開戦は決定的になります。木戸も回想で「誰もがしかたがないっていうことになったんですよね」(288p)と述べています。

 開戦以降、基本的に木戸は東条を支えました。大東亜省設置問題では強硬に反対した東郷外相を単独で辞職させるための調整を行っています。木戸は1943年にムッソリーニが失脚したあたりからソ連を仲介とした和平を考え始めますが、東条は決戦後講和の方針に固執しつづけました。
 この頃になると、重臣の間からは木戸に対する不満も漏れはじめ、近衛は「木戸内府は全く政府の欠点につて知りながら申し上げないのだから、陛下には真相をお伝えすることが全くできない」(308p)と述べています。
 しかし、44年4月になると木戸の東条に対する態度も変わり始め、6月には近衛は「木戸侯は自分も顔負けするほど反東条になっておった」(312p)との言葉を残しています。7月には東條内閣の改造を重臣と協力して阻み、東条を退陣させます。この裏には東条では講和はできないとの判断があったと思われます。

 東条退陣後も、昭和天皇の全面的武装解除と責任者の処罰を認めたくないという意向もあって、なかなか決断はなされませんでしたが、昭和天皇も45年の6月頃には戦争終結へと大きく傾きます。
 結局は原爆投下とソ連の参戦まで決断はなされなかったわけですが、8月9日の御前会議では木戸は鈴木貫太郎首相と根回しを行った上で「聖断」を仰ぎます。さらにバーンズ回答を受けての14日の御前会議で再び「聖断」が行われ、日本はポツダム宣言を受諾するのです。

 敗戦後、木戸は敗戦後の天皇にさまざまなアドバイスをし、東京裁判で終身刑の判決を受け、1955年に釈放され、1977年まで生きるわけですが、本書では敗戦以降の木戸の動向についてはほぼ触れられていません。

 本書に関してはやや評価の難しいところがあって、木戸を中心した「開戦史」としては面白いと思います。特に『昭和陸軍史』などの著者の今までの著作を読んだことのない人には楽しめるでしょう(逆に言うと『昭和陸軍史』を読んでいるとそれほど目新しい部分はない)。
 一方、「評伝」として読むと、詳しい生い立ちや晩年の記述がないなどのいくつかの欠落があります。特に木戸がどんな性格であったのかがよくわからないというのは本書の欠点かと思います。本書を読むと、木戸と近衛の構想は似通っているわけですが、昭和天皇は近衛よりも木戸を評価しており、そのあたりは2人の性格に起因する部分も多かったと思います。そのあたりの記述がもう少し欲しかったように思えます。


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