につづく巻で、時代的には前2巻と重なる部分があるのですが、こちらは北方の草原地帯から元の滅亡までの歴史をたどっています(シリーズ構成を示した図は『中華の成立』か『江南の発展』のレビューを御覧ください)。
時代的には拓跋の建国した北魏から始まっており、契丹や金に関する記述が手厚くなっています。この部分、特に澶淵(せんえん)の盟を中心に書かれている第3章は非常に面白いです。一方、モンゴルを描いた部分は期待よりも少し弱い感じもしました。
目次は以下の通り。
序章 ユーラシア東方史と遊牧王朝第1章 拓跋とテュルク第2章 契丹と沙陀第3章 澶淵の盟と多国体制第4章 金(女真)の覇権第5章 大モンゴルと中国
中国では北に行くに従って降水量が少なくなり、南部は稲作、北部は小麦が中心となっています。そして、さらに北に行くと農耕と遊牧の境界地帯があり、さらに北に行くと遊牧地域となります(12p図2参照)。ポイントになるのは、農耕と遊牧の境界地帯に北京や成都が含まれ、長安のすぐ北部もこの境界地帯ということです。
著者は、秦や漢といった古代の帝国が華北西部に成立したことに注意を向け、この農耕と遊牧の境界地帯に近い地域が馬の生産を導入しやすい位置にあったことを指摘しています。
漢の時代に北方の高原で勢力を拡大したのが匈奴になります。冒頓単于はモンゴル高原を統一し、劉邦を破りました。匈奴は十・百・千・万を単位とする軍事組織をつくり、これはのちの遊牧民族の軍事組織にも受け継がれていきます。
北方の遊牧民が華北に王朝を建てたのが五胡十六国時代です。この中で本書が本格的に取り上げるのは華北を統一した北魏からになります。
北魏は鮮卑拓跋部のつくった王朝ですが、遊牧部族集団を中心に漢族の農耕民を包摂することにより安定した支配体制をつくり上げました。北魏の皇帝はカガン(可汗)の称号を名乗り、都にとどまらず、夏には行幸し狩りを行うなど、遊牧民の慣習を維持しました。
しかし、孝文帝が洛陽に遷都し国の重心が南に移ると、北の守りについていた六鎮と呼ばれる軍団が反乱を起こし、華北は混乱に陥ります。そして、この六鎮の流れの中から、隋を興す楊氏、唐を興す李氏が現れることになるのです。
華北が混乱する中で中央ユーラシアでは突厥が台頭します。突厥はテュルク系遊牧民で、華北の王たちは東突厥に臣従することで、戦いに勝ち抜こうとしました。唐も当初は東突厥に臣従していましたが、太宗は東突厥の混乱をついてこれを滅亡させます。
この結果、唐は華北と南モンゴルを統合し、さらに西域へと勢力を広め西突厥も打倒します。唐の勢力圏は天山山脈の北側にまで達しました。こうして遠征を支えたのはテュルク系遊牧民の騎馬軍団でした。
その唐が大きな危機に陥ったのが8世紀後半の安史の乱です。この反乱を起こした安禄山がソグド人(イラン系種族)であることは知られていることかもしれませんが、安禄山が節度使として任じられていたのは范陽という中国の東北部です。安禄山は突厥から唐へと亡命した人物で、幽州(北京)の節度使のもとで軍人として頭角を現し、自らも節度使に成り上がった人物でした。
唐の辺境には羈縻州が置かれていましたが、安禄山は幽州周辺の羈縻州の指導者層と通婚関係や疑似父子関係を結び、さらに突厥からの亡命者などを受け入れ、自らの軍団を強化しました。さらにソグド商人の元締めのような存在となり巨利を得ました。
反乱を起こすと一気に洛陽を陥れた安禄山でしたが、子の安慶緒に殺害され、反乱軍自体は史思明に率いられ幽州へと退却します。このときに唐が頼ったのがモンゴル高原の新興遊牧王朝だったウイグルです(ウイグルと聞くと中国西部のイメージがありますが52p図8からもわかるように当時の根拠地は中国の北)。さらに西部の節度使の力を借りて、唐は安史の乱の平定に成功します。「こうして見ると、安史の乱とは、唐の北辺を守る節度使というきわめて似通った軍事集団が、東と西で敵・見方に分かれてたたき合った戦いだったとみなすことができる」(53p)のです。
安史の乱を機に唐の領土は縮小し、草原地帯や西域では、ウイグル、そしてチベット(吐蕃)が勢力を伸ばし、三国鼎立といった状況になります。822年に唐はチベットと対等な形で会盟を結び、その後、チベットとウイグルの間でも盟約が結ばれました。
しかし、840年代にウイグルとチベットは相次いで崩壊し、草原世界は再び混沌としていきます。
このような唐の衰えを受けて、第2章では契丹と沙陀がとり上げられています。
契丹は突厥に服属していましたが、9世紀後半に耶律阿保機が登場すると強大な国家に成長します。阿保機は907年にカガンに即位し、916年には「大聖大明天皇帝」を名乗り、国号を「大契丹」としました。925年には渤海を滅ぼしますが、翌年に阿保機は亡くなってしまいます。
しかし、阿保機の正妻の応天皇后月理朶(げつりだ)が非常に有能だったこともあって、契丹は阿保機の死によっても瓦解せずに、さらに拡大します。契丹は諸部族からオルドと呼ばれる親衛軍団をつくり皇帝が強大な軍事力を掌握できる制度をつくり、王朝の中心部に定住農民を移住させ、城郭都市を数多く建設しました。契丹は漢人のブレインも上手く登用しながら、遊牧王朝と中原王朝の文化や制度をうまく融合させて安定した支配を実現したのです。
一方、華北西部に勢力を伸ばしていったのが沙陀です。沙陀はテュルク系の遊牧集団で、朱邪赤心が唐から国姓を賜って李国昌を名乗ると、その子の李克用は黄巣の乱の討伐に活躍します。その後、同じく黄巣の乱の平定で活躍した朱全忠と対立し、最終的に朱全忠が唐を滅ぼし、李克用は劣勢となり亡くなりますが、その子の李存勗は朱全忠の軍を破り、後梁を建国します。この後、後唐、後晋・後漢と沙陀系の王朝が続き、さらにその後の後周、北宋も沙陀連合体に属した漢人武人の建国した王朝となります。
李存勗は軍事的才能には優れていましたが、無秩序な側近政治を多なったこともあって後梁は短期間で崩壊、李嗣源により後唐が建国されますが、今度は李嗣源の女婿の石敬瑭が契丹に援軍を求め、後唐を滅ぼして後晋を建国します。
この見返りとして後晋は燕雲十六州を契丹に割譲し、後晋が毎年30万匹の絹を送るとともに、石敬瑭が契丹の皇帝・堯骨と年少の堯骨を父とする父子の関係を結び、互いを皇帝と認めました。
石敬瑭の死後、後晋がこの関係を精算しようとすると、堯骨は後晋を滅ぼして国号を「大遼」としますが、中原の人々の反発にあって撤退します。その空白地帯に後漢・後周が建国されます。後漢の一部は北漢をつくって契丹の援助を受けながら後周に対抗しますが、後周の柴栄がこれを打ち破り、中国統一へと動きますが、そのさなかに亡くなり、後周の有力な武人であった趙匡胤が北宋を建国するのです。当時は契丹の内部が混乱していたこともあり、趙匡胤とその後継者の趙光義は中国統一事業をすすめることができました。
趙光義(太宗)は中国南部を制定すると、北漢を滅ぼし、さらに契丹へと兵を進めます。しかし、太宗の2度に渡る契丹への遠征は失敗し、北方の統一は未完のまま終わりました。
北宋は一転して防衛策をとるようになりますが、1004年に契丹の大軍が北宋に侵入し、北宋は危機に陥ります。このときに取り決められたのが「澶淵の盟」になります。この盟約は、北宋が契丹に毎年絹20万匹、銀10万両を支払うという取り決めがあることから、敗戦後の講和条約のようにも見えますが、本書を読むと両国の軍事衝突を回避するためのかなり細かい取り決めがあることがわかり、平和維持のための条約だったことが見えてきます。
このときに定められた疑似親族関係も、年長の北宋の真宗を兄、年少の契丹の聖宗を弟とするものでしたが、この兄弟関係は可変的であり、両国がまさに対等な関係だったことがわかります(111pの表参照)。そして、この盟約は100年を超える平和共存体制をもたらしました。
絹や銀の支払いに関しても、当時経済成長が著しかった北宋では大きな重荷にはならず、両国の貿易を発展させる役割も果たしたといいます。
10世紀末から11世紀にかけて、西ではもとはチベット系の遊牧民(羌)であるタングトが勢力を伸ばし、西夏を建国します。夏州を根拠地としたタングトは契丹の庇護を受けながら北宋と攻撃を繰り返し、徐々に勢力を拡大させていきます。北宋と契丹の間に澶淵の盟が結ばれると、タングトも融和路線に舵を切り、1006年に和平が成立します。
しかし、1040年になるとタングトは北宋に対して攻撃を開始し、北宋は危機に陥ります。ここで両国の間に介入したのが契丹です。契丹は北宋に圧力をかけて自らに対する歳弊を絹10万匹、銀10万両増額させると、西夏に講和を勧める使者を送ります。結局、北宋は毎年銀7万2千両、絹15万3千匹、茶3万斤の巨額の歳賜を西夏に送ることになり、形式的には西夏が臣従するかたちになったものの、西夏が皇帝を名乗ることを黙認しており、実質的には西夏を独立王朝として承認するものでした。
こうした平和共存体制は12世紀になると終わりを迎えます。契丹の東北の辺境で女真と呼ばれる集団が台頭したからです。女真はツングース系の諸部族の集団で、契丹の支配下で平時は農牧業に従事し、戦時には軍事力の一翼を担っていました。
この女真から阿骨打(アクダ)が現れ、契丹に対して挙兵します。1115年契丹の軍を破った阿骨打は皇帝に即位し、国号を「大金」と定めます。さらに契丹の軍を破った阿骨打は版図を拡大します。1123年に阿骨打が亡くなるものの、金の勢いは止まらず、契丹は滅亡することになります。
この金の台頭をチャンスと見たのが北宋でした。北宋は金と契丹挟撃を協議しますが、北宋側の事情で出兵は遅れ、1122年、契丹の敗亡がほぼ明らかになった時点でようやく兵を進めます。しかし、契丹の反撃を受けて退却し、北宋が目的としていた燕京の攻略は結局金によってなされました。
金は当初の約束通り、燕雲十六州の一部を北宋に引き渡し、北宋との間に澶淵の盟と同じような盟約を結びますが、北宋はこれを守りませんでした。金は北宋に侵攻し、最終的には上皇徽宗、皇帝欽宗らを連れ去り、北宋はここに滅亡します(靖康の変)。
その後、徽宗の子の高宗が江南によって宋を復活させ南宋が生まれます。その後、金と南宋の間には一度は和議が成立しますが、1140年になると金は再び南宋と戦端を開きます。しかし、南宋軍が善戦したことで再び和議が成立し、南宋が金に毎年銀25万両、絹25万匹を送ることなどが取り決められました。澶淵の盟に似た取り決めですが、金が上で南宋は下という上下関係がありました。
金ではこの後、中原王朝の制度の導入が進みました。上京(じょうけい)と呼ばれる都城を建設し(現在の黒龍江省ハルビン市)、さらに1149年に帝位についた海陵王は科挙の殿試を実施し、都を燕京に移すなど、さらなる中原王朝化を進めますが、強引なやり方は反発を呼び暗殺されました。
その後、金では中原王朝化に対する揺り戻しが起き、女真文化の復興などが進められましたが、北方の遊牧民族の侵入に苦しめられることになります。一方、南宋は好機が来たと金に攻め込みますが大敗し、1207年に南宋が銀30万両、絹30万匹を送ることを取り決めた和議が結ばれました。
しかし、この平和は前年にチンギス=カンによって建国されたイェケ=モンゴル=ウルス(大モンゴル国)によって打ち破られることになります。
チンギス=カンは指揮下に入った遊牧民を95の千戸集団に再編し、それを中央ウルス、右翼ウルス、左翼ウルスに分け、自身や子ども、同母弟に指揮させました。さらに君主の側近としてケシクテンと呼ばれる親衛隊がつくられました。チンギスの元へは西ウイグルなども来降し、モンゴル語の表記にウイグル文字が使われることとなります。
チンギスは1211年には金に侵入して、金が毎年銀や絹を貢納することなどを条件に和議を結び、1215年には和議を破った金に再び侵攻し、中都(燕京)を陥落させました。さらにチンギスは西のカラ=キタイを滅びし、ホラズム=シャー朝も滅ぼします。西夏攻略の最中にチンギスはなくなりますが、モンゴルは西夏も滅ぼし、中央ユーラシアを制圧するのです。
チンギスの跡を継いだオゴデイは1234年に金を滅亡させ、華北の支配を始めます。モンゴルは農耕地帯に財務機関を設置し、ウイグルやムスリムの商人などを財務官僚に登用して徴税制度を整備させました。華北では包銀という銀立ての税が徴収されるようになります。
1236年にはバトゥが西方遠征に、クチュが南宋遠征に派遣されますが、ロシア・東欧まで兵を進めたバトゥに対してクチュの軍は目立った成果を挙げられませんでした。
その後、オゴデイの死とともにモンゴルでは内紛が続きますが、1251年にモンケが即位すると、次弟のクビライが南宋へ、三弟のフレグがイランに派遣されます。難航した南宋攻略のためにモンケが自ら遠征をしますが、四川でモンケは疫病に倒れ、その後、クビライが争いを制して即位します。
クビライは現在の北京に大都を建設し、中書省の下に六部を設けるなど、中国風の官僚機構も整備しましたが、基本的には遊牧民流の側近政治が行われました。また、文書行政が発達し、中国ではモンゴル語を直訳したような独特の文体が皇帝の命令書に使われました。1271年、クビライは国号を「大元」としています。
クビライは南宋攻略のために襄陽を包囲し、西アジアからもたらされた最新式の投石機なども用いて5年をかけてこれを陥落させました。これをきっかけに南宋は一気に崩壊し、1279年に南宋は滅亡します。モンゴルは南宋の支配地では南宋流の支配を行い、両税法が踏襲されました。
モンゴルは中国を南北に結ぶ運河を改修し、さらに海上交易も活発化しました。日本に対しては2度の侵攻とその失敗が知られていますが、この時期、民間の貿易は活発であり、日本から寺社造営料唐船もさかんに派遣されています。
元は銀の代わりとなる「中統元宝交鈔」という紙幣をつくり、塩税や商税など商業流通に対する課税を柱とするなど、商業活動を活発化させ、そこから富を得ました。
クビライの死後、モンゴルは多元化していきますがゆるやかなまとまりは維持され、東西の文化の交流が行われました。中国では儒教が保護されましたが、その中で朱子学にもとづく儒学教育が広まることとなります。
しかし、14世紀になると元では内紛が続き、また14世紀前半の北半球での寒冷化の影響もあって元の支配は急速に揺らぐことになるのです。
本書では以上のような内容以外にも宗教に関する記述に紙幅が取られており、日本を含めた仏教の動きなどもわかるようになっています。
最初にも書いたように、契丹や金、そして宋との関係を中心に書かれた第2〜第4章は非常に面白いです。澶淵の盟の意義などがわかりましたし、アジアの外交にも大きなスケールと面白さがあったことがわかります。
一方、やや弱く感じたのがモンゴルについて。特にモンゴルの支配は中国社会にどのような変化を与えたのかということに関してはもう少し詳しく知りたいとも思いした(ひょっとすると第4巻でとり上げられているのかもしれませんが)。