帯には「300年 4000キロの物語」の文字。「300年」に関しては、かつお節の歴史が300年ほどだと聞けば、「まあ、そんなものか」と思う人も多いでしょうが、「4000キロ」という数字にはピンと来ない人が多いと思います。
 実は日本のかつお節生産は、明治以降、鹿児島や静岡といった知られた産地から沖縄、そしてインドネシアやトラック諸島に広がり、まさにグローバルな食材となっていたのです。
 この本はそんな隠れたグローバル食材とも言えるかつお節をめぐる歴史と人々の姿を追った本。「あとがき」に書いてあるように、著者たちの研究会は『バナナと日本人』を書いた鶴見良行の薫陶を受けたメンバーで、この本も同じ岩波新書の『バナナと日本人』や『エビと日本人』の系譜を受け継ぐものになります。

 かつお節は和食の食材としては珍しくその生産量が増え続けている商品で、1960年に6348トンだった生産量は2011年には3万5775トンにまで増えています(7p)。
 今現在は当たり前のように使われているかつお節ですが、江戸時代から明治にかけては完全なぜいたく品で、「庶民の味」ではありませんでした。
 それが高知から技術を学んだ焼津、鹿児島の枕崎の台頭、漁船の動力化などによってその生産量を増やしていきます。

 そして戦前のかつお節産業を支えたのが沖縄です。
 1901年に座間味島でかつお節生産が始まると、カツオ漁とともに沖縄でのかつお節生産がさかんになっていきます。当初は「下等品」と見られていた沖縄のかつお節ですが、沖縄県が技術者を招聘するなどしてその品質は徐々に向上。大正年間には日本有数のかつお節の産地となります。

 この沖縄の「かつお節景気」は、昭和恐慌とともに終わりを告げるのですが、沖縄の漁民たちは新たなかつお節の生産地を求めて南洋へと進出していくことになります。
 カツオの一本釣りには餌となる魚が必要ですが、その餌は網でとります。本土の漁師たちが分業制をとっていて南洋での餌の確保が難しかったのに対して、沖縄の漁師たちは一本釣りも網漁も両方できるうってつけの人材だったのです。
 1942年に南洋で水産業に従事していたのは1万1082人、うち85%にあたる9435人が沖縄県民だったそうです(75p)。

 このように書くと、「貧しさ故に故郷を離れざるを得なかった沖縄の人々」みたいなイメージを抱くかもしれませんが、この本に登場する沖縄の人々はもっと楽天的で軽快です。
 トラック諸島の料亭で遊んだ話や、国内の大学卒の給与が月50円程度だった時代に70円から景気のいい時には100円もらっていたという話も載っており(165ー167p)、かつて南洋にわたった人々は「戦争さえなかったらずっと向こうにいたかったのに」と口をそろえて語るそうです(109p)。
 沖縄からの出稼ぎ労働については、岸政彦『同化と他者化 戦後沖縄の本土就職者たち』
でもとり上げられていて、その意外なまでの「明るさ」に驚くのですが、この本で描かれる移民たちも想像以上に「明るい」です。

 しかし、その南洋のかつお節産業も戦争によって崩壊します。漁船は徴用され、漁師たちも軍属として働くことになります。
 そして、終戦を迎え、南洋のかつお節産業は終焉するのです。

 ところが、戦後、かつお節が大衆化し、削り節パックが登場すると、再びカツオを求める「南進」が始まります。
 特に、戦前、沖縄の人々を中心にかつお節製造が行われていたインドネシアのビドゥンでは、一度は途切れたかつお節製造と日本とのネットワークが、1970年代頃から復活し始めます。試行錯誤のすえ、1990年代になるとかつお節の産地としても認知されはじめ、日本人の消費量の7%がこのヒドゥンから輸入されているそうです(153p)。
 さらに、このヒドゥンの日系人(沖縄の人びとが現地に残した子どもたち)が、日本の大洗の水産加工工場で働いています。かつお節そのものだけではなく、それに関わった人びとも、また大きなネットワークをつくっているのです。

 このように、「読み物」としては文句なしに面白いですし、興味深いですね。
 ただ、『バナナと日本人』のように、「隠れた経済構造を明らかにする」といった面は弱いです。そのあたりが『バナナと日本人』と比べると物足りないところでしょう。

かつお節と日本人 (岩波新書)
宮内 泰介 藤林 泰
400431450X