『李鴻章』(岩波新書)、『近代中国史』(ちくま新書)などの著作で知られる岡本隆司による袁世凱の評伝。
 袁世凱というと、多くの人にとって「辛亥革命を潰した男」、「皇帝になろうとして自滅した男」といったもので、良いイメージはないでしょう。著者も「あとがき」で「まだ若いころ、少し知って、嫌いになり、立ち入って調べていよいよ嫌いになった。蛇蝎ののように、とつけくわえてもよい」(217p)とまで述べています。
 しかし、それでも袁世凱の歴史的な重要性というのは否定出来ないわけで、例えば、日本史だけを見ていても、壬午軍乱、日清戦争の開戦、21ヵ条の要求など、節目節目でこの男が登場することになります。

 そんな袁世凱の評伝なのですが、この本が描こうとするのは袁世凱という人物というよりは、袁世凱が生きた時代ということになります。著者は、「おわりに」の部分で、袁世凱を次のように評しています。
 曾国藩はいわば、アイドルだった。かれよりもはるかに能力も実績もあったはずの李鴻章は、実務家ゆえに必ず格下にみられる。それでも雄大な体躯、豊かな経歴に裏づけられた威厳があった。それも虚飾にほかならない。
 袁世凱には、それすらなかった。あるのは、ナマの政治力・軍事力、つまり実務能力のみ。(214p)

 ここでいう「アイドル」とか「虚飾」というのは、イデオロギー的な華やかさやカリスマ的なものなのですが、確かに袁世凱にはそういった部分がありません。また、「新しい価値観でもって歴史を変えようとした」といった面もありません。
 袁世凱は持ち前の実務能力と嗅覚で、清朝の崩壊から中華民国の誕生という激動の時代の中でのし上がりました。この本はイデオロギーにとらわれずに立身出世を果たした袁世凱を追うことで、当時の複雑な政治状況を描き出そうとしており、またそれに成功していると思います。

 まず、この本を読んで一番腑に落ちたのが政治的存在としての西太后と、その「垂簾聴政」といわれる政治スタイルの意味。
 西太后というと、「清朝を滅亡に追いやった稀代の悪女」のようなイメージがあり、自らの権力を維持するために、「改革」を目指した光緒帝や康有為らの変法運動を潰し、清朝、ひいては中国の停滞を招いた張本人とも思われがちです。
 このうち「悪女」のイメージについては加藤徹『西太后』(中公新書)(これは面白い本)がそのイメージを覆してくれているのですが、それでも政治的な「ガン」だったというイメージは消えません。

 ところが、この本を読むと西太后の「垂簾聴政」という政治スタイルが、19世紀半ば以降の中国に現れた「督撫重権」という地方大官の総督・巡撫がその地方の民政や軍事を担う構造が要請したものであることが見えてきます。

 アヘン戦争や太平天国の乱を経て、中国でも改革や近代化が要請されることになるのですが、その近代化の歩みは、日本のように「分権的な幕藩体制→天皇中心の中央集権制」というものではなく、「中央集権的な皇帝独裁→「督撫重権」の分権的な近代化の試み→光緒帝による中央集権的な変法運動」といった形で複雑に動きます。
 もちろん、幕末の日本においても雄藩は独自に近代化を模索したわけですが、それでも日本全体の近代化には中央集権化が欠かせないという意識はありましたし、また、天皇という格好のシンボルもありました。

 しかし、日本よりもはるかに広大で、しかも中国のマジョリティである漢民族とは違う女真族の皇帝を頂いていた清朝において、このような「近代化=中央集権化」という図式は成り立たないわけです。
 結局、清朝においては古臭い「中央」がしゃしゃり出るよりも、「地方」の「督撫」のもとで近代化は進むわけで、その地方の動きを方向付け追認するのが西太后による「垂簾聴政」なのです。
 袁世凱を引き上げた李鴻章も、そして袁世凱自身も「地方」において地盤を固めることいよって中国全体に影響力を持つに至った人物であり、「督撫重権」と「垂簾聴政」の政治構造の中で力を発揮した人物でした。

 このような構造を見据える著者からすると、光緒帝や康有為らによる変法運動はこの政治構造を無視したものでした。
 明治維新にならい、伊藤博文にアドバイスを仰ごうとした康有為や光緒帝らの「変法」派は、中国近代史の中の「善玉」に見えますが、著者は康有為については「性格はむしろ軽薄」と指摘し、光緒帝についても「冷静沈着という印象をまるで与えない君主」と形容しています(79p)。
 
 袁世凱は「変法」派からその軍事力を頼りにされるわけですが、彼は「変法」派のクーデターには力を貸さずに、そのクーデターを密告します。
 一部では「寝返り」として評判の悪い袁世凱の行動ですが、この本を読めば、あの時点で「変法」派につかないほうが自然であることが理解できると思います。
 袁世凱は強引な「変法」による中央集権化=近代化には付き合わずに、義和団事件後は、北洋大臣兼直隷総督となって「督撫重権」のもとでの近代化を目指します。彼は天津の近代化に力を尽くし、警察制度を整え、財源の確保に努めました。

 しかし、列強の圧力や日露戦争と日本の勝利といった「外圧」は、中国のナショナリズムを刺激し、「督撫重権」のもとでの地域ごと、かつ緩やかな近代化を許しませんでした。
 1908年に西太后が亡くなると、ラスト・エンペラー宣統帝溥儀の父・載灃(さいほう)が実験を握るのですが、彼によって袁世凱はその地位を追われます。
 著者はこれを「政権の自殺行為にひとしい」(152p)と断じますが、周囲の皇族で固めた載灃の政権は急速に求心力を失い、時代は「革命」へと動き出します。

 この「革命」の中で、袁世凱はその実務能力がゆえにキャスティングボートを握り、臨時大総統となってついに「中央」で権力を握ります。
 ところが、中国の分権的な状況は「中央」が無能がゆえに起こっている事態ではなく、もはや構造的な問題であり、「地方」から権力を極めた袁世凱が「中央」に入っても中国全土をコントロールすることはできませんでした。
 袁世凱は「皇帝」への就任というアナクロニズム的な道を選んで失敗し、失意のうちに死んでいきます。
 この辛亥革命後の動きについては、この本でもかなり急ぎ足で端折っている部分もあるのですが、著者は袁世凱が失敗せざるを得なかった構造を描き出すことでよしとしているのでしょう。

 このようにほぼ袁世凱の人物に触れずに、当時の時代状況について書いてきたように、この本が焦点を当てているのは、袁世凱という人物というよりは彼が生きた時代であり、中国に根強く残る構造。
 この本を読めば、例えば現在の中国の地方政府のあり様や、薄煕来の重慶市での「暴走」などもまた違った視点で見えてくると思います。
 歴史好きだけでなく、広く中国に興味のある人におすすめしたいです。


袁世凱――現代中国の出発 (岩波新書)
岡本 隆司
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