社会学者の小熊英二が自分の父親・小熊謙二のライフヒストリーをまとめた本。
 小熊謙二は1925年に生まれ、終戦間際に徴兵されて満州に渡り、そのままシベリアに抑留され、帰ってきて職を転々とし、老後は社会運動にも関わったりしたという人物で、最後の社会運動の部分を除けば、特になにか特別なことをした人物ではありません。いわゆる、「庶民」と言ってもいい存在です。
 本を読む前は、「たんなる著名人の親語りの本だったら嫌だな」などと思っていたのですが、これは面白い本。シベリア抑留だけでなく、戦前・戦中の雰囲気、高度成長期の庶民の労働事情といったものが、小熊謙二の自己を客観的に見つめる語りと小熊英二の知識のもとで上手く整理され、見事に浮かび上がっています。
 読み物としても面白いですし、昭和という時代を考える材料としても面白いと思います。

 まず、前半の読みどころは都市の下層商業者の暮らしぶりやネットワークといったものが詳細に語られている点。
 謙二の父・小熊雄次は新潟県出身ながらその後北海道に渡り、書店や代書業を営み、地域の産業組合の有力者になった人物。雄次は北海道の佐呂間で、旅館を営む岡山生まれの片山伊七という人物の娘と再婚し、その間に生まれたのが謙二です。
 その後、片山伊七は何らかの失敗から東京に出て零細小売店を営むことになり、雄次の子どもたちも教育を受けるために北海道から東京へと送り出されることになります。

 伊七は高円寺で菓子屋、中野で天ぷら屋などを営みますが、1930年代前半の杉並・中野といった場所は、都心に通う月給取りと地方から出てきた零細な小売業者が混在していた地域で、その生活の違いなどもうまく描かれています。
 こうした生活に戦争の影響が及びだしたのは、謙二の回想によると日中戦争の始まった1937年の暮れ頃からになります。街からタクシーが消え、伊七が営む天ぷら屋も燃料のガソリンが使えなくなり、大きな打撃を受けることになります。そして1940年の半ばには品物が入らなくなり天ぷら屋も廃業。まともに営業していたのはタワシや箒を売っていた荒物屋くらいだったそうです。

 早稲田実業に進んでいた謙二は戦争中の労働力確保のために1年3ヶ月繰り上げで1942年12月に卒業。軍需企業の富士通信機製造に就職します。
 そして、1944年11月、19歳になったばかりの謙二は徴兵され、満州に送られることになります。謙二の父の雄次が本籍地を新潟から移していなかったために、周囲の東京出身者が東京近辺の部隊に配置される中、謙二は新潟や東北出身の新兵とともに満州に送られることになったのです。

 しかし、南方に精鋭を引きぬかれた関東軍は「骨組み」だけのような存在で、航空通信隊に配属された謙二には満足な武器は与えられず、射撃訓練すらすることなく終戦を迎えています。この軍隊経験について謙二は次のように述べています。
 軍隊は「お役所」なんだ。上から部隊を編成しろ、ここに駐屯していろと命令されたら、書類上はその通りにはするが、命令されなかったら何もやらない。(73p)

 ほぼ何もせずに終戦を迎えた謙二でしたが、その後にはシベリア抑留という過酷な現実が待っていました。
 ただ、ここで一度体調を崩して原隊から離れたことが幸いしたと謙二は述べています。初年兵だった謙二は捕虜収容所でもこき使われる可能性が高く、体力も弱かった自分は死ぬ可能性が高かったというのです。
 謙二は落伍者や「根こそぎ動員」で集められた者たちとともにシベリアのチタの収容所へと送られることになります。

 収容所での生活が過酷であったことは多くの体験記などが語ることですが、この本では特に「物がなかった」ことが印象的に語られています。食料不足はもちろんですし、数少ない所持品の縫い針や飯盒は「宝物」と言っていいものでした。しかも、風呂に連れていかれている間に荷物がソ連兵に荒らされたこともあったようで(122p)、当時のソ連にも物がなったことがうかがえます。
 
 1946年になると、収容所の待遇はずいぶんと良くなってくるのですが、代わって捕虜たちを苦しめたのが共産主義思想にもとづく「民主運動」でした。
 この「民主運動」における「吊し上げ」の陰惨さなどは、栗原俊雄『シベリア抑留』(岩波新書)てもとり上げられていたもので知っている人も多いかとは思いますが、小熊英二が当時のソ連の状況や他の収容所の事例などを適宜紹介しながらまとめているので、謙二の冷静な観察眼と相まって、「民主運動」の実態を浮かび上がらせることに成功していると思います。

 1948年の夏に謙二はようやく新潟に戻っていた父の雄次のもとに帰ります。しかし、戦後のインフレで資産を失っていた雄次の生活は厳しいもので、謙二はその生活を支えるために職を転々とします。
 現場監督からハム会社の事務、東京まで貨物列車で豚を運ぶ仕事など様々な仕事をするのですがいずれも長続きはせず、しかも1951年、25歳の時に謙二は肺結核と診断されてしまいます。
 結局、謙二は1956年までの5年間を結核の療養所で過ごすことになり、彼の20代はシベリア抑留と結核療養所でほぼ消えることになります。また、謙二が入所したのは抗生物質が出まわる少し前で、そのため彼は肺を潰す手術を受け、体力が大きく低下することになりました。シベリア抑留よりもこの時期が「一番つらい時期」と謙二は述べています(223p)。

 将来のあてもなく、結核療養所を退所して妹のいる東京へと出てきた謙二は、たまたま「立川ストア」という時代の波に乗った企業にスポーツ用品担当の営業職として雇われます。この本を読んでいると、謙二の関わる会社は本当によく潰れるのですが、戦後から高度成長期の前半くらいまでは、零細企業は生まれては潰れるを繰り返していたのでしょう。
 そんな中、立川ストアは経済成長の中でスポーツやレジャーが伸びていく中で成長し、ようやく謙二の生活も安定していくことになります。
 学校相手の営業、謙二の住む住宅の変化などここでも当時の時代の様子がいろいろとうかがえます。

 最終的に謙二は独立して「立川スポーツ」という会社を営むことになるのですが、その後、昭和の終わり頃になり仕事もセーブするようになると、謙二は社会運動に関わることになります。
 学生運動などの政治運動にはまったく関わってこなかった謙二でしたが、60代になると地域の運動や「不戦兵士の会」などの運動に参加するようになり、さらにシベリアに抑留された元日本軍兵士の朝鮮系の中国人が起こした訴訟の共同原告になり、法廷で意見の陳述まで行っています。
 この話に乗った謙二の考えからは、日本の戦後問題の処理の不十分さ「正義」の欠落といったものが見えてきますし、またこの訴訟を支援したのがアジア主義の流れをくむ保守主義者であったという点や、中国での活動が1992年の天皇訪中前後には中国政府によって抑圧されていたという話も興味深いです。

 このように一人の人間の人生を通じて戦前から戦後の社会の姿が見えてくるのがこの本の面白いところ。特にこの本の主人公の謙二は、ある意味で「時代の波に乗れなかった人間」なのですが、だからこそ見えてくる社会の姿というものがあります。また、人間の「運・不運」というものも考えさせられます。
 ただ、唯一書けていないと感じるのは息子の小熊英二との関係。後半生における社会運動への傾斜は息子の影響もあるのでは?と思うのですが、そこは書いていない、というかこの書き手では書けない部分になるのでしょうね。


生きて帰ってきた男――ある日本兵の戦争と戦後 (岩波新書)
小熊 英二
4004315492