タイトルは「ミクロ経済学入門」ではなく「ミクロ経済学入門の入門」。そのタイトル通り、「ミクロ経済学の世界に分け入っていく」というよりは「ミクロ経済学にはどんなアイディアあって、それは何に使えるのか?」ということを読者に見せるような内容になっています。
 
 数式はほとんどなく、くだけた文体とグラフを多用する視覚的な説明を行い、本文150ページ未満のコンパクトな量。こういうと中学や高校で習う需要と供給のグラフに毛の生えた程度のものを想像する人もいるかもしれませんが、そこはマーケットデザインなどの研究をしている著者だけあって、随所にゲーム理論が埋め込まれるかたちで説明がなされており、ミクロ経済学についてそれなりの知識のある人にも新たな捉え方をもたらすような内容になっています。
 また、150ページほどという量の部分については、前著の『多数決を疑う』(岩波新書)を読んだときも感じましたが、著者は高度な内容をコンパクトにまとめるのが非常にうまい書き手であるため、ページ数以上の読み応えは感じられると思います。
 
 とりあえず、以下の詳しい目次を見れば、この本がどんな内容を取り扱っているかはわかるでしょう。
第1章 無差別曲線――ひとの好みを図に描く
無差別だということ/ペプシしか飲まない父/僕と父のあいだの普通の人/右の靴と左の靴(補完関係)/典型的な無差別曲線
第2章 予算線と最適化――何が買えて何を選ぶのか
購入できる買い物/予算線の作成と性質/予算線上の最適化/医療保険政策への応用
第3章 需要曲線――いくらなら、いくつ買うのか
最適解の変化/消費者余剰/独占販売店の価格設定/ベルトラン価格競争/弾力性/ギッフェン財
第4章 供給曲線――いくらなら、いくつ作るのか
限界費用の逓減/最適解/供給曲線
第5章 市場均衡――市場で価格はどう決まるのか
市場均衡/社会的余剰/従量税の下での市場均衡/狙い撃ち課税はなぜダメか
第6章 外部性――他人が与える迷惑や利益
負の外部性とピグー税/正の外部性/ネットワーク外部性と調整ゲーム
第7章 独占と寡占――さまざまな種類の市場
減産による価格の高騰/参入の阻止/展開形ゲーム/クールノー寡占市場
第8章 リスクと保険――確実性と不確実性
条件付き財/不確実性/リスク愛好とリスク中立/保険会社とリスクプレミアム/逆選抜
第9章 公共財――なぜ皆に大事なものは、いつも足りないのか
財の4分類/公共財の自発的供給
第10章 再分配――格差と貧困をどう測るか
所得再分配/ジニ係数/絶対的貧困と相対的貧困/市場、格差と貧困
読書案内
 
 本書の内容紹介としては以上で十分なような気もしますが、いくつかの部分についてコメントしておきたいと思います。
 
 まずは第2章の「予算線と最適化」における医療保険制度についての議論。
 日本の医療保険制度では患者が医療サービスを受けたときにかかった費用の3割を払い、残りの7割は患者の加入する健保が払う仕組みになっています。
 ここで紹介されるミクロ経済の考え方では、患者が医療サービスを受けたときに健保が残り7割を負担する制度(現物給付)よりも、患者になんでも使える見舞金を支給する制度(現金給付)のほうが、患者にとっても健保側にとっても好ましい状態を作り出せる可能性が示されています。
 しかし、直後に著者は、「制度が悪用される(わざと怪我をするなど)おそれ」、「人々が支持するか(例えば病人がそのお金でパチンコに行く)」、「必要原理(医療は人間にとって必要なもので社会が供給すべき)」という3つの理由を上げて、「ミクロ経済学が有効な政策分析のツールたりえること、またミクロ経済学だけで政策を論じるのは不十分ということ」(40p)を指摘しています。
 早い時期にミクロ経済学が「一つの見方」であることを示しているのです。
 
 また、最初にも述べたように、ミクロ経済学の一般的な概念の説明にゲーム理論による説明を挟み込んでくるのも、この本の特徴のひとつです。
 まずは第6章の外部性の説明の中で、SNSなどにおけるネットワーク外部性(利用者が多いほどユーザーが恩恵を受ける)を、調整ゲームを使って説明していますし、第7章では独占企業の行動を展開型ゲームを使って説明しています。
 さらに第9章では公共財に関してもゲーム理論で説明しています。非競合的(大勢が利用しても影響を受けない)で非排除的(お金を払わない人を排除することが難しい)なものを公共財といい、一般道路や国防などが代表例とされています。
 これらのものは多くの人にとって必要なものなので、個人個人が自発的にお金を出し合えば良さそうですが、そうなると費用を払わずにその財を利用するフリーライドの問題が出てきます。
 これは昔から知られていることですが、この本ではこのフリーライドの問題も、ゲーム理論を使って説明しています。
 本書は非常に初歩的な入門書なのですが、このようにミクロ経済学をできるだけゲーム理論で基礎づけようとする野心のようなものも感じさせます。
 
 最後に、この本では再分配の問題を取り上げているのですが、記述の大半はジニ係数の求め方や絶対的貧困と相対的貧困の概念の説明に費やされており、現在の格差問題に対する処方箋のようなものについては触れられていません。
 あくまでも「ミクロ経済学」という道具の中に禁欲的にとどまっている感じで、第2章の医療保険の例と同様に、この本のひとつの特徴を表していると思います。
 
 経済学がどんなものか知りたいという人にはもちろん薦められますし、経済学の知識を改めて整理したいという人にもいいでしょう。また、進路として経済学部あたりを考えているけど、実際に何を勉強するのかイメージできないという高校生に強く薦めたいですね。


ミクロ経済学入門の入門 (岩波新書)
坂井 豊貴
400431657X