季刊誌『kotoba』に連載された文章に、「シン・ゴジラ論(ネタバレ注意)」と大江健三郎の『水死』を論じた「『水死』のほうへ」を加えて1冊としたもの。
 新書という形になっていますが、以前であれば文芸評論の単行本として出版された企画でしょうね。
 
 カバーの見返しやAmazonのページに載っている紹介文は以下の通り。
一九四五年、日本は戦争に負け、他国に占領された。それから四半世紀。私たちはこの有史以来未曾有の経験を、正面から受けとめ、血肉化、思想化してきただろうか。日本の「戦後」認識にラディカルな一石を投じ、九〇年代の論壇を席巻したベストセラー『敗戦後論』から二〇年。戦争に敗れた日本が育んだ「想像力」を切り口に、敗北を礎石に据えた新たな戦後論を提示する。本書は、山口昌男、大江健三郎といった硬派な書き手から、カズオ・イシグロ、宮崎駿などの話題作までを射程に入れた、二一世紀を占う画期的な論考である。
 
 「二一世紀を占う画期的な論考」とありますが、加藤典洋の仕事を昔から読んできた者からすると「画期的な論考」ではないです。
 加藤典洋はそれこそデビュー作の『アメリカの影』から一貫して「敗戦ときちんと受け止めていないこと」、「戦後の日米関係をきちんと受け止めていないこと」ことを問題視しつづけており、この本もタイトルから想像できるようにそうした著者の仕事の流れの中にあります。
 
 著者の大まかなスタンスについては例えば以下の文章を読めばわかるでしょう。  
 (私は)誤りを反省し、先進の西洋思想から学ぶことを第一とする「戦後民主主義思想」に対し、いま自分たちに課せられた現実を基礎に、この第一の道に「抵抗」しつつ、自己形成する第二の流れをさして、これを「戦後思想」と呼んだことがある。前者の系列に並ぶ知識人には、丸山真男、加藤周一、桑原武夫、日高六郎がおり、後者の系列に並ぶ知識人には、吉本(隆明)、鶴見(俊輔)のほか、中野重治、竹内好、埴谷雄高、鮎川信夫、谷川雁、花田清輝、江藤淳、橋川文三といった知識人がいる。双方とも優れた知識人だが、流儀が違う。では両者の違いとはなんだろうか? 少し前まで英語で教えていた大学で、外国人の留学生を前に、こんな問にぶつかったとき、私に、それまでは私の語彙になかった、「敗者の想像力」という言葉が、ひらめいたのである。(160ー161p)
 
 この文章を読めば、だいたい著者の立ち位置というのはわかると思います。基本的に、著者は「戦後思想」の流れ、特に鶴見俊輔や吉本隆明の考え方に拠りながら、敗者であるということはどのようなことであるかということを深く考える「敗者の想像力」を、さまざまな作品から取り出そうとしています。
 
 ただ、著者の仕事の面白さというのはスタンスそのものよりも、そこからさまざまな作品を執拗に読み解いていく部分。
 例えば、ゴジラに関してはゴジラが太平洋戦争で死んだ死者たちの体現であるという指摘から始まり(だからいつも日本にやってくる(87-91p))、さらにこの手の評論で触れられることはごとんどない1998年のローランドエメリッヒによる『GODZILLA』、2014年のギャレス・エドワーズによる『GODZILLA ゴジラ』の読み解きを行っています。
 
 ローランド・エメリッヒ版『GODZILLA』については、ゴジラの誕生の原因がアメリカの水爆実験ではなくフランスの水爆実験にすり替えられている点を、「よくぞこんな破廉恥なマネができるものだ」(98p)とあきれつつ、そこに原爆投下に対する「うしろめたさ」を読み込んでいます(100-101p)。
 一方、ギャレス・エドワーズ版の『GODZILLA ゴジラ』は今までのゴジラがなかったことにされている作品ですが、そこに庵野秀明の『シン・ゴジラ』につながるものを見ています。
 
 「シン・ゴジラ論」については個人的にはそれほど鋭さは感じなかったのですが、第1作目の『ゴジラ』ができたばかりの自衛隊の戦闘行動を初めて描いた映画だという指摘は面白かったですね。航空自衛隊がこの時期には持っていなかったはずのF86セイバーを自衛隊機として登場させる一方、日本に駐留しているはずの米軍は一切出動していません(121ー123p)。
 
 そして、この本で一番面白いのは大江健三郎の『水死』論と、デビュー当時から続く曽野綾子とのある種の「因縁」の話。
 この本の第二章では、占領期の日本を描いた「第三の新人」がとり上げられています。
 1950年代になると、「自分に「正しさ」などどこにもない」(68p)という主人公を登場させる「第三の新人」と呼ばれる作家たちがあらわれ、「占領期」を描き始めます。
 その中の1人が曽野綾子であり、やや遅れて登場したのが大江健三郎でした。曽野綾子は「遠来の客たち」で箱根の米軍専用ホテルを舞台にアメリカ人との関係を「あっけらかん」とした筆致で描き、大江健三郎は「人間の羊」で占領期の屈辱を描きました。両者は「占領」という出来事にある意味で対照的なアプローチをしたのです。
 
 その後、曽野綾子と大江健三郎は政治的にも対照的なポジションをとることになりますが、両者の因縁はそれだけではありません。
 大江健三郎は1970年に『沖縄ノート』を発表し、沖縄の「集団自決」を告発しますが、その3年後の1973年、今度は曽野綾子が『ある神話の背景』を発表し、守備隊長が住民に自決を命じたことに疑問を呈します。
 さらにこの「集団自決」をめぐる問題は2005年に裁判に発展します。旧守備隊長の遺族らが大江らを相手取り名誉毀損の訴えを起こしたのです。
 
 著者は大江健三郎の現在のところ最後から2番目の小説にあたる『水死』を、この裁判に対する文学的な回答として読み解きます。
 詳しくは「『水死』のほうへ」を読んでほしいのですが、この読み解きは面白いですし、ノーベル文学賞受賞後の大江健三郎の言動にやや退屈さを覚えていた自分にとっても刺激的で興味深いものでした。
 
 『戦後入門』(ちくま新書)では、文芸評論的な部分はほぼ捨てられていましたが、やはり著書の本領は文芸評論であり、そこからはみ出してくるものなのだと思いました。
 
敗者の想像力 (集英社新書)
加藤 典洋
4087208826