副題は「好太王碑、白村江から刀伊の入寇まで」。この副題からも分かるように日本古代の対外戦争の歴史を扱った本になります。
 ですが、日本古代史を知っている人ならわかると思いますが、基本的に古代において日本に行った対外戦争というのは、上記の好太王との戦い、白村江の戦い、刀伊の入寇くらいでその数は少ないです。そのため、この本も戦争の部分だけでなくそれに付随する外交に関する部分に多くの紙幅を割いています。
 特に朝鮮半島との外交関係についてはかなり詳細に書かれており、「古代における日本と朝鮮半島の外交史」としても面白く読めると思います。
 
 目次は以下の通り。
はじめに 倭国・日本と対外戦争
第一章 高句麗好太王との戦い 四~五世紀
第二章 「任那」をめぐる争い 六~七世紀
第三章 白村江の戦 対唐・新羅戦争 七世紀
第四章 藤原仲麻呂の新羅出兵計画 八世紀
第五章 「敵国」としての新羅・高麗 九~十世紀
第六章 刀伊の入寇 十一世紀
終章 戦争の日本史
おわりに
 
 古代における日本と朝鮮半島の関係に関してはわかっていない部分も多いですが、日本の朝鮮半島への軍事的進出を示す史料として、「高句麗好太王碑文」があります。
 この史料についてはさまざまな読み方が言われていますが、著者は高句麗の圧迫を受けた百済が倭国に対して軍事的援助を要請し、それに応えた倭国の軍が好太王に敗れたといったかたちで解釈しています。
 史料の中には倭国が百済や新羅を「臣民」としたという記述もありますが、これは倭国が対高句麗連合軍において指導的地位に立った局面があったからではないかと著者は推論しています(34p)。
 また、倭国が敗北した要因としては、倭国の兵が短甲と大刀で武装した重装歩兵であったのに対して、高句麗には長い矛で武装した騎兵がいたことなどがあげられています(37p)。この敗戦のインパクトは、古墳の副葬品に馬具などが増えてくること、馬を駒=高麗(高句麗のこと)と呼ぶことなどに現れているといいます(38p)。
 
 この後、倭の五王などの時代を経て、6~7世紀になると朝鮮半島南部の任那と呼ばれる地域の帰趨が問題となります。
 倭の五王の時代は日本国内で鉄資源が生産できなかったために倭国は朝鮮半島にこだわらざるを得ませんでしたが、6世紀になると日本でも鉄が本格的に生産できるようになりました。著者は中国への遣使が途絶えた背景の一つをここに見ています(63p)。
 
 このころ半島南部の加耶諸国(ここが任那と呼ばれることになる)は百済、新羅の双方から圧迫を受けるようになっており、倭国への協力関係を強めましたが、磐井の乱などの影響もあり効果的な派兵を行うことはできませんでした。
 結局、562年に加耶諸国は新羅によって滅ぼされます。倭国では反新羅の動きが強まりますが、新羅は倭国に「調(みつき)」(貢物)を送ることでこの動きを抑えようとします。
 この「調」は「任那の調」と称されたそうですが、これが日本側の勝手な認識なのか、新羅もそう称したのかはよくわかりません。ただ、対百済関係の悪化もあって新羅が倭国に対して下手に出たのは確かであり、それが後の日本の新羅に対する優越感につながったと著者は見ています。
 
 推古朝のときも新羅への出兵(任那復興)の計画は何度か持ち上がりますが、本格的な出兵は行われなかったようです(『日本書紀』にはそういった記述があるが著者は否定的に見ている(93-97p))。
 その間に東アジアの国際情勢は大きく変化し、660年、倭国と友好関係にあった百済が唐と新羅の連合軍によって滅ぼされます。
 しかし、滅亡したといっても王都が陥落し国王とその一族が唐に連行されただけであり、すぐに百済の遺臣たちによる反乱が起こります。そして、この反乱が一時期かなり力を持ったことが、倭国を白村江の戦いに引き込んでいくことになるのです。
 
 白村江戦いの詳しい経過に関しては本書を読んでほしいのですが、倭国軍は地方豪族や国造の寄せ集めの軍であり、しかも決戦の地である白村江に倭国の軍船は長い帯のような状態で順番に到着したらしく、戦列を固めていた唐の水軍の餌食になりました(145p)。火攻めによって溺死したものも多かったとのことです(148p)。
 
 この白村江の戦いは唐にとってはさしたる重要な戦いではなく、新羅にとっても主たる戦場ではありませんでした(152p)。しかし、倭国にとっては大きな意味を持つ戦いで、この戦いを機に中央集権国家をつくる動きが加速しています。
 著者は、中大兄皇子や中臣鎌足にはたとえ敗北しても、戦争に向けた動員が中央集権国家をつくる好機になるという読みがあったのでは?という見方を披露していますが、個人的にはこれは後知恵で当時の情勢からするとあまりにも危険すぎる賭けではないかと感じました。
 
 もっともこの後、中央集権国家の建設は進みますし、唐と新羅の関係が悪化したことによって事態は中大兄(天智天皇)の都合のいいように進みます。
 671年には唐からの使節がやってきます。この使節は倭国に新羅への出兵を促したとも考えられており、実際に東国で徴兵が行われたようです。しかし、この兵は海を渡ることはなく、壬申の乱において大海人皇子の軍に接収されたというのです(173ー179p)。
 
 先ほど、中央集権国家をつくるために白村江に兵を送ったという解釈は苦しいのではないかと述べましたが、出兵計画が国内の引き締めに使われたと考えられるのが藤原仲麻呂の新羅出兵計画です。
 唐との関係が悪化した新羅は、日本に「調」を送っていました(新羅の贈り物を日本側が「調」と称した可能性が高い(187p))。しかし、8世紀になると唐と新羅の関係は安定し、新羅は日本に対して下手に出なくなります。
 
 こうした中、751年に当時独裁的権力を握っていた藤原仲麻呂が新羅征討計画を表明します。仲麻呂は諸国に500艘の船を3年以内につくるように命じたのです(197ー198p)。
 その背景には渤海のはたらきかけや安史の乱による唐の混乱などがあるわけですが、それにしても3年以内というのは悠長な話です。
 著者は、軍事的な権力を仲麻呂に集中させるために対外的な要因が利用された(だから実際に出兵するかどうかの重要性は二の次)と考える鬼頭清明の見方をとっています。
 
 この本の第五章、第六章では、その後の新羅、そして新羅に代わって朝鮮半島を支配した高麗との関係、さらには刀伊の入寇がとり上げられているのですが、読みどころの一つは朝廷の貴族たちの平和ボケぶりです。
 刀伊の入寇に関しては、日本側の死者365人、拉致者1289人というかなりの被害が出た出来事なのですが、朝廷の対応は基本的には現地に丸投げで、都の予定でキャンセルされたものは摂政・藤原頼通の賀茂詣だけです(241p)。
 また、勅符が届く前に戦闘で手柄を立てた者に対して行賞をおこなうべきかということが議論されています。藤原実資の意見により行賞がおこなわれることになりましたが、当時の貴族の認識とはこの程度のものなのです(逆に実資が有能な人物であったことはわかる)。
 
 さらに終章では元寇や秀吉の朝鮮出兵に関してもそれなりに紙幅をとって説明しています。
 近代以前の日本の対外戦争が、朝鮮への蔑視などを通じて近代以降の対外戦争へ影響を与えているという著者の主張に関しては判断がつきかねる部分はありますが、古代の戦争と外交をみとすことのできる面白い本だと思います。
 歴史の教科書では短い出来事として語られてしまう戦争の前後にさまざまな背景や思惑があることを教えてくれる本です。
 
 
戦争の日本古代史 好太王碑、白村江から刀伊の入寇まで (講談社現代新書)
倉本 一宏
4062884283