同じ中公新書から出た『入門 医療政策』が面白かった著者が、「うまい(医療技術が高い)、安い、早い(待たなくても医療機関を受診できる)」という状況が崩れつつある日本の医療について、医療におけるイノベーションを中心にその改革を探った本。
 増え続ける医療費を前にして、「1 自己負担や保険料を上げて収入の増加をはかる」、「2 医療機関へのアクセス制限や保険適用の範囲を絞って支出の増加を防ぐ」という2つの選択肢が思いつきますが、それ以外の第三の道として「イノベーションによって支出を減らしたり医療資源を節約することはできないだろうか」というのが本書の目指す方向性です。
 アメリカをはじめとしてインド、シンガポール、ドバイ首長国、スイス、エストニアなどさまざまな国での興味深い取り組みが紹介されていますが、前著の『入門 医療政策』に比べると、ややそういったミクロの話がマクロの制度的な話とうまくつながっていない面があるかもしれません。

 目次は以下の通り。
第1章 危機を迎えた医療制度
第2章 アメリカの医療改革に学ぶ(1)
第3章 アメリカの医療改革に学ぶ(2)
第4章 医療に求められるイノベーティブな視点
第5章 医療イノベーションの萌芽
第6章 患者と医師に求められるイノベーション
終章 医療の未来はどこにあるか
 
 OECD加盟国における医療費の対GDP比をみると日本は、アメリカ(16.9%)、スイス(11.5%)につぐ第3位(11.2%)で、上昇傾向にあります(4ー5p)。一方、少子高齢化によって以前のような高い経済成長は難しく、国民皆保険制度を維持するために財政的な負担は厳しくなっていくことが予想されます。
 さらに医療の高度化も医療費を上昇させる一因です。年間約1700万円する抗がん剤のオプジーボ(その後の薬価改定で半額に引き下げられた)や重粒子治療や陽子線治療などは、それまでの治療法に比べるとかなり高額なもので、これらの普及は医療保険制度を揺るがしかねません。

 しかし、その治療法によって慢性的な疾患が治るのであれば話は別です。この本ではC型肝炎の対する新しい薬のことが紹介されています。この薬剤も数百万単位の費用がかかるといいますが、これによってC型肝炎が完治するのであれば、それはかえって経済的かもしれません(23ー24p)。
 つまり、高度な医療が慢性的な疾患を完治させるのであれば、医療技術の発展が医療費を削減するという可能性もありえるのです(このことについては石井哲也『ゲノム編集を問う』(岩波新書)でも触れられていた)。

 これを受けて第2章と第3章ではアメリカの取り組みを紹介しています。前にも述べたようにアメリカの医療費のの対GDP比は突出して高く、医療保険制度も不十分なので(オバマケアができて改善されましたが)、医療改革のお手本としては参考にならない気もします。
 しかし、多くの問題を抱えているからこそ先進的な取り組みがなされているという面もあります。

 ただ、アメリカの取組みについての紹介は、個々の事例としては面白いものの、そうしたミクロの取り組みがマクロな医療制度にどのように反映されているかという点がないので、やや物足りなくも感じました。
 この本で紹介されているメイヨークリニックをはじめとするアメリカのトップクラスの病院の取り組みはやはりすごいですし、スーパーマーケットやドラッグストアに併設されナースプラクティショナーという看護師の上級資格を持つ者が治療にあたるリテールクリニック(コンビニエントクリニック)も興味深かったですが、それがどの程度、医療費の削減などにつながっているのかということはわかりません。

 一方、第5章でとり上げられているインドやエストニアの話はなかなかマクロにもつながる話があってなかなか興味深いです。
 まず、エストニアですが、ここは電子政府のしくみが発展している国として知られていて、IT化は医療の分野にも及んでいます。
 例えば、EHR(Elctronic Health Record)は医師がカルテの要約を共通サーバーにあげるしくみで、そこには患者の家族歴や既往歴、過去の経緯、画像、薬剤アレルギーの有無、薬の服用歴などのデータが集められています。
 この共有情報には医師、看護師、患者がアクセスできます。センシティブな情報も含むためプライバシーを心配する声もあるでしょうが、それに関してはどの医師がいつ自分の情報にアクセスしたのかを患者が知ることができるしくみによって歯止めをかけています(166ー167p)。これは日本ではなかなか思いつかないしくみではないでしょうか。
 
 インドでは医療ツーリズムがとり上げられています。インドの医療ツーリズムの魅力はその価格で、アメリカで7万〜13万3千ドルする冠状動脈バイパス手術はインドでは7千ドルで行えます(127p)。
 インドで医療ツーリズムが発展しているのは、その技術に比較して国内の医療市場が小さい(人口は多いが医療保険は未整備で医療にアクセスできる人が少ない)からです。一方、日本の医療市場は巨大です。「医療ツーリズムが日本の医療を救う」というような言説もありますが、そのシェアから見て医療ツーリズムが日本の医療を大きく変えることはないだろうというのが著者の見立てになります(136p)。

 また、スイスの「自殺ツーリズム」(スイスでは自死幇助が認められているが、それを外国人にも行う)についても、ちらっとだけですが触れられています(157ー159p)。

 こうした各国の医療改革を踏まえて第6章では日本の医療のイノベーションの可能性を探っています。
 ただし、章のタイトルは「患者と医師に求められるイノベーション」となっていて、制度や技術面よりも患者と医師の「心構え」のあり方などが中心です。

 ここでは、患者に求められるイノベーションとして、「救急車の利用を減らす」、「かかりつけ医を持つ」、「QOL(生活の質]の視点を導入する」などが、医師に求められるイノベーションとして、「専門医から家庭医、総合医へ」、「ICTとコミュニケーション」、「リーダーシップの重要性」などがあがっていますが、これらは果たしてイノベーションなのでしょうか?

 もちろん、「小さなイノベーションの集積が大きな変化を生み出す:という考えもあるでしょうが、これらの事項は今までに考えられてきたことの延長で、決してイノベーションというような変化ではないと思います。
 もし、著者の想定する「イノベーション」がこの第6章に書かれていることで尽きているのならば、残念ながら日本の医療費の膨張をイノベーションで乗り切ることは難しいでしょう。

 いくつか面白い材料は出ていますし、医療技術などの最新の動向も知ることが出来るのですが、それらをどう活かして日本の医療制度を変えていくのかというところまでアイディアが練り上げられていない点がやや残念です。
 
医療危機―高齢社会とイノベーション (中公新書)
真野 俊樹
4121024494