徒然草とその作者の兼好法師については中学や高校で勉強することもあって、ほとんどん人が知っているでしょう。同時に兼好法師でいいのか、吉田兼好(よしだけんこう)なのか、卜部兼好(うらべかねよし)なのか、その作者名については国語と歴史でそれぞれバラバラだったという記憶を持っている人もいると思います。

 この本の副題は「徒然草に記されなかった真実」。徒然草の作者として誰もが知っていながら、その実像に関しては知られていない、あるいは歪められて伝えられていた兼好法師の姿を多くの史料な中から取り出そうとした本になります。
 現在知られている兼好法師の出自や経歴はまったく信用できないとする主張は刺激的ですし、その主張を通して、鎌倉後期から南北朝期における武士と公家の関係、鎌倉と京の様子、和歌の世界などが見えてくる内容も非常に興味深く、兼好法師の謎だけではなく当時の社会の様子を読み解いてくれます。

 目次は以下の通り。
第一章 兼好法師とは誰か
第二章 無位無官の「四郎太郎」――鎌倉の兼好
第三章 出家、土地売買、歌壇デビュー――都の兼好(一)
第四章 内裏を覗く遁世者――都の兼好(二)
第五章 貴顕と交わる右筆――南北朝内乱時の兼好
第六章 破天荒な家集、晩年の妄執――歌壇の兼好
第七章 徒然草と「吉田兼好」

 現在、よく知られている兼好法師の経歴とは次のようなものです。
 朝廷の神祇官に使えた公家・卜部氏の出身であり、兼好はこの中でも吉田神社の神主も兼ねた流(のちに吉田と名乗る)の治部少輔・兼顕の子で、後二条天皇の六位蔵人となり、その後、従五位下に叙され左兵衛佐に任じたというものです。兼好は堀川家の家司(私的な職員)でもあり、堀川家を外戚とする後二条天皇が即位したことから蔵人に抜擢され、そこで徒然草でも触れられる有職故実などに通じるようになったと考えられているのです(2-4p)。

 しかし、著者は、蔵人であったはずの兼好の名が同時代の公家の日記にまったく見えない、蔵人だったはずの時期に鎌倉に長期滞在している、卜部姓から蔵人、さらに左兵衛佐となることが異例であること、兼好の父そして兄弟は実在する人物であるものの同時代の史料からは彼らが赤の他人である、といった理由をあげて、この出自と経歴は信用できないといいます。
 
 著者はまず、室町時代の歌僧・正徹が残した「官が滝口にてありければ」という証言から兼好が侍の身分ではなかったかと推測します。
 当時の身分はおおよそ、公卿(三位以上)・殿上人(四位)-諸大夫(五位)-侍(六位)、という三層構造になっていました(9-10p)。
 和歌の勅撰集において、諸大夫以上は顕名、侍以下は匿名という原則があり、出家者は侍以下でも法名が取られ、「○○法師」と表記されます。「兼好法師」という表記からは兼好が侍の身分であったことが窺えるのです。

 兼好が出家する前の動向を伝える唯一の史料が、金沢文庫の古文書になります。
 金沢文庫に、北条家金沢流の人々が残した書状の裏に称名寺の学侶たちが仏典を書写したものが奇跡的に残されていたのですが、その中の金沢貞顕と称名寺2代目長老明忍坊釼阿(けんな)との交際圏に、「兼好」「卜部兼好」「うらへのかねよし」と名乗る人物が登場するのです。

 金沢貞顕は六波羅探題を務めた人物で、この時期、金沢の家では鎌倉と京の間でさかんに書状が取り交わされていました。
 ある書状には使者として「兼好」の名前が見え、またある書状には亡父の仏事を催す人物として「うらへのかねよし」の名前が見えるのです。
 著者はこれらの書状から次のように推測しています。兼好の家は伊勢にルーツがあり、そこから伊勢の守護を務めた金沢流北条氏のもとに赴き、亡父は明忍坊釼阿とも交流があった。そして、父の死後、母は京に戻ったが姉は鎌倉に留まり貞顕の家臣だった倉栖兼雄の室だった可能性もある。兼好は母とともに京にいたが、姉を頼って鎌倉に下向したというものです(53ー54p)。
 
 応長元年(1311年)には兼好は京で暮らしていたようです。これは貞顕が再び六波羅探題に任じられてからだと考えられます。
 徒然草にも六波羅周辺のことが書かれており、このあたりが兼好の行動範囲だったことが窺えます。
 また、土地をめぐる記録から兼好は洛中洛外に複数の不動産を持っていたようで、山城国小野荘の名田一町をめぐる売買記録が残っています。この名田に関して、兼好の「一所懸命の土地」とみなしている解釈もありますが、著者は当時の取れ高からしてこの説を否定しています(73ー74p)。

 また、兼好というと仁和寺に旧居があったとの言い伝えもありますが、この兼好と仁和寺の関係も金沢貞顕の庶長子・顕如が仁和寺真乗院に迎えられ、8代目の院主となったことと関係があるといいます。
 また、堀川家との関係も貞顕の娘が堀川家に迎えられたことから生まれたと考えられます。兼好の広い人脈は六波羅から広がっていったのです。

 第4章では、冒頭に徒然草二十二段における内裏の描写が引用され、そこから兼好と宮中のかかわりが探られています。
 まず、内裏というと平安京の中央北に設けられた大内裏を思い浮かべる人が多いかもしれませんが、大内裏は平安中期にはすでに維持が難しくなっており、廷臣の邸を借り受ける里内裏が一般的でした。
 そのため内裏といえども四周が道路に面しており、閉ざされた空間ではありませんでした。それどころか、政務朝議が行われる日は見物人で溢れかえっていました。寛喜3年(1231年)に、殿上人や蔵人は略装で出てくるなとの法令が出ていますが、これはそうしないと群衆と紛れてしまうためです(105ー106p)。

 一般人が宮中に入り込むなど現在からは考えられませんが、著者はこの理由について「それは天皇以下自分たちが「見られる」身体であることを承知していたからであろう」(108p)と述べています(絶対王政下のヴェルサイユ宮殿が立ち入り自由だったことを思い出す)。
 ですから、兼好も蔵人でなくとも宮中に入り込むことはできたのです(頭に頭巾などをかぶり目だけを出す「裹頭(かとう)」になればそこにいないものとして扱われた)。
 著者は徒然草に現れる人間関係などから、兼好が検非違使庁にかかわる仕事をしていた可能性もあると推測しています。兼好の宮廷への興味は、公家社会の出自ゆえではなく、その周縁にいたからこそだと著者は述べています(135ー136p)。

 正慶2年(1333年)に鎌倉幕府は滅亡します。その後、建武の新政が始まりますが、このころの兼好の動静はあまり伝わっていません。六波羅探題の滅亡にも関わらず、その累が兼好に及ぶことはなかったようです。
 太平記に高師直の艶書(ラブレター)を代筆したという話がありますが、このエピソードは兼好が師直のもとに出入りしていたこと以外が虚構だそうです(148p)。

 兼好が師直のもとに出入りしていたことは、当時の太政大臣洞院公賢の日記・園太暦の「兼好法師入来す、武蔵守師直の狩衣以下これを談ず」(151p)といった記述からも窺えます。
 室町幕府が京に置かれ、武家が公家社会と接点を持つようになるわけですが、非公式に公家のしきたりなどを問い合わせるときに兼好のような遁世者が重宝されたのです。

 兼好は同時代ではまず歌人として知られました。兼好の歌道の師は二条為世で、藤原定家のひ孫にあたる人物になります。
 為世の歌は基本的に保守的で現在ではあまり人気がないのですが、弟子の教育には力を入れた人物で、その指導は武士や僧侶、地下の人物にまで及びました。その弟子の中で地下門弟四天王と呼ばれたのが頓阿、慶運、浄弁、そして兼好です(四天王のメンバーには諸説がある)。
 とはいえ、為世がすべての弟子を指導できたわけではありません。そこで活躍したのが兼好のような地下の門弟でした。身軽な彼らが身分にとらわれずに幅広く指導することで二条派は拡大していったのです。
 
 歌人としての兼好の評価は、他の四天王のメンバーである頓阿や慶運に比べるとやや落ちるようです。二条良基も、三人を比較して「兼好は、この中にちとおとりたるやうに人も存ぜしやらむ。」(187p)との回想を残しています。
 しかし、自選の歌集においては、統一的な編纂方針を放棄すると宣言しつつも、その排列には巧さがあり、やはりエディターとして優れていたようです(185p)。
 一方、最後まで四代作者(4つの勅撰和歌集に歌が載ること)を目指すなど、歌人としての兼好は世俗的な名声を目指していたようで、徒然草での世捨て人的な風情とはsまた違った顔が見えてきます。

 そして、この本は最後に兼好の呼び名の謎を解いて見せています。
 兼好の本名を「吉田兼好」と習った人もいるかもしれませんが、この本によるとそれは唯一神道を唱えた吉田兼倶の捏造です。生涯、家格を上げることに執念を燃やした兼倶は、過去の有名人を系図に取り込み、吉田家が以前から特筆すべき人物を輩出していたことをアピールしようとしたのです。兼好が六位蔵人から従五位下左兵衛佐になったというのも、兼倶が一族を蔵人や左兵衛佐につけるための捏造と考えられます。
 著者は「「吉田兼好」とは兼倶のペテンそのものであり、五百年にわたって徒然草の読者を欺き続けたのである」(219p)と書いています。

 このようにさまざまな史料を駆使して兼好の姿を描いていくさまは非常に刺激的です。多くの人がこの本によって兼好のイメージを新たにするでしょう。兼好は世捨て人というよりも、世俗的な身分社会の隙間を動く遁世者だったのです。
 また、同時にこの本は鎌倉後期から南北朝期にかけての社会の姿を教えてくれる本でもあります。鎌倉時代以降は、どうしても武士と鎌倉に焦点があたり、朝廷や公家社会がどうなっていたのか、京の街がどのようになっていたのかということは見えにくいのですが、兼好の事績を通して、それらが見えてきます。
 徒然草に興味がある人はもちろんのこと、たとえ徒然草に興味がないとしても非常に面白く読める本になっているといえるでしょう。

兼好法師 - 徒然草に記されなかった真実 (中公新書)
小川 剛生
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