フランスにおける政教分離の原則である「ライシテ」。2015年1月の『シャルリ・エブド』本社襲撃事件、同年11月のパリ同時多発テロ、いずれも事件直後にテロへの避難とともにライシテの原則が確認されました。
 このようにフランスという国家の基本原則ともなっているライシテですが、よくよく見ていくとその適用の仕方にはグラデーションがありますし、誰がどのように主張するかによってもそのニュアンスは違います。
 この本はそんなライシテの来歴と現状を丁寧に見ながら、「政教分離」というものの難しさを教えてくれます。移民や難民、多文化共生、あるいは表現の自由などに興味がある人に是非お薦めしたい本です。

 目次は以下の通り。
序章 共生と分断のはざまのライシテ
第1章 ライシテとは厳格な政教分離のことなのか
第2章 宗教的マイノリティは迫害の憂き目に遭うのか
第3章 ライシテとイスラームは相容れないのか
終章 ライシテは「フランス的例外」なのか

 まず、ライシテがどのようなものかということですが、これについて著者は「一義的な定義は不可能」としつつ、次のように述べています。
 それでもあえてひとつの定義を試みるならば、ライシテとは、宗教的に自律した政治権力が、宗教的中立性の立場から、国家と諸協会を分離する形で、信教の自由を保障する考え方、またはその制度のことである。法的な枠組みでもあるが、国民国家のイデオロギーとして、さまざまな価値観とも結びつく。それゆえ、ひとつの逆説として、宗教から自律しているはずのライシテ自体が、あたかもひとつの宗教であるかのような相貌で立ち現れてくる場合もあるだろう。(15ー16p)

 このライシテが「あたかもひとつの宗教」だというはひとつの大きなポイントです。
 ライシテは1905年の政教分離法がその基本となっていますが、その第一条に書かれているのは良心の自由の保障と自由な礼拝の保護であり、第2条に政教分離の原則が記されています。
 つまり、「良心の自由の保障」と「国家の中立性」の2つを両立させようとするのがライシテだと言えます。ところが、近年はこれが難しくなってきており、ライシテをめぐってさまざまな言説が生まれているのです。

 もともと、ライシテは共和国政府とカトリックの緊張関係の中から生まれました。1902年に首相となった反教権主義者のエミール・コンブは、宗教予算を維持する代わりに教会組織を政府の管理下に置こうとしましたが、それに対する反発もあり、上述の自由主義的な1905年の政教分離法が成立しています。
 その後もカトリックとの対立の中で、ライシテには修正が加えられており、カトリックもこれを受容していくようになりました。1959年にはドゴール政権のもとでカトリック系の私立学校に補助金を出すことを認めるドゥブレ法が制定されています(34p)。

 フランスの政教分離は厳格に見えますが、一方で大統領がカトリック、プロテスタント、ユダヤ教、さらに仏教や正教会、イスラームの信仰団体の代表者を招く新年会が恒例化されており、「フランスのライシテには、政府が宗教の代表者を通じて管理や対話をするという発想」(38p)も見られます。
 例えば、右派のサルコジはイスラームの代表機関であるCFCMの設立にこぎつけ、統合のために一時的にムスリムを優遇するアファーマティブ・アクションのアイディアも示しましたが、同時に大統領になるとブルカ禁止法を成立させるなど、イスラーム的なアイデンティティに対して厳しい姿勢も見せました。

 また、近年は治安という要素とライシテの概念が混ざりあうこともあります。公立校におけるヴェールの禁止を定めた2004年の法律はライシテの原則に基づいていますが、2010年のブルカ禁止法はライシテではなく「公的秩序」という概念に基づいています(ライシテは個人の良心の自由を規定しており、個人の服装を取り締まることはできない)。
 そして、この治安という要素は左派も無視できないものとなっています。

 ライシテはカトリックに対する警戒から生まれましたが、歴史の中でカトリックをフランスのアイデンティティの中に組み込む「カト=ライシテ」と呼ばれる考えもあります。
 毎週ミサに通うものは2006年でフランス人全体の4.5%にまで落ち込んでおり(48p)、基本的には衰退していると見られているフランスのカトリックですが、2013年の同性婚を認める法律に対する反対運動「みんなのためのデモ」は意外な広がりを見せ、フランス人のカトリックに対する意識の一端を示しました。

 司法の場においてもライシテの適用基準は一律に決まっているわけではなく、「カト=ライシテ」の考えに影響を受けていると思われるものもあります。
 フランス北西部ヴァンデ県の県議会ホールにキリスト生誕の模型が設置され、これがライシテに違反しているとして裁判になりましたが、2015年の二審では設置が認められました。一方で、ムラン市の市庁舎の中庭に設置されたキリスト生誕像は同年の判決で違法とされるなど、司法の判断は分かれています(その後も行政最高裁判所にあたる国務院でもケースバイケースであるとの判断が示されている(72-74p))。

 このように公共施設におけるキリスト生誕像が場合によっては許されるのに対し、民間の託児所で働くムスリムの女性がヴェールを被ろうとしたことによって解雇されたバルビー事件では、紆余曲折の末、解雇を正当とする判決が下されています。
 やはり、マジョリティかマイノリティかという要素もライシテの適用に関しては無縁ではないと言えるでしょう。

 この宗教的なマイノリティを考える上で重要なのが、ヴォルテールの『寛容論』です。ヴォルテールは、フランスでは少数派のプロテスタントであったカラス氏が、カトリックに改宗しようとした子どもを殺したとして死刑になったカラス事件をうけて、カラス氏の無実を確信して『寛容論』を書き、狂信を戒めました。
 この『寛容論は』は『シャルリ・エブド』事件の後にベストセラーとなり、カラス氏と『シャルリ・エブド』の編集者が重ね合わせられましたが、著者はヴォルテールの言説を読み解くと、そう単純に重ね合わせることはできないといいます。

 もう一つ、フランスにおける宗教マイノリティの問題を考える上で欠かせないのがドレフュス事件です。
 1894年、ユダヤ人でフランス軍の大尉だったドレフュスは、ドイツのスパイと疑われ終身流刑となります。ドレフュスは無罪を訴え、ドレフュス以外の犯人を示唆する証拠が出てきたにもかかわらず、軍はそれに目をつぶって罪をドレフュスに押し付けようとしたのです。
 これに反対の声を上げたのがエミール・ゾラなどの知識人たちです。ゾラは反ユダヤ主義を生み出す「われわれ」を批判しました(117p)。

 そして現在、宗教的マイノリティの問題の中心はイスラームへと移っています。
 フランスでは1989年にいわゆるスカーフ事件が起きています。これは公立中学校に通うマグレブ出身の3人の女学生がスカーフを着用して登校したところ、学校側がスカーフはライシテに反するとして登校を禁止した事件で、フランス社会に大きな議論を巻き起こしました。
 
 このスカーフ事件が2004年のヴェール禁止法へと行き着くわけですが、議論がヒートアップしていくにつれ、「白か黒か」となっていく様子がうかがえます(この本では生徒を対象としたアンケートも紹介していますが、生徒たちはスカーフやヴェールをそれほど気にしていない(129-131pと135p))。
 著者は、アルジェリア独立戦争時にフランス人女性がアルジェリア人女性を「文明」に導くとしてヴェールを取り去る儀式を行ったことをあげながら次のように述べています。
 ヴェールの強制に苦しんでいるという女性を「発明」(または焦点化)し、「解放」すると称して学校から締め出し、「原理主義者」のもとに送り返すのは解決策なのか。信教の自由の観点からヴェール着用を擁護する地点にまでは至らずとも、ヴェールの女性にも共和国の教育を受けさせることが「解放」の手段となるのではないだろうか。(138p)

 ヴェールをどう考えるかということについては、ムスリムの女性の中でもさまざまな考えがあります。
 スカーフは、まず自分をムスリムとして定義するメッセージを発信してしまい他者との壁をつくってしまうと考えるドゥニア・ブザールのような女性もいますし、スカーフを被った自分が等身大の自分であり、それがあってこそより深い人間関係が築ける考えるサイーダ・カダのような女性もいます(151-152p)。

 また、イラン革命を経験し「ヴェールか死か」の選択を迫られたシャードルト・ジャヴァンにとって、ヴェールは女性抑圧の象徴以外の何物でもありませんが(157p)、ファドラ・アマラによれば、ムスリム女性はヴェールを被らなければ郊外の男性から「売女」と指弾され、被ればフランス社会から「忍従の女」とみなされるという別の面で追い詰められた状況にいます(165-166p)。
 さらに郊外の住民は「原住民」化され攻撃されていると考えるフーリア・ブーテルジャのような女性もいます(171p)。

 この本では、つづけてムスリム同胞団の創始者ハサン・バンナーの孫でフランスなどの各国で言論活動を行うタリク・ラマダン、哲学者アブデヌール・ビダール、ラッパーのアブダル・マリクの考えなどを紹介し、フランスにおけるイスラームの可能性という議論を紹介しています。
 アブダル・マリクには現在十分に機能していない共和国の普遍主義をイスラームの普遍主義によって鍛え直すという面も見られますが(202p)、その普遍主義はスピリチュアリティと結び付いており、ある意味でライシテの原則と親和的なイスラームともいえます。

 政治学者のクリスチャン・ヨプケによれば、ヨーロッパにおいて「リベラルなイスラーム」の動きが起こっているといいますが、同時にヨーロッパの「リベラリズム」も変質しています。
 人びとの内奥に関与しない「政治的リベラリズム」には、市民共同体に愛着を抱くよう人びとを駆り立てることにかけては「弱さ」がある。イスラームに対峙する近年のヨーロッパでは、あたかもこの「弱さ」を補強するかのように、リベラリズムが「倫理的リベラリズム」に変貌し、排除的で抑圧的な「リベラル・アイデンティティ」として機能している(『世俗国家の危機』)。(207p)

 最後の終章で、著者はカナダのケベックの例と日本の問題に触れています。日本国憲法も政教分離の原則を採用しており、ライシテの原則をもつといえるのかもしれません。ただし、近年のライシテは「多文化共生」の問題に関わるものとなりつつありますが、日本ではこのようなニュアンスで政教分離が考えられることはほとんどないかもしれません。
 日本でもやがて、フランスのようにライシテに関して議論を深めざる得ないことになるかもしれないのです。

 何かすっきりとした結論があるわけではないですが、政教分離をめぐる問題に関するわかりやすい処方箋が示されているわけではないのですが、考えるための多くの素材を与えてくれる本です。
 冒頭にも述べたように、移民や難民、多文化共生、あるいは表現の自由など、幅広い分野に対して考えるための有益な材料を提供してくれます。
 
ライシテから読む現代フランス――政治と宗教のいま (岩波新書)
伊達 聖伸
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