岩波文庫から出た『太平記』の校注をおこなった著者による後醍醐天皇論。『太平記』にとどまらず、さまざまなテクストを読み解くことで、後醍醐天皇の姿と、後醍醐天皇がいかに評価され、後世にいかなる影響を与えたのかということを浮かび上がらせようとしています。
 著者は歴史学者ではなく、文学畑の人なのですが、『兼好法師』と同じように、当時のテクストを重層的に読み解くことで、後醍醐天皇の姿に新たな光を当てています。

 目次は以下の通り。
序 帝王の実像と虚像
第1章 後醍醐天皇の誕生
第2章 天皇親政の始まり
第3章 討幕計画
第4章 文観弘真とは何者か
第5章 楠正成と「草莽の臣」
第6章 建武の新政とその難題
第7章 バサラと無礼講の時代
第8章 建武の「中興」と王政復古

 後醍醐天皇に関しては、歴史上、というよりも同時代からその評価が大きく分かれていました。
 北朝の公家・中院通冬は後醍醐死去の知らせを受け「諸道の再興、偏(ひと)へにかの御代にあり。賢才、往昔に卓らく(火辺に楽に似た字。他に抜きん出るの意)たり」と書き記しましたが、一方、同じく北朝方の公家の三条公忠からは「物狂の御沙汰なり。後代豈に因准すべけんや」と批判を受けました(5p)。
 また、近年では網野善彦による「異形の王権」という見方が人口に膾炙しました。
 このように「突然変異」的とも捉えられる後醍醐天皇ですが、著者はそれらの指摘が必ずしも正しくないとして、まずは後醍醐を取り巻く背景を探っていきます。

 のちに後醍醐天皇となる尊治親王は、大覚寺統の後宇多天皇の第二子として1288年に生まれています。当時は大覚寺統と持明院統という2つの皇統の間で皇位が行ったり来たりしており、尊治親王が天皇となる可能性はそれほど高くありませんでした。
 ところが、兄である後二条天皇が24歳の若さで急逝したことによって尊治親王の運命は変わります。皇位は持明院統の花園天皇へと移りますが、その皇太子として今まで皇位継承者としては注目されていなかった尊治親王が選ばれるのです。
 他にも有力な候補者がいたために、尊治親王についていた有力な廷臣はあまりおらず、これが後に中下級貴族の抜擢につながって行ったと考えられます(18p)。

 皇太子となった尊治親王は当時21歳、花園天皇が12歳であったことを考えても、当時としては珍しい壮年の皇太子でした。
 そして、皇太子としては異例と言える所領安堵の領事を発行するなど、政治に対しては強い意欲を見せました。

 後醍醐天皇の即位は1318年、数え年で31歳というこれまた異例の高い年齢での即位でした。
 しかし、当時の朝廷において実権を握るのは「治天の君」である上皇であり、後醍醐の治世も後醍醐の父にあたる後宇多上皇の院政として始まっています。
 後宇多は「天性聡敏」といわれましたが、この二回目の院政のときは賄賂が横行するなど、さまざまな問題もありました。また、後宇多は密教に傾倒し、みずから大阿闍梨として僧侶たちに伝法灌頂を授けるほどでした(25p)。後醍醐の密教の傾倒は、この父の後宇多の影響だと考えられます。

 しかし、その後宇多は仏道に専念したいという思いと健康上の理由から身を引き、後醍醐の親政が開始されることになるのです。
 後醍醐は改元を行うとともに、和歌や漢詩文、管弦の会をさかんに催して、諸道の再興に努めました。
 また、飢饉に際しては米を適正価格で売るように求めたり、土地の訴訟処理にあたる記録所を天皇直属の機関として設置するなど、意欲的に政治に取り組みました。

 この後醍醐の親政を支えたのが宋学です。朱子や程子などによってさかんとなった宋学は、日本からの留学僧から、さらに南宋の滅亡とともに宋の一流知識人が日本へと渡ってきたことから、この時代の一種のトレンドとなっていました。それまでの儒学は清原・中原両家の明経道の儒家によって伝えられていましたが、そこに玄恵法印などによって朝廷にも最新の思想が入ってきたのです(42-43p)。
 後醍醐の親政においても、宋学の知識と、宋代の中央集権国家のイメージが背景にあったと考えられます。

 公家の中にもこうした宋学の知識を身につけた者があり、その代表が切れ者と言われた日野資朝、あるいは資朝よりも早くから後醍醐に接近していた日野俊基でした。
 彼らは決して家格の高い公家ではありませんでしたが、宋学の流行を背景に「天皇側近の中下級の貴族たちに、宋学とともに渡来した士大夫ふうの自恃の意識を生じさせた」(60p)と思われます。

 やがて日野俊基と資朝は討幕へと動き出すのですが、そこで同志を募るために行われたのが「無礼講」です。
 この「無礼講」に関しては『太平記』にも酒池肉林の狼藉として描かれていますが、花園上皇が聞いた話として「或いは衣冠を着ず、ほとんど裸形にして」、「衆を結び会合して乱遊」していた『花園院宸記』にも記されています(64p)。
 衣冠や烏帽子を脱ぐことによって家格や門閥を無視するつながりが目指されたのです。そして、この「無礼講」は、後に身分を問わない茶寄合や連歌会の流行へとつながっていきます。
 
 最初の討幕の企てが露見したのが正中の変です。このきっかけとなったのが大覚寺統内部の内紛です。後宇多上皇が死に際して、後醍醐から邦良親王(後二条天皇の子)への皇位継承を迫ったことから、討幕計画が実行へと動き出し、それが露見しました。
 ところが、幕府が蝦夷の反乱や安東氏の内紛を抱えていたこともあって、日野資朝や日野俊基が鎌倉に送られたものの、後醍醐が罪に問われることはありませんでした。
 そして、もともと病弱だった邦良親王が急逝したことによって後醍醐の天皇としての地位も保たれたのです。

 その後も、後醍醐は討幕をあきらめずに密かに計画を進めていくのですが、ここで『太平記』に出てくるのは、関東調伏の法行であったり、怪僧・文観の活躍だったりします。
 しかし、著者は中宮懐妊の安産祈祷を「言語道断」とする金沢貞明の書状における「言語道断」の意味の当時と現代の違いなどを指摘し、網野善彦の「異形の王権」論の問題点を指摘しています(83-91p)。

 さらにこの本では文観への怪僧・妖僧といったイメージを払拭しています。文観を「邪教」立川流の中興の祖とみなすのは江戸時代に流布した俗説であり(91p)、文観は律宗の叡尊の流れを受けた人物で、律僧として活動しつつ、密教の潅頂を受けています。
 『太平記』における文観のイメージは、『太平記』の成立に関わり、文観の一統に代わって真言密教の頂点に立った三宝院賢俊の影響が大きかったのではないかと著者は見ています(104-106p)。

 また、後醍醐の「異形」を示すものとして必ず取り上げられる清浄光寺の後醍醐の絵像に関しては、潅頂を受けたときのものであろうとし、また頭部の冕冠に関しては(物理的に不可能な形で載っている)、四天王寺の聖徳太子像の影響を見ています(95-101p)。

 1331年、元弘の変が起こります。後醍醐天皇は京を脱出し笠置山に入るのですが、笠置山は落ち、後醍醐天皇は捕らえられます。
 しかし、その中で挙兵し、討幕に大きな功績があったのが楠正成です(この本では「楠木」ではなく「楠」という表記をとっている(120−123p参照)。
 楠正成の出自についてはわからないところが多いのですが、正式な身分を持たないものであり、やはり後醍醐の周囲にあった「無礼講」の雰囲気がなければ、天皇と結びつくことは考えにくい人物です。
 著者は「草莽」や「志士」といった明治維新を彩る言葉がこの時期に使われていることにも注意を向けています(134ー138p)。

 楠正成や名和長年の活躍、赤松円心の挙兵、そして足利高氏の天皇方への寝返りと関東での新田義貞の挙兵もあり、鎌倉幕府はあっさりと滅亡します。
 いよいよ後醍醐による建武の新政が始まることとなるのです。

 建武の新政といえば「此頃都ニハヤル物」から始まる「二条河原の落書」が有名です。これは「京童ノ口ズサミ」だと言っていますが、言い回しは漢籍をもとにした部分も見受けられ、つくったのは知識人だと考えられます(148ー150p)。
 建武の新政の混乱というと武家社会の慣習を無視した土地訴訟の処理などがあげられますが、それとともにこの本でクローズアップされているのが家格を無視した人事です。

 南朝方の北畠顕家が「その功ありといへども、その器(家格のこと)に足らざれば、厚く功禄を加へ田園を与ふべし」(157p)と諌めたように、後醍醐は家格を無視した人事を行い、公家からも大きな反発を受けました。
 この時期、中央の官職は世襲化が進んでいましたが、後醍醐はそれを無視しましたし、大臣クラスの公卿を太政官八省の卿につけました。これによって後醍醐は公卿の合議制である議政局の解体をはかりました。天皇勅裁に合議機関は無用だったのです(163ー165p)。三条公忠の「物狂の御沙汰なり」という評価は基本的にはこの人事への評価になります。

 しかし、門閥貴族層が没落したあとの中国の宋代とは違い、門閥貴族層が温存されていた日本において、天皇親政を実現させるための条件は整っていませんでした(168p)。
 足利尊氏の離反もあり、建武の新政はわずか3年で幕を閉じます。
 
 建武の新政はバサラと無礼講の時代でもありました。そこで足利政権が打ち出した「建武式目」では、第十三条で「礼節を専らにすべきこと」が打ち出されました(189p)。
 『太平記』においても北畠親房の『神皇正統記』においても、君臣がそれぞれの名分をまっとうするという価値観が打ち出されており、そこから当然のごとく建武の新政への評価は低くなります。
 
 ただし、そんな中でもアンヴィバレントな評価を受けているのが佐々木道誉です。道誉は既存の秩序を無視した婆沙羅大名でしたが、同時にその美意識は評価されています。
 著者も道誉を、さまざまな芸能や茶道・華道などの日本的な文化の出発点にいる人物と見ています(199−200p)。

 1339年、後醍醐天皇は吉野で死去します。その死は北朝方にも大きな衝撃を与えましたが、後醍醐の存在は後世にも大きな影響を与えました。
 水戸光圀が編纂を始めた『大日本史』が南朝を正統としたことから、この時代への評価はイデオロギー色を帯びることになりますが、光圀が南朝を正統としたのは宋学の正統論などからではなく、徳川氏が新田義貞の末裔を名乗っていたからだといいます(209p)。
 
 これをイデオロギー色の強い「国体」の観念にまで高めたのが藤田幽谷です。15歳で町人身分から取り立てられた幽谷は、天皇の絶対性を強調し、その弟子の会沢正志斎が「国体」という言葉を水戸学のキーワードとして定着させます。
 藤田幽谷、長久保赤水、会沢正志斎、豊田天功などの好機水戸学を代表する人物は、いずれも農民や町人(せいぜい下士)身分出身であり(223p)、彼らは天皇の絶対性を強調することで身分制度を突き抜けようとしました。
 そして、この「国体」の観念は大日本帝国憲法などにも受け継がれ、近代の天皇制を形成していくのです。

 後醍醐の事跡を追うという点からすると、それほど充実していない部分もあるのですが、後醍醐を取り巻く状況、思想的背景、文化的な状況というものが鋭く捕らえられており、非常に興味深いです。
 「公家対武家」といった図式で捉えられがちな建武の新政ですが、この本を読むとその図式にはおさまらない後醍醐のある種の突出ぶりも見えていきまし、それが後世にもたらした影響も理解できます。後醍醐がもたらした「思想」を描いた作品といえるかもしれません。


後醍醐天皇 (岩波新書)
兵藤 裕己
4004317150