地味なタイトルの本ですがこれは面白いです。
 副題は「日本近代をつくった長州五傑」で、伊藤博文、井上馨、山尾庸三、井上勝、遠藤謹助の長州五傑(長州ファイブ)に焦点を当て、日本の近代国家形成、技術官僚制の成り立ち、さらに政治における専門性を考えさせる内容となっています。
 同じ明治期の官僚を扱った新書の名著に清水唯一朗『近代日本の官僚』(中公新書)がありますが、あちらが官僚たちの「立身出世」の物語だったのに対して、コチラはある意味で、近代国家の確立とともに官僚機構から押し出されてしまった者の物語でもあります。
 そして、その中で明治国家の頂点に立ったのが伊藤博文なのですが、その伊藤が数々の失敗にもかかわらず明治政府の中で重きをなしていったのかがわかる内容にもなっています。

 目次は以下の通り。
序章 現代の技術官僚と長州五傑
第一章 幕末の密航
第二章 新政府への出仕
第三章 大蔵省での挫折
第四章 工部省の活躍
第五章 政治家への道
第六章 技術官僚の分岐点
結章 長州五傑から見た技術官僚論

 まず、伊藤博文、井上馨、山尾庸三、井上勝、遠藤謹助の長州五傑ですが、多くの人は伊藤博文と井上馨の名を知っていると思います。一方、少し鉄道が好きなら井上勝が「日本の鉄道の父」と呼ばれていることを知っているかもしれませんし、井上勝、山尾庸三、遠藤謹助の3人の知名度はそれほど高いとは言えません。特に遠藤に関しては「長州五傑の一人」ということ以外知らない人がほとんどではないでしょうか。

 そもそも長州五傑とはどんな人たちかというと、幕末にイギリスへと密航した長州藩出身の5人です。
 このうち伊藤博文と井上馨と山尾庸三は、吉田松陰の松下村塾の流れに影響を受けている尊皇攘夷の志士で、3人は品川御殿山に建設中だったイギリス公使館焼き討ちに参加していますし、伊藤と山尾は国学者・塙忠宝(はなわただとみ)の暗殺を実行したと言われています(28p)。
 
 しかし、伊藤も井上馨も山尾も、そして攘夷の動きには加わらなかった井上勝と遠藤謹助にも、洋学や西洋砲術などとの関わりがありました(ただし、遠藤についてはよくわかっていない部分が多い(26-27p))。
 5人が密航へと動き出すきっかけは、長州藩が購入した西洋船だと考えられています。伊藤以外の4人は乗組員になったのですが、西洋船をうまく動かせなかった経験が4人の洋行希望へとつながり、井上馨の誘いを受けた伊藤もこれに加わりました。

 密航が認められ、彼らが出航した同時期に、長州藩は下関で外国船を砲撃していたわけですが、藩上層部は攘夷の実現不可能性を知りつつ、5人の密航を将来への投資と考えたのではないかと著者は見ています(35p)。
 ロンドンではジャーディン・マセソン商会支配人ヒュー・マセソンが彼らの世話をし、ロンドン大学ユニバーシティ・カレッジで化学を担当するウィリアムソン教授を紹介しました。5人は英語を学び、さまざまな施設を見学するとともに化学を勉強した記録が残っています。

 しかし、伊藤と井上馨は薩英戦争や諸外国が長州藩を攻撃するとの記事を読み、帰国を決意します。両名はここで帰国したからこそ、政治家として認知されたとも言えますし、英語以外の専門性を身につけるには至らなかったと言えます。
 一方で、残った3人のうち、山尾は土木工学を、井上勝、遠藤の2人は地質工学を学びます。遠藤は肺病の兆候もあって1866年に帰国しますが、井上勝は数理物理学なども受講し、ユニバーシティ・カレッジの修了状を得るにいたり、山尾は造船所の見習工として技術の習得に努めました。山尾と井上勝は英語にとどまらない専門性を身に着けたのです。
 山尾と井上勝は1868年(明治元年)に帰国します。

 新政府において伊藤と井上馨は外国事務掛に任じられました。伊藤は兵庫で井上は長崎で開港場の管理や外国人との交渉を担当しました。
 当時の新政府の中枢にいたのは大久保利通、小松帯刀、木戸孝允、広沢真臣、後藤象二郎といった人物であり、彼らを政治家とするならば、伊藤や井上馨はその一段下で英語という専門性をいかした官僚だったと言えます。また、遠藤も兵庫運上所の司長という今で言う税関の仕事をしています。

 しかし、伊藤や井上馨は官僚の役割に満足する人間ではありませんでした。伊藤は版籍奉還も実現していない時期に廃藩置県に近い中央集権化を求める建白書を提出します。これは先進的な提言ではありましたが、長州藩からの反発を呼び、伊藤は兵庫県知事から同県判事に降格となります。
 さらに伊藤と井上馨は版籍奉還に際して、知藩事(旧藩主)の世襲に反対し、またしても長州藩内での評判を悪くします。両者は辞表を出しますが、外国との折衝に彼らが必要だったこともあり慰留され、会計官の任務につきます。政治的な行動としては失敗でしたが、「政治的な案件での辞表提出が、かえって彼らの専門性を浮き彫りにし、当面官僚としての活躍を保障することになった」(69p)のです。

 1869年(明治2年)半ば以降、伊藤、井上馨、遠藤の3人は会計官として会計・財政系統の組織で働くことになります。
 初期に新政府の財政を担当したのは由利公正でしたが、不換紙幣の大量発行や贋金問題などで行き詰まり、大隈重信が財政を主導する立場となりました。その大隈が伊藤や井上馨を任用したのです。
 さらに造幣の仕事に、井上勝や山尾庸三が起用されたことにより、民部大蔵省に長州五傑の全員が揃うこととなりました。

 当時の民部大蔵省は、財政収入の確保だけでなく、西洋化の事業も担っており、大きな権限を担っていましたが、それは同時に政府内からの反発を呼びました。
 結局、参議の広沢らが「民部省と大蔵省を分割して西洋化事業のスピードを緩めるか、自分たちは参議を辞任して大隈らに国のかじ取りを任せるようにするかを、大臣に迫」(79p)り、民部省と大蔵省は分割されますが、これは政治家が脅しをかけないと大隈らの西洋の知識を持った官僚を統制できなかったことも示しています。

 大隈が参議に転身し、伊藤が財政・会計・貨幣・紙幣などの調査のために渡米すると、井上馨が財政の実務を取り仕切ることになります。
 ここで井上馨は予算制度の導入のために尽力します。当時の政府は予算管理がほとんどできておらず、予算制度を確立しなければ財政が立ち行かなかったからです。
 さらに井上馨は事務の効率化のために大蔵省と民部省の合併を画策し成功させます。そこで渋沢栄一を登用して、県の整理や、殖産興業、道路建設など幅広い事業に取り組んでいくのです。
 しかし、井上馨の強引な予算管理は政府内の反発を呼び、1873年に井上は大蔵省を去ります。井上の果たした役割は大きなものでしたが、政治家として必要な調整能力に関してはまだ不十分だったとも言えます。

 一方、遠藤は一貫して大蔵省の造幣部門で働いています。造幣部門にはキンドルというお雇い外国人がいましたが、その立場とキンドルの個性から、このお雇い外国人との関係は厄介なものだったそうです。
 遠藤もキンドルとの関係に悩まされ辞表を出し、その後造幣寮の改革が行われることになります。 

 山尾と井上勝は技術官僚として活躍していくことになります。
 特に、山尾は大蔵省と民部省が分離された後、工部院の設置へと動きます。これに対しては政府内でも反対の声がありましたが、山尾は職を賭して強引に設置を勝ち取ります。「密航して身に付けた造船技術を含めた西洋知識は、山尾にとって貴重な武器となった」(127p)のです。
 新設された工部省は山尾が権大丞で官僚のトップ。権大丞以上はすべて空席という異例の体制で、その後、伊藤が工部大輔となりますが、伊藤が岩倉使節団に加わったこともあり、工部省の仕事は山尾の主導で進みます。
 山尾は時に暴走する性格で、正院の決定を無視して電信線の工事に着手したりしますが、幸運なことに政府内の征韓論をめぐる対立から、特に処罰されませんでした(136ー137p)。
 
 井上勝は1871年に鉄道頭となり、以後、鉄道畑で働くことになります。井上勝は山尾との対立で一度は辞職しますが、伊藤のとりなしで復帰し、鉄道建設に邁進します。
 井上は技術者でもありましたが、同時に鉄道建設の責任者として用地買収の問題などにもあたり、さらにお雇い外国人の整理、鉄道の収益向上などにも取り組んでいます。
 
 伊藤は帰国後、岩倉使節団にも加わり3度目の外遊を果たします。ここで伊藤は条約改正の本交渉をしようとして使節団を足止めさせるという失態を犯しましたが、帰国後、木戸の病臥が伊藤の地位を押し上げました。木戸と伊藤の関係は洋行中に悪化しましたが、木戸の「代理人」と成り得たのは、木戸がかわいがった山尾ではなく、伊藤だったのです(150ー151p)。
 明治六年の政変後、伊藤は参議へと昇格し、政治家として認められていくことになります。
 伊藤は工部省においては山尾と職責を分担しつつ仕事をうまくこなし(著者は伊藤と山尾の関係は現代の大臣と事務次官に近いと評価している(157p))、「実力者大久保と木戸の意見調整が可能なほぼ唯一の政治家として、政治力を維持」(158p)しました。

 1873年(明治6年)5月に大蔵大輔を辞職した井上馨はしばらく在野で実業に関わります。これは尾去沢銅山払い下げを巡って裁判沙汰になったからでもあります。井上馨の公私混同ぶりは大きな問題で、政府内での評判も良くはありませんでした。
 1875年、井上馨は政府に復帰し朝鮮へ黒田の副使として派遣され、さらに政府の金で洋行します。
 1878年、大久保が暗殺され伊藤が内務卿となると、井上馨が工部卿兼参議となり、井上もまた政治家としての道を歩み始めます。

 伊藤は政治家としてさらに飛躍していきます。明治十四年の政変によって大隈が政府を去り、国会開設が決まると、憲法調査のために4度目の洋行に出発します。
 伊藤はこの洋行で、井上毅のような法制官僚とも議論できるような専門性を身に着け、日本に帰国します。そして、初代内閣総理大臣となり、憲法制定後も政府の中心として活躍していくのです。
 一方、井上馨は第一次伊藤内閣で外務大臣となり条約改正交渉にあたりますが、失敗します。その後も政治家として活躍を続けましたが、ついに総理大臣になることはありませんでした。

 明治国家の枠組みが整ってくると、官僚制もまた整備されていきます。1893年には文官任用令が定められ、試験による採用が原則となり、法科を重視する体制となりました(194p)。
 
 山尾は1880年に工部卿となり、名実ともに工部省のトップになります。山尾は工部省のトップとして官営事業の払い下げなどに抵抗し、工部省を守りますが、参議になりことはありませんでした。やはり政治家としての資質はあまりないとみなされていたのでしょう。
 1881年に山尾は工部省を去り、内閣制度が発足した1885年には、初代の法制局長となります。山尾のキャリアに見合うようなポストはなくなっていたのです。

 井上勝は鉄道局長、さらには工部大輔となり、鉄道の建設と技術者の育成に努めます。しかし1881年に松方財政が始まると、工部省の役割は縮小され1885年に工部省は廃止されます。
 井上勝は内閣直属の鉄道局の局長となりますが、この頃になると民間の鉄道会社も設立されるようになり、また、議会開設後は議員たちの介入などもあり、鉄道事業を井上が自由に進めることは難しくなっていました。
 文官任用令が定められた1893年に井上勝は鉄道局を辞職します。しかし、井上が後進を育成したこともあり、鉄道局では技術官僚の優位が続きました。

 遠藤はその後も大蔵省で働き、1881年には造幣局長となっています。そして新しい技術を身に付けた長谷川為治に押し出され形で1883年に大蔵省を去りました。

 このようにこの本は長州五傑を追いながら、官僚制そのものや官僚の専門性、そして官僚と政治家の違いについても考えさせる内容になっています。また、伊藤の評伝ではありませんが、伊藤の飛躍についてもうまく説明できているのではないでしょうか。
 テーマとしては地味ですし、叙述もやや入り組んでいるのですが、明治国家の形成、政治や官僚、政官関係、そして人事の話が好きだという人には強くお薦めできます。

明治の技術官僚 - 近代日本をつくった長州五傑 (中公新書 2483)
柏原 宏紀
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