キャッシュレス社会にシェアエコノミーに信用スコアと、ものすごい勢いでハイテクが普及しつつある中国。その姿はこれからのテクノロジー社会を予見させるようでありつつ、同時に多数の監視カメラや政府によるネット検閲などもあって近未来のディストピアを予見させるようでもあります。
 そんな中国社会をどのように考えればよいのか? という問いに向き合ったのがこの本です。『なぜ、習近平は激怒したのか』(祥伝社新書)、『現代中国経営者列伝』(星海社新書)などの著作があるジャーナリストの高口康太が、誤解も多い現在の中国のテクノロジー社会の状況を紹介し、『「卵と壁」の現代中国論』『日本と中国、「脱近代」の誘惑』『中国経済講義』(中公新書)などの著作がある経済学者の梶谷懐が、功利主義や市民的公共性といった概念を使って中国社会をいかに考えるべきなのかということを分析しています。

 まず現在の中国の監視社会の状況を把握する事ができる本ですし、中国で進行していることが中国という特殊な政治体制にのみ当てはまるものではなく、日本をはじめとする他の国々でもあり得るものだということを明らかにしています。さらに終章でとり上げられている新疆ウイグル自治区ではそのあり方が一線を越えてしまっており、非常に考えされられる内容です。
 中国に興味がある人だけではなく、広く情報社会論に興味がある人(例えばローレンス・レッシグや東浩紀の情報社会論などを面白く読んだ人)にもお薦めできます。

 目次は以下の通り。なお、第1章と第5〜7章を主に梶谷懐が、第2〜4章を主に高口康太が執筆しています。
第1章 中国はユートピアか、ディストピアか
第2章 中国IT企業はいかにデータを支配したか
第3章 中国に出現した「お行儀のいい社会」
第4章 民主化の熱はなぜ消えたのか
第5章 現代中国における「公」と「私」
第6章 幸福な監視国家のゆくえ
第7章 道具的合理性が暴走するとき

 中国では多数の監視カメラが設置され、交通違反者の顔が大スクリーンでさらされるといったシステムがあり、さらには個人を格付けするようなスコアも開発されています。まさにジョージ・オーウェルの『一九八四年』の世界のようですが、実はこのイメージは的確ではないといいます。
 実は個人を格付けする信用スコアは民間企業がやっていることで、政府が一元的に管理しているわけではありません。その他のテクノロジーに関しても利便性の追求のもとで生まれているものが多く、どちらかというとオルダ・ハクスリーの『すばらしい新世界』に近いイメージなのです。

 世界を席巻しているGAFA(Google、Amazon、Facebook、Apple)ですが、中国市場には食い込めていません。もちろん、これには中国の「Great Firewall」とも呼ばれる一種のネット鎖国のようなシステムの存在が大きいですが、第2章ではそれ以外の要因も指摘されています。
 例えば、アリババがAmazonに勝てたのは、「誰から買うか」を重視した「人軸のEC」の仕組みがあったといいます。粗悪品も流通する中国では信頼できる人や店舗を見つけることが重要なのです。
 このEC(電子商取引)の拡大を支えたのがモバイル決済です。現在はこれがネット以外の場所でも使われるようになっていますが、このモバイル決済では、誰がいつ、どこで、どのようにお金を使ったがわかります。そして、このデータはGoogleやFacebookでも収集することが難しいデータです。こうしてアリババやテンセントといった中国のIT企業はデータの面でアメリカのIT企業に対して優位に立つことができたのです。
 また、ウーバーなどに代表されるギグエコノミー(超短期の仕事で1回毎に報酬を受け取るスタイル)でも、中国はもともとそういった生活を送っていた人が多かったこともあって先行しています。そして、ここでもさまざまなデータが収集されていると考えられるのです。

 こうしたことを踏まえて第3章では中国の監視社会と信用スコアなどの実態が語られています。
 中国では行政の電子化が進み、煩雑だった行政手続きはアプリで行えるようになりました。さらに国中に設置された監視カメラは顔認証テクノロジーなどが強化され、中国社会の治安を向上させました。一時期の中国では一人っ子政策の影響もあり、子どもの誘拐が多発していましたが(身代金目的ではないので戻ってこないケースが多い)、監視カメラシステムによって未解決事件は激減しました。さらに殺人事件なども減っていおり、監視カメラは人々に安心をもたらしているとも言えるのです。

 そうした中で日本からも注目を浴びているのが「社会信用システム」です。日本の報道だと中国が国家としてこうしたシステムを構築しているように捉えているものもありますが、実態は少し違います。
 まず、登場したのは金融分野における信用スコアです。お金を貸すには相手が信用できる人物なのかを知る必要があり、例えば日本のサラ金でもお金を借りた情報を共有していました(『ナニワ金融道』に出てきたやつ)。中国ではクレジットヒストリーをもたない人が大量にいたために、彼らの信用度を図るものとしてネットショッピングやモバイル決済の履歴、さらには学歴やネットの人間関係などが利用され、それがスコアという形で点数化されるようになります。
 そして、こうしたものが金融以外の分野にも使われ始めており、その代表がアリババの「芝麻信用」とテンセントの「謄訊征信」です。

 一方で、個人情報を「懲戒」の仕組みとして利用しようというのが「失信被執行人リスト」です。中国では近年さまざまなブラックリストが作成され、2014年にはそれが連結され、一括して検索できるシステムの構築が始まりました。この中で法の執行に従わなかった者などを載せているのが「失信被執行人リスト」です。そして、この賠償金を支払わないなどしてこのリストに載った者には高速鉄道に乗れないなどのペナルティがあるのです。

 さらに中国では地方自治体が独自の信用スコアを導入しようとする動きもあります。個人の道徳をスコア化して人々を望ましい方向へと誘導しようというのです。
 例えば、山東省威海市栄成市では「お墓参りで紙銭を燃やしたり爆竹を鳴らしたりすればマイナス20点」「派手すぎる結婚式はマイナス10点」「栄成市を飛び越えて上級自治体に陳情したらマイナス10点」(96-97p)などと定められており、農民たちの生活習慣や行動を改めようという意図がうかがえます。
 ただし、現時点で有効に稼働している自治体は少なく、あくまでも「紙の上のディストピア」(98p)に留まっているのが現状のようです。しかし、これが単なる「ディストピア」ではなく、リチャード・セイラーとキャス・サンスティーンが主張するリバタリアン・パターナリズムの「ナッジ」の仕組みと近いものであることも押さえておく必要があるでしょう。

 こうしたシステムはネットの普及と重なる形で進化しています。このネットの普及は、一時期中国の民主化をもたらすのではないかと期待されましたが、現在のところその予想は外れたと言っていいでしょう。
 2009年に微博(中国版Twitter)がリリースされ、デモや騒擾事件の様子がまたたく間に拡散されました。2011年の烏坎(うかん)事件では地方政府に対する農民の抗議運動が微博で中継され、それが海外メディアにもとり上げられ、地方政府が譲歩を余儀なくされました。この時期、中国では地方政府の非法をネットなどを使って上級政府に訴えるというやり方が多発します。水戸黄門を待望するような形ではありますが、庶民が声を上げる動きが起こったのです。

 ところが、2012年に習近平が国家主席になると状況は一変します。習近平は「反腐敗キャンペーン」によって共産党の大物を逮捕するとともに、有名ブロガーや人権派弁護士などを次々と逮捕し、世論を萎縮させます。さらにネットの監視員や世論誘導員を増員し、検閲を強化したのです。
 しかもこの検閲は巧妙になっており、単に発言を削除するのではなく、検索されない、リツートできないなど本人も気づかないような形で行われていることもあります。さらにネットの書き込みにも信用スコアを導入しようという動きもあります。一定の点数を下回るとフォローされたりリツイートされなくなるなどの仕組みを通じて自己検閲をさせようというものです。しかも「祖国を熱愛することを栄光とし、祖国に害を与えることを恥とする」といった定型文を書き込むとポイントの回復が早くなるなど(134p)、いかにも共産党っぽい仕組みもあります。
 こうした中で、ネットにおける社会問題に関する書き込みは減少していき、ネットの話題はエンタメ情報などへと移っているのです。

 第5章からは理論的な考察に入っていきます。西洋社会において「市民社会」は、法の下で平等である個人の政治参加と、経済における私的利益の追求が重なる形で発展してきましたが、中国では「公」が正しく「私」は悪であるする儒教的な伝統が根強くあり、国家も市民社会も「天理」に従うことによって正当性を得られるのだという考えがあります。
 こうした中で、市民たちが自ら従うべき規範を定めていく法の支配は確立されにくく、高い徳を持った者による正義の支配ともいうべきものが求められがちなのです。
 中国の右派と左派は日本とは違い、右派がリベラリスト、左派がナショナリストとなります。左派が要求するのは経済的な平等であり、「経済面における「平等化」の要求は、国家権力を制限するのではなく、むしろパターナリズムを容認し、強化させるほうに働きがちです。」(165p)
 ここに市民生活に対する政府の介入を受け入れる余地がありますし、市民社会による政府の「監視」といった働きも期待しにくいです。

 第6章では、功利主義やカーネマンの「心の二重過程論」を手がかりに、監視社会がある意味で「理にかなったもの」であることを示しつつ、分析を進めていきます。
 功利主義は帰結を重視します。ですから、場合によっては自由を制限することも正当化されます。例えば、車に乗るとついあおり運転をしてしまう人間がいるならば、先回りしてその人間には車を貸さない、運転をさせないといったふうにしたほうが、周囲にとってもその人にとってもいいことかもしれません。自由を制限することで「幸福」は増加するのです。
 また、カーネマンは人間の脳内には直観的に判断を下す「システム1」と意識的な判断を下す「システム2」があると想定しています。「システム2」はかなりの注意力を必要とするものであり、人々は多くの場合、直観的に「システム1」に従い、ときに間違います。
 しかし、将来はAIがこの「システム2」の代わりをしてくれるかもしれません。AIによる示唆や判断は人々が間違いを犯す可能性を低下させてくれるでしょう。

 この「心の二重過程論」に関連する議論としてスタノヴィッチの「道具的合理性とメタ的合理性」という考えがあります。「道具的合理性」は目的を達成するために発揮されるもので、「メタ合理性」とは、そもそも目的の正しさなどを問うものです。
 著者はこの考えを用いて、市民社会では市民が議会やNGOなどの「メタ的合理性」を担うシステムをつくり、それが「道具的合理性」を発揮する企業などを規制・監視するという仕組みを考えています。一般の人は「システム1」に従って直観的に生きていますが、議会などを通じて「道具的合理性」の正しさを問うことができるというわけです。
 ところがビッグデータなどの解析によって、巨大IT企業が「システム1」に従って生きる人々からデータを吸い上げて、人々に快適な生活を提供する「アルゴリズム的公共性」(186p)とも言うべきものが生まれようとしています。
 そして、著者はこの「アルゴリズム的公共性」が中国の「天理」と親和的だと考えています。データによって「可視化された人民の意志」(201p)もとに、腐敗を正しつつ、市民の不満の芽を摘み取るような政治が行われる可能性もあるからです。
 そして、これは中国だけの問題ではありません。「市民的公共性」が弱いとされる日本をはじめとするアジア諸国では、この「アルゴリズム的公共性」が肥大化していく可能性が十分にあるのです。

 最後の第7章では新疆ウイグル自治区の状況が語られています。2009年にウルムチで起きた暴動を機に中国政府はウイグル族の民族主義的な動きを「対テロ闘争」として抑え込んでいます。
 新疆ウイグル自治区には「再教育キャンプ」と呼ばれる収容所がつくられ、テロの疑いをかけられた者だけでなく、ビジネスマンや大学教授までも収容され、共産党や習近平への忠誠を誓う言葉を毎日唱えさせられた上に、「職業訓練」という名で単純労働に従事させられているのです。
 さらに地方政府の役人がテュルク系住民の家庭に滞在したり、住民のスマホにスパイウェアのインストールを義務付けるということも行っています。さらに住民からのDNAの採取、話し声や歩き方などの生体情報の収集も行われており、まさにディストピアが出現しているのです。

 では、こうした監視社会にどう対峙すればいいのか?
 第3章では、大屋雄裕の議論が紹介されています。大屋は考えられる将来像として、私企業のアーキテクチャによって個人の行動が制限され政府によるコントロールが及ばなくなる「新しい中世の自由主義」、一部のエリートや彼らに選ばれた公権力がデータを集中的に管理する「総督府功利主義のリベラリズム」、市民もエリートも政府もお互いがお互いを監視し合う「ハイパー・パノプティコン」の3つを提示しています。
 しかし、中国のような権威主義体制では「ハイパー・パノプティコン」は機能しがたいでしょう。そんな中で、著者は王力雄の『セレモニー』という小説を紹介しながら、独裁者にもテクノロジーが見渡せなくなり、ある種の相互監視が生まれるような可能性を示唆しています。

 このように本書は中国の実情を紹介するだけではなく、日本、そして全世界がこれから直面する問題を示しています。
 日本でも導入当初こそ監視カメラは気持ち悪く思われましたが、数々の事件解決に寄与する中で、犯罪防止のために監視カメラを設置しようという考えは当たり前になっています。交通違反者をモニターに大写しにすることには抵抗を覚えても、あおり運転の車を自動的に割り出して、免許の点数を差し引くようなシステムなどがあれば歓迎する日本人も多いでしょう。本書を読むと、中国が「異なる世界」ではなく「地続きの世界」であることがわかります。欧米のような市民的公共性が弱い日本では監視テクノロジーに対するブレーキも弱いかもしれません(ただし、個人的には日本人の一般的な他者に対する不信、政府に対する不信がブレーキになると思う。羅芝賢『番号を創る権力』で指摘されているように日本での総背番号制は何度も挫折しており、特に政府によるビッグデータの把握は相当遅れるのでは)。
 最初にも述べたように、中国に興味がある人だけでなく、これからの情報社会を考える上でも広く読まれるべき本でしょう。