日本史において中世と近世を分かつのが織豊政権であり、特に秀吉の行った太閤検地と刀狩に代表される兵農分離政策が大きな意義をもったと考えられています。
 教科書的な知識だと、太閤検地は統一的な尺度を用いて行われ、また枡も京枡に統一され、土地の収穫量が石高で表されるようになった。戦国大名の行った検地の多くが申告制の指出検地であったのに対し、太閤検地は実際に計測された丈量検地であった、さらに検地帳に耕作者が記入されたことによって中世以来の複雑な土地所有の関係が整理され一地一作人の原則が確立した、といったところでしょうか。
 では、この太閤検地は実際にはどのように進められ、どのような影響をもたらしたのか、これが本書の内容となります。本書を読むと太閤検地が長期にわたって試行錯誤を繰り返しながら行われたことがわかりますし、検地と大名の転封が相まって日本独自の近世封建社会が成立していったことが見えてきます。

 目次は以下の通り。
序章 太閤検地と日本近世社会
第1章 織田政権下の羽柴領検地
第2章 「政権」としての基盤整備
第3章 国内統一と検地
第4章 大名領検地の諸相
第5章 「御前帳」「郡図」の調製
第6章 政権下の「在所」と「唐入り」
第7章 文禄検地の諸相
第8章 政権末期の慶長検地
終章 太閤検地の歴史的意義

 まず、本書では「太閤検地」を「豊臣政権期に秀吉あるいは政権中枢が何らかの関与をして実施した土地調査」(5p)として、議論を進めています。 
 秀吉の検地に先行するのが織田信長により検地です。ただし、尾張では検知が行われた形跡がなく、主に新たに服属させた地方で検知が行われています。1577年(天正五年)の越前での検地では、村人すべてを立ち会いで村の領域を確定させ、指出に依拠しつつ場合によっては検地奉行が実検・丈量を行うなど、支配単位たる「村」とそこから取れる年貢である「村高」を確定させる作業が行われています。
 1580年(天正八年)には秀吉によって播磨と但馬の検地が行われており、この検地に基づいて黒田孝高や加藤清正に知行が与えられています。

 その後、いくつかの検地が行われますが、その性格が少し変わってきたと考えられるのは賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を滅ぼしたあとにおこなれた越前での検地からです。増田長盛や伊藤秀盛のもとでかなり厳しい検地が行われたようで、寺領などの没収もあったようです。
 また、このときに「検地の水帳」に記載された者が当該の耕地を「あいさばく」との原則が定められた地域もあり(28p)、土地の権利関係がある程度整理されていったこともうかがわれます。
 ただし、丹羽長秀や前田利家といった僚将・盟友の収める地域に関しては、それぞれ独自の検地が行われたようで、統一的な検地が行われてはいませんでした。

 秀吉の行う検地に対して、1585年(天正13年)の近江では大規模な逃散が起きるなど、在地社会の抵抗も根強くありましたが、この年に秀吉が関白に叙任されると、秀吉の立場は他の諸大名と隔絶したものとなります。
 同年、丹羽長秀が没すると嫡子の長重が越前から若狭に転封となり、越前には堀秀政らが入ります。このころから大名の転封が相次ぎます。このあたりの事情について著者は次のように述べています。

 ここで確認しておくべきは、秀吉自身はいうまでもなく、それを支えた家人たちの多くが土豪や在地の地侍、あるいはさらに下層の出身だったことであり、換言すれば彼らには確固として護るべき父祖伝来の地などもなかったという事実である。こうした存在の家臣たちにとって領地替え・所領替えといった措置も容易に受容しうるものだったと判断される」(47-48p)
 
 さらに所領が石高という数値で示されることになったことが、その賞罰を明確にしました。また、検地によって「打出」と呼ばれる石高の増加が発生することが多いですが、その打出の分を没収するということも行われました(領主にとって石高は変わらないが領地の面積は減る)。

 1587年(天正15年)秀吉は「国郡の境目にあり様については、双方の見解を充分に聞いて決定を下す」(56p)との方針に従わなかった島津氏を討ち、九州を平定します。さらに同年には丹波の検地を行い、公家たちの知行を丹波にまとめていきました。
 さらに佐々成政に与えた肥後で国人一揆が起こると、秀吉はこれを鎮圧させるとともに肥後の検地を行って各郡の石高を確定させ、小西行長と加藤清正に与えました。この肥後国人一揆は刀狩令や海賊停止令を出すきっかけになったとも言われています。

 1589年(天正17年)、東国平定をにらんで美濃一国の検地が行われます。この検地では300歩を基準面積とすること、京枡を用いて計量すること、地種・等級別で想定収量を設定するなど、統一的な基準で行われています。ただし、名請人(耕作者)に関する規定はありません。
 1590年(天正18年)、北条氏が降伏し、伊達氏をはじめとする東北の大名が服属すると、秀吉は奥羽の検地を命じています。このとき秀吉は浅野長吉に対して、検地を受け入れない者は「撫で切り」しても構わないとの書状を出しています。新たな服属地に対する検地は非常に重要なものだったのです。ただし、この奥羽の検知では石高ではなく貫高が用いられるんど、現地の習慣に対する一定の配慮も見られます。
 
 このころになると各大名領でもさかんに検地が行われるようになります。安房の里見氏の例のように秀吉配下の増田長盛が派遣されて行われるようなケースもありましたし、毛利領のように基本的に「私検地」ともいうべき豊臣政権が関わらない検地もありました。
 
 こうした諸大名の検地を踏まえ、秀吉は「御前帳(ごぜんちょう)」と「一郡ごとの絵図」の調製と提出を諸大名に命じます。この「御前帳」は全国統一の基準で調整され、禁中に献納されました。
 島津領のように検地ができず指出の収納量から逆算して石高を算出するようなケースもありましたが、この御前帳の作成を通じて。、京枡の使用がさらに広まり、「郷」という名前が「村」に変わってくるなど、さまざまなものの標準化が進みます。また、私検地の結果であってもそれが御前帳に調整され、禁中に献納されたことで、それは公的な性格を帯びてきます。

 こうした中で、室町時代以来の在地社会のまとまりである「在所」のあり方も変化していきます。秀吉は1590年(天正18年)に在所から「侍」や「浪人」を追い払うように命じています。また、この侍や浪人が商人や職人になった場合でも同様に追い払うように求めています。
 いわゆる「兵農分離」の政策のようにみえますが、著者は塚本学が指摘する「士農分離」という考えが重要だと指摘しています。兵は相変わらず農民からも徴収されましたが、それを率いる武士と兵卒の差がはっきりとしてきたのです。

 1592年(天正20年)、秀吉は朝鮮へ軍勢を差し向けます。九州を中心とする西国の大名が動員されましたが、ここで大名が動員すべき軍勢の数は御前帳に書かれた石高が基になっています。
 さらに「人掃い」が実施されます。これは先程の浪人停止の政策が全国に敷衍したもので、在所の奉公人、百姓を把握しようとするものでした。
 さらに侵略した朝鮮半島でも指出を実施するなど、収納量と人口の把握に努めています。187−188pに書き出された朝鮮半島各道の石高を見る限り、きちんとした調査が行われたわけではないようですが、朝鮮半島の地も石高で表示し、その石高に応じて各大名に知行を与えようとしていたのです。

 文禄の役が一段落したあとも、改易された大友吉統(義統)の領地をはじめとして各地で検地は行われます。このころになると検地のやり方もかなり統一的になり、それとともに打出が生じています。この打出を配下への加増に回すなどして、豊臣政権、そして各大名は支配力を強めていくのです。
 1592年(天正20年)に行われた島津領の検地は石田三成の主導で実施され、36万石の打出に成功します。そして、改めて島津家中の者に配分されるとともに、豊臣氏の蔵入地、石田三成の知行も設定されています(216pの表参照)。島津氏の家中への支配力が強まるとともに、豊臣氏の島津氏への支配力も強まる仕組みでした。
 他にも佐竹領などで同じような検地と豊臣氏の蔵入地の設置などがなされています。

 1598年(慶長3年)に上杉景勝が越後から会津へと転封になると、玉突き的に大名の転封が行われます。越前や加賀でも大名の転封が行われ、越前と南加賀で大規模な検知が行われました。賤ヶ岳の戦い後の越前検地では1反=360歩だったのですが、今回は1反=300歩となるなど、より標準化された方法で行われ、検地後には豊臣家蔵入地が大きく増加しました。しかし、この検地が終わった直後に秀吉が没したことから、これが最後の「太閤検地」となりました。

 終章では先行研究の検討などを行いながら、改めて太閤検地の意義が分析されています。
 まず、よく言われる「一地一作人の原則」により、土地の権利関係が確定したとの考えですが、必ずしも耕作者の登録は徹底されておらず、むしろ村請制が確立する契機となりました。「すなわち、太閤検地は必ずしも農民の土地保有権や経営権の確保などを目論んだものではなく、「村」の立ち上げと「村請制」の始動を期したものと考えるべき」(258p)なのです。
 
 秀吉が関白にまでなると、天皇の権威のもとでの国土の掌握といった性格が強くなり、ときに国郡の境目の確定が重視されるようになります。当時の争いの多くが境目をめぐるものだったからです。
 また、領地が石高という数字で表されるようになったこと、「人掃い」によって武士とそれ以外の者の違いが明確になったことなどによって、大名の転封が容易になりました。結果として、「豊臣政権の末期にいたると、戦国以来の故地にいたのは中国の毛利氏と九州・奥羽などの遠隔地の諸大名に限られてくる」(263p)のです。そのうえで著者は本書を次のように結んでいます。

 むしろ、故地にあり続けた毛利氏などが例外なのであり、原理的にすべての「国土」は天皇あるいは秀吉の手に帰し、以後江戸時代を通じて大名・給人は在地性を否定された「鉢植え」の領主として存在することになる。こうした世界史的にも稀有な「封建制度」を可能にし、それを根本で支えたのが一連の太閤検地と称される政策であった。(263p)
 
 秀吉が主導した、またはその時期に各大名が行った検地について時系列的に多数取り上げているために、やや検地そのものについての大きな流れは捉えにくい面もあるのですが、時系列で論じることによって、上述のような戦国時代の中世的な封建制度が近世的な封建制度へと変化していく様子は見えてくるのではないかと思います。
 太閤検地という政策を知る上ではもちろん、兵農分離や近世の村落といったことを考えていく上でも重要なことを教えてくれる本になっていると言えるでしょう。