アフリカから1000万人以上の人が連れ去られたとされる奴隷貿易。その奴隷貿易について主に奴隷船にスポットを当てながらその全体像を明らかにしようとした本になります。
 わざわざタイトルに「奴隷船」と付けているので、奴隷船をめぐる細かい情報が紹介されているのかと思いますが、奴隷船がメインにとり上げられているのは第2章のみで、奴隷貿易の始まりから奴隷貿易と奴隷制の廃止に至る過程をバランスよく記述しています。特に奴隷貿易の廃止運動については、その運動をになった人々や運動の過程をかなり詳しくとり上げています。
 
 目次は以下の通り。
第1章 近代世界と奴隷貿易
第2章 奴隷船を動かした者たち
第3章 奴隷貿易廃止への道
第4章 長き道のり―奴隷制廃止から現代へ

 近代以前にも奴隷貿易は存在しました。中世の地中海貿易においてヴェネツィアやジェノヴァの商人はレコンキスタの過程で獲得されたムスリム奴隷を扱っていました。さらにヴェネツィアがコンスタンティノープルを占領すると黒海沿岸からも奴隷が調達され、イスラームのマムルーク軍(イスラーム世界における奴隷身分出身の者で構成された軍)へと送られたりしました。
 大航海時代が始まると、ポルトガルがアフリカで奴隷を獲得し、奴隷貿易に乗り出します。狙いは黄金海岸の金で、金を得るために黄金海岸に奴隷が運ばれました。また、多くの奴隷がポルトガルやスペインにも運ばれています。

 この後、いよいよ大西洋の奴隷貿易が始まるのですが、以前からいったいどれくらいの奴隷が新大陸に運ばれていったのかということは大きな問題でした。
 この問題に挑戦したのがフィリップ・D・カーティンです。彼はさまざまな史料を使い、新大陸に生きて上陸した奴隷(途中で死んだ者は含まない)を、およそ950万人ほどと推計しました(22p表2参照)。
 その後、D・エルティスとD・リチャードソンによる研究で約1070万人という数値が出されました。さらに、大西洋奴隷貿易データベース(TSTD1とTSTD2)が作成され、奴隷貿易1回ごとのデータが集積されました。
 それによるとアフリカから送り出された奴隷は1250万人ほどで(32−33p表6参照)、先程の上陸した奴隷の推計数1070万人と比較すると、航海途中での死亡率は14.5%ほどになります。また奴隷を送り出した数が最も多いのは西中央アフリカで、受け入れ先として最も多かったのはブラジルでした(34p図1−3参照)。

 新大陸で奴隷を必要としたのはスペイン人です。彼らは新大陸の農園や鉱山の労働力として先住民を使っていましたが、ヨーロッパ人が持ち込んださまざまな伝染病と過酷な労働によって先住民な激減します。
 そこでアフリカから奴隷が輸入されることとなったのですが、スペイン人は奴隷貿易自体にはあまりありませんでした。大西洋の奴隷貿易はスペイン王室から「アシエント」という請負契約を交わした外国人商人によって行われることになります。
 当初、このアシエントを獲得したのはポルトガル商人でしたが、17世紀後半以降は、ジェノヴァ商人、オランダ商人、フランスのギニア会社などが獲得し、1713年にアシエント権はユトレヒト条約によってイギリスの手に渡ります。そして、イギリスが大西洋奴隷貿易の中心となっていくのです。

 第2章は奴隷船とその関係者に焦点を合わせています。
 奴隷がびっしりと描かれている奴隷船の図を世界史の教科書や資料集などで見たことがある人もいるでしょう。それは奴隷船ブルックス号の構造図であり、奴隷廃止運動のときに奴隷貿易の非人道性をアピールするものとしてさかんに用いられました。この船は1781年にリヴァプールで建造された船で、この図がつくられるまで実際に4回の奴隷貿易に従事していました。
 奴隷船の大きさは多くは100〜200トンで、それほど大きなものではなく、「移動する監獄」「浮かぶ牢獄」と言われました(64p)。大西洋横断の2ヶ月ほどの間、奴隷たちは1日16時間ほど身動きできずに寝かされて、1日に1回、病気にならないように甲板上でダンスを踊らされました。
 奴隷船には他の船には見られないバリカド(バリケード)と呼ばれる仕切りがあり、これによって男性奴隷と女性奴隷を分け、奴隷叛乱が起きたときにも使われました。また、奴隷船には手枷、足枷、首輪、鞭などの拘束具なども詰め込まれていました。

 奴隷として船に乗せられたアフリカ人はどこから来たのかというと、その多くはアフリカ人の手によってヨーロッパの奴隷商人に引き渡されています。18世紀にベニン湾岸で勢力をもっていたダホメ王国では、奴隷狩りが毎年の王の恒例の行事となっており、そこで得た奴隷がヨーロッパの奴隷商人に売却されました。その過程では、当然殺された者もいると考えられ、奴隷船の船長だったジョン・ニュートンは「売却されるために留保された捕虜は殺された者よりは少ない、と私は思う」(72p)との言葉を残しています。
 奴隷船では奴隷叛乱もたびたび起きましたが(特にガンビア人は奴隷になるのを嫌う危険な存在だったとのこと(79p))、手枷足枷を外して自由になり、乗組員との戦闘に勝って、なおかつ船を自分たちの思う通りに動かすという3つのハードルをクリアーすることは難しく、多くの叛乱は失敗し首謀者が見せしめのために責め苦を負わされました。

 奴隷船には船長と水夫たちがいました。先程紹介したジョン・ニュートンは奴隷船の船長でもあり、また「アメージング・グレース」の作詞者としても知られています(奴隷貿易から足を洗って牧師になった)。このジョン・ニュートンの残した記録を見ると、水夫たちの質の低さ、奴隷の調達の難しさ、そして奴隷叛乱の計画や嵐などのトラブルが合ったことがわかります。
 水夫たちの多くは無知な若者がほとんどで、多くは借金の返済のために奴隷船に乗り込まざる得なくなった者たちでした。また、ベンガル人やアフリカ人の水夫たちもいました。
 水夫たちは排泄物の処理や夜間の奴隷の監視など、大変な仕事を押し付けられていましたが、さらに悲惨なのは船長たちが帰国する船に水夫を乗せたがらなかったことでした。船長たちは目的地が近づくとわざと水夫に対して罰を加えたりして現地で船を降りるように仕向けることもあったそうです。1786−87年にリヴァプールから出航した奴隷船の乗組員3170人のうち、帰還したのはたった45%でした(95p)。
 
 一方、奴隷商人たちは奴隷貿易によって大きな富を得ました。本書には18世紀に奴隷貿易を行ったウィリアム・ダベンポートという人物の取引が紹介されていますが(98p表9参照)、ビーズや真鍮、鉄器などを載せて出航したホーク号は、ビアフラ湾で奴隷を獲得しジャマイカで売りさばくことで、同時に行われた象牙の取引を含めて100%を超える利潤を生み出しています。
 また、当時の船はフランス船を拿捕する権利を与えられており、これも利益をもたらしましたが、逆にフランス船に拿捕されて大きな損失を被ることもありました。そのせいもあって多くの船は何人かの商人の共同出資によって運行されました。
 このようにして富を得た商人たちは土地を買い集め地主となり、子弟をケンブリッジやオックスフォードなどに送り出しました。

 第3章は奴隷貿易の廃止運動を詳しくとり上げています。
 奴隷貿易と奴隷制に対する反対運動は1769年に起きたサマーセット事件から始まります。北米で奴隷として購入されたサマーセットがロンドンで逃亡したことをきっかけに、イングランドで奴隷は認められるか? という問題が沸き起こりました。裁判で奴隷制の禁止は明言されなかったものの、サマーセットが釈放されたこともあって、奴隷制は認められないとする風潮が高まりました。
 さらに1781年にゾング号事件が起こります。これは奴隷船ゾング号で伝染病が発生し、さらなる感染を恐れた船長が奴隷たちを海に投げ込んだというもので(病死ならば船主の損失だが事故死なら保険会社の損失になる)、この事件の裁判をきっかけに奴隷貿易の残酷さが世に知られるようになりました。

 こうした事件を受けてイギリスではアボリショニズム(奴隷制廃止運動)が起こります。1787年にロンドン・アボリション・コミュニティー(ロンドン委員会)がつくられ、まずは奴隷貿易の廃止を目指すことが決まりました。
 この運動を担ったのがクウェイカー教徒です。クウェイカーが17世紀にイギリスで生まれたプロテスタントの一派で、「他人が我々にしてくれることを期待するのと同じことを、他人にしてあげなさい」(121p)という人道主義のもと、奴隷貿易廃止運動を担っていくことになるのです。

 その中で特に大きな役割を果たしたのはウィリアム・ウィルバーフォースです。若くして下院議員となった彼には宗教家として身を立てたいという想いもあったとのことですが、先程名前をあげたジョン・ニュートンの説得もあって奴隷貿易廃止運動の先頭に立ちます。
 ロンドン委員会を中心に奴隷貿易反対の制限キャンペーンが展開されます。この活動にはウェッジウッド社の創設者でもあるジョサイア・ウェッジウッドも関わっており、彼は奴隷貿易廃止のためのメダリオンなどを作成し、運動の大衆化に尽力しました。
 1791年、ウィルバーフォースは奴隷貿易廃止法案を動議にかけ、4時間を超える演説を行いますが、法案は否決されました。

 一度は挫折した奴隷貿易廃止運動ですが、フランスの「黒人友の会」(コンドルセが会長で会員にシエイエスやラファイエットがいた)と連携し、国内では砂糖不買運動をはじめます。この運動では「毎週五ポンド[重量]の砂糖を使う家庭は、21ヶ月その使用をやめれば、アフリカ人奴隷1人の「殺人」を防ぐことができる」(136p)と訴えましたが、この訴えは大きな反響を呼び、ロンドンでは2万5000人がこの運動に参加したといいます。また、この運動をきっかけに奴隷貿易廃止運動が女性の間にも広がりました。
 1792年、ウィルバーフォースは再び奴隷貿易廃止法案を下院に提出します。これに対してヘンリー・ダンダスが奴隷貿易の漸進的廃止を求める法案を出し、下院ではこの法案が可決されます。しかし、上院がこの法案を退け、奴隷貿易廃止運動はしばらく停滞します。

 再び奴隷制廃止運動に火をつけたのが1791年のハイチの奴隷叛乱でした。フランスの植民地のハイチでは3万人ほどの白人に対して43万人以上の奴隷がいる状況でしたが、フランス革命と呼応するように奴隷の蜂起が起こったのです。紆余曲折を経て、1804年に黒人共和国であるハイチが誕生します。
 このハイチ革命をきっかけに再びイギリスの奴隷貿易廃止運動も活性化し、1805年にはウィルバーフォースらによって旧オランダ領ギアナ向けの奴隷輸出が禁止され、1807年に、上院では首相のウィリアム・グレンヴィル、そして下院ではウィルバーフォースの活躍もあって、ついに奴隷貿易廃止法案が可決されたのです。
 
 しかし、奴隷貿易の廃止がイギリスの植民地拡大につながった面もあります。イギリスは奴隷船を拿捕して奴隷を解放しましたが、この解放の地であったシエラ・レオネはイギリスの植民地となっていきます。さらに在英黒人をシエラ・レオネに入植させる計画や、ジャマイカの逃亡奴隷であるマルーンがシエラ・レオネに連れてこられたりします。
 また、イギリス政府の圧力もあって、オランダ、フランス、ポルトガルといった国々も奴隷貿易の廃止に踏み切っていきます。ブラジルでは奴隷に対する需要が強く、なかなか奴隷貿易がなくなりませんでしたが、イギリス海軍のブラジルの領海内でも奴隷船を拿捕するという強硬策もあって、1850年に奴隷貿易は終焉します。
 また、アメリカではアミスタッド号事件の裁判が行われ(奴隷船での奴隷叛乱ををめぐる事件、スピルバーグが映画化した)、弁護団に加わったジョン・クインシー・アダムズの活躍もあって奴隷たちは解放されると同時に、奴隷制反対の世論が強まりました。

 こうして奴隷貿易は19世紀中頃までに廃止されたものの、奴隷制そのものの廃止に関してはさらに時間がかかりました。第4章ではその長き道のりをたどっています。
 1823年にイギリスの植民地のガイアナで奴隷叛乱が起きましたが、植民地当局によって鎮圧され首謀者は死刑や鞭打ち刑に処せられました。さらに、このときに牧師のジョン・スミスも牧師補が首謀者だったことから死刑に処せられたのですが、これがイギリス本国に伝わると奴隷制廃止の機運が高まります。特にこの運動には女性が多く参加し、漸進的な奴隷制廃止ではなく即時の奴隷廃止を訴えました。
 さらに1831年にジャマイカで奴隷叛乱が起こり、その背景にプランターの奴隷に対する残虐な行為があったことが明らかになると、議会改革の流れにも乗って、1833年に奴隷制廃止法が成立します。さらに奴隷と境遇の近い年季奉公人についても廃止が進んでいきます。

 この流れの中、カリブ海地域では1848年までに奴隷制がほぼ廃止されますが、アメリカでは綿花の栽培の拡大に伴って奴隷が必要とされたことから、奴隷制の廃止は南北戦争まで持ち越されましたし、ブラジルでもコーヒー生産のために奴隷が用いられ、奴隷制の廃止は1888年まで持ち越されました。
 奴隷廃止後、その代わりにプランテーションなどで働いたのがインドや中国から連れてこられた年季契約労働者です。彼らは奴隷ではありませんでしたが、その扱いは奴隷に近く、中国からキューバへの移民船の1847〜60年の死亡率は約15%で、奴隷船の死亡率よりも高いものでした(218p)。
 さらに本書は「奴隷制は終わっていない」と書きます。ケビン・ベイルズの2016年の著作『環境破壊と現代奴隷制』によると、世界に存在する奴隷の数は4580万人であり、南アジア地域の債務奴隷を中心に数多くの奴隷的な人々がいるといいます。タイの売春宿やブラジルの炭焼き場、アフリカの児童労働など、現在も奴隷的境遇で働く人は多く、この問題は終わったわけではないのです。

 以上のように、本書は奴隷船だけではなく奴隷制度全般について扱った本となっています。「奴隷船」に期待した人にとっては物足りない面もあるかもしれませんが、奴隷貿易を考える上で入門書的な位置づけとなる本に仕上がっていると思います。特に奴隷貿易や奴隷制の廃止運動に関しては勉強になりました。
 特にイギリスの奴隷貿易廃止運動、奴隷制廃止運動で世論が重要な役割を果たしたことと、現代でもまだ奴隷的境遇の人がいるという事実は重要なことではないでしょうか。