室町期に徳政令が望まれ、そして嫌われていくさまを描いた『徳政令』(講談社現代新書)の著者が、つづいて送り出したのは来年の大河ドラマの主人公でもある明智光秀の本。大河ドラマに合わせて主人公周辺の新書が出るのは毎度のことなのですが、この本に関しては著者とテーマの組み合わせは意外に思えました。
 あとがきによると、著者は藤井讓治編『織豊期主要人物居所集成』のもととなった研究で足利義昭・細川藤孝・明智光秀の3人を担当しており、光秀について研究していたことがあるとのことですが、いわゆる戦国大名を中心に研究している人とは少し違った史料に注目しており、それが本書のオリジナリティになっていると思います。
 光秀といえば何といっても本能寺の変と裏切りの理由が注目されますが、本書ではいくつかの状況証拠を提出するだけで、謀反の直接の原因を探る内容にはなっていません。そこに不満を覚える人もいるかもしれませんが、この本で提出されている状況証拠はなかなか興味深いものです。

 目次は以下の通り。
序章 新時代の子供たち
第1部 明智光秀の原点
 第1章 足利義昭の足軽衆となる
 第2章 称念寺門前の牢人医師
 第3章 行政官として頭角を現す
 第4章 延暦寺焼き討ちと阪本城
第2部 文官から武官へ
 第5章 織田家中における活躍
 第6章 信長の推挙で惟任日向守へ
 第7章 丹波攻めでの挫折
 第8章 興福寺僧が見た光秀
第3部 謀反人への道
 第9章 丹波制圧で期待に応える
 第10章 領国統治レースの実態
 第11章 本能寺の変へ
終章 明智光秀と豊臣秀吉

 まず、最初に本書に書かれているのは明智光秀は医者だったらしいということです。
 著者は、光秀が京都代官を務めていた時期に施薬院(やくいん)全宗という医者の家で執務も行っていることに注目し二人はかねてからの知り合いだったのだろうと推測しています。さらに光秀が沼田清長に『針薬方』の口伝を与えたという史料から、光秀に医術の心得があったと見ています。
 光秀の医術の心得は専門家と呼べるほどのものではなく、医師として活躍していたというほどのものではないと考えられますが、牢人時代の生計を支えるものだったのでしょう。

 光秀は美濃土岐一家の牢人で、朝倉義景を頼り越前の長崎称念寺の門前で10年間暮らしていたといいます。このときに光秀の生計を支えたのが医術だったのでしょう。17世紀頃まで牢人あがりが村の医師となっており、光秀も牢人として近隣の村の医師代わりだったのかもしれません。
 ちなみに光秀の生年に関しては、1528年説と1516年説がありますが、著者は織田軍の激務の中での活躍を考えると1528年説が妥当ではないかと見ています(そうすると享年は55歳)。

 光秀はまず足利義昭に仕えますが、史料によると、永禄9(1566)年8月から10月の間に義昭方として対三好戦の高嶋田中城詰に参加し、永禄11(1568)年4月に一乗谷で義昭が元服した前後に行われた家臣団整備の際に足軽衆として正式に編入されています(42p)。
 永禄11年の9月に義昭とともに信長が入京しますが、かなりばたばたした部分もあったようで、山城国賀茂郷の侍たちが差し出した「請状」=誓約書を紛失するという失態を犯しています。
 この後始末を行ったのが信長配下の木下秀吉と義昭の配下の光秀でした。このころは両者とも地位は低く、面倒な仕事を押し付けられたというわけです。
 なお、元亀元(1570)年に義昭から山城下久世荘(年貢高60石程度)の一職支配を認められていることが確認できます。

 この後、信長は浅井長政の裏切りにあって苦境に陥ります。人材不足も深刻化し、その中で光秀は大津の宇佐山城の城主となっています。
 さらに元亀2(1571)年に行われた比叡山焼き討ちにおいて光秀は活躍したようで、滋賀郡全体を与えられています。このとき光秀は抵抗する敵は「なてきり」にするという書状を出しており、実際にそのようなことを行ったのでしょう。
 さらに光秀には比叡山の関係者が京都に持っていた所領も与えられたようで、廬山寺、青蓮院、妙法院、曼殊院門跡領が光秀から押領を受けていると朝廷に訴えています。このことについて光秀は義昭から叱責を受けていますが、義昭から与えられた所領に比べると、光秀が信長から与えられた所領は遥かに大きいものでした。元亀3年には光秀は坂本城を築城しています。

 天正元(1573)年に義昭と信長が離間すると、光秀はいち早く信長方につきます。義昭の蜂起はあっけなく鎮圧され、義昭は蟄居を命じられます。光秀は名実ともに織田家の家臣となりました。
 この年の12月には、光秀は村井貞勝とともに京都代官としての執務を行い始めます。それと同時に武田勝頼の美濃攻めの対応や石山本願寺都の戦いのために摂津・河内に出陣するなど、武官としての務めも果たしています。
 京都代官の職務は村井貞勝と共同で行われており、この時期の署名は光秀と貞勝の連署となっています。
 
 天正2年になると、信長は拡大した領国間を素早く移動するために大規模な道路工事を始めます。この道路整備は移動の安全性を高めると同時に、今までの荘園制のしくみを無視した人夫の動員が行われており、荘園領主の権限を弱体化させる効果も持ちました。
 ちなみに室町幕府の官僚機構を支えたのが伊勢氏ですが、光秀は伊勢氏の家臣団を吸収し、京都の市政にあたりました。

 天正3(1575)年5月、信長は長篠の戦いで武田勝頼の軍を破ります。光秀は島津家久の一行の接待を行った後、この戦いに加わったようです。
 7月に光秀は惟任へ改姓し日向守に任官し、惟任日向守光秀となります。10月には光秀を大将とした丹波攻めが始まっており、光秀は信長のもとで一軍の将となりました。そして、京都代官は村井貞勝が単独で務めることになります。

 ところが、この丹波攻めは天正4(1576)年の波多野秀治の裏切りによって挫折します。光秀は一時期体調を崩したようですが、その後、新たな拠点として亀山城を築城するとともに、本願寺攻めや雑賀攻め、さらには松永久秀の信貴山城攻めにも加わっています。
 
 本書はここで天正5(1577)年に大和国で行われた1つの裁判に注目しています。
 この裁判は戒和上という戒を授ける地位をめぐって興福寺と東大寺が争ったものでした。もともと戒和上の地位は東大寺が持っていたのですが、1446年の戒壇院の火災以降、この座を興福寺に譲り渡したのですが、興福寺でこの地位にあった人物の死を機に、東大寺はこの地位を取り戻そうとしたのです。
 この裁判を裁いたのが光秀であり、重要な役割を果たしたのが光秀の妹であり信長の側室でもあった御妻木殿でした。興福寺は信長へのはたらきかけをしようとして当初はうまくいきませんでしたが、御乳人(おちのひと)と呼ばれる女性から御妻木殿へとつながり、そこから信長に訴訟を取り次いだのです。

 基本的に信長は朝廷や寺社から持ち込まれる訴訟を扱うことに消極的でしたが、今回は女性ルートがうまくはたらいたこともあり(信長と親しい近衛家が関係したということもあった)、この訴訟は光秀に任されることとなります。
 訴訟は興福寺側が提出した書類がおそまつであったために興福寺が窮地に陥りますが、興福寺は直接光秀にアプローチし、興福寺側勝訴の判決を勝ち取ります。光秀は東大寺の提出した官宣旨が132年前のものであり、近年の書類しか証拠として採用しない信長の裁判基準と合わないことを指摘したのでした。歴史を無視した乱暴な判決にも見えますが、それでも信長のお墨付きが絶大であり、人々はこれを受け入れました。

 この判決の言い渡しに際し、光秀は、光秀の祖先は足利尊氏から直々に「御判御直書(ごはんおじきしょ)」を頂戴したが信長のもとでは役に立たないと言い、自らの判断を正当化しています。また、このことについて書いた史料からは、光秀は「是一(これひとつ)」と箇条書きのような形で整然と話し、また早口だったこともうかがえます。
 この判決に関して、信長からの朱印状は発給されておらず朝廷から文書が出ています。つまり、信長の意向に沿って朝廷が判断を下している形になっているのです。
 著者は「つまり信長の丸投げともいってよい部将への委任のもと、信長の方針は遵守しつつ、裁量を駆使して迅速に問題を解決することが、織田家の家臣団には求められていたのである」(145p)と述べています。信長のもとでは信長の意向を忖度して行動することが重要だったのです。

 天正6(1578)年の後半になると、光秀は丹波攻めを本格的に再開しますが、10月に荒木村重の裏切りがあり、光秀もこの対応にあたります。ただし、二度目の丹波攻めでは敵方の城をしっかりと囲んで飢えさせるという作戦が徹底したようで、光秀が現地に赴かなくとも攻略は進んでいきました。このころになると夜の6時に丹波から出された書状が朝の8時には京に届くようになっており(154p)、道路整備とともに通信環境も整えられていたことがわかります。
 こうして天正7(1579)年の10月には信長に丹波の平定を報告しています。

 光秀は丹波の経営にあたるとともに、坂本城の修築、大和での指出(検地)などにも携わっています。両国経営において、秀吉は実際に現地で調査する検地を行いましたが、光秀はより迅速にすむ指出を行っています
 また、光秀は軍法も定めていますが、そこで注目されるのが人夫についての規定です。夫役に対する対価を規定するなど配慮した規定もありますが、これは厳しい人夫調達の裏返しとも言えます。この時期の織田軍は築城や道路整備などを急速に進めており、その工事を行う人夫の確保が課題でした。光秀は領国の百姓も動員していて、最大で年間60日にも及ぶ夫役を課していたとのことです(179p)。

 さて、いよいよ本能寺の変ですが、著者が注意を向けるのが天正9(1581)年の8月に光秀の妹で信長の側室の御妻木殿が亡くなったことです。
 また、光秀は年末に家中に対する法度を作成していますが、そこには織田家の宿老や馬廻衆とすれ違うときは慇懃に接するように求めるなど、織田家中への配慮が見られます。御妻木殿が亡くなったことで光秀への風当たりが強まっていたのかもしれません。
 この時期の光秀は丹波・山城・大和の経営などを任される一方、信長から長岡(細川)藤孝への書状の伝達や徳川家康の饗応など細々とした仕事も任されており、織田政権の人材不足の中で光秀には数多くの仕事が降りかかっていました。
 しかし、信長はこのころになると一族を優遇する政策をとるようになります。前線で部将を酷使する一方で、整備の済んだ領地は一族に与えるということが行われていたのです。

 本書ではこうした遠因が指摘される一方で、直接の原因については特に触れていません。また、陰謀論(秀吉黒幕説、家康黒幕説、朝廷黒幕説など)の否定も行っていません。あとは、淡々と本能寺の変とその後の山崎の戦いでの光秀の敗死を記述しています。
 そして、本能寺の変については次のようにまとめています。
 変質しつつあった織田政権の序列にあって、側室として御妻木殿が仕えていたことの意味は大きかっただろう。一門に準じた待遇が期待できたからである。しかし彼女が死去したことで、一族・一門を中心に再編されつつあった流れから、光秀は取り残されることになった。
 御妻木殿没後に作成された家中軍法では、信長の「御宿老衆・御馬廻衆」に対する過剰なまでの配慮が読み取れるが、そこにはかつて部下に「信長」と呼ばせていた織田家中の自由な雰囲気は微塵も感じられない。ここでまた彼は身分の壁に直面していたのであり、本能寺の変とは、それを乗り越えるための大きな試みだったとも言えるのである。(198p)

 このように本書は今まではと素押し違った角度から光秀の事績をたどった本になります。先程述べたように本能寺の変の直接のきっかけ(例えば四国攻めを外されたことなど)については全く触れられておらず、本能寺の変の「真相」を知りたい人などにとってはやや物足りないかもしれません。
 ただ、もはや400年以上前の「真相」などを確定させることはできないわけで、明らかになっている史料からの推定にとどめている本書の書き方は誠実なものと言えるでしょう。
 信長の動きが頭に入っていないとややわかりにくい面もあるかもしれませんが、その分、信長や光秀のことをある程度知っている人にも新しい発見がある本だと言えます。