渡辺信一郎『中華の成立』につづく、岩波新書<シリーズ中国の歴史>の第2巻。以下に本シリーズの構成を示した画像を再掲しておきますが、今作では中国南部の舞台に稲作が始まった時代から南宋の滅亡までが描かれています。
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 「はじめに」で「南船北馬」という言葉が紹介されているように、中国北部が「馬の世界」であるとしたら南部は「船の世界」です。そして船を通じて東南アジアや日本ともつながっていました。また、商業の発達などは「古典国制」の枠組みに包摂されないアウトロー化した人びとを生み出しました。
 本書では中国南部を中心とした通史でありますが、同時に国家とアウトロー化した人びとの関係などを探ることによって現代につづく中国社会の特質にも迫ろうとしています。
 かなり硬い印象のあった第1巻に比べると、同時代の日本への言及なども多く、より柔らかい印象があります。前半は中国史を裏側から眺めるような面もあるので、少しわかりにくい面もあるかもしれませんが、第3章〜第5章、そして「おわりに」は面白いと思います。
 
 目次は以下の通り。
第1章 「古典国制」の外縁
第2章 「古典国制」の継承
第3章 江南経済の起動
第4章 海上帝国への道
第5章 「雅」と「俗」のあいだ
 
 黄河と並ぶ中国の大河・長江には「長江文明」というべき統一的な文化圏はなかったものの、いくつかの文化圏が存在しており、約1万年前あたりからイネの栽培が始まったと考えられています。
 紀元前2050年頃に中原でおこった二里頭文化(夏王朝?)の影響は長江流域にも及んでいたようで、二里頭文化の青銅器は長江流域、さらには華南・ベトナム北部からも発見されていますし、逆に二里頭文化の遺跡からは南部からの貢献されたものも見つかっています。

 春秋時代いなると、楚・呉・越といった国が現れますが、その中で強大になったのが楚です。楚は前597年の邲の戦いで中原諸国連合を撃破し、前6世紀後半から前5世紀にかけては「臥薪嘗胆」のエピソードでも知られる呉や越が力を持ちました。
 前4世紀になると再び楚が力を持ちますが、秦が急成長すると、次第に圧迫され前223年に楚は滅亡しました。
 その後、楚に現れたのが項羽です。項羽は陳勝・呉広の乱をきっかけに台頭し、秦を滅ぼしますが、ご存知のように劉邦との戦いに敗れました。
 劉邦により建国された漢では、帝国の西半分を郡県制、東半分を封建制にするという折衷的な統治制度が導入され、楚王には韓信が任じられました。しかし、体制が安定すると韓信ら功臣は粛清されていき、代わりに劉氏一族が封建されていきます。さらに5代文帝・6代景帝の時代になると、同姓諸侯王も抑圧され、呉楚七国の乱が起こりますが、これも短期間で抑え込まれます。

 前漢末期〜王莽時代〜後漢にかけて中国では「古典国制」が完成していきます。秦の商鞅に始まる小農民を主体とする一君万民体制が固められていったのです。この過程で氏族制社会は解体されていきますが、それとともに大量の遊侠(アウトロー)が社会に流出しました。彼らは個人間の関係(「幇の関係」)を重視し、命をかけました。劉邦や彼に仕えた韓信はそうした人びとです。
 また、戦国時代から商業が盛んになりますが、農本主義をとる法家は商人の活動を抑制しました。武帝の時代に財政再建を行った商人出身の桑弘羊は商人に税を課すとともに、塩や鉄の専売により財源を確保しましたが、このような政策は国家が「民と利を争う」(31p)ものとして批判されました。
 前漢の時代、次第に成長したのが「豪族」と呼ばれる大土地所有者です。豪族はしばしば「酷吏」に弾圧されましたが、彼らは儒教的な教養を学んで官僚の世界にも進出し、同時に基層社会の指導者となっていきます。その過程で儒教が基層社会にも浸透して行きました。
 後漢の時代になると江南の開発が進み、前漢末に250万だった人口は620万へと大幅に増えます(36p)。こうした開発は主に地方官によって主導されたものでした。

 後漢末はいわゆる『三国志』の舞台です。江南に呉を建国したのは孫権でしたが、孫権は元々呉郡の下方豪族の出身で、周瑜・張昭らの北来の豪族、陸遜ら江南の有力豪族、魯粛のような振興富裕層を取り込み、勢力を拡大しました(43p)。
 孫権は魏に対抗するために遼東の公孫氏や朝鮮半島の高句麗などにも働きかけを行っており、さらに東南アジアにも使節を派遣していました。こうした交流の中で呉では仏教がさかんになります。
 
 280年に呉は晋に滅ぼされ、普が中国を統一しますが短期間で崩壊し、五胡十六国時代へと突入します。中国北部に多くの異民族が侵入し王朝を建てたこの時代、90万人とも言われる人びとが戦火を逃れて南へと移動しました。普も江南に移動し、東晋となりました。
 東晋では北部からやってきた豪族が実権を握り、特に何代にもわたって重要な役職を務めた家は「貴族」と呼ばれるようになります。東晋が滅亡した後、宋→南斉→梁→陳と王朝は代わりますが(倭の五王が遣使したのは宋と南斉の時代)、この貴族が大きな存在感を示したという点は代わりませんでした。
 呉から陳に至る時代は六朝時代と呼ばれ、「寒門の新興武人層が軍功を背景に新王朝を創設する歴史を繰り返す一方、貴族・豪族が朝廷の高官を長く寡占し、短命な王朝を尻目に家運を維持しつづけ」(62p)ました。
 一君万民制のもとで小農の力が強かった中国社会において彼らは領主のような権力を確立することはできませんでしたが、魏で創設された九品官人法を背景に高い官品を得て官僚になり、高い官僚の地位を世襲していきます。

 そうした中で貴族たちの権威は高まり、「皇帝一族との通婚さえ、家柄の違いを理由に拒否するほど」(65p)でした。彼らは実務系のポストよりも文章を書くような非実務的なポストを好み、文化を発展させました。中原に遊牧系の王朝ができたこともあって、江南の人びとが中華文化の継承者を自認しました。
 また、この時代には北部からやってきた人びとが先住豪族の私的隷属民となり、江南の開発が進み、貴族の大土地所有も進みました。

 結局、北の隋に南の陳が滅ぼされ中国は統一されますが、隋の煬帝は江南の風土と文化にのめり込み、揚州に建てた離宮にしばしば行幸するとともに、南北を結ぶ大運河を建設しました。
 唐の太宗も王羲之を愛し、南朝の文化、あるいは国制は唐にも大きな影響を与えました。
 唐は8世紀半ばの安史の乱によって大きく動揺しますが、財政に関しては塩の専売と両税法の導入によって立て直しが図られ、9世紀はじめには再び安定します。江南デルタの開発も始まり、江南の富が北へと送られました。

 しかし、憲宗が宦官の手によって殺されると再び世は乱れ始め、戸口数が大きく減少するとともにアウトローが増え始めます。こうした社会の混乱の中、黄巣の乱をきっかけに台頭した朱全忠により唐は滅ぼされ、梁が建国されます。
 その後、中国は五代十国時代と呼ばれる王朝が生まれては倒れる時代となりますが、これを治めたのが後周の軍司令官だった趙匡胤でした。宋を建国した趙匡胤は太祖となって軍事力の集中を成し遂げ、その後を継いだ弟の太宗は遼に割譲されていた燕雲十六州以外の中国を統一し、科挙を改革して中央集権を進めました。特に皇帝自らが臨む「殿試」の導入は、皇帝と官僚の直接的な関係をつくる役目を果たしました。また、さまざまなポストを複数置くことで権限が特定のポストに集中しないような仕組みが取られました。
 
 このような大規模化した官僚組織は農業生産に対する両税と塩の専売などが支えました。また、「北辺や首都圏の需要を、南方の生産が支える」(103p)という仕組みも拡充されました。
 太宗期に進められた改革によって、貴族が没落するとともに科挙官僚が台頭し、皇帝の権力は強化されました。こうした中で江南の地主層はその富を子弟の教育に注ぎ、多くの科挙官僚を排出しました。富だけでなく人材も南から北へ流れたのです。

 11世紀後半になると宋の財政も傾きます。ここで登場したのが世界史の教科書にも載っている王安石です。教科書の記述ではその革新性は理解しにくいですが、本書ではその新法運動の革新性を次のように指摘しています。

 青苗法・均輸法・市易法はいずれも、地主や富商が利益を独占する民間経済に政府が介入し、彼らが高利貸しや投機を通じて得ていた利益を、国家収入に転化したうえで、中小の農民・商人に再分配するものである。(109p)

 さらに募役法や河倉法は、今まで地域の有力者などに無償で任せていた末端事務を、給与を出して業務委託するというものでした(この無償で末端事務を行う人物は「胥吏(しょり)」と呼ばれしばしば賄賂をとった(岡本隆司『腐敗と格差の中国史』(NHK出版新書)も参照)。また、科挙でもより実務能力を重視する改革が行われました。
 このように王安石の改革は、今風に言えば「大きな政府」を目指す改革でした。だからこそ、中国に伝統的な「政府による民事介入が少ないことを良しとする価値観」(112p)と衝突し、旧法党の激しい反発を呼びました。
 王安石を抜擢した神宗の死とともに新法党は失脚し、その施策は廃止されます。そして12世紀の徽宗の時代に金の侵攻によって徽宗は欽宗とともに捕虜になり、北宋は終焉します。そのため、徽宗は暗君の代名詞(ただし書画の才能は一級品だった)のように言われていますが、近年の研究では彼が新法政治の推進に意欲を持っていたことなどが明らかになっています。

 徽宗の頃、中国の人口は1億人を突破したとされています。人口比率の南北逆転も起こり、11世紀後半には南方の人口が65%になりました(116p)。江南デルタの開発も進みますが、そこで存在感を見せたのが大地主でもある新興の科挙官僚でした。
 中国では家産均分慣行(兄弟が平等に相続)があり、ほっておけば代を経るごとに零細化します。そこで地主は「宗族」という男系血縁集団の復活を図り(商鞅の改革以降、その存続は難しくなっていた)、宗族の共有財産を設定するとともに、宗族内の優秀な子弟に教育を施して科挙に合格させることで、家運の維持を図りました。
 さらに商業の発展とともに豊かになる層もあらわれ、海上交易で栄えた福建は科挙の合格者数でトップに躍り出ました(121p)。

 金に蹂躙された北宋でしたが、高宗が南部に逃れ南宋が成立します。高宗に信頼された秦檜は、金との戦いに善戦した岳飛らを抑えて金と和議を結び、「金が主、宋が臣」という関係を結び、毎年宋から金へ銀25万両、絹25万匹を献上するという和議を結びました。
 1161年、侵攻してきた金を宋は撃退し、金から大幅な譲歩を引き出して和議を結びます。しかし、13世紀になると皇帝の外戚の韓侂冑(かんたくちゅう)が金との戦いに打って出て失敗、その後、南宋は史弥遠(しびえん)のもとで安定しますが、北にはモンゴルという新たな敵が登場しました。結局、1276年に南宋はモンゴルに降伏します。

 最終的にはモンゴルに屈した南宋ですが、経済の発展ぶりは当時の世界でも屈指のものでした。杭州にはさまざまな商品が集まり、本籍地からはみ出したアウトローたちが賃労働に従事していました。
 ただ、J・ジェルネが「商人が金持ちになること以外は何も起こらなかった」(143p)と書くように、中国の商人はブルジョワジーにはなりませんでした。これは中国ではギルドのような団体が発展しなかったこと、成功した商人が一族の中から科挙の合格者を生むことを目指したことなどが背景にあると考えられます。中国のような家産均分と多角経営を軸とする流動的な社会では、身分団体をつくって国家に対抗するよりも、科挙に合格し国家権力に食い込むほうが自然だったのです。
 また、経済の発展とともに銅銭だけでは貨幣需要に応えられなくなり、鉄銭や紙幣(会子など)も使用されるようになりました。さらに銀の使用も広がっていきます。
 南宋では海外貿易もさかんになり、東南アジアや西アジアの品物が流入しました。日本との貿易も行われ、平氏政権、そして平泉ともつながっていました。南宋はまさに「海上帝国」だったのです。

 通史としてはここで終わってもおかしくないのですが、本書では第5章で中国の官民関係を大きく捉え直しています。
 中国では、「歴史上、地方分権(封建制・領主制)が繰り返し否定されてきた結果、「専制国家と基層社会の乖離」は著しく大きく」(164p)なりました。地方官として科挙官僚が任命されましたが、彼らは3年ほどの任期で異動していく存在で、地域社会では豪民(地主や富商など)や胥吏が力を振るっていました。
 一方、争い事に関しては県や州といった国家権力に持ち込まれており、中国の社会団体が「法共同体」としての力が弱かったこともうかがえます。日本のように村が構成員を処罰するような形はあまり見られなかったのです。そのため、中国では村の構成員の資格なども曖昧で、流動性の高い社会となっていました。中国では国家や中間団体は「規制もしないが保護もしない」(167p)存在で、日本や西欧とは対照的でした。
 この中間団体の弱さを補ったのが個人間の「幇の関係」です。個人は友達の友達のような伝手で流動性の高い社会を渡っていこうとしたのです。

 封建社会や部族社会では集団の基礎単位が軍団に由来するために、「武」を中心とした国家機構が組み上げられがちですが、封建社会や部族社会が否定されてきた中国では「文」が軸となり、王朝を生み出した武力は弱体化されました。
 先の述べたように、中国では富裕層が子弟を教育し科挙を受けさせましたが、当然ながら未合格者も増えていきます。彼らに受け入れられたのが「道学」であり、特にその中の「朱子学」でした。朱子学は下っ端の士大夫に修養の道を示すとともに、その先に天下国家を見据える展望を提供し、彼らの期待に応えました。
 朱子学を学んだ中には地域社会の規範を定めたり、飢饉に備えて社倉をつくるものも現れ、これが明清期の郷紳へとつながっていきます。

 「おわりに」では、中国史を学んだ者からよく出る質問として、中国において「「一元性の志向」と「多元性の放任」が併存するのはなぜか?」、「近代的諸価値との不調和を起こしがちなのはなぜか?」という2つの問をあげ、それに対する見通しを示しています。
 前者に関しては、「一元性」は建前で、その建前を崩さない限りの多元性は放任するというのが歴史的に主流だったということを述べ、後者に関しては「対等な団体間での合意形成とい慣行の有無」(183p)がポイントだと指摘しています。
 「「誰でもなれる」「なれれば万能」という科挙官僚制の設計の「卓抜さ」は、当事者の内部からその仕組みを解体する動機が生まれないことにある」(186p)とありますが、唯一の権力とそこにいかに食い込むかという考えは根強いのです。

 このように本書は通史でありながら、中国社会の特質を探る本でもあります。最初にも描いたように前半はやや歴史的事象を追いにくい部分もあるかもしれませんが、後半は歴史だけでなく中国社会への理解が深まる内容となっています。時間がない人は思い切って第3章から読んでも得るものがあると思いますし、そこだけでも十分に買う価値のある本です(もちろん第1章、第2章も読む価値ありですが)。