『日本の大陸政策 1895‐1914』(『大正政変』と改題されて復刊されている)、『政党内閣の崩壊と満州事変―1918~1932』『児玉源太郎』など、地味ながらも日本の政治と軍を考える上で非常に刺激的な本を出していた著者による初めての新書。しかも内容は、明治維新から太平洋戦争終結までの「軍部」の通史であり、8章仕立て550ページを超えるボリュームとなっています。
 今までの見方とは違った視点から歴史が再構成されるさまを見ることは、歴史学の本を読むときの醍醐味の1つですが、本書はまさにそれを味わえる本です。山県有朋が政党の影響力を排除するためにつくった参謀本部や軍部大臣現役武官制、これらが「軍部」というアンタッチャブルな領域をつくり出し、それが昭和に政党政治を飲み込んでいった、というようなわかりやすい「政党」vs「軍部」というイメージをさまざまな史料を用いて覆していきます。
 もちろん、軍部中心の通史ではあるのですが、日本の行った戦争だけでなく、政党政治や統治システムへの目配りもあり、日本近代史の通史としても面白いです。

 目次は以下の通り。
はじめに
第1章 「非政治的軍隊」の創出
第2章 政党と軍隊ーー自由民権運動と士族
第3章 日清戦争の勝利ーー徴兵制軍隊の確立
第4章 「憲法改革」と日英同盟
第5章 日露戦争と山県閥陸軍の動揺
第6章 政党政治と陸軍ーー軍縮の時代
第7章 「憲政の常道」の終焉と軍部の台頭
第8章 軍部の崩壊と太平洋戦争
おわりに 明治憲法体制と軍部

 ボリューム、密度ともに相当なものがあるので、以下ではできるだけポイントを絞って紹介していく予定ですが、まず「はじめに」で提示されている重要なポイントが以下の点です。

 一見すると水と油のように見える、近代日本の軍隊と政党は、実は士族という母体から生まれた一卵性双生児なのであって、こういった来歴こそが、その後の日本の政軍関係や軍部のあり方にも大きな影響を及ぼしているのではないだろうか。(10p)

 幕末、ライフル銃が輸入され、西洋式の軍隊が知られるようになると、大量の火器と歩兵こそが戦闘の帰趨を決めるものとなり、武士のみの軍隊は時代遅れとなります。そこで長州藩の奇兵隊などが登場するわけですが、彼らもまた武功をあげて士分に取り立てられることを期待しており、いわゆる徴兵制の軍隊とは違ったものでした。一方、薩摩藩では郷士層が西洋式の軍隊に再編成されます。
 戊辰戦争後、戦った人びとの復員が問題となります。恩賞を受けた者はほんの一部にとどまりましたし、奇兵隊などは解散させられました。ここに戊辰戦争後の処遇に不満を持つ士族や、士族になることを期待した大きな一団が誕生します。

 新政府の軍隊についても、大村益次郎−山県有朋のように徴兵制を施行し、非政治的な軍隊をつくるべきだという考えもあれば、板垣退助のように士族中心の軍をつくることで士族階級の維持をはかりたいと考える者もいました。
 板垣は明治六年の政変で一度政府を去りますが、だからといって徴兵制の軍隊の地位が安泰になったのではなく、佐賀の乱において大久保利通は参議兼内務卿として兵権を掌握すると、士族兵を徴募してこれを鎮圧しました。徴兵制の軍隊も軍の指揮系統も無視した運用が行われていたのです。
 西南戦争でも、山田顕義司法大輔や黒田清隆開拓使長官といった他省の人間が野戦部隊の指揮官に任命され、徴募した士族が内務省警視局の巡査部隊に編入されて実戦に投入されるなど、統帥のシステムは混乱していました。ただし、巡査部隊の軍紀は悪く、やはり徴兵制の軍が必要だという認識も与えました。

 薩摩、長州、肥前では士族の不満が暴発しますが、暴発しなかったのが土佐でした。土佐では温存された士族が立志社をつくります。立志社といえば自由民権運動の担い手ですが、士族中心の組織で武道の錬成を重視しており、実体は薩摩の私学校に近いものでした。
 立志社は徴兵制に対して「時期尚早論」を唱えた立志社ですが、その理由は徴兵制は立憲政治のもとで真価を発揮する血税のしくみであり、専制政治とは相容れないからだというものです。ここに民権運動は反常備軍と士族を基盤とする義勇兵を構想として掲げることになります。専制政治のもとでの徴兵制の軍隊は否定されるべきものなのです。

 一方、山県は近衛砲兵大隊が反乱を起こした竹橋事件に衝撃を受け、よりいっそう非政治的な軍隊の建設を目指します。1878年には陸軍省から独立した天皇直轄の軍令機関として参謀本部が設置されました。この参謀本部に関してはドイツで学んだ桂太郎が推進したとされますが、本書では実は桂がフランス流の大陸軍省=小参謀本部を志向していたことが指摘されています(73p)。
 こうした山県の動きに対して、政治的な活動を行ったのが四将軍(谷干城、三浦梧楼、島尾小弥太、曾我祐準)です。彼らは佐佐木高行ら天皇親政論者と中正党を結成し、藩閥の主流派とは距離を取りました。

 明治14年の政変によって10年後の国会開設が決まりますが、来たるべき国会開設に備えていた自由党は「活発有為の士」を養成するために東京築地に「有一館」を開きますが、開館式はまるで武術大会で、板垣も「武の錬成」を訴えるなど、自由党には準軍事組織的な色彩もありました(97−98p)。植木枝盛の「東洋大日本国国憲按」にも人民武装論的な部分があります。
 1884年に甲申事変が起きると日本の世論は沸き立ち、自由党系の地方政社を中心に義勇兵運動が起こります。しかし、政府中枢には朝鮮半島に介入するような余裕はなく、むしろ清の軍事的脅威からいかにして国土を防衛するかということがポイントでした。1886年に清国北洋水師の水平が入港した長崎で日本人巡査と衝突する長崎事件が起きると、その脅威はますます強く感じられるようになります(106−107p)。

 1884年に日本を出発した大山巌率いる陸軍視察団の影響で、陸軍はフランス式からドイツ式への切り替えが進んでいきます。この動きを推進したのが桂太郎と川上操六でした。
 陸軍では山県・大山らと明治天皇の信任を得ていた四将軍派が制度や人事をめぐって対立しますが、師団制を導入するとともに四将軍を陸軍から追放します。ただし、四将軍派の政治力はまったくなくなったわけではなく、農商務大臣の谷干城は欧州への視察へ出かけ、帰国後は民権派に接近します。
 旧自由党系の人々を中心にして三大事件建白運動が起こりますが、ここでも運動参加者の間では民兵構想が語られていました。これに対して山県は三島通庸警視総監を叱咤して保安条例を施行させます。

 1890年に第一回衆議院議員総選挙が行われ、帝国議会が始まります。その時の首相は山県であり、有名な「主権線、利益線」の演説が行われました。この演説は山県の持っていた朝鮮侵略の意図を示すもの(さらには陸軍の大陸進出の始まり)とされてきましたが、山県はこの後、朝鮮を中立国とする構想を語っており、また、清との融和姿勢を示していました(134−139p)。
 山県の次に首相になったのは松方正義でしたが、松方は各省の自治性を高めるとともに、陸軍大臣と次官の武官専任制の撤廃に踏み切ります。しかし、松方と薩派の行った選挙干渉は大きな混乱をもたらし、高知県では「戦闘」といっていいような自体が起きました(146−148p)。選挙干渉後、松方と陸軍の対立が激しくなり松方は辞職しますが、松方が踏ん張れば文官大臣の可能性もあったと著者は見ています(150−152p)。

 日清戦争が勃発すると、民権派や旧士族による義勇兵運動が起こりますが、同時に戦時にも関わらず第4回衆議院議員総選挙が行われるなど落ち着いていた部分もありました。
 伊藤や山県は日清戦争が長期化することを予想していましたし、戦争の結果にかかわらず清の地域大国としての地位は揺るがないと考えていました。ところが、予想以上の速さで日本は勝利を重ね、清はここでの敗北をきっかけに没落していきます。
 日本は朝鮮半島から清の影響力を一掃しましたが、直後の三国干渉が日本に衝撃を与えました。日本は閔妃殺害事件などによって朝鮮での影響力を弱め、代わってロシアが朝鮮半島にも影響力を発揮するようになるのです。

 こうした中で「北守南進論」も登場します。朝鮮半島では現状維持につとめるとともに台湾を足がかりに福建省、さらには揚子江下流域へと進出しようというのです。
 しかし、第2次松方内閣は台湾経営に行き詰まり、さらに進歩等の支持も失ったことで総辞職します。代わって成立した第3次伊藤内閣は陸相に桂を起用しますが、このころから陸軍における薩派の凋落が始まります。1899年には川上操六も急逝し、薩派の影響力は参謀本部に限られることになりました。なお、台湾経営に関しては児玉源太郎と後藤新平がこれを立て直し、軌道に乗せます。
 1899年、陸軍の大阪地方特別大演習を板垣が山県首相とともに陪観しますが、著者はこれを士族を基盤とする軍を主張した板垣らのグループと徴兵制推進グループの和解を示す象徴的なイベントだと見ています。旧自由党系の星亨は第2次山県内閣を支え、この内閣のもとで地租増徴が実現しました。士族の復権を求めるものでもあった自由民権運動は体制の中に組み込まれていくのです。
 
 本書では日英同盟も北守南進論の見地から捉えられています。一般的に日英同盟によって日本はロシアとの対決を決意したと考えられがちですが、桂や小村寿太郎は日英同盟によってロシアの朝鮮への圧力は減退するはずだという見通しのもと、日英同盟が英領植民地の通商などの開放につながり、日本が南進する契機になると考えていたというのです。
 しかし、1903年になると情勢が変わってきます。ロシアは満州からの撤兵を行わず、日英同盟に対露抑止効果がほとんどないことが明らかになったのです。ただし、1903年7月の時点で児玉が台湾総督のまま内務大臣兼文部大臣に就任し、そこで文部省の廃止(内務省に吸収)が画策されたように、まだ日露交渉の行方は楽観的に捉えられていました。
 ところが、10月に入るとロシアとの妥協が難しいことが明らかになり、急逝した田村怡与造参謀次長の後任に異例の降格人事で児玉が就任します。開戦を予想した人事でもありますが、寺内正毅は明治天皇に、「ロシアとの交渉が上手く行ったら、次は児玉を参謀総長に就任させて参謀本部の憲法内機関化に着手させるつもりであると述べていた」(237p)そうです。

 日露戦争において、外征軍に権限を集中させたい大山・児玉と東京の大本営にもそれなりの権限を確保したい山県・桂・寺内らが揉めることもありましたが、結局、大山を総司令官、児玉を総参謀長とする満州軍総司令部が設立され、作戦を一手に担うことになりました。ちなみに著者は旅順での予想外の苦戦が児玉に超人的なはたらきを強いたとして、「(乃木の)第三軍は大本営の隷下に置かれるべきだったかもしれない」(255p)と述べています。
 戦局が優位に進むと、伊藤−児玉の早期講和論と桂−小村の一撃講和論が対立しますが、結局は早期講和でまとまりポーツマス条約が結ばれます。しかし、賠償金を取れなかったことなどから日比谷焼討ち事件を起きました。

 日露戦争によっていよいよ声望の高まった児玉は、伊藤からは首班候補と目され、また、参謀総長として帷幄上奏権改革や参謀本部改革に取り組みますが、この動きは1906年に児玉が急逝したことから挫折します。児玉のプランを引き継ごうとしていた寺内の動きも挫折し、伊藤・児玉・寺内の改革路線は失速しました。
 また、満州経営に関しても積極的だった児玉がいなくなったことで、陸軍では消極論が強くなります。満州軍参謀だった田中義一は「満州は清国の領土であり、日本が満州防衛の責に任ずるのは不合理である」(275p)と考えていました。田中は日英同盟を破棄して日露同盟を結び、北守南進を実行すべきだと考えていたのです(276p)。

 日露戦争のため大幅な増税が行われましたが、その結果、「直接国税10円以上という納税資格をクリアした有権者数は76万人から159万人へと飛躍的に増大」(281p)しました。それとともに政党の発言基盤は強化されました。これが桂園体制成立の背景にあります。
 桂園体制は山県系官僚閥と政友会の勢力均衡の上に成り立っていましたが、その裏で薩派陸軍の勢力は凋落し、伊藤もまた韓国統治で行き詰まり、思い切った国制改革を行う機運は失われていきました。そして伊藤は1909年に暗殺されます。

 桂園体制の崩壊の引き金を引いた2個師団増設問題と上原勇作の帷幄上奏ですが、陸軍中央の山県らはそこまで強硬ではなく、強硬なのは薩派でした。山本権兵衛の女婿の財部彪海軍次官は、海軍拡張の好機と捉えて上原に増師要求を貫くようにけしかけていました。
 このときに桂があえて倒閣の動きを止めなかったことが第2次西園寺内閣の総辞職につながります。桂は山県系の人物を退けた上で自前の内閣を組織しますが、これが国民の反発を呼びます。新党運動も不調に終わり、桂内閣は総辞職せざるを得なくなるのです。
 つづいて成立したのは薩派と政友会の連合政権である山本権兵衛内閣でした。山本は軍部大臣現役武官制を改正して予備役後備役からも任用できるようにします。さらに山本は文官任用令を改正するとともに、朝鮮総督府の総督を文官制にする、朝鮮などの「外地」を内務省や外務省の管轄下に置く、満鉄の縮小など、山県系の勢力基盤を切り崩すとともに、大陸への深入りを抑え込もうとしました。こられは伊藤の考えに近い路線でしたが、ジーメンス事件によってこの路線は挫折します。

 大隈重信を後継に推薦した山県の動機は政友会の勢力を削り取ることでしたが、第一次世界大戦の勃発は大隈に思わぬ大きな役割を与えます。大衆世論の動向な大隈内閣は第一次世界大戦に参戦すると、さらに軍部や対外硬派などの要求をそのまままとめる形で対華21ヵ条要求を出します。山県の影響力は後退しており、慎重派の意見は退けられます。結果として、「近代日本外交史上最大級の失策」(321p)となるのです。
 一方、日本の陸海軍が恐れていたのが露独同盟、あるいはドイツがロシアを破り東亜に進出してくるというシナリオでした。こうした中で1916年に第4回日露協約が成立します。これは攻守同盟であり、日本は対露武器援助を開始します。
 しかし、革命によってロシアは崩壊し、ブレスト・リトフスク条約により大戦から離脱します。日本では露独勢力による東漸が警戒されるようになり、それがシベリア出兵にもつながっていきます。シベリア出兵はドイツを挟撃したいというイギリスからの要請などもあってなし崩し的に拡大していき、また尼港事件などもあって出兵は長期化しました。
 一方、国内では原敬内閣が成立しますが、大戦景気による財政状況の好転によって軍備拡張を進めながら協調外交に転換していきます。財政的な余裕が「軍事力も外交も」という路線を可能にしたのです。

 原は植民地総督武官専任制を廃止し、参謀本部の権限を縮小しようとしました。陸相の田中義一はこれに呼応し、参謀本部を陸軍省の内局にしようと考えます。しかし、1921年に原は暗殺され、翌年には山県が亡くなります。今までの陸軍と政党の関係は崩れ、田中、あるいは宇垣一成は政党を直接掌握しようとしました。一方で、こうした政党への接近を嫌ったのが上原で、彼ら薩派は参謀本部に立てこもることになります。
 陸相の人事に関しても、今までは山県が決定権を握っていましたが、田中は陸相、参謀総長、教育総監の三長官会議で決定する方式をつくり上げました。
 国際情勢の安定と政党政治の発展は軍縮の圧力を生みました。特に関東大震災が起こると財政面からも軍縮が求められ、4個師団を削減する宇垣軍縮が行われます。中国政策でも外務省と陸軍は歩調を合わせており、第2次奉直戦争などを上手く乗り切っています。

 元号が昭和に変わり、金融恐慌が起きる中で成立したのが田中義一内閣です。田中は蔵相に高橋是清を起用してこれを乗り切りますが、井上準之助を外相に起用しようとした人事はうまくいかず、外相は自らが兼任しました。しかし、田中は政友会における外務政務次官の森恪らの対中強硬派と高橋是清らの自由主義派の対立をコントロールすることができず、田中の対中外交は迷走します。
 第2次東方会議などを開いて対支政策を政治綱領化しましたが、目まぐるしく変わる中国の情勢に対して、かえって政策の硬直化を生むだけでした。山東出兵でも混乱し、このときに矛盾するような上奏があったことが昭和天皇の田中への不信感を生んだとも考えられます(383p)。
 政友会が幣原の「軟弱外交」を攻撃したことも田中の政策を縛り、第2次山東出兵と済南事件につながっていきます。そして、張作霖爆殺事件が起きます。田中は対中宥和政策を進めて混乱を収めようとしますが、事件の処理をめぐって昭和天皇の信任を失った田中は辞職せざるを得ませんでした。

 つづく浜口内閣は、外相に幣原、蔵相に井上準之助、陸相に宇垣を起用した実力者揃いの内閣で、金解禁と緊縮財政、それを支える協調外交と軍縮という政策を推進しました。軍縮は陸軍にとって飲み難いものですが、浜口内閣の産業合理化政策は陸軍で永田鉄山が研究していた総動員体制と相互補完的な関係にあり、宇垣もこの流れに期待を寄せていました。
 浜口はロンドン海軍軍縮条約の調印に踏み切り、「統帥権干犯」の批判を浴びますが、宇垣はこれを支えました。しかし、宇垣が病気療養でその職を離れると、軍制改革の主導権は宇垣の手から離れ始め、1930年には浜口が襲われ瀕死の重傷を負います。翌年に浜口が辞職して第2次若槻礼次郎内閣が成立すると宇垣は陸相を勇退しました。

 幣原と井上は中国で「政経分離」にもとづいた経済外交を展開しましたが、これらは陸軍や財満日本人の反発を呼びました。そして、そうした中で関東軍の石原莞爾らが1931年9月に引き起こしたのが柳条湖事件です。もともと石原は満州のみならず中国を領有することを考えていた人物ですが、わずか8800名の関東軍で満州制圧の挙に出ました。
 当然ながら、援軍などがなければこの軍事行動は続かないわけですが、まずは林銑十郎朝鮮軍司令官のもとで朝鮮軍が越境します。ここで陸軍首脳は辞職も覚悟しますが、若槻が「出たものは仕方がなきにあらずや」(428p)と述べ腰砕けになってしまいます。
 11月には安達謙蔵内相が政友会との大連立によって陸軍を抑え込む策に出ますが、これには政友会の積極財政を嫌う井上が反発し、失敗に終わります。同じく11月には関東軍はチチハル方面に兵を進めますが、これは永田が発案した金谷参謀総長の臨参委命(臨時参謀総長委任命令)によって押し止められます。ここから参謀本部が関東軍を抑え込み、12月初旬には関東軍の行動は行き詰っていたのです。
 ところが11月28日のアメリカのスチムソン国務長官の記者発表において、幣原外相談として今後関東軍の錦州攻撃は行われないだろうという見通しが示されると、幣原の「統帥権干犯」だとして非難が殺到します。幣原や金谷の政治的な求心力は失墜し、政友会も倒閣に動き出すと、若槻は耐えきれずに辞職して、関東軍の暴走を止める機会は失われたのです。

 ついで首相になった犬養毅は中国国民党と強いパイプがあり秘密交渉によって事態を収拾しようとしますが、陸相荒木貞夫と参謀次長真崎甚三郎は戦線の拡大をはかると、第一次上海事変も勃発し、内閣のコントロールは効かなくなります。さらに五・一五事件によって犬養が暗殺され政党内閣は終りを迎えるのです。
 1933年、塘沽停戦協定が成立し、満州での軍事行動は一段落します。日本は蔵相高橋是清のもとでいち早く世界恐慌から脱出し、その高橋を中心に高橋−民政党−統制派−財界という緩やかな提携関係が形成されつつありました。彼らは満州国を真の独立国として発展させ、門戸開放原則を適用することで外資の導入などを図ろうとしていました。一方、荒木が34年に辞任に追い込まれたことで皇道派の政治力は低下していきます。
 
 本書では永田を中心とした「統制派」と二・二六事件以降の陸軍主流派の「新統制派」を区別しており、永田のもつ柔軟性や協調主義的な傾向を重視しています(468−470p)。しかし、その永田が陸軍省内で斬殺されます。さらに二・二六事件によって高橋是清らが暗殺されると、前述のような高橋を中心とした連携は崩壊し、政治は混迷していきます。広田弘毅は指導力を発揮できず、期待された宇垣は陸相を得ることができずに組閣を断念し、林銑十郎内閣もまた迷走しました。
 「明治憲法体制を円滑に運営するには、議会・官僚・軍部のそれぞれの輿望を担い、体制を束ねることのできる人物に組閣させて権力の中心点を創り出すしかなかった」(480−481p)わけですが、この期待を一身に背負ったのが近衛文麿でした。

 しかし、盧溝橋事件が勃発すると陸軍内の意思の不統一によって戦線は拡大していきます。拡大に反対していた参謀本部は帷幄上奏を使って早期和平に持ち込もうとしますが、手続きを重視する昭和天皇はこれを容れず、第一次近衛声明によって和平交渉は打ち切られます。
 日中戦争が長期化する中で、近衛はより強力な統治機構の構築を目指して新体制運動を起こしますが、既成政党の打破を目指す近衛と近衛新党への相乗りを目指す政友会・民政党は折り合わず、近衛は辞職します。
 
 39年の独ソ不可侵条約の締結とつづく第2次世界対戦の勃発は日本の外交を混乱に陥れましたが、40年にドイツがフランスを屈服させると、日独同盟論が台頭し、それとともに近衛の新体制運動も息を吹き返します。
 40年7月に第2次近衛内閣が成立すると、外相の松岡洋右が外交の主導権を握るようになり日独伊三国同盟が締結されます。ヒトラーは日本を過大評価し、アメリカを過小評価していましたが、このヒトラーの見方が、ある種のミラー効果によって日本側の自己イメージの肥大化をもたらしたという見方は興味深いと思います(497p)。松岡は日・独・伊・ソによる四国同盟を構想し、41年に日ソ中立条約を結びますが、直後の独ソ戦の開始により、松岡の構想は破綻しました。

 新体制運動は大政翼賛会に結実していきますが、それを「幕府的存在」と批判されたことによって一国一党体制の構想は破れ、精神修養的な団体となります。求心力を高められなかった近衛内閣は松岡と陸軍の方針に振り回され、結局は日米開戦へと引きずるこまれていくのです。
 太平洋戦争が始まると、東条英機首相は陸相と参謀総長を兼任し、軍政権と軍令権を掌握しようとしますが、これだけの権限の集中は責任の集中にも繋がり、サイパン陥落を機に退陣を余儀なくされています。

 著者は「おわりに」で、軍が暴走してしまった理由として、統帥権の規定だけではなく、政党がもともと「反徴兵制的存在」であり、政治家と軍人の相互信頼関係がなかったことをあげています。政党と軍部を股にかけようとした桂は大正政変で失脚し、伊藤が考えた明治憲法体制の改革はうまくいきませんでした。著者は、明治天皇と伊藤が健在で、軍部にそれに呼応する潮流(児玉−桂−寺内)がいた日清戦争後の時期にそのチャンスがあったのではないかと見ています(528p)。
 しかし、憲法は改正されないままに昭和を迎え、統一的な国家意思を形成するには天皇親政か、体制統合能力を持つ総理大臣の登場しかない状況になりましたが、昭和天皇は親政の意思を持たず、近衛の新体制運動は挫折しました

 このように本書は軍部(主に陸軍)の動きに焦点を当てながらも、政党の動きや統治機構に関する分析を含むことで日本近代政治史の通史ともなっています。必ずしも軍に興味がなくても、近代の政治史に興味がある人であれば読んで得るものは大きいと思います。
 このくらいの時代の幅を扱った日本近代史の新書による通史といえば、坂野潤治『日本近代史』(ちくま新書)が思い浮かびますが、『日本近代史』が間違いなく面白いものの、ところどころにやや疑問符がつくような部分があったのに対して、本書はそういったところもあまりなく、ややマニアックでありますが冷静な議論が展開されているように思えます。