同じ中公新書から出た『食の人類史』が非常に面白かった著者が、日本における米の歴史について語った本。歴史といっても著者は農学博士であり、文献史料や遺跡・遺構などだけではなく、品種や栽培技術の面からも歴史にアプローチしている点が大きな特徴です。
 本書では、時代ごとに、米作りがいかに行われたのか、米作りが日本人にとってどのような意味を持ったのかということを読み解いていきます。現代に近いパートに関しては、著者の大まかな展望が述べられていて少し散漫ではあるのですが、前半にある日本の米作りに関する農学的なアプローチは、いろいろな日本史の本を読んできた人にとっても刺激的なものだと思います。

 目次は以下の通り。
第1章 稲作がやってきた―気配と情念の時代
第2章 水田、国家経営される―自然改造はじまりの時代
第3章 米づくり民間経営される―停滞と技術開発が併存した時代
第4章 米、貨幣になる―米食文化開花の時代
第5章 米、みたび軍事物資になる―富国強兵を支えた時代
第6章 米と稲作、行き場をなくす―米が純粋に食料になった時代
第7章 未来へ「米と魚」への回帰を

 第1章の「気配と情念の時代」が扱うのはだいた弥生時代の前半までです。どのように稲作が日本にやってきたのか? という問題が取り扱われています。
 現在では稲作は縄文時代から始まっていたという説が出てきています。稲作の始まりがどこまで遡れるかははっきりしませんが、大量の土器が使われ始めたということは集団の定着性が高まったということであり、ツルマメなどの栽培は行われていたようです。
 稲作は九州北部から始まったとされています。しかし、稲作を軌道に乗せるのは意外と大変です。著者の試算では人口100人の村で1人あたり1年間に100キログラムの米が必要とすれば、必要な水田面積は6.7ha、これを開墾するには50人で1600日間の時間が必要であり、村の経営を軌道に乗せるには数年の時間が必要です(9−10p)。
 そこで著者は「屯田」の可能性や縄文人の集団が朝鮮半島などに渡って稲作の技術を持ち帰った可能性などを指摘しています。

 稲作渡来の経路に関しては、(1)朝鮮半島経由、(2)長江流域から直接渡来、(3)琉球経由の3つが唱えられており、考古学の世界では(1)が有力視されています。しかし、著者によればイネの生育には日長時間(日の出から日の入りまでの時間)が重要であり、緯度によって育つイネの傾向は違います。ですから、あまり北を通るルート(例えば、山東半島から陸沿いに錦州まで北上し、朝鮮半島へと南下)は考えにくいといいます。西日本で見られる晩生品種は別のルートできたと考えられるのです。

 稲作というと一面の緑の田んぼを想像しますが、肥料のない時代に毎年イネを作っていけば地力は低下していきます。静岡の曲金北(まがりかねきた)遺跡では3〜4畳程度の小区画水田が1万枚も出土しましたが、かなりの休耕田や放棄田があったと思われます。

 日本にやってきたイネはジャポニカ米だったと考えられますが、その中には熱帯ジャポニカと温帯ジャポニカがあります。ブランドオパールと呼ばれるイネ由来のケイ酸体の分析によれば、日本の稲作は熱帯ジャポニカから始まり、温帯ジャポニカに変化してきたと見られています(41p)。そして、両者は交配し、その雑種が栽培されてきたと考えられます。
 食べ方に関しては、玄米を食べていたと想像されがちですが、このころの技術では玄米をつくることは難しく、臼と杵で籾摺りをし、糠の部分がまだらに残っていたような米を食べていたと考えられます。

 第2章の「自然改造はじまりの時代」は弥生時代から飛鳥時代までを取り扱っています。
 『魏志倭人伝』の記述などからもわかるように、この当時の日本には多くのクニがあり、互いに争っていました。大規模な戦闘があったとすれば、そのときに問題になるのが食料です。そしてこれを可能にしたのが米だと考えられます。栗やイモ類などに比べてカロリーも高く、調理も便利です。
 こうしたこともあって稲作は東進、北進をつづけたのですが、北進の壁になったのが自然条件です。緯度の高い地域でも育つ早生の品種が見いだされていったと考えれます。

 3世紀後半になると古墳の造営が始まります。大仙古墳の造営には2000人の労働力が15年8ヶ月動員されたという試算がありますが(65p)、この規模になると土木工事の専門家集団がいたはずです。この時期には難波江の掘削や「古市大溝」と呼ばれる巨大な水路も建設されており、工事の従事者の食事を賄うためにも米が用いられたと考えられます。こうした工事に伴って、周囲の森林は切り開かれ、そこに水田が開かれたのでしょう。
 さらに水田や溜池、水路の開発は、水田漁撈システムの発展を促しました。人間の活動が新たな生態系を生み出し、「米と魚」という糖質とタンパク質を摂取する食を形作りました。
 一部では小麦と馬の飼育という形もあったようですが(大阪府蔀屋(しとみや)北遺跡などにその痕跡がある(75−76p))、それが広がることはありませんでした。
 また、モチ米がいつ頃からあったのかという問題も検討されています。

 第3章の「停滞と技術開発が併存した時代」では、奈良時代から室町時代までを取り扱っています。
 奈良時代には班田収授のしくみが導入されましたが、地力の低下による休耕田や放棄田があったことを考えると、このしくみを維持することは難しかったと考えられます。三世一身法に既存の水路や改修した墾田は当代限りの所有を認めるとの規定がありますが、ここからも休耕田や放棄田が多くあったことがうかがえます。
 時代が下って荘園が成立しますが、荘園図に描かれた「野」も休耕地だったと考えられ、有効な肥料のない時代では安定した経営というのは難しかったのでしょう。

 いつ始まったのかはまだわかっていませんが、鎌倉時代頃になると二毛作が普及します。冬に麦を作ることにより初夏の端境期の食料不足に対応したと考えられます。二毛作には肥料が必要であり、家畜の排泄物の利用などが始まったのでしょう。
 麦の栽培により米の作付けは遅れます。そのために苗代の技術なども発達したのでしょう。大豆や麦を原料とする醤油や味噌が普及するのもこの頃です。
 
 また、この時代に登場したのが大唐米です。高校の日本史の教科書などにも載っていますが、インディカ米の一種で干ばつに強いという特徴がありました。近年の研究では西日本を中心にかなり幅広く栽培されていたこともわかってきています。江戸時代の一時期、大坂市場に送られた肥前藩の蔵米の2割が大唐米だったとのことであり、通常の米よりやや安価で取引されていました(98p)。
 この大唐米は800年ほど一定規模で栽培されましたが、地域的には西日本中心で、現在ではほぼ絶滅していしまっています。

 戦国時代になると各地で戦いが起こりますが、ここでも戦いと稲作は密接な関わりを持っていました。上杉謙信は秋から冬の時期に北関東で軍事行動を起こしていましたが、これは農閑期だったからと考えられますし、また、兵士は「3日分の腰兵糧」を持つように命じられていましたが、夏場だと握り飯的なものは3日持たなかったでしょう。
 戦場で行われた「刈田」行為に対処するため、早生の品種の栽培が行われたとも考えられます。いち早く収穫しなければ的に刈り取られてしまうからです。大唐米も早生品種として広がった可能性もあります。
 秀吉によって進められた兵農分離は(兵農分離があったのか否かは近年議論のあるところですが、本書ではオーソドックスな歴史観に沿っています)長期戦を可能にしました。大軍の遠征には米を買い集めることが必要不可欠となり、米は軍事物資となって投機の対象ともなっていきました。

 また、この時代には米の調理法も発展し、すし(ふなずしが原型と考えられることが多いが、かなりの技術が必要でありもう少し原始的なものがったと考えられる)や、粽(ちまき)、柏餅など葉で包むもの、米粉を使ったもの、酒なども登場しました(日本酒の起源は文献上では『大隅国風土記』まで遡るとのこと(131p))。
 米食の広がりとともに肉食は次第に禁忌となっていきました。675年に天武天皇が4〜9月に家畜などを食べることを禁止する勅令を出していますが、仏教の広がり(著者は仏教だけでなく修験道の影響も見ている)とともに肉を食べる風習は廃れていきます。

 第4章の「米食文化開花の時代」は戦国時代の後半から江戸時代の終わりまでを取り扱っています。
 この時代に開発が始まったのが大規模河川の下流域に広がる低湿地です。いちばん有名なのは家康による利根川の付け替えと新田開発ですが、こうした低湿地の開発は昭和30年まで続きました。
 大阪平野もこの時代に大きく改造されています。大阪の陣によりこの地域周辺の森林の伐採などが進んだせいもあり、この地域はたびたび大きな洪水に襲われるようになりました。そこで人々は堆積した砂を取り除いて脇に積み上げ、取り除いた部分を水田に、砂を積み上げた部分に綿花を栽培する(綿花は乾燥に強く乾きやすい砂地でも栽培できる)という「島畠」という農法を生み出しました。さらに大和川の流れを大きく変える工事も行いましたが、洪水が減ったことによって土砂は大阪湾に流れ込み、堺港を浅くさせることで堺の衰退を招いたといいます。

 これらは「多すぎる水」に悩まされた地域ですが、もちろん「少なすぎる水」に悩まされた地域もあります。三重県いなべ市では「まんぼ」と呼ばれる地下水路が作られましたし、他にも有名な箱根用水、あるいは数々の溜池が作られました。
 水不足以外に米作りを妨害したのが害虫です。特に大陸から風にのってやってきて西日本中心に広がるウンカは一体の田をすべて駆らせてしまうほどの害をもたらしました。また、いもち病も厄介な問題でした。これに対抗するために現代とは違っって1つの村で多くの種類のイネが栽培されました。病気による全滅を防ぐためです。
 
 稲作の進展はさまざまなものを変化させていきます。関東平野では水路が整備され、近郊からは米や野菜が運ばれ、江戸からは肥料になる排泄物が運ばれるシステムがつくり上げられました。肥料としては蝦夷地の鰊粕も使われるようになります。

 当時の品種と今の品種の大きな違いは背丈だといいます。今のイネは背丈が低いのです。これはイネが倒れる危険性を減らすためです。窒素肥料を減らせば背丈は抑えられるのですが、そうすると収穫は減ってしまいます。そこで、穂数型という短い穂を多数持つ品種も栽培されました。一方で、「白玉属」と呼ばれる大粒の品種も生まれ、ここから山田穂(ここから山田錦が生まれた)などの酒造用の品種も生まれました。
 江戸時代においては、年貢米に品質が求められ、質の高い米が年貢にされ、質の低い米が村に残ったと考えられます。上層階級では白い米が食べられるようになる一方(綱吉は脚気になった)、農村では白米と玄米の中間のような米が食べられていたのでしょう。
 江戸では朝に米が炊かれ、昼と夜に冷や飯が食されましたが、これは朝の風の少ない凪の時間に炊くことによって火事を防ぐという意味もあったようです。
 
 第5章の「富国強兵を支えた時代」は明治時代から第2次世界大戦敗戦までの時期を扱っています。
 明治維新によって藩の垣根が取り払われましたが、それによって起こったのが全国的な米不足と、都市に集める米の品質低下でした。藩内の米不足は全国的な問題となり、藩が行っていた品質チェックがなくなったからです。
 そのため民間でも品種改良と増産が行われました。1929年に記録された10アールあたり1260キロという収穫は現在の全国平均の1.6倍にも当たる数字です(207p)。
 また、水田の開発はさらに進み、八郎潟、児島湾、有明海などで干拓が行われ、明治用水の開削なども行われました。

 三田育種場もつくられましたが、品種改良において大きな役割を果たしたのは民間でした。収量の大きい「神力」も民間人の手で見いだされ全国に広がっていきましたし、品質の高さが買われコシヒカリの祖お1つである「旭」も民間人が見出した品種です。
 また、北海道の稲作に関しても、開拓者の米が食べたいとの熱意がそれを実現させた面は大きく、「赤毛」という品種が偶然見いだされたことがその突破口になりました。そして、それが札幌農学校などで体系化されていくのです。
 「白い米を食べたい」という人々の欲望は、例えば、陸軍に入隊すれば白い米を腹いっぱい食べられるといった噂をうみ、貧しい人々を惹きつけましたが、白い米によって軍隊内では脚気も流行しました。

 第6章の「米が純粋に食料になった時代」は戦後から現在まで。米不足が解消され、米があまり始めた時代です。学界は多収量米の研究を続けていましたが、その意味がなくなってきたのです。
 品種に関しても、いわゆるブランド米が登場するとともに在来品種は姿を消していきます。ブランド米の中でも、近年、「きらら397」「ゆめぴりか」「ななつぼし」といった北海道米が存在感を示していますが、温暖化が進めば十勝平野あたりが大稲作地帯になる可能性もあるそうです。
 この第6章と次の第7章に関しては、歴史というよりは米に関するトピックをいくつか紹介している感じですね。

 このように最後のほうは少し弱い部分もあるのですが、それ以外の部分の知見は非常に興味深いと思います。稲作は昔から日本の農業の中心であり、多くの人がそれなりに知っているため、現在の稲作から過去の稲作を類推して考えていますが、本書を読むと、同じ稲作といっても過去と現在では大きな変化があったことがわかります(著者は時代劇などで水田が映るが水田の時代考証はないのだろうか? と疑問を呈している(昔のイネはもっと背が高かった(180p))。
 歴史学者が見ている風景とは少し違った風景が見えてくるのが本書の特徴であり、新たな思考を刺激する点だと思います。