教育社会学者である著者が日本の教育を分析した本ですが、帯にある「生きづらい社会を変えられない原因は、「望ましい」人間像にあった/能力・態度・資質という三つの言葉から読み解く」とのキャッチコピーからもわかるように、著者は日本の教育の現状に批判的であり、その問題点の来歴を探るような内容になっています。
 「能力・態度・資質」という3つの言葉は教育関係の公的な文書で頻出する言葉あり、この3つの言葉を分析の中心点に据えるというのは良い着眼点だと思いますし、「人間力」や「生きる力」といった、「学力」以外の要素が重視されつつ、それが生徒の垂直的な序列を決める要素になりつつある状況(本書の言葉でいえばハイパー・メリトクラシー)に危惧を覚えるという点も同意します。
 
 ただし、本書の分析は一面的だと思います。詳しくは後述しますが、本書の分析において日本の教育に問題をもたらしている原因は、基本的に右派と経済界に求められています。近年の問題をもたらしている大きな流れは90年代半ばから強まっている「右傾化」です。
 しかし、例えば「態度」を重視してきたのは右派だけではなく、日教組に代表されるような「左派」も同じだったのではないでしょうか? 個人的には、本書は日本の児童・生徒に加わっている圧迫の1つの側面だけをとり上げているように思えます。

 目次は以下の通り。
第1章 日本社会の現状―「どんな人」たちが「どんな社会」を作り上げているか
第2章 言葉の磁場―日本の教育の特徴はどのように論じられてきたか
第3章 画一化と序列化の萌芽―明治維新から敗戦まで
第4章 「能力」による支配―戦後から一九八〇年代まで
第5章 ハイパー・メリトクラシーへの道―一九八〇~九〇年代
第6章 復活する教化―二〇〇〇年代以降
終章 出口を探す―水平的な多様性を求めて

 第1章では日本の教育の現状についての分析と、本書の分析の道具立てが紹介されています。
 「学力低下」が叫ばれていますが、OECDが行っているPISA(国債学習到達度調査)やPIAAC(国債成人力調査)における日本の成績は比較的優秀です。上位5%層と下位5%層の得点差も小さいですし、2015年のPISAで初めて実施された「協同問題解決能力」のテストでもシンガポールについで第2位であり、日本人は知識だけでなく課題解決のスキルにおいても高いと言えます。

 しかし、その能力(PIAACの読解力)の割には日本人の賃金は低く(5p図1−1)、1人あたりのGDPもそれに見合った水準になっていません(6p図1−2)。さらにジニ係数も高めです(7p図1−3)。ただし、ジニ係数と読解力の議論についてはやや疑問に感じました。
 こうした経済的な指標よりも現在の日本の教育の問題を端的に示しているのが、日本の若者の自己肯定感の低さでしょう。内閣府が2018年に米・英・独・仏・スウェーデン、韓・日の7カ国で行った調査で、「自分への満足感」「自分には長所があると感じるか」「うまくいくかわからないことにも積極的に取り組むか」「困っている人がいたら助けるか」「40歳になったときに幸せになっているか・人の役に立っているか」「将来の明るい希望をもっているか」との質問に対して日本の若者の肯定的な回答はいずれも最下位であり、「つまらない・やる気が出ない」「ゆううつだ」と感じた割合は最も多くなっています(17p)。
 日本の若者はさまざまなスキルをもっているはずなのに、自己肯定感や自信は著しく低いのです。

 こうした問題を生み出していると考えられるのが日本の教育の構造です。著者はこの日本の構造の教育の特質として、「垂直的序列化」と「水平的画一化」という2つの概念をあげています。
 垂直的序列化とは、わかりやすい例では偏差値による進路の振り分けですが、近年では学力だけでなく、「生きる力」や「人間力」といった学力以外の基準での序列化も進んでいると著者は見ています。
 水平的画一化とは、特定のふるまい方や考え方を押し付けるもので、古くは「教育勅語」による「国民」の形成、近年では「態度」や「資質」の重視がこれにあたります。そして、結果として水平的多様化は過小となっています。
 本書が解き明かそうとするのは、この垂直的序列化と水平的画一化がいかに進んできたのかということです。

 第2章では、まず「能力」という言葉がとり上げられています。「能力主義」という言葉は、多くの教育学者から批判すべき言葉と捉えれる一方、教育社会学者にとっては近代を記述するための中立的な言葉として、また政府や経営者にとっては望ましい社会や雇用管理を語る言葉として使われてきました(32p)
 しかし、著者は「能力主義」が「メリトクラシー」の訳語として定着したことに注意を促します。確かに、「メリトクラシー」という言葉を生み出したマイケル・ヤングは<IQ+努力=メリット>という定式化をしましたが、訳語としては「業績主義」という言葉もあります。
 ところが、日本で「能力主義」という言葉が使われるとき、そこに「業績」のニュアンスは薄いです。41p図2-1「メリトクラシー意識の国際比較」をみると、日本は給与を決める時に教育や研修を受けた年数が重視されるべきという考えが他国に比べて明らかに低く、日本の「メリトクラシー」においては、「業績」よりも個々人の「性能」のようなものが評価されていることがうかがえます。

 そのため日本では学歴は「能力」を反映していないといった議論もしばしばで、「「能力」は、誰かが勝ったあとでその誰かに周囲が与える称号のようなもの」(47p)です。そのため、「能力」は非常によく使われる言葉でありながら測定の難しい概念となっています。
 しかし、それでも「能力」「能力主義」という言葉はさかんに使われており、それが本来比較が難しいはずの子どもたちを序列化し、著者の言う「垂直的序列化」を助長してきたとしています。

 第3章では戦前にさかのぼって日本の教育が分析されています。
 戦前の学校体系は非常に複雑で(62p図3-1参照)、子どもたち全員が垂直的序列化に巻き込まれることはありませんでした。しかし、富裕層や士族階級においては「良い学校」をめざす動きもあり、これが大正〜昭和期に次第に広がっていきます。
 一方、「水平的画一化」に関しては、教育勅語という、まさに子どもをあるべき姿に教化していくためのものがありました。

 この章では、さらに戦前における「態度」「資質」という言葉の使われ方の変遷を追っています。
 「態度」に関しては、初期は教師の態度を論じる本が多かったのですが、しだいに「学習態度」など生徒の態度を論じる本が増えてきます。また、態度は当初、身体とその所作を意味していましたが、次第に心的なものも態度として捉えられるようになってきます。
 「資質」に関しても、当初は教師の資質を論じるものが多かったのですが、1940年代になると資質という言葉は「国民」に対して使われるようになってきます。
 「能力」という言葉についても、1920年ごろからそれを測定し、その測定結果を処遇に反映させるべきだという議論が強くなっています。

 第4章では戦後から1980年代までを扱っています。
 まず、「能力」に関して大きいのは、日本国憲法26条に「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する」と、「能力」という言葉が書き込まれたことです。
 この「能力」という言葉は、GHQの草案の段階ではなかったのですが、日本側の草案起草に携わった佐藤達夫がワイマール憲法を参考に書き加えたと見られています(92-94p)。そして、憲法に沿ってつくられた教育基本法にも「能力」という言葉が盛り込まれます。

 学校制度に関しても大きな改革が行われ、6・3・3・4の「単線型」の制度となりました。これは垂直的序列化を助長させるしくみとなります。
 特に日本では高校入試が1つのポイントになりました。当初、高校は小学区制と総合制が原則として、学区内の志望者をまるごと受け入れるしくみが構想されていましたが、定員的にその余裕はなく、入学にあたって選抜が行われることになります。
 さらに50〜60年代に高校への進学率が上昇すると、「高校全入運動」が起こり、予算的な制約もあって普通科が増設されていくことになります。しかし、それでも定員は追いつかず、選抜試験が行われることによって高校の序列化は進んでいくのです。
 
 50〜60年代なかばにかけては経済界から職業高校の増設が求められており、政府もそれに応えようとしましたが、教育学者や教員からは、それを「「能力」による子どもの選別」(108p)だとする批判が巻き起こります。
 経済界は「能力主義」という言葉で進路の振り分けを求め、教育学者などはそれを「選別」だとして批判しました。苅谷剛彦の言葉を借りれば、経済界が求める個々の職業に対応する「多元的能力主義」を、批判する側は一定の基準に従って子どもを選別する「一元的能力主義」と混同したとも言えます(110-111p)。
 学校を設置する側にとっても多元的なシステムというのは予算的に大変なものであり、例えば、生徒の激増した神奈川ではとにかく普通科によって需要を満たすことが優先され、1972年から89年にかけて普通科の生徒数は2.5倍に拡大する一方、職業学科は1割減少しました(115p)。
 そして、この普通科は、「入試偏差値」の普及や79年からの共通一次試験の導入とともに、垂直的に序列化されていくことになります。

 第5章では80〜90年代の動きが扱わています。
 受験競争などの加熱を受け、84年に設置された臨時教育審議会では「生涯学習」が掲げられ、そのための自己教育力や個性重視の原則が打ち出されました。そして90年の学習指導要領では、観点別評価項目の筆頭に「知識・技能」に代えて「関心・意欲・態度」が据えられることになります。

 80年代後半〜90年代にかけては、東京・埼玉の連続幼女誘拐殺人事件、オウム事件、神戸連続児童殺傷事件など、世間の注目を集める若者世代の起こした事件が頻発したこともあって、教育にその対処が求められます。96年の中央教育審議会の答申が打ち出した「生きる力」はまさにその処方箋です。
 80年代から重視されてきた自主性・自発性に、さらに他者との協調性や社会性、人間性のようなものがプラスされ、「生きる力」というものになっていったのです。
 96年の答申は同時に「ゆとり」の原則も打ち出しましたが、これは「学力低下」批判を招き、00年代前半には早くも後退を余儀なくされます。07年には「全国学力・学習状況調査」が始まり、再び「学力」をめぐる競争が活性化します。

 また、不景気による若者の就職難と、それに伴うフリーターの増加に対してキャリア教育が注目を集め始めます。一方、大学入試においては推薦入試・AO入試の比重が高まり、狭義の「学力」以外を測ろうとする試みもなされていきますが、これが多元性を評価するのではなく、コミュニケーション能力などの「人間力」とも言われるようなものを一元的に評価する「ハイパー・メリトクラシー」的な状況を生み出しているのではないかというのが著者の見立てです。
 
 第6章では「復活する教化」と題し、2000年以降の動きを主に「右傾化」と絡めながら論じています。
 95年の戦後50周年などを区切りに歴史認識問題が盛り上がりましたが、そうした中で右派的なグループによる教育への発言や行動が目立つようになりました。96年に設立された「新しい歴史教科書をつくる会」などはその代表でしょう。
 そして、そうしたグループと親和的と思われる第1次安倍政権のときに教育基本法が改正されます。話題になったのはいわゆる「愛国心」の取り扱いでしたが、著者はこの新教育基本法において、「資質」「態度」という言葉が数多く使われていることに注目します。
 この「資質」や「態度」の重視は世界的な趨勢だとする意見もありますが、著者は「「能力」の水準がどうであれ、まずはふるまいや心構えとしての「資質」≒「態度」において、政府の要請に従え、というメッセージが、新教育基本法の通奏低音なのである」(167p)と分析しています。
 2017年に告示された学習指導要領では、「学びを人生や社会に生かそうとする学びに向かう力・人間性等の涵養」という目標が打ち出されており、「資質」「態度」重視の流れが感じられます。

 同じく17年には教育勅語の教育現場での使用に関して、教育基本法や学校教育法の趣旨に反しない限り許されるという答弁書が出されるなど、著者は教育勅語に通じるような水平的画一化が進行していると見ており、最近話題になっている「ブラック校則」とも言われる事細かな校則に関してもこうした流れに位置づけています。
 こうした水平的画一化の動きとしては、他にも素手や素足によるトイレ清掃、「〇〇しぐさ」「〇〇スタンダード」などの子どもに同じ行動を求める活動などもあげられるといいます。こうした新しい「教化」とも言えるものを著者は「ハイパー教化」と呼んでいます。

 終章では本書の流れを概観した上で、本書が指摘した問題が子どもにどんな影響を与えているのか、そして出口について論じられています。
 210−215pにかけて都内の区部の公立中学校で行われた調査がとり上げられていますが(ただし、この調査は東大の「教育社会学調査実習」の履修生が実施したもの(236p))、ここでは「経済階層」と「校内成績」、「校内成績」と「クラス内影響力」、「クラス内影響力」と「道徳の授業の内容が好き」の間に正の相関が見られます(「経済階層」は家にある物品の数から、「校内成績」と「クラス内影響力」はいずれも自己申告)。
 「校内成績」と「自分の考えよりも先生や先輩の指示に従うべきだと思う」の間に負の相関が見られるなど、「従順な国民」が生み出されているわけでもないのですが、「クラス内影響力」と「女性は家事・育児、男性は仕事が普通」との間に正の相関があるなど、中学生が比較的保守的な価値観を身につけていることもうかがえます。
 
 こうした状況を変えるために、著者は、高校の学科の多様化、高校・大学の選抜方法の変更(「学力」から学科で求められる具体的な知識・スキル、志望の明確さに即した選抜)、企業でのジョブ型採用の拡大などを提言しています(217−219p)。
 これらは教育再生実行会議の提言と似ているようにも見えますが、現在の方針では選抜方法や企業の採用の部分に関する取り組みが不十分で、垂直的序列化を強化するだけになる恐れもあります。
 また、水平的画一化から水平的多様化へと変化していくために、学級や学年の流動化、修了要件を明確化した上で個別学習を重視する、校則や生活指導、部活動を最小限度のものにする、といった提言がなされています(231−232p)。
 
 このように本書は日本の教育における問題の根を探っていますが、基本的にその原因は「右派」や「経済界」に求められています。ラスト近くに置かれた「日本の教育、ひいては日本の社会を変えていくためには、戦前の「教化」の体制をよりハイパーな形で復活させようとしている、自民党政権およびその背後にある保守団体の姿勢を根底から変化させるか、あるいは彼らを権力の座から下ろすか、いずれかが必要であるということである」(233p)との一文は本書の結論とも言えます。

 しかし、やはりこれは一面的だと思います。例えば、「態度」の重視は「従順な国民の育成」といった考えだけではなく、「勉強が苦手でも進級させたい」という現場の教員や、「留年はかわいそう」といった世間の価値観が要請したものでもあるでしょう。組体操や「〇〇スタンダード」だって「教化」を望む政府が主導したものではなく、「良い学校」「良いクラス」を作りたいと考えた現場の教員が育ててきたものでしょう。
 そういった点で本書は日本の教育が抱える問題の分析としては優れているものの、原因に関しては半分だけ(実際は半分以下かもしれない)を指摘したものに思えました。