副題に「日本最大級の偽文書」とあるように、江戸時代につくられた偽文書をめぐる本になります。
 偽文書というと古代の津軽にヤマト政権から逃れた文明があったとする「東日流外三郡誌」のような荒唐無稽なものを想像しますが、この椿井文書は、中世の寺の絵図や大寺院の末寺を示す文書、家系図など、なんとなくありそうなもので、しかも、それらが互いに関連性をもっています。そのため、一部では貴重な史料として使われ、史跡の認定や自治体史などにもこの椿井文書が使われているのです。
 本書は、その椿井文書について、著者がそれに気づいた経緯、実際の内容、なぜつくられ、なぜ受容されたのか、そして現在への影響まで幅広く論じたものになります。扱っている文書が派手なものではないため、最初は頭に入りにくい部分もあるかもしれませんが、非常に重要な問題を提起している本だと思います。

 目次は以下の通り。
第1章 椿井文書とは何か
第2章 どのように作成されたか
第3章 どのように流布したか
第4章 受け入れられた思想的背景
第5章 椿井文書がもたらした影響
第6章 椿井文書に対する研究者の視線
終章 偽史との向き合いかた

 「椿井文書」は江戸時代の国学者・椿井政隆(1770〜1837)が創り上げた一連の文書で、椿井政隆の生まれた近江を中心とした地域に広がっています。内容は、中世の寺院や神社の絵図、縁起、家系図などさまざまです。
 椿井政隆はどのような文書をつくり上げ、なぜこのようなことを行ったのか? 本書の第2章では大阪府枚方市の津田城のケースをとり上げています。

 津田城は、『津田史』や『枚方市史』などによると津田周防守正信によって1490年に築かれた山城です。しかし、この津田城は山城にもかかわらず曲輪が山頂ではなく谷の奥まったところにあるのです。防御を考えると不思議な構造です。しかも、この津田氏は17世紀末以前の史料には登場しません。
 この17世紀末、津田山をめぐって津田村と穂谷村の争い(山論)が起こっていました。このときに訴訟の証拠として津田山絵図や、津田氏について書かれた「三ノ宮旧記」といった文書が提出されています。この争いは津田村が勝つのですが、破れた穂谷村はかつて穂谷には朝廷の氷室があったという話を持ち出して、その由緒を主張しています。そして、この由来を書いたものとして穂谷村にある三ノ宮神社には「氷室本郷穂谷来因之紀」と題される永正17年(1520年)につくられた文書が伝わっています。さらに「氷室郷惣社穂谷三ノ宮大明神年表録」という穂谷村の主張を裏付けるような文書ものこっています。
 ところが、実はこれは椿井政隆の手による偽文書なのです。椿井文書は、このような村同士の争いがある場にしばしば登場します。

 椿井政隆の特徴は、1つの文書だけでなく、それと関連するたくさんの文書をつくり出していく所にあります。
 例えば、まずは地元の神社の縁起などを創作し、さらに周辺に住む富農などの家系図をつくり上げていきます。信憑性を持たせるために、『古事記』や『日本書紀』などの史書に掲載されている固有名詞を上手く取り込み、また周辺の史蹟を活用したりして、祖先たちの事績をつくり上げています。著者は「身分上昇を図る富農にとって、かつては有力な武士だったと語る系図は、喉から手が出るほど欲しいものであったに違いない」(37p)と述べています。

 では、椿井文書は富農たちを満足させるために、いわば1つの商売としてつくられた文書かというと、そうでもないのがややこしいところでもあります。
 椿井文書ではしばしば未来年号と呼ばれるものが使われています。例えば、「円満山少菩提寺四至封疆之絵図」は明応元年四月に描かれた原本を椿井政隆が模写したという形になっていますが、明応に開眼されたのは七月で、明応元年四月は存在しません(40p)。椿井文書には、このようなあえてつくられた「穴」のようなものがいくつかあります。これは後から戯れでつくったと言い訳するためのものかもしれません。

 また、椿井文書には並河誠所の『五畿内志』を補強し、それと関連付けるものが多いことも特徴です。
 現在の大阪府枚方市に伝王仁墓という大阪府の指定史跡があります。これは文字も刻まれていない高さ約1メートルの自然石なのですが、「おに墓」と呼ばれていたこともあり、現地調査に赴いた並河誠所が「おに」は「王仁(わに)」の訛りで、王仁の墓であると『五畿内志』に掲載しました。古墳時代に自然石1つの墓というのも不自然ではあるのですが、「王仁墳廟来朝紀」という史料が存在することによって、後に史跡に指定されるわけですが、実はこの史料は椿井政隆が創作したものです。
 椿井文書は当時広く読まれていた『五畿内志』と相互補完関係をとることによって信憑性を確保しようとしていました。
 さらに、そうしてつくった文書に加え、それと関連する系図や連名状などを作成することで、椿井文書の中でも相互補完関係をつくり上げました。

 さらに絵図が多いのも特徴で、自らに絵心があったことから、さかんに絵図の作成を行っています。もちろん、中世の絵図をそのまま出してくれば紙や絵の具の新しさで偽物だとバレてしまうわけですが、椿井政隆は中世の絵図の模写、あるいは模写の模写などのかたちをとることで、その内容を信じさせようとしました。

 そんな椿井文書の中で最も影響力が大きいと考えられているのが、嘉吉元年(1441年)に作成されたとされる興福寺の末寺を列挙した「興福寺官務牒琉」です。
 椿井家は興福寺の官務家という有力配下の末裔を名乗っており、この文書を通じて、椿井政隆は興福寺と椿井家の中世における影響力を誇張して描いたと考えられます。
 この「興福寺官務牒琉」であげられている寺の範囲は近江、山城、大和、伊賀、河内、摂津に広がっており、これが椿井政隆の活動範囲と重なっています。一方、この地域の都市部に関しては避けられており、椿井文書を見破りそうな知識人のいた地域をとり上げないことで、創作が露見しないようにしていたことをうかがわせます。
 
 また、椿井政隆は現地調査を重ね、現地の人々に受け入れられやすい形の文書を創作しており、疑われつつも受容されるようなケースもありました。
 ただし、江戸時代においては椿井文書の流布は限定的でした。ところが明治になって困窮した椿井家の子孫がこれらの文書を質入れし、そこから販売されたりしたことによって各地に拡散していくことになります。
 
 椿井政隆がどのような人物でどのようにこれらの文書を制作したかに関してはよくわかっていないのですが、大量の絵図が残されているから、工房のようなものを構えていた可能性もありますし、信長の印鑑まで作成するなど、かなり手が凝ったものもあります。
 こうなると、偽文書の販売によって生計を立てている業者のようなものを想像してしまいますが、そうではなかったようで、著者は次のように書いています。

 当時の書札礼(手紙を書く際のルール)を大きく無視した文書など、明らかに偽文書だとわかるように創られたものもしばしばみられる。また、自らの考証をもとに描いたパノラマ絵画のように、空想を楽しんでいるとしか思えないものもある。これらの椿井文書からは、悪意というよりも、遊び心をもって自己満足のために作成する椿井政隆の姿が浮かび上がってくる。事実、大量の椿井文書が椿井家に残された状況に鑑みると、即売を前提としていないものも多く存在したようである。(129p)

 椿井政隆がどのような学問を学んだのかは不明ですが、神社へのこだわり、また南朝ゆかりの地に関する文書も多いことから、国学、その流れで水戸学の影響があったと考えられます。
 明治になると、政府は各地の式内社(延喜式神名帳に記載された神社)を確定させ、各地の神社の社格を決めようとしていきます。そこで利用されたのが椿井文書でした。
 この式内社の比定については先述の『五畿内志』が行っていることでもあるのですが、そこにはこじつけも多く見られます。ところが、椿井文書が『五畿内志』に沿う形でつくられているため、『五畿内志』のこじつけが定説化しているところもあります。
 江戸時代になると、各地の「名所」を紹介する書物が出版されるようになっており、その名所づくりに『五畿内志』やそれを補強する椿井文書は都合のいいものでした。当時から『五畿内志』の内容に疑問を持つ人はいたものの、その都合の良さから『五畿内志』は受容されていったのです。
 また、椿井文書は幕末に南山郷士と呼ばれた草莽隊の明治17年の士族編入に一役買うなど、人々の身分上昇をアシストすることもありました。

 さらに、この椿井文書の影響は現代にも及んでいます。先述の穂谷村の氷室の話はその後も受け継がれ、氷室小学校の校歌の歌詞にもその影響が残っているそうですし(173p)、王仁の墓も1935年に史跡に指定され、今も解除されておらず、韓国からの要人や観光客の訪問が絶えません。そして所在地の枚方市は全羅南道の霊岩郡と友好都市の関係を結んでいます。ちなみに著者は枚方市の教育委員会に在職していたこともあり(これが椿井文書に取り組むきっかけともなった)、ホームページの記述を修正するようにはたらきかけたりしたそうですが、聞く耳をもってもらえなかったとのことです。
 他にも滋賀県の西応寺には先述の「円満山少菩提寺四至封疆之絵図」の説明板が設置してありますし、滋賀県の米原市では、椿井政隆によってつくり上げられた七夕伝説が広まり、教育現場でも教えられています。

 では、この椿井文書がずっと見逃されてきたのかというと、そうではありません。
 戦前の京大の歴史学者を中心に椿井文書が疑わしいこと、偽書であることを指摘する声はありました。しかし、関東の研究者や、あるいは関西でも疑いをもっていた京大のグループと接点のない研究者の中には、椿井文書をそのまま使ってしまっている例もあり、椿井文書の疑わしさは比較的狭いサークルで共有されていたようです。
 そして、戦後になると教職追放などによって、椿井文書についての知識をもっていた研究者たちが京大から四散します。それとともに椿井文書に対する警鐘はしだいに忘れ去られていくことになるのです。

 一方、高度成長期になると自治体史の編纂がさかんになります。そこに椿井文書が使われていきます。椿井文書はそれなりに史料を見てきた人が現物を見れば怪しげなものなのですが、活字になるとすんなりと受け入れられやすくなってしまうといいます。
 さらに自治体史は、市民に読んでもらいために図版などを豊富に入れます。そのときに絵図の多い椿井文書は好都合なのです。絵図の技法が時代的に不自然であっても、文献学者が中心であれば、その不自然さはスルーされていしまいます。そして、この椿井文書の絵図をもとに、当時の警官を復元するような調査・研究が行われたりもしているのです。
 また、中世の寺院などについては史料が少なく、椿井文書の怪しさを認識しながらも、一概には切り捨てないというスタンスを取る研究者もあったそうです。特に椿井文書を使って自説を展開した研究者にとって、その内容を全否定することは難しく、著者の研究を読んだ後でも「椿井文書もある程度の史実を反映しているはずだ」という考えをとることがあるといいます。

 著者は、枚方市の市史資料室に在職していたときに、小学生向けの副読本に椿井文書由来のものをはじめ、後世の創作と思われるものがいくつか載っており、書き換えを要望したところ、「史実でなくてもいいから、子供たちが地元の歴史に関心を持つことのほうが大事」(224p)と言われたそうです。
 こうした状況もあって、椿井文書は生き残っているのです。

 椿井文書の中心が寺院や神社の縁起や中世の寺院の絵図、あるいは家系図といったものであるため、難しい史料名が頻出していることもあって、読みやすい本と言い難いかもしれません。構成に関してももう少しスッキリできた部分もあるのではないかと思います。
 しかし、内容的には歴史に関する非常に重要なことを指摘しており、また面白いです。特に謎の多い人物ありながら、椿井政隆のやったことに関しては、はた迷惑なことではあっても、同時に面白さも感じてしまいます。
 著者も「あとがき」の最後に「椿井文書と椿井政隆に対する私の愛情は、他のどのファンにも負けないはずである」(234p)と述べていますが、読者にとっても、歴史学を混乱させた迷惑な文書と人物でありながら、どこか惹きつけられるものがあります。歴史の誤りを正すだけではなく、椿井文書の独特の面白さを伝える本とも言えるでしょう。