当時の総理大臣の犬養毅が暗殺され、政党政治の終焉をもたらした五・一五事件。しかし、ネームバリューの割にはそれほど深く取り上げっれることは少ないかもしれません。例えば、松本清張の『昭和史発掘』では、二・二六事件にそうとうなボリュームが割かれている一方(新装版の文庫で5巻)、五・一五事件は1冊の中の1篇のボリュームしかありません。
 このように意外と語ることが少ないように見える五・一五事件ですが、本書では、事件の全貌、背景、政党政治が終わったのはなぜか、なぜ被告の刑は軽かったか、被告たちのその後、といった具合に1章ごとに問いに答えるような形で掘り下げていきます。「なぜ、海軍将校が?」という問題や、犬養死去後の後継内閣をめぐる動きなど、改めて勉強になった面も多かったですし、被告たちのその後については初めて知る部分も多く、興味深かったです。
 また、非常に読みやすい構成になっているのも本書の特徴の1つで、最近の重厚な中公新書の歴史ものとは違った読みやすさがあると思います。

 目次は以下の通り。
第1章 日曜日の襲撃
第2章 海軍将校たちの昭和維新
第3章 破壊と捨て石
第4章 議会勢力の落日
第5章 法廷闘争
第6章 さらに闘う者たち

 第1章は5月15日の事件当日の動きをドキュメンタリータッチで描き出します。会話も挟み込まれていて、まるで歴史小説家かノンフィクションライターの書いた文章を読むようですが、いずれも典拠があるそうです。
 五・一五事件の実行犯は海軍の将校と陸軍の士官候補生、そして愛郷塾の塾生ら25名で、彼らは首相官邸、内大臣官邸、政友会本部、そして変電所を狙いましたが、成功したのは犬養首相の暗殺くらいで、他はグダグダなまま終わっています。決起した将校たちは警視庁での警官隊との「血戦」を考えていましたが、それも実現しませんでした。中には大学生1人で三菱銀行の本店の前に手榴弾を投げ込んだだけの行動もあり、計画は比較的ずさんだったことがわかります。また、この日には西田税も銃撃を受けて重傷を負っています。

 では、この五・一五事件の首謀者は誰なのか? とりあえずは首相官邸を襲撃した班のリーダーだった三上卓と、内大臣官邸を襲撃した班のリーダーだった古賀清志ということになるのでしょうが、この事件にいたる動きを主導したのは、五・一五事件当時にはすでに戦死していた藤井斉という人物でした。第2章ではこの藤井の来歴を追っています。

 陸軍の青年将校らは三月事件や十月事件などの陰謀を企て、ついには二・二六事件でクーデータを起こすわけですが、海軍の青年将校の動きはほぼこの五・一五事件で終わっています。その背景には、「昭和維新運動」において「海軍は藤井のワンマンチーム」(36p、秦郁彦の評)であり、その藤井を失ったことがあげられます。
 藤井は1904年に長崎で生まれます。母方の祖父は中国駐在員の経験があり、革命を目指す中国の青年とも交流があった人物でした。藤井はこの祖父のもとで育てられ、海軍兵学校に入学します。藤井が入学した年はワシントン海軍軍縮条約が調印された年でもあり、学生の士気は下がっていました。そんな中で藤井は目立っていたようで、最上級生となったときには鈴木貫太郎軍令部長の前で、日本がアジア諸民族を束ね白人優位の秩序を打破すべきという演説を行っています。
 
 その後、藤井は頭山満や西田税などの知遇を得て、1927年には西田の天剣党に加入します。海軍からは唯一の参加でした。28年には海軍の有志と「王師会」を結成。ただし空母加賀に乗艦勤務することになった藤井の活動は限られ、藤井の活動が活発化するのは29年11月に霞ヶ浦航空隊に転属になってからです。
 この茨城の地で、藤井は愛郷塾を設立した橘孝三郎、農本主義の思想家・権藤成卿、井上日召らと知り合います。藤井は思想的には権藤の考えに傾倒し、権藤を大化の改新における南淵請安になぞらえるとともに、井上日召に海軍の古賀清志や村山格之ら五・一五事件の実行犯を引き合わせています。さらに四元義隆ら学生も日召に引き合わせています。

 この時期、浜口内閣のものでロンドン海軍軍縮条約が調印され、その批准をめぐっていわゆる「統帥権干犯問題」が起きていました。ちなみにこの「統帥権干犯」という言葉は北一輝の発案とも言われ(61p)、その北ともつながりのある政友会の森恪幹事長がこの流れに乗って浜口内閣を攻撃し始めます。藤井もこの問題を「「天皇中心の軍隊」に対する政党の挑戦」(63p)と理解し、激しく反発しました。
 浜口内閣はこの問題では一歩も退かずに批准を勝ち取りますが、もう1つの看板政策であった金解禁は恐慌と農村の荒廃をもたらします。ここに「昭和維新」を求める空気が強まっていくのです。

 第3章は1930年11月の浜口首相の狙撃事件から始まります。この事件は昭和のテロリズムの始まりとも言える事件で、特高警察は右派団体に対する警戒感を強めます。藤井も危険視されたのか、長崎の大村航空大隊に異動となっています。藤井はここで陸軍中尉の菅波三郎や海軍少尉の三上卓と知り合います。この二人に関しては井上日召も高く評価し、人脈が形成されていきます。
 
 1931年8月、神宮外苑の日本青年館で「郷詩会」の会合が開かれます。この会合はのちに血盟団事件、五・一五事件、二・二六事件に連なる人物が一同に介した会合でした。会合では西田税を首領とすることが決まりますが、橘孝三郎や日召の一派は西田に不満を持っており、その後の路線の違いにつながっていきます。
 満州事変が勃発すると、陸軍の橋本欣五郎中佐はクーデータを計画し、西田を通じて日召に要人暗殺を依頼しますが、橋本らは要人暗殺は陸軍が行うとして計画は変更になります。しかし、計画はあっさりと露呈し橋本らは拘束されました。日召の一派は陸軍と手を切り、さらに西田との対立もあり、単独行動を志向することになります。

 一方、藤井は空母「加賀」に乗船することになりましたが、陸海軍共同のクーデータを構想し続けていました。ところが、その藤井は第一次上海事変における敵陣偵察の際に乗っている飛行機が撃墜され1932年2月5日に戦死します。日本海軍の航空戦における最初の戦死者でした。
 この時期、日召の一派は要人の暗殺を決行することを決め、井上準之助と団琢磨を暗殺します。いわゆる血盟団事件ですが、血盟団という名は出頭した日召を取り調べた際に検事がつけた名称でした(96p)。
 ここで取り残されたのが古賀をはじめとする海軍の面々でした。藤井と日召を失い、孤立無援となった古賀は中村義雄とともに西田を訪ねて陸軍との連携を探りましたが、今は時機ではないとの認識を示されました。このころ西田は小畑敏四郎から青年将校の暴発を抑えるように頼まれていたのです。

 その後、古賀と中村は陸軍の士官候補生らを引き込むことに成功し、さらに橘孝三郎の愛郷塾を引き込みます。この中で西田が自分たちの行動を邪魔しているとして西田の暗殺も計画されます。そして、西田襲撃の実行犯として血盟団の生き残りの川崎長光に白羽の矢が立ちました。資金や武器は大川周明から援助を受け、決行日は5月15日と決まります。計画の一部は漏れており、14日には古賀と中村が捜査線上に浮かび、月曜日の16日に取り調べが行われる予定でした。
 事件を起こした海軍の青年将校には、犬養への個人的な怨恨はなく、あくまでも既成政治の打破のために襲撃されたと考えられます、特に藤井と日召を失った古賀にとっては決起それ自体が目的となっていた面も強かったのです。

 五・一五事件の決起では犬養首相の暗殺以外は失敗しましたが(重傷を負った西田税も死にはしなかった)、犬養の死は政党内閣の終焉という重要な帰結をもたらしました。「なぜ政党内閣は終わったのか?」という謎に答えようとしたのが第3章です。
 今までの慣例からいうと、犬養の後継は政友会から選ばれるはずでした。浜口雄幸が亡くなった後、後継は同じ民政党の若槻礼次郎となっています。ですから慣例から言えば政友会の総裁となった鈴木喜三郎が首相になるべきだったとも言えます。
 ところが鈴木に大命は降下しませんでした。大方の説明では「西園寺公望をはじめとする重臣が右翼がかった鈴木を警戒したから」ということになっていますが、著者はこれについて改めて検討し直しています。

 本書がまず取り上げるのは、内閣書記官長・森恪の動きです。森は首相官邸に到着すると犬養を見舞いもせずに書記官長室に引きこもり、凶変を喜ぶかのような言動を見せたといいます。森と犬養は満州国の承認などをめぐって対立しており、森は犬養に見切りをつけて平沼騏一郎の擁立なども考えていました。
 こうしたこともあって「森黒幕説」は以前から唱えられており、松本清張も森が犬養が官邸にいることや官邸の見取り図などを大川周明を通じて、実行部隊に流したのではないかと疑っています。
 しかし、著者は森が近かったのは大川ではなく北一輝であったこと、決起部隊の主目的が必ずしも犬養の命ではなかったことなどを考えて、森黒幕説を退けています。

 では、森は書記官長室で何をしていたかというと陸軍との話し合いです。政友会と陸軍の反目を抑え、鈴木首相を実現させることが森の狙いでした。
 森はまず、鈴木を政友会総裁の座に付けるために動き、鈴木をただ一人の総裁候補に擁立して鈴木総裁を実現させます。しかし、陸軍は政党内閣の継続に反対しており、森はこの陸軍の反対を突破する必要がありました。
 森が考えたのが民政党との大連立です。ところが、鈴木は政友会単独でも組閣できる踏んでおりこの案には乗りませんでした。そこで森は鈴木と荒木陸相の会談をセットし、そこで陸軍の了解を取り付けようとします。この会談でいけると考えた森は政党と軍部の「合意」を発表しますが、今度は陸軍の青年将校が反対の声をあげ、逆に政友会は「憲政擁護」の声を強めます。森の策動は完全に裏目に出ました。

 こうした中で斎藤実を後継とする流れをつくったのが木戸幸一です。木戸は「政党をしてもう少し反省させ、有力にする工夫をしたほうがいい」(150p)と回想していますが、当時の木戸は政党、特に政友会鈴木派に強い反感を抱いていました。木戸は事件以前から斎藤実首班を考えており、政党内閣中断もやむなしと考えていたことがわかります。

 一方、西園寺は当初鈴木喜三郎を考えていました。ところが、上京直後にその考えはゆらぎます。これについて上京中の列車で秦真次憲兵司令官に面会を強要されたことなどがその原因としてあげられていましたが、著者は昭和天皇の意向を重く見ています。
 昭和天皇はこのとき「首相は人格の立派なる者」「ファショに近き者は絶対に不可なり」といった希望を伝えたとされ、特に後者は平沼騏一郎を指しているとも言われています。しかし、著者はこの昭和天皇の意向には鈴木に対する忌避が含まれていたと考えます。そして、西園寺は再考を迫られたのです。
 こうした情勢を受けて、森は鈴木首班を断念して、平沼のもとでの挙国一致内閣を目指しますが、この流れの中で平沼が浮上する余地はありませんでした。結果的には、斎藤実を首班として現状維持的な性格を持つ挙国一致内閣が出現します。
 
 第5章では五・一五事件についての裁判がとり上げられてます。被告たちの同情の声が集まり、軽い刑で終わったということはよく知られていることかもしれませんが、世論が盛り上がったのは事件直後ではなく、1年以上後の公判が始まってからでした。
 事件についての記事の差し止めが解除されたのは事件から1年近くたった33年5月16日であり、翌日に陸軍・海軍・司法の三省から事件の概要が公表されました。この概要では被告らの動機を「至純」とする論理が色濃く、また荒木陸相や大角海相も彼らを思うと涙なきを得ないといったことを語っています。
 新聞の一部は事件を激しく避難しましたが、公判が始まると「「私心なき青年の純真」という被告イメージが形成され」(188p)、支配層の腐敗や農村の困窮といった彼らの主張がメディアに流れていくことになります。

 公判でも被告たちは自己の主張を声高に述べ、特に三上卓は法務官の質問を遮って弁論をはじめ、政治家や海軍上層部をこき下ろしました。特に犬養首相を撃った場面など臨場感たっぷりに語りつつ、「首相の尊い死を転機として、これまでの邪悪に満ちた日本の政治が、吾々の念願する天皇親政へ、又昭和維新への首途たらしめんと心中祈って止まなかった次第であります」(198p)と述べ、法廷のムードを変えていきました。
 こうした中で、被告たちに対する減刑運動が盛り上がっていきます。当初は右派系団体が中心でしたが、次第に自発的なものも増え、血書や児童の書いたものなど、最終的には70万通にのぼったそうです。
 公判において求刑こそ死刑だったものの、海軍部内の対立もあって量刑に関する方針は紛糾し、結局、古賀と三上に禁固15年という軽い刑が下ります。一方、これによって海軍内の動揺は収まっており、政治的な判決だったと言えます。一方で民間人の橘孝三郎は無期になるなど、民間人には軍人と比較して厳しい判決が下されました。
 
 第6章では被告たちのその後を扱っています。いわば後日談なのですが、ここが意外と面白い。
 1938年の7月、三上と古賀は仮釈放されます。恩赦などもあって事件から6年余りで放免されているのです。古賀は大陸に渡っていきますが、他にも中村義雄や村山格之なども大陸に渡っており、元受刑者を大陸に渡らせるというのは軍当局の暗黙の了解でもあったようです。
 そんな中で内地にとどまって政治的活動を続けたのが三上です。三上は当時新体制運動を進めていた近衛文麿に接近します。この運動に関しては近衛が「幕府論」を気にして失速するのでですが、本書では近衛が三上らの維新勢力に圧力をかけられた可能性を指摘しています。
 三上らの一君万民的な思想の持ち主は、陸軍などの全体主義的な考えに反発するようになり、逆に自由主義者と接近するようになります。

 1940年には井上日召と橘孝三郎が仮出所します。日召は近衛と意気投合し、日召は荻外荘に住むことになります。日召は「ひもろぎ塾」をつくり、そこに三上と四元義隆が協力することになります日召によれば活動費は近衛が出したそうです。
 太平洋戦争が始まり登場の独裁色が強まると、三上らは東条「幕府」とも言われた東条への反発を強めます。44年になると高木惣吉らと東条暗殺計画を企図しますが、直前に東条が対人したことでこの計画は流れました。その後、三上は緒方竹虎のもとで大日本翼賛壮年団の中央本部組織部長(兼理事)に就任しています。この後、三上に近かった四元は鈴木貫太郎の警護なども行っています。四元はその後、吉田茂を支え、池田勇人、中曽根康弘、細川護熙などの相談役にもなりました。

 一方、三上は戦後、公職追放されたあと、密輸事件を起こして逮捕されたり、1953年の参院選の全国区に立候補したりしました(9万票弱で落選)。戦後の一貫して独特の精神主義を唱えており、野村秋介などに影響を与え、1971年に亡くなりました。

 このように本書には章ごとに読みどころがあります。例えば、政治に興味があれば第4章を面白く読めると思いますし、歴史小説が好きならば第1章や第6章を面白く感じるかもしれません。ここ最近、中公新書の歴史ものはかなり「本格的」で、読み手によっては少し「硬すぎる」という印象を抱くことがあったかもしれませんが、本書は非常に間口が広く、なおかつ事件の深い部分まで論じることができているのではないでしょうか。