今年、没後100年を迎えるマックス・ウェーバー。言わずとしれた人文・社会科学の巨人ですが、実はその名声は日本において突出していると言えるかもしれません。1984年にドイツでマックス・ウェーバー全集の刊行が始まったとき注文の2/3は日本からだったといいます(はしがきv p)。日本で「近代ヨーロッパ」を理解するための手がかりとしてウェーバーの著作が読み込まれ、「ウェーバー学」とも言われる精緻な研究が積み重ねられてきました。
 しかし、だからこそ「今さらウェーバーに取り組む意義があるのか?」という疑問が出てくるのも当然でしょう。良くも悪くも「「近代ヨーロッパ」に追いつかねば」という風潮は薄れましたし、特定の思想家だけを研究し続けることが評価される時代でもないのかもしれません。

 そこで、本書はウェーバーの生涯と思想を追いつつも、同時にウェーバーとさまざまな思想家や芸術家との間の関係をとり上げていくことで、ウェーバーの思想の可能性と、彼の生きた時代を再構成し、さらには日本における受容を紹介する内容になっています。
 著者は『官僚制批判の論理と心理』(中公新書)や『忖度と官僚制の政治学』などの著作で知られる政治学者で、本書の関心も政治分野に寄っている部分はありますが、宗教社会学にも注目するなど、バランスは取れていると思います。
 
 目次は以下の通り。
第1章 政治家の父とユグノーの家系の母―ファミリーヒストリー
第2章 修学時代―法学とパラサイト
第3章 自己分析としてのプロテスタンティズム研究―病気と方法論と資本主義
第4章 戦争と革命―暴力装置とプロパガンダと「官僚の独裁」
第5章 世界宗教を比較する―音楽社会学とオリエンタリズム
第6章 反動の予言―ウェーバーとナチズム
終章 マックス・ウェーバーの日本―「ヨーロッパ近代」のロスト・イン・トランスレーション

 マックス・ウェーバーは1864年にドイツのエアフルトに生まれています。父はビスマルク派の政治家であり、1869年には参事会員(聖職者や貴族に対して市民が送り込んだ代表)としてベルリンに招聘されています。一方、母はユグノーの末裔であり、強い信仰心を持つ人でした。ウェーバーはこの「政治」と「信仰」の緊張関係の中で育っていくことになります。

 1882年、ウェーバーはハイデルベルク大学に進学します。本書によれば、決闘騒ぎなどもおこし、また「ウェーバーが飲むビールの量は尋常ではなかった」(28p)そうです。
 ウェーバーの主専攻は法学でした。社会学のイメージが強いかもしれませんが、社会学はまだ生まれたばかりでウェーバーが創始者の世代に当たります。著者はここで法学の出自に注意を向け「ウェーバーの方法論が「行為」論であることも、法学と関連づけて理解することができるかもしれない」(30p)と述べています。

 法学を学んだウェーバーは、1887年にベルリン地方裁判所第二部で司法官試補になっています。1889年には博士論文「中世商事会社の歴史」でベルリン大学より博士号を取得し、1891年には「ローマ農業史」でベルリン大学の教授資格を取得しています。
 1893年にはマリアンネ・シュニットガーと結婚し、翌94年にはフライブルク大学の国民経済学の教授に就任しました。
 このフライブルク大学の教授就任講演において、ウェーバーは東エルベ地域へのポーランド人労働者の流入を批判しました。安い労働力はユンカー(保守的な地主貴族)にとって都合の良いものでしたが、ウェーバーは国民国家防衛の観点から、これを好ましくないと考えたのです。基本的にウェーバーはナショナリストでした。

 ウェーバーは父と大げんかをして、その直後に父が死ぬという出来事で精神的に落ち込み、病気になります。
 そんな中でウェーバーは社会科学の方法論に取り組み、1904年には「社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」」を発表しています。ここでは、すべての主観的な価値判断を排除したものではなく、自らの立脚する観点を自覚化することあが求められています。ウェーバーは「価値自由」という言い方をしていますが、ここで著者はウェーバーが後年、「生産性」のようなあたかも客観的にみえる指標を批判していることに注意を向けています。
 そして、次のようにも述べています。

 この意味で、真理は政治の敵である。複数の意見の可能性があるところでのみ、政治的な議論は成り立つ。全員の賛同を得ることは期待できないが、「私はこう思う」と一人称で語る余地のない政治理論は非政治的である。(72p)
 
 ウェーバーの代表作とも言える『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の前半部分が発表されたのも1904年です。
 実はウェーバーはこの本でプロテスタンティズム→資本主義という因果関係は示しておらず、「選択的親和性」という言葉を使って関連づけています。一見するとまったく関係のないプロテスタンティズムと資本主義が思わぬ化学反応を起こしたというイメージです。
 ウェーバーは「ベルーフ(Beruf)」という日本語で「職業」あるいは「使命」といった意味を持つ言葉にこだわりましたが、この「使命」がある種の倫理的な行動様式を生み、これが資本主義を成長させる1つの行動様式を生み出しました。
 著者は、ウェーバーのこの考えを、エーリッヒ・フロムやジョン・ロックさらにはフィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』にまでリンクさせながら論じています。

 1914年に第一次世界大戦が勃発しますが、この第一次大戦とウェーバーの関わりをとり上げたのが、第4章の「戦争と革命」です。
 戦争が始まると、ウェーバーは志願してハイデルベルクの陸軍野戦病院で働き出すなど、ナショナリストとして行動しています。ただし、それがずっと一貫していたかというとそうではなく、高揚感とともに疑問も感じています。

 ウェーバーは政治における「暴力」にこだわった人物でもありました。実際、第一次世界大戦後のドイツでは政党は義勇兵のようなものを抱えているケースが多くありました。のちに最も有名になるのがナチの突撃隊です。
 ウェーバーは国家に対して「物理的な暴力行使の独占を要求する(そして、しれを実行する)人間共同体である」(105p)という有名な定義を与えましたが、実は近年の政治理論では、この「暴力」がとり上げられることは少なくなっています。
 著者はロールズをとり上げて、まずは理想状態における規範を論じるロールズをウェーバーとは対称的な思想家と位置づけています。ウェーバーは「正義とはなにか」を中心的に論じようとはせず、政治における「闘争」を重視しました。
 ウェーバーの暴力重視の姿勢に関しては批判を行ったのがアーレントで、彼女は「権力」と「暴力」を同一視するようなウェーバー的な考え方に異を唱えました。「ウェーバーは「悪に対して力をもって対抗する」ことを「男子の尊厳」」(110p)と呼んでおり、このあたりも現在では批判を受ける部分でしょう。

 ただ、ウェーバーの面白さは徹頭徹尾、「闘争」にこだわっている点です。ウェーバーは近代的な政党組織を研究したロベルト・ミヘルスの『現代民主主義における政党の社会学』を激賞していますが、これはミヘルスが当時のドイツの中心的政党であった社会民主党(SPD)に入党し、その内部から問題点を明らかにしたからでした。
 SPDは平等や民主化を掲げていましたが、党勢の拡大とともに組織が官僚化し、幹部による非民主的な支配が進んでいました。政治家が組織を動かすのではなく、組織(マシーン)が政治家をリクルートして使っていくような「近代的政党組織」が出来上がっていたのです。
 もちろん、イデオロギー的にもウェーバーとSPDは合わなかったのでしょうが、同時にウェーバーはSPDの一元的な組織を嫌ったのでしょう。

 社会主義に関しても、ウェーバーは「官僚の独裁」という視点から批判を行っています。ウェーバーは社会主義に関する講演で「公経営および目的団体による経営において優位を占めるのは労働者ではなく、いよいよもって、またもっぱらただ、官僚にほかならないのです」(125p)と述べており、社会主義においては政治と行政の緊張関係もなくなっていくと考えました。
 この「官僚」についての部分では、カフカにも触れられています(カフカはおそらくウェーバーの「官僚」という論文を呼んでいた(132p))。

 第一次世界大戦中、ウェーバーは「世界宗教」を対象にした比較宗教社会学に取り組み、「儒教と道教」、「ヒンドゥー教と仏教」、「古代ユダヤ教」といった論文を発表しています。また、『経済と社会』というタイトルで死後出版されることになるプロジェクトにも取り組んでいました。
 
 ウェーバーの使った有名な用語に「脱魔術化」(本書では「魔法が解ける」の訳語が使われている)があります。ウェーバーは近代を、知性主義や合理主義によって「世界の魔法が解ける」(146p)時代と表現しましたが、同時に宗教などが生み出す理念に注目し続けました。
 魔法が解ければそれだけ、人々は生きる意味を求めます。そこで再魔術化が起こるのです。
 ちなみに、ウェーバーを比較宗教学に駆り立てた背景には音楽への関心もあるとのことです。各地の音楽の違いに着目したウェーバーは、その背景に宗教やそれがもたらす世界観の違いを見出していくのです。

 ウェーバーは現世肯定/現世否定、そして現世否定の場合は禁欲/神秘的合一(瞑想)といった基準をつくって宗教を分類しました。世界宗教では現世肯定が儒教、現世否定の禁欲がユダヤ教、キリスト教(特にプロテスタンティズム)、神秘的合一がヒンドゥー教、仏教になります。
 ウェーバーは儒教をピューリタニズムと対比して論じており、儒教は現世への順応を、ピューリタニズムは現世の合理的改造をもたらすと考えています。著者も言うように、これはかなり単純な図式論であり、東洋をネガにしてヨーロッパのアイデンティティを確立するというおなじみの構図でもあります、このような議論はサイードが『オリエンタリズム』で批判したものですが、著者はこの批判を認めつつも、「ありのまま」への居直りにも警鐘を鳴らしています。

 1918年に第一次世界大戦は終結します。1919年夏にウェーバーはミュンヘン大学に招聘されますが、そこでウェーバーの講義を聞いたホルクハイマーは「そのすべてが実に正確で、学問的に厳密で、かつ没価値的なものだったものですから、私達はひどく悲しくなって、家路についたのでした」(181p)との感想を残しています。
 若者にとってウェーバーはある意味で「反動的」でもありました。1919年にウェーバーは「仕事としての政治」の講演を行っていますが、そこでは「信条倫理」と「責任倫理」という2つの概念を持ち出し、政治において結果に対する責任をとることの重要性を指摘しました。この2つの倫理にはそれぞれ問題点がありますが、著者は「1919年冬のミュンヘンに集っていた信条倫理的な若い世代に対して、ウェーバーはあくまでの大人の責任倫理の人として向き合った」(192p)と述べています。

 ウェーバーはドイツ民主党(DDP)の創設に関わり、立候補もしています。当初は比例代表名簿の1位になるはずでしたが、党内の争いに関わらいないでいる間に当選の見込みのない准尉にされていました。政治的なセンスはなかったというべきかもしれません。
 ウェーバーは比例代表制には否定的で、比例代表制は党内の官僚制を強め、政治家のリーダーシップを阻害すると見ていました。ちなみに日本で小選挙区比例代表並立制の導入に関わった佐々木毅はウェーバーのことを意識していたそうです(195p)。
 ウェーバーは強力な大統領を求めており、これがヒトラーと結び付けられることもあります。そこではカール・シュミットがウェーバーのミュンヘン大学の上級ゼミに出席していたことなども指摘されています。著者はウェーバーとナチズムを直接結びつけることはしませんが、「かなり危なっかしいことは、否定できないだろう」(212p)と述べています。

 終章では、死後のウェーバーの受容のされ方、特に日本における受容のされ方を論じています。
 ウェーバーは1920年の5月にスペインかぜが原因と思われる発熱で亡くなりました。ウェーバーの遺稿は妻のマリアンネの努力によって出版されていきますが、ウェーバーは大学から離れている時期が長かったために、いわゆるアカデミズムの中での直系の弟子はいませんでした。このため、ドイツではウェーバーの仕事は次第に忘れ去られていきます。
 そんな中でウェーバーをアメリカに紹介したのがタルコット・パーソンズです。パーソンズは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を英訳し、ここから受け継がれた「道徳の喪失」というモチーフはダニエル・ベルなどに受け継がれていくことになります。

 一方、日本でウェーバー研究の第一人者となったのが大塚久雄です。大塚は『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』とイギリスの経済史を結びつけ、彼なりの「ヨーロッパ近代」の理想像を描き出しました。ウェーバーは「ヨーロッパ近代」を教えてくれる存在として日本で独自の地位を築きました。
 この読み方はある意味で特殊ではありますが、著者は「「普遍的なもの」がなにかをめぐっては論争があるとしても、「普遍的なもの」を追求する未完の試みがそこにはあった」(249p)と評価しています。

 以上がまとめになりますが、本書の魅力はまとめきれない脇の部分にあり、実際に読めば、それぞれ興味がひかれる部分を見つけることができるのではないかと思います。
 日本では「ウェーバー学」と言われるほどウェーバーに関する研究が進められてきましたが、その厚みがかえって初学者を遠ざけるという面もあるでしょう。その点、本書はウェーバー読解の深みにはまらないで、ウェーバーとさまざまな思想家や芸術家などの関連性を示すことで、ウェーバーを浅瀬に引き上げるような本と言えるのかもしれません。