岩波新書の〈シリーズ中国の歴史〉の第4巻。この巻では明朝の成立から滅亡までが描かれています。一見すると、今までの「陸の中国」と「海の中国」にわけた構成に対して非常にオーソドックスに見えますが、「明清」とセットにされることが多い中で、あえて明だけで1巻使っているところに本シリーズの特徴があるといえるでしょう。
 多くの人にとって、明というと、朱元璋(洪武帝)げ建国し、永楽帝が勢力を広げて、鄭和に東南アジア〜アフリカにいたる大航海を行わせたが、それ以降は「北虜南倭」に苦しんで滅亡、といった程度のイメージしかないかもしれませんが、本書を読むと、明の時代がさまざまな可能性の中からその後の中国のあり方を大きく規定する選択を行った時代だということが浮かび上がってきます。
 あと、明というと暗君が多かったことでも知られているのですが、そういった暗君を含めて日本では考えられないようなスケールでの無茶苦茶な政治についての記述も本書の読みどころの1つと言えるでしょう。

 目次は以下の通り。
第1章 明初体制の成立
第2章 明帝国の国際環境
第3章 動揺する中華
第4章 北虜南倭の世紀
第5章 爛熟と衰勢の明帝国
第6章 明から清へ

 元朝の末期、官紀の弛緩やチベット仏教に傾倒した皇帝による多額の支出、寒冷化減少による食糧不足などが重なって社会が混乱します。そんな中で民衆の心を捉えたのが白蓮教でした。白蓮教は未来仏の出現と世直しを説く宗教で、この教団を中心に紅巾の乱が起こります。
 この反乱の中で頭角を現してきたのが朱元璋です。貧農の家に生まれ、17歳の時に家族をなくして托鉢僧をしていた朱元璋は、この反乱に加わり、そして集慶(南京)を根拠地に地主などの支持萌えながら勢力を拡大しました。

 各地で反乱軍が割拠する中で、朱元璋は劉基と宋濂という二人の儒学者を加え、「養民」という主張を掲げて支配を固めていくことになります。
 当時、江南地域では塩を扱う商人出身の張士誠、海賊あがりの方国珍、さらには陳友諒らがいましたが、朱元璋はまず陳友諒を討つと、つづいて張士誠を討ち、方国珍は降伏しました。
 江南を支配下において朱元璋は北伐を開始し、1368年に皇帝に即位し、国号を大明としました。元朝最後の皇帝トゴン・テムルは戦わずして大都を放棄して北方に逃れ、明による統一が完成します。

 ここで明が抱えた問題が、「南人政権」という性格でした。もともと江南の発展とともに科挙の合格者数などで南が北を上回るような傾向があったのですが、明は江南の地主の支援を受けて成立した王朝であり、しかも中国史上唯一、南から北を統一した王朝ということもあって、北をいかに包摂するのかというのが大きな課題だったのです。
 この問題に対して、朱元璋は南京に対して開封を北京とする両京制度をとり、官僚も南人を華北に、北人を江南に赴任させるなどの措置をとりました。さらに科挙を一時中断して推薦制度によって北人の官僚を増やそうとしました。
 経済政策では疲弊した華北に配慮して現物納の税制を敷き、金銀の使用を禁止して、不換紙幣を流通させようとしました。放っておけば江南が銀建ての経済圏となり、華北との格差が一層開くからです。
 さらに南人官僚と江南地主の癒着を断ち切るために、朱元璋は計画的に大獄を起こし、官僚たちを処刑していきました。「禿」「僧」「光」などの文字は朱元璋の托鉢僧としての過去を揶揄するものだとして、これを使った者を弾圧した「文字の獄」は有名です。
 このように朱元璋は南北の融和とともに皇帝の地位の絶対化を進めていったのです。

 明の初期には職業の固定化が行われました。民戸(農民)、軍戸(兵士)、匠戸(手工業者)といった具合に戸籍をつくり、その移動を禁止しました。特に農民は里甲制のもとで土地に縛り付けられ、里内から出ることや、夜間の外出まで制限されました。
 人々には「分」を守って生活することが求められましたが、その理論的な柱となったのが儒教でした。儒教では徳治が求められ、やむを得ないときは法が使われますが、実際は徳治は法を正当化するための手段となり、秩序の維持が求められました。
 これは混乱していた社会が望んでいたことでもありますが、朱元璋のあり方について著者は次のように論じています。

 明初の専制主義の高まりと絶対帝政は決して朱元璋一人の所為の結果ではない。それを支持する空気が当時はたしかにあった。ただ、朱元璋の政策は社会の予想をはるかに超えて、あまりに苛烈かつ酷薄であった。元末の秩序崩壊を経験した中国社会は、狂気と信念の非人間的な明初という時代に生み出してしまったわけだ。(32p)

 元は宋の流れを受け商業を重視した海洋国家でもありました。もしも、張士誠や方国珍が天下をとったら、また違った形の国際政策があったのかもしれませんが、「大地に固執する貧農出身の朱元璋にとり、海洋世界は想像すらできない埒外の境域」(42p)でした。
 張士誠や方国珍の残党らが倭寇などを引き込んで明に抵抗すると、明は海禁を打ち出して、陸と海を分離させようとします。さらにモンゴルに対しても万里の長城地帯を固めて守りに入ります。

 一方で明は、大越(安南)、占城(チャンパ、ベトナム南部)、高麗、日本に使者を派遣し朝貢を促します。特に日本は倭寇対策のためにも重要であり、征西将軍懐良親王が日本国王として入貢しました。
 当初、明は朝貢と民間貿易を両立させていましたが、1374年にすべての市舶司を突然廃止し、すべての民衆の出海を禁止し、外国の商人の来航も禁止します。これは先述の南北格差を縮小する経済政策と関わりがあるもので、これによって銀経済の伸展を止めようとしました。
 明と周辺国の貿易は朝貢に限られることになり、ここに朝貢一元体制が成立するのです。明は朝貢によって華夷の統一を謳いつつ、同時に華夷の分離をはかりました。日本に関しては倭寇の禁圧に成果が上がらなかったことから、1386年に国交を断絶し、子孫に対しても永遠の国交断絶すると同時に、日本や挑戦などを列挙し、無用の海外遠征をしないように厳命しています。「日本を討て」ではなく「討つな」と言っているところが、明らしいと言えるかもしれません。

 しかし、この内向きの方針は永楽帝の登場によって修正されます。朱元璋の孫にあたる建文帝を討ち帝位についた朱元璋の第4子の永楽帝は、日本の足利義満を日本国王に冊封し、ベトナムに大軍を送って制圧し、鄭和に南海遠征を行わせました。さらに永楽帝はモンゴルに親征し、北京への遷都を行います。
 こうしてみると、朱元璋の路線がひっくり返されたようにも見えますが、著者はそうではないと言います。朱元璋が目指しつつ果たせなかったものが、国内的には南人政権から統一政権への脱却、対外的に華と夷の統合でした。永楽帝は北京遷都によって前者を実現し、モンゴルを威嚇し、鄭和によって促された東南アジアなどからの朝貢を受け入れることで華夷の統一を演出しました。しかし、一方で民間貿易や民衆の出海は禁止されており、開放的な政策がとられたというわけではなかったのです。

 しかし、永楽帝の強引ともいえる政策に対する反動も起こります。永楽帝が亡くなると新帝の洪煕帝は南京への遷都を発表しますが、これは洪煕帝の急死によって取りやめになりました。つづく宣徳帝は、永楽帝の意思を継ぎつつ、それをソフト・ランディングさせました。鄭和に最後の大航海を命じるとともに、ベトナムを放棄し、国内体制の安定を目指しました。
 ただし、このころになると銀経済の広がりを押し止めることは難しくなり、不換紙幣の流通も滞るようになります。また、身分制度も動揺を見せ始め、社会の流動化が始まります。
 また、朝貢体制も動揺し、北方のオイラトと朝貢の下賜品をめぐって対立し、明に侵攻してきたオイラトによって当時の皇帝・正統帝が捕虜になるという土木の変が起こります。
 このころになると朝貢によって華と夷の統一を図るという題目は捨てられ、朝貢に対しても関税をかけるなど、内向きの姿勢が鮮明になりました。北方での密貿易もさかんになり、白蓮教徒たちが長城の外に定住社会を築き、モンゴルと接触するようになっていきました。

 政治では永楽帝のときに内閣制度がつくられ、その首輔大学士がやがて宰相のような存在になっていきます。さらに永楽帝が宦官を用いたことから、宦官の力も強まり、官僚を観察する司令監太監の権力が増大しました。吃音のために配下との接触を嫌った成化帝は司令監太監を自らの代わりに閣議に出席させ、宦官の公的な政治への介入が強まっていきます。
 成化帝の跡を継いだヤオ族出身の母を持つ弘治帝で、比較的安定した時代でした。法律も整備され、「弘治の中興」とも呼ばれますが、銀の流通はますます広まり、奢侈の風潮が強まっていきました。

 そんな中で登場したのが正徳帝です。正徳帝は学問にも武芸にも秀でていたようですが、宦官を集めて戦争ごっこをしたり、遠征しては民家の婦女を掠め、挙句の果てには魚を捕ろうとして池で溺れかけて、そこからかかった病で死ぬという破天荒な人生を送りました。
 この正徳帝の人生について、著者は同時代の陽明学の始祖・王陽明の教えと重ねます。そのテーゼ「心即理」は自らの心を行動の基盤とするもので、正徳帝の無軌道ぶりもそれに通じるものがあるのかもしれません。

 正徳帝の跡を継いだのは正徳帝の従兄弟にあたる嘉靖帝でした。このころから社会の変化は明らかになり、商品経済がますます展開していきます。長江下流域では稲作から綿花栽培、桑栽培に切り替える農家が増え、食糧生産の中心は長江中流域に移っていきます。
 地方では、「郷紳」や「紳士」と呼ばれる科挙に合格した者や引退・休職した官僚などが力を持つようになり、地方政治に大きな影響を与えるようになります。
 またこの嘉靖帝の時代には、金持ちの贅沢こそが庶民の生活を支えるという主張を行った陸楫(りくしゅう)という人物が現れるなど、私欲を肯定する考えも生まれています。

 この嘉靖帝の時代には寧波の乱(1523年)も起こっています。大内氏と細川氏が中国で争いを繰り広げた結果、日本に勘合は与えられなくなり、密貿易が中心になります。また、広州では民間の商船の入港を黙認し、関税をとることが慣例化し朝貢一元体制は有名無実化しました。
 さらにポルトガル人もこの海域に現れ、福建の月港と浙江の双嶼港を中心に密貿易がさかんになりました。特に石見銀山で大量の銀が産出されるようになったことで、日中間の密貿易は拡大していきます。
 明は港や船を破壊して取り締まりを強化しますが、逃亡した農民などは海へ、あるいは北辺の辺境へと逃れ、そこで交易に携わります。「北虜南倭」という言葉がありますが、これは外敵が攻めてきたというよりも、辺境での交易ブームを強引に止めようとした明への反発という側面が強いです。

 明の内部でも貿易(互市)を容認すべきだという意見も出ましたが、結局は江戸時代の日本と同じように「祖法」という考えが勝ちました。倭寇の首領として知られる王直も互市の容認と引き換えに明へ投稿をすることを呼びかけられ、ついにはこれに応じますが、結局は逮捕され処刑されています。一方で、月港だけを開港するという政策もとられ、月港のみで日本以外との貿易が認められました。
 さらに北方でも互市が認められたことで、「北虜南倭」の騒擾は沈静化していきます。

 16世紀後半、明の体制再建に取り組んだのが張居正です。1572年に万暦帝が即位すると、張居正は首輔大学士となり、官僚の綱紀を引き締めるとともに、全国で丈量(検地)を行い税の増収を図りました。さらに一条鞭法を全国的に施行し、税糧と徭役を一本化して銀で徴収しました。こうした改革の結果、明の国庫には銀が積み上がりました。
 しかし、これを使い尽くして国を傾けたのが万暦帝です。若い頃の万暦帝は張居正に厳しく教育され禁欲的な生活を送らされていましたが、張居正が死ぬと、自分の陵墓の建設や子どもの婚礼費に巨額の富を費やし、さらには紫禁城の消失やモンゴル人将軍の反乱、秀吉の朝鮮侵略などもあって明の財政は一気に悪化しました。

 一方で、社会はさらに流動化していきます。空前の出版ブームが到来し、経書や史書を読む「庶」が現れるとともに、「士」も受験参考書や白話小説などを読むようになります。腐敗の中でカネで学位や資格が買えたこともあって、士庶の別は弱まっていきます。
 また、社会の流動化の中で、農民の中には税負担から逃れるために郷紳に土地を寄託したり、郷紳の奴僕となるものも現れます。宗族結合が進展するのもこの時期で、宗族間の結束をはじめとして、さまざまな結社がつくられ、社会のヨコの結合が強まりました。都市などでは郷紳や名士が「善会」をつくって社会福祉活動を行うようにもなります。

 こうした社会の流動化の背景にあったのが中国への銀の流入です。銀は日本から、そして新大陸から、あるいはヨーロッパを経由して中国に持ち込まれ、中国の商品が輸出されていきました。また、サツマイモ、トウモロコシ、タバコなども新大陸からもたらされています。
 こうした貿易により、辺境には東北の李成梁、ヌルハチ、福建の鄭芝龍といった華夷混淆の自立勢力を生み出します。そして、さらなる辺境から国際秩序にチャレンジしたのが豊臣秀吉ということになります。
 秀吉は1592年に朝鮮に攻め入ると、破竹の勢いで軍を進めます。この勝利に気を良くした秀吉は、後陽成天皇を北京に移し、日本には別の天皇を立て、自分は寧波に移るというアイディアを披露します。日本という「小天下」を拡大させる狙いは、中国という「大天下」の乗っ取りに拡張されたのです。秀吉はこの後、講和の条件を日明貿易の再開や朝鮮南部の割譲に引き下げます。これは現実的な選択でしたが、著者は「秀吉はヌルハチになる機会を自ら放棄したということでもある」(182p)とも述べています。

 万暦帝の時代、「東林党」と呼ばれる朱子学にもとづき社会の立て直しを図ろうとする官僚も現れますが、「明朝随一の暗君といわれる」(192p)天啓帝が即位し、宦官の魏忠賢が権力を握ると、東林党は弾圧されます。さらに魏忠賢は各地に魏忠賢を祀る生祠をつくらせ、孔子と並ぶ聖人に祭り上げようとするなど、政治は乱れました。
 天啓帝が亡くなると崇禎帝が即位し、魏忠賢を排除します。この崇禎帝は政治への関心も意欲もありましたが、以上に疑り深い性格で次々と官僚を更迭しました。結局、宦官を頼るようになり、政治は混乱します。
 
 そんな中で流賊の中から李自成が頭角を現し西安を都に大順国を建国し、1644年には北京に攻め入って崇禎帝を自殺に追い込みます。しかし、ここでヌルハチの子・ホンタイジが建国した清との国境を守っていた呉三桂が清と手を結び、李自成を敗北させます。
 明の諸王や遺臣は南部で抵抗しますが、次々と清に撃破されていきます。粘り強く抵抗したのが鄭芝龍とその子の鄭成功で、鄭成功は日本や、さらにはバチカンにまで支援を要請しましたが、結局台湾に逃れ、最終的にはその孫が清に降伏しています。
 夷が中華の地を奪ったことから周辺国も対応を迫られます。日本は琉球などとの間に「小天下」を形成する道を選び、中国中心の国際秩序から離脱していくのです。

 読む前は「明だけで1巻使うのか?」と少し疑問にも思っていましたけど、これは面白いですね。社会の大きな変化と、明の皇帝のダイナミックな無軌道ぶりは読み応えがあります。そして、がっちりとした身分制度をもった農本主義の社会が商品経済の浸透とともに弛緩し、崩壊していくというのは日本の江戸時代と同じであり、同時代の日本とのヨコの関係だけではなく、いわばナナメの関係のようなものを感じられたのも面白かったです。