インドネシアで1965年に起きたクーデーター未遂事件である九・三〇事件と、1968年に起きたスカルノからスハルトへの大統領の交代劇三・一一政変、そしてその間に吹き荒れた虐殺の嵐。少なくとも50万人、一説によると200万人以上が命を落としたと言われています。
 しかし、その割にこの出来事の知名度は低いです。200万以上という数字が妥当であれば、カンボジアでのポル・ポトによる虐殺に匹敵する、あるいはそれを上回るスケールになりますが、多くの人はそれだけの虐殺があったことを知らないのではないかと思います。
 
 本書は、謎の多い九・三〇事件や、そこからスカルノが失脚しスハルトが権力を掌握するに至る過程を明らかにするとともに、虐殺の実態と「なぜ国際的な注目を浴びなかったのか?」ということを分析しています。それと同時に虐殺に巻き込まれた人、運命を変えられた人の姿を追うことで、この虐殺がもたらした「傷」に改めて光をあてようとしています。

 目次は以下の通り。
序章 事件前夜のインドネシア
第1章 九・三〇事件―謎に包まれたクーデター
第2章 大虐殺―共産主義者の一掃
第3章 三・一一政変―「新体制」の確立
第4章 敗者たちのその後―排除と離散の果てに
終章 スハルト体制の崩壊と和解への道

 第2次世界大戦後に独立を果たしたインドネシアは、冷戦の中、スカルノのもとで植民地主義や帝国主義に反対する独自の路線をとっていました。
 スカルノは、イギリスがマラヤ連邦と英領ボルネオを併合してマレーシア連邦をつくる構えをみせるとこれに反発し、共産主義諸国に接近します。60年代半ばにはソ連がインドネシアの最大の援助国となっており、中国からも経済援助や武器援助を受けていました。1961年には韓国と北朝鮮がインドネシアとの国交樹立を競う中で、北朝鮮との間に国交を樹立しています。
 昨年の大河ドラマ「いだてん」を見ていた人は、この時期のインドネシアがスポーツ大会でいろいろと厄介な問題を引き起こしていたことが記憶にあるかもしれませんが、この時期のインドネシアは反帝国主義と急進的なナショナリズムを掲げ、1965年には国連の脱退を宣言しています。

 こうした中で、日本はスカルノと独自のパイプを築いており、インドネシア大使の斎藤鎮男はスカルノと旧知の仲であり、自民党の副総裁の川島正次郎もスカルノとの個人的なパイプがありました。さらにスカルノがラトナ・サリ・デヴィ(根本七保子)と結婚したことも両国の関係をより密接なものとしました。

 当時のスカルノは「ナサコム」と呼ばれる「民族主義」「宗教」「共産主義」の3つの勢力のバランスの上に立った国家運営を目指し、中央政府から村落レベルまで、この3つの勢力の代表を出させていました。「民族主義」を代表するのがインドネシア国民党(PNI)、「宗教」を代表するのがナフダトゥル・ウラマ(NU)、「共産主義」を代表するのがインドネシア共産党(PKI)になります。
 スカルノはハリウッド映画を締め出すなど、欧米の文化を攻撃しましたが、一方で経済運営は苦境に立たされており、外貨が不足して主食の米の輸入も困難をきたしていました。

 こうした中で起きたのは九・三〇事件です。この事件はスカルノ親衛隊の軍人たちが7人のトップクラスの将軍を襲撃し、射殺、あるいは拉致された後に遺体で発見された事件で(国防大臣のナスティオン大将は難を逃れるが6歳の娘が犠牲になる)、翌10月1日にスハルト少将率いる陸軍の陸軍戦略予備軍司令部が決起部隊を粉砕し、2日には事件はインドネシア共産党(PKI)によって実行されたものだという見方を出しています。
 
 事件当時、スカルノは優柔不断な態度を取り、PKI寄りと見られていた空軍のハリム空軍基地に向かい、スハルトからそこを攻撃することを伝えられると基地を去っています。
 スハルトのハリム空軍基地奪取後も、九・三〇事件に呼応するような動きやPKIを支持する動きが起こりますが、徐々に反PKIの動きが目立つようになってきました。

 この九・三〇事件、インドネシア政府の公式見解はPKIによるクーデーターとのことですが、当のPKIは陸軍の内紛説を主張しており、また、この事件をきっかけにスハルトが権力握ることからスハルトの個人的な陰謀だったとの説もあります。また、スカルノが事件が起こることを知っていたのかどうかに関しても、スカルノが陸軍のクーデターを潰すために黙認した、あるいは関わったとの説があります。
 さらに、CIAの陰謀という説もありますし、毛沢東がPKIの指導者のアイディットを煽っていたという話もあります(アイディットが軍の将軍を排除するのには何百人も犠牲が出るかもしれない、と言ったのに対して、毛沢東が「私は2万人を殺した」と答えたという資料が紹介されている(64p))。

 このように謎の多い九・三〇事件ですが、事態が動くのはこの後です。陸軍は事件の黒幕はPKIだとしましたが、スカルノはPKIの関与を否定し、スカルノと陸軍の間に隙間風が吹くことになります。
 こうした中、スカルノは圧力に押されてスハルトを陸軍大臣兼陸軍司令官のポストに任命しますが、これがスカルノからスハルトへとパワーバランスが傾く大きなターニングポイントになりました。さらにスカルノがPKIの解散に抵抗したことも、陸軍がスカルノを見限っていく要因になります。
 こうして次第にスカルノの権力は陰りを見せ始めることになります。デヴィ夫人はナスティオン夫人と連絡を取ることでスカルノとナスティオンの関係を修復しようとしましたが、スカルノはPKIへの非難を拒否したことで、この工作もうまくいきませんでした。

 そして、虐殺が始まるのですが、まず行われたのが軍や官僚機構内部で行われたスクリーニングでした。事件の関係者を追放するために行われたスクリーニングは、実際にはスハルトVSスカルノの構図の中でスカルノ派を排除するために使われました。
 九・三〇事件に関与した者と計画を知っていた者を「直接の関与者」、運動に同調した者やPKIの関係者を「間接的な関与者」と規定し、前者を逮捕、後者を免職・停職などにしていきました。
 地方にも夜間外出禁止令が出され、すべての住民にカンポン(集住地区)の出入りに報告義務を課すなど、住民を互いに監視させるような通達も出されます。

 さらにPKI関係者の逮捕が進むとともに虐殺が始まります。事件後間もない10月から中ジャワで、11月には東ジャワ、12月にはバリへと広がっていき、やがてジャカルタ周辺の西ジャワを除く(西ジャワで発生しなかったのは未だに謎だそうです)全国で66年末まで虐殺が続くことになります。
 公的な説明では、PKIとその関連団体に対する住民の自然発生的な怒りが噴出したものだとされていますが、当然ながらその説明は怪しいものです。殺害者は集団単位で動員されており、例えばイスラーム系団体ナフダトゥル・ウラマ(NU)の青年組織アンソールなどが虐殺に頻繁に関わりましたし、また、反社会的勢力も虐殺に関わりました。
 
 殺害には蛮刀や鎌などが使われ、時間をかけて苦しめたり、首を切って人目のつくところに置いたり、女性の性器を槍などで突き刺すなど猟奇的な殺し方も行われましたし、豚の丸焼きのように火で炙ったりしたケースもあったそうです。
 それにもかかわらず、73年には検事総長が「「1965年にPKI関係者に対しておこなわれた殺害は、公的な利益のためのものであるから、殺害された者が共産主義者であったという証拠が提示できればそれで十分である」として殺害行為の責任を追求しないという方針」(97p)を出したことから、この殺害行為を武勇伝のように語る人もいるといいます。

 殺害はすでに逮捕されている人々を留置場から連れ出して殺害するパターンと、殺し屋たちが指定された村に行って「誰がPKIの関係者か?」と尋ね、名のあがった人物を連行して殺害するパターンがあったそうです。
 本書では実際に殺害にかかわった人物の証言も紹介されていますが、1人は民間の警防団に所属していた人物で、62人を殺害したといいます。行動するときには軍服が貸与され、軍人が同行したそうですが、軍人は直接殺害にはかかわらなかったとのことです。

 アムネスティの報告書では、被害者は最低50万人〜100万人という数字が出ていますが、65年末のインドネシア政府の調査では7万8000人という数字が報告されています。「大統領宮殿に居合わせた駐キューバ大使のハナーフィによれば、実際には100万人ほどの犠牲者が出ているが、そんな広島や長崎の犠牲者よりも大きな数字を発表したら、国際的にインドネシアは恥ずかしい目に遭うからとても言えない、と判断され」(108p)、この数字が出てきたとのことです。

 このような殺戮が起こった原因として、政治的なイデオロギーや、共産主義に対するジハードの理論で扇動された、ある種のヒステリックな興奮状態(「アモック」と呼ばれる)などがあげられますが、著者としてはそれだけでは納得し難いとして、その他にフェイクニュースの拡散と、諸外国の黙殺という2つの要因をあげています。
 九・三〇事件で殺された将軍たちが性的な虐待を受けていたというニュースや、PKIの幹部の家で電気椅子が見つかった、PKIの事務所にイスラーム指導者をはじめとする襲撃リストがあったなどの偽の情報が流れ、人々の憎しみを駆り立てました。
 また、日本をはじめとする諸外国は虐殺の事実を掴みながら、インドネシア政府に抗議をすることはしませんでした。西側は基本的には反共産主義の流れを歓迎しましたし、ソ連はPKIが毛沢東の口車に乗って時期尚早な蜂起に出たと見ており、当初から冷淡な対応をしました。中国も文化大革命前の不安定な時期だったこと、毛沢東がこれでインドネシア共産党が武装闘争にはいるしかなくなるとかえって歓迎したことなどから、強い対応は取りませんでした。しかも、このときインドネシアは先に述べたように国連を脱退していたのです。

 九・三〇事件から半年たった1966年3月11日、スカルノが治安回復の権限をスハルトに移譲したことがきっかけで力関係は完全に逆転し、約1年後の67年3月7日にスカルノは大統領の座を退くことになります。
 65年末から66年の年明けにかけてインドネシアの経済状況は悪化し、半スカルノのデモもさかんに行われるようになります。こうした中で2月にスカルノはナスティオン国防省の罷免に踏み切りますが、軍とスカルノの対立はエスカレートし修復不可能になりました。
 そんな中で上記の権限移譲が行われるわけですが、この命令書に関しては陸軍の将官がスカルノをピストルで脅して署名させたとも言われており、これをもってスハルトは全権が移譲されたと主張しました。

 スハルトはただちにPKIの解散を命じ、さらに容共的な大臣15人の逮捕を断行しました。反共の立場だったデヴィ夫人はまだスカルノと軍の間を取り持つことが可能だと考えていましたが、スハルトにスカルノの今後について、1・休養のために海外に行く、2・名目的大統領になる、3・残っている権力も捨てて辞任する、という3つの選択肢を示され、「夫と私は負けたのだ」と悟ったといいます(138−139p)。
 67年3月にスハルトが大統領代行に就任し、1年後に正式な大統領に就任します。一方、スカルノはその後幽閉状態に置かれ、1970年の6月に亡くなりました。

 スカルノと良好な関係を気づいていた日本政府は、当初スカルノの安否を気遣いますが、次第にスカルノに見切りをつけ、スハルト政権のもとで開発援助を行っていくことになります。
 スカルノに関しては日本へ亡命させる計画もあり、65年暮れには佐藤首相がスカルノの側近に「スカルノに亡命の意思があるか」と確認したそうですし(145p)、66年には妊娠したデヴィ夫人が来日しています。この亡命に関しては日本のメディアでもとり上げられましたが、最終的にスカルノはインドネシアにとどまる決断をしました。

 九・三〇事件事件をきっかけに急速に悪化したのが中国との関係です。事件で犠牲になった7人の将軍の葬儀に反旗を掲げなかったとして中国への反感が強まり、中国の外交使節や中国人学校がしばしば襲撃されるようになります。
 華僑に対する嫌がらせも頻発するようになり、「中国人は国に帰れ」をスローガンにした排斥運動が起こります。アチェなどを中心に華僑に対する攻撃は激化し、中国政府が華僑引き揚げのための船を出すことになります。
 67年になるとインドネシアでも中国でも外交官が襲撃される事態が起こり、10月9日にインドネシアは中国との国交凍結を決定します。ただ、断絶ではなく凍結としたのがインドネシアなりの外交センスで、その後、インドネシアは台湾から国交樹立を持ちかけられますが、インドネシアはこれに応じませんでした。

 スハルトマレーシアとの対立関係を終わらせ、67年には反共の組織としてASEANが結成されました。当時はベトナム戦争が本格化していた時期であり、PKIの壊滅はアメリカにとって追い風となりました。
 それでも北朝鮮や北ベトナムとの関係は維持し続け、スカルノの非同盟中立路線を維持したことはインドネシア外交の特筆すべき点です。

 この後、スハルトはゴルカルと呼ばれる職能団体の連合体をつくり自らの政治基盤として体制を固め、98年まで32年間大統領の座にとどまります。
 九・三〇事件からその後の政治的な変遷をたどるのであれば、ここまでの内容でも十分なのですが、本書の特徴は、弾圧された者たちのその後を追っている点です。

 政治犯(タポル)は釈放後も監視下に置かれ、本人だけでなくその子や孫も、聖職者、ジャーナリスト、教師、公務員、軍人、隣組や町内会の会長になることができませんでした。
 こうした中で何年も逃亡生活を送った者もいます。本書ではマフムッド・ユスという逃亡者の軌跡が紹介されていますが、妻と別れ、身分証明書を偽造し、別の女性と結婚し、40年以上経ってから最初の妻と子と再開したという人生が語られています。
 また、国外にいた留学生の運命も大きく変わることになり、日本から中国へ亡命した者もいます。ただし、当初は中国で歓迎された彼らの文化大革命が終わると、中国政府の態度は冷たくなっていきました。
  
 98年にスハルト政権が倒れ、ワヒドが大統領になると、亡命者の帰国が許され、大量虐殺に対する謝罪が行われましたが、01年にワヒド大統領が罷免されたのはPKI関係者を復権させようとしたからだという話もあり、和解が進んでいるとは言えない状況です。

 このように本書はインドネシアで起こった虐殺について、政治的な動きを追いながら、国際的な背景を解き明かし、さらに虐殺の当事者や逃亡者の証言までとり上げるという形で、立体的に語っています。なかなか一人の著者でできることではないと思いますが、長年の研究の成果を感じさせます。
 歴史の中で忘れされれてしまいそうな蛮行を多くの人にわかりやすい形で引き揚げた内容になっています。