コンスタンティノープルの都とともにその名前はよく知られているビザンツ帝国。ローマ帝国の分裂に始まり、最終的には1453年のオスマン帝国によるコンスタンティノープル奪取まで1000年以上の歴史があります。
 そのビザンツ帝国について、7世紀から12世紀までの時代を中心に描いたのがこの本になります。世界史の教科書ではイスラム勢力の台頭、十字軍といった出来事のついでとしてとり上げられることが多いビザンツ帝国ですが、本書を読むとこの地域ならではのダイナミズムといったものも見えてきます。
 ただし、史料の制約がある部分も多く、政治史をこえたマクロ的な変動に関しては見えにくい部分もあり、その点、同じ中公新書の小笠原弘幸『オスマン帝国』に比べると、社会構造の変化のようなものは見えにくいかもしれません。

 目次は以下の通り。
序章 ビザンツ世界形成への序曲―四~六世紀
第1章 ヘラクレイオス朝の皇帝とビザンツ世界―七世紀
第2章 イコノクラスムと皇妃コンクール―八世紀
第3章 改革者皇帝ニケフォロス一世とテマ制―九世紀
第4章 文人皇帝コンスタンティノス七世と貴族勢力―一〇世紀
第5章 あこがれのメガロポリスと歴史家プセルロス―一一世紀
第6章 戦う皇帝アレクシオス一世と十字軍の到来―一二世紀
終章 ビザンツ世界の残照―一三世紀後半~一五世紀

 本書の記述はコンスタンティヌス帝から始まっています。ご存知のようにキリスト教を公認し、ローマ帝国の首都をコンスタンティノープルに遷した人物です。
 このコンスタンティヌス帝の前の皇帝ディオクレティアヌス帝から軍人皇帝の時代が終わり、専制君主としての皇帝が登場したと言われています。ただし、ローマが東西の分裂する前の最後の皇帝テオドシウス帝までは、皇帝たちは軍人出身かその子弟であり、戦場を行き来していました。ところがテオドシウス帝の長男にして東ローマを継いだアルカディウス帝から皇帝はコンスタンティノープルから離れなくなります。皇帝と彼を補佐する顧問会議による政治が定着していくのです。
 6世紀の歴史に名を刻んだ皇帝がユスティニアヌス帝です。彼は将軍ベリサウスの活躍もあってササン朝との戦いに勝利すると、北アフリカへと領土を広げ、さらにローマも占領し、ローマ帝国の版図を取り戻しました。
 ところが、帝国はこの領土を維持することはできませんでした。7世紀になると、この地域は本格的な変化をせまられることになります。

 614年にはササン朝によってエルサレムが奪われるなど、ビザンツ帝国の領土は縮小します。このときビザンツの皇帝ヘラクレイオスは捨て身の遠征を行ってササン朝のホスロー2世の軍を破り、エルサレムを取り戻します。
 しかし、ちょうどこの頃、アラビア半島ではイスラムが生まれ、急速に勢力を拡大させていきます。636年パレスチナのヤルムーク河畔の戦いでビザンツの軍はイスラムに敗れ、シリア、パレスチナ、エジプトといった地域を失います。アジア側で残された領土は小アジアのみとなりました。

 655年にはコンスタンス2世がイスラム艦隊との決戦「帆柱の戦い」で敗北します。コンスタンス2世はその後、西に転じ、ローマを訪問し、シチリア島に腰を落ち着けてそこで暗殺されるという形になります。
 つづくコンスタンティノス4世のとき、ビザンツの都・コンスタンティノープルはウマイヤ朝を開いたムアーウィヤの挑戦を受けます。このとき、「ギリシア火」と呼ばれる火炎放射器のような兵器を搭載した船によってビザンツ側はこれを撃退することに成功しました。
 ところが、帝国の西側ではブルガリア人が勢力を伸ばし、ビザンツ軍を破ります。この後、ビザンツは東のイスラムと西のブルガリアによって悩まされることとなりました。

 一方で、ビザンツ内部の権力争いも外部勢力と結びついて行われるようになりました。コンスタンティノス4世の跡を継いだユスティニアノス2世は、レオンティス将軍のクーデタによって捕らえられ、鼻を削がれ舌を切られた上で追放されましたが、彼はブルガリアにたどり着き、そこでブルガリア人を手引してコンスタンティノープル奪取に成功します。ユスティニアノス2世は皇帝に返り咲いた後、殺害されますが、この後も外部勢力と結びつきながら反乱が繰り返されることになります。

 8世紀から9世紀前半は、本書の第2章のタイトルにもなっている「イコノクラスムの時代」だとも言われます。イコノクラスムとはイエス・キリストやマリアの画像であるイコンを破壊する行為であり、この時代にしばしば行われました。
 このイコノクラスムが本格化したのは8世紀なかばのコンスタンティノス5世のときになります。コンスタンティノス5世は、特にイコンを作成する修道士たちを目の敵とし、彼らを鞭で打ったり、目を潰したり、殺害したと言われています。
 その後も、たびたびイコノクラスムが起こり、最終的にイコンが復活したのは834年になります。

 このイコノクラスムが起こった理由として、教科書的な説明としてはヘレニズムとヘブライズムの対立というものがあります。多神教的なヘレニズムと一神教的なヘブライズム、キリスト教ではこの要素が入り混じっていますが、この時代はヘブライズムの宗教イスラムの台頭もあって、キリスト教の中でもヘブライズムが活性化され、ヘレニズム的なイコンは弾圧されたというわけです。
 これはよくできた説明ですが、著者はこの説には直接の史料上の裏付けがないと言います(76p)。修道士の財産をねらったものだというヘンリ8世を彷彿とさせる説もありますが、著者はそもそものイコノクラスムが吹き荒れたという話時代が大げさである可能性もあり、この時代を「イコノクラスムの時代」としてくくるのは不適当ではないかと考えています。
 むしろ、地方軍団(テマ)が反乱を繰り返した「テマ反乱の時代」だったと著者は述べています(83p)。

 本章では「皇妃コンクール」についても検討しています。ビザンツのユニークなエピソードとして知られる皇妃コンクールの実在性に対して、著者は史料の問題(皇妃コンクールが出てくるのは聖人伝などに限られる)から懐疑的です。
 ただし、この時代は初の女性皇帝となったエイレネ、ミカエル3世を後見したテオドラなど、女性の活躍が目立った時代でもあり、そうした女性たちが自らの権力を維持するためにコンクールのような形を取りつつ、息子の嫁を選ぶというのはあり得るのではないかと、個人的には思いました。

 第3章は、802年に即位し、811年にブルガリアとの戦いで命を落としたニケフォロス1世が中心的にとり上げられています。
 かつては「最悪の君主」「暴君の典型」と評価されていたニケフォロス1世ですが、近年ではその評価がガラッと変わりつつあります。彼は財政の立て直しのための大規模な調査を行い、貧困化した小アジアの農民たちをバルカン半島に入植させ、そこから兵士を募りました。
 この時期、ビザンツはバルカン半島で勢力を広げており、その勢力拡大と維持のために、小アジアのテマ兵士を入植させたと考えられます。しかし、これらの政策はブルガリアを刺激し、ブルガリアとの軍事衝突が起きます。
 そこでニケフォロス1世は大軍を動員してブルガリアに向けて遠征を行います。ブルガリアは驚いて和平を請いますが、ニケフォロスはそれを無視して君主の宮殿を占領しますが、ブルガリア人の奇襲にあってニケフォロスは戦死します。
 ニケフォロスは今までのビザンツの皇帝とは違い。ブルガリアを撃退するだけでなく、ブルガリを完全に征服することを考えていたようですが、それは挫折しました。ビザンツはこの後ブルガリアと友好関係を結び、キリスト教の不況などを通じてブルガリアをビザンツ世界に組み込んでいくことになります。

 第4章では10世紀を中心とした時代がとり上げられています。867年、マケドニア出身のバシレイオス1世が皇位を簒奪して皇帝となると、しばらく皇位の簒奪がなくなり、この家系から皇帝が輩出されることになります。
 皇位は安定しましたが、西ではイスラムによってシチリア島が奪われるなど苦戦が続いていました。そんな中で皇帝となったのがコンスタンティノス7世です。コンスタンティノス7世は幼い頃に即位し、最初は母ゾエの後見を受け、その後は共同皇帝となるロマノス・レカペノスが政治を行いました。
 では、なぜコンスタンティノス7世が重要かと言うと、彼が学芸にのめり込み、さまざまな本や記録を残したからです。コンスタンティノス7世は歴史や儀式についての本を残し、多くの文献を集めました。
 このことからこの時代を「マケドニア・ルネサンス」と呼んだりもしますが、この「ルネサンス」という言葉はビザンツ史の中で乱立してしまっている状況で、著者はその言葉を使うことに慎重です。

 この10世紀末から11世紀はじめにかけて、混乱の中で即位し、帝国の版図を大きく広げたのがバシレイオス2世です。彼は生涯独身を貫き、戦場を駆け回った皇帝でした。貴族の大土地所有を制限し、貧困に陥って租税の払えない者の租税負債を近隣の有力者に負わせるアレレンギオンという制度を導入するなど、有力貴族層の勢力削減を行いました。
 そして、ブルガリアとの戦いに執念を燃やし、1014年にストリュモン川付近でブルガリア軍を1万4千名を捕虜にし、100人に1人は片目をそれ以外は両目を潰してブルガリアに送り返したといいます。この結果、1018年に第1次ブルガリア王国は滅亡し、その領土はビザンツ帝国に併合されました。この流れの中でセルビアに加え、カトリックを信奉するクロアチアもビザンツ帝国の属国になりました。

 第5章はアイスランドのサガの話から始まっています。その中で、アイスランドの若者はコンスタンティノープルに行き、戦士として活躍して財宝を持って帰ってきます。もちろん、これは創作かもしれませんが、この頃になると北欧やルーシ(ロシア)の人々もビザンツの歴史の中に登場するようになります。
 ヴェネツィアの商人やムスリムの商人もコンスタンティノープルにやってくるようになり、帝国は国際色を強めますが、同時に軍事面でもさまざまな外部勢力が入り込むことになります。
 
 バシレイオス2世は帝国の領土をユスティニアヌス帝以来で最大にまで広げました。しかし、1025年にバシレイオス2世が亡くなると、半世紀ほどで国家は存亡の危機に立たされることになります。
 この衰退の原因としてあげられるのが、領土の東西への拡大と外部勢力への依存です。この外部勢力とは、具体的にはルーシをはじめとする外国人傭兵、そしてヴェネツィアへの商業特権に付与になります。
 
 バシレイオス2世には子どもがおらず、共同皇帝のコンスタンティノス8世にも息子はいませんでした。そこで娘のゾエに婿を取ることで王朝を継続させようとしましたが、この婿が定まりませんでした。ゾエの夫・ロマノス3世、同じく夫ミカエル4世、ゾエの養子のミカエル5世と即位しますが、ミカエル5世はゾエと対立して最終的には摘眼刑の上で追放されています。
 さらにその後ゾエの夫に指名されたコンスタンティノス9世が即位しますが、この頃から帝国の運命は傾き始めます。コンスタンティノス9世は辺境守備についていた軍隊を解散させ、代わりに住民から集めた金で傭兵を雇いましたが、これは各地の軍事反乱を招きました。東からはトルコ人が西からはペチェネグ人が侵入し、帝国の支配は動揺します。
 ミサで使用するパンに酵母を入れるか入れないかで対立し、ビザンツ協会がカトリック教会を破門したのもこの時期です。

 トルコの脅威は深刻で、1071年のマンツィケルトの戦いでビザンツ軍は大敗、当時の皇帝ロマノス4世が捕虜になり、帝国の小アジア支配は急速に解体へと向かいます。さらに西ではノルマン人ロベール・ギスカールによってイタリアでの最後の拠点バーリが陥落し、ビザンツは東西で大きくその勢力を縮小させました。
 この後も、反乱や帝位の簒奪が続きますが、そうした中でトルコに援軍を求めることが当たり前になり、また、戦いも傭兵頼みになっていき、帝国の財政状況は悪化していきました。

 そんな中で1081年に即位したのが第6章の主人公ともいえるアレクシオス1世でした。アレクシオス1世はロベール・ギスカールの軍に敗れるものの、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世にはたらきかけ、彼をローマに侵攻させることで教皇に忠誠を誓うロベール・ギスカールをイタリアに釘付けにします。また、ヴェネツィア艦隊の協力も得てロベール・ギスカールの軍を撃退しました。
 このアレクシオス1世は十字軍の派遣を要請した人物としても知られています。アレクシオスは小アジア攻略のための傭兵を望んだようですが、教皇のウルバヌス2世は教皇軍の派遣を画策し、これが大々的な十字軍の派遣へとつながっていきます。
 十字軍は兵士だけで3万人はいたとされており、彼らは小アジアを進撃し、アンティオキアに攻め寄せました。この攻防戦は長引き、ビザンツ軍は奪取は無理とみて引き返しましたが、十字軍はついにこれを攻略しました。こうしたいきさつもあって十字軍はビザンツにアンティオキアを引き渡すことを拒否し、そして、エルサレムを攻略してエルサレム王国をつくります。

 こうした中、アレクシオス1世は、コムネノス家を中心とした支配構造をつくりだし、専制君主としての地位を確立していきます。爵位を新たに整備するとともに、爵位に付随する年金の支払額を減らしていきましたが、その代わりに特定の土地の行政権や徴税権を与える制度をつくりました。しかし、このしくみ(プロノイア)は拡大していくと帝国の支配自体を空洞化させることになります。プロノイアは国土の「切り売り」政策のようなものだったからです。
 12世紀後半になると反乱が相次ぐようになり、ついに1204年に第4回十字軍によってコンスタンティノープルは陥落しました。

 1261年、ビザンツの勢力がコンスタンティノープルを奪還するものの、もはや帝国とは名ばかりでした。本書ではこのパライオロゴス朝に関して、姻戚関係などを解説しながら簡単にその行く末をたどっています。
 かつてはヨーロッパの君主の娘などが皇帝の妻となりましたが、この時代になるとバルカン半島の君主、さらには近隣の領主の娘などが皇帝の妻となっています。これはビザンツ帝国の地位が低下したことを表しています。
 そして、1453年にオスマン帝国のメフメト2世によってコンスタンティノープルが陥落し、ビザンツのその長い歴史に終止符が打たれるのです。

 このように波乱万丈のビザンツ帝国の歴史を手堅くまとめた内容になっています。史料の制約などもある中で、入り組んだ歴史を丁寧に追っています。
 ただし、通史として「大きな変化」をうまく取り出すことができていない感じもします。史料の制約があるにせよ、帝国の土地や民衆支配のしくみがどのように変化したのかは追いにくいです。また、例えば第5章でタイトルに歴史家プセルロスをあげていますが、そこまでプセルロスの重要性を指摘できていない感もあります。
 学説などが丁寧に検討してあって、ビザンツについてある程度本を読んでいる人にはポイントがわかりやすいのかもしれませんが、あまり知識がないとややポイントを掴みづらい構成だと思いました。