『日本軍と日本兵』『皇軍兵士の日常生活』(ともに講談社現代新書)などの著作で知られる著者による東條英機の評伝。生い立ちから処刑までを丹念に描いています。今までのイメージを大胆に覆すという形ではないですが、東條の航空戦への見方を詳しく見ることで「精神主義一本槍」的なイメージに関しては多少なりとも修正がなされていますし、父・英教の軍での処遇を詳しくとり上げることで東條のある種の硬直性の背景がうかがえるようになっています。
 また、永田鉄山、石原莞爾、武藤章、田中新一と昭和期の陸軍を動かした人物は何人かいますが、十五年戦争を「完走」した人物というと、やはり東條になるわけで、東條を追うことで日本が長い戦争に突入し、敗北する過程もわかるようになっています。

 目次は以下の通り。
第1章 陸軍士官になる
第2章 満洲事変と派閥抗争
第3章 日中戦争と航空戦
第4章 東條内閣と太平洋戦争
第5章 敗勢と航空戦への注力
第6章 敗戦から東京裁判へ

 東條英機は1884年に東京で生まれています。父は陸軍軍人である東條英教、陸軍大学校の一期生として首席で卒業し、ドイツへ留学して参謀本部に配属されるという輝かしい経歴の持ち主でした。
 しかし、1899年に後ろ盾であった川上操六が死去すると、英教は冷遇されるようになります。1900年、参謀本部第四部長(戦史編纂)だった英教は上司で参謀次長の寺内正毅と対立し、辞職を決意しますが、ここは親友の井口省吾のとりなしでなんとかなりました。しかし、1906年には韓国守備旅団長のポストを得ることになったものの、韓国駐箚軍司令官長谷川好道と衝突し、これを棒に振ります。結局、井口の奔走もむなしく1907年に英教は予備役編入となりました。寺内も長谷川も長州出身であり、英教、そして息子の英機にも長州閥への悪感情が残ったと考えられます。

 一方、英機は1892年に学習院初等科3年に編入するもののわずか1年2ヶ月で中退、この背景には「身分」の壁のようなものがあったと推測されます。その後、99年に東京陸軍地方幼年学校に入り、日露戦争の影響もあって05年に繰上げで卒業し歩兵少尉になり、満州に渡っています。
 英機は1909年に福岡出身の伊藤勝子と結婚、陸軍大学校の入学を目指します。ところが、翌年の試験には不合格、さらに翌年も不合格となります。落胆した東條を見かねて、小畑敏四郎と永田鉄山が勉強会を開いたこともあったそうです。12年に英機はついに陸大に合格、翌13年に父の英教は死去しました。

 1915年、東條英機は陸大を56名中11番の成績で卒業、19年にはドイツ駐在を命じられます。このとき日本陸軍は第一次世界大戦に学ぶべく各国に視察者が派遣されましたが、ドイツへは歩兵科、フランスへは砲兵科が多く派遣されました。
 1921年、ドイツのバーデン・バーデンで永田鉄山、小畑敏四郎、岡村寧次の3人が会合し、陸軍の将来について話し合いました。ここでは長州閥の打破や総力戦体制の構築が話し合われたと言われていますが、ここに東條も声をかけられ参加しました。
 帰国後、東條は陸大の兵学教官に就任します。本書では同時期に教官をしていた梅津美治郎との比較が出てきますが、梅津は教官としても上司としても相手に考えさせるように行動したが、東條は教え込むか自分でやってしまうという点があったとのことです。ただし、梅津は記者会見などが嫌いで、大衆性はなかったが、東條にはその大衆性があったといいます(44-46p)。
 1928年には陸軍省整備局動員課長となりますが、前任者は永田で、総力戦のために設立された部局でした。29年には東京の歩兵第一連隊長となり、部下をよくいたわり「人情連隊長」とあだ名されたと言われています。同時に食事の米が固さにこだわって指示を出すなど、かなり細かい部分もありました。

 永田、小畑、岡村、東條らは27年頃に二葉会と称する中堅将校団体を結成し、同じ頃、鈴木貞一を中心に木曜会も結成されますが、東條はこの木曜会にも顔を出していました。こうした場で、次第に満蒙の領有といったことも語られるようになっていきます。
 
 1929年には二葉会と木曜会が合流して一夕会が誕生します。永田、小畑、岡村、東條に板垣征四郎や石原莞爾、磯谷廉介、田中新一なども加わった顔ぶれで、陸軍人事の刷新や満州問題の「解決」を目指しました。この会合で、東條は長州閥排除は時代錯誤ではないかと問われ、「恨み骨髄に徹する長州人などは真平ごめん」といきり立ったそうです(67p)。東條は陸大の教官時代、長州出身者にはわざと厳しい質問などをしてそうですが、これは父の遺恨の影響という面もあるでしょう。
 このころ、永田や東條は宇垣系の人物を排除し、真崎甚三郎らを担ごうとしていました。

 1931年、満州事変が起こります。このとき東條は永田の意向を受ける形で石原らに早期撤兵を求めています。
 また、このころから永田と小畑の不和が明確になり、いわゆる統制派と皇道派の対立の形となっていきます。東條は永田につき、第一次上海事件では軍の動員をめぐって東條が小畑に怒鳴り込むという一幕も起こりました。
 東條は永田とともに総力戦体制の構築を目指しており、国民に防空を説いたり、航空軍備の充実を訴えたりしていました。34年に出たパンフレット『国防の本義とその強化の提唱』についても東條が周囲の反対があっても出すことを主張したといいます。

 1934年、永田は陸軍軍務局長となりますが、熱心に永田を推していた東條は陸軍士官学校幹事(教頭)に回され、更に翌35年には久留米の旅団長へと左遷されました。この背景には人事についてさかんに口を出そうとする東條を真崎が嫌ったということもあるようです。
 35年、永田が皇道派の相沢三郎に斬殺され、東條の皇道派嫌いは決定的になります。直後、東條は関東憲兵隊司令官として満州に渡りますが、これは永田と同じ運命を辿らせないための林銑十郎陸相の配慮だったともいいます。

 東條は満州で憲兵隊を率い、共産勢力の討伐などを熱心に行いました。ここで東條内閣の書記官長ともなる星野直樹とも知り合っています。
 1937年には関東軍参謀長に転じ、満州の資源開発や軍需工業の発展にも力を発揮しました。しかし、満州での飛行機や自動車の生産はうまくいきませんでした。
 盧溝橋事件が起こると、東條は蒙疆地域への出兵を主張し、自ら兵を率いて中国軍を破っています。日中戦争拡大の中で失脚した石原が関東軍参謀副長として東條の部下になりますが、満州国をめぐる政策で2人の不和は決定的になりました。
 38年、東條は陸軍次官となりますが、ここでは日中戦争の早期講和をめざす参謀本部の多田駿参謀次長と対立し、強硬論を主張しました。結局、喧嘩両成敗という形で、同年12月には多田は第三軍司令官、東條は航空総監に転出しています。
 
 陸軍航空総監部の初代総監となった東條は、陸軍の航空部隊の拡張に務めました。学生鳥人大会にも出席して航空総監賞を贈るなど、国民にも航空部隊の存在をアピールしています。
 1940年、東條は陸相に就任します。東條は陸相就任にあたって、「おれは次官をやって、水商売は懲りた」(133p)と漏らしており、必ずしも就任に前向きではありませんでしたが、就任後は職務に邁進することになります。

 東條の仕事ぶりはカミソリ大臣、電撃陸相と呼ばれるほどで、戦死者の未亡人への就学支援、戦死者遺族の援護などについて矢継ぎ早に行っています。とにかくすぐさまに自ら指示を出し、行動するやり方でした。東條の陸相時代の問題として、「生きて虜囚の辱を受けず」という「戦陣訓」を出したことがありますが、これは39年の板垣陸相時代から準備されていたものであり、東條だけが責任を負うべきものではありません。
 
 陸相に就任した東條が直面した問題は日中戦争の行き詰まりと、第2次世界大戦への対応でした。陸相になってまもなく北部仏印への進駐と日独伊三国同盟の締結がなされますが、これはアメリカの態度を硬化させ、日本はアメリカから経済的に追い詰められていくことになります。
 陸軍内部でも北進論と南進論で揺れていましたが、その揺れを表すように41年の7月に北では対ソ戦に向けた関特演、南では南部仏印進駐が行われます。この両作戦を認めたということは東條も北進か南進かに確たる自信はなかったようですが、関特演には17億円ほどかかっており、それを聞いた東條は自らが裁可したにもかかわらず激怒したそうです(158p)。一方の、南部仏印進駐はアメリカの対日石油輸出禁止という予想外の措置を引き起こします。

 陸軍としては中国からの撤兵や三国同盟破棄に応じるくらいなら対米開戦もやむなしという態度で臨みますが、対米戦やドイツの勝利に自信があるわけではありませんでした。及川海相から海軍は長期戦が自信がないと聞くと、東條は「九月六日の決定は、政府統帥部の共同責任で決定されたものである。かりに海軍が自信がないというならば考え直さねばならない」(172p)と述べており、海軍が「できない」と明言すれば、陸軍としても対米開戦は決意できないと考えていました。
 東條は近衛と10月7日に会談していますが、ここでも東條は中国への駐兵は譲れないとしつつも、天皇の言葉があれば従うつもりだったともみられます(174-175p)。ただし、その後も東條は駐兵問題では譲れないということを繰り返し、結果的に近衛内閣を倒閣へと導いています。

 そしてご存知のように東條にお鉢が回ってきます。これによって陸軍は全責任を負わされることになり、それは東條をはじめとする陸軍首脳部の考えではありませんでしたが、東條の性格的に断るという選択肢はなかったと思われます。
 天皇からの御前会議の決定の白紙還元の意向を受け、海軍がダメだというなら戦争を避けるという選択肢も東條にあったと思われますが、新しく海相となった嶋田は戦争止むなしと見て、陸軍に対して鉄の割当を要求しました。
 こうして退路を絶たれた感のある東條は開戦へ向けて動いていくことになります。東條の運転手を勤めた柄澤好三郎によると首相就任後の東條は引きつったような顔をしていましたが、「一度、宣戦を布告してしまったら、ずっと柔和な顔になりましたね。真珠湾攻撃が成功したという報告を聞いた直後は本当にほがらかな、うれしそうな顔をしていました」(203p)と述べています。他の陸軍の参謀などと同じく、東條にも早く決めて楽になりたいという思いがあったのでしょう。

 ただし、開戦によっても東條の不安が完全に消え去ることはありませんでした。42年に軍務局帳の武藤章をスマトラの近衛師団長に転出させたのは、武藤が和平のための新内閣工作を行っていたからだとされていますし、シンガポール攻略を成し遂げた山下奉文を凱旋させずに満州にいかせたのは、それを契機に重臣の間で反東條の機運が高まることを恐れたからだともいいます。
 一方、国民に対しては総力戦の指導者たるべく振る舞いました。転廃業者や戦死者遺族など、戦争で人生を狂わされた人を重点的に慰問し、「人情宰相」という面を強調しました。ゴミ箱の視察も自ら行っていますが、東條としてい見れば国民の生活の把握は重要であり、部下任せにはできなかったということなのでしょう。

 しかし、戦局は次第に悪化していきます。42年8月からガダルカナルの攻防が始まると、当初は断固戦い抜くことを主張していた東條も、船舶の損傷が激しくなるとともにその方針を転換させていきます。船舶の要求をめぐって田中新一と東條の腹心の佐藤賢了軍務局長は殴り合いを演じ、さらに田中は東條に暴言を吐いて更迭されます。陸相兼任の東條は統帥部の作戦に口出しをすることはできませんでしたが、船舶の割当を使って統帥部をあきらめさせました。
 首相兼陸相の東條は、陸軍と海軍、作戦と軍政というさまざまな対立に悩まされることになります。

 東條は大東亜省を設置し占領地域の経営に当たろうとしますが、この大東亜省設置にあたって昭和天皇から中国側の面子に配慮せよとの言葉を受けた東條は汪兆銘政権への態度を変化させていきます。日本は租界の返還、共同租界の回収、治外法権の撤廃などについて協議に入ることとし、43年から始まった日華基本条約の改定協議では中国での駐兵権の放棄が盛り込まれました。あれほどこだわった駐兵権を取り下げており、清沢洌は「この事を二ヵ年前に実行すれば日支事変も解決し、大東亜戦争も起こらなかった」(246p)と日記に書いています。
 東條はまた、現役の首相として初めて外遊した人物でもありました。43年に満州国、フィリピン、タイ、ジャワなどを訪問しています。11月には大東亜会議も開かれ、精力的に外交を行いますが、どこまでの将来的な見通しを持っていたのかというと疑問も残ります。

 東條に対する批判は議会から起こってきました。中野正剛衆議院議員に批判され、その中野を自決に追い込むという事件も起こったように、議会からの批判に東條は強く反発します。
 また、東條は航空機の増産に力を入れますが、そのためには資源を運ぶ輸送船が必要であり、作戦のために輸送船を要求する統帥部とも対立します。44年2月にトラック島の海軍航空部隊が壊滅すると、東條は参謀総長兼任の意思を固め、杉山参謀総長に退任を迫り、自ら参謀総長を兼任します。「何でも自分でやらねば気のすまない性格が、行きつくところまで行った」(279p)状況でした。
 東條は絶対国防圏を設定するとともに、日本軍の精神力に期待をかけ、44年の3月に特攻が採用されることになります。

 しかし、44年6月にはサイパンに米軍が上陸し早くも絶対国防圏は破られます。43年ごろから近衛らによる東條更迭の動きも活発になります。44年7月に木戸幸一から総長兼任の廃止、嶋田海相の更迭、重臣の入閣を求められた東條は、国務大臣の岸信介を辞職させて代わりに米内光政を入閣させようとしますが、岸が辞職を拒否し、米内も入閣を拒否したことから万事休すとなり、東條内閣は倒れました。
 東條は陸相留任に意欲を見せますが、結局これも実現せず、自ら希望して予備役編入となりました。
 
 1945年4月に小磯内閣が総辞職したときの重臣会議でも東條は戦争の継続を望んでいました。鈴木貫太郎の名があがると「陸軍がそっぽを向く虞れあり」(327p)と反対しています。聖断が下されたあとの重臣会議でも天皇の決定に従う意思を示しながら、武装解除反対論を述べています。
 8月14日には「死を持ってお詫び申しあげる」とのメモを残し、実際に9月11に米軍のMPが逮捕に来た際に自殺を図り失敗します。これは国民の批判を浴び、文学者の杉浦明平は「演じそこないの日本的名君」(340p)と日記に記しています。
 東京裁判が始まってからは、戦争が自存自衛のためだったこと、目的は東亜の解放だったことなどを堂々と主張しました。この態度に日本社会の一部は共感し、山田風太郎は「これで東條は永遠に日本人の胸中深く神となった」(360p)と賛辞を書いています。
 しかし、その賛辞も一時的なもので東條は死刑判決を受け、48年の12月23日に処刑されました。

 このように本書は東條の生涯を丁寧にたどっており、また、同時に昭和期の陸軍の動きもわかるようになっています。誰かが引っ張ったというよりも、皆(もちろん東條もその一人)が口々に強硬論を唱えた結果、ついに開戦にいたってしまった経緯がわかると思います。
 また、「庶民派」としての東條の姿を描き出している点も印象深いです。東條の単純でわかりやすいパフォーマンスはインテリには受けませんでしたが、庶民には一定程度受けていました(このあたりは少し小渕首相を思い出しました)。また、数々のポストの兼任は機能不全を生むわけですが、それが「責任を負う」という姿勢にもつながっており、評価された部分も見えていきます。
 政治家としての東條を知る上でも面白い本と言えるでしょう。