岩波新書〈シリーズ中国の歴史〉の第5巻にして最終巻になります。時代ごとの区分ではないシリーズ構成が特徴でしたが、この第4巻以降は時代順の構成で本巻は清〜現代までになります。
 なぜ異民族である清王朝が長期に渡って支配を継続し、さらにモンゴル、チベット、新疆にまで支配地域を拡大させることができたのか? その清が傾くとともにどのようにして「中国」が出現くるのか? そして、その「中国」が抱えていた問題がどのように現代に持ち越されているのかということが論じられています。
 内容としてはシリーズの他の巻に負けずに面白いです。ただし、本書に関しては同じ著者の『近代中国史』(ちくま新書)とかぶってる部分も多く、『近代中国史』を読んでいると、新しい発見はやや少ないかなという感じもします。

 目次は以下の通り。
第1章 興隆
第2章 転換
第3章 「盛世」
第4章 近代
第5章 「中国」

 まず、明清の交代ですが、満州から出た異民族の清が中国全土を制圧できたことには多くの偶然が重なっています。何といっても呉三桂が清に援軍を求めて、清軍を山海関の内側に引き入れたということが大きいですし、南部で興った明の後継政権が団結できなかったことも大きいです。
 しかし、投降した呉三桂を重用し、呉三桂らが三藩の乱で反旗を翻すと、粘り強くこれを撃退し制圧するなど、順治帝を補佐したドルゴンや三藩の乱を鎮圧した康煕帝の行動もまた的確でした。
 明朝の遺臣である鄭成功とその子孫による台湾の鄭氏政権にも手を焼きましたが、三藩の乱後にこれを降しています。

 明は海禁政策を掲げ、清も鄭氏政権と対峙しているときは海禁政策をとりました。しかし、鄭氏政権が降伏すると、互市という形で貿易を認める方向に転換します。明は「中華」と「外夷」を峻別して関係を結ぶ「朝貢一元体制」にこだわりましたが、清は朝貢と貿易を切り離しました。
 内陸では当時モンゴル高原で覇を唱えていたガルダンを破り、今のモンゴル国に当たる地域を版図に治めます。この戦いの中でチベット仏教の重要性に気づいた清は、康煕帝がチベットに親征しチベットを保護下に置きました。チベットの統治は基本的にダライラマに任せましたが、清はチベット仏教を利用して、満州人・モンゴル人・チベット人のつながりをつくり上げました。
 さらにロシアに対してはほぼ対等な「隣国」としてのぞむ一方、朝鮮・琉球・ベトナムといった国々に対しては明の朝貢一元体制を引き継ぐ形で、それらの国を「属国」としました。

 清は漢語世界とモンゴル・チベット世界の両方を治めましたが、満州人は漢人に比べればもちろん、モンゴル人、朝鮮人などに対しても大きな集団とは言えず、「因俗而治」(史料に出てくる用語らしくルビがふっていないけど日本語の読み方はあるですかね?)とも呼ばれる、その土地の習俗や慣例に即した統治を行いました。
 漢人に対する支配としては、よく「満漢併用制」という言葉が使われますが、本書によれば「明代の制度をそのままにしながら、漢人官僚のそばに満州人をはりつけて監視、牽制させるシステム」(44p)と表現されています。確かに漢人の地域は直轄敵に支配されましたが、それは明朝のシステムに則ったからでもあり、モンゴルやチベットでも同じようにそれまでの政治システムに乗っかる形の統治を行っています。

 康煕帝はこのようにして清朝の版図を大きく広げましたが、同時にさまざまな矛盾も生まれました。その矛盾を解消するために粉骨砕身したのが雍正帝です。
 雍正帝は汚職などど防ぐために官吏の俸給を補う「養廉銀」や、皇位継承をスムーズにさせるための太子密建の法など、数々の制度を創始しましたが、本書では雍正帝の改革のポイントとして「奏摺政治」というものがあげられています。
 「奏摺」とは個々の官僚、特に地方大官が皇帝に送る私信のことですが、雍正帝はこれにコメントを朱筆で書いて送り返しました。公式のルートではなかなか情報もあがらず、また改革が徹底しない中で、雍正帝はこうした非公式のルートを使って地方にはたらきかけました。これは皇帝独裁であるとともに、在地主義でもあり、画一的な中央集権とは少し違ったものです。
 明代の学者顧炎武は、実地で行政にあたる「小官」が少なく、官吏の不正や非違を観察する「大官」ばかりが増えた現状を批判し、「盛世には小官が多く、衰世には大官が多い」(58p)という言葉を残しましたが、この問題は清にも持ち越されていました。これに対して、雍正帝は機能しない大官を飛び越えて、直接小官を把握しようとしたのです。

 しかし、この「奏摺政治」は雍正帝の超人的な努力によって運営されていたものであり、後代の皇帝がそのまま引き継ぐことは不可能でした。しかも、次の乾隆帝の代に中国の人口は爆発的に増加していきます。
 乾隆帝は故宮に残る美術工芸品からもわかるように贅の限りを尽くした人物ですが、その贅沢と人口増加をもたらしたのが経済の発展でした。康煕帝のころはデフレであった経済が乾隆帝のときにはインフレに転換したのです。
 康煕帝は質素倹約の人であり、また、鄭氏政権のために海禁政策を行いました。そのために日本から流れ込む銀なども減少しデフレ状況となります。しかし、鄭氏政権が倒れ海禁が撤回されると、貿易によって銀が中国に流れ込み始めます。日本の銀の産出量は落ち込みましたが、インドや東南アジアとの貿易は好調であり、さらに18世紀には西洋との貿易が拡大していきます。陶磁器や茶、特に西洋での茶の需要が大きく伸びたことによって、中国には大量の銀が流れ込み、インフレと好景気がやってくることになります。

 中国ほどの経済規模では貿易の影響はさほど大きなものではないように思えます、国民純収入に比した貿易額の割合は1.5%だったとの推計・試算があります(同時期のイギリスは26%(79p))。しかし、中国経済では、新たな需要、そして銀を海外に頼る構造が出来上がっており(79p以降で岸本美緒の「貯水池連鎖モデル」が紹介されている)、外との貿易が景気を大きく左右しました。
 中国における貨幣は銀と銅銭の二重構造になっており、しかも銅銭は地域によって異なっていました。これは明代に出来上がったしくみですが、清もこれを引き継ぎながら、日本から銅を輸入して銅銭の鋳造に務めました。

 乾隆帝の治世を中心に中国では人口が爆発的に増加しました。17世紀に1億以下になった人口は、19世紀に入ると4億人を突破したといいます。このためこの時期には経済成長が起こったものの、一人あたりで考えるとそれほど成長がなかったとも考えられます。
 増えた人口は、まず江西・湖北・湖南・広西・四川・貴州・雲南の山地に向かい、新大陸からもたらされたタバコ・トウモロコシ・サツマイモなどの栽培で生計をたてました。さらに、モンゴル高原や東三省(満州)、台湾、そして海外への移民も起こります。満州人の故郷である東三省への入植に関してはたびたび禁令が出ましたが、東三省の森林は大豆畑に変わっていきました。
 こうして農村でも都市でも貧民が増加しました。それとともに富者はますます富みましたが、中国ではイギリスのような産業資本は育ちませんでした。著者は、制度面の違いをあげ、「私法・民法・商法の領域・民間の社会経済に、権力が介入できるかどうか。西は是であり、東は非だった。そこに「分岐」の核心がある」(99p)と述べています。

 この背景には中国における官と民の分離があります。そして、この分離をつなぎとめたのが郷紳と呼ばれる人々や中間団体でした。中間団体には宗族、同郷団体、同業団体などがあり、慈善事業を目的とした「善会」と呼ばれるものもありました。このように中国では社会福祉に関しても中間団体が担う場合が多く、「政府権力は納税と刑罰を強いるだけの存在」(103p)となっていました。こうした中間団体からは政府いて期待する宗教団体や秘密結社も現れてくることになります。
 105pの図19に17世紀と19世紀の都市のおおよその数を示した図が載っていますが、この時期に大幅に増加したのは人口3000未満の小規模な都市で、行政権力が把握していない都市でした。こうして中央政府が把握できない人々・地域が増えていったのです。

 乾隆帝は新たにジュンガル(新疆)をその版図に加え、チベット、モンゴル、ジュンガルを加えた新たな「中華」を打ち立てますが、同時に柔軟な支配構造は後退し、旧来の華夷秩序がせり出してくるようになります。
 乾隆帝は英国の全権大使マカートニーに対して華夷意識を全面に出して臨みますが、これは旧来の互市の概念が後退し、朝貢一元体制が復活してきた現れと言えるのかもしれません。
 このように「盛世」を誇った乾隆帝の治世にすでに乱れの徴候は見えており、乾隆帝が大上皇に退いた後の1796年には白蓮教徒の乱が起こっています。反乱を起こした白蓮教は終末到来を説く宗教で、四川や陜西などの山岳地帯の移民の間で広まりました。この反乱に対して清の正規軍である八旗・緑営だけでは鎮圧できず、乱の鎮圧に大きな役割を果たしたのは「団練」と呼ばれる自警団・義勇兵になります。
 19世紀になると明らかに清朝は社会の変化についていけなくなります。「漢人社会が巨大化、多様化したのに対し、政府権力は相対的にも絶対的にも縮小し、無力化」(125p)したのです。

 そしてアヘン戦争を迎えます。アヘンを持ち込むイギリスとの戦いでしたが、アヘンの密売が禁圧されれば困る中国内の秘密結社などもあり、彼らは外国勢力と内通し「漢奸」と呼ばれました。清朝が把握できなくなった部分が外国と通じるようになったのです。
 清はアヘン戦争、アロー戦争に連敗し、賠償金を払って不平等条約を結びます。さらに太平天国の乱が広がり、淮水流域では捻軍が起こります。他にも陜西や甘粛、雲南でムスリムが反乱を起こすなど、未曾有の混乱に見舞われました。
 このときに団練を率いて乱の鎮圧に大きな役割を果たしたのが曾国藩です。彼は湖南省で湘軍を組織し、10年以上かかって太平天国を滅ぼすことに成功しました。曾国藩のもとには李鴻章もおり、李鴻章は淮軍を組織して、江南デルタを制圧し、さらに捻軍を降しました。

 ここでポイントとなるのは太平天国も湘軍も構成員の出自は似たようなものである点です。さまざまな中間団体を組織して軍がつくり上げられていきました。清朝はこうした中で曾国藩とその部下を各省の総督・巡撫に任命し、大きな権限を与えることで相次ぐ反乱を乗り切ろうとしました。いわゆる「督撫重権」と呼ばれる現象です。
 中央政府では西太后が権力を握ります。政治を壟断した印象のある彼女ですが、本書によると皇帝に権力を集中させる体制はすでに不可能になっており、「清朝は自らの力を弱めることで、漢人に対する君臨の延命をはかったともいえる」(140p)と分析されています。

 そして清朝の顔となったのが直隷総督・北洋大臣となった李鴻章でした。李は西洋式の軍隊をつくるために、軍需工場やそれに関連する事業を推進し、さまざまな事業を推進しました。保守派と見られる西太后ですが、李のこうした事業を守り、その力を利用したのが西太后でした。
 一方、西のムスリムたちの反乱に対処したのは左宗棠でした。一時期はヤークーブ・ベクがカシュガルに独立政権を立て、イリ地方がロシアに占領されますが、左宗棠がこの地域の回収に成功しています。そして、西方でも今までの「因俗而治」が捨てられ「督撫重権」となります。
 
 この時期、清にとって厄介な存在となったのが日本です。明治維新後の日本と清は日清修好条規を結びますが、交渉にあたった李鴻章は「所属の邦土」の相互不可侵の条項を入れて、「属国」を含めた安全保障を図ろうとします。
 しかし、日本は台湾出兵を行い、さらにその後、琉球を領土に編入しました。清から見ると「属国」が奪い取られたことになります。そこで同じ「属国」であった朝鮮が焦点となります。日本は朝鮮にも進出を試みますが、壬午軍乱、甲申事変と清が介入し、名実ともに「属国」として介入をはじめました。
 甲申事変後の天津条約によってしばらくこの地域は安定しますが、その安定は東学党の乱で破綻し、日清戦争で清が完敗することによって混沌状態となります。

 日清戦争敗北後の1898年、光緒帝は康有為らとともに近代化を試みる戊戌変法を行います。ご存知のようにこの動きは西太后によって阻まれ、西太后は義和団の乱において義和団とともに列強に挑んで敗れます。片や改革、片や守旧で正反対の動きに見えますが、著者は「実情に通じない中央が、イニシアティブをとって地方を置き去りにし、あげくに挫折した、というしくみは共通していた」(157p)といいます。
 ただし、一方で、「瓜分」と呼ばれる列強の分割にさらされる中、「支那」「支那人」という意識が生まれ、その「支那」に梁啓超によって「中国」という名が与えられます。そして、「中国」としての一体化を目指す動きが出てくるのです。

 こうした動きとともに、従来の緩やかな支配から領土主権を意識した動きが出てきます、新疆は新疆省に台湾も台湾省となり、「因俗而治」ではない漢人による統治が始まるのです、チベットにおいてもイギリスのインド政庁が1904年ダライラマ政権との間にラサ条約を結ぶと、清はチベットに対する支配を強め、1910年にラサに侵攻します。
 しかし、ここで辛亥革命が起こります。南京で中華民国臨時政府ができると、漢人たちは清朝の支配から離脱していきました。同時にチベットも事実上独立し、モンゴルも独立していきます。清は解体していくのです。ただし、ここで中華民国は漢人だけではなく、満・漢・蒙・回(ムスリム)・蔵(チベット)の五族の統合を掲げます。そして、この語族が統一されて「中華民族」になるというのです。この中華民国による少数民族の抱え込みが現在の中国の民族問題につながっていると言えるかもしれません。
 
 一方、辛亥革命後、中国では地域ごとの分裂がいよいよ激しくなり、各地域ごとに通貨が乱立する「雑種幣制」と呼ばれる状況になります。例えば、満州である東三省では貴金属が乏しく、さまざまな紙幣が発行されるようになりました。これらの紙幣を奉天票という小額紙幣のは拘泥整理したのが張作霖政権であり、この奉天票と外の世界をつないだものが、日本の朝鮮銀行・横浜正金銀行が発行する銀行券でした。このように中国の各地は地域ごとに外国と結びついたのです。
 こうした中で蒋介石は幣制改革を推し進めるわけですが、本書ではそれよりも共産党政権が外国との関係を断ち切ったことで人民元による全国一律の管理通貨制が可能になったという点を重視しています。さらに満州事変以降の「日本帝国主義という敵対者の出現と存在を通じて、国民国家の理念と行動の合致・一元化が、ようやく視野に入って」(180p)きました。
 こうして一体化した「国民国家」としての中国が誕生したわけですが、上層と下層の二元構造、少数民族の問題などはそのまま抱え込まれています。

 このように後半はかなり駆け足ですが、通史を語りながら清の盛衰を分析することで、現在の中国の抱える問題のありかというものを浮き上がらせています。このあたりはさすが著者ならではの分析です。
 ただ、最初にも述べたように著者の今までの著作と重なる部分もあり、評価は少し難しいところがあります。個人的な評価としては『近代中国史』のほうが面白かったですが、本書のほうがコンパクトですし、民族問題などへの言及があるぶん、より総合的に中国の近代史を捉えることができると言えるかもしれません。