2019年の大規模デモ、今年2020年の国家安全法の導入によって、今や世界のホットスポットとなった香港について、近年の運動とその背景を探るとともに、香港という都市の歴史とアイデンティティについて取材・考察した本。
著者は台湾や香港を中心に取材を続けているジャーナリストで、以下の目次を見てもらえばわかるように、「映画と香港史」、「日本人と香港」、「台湾の香港人たち」といった具合に一見すると雑多な内容となっています。
ジャーナリストやライターが書いた多くの章立てからなる本だと、雑誌の連載などの寄せ集めでややまとまりのないものになることもあるのですが、本書はいずれの章も香港の本質と近年の東アジア情勢の大きな変動を見据えたもので、読み応えのあるものです。
デモの先頭に立つ若者の考えだけでなく(先日逮捕が報じられた周庭氏へのインタビューも載っている)、そのデモに支持を与えた年長者のありようも見えてくる本と言えるでしょう。
目次は以下の通り。
第1章 境界の都市第2章 香港アイデンティティと本土思想第3章 三人の若者 ー 雨傘運動のあと第4章 2019年に何が起きたか第5章 映画と香港史第6章 日本人と香港第7章 台湾の香港人たち第8章 中国にとっての香港第9章 香港と香港人の未来
第1章で著者は香港の物語には主役がいないと述べています。台湾なら李登輝、中国なら鄧小平の生涯を追うことで20世紀以降の激動を見ることが可能かもしてませんが、香港にはそういった人物は見当たりません。香港は「境界」あるいは「例外」的な場所として、さまざまな人を受け入れ、そして送り出してきました。
著者は、2019年のデモにおいて「香港(人)、加油(香港(人)、頑張れ)」というスローガンが目立ったことに注目しています。香港人が自ら「香港(人)、頑張れ」と言うのは確かに少し変な気もしますが、そこには「香港人」というアイデンティティの確立が見て取れます。
1984年にイギリスから中国への香港の返還が決まりますが、翌年の85年〜97年の返還まで香港からは当時の人口の1割近い50万人が海外に移民したといいます。「香港人」としてアイデンティティは希薄だったと言えるでしょう。
ところが、返還から10年ほど経った頃から「本土思想」と呼ばれる、香港を「本土(故郷)」とみなす考えが登場します。自分たちのルーツは中国にあるかもしれないが、中国は愛すべき祖国ではなく香港こそが祖国だという考えです。
この本土思想がいつ生まれたのかということはよくわからないのですが、2006年のスターフェリー埠頭保存運動にその萌芽があったといいます。道路建設のためい埠頭が取り壊されることがわかると保存運動が起こり、その後も開発に対する反対運動がたびたび起こりました。
2012年にはD&G(ドルチェ&ガッバーナ)事件が起きます。これはD&G店の前で写真撮影をしていた人が警備員に排除されたことに対して、「買い物に来た中国人は写真を撮っているのに」と反発が起き、D&G店を1万人で撮影しようという運動が起きました。さらに、中国人が香港で大量に商品を購入して中国に持ち帰って売りさばく「水貨」と呼ばれる現象が活発になり粉ミルクなどが不足すると、水貨客を取り囲んで罵声を浴びせる「反水貨運動」が発生しました。
この2つの出来事に共通するものは「若者、ネット、非組織的」(36p)というもので、このスタイルがその後の本格的な運動にも継承されていくことになります。
第3章では雨傘運動にかかわった3人の若者、周庭(アグネス・チョウ)、梁天琦(エドワード・レオン)、游蕙禎(ヤウ・ワイチン)にインタビューをしています。
日本では周庭がもっとも知名度があると思いますが、本書で紹介されているのは本当にややオタク気味な普通の若者という感じで、たまたま黄之鋒(ジョシュア・ウォン)に日本メディアへの対応を振られたことから雨傘運動のスポークス・パーソンのようになりました。運動をめぐる両親との対立など、等身大の姿が語られていると思います。
梁天琦は雨傘運動の中心的人物で、「光復香港、時代革命(香港を取り戻せ、革命の時代だ)」というスローガンを使い始めた人物でもあります。出身は武漢で生まれてすぐに香港に移り住んでいます。梁天琦は逮捕され、その後海外に渡り、香港に戻って収監されています。そのため、2019年のデモには参加していません(インタビューは2017年に行われたもの)。
游蕙禎は2016年の立法会選挙で番狂わせを演じて当選を果たし、当選後の議会宣誓で「HonKong is not Chaina」と書かれた青い旗を宣誓台に被せ、立法会から追放された人物です。「本土派は病気に対する抗体なのです。病気のとき、人間の体内に抗体が生まれ、私たちを守ろうとします。香港はいま中国の間違った政策のせいで病んでおり。その抗体は本土派なのです」(58p)と述べるように筋金入りの本土派ですが、逮捕もされ、親との関係などでは相当厳しいこともあったことが語られています。
第4章では2019年の香港デモがとり上げられています。2018年台湾で起きた香港人カップルの殺人事件をきっかけに香港政府は逃亡犯条例の改正に動き出します。実は台湾当局は司法協力を申し出ており、この事件解決のために条例改正は必要ではなかったとのことですが、香港政府は一気に条例改正へと動き出します。
しかし、これが香港の人々に火をつけました。本書ではこのデモで使われていたさまざまなスローガンやスラングが紹介されていますが、これを読むと運動の多面性、そして広東語の新語をつくることで北京語を話す中国人とは違った香港アイデンティティを構築しようとする動きがわかります。
雨傘運動はまだ一部の若者の運動といった感じがありましたし、その若者の間でも路線対立がありましたが、2019年のデモでは「平和的、理性的、非暴力」の和理非派と実力行使も辞さない勇武派が協調を続けました。
そして、このデモを煽ったとも言えるのが林鄭月娥(キャリー・ラム)香港行政長官のKYな振る舞いです。特に逃亡犯条例の一時凍結を表明した6月の記者会見で謝罪もせずにとうとうと反論したことが200万人デモを引き起こしました。他にもオフレコとは言え、「中央は絶対に解放軍を出さない」(100p)とばらしてしまった点など、政治家としてのセンスのなさが事態を悪化させました。ただし、林鄭月娥は習近平が江沢民色の強い香港に自らが押し込んだ人物であり、習近平はあくまでも林鄭月娥を支える姿勢をとっています。
第5章は「映画と香港史」。映画を紹介しながら香港史をたどるというものですが、期待以上に読ませます。
例えば、香港は国共内戦のときに大量に人口が流入しますが、そんな時代を背景にした映画に「慕情」という米国映画があります。香港を舞台にしたラブロマンスですが、香港人は名前のない群衆以外の役割では登場しないといいます。イギリスは香港に「近代」をもたらしましたが、一方で香港にはせんごしばらくするまで美術館や博物館やオペラハウスは作られず、その「近代」には文化的なものが伴っていませんでした。
香港映画というと何といってもブルース・リーですが、彼について評論家の陳雲は「上層階流文化の哲理と中層文化の武芸パフォーマンス、下層文化の映画娯楽を総合したもの」(117p)と位置づけています。
また、ジャッキー・チェンに関しては香港警察との関わりが外せません。腐敗した組織の代名詞だった香港警察は70年代からその悪評をはねのけるために改革が行われるのですが、その香港警察のイメージアップに一役買ったのがジャッキー・チェンでした。しかし現在、民主化や学生運動に冷ややかな態度を取るジャッキーは香港で嫌われ者になっています。
97年後の返還後は、香港映画界は中国市場に打って出る「北上」を目指すことになりますが、それとともに香港映画らしさは薄れまし。ただし、2014年の「ミッドナイト・アフター」、15年「十年」など、近年は中国政府による香港支配をモチーフとしたような映画も登場しており、映画界でも香港アイデンティティを模索する動きがあります。
第6章は「日本人と香港」。夏目漱石や北里柴三郎らから始まる日本人と香港のかかわりを追っていますが、まず面白いのが佐々淳行のエピソード。佐々は1967年に香港で起きた六七暴動のときに香港総領事館で働いており、そこで催涙弾によるデモの鎮圧方法を見て、日本でも採用するように意見を送ったそうです。2019年の香港中文大、香港理工大での警察とデモ隊の攻防を見て、安田講堂事件を思い起こす人も多かったようですが、そのルーツは香港にあったというわけです。
また、香港からさらに中国へと積極的に進出してあっという間に破綻したヤオハンの話も面白いです。
他にも香港を扱った新書なども紹介されていてブックガイドにもなっているのですが、最後に日本の香港研究の厚みに触れる一方で、倉田徹の香港の大学は国際ランキングを強く意識しており、そのため引用されにくい香港研究はあまり発展しないということを指摘を紹介していて、なるほどと思いました。
第7章では著者のもう1つのフィールドとも言うべき台湾と香港の関係が紹介されています。2019年の香港情勢によって最も大きな影響を受けたのが台湾であり、それまで人気が低迷していた蔡英文を再選へと導きました。「今日の香港は明日の台湾」との言葉のもと、今までにはなかった香港と台湾の連帯感が急速に高まっています。
本章では書店主の林栄基を取材しています。林栄基と言ってもわからないでしょうが、銅鑼湾書店の元店長だと言えば彼が現在の香港の状況を象徴する人物であることがわかるかもしれません。
銅鑼湾書店事件は、中国政府に批判的な本を扱っていた銅鑼湾書店の関係者が拘束されて中国に連れ去られた事件で、林も中国で取り調べを受け、しばらく広東省で軟禁されていました。「スパイになれ」と要求されサインしたものの、告発の記者会見を開き、その後台湾に渡り、取材のときは台北に銅鑼湾書店を開業しようとしていたところでした。
他にも中華人民共和国香港特別行政区と台湾の中華民国の2つの国籍を持ち、両地で政治活動に参加している蔡正彦にインタビューしていますが、19年11月の香港区議会選で民主派の候補を応援し、20年の総統選では台湾で蔡英文に投票するというのは、日本人からするとなかなか想像のつかない活動の仕方です。
第8章は「中国にとっての香港」。毛沢東は「長期打算、充分利用」という考えのもと、香港の回収は急がず、香港を通じて対外関係や貿易を発展させようとしました。それに対して鄧小平は香港を中国に組み込んで経済発展のために利用しようとしました。
香港返還後も、中国にとって香港は異物でしたが、鄧小平も江沢民も自分たちとは違う香港の体制を尊重する姿勢を見せました。この背景には香港が改革開放の理想モデルとして機能したということもあります。
そして、中国には香港を通じて海外から資金が流れ込み、海外の企業も中国進出のために香港人という水先案内人を必要としました。
しかし、この関係は中国の経済成長とともに変わっていきます。返還当時中国全体のGDPの約20%を稼ぎ出していた香港ですが、今や対中GDPの貢献度は3%ほどにすぎません(206p)。香港の隣の漁村であった深センが香港を超え、香港は憧れの地ではなくなったのです。
現在、中国では香港に関して「脱植民地化」論が広がっているといいます。香港では脱植民地化が徹底していないので問題が起こるのだという考えです。香港人は植民地根性が抜けきっておらず、デモなども「西洋の陰謀」によるものだというのです。この認識から生まれる中国側の対応に関しては暗い未来しか予測できません。
香港の「一国二制度」は返還から50年、つまり2047年まで続くことになっていました。しかし、若者は香港人としてのアイデンティティを強めており、「親中派として次世代を担っていく若者は皆無と言っていい」(220p)状況です。
そんな中で今年になって中国が打ち出したが国家安全法でした。著者は2019年のデモを見て「中国は香港に対して「あきらめ」をつけたのだと思う」(224p)と述べています。香港政府による間接統治から直接統治へと大きく舵を切ったと言えるでしょう。
さらに香港問題には米中対立も関わっています。アメリカが香港ドルと米ドルの交換を拒むような手段に出れば、香港ドルは単なる地域通貨となり香港の金融センターとしての地位は大きく損なわれます。中国に流れ込む資金も大きな影響を受けるでしょう。
著者は香港の将来に関して、泥沼の戦いが続く「北アイルランド化」、広義や不満が抑え込まれる「マカオ化」、自治権から独立を獲得する「豪州化」、中国国家からしだいに地域国家になっていく「台湾化」、アイデンティティについては一線を画するものの国家の枠組みとしては同化する「沖縄化」などのシナリオを提示していますが、最初に示されているのは「北アイルランド化」と「マカオ化」です。いずれにしても明るい未来とは言えないでしょう。
このように本書は盛りだくさんの内容です。このくらい盛りだくさんの内容で、しかも現在進行系の内容を扱っていながら、全体を通じて深みのある取材と分析がなされているのが本書の特徴です。最初にも述べたように目次を見ると比較的「軽そう」なのですが、読んでみると「重み」を感じさせる内容になっています。
香港情勢を知りたいという人にはもちろん、これからの東アジア情勢を考えたい人にもお薦めできる本ですね。
ご紹介ありがとうございます。