「民衆暴力」とはなかなかインパクトのあるタイトルですが、副題にあるように日本近代史における民衆の暴動、暴力を考える1冊です。
 とり上げられているのは、主に新政府反対一揆、秩父事件、日比谷焼き打ち事件、関東大震災の朝鮮人虐殺の4つの事件。秩父事件のように民衆の抵抗としてポジティブに捉えられている事件もあれば、朝鮮人の虐殺のように歴史の暗部として捉えられている事件もありますが、本書は「なぜ暴力が噴出したのか?」という民衆側の論理を読み解く内容になっています。
 その論理には時代性に強く規定されたものがある一方で、時代を超えた普遍的と言えるものもあります。日本近代史を読み解く上ではもちろん、幅広く暴動や暴力といったものを考える上でも非常に面白い内容を含んだ本になっています。

 目次は以下の通り。
序章 近世日本の民衆暴力
第1章 新政府反対一揆
第2章 秩父事件
第3章 都市暴動、デモクラシー、ナショナリズム
第4章 関東大震災の朝鮮人虐殺
第5章 民衆にとっての朝鮮人虐殺の論理

 序章では江戸時代の民衆暴力、特に百姓一揆がとり上げられています。
 百姓一揆というと、暴政に耐えかねた百姓たちの怒りが爆発した出来事のようなイメージがあるかもしれませんが、実際には「作法」のようなものがあり、農民たちは刀や猟銃を持っていたにもかかわらず、あえて鎌や鍬や鋤などを持って集まり、支配者側もいきなり弾圧するのではなく、できるだけ説諭して解散させようとしていました。
 この背景にあるのが「仁政イデオロギー」という考えです。領主には百姓の生業維持を保障する責任があり、その「仁政」に対して百姓は年貢を納めるべきだという考えです。
 このように江戸時代の百姓一揆という「暴動」にはしっかりとした枠がはめられていたのです。

 ところが、これが19世紀に入ると変質していきます。当初の一揆が「悪党」や「無宿」と呼ばれた村外の人物を巻き込んで拡大したり、領主ではなく村役人や豪農・豪商などをターゲットにするものも増えました。そして、その一揆勢を、豪農たちが組織した農兵銃隊が鎮圧するようなケースも出てきます。
 一方、人々の生活に関しては、質素倹約によって生活を立て直そうという「通俗道徳」が広まる一方で、村の「遊び日」が増加する傾向が見られます。ある種の解放願望が高まっていたようで、これが幕末の「ええじゃないか」につながっていくと考えられています。
 
 この江戸時代の変化を受けて、第1章では新政府反対一揆がとり上げられています、明治になって、さまざまな制度が導入される一方で、それに反対する一揆も起きました。廃藩置県、学制、徴兵令、賤民廃止令、地租改正、いずれも反対一揆が起きています。
 これらの一揆は新たな負担に対する反発として理解されることが多いですが、本書を読むとそれだけではないことがわかります。名東県(現在の香川県)では1873年に子どもを連れた女性が別の女性に子どもを奪い去れられたことから、七郡にまたがる大きな一揆が起きました。現在からはやや理解に苦しき動きですが、当時、新政府は「文明化」のもとに民衆の生活世界にさまざまな介入を行っており、それが人々の大きな不安を引き起こしていたと考えられるのです。

 ただし、一揆が暴力を向けたのは支配者だけではありませんでした。それを示すのが賤民廃止令反対一揆です。
 1871年から77年まで賤民廃止令に反対した騒擾は西日本を中心に24件判明しています。その中でも73年に起きた美作一揆と筑前竹槍一揆は数万人が処罰される大規模なものでした。
 71年に出された賤民廃止令の背景には、今まで非課税だった賤民身分の家屋から税を徴収したいという意図があり、差別の解消を狙ったものではなかったといいますが、これをきっかけに被差別部落の人々が今まで禁じられていたことを行いはじめたことが、周囲の村の反発を呼びました。
 
 ただし、美作一揆の起こった状況などを見ると単純な「懲らしめてやる」という感情だけではなく、さまざまな背景があったことがわかります。この地域にお雇い外国人の一行がやってきたことが地域の人々の警戒心を呼び起こしたり、新政府の施策などに対して不安や恐怖が高まっている状態でした。
 一揆のきっかけは「白衣の不審者が来た」というもので(白衣の不審者が子どもを誘拐し外国に売り飛ばすという噂が流れていた)、そこから戸長宅を襲撃、さらに被差別部落や小学校を襲撃し、さらにそれが近隣の村を巻き込んで広がりました。一部の地域では「穢多従前通り」とともに「断髪従前通り」「御政治向き、旧幕府に立ち戻り」などが掲げられており(50p)、復古的な要求が目に付きます。

 この一揆では被差別部落に苛烈な暴力が振るわれ、被差別部落の18人が殺害されたとされていますが、その背景には新政府の政策が生み出した不安が異物の排除として被差別部落に向かったという心理的な動きや、あるいは経済的な利益を主張しはじめた被差別部落への反発といったこともあります。一揆勢は、被差別部落に対して旧来通りの礼譲を守り慎むという「詫び状」の提示を求めており(55p)、ここでも旧来へ戻すことが求められています。
 邏卒などが多く殺害されたことからもわかるように、新政府の正当性はいまだ確固たるものではなく、そういった中で民衆側、鎮圧側の双方に暴力が噴出したとも言えます。

 第2章では秩父事件がとり上げられています。歴史の教科書では自由民権運動における激化事件の1つとして紹介されることが多いですが、主張の中心は「借金返済の猶予」であり、自由民権運動的要素はありません。むしろ、この時期に関東の養蚕地帯で頻発した負債農民騒擾に通じるものがあります。当時、松方デフレの中で生糸の値段なども値下がりし、養蚕農家の多くが負債を抱えて苦しんでいました。
 しかも、江戸時代の頃には借金が返済できずに土地の名義が代わっても遅れて返済すれば取り戻せる、借金を村で処理する、最低限の衣食住に必要な財産を残して足りないぶんは棒引きにすると行った慣行がありましたが、明治になると借金の片の土地は競売にかけられ、自己破産する者が続出しました。農民たちはこうした社会のしくみに抵抗したのです。

 ただし、ほとんどの負債農民騒擾が暴力を伴わなかった一方で、秩父事件は蜂起にまで発展しました。ここには「世直し」一揆との連続性があります。
 秩父事件では、「板垣公」と合流して政治を変えるといったことも語られており、当時の自由民権運動や自由党が「世直し」をしてくれるというイメージがあったことがわかります。
 ただ、そうは言っても西南戦争以降、武力による新政府の打倒は不可能だと認識されており、秩父事件のリーダーの田代栄助も可能な限り蜂起を避けようとしていました。一方、秩父困民党は軍隊を模した組織を作っており、国家権力と対峙するために国家権力を意識した組織をつくろうとしていたことがうかがえます。
 蜂起を避けようとした田代でしたが、困民党の一部が警察と衝突したことから蜂起に踏み切ります。東京から軍が派遣されると田代は逃走することを支持しましたが、一部は高利貸しを打ちこわし軍隊と交戦しました。それだけ人々の社会に対する憤怒が強かったとも言えますが、同時に他の負債農民騒擾が蜂起につながらなかったのは、暴力の国家による独占が完成しつつあったからです。

 第3章では、主に日比谷焼き打ち事件がとり上げられています。ご存知のように日比谷焼き打ち事件は日露戦争の講和条約に反対する集会から起こった暴動ですが、これを大正デモクラシーの出発点と位置づけることもあります。
 確かに政府に対する民衆の政治的主張が始まりではありますが、派出所やキリスト教会への放火もさかんに行われており、これを「デモクラシー」という観点だけから捉えるのはやはり無理があるでしょう。

 事件は1905年9月5日の講和条約反対の集会をきっかけとして起こり、まずは政府の御用新聞とされた『国民新聞』の民友社を襲撃し、さらに内務大臣官邸も襲撃しました。この内務大臣官邸の攻防は軍が出動したこともあり収まりますが、暴動は収まりませんでした。暴動は7日未明にかけて東京の区を移動しながら続いたのです。
 暴動は持続性を持ちましたが、実は焼き打ちの集団には発端の国民集会に参加していない人々も含まれていました。離脱者も多く、その多くが焼き打ちに加わった隣接区で離脱しています。暴動は野次馬を巻きこみながら続いたのです。

 この背景にあったのがポーツマス条約への失望ですが、本書を読むと庶民レベルではむしろ厭戦気分というものが広がっていたことが分かります。集会を開いた側は戦争継続を訴えているわけですが、暴動を起こした者たちは戦争に対して馬鹿らしさを覚えていた可能性があります。
 襲撃対象としてキリスト教会があるのはいかにもナショナリズムの発露という感じですが、同時に執拗に襲撃の対象となったのが派出所です。これは暴動の参加者の多くが職工や車夫などの男性労働者であり、彼らが日頃から警官に反発心を抱いていたことが理由にあると考えられます。
 彼らは「飲む・打つ・買う」を基本に、飲んでは喧嘩し、互いの「男らしさ」を競うような生活を送っていました。彼らを日頃から取り締まっていたのが警官で、労働者たちは雇い主や富裕者とともに警官に対しても怒りを溜めていたと考えられます。近世末期から強まってきた通俗道徳に背を向けたか彼らのエネルギーが講和条約反対の集会をきっかけに爆発したのです。

 こうした都市暴動は、憲政擁護運動、山本内閣倒閣運動、米騒動と何度も起こることになります。いずれもデモクラシーやナショナリズムという言葉には収まりきらない要素をもった暴動でした。
 これ対して公権力の側は自警団を整備しようとします。当時の東京市長の尾崎行雄は巡邏夫を設置することとし、評判の悪かった警察以外の治安維持手段を確保しようとします。
 さらに政府はこの時期に青年団や在郷軍人会を組織していきますが、特に在郷軍人会は民衆の中に軍隊的な組織を持ち込みました。こうしてつくられた自警団的な組織が関東大震災の朝鮮人虐殺において大きな役割を果たすことになります。

 関東大震災の朝鮮人虐殺について、本書では第4章と第5章の2章を割いて詳しく分析を行っています。
 震災後の混乱において、「朝鮮人が暴動を起こした、井戸に毒を入れた、放火した」などのデマが広がり、多くの朝鮮人が殺害されました。このデマがどのように発生したのかはよくわかっていないのですが、本書では当初警察がそれを率先して流していたことをまず確認しています。震災当日の夕方には警察が朝鮮人による放火に注意せよとの情報を流していたという話がありますし、3日の朝には警察を取り仕切る内務省警保局長から「朝鮮人が暴動を起こした」という内容の電報を各地方長官に送っています。さらに戒厳令が出されたことも、朝鮮人の暴動を裏付けるものとして解釈された可能性があります。
 また、震災の混乱の中で各地で自警団が結成されますが、東京市内では自然発生的に結成されたものが多かったのに対して、内務省からの支持によって在郷軍人会・青年団・消防組などを中心に結成されたものもありました。2日には内務省から「不逞鮮人暴動に関する件」という通牒が出されており、埼玉・群馬・千葉などの自警団へと伝えられました。

 なぜ警察や内務省は朝鮮人を警戒したのか? その1つの補助線となるのが1919年の三・一運動です。日本の植民地支配に対する怒りが噴出した事件ですが、このときに「不逞鮮人」というフレーズが普及することになります。また、関東大震災後当時の内務大臣の水野錬太郎は三・一運動後の朝鮮総督府の政務総監であり、警視総監の赤池濃は三・一運動後の朝鮮総督府の警務局長でした。上層部に朝鮮人に対する強い警戒心があった可能性があります。

 虐殺は震災当日の晩には始まっていたといいます。南葛飾郡の旧四ツ木橋付近で20〜30人の朝鮮人が民衆によって殺害されたという証言があり、さらに荒川放水路沿いでは軍隊が朝鮮人を殺害していたという証言もあります。
 千葉でも朝鮮人に対する虐殺が起きており、9月6〜7日にかけて軍隊が習志野に収容していた朝鮮人を周囲の村の自警団に虐殺させた、収容所の中で殺したという証言もあります。
 9月5日になると、政府は一転して朝鮮人への迫害を諌める告諭を出し、事態の収拾に乗り出します。そして朝鮮人の死体を焼くなどの隠蔽工作を行ったため、虐殺された朝鮮人の正確な人数はわかりません。司法省の調査では約230人ですが、遥かに多い人数が虐殺されたことは確実と見られています。
 虐殺関わった自警団などの一部は責任を問われる一方(といっても量刑は明らかに軽かった)、警官や軍人で起訴された者はいませんでした。

 第5章では、さらに民衆が虐殺に走った論理が考察するために、東京の南綾瀬村での事件と埼玉県本庄警察署の事件が検討されています。
 南綾瀬では朝鮮人の居住する長屋を150人ほどの自警団が襲撃し、7人を殺害しています(さらに翌朝逃げた1人を殺害)。この自警団は、地元の村民のもの、工事などで南綾瀬村に移り住んできた人々のもの、隣町から駆けつけた人々ものという3種類の自警団からなっており、彼らはいずれも軍隊が朝鮮人を虐殺したという情報を得ていました。
 これによって朝鮮人の暴動は「事実」だと認識され、彼らの「義侠心」に火をつけたと考えられます。男性労働者階級のもつ「男らしさ」が人々を動かしたのです。

 本庄の事件は本庄警察署内に収容されていた朝鮮人を自警団が襲撃し虐殺した事件です。本庄町では85人前後の朝鮮人が殺害されています。
 本庄町は埼玉の北に位置しており震災の被害も少なかったですが、東京から多くの人々が避難してきました。同時に自警団に対して郡役所から「朝鮮人が東京で悪いことをした。見たらつかまえて警察につき出せ」という指示があり、朝鮮人に対する検問が行わました。
 そして警察署を襲撃するわけですが、彼らは「この事件でおとがめがあるまい」(192p)と考えていました。国家から委託された暴力であり、恩賞にあずかれると考えた者もいたそうです。
 さらに虐殺の翌日には本庄警察署の焼き打ち未遂事件も起きています。震災以前から本庄署の署長と地元の住民の関係はうまくいっておらず、襲撃のきっかけも自警団が朝鮮人を本庄署に連行したところ「司法権の侵害だ」と怒られたことだと考えられています(198p)。警察が自警活動を否定したことが人々の怒りに火をつけたのです。

 このように本書はできるだけ民衆側の「論理」にそいながら近代の暴動を読み解こうとしています。関東大震災における朝鮮人虐殺では、お上が朝鮮人の殺害を許可するような姿勢を示したことが、民衆による虐殺につながっていくわけですが、これは例えば、田野大輔『ファシズムの教室』で示された「権威に服従することで責任から解放される」というメカニズムに通じるものがあり、説得力のあるものです。
 他にも近年の歴史学の成果をうまく取り入れる形での分析がなされており、民衆の側の「論理」とともに、時代の変化とそれが民衆に与えた圧力が理解できるような内容になっています。
 個人的には少しだけでも米騒動の広がりについても解説してもらいたかった部分はありますが、非常に面白く、同時に重みをもった本になっていると思います。