岩波新書<シリーズ アメリカ合衆国史>の第4巻。前巻の中野耕太郎『20世紀アメリカの夢』が非常に面白かったので本書も読んでみましたが、これも面白いですね。
 扱う時代は1973年から現在まで。『20世紀アメリカの夢』が20世紀の幕開けから1970年代までを扱っていたのに比べると短い期間のようにも思えますが、つい最近の事例まで、その歴史的な意義を考えながら濃密に論じているのが特徴です。オバマやトランプに関しては、まだ歴史として描くには難しい部分があるとは思うのですが、そこにも歴史家ならでは視点で踏み込んでいます。
 自分がニュースで見聞きしてきた時代について経験豊かな歴史学者が書いた本を読むのは面白いもので、自分の記憶の中にあるニュースを「あの出来事はこんな影響をもつ出来事だったのか」と頭の中で再構成できます。

 目次は以下の通り。
第一章  曲がり角のアメリカ──一九七〇年代 
第二章  レーガンの時代   
第三章  グローバル時代の唯一の超大国   
第四章  二一世紀のアメリカ   
 
 本書では1970年代、特に1973年をアメリカ史の転換点と考えています。
 1973年は第一次石油危機が起きた年であり、アメリカが変動相場制に移行した年であり、人工妊娠中絶を禁止した州法を違憲とした連邦最高裁判所のロー対ウェイド判決が出た年でした。アメリカ経済がはっきりと失速し、アメリカが国際経済の利他的な守護神の地位を降り、さらに社会的にはイングルハートの言う「物質主義」から「非物質主義」への転換がはっきりとしてきた年でした。
 一方で革新的な動きに対する「保守」の動きが強まってくるのもこのあたりからで、下院と上院を圧倒的多数で通過した男女平等権憲法修正案(ERA)は、1973年に30州が批准したものの、そこから保守派(女性運動家フィリス・シュラフリーら)の巻き返しがあり、結局必要な批准数に足りないまま82年に廃案になりました。
 
 翌74年にはウォーターゲイト事件が発覚します。72年の大統領選に圧勝したニクソンでしたが、このスキャンダルでホワイトハウスを去ることになります。この事件はベトナム戦争などで肥大化した大統領の権限を議会が制限することにもつながっていき、80年代になると議会と大統領の対立が目立つようになります。
 一方、ニューディール型の社会福祉政策の進展は、政党を空洞化させます。そんな中でニクソンは南部戦略によって南部を支持基盤とすると、民主党は経済的リベラリズムの政党から文化的リベラリズムの政党へと変貌していきました。

 ニクソンの辞任を受けて就任したフォードは、「どこまでも不運なフォード」(33p)と形容されているように、74年の中間選挙の惨敗を受け、圧倒的に民主党が多数という状況の中でベトナム、ウォーターゲイトの敗戦処理にあたることになります。75年にはサイゴンが陥落し、連邦政府への信頼も大きく下がっていきました(36p図1−3参照)。
 こうして76年の大統領選挙は民主党優位の選挙となりましたが、候補者が乱立する中で予備選を制したのは中央政界では無名のジョージア州前知事のカーターでした。連邦政治に対する信頼が揺らぐ中で、カーターの無名性がかえってプラスに働いたと考えられます。本選でもヴァージニア州を除く南部を制しフォードに競り勝ちました。また、黒人や中西部の労働者からも支持を集めておりニューディール連合の復活を思わせる勝利でした。
 
 しかし、カーターには国際的な経験や人脈が欠けており、また、「南部福音派を精神的立脚基盤とするカーターの政治指導は、あまりにも地方主義的、道義主義的な性格が濃厚」(43p)でした。
 カーターは肥大化した政府を批判し、インフレ率を抑制するためにFRBの議長にポール・ボルカーを据えました。ボルカーは金融引締によってインフレの沈静化を図りますが、すぐには効果はあがらず、アメリカ国民は実質所得は変わらないのにインフレによって税率等級は引き上がっていく状況に置かれることになりました。
 こうした中で、78年にはカリフォリニア州で州財産税の大幅引き下げなどを含む州憲法改正の提案の住民投票が成立し、全国的な反税運動が広がっていくことになります。そして新自由主義と宗教保守などが重なりつつ、「ニューライト」と呼ばれる流れが形成されていくことになります。

 カーターは外交では、77年のパナマ運河返還協定への調印、78年のキャンプ・デイヴィッドにおけるイスラエルとエジプトの和平合意、同年の米中国交正常化など、成果を上げました。カーターは人権外交を掲げ、今までのような何でもありの介入主義から距離を取ろうとしました。
 しかし、79年のイラン革命とソ連のアフガニスタン侵攻は、カーター外交の失敗を印象づけました。
 
 こうして80年の大統領選でカーターは敗れます。経済がスタグフレーションから抜け出せず、ソ連の攻勢が強まる中で大統領になったのは共和党のレーガンでした。レーガンは64年のゴールドウォーターの支持演説で注目をあび、76年大統領選の共和党予備選では現職のフォードに及ばなかったものの、80年の予備選では60%近い支持を集めて大統領候補となります。
 同時に共和党は、減税、福祉基準の厳格化、ERAへの支持撤回、人工妊娠中絶への反対、銃規制の反対など、保守的な政治綱領が掲げられるようになり、保守色の強い政党になりました。
 ダイレクトメールや電話によるマーケティングなどを駆使した戦略もはまり、レーガンは本選でも圧勝します。レーガンはたくみな弁舌によって「理想化された過去に向けての復古的「革命」」(66p)を成し遂げたのです。

 レーガンの経済政策は、減税、福祉を中心とする政府支出の削減、連邦の既存の諸計画を財源とともに州へ移転する「新連邦主義」、規制緩和、労働組合の弱体化であり、特に減税に関しては所得税の最高税率を70%から50%に引き下げ、キャピタルゲイン課税の最高税率も28%から20%へと引き下げるなど、富裕層中心に思い切っった引き下げを行いました。
 しかし、国防費が40%も増大したこともあって政府支出の削減は進みませんでした。85年には増税という言葉を避けながら、免税措置や控除制度を極力是正し、所得税基盤を拡大する租税改革法が成立しています。
 一方、連邦職員である航空管制官の組合によるストライキに対しては、即座にストライキ労働者を解雇し、代替管制官を補充するなど強硬策を取り、これ以降、アメリカではストライキ労働者を即座に解雇して大体の労働者を雇う行動が一般化しました。
 
 レーガン政権になってもインフレと高失業率は収まらず、82年の中間選挙で共和党は議席を減らしますが、その後ボルカーが金融緩和に動いたこともあり、経済状況は好転します。この経済状況を活かして84年の大統領選挙でレーガンは再選されます。
 
 外交面ではソ連との対決姿勢を打ち出し、ソ連の支援を受ける独裁国家に介入していきますが、中東ではイラン・イラク戦争で「二つの悪のうちのよりましな方」(89p)であるイラクを支援し、イスラエルのレバノン侵攻をめぐってベイルートの大使館や海兵隊宿舎が自爆テロにあうなど、躓きが続きます。
 一方、中米においてはグレナダ侵攻を行い、さらにニカラグアではキューバやソ連の援助を受けたソモサ政権の打倒を目指して、反革命組織コントラを支援しますが、これはなかなかうまく行かず、イランに秘密裏に武器を売却した資金をコントラ支援にあてたというイラン・コントラ事件を引き起こします。これは大スキャンダルでしたが、それが致命傷にならなかったのは同時期にソ連に対する優位が明らかになってきたからです。

 レーガンは対ソ強硬派でしたが、ゴルバチョフが書記長に就任すると、ゴルバチョフの改革姿勢を受け入れ、一転して交渉に踏み出します。そして、米ソは協調して軍縮を進めていくことになります。
 こうした外交上の成功もあって、レーガンは政権末期まで高い支持率を維持し続け、88年の大統領選挙では後継のブッシュが勝利を収めました。ブッシュ自身は中道派であり、レーガンのような熱狂的な支持は受けないままに大統領の椅子に座ることになります。
 外交では89年に天安門事件、ベルリンの壁崩壊、マルタ会談での「冷戦の終結」宣言、91年ソ連の解体と怒涛の展開が続きます。ブッシュ政権は外交に関しては豊富な人材を揃えており、これらの変化に対応していきます。

 一方、ノリエガ将軍逮捕を目的としたパナマ侵攻では数万の兵力を投入して一国の元首を排除・連行するものであり、国際法上の正当性はともかくとして、「ポスト冷戦期の「唯一の超大国」アメリカ対外介入のモデル」(114p)となりました。
 さらに「唯一の超大国」としての力は湾岸戦争でも遺憾なく発揮されます。米軍50万、多国籍軍20万ほどが投入された作戦で、アメリカはほとんど損害を出さずにイラク軍を壊滅させました。
 しかし、フセイン政権はその後も自滅しませんでしたし、サウジアラビアへの米軍への駐留は、後に宗教原理主義的なテロにアメリカを巻き込んでいくことになります。
 
 このように外交面では輝かしい成功を収めたブッシュ政権でしたが、内政では行き詰まります。財政赤字問題から上位10%への増税も含んだ包括的予算調整法への署名を余儀なくされますが、これによって「新税はない」という選挙公約は破られ、共和党保守派の間でブッシュの評価は急落します。

 1992年の大統領選挙では、民主党のビル・クリントンが、第三の候補ロス・ペローが19%もの得票を集めてブッシュの票を奪ったこともあり、勝利します。クリントンは経済政策を選挙運動の中心に据え、ニューディール型の福祉国家を修正する方針を打ち出しました。
 クリントン政権の閣僚には3人のアフリカ系アメリカ人、2人のラティーノ、3人の女性が含まれるという多文化主義的な色彩を持ちつつ、同時にブッシュ政権以上に多くの百万長者を含んでいました。
 クリントンは財政赤字の削減のために貧困層を福祉依存から労働へといざなう政策を打ち出していきます。また、国民皆保険の実現を目指して医療保険制度改革にも乗り出し、妻のヒラリー・クリントンがこれを指揮しましたが、これは完全な失敗に終わりました。

 一方、共和党はギングリッチを中心に「アメリカとの契約」という政治綱領を作成し、94年の中間選挙に一丸となって望みます。結果は共和党の圧勝であり、ギングリッチはクリントン政権への攻勢を強めました。しかし、あまりに性急に歳出削減をもとめたギングリッチは世論の支持を失っていき、逆に景気の回復とともにクリントンは支持を回復していきます。
 クリントン自身も歳出の削減には積極的であり、自らの実績として生活保護受給者が1410万人から580万人へと60%削減されたことを誇りましたたが、これらの給付を打ち切られた多くは黒人のシングルマザーでした。また黒人男性の収監率が急上昇していくのもクリントン政権の時期です(145p図3−1参照)。

 96年の大統領選挙でクリントンは再選を果たします。経済はグリーンスパンのもとで好調でしたが、99年のシアトルでのWTO会議の失敗はグローバル化に反対する勢力を可視化させました。
 また、金融とハイテクが新たな繁栄を生みましたが、同時にそれは格差を拡大させました。この時期に進行した多文化主義的な動きもあり、アメリカはより分裂の度合いを強めていくことになります。
 
 クリントン政権の外交は経済重視でしたが、そのために軍事面に関してやや場当たり的ともいえるものになりました。ソマリアへの介入と撤退、ルワンダの虐殺事件への消極姿勢、ユーゴ内戦への介入と、国内世論を眺めながらの介入となりました。
 中東ではパレスチナ和平に積極的に動き、93年にオスロ合意の仲介に成功しますが、イスラエルのラビン首相の暗殺などによって、和平の動きは停滞します。一方、米軍を狙ったアルカイダのテロの度々起こるようになります。

 2000年の大統領選挙では、激しい党は対立のもとでブッシュ(子)が勝ちますが、ラルフ・ネーダーの出馬、そして何よりもフロリダでの票の集計作業の打ち切りという要因に支えられての勝利でした。
 ブッシュ(子)は中道だった父親とは違いニューライトに近い志向を示しており、減税や規制緩和などレーガンに近い政策を行いました。
 そんなブッシュ政権の運命を大きく変えたのが9.11テロです。このテロを好機としてチェイニー副大統領やラムズフェルド国防長官らは世界を大きく変えようとしていきます。パウエル国務長官が警察的な対応を考えていたのに対して、彼らはまずアフガニスタンという主権国家を敵と定め、さらにテロ容疑者を捕虜でもない「非合法の戦闘員」としてグアンタナモ収容所などで過酷に扱いました。
 さらにこの皇道派イラク戦争へと進み、フランスやドイツの反対を押し切ってイギリスなどの同調する一部の国とともにこの戦争を遂行します。あっという間にフセイン政権は崩壊しましたが、アメリカ軍はイラクでテロの泥沼にはまっていくことになります。
 
 2004年の大統領選挙でブッシュは再選されますが、この背景には前回に引き続きカール・ローブの指揮した選挙戦術がありました。草の根組織の活用や、ネガティブ・キャンペーン、宗教右派の動員などを行い、「道徳的価値観」を選挙の争点とする作戦を取ったのです。
 しかし、戦費による財政の逼迫、ハリケーン・カトリーナへの対抗の失敗、イラクでの被害の増加などによって第2期のブッシュ政権は低迷します。
 そして、2008年のリーマン・ショックという未曾有の経済危機の中でブッシュ政権は終わりを迎えるのです。

 そしていよいよオバマとトランプですが、著者はまったく対象的な両者に共通点も見出しています。まずは2人が完全なアウトサイダーであることと、「アンチ・ヒラリー」という点です。
 2008年も2016年も大統領選挙の本命はヒラリー・クリントンでした。ヒラリーは「初の女性大統領」にもっとも接近した女性でしたが、民主党タカ派としてイラク戦争を支持し、ウォール街の大口献金に依存していた人物でもありました。「変化」を打ち出すオバマやトランプに対して、彼女は「経験」を対置しましたが、そのあり方は有権者の支持を得ることができなかったのです。

 オバマは大統領選に勝つと、ヒラリー・クリントンを国務長官に据え、ブッシュ政権の国防長官ロバート・ゲイツを留任させるなど、可能な限り挙国一致的な布陣を敷きましたが、「個別の政策分野ごとに適材を配するその人事政策が、長期的な挙国一致体制をもたらすことも大統領統治の求心性と一貫性を高めることも」(246p)ありませんでした。
 オバマはまず金融危機の後始末のために巨額の財政出動を行い、さらにポール・ボルカーを中心に金融業の規制を行おうとしました。しかし、金融機関の抵抗や、そもそも銀行監督の技術的な難しさもあって金融業の規制は中途半端に終わります(トランプ政権になって規制は緩和された)。

 こうした中で、共和党陣営から出てきたのがティー・パーティ運動です。オバマ流の「大きな政府」へのアンチとして生まれたこの運動は、2010年の中間選挙で共和党を勝利に導くと同時に共和党の内部をより原理主義的な保守に変質させていきました。
 オバマはオバマケアを成立させますが、2010年の中間選挙を境に変革のムーブメントは衰えていきます。
 また、人種的な対立が政治に持ち込まれるようにもなり、2012年のロムニー支持の集会では「ホワイトハウスを白人に取り戻せ」というロゴの入ったTシャツが見られたそうです(274p)。2014年にはBLM運動が始まっており、今までとは別の形で人種差別に抗議する運動が展開されることになりました。

 一方、金融危機は白人労働者層にも大きな打撃を与えており、これが2016年のトランプの勝利へとつながっていきます。トランプは公職経験のまったくないアウトサイダーでしたが、選挙戦では対立候補を徹底的に叩くという戦術で生き残り、ラストベルトの白人労働者の支持を取り付けて本選にも勝利します。
 
 外交に関しては、多国間主義のオバマとアメリカ単独主義のトランプは対極の存在のようにも思えます、しかし、中東から手を引き、アジアにリバランスするというオバマ外交の路線はトランプも受け継いでいると言えますし、アメリカの衰退を前提とした外交という点では、両者は共通しています。
 ただし、もちろんトランプの外交は思いつきのレベルであり、著者は「トランプ政権下、アメリカ外交の核心的問題は、「外交素人」である大統領自身の衝動や思い付きがどこまでコントリール可能かという点に帰してきたようにもみえる」(305−306p)と述べています。

 このように本書は歴史書でありながら、現役の大統領のトランプに対する評価までを含んでおり、まさに現代につながる歴史を描いていると言えます。
 まだ歴史的評価の定まっていない部分までを取り込む必要があり、そのためにやや厚めの本になっていますが、さまざまな出来事や流れが「今」につながってくる歴史の叙述というのは非常に面白いものです。